さて・・・
作文は面倒なんでポイントだけ。
>>279は、「デカルトの残滓」をゴールとする典型例。
(現代物理や量子(力)学に触れるつもりはさらさらないがw)、
「世には、おしなべて《「動き」(≒変化)しかない》」という視点の断固拒否が見られる。
そこに、「静的な自己が無ければ世界が成立しない」、と。
静的な自己が、世界を認識する。逆に言えば、そうした世界の構築が無い所には何も生まれ得ない、と。
それは、非常に独我論的香りを纏ってしまう。
「独我論的『世界』」とは、まさにそのような静的・絶対的「自己(意識)、我」による知覚認識が「世界」であるから。
そのように、自己(意識)に上ったものが「世界」であるから。
「世界は、自己(意識)の中にある」。 いや、「世界」とは「自己(意識)」である。
で、だから何? と・・。
「そのような“自覚”という意識の在り様が、“ここ”に顕現しており、
それは、因により縁により、《この五蘊に顕現している》」と見做すのさ。
勿論、この『見做す(という行為)』は、2行上の「そのような“自覚”」のことだ。
君はこれを無限遡及・無限後退させたいようだが、
引用中文のテクニックを用いてそれを回避するんだよ。 (だから、時間性・不可逆性は重要なのさw)
※ここで、宝珠以外の人には、田上の若き日の論文を(重要発言は引用しておいた)思いだして欲しい。
素朴に、「否定できない自己(≒アートマン)」の存在を、(篩の底に残るが如き残滓としての自己・我)を、
初期仏典(特に韻文時代は)色濃く残しているのではないか? と・・・。
当然
>>357のような視点は留意されるべきだが。