1 :
ゴータマ龍樹 :
2012/10/08(月) 13:12:27.99 ID:UrA2gvS8
2 :
神も仏も名無しさん :2012/10/08(月) 13:34:57.37 ID:UaTz8/oD
ズドーンと一発 土手っ腹に響く何かが在れば 議論は要らないのでは無いでしょうか?
3 :
神も仏も名無しさん :2012/10/08(月) 14:30:48.86 ID:ZkmCrRDu
自分が本物の師に巡り会おうというのも欲なのかも。 100人の師がいて、そのうちの本物が1人しかいないとする。 だとすれば、100人にそれぞれ弟子が1人ずつ、つまり100人の弟子がいれば、 本物の1人の教えを次の世代に遺せる。 仏教徒全体で組織的にバックアップをとってゆけばいい。 必要なのは、100人の中に一人くらいは本物がいるだろう、という信。
4 :
神も仏も名無しさん :2012/10/08(月) 14:36:16.55 ID:cuD5dxIN
暇人さん、色々問題だけど、 まず、相手の論点で受け入れる部分は、受け入れたと、 そして訂正、あるいは取りやめた主張はそう言おう。 そういうことせずに、一方的に反論だけじゃ、話にならないでしょ。 >一致してない仏教もあるよ。 >例えば「海一味」という考え方。 > >凡夫も聖者も五逆の罪人や法謗の咎人でも >大川、小川、いろんな川の水が海に入れば同じ味になるように >悟りに入ればいっしょだ。 そりゃ、勝義の話、勝義と世俗を混ぜて話んじゃ机とか遊びと変わんない、 正に詭弁か、何も分かってないだけですぜ。 >ところで「梵網経」、 >1.凡夫は戒律を実践する釈尊を尊敬するが、それは卑近な事柄だ >2.外道の62見を紹介し、如来はもっと凄い事を知っているから偉い >という二部構成には、なっているが、 先ず、三部構成ですよ。凡夫、聖者、アルハットあるいはブッダね。 >仏教の戒律実践を称賛する凡夫より外道の62見が優れているという構成に >なってないのではないか。 なぜ? 「凡夫が如来を賞賛して語るとき、わずかなことのみを、卑近なことのみを、戒のみを語るにすぎない」などということに対して、 「深い深い現象で完全に清らかで完全に浄化した他の諸法を、私は自らの神通によって ありありと悟り説いた、外道も如来に正しいことをあるがままに称賛を語り述べる」 というのは凡夫より外道などの聖者が優れていると認めてでしょう。 彼らを指す言葉もパ蔵漢一致して「聖者」なんだし。
5 :
神も仏も名無しさん :2012/10/08(月) 14:37:43.15 ID:cuD5dxIN
>>2-3 ですから、本物の話をここで求めようというのは筋違いです。
6 :
神も仏も名無しさん :2012/10/08(月) 14:57:40.08 ID:qhnyobG7
なぜなら本物などどこにもいないからw
7 :
暇人 :2012/10/08(月) 15:01:20.97 ID:l1X4ElHU
>>4 ん?
「相手の論点で受け入れる部分」も「訂正、あるいは取りやめた主張」もない。
あれば書く。
私の話のどこからが勝義で、どこからが世俗なんだね。
私は「海一味」でそういう二諦論を展開していないが。
二部構成だよ。きちんとテキストを確認したまえ。
第一部 凡夫は戒律の実践という卑近なことのみに注目し如来を称賛する
第二部 如来の悟りを知り称賛することの方が優れている
例えばバラモンは62見の網の中で跳びはねているだけだが
如来はこれらを超越している
こういう構成でしょ
8 :
神も仏も名無しさん :2012/10/08(月) 15:03:24.13 ID:qhnyobG7
夢と妄想の一人歩きだなw
9 :
暇人 :2012/10/08(月) 15:07:17.97 ID:l1X4ElHU
廻向というのは、大乗が編み出した【反則技】でありましょうや。 そもそもは善因楽果なので、 自分がした善行の果実は自分の楽果となるはずで、楽果を他人に 分け与えることはできなかった。 しかし【空】思想が、自分の功徳を他人にめぐらすことを可能にしたわけです。 縁起思想ではなく、空思想と関係します。 詳しく梶山雄一の『「「さとり」と「廻向」―大乗仏教の成立』をどぞ
10 :
神も仏も名無しさん :2012/10/08(月) 15:11:03.59 ID:cuD5dxIN
>>7 そう。今までもそう感じたんだけど。じゃ、これからはキッチリ指摘するは。
>私は「海一味」でそういう二諦論を展開していないが。
「海一味」というのが勝義の話ということ。
>二部構成だよ。きちんとテキストを確認したまえ。
いや、三部構成だよ。
一部、凡夫。二部、六十二見。三部、六十二見の流転門と還滅門
ちなみに観はこの六十二見の流転門と還滅門を説く。
中論も六十二見の還滅門に他ならない。
11 :
神も仏も名無しさん :2012/10/08(月) 15:13:03.10 ID:cuD5dxIN
>>9 それが一味なんだけど、これは難しいから。
今は、いいや。
12 :
神も仏も名無しさん :2012/10/08(月) 15:14:08.97 ID:cuD5dxIN
>>6 そう思うのは勝手だけど、だったら、ここを見る意味も書く意味も全くないでしょう。
13 :
暇人 :2012/10/08(月) 15:18:51.34 ID:l1X4ElHU
>>10 「海一味」が勝義の話としてだ、勝義は仏教のウチなのかね。外なのかね
ウチなのであれば「そういう仏教は無い」という前スレのキミの立場は
世俗諦ではないに訂正しないといけなくなるのでは?
一部 凡夫はどこからどこまでかはわかる。
第二部と第三部の別れ目はどこからなのだね?
14 :
暇人 :2012/10/08(月) 15:22:19.93 ID:l1X4ElHU
キミ紹介のWIKIで書かれている以下は第二部だよね? この後、以下の六十二邪見が説かれます。 1.過去に関する説 1.四常住論(我と世界が常住であるという三つの禅定体験と一つの推論) 2.四つの一部常住論(我と世界の一部が常住であるという三つの禅定体験と一つの推論) 3.四有限無限論(世界が有限無限であるという三つの禅定体験と一つの推論) 4.四詭弁論 5.二無因生論(我と世界が原因なく発生するという禅定体験と推論) 2.未来に関する説 1.死後の有我説 1.十六有想論 2.八無想論 3.八非有想非無想論 2.七断滅論(一つの無我断見と六つの有我断見) 3.五現法ネハン論(一つの現世肯定論と四つの禅定体験) これらを述べた直後と、最後に締めくくりとして釈尊は次のように仰られます。
15 :
暇人 :2012/10/08(月) 15:26:53.69 ID:l1X4ElHU
繰り返すが 凡夫よりバラモンの62見を称賛しているのではなくて、 外面的な戒律遵守行為のすごさしかわからん凡夫の称賛を卑近と落とし 62見というバラモンの抽象的議論を超えた如来の悟りこそを称賛しようという構成なんだわ
16 :
神も仏も名無しさん :2012/10/08(月) 15:37:54.97 ID:cuD5dxIN
>>13 >「海一味」が勝義の話としてだ、勝義は仏教のウチなのかね。外なのかね
内でしょう。
>ウチなのであれば「そういう仏教は無い」という前スレのキミの立場は
>世俗諦ではないに訂正しないといけなくなるのでは?
どういう意味?
>一部 凡夫はどこからどこまでかはわかる。
>第二部と第三部の別れ目はどこからなのだね?
面倒くさいね。じゃ、外道の六十二と仏教は同じなわけ?
違うから、こそ三部なわけでしょう。
その wiki はともかくテキストは三部だよね。
>>15 >凡夫よりバラモンの62見を称賛しているのではなくて、
>外面的な戒律遵守行為のすごさしかわからん凡夫の称賛を卑近と落とし
>62見というバラモンの抽象的議論を超えた如来の悟りこそを称賛しようという構成なんだわ
まず、抽象的議論じゃないは、推論もあるけど、基本は直接知覚。
次に、凡夫、外道より如来こそ最高というのはもちろんだ。だからこそ三部構成なわけ。
そして、凡夫より外道を聖者、深いとしているのだから上と見ているでしょ。
この一つも認められないようなら、もうアナタとは話にならないな。
>>3 欲望と言っても、聖なる欲を起こして
みずから悟り、輪廻の苦界を浮沈する衆生済度は
誠に正しい欲望です
18 :
暇人 :2012/10/08(月) 15:58:40.49 ID:l1X4ElHU
>>16 ぢゃあ、梵網経のテキストに基づいてどこからが
第三部であるか示してよ 簡単だろ、三部構成なんだったらば(笑)
だがそれはできない相談だ。
第二部六十二見
第三部六十二見の流転門と還滅門
という構成になっていず、
第二部で六十二見が説かれ、それぞれの見ごとに如来説が示されるという構成なんだよ
イメージと純粋知覚は一致しないと言う人がいます。 梨の絵を見ても食わない限り、その味はわからないと言う論理です。 しかし私は以前「洋梨」ラフランスを見て、その味わいや、舌触りなどを「想像」していて いざ本当に食ってみたら「味」「舌触り」も想像とまったく同じで 食うのも馬鹿らしくなった経験があります。 よって純粋経験論云々は根拠がはなはだ弱い ゆえに大いに人は語るべきは語るべきであります
20 :
神も仏も名無しさん :2012/10/08(月) 16:04:01.65 ID:8WfylvrG
21 :
神も仏も名無しさん :2012/10/08(月) 16:24:19.97 ID:cuD5dxIN
>>18 >まず、抽象的議論じゃないは、推論もあるけど、基本は直接知覚。
これは認められるよね。
>そして、凡夫より外道を聖者、深いとしているのだから上と見ているでしょ。
これも認められるよね。
認められないなら理由を説明してもらいましょう。
>ウチなのであれば「そういう仏教は無い」という前スレのキミの立場は
>世俗諦ではないに訂正しないといけなくなるのでは?
どういう意味?
これも説明してもらいましょう。
それができたら、テキストを指摘しましょう。これができないような人なら、もう話すことはないです。
>>19 要は何を目的とするかであって、
人間なんてものは悟ろうがどうしようがいずれ死ぬ
俺の場合は苦の滅ゲームの参加者なのかな?
俺は内観外観を主体にするけど、
方法論は別に一つでもないし信じた道をぼちぼちいきましょうや
23 :
暇人 :2012/10/08(月) 16:38:43.91 ID:l1X4ElHU
>>21 枝葉末節に逃げたいのかね。
62見がすべて抽象的議論ではなくて「直接知覚」とキミは言いたいのかね。
お尋ねするが、なぜここで「抽象的議論」と「直接知覚」とを対立概念にしたいのだね。
さてキミは横道にそれたいようだが、議論を戻す。
「卑近」というのは、翻訳すれば「身近」という意味だよ。
私が「卑近」に対して「抽象的議論」を対置したのは、
「身近な事柄に対する称賛」と「62見という難解な議論を超えた釈尊の悟りへの称賛」という
図式があると考えているのだ。
それ故に第二項を認めないよ。
称賛は62見を説くバラモンに対してあるのではなく
難解な議論より優れた釈尊の悟りに対してされていると解釈しているのが
私の立場なんだよ
第三項
キミ「知覚できることと、できないことが、それぞれの境地で異なっていることは仏教で一貫してるでしょ。」
暇 「仏教には海一味という考え方がある」
キミ「それは勝義だ」
暇 「勝義は仏教のウチか外か」
キミ「ウチだ」
暇 「だったら、第一命題を訂正しないとね」
24 :
神も仏も名無しさん :2012/10/08(月) 17:11:38.32 ID:cuD5dxIN
>>23 え、三部構成という方が瑣末なことだと思いますが、論証するのが煩雑なので、
そのような作業をするに足る相手か見極めたいだけですよ。
それに別に私は間違っているなら、直ぐ認めますよ。
>62見がすべて抽象的議論ではなくて「直接知覚」とキミは言いたいのかね。
以下のように違いますよ。
>>16 >まず、抽象的議論じゃないは、推論もあるけど、基本は直接知覚。
なぜ、抽象的議論ではいけないかというと、そういう前提で六十二見を捉えると間違った結論に導かれるからです。
六十二見の基本は三昧・禅定体験によって掴んだ見方なんですよ。
それを抽象的議論なんて、単なる観念論にしたら話にならない。
凡夫との違いは、この三昧・禅定体験のあるなしにかかっているから、です。
そこを認めないからアナタや宇井さんのような結論になってしまうのです。
25 :
神も仏も名無しさん :2012/10/08(月) 17:12:32.37 ID:cuD5dxIN
>>23 >称賛は62見を説くバラモンに対してあるのではなく
>難解な議論より優れた釈尊の悟りに対してされていると解釈しているのが
それは認めますよ。それとは別に、釈尊が凡夫より聖者、深いと認めてるでしょう。それは認めますか?
>キミ「知覚できることと、できないことが、それぞれの境地で異なっていることは仏教で一貫してるでしょ。」
これは世俗ですよ。上の六十二見も三昧・禅定体験も世俗に他ならない。
そういう読みをしていたら何もわからない。
だから、和辻のようにコモンセンスじゃ、仏教は絶対分からないです。
その上で勝義と世俗ですから、一味は勝義ということは認めますか?
凡夫より深い聖者、釈尊はどんなウンチしたんだろうか さぞかし健康的で立派な一本糞だったんだろうな… 当然手でケツを拭いたんだろうが、手は洗ったんだろうか
28 :
大滝秀治 :2012/10/08(月) 19:28:06.50 ID:UrA2gvS8
>>9 >廻向というのは、大乗が編み出した【反則技】でありましょうや。
まあ、回向も業報輪廻転生も古代人のテキストに書いてあるからと、
ゴックンしてしまうのが古代テキスト信仰主義者やわね。
般若経書いたおっさん連中まだまだアカンかったんちゃうか?
空やったら何でもありか?ご都合主義誤謬妄想やなw 勝義と世俗の混乱アリや。
在家向け一種の苦し紛れの手品(新しい菩薩キャラによる救済概念導入)やね。
信者様 大募集!
在家からのお布施の集金具合も変わってくるし、カッコつけた受け狙いやなw
シルクロードを通じたキリスト教とかヒンドゥ教、ジャイナ教の影響を感じるねえ。
しかし、たしかに【反則技】で、レッドカード退場や!!
>縁起思想ではなく、空思想と関係します。
おいおい、これは問題発言やで。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
オイラ氏ご贔屓の梵網経議論最中に失礼した。すまん。
よーするに、如来さんは勝義→無執着を直覚してるが、
アホ連中は二項相対世俗で迷ってるだけでアカンのやで、と言いたいのや。
が、この如来さんのも見解やが、
俺のは無分別智による縁起の現観やで、こいつらとはちゃうわ、といいたいのやろ。
ハイ、続行、続行。
>>28 回向というんは自分のためちゃうで
おっちゃん
>シルクロード
ゾロアスター教も忘れんといてや
ソグド人の活躍ぶりはピーラブーチェにあって
目覚ましく仏教布教に貢献したんや
お金なんていらんわ
いくらわてら商人やって宗教で銭はよう取れん
(じゃりん子チエより)
>>29 あらっ?
自分のためにならない事も仏教では教えているんですかね。
回向とやらも所詮は「情けは人の為ならず」のことわざと同じようなもんでしょ。
結局は、廻っての自分の為とちゃうの?
31 :
神も仏も名無しさん :2012/10/08(月) 21:27:38.82 ID:rG3cm12z
32 :
神も仏も名無しさん :2012/10/08(月) 21:33:14.21 ID:cuD5dxIN
>>28 >オイラ氏ご贔屓の梵網経議論最中に失礼した。すまん。
>よーするに、如来さんは勝義→無執着を直覚してるが、
>アホ連中は二項相対世俗で迷ってるだけでアカンのやで、と言いたいのや。
>が、この如来さんのも見解やが、
何回も言ったけど、これだと外道の三昧とおんなじでしょ。
>俺のは無分別智による縁起の現観やで、こいつらとはちゃうわ、といいたいのやろ。
まあ、そう言ってもいいが、上のように言うとこ見ると縁起と言っても縁起が分かってないと思う。
凡夫=戒、外道聖者=定(三昧・禅定)、アルハット・ブッダ=慧(縁起観)
の三部構成になってるんですよ。
それで暇人さんが
>>18 それぞれの見ごとに如来説が示される
と言ってるけど、それぞれ掴んだ見解を縁起観で解き放って戯論寂滅へ導いているわけ。
これが慧で、すなわち縁起観、そしてほぼ中論はここしか説かないですよ。
真実は、ただ真実として存在します。多くのひとが認めるから存在するわけではありません。真実とは、個人一人ひとりに内在する永遠なる真我のなかで体験されなければならないのです。
>>3 教師という意味でなら、自分に適した存在を探し回る意義はあるでしょう。
けれども、完成された覚者との出遭い、そして弟子入り志願ということであるならば、
自分にその器としての達成を示せない限りはいくら捜し求めたところで覚者と接触することはできない。
“弟子の準備整いし時、師現る”がいにしえからの格言。
これを知る志願者は、覚者探しなどという愚かな行動を獲ることがない。
35 :
神も仏も名無しさん :2012/10/08(月) 22:36:31.68 ID:rG3cm12z
36 :
神も仏も名無しさん :2012/10/08(月) 23:23:14.51 ID:rG3cm12z
>あるがままに見るって、どういうことだろう。 アメリカの禁酒法時代。 FBIとシカゴギャング団との死闘の時代がありました。 ギャング団のボスは、悪名高きイタリアマフィアの「アル・カポネ」 です。 この親分にも、、母親がいます。 そして子分たちは、尊敬の念を込めて、こう呼びました。「アルがママ」と・・・
>>25 一代氏
>これは世俗ですよ。上の六十二見も三昧・禅定体験も世俗に他ならない。
>そういう読みをしていたら何もわからない。
世俗には世俗としての読みしかできないから、世俗なので、もし沙門・婆羅門として
の読みができれば、その人は元から世俗ではありませんけどね。残念ながら(^^;
38 :
暇人 :2012/10/09(火) 02:25:59.26 ID:VIct9OJ1
>>24 三部構成というウソを認めも改めもされないですね
>>25 バラモンが凡夫より深いと釈尊が認めているわけではないことを
テキストに従い、一例だけ解説します。
1.あるバラモンは過去について18の根拠に基づいて『浮説』を主張すると釈尊は言う
(1)あるバラモンは四つの根拠により常住論を主張する。
(@)あるバラモンは幾千もの過去世を瞑想体験して常住を主張する
(A)あるバラモンは十劫もの過去世を瞑想体験して常住を主張する
(B)あるバラモンは四十劫もの過去世を瞑想体験して常住を主張する
(C)あるバラモンは理論に冒され推論に追随して常住を主張する
これら四つの根拠に基づく常住論を如来は、
「執着され固執された見解である故に、趣く先をもたらし、(つまり解脱できずに輪廻し)
(このように常住と考えてしまう)未来をもたらす」
如来はこれより勝れたことを知り、執着や固執を離れている。
比丘たちよ、悟りを体現して教示している如来を称賛しようという流れです。
深い瞑想体験して常住論を展開するバラモンに対して釈尊は
『浮説』と貶していますし『執着・固執された見解』と否定的です。
凡夫と比較してバラモンを深いとする個所はありません。
キミの意見では
「境地の差」云々は、世俗諦の事柄で
「海一味」は勝義諦の事柄なのですね。
すると仏教はすべて「境地の差」を認めることで一貫しているという
キミの論は崩壊していますよね。
私はそう思わんがキミの論に立っても
仏教で一貫していず、世俗諦で一貫しているしているだけだからね
するとキミは修正の必要がでますよね
ここまで言ってもたぶん、キミはわからんだろうけどね。
39 :
神も仏も名無しさん :2012/10/09(火) 05:08:53.82 ID:RTeBZJ9y
>>37 仏教だと、勝義は戯論寂滅、不生、不可得(無知覚)涅槃などと言い表されると思います。
ただし、部派とかだとこれに法を加えたりして、方便説を説くと思いますが。
これ以外は非想非非想定に入ろうが、有頂天の神になろうが世俗でしょう。
40 :
神も仏も名無しさん :2012/10/09(火) 07:57:38.27 ID:RTeBZJ9y
>>38 >三部構成というウソを認めも改めもされないですね
嘘じゃないからです。上に説明したように戒定慧にキッチリ対応してますよ。
>バラモンが凡夫より深いと釈尊が認めているわけではないことを
「深遠で、見がたく、了知しがたく、寂静で、勝れており、思考と思惟とを超えており、 微妙で、賢者だけが理解できる諸法がある」と説かれている通り認めてるでしょう。
>『浮説』と貶していますし『執着・固執された見解』と否定的です。
浮説という訳は問題ありです。後に説きます。
否定的なのは当然ですよ。三昧・禅定体験からある見解を掴んでいるからです。
これが六十二見に他ならず、それがあるかぎり解脱できないからです。
そのそれぞれの見解を否定すると言ってもいいですが、遮断して戯論寂滅に導くわけです。これが慧であり、縁起観に他なりません。
否定というと、何か正しい説があるように取られますので、そうではなく中観でいうような絶対否定という意味で遮断と私は言います。
つまり、なんらかの正しい見解があるわけではないからです。
>すると仏教はすべて「境地の差」を認めることで一貫しているという
>キミの論は崩壊していますよね。
さっぱり分かりませんね。xであるという認識が持てるのは全て世俗ですよ。
勝義、一味、不生、不可得、涅槃という色々な仮設、記号は、勝義を指すためのラベルであって、勝義ではxと仮設することができないから不可得なんですが。
なんでも、コモンセンスで同じ地平で解釈するからトンチンカンなことになるんです。
41 :
神も仏も名無しさん :2012/10/09(火) 07:58:13.63 ID:RTeBZJ9y
浮説は adhimuttipada がパーリの言語です。adhivuttipada とする異読もあります。 隨意所説(長阿含) mngon par smra?(蔵訳) adhivacana-pada(アッタカター) 片山訳: 余計な言葉; Bhikku Bodhi訳: designational terms pannatti-pada(ティカー) 片山訳: 概念(仮設)の語; Bhikku Bodhi訳: conceptual terms 以上、漢蔵とアッタカター、ティカーから考えると adhivuttipada の方が原型であった可能性が高いようにも思います。以下、ざっと見た諸訳: アレンジされた説(畑訳) conceptual theorems(Bhikku Bodhi訳) 流説(片山訳) 浮説(浪花訳)
42 :
神も仏も名無しさん :2012/10/09(火) 07:59:04.05 ID:RTeBZJ9y
adhimutti の諸辞書の語釈
Critical Pali dictionary
http://pali.hum.ku.dk/cpd/search.html f., conviction, faith; intention, will, inclination;
Margaret Cone, A Dictionary of Pali, 2001:
http://ja.scribd.com/doc/106697104/ [BHS adhimukti], conviction, intent, inclination; will; freedom;!
http://palidictionary.appspot.com/browse/a/adhimutti 《汉译パーリ语辞典》f. [adhi-mutti, BSk. adhi-mukti] 信解, 勝解, 願樂.
《水野パーリ语辞典》f. [adhi-mutti, BSk. adhi-mukti] 信解, 勝解, 願楽.
《巴汉词典》【阴】决心,性情。 ~ka, 【形】 倾向,执着。(p13)
《明法尊者订巴汉词典》 【阴】决心,性情。adhimuttika,【形】倾向,执著。
《Concise Pali-English Dictionary》 [f.] resolve; disposition.
《PTS Pali-English dictionary》 (f.) [adhi + mutti] resolve, intention, disposition
adhivutti の諸辞書の語釈:
Critical Pali dictionary
f. theory
Margaret Cone, A Dictionary of Pali, 2001:
[from *adhi + Vvac; cf S. ukti], expression, saying; theory;
http://palidictionary.appspot.com/browse/a/adhivutti 《汉译パーリ语辞典》f. [adhi-vutti<vac] 所說, 言說. -pada 浮說(誇張,說大話).
《水野パーリ语辞典》f. [adhi-vutti<vac] 所説, 言説. -pada 浮説.
《明法尊者订巴汉词典》(adhi+vutti,‹adhi+vac, cp.Sk.abhivadati) 【阴】表达(expression),说(saying),意见(opinion)。adhivuttipada (=adhivacana-pada DA I.103)﹐深解语句(statements of doctrine)。
《PTS Pali-English dictionary》(f.) [adhi + vutti, fr. adhi + vac, cp. Sk. abhivadati] expression, saying, opinion;
43 :
神も仏も名無しさん :2012/10/09(火) 08:05:37.83 ID:68R/OfRf
>>17 自分の師が本物でないなら損した気分、となるのがおかしいのかも。
本物かどうかは後にならないとわからないのだし、
親鸞さんじゃないけど、「師匠にだまされて地獄に堕ちても後悔しない」
という心構えでまずは師匠の教えを徹底的にやってみないと、
ちょっとやってみて結果がでないとすぐに
「この師匠がダメなせいだ」と考えるとしたら、それはよくない。
しゃくし定規のテキスト主義者、あなたが「一代」さんですか。 あなたの話は型にはまっていておもしろくない。つまらない。 仏教界でプロになりたいなら、もっと砕けて俗になり、おもしろくて、 わかりやすくて、役に立つ話をしないとだめじゃない。 自分の殻を破ってください。それが解脱だよ〜ん。
暇人氏の話には啓発されるが、ただ、もっともらしい話の中に、 思いがけない突っ込みどころが転がっている。 語り口の俗っぽさにだまされる。計画的な落とし穴かもしれない。 もしや守護霊がタヌキ?
46 :
神も仏も名無しさん :2012/10/09(火) 08:21:43.92 ID:RTeBZJ9y
浮說(誇張,說大話)とするのは、adhivacana-pada と注釈するアッタカターからでしょうが、この adhivacana というのは流通する記号をプラパンチャによって尾ひれをつけて妄想が膨らんだ記号の意味というものと思われます。
参照できた諸訳もこちらの意味をとっているのでしょう。
pada の諸辞書の語釈:
《水野パーリ语辞典》 n. [Sk. pad] 足; 足跡, 歩; 句, 語法. 《Concise Pali-English Dictionary》[nt.] foot; foot-step; a word; position; place; reason; cause; a line of stanza; the final rest.
《PTS Pali-English dictionary》 (nt.) 1. foot 2. step, footstep, track
3. (a) lit. way, path, position, place (b) in appld meaning (modal): case, lot, principle, part, constituent, characteristic, ingredient, item, thing, element
4. a word, verse (or a quarter of a verse), stanza, line, sentence
《Concise Pali-English Dictionary》 (m.; nt.) the foot; leg; a base; one-fourth of any measure or of a stanza.
《汉译パーリ语辞典》 n. [Sk. pad] 足; 足跡, 歩; 句, 語法.
《明法尊者订巴汉词典》【中】1.脚[迹]。2.路,位置,地方。3.句,一句话,一行诗节。4.理由,因素。
pada はもちろん境地、立場、原理、理由という意味で足ではないでしょう。
adhimutti なら、そう信じる、向かう立場、境地。
adhivutti なら、そう述べる、妄想した立場、境地。
このように意味は微妙に違いますが、釈尊の立場からすれば、戯論寂滅でなく何らかの見解を執っているということは、そう信じることで、それは妄想に他ならないのでどちらでも同じことです。
重要なのは、観念的な妄想ではなく、何らかの三昧体験に基づいた妄想であるということです。ここを逃すと六十二見は、取るに足らない妄説となってしまいますが、
そうではなく宗教体験に基づく見解・教義の全てを意味しています。
>>38 >すると仏教はすべて「境地の差」を認めることで一貫しているという
>キミの論は崩壊していますよね。
47 :
神も仏も名無しさん :2012/10/09(火) 08:23:10.08 ID:RTeBZJ9y
>>44 ここはそういう場じゃないから
別にプロになりたくないし
48 :
暇人 :2012/10/09(火) 08:25:55.65 ID:VIct9OJ1
>>40 「深遠で、見がたく、了知しがたく、寂静で、勝れており、思考と思惟とを超えており、
微妙で、賢者だけが理解できる諸法がある」と称賛しているのは
如来の悟りであって、62見ではないですよ。
流説でも浮説でも同じでしょう。
62見を「流説」あるいは「浮説」と否定しているのです。
49 :
暇人 :2012/10/09(火) 08:31:14.19 ID:VIct9OJ1
>なんでも、コモンセンスで同じ地平で解釈するからトンチンカンなことになるんです。 問題は、あなたの何が理解を妨げているかですね。 簡単に言うと、あなたは「自分が正しい」と信じられているから 初歩的なミスをミスと気づけないという構造になっているのです。 そしてあなたの「自分が正しい」は、 「勝義、一味、不生、不可得、涅槃という色々な仮設、記号は、勝義を指すためのラベルであって、 勝義ではxと仮設することができないから不可得」という言葉遊びのラベリング論でありましょう。
50 :
神も仏も名無しさん :2012/10/09(火) 08:33:04.90 ID:RTeBZJ9y
>>48 >「深遠で、見がたく、了知しがたく、寂静で、勝れており、思考と思惟とを超えており、
>微妙で、賢者だけが理解できる諸法がある」と称賛しているのは
>如来の悟りであって、62見ではないですよ。
いや、六十二見ですよ。「賢者」ってあるじゃないですか、それは外道を含む聖者のことですから
>流説でも浮説でも同じでしょう。
>62見を「流説」あるいは「浮説」と否定しているのです。
ですから、言葉・記号はともかくなんらかの見解です。
そこで重要なのは、観念的思弁的な単なる「流説」「浮説」ではなく
「深遠で、見がたく、了知しがたく、寂静で、勝れており、思考と思惟とを超えており、微妙で、賢者だけが理解できる諸法」である三昧体験で掴んだ説だということです。
51 :
神も仏も名無しさん :2012/10/09(火) 08:37:53.42 ID:RTeBZJ9y
>>49 逆にアナタが単なる常識・コモンセンスに立ってるからでしょう。
私の説は諸伝統と諸テキストに添ってますよ。
それに対してああ述べるのは、相当根拠がいると思いますが、
アナタのは単なる諸学者の説を摘んだだけでしょう。
いやいや、大した自信です。
ここまでですね。アナタの反証には全く根拠がないとしか思えない。
これ以上は時間の無駄です。
52 :
神も仏も名無しさん :2012/10/09(火) 09:03:12.64 ID:RTeBZJ9y
>>51 >私の説は諸伝統と諸テキストに添ってますよ。
>それに対してああ述べるのは、相当根拠がいると思いますが、
>アナタのは単なる諸学者の説を摘んだだけでしょう。
>いやいや、大した自信です。
誤解のないように補足しときます。
私は自説が完全に正しいとはおもってませんよ。もちろん。
上のようにいったのは、以下の暇人さんの言葉に対してです。
この言説は無根拠に総論的な仏教理解について暇人さんが正しく、私が間違っているという意味に他ならないからです。
>>49 >問題は、あなたの何が理解を妨げているかですね。
>
>簡単に言うと、あなたは「自分が正しい」と信じられているから
>初歩的なミスをミスと気づけないという構造になっているのです。
>
>そしてあなたの「自分が正しい」は、
>「勝義、一味、不生、不可得、涅槃という色々な仮設、記号は、勝義を指すためのラベルであって、
>勝義ではxと仮設することができないから不可得」という言葉遊びのラベリング論でありましょう。
特に上ですね。逆にいうと、そう思うのは暇人さんが単に和辻のような常識仏教の信奉者だからでしょう。
その是非を論じるべきなのに、それを前提に断じられては上のようにもう話し合う余地はないということです。
もちろん、逆に私の上の説の是非を論じてもいいのですが、無根拠に言葉遊びでは話になりません。この説は十年間の膨大な研鑽の結果ですから。
53 :
* テツ 代理大滝秀治 :2012/10/09(火) 10:02:49.34 ID:EmKnkNr+
>>29 じゃりん子チエへ
おまえ、いつまで「アタシは世界一不幸なオンナやねん」いいながらホルモン焼いてんのや!
もっとも、ワイもやってるけど・・
http://www.youtube.com/watch?v=xv3ggzklt6U ここは在日イケダ大作大先生見習うて宗教商売やれ、儲かるで!
暴力ヤクザ高利貸し→戸田創価学会乗っ取りでカルト化商売で丸儲け
→宗教公明党利用で田中角栄と取引して旧建設省(国土交通省)利権独占で大儲け!
→日韓地下水脈利権構造フィクサーでまたまた丸儲け!
スイス銀行に裏口座。
チエは<ホルモン教の巫女>でやれ!
・カモねぎ在家信者様大募集!
・ホルモン菩薩を信じなさい!
・お布施をすれば、ホルモン菩薩様のエコーで救われる!
・回向、回向、エコーのエコロギー! 前世の悪業なんか回向、エコーでいちころや!
・大、大、大乗でダイジョウぶ!
・テキストはテキトーな受け狙いのタテマエで、ホンネは無税で銭儲け!!
二律反するものの中から共通点を搾り出すことができればその部分は真理と言えないだろうか。
55 :
暇人 :2012/10/09(火) 11:01:35.39 ID:VIct9OJ1
>>50 しらばくれても無駄です。
>「深遠で、見がたく、了知しがたく、寂静で、勝れており、思考と思惟とを超えており、
>微妙で、賢者だけが理解できる諸法がある」は
中村元監修「原始仏典」第一巻 長部経典1 梵網経p16からコピーですが、
省略されている部分を補うと
「28.比丘たちよ、このほかに、如来がみずから悟り体現して教示している、
深遠で、見がたく、了知しがたく、寂静で、勝れており、思考と思惟とを超えており、
微妙で、賢者だけが理解できる諸法がある。それら(を賞賛すること)によって、
如来をあるがままに賞賛し、正しく語ることになるであろう」となります。
この文脈での賢者とは、外面的な戒律実践だけでほめそやす凡人ではなくて
如来の悟りを理解してして賞賛できる人たちの事ですので
62見に執着し固執しているバラモンらのことではないことは誰が読んでも自明です。
>41
>浮説は adhimuttipada がパーリの言語です。adhivuttipada とする異読もあります。
水野辞典に拠ると「adhimutti」は、信解ですので、誤字では?
ちなみにこちらのページで
http://www.metta.lk/tipitaka/2Sutta-Pitaka/1Digha-Nikaya/Digha1/01-brahmajala-p.html 「adhivuttipada」を確認できました。
水野「パーリ語辞典」p16に拠ると、意味は「浮説」です。
PTSに異本があり他の単語あるのであれば、異本テキストと単語を再度お示し下さいな
56 :
大滝秀治 :2012/10/09(火) 11:03:20.05 ID:EmKnkNr+
>>50 >「深遠で、見がたく、了知しがたく、寂静で、勝れており、思考と思惟とを超えており、微妙で、賢者だけが理解できる諸法」
これ梵網経の如来さんの文言ということやけど、アカンね、落第如来や。
梵網経書いた坊主は、なんでこんな落第如来さんだしたんやろねえw アホちゃうか?
だって、生齧り落第坊主が成りすまし仏やってるからや。
な〜んでか?
宿題にしとくわ。
57 :
神も仏も名無しさん :2012/10/09(火) 11:05:05.23 ID:RTeBZJ9y
>>55 もう付き合ってられませんよ。
異読は、CSCD に載ってるんで確認して。
そのぐらいできるでしょ。
58 :
暇人 :2012/10/09(火) 11:05:27.03 ID:VIct9OJ1
>>52 私の側があなたの初歩的なミスを指摘し、
その指摘に客観性があれば
>>49 の暇人の指摘について
あなたは謙虚になるべきでありましょうや。
59 :
暇人 :2012/10/09(火) 11:07:02.95 ID:VIct9OJ1
>>57 つきあう、つきあわないのはあなたのご自由なんでお好きにどうぞ。
私は今後もあなたのミスにきづけば具体的に指摘します。
60 :
大滝秀治 :2012/10/09(火) 11:10:42.32 ID:EmKnkNr+
>>52 >十年間の膨大な研鑽
アフォでっか?あのな、そんなんカンケーないし、自慢にもならん。
このスレッド常駐の仏教破落戸(阿呆陀羅経)には、虚仮おどしにもならん。
仏法は悟ったモン勝ち(方便)や。
アタシの好きな無難禅師の教えの極意は『まず悟れ』だよ。
で至道無難、唯嫌揀択や。
「禅は第一悟りをさきにして、悟りにまかせて修行すれば、日々夜々安楽なり。」(即心記)
「何もかも捨てたあとに悟るのはとても難しいが、
悟ったあとに、何もかも捨てるのは、とても易しい」のや。
『膨大な研鑽』して、間違えるアッフォもイッパイいるから、娑婆はオモロイw
学校時代もアタシの何倍も勉強して、アタシよりはるかに成績悪い奴もいっぱいいた。
仏法不在の化石「仏教」のコピーがオモロイか?ホンマの仏教趣味やねえw
61 :
神も仏も名無しさん :2012/10/09(火) 11:17:23.07 ID:RTeBZJ9y
>>58 もちろん、そうですが、
私のミスとは思えません。
アナタの勝手な誤読としか思えません。
それを丁寧に解説したが、全てコモンセンスに基づく前提で一蹴されたかんじです。
これでは無理です。
恐らくアナタと私で是非を論じられるのはマテリアルな是非だけでしょう。
>>52 >十年にも渡る研鑽…
せめて三年ぐらいで遠慮しとけば…
暇人ですね…
ただね、ブッダさんはヴェーダを否定しておりませんわ。
特にヴェーダ奥義書による悟りしバラモンは否定しておりませんわ。
ヤージュニャヴァルキアみたいな…
でも、そのようなブラーミンはめったにいないと言っとりますわ
63 :
神も仏も名無しさん :2012/10/09(火) 11:24:47.78 ID:RTeBZJ9y
>>62 オイラには仏教しかないからね
言っとくけど十年というのは縁起・空性・仮設についてだよ
仏教自体はもっと長い、もちろん長いからっていいわけじゃないが
スッタニパータ 426 スッタニパータ 428 (悪魔)ナムチは言った 「ヴェーダ学生としての 清らかな行いをなし 聖火に供物をささげてこそ 多くの功徳を積むことができる」 スッタニパータ 430 スッタニパータ 431 わたくしにはその(世間の)善業を求める必要は微塵もない スッタニパータ 927 わが徒は アタルヴァ・ヴェーダの呪法を行なってはならない スッタニパータ 568 火への供養は祭祀のうちで最上のものである サーヴィトリー〔賛歌〕はヴェーダの詩句のうちで最上のものである
>>26 お釈迦様のウンコは、金ののべ棒たぞ?
ありがたや
ありがたや…
右手でカレーライスを食べておったから、
ウンコするときは
当然左手ゴールドフィンガーで決める!
インドで俺もやったわ…
便所に水の入った壺があって、指にこびりついたビチ糞を洗い流し
けつの穴をジャブジャブ。
慣れると不快感は無い。
で、その後チキンマサラを食った
>>65 仏教は意識的耐性形質の獲得を目指すのかな…
拭いた指をしゃぶることができれば完全体になれるかも…
でも釈迦でさえ食あたりで死ぬからなぁ…
学問や芸術やスポーツなどの師匠なら、研究書や作品や競技会などで、 その優劣がある程度客観的に評価できる。 宗教の場合は、心の師匠だから、かれらに優劣をつけるのは難しい。 しかし、まったく目印がないわけでもない。
乱暴だったり、偉そうだったり、おどおどしていたらダメだろう。 深刻な顔をしていたり、悪夢にうなされているような人も落第である。 そうではなく、謙虚で穏やかで、やさしそうな人の中にいる。 そういった人の中にいるのであって、かれら全部が優秀なのではない。 悟れば心が変わり、その人の人格も変わる。
いずれにしても宗教の導師ってどんなに穏やかな人でも、 人を突き放した態度を取るし、冷たい場合だってある。 なぜなら彼らの思考パターンや行動様式は 世間一般のヒューマニズムとは異なるからだ。 師によって弟子は深く心を傷つけられる事もある
70 :
神も仏も名無しさん :2012/10/09(火) 18:14:47.07 ID:i26LV+a8
書や剣の腕前が並々ならぬから悟っているとは言えない。 むしろ逆かもしれない。君子は器ならず、という。 そういうことなら、名を残さなくても悟った人はけっこういたかもしれない。 確かなことは、イエスや釈迦が塗炭の苦しみをしたことだろう。 苦しまないで悟れる人はいない。
家族や周囲の人々、出会う人々が先生
>>69 イエスも釈迦もそうだが、かれらはヨブのような、
言語を絶する苦しみを経験し、やっとのことで悟りに至っている。
かれらの厳しさはそのことに関係しているのかもしれない。
自分が耐えたのだから弟子も耐えられるだろうとつい思ってしまう。
どんな師匠も厳しさの加減にうといかもしれない。
>>71 そう思えればたいしたものです。謙虚にならないと学べない。
生き物すべてが、大自然のすべてが師匠ですね。
秀治様 すみません前スレで 「回向と縁起は矛盾する」だったですか、ちゃんと覚えてないんですが アホノわしにはわからないのです。 仏、もしくは念仏の作者の回向(表現、意思表明)を縁として往相回向(表現、意思表明)が成立し その同じ回向の違う相として同時に還相回向(表現)もあらわれる。 という流れで縁起に反してないように思うんですが。 回向と縁起に対する思い違いの指摘をお願いします。
人生はしばしば山登りに喩えられる。しかし悟りは、 「百尺竿頭進一歩」であり、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」である。 山登りとは違う。山登りはむしろ、聖書にあるバベルの塔だろう。 ボケたり、神の怒りに触れたりして一瞬に崩れ去る。
76 :
神も仏も名無しさん :2012/10/09(火) 20:22:29.36 ID:68R/OfRf
サンガジャパン誌の前回号だったか、業の特集号の藤本晃さんが、功徳の回向について書いていた。 やはり、功徳の回向は、それを受けとる相手側の随喜がないと、相手の功徳にはならないのか。 だとしたら、法事などで我々が先祖のために回向をしても、 先祖が我々の回向を知って随喜しないと先祖のためにはならない。
いらん十字架は背負わなくていいと思うなぁ 過ぎた怠惰や過ぎた快楽も十字架に含まれると思う
78 :
神も仏も名無しさん :2012/10/09(火) 20:38:31.92 ID:RTeBZJ9y
>>76 少なくとも大乗では、そうは考えませんよ。
なぜなら、法界は一味だから。
だけど、本来、祖先に廻向するもんじゃなく、一切有情に廻向するものです。
法界に廻向すれば、一切有情に廻向することになりますが、その場合、誰が誰に何をという三者無所得(三輪清静)の廻向でなければなりません。
>>76 たぶん逆で先祖が回向してくれたおかげでわしらは先祖に回向なんぞを
しようと思ったんだと思います。
だからわしらが随喜して先祖に回向し返せばいいと思う。
80 :
神も仏も名無しさん :2012/10/09(火) 22:00:21.00 ID:i26LV+a8
回向など、何がどうなっているのか、だれにもわからないのだから、 バレンタインのチョコレートと似たようなもので、 一切皆空を信じている、お寺さんの営業戦略かもしれないね。
梵網経は読んだことないが、一代氏と暇人氏の議論は、 二人の立場が窺えて興味深かった。一代氏が戒定慧で読むのに対し、 暇人氏は経律論で読んでいるのではなかろうか。
82 :
神も仏も名無しさん :2012/10/09(火) 22:18:44.34 ID:i26LV+a8
一代氏は、慧(悟りの究極)を求め、慧を最高の境地として切り分ける。 これに対して暇人氏は、慧イコール経典であり、律の前提であり、 梵網経は律と論(諸法無我=空)の二部構成と見るが正しいと解している。
83 :
ノスタルジア :2012/10/09(火) 23:20:02.98 ID:D2/f1Wb3
よく日本人って「思う」って言うじゃないですか?思いが重要なんです。 思いが極楽に行くのです。智慧の念仏しか、この末法では救われないんですよ。 智慧の障りを離れていることが、慧解脱ということ。だから智慧の念仏を ただ無闇に称えていてもあまり意味をなさない。問題は、悟りの境地に 入りたいか?ということであり、それは慧解脱によって、南無阿弥陀仏自体になり、 大涅槃に至るということである。現実と思いは似ても似つかないもの同士。 だから、現実に生きているなら、また夢で死んでいるならだめだ。 今の連続の生死ではないのだよ。称名念仏の聞思が最重要。しかし現実や夢を 甘くみてたら、慧解脱できないよ。
>>76 >>78 >少なくとも大乗では、
それは別に大乗が別途付加したものではなくて、仏教自体が元々そういう考えだと思います。
テーラワーダでも「自分の」祖先ということに殊更基いた回向をしたりはしません。
「私が中国的儒教文化風習に根を持つもの」と評しているものです。
むしろ現行のテーラワーダを信奉するインド〜東南アジア文化圏の人々はそのような先祖崇拝
という形の「身内血縁偏重主義」の文化は比較的希薄ですが、大乗を信奉する現状の日本の仏
教徒において元来中国文化圏であったそのような文化の影が濃く残っているのが現状だと思い
ます。ガンダーラで発祥した大乗自体が元々持っている性質ではないにせよ、世俗的に、社会
的統計的側面で見れば、それは現代において大乗方面において顕著に見られる性質(儒教的本
質を持った中国仏教としての性質)だと思います。
「学道の人は先ずすべからく貧なるべし」
>>56 閻魔大師
それは外道の尊者のレベルの境地の心境を述べた文章なのに、なぜ、その文章で
釈尊が批難されなければならないのでしょうか?
すいません、もしタイで12才ぐらいの男の子がお坊さんになったら一生童貞なんですか?
最近の子供は12歳前にも…… 冗談はともかく、タイなんかでは還俗して坊さんから俗人に戻る事が普通にあるから、一概にそうは言えない
>>88 ありがとうございます
もし童貞のままお坊さんになって一生お坊さんだと…そのままって事ですよね?
90 :
神も仏も名無しさん :2012/10/10(水) 01:15:07.26 ID:4Ueh/9sV
>>78 法界一味なので、私が功徳を積めば法界(いわば生命全体のネットワーク上)に
功徳を刻むことができる、みたいなかんじでしょうか。
91 :
神も仏も名無しさん :2012/10/10(水) 05:25:37.16 ID:/i35mW5n
>>84 ありがとうございます。仰る通りだと思います。
大乗に限定したのは、私が現代のテーラワーダに詳しくないからです。
92 :
神も仏も名無しさん :2012/10/10(水) 05:28:22.57 ID:/i35mW5n
93 :
暇人 :2012/10/10(水) 07:04:23.68 ID:iBgyME8P
>>81 ,82
誰の訳でもいいから梵網経を読んだらわかりますよ
そんな難しい話をしているのではなく
相手方が梵網経のテキストに書いてないことを
自分の立場を投影して読みこんでいるだけなことが解ります。
はつきり言えば「読んでない」のです。
相手方は、「凡夫」「沙門バラモン」「釈尊」の三段階が説かれていると
読まれているのですが
「凡夫」は蚊帳の外におり、「尊敬すべき沙門バラモン」の中には戒律を守ってない者もいるが
「釈尊」は遵守している。だから「釈尊」は素晴らしいと褒める存在なだけです。
比較されているのは「沙門バラモン」と「釈尊」のみです。
梵網経は最初に貶されても怒ってはいかん。褒められても喜んではいかん。
ただ、冷静に真実については真実といい真実でないことは真実でないと言えばよい、と説きます。
その上で第一部は外面的な戒律遵守を賞賛する凡夫の称賛を卑近な事柄と斥け
第二部で浮説である62見を示し、執着・固執ゆえの見解であると切り捨て
執着・固執を離れた釈尊の悟りこそを賞賛するという構図になっています。
94 :
神も仏も名無しさん :2012/10/10(水) 08:05:42.78 ID:4Ueh/9sV
>>92 ただ、梵我一如については、仏教の目的ではないように思います。
仏教の基礎である四諦の法則は現実の悩み苦しみをなくす世俗諦だと思います。
勝義諦で思考停止になっておわりではなく、そこから、現実の欲や怒りや怠け等の軽減へと向かわねば。
95 :
1/2大滝秀治 :2012/10/10(水) 11:59:20.67 ID:3SeWCjv8
>>74 >仏、もしくは念仏の作者の回向(表現、意思表明)を縁として往相回向(表現、意思表>明)が成立しその同じ回向の違う相として同時に
>還相回向(表現)もあらわれる。 という流れで縁起に反してないように思うんですが。
回向論は本質的に反仏法です。在家信者集めの偽善です。
現在でも葬式仏教のメシのタネです。
あなたが、縁起に反してないと思うならそれでエエんですよ。
菩薩さんにせよ阿弥陀さんにせよ、その本質はシルクロードから来た出稼ぎ・出張の神さんキャラですから、
信じるモンが救われた気になれます。いわしの頭も信心からです。
菩薩概念は、まさに神が人間を創ったのではなく、人間が神を創ったことの実証です。
しかし“信じる者は救われる”というのは縁起の仏法でしょうか?
縁起の直接現実(あるがまま)は無意味・無価値・無矛盾・無実体・無相・“無功徳”→空=中道であるのに、
あとから勝手に創作された菩薩さんが「功徳」をサンタクロースよろしくバラ撒き・出前配達でき,
分別前提で自在にコントロールできる根拠と縁起メカニズムを“実証”して頂きたいモンです。
・回向概念は「分別観念」そのものですから間接現実=世俗内でのコトにすぎません。直接現実=勝義にはとどきません。
・また回向概念は検証不能ですから、縁起撥無の「信仰物語(フィクション)」でしかありません(Sn.1053・1066参照)。
およそ知りえないことを知っているかのように語られるコトは「物語」ですから、ウソでもホントウでもないのです。
・さらに、回向論者は仏法が空であるから功徳を回せるなどといいますが、
そのような「理解」は無意味・無価値・無矛盾・無実体・無相・“無功徳(達磨)”=中道ではありえない二項相対間接現実の論でしかなく、
行為が因となり、諸縁と作用しあって結果が生じるという無量因無量果の縁起において、因果の勝手な恣意的分別特定および改変は不可能です。
直接現実(勝義)と間接現実(世俗)の明白な混同・混乱です。
回向論はしょせん仏法の縁起の破壊妄想論です。
こんな縁起撥無回向を夢見る馬鹿菩薩には百棒のうえ、雑巾がけから修行し直させろ!
96 :
2/2大滝秀治 :2012/10/10(水) 12:02:27.43 ID:3SeWCjv8
・また善業の回向ができるのなら、悪業の回向も可能なはずですよね(ニヤリ→ 復讐するは我にあり) な〜んで悪業回向に触れないの? ・さらに回向を受ける側にとっては信仰見返りに「御利益」を期待させる我執「取引」に他なりません。 「回向」論 VS 「業報輪廻転生」論は、両者ともに無量因果の勝手な恣意的特定を可能だとする本質的に同根の我執→苦増大機能論に他ならなず、 テキスト上の妄想→反仏法フィクションでしかありません。 回向や業報輪廻転生はあくまでも分別間接現実のものであって、空=中道の直接現実を作為できるものではないのです。 縁起の直接現実の自覚的な悟り(無分別智直覚)によって、<色即是空> 慶安に縁起現象(世俗では“生きる”という)していること<空即是色>、が仏法だと私は思います。
97 :
大滝秀治 :2012/10/10(水) 12:10:47.33 ID:3SeWCjv8
>>86 >それは外道の尊者のレベルの境地の心境を述べた文章なのに、なぜ、その文章で
>釈尊が批難されなければならないのでしょうか?
この梵網経はなりすまし如来(たち)の見解なので、歴史的人物としての釈尊を非難できるはずがありません。
歴史的人物としての釈尊にとっては、ハア? でしょw
アタシが批判したのは梵網経を書いた成りすまし如来の坊主(たち)です。
釈尊がそんな表現をするわけがない。もしするなら、アタシは筏としてのこのテキスト梵網経釈尊を捨てるだけで、ことは簡単です。
しかし、これは龍樹でも落第点をつけたやろね。
前スレ46
>>920 参照。龍樹中論24-10の“趣旨”(直文言のままではアウト)による仏法の二相把握からいえば、
梵網経37 「比丘たちよ、これらが、如来がみずから悟り体現して教示している、
>『深遠で、見がたく、了知しがたく、寂静で、離れており、思考と思惟とを越えており、微妙で、賢者だけが理解できる諸法』←成りすまし如来さんの見解です。
この>『〜』の表現はありえません。これは直接現実(勝義)ではありません。
無分別智による縁起の直接現実は、ただただ無分別智直覚するのみであって、上記の如き二項相対分別表現はありえないのです。
この文言ひとつで梵網経を書いた坊主(たち)が落第だと分かります。
もし表現するなら、〜三世緒仏までの般若心経やウダーナ8-3などのように間接否定表現に徹するべきでした(間接現実B:四句第4 中論18-6・8・11)。
廓然無聖=廓然無真=廓然無善=廓然無聖=廓然無美(達磨)、庭前柏樹子=無(趙州)の禅師たちほうがよっぽど的確に『直接現実』の様相を掴んでいると断言できます。
いわゆる62見なるものは、間接現実の一切内@外Aを無視したあくまで間接現実内の二項相対ハチャメチャ論であって、
直接現実の示唆Bでもなく、直接現実そのもの(言語表現不可)にも届いていないことは明らかです。(前スレ
>>920 参照)
これは縁起の直接現観(直覚:悟り)から還滅すれば明智なことでしょう。
>>94 梵我一如について誤解があるのでは?
ここで言う「梵」とは「梵天」などの
「人格化されたブラフマー神の境地」ではなく、
ブラフマンです。
これは名称と形態を超越し、人間によって認識されず言わば、「無限絶対不生不死」です。
ブッダの無我説は誤りです。
ブッダは非我説を説き認識されないものを説かず、それに到達する道だけを説いたのです。
理由は説けないし、無用な論議に落ち込むからです。
非我説から無我説へのすり替えはおそらく中国経由のものです
99 :
大滝秀治 :2012/10/10(水) 12:43:14.37 ID:3SeWCjv8
回向については、
80 :神も仏も名無しさん:2012/10/09(火) 22:00:21.00 ID:i26LV+a8
回向など、何がどうなっているのか、だれにもわからないのだから、
バレンタインのチョコレートと似たようなもので、
一切皆空を信じている、お寺さんの営業戦略かもしれないね。
↑
上記が事実上正解です。
物語ですから、何でも書けますから、作者以外はわかる訳がありません。
回向料よこさんかい! ゴルァ〜 !!! ←坊主のホンネ。
>>78 >>90 の批判については、気が向いたら書くわw
回向が坊主のたくらみでバレンタイン商法だとしても、 個人でやる分には充分効果あると信じたい。 利己的な行為は宗教でなく 非利己的行為のみが宗教ですから… 非利己性こそすべての宗教のマントラですしおすし
101 :
大滝秀治 :2012/10/10(水) 12:57:28.21 ID:3SeWCjv8
>>98 >ブッダの無我説は誤りです。
誤りではありません。
まさに、仏法には無我にて候(蓮如)
非我・無我の問題は仏法上、存在の二相把握の問題で(前スレ46
>>920 >>925 ),
龍樹中論の趣旨の徹底によって―アタシには―解決済みです。
102 :
神も仏も名無しさん :2012/10/10(水) 13:01:00.97 ID:4Ueh/9sV
>>99 業が心の癖だとするなら、
善いことを考えれば善い癖(功徳)がつき、
悪いことを考えれば悪い癖(罪業)がつく。
他人が善を行い回向した功徳を自分が随喜すれば、
自分がやった善でなくても、善を考えることになるので、心に功徳がたまる。
103 :
大滝秀治 :2012/10/10(水) 13:33:53.29 ID:3SeWCjv8
>>102 『 安らぎに帰して、善悪を捨て去り、塵を離れ、この世とかの世とを知り、生と死とを超越した人、
──このような人がきさにその故に<道の人>と呼ばれる。』(Sn.520)
倫理、道徳、法律、規則その他の共同幻想規範は間接現実(世俗)における相対基準(上記の塵)でしかなく、
ブッダの本懐である根源的な実存苦の超克とは異なります。
回向はあくまで二項相対間接現実での共同幻想内(善悪)での妄想です。
あくまでも世間でのイイ人のハナシです。
いくら世間で功徳を積んでも、縁起の直接現実では「無功徳」です。回向はあり得ません。
ブッダはまさに縁起の直接現実(あるがまま)に随うこと、受け入れることで
<道の人>として根源的な実存苦を超克することを勧められます。
自受用三昧(道元)、髄縁且従容(良寛)です。
じゃあ功徳を求めず駅前でホムレスといっしょに、 ビッグイシュー売ればいいよ。 実存苦の軽減になりますわ ところで僕はいま怒っている。 「自己責任」という新自由主義的な人を抹殺するような 言葉に対してです。 人間に自由意思は有りません。 経験則から言っても自己の意思は万能ではない。 にも関わらず社会の「支配層」はこの語を持ち出し、 社会弱点、本来は弱点でない者まで弱者化させ、 日本の弱体化を推進して 自分で自分の首を絞めているのです 「自己責任」という言葉は使用禁止にすべきです
>>103 あなたの言う
>根源的実存苦の超克
などサッパリわしにはわかりませんわ…
わし、頭悪いけえ
106 :
神も仏も名無しさん :2012/10/10(水) 14:06:12.28 ID:SmI/F7IT
>>105 健常者にはわからないのが同然。
それは釈迦の鬱病の症状に過ぎないのだから。
107 :
ノスタルジア :2012/10/10(水) 14:09:16.65 ID:Y4kZYaxI
自分を最高だと思っていませんか?
108 :
大滝秀治 :2012/10/10(水) 14:16:23.00 ID:3SeWCjv8
>>104 >駅前でホムレスといっしょに、ビッグイシュー売ればいいよ。
うん。売るの何回か手伝ったことあるよ。
大阪では、梅田のJR高架下歩道がよく売れる。
お布施狙いのインチキ山伏やインチキ占いのベテランおっちゃんたちがいて面白い。
釜ヶ崎は修行天国だよw
動物園臭と酒臭い(中には覚醒剤でイカレタ)自由菩薩様がイッパイだw
ただし、自由菩薩狙いの貧困ビジネスヤクザ・暴力団もイッパイだあ。
109 :
大滝秀治 :2012/10/10(水) 14:20:48.54 ID:3SeWCjv8
110 :
神も仏も名無しさん :2012/10/10(水) 14:56:44.02 ID:/i35mW5n
>>108 偉いなあ
>四諦・八正道でしょ…
でも釈迦は慈悲を説いた。
慈悲とは与楽抜苦なり。
楽を与え、苦を抜くでありんす。
ありのままだと単なるLet It Be
それは違うよね…
まあ、わしもBeatlesは好きだけど
>>110 縁起によってXと思う…
「思う」つまり心や感情ですよね?
ブラフマンは心や知性すら超越しています。
上記の説明では納得できません
113 :
神も仏も名無しさん :2012/10/10(水) 15:46:35.08 ID:/i35mW5n
>>112 外道がそういうのは分かりますが、
釈尊は、そういう本質・実在としてのアートマンを認めません。
アートマンというのは記号で、ブラフマンでも神でもなんでも同じです。
114 :
神も仏も名無しさん :2012/10/10(水) 15:57:02.64 ID:lVHCd5iR
>>113 釈迦自身も本質・実在でないのなら、それほど執着する必要はなかろうw。
>>113 外道は記号を用いますが、仏教は用いない。
ただそれだけの事ではないでしょうか?
116 :
神も仏も名無しさん :2012/10/10(水) 16:06:12.30 ID:/i35mW5n
>>112 『梵網経』を見ていただけると分かるかもしれません。
三昧体験で現象が消えていきます、その体験にも段階がありますが、
その体験を記号づけて何と呼ぼうとも、それは感受であり、
そのような見解では輪廻から解脱できないというのが釈尊の立場です。
その様々な見解を類型によって分類して六十二見としています。
そしてその六十二見で掴まないようにするのが縁起観で、
『梵網経』の後部はそれが説かれています。
『中論』は正に六十二見から解脱するための縁起観、中道観です。
117 :
神も仏も名無しさん :2012/10/10(水) 16:07:08.03 ID:/i35mW5n
>>115 私も昔はそう考えていましたが、完全に間違っていました。
上の通りです。
>>『中論』は正に六十二見から解脱するための縁起観、中道観です。 基本的な事を確認したいのだが、ダライ・ラマも中論は重要だということで推薦図書として挙げている上に、解説書を邦訳で何冊が出している。 でも、中論は、あくまで論書だよね。他の経典や論書と比べてさすがに絶対視し過ぎではない?(影響力を考えるとわからんでもないが) あと、一つ疑問なのは、中論を読んで解脱した人が本当にいるのかということ。 (他の経典と同じように、覚者によるお墨付きがあるのか。と中論では、解脱すらも「ない」と取れる部分もあるのでこの2つの意味で)
119 :
神も仏も名無しさん :2012/10/10(水) 18:21:24.57 ID:4Ueh/9sV
解脱に向かうためにも煩悩を弱める必要があり、 そのためにはもちろん禅定(色界心・無色界心)は効果的だが、 また、欲界心にあるときには善心を心がけて功徳を積むことも効果的ではないでしょうか。 無分別とか勝義諦とかいうのは禅定(色界・無色界)のときの話であり、 普段の生活のとき(欲界)にいかなる心を持つべきか、具体的な世俗諦の話がないと、 一般の仏教徒には役に立たないのでは。 禅定マスターした僧侶がいたとしても、普段の生活時は欲界心でしょうし。
120 :
神も仏も名無しさん :2012/10/10(水) 18:28:11.23 ID:4Ueh/9sV
禅定をマスターして無分別の世界にイッちゃう能力がある冥想の達人がいたとして、 その達人が普段のイッてないときに、どんな身口意の三業でどんな 悪いことを行ったり考えたりしても、それは悟りの妨げにならないのでしょうか? 悩み苦しみの原因にもならないのでしょうか? 私はむしろ、イッていない普段のとき、つまり欲界心のときに善心でいられる人こそ聖者だと思うし、 そこがお釈迦様と他の冥想の達人との違いではないかと思います。
お釈迦様もやはりラーマクリシュナのような人だったのでは? ラーマクリシュナは常に無分別三昧に没入していましたが、 普段はどちらかと言うと無邪気な子供のように戯れていました。 マヘンドラナート・グプタ氏のコタムリトを読めば覚者の日常精神状態がわかります。 仏教とは関係ない! という偏見抜きで、という条件付きですが…
お釈迦様の性格について我々はあまりに ステレオタイプなイメージしか持っていないです。 お釈迦様は 「弟子ひとり持たず候」 な人でしたが、どちらかと言うと厳格な 教師のイメージがあります。 でも、ぶっちゃけ悟りし境地は同一だったと思われます
123 :
74 :2012/10/10(水) 18:48:54.66 ID:WOZep1AZ
秀治様 回向は表現だと聞いてます。だから実際に届くのも、功徳も、念仏だけだと聞 いてます。 物語にせよ「あんたを救いたい、いやあんたは救われてるよ」っていう表現に 感動してわしはその物語を信じることにしました。 そしてこれはうまいことに物語でしかありません。この世での利益はないです。 物語、嘘、信仰、すべて現実に人が手にするモノです。現実に手にするもの はすべて縁起の中にあるんだと思うのですが。 そして念仏して手に入れられるのは現実だけです。 救いたいと思い、表現した人がいたことは現実です。それを受けて生きてる わしがいます。回向の功徳でわしが念仏を唱えている。これは縁起では 無いんでしょうか?
念仏は非善非行か… 悪人正機か… しかし親鸞の理解には「悪人はしょせんは悪人」という 他罰的臭気がある。 だめだな… まだまだ甘い ここが仏教の限界だろうな… 人間の魂を否定する仏教の限界や… 我々は悪人の中の悪人に、 殺人鬼や強姦魔の内に 「真の佛」を見いださねばなるまい… これは困難なことだわい…
125 :
神も仏も名無しさん :2012/10/10(水) 19:53:19.27 ID:/i35mW5n
>>118 >基本的な事を確認したいのだが、ダライ・ラマも中論は重要だということで推薦図書として挙げている上に、解説書を邦訳で何冊が出している。
>でも、中論は、あくまで論書だよね。他の経典や論書と比べてさすがに絶対視し過ぎではない?(影響力を考えるとわからんでもないが)
論書ですね。中論を使うのアーガマ・ニカーヤそのまま再現されていることと、みなさんが好きだからです。
>あと、一つ疑問なのは、中論を読んで解脱した人が本当にいるのかということ。
>(他の経典と同じように、覚者によるお墨付きがあるのか。と中論では、解脱すらも「ない」と取れる部分もあるのでこの2つの意味で)
もちろんです。ただ、現代で中観の伝統が生きているのはチベットですが、たいてい中観だけでなく密教も行じているので、中観だけを行じた方もいると思いますが、私は知りません。
『生まれによって賤しい人となるのではない。生まれによってバラモンとなるの ではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。』 いいこと言ってような気がするでっしょ。 回向したところで、誰が何様になれるというのかに? 裏本経での物語なんか、飲めや食えやでの回向が書かれているが、 これも坊主への口に入るようにできてるしな、・・・・ウンコするとは罰あたりめが!
いやっ、まてよ。 考えようには畑の肥料になるな。
『肛門から排出される気体で、腸で発生されるガス』ーウィキから。 ようするに屁であるが、役にたたんのは是だけか。キリッ
釈迦はなにを食ったかしらんが、 みんなさんまがたは、屁の話でもしてらっしゃるのかの〜。
>>129 チキンカレーについてですしおすし。
マトンカレーも
チキンビリヤー二も
マラバールフィッシュカレーも…
おいしいです
誰がひったかわからん、すかしっぺ嗅いでコナンごっこすんな。
>>89 そうだろうね
ちなみに、釈迦は童貞じゃねえからなw
一枚げっと! 蓮華に座るより、こっちがええな。
えんこ座り。 回向、ウンコ、えんこ。是wwwww
さて、 この“回”は水がぐるぐるまわる意味だな。 ”法”とは所謂、基準になる水を意味してるらしぞえ。 ようするに、仏様らしき御方の説いた物語を基準に布教することやろ。 誰も言ってはおらぬが。・・・反論OKよ。 俺、逃げるし。
> この“回”は水がぐるぐるまわる意味だな ↑ 水がぐるぐるまわるっていう意味で良いんじゃなイカ?
139 :
神も仏も名無しさん :2012/10/10(水) 22:32:17.97 ID:UbTOjke7
(ROM途中だが、)
>>38 いや、厳密に言えば三部構成でしょw(まさに
>>32 の如く)
そして、貴方の言う(
>>23 )
>「身近な事柄に対する称賛」と「62見という難解な議論を超えた釈尊の悟りへの称賛」
>という図式
は、上記三部を二部に合算していることに他なりません。
>「身近な事柄に対する称賛」 / >「62見という難解な議論 / それを>超えた釈尊の悟り(への称賛)
貴方の言辞も三部ですよ?w
140 :
神も仏も名無しさん :2012/10/10(水) 23:00:32.92 ID:UbTOjke7
回向論議もしてたのかw 「回向」はね、「祈り」なんだよ。
141 :
大滝秀治 :2012/10/10(水) 23:42:57.11 ID:3SeWCjv8
>>123 >「あんたを救いたい、いやあんたは救われてるよ」っていう表現に
>感動してわしはその物語を信じることにしました。
>回向の功徳でわしが念仏を唱えている。これは縁起では無いんでしょうか?
生意気ですが、感動しました。
ここは「議論スレッド」ですから四角四面なことも言いますが、正直なところ、縁起云々なんか二の次ですよ。
縁起云々の理屈より、ブッダの言われるように<道の人>であることが肝心で、
慶安にある(生きる)ことがブッダの、そして私達の本懐であるはずです。
きっと『回向の功徳でわしが念仏を唱えて』必ず、慶安にある(生きる)実感ができると思います。
どうか、本懐を達成されたら、功徳を万人に分け与えられて、共有する随喜で満たされますように。
自力と他力でルートは異なっても、結局は共に手を携えることになりましょう。
だって、『仏法には無我にて候』(蓮如)なんですから。
142 :
神も仏も名無しさん :2012/10/10(水) 23:55:06.59 ID:lVHCd5iR
>>141 >『仏法には無我にて候』(蓮如)。
「仏法とは、己にならうなり」(道元)
>>95-96 ----「廻向」について
大王のいわんとすることは大筋では同意します。
けれども、一つこのように見られてみてはどうでしょうか?
私も行者の善行の功徳をある特定の対象者に振り向けるなどということはできないと思います。
しかし、特定の対象に向けた供養の場合には、当人がそのことを知った場合には“得達の随喜”が生じて、
その喜びを所縁にして善趣地に転生できるようになるという南伝の理解があるというのが一つ。
それともう一つ、仏道修行者が他者のことを想って幸せを願い、
或いは、救済を願うということはごく自然な心の働きであろうかと思います。
私はこれは無駄にはならず、時には高次の存在(地蔵のような)の働きかけに作用するものと信じます。
苦しんでいる人々に対し、「自業自得だから放っておけ!」などという考え方は聖者の御心にはない。
恐らく、可能な範囲で救済に働かれており、そこに呼びかけることができるのが祈りということなのだと思う。
更に、身代わりとして相手に代って善行に励まんするところが他の諸宗教を超えた部分だと思う。
ゴータマご自身が祖霊に供物を捧げて供養するよう説かれているようなので、
その行為はやはり、無駄にはならないものと思われます。
『実に次の五つのしかたによって、子は、東方に相当する父母に対して奉仕すべきである。 ──
「われは両親に養われたから、かれらを養うおう。かれらのために為すべきことをしよう。家系を存続し
よう。財産相続しよう。そうしてまた祖霊に対して適当な時々に供物を捧げよう」と。実にこれらの五つ
のしたかによって子は、東方に相当する父母に対して奉仕すべきである。』
(『ディーカ・ニカーヤ』シンガーラワーダ経/長阿含-善生経28)
>>98 >非我説から無我説へのすり替えはおそらく中国経由のものです
シャンカラ(700-750年)が仏教徒の無我説を批判してるので、
当時のインドおいては、すでに現代に通じる無我説が確立していたのでしょう。
本来の非我説がすり替えられた無我説が・・・。
《仏教徒の反論》 たんに議論のために、万一存在するアートマンがあるとしても、それは非存在に
等しい。なぜなら驢馬(ろば)の角と等しいから、仏教徒の立場からすると、存在の証拠となる実際の働き
をもたないからである。《返答》 しかしそれはただしくない。その実際の働きをもたないということは、ある
ものが存在しないことの証拠とはならないからである。あるものが存在するということは、それが実際の働
きをもっているというその事実からは確立されない。反対にあるものが実際の働きをもつからといって、そ
れとは別様という証拠にはならない。
そしてさらに、その存在は、実際の働きをもたないという主張は確立されない。なぜならその存在は、
まさしく君の考察の原因であるから。また二元は、幻力(=マーヤー)によって、その存在から流出するか
らである。存在は天啓聖典によって、古伝書によって、はたまた理論によっても、確立される。しかしそう
でなければ、理に合わない。(韻文篇第19章16,17)】
(シャンカラ著/前田専学訳『ウパデーシャ・サーハスリー』岩波文庫)
>>121 >仏教とは関係ない!
>という偏見抜きで、という条件付きですが…
その方は難しいかと。
“我は無い”などという解釈は後代の混入!! ゴータマの教えは“非我と無記”、それ以外なし。 『anattan(無我、我ならざるもの)の語は、ブッダも使います。ブッダの教えの中で重要な用語です。 これは、「主語+述語」の文の、述語に置かれます。「苦であるものは、我ならざるものである(=我 ではない)」ということで、「無我」は「我がない」という意味ではありません。「我ではない」という意味 です。--中略-- ただ、いつの頃からか「無我(anattan)」に「我がない」という意味が混入してきますね。(部派時代 頃かな) これは、経典を作りかえたとかそういうことではなくて、解釈として、このような解釈が入っ てくるということです。』(管理人エム/マニカナ掲示板過去ログ2739.) 『これまで、伝統的な解釈に従って「無我」に「自己はない」という意味を便宜的に与えておいたが、 実際には、阿含経典では「無我」は「自己でない」の意で用いられていることがわかるだろう。ブッダ が「自己はない」は説きえないことがはっきりしている今となっては、これは当然のことだが。』 (石飛道子著『ブッダ論理学五つの難問』講談社刊)
>>97 aka 閻魔大師
まず、私自身は梵網経は釈尊の真説だという見解です。
今、そのこと(真説か否か等)について(あなたと)詳細に論議しませんが。
多少読みに同意しかねるところはあるのですが、それはさておき、そこは如来自身の最終見解ではなくて、
如来は外道の尊者たちのそのような「これって悟りじゃん!」と勘違いしている境地も100%カバーしているが、
「外道の境地」⊂「如来の境地」
それはまだ最終的な境地ではないんだよ、という文脈の批判的見解へと続くための文章なのに、なぜ、梵網経の
語り手(それが釈尊自身であろうがなかろうが)がその文章自身で批判されなきゃならないのでしょうかという
ことです。
>>141 ><道の人>であることが肝心
こういうあなたの「活きた宗教人」たらんところは好きなんですよ。
問題は、その境地にラベル(商標)を付して第三者に語る場合に、本当に、「これぞ仏教の縁起である」とか
そういうあたりで、適正ではない可能性があるということです。
「良いものはいいんだ。だからこれはiPhoneである!」
と、たとえ性能が上回ってすらいたとしても韓国製(日本製でも同じ)Androidスマホが言ったとしたら
マズいでしょう。
良いもの=仏教(というブランド・ラベル)、悪いもの=非仏教と対応させて、
固執するべきではないと思います。
別にあなたの境地が「悪い」という意味で「それは仏教とはちょっと言えないのでは」
というツッコミが行なわれているとは限らないからです。特に一代氏のは、少なくとも
形式上は、ブランドの適正さの問題に終止しているスタンスのはずです(それ故の文献根拠要請論)。
もちろん、主観的には、私にしても(恐らく)一代氏にしても、個人の見解を出せば、
それはそれで仏教=優れて良いもの、外教=不完全なもの、ということはそれはそれで出てきますが、
それはまた別個の議題だと思います。
147 :
神も仏も名無しさん :2012/10/11(木) 01:06:59.80 ID:T8hrhRE6
>>145 >ブッダが「自己はない」は説きえないことがはっきりしている今となっては
、これは当然のことだが。』
何故「当然のこと」か。釈迦が勘違いした可能性もあるではないか。
石飛さんの「釈迦盲信」には恐れ入るな。彼女は「学者」とはいえない。
148 :
神も仏も名無しさん :2012/10/11(木) 01:14:51.84 ID:CuZOfCa8
從容録 第五十一則 法眼?陸 示?云。世法裏悟卻多少人。佛法裏迷卻多少人。忽然打成一片。還著得迷悟也無。 【舉】 法眼問覺上座。?來陸來(大似有兩般)。 覺云。?來(深談實相善?法要)。 眼云。?在甚麼處(恐怕不實)。 覺云。?在河裏(果然有下落)。 覺退後。眼卻問傍僧云。爾道適來這僧。具眼不具眼(可惜許)。 」 第五十一則 法眼?陸 衆に示して云く、世法裏に多少の人を悟却し、佛法裏に多少の人を迷却す。忽然として打成一片ならば、還って迷悟を著得せんや也た無しや。 擧(こ)す。 法眼、覺上座に問う、來か陸來か。 覺云く、來。 眼云く、?は甚麼の處にか在る。 覺云く、?は河裏にあり。 覺 退(しりぞ)いて後、眼 却(かえ)って傍(そば)に問(と)うて云(いわ)く、道(い)え適來(てきらい)の這(はい)の眼を具(ぐ)するや眼を具せざるや。 』 =( ・_・;)⇒ アレ?流れ星☆彡 (・・;(/ --)/ あ・・・流れちゃちゃった… ポリポリ「(ーヘー;)え〜と...この公安は、何を言わんとしたものか、と、小一時間ント・・σ( ・´_`・ )。oO(悩)ウ〜ン おそえて・・・
149 :
神も仏も名無しさん :2012/10/11(木) 01:55:57.45 ID:T8hrhRE6
「非我」と解したら、「無我」とは正反対の意味になる。「非我」は「有我」 を前提とする。
150 :
神も仏も名無しさん :2012/10/11(木) 02:04:07.56 ID:T8hrhRE6
かくして、釈迦の「無我の教え」は完全に崩壊した。私が最初から 主張していた通り。
151 :
土手 ◆/DoteDqHSI :2012/10/11(木) 02:17:36.18 ID:CuZOfCa8
大滝秀治さんへ
_ _ _
般若経
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html これまであなたたちは
ありのままに変化を見ることに慣れていない
無我を、縁起を、空を見ることがうまくない
あなたたちは、練習が必要だ
およそ、禅定に入ろうとする人は…
この吐いて吸う大きな長い息を十数え、何度も繰り返し、なにも考えず、ただ息を数え続けます
_ _ _
数息観の実践とか
禅定の実践などについては
どのように考えていますか?
>>144 シャンカラか…なんと用意周到な
>>149 「存在」は認識を前提としない。
また「無我」であれ「非我」であれ「有我」でさえ
それらは幻力マーヤーの領域下での議論に過ぎない
154 :
神も仏も名無しさん :2012/10/11(木) 05:49:40.44 ID:0U5iiEe3
>>153 >「存在」は認識を前提としない。
これは仏教ではありませんね。
>>93 暇人氏の方が自然なのだろう。梵網経は外見より中身が重要だと説く。
であれば当然、梵網経が外見と中身の二部構成になっていておかしくない。
ここでは、釈尊の悟りが62見の影絵のようになっている。
62見を定、瞑想中の体験と見れば、戒定慧の三部構成になる。 これでも外見(戒)と中身(定と慧)の話になるが、62見がすべて瞑想中の体験 に基づくのかと言えば、はなはだ疑問だと言わざるをえない。 実際に瞑想をやったことがあればわかる。瞑想にそれほどの多様性はない。 62見のすべてを瞑想中の体験とするのは無理がある。
157 :
神も仏も名無しさん :2012/10/11(木) 08:44:42.32 ID:0U5iiEe3
>>156 既に述べたように六十二見は推論による見解もありますが、
基本的に三昧体験によって掴んだ見解です。
体験が六十二あるというわけではありません。
ただ体験の違いが神通の違いによって三段階に説かれています。
因みに三昧の段階の違いは、欲界定を非本質なので除くとしても
色界定、無色界定、滅尽定、合わせて九段階の九定に分類されています。
これもアーガマ・ニカーヤ以来の通仏教的伝統です。
158 :
神も仏も名無しさん :2012/10/11(木) 08:49:10.92 ID:5P3/Mvym
一代氏と暇人氏の違いは、真言宗と浄土真宗の違いのようにも思える。 出家と在家、仏法僧、戒定慧などの名残りを残す平安時代と、 末法思想の流行下、出家から在家中心の仏教に変貌した鎌倉時代の違い。 外見より中身を説く梵網経が、大乗菩薩戒の主張根拠になり、 末法思想も影響しながら、戒律の重要性を著しく低下させてしまった(TT)
159 :
神も仏も名無しさん :2012/10/11(木) 08:54:47.09 ID:0U5iiEe3
>>158 オイオイ、パーリ梵網経と天台が重視する大乗戒の梵網経は全く別物だよ。
ちなみに浄土真宗の大学者山口益先生の『大乗としての浄土』に説かれる内容は、ほとんどオイラの説に一致しますよ。
オイラは親鸞上人や七里恒順上人のような真宗は完全に大乗の一部で伝統仏教だと考えますよ。
160 :
神も仏も名無しさん :2012/10/11(木) 09:06:02.75 ID:ia/YzeZq
>>144 仏教徒にとっては、アートマンは解脱とも関係しません。
釈迦も言っていません。
その時点で、釈迦の脳裏に「アートマン」があったとして、
それはシャンカラや他のヒンドゥー教徒にとってのアートマンと
同一ではありえません。
解脱に関わらず、また様々なアートマン論(ヒンドゥーや貴方のと同じものもある)を持つ人々が
そのまま輪廻を繰り返されている時点で、ヒンドゥー教におけるアートマンは否定されているのです。
>>159 間違ってたか(^^) なにぶんどっちも読んでない、わははは。
ネットで探したけど、ここで話題の梵網経がないんだよね。
162 :
神も仏も名無しさん :2012/10/11(木) 09:58:22.05 ID:0U5iiEe3
>>160 何言ってるか意味不明。
アートマンにあれだこれだの区別無し。
重ねて言うが私の議論も含めて当然あなたの主張も
マーヤーの領域支配下にある。
よってその時点で全ての論理は無効です。
おそらく龍樹はそこのところを「空」と規定したと思われ。
ネーティネーティしか言えないし…
空の空のそのまた空ですわ
164 :
神も仏も名無しさん :2012/10/11(木) 10:47:46.94 ID:0U5iiEe3
>>163 >おそらく龍樹はそこのところを「空」と規定したと思われ。
そうではないでしょう。
シャンカラなども仏教を否定し、中観派もヴェーダンーンタを含む全ての外道を否定しているわけだから。
一緒というのは近代のナータ以降、ヌーエイジはその影響にあるだけ。
165 :
神も仏も名無しさん :2012/10/11(木) 11:12:13.30 ID:0U5iiEe3
しかもヌーエイジさんたちは、シャンカラなど古典ヒンドゥー学者と仏教学者が互いに違うといっていることを無視して仏教とヒンドゥーの一致を語るが、 なぜか、釈尊の教えを判定する時は、諸伝統及び多くの文献学者が一致して認める釈尊がアートマンを否定したことは認めず、マイナーな学説に依る。 これは始めから自説があって、適当に自説に合うものを摘んでるだけ以外のなにものでもないでしょう。 ですから、仏教を自説に絡めて語るのを止めて、自分たちの立場として語ればいいだけなのに、恐らく普遍的真理であると言いたいから釈尊を用いたいだけでしょう。
166 :
絶対神 :2012/10/11(木) 12:08:23.34 ID:7dva6EtM
「君たちに基本的な事を言っておくとね」
『「宗教」は、キリスト教にしろ、仏教にしろ「真理」ではないのよ』
「奇麗ごとなの」
穢れきった世俗のバランスをとる為に生まれ来た思想が「宗教」なんであって
それ自体では、「あまりうまく機能しないんです」(世俗があることが前提で
宗教は成り立っている為)
>>165 「私が言ったのもひとつにはそこだ」
『勝手に宗教の都合の良い部分を利用するのは、その宗教の純正な信者としては
「不愉快だ」って事』
宝なんちゃらは、「キリスト教」を知った気になっているが
「こいつが信じているのは、自分によって都合の良い「単なるインチキな混ぜ物
にすぎない」って事」(その分際でキリスト教を批判するから腹も立つ)
167 :
絶対神 :2012/10/11(木) 12:12:02.68 ID:7dva6EtM
「ようするに「宗教」の問題点はなにかというとねえ」 『この世の中の一切の事物や思想を「たったひとつの理屈」で解説をつけようとする事』 「元々、「そんな事は不可能」だし」 世の中はそんなに単純じゃないの 『そんなものはガキの理屈』 ふつう大人ならそれくらい判っているから 「本気では「宗教」を相手にしない訳だよ」(大抵の大人は 宗教の言っている事を適当に聞き流す訳だ) 「仏教って「その最たるもの」」 そういう意味では『もっとも幼稚な宗教のひとつ」(キリスト教の場合、そこまで 単純に世の中を考えていない)
168 :
絶対神 :2012/10/11(木) 12:20:50.68 ID:7dva6EtM
『で、日本人の大半は』 「大真面目に解脱とか悟りとかを信じている訳ではない訳よ」 今のネット世代の日本人は「仏教など根本的な意味でまったく価値を認めて ないだろうけど」 『昔の日本人だって突き詰めて言うと、「釈迦」を「偉人」だと思っていた だけの事で』 「仏典が真理だとか、釈迦の教説が真理だとか思っていた訳ではないわけ」 『ある意味、そこが日本人の「よいところ」なんだけど』(大笑) つまり、「健全な精神は元々、真の仏教とはなにかなどとは追及しない」 『適当に手を合わせるだけ』(根本的に日本人の 考えと釈迦の考えは「異質」なもの(寧ろ、我々はある面、なんでもかんでも 神にして拝むヒンドゥー教徒に近い性質を持ってるんじゃないの?))
169 :
絶対神 :2012/10/11(木) 12:25:02.44 ID:7dva6EtM
「寧ろ、どっちかというと『仏教』って」 『理屈抜きの純粋な多神教や自然崇拝に比べると』 「真理とは何かと追究して難しい理屈をこねくりまわす」 『「一神教」に近い宗教なんじゃないかと思う』 そういう意味では、元々、「純然たる仏教」や「釈迦の教説」は 「日本に馴染まない」 大乗仏教じゃなかったら 「仏教という宗教は元々、この国では広まらなかったと思うね」
170 :
絶対神 :2012/10/11(木) 12:30:11.27 ID:7dva6EtM
「で、弟子を持たないなんてものは」 『宗教の世界じゃふつうである』(キリスト教にも 幾らでもあるw) 「それでも、その人物を慕う人間が寄り集まり、「弟子集団」を作り上げる」 『というのが「宗教団体が出来る黄金のパターンのひとつ」で』 勘違いする人間がいると困るから言っておくが 「この間も言ったが、そんな事は「ごく平凡な事」」(本人が 幾ら否定しようが、それなりに有名になった思想家の元には、共鳴する人間が 絶対に集まってきて、弟子集団を形成する) 『この間も言ったが』 「超能力を見せたり、自分は神だと言って、「最初から上の立場から人をあつめる方が 『遥かに特殊』なの」(それでも宗教団体じたいは無数にあるから、そんな 特殊な団体も結果として無数にあるけど、割合としては、「弟子はいらない」 と言っても自然に集まってくる方が『多い』と思うよ)
171 :
絶対神 :2012/10/11(木) 12:40:38.47 ID:7dva6EtM
「で、ついでに言っておくと」 『カルト宗教というものは、この間もちょっと触れたが』 最初から絶対者がいるのではなくて 「そんな人生とはなにかとか、本当の宗教とはなんだろうとか」 そういうものを追及する 『ごく平凡なグループから生まれてくる事が多いの』 中心人物はいるけど、「後から見れば確かにあの人が中心だったな」ていどで 「最初はみんな対等なんですよ、大抵」 そこも別に、「原始仏教が特に優れている」訳ではない事は覚えておいて 繰り返し言っておくが 『本来、最初から絶対的権威がある方が特殊なのです』(当たり前 だが、ある程度、組織が確立し、権力を持たねば、誰もそいつが絶対的権威だと 認めるどうりもないからです)
>>170 弟子を持たないって
確かに「無言の威圧」だし
「見えざる権力」だわな…
ガンディーの「非暴力」は「最大の暴力」だし…
アンベードカルはそれで殺られたようなもんだ
173 :
絶対神 :2012/10/11(木) 12:53:25.83 ID:7dva6EtM
「くどくなるからここまでにするけど」 『宗教は大抵、少人数の対等なグループで、人生とか、真理を追究していく ちょっとしたクラブみたいな形式から生まれます』 「そういう意味では、大抵の宗教には「本当は明確な教祖なんていないんです」」 (組織が発展していく過程の後付けです) 『もし、仏教が対等とか平等とか、釈迦が絶対的権威でないとかいう事を 原始仏教の売りとしているのならば』 「騙されないでね」(大笑) 『「宗教」の最初期として、「そんなのはごく当たり前の事だから」』(大笑) 「仏教は、そういう意味では「ごくごく平凡な宗教です」」 これは強調しても強調しすぎる事はありませんが 「宗教は、みな、最初期の段階では、善意を持って真面目に人生を追及する 対等な数人のグループによってはじめられます」 『そして、それは「カルトの卵」であり、『物凄く危険な事』なんです』(大笑)
俺がテーラーワーダが嫌いな理由は、 釈迦が最も嫌った個人崇拝、釈迦への盲目的服従を強いる点だ。 釈迦は法と律に依拠してただ独り歩めゆうとるのに… しかも阿羅漢とブッダの間にすらブッダに対する絶対権威の壁で隔てられている。 絶対権力を嫌う大乗は、釈迦をはじめとする菩薩やケンダッパに至るまで平等なんだな 以外と知られていないけど…
175 :
絶対神 :2012/10/11(木) 13:06:51.07 ID:7dva6EtM
「付け加えておくと」 『これはさっきも言ったけど』 「私みたいに「奇跡」を示して、「俺が「神だ」、俺について来い! 俺に従え!!」」 なんて『最初から言っている、漫画に出てきそうな教祖なんて』 「実は殆どいないのよ」(大笑) 大抵、新興宗教の教祖は、「最初は自分を神だなんて言っていない」(ある程度、 組織が確立して権力構造が確立してから「そう言う」) この辺りもイメージに騙されていると思うが、いかにもな教祖なんて「実は 厳密に言えばそんなにいない」(最初期に関しては)
最初期の段階から 「わしゃー神じゃ」とか言ってたら 誰からも相手にされないと思うけど 面白がって相手にする人もいるかも?
177 :
絶対神 :2012/10/11(木) 15:22:50.14 ID:7dva6EtM
「宗教の教祖というのはね」 『それ自体では「なんでこんな言動をとるやつを信じるのか判らない」』 「という奴しかいないよ」(大笑) 釈迦も含めてね
178 :
絶対神 :2012/10/11(木) 15:25:17.31 ID:7dva6EtM
『だから、大抵は数十人から数万人の集団になるだけで』 一代くらいで、場合によっては一代も続かないで消えていく運命にあるの 『「キリスト教」や「仏教」が広まったのは』 ある時点で、国家と結びついて、政治として利用できる宗教として確立した からなんです 「国家権力と結びつかないで、永続して広まった宗教はありません」
179 :
絶対神 :2012/10/11(木) 15:28:27.66 ID:7dva6EtM
『「神」は「教祖」である必要はない』 「本当に「超能力」を持っていて、それを強める事が出来て」 『最終的に全知全能、不老不死になれれば』 「それでいいのである」 無名であっても、「一向に構わない」(寧ろ、人間に知られるなんて事に、 さしたる意味はない)
180 :
神も仏も名無しさん :2012/10/11(木) 17:16:47.86 ID:3j+VR9ZE
>>174 それと全く同じ理由で、私は大乗が嫌いなんですけどねwww
大乗の方が、超えられないハードル設定をしていることに気付きましょうw
181 :
神も仏も名無しさん :2012/10/11(木) 17:37:53.67 ID:xw5tgNoy
>>180 大乗が嫌い、理解できないのは、「無我」などという一大ミスを犯した釈迦を
盲信しているからに過ぎない。
大乗は、歴史的釈迦の呪縛から離脱し、彼を「象徴」という単なる「飾り物」の
地位に追いやったのである。
182 :
神も仏も名無しさん :2012/10/11(木) 17:39:29.83 ID:3j+VR9ZE
>>731 その代わり、居もしないスーパーマンを何人も作り上げてるよなw
お前等はウルトラ兄弟かwってな
183 :
アンカー違ったw :2012/10/11(木) 17:40:05.26 ID:3j+VR9ZE
>>181 その代わり、居もしないスーパーマンを何人も作り上げてるよなw
お前等はウルトラ兄弟かwってな
>>162 ブログの紹介、ありがとう。ざっと読んだが、やはり62見が
ひっかかる。3界に3段階で9定だとすると、63見には到底及ばない。
体験不足は哲学的な思索? → その部分は定ではなく論だよね。
>>183 それ空飛ぶ男、増上マンな。
ウルトラの話ならばこれ、
法衣は様々にちがってはいるが、一つだけ共通するのがあるのだ。
背中に日本製のチャックな。
あと、「シュワッツ!」・・これ何語かわからんな?
インドでも地方訛り釈迦族語かもしれんし、マガタ語かもしれん。
いや、漢語?
「手話通」ならばときたら、日本ではどのように書き下すだろうか。
本来は、「飛びます、飛びます」なんだろうけどね。
193 :
神も仏も名無しさん :2012/10/11(木) 20:21:10.01 ID:0U5iiEe3
>>191 九定と六十二見は全く違う分類だから。
>体験不足は哲学的な思索? → その部分は定ではなく論だよね。
何を指しているのか分かりません。
アナタの文はそういう傾向があるように思います。
指示代名詞は直前のもの以外使わない方が無難ですよ。
あと相手の言葉は問いの場合なら言い換えないのが基本。
「」とかで引用する方が明瞭です。
日本の仏教はレベル低いからねー。 経典は全部、他国通訳の受け売り。 しかも戦争協力しまくって、仏教の根本である戒律を平然と破るのが高僧と言われているんだから。
195 :
74 :2012/10/11(木) 20:24:42.48 ID:lDH4h2yU
秀治様、みなさま あほなのでまだ仏教だと思ってたりしますがwどうやらちがうみたいですね 他力野郎ですがのぞいたり、ついつぶやいたりしつつこれからも楽しませてもらいます(^^ゞ
瞑想は次のように展開する。 雑念→感覚が鋭敏になる→非想非非想処→魔境→滅尽定→ X 禅定になれば、いきなり非想非非想処に入る。1枚であり3段階などない。 魔境は人によって様々かもしれない。過去生を見るとしたらここだろう。 滅尽定はまったくの虚無。感覚も記憶も時間も脱落。これも1枚。
197 :
神も仏も名無しさん :2012/10/11(木) 20:44:14.72 ID:0U5iiEe3
>>196 そりゃ、君の体験と君の推測じゃないの?
仏教はそう考えない。オイラが思うに非想非非想処も滅尽定も体験してないと思うよ。
滅尽定に入れるのは少なくともアルハットですよ。一応、解脱者だ。
非想非非想処に入れるなら、神通が使えるはず、使える?
ここで『梵網経』が有効に働く、ちょっとした三昧体験をするとそれが真実の境地として、我と世界の関係について見解を持つ。
これが六十二見として類型化されるもの。それに他ならないと思うよ〜
198 :
神も仏も名無しさん :2012/10/11(木) 20:57:19.70 ID:3j+VR9ZE
暇人も、(昔ながらの彼だとすると)頑固だからねぇ・・(^^;) ま、他人(ひと)のことは言えんが・・・w
199 :
神も仏も名無しさん :2012/10/11(木) 20:58:23.42 ID:g9n3K18+
諸々のことがらにナムアミダブツと頭をさげるのが仏道だ!
>>193 その部分 → (直前の)哲学的な思索
個人的な瞑想体験から、62見が瞑想体験によるものだとは到底思えない。
同じ頃、ギリシャ哲学が盛んだったし、中国でも諸子百家が活躍している。
釈迦の時代の思想を整理しただけかもしれない。
201 :
神も仏も名無しさん :2012/10/11(木) 21:04:43.11 ID:0U5iiEe3
>>200 神通ないんだよね。それでそういうこと言ってもね。
だから、ちょっとした三昧体験を勘違いしてるだけだと思う。
そこで、聞くけど、君の師匠は誰?
師匠に、君の体験は滅尽定だって認定してもらったかい?
それとここで体験で語っても仕方よ。
それが確認できませんので、要するに君を信じるか信じないかになってしまうから。
>>197 >非想非非想処に入れるなら、神通が使えるはず、使える?
こういう問いは、本の知識だけで、何も体験したことがないから。
釈迦や釈迦の高弟が、神通を使えたら、食中毒で死ぬこともないし、
敵対する集団に殺されることもない。
ブッダの人と思想(NHKブックス)/中村元(1998/07) 40ページ参照 非想非非想処 想うのでもなく想わないでもない境地 滅尽定(想受滅定)という最高位の禅定の 一歩手前の境地であるといわれております 51ページ参照 四如意足(四神足) 神通力の基礎となる力で 意欲、努力、思念、観察へのそれぞれの集中力のことで それを修めて悟りを開いたというものです 意欲、努力、思念、観察は悟りへの必須の条件でもあります
204 :
神も仏も名無しさん :2012/10/11(木) 21:10:17.90 ID:3j+VR9ZE
>>202 w
縁起が解ってない・・ ( ´,_ゝ`)pu
>>201 あなたがどう思おうがあなたの勝手だが、
瞑想体験を話したのは62見がありえない禅定だからだよ。
こういうウソはほっとけないタチなんだね。
206 :
神も仏も名無しさん :2012/10/11(木) 21:20:12.72 ID:0U5iiEe3
>>202 いや〜、つか無茶苦茶だは
流石ヌーエイジ、守りたいのは君の体験が滅尽定だって信念だけでしょ、そこにプライドもってる
神通使えても、業には逆らえないんですよ
それと神通ってのは、因果から超然としてなんでもありになるわけじゃないから
だから、君の体験も信念も否定しないけど、それを仏教と言わないでくれないかなあ
207 :
神も仏も名無しさん :2012/10/11(木) 21:24:04.91 ID:0U5iiEe3
>>205 それって要するに伝統仏教ほとんど全て否定してるようなもんだぜ
全てのテーラワーダと禅など特殊なものを除く部派と大乗すべてだ
現代の仏教の聖者のほとんども、そう語っているのにだ
さて、神通も使えない誰が師匠かも言わないネラの話と、
経典と一致するテーラワーダ・大乗共通の現代仏教の諸聖者の言葉どっちを信じるだろう?
オイラはもちろん後者だ
>>206 体験から言って、62見は禅定にもとづくものではなく、思想であり
単なる哲学ではないかと疑っているだけだ。
これが真の伝統仏教だ、などと言わないから安心してくれえ。
209 :
神も仏も名無しさん :2012/10/11(木) 21:36:29.89 ID:0U5iiEe3
>>208 それならせめてきっちり和訳全文読んでからにしてくれ。
片山訳を薦めとくよ。
君のは先入観先行で、話し合いとして掟破りだよ。
知らないものは語れないでしょ。
ここは体験から語るもんじゃなく、テキストに基いて語るところだから。
なぜなら、体験から語ったらその語りを信じるか信じないかにしかならないからなんだって。なんで分からないかな〜
まあ、恐らく自分が真実の体験者だと思ってるからだろうけど、その体験が正しいかどうか判定するために師匠や経典があるんだけどなあ。
>>207 もうちょっと冷静に話そうよ。
神通に拘っているけど、あなたが考えている神通力って具体的に何?
211 :
神も仏も名無しさん :2012/10/11(木) 21:45:14.01 ID:mj9PDjq0
>>206 >神通使えても、業には逆らえないんですよ
えっ、釈迦や釈迦の高弟は、業がつきたんじゃないのか
212 :
神も仏も名無しさん :2012/10/11(木) 21:45:56.58 ID:0U5iiEe3
>>210 オイラは冷静だぜ。
だからこそ『梵網経』読んでくれ。話はそれからだ。
憶測で語るじゃ付き合えない。
213 :
神も仏も名無しさん :2012/10/11(木) 21:48:28.43 ID:0U5iiEe3
>>211 業が付きたら、生きてないんだよ。
アルハットになって、死んで完全に業が尽きる。
もうちっと基本から学ばないと話し合いにならないんだ。
禅定体験がどういうモノなのか知りたいなら 仏教より、六派哲学の方が繊細で正確だよ ただ実際解脱できるかどうかは別の話ねw
215 :
神も仏も名無しさん :2012/10/11(木) 21:53:23.45 ID:3j+VR9ZE
216 :
神も仏も名無しさん :2012/10/11(木) 21:55:04.40 ID:0U5iiEe3
>>214 そこに仏教はあまり禅定に重きを置いてないことが表れていると思います。
そしてヒンドゥーは禅定主義であることも。
つまり、止だけで観、縁起がない。ここが重要。
フラウワルナーを始めとする文献学者の多くはこれが分かってないので、縁起の重要性も外道と仏教の違いもよくわかってません。
>>212-213 あなたが言い出したんだから、神通力ぐらい説明できるよね。
それから業は、悟り、解脱することでつきたんじゃない?
冷静なら、これぐらいのことは答えられるよね。
218 :
神も仏も名無しさん :2012/10/11(木) 22:06:51.85 ID:0U5iiEe3
>>217 他心通、他人の心を読むなど六種が六神通ですよ。
もうかんべんしてよ。もう少し分かってる人だと思ってたんで話したんだけど、何も知らないんで話してもしょうがない。
そのレヴェルで一々説明してられないって。
219 :
神も仏も名無しさん :2012/10/11(木) 22:07:58.29 ID:eXEsSQBJ
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禅定体験をそのまま解脱と勘違いしてしまうと言うのは神秘主義とかではよくある話。 禅定体験を絶対視してろくなことはない。日本で一番有名なのはオウム真理教がいい例だね。 しかも、禅定のノウハウ自体は、マジモンのチベット密教から取ってきたものだからたちが悪いw というか、個人的には、オウム真理教は、基本教義とかみると仏教ではないとは簡単に言い切れないと思うんだけどこのスレ的にどうなの?
221 :
神も仏も名無しさん :2012/10/11(木) 22:30:07.92 ID:0U5iiEe3
>>220 仏教でもないし宗教ですらない精神的詐欺だと思います。
松本チズオは、水俣病の被害者で政府の保証も得られなかったので、始めから政府と首都に復讐することが目的で、そのための人集め手段として仏教やヒンドゥーなどが用いられたと思います。
彼は禅定体験もあり、プラーナも使えたので信者は騙された。
途中から狂ってきて、シャクティ・パットなどはできなくなったそうですが、最初はできたそうです。
222 :
神も仏も名無しさん :2012/10/11(木) 22:36:42.40 ID:afRoJ1pR
>>221 >仏教でもないし宗教ですらない精神的詐欺だと思います。
佛教や宗教自体が「精神的詐欺」ではないといえるか。オウムとの「原理的相違」
は「皆無」である。
>>221 そのは、あれだけの事件を起こした後だから言えるとこです。
逆に言えば、事件を起こさなければ、他の新興宗教幸福の科学や創価学会よりは仏教と言える。
もっといえば、Wikipediaにある
>>オウム真理教の教義は、原始ヨーガ、原始仏教を土台とし、パーリ仏典を土台に、チベット密教の技法を取り入れている。
この記述を信用するなら、日本の既存の(生臭坊主がやってるような)仏教よりは、よっぽど仏教と言えるのでは?
そのは、あれだけの事件を起こした後だから言えるとこです。 ↓ それは、あれだけの事件を起こした後だから言えるとこです。
225 :
神も仏も名無しさん :2012/10/11(木) 23:13:21.75 ID:0U5iiEe3
>>223 いや、事件の後も今年の NHK 特集視るまで、始めは真面目にやってたけど途中から狂ったと思ってました。
でも、 NHK 特集視てちょっと調べなおして見方を改めたのです。
表面的にはそう見えるかもしれませんが、本質は詐欺ですね。
何人かの元幹部にも聞いた結果で確信してます。
226 :
神も仏も名無しさん :2012/10/11(木) 23:22:00.83 ID:88FKCKby
こども時代からして人格が悪魔じみてたもんなあ。 彼を矯正できるような人類っているのか?
>>225 本質が詐欺集団であったというのは、認める認めないでなく周知のことですが、
内情がどうかと言うのは、警察の手やメディアの目があそこまで入って始めてわかったことです。
世界宗教と言われる仏教キリスト教イスラム教だって蓋を開けてみればオウム真理教と同じかもしれません。
例えば、一番信者が多いローマカトリックの内部では拝金主義に塗れていたとしても私は驚きません。
日本の仏教の総本山だった比叡山延暦寺では、破戒僧ばかりだったというのも周知の事実です。
本質については、通常その宗教の信者だって知りません。だから、最初に基本教義ではとしたのですが。。。
ここからオウムにかぎらずカルトとまともな宗教との見分け方の話に持って行きたかったのですが(ニューエイジ的なものも含めて)話が大きすぎましたか・・・
それに宗教と詐欺は、そもそも切っても切れないものでしょう。
宗教活動自体は、腹の足しにもなりませんが、どうしても宗教の運営には、お金が要ります。だから、お布施は、どこの宗教にもありますよねw
228 :
神も仏も名無しさん :2012/10/12(金) 01:26:55.34 ID:8R602cqX
そもそも麻原って、仏教の僧侶(教師)資格持ってるの? どんなに無免許運転に慣れていても、正式に免許取得してない人はやっぱり危ないでしょ。 それと同じでは。
最初は仏教ではなく単なるヨーガ教室の先生だった 師はアガンダナンダとパイロット・ババらしい 仏教としての社会的なお墨付きを与えたのは、きな臭い噂もあるけどダライ・ラマが会談や推薦状を提出してオウム真理教を支援した事が大きい
>>164-165 >シャンカラなども仏教を否定し、中観派もヴェーダンーンタを含む全ての外道を否定しているわけだから。
>しかもヌーエイジさんたちは、シャンカラなど古典ヒンドゥー学者と仏教学者が
>互いに違うといっていることを無視して仏教とヒンドゥーの一致を語るが、
それは後代に“改変された仏教”
(あなたが信奉しているもの)ですね!
それとは相反してるということです。
本来では一致というか、本質的には否定し合う関係ではない筈だ、と。
>諸伝統及び多くの文献学者が一致して認める釈尊がアートマンを否定したことは認めず、
>マイナーな学説に依る。
マイナーどころか、逆にほぼ定説化してると思われますが?
“仏教とは無我にて候”、無我とはアートマン否定(アートマンはない)のことと説明されたのは、
かなり昔の一般的な仏教解説としてでしょう。今時では殆ど見ませんが・・・。
今度、その内に機会を見て、学界ではマイナーな説なのかどうか(定説化してないのか)?
について確認してみたいところです。
このヴェブページに紹介しただけでも、ご覧の通りです。
『もっとも仏教の無我説の内容も、時代により、学派によって、さまざま』(松本史郎)
『しかし少なくとも初期の仏教は「我が存在しない」と主張したのではない。』(中村 元)
『しかし上述の経には、「それ(五蘊)は私の我ではない」と言っているのみであるから、五蘊以外に「我」
があると考えれば、問題は別になろう。したがって離蘊の我がないと、積極的に否定することは勿論でき
ないことである。』(平川 彰)
『このブッダの批判的立場が、仏教教団の発展に応じて、ブッダはアートマンの存在を否定して、無我す
なわちアートマンがないと主張した、と考えられるようになった。しかしながら、こうした後代の理解は、ブッ
ダの教えを誤るものというべきだろう。』(早島鏡正)
『しかし、最初期の仏教では、無我説ではなく、非我説が説かれていたと見るべきである。無我説は、そ
もそもアートマンなるものは存在しないという、高度に形而上学的な議論を骨子とするものであり、釈尊に
は似つかわしくない。』(宮元啓一)
『ところが、やがて此の“アートマンでないもの”ということが“アートマンを有しない”という形容詞として
用いられ、我の存在の否定の意味をもつようになり、これが、部派佛教の考え方となったのである。』
(武邑尚邦)
『実際には、阿含経典では「無我」は「自己でない」の意で用いられていることがわかるだろう。ブッダが
「自己はない」は説きえないことがはっきりしている今となっては、これは当然のことだが。』(石飛道子)
--及び
>>145 参照
http://houjugusya.web.fc2.com/anatman.htm
>>227 >それに宗教と詐欺は、そもそも切っても切れないものでしょう。
>宗教活動自体は、腹の足しにもなりませんが、どうしても宗教の運営には、お金が要ります。
>だから、お布施は、どこの宗教にもありますよねw
「信」+「者」--「信者」(しんじゃ)
と書いて““儲かる””と呼ぶから!!
>>228 (大川のように)「仏教を教えたのはこのわたしだ!」くらい言われたらどうしょうもない。
仏教を説いた私が何故、いちいち僧侶資格を採る必要がある?と。
以前、
料理評論家でタレントの服部 幸應先生に調理師免許がないとマスコミが突いたところ、
先生は、「調理師免許試験問題をつくっているのはこのわたしだ。
その私にどうして調理師免許が必要なんだ?」って逆ギレされたとのこと(笑)
>>223 >>>オウム真理教の教義は、原始ヨーガ、原始仏教を土台とし、パーリ仏典を土台に、チベット密教の技法を取り入れている。
>
>この記述を信用するなら、日本の既存の(生臭坊主がやってるような)仏教よりは、よっぽど仏教と言えるのでは?
アメリカは第二次大戦中から、ドイツから(亡命ユダヤ人科学者などから)様々な軍事・科学技術を取り込んだわけですが、
「アメリカってナチス的と言える」のでしょうか?
>>229 >社会的なお墨付きを与えたのは、(……)ダライ・ラマが
ダライ・ラマって日本人にとってそんなに権威とが思えません。そんなお墨付きがあっても、
日本の一般市民にとっては、見たまま、100%胡散臭い狂人で、鼻で笑って、相手にして
いませんでしたよ。
個人的に大きいと思っているのは、学研のムーではないかと。他の世間一般人が鼻で笑うことも、
ムー民は真に受けて、コスプレ次元のことをリアルに取り組みます。麻原は基本的に、ムー民と
呼ばれる系統の人種以外にはまともに相手にされず、基本的に、一般人にはお笑いの種でしかな
く、それでメディアも面白がって囃したててたくらいです。ところが、反対に、そういった世間
の連中は、ムー民系オウム信者のヤバさ(カルトの危険性)に思い至ることがなかった。火種自
体は麻原とその信者で、油を注いだのは、危険性に気付かずに、煽った世間の連中です。
>>226 >彼を矯正できるような人類っているのか?
サイコパスは、人間としての感覚レベルで、他者の痛みというものが無感覚(理解できない)
ので、つまり、良心が欠けており、一般人の考える良識というものが通用しません。
ところが、日本人は村社会ゆえ、「自分の常識は、相手の常識、世の常識」という前提で社会
が回っているという感覚で生きているため、全くの価値観的に異質な人間を相手に行動するこ
とが下手ですし、むしろそういう「価値観は相対的」という一歩引いた態度を取る人間をバッ
シングして排除しようとするような社会性向すらもっています。なので、麻原のようなサイコ
パスが出現したとき、良心なき人間が存在するという前提を元に、その暴走を止められるよう
な社会構造を持っていなかったし(原発も、事故が発生するという前提を口にすること自体が
罪深いとするのと同じ社会心理構造ですね)、むしろ(結果的に)助長したとすら言えるでし
ょう。警察の上層部が未然に動かなかったのは、要するに社会性を反映していたことになりま
す。
>>234 >日本の一般市民にとっては、見たまま、100%胡散臭い狂人で、鼻で笑って、相手にして
>いませんでしたよ。
これは麻原のことです。ダライ・ラマ法王のことではありません。念のため。
>>232 宝珠愚者氏
>「信」+「者」--「信者」(しんじゃ)
>と書いて““儲かる””と呼ぶから!!
確かに、気付きませんでした。Σ(゚д゚;)
>>235 ダライ・ラマだって相当胡散臭いよ…
日本の仏教関係者もそうだけど
未だにオウム真理教の総括が出来ていない。
オウムイコール絶対悪で思考停止してる。
俺はオウムが金剛乗の解釈を誤ったとか、
麻原ペテン師だっただけではすまされない
問題がまだ残っていると思う。
ダライ・ラマだって相当胡散臭いよ… ブッダだって相当胡散臭いよ… このように原点へ、さかのぼっていくと 隠居先生と同じような論法になる ような気がする
>>239 いや…僕が言いたかったのは
少なくともダライは白人向けのおもちゃだって事
>>240 「原点へ、さかのぼっていく」と言う事ではなかったんですね ス マ ソ
242 :
暇人 :2012/10/12(金) 07:44:37.66 ID:XpDrphY3
243 :
1/2大滝秀治 :2012/10/12(金) 09:19:12.23 ID:sYGvmiW3
釜ヶ崎からの朝帰りで、眠いのであらかじめ乱筆失礼!
<二相の実践的相即>
>>152 >数息観の実践とか 禅定の実践などについては どのように考えていますか?
アタシのお師匠様は、中国なら趙州従諗禅師ですし、日本なら至道無難禅師です。
両師匠には日常的にしごかれております。ぜいたくですねw
また、ごく近所にある菩提寺(臨済宗)の和尚にもお世話になっております。
早朝坐禅で、わたしも数息観や結跏趺坐は当然の基本と思っていました。
ところが、驚いたのは『五木寛之 仏教への旅』で見た慧能禅師の光孝寺での修行僧たちの自由な坐禅姿ぶり。
オーソドックス?スタイルの僧もおられますが、形式に捉われず、団扇で扇ぎながらブラブラ自由に瞑想している!
[外相を離るるを禅となし]の慧能の頓悟禅ならではの自由スタイルでしょうが、
ちょっと新鮮なショックで、眼からウロコでした。
http://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2011030119SA000/?spg=P200800007000000 唖然としましたが、各人がもっとも集中しやすい頓悟スタイルなのが当然かもしれません。
ときどき、団扇がピタッと止まるのが印象的でした。
244 :
2/2大滝秀治 :2012/10/12(金) 09:22:46.57 ID:sYGvmiW3
で、実践ですが、
「坐水月道場(色即是空) 修空華万行(空即是色)」
⇒<出世間のまなざしで、世間の只中で慶安に遊ぶ(生きる)>ですから、
坐るときも、日常の仕事も遊びもエッチも、釜ヶ崎でも、TPOが変るだけで、同じです。
変えようがありません。
即ち、<二相の実践的相即>(*←アタシのキーワード!:中論25-19)です。
*但し!一即多とか、法界は一味だ(
>>78 )とかの華厳的思想→不二一元論などの、あんなチンケ思想ではありません。
生きる(存在)は遊びですから、慈悲とか功徳とか回向だとかの、肛門が痒くなりそうな構えて御立派で御大層な意識なんて、
まるでありません。
やりたいようにやっているだけですよ。
ただ、煩悩あればこその「遊び」ですから、“二念を継がず”は意識しています。
最終的には、もうそろそろいいかなと思ったときは、周囲に迷惑をかけないためにも、
山中で断食で変相(ゲームオーバー)することに憧れています。
龍樹や空海さんやジャイナ教の真似ですけどねw
熊やカラスなどの餌として役立てばいい。
そうです、『ニンゲンは犬に食われるほど自由だ』!
ガンジスの川辺でくたばっているオヤジなんか『なんてダンディな奴だ。』!(藤原新也「メメント・モリ」p20,22、28)
めっちゃんこカッコよくて、このオヤジに満腔の共感あるのみです。
245 :
神も仏も名無しさん :2012/10/12(金) 09:23:52.47 ID:ZJRt3jmA
「開祖・教祖の盲信」という病的心理が、すべての宗教に共通する要素。 宗教の信者にとっては、己の宗教の開祖・教祖のみが正しく、崇拝すべき対象 なのである。 この点で、伝統宗教も所謂カルトも、何らの相違もない。
246 :
大滝秀治 :2012/10/12(金) 09:39:00.81 ID:sYGvmiW3
>>143 ⇒
>>103 ・回向による直接現実(無功徳:達磨)における無量因無量果の縁起の現実(あるがまま)の変容に容喙できるのかの問題と、
・回向による間接現実における関係者の人格形成(good mind)への影響とは別問題です。
回向心は世間での二項相対の善き事を願う祈り→信仰です。
あくまで、間接現実=世俗諦(*勝義は諦ではありません)での様相です。
善悪、美醜、快不快の二項相対感情です。
しかし、当然、善悪を捨て去らず、塵も離れていません(Sn.520参照)
いくら世間で功徳を積んでも、縁起の直接現実(出世間)では「無功徳」(達磨)です。
回向はあり得ません。
なぜなら、功徳と分別したとたんに功徳ではなくなるからです。
功徳は功徳ではなく、回向は回向ではありません。
ゆえに、功徳・功徳といい、回向・回向というのです。
ゆえに無功徳であって、回向そのものが成り立つ余地がありません。
回向は世俗諦的妄想(good mind)です。
247 :
神も仏も名無しさん :2012/10/12(金) 09:47:08.72 ID:ToeCFdZm
>>246 >246 名前: 大滝秀治 Mail: 投稿日: 2012/10/12(金) 09:39:00.81 ID: sYGvmiW3
この方の語ってるのは、仏教ではなくこの方の世界ですからご注意くださいね。
248 :
神も仏も名無しさん :2012/10/12(金) 09:50:15.96 ID:ZJRt3jmA
葬儀や回向とは、他者の死を目前にして生じる、生者の生存本能から発する 「死への恐怖」を癒すための心理現象。 死者にとっては、実は、何の関係もないのである。
>>152 です
> 龍樹や空海さんやジャイナ教の真似ですけどねw
例えば
バラモン(ヒンドゥー)などの瞑想でも
見た目の形式などに、こだわらなければ良い
と言う事ですね
以前に
クンダリニー / ゴーピ・クリシュナ(著), 中島巌 (翻訳) / (1987/01)
の書籍を、ご教示してくれた人が
大滝秀治さんだったのでしょうか?
人違い、勘違いだったら ス マ ソ
250 :
1/2大滝秀治 :2012/10/12(金) 09:56:01.38 ID:sYGvmiW3
>>146 >それはまだ最終的な境地ではないんだよ、という文脈の批判的見解へと続くための文章なのに、
>なぜ、梵網経の語り手(それが釈尊自身>であろうがなかろうが)がその文章自身で批判されなきゃならないのでしょうかという ことです。
<その文章>とやらが直接現実=勝義表現として落第だからです。
またまた〜御冗談をw、このあたりは、このスレのすれっからし住人なら分かりきったことでしょ?
>『深遠で、見がたく、了知しがたく、寂静で、離れており、思考と思惟とを越えており、微妙で、賢者だけが理解できる諸法』←成りすまし如来さんの見解ですよ。
この経のいう62見はあくまで間接現実の二項相対論の範疇における謬見で直接現実(勝義)ではない、ということはお分かりですね。
それを超克すべきアンチテーゼは直接現実=勝義表現でなければならず、
それをあえて(中論22-12,18-9参照)言語で示すなら四句第4<非有非無>の間接否定形式が限界です(中論18-6・8・11)
この>『〜』の二項相対分別表現はありえないのです。
こんなのは直接現実(勝義)ではありません。如来さんに相応しい表現ではありません。
無分別智による縁起の直接現実は、ただただ無分別智直覚するのみであって、上記の如き二項相対分別表現はありえないのです。
その代表は三世緒仏までの般若心経であり、ウダーナ8-1の境地表現です。間接否定形式。
251 :
2/2大滝秀治 :2012/10/12(金) 09:58:10.47 ID:sYGvmiW3
>問題は、その境地にラベル(商標)を付して第三者に語る場合に、本当に、「これぞ仏教の縁起である」とか >そういうあたりで、適正ではない可能性があるということです。 >良いもの=仏教(というブランド・ラベル)、悪いもの=非仏教と対応させて、 >固執するべきではないと思います。 ???何を言ってるんですか??? 『適正』?あなたのいう仏教とやらは世俗ベッタリ価値観の俗物仏教ですか? あなたには以前に言ったように、仏法は無理です。すぐに下山せよ! アタシは故川上雪担老師の『仏教というもとありもしないもの』 という卓見に満腔の共感の意を表明します。(仏教議論スレッド44 374). 仏教などありません。 故川上雪担老師から <『法をとく法師に ころせころせわか身をころせころしはて なにもなきとき人のしとなれ (至道無難師) 実にこういう人皆無です、仏教というもとありもしないものを知ったか振りして、 なにしろ生噛り中途半端でとくとくとして法を説く人。』>と評されても甘受すべきでしょう。 寝ます。
252 :
神も仏も名無しさん :2012/10/12(金) 10:02:41.32 ID:ToeCFdZm
禅でいくなら、こんなとこで語ってても仕方ないと思うんだが
まぁ血盟団事件を起こしたようなトンデモボウズ未だに崇敬するのが、日本の異常な仏教ですしなw しかも禅宗の高僧が弁護に回るという。 仏教の基本が分かってればやらないこと。
254 :
神も仏も名無しさん :2012/10/12(金) 10:19:56.65 ID:ToeCFdZm
>>253 日蓮は仏教じゃないので、日蓮系は仏教として扱わないでください。
いつでも出来の悪い僧はいるし、現代日本仏教はほぼ形だけしか残ってないので、それを云々しても
256 :
神も仏も名無しさん :2012/10/12(金) 10:53:18.45 ID:ToeCFdZm
>>255 仏教じゃないですね。日蓮が仏教ならオウムも阿含宗も幸福の科学も仏教でしょう。
>>255 仏教だよ。
でも自分が気に入らないから仏教カテに含めたくない、というおかしいのが毎度……。
>>256 例えばほかの真言宗とかは仏教なんでしょうか?
259 :
神も仏も名無しさん :2012/10/12(金) 11:00:25.04 ID:ToeCFdZm
>>257 いや、思えないな。オウムそっくりだし。
動機が我だし、釈尊・三宝に帰依してないで自分に帰依だは、攻撃的排他的だは。
そこらへんありえないでしょ。
日蓮も仏教だって認めるなら、オウムも仏教じゃないの?
260 :
神も仏も名無しさん :2012/10/12(金) 11:02:23.20 ID:ToeCFdZm
>>258 所謂、十三宗のうち日蓮以外は仏教だと思います。
すべての宗教は、新興宗教だった ある程度の規模を持つ宗教団体に成るためにはカルト的要素は不可欠 仏教は、そういう要素がキリスト教などに比べて少ないとは言っても、皆無ではない それに、日本の仏教はそもそも聖徳太子が明らかに政治的な理由で持ち込んだモノだから 見方によっては、日本の仏教は宗教としても危ういですね。 日本で一番信者が多いとされる、浄土真宗の開祖は政治家である聖徳太子を崇拝してるって言うのもおかしな話。 オウムが仏教かどうかは議論があると思うけど、鎌倉仏教の一派としてオウム真理教見たいな宗教が起こっていたら 現在ではそれなりの仏教の宗派になってた事は、異論はないでしょうw
262 :
神も仏も名無しさん :2012/10/12(金) 11:07:50.39 ID:YObBsOX1
宝珠さんが
>>160 をスルーしたのは意図的かな?
自分の考える「アートマン」は否定されてない、って発想なのか。
解脱への道を教えはするけど、アートマンについて別に語らなくてもいいや、
と釈迦が判断してたんだろ、と言っていた記憶がありますが、
でもそれは釈迦にとっても仏教徒にとってもシャンカラにとってもヒンドゥー教徒にとっても
知ったことでは無いんですよ。彼らの思想においては別に言及しなくてもどうにかなる、という代物ではないんです。
諸宗教そのものは間違い含んでるけど、メソッドやってれば、それなりに真理に近づくだろ、
という「諸宗教に真理を認める」感性が、宝珠さんの発想に繋がっていると想像してますが。
ある主張や主張の仕方が、本人や相手にとっては何を意味することになるのか。
それを考えようとしないからパッチワークになるんですよ。
263 :
神も仏も名無しさん :2012/10/12(金) 11:09:46.80 ID:ToeCFdZm
>>261 >オウムが仏教かどうかは議論があると思うけど、鎌倉仏教の一派としてオウム真理教見たいな宗教が起こっていたら
>現在ではそれなりの仏教の宗派になってた事は、異論はないでしょうw
これからなりそうだから恐ろしいんだけど。
きっとなめてるけど、松本チズオは相当、切れるよ。流石に三昧に入れるだけはある。
彼は教団を残すためにいろいろ巧妙な手段をこうじているように思う。子供を一杯作ったのもそれでしょう。
日蓮宗みたいになる可能性は大。日蓮宗も神通はあるんだよなあ。
世俗権力の争いを思いっきりやってる宗派も昔から多いしね。 日本の僧侶に、どこぞの達磨さんみたいに天皇あたりに向かって「お前らがいくら寺建てたりしようが、そんなの功徳じゃねえし」って言ってやったような人物いないし。
>>255 「仏教」をどう定義するかによるな
歴史上の釈迦が説いた教えのみを信仰する宗教と定義するなら、地球上にそんな宗教は残ってないw
その教えを発展、変化させていったものを含めて良いなら、上座部、大乗なども仏教となる。
とうぜん、日蓮もその系譜にあるのだから、仏教と言う事になろう
ただ、どこまでの「変化」を認めるのかと言う問題もある
四諦八正道を基準とすれば、日蓮が絶対視した法華経にもそれは記述されているので、ギリギリ仏教
比丘250戒を守っているかが基準と言われれば、日蓮は仏教じゃなくなるが、それを言ったら日本に仏教は無くなるw
極々一般的な日本人の判断基準としては、日蓮は仏教だろうよ
結局、
>>254 が自分の好きな所に境界線を引いたってだけの話だよw
余談だが、阿含宗は新興宗教にゃ違いないが、仏教の系譜につらなるものだと思うね
ただ、オウムや幸福の科学は、教義の基本となる部分に仏教以外のものが多すぎる。
仏教の教え「も」取り込んでいる別の宗教と言った方が良いんじゃないかな。
266 :
神も仏も名無しさん :2012/10/12(金) 11:14:36.70 ID:YObBsOX1
>>257 多様な方便を認める大乗仏教のコンセプトを完全否定しているので
少なくとも大乗仏教では無いですね。
もちろん大乗経を使っているので部派でもありえないでしょう。
ごり押しするなら「法華経を尊重しろよ」だけにしておけばよかったのです。
勢いあまって禅や念仏、密教の実践そのものを完全否定ですからね。
日本の他の伝統仏教だって、道教や神道とごっちゃだしね。
>>266 大乗仏教自体、自分達以外の考えを小乗と見下していってる時点で、
おもいっきり人の事言えないわけだがw
>>263 たしかに、これからの事はわからないね。
それに、麻原が生きてる間に、こういう事件が起きたからドンでもなく胡散臭いおっさんって事になってるけど
既に麻原が死んで神格化が更に進んだ教団が、この事件を起こしていたらと考えるととても恐ろしい。
釈尊にもイエスキリストにも言えることだけど死人に口なしw 実際の人物は、麻原と対して違わないかもしれない(これは言いすぎかw)
>>266 >多様な方便を認める大乗仏教のコンセプトを完全否定しているので
そんな事言ったら、大乗仏教だって、上座部仏教のコンセプトの否定から生まれただろw
>勢いあまって禅や念仏、密教の実践そのものを完全否定ですからね。
法然の念仏だって、称名念仏以外を全否定するところから始まってるぜw
271 :
神も仏も名無しさん :2012/10/12(金) 11:21:11.32 ID:ToeCFdZm
>>265 三宝帰依と四法因という基準があって、
しかも法脈があるのが仏教。
日蓮はこのいずれもないでしょう。
オウムも幸福の科学もない。
阿含宗はたしかにチベットから伝授受けてはいる。
>>247 了解しました。
こいつは華厳を冒涜したのでオールスルーします。o(^-^)o
273 :
神も仏も名無しさん :2012/10/12(金) 11:24:51.36 ID:ToeCFdZm
>>270 >そんな事言ったら、大乗仏教だって、上座部仏教のコンセプトの否定から生まれただろw
否定してないよ。より深く広いだけ。
>>勢いあまって禅や念仏、密教の実践そのものを完全否定ですからね。
>法然の念仏だって、称名念仏以外を全否定するところから始まってるぜw
否定はしてない撰択してるだけ。しかも法然上人ご自身は聖道門・菩薩行を歩んでおられるし。
あの混迷した時代にはあの方便が有効だったということだと思う。
274 :
神も仏も名無しさん :2012/10/12(金) 11:25:09.45 ID:YObBsOX1
>>270 否定の内実・理由が異なります。
法然の場合、真言を唱える事や、その他の修行・善行によって
行くことができる仏国土があることそのものは認めています。
日蓮のような「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」ではありません。
>>271 >日蓮はこのいずれもないでしょう。
あるぜ?w
そもそも日蓮自体が、自分のことを天台宗の僧侶だと自認してるし
「日蓮宗」と独自の宗派だと言い出したのは後世の弟子だ
それを「無い」と言い出すなら、鎌倉新仏教は全員仏教じゃねえなw
逆に聞こう。自分の好みでこれは仏教じゃない、と決め付ける馬鹿にとって、 仏教って具体的に何?w
奈良時代や鎌倉時代に一部の上流エリート以外 仏教もくそもない。 生きるのに庶民は精一杯やがな。 ましてインド的思惟思考など 奈良王朝の貴族やら天皇、 鎌倉時代の祖師からして出来ていない。 明恵上人がかなり近いとこまで行った。 あとは叡尊ぐらいなもの
>>273 >否定してないよ。より深く広いだけ。
その言い方すれば、法華経だってそうだろw
>否定はしてない撰択してるだけ。
物は言いようだなw
日蓮だって、末法の時代に合わせて法華経を選択しただけだぜw
>>274 日蓮だって、他の経典で、正法・像法の時代に他土にいる人間が成仏できることは否定してないぞw
末法の娑婆世界で有効なのは法華経のみだと主張しただけで
279 :
神も仏も名無しさん :2012/10/12(金) 11:36:29.86 ID:ToeCFdZm
>>275 天台宗で嗣法の師とは見なされてませんよね。
道元禅師も栄西禅師もきっちり嗣法の師とされてますよ。
法然上人も天台内で嗣法の師だった。
確かに親鸞上人は微妙だけど。
>>276 そりゃ、自分の好きな教義がギリギリ含まれるような定義だろw
やってることは日蓮そっくりなのに、自覚が無いんだろうよw
砕邪輪? で、明恵の視点からみると… 菩提心を捨てた法然は 「僧形の悪魔」 正しい仏教の基準は 「決意する菩提心」と 「行動で実践される菩提心」 の二つの土台の上に立脚されているもの。 こんなん簡単に理解できるやないか? あ〜ん?
282 :
神も仏も名無しさん :2012/10/12(金) 11:44:45.18 ID:ToeCFdZm
>>280 いや、だから三宝帰依、四法印、法脈ですがな。
これは大乗小乗共通の仏教のメルクマールですよ。
それで大乗は方便が多様なので、ほとんどなんでも包括されるけど、
我に基づくような教義は、入らない。それを入れたら外道と変わらない。
やはり、縁起・空性から逸脱してるのは入らない。
>>279 そりゃ、当時の天台の教義が気に入らなくて別れして出てきたんだから、無いだろうよw
だから日蓮は「形式上は天台宗で学んだが、内心では天台大師智に直接師事したんだ」と言ってるんだしな
だがそもそもそんなこと言い出すなら、上座部から見て大乗の師は、は「嗣法の師」とは見なされてないだろw
かなり上流でぶった切られてるのに、それ以降がつながっているかどうかが重要なのか?w
素直に、「感情的に仏教だと認めたくないだけ。俺の煩悩です」といえばいいのに、 破綻する理屈ごねようとするからブーメランになってるなw
285 :
神も仏も名無しさん :2012/10/12(金) 11:48:11.52 ID:ToeCFdZm
>>281 それはかつてはそう思っていた。
しかし、今は違う。
法然上人は菩提心を捨てたわけでなく、菩提心がなくても有情を救う方便を教えたと考えます。
あの時代、菩提心に基づく普賢行に入れる有情は少なかったでしょう。
チベットでマニ車や仏塔巡礼が推奨されるのと同じ。
286 :
神も仏も名無しさん :2012/10/12(金) 11:51:14.18 ID:ToeCFdZm
>>283 >だがそもそもそんなこと言い出すなら、上座部から見て大乗の師は、は「嗣法の師」とは見なされてないだろw
そりゃ大乗は上座部はいなだろうから、大抵、有部か大衆部だよ律は。シナ・日本は四分律だけど。
法脈は重要。それを重視しない伝統仏教はないでしょう。
なぜなら、聖者のサンガから教えを受けないと法を学んだことにならないから。
>>284 煩悩の汚泥のなかからしか
「菩提」という芽は出ない。
煩悩を絶った「腐った種」などに何の用があるか阿羅漢。
阿羅漢は「敗種」「盲目」「無明」ですわ
もっともっと煩悩を燃えさからせ
「大欲」を起こして「菩薩」たれ。やね…
とにもかくにも華厳を冒涜したドヤ暮らしのおっちゃんがいるので、
ここらで逃げます!
クルリε=ε=┏( ・_・)┛
>>286 じゃあ、現存の「仏教」は全滅だなw
釈迦直説の経典以外を信仰してるんだからw
289 :
神も仏も名無しさん :2012/10/12(金) 11:58:07.95 ID:YObBsOX1
>>278 無量義経の時点で、過去の説法(爾前経とされる無量寿経など)は真実でない、
とされていた、というのが日蓮の見解だったと思います。
他土、とはこの世界(サハー国土)ではなく、他の仏国土のことですよね?
>>286 学校の教科書レベルでも日本の仏教に正当性を与えたのは
戒壇院で鑑真が授戒をしたのは、最初となってるからなw
>>289 >無量義経の時点で、過去の説法(爾前経とされる無量寿経など)は真実でない、
>とされていた、というのが日蓮の見解だったと思います。
「それまでの教えは、真実を全部説いては居ない方便の教えだ」って解釈だね
>他土、とはこの世界(サハー国土)ではなく、他の仏国土のことですよね?
だね
考えてもどうにもならないことを考え、あれは上等こっちは劣っていると感情的になり……。 所詮、あたまでっかちの「ぼくがかんがえたただしいぶっきょう」を妄想して自分から苦しみ増やしてるだけじゃね、これ。
293 :
神も仏も名無しさん :2012/10/12(金) 12:16:58.78 ID:YObBsOX1
>>291 娑婆世界で他のやり方で様々な仏国土に行けることを否定したわけ
ではないので、法然とは違いますね。
日蓮は、他土にいる住人たちは、法華経以外の経典によって
そこに往生し、またそこで成仏できる、と書いているのでしょうか?
>>293 >日蓮は、他土にいる住人たちは、法華経以外の経典によって
>そこに往生し、またそこで成仏できる、と書いているのでしょうか?
そこまでは詳しく知らんがなw
ただ、「この娑婆世界は釈迦の担当地区なんだから、釈迦の教え=法華経で救われる。阿弥陀さんは西方浄土が担当なんだから、うちらとは関係ないよ。」とは書いてあったはず
ちなみに、浄土宗ではその辺どうやって解釈してるの?
阿弥陀さんは、西方浄土という担当の仏国土から、別人(釈迦)の担当の地域まで出張して救済活動をする事になってるの?
日蓮について人様に基本的なことを聞かないとわかんない無知なのに、否定とか(汗 こういう知ったかぶりの偏見での断定って、思いっきり・・・
296 :
神も仏も名無しさん :2012/10/12(金) 12:57:12.76 ID:8R602cqX
>>294 阿弥陀仏の最大の救いとは念仏者の臨終に迎えに来てくれて
極楽浄土に往生させてくれること。
他の世界にまで迎えに行けないと意味がない。
阿弥陀仏の光明は十方世界をあまねく照らす。
衆生が阿弥陀仏を念じれば阿弥陀仏も衆生を念じる。
衆生が阿弥陀仏の名をとなえれば、阿弥陀仏はそれを聞く。
>>296 改めて考えると浄土系は、仏教版バクティだなw
この世で幸せだったものは地獄に落ちること、についての考察 幸せの意味するところがこの前まで日本にも居た大地主が小作人から 物質的に搾取して得た幸せであるならば地獄に落ちるのも当然である。 もしくは搾取して幸せを得たものは同様であるとするのも可である。が、 玉の輿と言う言葉もありそれが当時の幸せの概念であったかもしれない。が、 その様子を見て地獄に落ちろと思うのは当然でありましょう。 第二次大戦敗戦で結果的にそうなったので、まさに「神の見えざる手」である。 神仏の説くところの「幸せ」の概念がそのようなものである限りにおいて。
>>298 福音書にある山上の説教(マタイ5章2〜12節)、
平地の説教(ルカ6章.20〜26節)を何度も読めば、その理由がわかる。
神は、不幸な者を愛し、幸福な者を憎んでいるようである。
それが正義だからかもしれない。
達磨が「無功徳」と答えたのは、皇帝の心が功徳を意識したからだろう。 意識した瞬間に、その行為は自分の利益を計算した偽善になる。 福音書にも参考になる個所がある〜マタイ6章3節。 施しをするときは、右の手のすることを、左の手に知らせてはならない。
聖書を読んだらおそらく一字一句まで覚えてしまうだろうからあえて読まないんです
仏教徒であっても、聖書を読んで理解しておくべきだと思う。 時間があればコーランもね。損はしない。
>>299 不幸な人間が救われるのは当然であるべきですが、
幸福な人間を「裁く」のはいかにも一神教的狂信です。
ニーチェの言うところのルサンチマンです。
心貧しきは幸いなら、金持ちはさらに心貧しき者であり、
最も救われるべき対象ではありませんか?
それからね、偽善、偽善とやたら言いたがる人々がいますが、
もし、偽善で実質的に救われる人間がいるなら(現にいると思います)
偽善も大いに結構なことです
キリスト教はやたら愛、愛、愛と言いますが、 その心理の背景には常にいまわしき憎悪が秘められている。 そうでないと断言出来ますか? 本当はすべての人間が幸せになるなんて有り得ない… でも、精神的救いは万人に与えられるべきです。 貧乏人であれ、金持ちであれ、善人であれ、悪人であれです。 しかしキリスト教はそうはしません。 例の魔力、地獄の業火を小道具に使い、 天国をちらつかせつつ、いわば飴と鞭で 人々を奴隷にするのです。 よしんばキリストが神の子であれ、その信者の正体は悪魔なのです。 これがキリスト教の正体です
キリスト教は、あの惡魔としか思えないような旧約の神を 「愛」で再解釈するからな。人間を愛している上の行動として しかもただの愛ではなく、無限の愛。 仏教が否定している愛でないということも重要かなw
>>237 誰がこの漢字を考えたものやら?
ホント、図星という奴ですよねぇ!!(苦笑)
>>234-236 さすが不説さん、分析が鋭いなぁ・・・
>>238 たぶんダライラマは赤子のような無垢の心で、
仏道の先達として当然の支援(援助)を申し出たのだろうと、
この私は信じたいと思う。
>>250 aka 閻魔大師
>>『深遠で、見がたく、了知しがたく、寂静で、離れており、思考と思惟とを越えており、微妙で、賢者だけが理解できる諸法』←成りすまし如来さんの見解ですよ。
>
>この経のいう62見はあくまで間接現実の二項相対論の範疇における謬見で直接現実(勝義)ではない、ということはお分かりですね。
62見のことを評して「……賢者だけが理解できる諸法」と言っているはずなんですけど、違いますか?
>>251 >すぐに下山せよ!
あの、私は、立ち位置で言えば、「淀川長治」なのです(大御所という意味ではなくて)。
例えば仮に、北野武♀ト督が自分の映画を「これぞ白黒無声映画の究極、すなわちチャップリン映画である!」と豪語したとして、
それに対して淀川長治(チャップリン教の信者)≠ェ「あなたの映画はチャップリンとは言えないんじゃないの?」と評した場合、
「わかっとらん。あんたにメガホンを取る資格はない!」と言われても、【元からメガホンなんて手に取ってない】わけでして……。
>>246 >なぜなら、功徳と分別したとたんに功徳ではなくなるからです。
>功徳は功徳ではなく、回向は回向ではありません。
>ゆえに、功徳・功徳といい、回向・回向というのです。
>ゆえに無功徳であって、回向そのものが成り立つ余地がありません。
>回向は世俗諦的妄想(good mind)です。
言葉遊びですね。禅的発想というか・・・
そういうのも一つの境地なのかもしれせんが、
けれども所詮、ゴータマの仏教とは異なるものです。
>>262 あなたのこの指摘はズバリそのものにて、
この私は何の異論もありません。
仰る通りであると認めます。
>ある主張や主張の仕方が、本人や相手にとっては何を意味することになるのか。
>それを考えようとしないからパッチワークになるんですよ。
判ってて敢えてそうしています。
憎まれ役も必要かと・・・(言い換えればお節介という奴ですね)。
本音を言うと、相手のためというよりは、
偏った一つの見解に懲り固まることがないよう読者のためにです。
議論の相手はどうせ好きにすればいいのです。
>>160 については、
なるほどなぁ〜と感心し、ついそのまま読み過ごしていました。
特に悪しき意図はなし。
>>160 >仏教徒にとっては、アートマンは解脱とも関係しません。
>釈迦も言っていません。
認めます。
>その時点で、釈迦の脳裏に「アートマン」があったとして、
>それはシャンカラや他のヒンドゥー教徒にとってのアートマンと
>同一ではありえません。
本当にそうだといえるかどうかは判らないと思う。
アートマンに対する見解の相違、云々・・・というよりも、
異なるのはスタンスや“方法論”だと私は見なしています。
>解脱に関わらず、また様々なアートマン論(ヒンドゥーや貴方のと同じものもある)を持つ人々が
>そのまま輪廻を繰り返されている時点で、ヒンドゥー教におけるアートマンは否定されているのです。
ヴェーダの説く梵我一如を真に達成した聖者は当時、
表立った世界にはまったく皆無だったのだろう、と理解します。
当時のバラモンたちのやっていることやサーマディ/三昧の境地などは、
梵我一如の達成ではなかった・・・ということ。それをゴータマは指摘なされた。
これらはサーマディだけの境地にて当然、輪廻からの解脱には成功してないということ。
311 :
土手 ◆/DoteDqHSI :2012/10/13(土) 00:37:57.53 ID:8CWreOyU
>>160 >解脱に関わらず、また様々なアートマン論(ヒンドゥーや貴方のと同じものもある)を持つ人々が
>そのまま輪廻を繰り返されている時点で、ヒンドゥー教におけるアートマンは否定されているのです。
そういう割には、
仏教圏にババジのような数千年もの不老不死の聖者や
ヨガナンダのように、最後は自ら肉体を放棄し、
遺体の腐敗現象にてヨガの奇蹟を証明してみせるレベルすら皆無なのは何故?
一代はいるといって豪語するけれど、さっぱりその個人名が挙がってこない。
古代の伝説ではなくて、近代及び現存する事実としてどうなのか?
そういう不満と不信が私にはあります。
>>262 あなたくらい判ってみて頂けば、
私もホント、何もいうことはありません。
投稿してきて良かったなと思います。
>>312 横からすいませんが だんだん解脱とはなんのか分からなくなって来ました
文献の中にしか出てこない様な人物ではなく、近代現代で考えると
仏教徒ではないですがラーマクリシュナ 、ラマナ・マハルシ、クリシュナムルティ辺りが有名ですよね。
クリシュナムルティは、現代の仏陀と呼ばれるだけあって、かなり釈尊と思想的に近いと言われてますが
何を根拠に解脱者としているのでしょうか?
314 :
神も仏も名無しさん :2012/10/13(土) 01:29:40.09 ID:60qaB7yh
>>312 w
┐(´ー`)┌
或る会場が、「徒歩でいらしてください。車での来場はお断りします」と言ったとする。
このとき含まれるのは、(駐車場所が無いからなので)
「バイク」や「自転車」も、原則遠慮されるべきものだ。
「アートマン」や「真我」を設定する行為は、
≪「無我」じゃないじゃん。「非我」じゃんw 「我」が無いとは言われてないじゃん
→ 「バイクや自転車」は禁止されてないじゃんw≫
という台詞と同じだというのが、まだわからないんですかねぇ・・・。
だから、「文脈として無我」だと言っているんですけどねぇ・・・ ┐(´ー`)┌
315 :
神も仏も名無しさん :2012/10/13(土) 01:31:44.87 ID:60qaB7yh
おw またIDに7が入ったw リアルで艱難辛苦が続いてるんで、せめてもの慰めか・・・wwwww
>>314 ()の中まで考慮しても駐輪場の存在は否定されてないな
どちらにしても三段論法にすらなってない
あと、無我非我って言うのは手段である車より目的である「会場がない」「会場でない」で例えた方が適切だと思うよ
317 :
神も仏も名無しさん :2012/10/13(土) 02:23:32.84 ID:60qaB7yh
>>316 だからw そここそがポイントでしょ?
否定されていないから完全OKと言えるのか?と。
状況から判断して、自転車もバイクも無理だよね・・というのが伝統仏教なんですよ。
>>317 >>完全OKと言えるのか?と。
OKなんて誰も言ってない
OKであると認めたら、非我じゃなくて有我になる
アートマンが「ある」とか「ない」とかいう形而上学的問題には、釈尊は一切触れなかったと言うのが非我の立場
319 :
神も仏も名無しさん :2012/10/13(土) 02:41:04.54 ID:60qaB7yh
>>318 宝珠&カラス&在家の話じゃなかったのか?
だったらワシが勘違いしてた。
上記の発言は全て白紙に戻しておくよwwwwwwwwwwwwww
>マールンキャーブッタ、ゆえに、わたしが説かないことは説かないと了解せよ。わたしが説くことは説くと了解せよ
>(出典 「毒矢のたとえ」477頁以下 中央公論社「世界の名著T バラモン教典 原始仏典」1971年11月20日第3版)
>>状況から判断して、自転車もバイクも無理だよね・・
釈尊が説かなかったことまで、勝手に判断してるアナタの言う「伝統仏教」と言う仏教は、釈尊の教えとしてはナンセンスと云えますね
>>319 あっそうなの オレも過去ログよく読まずに突っ込んですまんかったわ
と言っても、無我でもアートマンと矛盾せず説明できるとオレは思うけどな あくまで妄想の域は出ないと思うけど
322 :
神も仏も名無しさん :2012/10/13(土) 02:51:44.89 ID:60qaB7yh
>>320 言わんとするところは解る。
が、仏教で言う一切の中に「我」は有り得ず、一切の外は涅槃しかあり得ず、
「我」の入り込む余地は無い。
その意味で、(演繹的に?)「文脈として“無我”」とするしかないわけさ。
少なくとも、伝統的嗣法・教えの中で、「我」を認めた者はいない。
故に「無我」として継承されてきたわけだ。訳語(漢訳)として「非我」があるからといって、
「我」を容認する仏教はありえない。
それは、『縁起』というもの(考え方)が、それを許容できないからに他ならない。
「縁起」と「我」は両立しない、というのが、仏教の矜持じゃないのかな・・・。
>>322 >>「縁起」と「我」は両立しない、というのが、仏教の矜持じゃないのかな・・・。
仏教的にはね。「自州法州」などの例外はあるけど、釈尊もそれ以降の仏教徒も永遠不滅の「アートマン」を認めた事はない。
これは、非我論者、無我論者、外道の論者関係なく認める所だと思うよ。
非我無我の論点は、「認めた」「認めてない」でなくて、「否定した」「否定してない」の違い
「縁起」と「我」は両立しないかどうかだけど、シャンカラが両立させちゃってるから矛盾しない概念だと思うよ。
325 :
神も仏も名無しさん :2012/10/13(土) 03:21:28.85 ID:E0KTb2Mx
>>324 色々問題。
>「縁起」と「我」は両立しないかどうかだけど、シャンカラが両立させちゃってるから矛盾しない概念だと思うよ。
先ずシャンカラは非仏教なんで、持ちだしても体系が違いますので根拠になりません。しかもシャンカラは縁起を認めてないでしょう。認めてたら無我になるはず。
次に縁起と我が矛盾しないか、というより無我と輪廻が矛盾するでしょう。
これは確かヒンドゥーの無我批判で、無我なら何が輪廻するのかというような批判だったような。
それを逆手にとって輪廻を否定したのが和辻だったような。
で、我とか私という場合、勝義の文脈では無い、あるいは四句分別の否定で、あらゆる言語表現が成り立たないという。こちらが非我。
そうでなく世俗の文脈では我とか私という記号も用います。この意味で「自州」
そこで勝義の文脈では無我・非我、世俗の文脈では我というわけ。
それで輪廻の中で我という記号も、魂、霊魂、意識などという記号も用いられます。ただしそれらの記号はもちろん無我(非本質の仮設)で無常で空性です。
>>324 縁起したら「我」でいられないでしょw
>「認めた」「認めてない」でなくて、「否定した」「否定してない」の違い
だから、『文脈としての無我』なんでしょ。
「実際の所どうなのかわからんけど、(たぶん永遠にわからんのだろうけど)、
どうやら無さそうだよね・・。少なくとも、現状では、あると見做し難いよね・・。
ぶっちゃけ“無我”でいいよね・・・w」
ってことだと思うけど。
>>317 >状況から判断して、自転車もバイクも無理だよね・・というのが伝統仏教なんですよ。
ゴータマ当時のバラモンたちの遣り方ではダメだ、
というのが仏教の姿勢であるというのならば、この私も認めますよ。
しかし、それは“アートマンが無いからだ”とか
“ヴェーダが説くアートマン思想が間違いだから”ということにするのならば否です。
どうみても勝手に、
「文脈として無我」だということなどはできないでしょう。
逆に、文脈上こそ非我であって、
その真意こそは、「一切(内)においては無我で、一切外については無記」を説いたものといえると思います。
まっ、この私は正直いって“現存する伝統仏教”よりも、
ヒンドゥーと神智学の方が勝れていると見なしている立場です(
>>312 にも通じること)。
また残念ながら、本来のゴータマの教えがそのまま生きている仏教はないものと思いましたから・・・。
よって私は、本当は“我が在る”ものと見ていますけれども・・・。
仏教はこれを扱わなかったのです。
単に方法論の差異でしょう。
極論、別にヴェーダやアートマンを知らなくてもいい・・・。
そういう道だって当然ある。
>>319 >宝珠&カラス&在家の話じゃなかったのか?
三点セットですか?
>>322 >一切の外は涅槃しかあり得ず、
一応、念のために言っておきますが、
「涅槃」という言葉、及びゴール(境地)としての目的としての「涅槃」は、
何も仏教の専売特許ではありません。
ジャイナ教は当然の事、バラモンが目指すものも仏教と同義の涅槃です。
従って、バラモン教の立場からみたアートマンとは涅槃と完全に同義です。
ヴェーダのアートマンと仏教の説く一切外の涅槃とは同じものを意味しています。
ただ同一視したくない理由が仏教側(というよりはゴータマ側)にはあったということでしょう。
よって、仏典の『ウダーナ8:3』はそのままヴェーダのアートマンにも等しく該等します。
>>328 だからw
なんで、ウダーナのほか3つを無視するのか? とw
330 :
神も仏も名無しさん :2012/10/13(土) 03:45:00.59 ID:E0KTb2Mx
>>329 『ウダーナ』8.3 は『ウダーナ・ヴァルガ』26.21ギルギット本、チベット訳その他と同一ですね。
これは調べるべきですね。『ユガ論』にも引用されてるそうで。
>>310 >>327 わたしの主張は水野文献によっても確認できるものです。
参考:
『涅槃の語は仏教以前から存在したらしく、外教の説として現法涅槃論というのがある。ジャイナ
教にも涅槃(nivva^na)の語があり、バラモン教では大史詩マハーバーラタに涅槃の語が出るから、
その使用は仏教より後かもしれない。しかし涅槃と同じく生死輪廻を超えた悟りの境地として、バラ
モン教では古くから不死(amrta 甘露)の語があり、仏教でも不死は涅槃の同義語とされた。(p171)』
(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊)
『この点は、仏教以前の正統バラモン教が、ウパニシャッドにおいて、梵我一如を正しく知り、それ
を体験することによって、理想が達成されるとしていたのに似ている。ウパニシャッドでは梵我一如
の境を涅槃の語によって呼んではいないけれども、この境地は「非ず、非ず」(neti neti)と云われて
いるように、筆舌に尽くすことの出来ない大歓喜の自由境であるとせられているから、実際には仏
教の涅槃が意味しているものと、それ程違ったものではないであろう。然しウパニシャッドでは、実
際にはこの境地に到達した者が一人でもあったかどうかは議論である。(p126-127)』
(水野弘元著『原始仏教』02年第16刷/平楽寺書店)
>>313 >文献の中にしか出てこない様な人物ではなく、近代現代で考えると
>仏教徒ではないですがラーマクリシュナ 、ラマナ・マハルシ、クリシュナムルティ辺りが有名ですよね。
はい!
ラーマクリシュナは深いサーマディの甘美な世界に没頭して、
いっそ肉体を放棄してしまいたいものと切望する弟子のヴィヴェーカーナンダを窘めて叱りつけていました。
ラマナ・マハルシは、ゴータマの仏教が現存していない失望感から新しい希望を私に与えてくれた存在でした。
クリシュナムルティの良さは、宗教のカテゴリ(仏教もヒンドゥーも)を完全に脱却しているところです。
私は、それを可能にしたのは彼以外にみたことがありません。
>何を根拠に解脱者としているのでしょうか?
それは簡単にはいえません・・・。
というよりは、正直、客観的に第三者がこれとして簡単にわかるものではないと思います。
因みに、一般論やニューエージ世界ではクリシュナムルティは覚者扱いなのですが、
我々(一部の神智学徒)は彼の進化段階を知らされているので、決してそうは見なしていません。
その一歩手前の4.0段階イニシエートです。
それと、ID:N7PSlDdeさんの投稿全般には概ね賛同します。
>>331 訂正:
×「議論である。(p126-127)』」
○「疑問である。(p126-127)』」
334 :
神も仏も名無しさん :2012/10/13(土) 06:51:21.19 ID:dLbPdcMa
>>306 ダライ・ラマは、オウムから、だいぶ金もらったそうだよ。
>>303 地上の物は、すべて神の物ではないか。
どうしようが神の自由だ。それをルサンチマンなどと言うのは、
神にたてつく欲張り者だと思う。あれもこれも、というわけにはいかない。
偽善とは、1万円で10万円を釣ろうという詐欺であり、盗みである。
>>304 金持ちが精神的にも恵まれ、貧乏人が精神的にも貧しいままなら、
そしてそれが神の望みなら、人類はやがて滅びるだろう。
新旧の聖書は、愛と憎を、神と悪魔、天国と地獄に切り分けていく。
人生には、聖書と取り組む時期があったほうがいい。
337 :
神も仏も名無しさん :2012/10/13(土) 08:42:47.67 ID:kOvtzIuh
無我か有我かの問題は、いくら議論しても、答えが出ない永遠の謎だろう。 必要なのは、経典を乱読し、そこにあるわずかな手がかりを頼りに、 あれやこれやと想像をたくましくすることではない。ひとり静かに瞑想し、 自分の中に沈み込み、自分の中に探すことだ。体験することだ。 体験がなければ、経典の真の意味もわからない。
338 :
大滝秀治 :2012/10/13(土) 08:52:11.24 ID:hUO2vV5m
>>307 不説
>62見のことを評して「……賢者だけが理解できる諸法」と言っているはずなんですけど、違いますか?
賢者でも、成りすまし如来でも、ブッダでも、ましてやアタシでも、勝義(法)は『理解』不能です。
>>337 それは理想ですが無理です。
たいていの人々はただ単に瞑想の真似事しかできない。
しかもこの瞑想能力は万人に与えられてはいない
340 :
大滝秀治 :2012/10/13(土) 09:37:26.44 ID:hUO2vV5m
>>308 宝珠
>そういうのも一つの境地なのかもしれせんが、けれども所詮、ゴータマの仏教とは異なるものです。
・→『いくら世間で功徳を積んでも、縁起の直接現実(出世間)では「無功徳」(達磨)です』(
>>246 )
別のお方も『達磨が「無功徳」と答えたのは、皇帝の心が功徳を意識したからだろう。
意識した瞬間に、その行為は自分の利益を計算した偽善になる。』(
>>300 )と認識しておられます。
まさに見返りを求める取引になるからです。
・この構造はあなたが必死になって護持せんとするヒンドゥ崩れ丸出しの『業報輪廻転生論』と同じです。
ゆえにアタシは、『回向論』も『業報輪廻転生論』も一対の妄想として批判します。
両論とも、まさに『当然、善悪を捨て去らず、塵(倫理・道徳・法律など)も離れていません<Sn.520参照>』(
>>246 )
・『功徳は功徳ではなく、回向は回向ではありません。
ゆえに、功徳・功徳といい、回向・回向というのです。』(
>>246 )
上記は金剛般若経の説法です。ゴータマの本懐に最も忠実です。
これを『言葉あそび』というあなたは、間接現実(世俗)と直接現実(勝義)がまったく掴めていない落第生だからです。
顔を洗って出直すべきです。
341 :
大滝秀治 :2012/10/13(土) 09:47:03.25 ID:hUO2vV5m
>>337 >無我か有我かの問題は、いくら議論しても、答えが出ない永遠の謎だろう。
龍樹の中論の趣旨において問題は解決済みです。
<前スレ46>
920 :大滝秀治:2012/10/07(日) 23:15:21.33 ID:6Um4R3OG
無我と非我は、どちらなのか?ではなく、言語表現であることをふまえて(中論24-10)、<相の違い>だ。
こんな簡単なことでさえも、古代人のコピー至上主義者には掴めない。
もう散々書いてきたから、説明しない。
あらよっ!
縁起の直接現実(あるがまま)をベースにして、存在は二相にて掴み得る。
◎間接現実<分別知覚・記憶・判断の二項相対を通す> *世俗←分別相
@一切内 ・時間: 一切行無常(有⇔無の相対無) 空間: 一切法無我(有⇔無の相対無)★←無我(なし)
A一切外 無記
B間接現実からの直接現実の隔靴掻痒の示唆: 間接否定形式(四句第4:直指肯定不可)
非有非無 非無常非恒常 不生不滅、 不一不異、 非無我非有我★★←非我(〜でない)
*言語表記では、 <非(不)〇〇非(不)▲▲>という間接形式が直接現実を示唆できる限界。
◎直接現実<無分別智直接智覚による縁起の現(あるがまま)観> *勝義←無分別相
・〇〇〇〇〇 ⇒ (メタ空白) ←あえて空(知・不知も、沈黙・発言も不可:平常(無分別)心是道:あるがまま)
・無意味・無価値・無矛盾・無実体・無相・無分別の空=中道=時空際断(間接現実の空間・時間の“際”そのものが断たれている)
342 :
神も仏も名無しさん :2012/10/13(土) 10:04:15.26 ID:zh2EEB28
>>310 >本当にそうだといえるかどうかは判らないと思う。
……と、考えるのは、貴方の中で「バラモン、ヒンドゥー教の」アートマン論が相対化されているからです。
そしてそれを古代の他人に投影しているわけです。
「私の考えるアートマン」を説くのに、ヒンドゥー教のようにする必要はない。
釈迦や一握りの聖者の脳裏には「私の考えるアートマン」があったのだろう。
彼らの頭の中にあるのは「私の考えるアートマン」であるため、別にアートマンについて言及しなくても不自然ではない。
下の行ですが、そのような但し書きはありません。
ヴェーダをつくったのはリシたちだというヒンドゥー教伝統と同じ主張を釈迦もしてますが、
彼らが解脱した、という記載は見たことがありません。
釈迦は評価できる相手には他宗教の人間も評価します。
しかし称えはしても、彼らが自分のように解脱した、とは言いません。
>>341 なんとなくわかるけど、けっこう難しい内容だと思うよ。
龍樹の空は、滅尽定における虚無かもしれない。
非想非非想処→魔境→滅尽定→神とアートマンが縁起→成道 普通、非想非非想処が限界であり、その先は魔境で弾かれる。 滅尽定は完全な虚無。自分が消滅するから何もない。これが龍樹の空。 きわめて危険な仮死状態であり、そのまま死ぬ可能性がある。
345 :
神も仏も名無しさん :2012/10/13(土) 10:21:25.89 ID:URhQJUkc
>341 「直接現実・間接現実」の概念は、無意味な「二項対立」「戯論」である。 そんなものは、健常者にとってはどこにもない。 中論の努力は、そのような戯論の克服である。
346 :
大滝秀治 :2012/10/13(土) 10:22:21.10 ID:hUO2vV5m
>>341 はブッダの「存在」についてですが、
これを踏まえて、ブッダの本懐に鑑みて大事なのは、
<二相の実践的相即>または<二相の相即的実践>(*←アタシのキーワード!:中論25-19)です。(
>>244 )
アタシのからだは、
空海さんみたいなミイラや、
龍樹さんみたいな単純腐敗ではもったいない。
熊や犬やカラスなどの餌としてお役立てくだしゃんせ。
『ありがたや、ありがたや、
日頃、安酒で浸したこのからだ
さぞや、美味にちがいない
一皮のこさず、骨の髄まで、
どうぞ喰い尽くしてくりゃしゃんせ!』
347 :
神も仏も名無しさん :2012/10/13(土) 10:29:00.87 ID:zh2EEB28
>>312 他宗教でも神通できることは仏典でも認められてますよね?
ひとつ質問なのですが、貴方は「神通力があり含蓄のあることも言えるだけの善人」と
「本当に真理を悟った覚者」の区別をどう付けているんですか?
>>313 ぜんっぜん遠いです。
ラーマクリシュナの思想と悟りは一言で言えば
カーリー女神へのバクティと万教帰一思想の混ぜ物です。
>>318 >形而上学的問題には、
形而上学、とはどういう意味で使われているのでしょう。
釈迦は神々や輪廻には言及してますが。
348 :
大滝秀治 :2012/10/13(土) 10:30:13.07 ID:hUO2vV5m
>>345 >無意味な「二項対立」「戯論」である。
>戯論の克服である。
戯論の克服は<二相の相即的実践>においてのみ超克され、実現される。
349 :
神も仏も名無しさん :2012/10/13(土) 10:38:41.02 ID:URhQJUkc
>>348 中論は、「世間の一切の慣習」を「無条件の前提」とし、それに反することを
厳しく戒めている。それが、中論の限りない偉大さである。
縁起という二項対立は、滅尽定(虚無)の先で、 神界(神)とアートマン(霊魂)という形で突然同時に姿を見せる。 この成り行きは、縁起→空ではなく、空(虚無)→縁起になっている。 釈迦の成道は、このアートマン(霊魂)を地上の自分が見、 さらにはそれと一体になることで完成する。
351 :
神も仏も名無しさん :2012/10/13(土) 10:47:34.92 ID:zh2EEB28
>>328 「生死を超えている」「輪廻の外である」等の
コンセプト(設定)に共通点がある以上、
また同じインド文化圏で生まれている以上、
それを表現する言葉も似通ってくるのは当然です。
間取りや材質が同じなだけの複数の家を、そもそも別個に建てられたものであることや、
住んでいる人々も当然別人であることや、内装や家具も違うことも無視して
間取りや材質が同じという理由から、これは一つの家なのだ、
と判断しても、それに意味はないでしょう。
縁起の本質を空(虚無)と説く龍樹は正しい。 釈迦はさらに、一切法の外で空→縁起、アートマンを体験している。 そうであれば、アートマンの存在(一切法の外)と同時に、 龍樹の縁起→空(一切法の内)が両方ともに真実だと言うことになる。 個人的な体験から言えば、アートマン(霊魂)は存在する。
353 :
大滝秀治 :2012/10/13(土) 11:08:06.71 ID:hUO2vV5m
>>352 ハチャメチャですので全面却下。
説明するにも値せず。
どうぞ、お引取りください。
このスレには、神通力を信じ、憧れている人もいるようだが、 釈迦が食中毒で死に、釈迦の高弟が敵対勢力に殺されたことから、 神通力などは存在しないものと思った方がいい。 それは業だと片づけては説明にならない。業のせいにしたら、 釈迦やその高弟が輪廻から解脱したことにならない。
業が輪廻を作り出している。 この輪廻から解脱するには、業を清算しなければならない。 瞑想で、自分の業を清算した時に、滅尽定に入る。 しかし、自分の業を清算しなければ、解脱したことにはならない。 釈迦は瞑想して成道した時に、自分の業を清算している。
356 :
神も仏も名無しさん :2012/10/13(土) 11:44:01.33 ID:kOvtzIuh
業は一切の内か外か。夢は一切の内か外か。神は? 霊魂は? 内と外を区別する基準は何か
>>356 だから一切はヨガマーヤーだって…
幻力に欺かれている…
ここでの議論百出はすべて無効だってば…
議論するな!
って言いたいけど、
ここは「議論スレ」だからそう言えないジレンマが有る
仏教は理性だと思う。我慢=理性。 目的はあくまで苦の滅。 すなわち理性が苦を生じさせるのもまた誤り。 脱法ハーブ等の酩酊とは真逆なものと思います。
360 :
神も仏も名無しさん :2012/10/13(土) 12:46:50.34 ID:kOvtzIuh
>>357 そういうまとめ方もあるかもしれない。
しかし、かりにマーヤにしても、変化のあるこの世の方がすばらしい。
成道後の釈迦が感じたように、この世は甘美だよ。
甘美なものを苦と捉え、これを滅ぼす。苦は友達。 依存からの脱却であり傍目には自立と捉えられる。 結果、依存の縁を断つことであり寂しいのだ。 しかし縁自体から離れるものではなく、新たな縁に生きるのだ。と思う。
>>360 確かにこの世は甘美ですわ(笑)
美しい霊樹を…
かつて一緒に遊び戯れた自分の娘を…
美しい思い出を…
確かに私は愛する。
俺は離婚してから娘とは疎遠となっている
わずかな悲しみと暮らしは続く…
やっぱり基本は食事制限だろうか。。。 寂しさに耐え自立しないとな。。。
お二人に、女性の覚者バーナデット・ロバーツをお勧めする。 ネットで検索して下さい。
遅レスですまんが、一応
>>325 >>326 細かい議論は、おそらく平行線なのでする気はないですが、私が「縁起」と「我」は両立するとする理由を簡単に言っておきます。
(実際の不二一元の立場とは、完璧な=ではないですが)仏教の「涅槃」に「アートマン」を上書きしたと理解してもらえばいいともいます。例えば
>比丘たちよ
>生じたのではないもの、現れたのではないもの、作られたのではないもの、形成されたのではないもの、生起したのではないものがある
>〔さらに一方〕生じたもの、現れたもの、作られたもの、形成されたもの、起こったもの、縁起したものがある
> ウダーナヴァルガ26章21
釈尊が縁起しないとして語った、この、「生じないもの〜」を=アートマンとして再解釈すれば、「我」と「縁起」は哲学としては矛盾しません。
>>329 >従って、バラモン教の立場からみたアートマンとは涅槃と完全に同義です
仏教に於ける「涅槃」は『寂滅』です。(仏典中の同義語を挙げたこともありましたでしょう?)
貴方方が夢想する「我(真我)」の働きなんて入り込む余地は無い。(しかも五蘊が滅すれば般涅槃だ。)
仏教を買い被り過ぎw 悟りの後にバラ色の未来(涅槃)が待ち受けると思っているなら愚の骨頂です。
涅槃ってのは、無味無臭無色の世界(→境地)なのだから。
*だからこそ、どんな色にでも即応し得、また、普き慈悲を垂れ得るわけで・・・。
>>354-355 >輪廻から解脱したことにならない
>この輪廻から解脱するには、業を清算しなければならない
ハァ?(゚∀゚)
それは「後有を受けず」という台詞に象徴される如く、『次に生まれることがない』
ということですよ? その意味での『輪廻を脱する』ということですよ?
何か勘違いされてるようですねw
突然別世界にテレポートするようなイメージで考えてたんでしょうか?www
*宝珠サイドの「涅槃」や「真我の現れ」も同様のイメージで考えてるとしか見えませんしね・・。
なんか、シュワッチ!と「ウルトラマンやスーパーマンに変身する」ように思ってんだろうね、彼等は・・ ┐(´ー`)┌
367 :
大滝秀治 :2012/10/13(土) 15:31:34.17 ID:hUO2vV5m
368 :
大滝秀治 :2012/10/13(土) 15:39:53.21 ID:hUO2vV5m
>>362 >美しい思い出を…
>確かに私は愛する。
>わずかな悲しみと暮らしは続く…
アタシの誤解であってほしいが、
あんたみたいなのにぴったりの曲<大地の歌>を捧げよう。
http://www.youtube.com/watch?v=ojRRwbNC2hs キャスリーン・フェリアーの絶唱とワルター/ウィーンフィルの絶妙な演奏!
たしかに音楽として、陶酔的に極美だ。
まさに我執を包んだアカンたれロマンチストに相応しい、が、その実は<韜晦の歌>だ。
李白、銭起、孟浩然、王維
こいつら、無明なエリートエゴイストの曳かれ者(敗者)の小唄
封建制下で、消極的で逃げの姿勢の斜に構えたデカダンでニヒルな態度、
エゴイズムいっぱいの胸の底とは裏腹に洒落のめして韜晦する姿・・
さぞかしその酒は、ニヒリストにとってはほろ苦く旨かろう。
これを仏教に絡めて、東洋的な無常観、厭世観、別離の気分などといわれるが、笑わせる。
その実は我執いっぱいの胸の底とは裏腹に洒落のめして韜晦する姿・・
反吐が出る。
欧州の知識人にとってはこれが仏教だったのか。
マーラーもそんな連中の一人だったのだろう。
>>367 >その根底にあるのは不二一元論という反仏法だ。
>仏法は不一不二の空言論というより、無分別中道であるがゆえに、論そのものが空である。
>これら反仏法は中論にて破説済みだ。
分かってて言ってるなら、釈迦に説法になるけど
シャンカラは、龍樹菩薩のずっと後の人物だよ。しかも、不二一元論は、、ウ゛ェーダーンタ哲学に唯識学派や龍樹の中論を
初めてする中観派の思想を取り込むことで成立した学派です。シャンカラ以降の仏教徒の反論ならまだしも、中論で不二一元論
を論破することは不可能です。なぜなら、中論のおかげで不二一元論は、完成したも同然ですから。
370 :
神も仏も名無しさん :2012/10/13(土) 15:55:23.61 ID:NshHqDe/
つまり中論を否定すれば、唯識も崩壊するから自然にその2つによって成り立っている不二一元論も崩壊するわけだなww
371 :
大滝秀治 :2012/10/13(土) 16:01:44.46 ID:hUO2vV5m
>>369 あのね、『宝珠もカラスも』と言っているw
⇒仏法は不一不二の空言論というより、無分別中道であるがゆえに、論そのものが空である。
>>371 まあね。私は、365で「哲学としては矛盾しません。」と言ってる通り、それ以上の事に興味はない。
あくまで、「縁起」と「我」は哲学として矛盾しない例として不二一元論を挙げただけで
仏教がウ゛ェーダーンタ的とは言うつもりはないですし、どちらが優れているとかいうつもりもないです。
仏教は一見、哲学のようで歴とした宗教ですから、議論ではどうしようもない問題はたくさんあります。
とにかく発達障害に起因するメタボ障害を滅するのだ ただ、何も考えず食事制限すればいいのだ(中道) 悟りで何を感じるのか?自分の体温だろうか?あんまり興味ないなぁ…
374 :
大滝秀治 :2012/10/13(土) 18:11:13.80 ID:hUO2vV5m
ウパニシャッドの後継者シャンカラについては十分には知らないから、勉強の取っ掛かりで教えてほしいが、
シャンカラ不二一元論での「不二」は、advaitaであって「二番目のものがない」→ブラフマンのみ実在で他は虚像であって、
その意味で積極的な「不二」、ヤージュニャヴァルキア以来の梵我一如論を、明知vidyaによるブラフマン不二一元論で徹底させ純化させたわけでしょ?
これに対して、「仏教」での「不二」はadvaya、つまり「二項相対分別の不存在」→二項対立を離れたところ、その意味で消極的な「不二」の境地が「空」でしょ。
似ているようで、まったく非なるものであって、
・一方は、ブラフマンオンリーワン主義で業報輪廻解脱←聖なる世界の回復という形而上学的理論(戯論)確立
・他方は、縁起の直接現実の無分別智直覚による実存苦の超克←形而上学的理論(戯論)の寂滅
ということで、ぜんぜんちゃうやん。
とくに仏法は、間接現実の一切法でも無我だし、縁起の直接現実の示唆で非無我非有我、直接現実そのもので〇〇〇で、
「有我」が入る余地がない。
『龍樹の中論を初めてする中観派の思想を取り込むことで成立した』(
>>369 )とはとうてい、思えないのだが・・。
何処の「思想」?を取り込んだん? どーもよーわからん。
そりゃ、密教にとっては大日如来=ブラフマンだから、シャンカラとは紙一重だろうが。
考えてみると釈迦とジョージ6世に共通点があるのではなかろうか。 釈迦の場合はプラス実母の愛を受けられなかった心因性ストレスも作用 していたと思われる。摩耶の亡霊に悩まされたことだろう。 だいたい宗教する理由は発達障害以外ないとさえ思えてくる。 勿体無いお化けのせいにして夕食を軽く食べたが、根本の問題が発達してない ということなので強い意志されあれば大抵のことは滅せられるかも…
>>347 ラーマクリシュナについての誤解について。
確かに初めはカーリー女神崇拝からバクティ的な狂乱にも似た
覚醒を体験しましたが、
その後、トータープリという不二一元論の覚者に出会い、
ついに不二一元論の最高峰の悟りを得たのであります。
ちなみにインド人はラーマクリシュナをブッダより凄い人と
高く評価しておりますです。
つまりは過去数千年に渡る宗教的探索の総決算と見なしております。
日本人にはしっくりこないでしょうが、
インド人がそういう見解を持っている事は軽視出来ない事実でありんす
377 :
大滝秀治 :2012/10/13(土) 18:25:43.06 ID:hUO2vV5m
>>374 は
>>372 宛てです。
仏法の「不二」は「不一不二」(
>>367 )
つまり、中論18-8(四句第4)による間接現実(言語)による
直接現実(空・中道)の示唆を意味します。
もう、あけすけに言ってしまいますが、 人間はすでに(いいですか?すでにですよ?) 「完全」です。 これがヴェーダーンタの理論的必然的帰結です
いや、発達障害だ
少なくともヴェーダーンタ学派はもう、 「一超直入如来地」 どころじゃない。 すでに完成体として人間を見ている… この上悟るべき何がある? 頭の上に頭を載せるな! やい!諸君こそ生きた祖仏ではないか! きりきりしゃんとした立派な男が何をこの上疑うか! と…臨済も言うておる
完成体セルの状態から心因性ストレスにより完成体でなくなる。 ストレスの謎を解こうとしたのが釈迦であり めんどくさっ!と投げたのが臨済なのか ならば臨済の勝ち!
>>337 まっ、そうですね!
>>334 非信者の門外漢たちがこれを賄賂だと批難するのです。
仏教の世界では、
僧侶へ御布施を渡すことは普通のことであり、そして推奨される行為です。
御布施を断わって返す(貰わない)理由など僧侶側にはありません。
逆に喜んで受け取ることが僧侶側の勤めでもあり、
こうして施しをした側が功徳を積むことができるという考え方ですよ。
僧侶や修行者に対する施しの功徳はもっとも大きいものの一つです。
受け取って当然。
基本的に相手が悪者で騙そうとしているかどうかを疑うという発想がないでしょう。
法王(の御心)は純粋ですから・・・。
>>354 モッガラーナは神通で逃げたところで、
業による殺害という最後の果報を先延ばしにするだけと悟ったからですよ。
確か、最初は何度か神通でかわしていたものと思います。
ゴータマ最後の食中毒は、自ら引き寄せて甘受したものです。
解脱完成者の肉体放棄はこうして自ら病気を引き起こしたり等々でなされます。
その場合は必ず何か“重要なメッセージ(意図)”があります。
別の方法は、サーマディに入ったまま肉体を脱ぎ捨てる方法です(ヨガナンダが典型例)。
>>347 >他宗教でも神通できることは仏典でも認められてますよね?
はい、認めます。
>ひとつ質問なのですが、貴方は「神通力があり含蓄のあることも言えるだけの善人」と
>「本当に真理を悟った覚者」の区別をどう付けているんですか?
最終的には(その方から説かれる)「教え」でしょうか・・・。
>ラーマクリシュナの思想と悟りは一言で言えば
>カーリー女神へのバクティと万教帰一思想の混ぜ物です。
ラーマクリシュナも完成者の一人ではないかとは思いますが、
あなたのようなご指摘も止む無しといったところです。
私も個人的には、
特定の神々に対するバクティに没頭する道には惹かれるものが無くて、
自己の道としては選択できません。
>>329 そこまでいうならば、
具体的に(ウダーナ聖句内における他の三つとの)その矛盾点を挙げて説明して下さい。
387 :
大滝秀治 :2012/10/13(土) 19:09:08.60 ID:hUO2vV5m
>>381 にーちゃん、その辺のオンナをてきとーにナンパして、
童貞捨てといで。どーんだけ「不完成体」か悟れる。
臨済のおっさんは、悟った意識から上から目線でエラソーにゆーてるだけやw
周回遅れのデキの悪い人間に向かってエラソーに言うなってw
388 :
大滝秀治 :2012/10/13(土) 19:11:41.45 ID:hUO2vV5m
>>384 講釈師、 見てきたようなウソを言い
後出しジャンケン、ご苦労さんw
389 :
大滝秀治 :2012/10/13(土) 19:17:42.89 ID:hUO2vV5m
>>385 >ラーマクリシュナも完成者の一人ではないかとは思いますが
720 :遊びをせむとや生まれけむ:2012/08/20(月) 11:17:11.80 ID:kknRWx3l
>>688 >史上最強の意識姿勢というのは、ギータの中のクリシュナの教えにあるのです。
>『おまえは義務的行為を行え。なぜなら、行為は無行為にまさるから。行為がなければ、
>おまえの身体を維持することさえおぼつかないであろう。』(『バガヴァッド・ギーター』3:8)
仏法には、無我にて候(蓮如)
義務的行為(クリシュナにとってはカースト的義務だ←奴隷思想)などありゃーせん。
間接現実において、
縁起撥無のクリシュナのような戯論、の消滅というめでたい仏法(直接現実)を示唆されたブッダに
あらためて、感謝と敬礼の意を表明する。
カースト制度万歳!←これのどこが「 完成者」やねんw
>>342 >彼らが解脱した、という記載は見たことがありません。
>釈迦は評価できる相手には他宗教の人間も評価します。
>しかし称えはしても、彼らが自分のように解脱した、とは言いません。
62見とは(当時にみられた代表的な)バラモンたちの見解と境地を分類的に示すものに過ぎません。
そして、それらはゴータマによるヴェーダ/ウパニシャッドそのものに対する否定意などではなく、
アートマンそのものも無いなんてことを述べたものでもありません。
ゴータマからはヴェーダに対する称賛の言葉はあれど、否定するものは皆無であって、
逆に、真のバラモンこそがゴータマの求める境地であることを繰り返し述べています。
つまり、真のバラモンの姿がヴェーダに示されているということなのであって、
当時のバラモンたちがそこまで到達していなかろうとも、それはヴェーダのせいではありません。
ゴータマが求めたのは真実のヴェーダの境地であり、
当時のバラモンたちにはそれは皆無だった、ということをいっているのですよ。
『こだわりあることなく、さとりおわって、疑惑なく、不死の底に達した人、──かれをわれは<バラ
モン>と呼ぶ。』(Dhp.411)
『前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を滅ぼしつくすに至って、直観智を完成した聖者、
完成すべきことをすべて完成した人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。』(Dhp.423)
(中村 元訳著『ブッダの【真理のことば】(ダンマパダ)』岩波文庫)
“不死の底に達した人”や“生存を滅ぼしつくすに至って”など、仏教の説く涅槃を意味するこれらの
キーワードは非常に重要です。似たような聖句なら、ホントいくらでも摘出できます。
あーー わしはとうかいさんだな>゜))))彡 マーラー3.9.10にとうかいさんでとうすいさんでごうきゅうさんだ(笑) 確かに本音を隠しておなざんまいだしなあ ほんねをだすことでほんねをかくすしなあ やっぱり仏教ではないのだなあ ちなみに発達障害は特化進化であって字ずらどうりではないだろうがなあ
>>351 ゴータマの真意の確認ができないのに、
仏教徒らが(固定観念で)決め付けているからですよ。
>>340 >顔を洗って出直すべきです。
顔と股間はいつも洗ってる♪
>>365 >釈尊が縁起しないとして語った、
>この、「生じないもの〜」を=アートマンとして再解釈すれば、
>「我」と「縁起」は哲学としては矛盾しません。
同意。
>>376 >ちなみにインド人はラーマクリシュナをブッダより凄い人と
>高く評価しておりますです。
それは、後代の仏教徒が無我を誤解して説くようになってしまい、
そのことでゴータマ御自身の境地までも低評価されるに至ったからでしょう。
ヒンドゥーの大衆評価は、ゴータマは方便的?に騙すために出現したビシュヌの化身です。
>>378 >その思想は仏教との類似性が高いとされ、「仮面の仏教徒」と呼ばれることもある
>歴史的にみれば、彼は仏教哲学をヴェーダーンタ哲学に吸収する役割を担ったのである
シャンカラは仏教にも大変、関心を寄せておりまして、
自分自身で仏教を学びたいとして、仏教徒を装って集会に紛れ込んで参加していたのだという。
これが“仮面仏教徒”と呼ばれる由来らしい。
>>377 不二一元論・仏教ともに、お互いが同じであるとは、絶対に認めないでしょし、当然「同じ」ではないのでそこは最初に言っておきます。
とは言っても、
>>378 にある通り、歴史的にみれば、彼は仏教哲学をヴェーダーンタ哲学に吸収する役割を担ったというのが一般的な見方です。
細かい話をしてもしょうがないので簡単に説明すると・・・とその前にまず、不二一元論は、腐っても六派哲学の一派なので仏教的な見方は、一回捨ててください。
シャンカラの不二一元論は、ブラフマ・スートラから流出論を排斥して出来たもので、通常の意味でのブラフマン=アートマンと捉えてはいけません。
つまり、大日如来のようなブラフマンは、マーヤーであるとしてまっさきに否定されます。サーンキヤ学派に対する反駁は、ココから来ています。
マーヤーは、唯識的な世界観から持ってっきたもので、外界の世界(現象界)はすべてマーヤー(空)であるとします。で現象界が空である論理に中観派を使っているわけです。
現象界は、一切皆空であるから戯論寂静の末、真実の自己を知れと言うのが、不二一元論です。
この最後の真実の自己は、仏教徒は、認められません。他の六派哲学から見てもマーヤーとする思想は、仏教に酷似していて批判の対象になります。
上にも書きましたが、「真実の自己を知れ」を「涅槃寂静」に置き換えれば、一切皆空→戯論寂静→涅槃寂静となります。「仮面の仏教徒」と言われるわけです。
396 :
大滝秀治 :2012/10/13(土) 19:31:23.13 ID:hUO2vV5m
>>390 不生不滅(直接現実の示唆)ならアナートマンが当然。
→とくに仏法は、間接現実の一切法でも無我だし、縁起の直接現実の示唆で非無我非有我(非我)、
直接現実そのもので〇〇〇で、
「有我」が入る余地がない。(
>>374 )
論破済み
>ゴータマが求めたのは真実のヴェーダの境地であり、
→ヴェーダ「信仰を捨てよ!」(ブッダ)
8:1 (因縁略)。 『比丘たちよ、このような境地(Ayatana)があります(atthi)。 そこには、地(paThavI)もなく、水(Apo)もなく、火(tejo)もなく、風(vAyo)もなく、 空無辺処(AkAsAnaJcAyatana)もなく、識無辺処(viJJANaJcAyatana)もなく、 無所有処(AkiJcaJJAyatana)もなく、非想非非想処(nevasaNNAnAsJJAyatana)もなく、 この世(loka)もなく、あの世(paraloka)もなく、月・太陽(canima-suriya)の両者もありません。 比丘たちよ、私は、そこに来ること(Agati)も、行くこと(gati)も、止(とど)まること(Thiti)も、 没すること(cuti)も、生まれかわること(upapatti)も説きません(na vacAmi(vadAmi))。 依り所のないもの(appaThitta)、生起のないもの(appavatta)、 所縁のないもの(anArammaNam)が、すなわちこれ(etamM)です。 これがすなわち苦の終わり(anto dukkhassa)です』 8:2 (因縁略)。 『「不屈(anata)というものは、見難い(duddasa)。 なぜなら、真理(sacca)は見易いもの(sudassana)ではないからである。 知る者(jAnato)に、渇愛(taNhA)は洞察され(paTividdha)、 見る者(passato)にいかなるもの(kiJcana)も存在しない(natthi)。』 8:3 (因縁略)。 『比丘たちよ、 生まれもしないもの(ajAta)、生成もしないもの(abhUta)、 作られもしないもの(akata)、形成されもしないもの(asaNkhata)がある(atthi)。 比丘たちよ、もし、 生まれもしないもの、生成もしないもの、作られもしないもの、形成されもしないものがなければ、 この世において(idha)、 生まれるもの(jAta)、生成するもの(bhUta)、 作られるもの(kata)、形成されるもの(saNkhata)の出離(nissaraNa)は知られないであろう。 しかし、比丘たちよ、 生まれもしないもの、生成もしないもの、作られもしないもの、形成されもしないものがあるから、 生まれるもの、生成するもの、作られるもの、形成されるものの出離が知られる(paJJAyati)。』
>>379 人間の向上心と努力を無にする考え方です。
そういう勝義は無用。
役立たずだから。
>>389 >義務的行為(クリシュナにとってはカースト的義務だ←奴隷思想)などありゃーせん。
あなたのような表面的な見方では到底、理解できないこと。
義務的行為の道は別名、カルマヨーガ道とも呼ばれている。
実に、かのゴータマこそがカルマヨーガの究極の達人であった、
これがヒンドゥー側における本当の評価です。
>>399 宝珠、早とちりするな…
自分でもカルマヨーガの基本理念を知ってるくせに…
「完全な存在」はそれに相応しい
「行動的努力」を惜しむものではない。
ここに無執着の働きがあるんだよ
>>386 >>398 >・・・がなければ、この世に(idha)だけでなく、
【 >あの世にも(huraM)、】【 >両者の間にも(ubhayamantarena)ない。 】
>>397 >私は、
【 >そこに来ること(Agati)も、】
【 >行くこと(gati)も、】
【 >止(とど)まること(Thiti)も、】
【 >没すること(cuti)も、】
【 >生まれかわること(upapatti)も】
【 >説きません(na vacAmi(vadAmi))。】
【 >見る者(passato)にいかなるもの(kiJcana)も存在しない(natthi)。】
>>366 >それは「後有を受けず」という台詞に象徴される如く、・・・
その台詞の根拠をあきらかにしないで、そう宣言するだけでは、
単なる妄想だとカン違いされるだろう。残念でした。
かんたんにひらがなでかんがえるんだ!
こどもでもできる=こどもでもわかる=実はツボだったりする
ボクが数字を覚えたときはまず数字を示されたのではなく 今となっては意味ありげなろうそくの絵であった。 ろうそくの数=数字1・2・3。一個に個三個。 ボクはバカだから全部に色を塗ったのは覚えてる
その後元通り白く塗ってごまかしたのも覚えてる
>>384 >モッガラーナは神通で逃げたところで、業による殺害という・・・
神通力を使えなかった弁解にしか聞こえないけどぉ
業を何だと思う。輪廻から解脱するにはどうしたらいいと思う?
そんで保育所で磁石を与えられたのが高校の理科系でおかしなことを言うきっかけになった
>>399 神智学徒なら質問したんですけどヨガナンダの進化段階は、神智学ではどうなっていますか?
>>375 食事制限は、我慢するのはつらいけど、強い動機があればうまくいく。
好きな人ができたとか、病気になりそうだとか、・・・
肉食がいやになったなんてどうかな。肉をやめると痩せると思うよ。
>>366 >仏教に於ける「涅槃」は『寂滅』です。(仏典中の同義語を挙げたこともありましたでしょう?)
>貴方方が夢想する「我(真我)」の働きなんて入り込む余地は無い。(しかも五蘊が滅すれば般涅槃だ。)
>仏教を買い被り過ぎw
“「寂滅」だからアートマンの入る余地なし”とか“五蘊が滅すれば般涅槃”などというのは詭弁です。
一体、本当は何が寂滅するのか?五蘊による悪き活動や諸影響なのですよ。
本当は五蘊の消滅などというと誤解が生じるのであって、五蘊の悪しき部分についてです。
つまり、五蘊の意識的な制御/コントロールという方がより適切でしょう。
当然、解脱したブッダにも五蘊は依然としてある。
結果として、
完成であるところの五蘊の正しい制御によって悪しき作用が静まり滅した状態となっているからこそ、
清浄そのものであるところの本質たるアートマンがそこに立ち現れることができるのです。
まったく矛盾でも何でもないこと。ただ深読みできるか否かです。
---以上、論決!
>>402 >その台詞の根拠
ハァ?(゚д゚)
輪廻とは、何度も生を受け続けることだろ?
そこからの離脱として、次の生を受けないこと以外に何があるんだ?
死ぬことか?この世から消え去ることか?www
業の残余の消化があっても、輪廻からの離脱は成立している筈だが?(少なくとも教義・修道的には)
或いは文献的なことか? だったら律蔵大品始めアチコチに腐るほどあるだろ。
415 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2012/10/13(土) 20:38:29.91 ID:36uRTXuE
>>987 :暇人:2012/10/08(月) 11:58:55.28 ID:l1X4ElHU
>聖道門というのは北伝であれ南伝であれ、自分の足で登山しようという人たちのモノで
>私が親近感を持つ浄土門は、ちゃっかりとさ大船に乗ってらくらく対岸に渡るというズル。
暇人氏が聖道門と浄土門とのネタ振り(釣り)されたので、祖父の寝言を一部紹介します。
第四十六回祖父寝言(昭和5年11月11日)
仏教における信仰はなあ、一元的か二元的かと云う事について色々説がある。(略)
世尊は八万四千のお話で聖道門と浄土門、その二つに大別してお話された。(略)
浄土門の方は人間生活離れんでも良いと云うが、ここが難しい。人間生活している以上親子夫婦の関係ある、常に喜びを持たしてもらっていても時には怒ることもあろう。
苦も無い慾も無いこともあろうたりして、権利役目を主張する職務がある、そういう様な煩雑な二元的生活せなあかん。聖道門は難しいと云ったが、浄土門も難しい。
(中略)
貪慾、憤怒、愚痴、これの三毒の煩悩が無いようになって、その代り有り難い大慈大悲が胸に浮かんで来る。
416 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2012/10/13(土) 20:40:13.61 ID:36uRTXuE
>>296 >衆生が阿弥陀仏の名をとなえれば、阿弥陀仏はそれを聞く。
祖父の寝言第五十九回(昭和5年11月24日)
(前略)世間では唯仏是真と云うことと其れから先達てお話した。
本願力に逢いぬれば空しく遇ぐる人ぞなき功徳の宝海充ち満ちて煩悩の濁水へだてなし、と云うこと。
★週末のパソコンのみアク禁解除にて亀レスで失礼をば。
417 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2012/10/13(土) 20:44:03.49 ID:36uRTXuE
>>414 >涅槃そのものも縁起に反しているけどぉ
仏や涅槃は無為法、縁起や無常は有為法。
「一切皆苦」の一切に仏は含まず、「諸行無常」の諸行に涅槃は含まず
もし含めば仏説の論理矛盾をば。
>>413 釈迦や高弟たちは、食中毒や殺されることで業がつきるということを、
いかにして知ったのか。それを説明しなければ根拠にならない。
あなたは、自分の業を数値化できるとでも思っているのか。
>>418 あ、そ。
だったら、「伝承」(師や先輩の言辞)を『信じる』しかなかろう?
それが気に入らないなら、宗教としての仏教と関わらなければいいだけのこと。
貴方に仏教は向いていない。
>>419 補
よく「戒・定・慧の三学」と言われるが、
実際は「信・戒・定・慧」なんだよ。
>>419 縁起は有為法も無為法も支配している。
涅槃も縁起している。神も仏も縁起している。
縁起しないのは虚無だけ〜これが空。
422 :
神も仏も名無しさん :2012/10/13(土) 21:04:25.66 ID:Om1f8BCj
業を消滅させないうちは、釈迦だろうが誰だろうが、 おれは悟っているなどとは決して言えない。 どうやれば業を消滅させられるかがわかってからだろう。 どうやる? じつは業を消滅させないと滅尽定に入れないのだよ。 滅尽定の体験と業の消滅はイコールになる。
424 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2012/10/13(土) 21:24:13.16 ID:36uRTXuE
>>418 >釈迦や高弟たちは、食中毒や殺されることで業がつきるということを、
案外、釈尊はダイバの追っ手を逃れる為に食虫毒をしたように見せかけたのかも。。
暑いインドでは遺体はすぐに腐り、衣だけではだれだか分からないでしょう。
イエスも十字架にかからずに、イエスによく似た男がかかったとアラーは断言。
(これが原因かイスラム教とキリスト教とは争いが多い。)
ペテロは本当に「あの男は知らない」と3回言っただけかも。。
「自分で蒔いた種は自分で刈り取る」と因果の法を説いたイエスが他人のカルマを十字架で贖うのも不自然だろう。
>>424 釈迦自殺説かよ。まあいろいろ想像するのは勝手だけどね。
426 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2012/10/13(土) 21:44:03.57 ID:36uRTXuE
>>425 釈迦生存説ですよ。
無量寿の如来は涅槃見せないと、凡夫は会えたことにも有難く感じないでしょう。
おおよそ不幸は死となんらかの関係がある。 5円の薬がなければこの日本でも簡単に人が死ぬ。そんなもん それを目の前にしてはじめて考える
>>427 それを魔境で問われる。夢を鮮明にしたものが魔境だと思っていいい。
>>428 確かに不幸と死は関係してるね。想像力のなさは日々実感している。
>>419-420 信は鳩のように天から降って来る。
あなたは一代さんだろうか。あなたからはけっこう学ばせてもらっている。
たぶんあなたは、いい人なんだろうと思う。ありがとう。オチ
431 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2012/10/13(土) 22:54:08.84 ID:36uRTXuE
>>427 >業の解消→無執着による活動・思い
>>415 >貪慾、憤怒、愚痴、これの三毒の煩悩が無いようになって、その代り有り難い大慈大悲が胸に浮かんで来る。
無執着<有り難い<大慈大悲 なのかもと、ふーうっと思いました
432 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2012/10/13(土) 23:02:51.77 ID:36uRTXuE
>>430 >信は鳩のように天から降って来る。
私如き罪の深い者を有り難いことや、勿体無いことと、自分から真の喜びが出た時に真の念仏が出てくる。
(祖父寝言第二十一回より)
433 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2012/10/13(土) 23:19:32.25 ID:36uRTXuE
弥陀の慈悲の慈は苦しみを抜く、悲は楽しみを与える、つまり慈悲とは抜苦授与。 かかるまでに我が身をお助け下さるのは十方世界尋ねても弥陀より他に無し有り難いことじゃな。 (第四十九回、昭和5年11月14日夜)
434 :
大滝秀治 :2012/10/13(土) 23:32:09.01 ID:hUO2vV5m
>>395 >外界の世界(現象界)はすべてマーヤー(空)であるとします。で現象界が空である論理に中観派を使っているわけです。
>現象界は、一切皆空であるから戯論寂静の末、真実の自己を知れと言うのが、不二一元論です。
先ずこれからの勉強のヒントを与えていただき感謝します。
アタシの仮説を設定します。
(1)検証抜きで、先ず結論ありきでアプリオリになんらの属性を持たないブラフマンのみが唯一の実在だと形而上学的(戯論)に設定し、
(2)他はマーヤーである説明にご都合主義的に中観派の形式のみを利用し、
(3)「縁起の直接現実が空=中道=時空際断である」、直接現実(智覚現象)=間接現実(知覚現象)[中論25-19]は無視する。
<ブラフマンオンリーワン主義(1)の実質的かつ現実的根拠はなにか>
しかし上記で(3)を認めなければ仮面でもなんでもなく明確な反仏法です。
(1)(2)だけならブラフマンオンリーワンの梵我一如論は子供だましのように簡単です。
しかし、なぜ(1)なのかを徹底的に問詰めれば、シャンカラの「宗教的仮面」は完全に破綻します。
アーリアの階級支配の徹底=カースト制度護持という強欲な政治主義のホンネが剥き出しとなります
要するにシャンカラの動機は、ヤージュニャヴァルキアが護持せんとした
四姓階級制度(カースト制度)の最高位に君臨する「バラモン」階級支配の徹底であり、、
壮大にして鉄壁のヴェーダ哲学の体系に裏づけられたバラモン=ヒンドゥ教の護持であり、
そのための宗教教義が宇宙の根本原理を体現する最高神ブラフマンオンリーワン主義であり、
その中心的教義が業報輪廻転生論であり、梵我一如論です。
まさにアーリア階級支配という政治的我執動機によるご都合主義宗教論でしかありません。
打倒すべきナンセンスな階級支配宗教論だと現状では仮説します。
>>397 詳しく有難うございます。
それで結局、セブンは何がいいたいのか?
明確に自分でいうことが重要ですよ。
(*
>>411 はもちろん私、宝珠による投稿です-失礼!!)
>>396 >>ゴータマが求めたのは真実のヴェーダの境地であり、
>→ヴェーダ「信仰を捨てよ!」(ブッダ)
『Sn.1146』などのこの言葉は、
従来まで自分が縛られていた“常識とか伝統といった固定観念”を捨てさせるための言葉です。
そうでないと、ゴータマが現れ教えを説く意味がありません。
わたし宝珠も同様、
これが仏教(伝統仏教)だといわれていた事柄についての常識を鵜呑みにしません。
これを基本姿勢にしています。まず「信」があるとはみません。
最初期の段階ではありますけれど、「信」はまた一つの結果として起こるもの。
>>409 ヨガナンダは「アバター」であるとされています。
神智学での「アバター」とは、ヒンドゥーの「アヴァターラ」(Avata^ra =降臨した者/神の化身)から
言葉をとっていますが、この惑星ハイアラキー(地球の進化系の覚者とイニシエートで構成された
螺旋階状組織=白色聖同胞団)が、他の天体から召集した宇宙存在であり、これに敬意を表して進
化段階については未公表となっています。
しかしながら、5.0段階に達してない4.4段階のダヴィンチのような場合には公開されたりしているの
で(ダヴィンチは稀なケースかもしれないが)、「アバター」と公表された場合には、まず間違いなく5段
階以上の覚者です。アバターによっては、6.0や7.0超〜ということも十分に有得ます。
因みにインド圏に顕現してくる覚者はアバターというケースがとても多いです(南インドロッジに所属
している)。彼らは外的に、必然的にヒンドゥー教を用いているので、この惑星ハイアラキーとは教え
の質や手法はかなり違う印象にあります。
>>412 >縁起に反してる点はどうなるんだ?
涅槃もアートマンも同様に縁起しません。
無始の昔からあり、そして没すること無き境地です。
“一切のつくられしもの”ではないのが涅槃とアートマン。
対して、
縁起しているが故に実体無き空性なのが
“一切のつくられしもの”です。
>>414 その通り!
これが判らない限りは、
一代もセブンもいつまで経っても理解できませんから。
>>421 『ところで仏教で一切法とは存在するすべてのものを指すのであるが、原始仏教時代に関するかぎ
り、それは生滅変化する現象の法に限られていた。一切法を五蘊・十二処・十八界などとした場合、
それらはすべて時間と空間の中にあってわれわれに認識され得る現象界だけを意味した。(p112)
われわれにとっての世界は現象界のみである。この意味における一切の現象界を仏教では一切
とか一切法とか呼んでいる。仏教が取り扱うのはこの現象界に限られる。(p127)
存在についても、原始仏教では生滅変化する現象法だけを一切法としていたが、部派仏教では現
象としての有為法だけでなく、生滅変化しない常住不変の無為法をも存在の中に加えるようになった。
この意味で、阿毘達磨においては法処の中に有為法や無為法が摂せられ、原始仏教とは違った
性格のものとなった。(p143)』
(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊)
はい、ご覧通りで涅槃も勝手に縁起/空にしたのは部派ですね。
本来の根本仏教では、仏教の説く一切法は生滅変化する現象界(有為)に限られていました。
一切法無我は有為に限定されるものであって、従って涅槃には適応できません。
伝統仏教はすべて部派影響なので根本仏教ではありません。
つまり、涅槃も如来も縁起しません。
---以上
>>401 あっ、ごめんなさい!
ここに対比したい部分をピックアップしてるのですねぇ(失礼!!)
どういえばいいのか?
すべてどれも矛盾などしてないのですが・・・。
ただ視点(勝義的視点と世俗的視点)を変えてるだけのこと。
>>434 >>打倒すべきナンセンスな階級支配宗教論
シャンカラにこの気がなかったとは言い切れないですね 彼はバラモンの子にしか教えを説きませんでしたから
アートマン=ブラフマンを真の実在と仮定したのは、大きく2つの理由が合ったと言われています。
一つはブラフマ・スートラが、大きな矛盾を含んだ聖典だった事。2つ目は、当時インドで、仏教が大きな勢力を持ち始め、既存のヴェーダの哲学が脅かされていたという事。
これらを一人で打破したのが、シャンカラであり。ウ゛ェーダーンタ哲学は、息を吹き返し。現代でも主流として活動しているのでそれがそのままインド哲学史上最大の哲学者と言われる根拠となったわけです。
シャンからの思想が打倒すべきナンセンスな階級支配宗教論かどうかは議論がありますが、現在不二一元論で有名なラマナ・マハルシ、ラーマクリシュナ、またその弟子のヴィヴェーカーナンダの教えは、
「打倒すべきナンセンスな階級支配宗教論」とは、無縁のものですので、それは不二一元の哲学と分けて考える方がいいと思います。
訂正:
>>312 :
×「遺体の腐敗現象にて」
○「遺体の不朽現象(腐敗しない現象)にて」
>>338 aka 閻魔大師
>>62見のことを評して「……賢者だけが理解できる諸法」と言っているはずなんですけど、違いますか?
>
>賢者でも、成りすまし如来でも、ブッダでも、ましてやアタシでも、勝義(法)は『理解』不能です。
梵網経の語り部は、
62見外道の邪見のことを「……賢者だけが理解できる諸法」と言っており、
仏法のことを「……賢者だけが理解できる諸法」と言っているわけじゃない
のですが…… ○| ̄|_
443 :
神も仏も名無しさん :2012/10/14(日) 01:02:50.56 ID:tYYCa0WH
なぜ、仏教は他の宗教に比べて内向きで排他的なのだろうか?
>>443 ですねぇ!
思想的には大乗なら(教義にバラモンや外教を採り入れてきた経緯もあってか)、
比較的に寛容かもしれません。
それでも、
これだけが“唯一なる道”といった排他性は非常に強いですね。
まるでユダヤ教並みです。
>>434 aka 閻魔大師
>その中心的教義が業報輪廻転生論であり、梵我一如論です。
>まさにアーリア階級支配という政治的我執動機によるご都合主義宗教論でしかありません。
>
>打倒すべきナンセンスな階級支配宗教論だと現状では仮説します。
大師が引用元として一部影響を受けている中村元先生の全集では確かに、バラモンと沙門を政治
的に対置する勢力として捉えていた憶えがあります。そういう(アンチバラモンの)点では、仏
教も沙門サイドに「一応」カテゴライズされはしますが、実際、仏教は世俗(バラモン)から離
れているだけで、積極的に対立しようという感じではないと思いますし、そういうのはむしろ邪
命外道アージヴィカ(アジタ師・プーラナ師・マッカリ師)の特色です。
さらに、バラモンのアートマン思想と同時に、業論をもろともセット視して否定しようとするの
もアージヴィカの特徴ですが、その点では非常に「危険」としてアージヴィカを批判したのが仏
教(釈尊)とジャイナ教だったと、中村先生の全集のどこかで読んだ記憶があります。仏教は業
・輪廻は必須の要素です。
一体、大師は、サンジャヤ教なのか、アージーヴィカ教なのか、ジャイナ教なのかどれなのかわ
かりませんが、仏教とも部分的に重なる部分はあるにせよ、違う部分も多分にあるんで、どうや
っても全面的に肯定はできないのですよね。まあ、中村先生的な位置付けで言うところの「道の
人」=沙門(非バラモン)肌であることは、間違いないと思いますが。
>>443-444 なぜ「あなたがたにとって」は
>仏教は他の宗教に比べて内向きで排他的なのだ
ろうか?
と反問し返したら、閻魔大師みたい(禅問答ぽい)ですか? (^^;
愚者さん>これだけが“唯一なる道”
正自覚者の導き(教え)によって覚る声聞道以外、独覚する道であれば、
「誰に対しても」開かれていますよ。
仏教者の誰が「これだけが唯一の覚りへの道」と言っているのですか?
>>410 炭水化物を制限すれば食事制限は上手くいくみたいです。
個人的には水分の摂取量が鍵を握ると思ってます。
肉食云々に拘ることもないと思います。
発達障害は特化による個性とみなすこともできますが、
問題となるのは障りと害の障害ですから個性の寂滅こそが
仏法と捉えます。愛情に見出してもいいし、遊びでもいい。
私の場合は食事ですね。
腹が減るから食うのでなく暇だから食うの現状があります。
暇だから書き込みしたり禅したりして気を紛らしてます。
食うは空なり。です。
448 :
暇人 :2012/10/14(日) 06:20:13.43 ID:l0XdNL51
>>442 あなたも梵網経を読まれてませんね。
62見を「……賢者だけが理解できる諸法」といっているのではなく
如来の悟りを「「……賢者だけが理解できる諸法」と言っています。
>>48 で指摘済み
>>55 で論証済みです。
「28.比丘たちよ、このほかに、如来がみずから悟り体現して教示している、
深遠で、見がたく、了知しがたく、寂静で、勝れており、思考と思惟とを超えており、
微妙で、賢者だけが理解できる諸法がある。それら(を賞賛すること)によって、
如来をあるがままに賞賛し、正しく語ることになるであろう」となります。
さて、この賢者ですが、一般的なdhIroではなく、
paNNitavedaNAyAです。paNNita(賢者)+vedaNAyA(理解できる)という複合語で
「賢者だけが理解できる」という語ですが、この賢者は「智慧(パンニャ)の人」です。
「賢者だけが理解できる諸法」とは62見ではなく、
「如来がみずから悟り体現して教示している諸法」です。
この諸法は「深遠で、見がたく、了知しがたく、寂静で、勝れており、
思考と思惟とを超えており、 微妙」である故、
「パンニャの人だけが理解できる」のです。
きちんとした読解力をまず養われてください。
一言でいえば我慢だな。人間、辛抱だ。
戯論寂滅。心に起きたものを制するのじゃ! でも暇ならやむなし仕方なし。 暇に対する耐性をつけたいものです。。。
>>400 >宝珠、早とちりするな…
すみません・・・
それは失礼しました。
読者の便宜のため、
因みにカルマヨーガとは
果報や見返りを得ようとせず、
無執着でただひたすら無私の精神にて成すべきことに淡々と最善を尽くす義務的行為とその道。
>>445 ですねぇ!
何処かの何かの沙門(非バラモン)には違いないw
旨いなぁ^^
バラモンはバカモン バカボン!?
454 :
暇人 :2012/10/14(日) 09:05:45.96 ID:l0XdNL51
バカボンはbhagavat 世尊の意 仏や釈尊に対する尊称。 バラモンはbraahmaNa ブラフマンに属する階級。転じてバラモン教の司祭の意
455 :
神も仏も名無しさん :2012/10/14(日) 10:16:01.78 ID:jiYNrB7y
>>385 ある人にとっては受け入れがたいものが真理であるかもしれません。
結局、感性か信仰かによらなければ
「神通力があり含蓄のあることも言えるだけの善人」と
「本当に真理を悟った覚者」を区別することはできません。
その区別の正しさを保障するものは皆無です。
>>380 >62見とは(当時にみられた代表的な)バラモンたちの見解と境地を分類的に示すものに過ぎません。
時代を限定する文句はありません。
彼がヴェーダの聖仙などを解脱した人物として認めた例はあるのでしょうか?
>ゴータマからはヴェーダに対する称賛の言葉はあれど、否定するものは皆無であって、
弟子に実践せよ、とか実践を勧めたこともありません。アタルヴァ・ヴェーダは直接名をあげて
呪法を用いてはならない、とされ、その他ヴェーダのとく祭儀も行ってはならない、としています。
彼は褒めるだけです。そして、選ばないだけです。
>そして、それらはゴータマによるヴェーダ/ウパニシャッドそのものに対する否定意などではなく、
彼はもともと、喧嘩を売られでもしない限り、直接否定をすることはありません。
456 :
大滝秀治 :2012/10/14(日) 10:33:00.85 ID:Svf6rhza
>>435 現象界超越論の宝珠へ
・如来のみならず五蘊は、それ自体(自性)としては空だから、存在VS非存在の思考そのものがありえない(中論22-8〜14)
・およそ戯論(形而上学的議論:現象界)を超越していて不壊なるブッダ(如来)をいろいろ戯れする人々(⇒宝珠&カラス)は、
すべて(その)戯論に害されていて、如来(そのもの)を見ることはない。(中論22-15)
現状の宝珠には、縁起の直接現実(あるがまま:法)の現観はない。
457 :
神も仏も名無しさん :2012/10/14(日) 10:34:02.04 ID:jiYNrB7y
>>376 彼が宗教的な才に長けていたのは確かです。
普通の人には難しい行をすぐやってのけた、とか。
あとは語りの面白さですね。
ええ、ですが事実混ぜ物です。
>>389 ラーマクリシュナとクリシュナは別人ですが、
書物の類に重きをおかないラーマクリシュナも
ギーターだけは別物、と言っていたそうです。
たしか田中かん玉さん訳のギーターの解説に書いてありました。
>>390 「真のバラモン」を語る文脈で出てくる「真実」や「理法」に
ヴェーダが結び付けられることはありません。
458 :
大滝秀治 :2012/10/14(日) 10:35:27.98 ID:Svf6rhza
>>442 あのね、62見なんか間接現実でのごく普通の戯論理で書かれてますから、
このスレのすれっからし程度でも(賢者でなくとも)『理解』できますよ。
俗論・戯論満載ですよおw
>> 448 :暇人さんの通りです。
459 :
神も仏も名無しさん :2012/10/14(日) 10:58:31.68 ID:jiYNrB7y
「このように執着され固執された見解」(六十二見)が 「このような趣く先」(転生)をもたらす、という対応関係です。 六十二見信じてる人達は最近さっぱり解脱者を輩出していないな、という文言ではありません。
460 :
大滝秀治 :2012/10/14(日) 11:01:11.95 ID:Svf6rhza
>>445 不説
>仏教とも部分的に重なる部分はあるにせよ、違う部分も多分にあるんで、どうや
>っても全面的に肯定はできないのですよね。
あんたがなんでそんな学者分類の古代人の類型の枠内でしか分類しようとしないのか、倚りかかろうとするのか、
型にはめようとするのか、自由であろうとしないのか、
既成概念でそーとー頭が固定化してるんとちゃうか?
そんな既成概念をぶち破って、法を現観するのが仏法やろ?
戯論はしょせん戯論やから、『間違い』なんか怖れることはないねん。アホでもええねん。
茨木のり子『倚りかからず』
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/shisyu.html 仏教にも同じことが言える。
仏法は固定(教義)仏教にはない。ありもしない仏教(故川上雪担老師)に倚りかからず。
その意味ではアタシは仏教徒ではありません、仏法徒です(なんのこっちゃ、掴めますか?アカンかなw)
アタシは何度も言うように、自帰依、法帰依のフリースタイルでっせ。
【間接現実】自帰依 ← (大疑団)フィードバック(菩提心) → 法帰依【直接現実】
各種筏の実践的検証
<仏教議論スレッド44>
657 :遊びをせむとや生まれけむ:2012/08/19(日) 07:51:24.07 ID:bNAXtUsG
あのですね、皆さん
仏道は実践であって、
自帰依、法帰依が基本コンセプトであって、
学生の試験じゃないですから、
先生に教えてもらったり、教科書(仏教)通りではアカンのやで。
461 :
神も仏も名無しさん :2012/10/14(日) 11:09:58.16 ID:jiYNrB7y
>>445 インド新仏教とアージヴィカって似てますね。
462 :
大滝秀治 :2012/10/14(日) 11:12:35.96 ID:Svf6rhza
>>448 暇人
>この諸法は「深遠で、見がたく、了知しがたく、寂静で、勝れており、 思考と思惟とを超えており、 微妙」である故、
>「パンニャの人だけが理解できる」のです。
アタシは梵網経のこの文言に問題がある、
梵網経は画竜点睛に失敗した落第経だと言っております。馬脚・狸の尻尾が出たあ!
パンニャの人は諸法を無分別智直覚(照見←般若心経)します。理解しません、できません。
『この諸法』を勝義(法)とするなら、『如来がみずから悟り体現して教示』するためには、(アタシが表現するなら)分別否定で
『深遠でも浅薄でもなく、見がたくもなく見やすくもなく、了知しがたくもなく了知しやすくもなく、寂静でも喧騒でもなく、
勝れているわけでもなく劣っているわけでもなく、 思考と思惟とを超えているわけでもなくいないわけでもなく、 微妙でもなく明晰でもない』
と四句第4の間接両極否定形式で中道を隔靴掻痒に示唆しなければならないはずです(中論18-6・8、尚22-12)。
(説示のヘタクソさは別w)
また『理解』は相対(矛盾)を前提として知性で分別選択すること(分別)であって、間接現実でのはたらきです。
縁起の直接現実(あるがまま)は―何度も繰返すように―無分別智直覚によってでしか掴む(現観:照見←般若心経)ことができません。
だからこその『二相の相即的実践』(
>>244 >>346 )であり、坐る=身心を調える(道元)ことの実践の重要性があるはずです。
法は(日常的)実践のなかでしか顕現しません。
大滝秀治さんへ ↓ これは、どうでしょうか?
http://d.hatena.ne.jp/hotokenomichi2008/20100924/1285276226 中観の帰謬派と自立論証派との相違について
世俗(言説)の領域であるとはいえども
そのような実体(自性・自相)を認めてしまうということは
いくら世俗(言説)の領域に限定しても許されないとして
中観帰謬論証派からは激しく批判されることになります
中観論者は、本来、自立論証は採用できず
相手の主張の矛盾・誤謬を指摘して
その実体論の誤りを正すという帰謬論証を用いて
空・無自性を論証していくことしかできないのであります
また、もちろん
「○」は無実体・無自性・無自相、空なるものでしかありませんが
「○」は、世俗(言説)において
「分別によってただ仮に名のみが与えられているもの(仮名・仮設)に過ぎない」ということで
中観帰謬論証派は「○」について一応は言えることができるという立場として
「言説有」を扱うのであると考えています
464 :
神も仏も名無しさん :2012/10/14(日) 11:23:15.61 ID:jiYNrB7y
釈迦って、「あなたの教えや修行のうち、これこれは受け入れられないのでやりません」と 弟子が物申すことを許容してましたっけ?修正せずに許してましたっけ? 能力上まだできない(正しさそのものは否定しない)、 という以外の理由で、一部でも否定することを容認しないのなら、また それを弟子に要求し、弟子もそれを受け入れるなら、それは「信」に見えます。
発達障害はストレス性の機能障害であり生活の不活発化が招く賜物です。 現状では山にこもるなんて野人の真似はできませんから、 生活の活発化の延長線上に坐るという仏道修行があるべきことを示唆します。
釈迦は野人の上に苦行を重ねまくった馬鹿者です。 常人にかなうわけがありません。
467 :
大滝秀治 :2012/10/14(日) 11:48:59.10 ID:Svf6rhza
>>440 貴重な御教示ありがとうございます。
仏法中心だったアタシにとって、自己消化で手一杯で、
シャンカラさんは少し齧った程度で、大変勉強になります。
>一つはブラフマ・スートラが、大きな矛盾を含んだ聖典だった事。2つ目は、当時インドで、仏教が大きな勢力を持ち始め、
>既存のヴェーダの哲学が脅かされていたという事。 これらを一人で打破したのが、シャンカラであり
なるほど、やはり『四姓階級制度(カースト制度)の最高位に君臨する「バラモン」階級支配の徹底であり、
壮大にして鉄壁のヴェーダ哲学の体系に裏づけられたバラモン=ヒンドゥ教の護持』(
>>434 )が当然の根本動機だったわけですね。
ヤージュニャヴァルキア以来のバラモン=ヒンドゥ・イデオロギーの中興の祖ですね。
結局、中観仏教は刺身のつまであり、手品の道具だったわけで、
機能的には『生まれによって賤しい人となる』『生まれによってバラモンとなる』(Sn.136)体制の護持だったわけですね。
あたしは思想はタテマエ以上に、(宗教的道の)実践である以上、
機能主義(Functionalism)的に把握・検証するのが当然だと思っています。
これからシャンカラさんのこと考えていきたいとおもいます。
御教示、よろしくお願いいたします。
468 :
大滝秀治 :2012/10/14(日) 12:19:43.13 ID:Svf6rhza
>>463 >中観の帰謬派と自立論証派との相違について
アタシは論証形式そのものには興味はありません。
ただ、ブッダの本懐は実存苦の根本的超克であり、
実存苦の原因(縁起)が我執であり、
我執はその対象が実在するとの想いである以上、
「存在」につき、
・主体→無我<有⇔無の無(世俗)+非(勝義示唆)>
・対象→無実体<無自性(自立・単一・恒常)> *縁起現象
と把握するのが本懐上必然のことであって、
執着の種(実体とか超越妄想とか)は認められません。
結論として、中観帰謬論証派に同意します。
>>457 ラーマクリシュナは読書をしない人だった。
>でもギーターだけは別…
「いつまでも取り扱い説明書ばかり読んで実践しない馬鹿者!」
と宗教的阿片中毒者を手厳しく批判してますよね。
でも俺はラーマクリシュナが「華厳経」を読んだらどんな評価を下すか実に興味深いですわ…
470 :
神も仏も名無しさん :2012/10/14(日) 13:04:58.73 ID:ZoCy7PdT
62見か? これもよく引用されるところではあるな。 よってきちんとした見解を希望ww さて、暇人の見解の是非は?ww 楽しみなところだwww >遊び大王 >『深遠でも浅薄でもなく、見がたくもなく見やすくもなく、了知しがたくもなく了知しやすくもなく、寂静でも喧騒でもなく、 > 勝れているわけでもなく劣っているわけでもなく、 思考と思惟とを超えているわけでもなくいないわけでもなく、 微妙でもなく明晰でもない』 最後に『以上の言辞も、また同時に滅す』・・・・・これを入れ忘れてないか?ww (そこでいつも一代とぶつかると思うのだがwww)
>>446 >>463 >中観論者は、本来、自立論証は採用できず
>相手の主張の矛盾・誤謬を指摘して
>その実体論の誤りを正すという帰謬論証を用いて
>空・無自性を論証していくことしかできないのであります
これは、
>なぜ、仏教は他の宗教に比べて内向きで排他的なのだろうか?
の一面を表すいい例ですね。
仏教側がいくら相手の主張の空・無自性を論証して導いていると言っても
こんなの揚げ足取りの何者でもありませんから、龍樹自身の話ではありませんが
弟子提婆が外道から恨みを買って殺されたという話が残っている事からも分かる通り
龍樹の作った中観派もっと言えば仏教と言うのは、排他的要素が強いです。
やはり、ただの仏教徒ではなく八宗の祖師と称される龍樹の弟子が恨みを買って
殺されるなんて話が、真偽にかかわらず残ってるって自体で異常ですよ。
472 :
遊び大王 :2012/10/14(日) 15:13:09.68 ID:Svf6rhza
>>470 >最後に『以上の言辞も、また同時に滅す』・・・・・これを入れ忘れてないか?ww
戯論寂滅で当然といえば当然ですが、めんどくさいパラドックスに陥るので、一応パスしたのですが。
触らぬ神に祟りなしですが、仏法的には《関》といえます。
『この言辞を含めて、滅す』と自己規定しても、当該言語そのものは自己否定できない言語ゲームですから、
<『以上の言辞も、また同時に滅す』×無限乗数>としなければなりません。
これで直接現実に無限近似しますが、ゼノンの言うとおりなら、永遠にとどきません。
ゼノンのパラドックス<[飛ぶ矢]は飛ばない>ですね。
永遠に『滅す』ことはありえません。→『滅するものは滅しない』
これをブレイクスルーできるでしょうか?
>そこでいつも一代とぶつかると思うのだがwww
ぶつかってませんよ。
オイラ氏が勝手に誤解されて絡んでこられるだけですよ。
>>468 大滝秀治さんへ
> 執着の種(実体とか超越妄想とか)は認められません
ブッダの人と思想(NHKブックス)/中村元(1998/07)
40ページ
非想非非想処
想うのでもなく想わないでもない境地
滅尽定(想受滅定)という最高位の禅定の
一歩手前の境地であるといわれております
51ページ
四如意足(四神足)
神通力の基礎となる力で
意欲、努力、思念、観察へのそれぞれの集中力のことで
それを修めて悟りを開いたというものです
意欲、努力、思念、観察は悟りへの必須の条件でもあります
↑ この「神通力の基礎となる四如意足(四神足)も超越妄想の範疇である」と考えますか?
>>457 >「真のバラモン」を語る文脈で出てくる「真実」や「理法」に
>ヴェーダが結び付けられることはありません。
『真実もてみずから制し、(諸々の感官を)慎しみ、ヴェーダの奥義に達し、清らか行いを修めた人、──
そのような人にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。』
(Sn.463)
『ヴェーダに通じ、安らいだ心を楽しみ、落ち着いて気を着けていて、全きさとりに達し、多くの人々に帰
依されている人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を
求めて祀りを行うのであるならば。』(Sn.503)
『何ものをも所有せず、欲の生存に執著しないバラモン・ヴェーダの達人であるとそなたが知った人、──
かれは確かにこの煩悩の激流をわたった。かれは彼岸に達して、心の荒びなく、疑惑もない。』(Sn.1059)
『悪いことがらを除き、邪曲なく、穢濁も無く、自己が確立していて、ヴェーダの奥義に通じ、清らかな行
いを修し、適当な時にブラフマンに関する論議を語り、その人のうちには欺きも無く、慢心も無く、貪りを離
れ、「わがもの」という観念が無く、望むところも無く、過ちを除き、みずからが解きほごされてやすらぎに
帰した人、---かれは<バラモン>である。かれは<修行者>である。かれは<修行僧>である。』
(ウダーナヴァルガ33:13-14)
はい、ご覧の通りです。
そして、ゴータマが称賛するバラモンとはヴェーダの究極の目的に達した人を意味し、
それは“仏教の説く涅槃”と同義で語られていることは
>>390 で示した通りです。
当時のバラモンたちに完成者がいなかったので、それを達成してみせたのがゴータマでした。
これが後に仏教と呼ばれるものになった言うほうが判りやすいでしょう。
こういうのを、ゴータマはあくまでもバラモン教の一派(異端派)であったという説の元となっています。
476 :
大滝秀治 :2012/10/14(日) 17:39:49.25 ID:Svf6rhza
>>473 >「神通力の基礎となる四如意足(四神足)も超越妄想の範疇である」と考えますか?
考えません。
四如意足とは要するにモチベーション(motivation)のことですから。
モチベーションの源泉となる菩提心は仏道の根本です。
モチベーションなくして遊んでいても面白くありません。
「まこと熱意をこめて思惟」しないと「かの万法のあらわとなれるとき」はありません(ウダーナ1-1)。
悟りのチャンスは、モチベーションで準備できたものでないと掴まえられません。気づきもしません。
仏道は実践ですから、やはり二相の相即的実践(中論25-19)が大切だと思います。
浄土とか、神通力とかは興味ありません。
大袈裟坊主の釣り餌をありがたがることはありません。
>>457 >そして、ゴータマが称賛するバラモンとはヴェーダの究極の目的に達した人を意味し、
>それは“仏教の説く涅槃”と同義で語られていることは
>>390 で示した通りです。
>当時のバラモンたちに完成者がいなかったので、それを達成してみせたのがゴータマでした。
確かに一理ある思います。ただ仏教では、絶対認めないでしょう。(なぜ、認めないのか私にはわかりませんが)
ただ、ヴェーダの究極の目的は、言うまでもなく梵我一如です。不二一元論は、釈尊の時代に当然ありませんから
梵我一如の梵は、宇宙的な意味を含んでいることになります。しかし釈尊は、アートマンと取れる事は言っていても
ブラフマンについては、全くと言っていい程言及していません。むしろ、宇宙的なブラフマンは否定されているとも云えます。
釈尊をバラモン教の一派とした場合、この矛盾はどう説明するのでしょうか?
478 :
477 :2012/10/14(日) 17:51:08.64 ID:tYYCa0WH
>>389 大王さん。
ギーターちゃんと全文を読みました?
この至宝の書を!!
>ラーマクリシュナは読書をしない人だった。
>>でもギーターだけは別…
>>469
あなたの姿勢とモチベーションも評価します。
>>460 >あのですね、皆さん
>仏道は実践であって、
>自帰依、法帰依が基本コンセプトであって、
>学生の試験じゃないですから、
>先生に教えてもらったり、教科書(仏教)通りではアカンのやで。
>>462 >法は(日常的)実践のなかでしか顕現しません。
>>467 >あたしは思想はタテマエ以上に、(宗教的道の)実践である以上、
>機能主義(Functionalism)的に把握・検証するのが当然だと思っています。
>>476 >浄土とか、神通力とかは興味ありません。
481 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/10/14(日) 18:41:45.59 ID:cgq1rSG8
>>456 識別し得ない自性を、自性という名称で思推している竜樹の中論は、
のっけから間違ってるよな。そんなことも気付かないで、中論など下らない言葉遊びに過ぎない論に
夢中になってる空理空論患者の君らはまことにおめでたい。あと君らは自性と真我をごっちゃにしてるようだけど、
不二一元論の「一」は、名称の「一」な。仏教は無我にて候う。俺の話しは、便宜上、自性と表現されているものも含め、
ゴータマの仏教となんら矛盾するものではない。ま、開きメクラの空理空論患者の君らには、
理解できない話なんだろうけど。
>>479 You say yes. I say no
You say stop and I say go go go.
Oh! No!
483 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/10/14(日) 19:14:01.12 ID:cgq1rSG8
空理空論中論教患者の皆さんは、無意味な言葉遊びに耽って今生を棒に振るといいよ。 日頃得意気に戯論の寂滅を唄う御仁が、一番、あくまで言語上の本質的には全く無意味な言葉遊びに 過ぎない戯論に夢中になってる様を観察してると非常に笑えるところである。
>>483 中論教患者でない反宝・カラ・在派もいるわけだが、
いつも反中論しか言わないのなw
485 :
宝珠さんへ :2012/10/14(日) 19:31:26.92 ID:Dcw6wn8Z
Please Learn The Flower Ornament Scripture… Thank You Good bye…
>>458 >>460 aka 閻魔大師
>あのね、62見なんか間接現実でのごく普通の戯論理で書かれてますから、
>このスレのすれっからし程度でも(賢者でなくとも)『理解』できますよ。
それは「本物の」禅定の境地をナメ過ぎじゃないのかと……
>あんたがなんでそんな学者分類の古代人の類型の枠内でしか分類しようとしないのか、倚りかかろうとするのか、
>型にはめようとするのか、自由であろうとしないのか、
この点に関しては、何度も弁明している通り、私は、宗教に関してはプレイヤー(出家修行者)ではありませんから。
ギャラリー(在家信徒)に過ぎないので、世に存在する様々な沙門・バラモン(宗教の「中の人」たち)を客観的に
比較考量して、“昆虫図鑑”・“ウルトラ怪獣図鑑”よろしく、分類観察したいという気持ちがあります。邪見に基
いた教祖や宗教の教えに従うと、信仰心が強ければ強いほど、(邪見のせいで、その宗派では善と見做してしまって
いて)悪業に邁進してしまう結果となる可能性があり、だからといって業は「騙された!」などという申し開きの余
地なく、悪業には悪果をもたらすので、様々な沙門・バラモンたちの言動を分析・分類し、近付くべきかそうでない
かを判断することは、“消費者”サイドの自衛のために必要なのです。
ちなみに、井の頭線に乗っていたとして、短躯の顔のでかい男が、長髪にしてヒールの高いブーツを履いて松田優作
に成り切ってギロギロを周囲を見回していたらどうでしょうか? 子供が、「あ、松田優作だ。サイン欲しい」と言
ったら「シーッ、あれは松田優作やない、竹中直人や!」と注意しておかないと危険ですね。
※ちなみに私はブレイクする以前の東京イエローページの竹中さんの大ファンです。上記は彼の学生時代の逸話です。
>アタシは何度も言うように、自帰依、法帰依のフリースタイルでっせ。
正自覚仏陀釈尊の導き教えの系譜と無関係ということでしたら、独覚仏道ということですね。
>「中論」は戯論の無意義にして害多きことを示すを唯一の目的とする。
これは、認める。形而上学的議論を無意味化するという意味では、中論の四句否定など龍樹の論理学は
効き過ぎるほど抗力がある。そして、仏教世界観の中においては、全く矛盾はない。ここまでは認める。
しかし、実践という意味では、正直大した意味はない。逆に、悪影響でさえある。実践を2chで語ってもしょうがないので
実践的な仏教を一般向けの著作で多数出しているアルボムッレ・スマナサーラさんを例にあげる。スマナサーラさんは、
著作のなかで、龍樹は、仏教を哲学にしてしまった批判している。詳しくは動画もあるのでこちらで肉声を聞いてください。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm18677241 「論理学をお釈迦様は、否定してます」
「論理学〜そんなものは捨ててしまえ、迷惑だ」
「龍樹の大失敗は〜」
「悟りが無くなっちゃうんですね龍樹の世界では」
「論理学者は、有難がるかもしれないけど、まあ、あまり気にしないでください」
「真理は論理的ですが、論理は真理的ではありません」
これは、意図的に抽出したので、各個人で確かめてください。あと、スマナサーラさん論理を全否定したわけではなく
稀に、天才みたいな才能がある人なら論理で悟る事もあると言っていますのであしからず。
489 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/10/14(日) 21:16:39.63 ID:cgq1rSG8
スッタニパータなどを読むと、ゴータマは、ご丁寧にも、
涅槃とは名称と形態の滅んだ識別作用の及ばない境地だと言ってくれている。それを
自性という名称で思推して、無自性という相が表れるから自性はないなんて思推している馬鹿がいる。竜樹のことだけどな。
>>487 出た。中論を批判する奴が出てくると、中論を理解してないというお決まりのフレーズが。
理解していないというならどこがどう理解していないのか一切説明なしなのもいつも通り。こんなのは誤魔化しなんだよ。
だから君ら末法仏教の坊主とその信奉者は詐欺師だと言うんだよ。中論は、
識別し得ないそれを、ただ便宜上自性と表現しているだけなのに、名称として思推している、
のっけから間違ってるガラクタだ。識別し得ないそれは、名称という言葉で思推できない。名称は識別するもの。言葉は識別智。
理解していないのは、中論は世俗を無理矢理勝義に当てはめて論じているから、
ただの言葉遊びに過ぎない、本質的には全く無意味な詭弁論だってことにも気付かない空理空論中論教患者の君らの方だろ。たく、
空理空論中論教患者の連中は、詭弁を極めることが仏教だと思ってやがる。
490 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/10/14(日) 21:38:10.40 ID:cgq1rSG8
おっと。俺は別に便宜上自性と呼ばれているそれを、 在るとは言っていない。また無いとも言っていない。相がなく存在?しているものがあるとしたら、その本質はなんなのか?少しでも 智恵のある者なら気付くはずだ。そうなれば、それは在るとも言え、無いとも言えるものだと理解する。
> 弟子提婆が外道から恨みを買って殺されたという話が残っている事からも分かる通り > 龍樹の作った中観派もっと言えば仏教と言うのは、排他的要素が強いです。 この話、気になるよね。提婆って実際、どれだけ竜樹の縁起・空・中道を理解してたんだろう。 竜樹が恨まれなかったことから察するに、やっぱり提婆は竜樹には遠く及ばなかったとか? 空見に陥っていたとか?
>>490 >在るとも言え、無いとも言え
それが反仏教だと、なんで解らないのでしょう?www
493 :
神も仏も名無しさん :2012/10/14(日) 21:53:13.15 ID:Ckpo9tl5
妄想ストームだね〜 こりゃ、収まるまでどうしようもない
>>488 > しかし、実践という意味では、正直大した意味はない。逆に、悪影響でさえある。実践を2chで語ってもしょうがないので
> 実践的な仏教を一般向けの著作で多数出しているアルボムッレ・スマナサーラさんを例にあげる。スマナサーラさんは、
> 著作のなかで、龍樹は、仏教を哲学にしてしまった批判している
うーん、縁起・空・中道・仮設が分からないと、実践しても実りあるものにならないってことじゃないの?
縁起を理解することは悟りに至るための必要条件。
あるいは、前に一代さんも言ってたと思うけど、
知識が自分を欺いて慢心へ誘うように、体験も自分を欺いて慢心へ誘い得るだろう。
縁起を知らないで実践(禅定)だけする外道も、仏教以前にもあったし、
出家前の釈尊が、意識を駆逐しようとする行者に対して「意識は邪念だけでなく正念をも起こす因ともなるでしょう?」
と批判したように、縁起・空の理解は仏教の悟りにおいては欠かせないんじゃないかな。
>>492 補
そして、(宝珠もそうだが)
一切・一切外の話になるわけだw
お釈迦さんは、一切内については、あるものはある、ないものはない、と明確に説いておられるし、
一切の外に関しては、無記として捨置することを示しておられる。
なぜか? 涅槃に資するかどうかのみが、お釈迦さんにとっては基準だから。
神智学始め、各種神秘主義的諸々も(つまり宝珠もカラスも在家も)、
涅槃からは程遠いってことだ。
風呂で思いついたんでここまでの流れを読まずに(読んだところでいつも 浮いてますがw) 秀治様 なぜ釈迦は教えを残さなかったのか?何となく考えてたんですがこんな妄想を してみました。 正しい教えを理解して、解脱を垣間見、ただしく修行したものは解脱できない・・・ という構造があるからでしょうか? 理解できず、垣間見ることもなく、なお正しく修行し、自分でつかんでいく者・・・ だけが解脱できるんではないでしょうか? 理解し、垣間見たがゆえに解脱できない者を菩薩と呼ぶのでしょうか?だから かれらは献身的に、なお楽しく指導していくのでしょうか。 だから彼らは理解できないようにあの手この手で導くのでしょうか。 ここで思ったのは信です。親鸞は如来にひとしいと言いました。でも如来とは 言いませんでした。やっぱり信では解脱できず、菩薩風にしかなれないのでしょう。 ただし、それは最大級に肯定的に言われてるとは思いますが。 なにせわしの様な壊れた者でも、理解できないままでも仏事をするらしいからw では今までのぶんをROMるかなw
497 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/10/14(日) 22:30:28.47 ID:cgq1rSG8
便宜上、自性と呼ばれる境地をキリスト教では安息日と呼ぶ。 だがその境地に達したからといってゴールではない。光りあれば闇あり。 人は、安息日から明けの明星を認識したときに全てを悟る。全てを悟れば我々は本来愛し合えばならない 存在だと悟り、私とあなたを分かつ我々は生まれながらに悪い存在だと悟り、 私とあなたを分かつ我々は、生まれながらに人殺しだと悟る。光りあれば闇あり。 安息日から明けの明星を認識する。その時人は全てを悟る。一代とかいう仏教だけは他の宗教とは違う特別なもの だと思っているエゴ丸出しなアホは意味もわからず言っているようだが、サマーディ から縁起観を得るのが悟りとはそういうことだ。
>>494 >うーん、縁起・空・中道・仮設が分からないと、実践しても実りあるものにならないってことじゃないの?
難しい事聞くね。私が答えれる範囲で答えるなら。
>縁起を理解することは悟りに至るための必要条件。
仏教において理論は、というか釈尊の教えは、悟りの為の十分条件である。
仏教で、独覚を認めていることから見ても、前もって仏教の縁起を理解することは悟りに至るための必要条件ではないことがわかります。
維摩経を例に取ってみても、十大弟子と言う厳しい修行を積んだ人々が、維摩居士に遠く及ばないというエピソードから分かる様に
修行すらあくまで手段の一つであると言えるわけです。
つまり、繰り返しますが仏教は、悟りの為の十分条件です。その意味で言うと
命題「縁起・空の理解は仏教の悟りにおいては欠かせない」は、真ですが
命題「縁起・空の理解は悟りにおいては欠かせない」は、偽となります。
少なくても上座部仏教からみて理論はあくまで実践の補助なのでスマナサーラさんは、
理論に明け暮れて修行をおそろかにするな。さっさと修行しろ。と言いたいのではないでしょうか。
>>499 補
お釈迦さんが示したこととは似ても似つかないんだから、
仏教と絡めて語るのは止めようねと、何度言ったらわかるのやら・・・ ┐(´ー`)┌
501 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/10/14(日) 22:54:46.76 ID:cgq1rSG8
識別し得ない自性と呼ばれるそれは、言葉では正確にいい表せないが、 不二一元の「一」は、名称の「一」である。もちろんそこには「多」という相が表れる。前にも書いたが 漢字というのは実にキリスト教的でもある。代表的なのは、耳と口と王と合わせて聖なるかなとなる。命という字も かさの下に口という字が入る。さて、一切という字だが、これは、一を切って、つまり二つに別けて一切と読む。つまりこの世のことだ。 漢字の成立にはどういった人達が関わったのか興味を引く。勘違いしていけないのは、 ゴータマは、一切外のものは無いとは言っていない。またあるとも言っていない。ただその領域は 我々の知識領域を越えていると言っているだけなんだよ。一代とかいう縁起馬鹿は全く理解していないようだけどさ。
>>501 には、縁起が欠けているってのが、なんでわからないかなぁ・・w
503 :
神も仏も名無しさん :2012/10/14(日) 23:02:49.93 ID:Ckpo9tl5
>>501 >我々の知識領域を越えていると言っているだけなんだよ。一代とかいう縁起馬鹿は全く理解していないようだけどさ。
縁起馬鹿というのは君の命名なんだが。
そこでちょっくら、それに因んで
縁起バカ一代といってみたんだ
504 :
神も仏も名無しさん :2012/10/14(日) 23:02:55.84 ID:tYYCa0WH
>>502 「縁起」は縁起するのか
「縁起」は縁起しないのか
505 :
神も仏も名無しさん :2012/10/14(日) 23:10:54.66 ID:Ckpo9tl5
>>504 「縁起」これが何を表しているかによるよ
言葉・記号としての縁起か、現象としての縁起か、法性としての縁起か?
縁起はなんらかの繋がりだから運命論的なとこがある。 しかし人間がDNAプログラムに支配されているとしたら その許容範囲外は自性ということになりうる。 何にせよ縁起によらなければ存在しないということであり 無自性空を否定できるものでもない。
>>505 そう、そこが重要。しっかり言葉の定義をしなければ、批判しても無意味。
しかし、一回定義してしまった瞬間、自分自身がドツボにはまるわけだ。
まあ、「縁起」とは何かを考えるだけで瞑想になるから、自分自身で「縁起」とは
何か?真実なのか?を常に考えて確かめて見るといい。
例えばギーボード叩いてる自分の指を意識してみたりするといいと思うよ
初めは難しいけどw
>>498 >命題「縁起・空の理解は仏教の悟りにおいては欠かせない」
>命題「縁起・空の理解は悟りにおいては欠かせない」
ごめん、この2つの命題って何が違うの?後者は独覚の悟りということ?
>理論に明け暮れて修行をおそろかにするな。さっさと修行しろ。と言いたいのではないでしょうか
俺も浅学だから間違ってたらごめんなんだけど、
理論に明け暮れていたのはむしろ、竜樹が批判した部派の人達なんじゃないの?
哲学のための哲学というのかな、衒学的な感じの人達。
そういう名声を得るための論争が生まれるのは実有の考えが根底にあるからだよっていう。
だから、その実在すると考えられる理論や見解を棄てなさいっていう。
509 :
カラスの唄 :2012/10/14(日) 23:41:37.43 ID:cgq1rSG8
>>499 宗教上の話しはできない。してもつまらない話しかできないただの唯物論者のおまえが宗教板になんの用だ?
仏教の苦の滅は、死という生命の根源的な苦を対象にしたものであって、
世俗的な苦の滅には気休め程度のものしかならないってことくらい早く気付けよ。
といっても智恵の欠片のないおまえにいくら言っても馬の耳に念仏だろうけどな。唯物末法仏教の信奉者は、
あくまで世俗の苦の滅を求めて仏教に群がるところなんざ、いかにもゴイムらしいやな。揚げ足取るしか能のないカスがよ。
510 :
カラスの唄 :2012/10/14(日) 23:52:04.52 ID:cgq1rSG8
>>492 俺はゴータマが外道と称した詭弁論をはなしてるわけではない。
自性と呼ばれるそれの本質を知れば、自性(一切外)はないとなるが、
見方を変えれば、それを自性と定義しても問題ないものだ。ゴータマは主に前の立場で話し。
多くの他の聖者は後者の立場で話しただけの違いだけで、いってる本質は同じものである。ま、あくまで
仏教だけは特別なものにしたい開きメクラの君らにいくら言っても聞く耳持たずだろうけど。
>>508 悟り云々の話は、悟って見なくちゃわからないから、あんまり細かい事言ってもしょうがないけど
2つの命題の違いは、「悟り」自体にはない。悟りの境地に優劣を付けることは、あるけど解脱という意味では同じ。
後者は、菩薩、声聞、独覚を含む悟り(個人的には、外道の解脱者も含めた悟りの全体集合を意識したがまあいい)
前者は、悟りのための滑走路がしっかり整備された=仏教の、つまり「出家者の」を意味する。
>理論に明け暮れていたのはむしろ、竜樹が批判した部派の人達なんじゃないの?
これは、通説ではそうなってるけど、
>>463 にあるように、後世の中観派は、龍樹の論理を論証しようと
帰謬派と自立派に分かれて、理論に明け暮れてる。これは、中論をよめば龍樹自身にも言えることで、
論争や哲学する暇があったら、修行しなさい。と言った釈尊の教えを無視してる。
まあ、結果として仏教は哲学として大きく発展することになったわけだから否定しないし、龍樹が偉大であることに変わりはないよ。
512 :
神も仏も名無しさん :2012/10/15(月) 00:10:08.93 ID:xrCypNw2
>>474 書題、聖典名としてのヴェーダとすることには無理があります。
「ヴェーダの達人」のくだりは、釈迦が自分のような「如来」は献供を
受けるのにふさわしい者だ、と主張する場面であったり、
既存のバラモンを否定し、同じ名で別の定義に換骨奪胎したものです。
貴方が挙げられたウダーナヴァルガではバラモンの特徴として
「バラモン」たる者がしている物として様々な実践も紹介されています。
糞掃衣をまとって瞑想する、心を制御し、欲を捨てる、八正道を行う。など。
この中で釈迦がここで言及せず、弟子に命じもせず、薦めもしなかったものがあります。
三ヴェーダを学び、信じ、また実践する、です。
バラモン階級からの改宗者もおり、それを行として組み込み、やらせることは可能であったにも関わらず、です。
ここでの「ヴェーダの達人」とは明知、知識という語義を持つ語を
バラモンのように再定義したものと考えるのが適切でしょう。
513 :
神も仏も名無しさん :2012/10/15(月) 00:35:58.53 ID:xrCypNw2
バラモンが一般的とは違う意味に再定義されたのに、 どうしてヴェーダはそうでないと言えるのでしょうか? 梵網経の62見には時代を現在(当時)に限定する文句はありませんが、 あくまで当時限定とするなら、釈迦が、過去七仏等仏法の聖者や その弟子以外から、解脱者が出た、と認めた例はあるのでしょうか?
514 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/10/15(月) 00:37:01.29 ID:1oSOzl8z
>>499 安息日やら明けの明星やらと、キリスト教的な表現で真理を語るとたちまちそんなの仏法ではないとくる
君の智恵の無さに乾杯。君らはただ表現が違うだけで言っている意味は同じだってことを一向に理解しない。あと、
俺の話のどこが縁起が抜けてるのか?教えてほしいものだね。
>>511 これは憶測でしかないけど…
いやー、その、釈尊が論争や哲学のための哲学を咎めたのは竜樹もよく分かっていたと思うんだよ。
敬礼する釈尊のその論争や哲学するなという教えを意図的に無視したってのはちょっと考えにくいよ。
「頭ばっかり使ってないで修行もしなきゃな」なんて並大抵の人間が(それこそ俺らでも)思いつくようなことなんて
竜樹の頭の中には(質は違えど)当然のこととしてあったんじゃないかな。
しかし、それでも尚、それでも尚、竜樹は中論を書いた。
こういう背景を想像すると、「ただの思弁哲学」で簡単に一蹴する気にはなれないし、
竜樹の中論が結果的に中観派の論争などを生んだとすれば、
それは竜樹の意図を正しく理解していなかったと考えることも不自然には思えない。
(自分は竜樹には興味あっても、中観"派"にはあんま興味ないし…)
だから、低めに評価するとしても、論争を鎮めようとする彼の試みは失敗した、というところじゃないかな。
(それも、誤解しない者が読めば問題ない気もするけど…)
どんなに間違いを教えてあげても空理空論中論教患者は中論を捨てられないでいる。 ここに執着する愚か者のいい見本がいる。竜樹の中論は別にゴータマのように瞑想で悟りを得て書き上げたものじゃなく、 単に竜樹の思推を元に書き上げたもんだろ。竜樹自身瞑想等の実践派ではなく、学識派というか、ただの 頭でっかちだったと思うしね。
龍樹の瞑想体験が、どういうものだったのかは 確か、石飛道子さんの著作「龍樹 あるように見えても「空」という」三章に 分かりやすく解説されてたよね。今、手元にないんだが、誰か転記してくれると嬉しい。
518 :
カラスの唄 :2012/10/15(月) 02:05:13.86 ID:1oSOzl8z
ゴータマのサンガの流れを汲むテーラワーダなどは慈悲の瞑想に重きをおき、 そこの信者(会員)さん達も挨拶代わりに皆さん幸せでありますように。生きとし生けるものは皆幸せでありますようにとやってる わけだが、日本の中論かぶれの自称大乗仏教は全然やらないのな。中には慈悲の瞑想すら知らないのが多数いる。 そりゃ中論にかぶれらゃ、二元世界の束縛にある世俗でも勝義を当てはめ、善悪などないなどと道徳を否定し、あげくに 悟りなども無いとほざき、しまいにゃゴータマはなにも説かなかったなんて言ってる妄想患者だから救いようがないやね。
龍樹菩薩造梵志青目釋 姚秦三藏鳩摩羅什譯 中論觀法品第十八 答えて曰く、著法の者は、法を分別するに二種有り、是れ世間、是れ涅槃と。 涅槃は是れ寂滅なりと説き、世間は是れ寂滅なりと説かず。 此の論中にも、一切法の性は空にして寂滅相なりと説くも、著法の者は解せざるが為の故に、涅槃を以って喩と為すのみ。 汝が『涅槃の相は、空、無相、寂滅にして無戯論なり』と説くが如く、一切の世間の法も亦た是の如し。 − − − 空、無相、寂滅と空、無相、無作って対応してる?それとも別物?
ダライ・ラマの 「 中論 」 講義―第18・24・26章 / 大蔵出版 (2010/05) 134ページ 無明を滅したら 行などのすべても生じない 無明の断滅は 縁起という真如を知って それに瞑想することから得られる
(1)空三昧:世間は因縁によって造られ、『我(われ)』も『我所(わが所有、または所属)』もないと観ずること。要は我は空なりと観ずること。 (2)無相三昧:涅槃とは色声香味触の五法と男女の二相と有為の三相(もの、心、ものでも心でもない)を離れることであると観ずること。 (3)無作三昧:無願三昧ともいう。この世に於いて何も願わず何も作らないと観ずることをいう。
>>522 知りませんでした、勉強になりました、ありがとうございます
エゴなき観やね なるほろヒントつかんだ 一からやり直し
526 :
神も仏も名無しさん :2012/10/15(月) 06:10:48.71 ID:H3dblq+S
>>507 いや、別に定義なんかするわけじゃないんです。
対話の中でどういう意味か現れてくるんです。
あまりに短文だと、その意味が確定しにくいので、訊いてるだけですよ。
527 :
神も仏も名無しさん :2012/10/15(月) 06:16:45.17 ID:H3dblq+S
>>517 三解脱門、空三昧、無相三昧、無作三昧から、不生不滅の無生法忍に至る道ですね
528 :
神も仏も名無しさん :2012/10/15(月) 06:29:25.94 ID:H3dblq+S
>>520 >空、無相、寂滅と空、無相、無作って対応してる?それとも別物?
無作は、apranihita が一般的な原語で、無願とも訳され、
意図しない、意志を持たないというような意味です。
それを寂滅とも訳すような、訳さないような微妙なとこですね。
大きくざっくりいえば対応してるとも思いますが、
厳密に検討すると違うかもしれません。
結構、調べないと難しいです。
529 :
カラスの唄 :2012/10/15(月) 06:43:27.01 ID:1oSOzl8z
>>521 どうやら宝珠氏はダライラマの信奉者のようなのであまり言いたくないが、
縁起を真如だとほざいてる時点でダライラマって人は、根本的なところがわかってないと思える。
530 :
神も仏も名無しさん :2012/10/15(月) 06:47:45.10 ID:H3dblq+S
>>529 言ってもしょうがないが、なんで自分が分かってないとは思わないのだろう?
>>19 絵に描いた洋梨からイメージ
まったく知らない、未知の果物(X)であれば、どんなに説明されても、
その(X)をピッタリイメージすることは不可能だろう。
説明では不十分、実際に体験することが決定的に重要である。
532 :
カラスの唄 :2012/10/15(月) 06:59:30.31 ID:1oSOzl8z
>>530 そう思うのは君らが分かってないからだろ。
君らは、君らの仏教では苦の滅の根本的な解決にはならないということも理解してないじゃないか。
文句があるなら俺のどこが分かってないのか言ってみな。
瞑想中、神とアートマンを体験する境地を【涅槃定】としよう。 この方が仏教らしくていいかもしれない。 瞑想の流れは次のようになる。 非想非非想処 → 魔境 → 滅尽定 → 涅槃定 → 成道
534 :
暇人 :2012/10/15(月) 07:03:34.10 ID:+9xOuBX3
>>310 >ヴェーダの説く梵我一如を真に達成した聖者は当時、
>表立った世界にはまったく皆無だったのだろう、と理解します
普通の人からするとヴェーダの説くところは「梵我一如」の真理だとすると
釈尊の言うヴェーダの達人とは「一切の感受したものに対する貪りを離れ、一切の感受を超えている人」
であり、別物かもですね。
529 師が答えた、
「サビヤよ、道の人ならびにバラモンどもの有するすべてのヴェーダを弁別して、
一切の感受したものに対する貪りを離れ、一切の感受を超えている人、
←かれは<ヴェーダの達人>である。」
ttp://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm 確かに、釈尊はバラモンそれ自体を否定したり、ヴェーダそれ自体を否定してません。
しかし、産まれに拠ってバラモンになるということを否定したり
ヴェーダ(知恵)の究極が梵我一如なる境地であることを斥け、
貪りを離れることがヴェーダ(智慧)なんだよと説いているように思います。
535 :
暇人 :2012/10/15(月) 07:05:00.70 ID:+9xOuBX3
>>512 スッタニパータを読んでいますと
「書題、聖典名としてのヴェーダ」の場合もあり、換骨奪胎している場合もあり
経典の中で渾然一体としていると思います。
中村元さんも個所個所で()内で数パターンを示されています。
140 ヴェーダ読誦者の家に生まれ、ヴェーダの文句に親しむバラモン
322 ヴェーダ(真理の知識)
656 三つのヴェーダ(明知)
690 相好と呪文(ヴェーダ)
749理法に住するヴェーダの達人
792ヴェーダ(実践的認識)
976 明呪(ヴェーダ)
1000 諸々の神呪(ヴェーダ)
など
涅槃定が何かは、ウダーナヴァルガ第26章の後半に描かれている。
〜このスレでも、
>>397 で紹介されている。
この章は、釈迦が涅槃定を体験したことの証拠になるだろう。
そこは白い霧がたちこめる、ひたすら清浄な世界である。
537 :
暇人 :2012/10/15(月) 07:29:31.19 ID:+9xOuBX3
>>489 「名称と形態」という訳語が随分と広まったものだが、アホアホな訳だと私は思う。
ギョーカイ用語だと「名色」なのだが、詰まるところは認識対象のことだ。
で、スッタニパータだが「涅槃とは名称と形態の滅んだ識別作用の及ばない境地」
と言ってないのでは?
1037 アジタよ。そなたが質問したことを、わたしはそなたに語ろう。
識別作用が止滅することによって、名称と形態とが残りなく滅びた場合に、この名称と形態とが滅びる。」
これだけだと誤解を招くと思う。前後を読むと
無明が世間を覆っている。無明とは貪りと怠惰だ。
貪りと怠惰は「欲望」に従った結果だ。これは苦悩を産む。
どーしたら、この悪循環から抜け出せるかというと
精神的(名)・物質的(色)な欲望の対象に執着しないことだ。
欲望に耽らず、心を欲望で濁らせなければ
ものごとの本質がよく見えるようになる。気をつけて遊行しなさい。
さて本題。竜樹の自性・無自性は欲望の対象の名色ではないので
あなたの非難は的外れです。
但し、私はこのスレの竜樹党は竜樹を誤読していると思います。
滅尽定はきわめてわかりにくい。何もない、まったくの虚無だから、 その体験さえ意識されない。〜 わたしは、瞑想の前後に時間を確かめ、 1時間程度で終えるのが常だった。ところがある日、3時間の長い長い瞑想を やった。えっと思ったが、体も痛くないし、そんなに経過した気がしない。 この消えた2時間が【滅尽定】である。
539 :
暇人 :2012/10/15(月) 07:51:27.19 ID:+9xOuBX3
>>538 違うよ。>この消えた2時間が【滅尽定】である。
何もない虚無が悟りなのであれば、あなたは言葉も無くすはずだ。
何もない虚無が悟りなのではなく、欲望に執着することから開放されるのが悟りです。
3時間を1時間に感じられたのは、単に【集中】されていただけです。
集中すると時間を短く感じるものです。
滅尽定があったことは、後から、それもだいぶ経ってからわかる。 なぜかといえば、涅槃定の体験が強烈であり、それに圧倒されているからだ。 しかし、涅槃定の体験時間がそれほどではなく、差引すると、 どうしても時間が合わない。その合わない時間が滅尽定だったことになる。 空に何らかの手ごたえがあるなら、この虚無こそが空である。
>>539 >>533 で書いたように、
滅尽定で終わりなのではなく、涅槃定、さらには成道へと瞑想は続く。
滅尽定で終わる瞑想はやったことがない。そういう終わり方は、
瞑想しながら死んでしまう、いわゆる死を意味するようにしか思えない。
542 :
暇人 :2012/10/15(月) 08:11:05.25 ID:+9xOuBX3
>>540 瞑想したての方で、強烈な体験をされることがままあります。
でもそれは極めて初歩の初歩です。
>>541 仏教では滅尽定=涅槃=成道です。
「瞑想しながら死ぬ」という瞑想を仏教は説かないのでは?
密教の即身成仏ぢゃああるいまし。
543 :
神も仏も名無しさん :2012/10/15(月) 08:20:43.25 ID:B93ZjoTN
それから重要なことをもうひとつ。欲望に執着することから解放される、 それが悟りだと言うより、魔境→滅尽定のプロセスによって、 自分の業から解放されるのです。涅槃定が悟りの表面(陽)だとすれば、 滅尽定は悟りの裏面(陰)になっている。
544 :
暇人 :2012/10/15(月) 08:23:09.22 ID:+9xOuBX3
>>543 単なる集中体験を滅尽定と思いこみ、その思いこみに固執することを
仏教は【魔境】と呼ぶのですよ。
滅尽定=涅槃=成道という見方は間違っている。 なぜなら、それぞれが異なる内容を持ち、異なる時間の中で体験し、 異なる意味を持っているからです。 それらを同じに並べるのは、体験したことのない人の空想です。、
>>644 瞑想中の魔境は、単なる思い込みを意味するのではなく、
それは夢よりも鮮明な映像であり、精神的に重要な意味を持つ、
神による、隠された試みです。
こういったことは、瞑想をやり、魔境体験をしないとわからない。
547 :
暇人 :2012/10/15(月) 08:39:48.12 ID:+9xOuBX3
>>547 だれにせよ、短時間なら滅尽定を体験することは可能だが、
この世で生活しながら滅尽定の境地を維持することは絶対無理ですね。
自分もなく、外界もなく、まったく何もないのだから。
549 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/10/15(月) 09:06:47.73 ID:1oSOzl8z
>>537 違う。世の中には、各色からの欲望から離れて生活をしている人がいる。
たとえばカトリックの神父などだ。信仰心の厚い神父ほど見事なまでに心が各色からの欲望から離れて生活している。が、心が
各色からの欲望から離れて生活してるからと言って、ただちに無明がはれ、
真理に至れるわけではない。そんな道理はない。もちろん彼らもそうである。ゴータマはあくまで瞑想などで真理を悟ったあとで、
無明が晴れ、結果、心が各色からの欲望から離れ、また心が各色からの欲望から離れた道が、
無明の晴れた真理へと至れる道だと悟ったんだよ。あんたの話のその下りは、その道を諭しているだけで、
人は、欲望から離れた生活をしただけでは無明から晴れるわけではない。
ま、あんたの言いたいことは、単に世俗の欲ん縁して起こる、あくまで世俗の苦に対する解決法として、
各色からの欲望を絶てばいい。それが苦かつきまとう無明による生活からの解脱ちゅうことなんだろうけど、それじゃ
随分とネガティブな解決法であり、とても推奨される教えではないわな。どうせ死んで
終わりなら自分の能力に応じた欲を満たし、またその欲を満たす努力をした生き方を選択した方がはるかに有意義だと子供でもわかる道理だ。
ただ、たとえ努力したところで達成されなくとも、くよくよ思い悩まない心をはぐくまればいいだけの話。
あと、誰も竜樹の自性、無自性は、欲望の対象の各色だとは言っていないんだが。なに言ってんだろ、この人。
551 :
カラスの唄 :2012/10/15(月) 09:13:21.99 ID:1oSOzl8z
>>538 光りあれば闇あり。君の体験が本物かどうかは知らないけど、本物だとして、
そこから明けの明星を認識することが悟りなんだよ。
552 :
神も仏も名無しさん :2012/10/15(月) 09:18:57.56 ID:H3dblq+S
カラスと話す気はない。とうに何度も論破したし、 その度に消えては、また忘れた頃にでてきてどーのーこーの どうみても明らかな妄想の類でしょ。 論ずるに足りない。つか根拠はオレじゃ、論じられない。 それに気づけ、宝珠とか生命教とか、絶対神とか、遊びとか、 ヌーエイジのB93ZjoTNちゃんとかも同じ。
>>547 失礼、548は質問の答えになってなかったね。
スマさんのことは知らない。しかし、一般的に言えば、体験していても、
滅尽定と涅槃定と成道を混同している場合もある。
しかし、体験を整理できれば、滅尽定以下を区別するだろう。
554 :
神も仏も名無しさん :2012/10/15(月) 09:32:40.52 ID:B93ZjoTN
>>553 の訂正
スマさんのことは知らない。一般的に言えば、体験していても、
滅尽定と涅槃定と成道を混同している場合もある。
しかし、体験を整理できれば、滅尽定以下を区別するだろう。オチ
555 :
カラスの唄 :2012/10/15(月) 09:45:04.54 ID:1oSOzl8z
>>552 お宅に論破された覚えはないけどな。
空理空論中論教の患者さんは妄想が激しすぎるようで。
556 :
神も仏も名無しさん :2012/10/15(月) 10:00:54.93 ID:B93ZjoTN
>>552 だれが作ったかもわからない経典を盲信し、
オレオレ詐欺に引っかかっているのは、きみじゃないかな。
557 :
カラスの唄 :2012/10/15(月) 10:10:33.84 ID:1oSOzl8z
>>556 ここの空理空論中論教の患者さんも、世俗の苦の滅を願いながら、現代のカウンセラーにも
劣る気休め程度にしかならない唯物末法仏教に群がる信者さんも、ろくに瞑想などしたことないから、
君に嫉妬してるんだよ。
>>557 かれらは、経典や論書の勉強に時間を取られて年を取り、
いまさら体験が重要だと言われても、修正が効かなくなっている。
トラ(釈迦)の威を借りるキツネようですね。
559 :
神も仏も名無しさん :2012/10/15(月) 10:52:49.36 ID:H3dblq+S
>>558 いっとくが、オイラは半年山に篭ったこともあるし、
毎日、行してるんだが
しかし、その行体験から語ってもしかたない、行体験というのも虚妄で人それぞれの業の現れに他ならないから
実際、君は師匠が誰、あるいはどんな人かも言えないわけだし
>>559 それじゃあ、根本的に考え違いをしているか、
センスが悪いかのどちらか。
わたしには師匠がいない。というか、自分の周囲がすべて師匠です。
釈迦もイエスも最後は自分で切り開いたのではないですか。
561 :
大滝秀治 :2012/10/15(月) 11:15:42.86 ID:q+RFn4b/
>>486 不説 ◆AnATTa/dJc
どこまで浅薄で無責任・無能な教科書アタマで分別オンリーのスレッカラシなんだ?
<仏道は無差別だ>←この一言に尽きる。これで掴めなければ放置する。
以下、オマケ。
(1)アタシはアンタみたいな『“消費者”サイドの自衛』名目の局外者的安全地帯に立って、
リスクも取らず評論家然と分類観察している無責任連中=を完全に軽蔑する。
(2)>正自覚仏陀釈尊の導き教えの系譜と無関係
あんたは『釈尊の導き教え』とやらをいかにして知ることができたのか?
正自覚仏陀釈尊の導き教えとはなんなのか?
回答は100年後でいい。落第なのは判っているから。
562 :
大滝秀治 :2012/10/15(月) 11:23:06.61 ID:q+RFn4b/
>>496 なんですか?まだ迷っているのですか?
そんな屁理屈なんかすべて捨てて下さい。こんなスレッカラシのスレッドに来てもいけません。
たしかに、信仰とは阿弥陀仏の本願慈悲への信解決定のための“戦い”です、迷いもあります。
親鸞の壮絶な戦いもそうでした。
しかし、阿弥陀仏にすべてをお任せする信心決定をしたのなら、まったく迷う必要はありません。
如来も菩薩も関係ありません。解脱もヘチマもありません。屁理屈も理解も関係ありません。
「修行」「善人正機」もしてはいけません。
「阿弥陀仏への完全な帰依」だけです。
一点の疑いもありません。
あなたは既に『一念発起入正定之聚』ではありませんか。
南無阿弥陀仏にこめられている本願力で、必ず往生させてくださいます。
その本願のはたらきを聞き、仏の仰せにまかせきったその時にすでに往生は決定しているのですから、
称名は仏の恩徳を有り難く思って称えるばかりとなります。
応援しています。
563 :
神も仏も名無しさん :2012/10/15(月) 11:38:14.19 ID:B93ZjoTN
>>559 瞑想の秘訣は、562で大滝秀治さんが話しているように、
神仏への『一点の曇りない心』で行うことです。
これがないと非想非非想処も難しい。最初に信がないと無理です。
> 自分の周囲がすべて師匠です > 釈迦もイエスも最後は自分で切り開いたのではないですか 出家してまず バッカバ仙人を訪れ、その苦行を観察するも、その結果 死後に天上に生まれ変わることを最終的な目標としていたので 天上界の幸いも尽きればまた六道に輪廻すると悟った 次にアーラーラ・カーラーマを訪れ 彼が空無辺処(あるいは無所有処)が最高の悟りだと思い込んでいるが それでは人の煩悩を救う事は出来ないことを悟った 次にウッダカラーマ・プッタを訪れたが それも非想非非想処を得るだけで 真の悟りを得る道ではないことを覚った この三人の師は 釈迦が優れたる資質であることを知り後継者としたいと願うも 釈迦自身はすべて悟りを得る道ではないとして辞した _ _ _ 輪廻などの概念とか、非想非非想処などについては師匠からの教えであるらしい
565 :
神も仏も名無しさん :2012/10/15(月) 11:52:41.37 ID:YtkMpLXi
キリスト教徒は乞食(ホイト)とセットだから性質が悪い。 乞食はキリスト教徒を誑かして恵ませようとする。キリスト教徒はそれで自己満足に浸る。 臭くて近寄れない。自宅がそのようになるよ。
566 :
神も仏も名無しさん :2012/10/15(月) 11:58:06.01 ID:YtkMpLXi
よく働く人によくするのが当然なのに、その反対をして乞食にえさをやってキリスト組の構成員にする。 そして狼藉を働く・・、
567 :
大滝秀治 :2012/10/15(月) 12:07:50.66 ID:q+RFn4b/
>>497 宝珠
>ギーターちゃんと全文を読みました?
まだ腰を据えて読んでいない。齧っただけ。
もうひとつの身心と、1日にあと10時間欲しい。
時間ができたら、シャンカラ、クリシュナなどと共に読む予定。
仏道の自己消化で手一杯。
邪魔だから、頭でっかちにはなりたくない。
足腰を鍛えるほうが大事だ。
釜ヶ崎の酔いどれ菩薩は軽くて重い。
569 :
大滝秀治 ウダーナ8-3 :2012/10/15(月) 12:39:27.20 ID:q+RFn4b/
>>533 >>536 >瞑想中、神とアートマンを体験する境地を【涅槃定】としよう。
>涅槃定が何かは、ウダーナヴァルガ第26章の後半に描かれている。 この章は、釈迦が涅槃定を体験したことの証拠になるだろう。
上記は、完全な御都合主義誤読です。
分別・無分別と言語表記の問題を正確に掴んでいない縁起撥無の愚かな見解です。
仏法の基盤はあくまで『縁起の直接現実』であり、これの直覚を「縁起の現観」(悟り)といいます。
(1)世俗に於ける勝義示唆⇒(空・中道)は無分別(無矛盾)ですから、言語表記(分別)できません。
世俗(分別)で表すなら不<(非)〇 不(非)△>と言う両極否定間接形式(四句第4)が限度です(中論18-6・8・11)。
それが上記ウダーナ8-3の<生じたのではないもの><(滅したものでないもの)>=不生不滅←中道です。
(2)一方、世俗の一切内では二項相対分別で、【生じたもの⇔生じたものでないもの】【滅するもの⇔滅したものでないもの】と分別表現できます。
★勝義示唆の<生じたものでないもの>(無分別示唆)と、世俗の【生じたものでないもの】(分別)は相が異なります。★
ゆえに、ウダーナ8-3の趣旨は 、
『世俗の【生じたものでないもの】(分別)という戯論の寂滅(戯論からの出離)によって、
<生じたものでないもの>(無分別示唆←これも戯論)⇒縁起の直接現実の無分別智による直覚=悟り=大覚成就がある』と言っているのです。
ウダーナ8-3は浅学者や外道には(意図的?)誤解されやすいところですが、
(直接)縁起撥無は仏法ではありません。
神とかアートマンなんて、まったく関係ありません。
涅槃はあくまで悟りによってもたらせる慶安の<境地>です。
ウダーナ8-1がそれです。
典型的な間接否定形式による縁起の直接現実の表現(1)です。
570 :
神も仏も名無しさん :2012/10/15(月) 12:39:32.39 ID:B93ZjoTN
>>564 最後の肝心な時に、どうして師匠がいなくなるのか。
それは、釈迦自身が問われる話だから、師匠には教えられないのです。
悟る以前に、自分を選ぶのか、神仏を選ぶのかが問われている。
571 :
神も仏も名無しさん :2012/10/15(月) 12:44:59.15 ID:B93ZjoTN
神仏への真の信仰は、自分を否定しないと成立しない。 自分を完全に否定し、神仏に自分を完全に委ねること、これが信です。 信も悟りも、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、にあります。
572 :
大滝秀治 ウダーナ8-3 :2012/10/15(月) 12:47:11.08 ID:q+RFn4b/
>>569 訂正
× 【滅するもの⇔滅したものでないもの】
〇 【滅したもの⇔滅したものでないもの】
573 :
大滝秀治 ウダーナ8-3 :2012/10/15(月) 12:50:25.24 ID:q+RFn4b/
>>569 訂正
× 不<(非)〇 不(非)△>
〇 <不(非)〇 不(非)△>
すまん。
順序は、まず信、その後に瞑想の悟りです。 悟らないと信が成立しないのでは? という疑問はもっともです。 これを解決するには、普段の生活で自己否定を学ぶ以外にない。 これができるかどうか、これで悟れるかどうかが決まる。
>>569 大滝秀治さんとの違いを感じている。
何が違うのか考えてますので、しばらく時間をください。
↓ こんな感じかしら? スッタニパータ 874 ありのままに想う者でもなく 想いを消滅した者でもない このように理解した者の形態は消滅する けだしひろがりの意識は 想いにもとづいて起るからである スッタニパータ 1037 識別作用が止滅することによって 名称と形態とが残りなく滅びた場合に この名称と形態とが滅びる スッタニパータ 1115 無所有の成立するもとを知って すなわち『歓喜は束縛である』ということを知って それをこのとおりであると知って それから(出て)それについてしずかに観ずる 安立したそのバラモンには この < ありのままに知る智 > が存する
簡単に言えば、普段の生活で悟ってしまえばいい。 神仏を見てしまえば、単なる信仰ではなく、神仏の存在が事実になる。 事実に勝る信仰はない。そんなことができるのか。できるのですね。 運がよければ、それは聖霊や甘露として突然訪れる。
579 :
神も仏も名無しさん :2012/10/15(月) 13:26:38.10 ID:H3dblq+S
>>574 ブッダによって作られたのではなく、仏教の聖者しか入れない定だっと記憶します。
そういう意味で名称は作られたのかもしれませんが、状態・境地は作られたわけではないでしょう。
>>574 独自かどうかは不明だが、きわめてすぐれた、最高の概念だと思う。
>>577 スッタニパータ1037が、滅尽定を述べているように思う。
どうやればできる? 日頃の苦から【自分の】無明や原罪に気づくことで。 これだったら、宗教知識などなくても悟ることができる。 十二因縁は、最初はごくシンプルなものだったのではないだろうか。 釈迦は、スジャータとの出会いがきっかけで、甘露(聖霊)を体験する。 これが体験できれば、後は瞑想によって短期間に成道する。
要するに、瞑想で成道したいなら、事前に神仏と出会っておく必要がある。 それができるかどうかが分かれ目です。オチ
>>557-560 w
『その体験』が、「仏教的に」適切なものであるかの検証をすっ飛ばしているから、
一代が嘆いてるんじゃないかw
貴方方の言い分は、
「俺はこう思う!根拠は俺」「仏典?そんなの後代のものじゃん。所詮文字・言葉じゃん」
でしかないんですよ。 何で分からないのかなぁ・・・ (^^;
584 :
神も仏も名無しさん :2012/10/15(月) 16:06:27.70 ID:H3dblq+S
>>583 > 「俺はこう思う!根拠は俺」「仏典?そんなの後代のものじゃん。所詮文字・言葉じゃん」
「俺はこう体験した!それは真実。根拠は俺」「仏典?そんなの後代のものじゃん。所詮文字・言葉じゃん、オレちゃんのは真実の体験だから」
と思ってる人もいるんでしょうが、その体験が真実だとしても、それが仏教、あるいは釈尊の教えが示すことである保証が「根拠はオレ」じゃしょうがないんだって
いや、体験は否定しないよ。だけど、それを仏教だっていうなら、仏教の伝統に合致しないのはおかしいってことなんだけど。
「根拠はオレ」の人たちは、「それは伝統が間違ってる」とか簡単にいっちゃうんだよね〜
そんなこというなら、せめて神通ぐらいみせてみてよっていって見せたものはネットで一人もいない。
ネットでいい線いってると思ったのは鬼和尚だけなんだな
585 :
神も仏も名無しさん :2012/10/15(月) 16:26:43.29 ID:bq0W9H86
>>584 仏教も、釈迦の「根拠は俺」から発生した。騒ぐことはないw。
秀治様 了解しました(^^ゞ では なんまんだぶつ なんまんだぶつ
神仏に出会うとしたら自己否定によって出会う。そして自己否定は、 自分の業を清算する準備でもある。神仏への信仰が瞑想を深め、 強い自己否定が(魔境→滅尽定)のプロセスで働き、業を消滅させる。 業が消滅するから自分が消える。この状態は虚無である。 これが空だが、空は死や仮死状態を超えている。
>>579 >>ブッダによって作られたのではなく、仏教の聖者しか入れない定だっと記憶します。
仏教という宗教集団は、釈尊の死後成立したものですから、これは、幾らなんでも言い過ぎでは?
少なくとも仏教を吸収or影響をうけた後世の外道の禅定にも言葉が違うだけで同じ禅定があってしかるべきでしょう
仏教の聖者しか入れない書かれているなら、そうなのかもしれませんが・・・ かなり無理があります
http://home.e01.itscom.net/panna/jissen2/047jissen2.html ヴィパッサナーの悟りは、その禅定があった瞬間だけ体験で
きるのです。預流果になるとか、一来果になるということは、たった瞬
間だけ、それを体験できることです。ず一っと体験したければ、禅定を
修行しなければいけません。
「悟った」とは、滅尽定をほんの瞬間だけ体験することです。それで
煩悩は消えてしまいます。
ー ー ー
これかなり、重要な事言ってないか?
>一来果になるということは、たった瞬間だけ、それを体験できることです。
>「悟った」とは、滅尽定をほんの瞬間だけ体験することです。それで煩悩は消えてしまいます。
特にココ
590 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/10/15(月) 18:11:43.14 ID:1oSOzl8z
>>585 ワッハハ。いいね、君。
二言目には伝統仏教、伝統仏教と抜かすアホへ。なにか師匠がいないと悟れないと言いたげだが、
間違った師匠についたって時間の無駄だし、反って妨げになる。悪いけど取り返しがつかないほど無我思想を
誤謬してしまっている君らの仏教界からは、この先仏陀は現れないし、阿羅漢も現れない。
ということは正しい師匠も現れない。悟りを開いたとき、ゴータマはあくまで独りで開いたんだ。他人の、
俗に師匠と言われている人が導いたわけではない。当時のヴェーダを誤謬しまくっていた当時の自称バラモン達は
ヴェーダをの正しい理解の元に教えを説くゴータマに対してこう言ったはずだ。
「お前の話は伝統的な教えと違う」とね。現代の君らの姿だよ。
>>589 暇人さんの紹介があったが、読みにくいサイトなのでスルーした。
しかし今、ざっと読んでみて、滅尽定で業が消滅という話には同意したい。
ただ、そこが終着駅という話には同意できない。預流果などは興味なし。
592 :
暇人 :2012/10/15(月) 18:44:03.86 ID:+9xOuBX3
>>549 『各色』ってなに?
1.おのおのの色
2.名色の誤植。
カトリックの神父がなぜに欲望から離れられているのだね。
独身生活をよいことに生活習慣病にかかるもの、酒に溺れ半ばアル中のもの
不倫に走る者、アメリカでは未成年男子に対する少年愛行為で莫大な損害賠償を
教会が無負担しているし、つい先日は、カトリック銀行がマフィアのマネーロンダリングを
しているわ、不祥事だらけではないか。
>>537 では「識別作用の止滅」=「苦の止滅」までの紹介だが。。。
釈尊の解決策はネガティブそのものなんだよ。それが出家。
在家で栄華を愉しむと言うベクトルではない。
キミは根本から誤解しているようだね
593 :
暇人 :2012/10/15(月) 18:46:34.22 ID:+9xOuBX3
>>590 師匠や仲間がいないとすると
間違った時は、自分で誤りを糾せないのではないか?
今のキミのように。。。
594 :
大滝秀治 :2012/10/15(月) 18:57:15.57 ID:q+RFn4b/
>>590 >ゴータマはあくまで独りで開いたんだ。他人の、
>俗に師匠と言われている人が導いたわけではない。
なにを言ってるの?
ブッダも特定不能の無量因無量果の縁起現象ですよ。
総合的な関係性現象です。
実体はありません。
師匠とか伝統とか仏教とか「正しい」の観念も、
間接現実における相対分別『解釈』でしかありません。
http://home.e01.itscom.net/panna/jissen2/047jissen2.html 「悟った」とは、滅尽定をほんの瞬間だけ体験することです。それで煩悩は消えてしまいます。
- - -
「悟った」と言うのは、もしかしなくても「涅槃」→「解脱」のことでしょう。つまり、解脱とは、
>涅槃をほんの瞬間だけ体験することです。それで煩悩は消えてしまいます。
滅尽定が、心と心所をすべて滅するもの(もしくは、滅したと言う観念すら消え失せているもの)だとすると。龍樹が大智度論などで挙げている
三解脱門の中で最高の三昧としている空三昧は、解脱では無いということになる。龍樹だけでなく、三解脱門を挙げている般若経の著者達もそう。
>空三昧:世間は因縁によって造られ、『我(われ)』も『我所(わが所有、または所属)』もないと観ずること。要は我は空なりと観ずること。
「観ずる」としているの時点で、明らかに滅尽定ではない。
論書としては、中論を初め龍樹の論理学は、とても優秀だが、仏の教えを実践する修行者としては、大したことはない。ということになります。いやカモしれません。
> たとえブッダでも実体ではありません 常住な自性でもなく、無常な自性でもなく、無自性なり、みたいな?
>>597 の訂正です
ここに ↑ 「滅尽定(想受滅)を以って、第一と為す」って書いてあります
訂正して、お詫び申し上げます
>>569 大滝秀治さん
まず一切ですが、わたしは五感の対象になるものを一切に分類します。
そのため、この世のものだけでなく、五感の対象になるなら、
夢や魔境や涅槃定で登場するものも含めます。神とアートマン(霊魂)も
一切法の内なので、二項対立の縁起が成立しています。
600 :
大滝秀治 :2012/10/15(月) 19:33:35.97 ID:q+RFn4b/
>>596 初歩ですが、
ちなみに、
実体がないということは、
・自立性なし
・単一性でなし
・恒常性なし ということです。
実体がない(無我)だからこそ、無常な縁起現象でありうるわけです。
だから、仏法も動いて(方便)やまぬものです。
ブッダが固定テキストを残さなかったのは当然です。
実存苦は個別的具体的であるからこそ、具体的妥当性をもった待機説法でなければならず、
仏法は実践のうちに顕現するものであり、
固定テキスト(仏教)となったとたんに、仏法ではなくなる。
ゆえに、マハーカッサパ教はパラドックスのうちに、
戒律運営の形式化と、法ではなくブッダを帰依対象として「信仰」宗教化することで
仏教が普遍宗教として成立しえた。
もちろん、ブッダの望むところではなかったろう。
で、このスレで固定テキス至上主義が蔓延しているのだ。
599の続き。ここで問題なのは、龍樹が縁起→空のベクトルだけで論じて いることです。確かに空だが、涅槃定から成道に至る、空→縁起のベクトルが 完全に抜け落ちていることです。これが何を意味するかと言えば、 自利か他利(菩薩道)かの選択ができないのです。どっちも空だからです。
>>597 中論は、一言で言えば、「般若経」の神秘家が見出した最高の真実の上に立って、区別の哲学を批判する書物である。
龍樹は、「中論」第十八章にあらわれる本のわずかなの数の詩頌だけで、彼の見た最高の真実を語っているのである。
鳩摩羅什訳の「大智度論」は、「般若経」の空・無想・無願とおいう三つの三昧を解説するさいに、第7詩頌を引用している。
龍樹はこの章において、上述の三つの三昧を念頭に置きながら。瞑想によって得られる神秘直観の世界の真実を記述
しようとしたのではないかと思われる。
「中観と空T」梶山雄一P41(文章の関係で一部前後しました。ご了承ください。)
ー ー ー
滅尽定について書かれている事が、そのまま滅尽定を体験していたことにはなりません。当然ですけど。
龍樹の語っている禅定体験が、三解脱門であるというのは、私の意見ではなく上に示した通り石飛道子さんや梶山雄一ら学者の意見です。
>>488 にあるように、なぜ上座部の長老が龍樹を批判するのだろうか?という意味での一つのアプリーチと考えてください。
つまり、龍樹の禅定体験は、未熟で実践という意味では、中論などの龍樹の著作は大した意味を持たないと言う仮設です。
あくまで、仮説ですが
599の続き。他利だけの菩薩道ではたぶん、どこかで破綻する。 自分は他利のつもりでも、周囲から甘えられたり、もっとよこせと 逆に非難する人が必ず現れる。それが度重なると精神的に疲れ、 やがて逃げ出したくなる。何かが原因で問題が生じている。
604 :
神も仏も名無しさん :2012/10/15(月) 20:07:58.95 ID:H3dblq+S
>>588 >仏教という宗教集団は、釈尊の死後成立したものですから、これは、幾らなんでも言い過ぎでは?
>少なくとも仏教を吸収or影響をうけた後世の外道の禅定にも言葉が違うだけで同じ禅定があってしかるべきでしょう
>仏教の聖者しか入れない書かれているなら、そうなのかもしれませんが・・・ かなり無理があります
なんでですか?
パーリ・ニカーヤにも倶舎にも滅尽定には止観がないと入れないとされますよ、
観とは縁起観であり、それはアートマンを認める外道にはないので入れないことになると後代一貫していると記憶してますが。
>>600 大滝秀治 さん
> 無常な縁起である故に待機説法でなければならず
↑ 了解
− − −
>>602 ID:IUghqojJ さん
> 私の意見ではなく石飛道子さんや梶山雄一ら学者の意見です
> つまり、龍樹の禅定体験は、未熟で実践という意味では、中論などの龍樹の著作は大した意味を持たないと言う仮設です
> あくまで、仮説ですが
↑ 了解
606 :
神も仏も名無しさん :2012/10/15(月) 20:10:34.39 ID:H3dblq+S
>>595 >「観ずる」としているの時点で、明らかに滅尽定ではない。
>
>論書としては、中論を初め龍樹の論理学は、とても優秀だが、仏の教えを実践する修行者としては、大したことはない。ということになります。いやカモしれません。
誤解ですね。困りますね。
607 :
神も仏も名無しさん :2012/10/15(月) 20:18:30.10 ID:H3dblq+S
>>602 >つまり、龍樹の禅定体験は、未熟で実践という意味では、中論などの龍樹の著作は大した意味を持たないと言う仮設です。
>
>あくまで、仮説ですが
あの滅尽定ってのは迷い道で、最終的な境地ではないというのが、
以下のようにアーガマ・ニカーヤ、諸論書の説くところではないでしょうか?
PTS, DN II, 156: 九次第定で涅槃する時にアーナンダが涅槃と勘違いする
倶舎自註 ad 2.43 ff.: 滅尽定は心・心所の止滅。非想非非想処の境地。聖者がこれが涅槃であると勘違いする境地。
ただし、前に示したように青目註『中論』は以下のように、滅尽定は心・心所が止滅し、不生不滅の諸法実相で、寂静相で涅槃のようと述べています。
これは私の知る限り唯一の例外です。青目註の誤解か、羅什三蔵の誤解、あるいは誤伝と考えるのが妥当と思われます。
599の続き。涅槃定における空→縁起というベクトルがこれを解決する。 神との関係で自分が成立しているという自覚、さらには成道において その霊魂が自分を飲み込み、二項のどちらを選ぶかが決定する。 もはや善しか選べない。空ではなく、自分に裏打ちされた菩薩行ですね。
609 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/10/15(月) 20:23:14.10 ID:1oSOzl8z
>>592 子供の屁理屈だな。そんな一部(大部分かもしれないが)の破戒坊主ならぬ、破戒神父の一例をだされて、
お前の話は違うといわれてもね。なかには信仰心厚く各色からの欲望から離れて生活している神父もいる。
聖書にもこの世のあらゆるものに執着してはならないという主旨の文章もあるしね。カトリックの神父が気に食わなきゃ
例をアーミッシュにしてもいいぞ。彼らは電化製品すらもたず、非常に禁欲的な生活を送っている。別に例は宗教者に限らなくてもいいぞ。
広い世の中、なかには各色からの欲望から離れて無欲に生活している人々がいる。だからといって彼らが、
三明知などを得て無明から晴れて悟っているとは思えない。前に書いた文意は、要は、たとえ各色からの欲望から離れても、
それが元になり滅尽定を得ることもないし、そこから縁起を直接知で知ることもないし、
三明知を得ることもないし、無明が晴れることもない。そんな道理はないという話をしているんだよ。
あんたならそれくらいの文意は読み取れるはずだが、子供の屁理屈、揚げ足取りで返すなんざ、
あんたも大したことないな。
>>604 そうですね。サマタ瞑想→ヴィパッサナー瞑想が王道でしょう。ただ、ヴィパッサナー瞑想のみで覚者になるというのも
古くから、あるようですし、スマナサーラさんが言っている実況中継(笑)は、それを体系化したものということでしょう。
サマタ瞑想つまり、止観ですね。これは、仏教以前にもインドにおいて広く行なわれてきた瞑想方法です。
また、ヴィパッサナー瞑想は、釈尊自身が行い解脱したと言われている瞑想法ですが、ヴィパッサナー瞑想自体は
スマナサーラさんの実況中継を考えれば分かる通り、「ゆっくりと物事をあるがままに見る」ことであり仏教とか関係ないですよねw
この瞑想法は、名称は違いますがヒンドゥー教の財団(?かどうかはよく知りませんが)が、ヴィパッサナー瞑想を取り入れた学校を欧米に作ってるくらいです。
つまり、既に「縁起」観は、言語的には仏教のものですが、意味・実践的には、すでに多くの宗教や哲学に吸収されていると考えたほうがいいでしょう。
文献的には、そうかも知れませんが、実践という意味では、仏教の垣根を既に超えていると言うのが実情でしょう
599の続き。空からの菩薩行と、自分からの菩薩行では、 対象の絞り方も違うし、精神的な疲れ方も違う。 わたしは精神的に潰れたことがあるので用心深いです。 今のところ、大滝秀治さんとの違いはこんな感じですね。以上
612 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/10/15(月) 20:39:05.56 ID:1oSOzl8z
>>592 ところであんた、いつから唯物末法仏教の信奉者になったわけ?
言ってることが電波男になってきてるのが笑える。
唯物末法仏教徒の皆さんへ。ゴータマの仏教は、死という生命の根元的な苦の滅への道である。世俗に
まつわる苦の滅を求めて唯物末法仏教に関わってもせいぜい気休め程度のノミのチンポほどのものしか得られない。
アプローチも非常にネガティブで、決して現代では推奨されるものではないしね。
あくまで世俗にまつわる苦の解決を求めるなら、仏教などに関わらず、優秀なカウンセラーや、
精神科医に関わった方がはるかに建設的である。早くこんな子供でもわかりそうなことくらい気付こうや。
613 :
神も仏も名無しさん :2012/10/15(月) 20:41:35.15 ID:H3dblq+S
>>610 ちがいますよ。
サマタとは、止であり、三昧、禅定です。
ヴィパッサナーとは、観であり、縁起観です。
ニューウェーヴ・テーラワーダのいうヴィパッサナーは、本来、四念処と呼ばれるものです。
いえ、縁起は全く仏教しかありません。もし、仏教以外にも縁起があると思うのでしたら、それは縁起が分かってない証拠です。
なぜなら、アートマン、実在、実体、本質というような何らかの第一原因を想定する見解を持っていては縁起にならないからです。
>>612 wwwwww
>あくまで世俗にまつわる苦の解決を求めるなら
世俗にまつわらない苦がどこにあるというのかw
世俗に於ける苦の超克だからこそ、(勝義としての)「楽」(涅槃)なんじゃねーかw
根本的に解ってないよなぁ・・ ┐(´ー`)┌
>>607 ご意見ありがとうございます。
仮説と言っている通り、自分でも自信がないので、議論スレということである程度意図的な投げかけを行なっています。
>あの滅尽定ってのは迷い道で、最終的な境地ではないというのが、
私は、あなたの様にそこまで深く読み込んでいないので、込み入った話は避けますが、滅尽定が解脱でないとすると
なんか、もうめちゃくちゃな事になりますねw
ただ、どちらにしても三解脱門は、解脱でない。つまり、龍樹の禅定が未熟である事を否定することにはなりません。
616 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/10/15(月) 20:47:53.78 ID:1oSOzl8z
>>593 そりゃ正しい教えを導いてくれる師匠、正しい教えを理解している法友ならいいけど、少なくとも今の仏教界にはいないしね〜
盲人が盲人の手を引けるか?盲人が盲人の手を引けば二人とも穴に落ちてしまうじゃないか(苦笑)。
617 :
神も仏も名無しさん :2012/10/15(月) 20:52:31.63 ID:H3dblq+S
>>614 >根本的に解ってないよなぁ・・ ┐(´ー`)┌
何を今更、生命教と双璧かな
618 :
神も仏も名無しさん :2012/10/15(月) 20:54:36.14 ID:H3dblq+S
>>615 >ただ、どちらにしても三解脱門は、解脱でない。つまり、龍樹の禅定が未熟である事を否定することにはなりません。
いや〜、そうはなりませんよ。
全く逆です。三解脱門は解脱への門です。
滅尽定は解脱の迷い道です。
そこらへん用語を勘違いされて議論されても仕方ないと思います。
>>613 あなたが、違うというなら、違うのでしょう。
上でいったのは、仏教徒を名乗らなければ縁起観を教えれないのかということです
私が、同じと思う根拠は、既に述べましたので、それに類する例を外道から挙げますと
ー ー ー
われわれは、"本当のあなた"についてはほとんど語らないのである。"本当のあなた"は放っておけば良い。
ヨーガを必要とするのは"想像上のあなた""自我(エゴ)であるあなた"である。教えを与えられるのは、その
"自我(エゴ)であるあなた"に対してだ。
<自己>について語る聖典は、単なる知的理解のためのものだ。だが自我(エゴ)のためのの本当に実利的な真理は、
非常にシンプルだ。ただ無私たることを学べ。献身的な生活を送れ。
インテグラル・ヨーガ
講義と書物はほんの少しの利益しかもたない。そしてそれは初心者に方法を指摘するためのにだけ役に立つ。本当の
働きとは、瞑想の中でなされる。
不滅の意識
ー ー ー
と疲れたのでこのくらいにしておきますが、挙げればきりがないです。まとめますと
文献や講義で言われている例えギーターなどの聖典であろうと「アートマン、実在、実体、本質」は、初心者に方法を指摘するためだけのものです。
もっと言えば、縁起も中道を初め仏教の文献に書かれている事も同じです。解脱出来ない未熟な初心者のために書かれています。
外道の書物の本質は、「ただ無私たることを学べ。献身的な生活を送れ。」と言っいるだけです。
>>618 >>全く逆です。三解脱門は解脱への門です。
あっそうですか
瞑想の内容や解脱については、体験して始めて分かることなので、議論する気はないですが
それ間違ってますよw
621 :
カラスの唄 :2012/10/15(月) 21:17:13.74 ID:1oSOzl8z
>>614 ハイハイ。揚げ足取りごくろうさん。
確かに死という生命の根元的な苦も、世俗の中の話だな。俺の言ってる世俗にまつわる苦とは、日々の生活の中での苦のことを言っている。
で、君らの唯物末法仏教の言葉遊びで、根本的な苦の滅なんか得られるわけ?せいぜい気休め程度だよな。それくらい理解しようや。
あと、おまえはわかっていないというなら、どこがどうわかってないのか具体的に言えよ。ただおまえは
わかっていないというのは、お前ら坊主の誤魔化しの常套手段なんだよ。詐欺師がよ。
622 :
神も仏も名無しさん :2012/10/15(月) 21:18:24.62 ID:H3dblq+S
>>619 これは全てアートマンなどと呼ばれる実在を体験するもので、縁起でもなんでもないでしょう。
>外道の書物の本質は、「ただ無私たることを学べ。献身的な生活を送れ。」と言っいるだけです。
そうですか? 確かに中世のナータ以降そういう混交主義が主流になるようですが、シャンカラを始めヒンドゥーの権威たちは仏教を否定し、仏教側でもヒンドゥーとは違うと一貫していってますよ。
私は別にヒンドゥーを否定するつもりはありません。ただ、仏教ではそうは考えない、そんな道ではないと言っているだけです。
>>620 >瞑想の内容や解脱については、体験して始めて分かることなので、議論する気はないですが
>それ間違ってますよw
その根拠はオレですか? それじゃ、ここに書く意味がないでしょう。
アナタがアナタの道を信じることは尊重しますが、それを仏教とは言わないでください、というのが私の願いです。
>>622 >>シャンカラを始めヒンドゥーの権威たちは仏教を否定し、仏教側でもヒンドゥーとは違うと一貫していってますよ。
釈尊の権威ヴェーダの権威等お互いメンツがありますからね。後世では、そういう事も合ったでしょう。
ラーマクリシュナ・ミッションを初め、近代現代のヒンドゥー教は、そういう垣根を取っ払おうという動きが活発です。
仏教では、あまり聞きませんが、ダライ・ラマ辺りがそうでしょうか。いま。。。まあいいです。
私が、言いたいのでは、仏教の壮大なノウハウは、多くの宗教や哲学に生かされていると言うことです。
三解脱門が、解脱でない根拠は、簡単です。あなたが、否定する滅尽定に劣るからです。
ー ー ー
http://home.e01.itscom.net/panna/jissen2/047jissen2.html 「悟った」とは、滅尽定をほんの瞬間だけ体験することです。それで煩悩は消えてしまいます。
ー ー ー
滅尽定が、他の禅定を一線を画すのは、この1点です。すべての印象を消してしまうのです。
繰り返しますが「空」と言う観念が残っている時点で、空三昧は、滅尽定に劣ります。
劣ると言うのは、空三昧を経て、滅尽定に到る。空三昧は、滅尽定の過程に内包されると言う意味ですから誤解なきよう。
624 :
神も仏も名無しさん :2012/10/15(月) 21:46:23.14 ID:H3dblq+S
>>623 >
http://home.e01.itscom.net/panna/jissen2/047jissen2.html >「悟った」とは、滅尽定をほんの瞬間だけ体験することです。それで煩悩は消えてしまいます。
スマ長老の講義文字起こしですよね。どうもアナタの説より私の説に近いようですが、それよりもパーリ・ニカーヤや北伝系経論も私の説に一致しますよ。
中論青目註を除いて。
>滅尽定が、他の禅定を一線を画すのは、この1点です。すべての印象を消してしまうのです。
>繰り返しますが「空」と言う観念が残っている時点で、空三昧は、滅尽定に劣ります。
>
>劣ると言うのは、空三昧を経て、滅尽定に到る。空三昧は、滅尽定の過程に内包されると言う意味ですから誤解なきよう。
上はアナタの思いであって、仏教ではそんなことは言われてませんよ。
言うというなら、その証拠を出さないと無理です。
出せないなら言わないことです。
上のスマ長老は三解脱門には何も言及してませんね。
626 :
神も仏も名無しさん :2012/10/15(月) 22:05:46.62 ID:H3dblq+S
>>625 ?は何も分かってないんだから、思わせぶりに引用するなよ
しかも wiki かつ滅尽定なんか出てこない箇所
それと、以前了解とかいって全然了解してないのは困るというか、
コテつけなよ、そうすれば大抵の人は認識できるから
627 :
カラスの唄 :2012/10/15(月) 22:09:26.88 ID:1oSOzl8z
>>559 半年も山にこもって、毎日行を講じてもおまえは一向に悟れないわけだ。無能だな。
どうしても仏教だけは他の宗教とは違う特別なものにしたいおまえは認めたくないかも知らんが、
ゴータマが悟りを開いた瞑想は、あくまでヨーガな。君ら仏教徒は一番肝心なものが抜け落ちているから、
いくら座っても悟れないよ。残念だったね。せいぜい中論などに被れて無意味な言葉遊びで迷ってればいいよ。
滅するのは、マナ識ではなく、アラヤ識です。 アラヤ識が業そのものの正体です。これを滅することで、滅尽定に入る。
630 :
神も仏も名無しさん :2012/10/15(月) 22:25:15.29 ID:H3dblq+S
なんで、適当に妄想するのかなあ 仏教に結び付けなければいいのに
>>624 >>出せないなら言わないことです。
出せないから、過程は引用しても、結論については上で「カモしれません」「あくまで、仮説ですが」と言ってるわけです。
私の仮説は、「なぜ、スマ長老は、中論を初め龍樹を批判しているのか?」から始まっています。
むしろ逆に質問したい。(むしろそれが、仮説を挙げた理由です)
初期の仏教を初め、スマ長老も滅尽定を体験する事が「悟る」ことだといっています。
アナタは、滅尽定を否定することによって、自動的に三解脱門が、本当の悟りになると考えているわけですか?
それとも、滅尽定の否定とは別に、三解脱門が真の解脱であると言う証拠を持っているのですか?
632 :
カラスの唄 :2012/10/15(月) 22:37:28.86 ID:1oSOzl8z
>>626 人様にコテ付けろというまえに、まずお前からコテ付けろよ。お前にしろ、
セブンとかいう奴にしろ、お前ら坊主二人組は、名無しでこそこそ書いてるから紛らわしいんだよ。自分は
名無しの癖に他人様にはコテ付けろだの、仏教だけは特別だと言いたげな書き込み内容にしろ、
おまえは我の強さがにじみ出てるんだよ。
>>624 質問スレに投稿するべきだったかも知れませんが
滅尽定体験することは、通常の仏教徒にとって解脱と同意義です。
また、「滅尽定」と言う言葉は、中論觀法品第十八に出てきます。
しかし、上で挙げた梶山雄一さんによれば、龍樹は般若教の神秘家の
三つの三昧を念頭に置きながら瞑想によって得られる神秘直観の世界
の真実を記述しようとして中論を書いたとある。しかし、三解脱門に
滅尽定と取れる三昧はない。
この矛盾をどう考えるかということです。
滅尽定を体験出来なかったから、三解脱門に入ってないと考えるのが自然だと、私は考えましたが、どうですかね?
と言うのが、上の「カモしれません」「あくまで、仮説ですが」に繋がっていくわけです。
634 :
カラスの唄 :2012/10/15(月) 22:49:49.58 ID:1oSOzl8z
そりゃ自性と呼ばれるものを全く理解していない中論を読めば、 竜樹は滅尽定に達していないのは明白なんだがな。
635 :
神も仏も名無しさん :2012/10/15(月) 22:53:57.32 ID:OGTflLFR
滅尽定に入らないと「滅び」を造り出せないのではない。 「滅び」は刹那ごとに必ず寄り添っている。 だからこそ物事は変化することができる。 映画のひとコマひとコマごとに、必ず「滅び」は起きている。 滅尽定、滅尽定、と言ってると、身近にたしかにある滅びから離れて、 「まだ見ぬ滅び」「理想の滅び」という夢にとらわれてしまう気がする。
636 :
神も仏も名無しさん :2012/10/15(月) 23:11:26.16 ID:H3dblq+S
>>631 >初期の仏教を初め、スマ長老も滅尽定を体験する事が「悟る」ことだといっています。
いってないでしょ。既に挙げたように。
>>607 > PTS, DN II, 156: 九次第定で涅槃する時にアーナンダが涅槃と勘違いする
DN というのはデーガニカーヤ、パーリ長部経典です。
説を立てるのは結構ですが、その根拠が誤っていた場合、直ぐに取り下げるのが真っ当な話あいでしょう。
これでも取り下げないのでしたら、もう無理なので終わりにしますね。
>>636 取り下げるのは構わんけど、せめて2つの質問には、答えてくれ
>アナタは、滅尽定を否定することによって、自動的に三解脱門が、本当の悟りになると考えているわけですか?
>それとも、滅尽定の否定とは別に、三解脱門が真の解脱であると言う証拠を持っているのですか?
途中から滅尽定が入って来て、分けわからなくなったけど 三解脱門は、「解脱」という意味で、本当か嘘かが論点。 >三解脱門は解脱への門です。 と言う ID:H3dblq+S さんに根拠は?と聞きたいだけです
>>561 aka 閻魔大師
>以下、オマケ。
>(1)アタシはアンタみたいな『“消費者”サイドの自衛』名目の局外者的安全地帯に立って、
>リスクも取らず評論家然と分類観察している無責任連中=を完全に軽蔑する。
一般論として、在家の身を、出家の身と比べた場合の話としてはその批難は甘受せざるを得ません。
仏典でも在家の人生がいかに出家に劣るものであるかについてはボロクソ言われていますし。
ただ、個別論として、大師自身が、戒の点で、実質的にどの程度“尊敬するに値する”沙門なのかは
謎ですけどね。沙門でありたいとする一方、実質在家として人生を送られているのかもしれませんし。
仏教・外道の別を抜きにして、まず沙門(出家者)が在家に対してチェックされる点は、戒の点につ
いてであろうことは、梵網経の構成からも明らかな通りです。
>>607 一代氏
>あの滅尽定ってのは迷い道で、最終的な境地ではないというのが、
>以下のようにアーガマ・ニカーヤ、諸論書の説くところではないでしょうか?
>
> PTS, DN II, 156: 九次第定で涅槃する時にアーナンダが涅槃と勘違いする
> 倶舎自註 ad 2.43 ff.: 滅尽定は心・心所の止滅。非想非非想処の境地。聖者がこれが涅槃であると勘違いする境地。
前者は大パリニッバーナ経の釈尊が般涅槃する場面のことでしょうか?
後者は、(一代さんの)指示語の係り受けの誤読ではないですか?
・滅尽定=心・心所の止滅
(それに対して)
・非想非非想処の境地=聖者がこれが涅槃であると勘違いする境地
だと、特に問題ないと思います。
また、上記指摘は別としても「迷い道」と言う以前に、滅尽定は、何ら「道(手段・方法)」ではないと思います。
・滅尽定に「よって」、解脱するわけではない。
・解脱したら、(その瞬間)滅尽定の状態になる。
スマナサーラ長老の話もそういうことを意図しているものと推察します。
中論の境地(三解脱門)の位置付けに関する議論については私はよくわかりませんので、本来のそちらの議題とは
外れますが、どの道、滅尽定自体は止であり、観ではなく、すなわち解脱には直接寄与しない。従って「最終段階
で止の滅尽定じゃなくちゃいけないのに、三解脱門が観だから、未熟」という
>>595 の論考は私には適切なものと
は思えません。かといって迷い道、陥穽とか魔境のように言うのも、ちょっと違和感がありますので、指摘させて
いただきました。どの道、悟っていない人には、滅尽定を起こそうとしても、起こせませんし。
>>615 >三解脱門は、解脱でない。つまり、龍樹の禅定が未熟である事
言葉の問題として「門」ですから、境「地」ではないのは当然ではないでしょうか?
それに、龍樹がそ(涅槃解脱)の地に足を踏み入れてしまっていたとしたならば、
「龍樹菩薩」様ではなくて、「龍樹如来」様の誕生ですよ。
「菩薩道は、大乗思想はどこに?」という話になりかねませんが……。
>>621 で、何か反論できたとでも思ってるんだろうか?w
ぐうの音も出ない様子でしかないんだが・・ (;´ー`)y━~~
(こっちの言ってること全面的に認めてるじゃんwww)
>>632 >セブンとかいう奴にしろ
>名無しでこそこそ
もう、ほとんど同じことのループにしかならないからね。コテが不要になっただけさw
以前は付けてたんだぜ?w 君も鳥頭みたいだから憶えてないのかもしれんが・・。
また、君こそ、最初名無しで書き込んで後からコテ表記にするという茶番はスタイルなのかい?w
>>642 反論もなにも、暇人のカトリック神父の話に対する反論にしろ、君にしろ、
君らは人の文意を汲み取って反論するんじゃなく、揚げ足取ってるだけじゃないか。
それじゃ反論にならないし、議論にもならないんだよ。しかし君らの種族は揚げ足取りばかりだな。
国権の最高機関。言論の府であるはずの国会の答弁でもやってるんだから終わっとる。
で、他人様にコテ付けろと言うなら、まず自分がコテ付けるのが礼儀だよな。ちゃうか。
>>643 >他人様にコテ付けろと言うなら、まず自分がコテ付けるのが礼儀だよな
それはそうかもしれんなw
けど、ワシは「コテ付けろ」なんて一言も言ってないが?
人違いじゃないのか?
>反論もなにも
いやいやいやいやw
揚げ足じゃなく、本質ですよ? 解りませんか?
現に、621は614に対するレスとして成立していないわけですから。
646 :
暇人 :2012/10/16(火) 05:29:50.65 ID:dcpnt5jK
>>609 アーミッシュは文明を拒否しているだけで、欲望から離れた生活をしていないぢゃん。
「欲望から離れた生活」をキミは理解できないようだね。
>>612 キミってつまり「死」が怖いのでしょ。
だったら、永遠の命を説く幼稚な幻想を説くキリスト教なんかがお似合いかもよ
>>613 師に出会えないのはキミに問題があるからなんだよ
キリスト教馬鹿にしちゃいけませんよ
648 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/10/16(火) 05:57:27.65 ID:M+nVTYDm
>>645 ん?誰もあんたが他人にコテ付けろと言ったなんて言ってないわけだが。
ただあんたがコテについて触れたから、ここで自分は名無しの癖に他人様にはコテ付けろとエゴ丸だしの奴が
いるのでどうよと話を振っただけの話。で、あんたが色々リンク貼ってくれたがあいにく今PCが壊れてしまっててね。
見れないわけよ。ちゅうかそんな回りくどいことしないで、反論があるなら、
おまえはわかっていないと言って逃げるんじゃなく、どこのどこが違うのか、自分の意見の要点を一つの文章にまとめて書けばいい
だけだろ。そんなこともできないわけ?。ちゅうか自分の意見をはっきり書いてしまうと論破されると
困るので書けないんだろうけど。あとあんたはまだ揚げ足取りをやめないようで言い方を変えてあげよう。ゴータマの仏教は
死という生命の根元的な苦への根本的な滅への道を示すものである。
ただの言葉遊びに過ぎない、いくら千の御託を並べようとも所詮気の持ちようで終わる唯物末法仏教では根本的な解決にはならず、
そんなもんに関わるなら、街の優秀なカウンセラーや、精神科医に関わった方がはるかに有意義である。
ましてや世俗的なささいな悩みの解決なら尚のことである。さあ、文句があるならどうぞ。
649 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/10/16(火) 06:18:08.11 ID:M+nVTYDm
>>646 ハイハイ。相も変わらず人の話の文意を汲み取らず揚げ足取りばかりだな。
正直ここまでつまらない人だとは思わなかった。別に俺は死は怖くない。これでも信仰心が厚いんでね。
むしろこんなくそったれの人生早く幕が降りればいいと思う自分もいる。
ま、遅かれ早かれあんたにも終わりの時が確実にやってくる。必ずやってくる。その時俺に言った言葉を思い出すんだな。
あんたがたの唯物末法仏教でその時の苦の滅が本当に得られるのか見ものだな。で、あんたキリスト教を
バカにしてるようだが、あんた、本当のキリスト教しっててバカにしてるわけ(苦笑)
ま、誰それがキリスト教をバカにしようがしまいが、どうでもいいけどさ。
650 :
暇人 :2012/10/16(火) 06:37:42.95 ID:dcpnt5jK
>>649 揚げ足取りではなく、キミの本質を指摘したのだよ
すると死の恐怖を信仰で誤魔化しているキミは
「死ぬ際にオレの言葉を思い出せ」という捨て台詞だ。
仏教はキミのような死の恐怖に震える在家に対して「生天」を説いている。
イエスに弟子入り志願した金持ちの青年が財産を捨てれなかったように
キミも今の生活を捨てれない。それではイエスに従えなかったように釈尊のことも
わからないさ。わからないキミが「苦の滅」を誤解して非難するのも必然なんだわ
651 :
カラスの唄 :2012/10/16(火) 06:38:57.14 ID:M+nVTYDm
日頃、執着が苦の原因だとのたまっている連中が、 いざ自分の宗教、自分の宗派、大乗批判されると反論せずにはいられない様をみてると 思わず笑いがこみあげてくるんだけど。なぁ暇人さんよ。クスクス。
652 :
暇人 :2012/10/16(火) 06:40:33.87 ID:dcpnt5jK
>>648-651 さすがに滑稽すぎるぞw >カラス
また、
>そんな回りくどいことしないで、反論があるなら
君に対しても生命教に対しても宝珠・在家に対しても、
すべてが 『今更』 なんだよ。
過去、どれだけ懇切丁寧に書いてさしあげたか・・・w
>自分の意見の要点を一つの文章にまとめて
どれだけ、簡潔に溜息を漏らしたことか・・。
>自分の意見をはっきり書いてしまうと
どれだけ、個人的見解を披瀝したか・・。(一代とは大分立場を異にしているというのに・・w)
>死という生命の根元的な苦への根本的な滅への道を
それが、 【単純に】『死なない』ということであるなら、
(少なくとも、宝珠や在家や貴方の主張はそれでしかありませんが・・w)、
あまりにも愚劣だと言わざるを得ません。
アートマンスレから過去ログを熟読された方が宜しいんじゃないんですか?
尤も、貴方のことだ、三歩歩いたら忘れてしまいそうですがね・・w
655 :
カラスの唄 :2012/10/16(火) 07:12:24.42 ID:M+nVTYDm
>>650 俺、本当に怖くないんだけど。痛みでのたうち回るのはゴメンだけどさ。
あと、いくら空だの中道だのと千の御託を並べようとも、本質は無意味な言葉遊びだけで、結局死ねば終わりの、
所詮気の持ちようで終わる君らの唯物末法仏教より、たとえ幼稚でも、死んでも天国にいけると迷信を信じてる今のキリスト教の
教えの方が、はるかに死への精神的な苦の滅には有効だと思うよ。ま、今のキリスト教徒が
信じている天国地獄なんて無いんだけどさ。まぁ四の五の言わずにその時がくれば俺に言った言葉を思い出せ。
ちゅうか意識がはっきりしてその時を迎える時や、医師から余命いくつかの不治の病の
宣告を受けたとき、いやでも思い出す。終わりの時は遅かれ早かれ必ずやってくるからさ。
おっと、俺は別にあんたを脅かす為に言っているわけではないので誤解のないように。
>>655 wwwwwwwww
事の本質がまるで解ってないw
657 :
カラスの唄 :2012/10/16(火) 07:32:45.55 ID:M+nVTYDm
>>653 俺はお宅にレクチャーを受けた覚えはないけどな。
ついさっきも書いたが、あいにくPCが壊れてしまってね。あんたから俺にレスを付けて絡んできたんだ。
なら反論の要旨をしめすのが礼儀だろ。それを俺の主張は過去にしてきたから膨大な過去スレを漁れなんざ言ってることが
おかしくね?これも誤魔化しなんだよ。ま、膨大な過去スレ漁っても、どうせつまらない言葉遊びしか言ってないんだろうけど。
ところであんた、イエスの説いた永遠の命ってなんなのか、わかって言ってるわけ?まさか
単純に今の自我が蘇って永遠に生きると思ってないよね?もちろん俺はそんな話はしていないし、イエスもしていない。
658 :
カラスの唄 :2012/10/16(火) 07:46:58.73 ID:M+nVTYDm
>656 ハイハイ。おまえはわかっていない。でも何がどうわかってないかは決して言わない。 いつもの誤魔化しの常套手段ですね。だからお前ら坊主は詐欺師だと言うんだよ。 で、お前らの唯物末法仏教の苦の滅は所詮気休め程度にしかならないガラクタだってことを、 俺にばらされるのは、そんなに都合が悪いかい。
>>656 補(
>>657-658 )
貴方方の言辞(≒志向性)こそが、俗っぽい慰めであることに気付きましょう。
一切は此縁性であると喝破したお釈迦さんの卓逸たることを噛締めていただきたいものです・・・。
660 :
暇人 :2012/10/16(火) 07:59:26.10 ID:dcpnt5jK
>>655 ・怖くないのだったら、
>>649 「信仰が厚い」という受け答えは無い。
・昇天キリスト教を上位に置く発想も「恐怖」がある故だ。
661 :
暇人 :2012/10/16(火) 08:05:26.11 ID:dcpnt5jK
・無意味な言葉遊びに同意 ・「死ねば終わり」はキミの誤解と言うか、限界(笑) ・気の持ちようで終わるなら唯物ではなくて唯心だよ(笑) ・なぜわざわざ脅かしではないと断る羽目になったのだね(笑)心当たりがあるわけね
662 :
カラスの唄 :2012/10/16(火) 08:08:18.80 ID:M+nVTYDm
生死などない。などと勝義の中道論を、二元世界の束縛の中で当てはめて話しても 無意味な言葉遊びにしかならないので、皆さん似非坊主共の能書きに騙されないように。 善と悪があるからこの世で、私とあなたは、その束縛に堕ちた結果である。 実際に死を迎える時、本当は生死などないのだ。中道なのだとヘラヘラ笑って妄想の世界に逃げても、 実際にはあなたの存在が消えるという死という現実からは逃げられない。
663 :
カラスの唄 :2012/10/16(火) 08:24:00.10 ID:M+nVTYDm
>>660 だから信仰が厚いから怖くないと言ってるんだよ。なに言ってるんだろこの人。
664 :
1/2大滝秀治 :2012/10/16(火) 08:26:13.16 ID:Mm/8JD6u
>>599 >神とアートマン(霊魂)も一切法の内なので、二項対立の縁起が成立しています。
<間接現実>
『「一切」とは、みなさん、いったい何でしょうか。それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、
舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことです。』(サンユッタ・ニカーヤ33-1-3)
つまり知覚・記憶・判断という世俗的「分別検証性」に耐えうる資質のあるコトですね。
「心と心の作用」も心理学的な検証性に耐えうるものです。
その意味で、ブッダは間接現実において厳格な経験主義者です(カーラーマ経&Sn1053・1066など参照)。
「分別検証性」に耐えられない形而上的論議や単純妄想の類は『無記』であって、
仏法は実践以外のなにものでもなく、修行の妨げになるので無視するのが「仏道」です。
ところで、神とかアートマン(霊魂)とかは「分別検証性」に耐えられるコトでしょうか?
“信じるから存在する”では「信仰」宗教です。釈迦仏教は信仰宗教ではありません。
で、一切内でアートマンの存在は確認できません。神も同じです。
『われ(アートマン)というものはない。また、わがものというものもない。
すでにわれなしと知らば、何によってか、わがものがあろうか。
と知ることができるのである。』(相応部経典22.55 増谷文雄訳 根本聖典p103〜)
665 :
2/2大滝秀治 :2012/10/16(火) 08:36:26.87 ID:Mm/8JD6u
<直接現実>
『師は答えた、「ウパシーヴァよ。あやゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、
最上の<想いからの解脱>において解脱した人、―かれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。』(Sn.1072←ウダーナ8-1)
このような戯論寂滅(出離:ウダーナ8-3)⇒縁起の直接現実=中道=最上の<想いからの解脱>において解脱した人において、
神・ブラフマン・アートマンなどという観念(想い)が潜入する余地はありません。(
>>569 )
『師(ブッダ)は、(われわれのこの)生存と非生存(についての執着)を捨て去る(断ずる)ことを説いた。
それ故に、「ニルヴァーナは存在にあらず、非存在にあらず」というのが正しい。』(龍樹 中論25-10、15-7、18-5)
『 世間(生死の世界)には、ニルヴァーナといかなる区別も存在しない。
ニルヴァーナには、世間(生死の世界)といかなる区別も存在しない』(同上25-19)
仏法の基盤は縁起の直接現実である。
したがって、世間もニルヴァーナも,ともに存在でもないし、非存在でもない。
すべては有無の二項相対を離れた中道(中庸ではない)にて調うのである。
666 :
大滝秀治 :2012/10/16(火) 08:55:59.55 ID:Mm/8JD6u
>>639 不説
やっぱり、アカンがな。返事は100年後にせい!
>戒の点で、実質的にどの程度“尊敬するに値する”沙門なのかは謎ですけどね。
尊敬?
ん〜〜〜なこたあ、カンケーねえ!どーでもエエ。アフォか。
謎でもなんでもなくて、アタシは仏教破戒×仏教破壊(帰謬・解脱)野郎⇒仏法フリーターでっせ。
もっとも、一休爺さんのパワーには大負けで圧倒されるw
大体、TOP(時代・状況・場所)がまったく異なるのに、形骸戒律と固定仏教(
>>600 )で計るなんざ、
アタマが硬すぎて、片腹痛いw
仏法は悟ったモン勝ち(方便)でっせw
アタシの好きな無難禅師の教えの極意は『まず悟れ』だよ。で至道無難、唯嫌揀択や。
仏道は、要領!←「看よ看よ臘月尽く」
いわゆるレバレッジを効かさんとアカン。
「禅は第一悟りをさきにして、悟りにまかせて修行すれば、日々夜々安楽なり。」(即心記)
「何もかも捨てたあとに悟るのはとても難しいが、
悟ったあとに、何もかも捨てるのは、とても易しい」のや。(
>>60 )
般若経
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html これまであなたたちは、善行に励み、永遠ばかりを探してきた
だから、凝り固まり、ありのままに変化を見ることに慣れていない
無我を、縁起を、空を見ることがうまくない。あなたたちは、練習が必要だ
およそ、禅定に入ろうとする人は…
…吐いて吸う大きな長い息を十数え、何度も繰り返し、なにも考えず、ただ息を数え続けます
_ _ _
これ故に
>>666 大滝秀治 さんへ
> 大体、TOP(時代・状況・場所)がまったく異なるのに、形骸戒律と固定仏教で計るなんざ
> アタマが硬すぎて、片腹痛い
と言う事ですね? 了解
668 :
神も仏も名無しさん :2012/10/16(火) 11:26:40.89 ID:mcdEa3Uc
>>640 >前者は大パリニッバーナ経の釈尊が般涅槃する場面のことでしょうか?
そうです。
>後者は、(一代さんの)指示語の係り受けの誤読ではないですか?
>・滅尽定=心・心所の止滅
>(それに対して)
>・非想非非想処の境地=聖者がこれが涅槃であると勘違いする境地
>だと、特に問題ないと思います。
違うと思います。なぜなら、その後の自註で
>今体験している現象(現法)を涅槃とそれを信解するからである。
という箇所があり、ヤショーミトラは二説紹介していますが、
「滅尽定を体験している現象を涅槃と信解するからである」と読む方をとっていると思います。木村泰賢先生、桜部建さんもそうとっています。
>>664 普通の通念と、涅槃定などを含めた一切法は、その範囲が異なる。
神や霊魂は、瞑想で五感の対象になるから、一切法に含めるべきだろう。
これらを知らないから、これらが常住であると思っているに過ぎない。
670 :
神も仏も名無しさん :2012/10/16(火) 12:11:42.02 ID:x4dEfu9Q
>>665 龍樹の空は、真理として、この世もあの世も貫徹している。
しかし神も自然も、時間というベクトル上に存在し、空そのものではない。
人間も同じであり、空そのものではなく、空でないものでもない。
横からすいません
>>640 「指示語の係り受けの誤読」と「滅尽定に「よって」、解脱するわけではない。」
に同意します。しかし
>・解脱したら、(その瞬間)滅尽定の状態になる。
は、違うと思います。むしろ
・滅尽定(でなくても構いませんが煩悩を消す境地)の状態になり、煩悩が消えて輪廻しなくなって始めて「解脱」となる
の方が自然だと思います。不説さんの説では、どうやって解脱するのか説明できません。
>>668 不説さんの指示語の係り受けの誤読に同意します。が言い切りは出来ないので検証が必要だと思います。
そもそも、「勘違いする」とある「涅槃」とは、何かですが
>涅槃とは、むさぼり、怒り、その他の感情から解放された完全なる平安な心の状態であると、釈尊はおっしゃいました。 ダルマ・サンガ百科事典より
また、「釈尊は、涅槃とは「無条件の」心と説きました。」とあります。特別な境地を得ることが目的ではなく煩悩を消す事が最大唯一の釈尊の教えと言うことでしょう。
つまり、非想非非想処や滅尽定は、「煩悩を消す」観点から考える必要があるように思います。
672 :
絶対神 :2012/10/16(火) 12:37:29.69 ID:KeydpHqo
>>特別な境地を得ることが目的ではなく煩悩を消す事 「いやそもそも煩悩を消す事じたいが「特別な境地」以外のなにものでもないからね」(大笑) 仏教って前から指摘しているように、なんで子供も騙せない詭弁を弄するのでしょうか
673 :
絶対神 :2012/10/16(火) 12:39:03.69 ID:KeydpHqo
>>670 「神は時空を超越してますよ」
『だから「通力」を使えるんです』
まさか、物理法則を超えた存在が、
『お前らと同じだとでも思ってるんですか?』
674 :
絶対神 :2012/10/16(火) 13:00:04.91 ID:KeydpHqo
>>664 『解脱も悟りも確認できないよ』w
単にお前たちが「信じているだけ」
経験したから事実だというのなら
「幽霊を見た人間なんて腐るほどいることをお忘れなく」(経験したり
見たからと言って事実であるとはまったく限らない)
「仏教って穴だらけなんだよね」
仏教が最大に駄目なところは、前から言っているように
『しょせん、自分たちが「宗教を信じているのに過ぎない」というところを
認められないところだよ』(その時点でかなり危ないんだがな)
「信仰宗教でないと言っている時点で、「自分たちは特別だ、他の宗教とはまったく違う」
という『いかにも宗教的な主張をしている事に気付け』」
なんで仏教が結局、衰退したのかよくわかるな
675 :
絶対神 :2012/10/16(火) 13:03:23.04 ID:KeydpHqo
>>664 「ついでに言っておくと、人間は、わりと神と出会うという体験をするんだよ」
『ひょっとして「信仰宗教」とやらが、何の経験にも基づいていないとでも思ってるの?』
「それが幻覚であろうが、人はワリと神と出会って会話するという「経験」をします」
『君らが言う「信仰宗教」は『そういう実際の経験が基になって出来ている事が多いです』』
(最初から嘘ついてる場合も無数にあるけどね)
「仏教は典型的な「宗教」であって、『別に特殊な宗教じゃないよ』」
(大乗とか日本仏教の場合はもろに「信仰」だしね(笑) 浄土真宗とか)
676 :
絶対神 :2012/10/16(火) 13:15:12.40 ID:KeydpHqo
「で、ついでに言っておくと」 『宗教の教義は、「元々経験則である」』 昔、地球が平らだと多くの人が信じていたのも、ものが上から下に落ちる事を 日常的経験から知っていたので、平らでないと理屈にあわないからそう思って いただけ 「神が世界を作ったというのも」 何かが物事を始めたり、作ったりしないと、何も発生しないという事を日常の 経験則から知っていたからそう発想しただけ 『それは別に「信仰」ではない、「明らかに経験則」から生まれたものである』
以前から思っていたのだが. この「>>カラスの唄」って奴は.どうしようもない馬鹿としか言いようがない.
言葉にはそれなりの意味がある。滅尽定という言葉も同じであり、 多少なりとも定義しないことには話にならない。話が混乱するばかり。 非想非非想処、滅尽定、涅槃定など、前後の禅定を含め、 言葉の意味を簡単に理解してから始めよう。
非想非非想処・・・無色界の第四天で、三界の最頂部。ここに生まれる者は 粗雑な煩悩がないから非想といい、微細な煩悩がまだ残っているから非非想 という。仏教以外のインドの宗教では解脱の境地とし、仏教ではなお生死 (しょうじ)の境地とする。〜 自己意識は消えていない。
680 :
神も仏も名無しさん :2012/10/16(火) 21:04:59.11 ID:x4dEfu9Q
滅尽定(想受滅)・・・想が働いているかどうかも分からない非想非非想処から さらに進んで、全ての感受を完全に断ち切った究極の状態である。 〜 自己意識が消えるから、対象である外界も消えてしまう。 涅槃定・・・滅尽定から突然、アートマン(霊魂)になって神界に現れる。 神界を感受している 〜 アートマン(霊魂)には自己意識がある。
681 :
神も仏も名無しさん :2012/10/16(火) 21:36:24.39 ID:4ypdgXIA
>>681 このスレでの前の方で、滅尽定の後に体験する、神とアートマン(霊魂)が
登場する禅定を、その内容をその都度話すのは不便なので、
わたしが勝手に命名した。より適切な呼び方があれば変更してもいいよ。
683 :
神も仏も名無しさん :2012/10/16(火) 23:12:10.09 ID:x4dEfu9Q
瞑想の流れ・・・非想非非想処→魔境→滅尽定→涅槃定→成道 自分の意志で瞑想を中止できるのは非想非非想処まで。魔境以下は自分の 自由にならない。魔境で終われば、よい影響か悪い影響のどちらかが残る。 滅尽定の場合は死ぬ。涅槃定の場合も死ぬ。生きて地上にもどれたら成道。
滅尽 nirodha ほろびつきてしまうこと。心のはたらきがすべて尽きてしまった禅定を「滅尽定」(nirodha-samaapatti)といって、欲界の煩悩を断じ尽くして再び退転しない位(不還果(ふげんか))の聖者(しょうじゃ)以上の者が修することのできる禅定である。 択滅 pratisaMkhyaa-nirodha 涅槃の別名。智慧によって煩悩を斷滅させることによって得られる寂静の状態のこと。 涅槃 nirvaaNa 涅槃は、「さとり」〔証、悟、覚〕と同じ意味である。しかし、ニルヴァーナは「吹き消すこと」「吹き消した状態」という意味だから、煩悩の火を吹き消した状態をいう。その意味で、滅とか寂滅とか寂静とか訳された。 解脱 vimukti 繋縛を離れて自在を得るという意味である。誤った執着心から起こる業の繋縛を開放し、迷いの世界の苦悩を脱するから「解脱」という。 この「解脱」という言葉は、けっして仏教のみの術語ではなく、涅槃とともに、古くからインドで用いられ、人間の究極の目標や理想を示すことばとして用いられた。 wikidharmaより
685 :
パーピマン :2012/10/16(火) 23:25:35.50 ID:WuPI2oEC
>>677 ありゃりゃ? このスレも覗くの?w
キチガイカラスは、どうしようもないw
スルーするしかないよ、このバカはwwww
Nirodha literally refers to the absence or extinction of a given entity.As the third of the four noble truths , it refers specifically to the cessation of dukkha (suffering) and its causes; it is commonly used as a synonym for nirvana . Nirvana The word literally means "blown out" (as in a candle) and refers, in the Buddhist context, to the imperturbable stillness of mind after the fires of desire, aversion, and delusion have been finally extinguished. Moksha In Indian religion smoksha or mukti is the final extrication of the soul or consciousness from samsara and the bringing to an end of all the suffering involved in being subject to the cycle of repeated death and rebirth .In Buddhism the concept of liberation is Nirvana .It is referred to as "the highest happiness" and is the goal of the Theravada -Buddhist path, while in the Mahayana it is seen as a secondary effect of becoming a fully enlightened Buddha . Wikipediaより
687 :
神も仏も名無しさん :2012/10/16(火) 23:34:49.61 ID:x4dEfu9Q
集団で修行すれば、異変に気づくだろうから死ぬことはない。 その結果、魔境、滅尽定、涅槃定、各段階の体験者が誕生するだろう。 しかし成道する者がいなくなる。成道したいなら集団ではなく、 ひとりで、だれにも邪魔されない部屋で瞑想しよう。 途中下車をすることなく、成道まで達した者がアラハットである。
手持ちの仏教関係の本には、滅尽定を初め九次第定に詳しく書かれたものがなく
ほぼネットを似たりよったりなので、ネットから簡単に手に入るものに留めた。
>>607 氏が唱えるような、滅尽定を勘違いと取るような解説は、私の手持ちの本や
確認したサイトでは、
>>607 と見られるネット(2ch)の書き込み以外見当たらなかった。
また、上では出さなかったが一般的な寺院や僧侶の方が開かれているサイトでも滅尽定を
釈尊の悟りを結び付けて解説しているものが多数あり。
>>607 の説は、現時点ではminorityで
あると思う。
>>668 一代氏
なるほど。勉強になります。
滅尽定「自体」はあくまでも禅定の境地の内であって、涅槃の境地ではない(別個無関係である)ことは確かですね。
解脱した仏教聖者が、禅定の純度をずっと高めていって、最高点が滅尽定。
解脱していない凡俗が、禅定の純度をずっと高めていって、最高点が非想非非想定。
いずれも禅定の極みという点では違いはない。解脱(の手段・道)や涅槃とは直接関
係がないわけですから。
上で、挙げたものから考えるに、「滅尽」「Nirodha」また「滅尽定」「nirodha-samaapatti」は、共に煩悩を煩悩を断じ尽くしてしまう禅定であること
「涅槃」「Nirvana」は、煩悩の火を吹き消した状態をいう事が分かる。
さらに
>涅槃は、「さとり」〔証、悟、覚〕と同じ意味である。
>仏教では解脱は、涅槃と似た意味になります。 etapasvi百科事典より
これから、滅尽定・涅槃・悟り・の関係が見えて来るように思う。
あまり、深入りして早合点することは避けるが、「滅尽定を体験している現象を涅槃と信解するからである」「滅尽定は解脱の迷い道です。」
などのID:H3dblq+S氏の発言が上の事を踏まえた上で言っているのなら納得ですが、もし煩悩断じ尽してもまだ足りない更に上があると言う意味で
>>618 の
>全く逆です。三解脱門は解脱への門です。
>滅尽定は解脱の迷い道です。
等の書き込みをしているのならば説明を待ちたいを思います。
>>671 そもそも禅定の次元上には解脱・涅槃は存在しないと思います。
ところが、仏教以外のあらゆる外道は禅定の境地の中に悟りがあると勘違いしています。
だから、ほとんどの人は禅定境地の延長線上に、涅槃解脱があると思い込みます。
それが「群盲象を撫ずる」の例えです。
富士山の頂上に涅槃があるのであれば、富士山の周囲360度のどこから攻めても構わないが、
ただ標高的に高い方に行けばその先に頂上があると考えます。そうすると、「万教帰一」み
たいな発想にも通じます。
例え、形式上、仏教に所属し、また仏教を標榜する人であっても、そういう点では結局のと
ころ実態は禅定主義を免れていない場合があります。
非想非非想定の一歩先(滅尽定)に行けば覚れるというような発想など典型的なものです。
釈尊はそもそもその禅定主義という“土俵”で勝負していないのだと思います。
だから、「仏教だけが」、ということになるのです。もし、仏教を禅定主義的なものと考え
た上で、同時に「仏教だけが」という主張をするのならば、象(禅定)にタッチしている群
盲の一角に過ぎず、外部者からの相対化による批判に耐え得なくなります。
>>691 あやふやのまま議論をしたくないので、初めにお互いの立場をはっきりさせて置きますが
あなたは、仏教つまり、釈尊は、輪廻を否定した。と言う立場で
>>そもそも禅定の次元上には解脱・涅槃は存在しないと思います。
と言うように、「解脱・涅槃は存在しない」と言っているのですか?それとも別の理由からですか?
693 :
土手 ◆/DoteDqHSI :2012/10/17(水) 00:43:01.99 ID:stIZ/Zc8
http://www.j-theravada.net/sakhi/pali_sutta3.html 5ー4 滅尽定(想受滅)は悟りの体験
仏教的に正しい禅定の入り方は
悟りを開くために必要な力でもある信・精進・念・定・慧の五根(五力)に沿って
以下のように説かれています
6ー1 発心する(信)
6ー2 戒を守る(精進1)
6ー3 足るを知る(精進2)
6ー4 六根を防護する(念1)
6ー5 行住坐臥の全てを正知する(念2)
6ー6 禅定に入る体勢を作る(定)
6ー7 五蓋から心を清める(慧)
695 :
神も仏も名無しさん :2012/10/17(水) 03:54:21.42 ID:cRu+lA7B
>>682 煩悩のリストの中に色貪(色界(初禅から四禅まで)への執着)と
無色貪(無色界(空無辺処から非想非非想処まで)への執着)が
入っていることを考えれば、禅定の中に涅槃はないと言えるのでは。
欲界・色界・無色界の三界からの解脱が涅槃(滅尽)。
当然ながら、涅槃の中で神に出会うなどありえない。
涅槃は色界の外側であるので具体的な色声香味触はないし、
涅槃はさらに無色界の外側でもあるので意識(心)が捉える範囲でもないわけだから、
涅槃の中で神様や魔境などが現れたりはしないと思います。
696 :
神も仏も名無しさん :2012/10/17(水) 04:01:26.63 ID:cRu+lA7B
涅槃は三界の外側、涅槃は一切の滅尽。 まぁ、そこでやっぱりカラスさんに聞きたいのは、 一切の外側(心の範囲の外側)に神様を設定することが可能かどうか。 意識(心)が考えたり思ったりできない次元、三界の神々(梵天)が いくら探してもみつけることができない次元に、聖書の神様がいるということなのか。
697 :
神も仏も名無しさん :2012/10/17(水) 04:10:03.38 ID:cRu+lA7B
三界という富士山を、心という足で登っていくとする。 富士山の頂点が非想非非想処。 頂点からジャンプして富士山から離れたときが滅尽定(涅槃)。 足(心)を使って行けるのはそこまでですよね。 しかし、「その上」があると言い出したら?それはきりがない。 ちなみに、富士山の頂上まで行かなくても、ふもとでもどこでも ジャンプして地面から離れればそこに滅尽はあります。 仏教はそのことに気付いた。頂上まで行くことにこだわって 山(地面)にしがみついてる間はむしろジャンプできない。 頂上まで行かなくても、どこでもジャンプはできる。
699 :
神も仏も名無しさん :2012/10/17(水) 05:54:03.79 ID:wymK7oRu
700 :
神も仏も名無しさん :2012/10/17(水) 05:55:49.71 ID:wymK7oRu
>>689 >滅尽定「自体」はあくまでも禅定の境地の内であって、涅槃の境地ではない(別個無関係である)ことは確かですね。
ですよね。
>解脱した仏教聖者が、禅定の純度をずっと高めていって、最高点が滅尽定。
>解脱していない凡俗が、禅定の純度をずっと高めていって、最高点が非想非非想定。
ニカーヤでは他にも、
MN I, 302: 滅尽定から出たビクの心は遠離に傾き、遠離に向かい、遠離に滑り落ちる。
SN II, 151: [七界を説くなかで]想受滅界、この界は滅尽定を得る。
SN IV, 294: 滅尽定は想と受を止滅すること。
Ptm 97ff.: 滅尽定は止観を前提する。止は精神集中。観は、無常・苦・無我などの十六の観法。
ニカーヤでなくてテーラワーダ教学を決定づけている『清静道論』で「定の等流は非想非非想処、観の等流は果定、止観の等流は滅尽定」PTS320と説かれるますので、少なくとも『無碍解道』以降「止観の等流は滅尽定」ということ明文化されているのだと思います。
>いずれも禅定の極みという点では違いはない。解脱(の手段・道)や涅槃とは直接関
>係がないわけですから。
>>691 ですよね。止だけ、禅定だけでは六十二見になるというのは『梵網経』以来の仏教の伝統だと思います。
>>692 そりゃ最初の前提から間違ってますよ。
>>699 悪いね 仏教は趣味で調べてるもんで、専門的な事はよう分からんのよ
大学入試以上の漢文はお手上げだしサンスクリット語も中国語もチベット語もまったく分からん
https://www2.hf.uio.no/polyglotta/index.php?page=library&bid=2 これが、辛うじて見れる程度ですかね 勉強します
>>700 滅尽定と涅槃が別である事は、自分で調べて見てもなんとなく分かったような気がするのだが、
>解脱(の手段・道)や涅槃とは直接関係がないわけですから。
いまいち見えて来ない。
滅尽定(煩悩の火を吹き消した状態)が間接的な理由となり、輪廻しなくなり解脱をする→涅槃
※ただし、滅尽定の状態が涅槃や解脱を意味するのではない。
こういう事?それとも滅尽定とは別に、「十六の観法」が解脱や涅槃に関係してくると言うこと?
十六の観法ってもしかしなくても浄土系の経典にある奴とは違うよね・・・
くどくど質問して悪いが、初学者には、難しいw
素人考えかも知れないが
滅尽定にかぎらず、禅定もっといえば修行は、すべて解脱の為の手段・道であり仏教では解脱と涅槃は
意味的にそれほど違わないわけだから、直接関係がないとは言えない様に思うのだが
『梵網経』以来の仏教では、九次第定のような方法では六十二見になるので、その境地は、解脱や涅槃とは関係ないと言うことなのか。
余計わからなくなってきた、それでは『梵網経』以前の初期の仏教で言われている方法では、解脱できないとならないか?
それとも、それとも私が知らないだけで、書かれてるのか。
>> Ptm 97ff.: 滅尽定は止観を前提する。止は精神集中。観は、無常・苦・無我などの十六の観法。
これって
http://en.wikipedia.org/wiki/Patisambhidamagga これに紹介されてるのに書かれていると言うことでいい?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一回あたま冷やすわ
703 :
暇人 :2012/10/17(水) 07:45:44.29 ID:L2PvFTzV
704 :
暇人 :2012/10/17(水) 07:50:45.81 ID:L2PvFTzV
色界四禅+無色界四等至+想受滅(滅尽定)のうち 色界四禅と無色界四等至とは仏教外他教の悟りであり、 これに仏教の悟りである滅尽定を加えて整理したとある。 つまり包括主義である。他教の悟りを否定するのではなく 取り入れ序列化し低位に置く。そして仏教の悟りが一番と説く。
705 :
暇人 :2012/10/17(水) 07:54:06.52 ID:L2PvFTzV
私の見るところ、滅尽定を悟りとする初期仏教経典は沢山あるが (梵網経しかり、スッタニパータしかり)、 滅尽定と涅槃は別の境地だとする経典はない。 別だと主張されている方々は何を根拠に主張されているのだろうか あるいはなぜそんな主張をされるのであろうか
706 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/10/17(水) 08:27:43.44 ID:TP5AacMC
>>696 俺は三界の外側に神がいるなんて一言もいっていない。イエスもそんなことは言っていない。
神がいるところに神々がいる。イエスは至高の存在のことを天の父と呼んだ。
この世は見る者と見られるもので成り立っている。見る者と見られるものは相互依存関係にある。見る者は
イエスが天の父と呼んだ全ての根源たるものの独り息子。彼は単独者。
一方神々は見られるものの中にある。イエスは神とは預言者といった。彼らは真理を悟る人々。彼らが
単独者となったとき、見る者へと立ち返る。涅槃は三界の外側というより根源な。基点のゼロ。
そこは、なんにもないんだよ。ここをヴェーダの聖典ウパニシャッドでは自性とよんだ。
見方によればそのまんまだからね。でもそこには何にも無いんだよ。あとは自分で考えな。
707 :
暇人 :2012/10/17(水) 08:28:42.50 ID:L2PvFTzV
>>702 梵網経でも九次第定でも想受滅(滅尽定)が推奨されているだけですよ
梵網経…62見だと輪廻する。想受滅だと輪廻から解脱する
九次第定…色界四禅は色界に輪廻。無色界四等至は無色界に輪廻。想受滅は解脱
たとえば 信・精進・念・定・慧の五根(五力)に沿って説明する場合は 信 → 精進 → 念 → 定(滅尽定) → 慧 → ねはん 滅尽定(想受滅)の次の段階に慧根(慧力)がある と言うような感じがしますが、どうでしょうか?
見 → 思惟 → 語 → 業 → 命 → 精進 → 念 → 定(滅尽定) → ねはん? 八正道の場合は ↑ このような流れで見るのは 間違いかもしれないけど、どうでしょうか?
710 :
暇人 :2012/10/17(水) 08:41:12.60 ID:L2PvFTzV
>>708 それって止観の「止」と「観」というか
サマディー瞑想(定)とヴィパッサナー瞑想(観察=慧)とか?
711 :
神も仏も名無しさん :2012/10/17(水) 08:50:33.73 ID:cNn+Dhvg
>>705 滅尽定は完全な無。自分がいない。自己意識がない。
これに対して涅槃定には自己意識がある。自分がいて自己意識がある
から悟ったことがわかる。悟りとは、自分が何かがわかること。
712 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/10/17(水) 08:53:19.53 ID:TP5AacMC
一代とかいう仏教だけは特別だと言いたげなアホはことあるごとに滅尽定(サマーデイ)時から 縁起を直観知で知ることが悟りだと抜かしてるが、意味もわからず言ってんだから笑える。 仏教だけは特別だと思ってるこいつはアホなんだよ。真理を求めてこの道に入ったなら仏教はやめた方がいい。ま、ゴータマ自身は 悟りを開いた人なのは間違いないので彼の言葉から探求するのは間違いではないが。 現代の仏教界のつまらない師などに頼れば迷ってしまうだろう。仏教からこの道に入るなら、 つまらない師などに頼らず、自分自身て探求したほうがはるかに有意義な答えが得られるだろう。 でもまぁゴータマの説法は方便だらけでどうしようもないけどね。いずれにせよ仏教からこの道に入るなら 今の仏教の看板をあげてる宗教団体には関わらないことだ。彼らの誤謬は取り返しがつかないところまできている。 無我思想の誤謬から自性と真我(ブラフマン)を語れない今の仏教界は糞の役にもたたないガラクタなんだよ。
713 :
カラスの唄 :2012/10/17(水) 08:56:49.48 ID:TP5AacMC
>>685 ワハハ。パーピマンとはこれまたお前にピッタリなコテだな。
ところでおまえ、類は友を呼ぶってことわざ知ってっか?
714 :
カラスの唄 :2012/10/17(水) 09:03:24.18 ID:TP5AacMC
>>710 あんた、滅尽定が仏教の悟りのゴールだって趣旨の話をしてたんだって?いかにも唯物論者らしいやな(苦笑)。
光りあれば闇あり。そこから明けの明星を認識することが悟りなんだよ。縁起の直観知だ。ま、君らに
いくら言っても聞く耳持たずだろうけど。
>>708-709 瞑想なら、観→止(滅尽定・涅槃定など)→観 という流れ。
わたしの場合は、特に観をやらず、その代わりにあれこれ考える。
716 :
神も仏も名無しさん :2012/10/17(水) 09:15:59.84 ID:blcgv/JN
>>713 >ところでおまえ、類は友を呼ぶってことわざ知ってっか?
wwwwwwwwwwww 勿論、知ってるぞww
お前のようなキチガイが、隠居や在家に群がる・・・・・ってことだなwww
>>710 暇人 さん
> それって止観の「止」と「観」というか
> サマディー瞑想(定)とヴィパッサナー瞑想(観察=慧)とか?
滅尽定(想受滅)によって
渇愛(タンハー)を滅し尽くして
そして、その後に、もう一度、最終的に
縁起による観察(空観など)を、おこなう
と言う事なのかもしれません
( ↑ 違うかもしれません)
718 :
カラスの唄 :2012/10/17(水) 09:26:39.10 ID:TP5AacMC
自性と呼ばれてるものは縁起によらずそれ一本で成立し識別しえないものなのに、 なぜ竜樹は、本来名称ではいい表せない自性と呼ばれてるものを自性という名称として扱い、 無自性という相が表れるから自性はないとやってるわけ?竜樹の中論はのっけから間違ってんだよ。 ま、確かに自性と呼ばれてるものは無いっちゅうたら無い。なにせそこには何にも無いんだから。 自性と呼ばれてるものの本質は言葉で表現するなら、無だからね。相がなく成り立つってことはそういうことだ。 ゴータマはそれを発見したんだよ。故に自性と呼ばれてるものはない。アートマンと呼ばれてるものはなかった。ゴータマは その立場で説法をした。一方他の聖者逹は見方によれば縁起に依らず単独で成立し、全ての 根源たるそれは、自性そのものなのでその立場で教えを説いた。それだけの違いで、 言ってることの本質は同じことを言ってるんだよ。真理は一つだからね。
>>707 >>梵網経でも九次第定でも想受滅(滅尽定)が推奨されているだけですよ
梵網経は、以前途中まで読んで仏儒教的思想が多分に含まれている様に感じ
それ以来読んでいないので、自信はありませんが
梵網経は、成立前の経典の解釈まで影響を与えるほど、重要なものなのですか?
ID:wymK7oRu ←が一代氏でいいよね。由来がよくわからないが
一代氏が
>>700 で少々触れていますが『清静道論』または『無碍解道』以前は止観が今ほど詳細に体系化されていなかった。
九次第定は、釈尊やその直弟子達が行ったとされる禅定。釈尊の時代より数世紀後に成立した『清静道論』の定義に必ず
当てはまるとは言えないのでは。(『無碍解道』については先ほど知ったのでよくわかりません)
そもそも、ニカーヤには、滅尽定を初め九次第定については述べられていても、止観についてはほとんど詳細に述べられていないようですから。
カラスさんは、全体のデッサンにすぐれ、だいたい正しい。 後は瞑想を深めて滅尽定や涅槃定などを体験するだけ。 そうすれば学ばずして般若の智慧を得る。
721 :
カラスの唄 :2012/10/17(水) 09:38:06.95 ID:TP5AacMC
>>716 おや、パーピマンというお前にピッタリなコテはどうしたんだよ?ところでおまえ、
俺のことはスルーするんじゃなかったっけ?いったことは守れや。
お前に相応しいコテをもう一つ教えてやるよ。ゴイムだ。お前は、まんまそうだから観察してると笑えるんだよ。
スッタニパータ 1037 識別作用が止滅することによって 名称と形態とが残りなく滅びた場合に この名称と形態とが滅びる スッタニパータ 1115 無所有の成立するもとを知って すなわち『歓喜は束縛である』ということを知って それをこのとおりであると知って それから(出て)それについてしずかに観ずる 安立したそのバラモンには この < ありのままに知る智 > が存する スッタニパータ 1119 つねによく気をつけ 自我に固執する見解を打ち破って 世界を空なりと観ぜよ _ _ _ 渇愛(タンハー)の滅却 → その後に空観 → ねはん? ( ↑ 違うかもしれません)
>>722 空観は、従来の「空」を初期の大乗仏教が般若経などで拡大解釈して、
その般若経の立場で龍樹が『中論』などを書いたことで大成した理論で
あり、空観とスッタニパータは、直接関係ないと思うのですが・・・
724 :
神も仏も名無しさん :2012/10/17(水) 09:48:54.03 ID:blcgv/JN
>>721 「パーピマン」というのは、他スレの流れでジョークで付けたものww
ここでは、名無しw 消し忘れただけねww
>俺のことはスルーするんじゃなかったっけ?いったことは守れや。
いや〜〜、お前があまりにも、「誰にも相手にされず放置されている」のを
見て、かわいそうになってなww
ちょっと、いじってやろうとww
こういうのを仏教では「慈悲」と言うんだぞw
一つ賢くなったろ? キチガイwwwww
業を決定的に消滅させるのは【魔境】です。魔境は、 非想非非想処や滅尽定・涅槃定などと並ぶ、ひとつの境地です。 これを軽視するから、業を消滅させるプロセスが理解できないのです。 魔境で自分の業を清算した後に、滅尽定に入る。 業を清算したからこそ、これまでの自分が消滅し、滅尽定に入る。
>>723 さんへ
> 空観は、従来の「空」を初期の大乗仏教が般若経などで拡大解釈して、
> その般若経の立場で龍樹が『中論』などを書いたことで大成した理論で
> あり、空観とスッタニパータは、直接関係ないと思うのですが・・・
sn1119世界を空なりと観ぜよ → 大乗般若経の空観 → 龍樹中論の空観
と ↑ このような流れで間接的に関係がある
と私が勝手に拡大解釈を致しました
失礼いたしました
業を清算して滅尽定に入る。この体験にはどんな果があるのか。 他人の悪意は素早くその人に帰り、他人の善意も素早くその人に帰る。 そうでなければ、業が周囲に左右されることになる。 こういった考え方が、供養の背後にあるのではないか。それはともかく、 不思議に運がよくなる。災難に出会ってもカラリとしている。
728 :
神も仏も名無しさん :2012/10/17(水) 11:24:57.60 ID:blcgv/JN
(正直、よく読んでないので分からんがww) 一代は「滅尽定」を禅定の最高境地、すなわち「止」の完成・・というような 捉え方してるんだろ? そして、肝心なのは、そこから『観』によって、 涅槃に至る。・・・・こういうことか? とすると、 > Ptm 97ff.: 滅尽定は止観を前提する。止は精神集中。観は、無常・苦・無我などの十六の観法。 これの意味がイマイチだww 「滅尽定」は、「止」のみならず「観」も前提としているのでは? 「観」まで達せば、それすなわち「解脱=涅槃」とならないのか?
>>728 さんへ
>> Ptm 97ff
>> 滅尽定は止観を前提する。止は精神集中
>> 観は、無常・苦・無我などの十六の観法
> これの意味がイマイチだww
> 「滅尽定」は、「止」のみならず「観」も前提としているのでは?
> 「観」まで達せば、それすなわち「解脱=涅槃」とならないのか?
信・精進・念・定・慧の五根(五力)に沿って説明する場合は
信 → 精進 → 念 → 定(滅尽定) → 慧(無常・苦・無我などの観察) → ねはん?
滅尽定(想受滅)の次の段階に慧(無常・苦・無我などの観察)がある
と言うような感じだと思いますが、どうでしょうか?
>>720 カラスが正しいとかwww
仲良くムーでも読んでろよ。
>>727 >業を清算して
w
清算されるのは般涅槃時のみだぜ?(だから、有余涅槃・無余涅槃の別を立てねばならなくなった)
生きてる間は、その生きていることによる(生きていることに於ける)業は積まれ続ける。
「業」(kamma)が「行為」という語義も持つことを忘れるな。
五比丘のシーンにしても他の場面にしても、
『次の生を受ける因・縁となるものが尽きた』ということなんだよ。
だから「後有を受けず」だし「再生(再誕)・輪廻の連環から脱した」ということになるわけさ。
輪廻の因という“元本”分を支払い切って、あと利息分の支払が残っているようなもんだ。
残金・支払がまだ残っていても、(一旦大きく支払ったから)、
或いは、これまでのツケの分を支払って、「あ、今日の分はツケで」としても
それを「清算」と言うなら、それでもいいのかもしれんが・・。
(あ、後者は、過去の分は清算されたということで成立するのかw)
Ptm 97ff 滅尽定は止観を前提する 止は精神集中 観は、無常・苦・無我などの十六の観法 _ _ _ 滅尽定は止観を前提する、ですね? 私が勘違いしていました 失礼いたしました
733 :
696 :2012/10/17(水) 12:28:07.18 ID:cRu+lA7B
>>706 三界のうちにありながら「無」ということは、
三界の外にいかなる存在もないということでしょう。
とすると、涅槃とは文字どおり「無」「滅び」だなりますね。
ただし、「無い」や「滅びた」には必ず主語が必要です。
「釈迦が滅びた」など。
そして一度滅びたら二度と釈迦になれない不可逆な滅びだと思われます。
三界の中で滅び、三界以外にも残り物はないわけだから、
再生する拠り所となる残存物がない、だから二度と戻れない。
734 :
696 :2012/10/17(水) 12:53:54.29 ID:cRu+lA7B
>>706 カラスさんの言ってることと梵我一如とに違いはありますか?
また、単独者には、「神様」とか大日如来などのように「衆生を導こうとする指向性」があるとお思いですか?
ただの無ならば、衆生に都合のいい慈悲深さなどないでしょう。
それでも、その無(単独者)には、衆生を無へと引きずり込もうとする指向性はあるのでしょうか。
>>731 業の正体がアラヤ識である。このアラヤ識が消滅すれば、
その後の行為は業にならない。業として付着する拠り所がないから。
解脱後の誤りは、たいがいの場合その都度、現金払いする。
>>735 なるほど。
清算後の行為は「業」ではない(業と見做さない・業として値しない)ということか。
一応、筋は通るのか。
《後有へ誘うもの、悪果を結ぶもの》、これらを「業」と呼び、
そうでないものは「業」ではなく(→業として積まれない)、単なる「行為」であるという形で・・。
「業」とは、凡そ爲される行為の中の或る一部分(及びその影響力)を指して言うわけか。
聖者に於いては、(三輪空寂の如く)どんな行為にあっても、そこに果を結ぶものではない、と。
聖者の行為は「業」と呼ばれない、或いは
『聖者は業を積まないし、そもそも《「業」が積まれる行為が爲されることはない』と。
まあ確かに、一般的に「業」と言った場合、単なる行為でなく
「(悪)果を結ぶ影響力を持った“余韻”」的位置付けではあるか。
なら、業の清算後が長く継続しても問題ないわけか。なるほど。
なんとなく納得してしまいそうだが、納得しちゃっていいのかどうかが、ちと不安w
737 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/10/17(水) 17:30:15.81 ID:TP5AacMC
>>734 単独者は無と=というより、安息日(無の境地)の主(あるじ)な。ま、見方によれば=でもいいけど。
そう。梵我一如につながる話。今の末法仏教徒逹は梵我一如というと、条件反射的にそれは仏教じゃないというが、
ゴータマは単に真我(ブラフマン)でさえ、自性(アートマン)はないと言ってるだけなんだよ。ま、君には
色々教えてあげたいが、ここは見ての通り、とても集まりが悪くてね。ここで真理を語ることは心の宝を泥の中に
投げるようなものでね。まさに豚に真珠。でもせっかくだから一つだけ教えてあげよう。私とあなたは死ねば消える幻。
俺達は本当は一つなんだよ。ならば俺達は本当は愛し合ってしかるべき存在だろ。なのに人々は自分の
好き嫌いで分け、エゴの赴くまま生きている。イエスは慈愛の精神を説き、ゴータマは慈悲の心を説いた。我々の心に
巣食うエゴイズムを滅ぼし、エゴ(自我)を滅ぼす道は本物の宗教の普遍のテーマだ。救いの道はそこにある。
生きとし生けるものは皆、幸せでありますように。
>>736 真の善悪を知れば、知らない者以上に善悪の責任を問われる。
解脱者の過ちは、素早く責任を問われ、以前より厳しい問われ方をする。
そういったこともわかれば、かれらは戒律を守ろうと心から努力する。
解脱者にも過ちはあるが、たえず気をつけることで業になるような
過ちをしないのかもしれない。
釈迦が食中毒で死に、神通第一の目連が敵対勢力に殺された話は、 それによって二人の業がつきるため、という話ではない。 そうではなく、神通力がマユツバであることを教えるエピソードだろう。 しかし不思議なことがまったくないとも思えない。神通力は、 解脱者の能力と言うより、神仏の力が働いた結果のような印象を受ける。
ピサの斜塔を真っ直ぐにする為には何処かを修復すればよいと云うものではない.
全てぶち壊しにして一から建て直すほかにない.
>>734 そいつはピサの斜塔だよ.
741 :
カラスの唄 :2012/10/17(水) 19:58:05.77 ID:TP5AacMC
>>740 そう?壊さなきゃいけないのは、伝統的と称しながらも誤謬だらけで
元の教えであるゴータマの仏教とは違うものになっている君らの末法仏教の方だと思うぞ。
>>741 (
>>737 )
ほんと頭悪いなw
何でもアリじゃ駄目だというのが、なぜ解らないんだろう。
1万歩譲って、ゴールが同じものだったとしよう。
しかし、そこへ至る爲の方法論の違いはどうしようもない。
Aという道を歩む者もいればBという道を歩む者が居てもいい。
だが、AとBを一緒にするなということだ。
Aという道は、灼熱のコースだったとしよう。
装いは暑さを凌ぎ、体温の上昇や蓄熱を避けるものになるだろう。
また、こまめな水分補給や冷たいものの摂取が必要にもなろう。
Bという道は寒冷コースだったとしよう。
装いは寒さを凌ぎ、体温の維持や蓄熱が必須となるだろう。厚着となるだろう。
また、冷たい物よりは温かい物の摂取が必要とされてくるだろう。
ゴールが同じでさえ、その道行きに違いが生じるというのに、
どうしてそれを同じと言えるのか、その神経を疑うよ。
ましてや、ゴールが違うのに、どうして方法論としての詳細が同じになろうか。
宝珠は聡明だから、この辺の辻褄合わせに苦労しているようだが・・w
カラスは救いようが無いw ┐(´ー`)┌
743 :
696 :2012/10/17(水) 21:49:22.12 ID:cRu+lA7B
>>737 ありがとうございます。
梵我一如。一即一切・一切即一。
しかし、梵も我も一も一切も縁起、空、無自性ということですか。
744 :
696 :2012/10/17(水) 22:01:31.74 ID:cRu+lA7B
梵我一如と如来蔵は微妙に違う気がするし、 如来蔵と煩悩即菩提はもっと違う。 お釈迦様が梵我一如に賛同であったとしても、 煩悩が悩み苦しみの原因であることは否定していないから、 仏教の仏教らしさは損なわれないですしね。
745 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/10/17(水) 22:25:04.61 ID:TP5AacMC
>>742 そこで念仏か?狭き門から通れ。滅びに至る道はなんと広く通りやすいものか。
スッタニパータなどを読むとゴータマは繰返し善をなし、悪を成してはならないと説いている。四無量心の下りはその最たるものだ。
どの道を選ぼうが、結局人は、真理を正しく認識し、今生において善の修業を完成させなければ、
そこには帰れない。その道は八正道に繋がる道。善の修業。それは己の心に巣食うエゴイズムを滅ぼす道。
その道はとても険しく通りがたい。念仏唱えてるだけじゃ誰も救われないんだよ。
>>745 >そこで念仏か?
どこから念仏が出て来るんだよ?w
もしかして、カラスって元真宗なの?
スキーをする奴がいてもいいし水泳する奴がいてもいい。野球でもサッカーでもいい。
が、
スキー板を嵌めて水泳をする奴はいないってことだよ。
バットを持ってサッカーする奴はいないってことだよ。
野球をするなら野球のやり方がある。
「仏教」なら仏教のやり方がある。「キ教」ならキ教のやり方がある。
「仏教(≒シッダッタ)」には仏教(≒シッダッタ)の目指すところがある。
「キ教」(≒イエス)にはキ教(≒イエス)の目指すところがある。
ただそれだけのことなのに・・w
なんで解らないかなぁ・・・ (´∀`;)
みんな違ってみんないい、なんて詩った人もいたなw
違ってていいんだよ。無理して同じだと思おうとするから、あちこちに軋みが出る。
「真理は一つ!(キリッ」 なんて夢物語から目を覚ませ。
X「仏教(≒シッダッタ)」 X「キ教」(≒イエス) ○「仏教(≒龍樹)」 ○「キ教」(≒パウロ)
748 :
神も仏も名無しさん :2012/10/17(水) 23:04:24.12 ID:yiloohpk
>>745 念仏も馬鹿にしたもんじゃないナムアミダブツと諸々の事柄に頭を下げる謙虚な気持ちが
修行でも大事ですよ。
749 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/10/18(木) 00:07:41.11 ID:KPDhOcr9
光りあれば闇あり。私は世を照らす光り。輝く明けの明星。
はじめであり終わりであるもの。アルファでありオメガである。
>>743 そういうこと。見る者と見られるものは相互依存関係にあり、また全ての
根源から縁して生起した。真我(見る者)も含め一切のものは全て縁起により成立している無自性な空である。
縁起に依らず成立しているのは一切の全ての根源であるが、ややこしいのは
自性と呼ばれていたその根源の本質は、言葉で表現するなら無であること。きっとその存在は我々の認識領域
を越えているんだろう。ちなみにイエスはこんなことを言っている。
子は父を必要とするが、父は子を必要としない。
エゴイズムとは思い上がり 根源の本質は無でないにしても無に近いゴミ
カラスの唄さん 空海が十住心論の中で文を引いて「オン」字を以て釈尊が毘盧遮那仏と成ったと書いていますが、それについてどのように思いますか。
752 :
神も仏も名無しさん :2012/10/18(木) 06:07:26.14 ID:VRJrozaz
>>701 十六の観法というのは、四諦十六相を観ずるという意味。
Ptm は『無碍解道』の略称。
>>702 >『梵網経』以来の仏教では、九次第定のような方法では六十二見になるので、その境地は、解脱や涅槃とは関係ないと言うことなのか。
そう。禅定状態は必要だけど、禅定・三昧によって涅槃するわけではないという意味。
基礎的な知識がないんで、そこを補充しないと話になりませんよ。
なんでもいいけど水野弘元『原始仏教』216以下あたり読んでみてください。
>>> Ptm 97ff.: 滅尽定は止観を前提する。止は精神集中。観は、無常・苦・無我などの十六の観法。
>これって
http://en.wikipedia.org/wiki/Patisambhidamagga >これに紹介されてるのに書かれていると言うことでいい?
そうです。97ff. というのは『無碍解道』PTS版の97頁以下に書かれているという意味。
PTSはパーリ・テクスト・ソサエティ。
753 :
神も仏も名無しさん :2012/10/18(木) 06:22:56.99 ID:VRJrozaz
>>719 梵網経は、パーリ梵網経のこと。テキスト諸訳は以下の通り。
http://www28.atwiki.jp/buddha/pages/16.html 九次第定は止に他ならない。止というのは心の動きを止める、鎮めることで、
要するに精神集中。これを三昧とか禅定とかいうわけ。
観というのは、単純に言えば縁起観、生滅を観たり、四諦十六相を観たりして、現象・感受など五蘊に実体・本質がないこと観じる。
これによって無我・空を悟り涅槃するというのが、梵網経はもちろんアッタカ・ヴァッカなど以来の仏教の本質ですよ。
体系化されてない、術語化と言えば、そういえるかもしれないけど本質的には説かれてます。
有名な『涅槃経』の遺言「滅するものが一切諸行である」もサーリプッタがそれを聞いて悟った縁起法頌も初転法輪で五比丘がつぶやいた「何であれ生じたものは、全て消え去るものだ」も観・縁起を示します。
『梵網経』では「ビクが六接触処の生起と消滅と快感と禍患と出離とをあるがままに知ること。
これはかれら(六十二見で類型総括される外道の聖者)一切より、より優れたものを知るのです」
この「生起と消滅をあるがままに知ること」が観に対応してます
754 :
神も仏も名無しさん :2012/10/18(木) 06:26:18.80 ID:VRJrozaz
>>728 違う。観はあまり深い禅定ではできない。
四禅あたりが最適。
滅尽定に入るためには観がいるということ。
観がないと滅尽定に入れない。
だから、仏教の聖者しか入れないという意味。
この観、つまり縁起こそが仏教の本質であるということで仏教は一貫してる。
http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4333023955/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=bySubmissionDateDescending 原始仏教入門―釈尊の生涯と思想から / 水野弘元(著) / 佼成出版社(2009/08)
カスタマーレビュー
“釈尊は今までの禅定や苦行の努力が誤っていたことを知り
菩提樹下において禅定思惟を始められた、それは
四禅定、四無色定、滅尽定の九次第定という悟りの禅定であった、これによって
初夜には宿命明(過去に関する智慧)
中夜には天眼明(未来に関する智慧)
後夜には漏尽明を得て、仏陀となられた”
「四無色定」は無所有処定と非想非非想処定を含むので、最高の「止」の瞑想である、しかし
これらの瞑想では不十分とした釈尊は「滅尽定」を独創して「止」の瞑想の上に置いたのである
しかもそれは「滅尽定⇒宿命明+天眼明⇒漏尽明」という「観」の瞑想なのである
「止」の後に「観」を行うのが、非凡な独創なのである、つまり
「宿命明(過去に関する智慧)=苦聖諦+苦集聖諦」であり
「天眼明(未来に関する智慧)=苦滅聖諦+苦滅道聖諦」が統合されて
「滅尽定≡漏尽明≡苦聖諦+苦集聖諦+苦滅聖諦+苦滅道聖諦」という驚くべき結果に導かれたのである
ブッダ釈尊の九次第上によれば
「止」の瞑想は物質的な束縛からも精神的な束縛からも自由になるための瞑想であり
「観」の瞑想すなわち「四聖諦」の瞑想は「止」の瞑想が究極に至らない限り起動しないように思われる
しかし、悟りの光を獲得したブッダ釈尊は、後に「アーナパーナサティ経」によって
凡夫が取り組みやすい「止観」の瞑想を残してくれた
これが「自灯明、法灯明」の真相である
756 :
カラスの唄 :2012/10/18(木) 07:26:48.66 ID:KPDhOcr9
>>746 おや、いつのまにか目的地が違う話になってらぁ〜。だからあんたら坊主は詐欺師だってんだよ。
そりゃスキーと水泳じゃ手法もゴールも違うわな。俺は入り口は違えど目的地が一緒なら、
最終的には同じ道を通るって話をしてるんだよ。なんでわからないかなぁ・・・・(絵文字略)
そりゃお宅ら唯物末法仏教や、空理空論中論教なら目的地は違うだろうさ。俺は君らの
末法仏教の話をしてるんじゃなく、ゴータマの仏教の話をしてるんだよ。なんでわからないかなぁ・・・・(絵文字略)
ま、あんたらは真理の探求、衆生の救済より、飯の種の自分達の宗教(宗派)を守ることの方が大事なんだろ。
757 :
カラスの唄 :2012/10/18(木) 07:28:26.83 ID:KPDhOcr9
758 :
カラスの唄 :2012/10/18(木) 07:37:40.91 ID:KPDhOcr9
>>751 俺はゴータマの仏教には興味があって原始仏典は読んだが、
大乗仏教系は全く興味がないので大乗系の仏典はほとんど読んだことがない。空海さんの
十住心論も読んだことがないのでコメントできないや。ゴメンね。
759 :
カラスの唄 :2012/10/18(木) 07:46:15.26 ID:KPDhOcr9
このスレには本物のパーピマンがいる。昨日から笑いが止まらない。まんまパーピマンだぜ(大爆笑) そういや悪魔ナムチもこのスレにはいたな。悪魔ナムチは原始仏典を読んですぐにゴータマは輪廻転生を説いていたと 認めるだけの書かれてる事を素直に受け止める度量があるが、 パーピマンの方は全く見込み無しだ。気の毒にの〜。
>>756 w
>目的地が一緒 ってのは >1万歩譲って の話だろw
もとより一緒だなんて認めてないがなw
また、
>入り口は違えど同じ道を通る ってのも、「同じ道」(方法)じゃないだろ?w
また、君が >目的地が違う(違っている)話に と気付いているように、
まさにその通りのことが746では言いたいわけよ。
まさに、「 >スキーと水泳じゃ手法もゴールも違う 」が如くに、
キ教(や神智学wやグノーシス?w)と仏教とじゃ手法もゴールも違うって話さ。
やっと解ったか?w
761 :
神も仏も名無しさん :2012/10/18(木) 08:49:37.16 ID:VRJrozaz
>>760 相手にしなければいいのに
生命教、カラス、絶対神、?あたりは会話も成立しないんで、話すだけ無理だと思うよ〜
762 :
カラスの唄 :2012/10/18(木) 08:53:43.76 ID:KPDhOcr9
>>746 ところでおまえさん。ゴータマは涅槃に至る道は八正道。これしかないと言い切っているんだが、
仏教徒、ましてや指導者の坊主の癖に知らないのか?すごいな、君ら末法仏教にかかれば違う道もあるわけだ。
中には仏教の看板をあげながら八正道も教えない宗派もあるんだってな。
八正道すら迷いだって宗派もあるんだから呆れてものがいえん。たく、一番迷ってるのはお前らだって。
そういや前に2chで偉そうに講釈垂れてた禅坊主がいたんで涅槃に至るにはどうすればいいんですか?と聞いてみたわけよ。そしたらその禅坊主、
死んで死んで死に切ることなんですと、寝言をいうわけよ。たから俺は言ってやったのさ。
そうですか。僕は八正道だと思ってました。とね。そしたらその禅坊主は逆ギレ。その坊主の取り巻きは
知ってんなら最初から聞くなと怒り出すしまつ。どうやらその禅坊主、
般若心経はよんでも、肝心な原始仏典はろくに読んだことがないらしい。いやはや何気にすごい話ですな〜。
>>754 >違う。観はあまり深い禅定ではできない。
>四禅あたりが最適。
>観がないと滅尽定に入れない。
>だから、仏教の聖者しか入れないという意味。
なんだそれ。最初は「滅尽定」だけをやり玉に上げて観じゃないから無理とか迷いの道とか言ってただろ。普通は728の様に取るわ。
>>753 それは、いいとしても、後世の特に大乗の定義で初期の仏教を捉えようとしすぎじゃないか?
諸行無常などの縁起観を否定する気は毛頭ないが、「無我・空を悟り涅槃」は、一代氏自身が指摘してるように後世出来たもの。
「無我」や「空」を大きな意味で言い出したのは、龍樹菩薩や般若経の著者達と理解している。それ以前は、
「空」と「縁起」は今ほど密接に関係していなかった上に、テクストでは「無我」でなく「非我」。
「無我・空を悟り涅槃」とする梵網経・アッタカ・ヴァッカ以来の仏教の定義で無我・空がそれほど言われていない
九次第定を初め初期の涅槃を語るのは適切ではないのでは?
あと、水野弘元『原始仏教』って
>>755 の入門の方じゃないよな・・・
764 :
カラスの唄 :2012/10/18(木) 08:58:47.09 ID:KPDhOcr9
>>760 だから〜。俺は君らの末法仏教の話をしてるんじゃなく、
ゴータマの仏教の話をしてるって言ってんだよ。なんでわからないかなぁ・・・・(絵文字略)
765 :
カラスの唄 :2012/10/18(木) 09:10:33.98 ID:KPDhOcr9
>>761 俺は生命教、絶対神のように一方的に話をしてるんじゃなく、
ちゃんと論拠をもって君らの末法仏教は、ゴータマの仏教とは違うと言う話、反論をしているぞ。
別に俺の話は、宗教板のテーマからみればおかしな話はしていないはずだ。で、気に食わない相手は的外れなレッテル貼って、
皆で村八分しようてか?相も変わらす君らはやることが陰湿で汚いな。
ここは本当に集まりが悪い。
766 :
神も仏も名無しさん :2012/10/18(木) 09:18:07.40 ID:VRJrozaz
>>763 >なんだそれ。最初は「滅尽定」だけをやり玉に上げて観じゃないから無理とか迷いの道とか言ってただろ。普通は728の様に取るわ。
迷い道というのは倶舎と涅槃経に基づいてるよ。
観じゃないから無理って言ったか?
>それは、いいとしても、後世の特に大乗の定義で初期の仏教を捉えようとしすぎじゃないか?
そんなことないよ。根拠はアーガマ・ニカーヤやその注にもあるし。
>諸行無常などの縁起観を否定する気は毛頭ないが、「無我・空を悟り涅槃」は、一代氏自身が指摘してるように後世出来たもの。
>「無我」や「空」を大きな意味で言い出したのは、龍樹菩薩や般若経の著者達と理解している。それ以前は、
>「空」と「縁起」は今ほど密接に関係していなかった上に、テクストでは「無我」でなく「非我」。
そりゃ、記号の問題だ。記号は変わっても意味は変わらないと思う。
>「無我・空を悟り涅槃」とする梵網経・アッタカ・ヴァッカ以来の仏教の定義で無我・空がそれほど言われていない
オイラの読みでは、そうでないのは示した通り。
アッタカ・ヴァッカもこれがその証拠
http://www28.atwiki.jp/buddha/pages/32.html
767 :
神も仏も名無しさん :2012/10/18(木) 09:19:14.87 ID:VRJrozaz
>九次第定を初め初期の涅槃を語るのは適切ではないのでは?
大乗で語るのは適切でないという意味?
大乗でなくても禅定・三昧という方法だけで涅槃するというのは仏教ではないのは確実。
なぜなら、それなら釈尊は外道二師の方法を掘り下げることになるから、
そうならないのは禅定・三昧だけではだめとしたということを表し、
初転法輪の五比丘、縁起法頌、釈尊の遺言などが示すのは縁起であり、それが観であること、そこが重要だということに他ならず、
それ以外の『梵網経』なども、そう捉えると一貫して筋道が通る。
水野先生もそう考えておられるし、パユトーなどの現代の伝統的テーラワーダもそう。
もちろん、大乗は一貫してそう。
>あと、水野弘元『原始仏教』って
>>755 の入門の方じゃないよな・・・
そう。違う。それにそのレヴューは評者の思いだけで水野先生の考えはほとんど反映されてないでしょう。
こういうの引っ張ってこられると混乱するだけなんだよね〜
止観の観 〜 観の意味を定義しないと話が混乱する。 個人的には、体験したことを反省することが観だと思っている。 反省する対象は、自分、周囲の他人、世の中の出来事などである。 これはだれでもが普通にやっている。だれかに学ぶ必要はない。 自分や世間のことを、あれこれ考えることが観である。
>>765 >のように一方的に話をしてるんじゃなく
>ちゃんと論拠をもって
wwwwwwwwwwwww
朝から爆笑させんなw
>君らの末法仏教は、ゴータマの仏教とは違うと言う話
w
だから、鏡像として
『キ教と“>ゴータマの仏教”(と、敢えて言い方を揃えるがw)とは違う』
という話をしてるんじゃないかw ましてや神智学やグノーシスまでが同じだとは片腹痛いわw
>君らの末法仏教
ワシ(も、そしておそらく一代も)は一貫して「原始仏教(“ゴータマの仏教”)」の話しかしてないが?
少なくとも、「お釈迦さんの示されたこと(ゴータマの仏教)」と「君らの思想・志向」はまるっきり違うという話をしているわけ。
それを、しつこく「末法仏教(≒現代(日本)仏教)」との対比にすり返る君の姿勢にもうんざりするわw
隠居や在家とは色合いが異なるが君の醜悪さも大概だな・・。
>>766 >> そりゃ、記号の問題だ。記号は変わっても意味は変わらないと思う。
これは、さっさと学者達が結論を出してくれると嬉しいのだが、個人的な印象だと仏教学者とインド哲学・思想の学者で真っ二つって感じだなw
私は、一代氏とは違うので、後者を支持するかな。といっても、仏教は、無我で仏教成立以前は、非我という考えだから、少し違うかもしれないが(ry
>>767 >>大乗でなくても禅定・三昧という方法だけで涅槃するというのは仏教ではないのは確実。
成立時期から考えても、大乗や『清静道論』(つまりテーラワーダですね)は、根拠としては弱いと思います。アーガマ・ニカーヤにある根拠が
上で挙げられたものだけなら、否定はしていませんが。九次第定を行った釈尊や直弟子達は経典もなにもない仏教成立以前ですから、それを根拠に
>>719 でも書いた様に止観の区?が今の様に明確に合ったとはっきり言い切るとこはできないとおもいます。
いまさら掘り返してもしてもしょうがないが三解脱門は、滅尽定より低いみたいな話をしていた時。 私は、三解脱門で言われれているのは「観」のみで、龍樹や般若経の神秘家たちは、 瞑想体験としてはそれほど高くないと言った時、途中から止観の話とかでよく分からんことになったが >違う。観はあまり深い禅定ではできない。 >四禅あたりが最適。 一代氏は、滅尽定と止行・観行が気になっただけで、龍樹らが実践と言う意味では大したこと無いって所は、異論は無かったわけね。
772 :
カラスの唄 :2012/10/18(木) 09:56:56.80 ID:KPDhOcr9
>>769 ふ〜ん。業報輪廻転生を否定し、八正道以外にも涅槃に至る道があるとか言ってる
お前らの末法仏教がゴータマの仏教と同じね〜。へ〜。こりゃ驚いた。でお前、グノーシスのこと、
どこまで知ってもの言ってるわけ?
773 :
神も仏も名無しさん :2012/10/18(木) 10:01:47.77 ID:VRJrozaz
>>768 全然ちがいます。
だから、観は縁起観で、それによって本質も実体もないと悟る観察法ですよ。
774 :
カラスの唄 :2012/10/18(木) 10:03:47.29 ID:KPDhOcr9
キリスト教徒にも言えることだが、どうも自称伝統的宗教だと自負している連中は 他の宗教と自分達は違うことにしたいようだ。きっと自分とこだけは特別だと思いたいんだろうな。
>>768 の続き。観をそう定義すれば、観から止に入り、止の体験を
その後に観ずる、という話になる。観→止→観という流れである。
止(禅定体験)→観の流れはわかるだろう。問題はその前の観である。
この観は、瞑想を始める前の、日頃の生活における観である。
776 :
神も仏も名無しさん :2012/10/18(木) 10:08:16.12 ID:VRJrozaz
>>770 >これは、さっさと学者達が結論を出してくれると嬉しいのだが、個人的な印象だと仏教学者とインド哲学・思想の学者で真っ二つって感じだなw
>私は、一代氏とは違うので、後者を支持するかな。といっても、仏教は、無我で仏教成立以前は、非我という考えだから、少し違うかもしれないが(ry
一般的な文献学者は正に言語記号の分析に終始するので無理でしょう。
要するに記号の変遷史みたいなことしかできない。それはそれで意味あるけど。
それを超えたのが石飛先生。天才だ。
>
>>767 >>>大乗でなくても禅定・三昧という方法だけで涅槃するというのは仏教ではないのは確実。
>成立時期から考えても、大乗や『清静道論』(つまりテーラワーダですね)は、根拠としては弱いと思います。アーガマ・ニカーヤにある根拠が
>上で挙げられたものだけなら、否定はしていませんが。九次第定を行った釈尊や直弟子達は経典もなにもない仏教成立以前ですから、それを根拠に
>
>>719 でも書いた様に止観の区?が今の様に明確に合ったとはっきり言い切るとこはできないとおもいます。
まあ、そう考えることもできるけど、そうなるとアーガマ・ニカーヤ全体の整合性が全くなくなって、フラウワルナーのように縁起の意味もなく外道との違いも見いだせなくなるね。
それだと、和辻とか宝珠と同じで釈尊だけ特別で、それ以降の小乗や大乗全ては釈尊を誤解したという方向にしか解釈できない。
オイラはこっちの方が、根本的に矛盾していると思う。
>>772 >とか言ってる
あ、俺のことじゃなかったのねw じゃ、誰のこと言ってるんだ?www
つか、そっくりそのまま同じ台詞を返すわw
君等の言ってることがゴータマの仏教と同じね〜。へ〜。こりゃ驚いた。でお前、原始仏教のこと、
どこまで知ってもの言ってるわけ?
顔洗って出直して来いw
>>777 >釈尊だけ特別で、それ以降の小乗や大乗全ては釈尊を誤解したという方向
カラスもなw
779 :
神も仏も名無しさん :2012/10/18(木) 10:13:49.25 ID:VRJrozaz
>>771 それも違う。
それについては『十地経』か『入中論自註』を読むといいよ。
アルハットは七地止まりだけど、菩薩は七地で一切如来に驚覚させられ、
普賢行を歩むことが簡明に書かれているよ。
この理解がないと大乗と小乗の関係が分からない。
この意味で大乗は広大なのだから。
もちろん龍樹菩薩の方が、境地も高い。
780 :
カラスの唄 :2012/10/18(木) 10:14:07.79 ID:KPDhOcr9
>>754 おや、この人、滅尽定(サマーディ)時に縁起観を得るのが悟りだと言ってたのに、
言ってることが変わってきてますね。ニヤニヤ。
781 :
神も仏も名無しさん :2012/10/18(木) 10:17:11.51 ID:VRJrozaz
>>775 >その後に観ずる、という話になる。観→止→観という流れである。
これはニューウェーヴ・テーラワーダの説に近いけど、伝統的には止、三昧に入ってない状態で観察することは観とはいわない。
それは念などという。
ニューウェーヴ・テーラワーダのヴィパッサナーは所謂四念処で、
それは伝統的な方法だけど、始めは念、注意なわけ。
そのうち止に入れるようになって、その時初めて観になると考えます。
念→止→観となります。
アンカー違ったw
>>776 >アーガマ・ニカーヤ全体の整合性
けど、この辺は成立史という変遷の過程を無視することはできないと思うが・・。
「異物」或いは「変異体」は「異物」「変異体」としてそのままに見る姿勢も重要だと思うけど。
その間に共通性、一貫性、等質性等を見ようとする姿勢は、大切だし護教的だし、
一味としての仏法を考えれば、あるべきものかもしれんが、
それは、《カラスや宝珠の如き「一味」志向》と同じ線上にあるという自戒・自覚は持っとくべきとも思うしね。
「何でもアリ」「全部一緒」と袂を分かつのはどこか?とね。
783 :
神も仏も名無しさん :2012/10/18(木) 10:27:43.52 ID:VRJrozaz
>>782 >けど、この辺は成立史という変遷の過程を無視することはできないと思うが・・。
それは無視していないよ。
>「異物」或いは「変異体」は「異物」「変異体」としてそのままに見る姿勢も重要だと思うけど。
重要だ。それは否定しない。しかし、記号の変遷を意味の変遷ととるのは誤解だと思う。
そして文献学者の多くは縁起も観も分かってないので、整合性がとれないだけに思える。
少なくとも縁起が分かってる山口益、水野弘元、生井智紹、石飛道子あたりの諸先生はかなり接近した解釈になると思う。
そこが重要で、その縁起の理解なしに記号の変遷で輪廻を否定したとか変な解釈されてもなあ。
優秀な学者は言語分析に留まっていてストイックで素晴らしいと思うけど。
>>776 そもそも、仏教(仏教成立以前もふくめて)四諦や八正道は、修行する上で欠かせないものですから
>禅定・三昧という方法だけで涅槃するというのは仏教ではないのは確実。
なんてわざわざ言う必要ないのでは?おそらく八正道に止観は、両方入ってますから。
>>779 ん〜。それについては、勉強不足なところもあり、言い切りはできませんが。
上座部例えばテーラワーダの日本支部で言うと、メモとか取れないので、空覚えですが
大乗よりも解脱の為のメソッドが分かりやすく感じました。大乗少なくとも日本のは、苦行
つうかイジメとしか思えない。あんなので菩薩に慣れるのかと言う(ry
海外や龍樹の時代の修行がいかほどのものかは知りませんが、上座部・大乗の世界観の違いや
論書で言及されてる瞑想体験から考えて、実践という意味では、龍樹菩薩の境地は低いと思いますね。
言語的に菩薩を上に置いてしまえば、上の非我無我では無いですが、言ったもん勝ちでしょうけど・・・
>>775 の続き。日頃の観のレベル、これが実は止の深さを決定する。
そういう因果関係だから、瞑想スタート前に、すでに悟ったような状態
で始めないと悟れない結果に終わる。以上、瞑想開始前の重要性。
786 :
神も仏も名無しさん :2012/10/18(木) 10:30:26.29 ID:6AQAxNDK
>>754 まだよくわからんなw ともかく『滅尽定には、止、観の二つが前提である』
・・・・・これはいいよな? そこで、
>違う。観はあまり深い禅定ではできない。
>四禅あたりが最適。
ということは、
最初の「四禅」(これが止)→(ここらが最適なんで、次に行かずにここで)「観」→「滅尽定」
だよな?
「四禅」→「四無色定」(これだと禅定が深すぎなので「観」はできない)
よって→「観」→「滅尽定」・・・という流れにならない。
つまり「四無色定」・・・ここまで行ってしまうと「観」ができないので、「滅尽定」へと
繋がらない。
「四禅」(止)→「四無色定」(さらに止が深まった状態)・・・ここで終了となる。
ここで二つの疑問だ。
@多くの教説では、 「四禅」→「四無色定」→「滅尽定」として「九次第定」と
しているが、一代の見解ではそれは間違いであると??
A確か、一代の見解では、「涅槃も、先ずは『止』、その状態で『観』を行い縁起をみる
・・・・・これによって涅槃に達する」 こういうものだったよな?
そして、「滅尽定」もまた、「止」と「観」の二つを前提とする・・・とされていた。
すると、「涅槃」と「滅尽定」の差異って何だ? それがわからん。
どちらも、 「止」→「観」→「・・・」 という流れだと思うが?
「涅槃」は仏教の最終ゴール、「滅尽定」は迷い道なんだろ?
そこらの解説よろしく。
787 :
カラスの唄 :2012/10/18(木) 10:30:58.14 ID:KPDhOcr9
>>781 今度はテーラワーダさんとこまでニューウェーブ扱いかよ。
テーラワーダさんとこは自称伝統的だとか抜かしている君ら日本の大乗仏教よりはるかにゴータマの仏教だろ。
仏教は5歳で入学して90歳で死ぬまで進学進級できる学校ですか?
卒業証書は「さとり」?
790 :
神も仏も名無しさん :2012/10/18(木) 10:39:25.41 ID:VRJrozaz
>>784 >そもそも、仏教(仏教成立以前もふくめて)四諦や八正道は、修行する上で欠かせないものですから
>>禅定・三昧という方法だけで涅槃するというのは仏教ではないのは確実。
>なんてわざわざ言う必要ないのでは?おそらく八正道に止観は、両方入ってますから。
何が言いたいのか分からないけど。確かに入ってるけど、日本の仏教では観・縁起の意味が抜け落ちてるので、今、それを強調することが最も重要だと思うわけです。
>
>>779 >海外や龍樹の時代の修行がいかほどのものかは知りませんが、上座部・大乗の世界観の違いや
>論書で言及されてる瞑想体験から考えて、実践という意味では、龍樹菩薩の境地は低いと思いますね。
現代日本仏教を大乗と考えられては困るし、現代日本仏教で大乗を判定したら何も分からないよ。
そういう基準で言われてもね〜
>>785 それってニューウェーヴ・テーラワーダの方法でしょ。
それは否定しないけど、それを観というのはおかしい。
だから、そういう方便説で解釈するとおかしなことになるんだは。
アナタはもっといろいろ基本的なことを知ってから論じた方がいいと思うよ。
何回も言ったと思うけど
791 :
神も仏も名無しさん :2012/10/18(木) 10:42:59.13 ID:VRJrozaz
>>786 >ということは、
>最初の「四禅」(これが止)→(ここらが最適なんで、次に行かずにここで)「観」→「滅尽定」
そこで涅槃せず「滅尽定」にいくのが迷い道ということを倶舎とかがいっていると。
792 :
神も仏も名無しさん :2012/10/18(木) 10:47:34.98 ID:6AQAxNDK
>>791 ん? すると
「止」→「観」→ の後、「涅槃」に達する場合と、「滅尽定」に行く場合
が、あるわけか?
そこらは、どのようにして分岐するのかな?
>>790 一代さんはたぶん、体験がないから混乱している
>>790 実際に修行が体験出来るのがという意味で、現代日本仏教=大乗とか言ってないよw
どちらにしても、大乗仏教の菩薩は、利他行を掲げた大乗の方便としか思えないな。
仏教ではないかも知れないけど、釈尊も龍樹も一人の人間としか考えられないわ。
796 :
神も仏も名無しさん :2012/10/18(木) 11:22:27.38 ID:VRJrozaz
>>792 禅定に入って涅槃と勘違いするのは何も滅尽定だけじゃないでしょう。
四禅も無色界定も涅槃と勘違いするわけで、それを言っているのが梵網経の六十二見
そして、涅槃経でも滅尽定に釈尊が入ったのをアナンが涅槃と勘違いしていることもあるし、
しかし、滅尽定へ入らず涅槃に入る違いは今のところ分かりません。
>>794 その可能性は否定しないけど、それをいうなら根拠を示せないと。
示せなければ単に自説に拘ってるだけになるよ。
自説が間違ってる可能性もあるでしょ。
もし、自分の体験からいっているなら、他心通すらないなら滅尽定にも入ってないと自覚されたし。
それは今、オイラの心が読めなければ、勘違いに他ならない。
まさに梵網経の六十二見だと思う。
797 :
神も仏も名無しさん :2012/10/18(木) 11:23:41.13 ID:VRJrozaz
観というのは脳内映像を観るだけだから特にどうこういうものでもないだろ。 仏教を学ぶなら必然的に縁起観に繋がる。 その縁起が煩悩によるものなら滅しなさいというのが仏教だろ。
なんでもかんでも滅す滅すが禅定かもしれんが それもまた違うと思う。 判別理由として苦があるんだから、全滅なら苦が無意味となる。
>>796 神通力は関係ない。→
>>739 滅尽定では自我が消滅している。滅尽定のまま観に移行できない。
滅尽定から涅槃定(神とアートマン)へ移行した後、自己意識がよみがえる。
それでも観はできない。成道し、普段の自分に戻ってから。
801 :
696 :2012/10/18(木) 12:45:25.80 ID:D0d/pbkx
無余涅槃と滅尽定はほぼ同じじゃないの? 有余涅槃(煩悩はなくなったが寿命はまだある)の阿羅漢は、涅槃を知っているから いつでも無余涅槃の体験版である滅尽定に入れる。 で、また滅尽定から出て色界心や欲界心に戻ってくることができる。 一方、寿命がなくなって滅尽定か戻って来られなくなるのが無余涅槃(入滅)じゃないのですか?
だいたい一切皆苦というのがそもそも間違ってるわ。 そんなこと言うたら坐ることヨガすること生きること呼吸することさえ 煩わしいわ。余裕で違うだろ。
803 :
696 :2012/10/18(木) 12:53:58.45 ID:D0d/pbkx
私はスマナサーラ長老が一切皆苦について説法されてるのを聞きました。 わかりやすかったです。 生き物は動く。 なぜ生き物は動くのか。 それは苦しみがあるから。 座っていれば足が痛くなり寝たくなる、寝てれば背中が痛くなりまた座りたくなる、 空腹の苦しみから食べるが、食べ続けると満腹で苦しくなり食べるのをやめる。 その理屈でいうと、仏教徒が修行したくなるのも修行したくなる苦しみがあるから。 修行を怠けたくなるのも怠けたくなる苦しみがあるから。 すべての生き物は縁により変化しつづける苦しみの刺激に操られ反射的に動き続けている。
大パリニッパーナ(中村訳、169頁)でも、非想非非想処、滅想受定(滅尽定)、 ニルヴァーナ(ここでは無余涅槃)の順序になっている。 アーナンダがカン違いしたのは、滅想受定とニルヴァーナですね。 体験を反省することが観。念と観の違いは集中力の程度にある。
なるほどの理屈だが、それだと苦滅が宙に浮く。 心の働きそのものが苦ではないと思うし 呼吸そのものも苦ではない。まぁどうでもいい戯論だなw
まず現実の事象があってそれを説明するのに用語が作られるのですから 分かりやすく書くべきですね
>>801 滅尽定と無余涅槃とは意味が違うと思う。死んだことがないので、
無余涅槃が何を意味しているのか不明。有余涅槃も同じく。
苦とは全般的負荷かいな。 すると滅尽定は全般的負荷からの解放を意味する。 そうは言っても食あたりしたら苦しむだろ。 物理以外の精神作用のみの限定だな。。。
809 :
神も仏も名無しさん :2012/10/18(木) 13:39:19.11 ID:K1MWdwiF
ちょっと覗いたら、なんですか、ここは(爆笑) <禅定>とは自己暗示催眠術なんだから、催眠レベルの名前でしかない滅尽定とかカッコつけて、 アー気持ちいいからって、サルのオナニーの分析ばっかりやってたって仕方ないでしょうに。 サルのオナニーに「高い境地」もヘチマもあるもんか。 そんなもの、<悟り>とは関係がない古代坊主の錯覚です。 古代の成りすまし如来坊主の妄想にどこまでだまされたら、気が済むですかw 自己暗示催眠のアヘアヘ心理体操でしかない。 ここの仏教趣味連中って、なんでも意味付けしたがる、一種のアッフォですな。 もうちょっと最新の脳科学を勉強したらどうですかw 古代妄想坊主の化石知識のコピーにだまされて、どこまで自分をミイラ化したら気が済むんですかねえ。
まぁ脱オナニーに異論はないが、 オナニーしないとオナニーから脱することはできん。 脳科学の勉強もまた然りかもしれん。
・・・・オナニー寂滅
812 :
神も仏も名無しさん :2012/10/18(木) 15:26:05.76 ID:VRJrozaz
>>809 そういう見方してたら、全くの素朴実在論から一歩も抜け出せないし、
仏教について読む意味も話す意味も全くないだろう。
そういう人は脳科学とか認知科学とかを論じてればいいんじゃね
813 :
696 :2012/10/18(木) 17:37:25.80 ID:D0d/pbkx
>>805 心の動きも苦でしょう。
音が聴こえたら意識を音に向けたくなる、
音に意識を向けたら「鳥の声」と判断したくなる、そして鳥の姿を浮かべたくなる。
このように、心がしたくなるのも、しないと不安定・不満である苦しみがあるから。
エロ本が目に入ったらもっと見たくなるのも、見るのを中断するのが苦しみだから。
呼吸は、止めたら苦しいから吐きたくなる。吐き続けたら苦しいから吐くのをやめて吸いたくなる。
そのように苦しみから乗り換えて次の状況、次の刺激、次の行動に乗り移っても、
乗り移った先もまた苦しみだから、すぐにまた「次に」動きたくなる。
これが生命活動です。
こっちの苦しみからあっちの苦しみへ、
生きているうちは心身両面でこの繰り返ししかないのです。
この繰り返しから解放されるには、解脱、無余涅槃しかないのです。
そして凡夫はそもそも、そのような苦しみサーフィンの生を渇愛し、
「苦しいよ辛いよ」と嘆きながらも苦しみサーフィンをやめないのです。
オナニーとはちんこいぢり いぢらなければ苦は発しない 生に忠実であればちんこはいぢる必要なし
816 :
696 :2012/10/18(木) 18:05:58.91 ID:D0d/pbkx
ちじりたくなる苦しみがありいじる。いじると射精したくなる苦しみが発生して射精。 妊娠した女性は陣痛で苦しくなって産まざるをえない。 産んだら、子供が泣くので放っておくと苦しいから世話をする。 子供の笑顔がかわいくて笑顔を見たいというのも苦しみ。 かわいい笑顔が視界のはしにあるのに、そちらを向かないでいるのは苦しいので、 子供のかわいい顔を見たくなる。
そして凡夫はそもそも、そのような苦しみオナニーの生を渇愛し、 「苦しいよ辛いよ」と嘆きながらも苦しみオナニーをやめないのです これが正しい
反射=苦かよ 反射的笑いや喜びは苦か そら楽しーわ
819 :
696 :2012/10/18(木) 18:29:43.04 ID:D0d/pbkx
>>818 ずっと笑ってると苦しい。
笑いが快楽だというのは錯覚で、本質は苦しみ。
苦しみが弱かったり、時間が短いと、快楽だと勘違いする。
かゆいところをかくのだって、皮膚を爪でこすってるので本当は痛みなのに、
かゆみの苦しみが強くなったときにかゆみから解放されたときに快楽だと勘違いするだけ。
本当は、快楽が発生したのではなく、
強いかゆみの苦しみから弱いかきむしる苦しみに乗り換えただけ。
かきむしるのが苦しくなったら、かくのをやめて、またかゆみの苦しみに乗り換える。
ズバリ、煩悩即菩提 この法理を弁えるべし。
>>819 696さんへ質問
「 渇愛(タンハー)を滅する為に禅定(瞑想)が必要である 」 と言う事ですよね?
三十七菩提分法についてはどうですか?
非想非非想処 → 魔境 → 滅尽定 → 涅槃定 → 成道 この流れには必然性がある。非想非非想処は、自由意志が働く範囲内で、 反省する能力(観)を最小にし、他方で集中力(止)を最大にしている。 この状態が以後の瞑想レベルに欠かせない。
【魔境】は夢を鮮明にした世界である。ここでその人の性質が「神仏」に 試される。業(アラヤ識)を清算しないと滅尽定に入れない。 業を清算できれば【滅尽定】に入る。この定はまったくの虚無。 【涅槃定】はその後の話であり、業を清算したからこそ、清浄な神界に現れる ことが可能になる。霊魂は不浄から離れ、完全に清浄である。
涅槃定の霊魂には感覚があり、自己意識があるが、神界に満足しきっている ので、そのままだと地上の身体に戻ってこない。【成道】は、地上の身体が この霊魂を呼び戻すことで可能になる。霊魂には感覚・意識があり、アラヤ識 が消滅しているから、呼び戻す主体はマナ識である。呼び戻した瞬間、霊魂は 空中に満月のように浮かび、地上の身体を飲み込んでしまう。〜 我に返る。
825 :
696 :2012/10/18(木) 21:00:48.90 ID:D0d/pbkx
>>821 仏教の修行はすべて渇愛を滅ぼす「覚り」に出会うための環境づくりだと思います。
「あ、そうだったのか」と目が覚める。
知恵の輪のはずしかたが突然ひらめくように。
心身を整え、集中力を鍛え、よくよく観察すると、突然「あ、そうだったのか!」に出会える。
集中力(禅定)自体は目的ではなくて、「あ、そうだったのか!」に至る道具としての禅定。
一度目覚めれば、二度と同じタネにはだまされない。
一度、有身見・戒禁取・疑が消えて預流果になれば、二度と有身見・戒禁取・疑にはだまされない。
826 :
神も仏も名無しさん :2012/10/18(木) 21:12:14.12 ID:D0d/pbkx
>>822 空無辺処や識無辺処についても解説していただけたらありがたいです。
>>822-824 の追記
魔境と成道には、周囲を反省する能力が必要になる。
信じられないことだが、マナ識(無意識)が反省したかもしれない。
もうひとつ、滅尽定は、脱魂現象の裏側、身体側の消息か。
>>826 わたしの場合、雑念→感覚が鋭敏になる→非想非非想処であり、
色界の四禅、無色界の三禅をスルーしている。
色界、無色界がそんなに細かく区別できるのか疑問に思う。
逆に魔境などが省略されていることの方が不思議。
魔境では「神仏」に試される。そのため瞑想には信仰が欠かせない。 私の場合は、宗教知識は皆無だったが、たまたま神仏の存在を知ったため、 神仏を事実として受け入れ、神仏に自分を全面的に委ねることができた。 自己流だが、「縁起・空」についても、早くから知っていた。 この二つが瞑想を成功させたのではないかと思う。
体験すれば、悟りのすばらしさがわかる。 命がけで挑戦する値打ちがある。でも要領よくやってください。オチ
831 :
神も仏も名無しさん :2012/10/18(木) 22:45:52.72 ID:VRJrozaz
dpwFxVx0 は四禅にも行ってないんじゃないかと思うんだけど、 全く仏教とは異なる低い体験で、六十二見のどれかでしょう。 全然、仏教の体系に当てはまってないし、他心通すら出てないのに滅尽定とか悟りとかありえないってなんで分かんないかな〜
>>819 こすっているときのチンは気持ちいいのに、手のほうには快感がないのは何故かしら?
肉の厚さとか神経とか、関係があると思う。あと動物の本能ね是ね。
生死の輪廻を繰り返していたら、そのうちに快楽になるのだろうか。
>>820 精射した後にブスだったと気づく。
833 :
神も仏も名無しさん :2012/10/18(木) 23:22:14.61 ID:6AQAxNDK
>>796 と言うことは、一代の見解をまとめると、
一般的な 『四禅』→『四無色定』→『滅尽定』・・・・いわゆる、九次第定の見解はとらない。
(理由は、『四無色定』など禅定が深まると、『観』ができない。よって、『観』を
前提とする『滅尽定』とはならない)
『四禅』→『四無色定』 で終了。ただし、これは仏教的最終ゴールではない。
『四禅』→『観』 で、その後、「涅槃到達」と「滅尽定」とに分かれる。
「涅槃なら、仏教的ゴール」であり、「滅尽定」なら、これは迷い道。
(ただし、その分岐の詳細については不明)
・・・・・・こういうことでOKかな?
> 生死の輪廻を繰り返していたら、そのうちに快楽になるのだろうか 前世の記憶がないので輪廻してる事に気がつかないとか?
835 :
神も仏も名無しさん :2012/10/18(木) 23:37:04.98 ID:VRJrozaz
>>833 >一般的な 『四禅』→『四無色定』→『滅尽定』・・・・いわゆる、九次第定の見解はとらない。
九次第定はとる。
>(理由は、『四無色定』など禅定が深まると、『観』ができない。よって、『観』を
>前提とする『滅尽定』とはならない)
>『四禅』→『四無色定』 で終了。ただし、これは仏教的最終ゴールではない。
禅定主義ではなく、四禅で観が必要。
九次第定は禅定の階梯であるが、必ずしも四禅以上は必要ない。
>『四禅』→『観』 で、その後、「涅槃到達」と「滅尽定」とに分かれる。
>「涅槃なら、仏教的ゴール」であり、「滅尽定」なら、これは迷い道。
>(ただし、その分岐の詳細については不明)
>・・・・・・こういうことでOKかな?
九次第定と止観の関係という意味ではそう考える。
水野先生も言うように仏教は禅定主義ではないんで、観ができる程度の集中力以上は求めないし、禅定主義では六十二見に陥るとするのは『梵網経』以来仏教の一貫した立場だと考える。
そしてそれは釈尊が二師に就いた後、それでは悟れないとしたのは禅定主義、ヨーガの道だけでは悟れないとしたことを裏付けると思う。
そして仏教は大乗小乗を問わず、一貫して外道は観がないから悟れないとしているのは時代も地域も関係ない。もちろん例外はあるけど、そういう例外は異端・邪見と伝統の中で見られている。
836 :
751 :2012/10/18(木) 23:43:52.17 ID:Gm9necUL
カラスの唄さん返答有難う御座いました。 私は逆に仏教に関しては主に日本の大乗仏教(特に空海の真言密教)中心に学んだので。 カラスの唄さんが言うことは概ね分かるのです、その立場からでも。 特に禅宗系の空中心に悟りを語る人は、禅で悟ったと表現されているのを、阿耨多羅三藐三菩提(無上正等正覚)と混同する人が非常に多いので。 多分それがカラスの唄さんの龍樹(中論)批判につながっていると思う。 私はナガールジュナ自身がそこに留まっていたとは思わないので(その考えは空海を学んだ事の影響もあると思いますが、わたしの感覚でもそうです)その見解とは違いますが、中論がナガールジュナの到達点と考えるとその批判は分かります。 (同時にゴータマの境涯を単に縁起レベルに留めて解釈するのは違うと思います。 無上正等正覚に至るまでの階梯を見れば。) わたしの見解では非想非非想処は十住心論第七住心や禅で言われる不生の境涯であって、禅宗ではその後の第八住心一道無為レベルを以て悟後の修行としているようです。 (法華経での方便品などの前半で語られているのもそのレベル、わたしは法華経は問題があると思っていますが・・・。 日本の大乗仏教を語る上で避けられないので。) ただ、キリスト教の安息日を以てそう当てるというのはどういう事によるのでしょうか。 七日目を安息日に当てられたという事を鑑みると、あくまでも安息日は非想非非想処(不生の境涯)であって、通過点に当てるのが妥当であると思うのですが・・・。
>>834 そうしますと、
輪廻してる事を気づいた仏って何者かしら?
信者向けに成仏ってなにを意味付けしてるんでしょうね。
838 :
神も仏も名無しさん :2012/10/18(木) 23:46:07.62 ID:6AQAxNDK
>>835 >九次第定はとる。
う〜〜〜〜〜ん??? これはわからんw
九次第定てのは、 『四禅』→『四無色定』→『滅尽定』・・・・これだろ?
「四無色定」 のように、禅定を深めてしまうと「観」が出来ないと言って
なかったか? 「観」ができなければ、それを前提とする「滅尽定」も無し。
よって、 九次第定 と、ならないのでは?
スキーとスノボじゃ違う、ましてやソリに至っては・・、ましてやスケートに至っては・・、
ってだけの話なのに、何でこんなに理解できない人が多いんだろう・・・ (´・ω・`)
>>833 四禅
――――――― ここまでは身体的状態も“込み”での楽、観察
空無辺処 で、以下、純粋に心的状態のみのことが言われており、
識無辺処 徹底して静まった状態へと向かう流れであって、
無処有処 そこに於いて(縁起の)観などありえない、ってことなんじゃね?
非想非非想処
神秘主義(或いは禅定主義(?)・ヨーガ主義(?))的な志向性は、
概して上記で言う四禅以上の深入した状態を言うことが多いように見える。
その恍惚こそが悟りだ!真理に触れているのだ!と・・。
けれどもそれは、単なる恍惚でしかなく「慧」ではない、というのが、
仏教の仏教たる所以、お釈迦さんの卓越したところだと一代は言いたいのだと思うよ。
車でも電車でも、スピードを上げるのは早く着くから時間短縮としては良いとしても、
窓の外を(“真横を”)見ていれば分かるように、あんまり早いと良く見えない(確認できない)でしょ。
似たような面があるんじゃないかな。
深い禅定は必要であろうけれども、深過ぎると観察ができない、と。(
>>835 )
> そうしますと > 輪廻してる事を気づいた仏って何者かしら? > 信者向けに成仏ってなにを意味付けしてるんでしょうね 輪廻からの解脱が成仏であるとか?
わたし的には
>>804 の見解は多分合っていると思う。
十住心論の言葉を借りれば
非想非非想処-第七住心の後段・不生
滅想受定(滅尽定)-第八住心(前段)一道無為-ゴータマの苦行時代
ニルヴァーナ(ここでは無余涅槃)-第八住心(後段)如実知自、ゴータマが乳粥を飲んだ時に至った境涯
法華経の如来寿量品などの後段レベル、無上正等正覚・仏法に至るところ
(多分カラスの唄さんが安息日と表現しているところ)
(空海は第八住心に関しては敢えて一道無為を全面に出しているけれど
空性無境→一道無為→如実知自、
観自在→観世音→観音と同じ)
私が通ってきた事を鑑みるとそういう見解です。
>>893 目をつぶって瞑想する人に景色とかスピードとかって・・・あるの?
自分の心を観察するにしても一定された教え方がない仏教に迷うのはあたりまえと思いませんか。
なんでもかんでも、“無”にはなれないのが人間だと思いますが。
>>838 滅尽定が、四禅以降の分岐だろうが非想非非想処定の更に上であろうが、
「そこまで行ける」ってだけの話なんじゃね?
スポーツカーの速度計が200kmまで目盛られていたとしても、
常時200kmで走るのか?と。200kmで走って街中を自在に動けるのか?と。
30kmがふさわしい場所もあれば、60kmがふさわしいところもあろう。
で、聖なる領域に属する者は、自動車専用道路を60kmで走ることが推奨されるし、
30km40kmで走るのは少々怠け過ぎ、とw (現代日本仏教は20kmくらいかしらん?w)
で、誰が悟ってるんだ?w
>>842 orz
譬え話なんだが・・・(^^;
マジで(即物的に・文字通りに)スピードのついた車内から景色を見ることだと思ったの?
口下手ですまんね・・・w 一応謝っとくよ。ワシの言い方が適切でなかった、と・・。 orz
地球は秒速450メートルで動いてるってね。 人間は微生物みたいなもんだから目が回るほどでもないみたい。
私が751の質問をしたのは明けの明星をどう取るのか、またそれを体得した上で語っているのかを見たかったから。 空海は虚空蔵求聞持法修法事に明けの明星を得る体験をしているが、私はその直接的な体験はないので。 只、今それを見るに、多分明けの明星を得るのは滅想受定(滅尽定)を得る体験であって、無上正等正覚に於いての事ではないと思うのだよなあ。 ID:mygWdLY1氏の見解が正しいと思うのだが。
848 :
神も仏も名無しさん :2012/10/19(金) 00:20:44.56 ID:74hV9swr
>>843 オレの疑問点は
@ まず、「涅槃」も「滅尽定」も、共に「止」→「観」→ を前提とする。
ではその差異って何なんだろうか? ということ。
Aさらに、禅定が深まってしまうと、「観」は出来ないと一代は言う。四禅辺りが
最適とね。 とすると、非想非非想処定・・・ここ行っちゃうと「観」はできないから
「滅尽定」もダメ。 だから、
『四禅』→『四無色定』→『滅尽定』・・・・こういう流れはとらないと思ったのだが、
九次第定 はとるという。 そこで???? となってしまうのだがw
縁起観は、釈尊が最初に考案したもので、それ以前にはない。 しかも、仏教以外では縁起観が出来ないので、滅尽定は仏教の聖者のみ。涅槃も仏教の聖者のみが入れると言うことですね。 なかなかの宗教だと思います。みなさんも信仰しましょう。
なんだ夢の話か…
>>848 なる。 それは外野が言える(評せる)ことじゃないなw
ワシ個人としては、単純な一直線の(優劣含みの)8種(9種)でなく、
四禅以降は、4つ(5つ)の選択メニューだと見たいけどね。
少なくとも滅尽定に関しては、別メニューと見る方が筋は通る。
だからこそ、「これこそが悟りだ!君」が雨後の筍の如く現れるw
おそらく、「禅定を窮めること」と「智慧を得ること」((縁起に対して)眼が開くこと)とは異質なのだろうと思う。
852 :
神も仏も名無しさん :2012/10/19(金) 00:39:04.21 ID:74hV9swr
>>851 >おそらく、「禅定を窮めること」と「智慧を得ること」((縁起に対して)眼が開くこと)とは異質なのだろうと思う。
オレもそこが仏教と他教を分かつ分岐点だと思っているw
だから、一代が言うように、禅定をどんだけ極めても、「涅槃」には
達しない・・・・ということに違和感は感じないんだがww
853 :
751 :2012/10/19(金) 00:46:31.62 ID:8k8p3Dyj
またダライ・ラマ14世のゾクチェンの対する見解を見ると、間違いなく無上正等正覚に至っているよ。 ゴータマ以降の大乗仏教や密教はバカにしたものではない。 ただ無上正等正覚に至って後、無上正等正覚を成して華厳の世界・仏道に入るには751にあることが必要だから。 で、ここが仏の世界の終わりだと思う。 空海の十住心論は6−9は素晴らしいが10は完全ではない、というかそこは仏界を超えた世界だから仏教で語るとチベット密教のようになってしまう。 (チベット密教は理論的には仏教の範疇を越えた所に踏み込んでいると思う。) 仏教スレだからあまり踏み込まないが。 モーゼが向かい合い十戒を得た神とイエスが父と呼んだ神は別の神名。 (まあついでに言うとムハンマドが向かい合ったのも。) モーゼが向かい合い十戒を得た神は法華経では大通智勝仏として語られている。 この神故に「体」を以て向かい合うことができた(過去形)。 空海の十住心論もユダヤのセフィロトの樹もスウェーデンボルグの10の心のあり様も全部そう。
854 :
土手 ◆/DoteDqHSI :2012/10/19(金) 00:54:23.17 ID:jvNf09Pp
855 :
751 :2012/10/19(金) 01:18:22.43 ID:8k8p3Dyj
ただ
>>800 の見解はどうなのだろう。
>滅尽定では自我が消滅している。
はその通りだと思うんだ。
>滅尽定のまま観に移行できない。
これはどうだろう。
観自在を得れば移行できると思う。
寧ろ空性無境に入っていないが故にそういう見解になるのではないか。
そこら辺は盤珪の通った道が参考になると思う。
盤珪は不生を得た後、超元に「なんじ己事に撞著せり、しかもいまだ差別智に明かならず」と言われている。
不生→空性無境故に観自在→観世音となる。
あ、そうか
滅想受定(滅尽定)を私が取り間違えているんだな。
ここはまだ不生の境涯。
無余涅槃が観自在の境涯か。
>>841 を訂正しなくてはいけないな。
やはり学問的勉強で無精しているが出てくるなw。
ダライ・ラマ14世は自らは生身の一人の人間であり、 そして仏教の一僧侶であって、もし或る仏の生まれ変わりかと問われれば、 それに対する答えは否 ("NO") だと なるほど悟ってるわ
857 :
神も仏も名無しさん :2012/10/19(金) 01:47:09.89 ID:KIFuaYAa
>>828 テーラワーダでは悟るのは色界の四禅のどれかのときだと言われてるようです。
無色界では観察対象がなくなってしまうから、苦・無常・無我に気付けないから。
>>692 >あなたは、仏教つまり、釈尊は、輪廻を否定した。と言う立場で
私は仏教(と呼ぶため)には「輪廻は必須の前提となる要素」と主張しています。
なので
>>700 一代氏>最初の前提から間違ってます
ですね。
何というか、「滅尽定」というキーワードが好きな人が少なくないようですが、外道に限らず、立
場的には篤信の仏教徒であったとしても、(四向四果を得ているという意味で)仏教聖者でもない
凡俗人が、「滅尽定」という言葉について考えても、大概がその言葉から喚起される妄想にならざ
るを得ず、そういう意味では“迷い道”というか、テーラワーダでは滅尽定そのものを迷い道と表
現する代わりにそもそも迷える衆生は本物の滅尽定には行きたくても行けないので、代わりに、外
道が間違って「これが涅槃」と思い込んで行く先の境地として心の無くなった世界である「無想有
情天」を定義していますが、仏教聖者以外の人間にとっては、外道に限定された陥穽でもないと思
います。
859 :
暇人 :2012/10/19(金) 05:21:32.83 ID:ZRq5CcEJ
>>755 水野先生ご自身は、滅尽定の上の三明を
合理的精神上からは仏教の合理性を没却した「奇跡の部類」とみなし
原始仏教では説かれてなかったものを部派当たりで挿入された不純物と
考える学者もいるとした上で、仏教も宗教であると考えると
神通奇跡の存在は宗教的要素として極めて価値があり必要なものとされている
(原始仏教p230あたりを参照)のだが。。。
一旦思考も意思も生じない境地・禅定に達したら、 そこから抜けだそう・禅定を破ろうという意思も起きないから 肉体が朽ち果てることにも執着せず、そのまま死亡するなんてことも起きたりしない? 風などの外的要因や、自分の内側の要因もない石ころが、何もされないから転がらないように、 止まったままのビリヤードの玉が、止まったままで在り続けるように 傍から見たらバグで固まって一切の入力を受け付けないパソコンみたいになるんじゃ
861 :
暇人 :2012/10/19(金) 05:27:46.60 ID:ZRq5CcEJ
>>835 >水野先生も言うように仏教は禅定主義ではないんで、
>観ができる程度の集中力以上は求めないし、
>禅定主義では六十二見に陥るとするのは『梵網経』以来仏教の一貫した立場だと考える。
水野先生が批判したのは「禅定主義」ではなく、「主定主義」。
「定」を悟りだとみなした他教徒の立場を批判したとみられているのだが
同時に釈尊は常に「定」を修したともみられている。
「梵網経」は、「禅定主義」批判をしているわけでなく「観」も説かれていない。
>>860 じゃあその時そのままにあるものは何なんだよw。
世界が突然消えてなくなるわけではないのに。
禅定に入るというのは白く塗りつぶされることではないよ。
思考も意思も生じない境地を禅定だと考えること自体が間違い。
思考も意思もありのままに現じる境地が禅定。
またこういう様に言うと誤解するバカがいるけど、思考や意思がそうだと言っているわけではない。
思考や意思がありのままに現じる「所」がそうだと言っている。
目の前の事が見えるのは、空間が透明だからだ。
その透明な空間みたいなもの。
(ただこれは現じているものと(少なくとも仏教の範疇では)分離することは出来ない。
中観帰謬論証は別にチベット仏教の十八番ではなくて日本の主な大乗仏教もその派。)
己がそこに入れば己といや全てが自ずから立ち現れる。
ただそうするとその禅定のどこに心を置くのだとなる。
だから無上正等正覚に至るにはそこから更に進まなければいけなかったけど。
ちなみに仏教ではその現じるものがどこからやってくるのかは説かれていない。 現じている事の分析は微に入り細に入り説いてるけど。 そういう意味では役立たずといえる。
http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-shokibukyo/shoki-soujumetu.htm 滅尽定(想受滅)について
(A)は
漏、すなわち、煩悩の滅盡している自己の根源を見る体験をする
漏の滅尽ということから、「滅尽定」とも言う
解脱は、己の苦の滅盡では完成しない
さらに、漏の滅尽をもって完成とされた
大乗仏教ではさらに、微細な煩悩障の滅盡と慈悲行を言う
(B)は
解脱が、教説などを論理的に思惟・理解するものではなくて、一種の直覚体験によるものであることを言う
原始仏教は、知見よりも、それを上であるとしていた
この想受滅による智慧の獲得を「心材」とし、「不動の心解脱」としている
(C)は
想受滅においては、その呼称のごとく「想」と「受」が滅するのであるが、覚者と死者の違いをいう
覚者は死者と違って、いのち、あたたかさがあり、諸根(眼耳など)の働きはあるが、心作用のうち受、想、行が滅している
(D)は
ほとんど念がおこらないような澄み切った禅定の境地もまた、解脱ではないので、そこに執著することを捨てよという
そこにも執著せずに、坐禅工夫をしていると想受滅に達する
865 :
神も仏も名無しさん :2012/10/19(金) 06:19:53.33 ID:6hK/9E1M
>>838 九次第定は禅定の深まりの階梯を示すけど、必ずしもその順番で深まるわけじゃないと。
しかも外道の場合は、観がないので八段階で、滅尽定は観のある仏教の聖者のみ得られるということ。
>>839 オイラじゃなく伝統やテキスト、水野先生など文献学者も言ってるのに従ってるだけですよ。
866 :
神も仏も名無しさん :2012/10/19(金) 06:29:43.26 ID:6hK/9E1M
>>841 十住心論はそんなこと言ってないだろ。
滅尽定なんて第四住心に出てくるだけだよ。
少なくとも第六住心から大乗なんで、乗り越えられてる。
全くの勘違い。
そうでないというなら、文に沿って論証してね。
867 :
神も仏も名無しさん :2012/10/19(金) 06:32:28.69 ID:6hK/9E1M
>>853 >(チベット密教は理論的には仏教の範疇を越えた所に踏み込んでいると思う。)
なんでだ? チベット仏教の諸師はみな仏教と仰ってるぞ。
868 :
神も仏も名無しさん :2012/10/19(金) 06:46:46.67 ID:6hK/9E1M
>>861 >水野先生が批判したのは「禅定主義」ではなく、「主定主義」。
記号に拘るね。同じ意味だよ。
>「定」を悟りだとみなした他教徒の立場を批判したとみられているのだが
>同時に釈尊は常に「定」を修したともみられている。
だから、始めから戒定慧で説いている。慧・観になるためには定・禅定・三昧が必要だと。
>「梵網経」は、「禅定主義」批判をしているわけでなく「観」も説かれていない。
六十二見は禅定主義・主定主義に他ならない。水野先生もそう解釈されてるよ。
> 釈尊当時の外教の人々には、禅定をもって修行の最後の目的となし、
> 定を得ればそれで涅槃の理想境に達したものであると主張する、
> いわゆる主定主義者が少なくなかった。これは前ににも述べたように、
> 仏陀が修行時代に師事した二仙人とか、六十二見の中にある
> 初禅乃至第四禅の禅定をそのまま涅槃であるとする主張とかがそれである。
観という言葉はないけど、六十二見を寂滅に導いている教えが全く観そのものに他ならない。番号118から流転門、145から還滅門ね。これが分からないのはアナタが観を理解してないから。
そして中論も観しか説いてない。だから中道を観じるという意味で中観と言われるわけだけど。
これでも納得しないと恥ずかしいと思うよ。
869 :
暇人 :2012/10/19(金) 07:22:57.53 ID:ZRq5CcEJ
>>868 禅定主義と主定主義ではまつたく別の事柄となる。
水野さんは「三学」について論評では
慧は「観」ではなく「三明」という宗教的な奇跡体験だ
>六十二見は禅定主義・主定主義に他ならない。水野先生もそう解釈されてるよ。
水野さんはそんな解釈をされていないよ
62見には詭弁論とかもあるのにそんなことを言われるはずもない
>観という言葉はないけど
それは中観を起点としたキミ独自の主観で客観的事実ではない
870 :
暇人 :2012/10/19(金) 07:26:18.95 ID:ZRq5CcEJ
キミは、「テキスト」に 1.事実として何が書かれているかという客観性 2.書かれているテキストから何を読み取るかという持論 を区別できてないのだと思う。
871 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2012/10/19(金) 07:57:02.84 ID:TYON/D7q
明けの明星。太陽神神話は世界各地にある。これは偶然じゃない。
>>836 安息日を十住心論の七段階目だと思っているなら間違い。
ゴータマは悟りを開いたとき、七日の間法悦の境地にいてその後に座を崩し目覚めた。テーラガータなどを
読むとゴータマの直弟子である阿羅漢達も同じことを言っている。もちろんこれは例えで、本当に7日間座りぱなしということじゃない。
そんなこと蓮華座組んでやったら足が腐るって。また伝承ではゴータマはその時、
明けの明星をみて悟ったという。もちろんこれも比喩で、天体の金星をみて
悟ったという話ではない。七という数字はキリスト教では完成を表し、
世界はこの七という数字で回っている。言葉を得た人間のいる今の時代は第六の日。安息日とは今ここで話題になってる
滅尽定の境地。それは全ての根源となる。だがそこには何にも無いんだけどな。そこに至ったからゴールではない。
その境地から明けの明星を認識したとき人は全てを悟る。空海さんとこで言えば大日如来と一体になるってとこかな。キリスト教の
最後の晩餐。安息日の意味を知れば、この世の創造の秘密を知る。目的を終えた真我は再び
全ての根源である無へと帰す。そして再び日は昇る。この世界は流転する。
ま、色々書きたいところだが、ここは正真正銘のパーピマンがいるしな(苦笑)
豚に真珠を投げても仕方ないので止めておこう。
872 :
カラスの唄 :2012/10/19(金) 08:20:45.14 ID:TYON/D7q
>>835 四禅から滅尽定か涅槃かに分かれる?おまえ、相も変わらすアホなこと言ってんな。
お前ら末法仏教徒は一番肝心なものが抜けてるので、どれだけ頑張って座っても、滅尽定が
得られる無想サマーディに到達できないから心配すんな。
ちゅうかおまえ、コテ付けろよ。
暇人さんに質問です
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E9%82%A3%E8%AD%98 末那識(まなしき)
この識は常に第八識の見分を縁じて、我である、法である、と思量する
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として
それを自分であると考えて執着し続ける
この深層的な自我心を滅することによって
我々は初めて真の無我行を実践することができる
_ _ _
「深層的な自我心を滅するする為には滅尽定(想受滅)が必要である」と考えますか?
ちなみに私は
もし仮に迷い道だったとしても「滅尽定(想受滅)は必要である」と考えますが、どうでしょうか?
874 :
神も仏も名無しさん :2012/10/19(金) 08:59:37.64 ID:6hK/9E1M
>>869 うは〜、水野先生はこう書かれてるでしょ。
>> 釈尊当時の外教の人々には、禅定をもって修行の最後の目的となし、
>> 定を得ればそれで涅槃の理想境に達したものであると主張する、
>> いわゆる主定主義者が少なくなかった。これは前ににも述べたように、
>> 仏陀が修行時代に師事した二仙人とか、六十二見の中にある
>> 初禅乃至第四禅の禅定をそのまま涅槃であるとする主張とかがそれである。
書き忘れたけど『原始仏教』218頁だよ。
少なくともオイラがいう禅定主義ってのはこういう意味だし、
水野先生も「六十二見」の一部が「初禅乃至第四禅の禅定をそのまま涅槃であるとする主張とかがそれである」って書いてるでしょ。
これを認められないなら、全く話にならない唯の頑固者ってことだよ。
恥ずかしい。正に以下の言葉とおりだ。
>>870 >キミは、「テキスト」に
>1.事実として何が書かれているかという客観性
>2.書かれているテキストから何を読み取るかという持論
>を区別できてないのだと思う。
観については解釈の余地があるから、認められないのは仕方ない。
それは単にアナタの見識、解釈が低いだけ、あるいは解釈が異なるということで済むけど、上が認められないんじゃ、全く上の自分の言葉がそのまま降り掛かってくるよ。
875 :
:2012/10/19(金) 09:30:51.89 ID:74hV9swr
>>865 了解w 理解できるww
さらに、問いw
九次第定について、一代が必ずしもその順位通りに階梯が進むわけではない・・・
と考えてるのは分った。
また、
>しかも外道の場合は、観がないので八段階で、滅尽定は観のある仏教の聖者のみ得られるということ。
これも分かる。・・・・が、水野はそういう見解として、その他、山口氏や石飛氏の
見解は? やはり同じなのかい?
暇人が、異論を挟んでいるがw 正直、彼の突っ込み、及び、それに対する一代の回答は
色々、参考になるw (どっかのキチガイの妄想と違ってねwww)
オレとしては、今後も彼のツッコミを期待したいところだ。ww
876 :
神も仏も名無しさん :2012/10/19(金) 09:44:49.98 ID:6hK/9E1M
>>875 >これも分かる。・・・・が、水野はそういう見解として、その他、山口氏や石飛氏の
石飛先生は言及されてないじゃないかと思う。
山口先生はどうでしょう。オイラが知る限り言及されてないような。
全ての論考を通読したわけではないので。
オイラ的には、そういう煩瑣なアビダルマ的分析はあんまり興味ないんだよね。
重要なのは縁起、観をどう捉えるかということで、そこに行くまでの基本過程、戒定慧だと思うから。
部派、唯識、ゲルクとかが好きな煩瑣な体系構築は、興味がわかないんです。
逆にこの三者は、そういう細かい面に拘るので、なんというかそういう方向に興味がある方に向いている道だと思います。
まあ、暇人さんはガチガチの素朴実在論に立った文献学者の代理みたいなポジションだよね。だけど、水野先生が六十二見を禅定主義と捉えたことを認められないようじゃ、ただのイチャモンと変わらないんだよね。
それと、テキストに書いてあることは、マテリアルな面はキッチリ正誤が分かれるけど、解釈の面はこれは解釈だから総合的にどちらが妥当かどうかぐらいしかいえず、完全に誤りと断じることはできないでしょ。
その点もはみ出してるとしか言えない。もっとも、観・縁起についてはオイラの方が圧倒的に妥当だと思ってるけど。たとえ多くの文献学者の反論があったとしても。
自歓喜経の読み方についても色々あったなw 原仏スレの隔離所談話室だったけどw
878 :
:2012/10/19(金) 10:06:54.77 ID:74hV9swr
>まあ、暇人さんはガチガチの素朴実在論に立った文献学者の代理みたいなポジションだよね。 暇人が、「ガチガチの素朴実在論者」なのかは、オレはわからんが、 本当に「ガチガチなら」、そもそも宗教板に来ないんじゃねえの?w 実在論的スタンスを重視するのは分かるが、「完全にそうであると言い切れない何かが、 心底のどこかに存在し、それが宗教的指向性に興味をもたせる・・・・」 みたいな?ww まあ、宗教板は、ほとんどが「オレがオレがの勘違い馬鹿か、オカルト被れのキチガイ」ばかりなんで、 文献学的アプローチを出来るものは貴重だよww
879 :
神も仏も名無しさん :2012/10/19(金) 10:14:44.74 ID:6hK/9E1M
>>877 あれは釈尊が常住論を認めるという読みはないね。
それは無理。常住論について説いたことを賛嘆したというだけでしょう。
常住論について述べた『梵網経』とほとんどおんなじじゃなかった?
そこから分かるでしょ。
>>878 文献学で素朴実在論って人は結構いるよ。
そういう人がなんで宗教板や仏教スレに来るかは、
単に縁があったからじゃないかな〜
承狂という人が典型、電波男とかアホダラちゃんもそんなかんじかと。
学者だと和辻とか松本、並川 といった人も大雑把にそんなかんじだと思う。
基本的に輪廻を否定する人は、素朴じゃないにしても実在論に立ってることが多いように思います。
880 :
神も仏も名無しさん :2012/10/19(金) 10:18:22.90 ID:LemLel8A
一在家のルーツをみた気分
881 :
神も仏も名無しさん :2012/10/19(金) 11:27:48.68 ID:YJJHx6Dn
議論スレッドだけあってみんな難しいこと知ってるな 自分には理解できない・・・仏教はえらく難しいがもっとシンプルに語る ことはできないか世の中を変えるのはシンプルな物だと考えるんだよね。
882 :
神も仏も名無しさん :2012/10/19(金) 12:33:53.14 ID:Iwzj+PXQ
一代さんは止観の意味を理解していないと思う。 止とは心の体験であり、観とはその体験を反省することをいう。 禅定中に観を始めれば、禅定が緩み、禅定が終わってしまう。 だから非想非非想処で観じたら・・・ 非想非非想処→観→非想非非想処→観、の繰り返しになる。
非想非非想処をいくら観じても、非想非非想処以上の観はできない。 だからこの観は、滅尽定や涅槃定のために何の役にも立たない。 一代さんは、非想非非想処→観→滅尽定、あるいは涅槃の流れを 合理的に説明できるのだろうか。
884 :
神も仏も名無しさん :2012/10/19(金) 13:00:49.52 ID:KIFuaYAa
色界から無色界に移ったらまず空無辺処になりますね。 これは、五感の刺激は消えるのに五感の識(センサー)がまだ活きてることから、 急に壁がなくなり空間が無限に広がったようになるからでしょうか。
885 :
神も仏も名無しさん :2012/10/19(金) 13:10:11.79 ID:6hK/9E1M
>>882 いや、オイラの説はテキストと伝統に基づくもんだよ
君こそ止も観も勝手に自分の体験に当てはめてるだけじゃないの?
そういうやり方で仏教語るのは仏教に仮託した自分語りでしょ。
>だから非想非非想処で観じたら・・・
というか非想非非想処を含む無色界定では観はできないというのが、
仏教の一貫した立場。
そして四禅で観ができないとなるとアーガマ・ニカーヤを始め様々な仏教経典が
虚偽ってことになるんだけどな〜
だから、自分の体験で勝手に憶測するのは止めないか、
仏教というなら、仏教の伝統に自分の体験を当てはめるのが筋でしょ。
そう考えると君の体験がちょろっとした三昧体験を悟りとか涅槃と勘違いしてると考えるのが最も妥当でしょ。
そもそも他心通は、ちょっとした三昧体験で生じるものだよ。
それがないってのは滅尽定はもちろん四禅すらないと考えるのが妥当ですよ。
オイラには君が自分の体験を盲信して、勘違いであることを認められないだけにしか思えないは。
それとテキストに依らないなら、オイラに対して云々するのは無駄だから止めてもらえないかな。
テキストに依らないなら、要するにに君を信じるかオイラを信じるかって話でしょ。神通合戦でもやらない限り。
886 :
神も仏も名無しさん :2012/10/19(金) 13:11:47.62 ID:6hK/9E1M
>>881 そういうことは本物の聖者から学ぶべきですよ。
ここにそういうことを求めるのは間違いだと思います。
>>866 久しぶりに十住心論出してきたわ。
確かに書かれているのはそうだな。
ざっと見直してみたけどここの所に書いてある空海が書いていることはまあ大体把握した。
で、学問的解釈として空海の解釈が全く間違えているとは思わない。
で、学問的指摘として私の書いていることは合っていないということも理解しました。
ただ、それはどのようにその言葉の意味を取り出してくるかであって、単純にこのレベルだと定めるのは違っているとは思う。
例えば十住心論だと儒教的規範は第二住心に配置しているけれど、儒教の本質はそれに終わるものでないと思っているし。
だから最後に真言の密意として行としての位置付けを書いている。
そしてその上で法身の万徳の一徳であることを踏まえよ、そうでなければ毒になると書いてある。
つまり行法として取り出すと確かにここに配置されるが、法身を得たところからすると別のとり方もできると。
転識得智そのままではないが、空海自身も様々な経や論などの文章を様々な所に融通無碍に散りばめて引いている。
要はキチンと本当の所を捉えた上での必要に応じたはめ方の問題だと思う(だから日常生活にも生かせるわけで)。
(勿論今回の私の出し方に問題があるという指摘は受け取ります。)
>>867 実際に様々なものを身に得てみると分かるよ。
仏道で処理しきれていないところまで踏み込んでいる。
だからチベット密教の後期密教での性的ヨーガを取り込んだ曼荼羅の諸尊が悪鬼のような描かれ方になってしまう。
(日本で後期密教がないのは勿論伝わり方の問題もあるが、バックボーンの違いも大きいと思う。
そこまでいくなら神道に行ったほうが良い。)
仏界でどこまで扱えるのか捉えることも大事。
889 :
神も仏も名無しさん :2012/10/19(金) 15:29:10.73 ID:6hK/9E1M
>>888 いや〜、そりゃ分かってないは。呪術と捉えてるでしょ密教を。
そんなん密教じゃありませんよ。密教についてはこんなところで語りたくないけど、空性と菩提心に基づかないものは密教じゃない。
オイラも分かってるとは言いがたいが、知ってる限りでも全く違う。
密教の密は如来秘密で、空性体験のないものに認識的に秘されているという意味だよ。
忿怒尊がああいう忿怒形で描かれるのは訳がある。ここでは述べないけど。
そしてその空性と菩提心で認識転換された世界がマンダラで、秘密荘厳なんですがな。つまり、密教は本質的に小乗でいう悟り、大乗でいう第六地から始まるわけ。
逆にいうと空性体験がないうちは、密教といっても形だけになってしまう。
で、空性と菩提心で認識転換された世界がマンダラでは、第二住心どころか第一住心までも意味のあるものとなるという意味だよ。
そういう次元を世俗的な話に持ち込んでもね。それじゃ机とかと全くかわんない。
分かんないことは言わない方がいい。
>>884 空無辺処・識無辺処・無所有処は、非想非非想処が持っている様相では
ないだろうか。禅定が深まると、これらを順番に自然に体験すると言うより、
空無辺をイメージし、イメージできたら次の識無辺処を・・・
のような使い方をするのではないかと思う。識は残ってますね。
891 :
絶対神 :2012/10/19(金) 18:02:37.84 ID:EaEK4z3G
>>889 そういうのを客観的に言うと「呪術」というのだがね(大笑)
空性とか菩提心とか「なんら客観的でない根拠を持ちだされてもね」w
で、結局のところ、何かを厳密に定義したり、追求したりする場合
それは救済手段としては「まったく無意味なもの」となる
あれもだめ、これもだめ、という事になってしまうからだ
誰も説得できず、誰も救えないのなら仏教は広まらない
はっきりと無意味なのである
小乗が正しいだの大乗が駄目だのと言っている時点で
万人を救済する事に主眼があるのなら
そもそも「真理」と言っている時点で駄目なのである
892 :
絶対神 :2012/10/19(金) 18:06:07.70 ID:EaEK4z3G
「極論すれば」 『南無阿弥陀仏と唱えれば救われる』 程度まで簡略しないと 「万人救済など「絶対に無理」である」 逆に言うと 『明確な「信仰宗教」でない限り、『元々、多くの人間を救う事など出来ない」』 神様を信じれば救われると説く 「キリスト教のような宗教が、万人救済としては『もっとも優れている』」 (そういう面だけを言えばね) 『小難しい哲学が入っている時点で、「既に駄目である」』
893 :
絶対神 :2012/10/19(金) 18:09:00.37 ID:EaEK4z3G
「幾ら理屈をこねくりまわしても結論が出ないような」 『小難しい宗教哲学と』 漫画のヒーローでもない限り体現できないような 「そもそもどう考えても『あり得ない境地』」 何故、仏教が衰退したのか、良く判る 『もっと単純化したまえ』 「神様は実在するし、人は神様を信じる事によって、救われるのだよ」
894 :
絶対神 :2012/10/19(金) 18:12:48.55 ID:EaEK4z3G
「ついでに言っておくと」 『仏教も宗教であり、判りもしない事を延々と言っているものだ』 「死んであの世に行って生き返ってきた人間がいる訳でもないのに」 『どうして生まれ変わりがあると判るのかね?』 前から指摘しているように 「釈迦や仏教の言っている事は、自身が否定しているバラモンやヒンドゥーと大差なく」 『確認不能な「宗教の教義」が幾らでも含まれている』 「寧ろ、死後だの悟りだの解脱だの、「本当は判りもしない事を羅列しているのが 仏教だ」」 『繰り返し指摘しているように、神も奇跡もあっさり認める「キリスト教」の 方がましだ』
895 :
絶対神 :2012/10/19(金) 18:16:37.50 ID:EaEK4z3G
「殆どの人間は、そんな宗教が理想とするような」 『立派な人間になんかなれないんだよ』 だから、「万人救済」を目的とするならば(そうでないなら仏教など元々相手に する価値もないけど(偏狭の宗教と変わらず、批判できる立場にたてない為)) 「信仰宗教にするしか『道』はない」 『優れた能力を持つ、「神様(仏様)」に救って貰うという教義にするしか道はないのだよ』
896 :
神も仏も名無しさん :2012/10/19(金) 18:37:21.57 ID:KIFuaYAa
>>890 無色界の4禅定は、
唯識でいう
眼耳鼻舌身の五識、意識、マナ識、アーラヤ識がそれぞれ静まることに対応している?
897 :
暇人 :2012/10/19(金) 19:02:09.40 ID:ZRq5CcEJ
>>874 水野先生の
「六十二見の中にある初禅乃至第四禅の禅定をそのまま涅槃であるとする主張」
と
キミの
「六十二見は禅定主義・主定主義に他ならない」ではまったく別の意見でしょ。
水野先生は正確に62見の中から初禅から第四禅までの4見を指定されています。
あなたは62見の中に推論もあるが、62見は直接知覚(=禅定)という立場です。
水野先生のテキストをきちんと読まれてないですよ
>>896 そう言えるね。そしてその状態が続くことで魔境に入る。
神仏が作り出した映像に投げ込まれ、そこで神仏と真剣勝負することになる。
魔境にいる自分は、現実を落とし、まったくの自分そのもの。
899 :
神も仏も名無しさん :2012/10/19(金) 19:42:32.83 ID:6hK/9E1M
>>897 >水野先生は正確に62見の中から初禅から第四禅までの4見を指定されています。
>あなたは62見の中に推論もあるが、62見は直接知覚(=禅定)という立場です。
同じ意味だよ。いくつまでとか面倒くさいからいってないだけ。
ほんとこういう悪意の論法は付き合ってられんは。
直接知覚というのは、過去を直接知覚しているという意味。
君がそれを抽象的議論といったからだよ。
だけど、少なくとも水野先生もその一部は禅定と認めてるから、
六十二見は抽象的議論という君の説は訂正するのか、
それとも水野先生が間違っているか、どっちかだな。
まあ、いずれにしろ、こういう単なるイチャモン・レヴェルじゃ、オイラはもう止めとくは。無意味だ。
900 :
神も仏も名無しさん :2012/10/19(金) 19:43:19.02 ID:6hK/9E1M
>>896 四禅定、非想非非想処以外の無色界定を考えてみたが、
どうもこういった禅定はあるイメージが事前にあり、それに基づくもの
ではないかと気づいた。禅定を深めていく階段であり、慣れたら便利な
道具なのだろうが、これでは非想非非想処がやっとだろうとと思う。
>>897 62見は当時の思想を整理したもの、禅定に基づくものではないです。
瞑想の格好をして考えれば、何でも禅定だとカン違いするなら話は別だが。
でもそんなものは雑念のようなものです。
いまは「四禅定」自体が禅定になってないのではないかと疑ってますよ。
903 :
神も仏も名無しさん :2012/10/19(金) 21:02:33.31 ID:6hK/9E1M
>>902 そう断定する根拠としてのテキストを示してくださいね。
示せないなら、意見する意味がありませんよ。
それがこのスレだと思うよ〜
904 :
神も仏も名無しさん :2012/10/19(金) 21:13:48.12 ID:aaYsKUOg
何かをイメージすることで禅定を深めようとする瞑想法は、 ことごとく誤りである可能性が高い。そのイメージ自体が誤りである かもしれないし、誤りでなくてもそのイメージが限界になる。 それは禅定における止(体験)でもないし観(反省)でもない。 方法論的に間違っているから、いつになっても悟れないのではないか。
勤務不規則(残業、休出、交代夜勤)の激化で、やっと投稿します。
>>779 >アルハットは七地止まりだけど、菩薩は七地で一切如来に驚覚させられ、
>普賢行を歩むことが簡明に書かれているよ。
>この理解がないと大乗と小乗の関係が分からない。
>この意味で大乗は広大なのだから。
「小乗」だの「声聞乗」だの云々・・というのは、(仏教内の)明確な“差別用語”です。
「阿羅漢」(アルハット)を大乗の下に見做すなど(大乗側の勝手な)偏見であって大間違い。
心を入換えて使用を辞めるようにしよう!!
>>835 >そして仏教は大乗小乗を問わず、
>一貫して外道は観がないから悟れないとしているのは時代も地域も関係ない。
>もちろん例外はあるけど、そういう例外は異端・邪見と伝統の中で見られている。
しかし、そういう割には、
ラマナ・マハルシやババジ直系列の大師方レベルが
仏教圏では全然、輩出できないのは何故なのか?
一代が今もいるという仏教のアルハット以上とは一体、何処にいる誰なのか?
いるならば、ハッキリその個人名を明かして貰いたいものですね。
>>889 >いや〜、そりゃ分かってないは。
バラモン・ヒンドゥーから拝借してきた古代叡智を、
勝手にご都合宜しく大乗風にアレンジしただけのことです。
空性と菩提心・・・などといっても、
無為涅槃を勝手に一切法に含めたのは部派であって
本来のゴータマの教説にはなし。
涅槃も如来も「空」などじゃないから・・・。
(はじめに答え有き--寺院洗脳--で読むから、水野氏の著書も誤読ばかり)
>>438 を百回、読まれたし。
>>903 神通力を気にするのは、神通力(他心通)が使えるからですか。
そんな体験があるなら具体的に聞きたいですね。
それから悟ると神通力が使えるのはなぜですか。その仕組みは?
>>751 >空海が十住心論の中で文を引いて「オン」字を以て--略--
横レス失礼します。
『本書は吽(ウン、フーム、huum)という字を字相と字義との二方面から解釈したものであるが、
--中略-- まず字相を説く段では、吽字は賀(カ・ha)・阿(ア・a)、汗(ウー・uu)、麼(マ・ma)の
四字の合成であり、この四字のそれぞれの字相を言えば、訶(賀)は因(サンスクリットのhetva
(hetu、因)の最初のh)、阿は不生(aadi(本初)のa)、汗は損滅(uuna(損滅)のu)、麼は増益
(mama(吾我)のm、一切諸法に我(アートマン)を見る我見我執をここでは増益と言っている)
の意味をもつ。』(『空海の著作ペディア』/吽字義)
空海の著作には『吽字義』(引用転載)というのがあるらしいですね。
本来、これはヒンドゥーで重視し、“聖音オーム(AUMの3音)”として知られる創造音(倍音)で
あって、修行の熟達した者には自然界の森羅万象の総てから物質現象界を現じている創造維
持の神秘力で振動するこの響きが、自身に内的な倍音として聞こえてくるといわれています。
『初めに言葉があり、言葉は神と共にあり、言葉は神であった。・・・すべてのものはこれによっ
て出来た。出来たもののうち、一つとしてこれに拠らないものはなかった。・・・こうして言葉は肉
体となり、わたしたちの内に宿った。』(ヨハネ伝1:1,3,14)
この聖書でいうところの“言葉”が聖音オームであり、キリスト教会で使用されるエジプト人の
「アーメン(Amen」)やギリシア人の「アイオーン(Aion)」とラテン語の「アイヴム(Aivum)」、「イー
オン」(Aeon)というのは、その派生語の一つとされる。
>>889 うーん、議論が粗雑だったことは申し訳なく思っている。
言葉をキチンと使わないと少なくとも「議論」にはならないのは分るから。
>>888 のように議論とは違う表現になったのはちょっと覗いて時間がなかったからでもある。
但し、仏道を成するということは脳内の思考ゲームではないよ。
確かに仏教は基本的には認識論だが、それは人間の思考上に留まるものではない。
何を以て呪術と定義付けているのかは判らないが。
少なくともこの世界に於いてどのようにつながっていくのかという実際の所がないと、単なる思考ゲールで終わってしまうよ。
密教の「密」の説明としては全く正しくて空海の説明通りであるし、空性と菩提心に基づかないものは少なくとも仏教では無いと私も思う。
だからこそそこに仏教の限界があるのだけれど。
ナガールジュナが空性について仏教中から取り出すことによりそれが個人的なものではない事を示し、大乗仏教を成立させたことは正にすごいと思う。
ここで初めて釈尊が得たものが単なる人間の個人的な思考の範疇に収まるものではないことが明らかされたのだから。
しかし空性について言えばそれはあくまでも通過点にしか過ぎないし、空海も般若智は最高のものではないと言っている。
空性を通ることで人間の思考とその他のものとを同一上に載せることができるが、そこから更にひっくり返さないと菩提心を得ることは出来ない。
個人的体験から言えば白隠が言うような見性から入り、一つ一つ階梯を踏んで華厳を成するまできたとは思う(仏道に於いては)。
そこから見ると、様々な学問的論の建て方はともかく、基本的には六−九の文章のつなぎ方はよく出来ていると思う。
あれは明らかに自らの身に於いて得たものを以て、それを基本的な骨格にして書いている。
(ダライ・ラマ14世のゾクチェンの見解を読んでもそれは分る。)
それを(どういう意味で言っているのかは明らかではないが)呪術と表現し仏教と切り離した形にするのは違うと思う。
>>906 >>438 、どう読んでも、一切の外は無いとしか読めんだろw
>原始仏教時代に関するかぎり、それは生滅変化する現象の法に限られていた
>われわれにとっての世界は現象界のみである
>【仏教が】取り扱うのはこの現象界に限られる
で、それ以外は涅槃のみであり、そこに我を見るのは顛倒でしかないだろ。
(水野さんの「転法輪協について」読んでないのか?)
散々論述した通り。 んとに懲りない奴っちゃな・・w
ヒンドゥーではこの意味を教え、このマントラムの使用の仕方を指導します。 発声の仕方は多 様ですが、これを神智学的にいうと、声にすることで濃密肉体次元で作用し、心の中で唱えるこ とで情緒界のアストラルレベル、想うことで識心界のメンタルレベルで作用します(チャクラとの関 係についてはここでは省きます)。 けれども仏教世界では、単に“阿・吽(あうん)の呼吸”などといった表現としてや真言陀羅尼に 「オン」として使用されているだけであって、これらの教えの真義については殆ど欠落しています。
探した所でなにもない 本当になんにもないとこに涅槃はあると思うな〜 志向作用が常時において全て止んだその先に
仏教に拘る時点でもうアウトな気が…
914 :
神も仏も名無しさん :2012/10/19(金) 22:03:54.61 ID:6hK/9E1M
>>905 >ラマナ・マハルシやババジ直系列の大師方レベルが
>仏教圏では全然、輩出できないのは何故なのか?
>一代が今もいるという仏教のアルハット以上とは一体、何処にいる誰なのか?
>いるならば、ハッキリその個人名を明かして貰いたいものですね。
前も言わなかったかなあ。
チャター・リンポチェ、アチュ・リンポチェなどたくさんいるよ。
ビルマにもたくさんいるらしいけど、そっちはよくしらない。
チャター・リンポチェはカトリックの修道士で有名なトーマス・マートンが一番尊敬した聖者だし、
トーマス・マートンは弟子入りしようとして、その直前に暗殺された。
著名な修道士が仏教の優位性を立証してしまうことを恐れたんでしょう。
トーマス・マートンはヒンドゥー聖者やセイロン、タイなどにも行って広い見識からチャター・リンポチェに弟子入りすることを撰択している。
その概要はトーマス・マートン『アジア日記』で読めるよ。
仏教側ではマハルシやババジなどをそんなに評価してないよ。
もっともオイラにはそこら辺は分からないから、信じるか信じないかでしょ。
しかし仏教というなら、伝統仏教の意見を取るしかない。
ヒンドゥーをとるなら、ヒンドゥーと言えばいいだけ。
915 :
神も仏も名無しさん :2012/10/19(金) 22:22:15.23 ID:6hK/9E1M
>>906 >バラモン・ヒンドゥーから拝借してきた古代叡智を、
>勝手にご都合宜しく大乗風にアレンジしただけのことです。
全然違う。そういう形相、祭式、習慣は大した意味はない。
それは単にインドで起きたから、インド的習慣に縁起しただけ。
同様にチベット的に縁起したり、シナ的に縁起したり、日本的に縁起してるでしょ密教は。
それは形相、習慣に大した意味はない、縁起としてしか意味ないってことなんだよ。
まあ、こういっても全く分かんないで、ヨーガとかアートマン・ブラフマンで解釈してるんだろうけど、それじゃ呪術なんだよ。
そういう呪術的習慣を、空性と菩提心で認識変換して秘密荘厳するから密教なんで、空性と菩提心がなければ単なる呪術なの。
>空性と菩提心・・・などといっても、
>無為涅槃を勝手に一切法に含めたのは部派であって
>本来のゴータマの教説にはなし。
オイオイ、そりゃ逆だぜ。部派が君の立場に接近して涅槃を無為にして実体化したと水野先生は言ってるんだが。
>涅槃も如来も「空」などじゃないから・・・。
いや、パーリ・ニカーヤでは空とは言わないかもしれないけど、少なくとも涅槃は不生とされる。それは空と同じ意味だから。
『ウダーナ』8.1『ウダーナ・ヴァルガ』26.24, 25;『法句経』大正4、791;
『 法集要頌経』大正4, 573b 片山一良「パーリ仏教における涅槃」『駒澤大學佛教學部研究紀要』 59、2001 あたりとその諸註みるとわかるよ。
それと一切法は仮設だから、それって縁起・空ってことなんで
この辺は『入中論自註』評釈を読んでね〜
>(はじめに答え有き--寺院洗脳--で読むから、水野氏の著書も誤読ばかり)
>
>>438 を百回、読まれたし。
いや、上のように誤読は君だ。付き合ってられんは、君にも。
916 :
神も仏も名無しさん :2012/10/19(金) 22:26:53.73 ID:6hK/9E1M
>>909 もったいないな〜、いい先生に就けばいいのに
もちろん仏教は思考ゲームではないです。
だけど、ネットで本物の仏教なんか説けないし、私はそんな聖者じゃないし。
それとダライラマのゾクチェン入門は誤訳だらけだからあてにならないよ。
英語で読んだほうがいい。
あとゾクチェンはもちろん、密教は本で読んでもしょうがない。
師匠から習わないとどうしようもないもんです。
あらゆる見解がうごめきあってる なるほど… 是か非かに問題ありか…
918 :
神も仏も名無しさん :2012/10/19(金) 22:37:43.32 ID:6hK/9E1M
>>914 >トーマス・マートンは弟子入りしようとして、その直前に暗殺された。
アジア日記、あとがきでは自分で感電死したことになってるけど、
暗殺されたと聞いている。
ここは検証が必要ですね。
>>910 >>906 >で、それ以外は涅槃のみであり、そこに我を見るのは顛倒でしかないだろ。
宝珠氏も相手さんも、「ゴータマ・ブッダ」「釈尊や仏教」「ヒンドゥー教」のそれぞれ異なる用語を同じように語るからおかしくなく。
仏教の「我」「アートマン」には、「エゴ」と言うニュアンスが含まれるが、ヒンドゥーの「アートマン」に「エゴ」なんて意味は含まれない。
「ゴータマ・ブッダ」に至っては、「我」も「涅槃」も最低限の事しか語っていない。
そこを区別しなければ、永遠に平行線のまま。他で言ってるマハリシ、リンポチェなど聖人に対しても同じ。
と言っても、仏教は、「エゴ」を含めない「我」など絶対に認めない。これは論理でも体験でもなく。「無我」を掲げ「無我」によって歴史を重ねて来たので信念に近い。
仏教=無我の教えといっても間違いではない。無我をここまで、全面に押し出している思想は、他にない。彼らのアイデンティティを傷つける事は、すべきではない。
仏教とは、内向きな宗教。他って置いて欲しいのだ。
反面ヒンドゥー教は、インド以外の地域で発祥した特定宗教以外のすべてをヒンドゥー教と考えているようだから、色々仏教からみて都合が悪い。
各宗教の聖人を比較するには、神智学みたいに既存のものとは別の視点で捉える必要があるけど、神智学は神智学で問題あるねw
>>889 >>888 で
>実際に様々なものを身に得てみると分かるよ。<
で済ませてしまったのは申し訳ない。
これでは議論にならないものね。
後期密教に於いて曼荼羅は中央仏から大日は外れて阿シュクが中央に入る。
これ自体は仏教の理論を推し進めていけば必然である。
なぜなら一切智智ですら本来とりえないものだから。
ただしそれではそもそもそれは「仏」である必要があるのかと言う疑問が生じる。
仏は智見道を開かんが為にあらわれたと空海も経を引いて書いている。
つまり仏の存在意義は全てのもの(人間のような思考を持つとかは関係なく)を悟らしめることにある。
ここで言う悟るとはどういうことか。
全てのものが世界(≠現世)の表象であるという当たり前の事が当たり前であると認識するということである。
華厳で成された多一の世界を経てそこに入る、ならばそこは既に仏のイラナイ世界である。
なぜなら仏の成すことは既に成し終わっているはずだから。
もし仏が必要であるならば、それはまだそれが成し終えていないからである。
つまり成し終えていないならばそこに入ることは出来ないし、成し終えているのならば仏を描くのはオカシイ。
自己矛盾である。
いや、道元が言うように(次元は違うけど)修証一如だからこれで良いという意見もあろう。
つまり仏の加持によりそれが常に保たれていると。
それは胎蔵界曼荼羅に於いてはそうだろう。
しかし金剛界曼荼羅に於いてはそうでない。
あれは既に智見道が完成した世界だから。
それは不二の関係だから仏として描くのだ、となると「うん?」となる。
ここで後期密教に戻る。 一切智智ですら本来とりえないが故に、理論の必然として阿シュクが中央に入る。 しかしそれでは仏教玉ねぎ論が真実ということになってしまう。 ということで本初仏を想定して入れる。 それは先程述べたように仏か?。 仏教は認識論だから認識が行き着く所まで行くとどうしようもなくなる。 表象と認識するだけではなく、表象と観測されて初めて表象は表象足りえる。 そこは本来仏の範疇ではない。 世界を保つのは仏ではないから。 そこに無理から仏を入れる理由はそれをまだ成し切っていないからである。 だから悪鬼の相で描くしか無い。 つまり仏を描くことで逆にそれを呼び込んでいることになる。 だから本来そこは仏として描くべきでない。 だからそこも扱えるものに行くべきとなる。 だから >チベット密教は理論的には仏教の範疇を越えた所に踏み込んでいる< となる (身体的に言うと、仏教の範疇では手足までは本当の意味では扱えないよ。 ダルマの手足がないのはそういうこともあらわしていると思う。)
>>916 学問的な意味では良い先生に学べればと思うよ。
(学生時代もっと真面目にそういうことも出来れば良かったのだが。)
ただ、道を歩む上では少なくとも無常正等正覚に至るまでは徹底して直に叩きこまれたから(生身を持った人間ではないけれど)。
日本というのはそういう意味ではものすごく恵まれていたよ。
本気で向かい合おうと思えばあらゆる所に師匠がいるようなものだったから。
今はシステムが変わっているので違うようになると思うが。
本気で仏道をやろうと思えば、それを本当に導けるものから得なければならなかったと思う。
(そこを成していない人間の書物を読むだけではそれは成すことは出来ないと思う。)
923 :
神も仏も名無しさん :2012/10/19(金) 23:30:40.42 ID:wCGuiyzC
>この聖書でいうところの“言葉”が聖音オームであり、キリスト教会で使用されるエジプト人の >「アーメン(Amen」)やギリシア人の「アイオーン(Aion)」とラテン語の「アイヴム(Aivum)」、「イー >オン」(Aeon)というのは、その派生語の一つとされる。 される? どこの界隈で?
>>871 書きながら分かったけど、やはり安息日は7レベルだと思うよ。
明けの明星はこれから太陽が出てくる先触れに過ぎないし。
これはお話レベルだが。
明けの明星であるルシフェルが天の神にとって替わろうとして天を追われた話を思い出した。
多分取り違いをしている。
(ちなみに私は7の後段レベルを真我、8の後段レベルを大我と言っています。)
それから私の見解では聖書を少し眺める限り、聖書における創世記部分は他からのパクリだと思う。
本当にそれを得て記したのなら、それは分かるから。
925 :
神も仏も名無しさん :2012/10/19(金) 23:38:15.00 ID:wCGuiyzC
>反面ヒンドゥー教は、インド以外の地域で発祥した特定宗教以外のすべてをヒンドゥー教と考えているようだから、 ヴェーダに根拠を持たない、ムレッチャの低級な戯言としか見なさない気がするなあ。 ネオ・ヒンドゥーはやさしく評価してくれそうだけど。
926 :
神も仏も名無しさん :2012/10/19(金) 23:54:36.59 ID:wCGuiyzC
>仏教の「我」「アートマン」には、「エゴ」と言うニュアンスが含まれるが、ヒンドゥーの「アートマン」に「エゴ」なんて意味は含まれない。 梵網経で退けられているアートマン論には現行のヒンドゥー主流派が信じているものもカバーしている。 「心理作用を持たない我」や「心理作用を持つのでもなく心理作用を持たないでもない我」だ。 心理作用のない所にエゴは存在しない。こうした我論を信じる当時や現代の信者もエゴを想定はしてないだろう。
>>910 >で、それ以外は涅槃のみであり、そこに我を見るのは顛倒でしかないだろ。
そう勝手にいってるのは、改変された後代の仏教者ですね。
もう何度も指摘済みなのですけれど、あなた方がこれを認めたくない心情については理解します。
まっ、認めることをしないのは最初から判りきっている(私も読者のために投稿してるので・・)。
ウパニシャッドのアートマンが涅槃における自己としても何ら矛盾がない。
涅槃の意味と比較してもまったく問題なし。
単に、説くのを辞めただけのこと。
判る者にだけは判るということかな?
>(水野さんの「転法輪協について」読んでないのか?)
・・・いえ、存じてません。
Amazonには掛からないのですが、こりゃ図書館借りの必要かな??
>散々論述した通り。 んとに懲りない奴っちゃな・・w
ここで認めちゃお互い商売あがったりw
スレまで終わっちゃう^^
>>914 >仏教側ではマハルシやババジなどをそんなに評価してないよ。
そりゃそうでしょ。
後代に改変された部派以降の伝統仏教では、
「空」か「実存」かといった短絡思考しかないから、
「アートマン(実我)」とかいうだけでアウト(悟ってない扱い)ですからね。
>もっともオイラにはそこら辺は分からないから、信じるか信じないかでしょ。
>しかし仏教というなら、伝統仏教の意見を取るしかない。
>ヒンドゥーをとるなら、ヒンドゥーと言えばいいだけ。
わかります。
あなたの立場上では致し方ない・・・。
私はゴータマの根本仏教は消滅したという立場であるし、
あなたは現存する伝統教団がこれを保持してきたという立場ですからね。
では、あなた方を尊重し、
“異説がある”という言い方に改めることとします。
あと、『アジア日記』は取り寄せます---感謝!!