604 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2012/12/13(木) 17:47:03.04 ID:XGcW/zsK
>>603 >中論を第六表面意識だけで哲学的に思惟しても
>顛倒の故に虚妄の法を生じ戯論を生じているので
>『百害あって一利なし ・ 有害無益である』なんじゃなイカ?
そういうことです。
かの連中は「戯論寂滅」と言いつつ、輪廻転生がどう、とか、こうとか、
こういう話をしとるでしょ?
そもそも「輪廻転生」そのものが戯論であることを気づかんのです。
こういう連中は何を言ったとしても無駄なんですよ(苦笑
そもそもですね、かの連中のテキスト準拠の姿勢にしても、
テキストってぇのは戯論で構成されちょるんですよ。
つまりですね、世俗締というのは戯論そのものなのです。
ですから勝義締からしてもれば、当然に矛盾があるのです。
その”矛盾”を如何に気づくか。ですよよね。
そこを熱心に書き込みしちょるのが大滝先生なのです。
仏教議論スレの流れは、一応このようになってますね。
大滝先生の話が通じんのなら・・・
私がいくら書き込みしても通じんのはアタリマエですよ(苦笑
かの連中は、もう駄目かもしれんね。
仏教議論スレッド51
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1354931980/211-215 211 名前:神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2012/12/14(金) 11:57:41.02 ID:BIOVLy8l
三昧の境地って、どうやって入るの?
いろんな瞑想方法とかがあって、自分ところこそ仏陀正伝の〜とかいってるけど
所詮、体験の世界だからやってみるしかない?
212 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2012/12/14(金) 13:00:06.75 ID:rrey1wKj
とにかく一点に意識を集中すること
それが段々深まると三昧になります
四念処もア字観も、そういう意味で一点集中であることは同じです
215 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2012/12/14(金) 13:48:57.94 ID:KhAibUsx
参考までに仏教ではなくヨーガの目安だが
一つの対象に12秒間、継続して意識を置くことができれば
それはダーラナ(集中)と呼ぶことができる
そしてさらにそれを12倍した144秒間
継続して対象に意識を置くことできれば、それはディヤーナ(瞑想)と呼ぶことができる
だいたい2分半ですね、これだけでもかなり訓練が必要
そして、さらにそれを12倍した1728秒間
継続して一つの対象に意識を置くことができれば
それはサマーディ(三昧)と多分呼べる状態に達するとのことです
阿字観なら、阿の字に継続して30分ぐらい
断絶することなく意識を置くことができれば、三昧と呼べる状態なんじゃないでしょうか
自分はできませんし、あくまでヨガの目安です
606 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2012/12/15(土) 10:12:45.71 ID:lMKf5JQ+
>三昧の境地って、どうやって入るの?
三昧の境地については、禅宗においてもあるんですよ。
この境地は初歩の段階において具現しおるのですね。
この三昧において「悟った」といふ自覚があるのです。
白隠の大悟はこれですね。
しかし白隠は何度も大悟する訳ですから、
この「大悟」は間違いである。と気づく大悟です。
この三昧に留まっておるのが、非常に危険なのであります。
私も体験しちょりますから、この危険性については間違いはないです。
つまりですね、
そんなに三昧は重要ではないのです。
人間において重要でないものが「ある」場合があります。
それは盲腸とか扁桃腺ですね。
なくていいもんが「ある」。これですね。
盲腸とか扁桃腺が悪化したのが三昧ですから、
これは初期の段階において切除せんとあかんです。
切除して、初めてわかる三昧の良さ。
三昧は誰でも通過する一過性のものであります。
どうか上手い具合にここを乗り切ってください。
ここを乗り切ったとこが人牛倶忘ですね。
//sankei.jp.msn.com/world/news/121217/amr12121700070000-n1.htm
学校で銃乱射計画、逮捕 米オクラホマの男子高校生 2012.12.17 00:04
//www.nikkei.com/article/DGXNASFK1601C_W2A211C1000000/?dg=1
フィリピン南部の台風、死者1000人超 620万人被災 2012/12/16 18:22
//www.zakzak.co.jp/entertainment/gooranking/news/20120816/gor1208161615001-n1.htm
そばに必ず乗せるトッピングは? 2012.08.16
____
,. ´ 、 `` .
/ \ ` 、
/ ____ ヽ \
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/ /'´: : |ヽ: : : : ハ斗―ヽ‐: : : :\ .イ
. / / : : l|,.|--\:/ 〃´ ̄`\: : } : }|
/ /: : : :∧| fいハ W∨W
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. ∧ |: : : : :| | : : : : |{ fいハ ‐ "∨ ノ: \
/: : ∨: : : : :| |∧ : : | 弋t:り . -- 、 / /― 、: \_
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|: :∧:/ /: : : :| |: : : :iム" 〈 j./ / / /: : : : :
|: :{ 〉: :〈 ̄ ./: : : :ハ:\ __\__ // /--、/ /` ー―
ヽ: \ |: : / ./: : : :/ }: :{ {:{ {:// / : / /ハ\
\: `ー┴‐: ´ : : : / /: :∧ ヾx/:/ ⌒´ /:∨ {: : :\
` ー―‐、一<___,/: r┴‐ミx、_厶′ (_:_:_:_}__廴:_:_:_\
\ : : : : : : :人 - 、 ノ: :
.  ̄ ̄ ̄ /: 》ー┬‐-、 \ `丁丁丁、´
//www.otani.ac.jp/yomu_page/b_yougo/nab3mq0000000qd1.html
我執 − 自身に対する執着
我所執 − 所有欲
//www.otani.ac.jp/yomu_page/b_yougo/nab3mq0000000qd1.html
我執 − 自身に対する執着
我所執 − 所有欲
_ _ _
//ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98
煩悩障 − 自己に対する執着
所知障 − 外界のものに対する執着
610 :
Classical名無しさん:2012/12/18(火) 13:07:01.88 ID:mDzXcaIM
カルトは話を親身に聞いてくれる
仏教はほんの一部の人しか聞いてくれない
親身度はカルトに負ける
611 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2012/12/18(火) 16:34:05.46 ID:4K21Ehuf
>>610 そうですね。
私も長年、仏教関連スレッッドをロムってるということは・・・
ある意味カルトに嵌っていることかと思うようになりました。
最近は、
もうそろそろ私も宗教とは卒業かな。とかの結論をしよかと思うのであります。
いつまでも、こんなことをしてもしょうがない。
私の「座右の銘」は、
武蔵の「我、神仏を敬い、神仏に頼らず」。これですね。
これしかないです。
人間、心が弱くなると、直ぐに喪黒福造が来ますからね、
皆様は喪黒福造が来るのを待っておるんでしょ?
私は遠慮します!!
私は福造より、ローンウルフが良い。
私はそのように生きてきましたし、そのような生き方が私らしい。
そう、武蔵のような生き方が私らしいのでつ。
612 :
Classical名無しさん:2012/12/18(火) 16:37:38.24 ID:fKcUtd0m
>武蔵のような生き方
女と寝るときは女を上にしる、敵が来たら女を投げつけひるんだ隙に逃げろ。
ですねw
test
test
615 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2012/12/18(火) 19:47:29.50 ID:4K21Ehuf
>>612 >女と寝るときは女を上にしる、敵が来たら女を投げつけひるんだ隙に逃げろ。
>ですねw
私が五輪書を最初に読んだのが中学生の頃でした。
やがりそこには武蔵の強靭な精神力に圧倒されますね。
兵法とは、それ自体が精神力の鍛錬ですからね。
しかしながら今は乱世の時代ではないのです。
では今はどういう時代なのか?
これは私は安倍総裁が言っておることと同意であります。
戦後レジームの時代なんですね。
日本人の原点とは・・・これ↓なんじゃないですか?
http://www.youtube.com/watch?v=2ChBdN6CwSM ..星の流れに-昭和20年代の東京 歌はちあきなおみ
この動画には、戦後直ぐの画像が載ってます。
日本人はここが原点なんですよ。
安倍総裁は、このようなことを日本人に言うておるんです。
(つづく)
616 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2012/12/18(火) 19:48:09.52 ID:4K21Ehuf
(つづき)
日本人は、この動画を観ると、非常に懐かしさを覚えるんじゃないですか?
それは日本人の原点がここにあるからですよ。
豊かではけしてない。
しかしそこには絶望というのはないのです。
あるのは希望です。
そこが大事なんですね。
しかし、安倍総裁は、豊かになった現在を振り返ってみて、
戦後レジームの脱却を言っておるんですね。
これはどういう意味か?分からんでしょ?
よく動画を観て、その意とするところを突き止めたら良ござんす。
あなたたちには、(無我 ・ 縁起 ・ 空を観察する為の)練習が必要だ
およそ、禅定に入ろうとする人は …
この吐いて吸う大きな長い息を十数え、何度も繰り返し、なにも考えず、ただ息を数え続けます
SN 1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ
そうすれば死を乗り越えることができるであろう
このように世界を観ずる人を、<死の王>は、見ることがない
http://blogs.yahoo.co.jp/prajunya777/15225732.html 第七「六随念の章」では、仏・法・僧の各々に関して、起こった随念の三と
戒・捨(施)・天に関する三随念の六随念と、さらに第八「随念対象の章」において
死に関して起る死随念または法随念
身体の部分に関して起る身至念(=身念住)
出入息に関して起る安般念(=数息観)
一切の苦の止息に関して起る止息念
の四随念をあげて説明し、これを行ずれば、大果のあることを述べている
第九「梵住の章」では、慈・悲・喜・捨の四梵住とその功徳を論じ、第一〇「無色の章」では
空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非々想処の四対象(四無色界)と四無色定について述べている
この定を修めた者は、死後四無色界に生まれるという
また第十一章「定の章」においては、食物を厭う食厭観と四界差別とを説く
後者は、身体が、地・水・火・風の四大にすぎず、その他に我・有情識のないことを知る観法である
>>618 続き
以上のような定を修めれば、五種の功徳があるとする
@ 現法楽住 ditthadhamma-sukhavihara
A 観(vipassana)をうる
B 神通(abhinna)をうる
C 勝れた世界(bhavisesa)に生ず
D 滅(nirodha)の定をうる
それに関連して、神変・神通を説明しているのが、第十二「神変の章」と第十三「神通の章」である
さらに第十四「蘊の章」以下、第二三「修慧功徳の章」まで十章にわたって、慧が説かれる
まず第十四「蘊の章」においては、慧とは何か、慧の修習法はどうか
慧修習の功徳とは何か、等、六種の問いを設け、これに順次解答を与えている
蘊の章以下の九章は、慧の修習に関して説かれるもので、慧の修習法には、戒の清浄・定の清浄とを慧の根本とし
蘊(五蘊)・処(十二処)・界(十八界)・根(二十二根)・諦(四諦)・縁起(十二縁起)等を慧の地(bhumi)とし
見清浄(名色を如実に観察すること)・疑度清浄(三世にかんする疑惑を除いた智)
道非道智見清浄(道と非道を知って確立した智)・智見清浄(行智見浄によって次第に有為の行を遠離し
さとりの四段階、預流・一来・不還・阿羅漢が得られる)の五清浄を説くところから、第十五章以下の章を立てている
>>619 続き
最後の第二十三「修慧功徳の章」においては
五清浄によって慧を修得すれば
四種の功徳があるとしている
すなわち
@ 煩悩の捨遺
A 聖果の獲得
B 滅尽定の得達
C 応供者たること
等の成就である
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%85%E6%A7%83 涅槃
サンスクリット語Nirvāṇa、パーリ語Nibbāna、プラークリットṇivvāṇa、タイ語Nípphaan
ニルヴァーナの字義は「吹き消すこと」「吹き消した状態」であり
すなわち煩悩(ぼんのう)の火を吹き消した状態を指すのが本義である
その意味で、滅とか寂滅とか寂静と訳された
涅槃は如来の死そのものを指す
涅槃仏などはまさに、死を描写したものである
「人間の本能から起こる精神の迷いがなくなった状態」という意味で涅槃寂静といわれる
釈迦が入滅(死去)してからは、涅槃の語にさまざまな意味づけがおこなわれた
有余涅槃・無余涅槃とわけるもの
灰身滅智、身心都滅とするもの
善や浄の極致とするもの
苦がなくなった状態とするもの
無明を滅して智慧を得て、あらゆる束縛を離れて完全な自在を得る
622 :
1/2大滝秀治:2012/12/20(木) 16:58:11.56 ID:lQuvX9hz
>>599 おじゃます。野暮用で、大変遅くなりました。
急いでますので、中論13章について現在は以下のように把握している、ということで返事代わりにさせてください。
・13-1『「およそ執着されたものは虚妄である」と世尊は説き給うた。そして、すべて形成されたものは執着されたものである。
それゆえに、もろもろの形成されたものは虚妄なのである。』
★この偈は同7-34(如く)、24-18(相対の仮設)の仮観と矛盾します。「非虚妄非非虚妄」(四句第4)というべきです。
もし龍樹の偈なら、龍樹は透徹できておらず、反対者の偈なら誤解ゆえ、反駁は容易です。
しかし、編集が拙劣です。チャンドラキールティ(月称)のコピー間違いか?
・13-2『もしも、執着されたものが虚妄ならば、そこにどのような得るところがあろうか(なにも得るところはない)。
ところで、このことは世尊によって説かれたが、それは一切は空であることを明らかにするためである。』
★同じく、これが龍樹の偈なら龍樹は透徹できていないといえます。同25-10・15⇔16・24 .Sn.1119 参照。
拙劣な編集です。まともなら、誰の偈なのか明解にすべきです。公案集じゃないんだから。
・13―3『もろもろのものについて<自性の無いこと>(無自性)が成立する。なぜなら、それらのものについて変化することがみられるから。
しかし、それ自体(自性)を有しないものは、(実体として)存在しない。なぜなら、もろもろのものに空性があるから。』
★後段を実体としての様相を問うものと解するなら、龍樹の偈として一貫します。
ものは自性がないから変化するように知覚されるが(仮観)、そのものとしての実体はありません(空観)。
仏法は、機能的には縁起であり、内容的には無自性(前段)無実体(後段)の空⇒中道なのです。
自性を機能的に定義すれば、自立性・単一性・恒常性であって、「無為法」や「超越主義」は縁起撥無の反仏法としかいえません。
623 :
1/2-2大滝秀治:2012/12/20(木) 17:04:45.23 ID:lQuvX9hz
・13-4『もしも、自性を有しないならば、何ものに<変化するという性質>が有るだろうか(変化する性質はある)。
もしも、自性を有するならば、何ものに<変化するという性質>が有るだろうか(変化する性質はない)。』
★このように解すると龍樹の偈として一貫します。
・13-5『(実体としての)ものには<変化するという性質>が無い。
また(実体としての)他のもの(他の状態に達したもの)にも<変化すると言う性質>は適合しない。
なぜなら、(実体としての)青年は老いることがないし、(実体としての)老いた者も老いるということがないから。』
★非無常非恒常(四句第4)が中道示唆です。
「老いる」は「老いる」ではない、「老いる」そのものがない。ゆえに「老いる」といいます。
・13-6『もしも(実体としての)そのものに<変化するという性質>が有るならば、
例えば(実体としての)乳そのものが乳であることを捨てないで酪となるであろう。
また、乳とは異なる何ものか(例えば水)について、(実体としての)それが水であることを捨てないで酪となる、ということがありうるであろう。』
★実体のものに<変化するという性質>はありえないのです。
624 :
2/2大滝秀治:2012/12/20(木) 17:11:30.18 ID:lQuvX9hz
・13-7『もしもなにか不空(非空)というもの(実体)が有るならば、(その否定としての)空というものが有るであろう。
しかるに不空(非空)というものは何も存在しない。どうして空なるものが存在するだろうか。』
★空であるとはものではなく様相(方便)です。
・13-8『一切の執着を脱せんがために、勝者(仏)により空が説かれた。
しかるに人がもしも空見をいだくならば、勝者はその人々を「癒されない人」と呼んだのである。』
★この偈は重要です。
Sn.653・874・1072(想いからの解脱において解脱)・1119参照。
空観に直指肯定文言はありえないのです(中論 帰敬序、25-3参照)
本偈は真言密教(空海)の「果分可説」の直接的な批判となっています。
以上
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama13.pdf 事物それ自体は変化しない
何か別のものが変化するのでもない
なぜなら若い男は年を取らず
また年寄りの男もまた年を取らないからである(中論13-5)
絶対不滅 ・ 常住不変の実体であるならば、その事物それ自体は変化しないはずである
だからといって
変化する前のものと変化した後のものが別々のものであるなら、それは変化したのではないであろう
なぜなら、もし事物が変化しない実体であり、二つの異なったものが存在しているだけであるなら
不変の実体としての若い男は年を取ることなく存在しており
それとは別の年寄りの男も
すでに年を取っている状態の実体なのであればそれ以上年を取らないで存在しているだけだからである(中論13-5の意訳)
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama13.pdf もし事物それ自体が変化するなら
牛乳自体が凝乳 curd であり得ることだろう
そうでなければ、凝乳が
牛乳とは別の実体となり得たことだろう(中論13-6)
もしほんのわずかにでも空でないものが存在するなら
空性それ自体がとるに足らないものとなってしまうだろう
空でないものはわずかなものではなくなってしまう
どうしたら空性が実在となり得るだろうか(中論13-7)
勝者たちはこう語ってきた
空性とはすべての見解を放棄することである
誰であれ空性が一つの見解であるような者には
何もなし遂げることはできないであろう(中論13-8)
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama25.pdf やって来て、また去るものは
依存的で変化するものである
依存的でなく変化しないもの
それこそが涅槃として説かれたものである(中論25-9)
師は生成と消滅の放棄を説かれた
したがって涅槃は
存在でも、まったく存在しないものでもない
というのが正しい(中論25-10)
涅槃は存在でも、まったく存在しないものでもないものだ
と言われる
もし存在と、まったく存在しないものとが証明されるなら
このことも証明されるであろう(中論25-15)
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama25.pdf もし涅槃が
存在でも、まったく存在しないものでもないのだとして
「存在でも、まったく存在しないものでもない」というのは
誰によって説かれたものなのだろうか(中論25-16)
すべての対象化の解除(寂滅)と幻影の解除
ブッダはいついかなるときも、どこであっても、誰に対しても
いかなるダルマ(法)も説かなかったのである(中論25-24)
SN 1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ
そうすれば死を乗り越えることができるであろう
このように世界を観ずる人を、<死の王>は、見ることがない
http://kotobank.jp/word/%E5%A6%82%E6%9D%A5%E8%94%B5 世界大百科事典内の如来蔵の言及
【如来蔵説】より
…竜樹を祖とする〈中観(ちゆうがん)派〉と弥勒(みろく)を祖とする〈唯識(ゆいしき)派〉とである
後者と深いかかわりをもち,おもに彼らによって継承された思想に,如来蔵説がある
学派としての形成はついになされることはなかったが,その思想は
密教の成立に大いに寄与し,また中国,日本の仏教に深い影響を与えた …
※「如来蔵」について言及している用語解説の一部を掲載しています
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http://kotobank.jp/word/%E9%A0%BC%E8%80%B6%E7%B8%81%E8%B5%B7 百科事典マイペディアの解説
頼耶縁起(らやえんぎ)
瑜伽行派(ゆがぎょうは)や法相宗で説く縁起説
万有は阿頼耶識(あらやしき)から縁起すると説く
阿頼耶識には一切の諸法を生じさせる作用(種子)があり
種子には先験的に存する本有種子と
後天的に付加される新熏(しんくん)種子とがあり
この2種子が合し,展転して,一切の現象や差別が生じる
※本文は出典元の用語解説の一部を掲載しています
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%80%A7 仏性(ぶっしょう)とは
仏の性質・本性のことで、主に『涅槃経』で説かれる大乗仏教独特の教理である
「覚性」とも訳される
『法華経』では、仏種(ぶっしゅ、「仏に成る種」)
『勝鬘経』では、如来蔵(にょらいぞう)などと、さまざまな表現がされるが
基本的に仏性と同じ意義である
仏教では、この仏性を開発し自由自在に発揮することで
煩悩が残された状態であっても全ての苦しみに煩わされることなく
また他の衆生の苦しみをも救っていける境涯を開くことができるとされる
この仏性が顕現し有効に活用されている状態を成仏と呼び
仏法修行の究極の目的とされている
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98 インドにおける成立と展開
唯識は、初期大乗経典の『般若経』の「一切皆空」と『華厳経』十地品の「三界作唯心」の流れを汲んで
中期大乗仏教経典である『解深密経(げじんみつきょう)』『大乗阿毘達磨経(だいじょうあびだつまきょう)』として確立した
そこには、瑜伽行(瞑想)を実践するグループの実践を通した長い思索と論究があったと考えられる
論としては弥勒(マイトレーヤ)を発祥として、無著(アサンガ)と世親(ヴァスバンドゥ)の兄弟によって大成された
無著は「摂大乗論(しょうだいじょうろん)」を、世親は「唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)」「唯識二十論」等を著した
「唯識二十論」では「世界は個人の表象、認識にすぎない」と強く主張する一方、言い表すことのできない実体があるとした
「唯識三十頌」では上述の八識説を唱え、部分的に深層心理学的傾向や生物学的傾向を示した
http://news24.jp/nnn/news89049896.html マヤ暦“終末論”世界各地で関連イベント [12/21 17:46 NEWS24]
21日にマヤ暦が区切りを迎えることから
「この日、世界が滅びる」とする“終末論”のうわさが世界で話題となっている
こうした中
各地ではマヤ文明に関連する様々なイベントが企画されており、盛り上がりを見せている
20日、メキシコのピラミッドの前でマヤの暦をたたえる儀式が行われた
今回の終末論は
マヤ文明に伝わる暦の一つが21日で区切りを迎えることから「終わり」と解釈されたものだが
メキシコ政府は「新たな暦が始まるだけ」とうわさを否定している
うわさを受け、ユカタン半島の遺跡には通常の倍の観光客が訪れたという
一方、「世界の終わりから唯一
救われる場所」とのうわさが広がっているフランス南西部・ビュガラッシュ山には
見物客や報道陣が殺到している
村では混乱を避けるため、山への立ち入りを禁止し、警察が出動している
うわさは「UFO(=未確認飛行物体)が現れて人々が救われる」というものだが
本当に信じている人は訪れた人の中にも少ないという
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama18.pdf 内的にであろうと外的にであろうと
「私」と「私のもの」という観点が消滅するとき
自己に固執する者(取著)は消滅する
これが消滅すると誕生することも止まる(中論18-4)
瞑想修行から始めることによって(内的)であろうと
思考を突き詰めることによって(外的)であろうと
実体的な主体である「私」や
実体的に存在する「私のもの」と
いう観念が消滅するところまでたどり着くと
(実体的に依存するような)自己に固執する主体も消滅することになる
この自己固執が消滅すると輪廻によって誕生してくることも
なくなるのである(中論18-4の意訳)
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama18.pdf 行為〔カルマ〕と苦悩(煩悩)が消滅したところに涅槃がある
行為〔カルマ〕と苦悩は概念的思考から生じてくる
これは心的に作り出されたもの(戯論)に由来するのである
作り出されたものは空性によって消滅する(中論18-5)
カルマによって引き起こされる苦しみが消滅した地点に
輪廻から解放された涅槃(ニルバーナ)がある
カルマによる苦しみは
概念による思考から生じてくるのであり
概念的思考は心的なプロセスによって作り出され
組み立てられた迷妄である
そのように作り出され組み上げられたものは
空性の体得(悟り)によって消滅する(中論18-5の意訳)
640 :
Classical名無しさん:2012/12/22(土) 20:53:07.00 ID:pDvw9941
マスコミは騒ぐのが仕事、トラブルイベント飯の種、興味関心注目を集める為なら誇張扇動捏造もする。十分なリテラシー教育を受けていない者ほど偏向思想デマ宗教エセ科学に感化洗脳される。史上最大のトンデモ本は新約聖書/感情自己責任論
隠居先生かしら? おじゃる?
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20121221/k10014341501000.html “終末論”で観光客 一方では動揺も 12月21日 8時31分
マヤ文明の暦が区切りを迎える21日に「世界が滅びる」という
いわゆる終末論のうわさが各地に広がり
メキシコのマヤ文明の遺跡でこの日を迎えようと大勢の観光客が集まる一方
アメリカでは一部の学校が休校になるなど、動揺も広がっています
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〔メキシコのマヤ文明の遺跡でこの日を迎えようと大勢の観光客が集まる〕
ここに集まっている100%の人全員すべてが
『十分なリテラシー教育を受けていない偏向思想デマ宗教エセ科学に感化洗脳されている』
人達なのかしら? おじゃる?
◎十分なリテラシー教育を受けていない場合
◎十分なリテラシー教育を受けているけど、偏向思想デマ宗教エセ科学に感化洗脳されている場合
◎その他の場合
色々な場合があるんじゃなイカ? おじゃる?
>>622 確かに、究極の勝義から言えば非虚妄非非虚妄ですね…では、そこまで順を追ってそこまで議論を進めます。
まず、部派や実在論者や常見に陥っている者は、「xは常に変わることなくxである」
という、誤った理解に陥っています。虚妄なる法を、虚妄ならざる法だと顛倒している者です。
諸仏は、これを破るために、「それは虚妄であり、xはxであると思ってもいずれ非xになってしまう」と諭します。
これは、世俗的には「虚妄ではない」が真実とされますが、勝義諦としては「虚妄である」となります。
この話には続きがあります。もし、ここで、「虚妄である」と教えを聞いて、
「そうか!一切は虚妄なんだ!」と、「虚妄こそ真理」であると考えて教えに迷うものが出てきます。
そこで初めて、諸仏は虚妄、非虚妄、これはどちらも世俗的な真理であり、勝義から見れば非虚妄非非虚妄である、と明かします。
(なぜならば、xは非xに変わると言っても、人々は依然としてそれをxと仮説して意思疎通ができるから)
何を言いたいのかといいますと、「xは常にxだ!」というレベルの者に、「非虚妄非非虚妄」という教えは早すぎます。
別の例で云いますと、十二縁起の順観、「生」を釈尊は正しい道とし、逆観の「滅」を正しからぬ道としました。
世俗諦:生 → 勝義諦:滅 となります。生を転じて滅にならしめます。
ところが、教えに迷って「滅こそ至高!」と考える者が出てきます。実在の滅を考えてしまいます。
そこで初めて、世俗諦:生、滅 → 勝義諦:不生不滅 という教えが出てくるのです。
「生」と「滅」には「常」と「無常」、「有」と「無」を代入しても同じです。
ちなみに、私は『中論』13-1は大滝さんの言うように、反対者の偈頌として仮に処理したとしても、
事態はそう大きくは変わらないと思います。
諸仏の言う「虚妄である」は、「虚妄ではない、人は常に人である」という見解を破るための、
方便・仮説・正説となりますが、反対者の言う「虚妄である」は、諸仏の「虚妄である」という
教えを受け取っては、「虚妄こそ真理」というように、教えに迷って言われたものなので、戯論・見解となります。
「虚妄である」という言葉1つをとっても、その発言者がどのような意図で言うのかどうかで、教えにもなれば、戯論にもなります。
諸仏は、「非虚妄非非虚妄」であると知って、「虚妄である」と言います。導くために。
>>644 訂正!「正しい道」と「正しからぬ道」を逆にしておいてください
ちなみにスッタニパータ757の「虚妄なる法」と、758の「虚妄ならざる法(は涅槃である)」
という部分で使われる「虚妄」、というのも中々、奥の深い意味であります。
私が644、645で使った虚妄はどちらかと言うと「無常」に近い、つまり「変化する」という意味で用いました。
757の「虚妄なる法」というのは、「同一性」と「変化」の併存する世界観を示しています。
758の「虚妄ならざる法」というのは、「同一性」も「変化」も無い世界観を示しています。
主人公が10年前にある人物Pを見たとします。今、その人物Pに10年ぶりに会って「彼はPである」と見て、
そこに「同一性」を見いだすならば、「Pは10年前よりも老けた」と「変化」をも見いだすことになります。
ところが、今、その人物Pを見て「彼はQである」と見て、そこに「同一性」を見いださないならば、
10年前のPについての変化を語ることは出来ないでしょう。
10年ぶりの「Pとの再開」も、主人公にとっては「Qとの初対面」となるからです。
このような理由から、「変化」を語るためには「同一性」は欠かせません。
これらの議論は、野矢茂樹先生の『同一性・変化・時間』に詳しく記されてあります。
もちろん、実際は、衆生が「同一性」に執着しているのを見て、諸仏は「変化」の方しか強調しません。
そして、部派がその「変化」に自性を見いだして見解として持ってしまったので、
龍樹はそこで初めて、「同一性(常)」も「変化(無常)」も「仮」で世俗的なものでしかない、
勝義から見れば「非常非無常」だと示した、ということです。これは、そのまま758の「虚妄ならざる法」の言い換えです。
SN 758
安らぎは虚妄ならざるものである。
諸々の聖者はそれを真理であると知る。
かれらは実に真理をさとるが故に、快をむさぼることなく平安に帰しているのである。
「修行僧たちよ。
『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、
もしもだけかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。
どうしてであるか?
『神々と悪魔とともなる世界、
道の人(沙門)・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者<これは安楽である>と考えたものを、
諸々の聖者は<これは苦しみである>と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』というのが、
一つの観察[法]である。
『神々と悪魔とともなる世界、
道の人・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者<これは苦しみである>と考えたものを、
諸々の聖者は<これは安楽である>と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』──
これが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、
専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。
──すなわち現世における<さとり>か、
あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──
師(ブッダ)はこのように告げられた。
>>649 の補足
煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないように
正しい智慧をもってよく観察して、怠らず、つとめ励んで
専心して修行を、おこなう努力をすべきである
正しい智慧をもってよく観察して、怠らず、つとめ励んで
専心して修行を、おこなう努力をすべきである
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SN 1026
無明が頭であると知れ
明知が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて
頭を裂け落とさせるものである
652 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2012/12/24(月) 09:34:00.94 ID:bCG4o6fs
>>644 >「そうか!一切は虚妄なんだ!」と、「虚妄こそ真理」であると考えて教えに迷うものが出てきます。
横槍ですけど、成る程そうですか?
「迷う」といふのが、私には理解できませんですね。
お気に触ったのでしたら御免なさいね。
思い返せば、私が仏教に深く傾倒していったのは「生死一如」のフレーズでした。
このフレーズがもしなかったら、私はかくも宗教には関わらんかっただろうね?
私は今、日本経済に関心がありますですが、
この経済にしても虚妄でありますね。
なんの実体もない、それは揺れ動くユラギのようなもんで、これを文字列にした途端に
人の心も揺れ動くのであります。
そして、この揺れ動く様こそ人生なんでしょうね。
空即是色であります。
「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ」。
【梁塵秘抄より】
653 :
644:
>>652 >「迷う」といふのが、私には理解できませんですね
教えを聞いて、その教えを「見解」として持ってしまう、ということです
例えば、仏は、善悪の分別をするという衆生の理解に従って、善悪の二つを説きます。
それは、悪を転じて善ならしめんとするためです。
(世俗諦:悪 → 勝義諦:善)
しかし、この教えを聞いて、「善こそ至高!悪こそ低劣!」のように、
「見解」として持ってしまう者が出てくる。彼は、諸仏が、抜苦与楽の方便として、
「善悪」を説いたという理解がないのです。
「善悪」と聞くと、「善悪」なる実体がどこかにあると思い、善を賞賛し、悪を蔑みます。
そこで大乗になると、「善悪」は、縁起によって生じた虚妄なるもので、それを仮に善悪と仮説したということ、
それは、更なる勝義諦として明かされる「善でもなく、悪でもない、ありのままの世界(涅槃・戯論寂滅)」へ
至らしめるための教法、筏だったことを明かします。
(世俗諦:善、悪 → 勝義諦:善にもあらず、悪にもあらず)
このように、善にも悪にも偏らないことが中道です。「苦・楽」や「有・無」を代入してもOKです。
ですから、「善・悪」という言葉は、諸仏が用いれば戯論寂滅へ導く方便になりますが、
凡夫が使うと、見解・戯論にもなり得ます。有所得とも言います。
>お気に触ったのでしたら御免なさいね
いえいえ、興味を持って聞いてくださる分には全然大丈夫ですよ