無始無終なので最終もなければ目的もない
何だ、いきなり終了か。 くっくっく。
喜怒哀楽のまま素直に生きていこう
仏様の目つきってよく見ると何かやらしい
989 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2010/12/29(水) 13:14:29 0
「生→老→病→死」は仏教に関係なくみなそうしている。
それが最終目的なら、端的に、仏教なんかイラネ。
「寝て起きて、飯食べて、働いて、体を清潔にして、寝る」だったら、
経典読むより就職活動やシャワーやウォシュレットの方が有用。
やっぱり、仏教イラネw
994 名前:考える名無しさん[sage] 投稿日:2010/12/29(水) 18:04:14 0
>>989 それを世俗にまみれた生活という
999 名前:考える名無しさん[sage] 投稿日:2010/12/29(水) 19:38:31 0
>>989 それこそまさに真の仏教
8 :
考える名無しさん :2010/12/30(木) 14:38:47 0
世俗を否定してる時点でカルトだろ
仏教は世俗=社会にしっかり(すぎるくらい)ビルトインしておる
11 :
禅屋 :2010/12/30(木) 16:19:12 0
無始無終で本源自性天真仏が目の前に現前している。
>>9 それは建前であってネタふり。
引っかかりましたね。。www
13 :
考える名無しさん :2010/12/30(木) 16:56:22 O
宮崎哲弥さんに仏教についての本出してほしい。
15 :
考える名無しさん :2010/12/30(木) 23:43:07 0
日本社会の根底にある 利権を握って ピンはね 文化の ムーブメントを作った邪教のことでしょ
不況だから苫米地だの宮崎だのとどこの馬の骨とも知れんスピリチュアル商人にカモられる
>>15 > 利権を握って ピンはね 文化
中国共産党始め、世界各国至るところに見られるが、
仏教ってのはそんなに広く世界中に浸透してたんだ・・。
知らなかった・・・。 orz
18 :
考える名無しさん :2010/12/31(金) 00:32:32 0
そう これ以上浸透しないでほしい
19 :
考える名無しさん :2010/12/31(金) 00:54:01 0
宮崎哲哉が仏教オススメしてる動画ユーチューブにあるね。
20 :
考える名無しさん :2010/12/31(金) 00:56:39 0
仏教の目的は 個人の幸福である
22 :
考える名無しさん :2010/12/31(金) 01:00:32 0
幸福とは 何も悩みがないことである
つまり、お花畑
24 :
考える名無しさん :2010/12/31(金) 01:02:37 0
ユーチューブ行ったらなくなってた。 仏教の「交換可能性」が新しい思潮になるみたいな動画。
25 :
考える名無しさん :2010/12/31(金) 01:06:33 0
坊主見たら お花畑みたいな面してるじゃん
>>25 財産がっぽりの坊さんはそうだね
美食も美女も食べ放題→幸せすぎるううう
27 :
考える名無しさん :2010/12/31(金) 01:14:05 0
坊主のゼニ儲けと純粋な仏教哲学を混同するなよ
28 :
考える名無しさん :2010/12/31(金) 01:20:28 0
純粋な仏教哲学と 純粋な精神を混同するなよ
大寺院の坊主の金儲けはすごいぞ 世の中の尊敬も得てるし、人生=遊び かつ無税
30 :
考える名無しさん :2010/12/31(金) 01:24:32 0
それを横目に見てる企業経営者や 公務員 法人関係者は 自分もおいしい立場になりたいと思うだろうな そして 民衆なんてどうでもいい金ずるだ と思うようになるだろうな それが 今の日本の姿だろ
31 :
考える名無しさん :2010/12/31(金) 01:24:47 0
知らんがな 経済学板とか社会学板でやれ
>>31 哲学の根底にある経済の問題を無視するな
こぎれいでうすっぺらな哲学とかいらんだろ
34 :
考える名無しさん :2010/12/31(金) 01:29:57 0
所詮 お笑いのレベルの邪教だろ
哲学だって高等遊民の知的遊戯だろ
36 :
考える名無しさん :2010/12/31(金) 01:37:28 0
>>33 経済?下手に出てりゃーこらまた大きく出たな。
金持ちに対するペラペラな下品なグチのどこが経済の問題だよ
酔っ払いがクダ巻いて純粋に哲学を学んでる人間にまで絡んでくんじゃねえ
37 :
考える名無しさん :2010/12/31(金) 01:38:39 0
実際 哲学はほとんど金がかからないが 仏教は何かと金のにおいがするな
哲学学んでる自称賢い人来たよ!
39 :
考える名無しさん :2010/12/31(金) 01:43:08 0
哲学学んでるからこの板にいるんじゃないのか。 暇つぶしに「仏教」で検索してじゃれあいに来ただけの人がいるようだから落ちる。
>>37 それだけ深く世の中に根ざしてるということ。
だからより正確に仏教をみることで
哲学も深めることができる可能性がある。
>>39 新スレ建って数十レスってとこだが、
巷で見かける葬式仏教誹謗・職業僧侶誹謗と同じキャッチフレーズしかないわけだが、
どの辺が哲学的なのかな?
43 :
考える名無しさん :2010/12/31(金) 10:22:40 O
>>14 この人は中論に詳しいそうだからその解釈が知りたい。あと輪廻についての解釈など。
44 :
考える名無しさん :2010/12/31(金) 11:37:16 0
>>43 宮崎のことなら、詳しくないし、仏教の基本が分かってないよ。
仏教断見派である山口組などの解釈を繰り返してるだけ。
45 :
考える名無しさん :2010/12/31(金) 12:07:27 0
宗教の目的は 拡大でしょ
46 :
考える名無しさん :2010/12/31(金) 15:55:36 O
イノベイター。
イノベイター乙れなおなら残念。
49 :
考える名無しさん :2011/01/02(日) 15:52:06 0
>>46 山口益先生はいい学者です。
山口組とは、山口瑞鳳、松本史朗、袴谷憲昭などのこと。
基本がわかってるからと言って、説明が上手いとは限らないな。 むしろ学者筋はヘタな事言えないから説明が固くなって敷居が高くなる。 啓蒙書は無責任な部外者が書くのがいいよ。 笑い飯哲夫氏の般若心経の本もとてもいい出来だったし。
涅槃だな
>>50 だからと言って、苫米地の例の新書の如き有害書籍は如何なものか・・w
53 :
考える名無しさん :2011/01/02(日) 20:10:38 0
>>50 いや、素人の妄想はやめてほしい
学者も本当に分かっている人は少ない
一番いいのは、伝統的な仏教者で本当に分かってる人が説いてるものだよ
伝統的な仏教者で本当に分かってる人
>>53 まあその意見はまともだが、素人に言われてもなぁ。
俺も来年からやることにしたけど、仏教哲学やるぐらいなら、 日本学専攻とかで「武士道」でもやった方がいいんじゃないかな。 そもそも俺ら日本人なわけだし、中には皇親勢力や開発領主、 士族の血とか引いてる奴だっているわけじゃん。 外国や他人に追随するだけで、元々自分の中にある独自のものに誇りを持って、 それを権威付けて徹底的に磨きをかけて行こうとしない限りは、 永久に二番煎じから抜け出せない。 日本人には、日本が世界に誇れる「侍の魂」(The Soul of the Samurai)というものがある。 その先祖代々受け継がれて来たものを、古文漢文を通じて通時的に読んだり、 洋書を通じて共時的に読むことで、もっともっと磨いてゆくべきだ。 Inazo Nitobe『Bushido The Soul of Japan』ぐらいなら、学部生でも読めるよ。
57 :
禅屋 :2011/01/02(日) 21:59:02 0
私の境地は見逃さねばならぬ、 我は無視されるだけ。 全我は生死を問わず「 」なり。 完 敬礼
58 :
考える名無しさん :2011/01/02(日) 21:59:43 0
>>53 誰が分かっていて、誰が分かっていないかを判断できる君ってきっとすごいんだろうねw
>>56 武士って日本人のうちのほんの一握りだよ
日本人=サムライみたいなイメージって国家総動員の時代に政府が押し付けた幻想だが
いい加減目を覚ましたらどうだね
60 :
考える名無しさん :2011/01/02(日) 22:25:51 0
仏教哲学は面白い、それだけで学ぶ価値がある。 仏教哲学を学んだからと言って仏教哲学に染まる必要もなし。 おまえら上手く生きたいだけならばビジネススキルでも身につけたまえ。
なるほど、百姓の家系かw
62 :
考える名無しさん :2011/01/02(日) 22:31:47 0
63 :
考える名無しさん :2011/01/02(日) 22:33:02 0
65 :
考える名無しさん :2011/01/02(日) 23:30:35 0
66 :
考える名無しさん :2011/01/02(日) 23:50:56 0
>>64 多分、プロの仏教屋か、プロの大学教師か、そんなところだろう。
67 :
考える名無しさん :2011/01/03(月) 00:23:33 0
仏教哲学なんてそんな難しく 考えなくてもいいよ 要するに 負けるが価値 長いものには巻かれろ だろ 犬になったほうが得をする だから維持を張らないで体制に取り込まれましょうと・・・ そのとうりになってるじゃないの 今の日本は 十分に邪教は浸透してるよ
68 :
考える名無しさん :2011/01/03(月) 00:42:49 O
>>49 ありがとうございます。松本さん達は著書でははっきりとは言っていないようですが輪廻否定説ってことなんですね。
ちなみに山口益さんの本は自分には難解過ぎて歯が立ちませんでした。
>>60 仏教哲学は面白い
学ぶ価値がある
>>67 仏教哲学なんてそんな難しく
考えなくてもいいよ
要するに
負けるが価値
長いものには巻かれろ
犬になったほうが得をする
維持を張らないで体制に取り込まれましょう
どっちだ?
70 :
考える名無しさん :2011/01/03(月) 00:58:54 0
幸か不幸か 日本がモノカルチャーのおかげなのか 幼稚な精神のまま大人になってしまった人 いい年を しても内面に 稚拙な感情がうごめいているもの そういう人には仏教は必要だろう
71 :
考える名無しさん :2011/01/03(月) 08:02:15 0
>>68 そうです。水野弘元『仏教要語の基礎知識』を三回ぐらい読むのがいいと思います。
石飛道子『龍樹』は明解でしかも学者が書いたものとしては最も深いかもしれません。
それと梶山雄一、片山一良の諸訳書はよいと思います。
ダライラマ『智慧の眼を開く』パユットー『仏法』はちゃんとした伝統仏教者の解説で、前者が大乗、後者がテーラワーダです。
仏教なんて、個人がどうやって現実から逃げるかってだけの下らないもの。 その方法も馬鹿みたいに単純なもので、社会から逃げて思考停止するだけ。 実践方法も下らないが、理屈も下らなく現実逃避で、 話の全てが闘うことや責任からの逃げとごまかしで埋め尽くされている。 逃げとごまかしの正当化にしかなってない。 個人が逃げるための屁理屈だから、仏教には何の社会性も無く責任感も無い。
73 :
考える名無しさん :2011/01/03(月) 09:38:32 0
>>73 >>72 の意見は、表現が悪意に満ちてる気がするけど、結構、的を得てると思うけどなw
ただ、「初期仏教に対する評価としては」という但し書きが付くけどね。
72のような批判から、大乗仏教が生まれ、今の仏教につながったんだろう。
創価?
76 :
考える名無しさん :2011/01/03(月) 11:19:06 0
>>74 >ただ、「初期仏教に対する評価としては」という但し書きが付くけどね。
>72のような批判から、大乗仏教が生まれ、今の仏教につながったんだろう。
全く違うよ。今の日本仏教から判断したら何も分からない。
大乗は厳しいもんですよ。たんなる現状肯定や現世の阿りみたいなのは、
単に和辻みたいなただの常識人が言ってるだけのこと、
それと唯の凡人でご都合主義の坊さんね。
77 :
考える名無しさん :2011/01/03(月) 11:19:18 0
>>72 君が考える、現実や社会から逃げない生き方ってどういうもの?
>>76 だれも、今の日本仏教と、当時のインドの大乗仏教が同じものだとは言ってないだろうがw
>>72 のような意見が、インドにおける大乗運動が起こるきっかけの一つとなったのは確かだろう?
>>78 なぜそうなるw
大乗と言っても、インドとチベットと日本があって、それぞれ全然違うし、
当然創価なんかは、さらにかけ離れている。
イコールで結べる関係じゃないね。
80 :
考える名無しさん :2011/01/03(月) 12:43:42 0
権力者が民衆をおとなしく言いなりにしたいとき 内面まで去勢してコントーロールしたい 時 仏教は導入された
82 :
考える名無しさん :2011/01/03(月) 13:13:09 0
>>79 >
>>72 のような意見が、インドにおける大乗運動が起こるきっかけの一つとなったのは確かだろう?
いやいや、全く違う。だから、それこそ現代日本の解釈に他ならない全くの誤解。
大乗は見解の高さと、一切智、つまりブッダを目指して菩提心を起こし、
あらゆる有情が覚るまで涅槃に入らず、普賢行を続ける誓願を立てるという所に、その特性がある。
それはインド、チベット、シナ、モンゴル、日本、朝鮮とどこでも変わらない。
そこから逸脱しているなら、方便かもはや大乗ではないということに過ぎない。
大乗は見解の高さと、一切智、つまりブッダを目指して菩提心を起こし、 あらゆる有情が覚るまで涅槃に入らず、普賢行を続ける誓願を立てるというトホホ妄想
84 :
考える名無しさん :2011/01/03(月) 13:35:47 0
>>83 なぜ妄想というのか?
妄想という立場は二つある。
一つはテーラワーダの立場、もう一つは常識・素朴実在論の立場。
どちらも、縁起・空に立たないだけの誤解である。
テーラワーダの縁起は実在論が混入している。
特にニューウェーブ・テーラワーダは著しい。
ニューウェーブ・テーラワーダというのは、伝統の途絶えたスリランカや
伝統テーラワーダ説から逸脱したタイ仏教の一部を言う。
テーラワーダの真説を知りたいならビルマ仏教を学ぶべきだ。
常識の立場に立って妄想というのも結構だが、
仏教からいうなら、知覚するものが全て妄想だよ。
ただし、因果は仮設される。仮設の中で、整合性はある。
85 :
考える名無しさん :2011/01/03(月) 13:41:02 0
すべて妄想 仏教だけがそれがわかる・・・ 恐ろしい
>>85 仏教なめんなよ
唱題は人生勝利の力
「祈りとして叶わざるなし」「祈り」とは何かを学びます。
仏道修行の基本であり、根本である「祈り」。
今回は、この「祈り」について、
「祈りの意味」「妙法の祈り」「祈りは勝利への原動力」「人間革命の仏法」の4つの観点を、
教学部長の講義を中心に、御書の御文や池田SGI会長のスピーチなどを通し、解説していきます。
検索ワード:創価学会・池田大作・公明党・聖教新聞・創価大学
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9137109
>仏教からいうなら、知覚するものが全て妄想だよ。 何でもありのトンデモ思想だな。 無責任、非社会性、現実逃避。 >仮設の中で、整合性はある。 妄想と言っておきながら整合性w これはカルトに共通して見られる性質だ。 カルトは、常識を妄想と決めつけておいて、次に自分達の恣意的な屁理屈を真理だと言う。
88 :
考える名無しさん :2011/01/03(月) 14:00:39 0
カルトは存在する カルトは怖い それとどうつきあっていくか
>>84 妄想についてもう少し詳しく解説してください。
90 :
考える名無しさん :2011/01/03(月) 15:04:45 0
>>89 例えば、今、モニタを知覚して日本語を読んで意味が湧き上がる。
それが全て妄想ということ。
なぜかというと、それは過去の業と世間の言語習慣が結びついた縁起に過ぎないから。
それを空・無我といいます。要するに実体や本質のないからっぽな知覚のこと。
しかしながら、この知覚には効果的作用があります。
その現象の効果的作用、その因果関係に整合性があることも縁起です。
この知覚と言語習慣に基づく効果的作用の一致することが妥当な認識で、
世間では、このような認識対象が実在すると思い込みます。
その最たるものが自我の実在で、この自分が実在すると思い込むことから、
あらゆる苦が発生します。
このような意味で、妄想です。
91 :
考える名無しさん :2011/01/03(月) 15:11:38 0
君の頭の中のムニャムニャした「仏教」よりは、 さっき食った餅や目の前にあるモニタの方が まだ実在してるとは思わんのかね?
苦が発生したっていいじゃないの。 要するに苦を否定したいから、苦を発生させるものを妄想だということにしたいだけでしょ。 からっぽな知覚なんて観念は妄想だよ。
93 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2011/01/03(月) 15:18:03 0
あけましておめでとうございます。 このスレも新スレですね。 さて、少し読んでみましたが、あまりに「分けて」の考えが 強いのではないでしょうか? 総合的というわけではありませんが、もう少し視野を広げるべきではないかと。 視野を狭くするのも、広くするのも「自我」です。
94 :
考える名無しさん :2011/01/03(月) 15:20:44 0
>>91-92 思わんな。凡人は勝手に素朴実在論を信じてればいいだけだ。
仏教について云々するのは止めた方がいいと思うぞ。
95 :
考える名無しさん :2011/01/03(月) 15:21:41 0
「空腹は幻想だ、実在しない」と唱えてると、飯食わんでよくなるものか?
96 :
考える名無しさん :2011/01/03(月) 15:23:26 0
>>94 君は、君の心の外に「凡人」が存在して素朴実在論を信じてる、
とでも思ってるのかい?w
>>95 凡人は飯を食わねばならんが
非凡人は飯を食う必要はない
凡人は素朴実在論を信じる
非凡人は仏教(特に大乗)を信じる
98 :
考える名無しさん :2011/01/03(月) 16:07:38 0
一口に飯を食うって言っても様々なレベルがある。 「足る」を知らないと食料を奪うために殺し合うような地獄になる。
99 :
考える名無しさん :2011/01/03(月) 16:11:35 0
>>95 そういう聖者もいるが、そういうことは重要ではない。
>>96 そう思うよ。ただし、実在ではなく効果的作用のある縁起としてね。
この縁起が分からんと、ただの恣意的な思弁にしか思えないんだろうが、
仏教は認識に基づくからね。
君のような人に説明しようとは思わないけど。
>>90 縁起から妄想や苦が出てくるわけですね。
縁起について、少し説明をお願いします。
101 :
考える名無しさん :2011/01/03(月) 16:25:27 0
俺の考えは正しい認識に基づき、おまいらの考えは妄想、 しかし、おまいらに説明しようとは思わない −−これが落ちか?w
102 :
考える名無しさん :2011/01/03(月) 16:28:29 0
縁起思想は現代数学の公理主義と同じだね。
103 :
考える名無しさん :2011/01/03(月) 16:35:34 0
ほう、そりゃまたどういう意味で同じなんだね?
全ては妄想だってのは言い過ぎだし、 懐疑した哲学者としてはデカルトの方が仏教よりも整合性がある。 仏教はデカルトに負けてるよ。
105 :
考える名無しさん :2011/01/03(月) 16:37:42 0
>>103 空間と定理(世界と現象)を実体視しないという意味
106 :
考える名無しさん :2011/01/03(月) 16:41:13 0
王女に適当なウソついてバックレたデカルトのどこに整合性があるんだよ
>>105 縁起は空間と定理(世界と現象)を実体視しないのですか?
108 :
考える名無しさん :2011/01/03(月) 16:48:27 0
>>107 しませんよ。仮に設定されてるだけです。
その証拠としての諸行無常です。
なんかおおざっぱすぎて 凡人にはさっぱり・・・である
>>104 >全ては妄想だってのは言い過ぎだし、
言い過ぎではない、それは感情論にすぎない。
全てが妄想であると評価される側面もあるってことだ。
>>90 妄想って名付けてるだけで中身が何もないじゃん
>>104 しかし哲学の場合は瞑想するなどの修行方法はなくて、自分で確認するというのが抜けているよな。
あくまでも思考によって追求を続ける形式になっている。もちろん直感も利用するだろうけどね。
ただ、うまいこと直感が働かない状態の人は結局他人の考えた哲学理論を記憶するだけに終わって
しまうので非常に勿体無い。
>>112 じゃあやっぱり哲学以外はすごいけど
哲学に関しては仏教は劣るということですね
んー、でもやっぱ修行方法がすごい
とかもどう評価するのか不明だけど・・・
と、とにかくすごいんですね!
「(目の前にある)リンゴ」と「(今、自分が感受している)悲しみ」とが 「等質、等価な“こと”である」と見るのが『縁起』という考え方、視線。 両者は、その「具体的在り様」が所縁によって異なるだけ。 日常的・常識的には(→世俗的には)リンゴだけが「ある」のでなく、悲しみも「ある」。 諸法(≒諸々の存在)が、因により縁により生起し、継続し、或いは滅するという、 一瞬たりとも静止状態の無い(≒→実体的に「ある」のではない)「在り方」の本質を見るとき、 (勝義に於いて)、リンゴは存在しないし、悲しみも存在しない。 その意味で、リンゴも妄想(非実体)だし、悲しみも妄想(非実体)であるという言辞が成立している。 当然、「確固たる自我」(→これこそが俺だ!こうして思惟している俺がいる!)というのも、 因により縁により、そのような(そのように思惟されている)「在り様」があるだけ。 条件が変異・変移すれば、大変革が起きるかもしれないし、消滅するかもしれない。 その意味で(→縁起という考え方からすれば)、デカルトは大きく誤っている、ということになる。
115 :
考える名無しさん :2011/01/03(月) 18:56:57 0
>>100 縁起から妄想や苦が出るというより、縁起はあらゆる現象のあり方の原理みたいなものです。
それは簡潔に「これあらばこれあり、これなくばこれなし」と説かれます。
「これ」というのは指示される対象で、変項と考えてもいいと思います。
要するにあらゆる現象は、他に依って生起するという意味です。
苦や妄想の根本的原因は、無明と言われます。
具体的には実在論的見方と考えます。
何かが実在していると先天的に思ってしまう認識習慣を指します。
>>102 あまり知りませんが、似てますが、ヒルベルトと違って体系内で完結するとは考えません。
つまり、ゲーテルの不完全性定理のようなものが意識されているということです。
それがすなわち、空・仮設・言語習慣です。
どういう意味かというと、それぞれの言語習慣内で論理性をもって体系は仮設
されますが、それは空であるという意味です。
ウィトゲンシュタインの言語ゲームが結構似たモデルですが、仏教の方が格段に優れているように思います。
ヒルベルトやゲーテルについては、ほとんど知らないので突っ込まないでくださいね。
116 :
考える名無しさん :2011/01/03(月) 19:05:04 0
>>104 いや〜、それはないな。デカルトはだめでしょ。
仏教で最も根本的な煩悩といわれる我見・有身見、つまり、我有りから出発しているとこがだめだ。
我有りという実在論から抜けてない。近代の不幸の原因はここにあるかもしれませんね。
要するに自分から出発しているということが不幸の原因。
>>111 あるよ。きっちり体系付けられた行体系にそって自分で確認できる。
>>112 哲学は少なくとも近代以降はただの思弁だから、
それが19世紀になって科学が出てきてほぼ全滅。
以降、論理実証主義など科学を基礎としたものにほぼすり替わった。
しかしながら、実在論・本質主義なのであまり成功してないように思います。
117 :
考える名無しさん :2011/01/03(月) 19:12:08 0
細部についてはわからないが こんな邪教に感染してる日本は 衰退するような気がするな ある程度は思考はシンプルなほうがいいんじゃないの
118 :
考える名無しさん :2011/01/03(月) 19:23:50 0
ある程度ってどんな程度だ
119 :
考える名無しさん :2011/01/03(月) 19:29:34 0
>それが19世紀になって科学が出てきてほぼ全滅。 >以降、論理実証主義など科学を基礎としたものにほぼすり替わった。 開いた口がふさがらない。仏教哲学を勉強すると頭がアホになるのか? それとも、本を読まないでも「神通力」ですべて分かったつもりになるのか?
120 :
考える名無しさん :2011/01/03(月) 19:36:54 0
哲学は科学の進展にどんどん取り込まれていって今では論理学しか残ってないって見方は ロックが提唱・予言して以来、基本的に市民権を得たと思うが、どこら辺が開いた口がふさがらないんだ?
やはりデカルトの方が整合性があるね。 仏教は苦痛を直視したくないから色々と話をごまかしている。 仏教の目的が苦痛から逃げたいというものだから詭弁で逃げの理屈になってしまうんだ。
122 :
考える名無しさん :2011/01/03(月) 19:41:34 0
どこが「ごまかし」なのか提示しなければ相手してもらえないよ
>>115 > ウィトゲンシュタインの言語ゲームが結構似たモデルですが、仏教の方が格段に優れているように思います。
どのあたりが「格段に優れている」んですか?
124 :
考える名無しさん :2011/01/03(月) 19:50:03 0
悟りなんてない そこがごまかしだ
>>121 デカルトは苦痛を直視したの?
「苦痛から逃げない」ということと「我思うゆえに我あり」と、どういう関係なの?
126 :
考える名無しさん :2011/01/03(月) 20:00:48 0
状況を変えたいと思うと 困難が生じる 受け入れると楽になる しかし何も変わらない
127 :
考える名無しさん :2011/01/03(月) 20:39:43 0
>>119 何、ドイツ・フランス系の残党のこといってんの?
それとも倫理学系?
>>121 おいおい、仏教の基本が苦諦だってことも知らないのか
せめて、水野弘元『仏教要語の基礎知識』を三辺読んで出直してこいよ
あまりにも理解程度が低すぎるは、君の場合
>>123 ウィトゲンシュタインは、前期で世界を記述するにあたって実在論・本質主義的前提に立っていたけど、後期でそれを放棄してやや仏教に近づきました。
それでも、世界を記述するだけで、彼がより重要とした倫理的内容については沈黙を守ったままのように私は読みます。
それに対して仏教は世界の有り様を縁起・空・仮設で極めて洗練された形式で説くだけでなく、倫理的内容にも明解な説明を与え、しかも、苦の解決法としての修行体系を明解に提示している点で、圧倒していると思います。
>>125 デカルトは私の知る限り、世界の有り様がどうなってるかという仮説を提示しただけで、
苦と認識もしてないし、ましてや苦の解決法など説いてないでしょう。
まあ、『方法序説』と『省察』だけの昔の記憶なんで違ってるかもしれませんが。
128 :
考える名無しさん :2011/01/03(月) 23:34:09 0
>>127 ヨーロッパの近代哲学のほぼすべてが、科学の示し始めた世界の真の姿を
どのように受容するかの苦闘の歴史だし、ロックがそういってるのかどうか
知らないが、「論理学しか残っていない」なんて、現代の話としては聞いた
ことがないな。20世紀の前半の一時期、そんなことをいってた奴らがいた
ような話はあるが。
129 :
考える名無しさん :2011/01/03(月) 23:40:23 0
>>128 現代の科学哲学に奉じてるヤツはほとんどみんなそう言ってると思うけど。
もっともオイラはロック云々言った人とは違うので、混乱しないように。
130 :
考える名無しさん :2011/01/03(月) 23:40:47 0
その失われた哲学の復権には 20世紀中盤あたりの仏教・東洋哲学等カウンターカルチャーが かなり貢献したんじゃないかな
131 :
考える名無しさん :2011/01/03(月) 23:45:28 0
>>129 科学哲学者も含めて、誰もそんなこと言ってないと思うけど?
ひょっとして論理学をまったく知らない人?
132 :
考える名無しさん :2011/01/03(月) 23:47:50 0
>>130 明示的には、ほとんどないと思う。パーフィットなんかは、
自分が言ってることは仏教の思想に近いかもしれないが、
仏教の思想よく知らんのでそうかどうか分からん、とか言ってるがw
133 :
考える名無しさん :2011/01/03(月) 23:54:33 0
>>131 とりあえず小野修著・「政治における理性と情念」に書いてた。
>>132 そうかな?鈴木大拙ってカウンターカルチャーのムーブメントに乗ったんじゃないの?
あとシュレディンガーはインド哲学に共鳴してると明言してるが
それもカウンターカルチャーの影響だと思う。
134 :
考える名無しさん :2011/01/03(月) 23:55:22 0
>>131 そうか、ライヘンバッハは有名だし、三浦俊彦、大庭健なども言ってるよ。
しかも中立的というか、ドイツよりというかの渡辺二郎、ローティも、
科学哲学派がドイツ・フランス哲学を認めてないことは、きっちり認めていて結構苦々しい皮肉を書いてるぐらいじゃないか。
君は苦諦も知らなかった人じゃないのか?
哲学もかなり怪しい知識しかないんじゃないか?
135 :
考える名無しさん :2011/01/03(月) 23:57:40 0
>>132 パーフィットはいいね。仏教から見てかなり共感できる。
同じようなことを三浦俊彦が書いてたけど、全く共感できない。
この差は、本質的方向の違いだと思った。
仏教は哲学と違って宗教だからな。 哲学と似ているが、釈迦の言ったことを信じる宗教に過ぎない。 修行体系で苦の解決法を提示なんて言ってるけど中身は大したことなくて、 酒飲んで笑ってよく寝た方がよっぽど良い。 禅など健康法っぽいみたいだけどストレッチやリラックス法で同等の効果がある。 宗教ということで過剰な宣伝のために過大評価を受けているが、仏教信じてるやつは仏教依存症で 中毒のようになって仏教に頼ってる。
137 :
考える名無しさん :2011/01/04(火) 00:00:57 0
>>136 まあ、そう思いたいならどうぞ。
しかし、それが事実だと主張するなら根拠を示さなければ、ただの酔っぱらいの戯言だね。
140 :
考える名無しさん :2011/01/04(火) 00:08:09 0
最終目的は 自分たちのパトロン様をできるだけ多くの人間に ひれ伏せさせることでしょ
141 :
考える名無しさん :2011/01/04(火) 00:08:40 0
>>134 私は論理学や現代の哲学については一応の知識があるはずだけどねえ。
君はひょっとして、「論理分析しか残っていない」と言おうとして、
「論理学しか残っていない」と書いたのかな? だとすると、あまりに
雑な言葉使いだよ。それと、硬直した図式を作り出し、信じ込んで、
分かったつもりになる悪い癖もあるようだ。西洋哲学について偉そうに
語るのはやめたほうがいいんじゃないかなw
142 :
考える名無しさん :2011/01/04(火) 00:09:53 0
宗教の人はみんなそう言うんだよ。 同級生にキリスト教青年なんとか部とか言うのに入ってる人がいるけど、 教会に行ったら悩みが全て消えて本当に楽になったとニコニコして言ってるよ。 どこの宗教の信者も苦が消えて無くなると感じるから、その宗教にハマるんだ。 それでいいと思うよ。俺は何か怖いから近寄らないけど。
>>136 元々仏教は宗教ではないからな。仏道みたいな感じで、苦を滅する方法の内の一つであり道具だ。
だから何も信じる必要はない。信じるという方法を使ったのは後から出てきた大乗仏教だ。
それはその方が大衆を引き付けてより多くの人を救えると思ったからだろう。実際それでも
ある程度はうまく行く(プラシーボ効果でな)。またそれでも悟る場合がある。何か大きなものを
信じて委ねて我を捨てることになるからな。
145 :
考える名無しさん :2011/01/04(火) 00:15:15 0
>>141 だから、ロックとか「論理学しか残っていない」と書いた人は別人だって。
それより、ライヘンバッハ他がドイツ・フランス哲学を認めないことや、
仏教が苦諦という世界は苦しかないということを第一基盤とすること、
デカルトが苦の解決策を提示できてないことを認めるなら、
君の主張、論理はもはや潰えてボロボロだって、なんで分からないかな?
146 :
考える名無しさん :2011/01/04(火) 00:16:29 0
どこに「論破」があるんだよ? ギャグか?w
147 :
考える名無しさん :2011/01/04(火) 00:17:06 0
>>144 違う違う。仏教は信が基盤ですよ。
釈尊が信仰を捨てよと言ったのは、古い信仰を捨てよという意味。
148 :
考える名無しさん :2011/01/04(火) 00:17:13 0
>>141 論理学と書いたのは横入りの俺だが、
論理実証主義も論理分析も、広義に論理学でいいじゃないか。
それが雑で文脈が理解できなくなるというなら厳密な言葉使いを心がけるが。
149 :
考える名無しさん :2011/01/04(火) 00:18:57 0
>>146 いや、君とは話にならんは。
だから、論証はテキストベースでやんないとどうしようもないわけだ。
しかも、哲板は ID がでないから、困るは。
>>147 でも釈迦の言う通りに瞑想などをやってみて自分で効果を確認するまで信じる必要は特にない。
まあしかし、実際に効果が出てしまったら、なおのこと信じる必要がなくなるかな。w
152 :
考える名無しさん :2011/01/04(火) 00:41:50 0
論証は必要だが、ただの揶揄には反応するな
で、仏教哲学の最終目的とは結局のところ?
157 :
考える名無しさん :2011/01/04(火) 01:50:48 0
日本の宗教の目的とは 定期的に国家の破綻を誘導し それに伴って 増えすぎた人口を人工的に減らすことである
158 :
考える名無しさん :2011/01/04(火) 02:48:43 0
159 :
考える名無しさん :2011/01/04(火) 11:17:52 0
>>144 実際のところ、仏教哲学を語る奴のほぼすべてが、自分が語っているその内容を
知っているのではなく、単に信じているだけなのに、自分が信じているだけだと
言うことを認めようとしないところだと思う。彼らは、想像上の仏陀を作り出し、
その脳内仏陀に世界がどう見えるか想像して、それを語っているだけなのに、
そんな空想を何か高級なものだと勘違いし、人を見下したつもりになっているようだ。
今の世の中でもまだまだ、名誉・金銭・欲望の点からいって、 仏教を否定するより、仏教を肯定してたほうが得だぞ。 みんなそこを意識的・無意識的にわかってるから 仏教哲学防衛隊としてがんばってるんだぞー。
161 :
考える名無しさん :2011/01/04(火) 12:50:32 0
仏教はあくまで宗教だから、最終的な目的が悟りを開き仏陀になる事にある。 だからってそこまで学び実践する必要なんて無いだろ、途中段階の考え方が面白いから学べばいいだけ。 なんか信じられる物を探しているかのような書き込みが目立つけど、そういう人は宗教思想や哲学に足突っ込まない方が吉だぞ。
162 :
考える名無しさん :2011/01/04(火) 12:53:39 0
哲学や思想ってのは自分でやるもんだよ。 過去の人間の考え方に気に入らない部分がなかったらそれこそヤバい。 だから仏教思想も自分が考える足しになる部分を探せばいいだけ。
163 :
考える名無しさん :2011/01/04(火) 12:58:07 0
>>162 こういう考えからは、妄想か単なる常識の哲学的表明しか出てこないんだな
164 :
考える名無しさん :2011/01/04(火) 13:15:48 0
>>163 確かに妄想するの好きだけど、妄想こそが哲学の源だと思ってるよ。
逆にあなたみたいな人こそ政治哲学だけやっとけばいいんじゃないかな。
>>163 おまえは何を求めて哲学勉強してんの?
最終的に何が生み出せればいいわけ?
166 :
考える名無しさん :2011/01/04(火) 13:43:51 0
「哲学」と同じ名で呼んでいても、人によって 言語で表現される公共的な思想の構築を目指す場合と、 個人の内的な確信のようなものを目指す場合があるようだね。 君たちはどっちに属しているのかな?w
167 :
考える名無しさん :2011/01/04(火) 13:45:58 0
お花畑というのはオカルト的な考えに毒されている奴であって オカルト的な空想をするだけなら何も問題ない。 そんな事言い出したら中世ぐらいまでの西洋哲学も全部お花畑だよ。
168 :
考える名無しさん :2011/01/04(火) 13:50:26 0
169 :
考える名無しさん :2011/01/04(火) 15:06:30 0
>>166 俺は確実に後者で、哲学はその為の手段としか考えていない。
その思想を持って社会を変えてやろうなんて微塵も思わない。
もちろんある程度自由で平和な社会が望ましいから、他人ごとだとは思わずに政治や経済は勉強してるし
税金も払ってるし投票もしてるけど、あまり積極的に社会に関わろうとは思わないかな。
哲学の心理学的な側面と社会学的側面。 人間とはどういうものかという興味と、社会正義とはどういうものかという興味。
171 :
考える名無しさん :2011/01/04(火) 17:16:13 0
>>166 「公共的」という言葉に誤解があるようだ。
数学の証明は、証明者の主観とは離れて記号の列としてそこにある。
哲学・思想の場合も同様で、主観と離れて言葉の形で存在する。
言い換えれば、哲学・思想の媒体は個人の心ではなく、
言葉の列=文章だ。それを「公共的」と言ったのであって、
社会に与える影響云々は関係ない。
172 :
考える名無しさん :2011/01/04(火) 17:35:39 0
あ
>>159 ま、そういう場合もある。どの宗教でもその宗教での教えを沢山覚えたり沢山修行したりすると
自分は他の人と違って偉くなったと錯覚する者が出るものだ。しかし、本当に悟ったらそのような
どう考えても苦の元にしかならないような差別的思考が残っているのはおかしい。
>>162 そう。自分が哲学の発生源にならないとあまり意味がない。一人一宇宙なので一人一哲学で良い。
悟れば自動的にそうなる。
176 :
考える名無しさん :2011/01/04(火) 18:01:33 0
問題は、現状が「そういう場合もある」ではなく 「そういう場合しかない」かもしれないことではないかい? 現代の日本の仏教会に「本当に悟った」人がいるのかい?
>>176 そんなものに期待するな。人のことは放っておけ。自分が仏陀になれ。
ダンマパダ 50 他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ。
179 :
黒蝿教授 :2011/01/04(火) 18:21:48 0
黒蝿先生の講義を聞いてると、軽蔑されたり、指さされる学生を目当てに、 哲学の説話や学説の本質で学生を打ち据え、罪科に沿った学説で身を削る思い をさせて、何本も責めを考えては、それを考え抜き身を削る。この先、進む 教えをせず、危機のみ学生に打ち払わせ綱渡りをさせる。先生の器は実に 大きく魅せ付けており、壮大な学説の中に放り込み世の中で熱狂して苦しむ 話に巻き込む、まるで鼎の中の湯で煮殺すが如し。
180 :
考える名無しさん :2011/01/04(火) 18:28:01 0
>>177 言われるまでもなく、仏教にも仏教哲学にも何も期待していない。
それゆえ、人がなり得る状態としての「仏陀」などというものがあるか
どうか知らないので、なれと言われても「なにそれ?」状態w
181 :
考える名無しさん :2011/01/04(火) 19:04:40 0
>>177 あなたの言ってることは大正解だと思う。
それこそ、まさに仏教の哲学。
「悉有仏性」といって、生きる者すべてが尊い仏性を持っていること
つまり、悟りというのは特別なことでも、金ピカの大仏になることでもない。
ありのままの自分が即、神様であるという事に気付くこと。
それに気付くことが悟りであり、女は女のまま、蛇は蛇のまま、自分の中にある仏性に目覚めるのです。
それがイマイチ理解できないならば、法華経の龍女成仏の物語を読むといい。
成仏できないと言われた身分である龍女が持っていた宝の珠。
それは仏性の結晶であり、すべての生き物が平等に持っている宝。
龍女がその珠をお釈迦様に差し上げると、お釈迦様は「これは紛れもなく本物ですね」
と、その珠を受け取った。
そして、龍女はたちまち荘厳な仏の姿に現じて法を説かれたのです。
悟りというのは長い長い難行苦行を行ってようやく得られるものだと思っていた仏弟子たちは、
龍女のその姿を見て、なにも言わず黙ってそれを信じた。という話です。
182 :
考える名無しさん :2011/01/04(火) 19:10:44 0
封建制を維持したいために導入された 大衆洗脳兵器なんだろ こんな時代になってもいまだに日本人にもたげてる なくなれば 何千年間も日本人にのしかかっていた 重石がなくなり 晴れ晴れとした気持ちになるだろうな
183 :
考える名無しさん :2011/01/04(火) 19:21:54 O
常往でも断滅でもない輪廻。 常往でも断滅でもない涅槃。
184 :
考える名無しさん :2011/01/04(火) 19:47:24 0
もう 屁理屈だらけの小難しい宗教はたくさん 他宗教に改宗しよう
185 :
考える名無しさん :2011/01/04(火) 23:23:05 0
>>181 仏性って一口で言うとどういうものでしょうか?
曇りのない鏡のような心?
186 :
452 :2011/01/04(火) 23:23:22 0
187 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 00:08:08 0
>>184 それだったら無理して宗教に入らなくていいんじゃないですか?
189 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 00:10:12 0
190 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 00:11:34 0
>>184 仏教のことは全部忘れて良いから止観の瞑想だけやっとけ。
あとはどうでも良い。
191 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 00:15:02 0
このバカガ入る宗教の 霊感商法を見破るところに 日本再生の方法があるだろうな
192 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 00:31:31 0
>>187 こいつなりにこいつなりの愛国活動してるんだからマジレスしてやるなよw
193 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 00:39:03 0
なんか苦痛から逃れる為だとか書いてるけど 俺が仏教思想に興味を持った切っ掛けは理想の生き方を模索してたからじゃないんだよね 考え方が哲学的に面白いから興味持っただけで仏陀になりたいなんて思ってない
194 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 00:59:32 0
苦痛は気付きに至るまでのほんのきっかけでしかないよな。
>>180 止観のみやってみろ。その内なんだか分かる。
更に悟った場合は経典に書いてある真の意味が分かるようになる。
196 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 01:06:49 0
真の意味を教えてください
197 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 01:10:23 0
諸行無常
>>185 思考の中に「自分」のないクリアな状態。+αかな。
これに近い状態は小さい子供だ。だから誰もが体験している。
仏性が出ない状態はその部分が埋もれている状態だ。
誰もが最初から仏陀だ。ただ惑わされて自分がそのような素晴らしい存在であることを忘れてしまっているだけだ。
「みにくいアヒルの子」みたいなものだ。
本当は何一つ変える必要のある部分はない。しかし惑わされてこのままではいけないと思い込み、必死に変えようと
するからおかしくなっている。健康なのに病気であると思い違いして薬を飲んで体調を崩すみたいな状態になっている。
200 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 01:15:46 0
そんなの当たりまえじゃないの 何も仏教の専売特許ではない それが仏教の真理 かい 期待はずれだったな〜
202 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 01:26:52 0
原始仏教だと真理なんて考える必要もないって感じだと思うけど。
毒矢の喩えってそういう事なんじゃないのかな?
だから俺もこの点で
>>200 と同じように期待はずれと言うか「まあ宗教だから仕方ないよね」とは思った。
でもプロセスは結構面白いから、期待はずれだと思ってしまうのは個人的に勿体ないと思う。
特に「真理」について考えてしまうような人だからこそ学ぶ事をおすすめしたい。
203 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 01:29:47 0
子供心をなくしたくないけど 大人の社会は うそや 詐欺 霊感商法で稼ごうとする 宗教を名乗ったたぐいが 腐るほどいるからな 子供をだまそうとしてるやつが 子供心はよいものだという まるで日本そのものだな
真理など意識する必要はない。 苦が滅せれば良いだけ。 真理は滅した後にゆっくり調べれば良い。 調べたいという欲は失われるがな。w
>>203 > うそや 詐欺 霊感商法で稼ごうとする
日頃あなたがそれをしているから他の人もしているように見えてしまうだけだ。
206 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 01:36:33 0
やってるのに自意識がないのはたちが悪いだろうな
>>206 そう。だから釈迦はこう言ったのだ。
ダンマパダ
50 他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ。
人間というのは自分が足を踏まれるとすぐに大騒ぎするくせに、自分が足を踏んでいることには中々気付かないものだ。
209 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 01:42:00 0
>>203 他の人に何てレスされるかはわからないけど、俺は言いたい事が何となくわかるぞ。
確かに君の言う通り社会には嘘が蔓延っている、だからダマされない為には懐疑的になる必要はあると思うよ。
でも今の君は騙されないように事前に全てをシャットアウトしてるだけだ。
今の君は自分までも信じる事が出来てないだけだと思う。
自分に自信があるのなら、どんなものにでも触れる事を恐れないし、人は人で自分は自分だと思える筈だ。
だから好きで信仰している人の事も受け入れる事が出来ると思うよ。
210 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 01:43:11 0
だから当たり前のこともういいって 宗教が 霊感商法として利用されるのは その宗教自身にも原因がないのですか それは 足を踏んでいることにならないの・・・・ 日本中 そんな話はいくらでもあるよ
211 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 01:43:59 0
>>204 自分とは考え方が違うけど、それはそれで良いと思います。
212 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 01:48:43 0
シャットアウトするだけならまだしも、 バカにしたり攻撃しはじめたら自分がその悪い大人の側につく事になりかねない。 人間の攻撃性を利用して煽る商売もあるからね。
213 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 01:50:44 0
哲学的な話をすると屁理屈だと石を投げつけ レベルを落として話をすると当たり前だくだらないと石を投げつけるような奴は このスレには必要ない
214 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 01:52:10 0
>>210 もし宗教がこの世になかったとしても、何らかの方法で人を騙す人間は絶対にいると思うよ
そういうのは何かが切っ掛けで起こる事じゃなくて人間の内面の問題じゃないかな?
215 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 02:05:40 0
自動車がある 交通事故がある すべて運転の責任・・・・ 自動車文明そのものを一度考えるのも大切なこと
216 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 02:10:23 0
>>215 もちろんそうだね。
だけど考えるなら良い面も考えてやろうよ。
自動車を含め文明が発達した事による恩恵をうけてるのは事実でしょ?
ネット掲示板が原因の犯罪だってあるけど、現に君はPCをネットに接続し掲示板に書き込んでいるわけだから。
これをメリットが大きいかデメリットが大きいかと結論づけるのはトロッコ問題並に難しいよ。
217 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 02:13:44 0
用は 日本人が イメージというものに弱く さまざまな手法で消費社会をあおり 破綻させ 結果 経済ががたがたになった 今 その弱さは どこから来たのかを考えたら 日本の 文化に注目するということだ
218 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 02:27:33 0
>>217 経済が大きく繁栄していた時代にも仏教はあったんだが
がたがたになってきたら何らかの敵を見つけて攻撃するっていうのは
おめーの心の弱さをあらわしてんだよ。とっとと寝ろ
219 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 02:33:22 0
そんな ありきたりの意見は どうでもいいから そろそろ そこらへんを分析しないと駄目だと 思うよ 別に原因は 何でもいいけど 宗教も原因のひとつじゃないかな
220 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 02:36:54 0
>>217 要は日本人の精神性や価値観こそが日本人の幸福を奪ったと言いたいんだね。
その点については全ての元凶だとは思わないけど、要因として無いとは言い切れないから否定も肯定もしないよ。
それに個人的には特に社会に対して不満も持っていないし、人それぞれだと思うな。
そして歴史はリセットできないから、これからどうすれば良いかが重要なんじゃないかな?
こういう事が原因でこうなったと文句を言ってても何も変わらないぞ。
原因を探る事が悪いとは言わないけど、君は社会を変えたいと思ってるようだから、もっと生産性のある方法があるんじゃないかな〜。
さらに言わせてもらえば、哲学板じゃなくて政治板か経済板に行った方がいいよ。
追い出したいわけじゃなくて、そっちの方が良いと思うから参考までに。
俺もあまりスレ違いな事書いてると他の人の迷惑になるから、この辺で終わらせてもらうけど悪く思わないでくれ。
221 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 11:12:19 0
g
222 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 11:38:04 0
>>217 そんなの資本主義欲望扇情型市場経済を作った西洋人と、
それに洗脳されちゃった現代人のせいにきまってるでしょ。
消費は最小限にして小欲知足を目指すのが心の静まりに繋がると仏教は説くよ
それは分かりきったことだけど、経済人を中心に発展してかないとやってられないと思い込んでる、その妄想を叩き壊さないとどうしようもない。
223 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 11:43:19 0
>>222 君は洗脳されてないの? 妄想も抱いていないの?
224 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 11:49:22 0
>>223 妄想がないのは完全な覚者だけでしょ。
発展とか開発が幸せに繋がるという大きな妄想を打ち壊さないと未来がないことは確か。
しかも、現在の発展・開発は欲望を基盤にしているから、破滅するまで加速し続ける怪物だ。
225 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 11:55:55 0
君は、自分もまた洗脳され、妄想を抱いいていることは認めるけれど、 しかし、自分が信じていることは「確か」だと主張するわけか? その信念が妄想でないことは、どうして分かるんだ?
226 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 11:58:34 0
俺は最小不幸最小幸福の社会、そして個人単位では観想的生活が幸せだという考え方では無いな だから仏教の考えは取り入れるけど、苦は滅する事を考えずに受け入れるし幸福は自分で考えて掴みとります。
朝日神は否定的暗示によって民が飢え絶えることを望んでおられるぞ〜
228 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 12:34:55 0
西洋文化を取り入れたから問題が起こったというのは 完全に間違っている 問題は理想論ばかりで何も進まないことだ そしてそれを遅らしているのは過去へのエレジーだ
229 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 12:50:50 0
230 :
225 :2011/01/05(水) 12:53:22 0
231 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 12:59:00 0
>>228 よろしい、君の意見は十分に理解した。
じゃあこれからスレを移動して先に進めていく方法を一緒に考えようじゃないか。
気に入ったスレが見つかったらURL教えてくれ。
232 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 13:07:02 0
現在があるのは過去の出来事全てに原因があると思います あのタイミングで開国し西洋文化を取り入れたのも、元々ある神道の土台に仏教や儒教を取り入れた倫理観も全てです でも現状が失敗だと思うか成功だと思うかは人それぞれの価値観の問題じゃないでしょうか 原因を探るよりも、まずは目標の最大公約数を見極めコンセンサスをとる作業が必要です そういう前提の元で何が悪いと議論する事は政治的に必要だと思いますが、このスレはそういう場所じゃありません
233 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 13:09:50 0
仏教の主な目的は 個人の幸福だろう それが浸透してる日本で 世情を読み解くとき その目的の細部を知るのは必要であろう
234 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 13:19:34 0
>>233 このスレで最終目的の細部を議論しながら知っていこうというのなら大歓迎ですが
あなたは自分の価値観を他人に認めさせたいだけに見えてしまいます
認めれば満足するのかもしれませんが、あなたの書き込みに説得力が無いので認める事が出来ません
235 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 13:39:06 0
宗教の本質論とは違うものだったのかもしれないけれど 宗教がらみの詐欺に近い行為で 何百万もとられると 疑いたくもなるし 警戒もする またその目的が知りたい
236 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 13:44:06 0
俺は別に必要な事を議論したいわけじゃなくて、仏教哲学について知りたいという単純な気持ちでこのスレを開いたんだけどな・・・ 学問って必ずしも必要で無くても良いと思うんだけど。 だから一人で必死に仏教を叩いてる彼もそうだし、宗教的な観点で語ってる信心深い人の押し付けもスレ違いだと思うんだよね。 ここは仏教哲学というものを俯瞰で見てるような人があれこれ語る所じゃないの?学問板だよここ。
仏教の話してたらカレーたべたくなってきた。
239 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 13:59:15 0
>>237 じゃあ魂の存在に否定的な筈の釈迦が、本当に輪廻について説いたのかどうか話します?
個人的には宗教というものに変化する過程で信仰する理由や目的が必要だから、後から他人が勝手に付け加えたんじゃないかと思ってる。
釈迦はただただ哲学をしていただけで、宗教を起こす事が目的だったとも思えないので。
まだ勉強の途中だからトンチンカンだったり、レベルが低かったらすみません。
ひろゆきって、いろんなものに執着がなさそうだな。 金も、あっても無くても良いような感じだし。 義務感も、使命感も無く、向上心も野望も無い。 劣等感は感じず、常に満たされている感じ。 だからと言って、厭世観に囚われることも無く 虚無の闇に落ちてもいない。 彼は悟っているのか!?
241 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 14:35:08 0
>>239 お釈迦さんは、普通の意味での哲学をしてたんじゃないと思いますよ。
「知る」という言葉でいいのかどうか疑問ですが、
とりあえずこの語を使えば、何かを知り、他の人もそれを知ることがで
きるところまで導こうとしたんじゃないですか?
輪廻については、死後の世界のような人が知らないことに関して、
何かを信じるのは止めなさい、そういう信念は人を真理に導かない、
って言ってたような気がしますね。
242 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 18:27:42 O
>>241 ただ死ねば死にきりだと一切皆苦という問題の解決は死ぬことでも得られるってことにならないだろうか。
243 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 18:35:04 0
>>242 現代人の解釈だと、論理的にはそうなると思いますね。
一方、仏教が輪廻を前提にしているということになると、
仏教は過去の誤った死生観に基づいていることになり、
現代人にとっては意義はない、という見方もでてくるでしょう。
一切皆苦の問題とは何で、その解決とは何のことなのか、
再検討が必要ではないでしょうか。
244 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 19:25:10 0
>>239 釈迦は輪廻は説いてないですよ
仏教の拡大分派の途上で、後世の人達が
色んな他の思想や宗教の世界観を取り込んだだけだから
非科学的な部分は適当に受け流しとけばいいんじゃないですか。
245 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 19:32:23 0
どうして「説いていない」と断言できるんですか? ひょっとして、お釈迦様の生まれ変わりを自称する人?
246 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 19:42:50 0
>>245 「断言口調が気に入らない」のか
「なぜそう思うのか」が聞きたいのか
適当に茶々入れたいだけなのかどれですか?
お釈迦様の生まれ変わりを自称する人って誰ですか?
248 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 19:55:33 0
>>247 いきなりお釈迦様の生まれ変わりとか言い出して絡んでくる奴に
マジメに答えたくない
っていうのが返答なんだよって言わせるなよクソ野郎
お釈迦様の生まれ変わりを自称する人って何のことですか?
確かなこととして一つ言えるのは、 「『現存資料(の文言)』に於いては、伝聞としても本人談としても説かれている」 ということ。 あとは、読み解き方、解釈、及び追体験の問題でしかない。 そして、最終的には、伝承(及び伝承者)を信じるか信じないか、に帰着することになる。
251 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 20:11:03 0
>>250 現存資料も何も、釈迦本人が何も書き残してないんだから、
その通り、「読み解き方、解釈、追体験の問題」でしかないよね。
その現存資料にも「釈迦はこう言った」って断言してるんだから
現存資料に一生ツッコミ入れとけよ
252 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 20:21:20 0
245 :考える名無しさん:2011/01/05(水) 19:32:23 0 どうして「説いていない」と断言できるんですか? ひょっとして、お釈迦様の生まれ変わりを自称する人? ↑ 結局、「お釈迦様の生まれ変わりを自称する人」が何のことなのか 明らかにせずに消えちゃいましたね。 ものすごいお知り合いをお持ちのようなので教えて欲しかったのにwww
253 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 20:29:59 O
人生一回限りだとしてもその苦しみを減らすメソッドとして仏教の瞑想は極めて有効だと思います。
254 :
245 :2011/01/05(水) 20:39:36 0
ちょっと出先から書いたもので、返事が遅くて失礼しました。 あなたがお釈迦様本人でないなら、残された資料から推定する 以外の方法はないわけで、この場合さまざまな解釈を経た上での 推定でしかないはずです。それなのに、なぜ「説いていないですよ」 と断言できるのか分からん、ってことを言いたかったわけです。
255 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 20:40:31 0
>>253 人生一回限りでしょうか?
というか「そもそも人生など無」ではないでしょうか。
「だからそれに付随するもろもろの現象を気に病む必要は無い」という意味で
苦は消滅しますが、苦が消えようが増えようがそんなことは
大した問題ではないのだと思います。
私は文献を無視して仏教哲学を悟りました。キリッ
>>252 細かいことだが、
現存資料では説かれているのだから、それを否定するということは、
・現在知られている資料以外の情報を知っている
・当該事案について発言した本人(ブッダ)である
かのどちらかであり、前者は確率的に物凄〜く低いので、自然、後者しかなく、
>どうして「説いていない」と断言できるんですか?
>ひょっとして、お釈迦様の生まれ変わりを自称する人?
の文意は、単純素朴に
《「実は説いていなかったんだよw」という本人談ですか?》
というもの(皮肉)でしょう?
別に245をおかしなレスとは思わないが・・。
258 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 20:45:41 0
>>254 断言口調で書いたのを、本当に断言であるととらえたなら、
あなたの国語力が足りないのではないでしょうか?
言葉の綾というもので、私の国語力が高すぎたのなら申し訳御座いませんでした。
断言ではなく推定です。
釈迦は科学的な視点をもったリアリストであるという釈迦観を抱いているので
そういう推論に至りました。
目を閉じると仏陀が見えます、法が見えます。 最近は目を開いていても見えるんです!キリッ
260 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 20:50:37 0
>>257 現存内部資料も、諸伝統も、現存外部資料も一致して輪廻は説いてるよね。
和辻が縁起・無我を理解できなくて無我と輪廻が矛盾すると言い出したり、
現代思想に付会したい一部の学者が、スッタニパータでは否定されたとか、
無理な読みというか、ただの誤読してるだけだし。
261 :
245 :2011/01/05(水) 20:51:08 0
輪廻を前提にして考えても、どうも妙なんですよね。 仏陀が説いたのは、普通の自殺では生まれ変わってしまうからダメ、 そうならず完全に消滅するためにはこうしないさい、という いわば「完全自殺」マニュアルなんですか? そうだと言われれば、それまでなんですが・・・。
262 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 20:52:30 0
263 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 20:53:23 0
>>258 >釈迦は科学的な視点をもったリアリストであるという釈迦観を抱いているので
釈尊は縁起という科学に接近する見解を持っていることは経験主義者と言ってもいいかもしれないが、
決して素朴実在論に立ってないので、いわゆるリアリストという立場ではないよ。
リアリストの意味が素朴実在論でないなら、その限りではないけど
264 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 20:55:48 0
>>261 そういってもいいかもしれない
単純に自殺しても輪廻から逃れないので、
生まれ変わらない方法が八正道、その結果がネハン
ただし、これは小乗に限定されるけど。
265 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 21:00:50 0
>>263 現実主義者、非夢想家というほどの意味
それは苦行の末に中道という思想に至ったことからも伺える
266 :
245 :2011/01/05(水) 21:00:53 0
うーん、どうも納得できませんね。ビルマやスリランカの人たちは、 完全自殺願望を持っていて、その願望を成就し消滅した英雄として 釈迦を崇拝しているわけですか?
267 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 21:23:02 0
>>266 もちろん一般的な意味での自殺は基本的に仏教でも否定されてますよ。
輪廻するので解決になりませんから。
しかし、現代日本人で自殺する人は、苦しみから逃れたいという意味で自殺する人がほとんどだと思います。この苦しみは精神的苦痛がほとんどだと思います。
仏教も似ていますよ。四諦がありますよね。始めが苦諦です。
これはあらゆる経験は苦であるという意味です。
楽を感じても、それは本来、苦であるというのが仏教の認識です。
集諦は、その苦の原因が何かということで、簡単に言えば無明です。
無明とは自我や諸現象が実在するという認識のことです。
滅諦は、無明が消えて苦がなくなった状態、輪廻から解脱して心が静まった境地です。
道諦は、その境地へ至るための道、方法です。
つまり、生は苦であると認識し、その原因を確かめ、その原因がなくなった境地こそが静まった楽だと認め、その境地を目指して道を歩む。
どうです。完全に自我を消すこと、生を消滅させることを狙っていると思いませんか?
この点、ジャイナはもっと端的でたしか断食による自殺も推奨されたはずです。
>>240 俺もそう思う。
↓を読んでから、特にそう思ったね。
現代に置いても、ああいう、静寂な生き方が出来る人が居るんだなーと、感心したよ。
僕が2ちゃんねるを捨てた理由 (扶桑社新書 54) [新書]
ひろゆき (著)
269 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 21:29:02 O
テーラワーダ系の方が書かれた悟りの階梯って本を読みましたけど涅槃イコール完全消滅といったイメージでした。
「ひろゆきは現代の仏陀である」説
271 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 21:35:33 0
>>269 テーラワーダ/小乗の目的は完全消滅・寂滅で間違いないでしょう。
272 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 21:46:05 0
現代人の多くは、身体が死に脳が機能を停止したら心も消滅すると信じてますよね。 だったらまあ、そんな面倒くさいことせずに自殺すればそれでいいことになる。 心自体が消滅すれば、誤った認識も消滅するし、静まりもするでしょう?
>>241 ただの推測をやたらと自信たっぷりにいう人だ
274 :
268 :2011/01/05(水) 21:55:27 0
>>270 仏陀は言いすぎだけど、かなりいい線言ってるんじゃないかと思う。
そこいらへんの俗物坊さんより、よっぽど「仏教」っぽいと思ったね。
本人に全然その自覚も無いだろうし、べつに仏教を目指している訳でもないだろうけど。
理性的に突き詰めて行ったら、仏教っぽくなったと言ったところじゃないかな。
めんどくさくなるから、財産は持たない! とか書いているのを見て、それを強く感じたね。
275 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 22:23:35 0
>>272 仏教では自殺しても輪廻すると説きます。
信じないのは勝手ですが、現代人の常識を持ち込んだら学問ではないでしょ。
276 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 22:35:33 0
>>275 「自殺しても輪廻する」と信じている人以外には、
自殺のほうが手っ取り早いので、仏教はあまり意味がない
ということですか?
それと、自殺後どうなるかなんて確かめようもないので、
せいぜい信じるしかないですよね。
仏教がそういうものなら、それはそれでいいですが。
仏教の坊さんの知り合いにあうと、仏教に対して冷める。法事の時に来る坊さんも。所詮商売か。思想はいいのに。
>>276 自殺後の事が確かめようもないのに、死後の世界は「無い」と信じ切れるなら、それでもいいんじゃない。
普通は、確かめられないなら、有るか無いかは保留にして、確かなこと(=いま生きている事)を元に、
いま生きている自分の人生が、いかに苦しみの少ないものにするかと言う発想になると思うんだが。
少なくとも、「死後の世界がある」とか、「ない」とか断じるのは、(釈迦の)仏教じゃない。
280 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 22:52:11 0
>>277 現代日本は酷すぎるけど、どこの国でもよい方は少しだけですよ。
>>278 >少なくとも、「死後の世界がある」とか、「ない」とか断じるのは、(釈迦の)仏教じゃない。
いやいや、現存資料及び、諸伝承から輪廻を否定するものは断見と言われる最低の見解であると釈尊を始め諸仏教者は言ってきました。
学問的にはこれしかありえない。
その他、和辻とか並川みたいな学者は、異常で恣意的な解釈を持ち込んでいるだけのことですよ。
281 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 23:14:08 0
自殺っていうのはまあ極端として、死んだら多分心も消滅する のだろうと思っている人は、言い換えれば、死ねばみな仏様って 思ってるってことか。もしかして、それが現代日本風仏教?
283 :
278 :2011/01/05(水) 23:50:30 0
284 :
考える名無しさん :2011/01/05(水) 23:58:16 0
>>282 もし、来世があることや輪廻することを常見と思っているなら誤解です。
常見とは、恒常なアートマンのような実体・実在を想定することです。
だから、そのようなものが輪廻すると言ったサーティは、釈尊に邪見と言われ叱咤されたのです。
これは『サーティ経』に明かです。
一方、釈尊は、死後の魂のようなものさえ言ってますよ。
原語はヴィンニャーナで、識と一般に訳されますが。
これは中村元訳『悪魔との対話』岩波文庫52頁と324頁註19で簡単に確認できますから、はっきりするでしょう。
>>281 周りのコメントが俺には意味不明で場違いかもしれんが、人が存在するために必ず必要なこの世と同じような存在になったように見える分、神になったと言えなくないかもな
286 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 00:16:15 0
>>283 >有ると考えるのが断見なら、無いと考えるのは常見といって
輪廻や来世などが無いと考えるのが断見
恒常なアートマンや神などの実体・本質が有ると考えるのが常見ね。
六十二見というのはパーリ『梵網経』で説かれるもので、
パーリ『梵網経』は、三段階になっていて、第一が凡夫、第二が聖者、第三が仏教の境地。
凡夫は、見えるものしか信じないと釈尊は軽蔑口調で説きます。
これが断見です。現代人の常識です。
聖者は、三昧と推論により六十二の類型に集約される見解に留まるので、解脱できないと説かれます。
この見解のほとんどが常見です。
この三昧の中で、聖者は過去世を直接知覚すると説かれ、釈尊も体験したと説かれます。
釈尊は、この境地を縁起観によって無我と悟り第三の境地、つまり、解脱に達したとします。
断見でも常見でもないというのはこの意味であって、
輪廻があるともないともしないわけではありません。
ただし、現在の自分や現象が実在しないという意味では、輪廻も実在しません。これは勝義です。
現在の自分や諸物を有るという日常的な言語習慣、つまり世俗のなかでは、輪廻も有ると説かれます。
287 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 08:50:18 0
>>284 >>286 それほど明確なら、なぜ「仏陀は輪廻を説かなかった」とか
「仏陀は輪廻に関して肯定も否定もしなかった」と言いたがる人が
後を絶たないのですか?
288 :
計算機 ◆0dHzUh337A :2011/01/06(木) 08:56:46 0
>>287 普通に考えて明確なわけないだろwwwそうだったら科学で証明されてるよwwwww
釣りだったか?
289 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 09:11:45 0
>>287 19世紀以来、科学が現象を明解に説明してきました。
科学は最近まで還元主義で、なんらかの構成要素が実在すると考えていました。
ですから、実在論に立っていたわけです。
この科学的実在論と常識の素朴実在論は、完全に一致しませんが共通するものがあります。
そこで世の素朴実在論者は、自分の常識に合わないことは非科学的として排除してきました。
ちなみに本物の科学者は、科学はただの仮説であることをよく知っているはずです。
その素朴実在論に立つ文献学者がいくらか仏教学者にもいるというだけのことです。
彼らは文献に記述される内容を無理に解釈してでも常識に摺り合わせようとしてきました。そういう人は例えば
>>244 のような論理を用います。
その動機には自分達の世界観が正しく、釈尊もそういっているに違いないという思いがあると思います。
その動機には
>>243 のような思いがあると思います。
290 :
計算機 ◆0dHzUh337A :2011/01/06(木) 09:22:07 0
>>289 おいおいwwww科学がただの仮説だって?wwwwwwそんなこといったらあんたのが言ってる回りくどい理論もただの仮説だろwwww現実にそっている確率が高いと思われるものが科学、より考えることで豊かになれる可能性がある知識ですwwwwww
291 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 09:48:50 0
あなたの「実在論」の概念には非常に疑問があるが、 その点は別にして、文献学的に仏陀が輪廻を説いたことが明らかであり、 それを否定する人々は、自分の思想を投影したいわば 仏陀像を捏造しているのだという解釈は、説得力があると思う。
292 :
計算機 ◆0dHzUh337A :2011/01/06(木) 10:00:26 0
>>291 その文献も本当かどうか分からんけどなw
自分のためになりそうな、現実にそっている可能性の高いことを考えるようにしたほうがいいんじゃないの?時間がもったいなくね?
>>292 「その文献」が本当か本当でないかの峻別は何によっているの?
『「その文献」を本当のものでないとする文献』が発見されたの?
294 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 10:33:58 0
ブッダが亡くなってしばらくしますと、仏教の中に輪廻説が定着していきます。 ブッダ自身は、輪廻説、つまり魂がつぎつぎと新しい身体を取り換えるという説を主張しなかったと思われます。 初期仏教経典のうち、もっとも古い層に属す経典の中には、輪廻説についての明言は見られません。 立川武蔵 「ブッディスト・セオロジーV 仏とは何か」
どや?
296 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 10:38:12 0
人の話を理解する際に必要な態度を表現したものの一つとして、 「寛容の原理」というのがある。「人の言葉を解釈する際には、 できるだけ、それらが真となるような解釈を探せ」というのが それである。仏陀の例は、この「寛容の原理」が意に反し、 解釈者の思想を対象に投影し、対象を歪曲する原因となること を示しているように見える。
297 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 10:38:36 0
>>292-293 仏教文献は、パーリ、サンスクリット、チベット訳、漢訳、モンゴル訳などが主なものですが、それらすべて明らかに輪廻を前提としています。
以下が主な輪廻否定論です。
1.無我だから輪廻できない。主要論者:和辻など。
反証:現在、諸法が無我でも縁起しているように、無我でも死後も輪廻する。
死後、輪廻しないというのは、断見である。
2.輪廻は、それを信じる蒙昧な古代人のための方便説である。主要論者:和辻など。
反証:輪廻説がなかった、ギリシャ、シナ、チベットなどに思想抵抗にあいながらも、
必ず説いているので方便説ではない。聖者が獲得する宿命通からも方便説でないことが分かる。
3.十/十四無記で死後が不問にされている。主要論者:桜部健など。
反証:水野弘元先生以下が論証したようにタターガタを人、有情と注釈するのは、ジャイナでも
タターガタという語を使うからで、十/十四無記のタターガタは、解脱者の意味に他ならない。
つまり、解脱者は死後どうなるのか、それは答えられないという意味である。
4.釈尊の仏教では輪廻は否定された。主要論者:並川考儀など。
反証:輪廻は否定したという意味が異なる。輪廻は仏教で一貫して厭離され解脱することが目的である。
それを輪廻という現状を認めないという意味で無理に解釈している。
5.三世輪廻は部派のみのもの。主要論者:梶山雄一先生など。
反証:『雑阿含』『スッタニパータ』『小四十経』『量評釈』『タルカバーシャー』に明らかなように
原始仏教も大乗仏教も三世輪廻、というか輪廻は始まりはなく、終わりは解脱するまで続くもので、
それ以外の輪廻など現代日本以外で説かれたことなどないと思われる。
6.輪廻は現世の因果で転生ではない。主要論者:ネラなど。
反証:経典の用例は明らかに前世・来世を想定したものであり、現世のみの因果であれば、
始まりと終わりがあることになり輪廻ではなく他ならぬ断見である。
298 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 10:39:44 0
>>294 ダウト。
輪廻を「 >魂がつぎつぎと新しい身体を取り換えるという 」もの、としている時点でおかしい。
(そのような「解釈」を許す素地が“言い回し”上あるとしても)、新層でも、そのような説明ではない。
300 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 10:48:47 0
301 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 10:50:46 0
>>299 そうですね。それだと釈尊が否定したサーティや外道の輪廻説です。
302 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 10:50:58 0
>>294 仏陀の時代のインドでは、輪廻説というのは広く信じられていた説だろ?
単に、初期のものと推定(この推定はかなり不確かだろう)される経典の中に
輪廻説への言及が見られないということだけから、仏陀の輪廻説の否定や輪廻説
への不同意を読み取ろうとするのには賛成できないなあ。明示的な輪廻説の否定や、
輪廻説を信じることへの否定があるというのなら別だけれど、「不滅の魂が存在し、それが身体
を換えて生まれ変わっていく」という輪廻解釈への否定以外はないんだろ?
303 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 10:59:07 0
> 明示的な輪廻説の否定や、 > 輪廻説を信じることへの否定があるというのなら別だけれど いや、あるだろ。無かったら仏教はヒンドゥー教だ。
304 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 11:01:59 0
>>303 ないない。ないどころか、来世や輪廻を信じないものは断見と言われてますよ。
なんで、知らずにいうかな〜
305 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 11:10:47 0
>>299 ブッディスト・セオロジーは仏教学初学者に易しくかみくだいて説明してる本だよ。
著名な学者による善意の挙げ足をそのようにとってダウトなどとは大人気ない。
相撲取りが子供にわざと負けてやってるのを嘲笑うような愚劣さでしょう。
306 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 11:14:04 0
無間教授の講義を聞いていると、大変なことになる。 無間教授は高度な議論でついばむ燃え盛る嘴を持っている。其の嘴は堅く鋭い。色は白く、氷のようだ。無間教授は 一切の罪人の身・皮・脂肉・骨髄を皆食らう。また別の高級な技法も持っている。火の中より生まれて、火の中で過ごし、 火の中で食する。この技術は一切の身肉を食らう。骨を破ぶられ、骨を破られたら次に肉を破られ血を飲まれ、血を飲ま れた後は、次に其の髄を飲まれる。其の時、彼の地獄人は悲しく泣き叫んで悶絶し、大苦悩を受ける。
307 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 11:15:41 0
> 輪廻説がなかった、ギリシャ、シナ、チベットなどに ギリシャには輪廻説があり、信じている人も少なくなかったようだけど。
308 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 11:16:00 0
>>302 ブッダ個人が輪廻説を否定したとは書いてない。
話の流れが難しすぎてよくわからんのだが、質問がある。 @釈迦は、死後の世界が「ある」と明確に説いたのか? (無いと考える事の否定は、有ることの肯定ではない。) Aもし、「ある」と説いたのなら、それが、「死後の世界が有ること」自体を説く目的で説いたのか? (別の真の目的を説明する方便だった可能性はないのか?) また、有ることを説くこと自体が目的なら、その意図はなんであるか? Bもし、死後の世界が有ると説いたのなら、その根拠は、どのようなものであるか?
>>297 >反証:現在、諸法が無我でも縁起しているように、無我でも死後も輪廻する。
毎度聞くたびに、分からないのですが、無我なら、何が輪廻するのですか?
>反証:輪廻説がなかった、ギリシャ、シナ、チベットなどに思想抵抗にあいながらも、
>必ず説いているので方便説ではない。
ギリシャ、シナ、チベットで輪廻を説いたのは、釈迦のずーっと後の弟子たちですよね?
釈迦が方便で説いた輪廻を、弟子たちが誤解した可能性はないのですか?
311 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 11:49:50 0
>>309 説いてない説いてない。つーか
「生やら死やらって考え方を超越せよ」ってことを説かれた。
あの世とか輪廻という考え方は
釈迦の時代よりもはるか以前から世界中にあったであろうから
「根拠」があるとすれば人間に備わった基本的な本能とすらいえるんじゃないの。
312 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 11:51:46 0
> 無我なら、何が輪廻するのですか? 生きている間は一人の人の中で生じる心的状態や出来事の因果連鎖が 死後も続いていくということじゃないですか?
313 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 12:25:36 O
>>309 あるともないとも言えないってとこじゃないでしょうか。
あるの立場(常見・梵我一如・変化の中で同一性を保つという意味では輪廻もこちら側か?)でも
ないの立場(断見・死後は無になる・生滅を繰り返すという意味では輪廻はこちら側でもあるか?)でもないという風に。
たしか経典に死後は無になる立場を否定している箇所があったと思います。
314 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 12:29:45 0
お釈迦さんはもう大昔の人で、書いた本やビデオテープが 残ってるわけでもないので、どう考えていたかなんて本当のところは 分かりませんよね。それより、皆さんはどう考えているの? 1.輪廻はあると思う。 2.輪廻はない、身体が死んだら心は消滅すると思う。 3.どちらも信じない。 4.その他。 私は2と3を行ったりきたりかなあ。 3.どっちにも
315 :
314 :2011/01/06(木) 12:38:22 0
あ、最後の一行は消し忘れのゴミね。
316 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 12:38:40 0
>>309 1.あるよ。基本的に経典どれみてもある。
中村元『ブッダのことば』142頁以下をみればハッキリする
2.輪廻にいるという現状認識
3.釈尊や諸聖者の直接知覚ですね。
317 :
309 :2011/01/06(木) 12:45:11 0
>>311 >説いてない説いてない。
fm
>釈迦の時代よりもはるか以前から世界中にあったであろうから
>「根拠」があるとすれば人間に備わった基本的な本能とすらいえるんじゃないの。
う〜ん、それって、根拠と言えるのかね?
318 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 12:46:14 0
>>310 何かという基盤がないのが、無我・空。
現在の私たちも無我・空なのに業が縁起して連続してくように。
その可能性は無いとは言えないが、諸資料、諸伝統からは全く導けない。
もし、そうだとすると釈尊だけが輪廻を否定し、弟子も同時代の伝承を残すジャイナなどの書資料もすべて誤伝されたことになります。
だとしたら、仏教や釈尊から学ぶことは何もないでしょう。
それと仏教の場合、内容の確認は体験によってずっとされてきたのです。
ただし、その伝統が残っているのはビルマ、チベットぐらいだと思います。
>>312 >生きている間は一人の人の中で生じる心的状態や出来事の因果連鎖が
>死後も続いていくということじゃないですか?
心的状態や、出来事の因果連鎖なら、物理的な連続があるからわかるんですが、
死んだ後に、物理的に不連続に、別人に何かが輪廻するという事の意味が解りません。
320 :
309 :2011/01/06(木) 12:48:03 0
>>313 >あるの立場(常見・梵我一如・変化の中で同一性を保つという意味では輪廻もこちら側か?)
それは、上で否定されてない?
>たしか経典に死後は無になる立場を否定している箇所があったと思います。
無の否定は、有の肯定じゃないよね?
321 :
309 :2011/01/06(木) 12:51:28 0
>>316 >1.あるよ。基本的に経典どれみてもある。
>中村元『ブッダのことば』142頁以下をみればハッキリする
すみませんが、手元にないので、具体的に引用してくださいませんかね?
>2.輪廻にいるという現状認識
現状を認識する目的はなに?
それ自体が目的じゃないよね?
>3.釈尊や諸聖者の直接知覚ですね。
つまり、(我々)一般人にとっては、根拠が無く、聖者を信じるしかないという事?
>>318 >何かという基盤がないのが、無我・空。
>現在の私たちも無我・空なのに業が縁起して連続してくように。
そもそも、物理的な媒体のない縁起などと言うものが成立するんですか?
>もし、そうだとすると釈尊だけが輪廻を否定し、弟子も同時代の伝承を残すジャイナなどの書資料もすべて誤伝さ>れたことになります。
その可能性を否定する根拠は無いって事ですよね?
>だとしたら、仏教や釈尊から学ぶことは何もないでしょう。
なぜ、教えの一部が誤って伝っていたら、全体が間違っていることになるんですか?
輪廻が仏教の全てなんですか?
>それと仏教の場合、内容の確認は体験によってずっとされてきたのです。
>ただし、その伝統が残っているのはビルマ、チベットぐらいだと思います。
伝言ゲームになってて、どこかで間違っている可能性は無いんですか?
323 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 13:00:53 0
>>319 意味は分かるでしょ。前世の記憶が思い出せるとか、幼児期の体験が
今の自分の心に影響を持っているのと同じように、前世の体験が影響
してるとか、考えることはできるでしょ? 現代の「科学的な人」が
信じている心と脳の関係についての常識からすると、あまり有りそうには
ないですけれど、未知の情報伝達の経路とかがあるかもしれませんしね。
同期とかしとけば、あるハードウェアで打ち込んだ昨日の日記を、
別のハードウェアで読むことができるのと同じようなもんでしょ。
324 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 13:05:21 0
『大四十経』(田中教照 訳) 比丘たちよ、それでは邪見とは何であろうか。布施なく、祭祀なく、供犠なく、善悪業の報いなく、 此世、彼世、母、父なく、化生の有情なく、沙門バラモンにして正行正習、自ら此世と彼世を知り 証して説く者の世になし、と主張する、これが、比丘たちよ、邪見である。 「善悪業の報いなく、 此世、彼世」と説いています。 「彼世」というのは、パラローカが原語で、来世、あの世のことです。
325 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 13:09:04 0
>>321 そこで修行僧コーカーリヤは座から起って、師に挨拶して、右まわりをして立ち去った。修行僧コーカーリヤが立ち去ってからまもなく、かれの全身に芥子粒ほどの腫物が出てきた。
(初めは)芥子粒ほどであったものが、(次第に)小豆ほどになった。小豆ほどであったものが、大豆ほどになった。大豆ほどであったものが、棗の核ほどになった。棗の核ほどあったものが、棗の果実ほどになった。
棗の果実ほどあったものが余甘子ほどになった。余甘子ほどであったものが、未熟な木爪の果実ほどになった。未熟な木爪の果実ほどであっものが、熟した木爪ほどになった。
熟した木爪ほどになったものが破裂し、膿と血とが迸り出た。そこで修行僧コーカーリヤはその病苦のために死去した。修行僧コーカーリヤは、サーリプッタとモッガラーナとに対して敵意をいだいていたので、死んでから紅蓮地獄に生まれた。
そのときサハー(老婆)世界の主・梵天は、夜半を過ぎた頃に、麗しい容色を示して、ジェータ林を隈なく照らして、師のおられるところに赴いた。そうして師に敬礼して傍らに立った。
そこでサハー世界の王である梵天は師に告げていった。「尊いお方さま。修行僧コーカーリヤは死去しました。
修行僧コーカーリヤは、サーリプッタとモッガラーナとに対して敵意をいだいていたので、死んでから紅蓮地獄に生まれました。」サハー世界の主・梵天はこのように言った。
このように言ってから、師に敬礼し、右まわりをして、その場で消え失せた。
326 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 13:10:22 0
さて、その夜が明けてから、師は、諸々の修行僧に告げて言われた、「諸々の修行僧らよ。昨夜サハー世界の主である梵天が、夜半を過ぎた頃に、麗しい容色を示して、ジェータ林を隈なく照らして、わたくしのいるところに来た。 それからわたくしに敬礼して傍らに立った。さうしてサハー世界の主である梵天は、わたくしに告げていった。 『尊いお方さま。修行僧コーカーリヤは死去しました。修行僧コーカーリヤは、サーリプッタとモッガラーナとに対して敵意をいだいていたので、死んでから紅蓮地獄に生まれました』と。 サハー世界の主である梵天はこのように言った。そうして、師を敬礼し、右まわりして、その場で消え失せた。」 このように説かれたときに、一人の修行僧が師に告げていった、「尊いお方さま。紅蓮地獄における寿命の長さは、どれだけなのですか?」 「修行僧よ。紅蓮地獄における寿命は実に長い。それを、幾年であるとか、幾百年であるとか、幾千年であるとか、幾十万年であるとか、数えることはむずかしい。」 「尊いお方さま。しかし譬喩を以て説明することがでまるでしょう。」 「修行僧よ。それはできるのです」といって、師は言われた、「たとえば、コーサラ国の枡目ではかつて二十カーリカの胡麻の積荷(一車輌分)があって、それを取り出すとしょう、ついで一人の人が百年を過ぎるごとに胡麻を一粒ずつ取り出すとしよう。 その方法によって、コーサラ国の枡目ではかって二十カーリカの胡麻の積荷(一車輌分)が速やかに尽きたとしても、一つのアッブタ地獄はまだ尽きるに至らない。二十のアッブダ地獄は一つのニラッブダ地獄[の時期]に等しい。 二十のニラッブダ地獄は一つのアババ地獄[の時期]に等しい。二十のアババ地獄は一つのアハハ地獄[の時期]に等しい。 二十のアハハ地獄は一つのアタタ地獄[の時期]に等しい。二十のアタタ地獄は一つの黄蓮地獄[の時期]に等しい。 二十の黄蓮地獄は一つの白睡蓮地獄[の時期]に等しい。二十の白睡地獄は一つの青蓮地獄[の時期]に等しい。 二十の青蓮地獄は一つの白蓮地獄[の時期]に等しい。二十の紅蓮地獄[の時期]に等しい。ところで修行僧コーカーリヤは、サーリプッタおよびモッガラーナに対して敵意をいだいていたので、紅蓮地獄に生まれたのである。
327 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 13:15:10 0
「尊師に仇をなす者は無間地獄に落とされ、100カルパのあいだ、 そこにとどまるであろう」みたいな話ですなw
328 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 13:22:46 0
>>321 >それ自体が目的じゃないよね?
苦の認識。もし、輪廻にいるという認識がなければ自殺すれば足りるのが仏教で、そう誤解した人の話も律にのってますよ。
>つまり、(我々)一般人にとっては、根拠が無く、聖者を信じるしかないという事?
そう。要するに信じるか信じないか。すべてはそうでしょう。
説明体系の整合性と、再現性。仏教の場合は正にイクスペリエンス(体験)できますよ。
>>322 >そもそも、物理的な媒体のない縁起などと言うものが成立するんですか?
縁起というのは中身がない、本質がないから成立するものです。
中身がないことを空といい、本質がないことを無我とか無自性といいます。
>その可能性を否定する根拠は無いって事ですよね?
そうですね。凡人にはありません。ただし、可能性が極めて低いことは理解できないのでしたら、不思議ですよ。
>なぜ、教えの一部が誤って伝っていたら、全体が間違っていることになるんですか?
>輪廻が仏教の全てなんですか?
輪廻は仏教という体系に必要不可欠な前提となっているからです。
それを誤伝したとするなら、体系全体が誤伝ということになるでしょう。
例えば、苦諦は一切皆苦です。これは我々が経験する知覚は全て苦であるという意味です。
もし、輪廻がなければだったら自殺すれば済むことでしょう。
釈尊は、社会的な生活とか生存、生殖みたいなことにまったくといっていいほど価値を認めていません。
人生を生きる理由は、修行して解脱することのみといっていいでしょう。
>>322 >伝言ゲームになってて、どこかで間違っている可能性は無いんですか?
結果から、分かります。アルハットや成就者が出ない伝統は間違った伝統。
出ている伝統は、道はどうあれ正しく伝わっていると考えます。
>>323 いや、さっぱりわかりません。
PCなら、ケーブルでつながっていれば、データの転送ができるのは解ります。
ですが、輪廻とは、あるPCのデータが、そのPCが破壊された後、数年経ってから製造された別のPCに転送されるようなもんですよね?
物理的接触もなく、空間的にも、時間的にも全く別の人物に、何かが転送されるという状況が理解できません。
330 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 13:32:27 0
オンラインストレージに情報が記録されていればありえるでしょ。 よく知らないけれど、仏教では阿頼耶識とかいうのがそれなんじゃ ないですか?
331 :
309 :2011/01/06(木) 13:49:09 0
>>324 だから、それは、あの世を「否定する事の否定」でしょ?
それじゃ、「ある」と説いたことにならない。
>>325-326 それじゃあ、輪廻を信じていた当時の人々に対して、修行僧に対する敬意を持たせるための方便として説かれたとしか読めないね。
百歩譲っても、あの世が有ることを説くための経典じゃないから、あの世が有ることを説くのが、釈迦の目的ではない事になる。
つまり、「あるとは説かなかった」という事しか言えない。
あの世が有ると説く目的の、ズバリそれのみを書いた経典は存在し無いの?
332 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 14:05:40 0
>>331 いや、そういう読みは無理でしょう。
なぜなら、釈尊は輪廻を信じない人に対して輪廻を認識することから教え始めるからです。
例えば、ヤサへの教えが典型ですが、善いことをすれば天界に生まれると説く。
これは、アショーカ王碑文にも見られ初心者に説いたものと考えられます。
要するに、インド一般には今でもそうですが、輪廻などあまり信じられてなかったのです。
ただし、当時シュラマナと言われた修行者の間では、ほとんど共通認識になっていました。
そして、釈尊は他宗教から仏教に入ったものに、その信仰を捨てよと言いましたが、輪廻は認めています。つまり、釈尊に帰依したものに対しては他宗教の間違った信仰などを尊重して方便として認めることなどしていません。
もちろん、帰依する前の外道であれば、相手の信仰は尊重して、私はそうは言わないとしか言いませんが。
さらに、解脱寸前の結果として宿命通という神通が出るとされ、
その中で過去世全ての記憶が直接知覚可能とされます。
これは長部・中部経典のほとんどに書かれていて、あるていどの長さを持った体系的教えの中ではほとんど採り上げられるもので、しかも最終段階なので、方便説というわけにはいきません。
333 :
309 :2011/01/06(木) 14:10:23 0
>>328 >苦の認識。もし、輪廻にいるという認識がなければ自殺すれば足りるのが仏教で、そう誤解した人の話も律にのってますよ。
別に、輪廻にいるという認識が無くても、あの世が無いと思い込む事さえ否定すれば、有ると説く必要は無いよね。
だから、有るとも無いとも断定てはいけないと説いたんじゃないの?
もし、有ると説くこと自体に(方便以外の)意味があると言うなら、それ単体で説いた教えがあるはずだよね?
>そう。要するに信じるか信じないか。すべてはそうでしょう。
結局はそこに帰着するのね。
>縁起というのは中身がない、本質がないから成立するものです。
>中身がないことを空といい、本質がないことを無我とか無自性といいます。
用語の説明はいいから、「物理的な媒体のない縁起」が、どうやって成立するのを聞きたいんだけど。
>そうですね。凡人にはありません。ただし、可能性が極めて低いことは理解できないのでしたら、不思議ですよ。
要は、推測にすぎないって事ね。
推測なら、当時の輪廻を思想の根本においていた人々に対し、釈迦が方便として輪廻を説き、
以前から輪廻に染まっていた弟子がそれを本気にしちゃったという可能性もかなりあると思うけど?
>輪廻は仏教という体系に必要不可欠な前提となっているからです。
>例えば、苦諦は一切皆苦です。これは我々が経験する知覚は全て苦であるという意味です。
>もし、輪廻がなければだったら自殺すれば済むことでしょう。
別に輪廻を持ち出さなくても、充分成立すると思うけど?
上でも書いたが、「無いと断定する事」さえ否定すれば、有ると説く必要は無いよね?
>結果から、分かります。アルハットや成就者が出ない伝統は間違った伝統。
>出ている伝統は、道はどうあれ正しく伝わっていると考えます。
なんで、アルハットや成就者が「本物」だと分かるの?
それも、「伝統」の判断基準に依るんでしょ?
その判断基準自体が間違っている可能性もあるじゃん。
334 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 14:28:02 0
>>333 >だから、有るとも無いとも断定てはいけないと説いたんじゃないの?
>もし、有ると説くこと自体に(方便以外の)意味があると言うなら、それ単体で説いた教えがあるはずだよね?
いやいや、世俗としてはあるといってますよ。ここら辺は、勝義でないということと混同してる学者が多いので困ったものです。
>>そう。要するに信じるか信じないか。すべてはそうでしょう。
>結局はそこに帰着するのね。
そう。
>用語の説明はいいから、「物理的な媒体のない縁起」が、どうやって成立するのを聞きたいんだけど。
説明しましたよ。説明になってないと思うのは、物事はなんらかの基盤を持たないと成り立たないという実在論に立っているからで、ここら辺の縁起・空・無我を理解するのは、無理でしょう。かなり、時間が掛かるものです。
>推測なら、当時の輪廻を思想の根本においていた人々に対し、釈迦が方便として輪廻を説き、
>以前から輪廻に染まっていた弟子がそれを本気にしちゃったという可能性もかなりあると思うけど?
それでは整合性がとれないと分からないようでしたら、これ以上話しても無駄でしょう。
>別に輪廻を持ち出さなくても、充分成立すると思うけど?
>上でも書いたが、「無いと断定する事」さえ否定すれば、有ると説く必要は無いよね?
は? 経験する一切が苦で、輪廻がなければ今、自殺すればそれで終わりでしょう。簡単なことです。なんで分からないかな〜
>なんで、アルハットや成就者が「本物」だと分かるの?
>それも、「伝統」の判断基準に依るんでしょ?
>その判断基準自体が間違っている可能性もあるじゃん。
死後、仏舎利が出るなど物理的な縁起・現象から判断できます。
335 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 14:47:21 0
哲学板には珍しい面白い会話だったが、落ちは梵天、紅蓮地獄、仏舎利・・・か?
縁起を科学というなら 仏教を学ぶには現代科学を学ぶこととなる わざわざ粗雑な古代科学を学ぶことはない 釈尊が今いれば単にそうするであろうしそう薦めるだろう
仏舎利と言えば、世界中の仏舎利を集めると象一頭くらいになると言うではないか。 くっくっく。
338 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 16:20:43 0
その人が超能力は持っていたかとか、 その人が死んだあとその人の死体が腐らなかったかとか、 その人を火葬したあと灰の中に「仏舎利」があったかとか、 そういうことでその人が解脱者であったか否か判断するというのには、 さすがについていけない。
339 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 18:39:12 0
>>335 >>338 仏教はそういうもんです。
信じられなければ、無視すればいいだけのことです。
ただし、避難や罵倒はしない方がいいと思います。
>>336 縁起は科学的な帰納法に似てるけど、それだけではないので、
縁起が最も威力を発揮するのは三昧状態でです。
つまり、三昧に達せない人にはあまり真価を発揮しませんから。
>>337 先ず、釈尊以外の聖者の仏舎利もあることを理解されたし。
日本でも近くは祐天寺で有名な祐天上人が仏舎利を残しました。
ビルマやチベットでは現代でも結構、仏舎利を残す方が出ますよ。
340 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 18:45:35 0
341 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 18:55:36 0
興味本位で悪いんだが、よかったら教えて欲しい。 火葬後の遺灰と「仏舎利」はどう違うんだ?
342 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 18:55:45 0
仏教って何だかんだで素朴実在論だよな。
343 :
309 :2011/01/06(木) 19:12:38 0
>>330 オンラインストレージなら、サーバーに対応する物理的実体が必要になるけど、
それは、「魂」とか、「アートマン」とか、「我」と呼ばれるものと、何が違うの?
それって、仏教じゃ否定される教えじゃないんですかね?
また、オンラインストレージがあるとして、それはどこにどのような実体を持っているんですかね?
そもそも、有るという根拠は?
>>332 だから、それほど大切な教えだというのなら、他の教えの付け足しとして説かれるのではなく、
「あの世が有る」と単体で説かれた経文があるはずです。
何らかの教えを説く根拠としてあの世を引き合いに出しているだけなら、方便であると考える方が整合性が取れるんじゃないですかね?
>>334 >いやいや、世俗としてはあるといってますよ。
「有る」と(輪廻があることを説くことのみを目的として)明確に説いたという経典を、具体的に引用してください。
>説明しましたよ。
つまり、実体のない観念上の概念でしかないと?
>それでは整合性がとれないと分からないようでしたら、これ以上話しても無駄でしょう。
どこが整合性が取れないのかさっぱりですね。
>経験する一切が苦で、輪廻がなければ今、自殺すればそれで終わりでしょう。
だから、「無いと断定する事」を否定すればそれで十分。なんで「ある」と考える必要があるのかが分からない。
>死後、仏舎利が出るなど物理的な縁起・現象から判断できます。
仏舎利が本物かどうかは、どうやって判断したんですか? また、「伝統」の基準ですか?
その基準自体がすでに間違っている可能性は無いんですか?
どうでもいいが、連投規制がががorz まとめると、今度は改行がががorz
344 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 19:13:05 0
ここは仏教哲学って書いてあるぐらいだから、原始仏教についての話をしてるんですよね? なんか広義の仏教を語ってる人が居てややこしいので自重してください。
ひろゆきは専攻からして仏教というより心理学又は精神分析学だろうよ 仏教哲学の中には精神分析的なものが多々あるよ
仏教哲学の中には精神分析的なものが多々あります 仏教を学びたい人は心理学や精神分析もちゃんと勉強しましょう
347 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 20:07:24 0
>>343 私は輪廻と呼ばれる現象が不可能だというあなたの考えに反論しているだけなので、
仏教で何が否定されているかには関係ありません。あなたは脳という物理的実体が
心的現象の媒体だと考えているんでしょ? だったら、他の何らかの物理的実体が
あって、それが媒体となり心的現象の連鎖が継続することも考えられるのでは
ないかと言っているのです。それから、私は輪廻は不可能ではないと
言っているだけであり、輪廻があると主張しているわけではないですよ。
あると言う根拠は私は知りません。
348 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 20:17:58 0
媒体が「物理的実体」でなければならないのかどうかも分かりませんが。
349 :
309 :2011/01/06(木) 20:22:16 0
>>347 別に否定している訳じゃないんだが?w
現状では、可能だと考える根拠が欠片もないと言うだけ。
>だったら、他の何らかの物理的実体が
>あって、それが媒体となり心的現象の連鎖が継続することも考えられるのでは
>ないかと言っているのです。
脳が徐々にぶっ壊れていくと、それに対応した心の機能が損なわれていくことが実際に確認されている事から、
脳が心の媒体であることは、確認できる。
それに対して、貴方の言うような「何らかの物理的実体」が観測されたことはない。
ならば、そのようなものは無いのではないかと思うんですがね。
せめて、「可能性」を言うのなら、その「何らかの物理的実体」の、性質なり、特性なりを、片鱗でも構わないんで、示せませんかね?
そうすれば、その実体の解明に役立つかもしれませんよ。
妄想する自由
351 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 20:54:44 0
>>349 あなたが言っていることが、「現代科学の想定する心と脳の関係から考えれば、
輪廻はありそうにない」というだけのことであれば、私もそう思いますよ。
ただ、この「心と脳の関係」は確証されているどころか、確証可能な仮説で
すらなく、研究の前提として仮定されているだけのものだと私は思っています。
脳の一部分の損傷の後で、他の部分がその機能を代行するようになり、一旦は
失われた心的機能が回復するなどという現象が注目されたことも過去には
あったことなども考えると、現在の時点の脳研究者の共有する信念も数年後に
は否定されるかもしれませんから、私はあまり信用していません。
352 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 20:56:21 0
>>341 パーリ『ネハン経』以来、記されるように灰と舎利は違います。
そのブッダゴーサ註にあるように舎利は真珠みたいに粒状で、輝くものです。
ネットで仏舎利で検索すれば写真や動画が見られると思います。
>>343 >「有る」と(輪廻があることを説くことのみを目的として)明確に説いたという経典を、具体的に引用してください。
それは無理というものです。輪廻があるだけでは何にもなりませんから、
その後で、善業を積むとか戒定慧みたいな内容が説かれるので、
アナタの問いは、ほどんどヤクザの論理です。
まるで、命が大事だってんなら、命だけ出してくれ出せないなら命などないと言っているようなものでしょう。
一切皆苦というのは、生きていることが全て苦だということで、
その消滅を目指すのが仏教というのは分かりますか?
それが分かるなら、もし、その上で死んで終わるなら、自殺すれば涅槃ということになるでしょう。
しかし、仏教はそうなってない、それも分からないのか?
それとも、どうも都合の悪い部分は切り捨ててるようなので、無駄ですね。
353 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 20:57:21 0
> 心的状態や、出来事の因果連鎖なら、物理的な連続があるからわかるんですが、 > 死んだ後に、物理的に不連続に、別人に何かが輪廻するという事の意味が解りません。 これは309さんの発言ではないの?
>>346 比較のために勉強はしてもいいが、
それらは2000年位前に出来た仏教哲学からみて特に見るべきものがない
355 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 21:21:20 0
>>346 心理学とかは、凡人を正常としてるからね。
ウイリアム・ジェームスとか笑われてるし、
凡人の彼は、心の動きを止めることができないとした。
それはちょっとした行者なら、できることだ。
心理学なんか基準にしても仏教は分からないというか、
たんに異常心理学の研究対象にされるのではないだろうか?
たしか仏教心理学会ってのが最近発足したみたいなので、
そこでも覗いたら?
オイラは興味ないは
356 :
309 :2011/01/06(木) 21:23:32 0
>>351 要するに、「可能性を信じたい」という事ですか。
まあ、お好きになさってください。
ただ個人的には、現状から推測するに、「何らかの物理的実体」が見つかる可能性は、極めて低いと思いますがね。
貴方が参考に示した例でも、損傷した脳の機能を、「脳の」別の場所が代行しただけであって、
「何らかの物理的実体」が関与している可能性は全く示唆されてませんしね。
>>352 >それは無理というものです。輪廻があるだけでは何にもなりませんから、
>その後で、善業を積むとか戒定慧みたいな内容が説かれるので、
>アナタの問いは、ほどんどヤクザの論理です。
だから、常に「善業を積むとか戒定慧など」とセットで説かれるという事は、「そのセットの方が」説きたい内容であって、
輪廻は、当時の人に説明するための方便だったのではないですか?
本当に「輪廻がある」と説きたかったのであれば、単体で説明したと思うんですが。
>まるで、命が大事だってんなら、命だけ出してくれ出せないなら命などないと言っているようなものでしょう。
比喩がずれてますね。
>一切皆苦というのは、生きていることが全て苦だということで、
>その消滅を目指すのが仏教というのは分かりますか?
はい。
>それが分かるなら、もし、その上で死んで終わるなら、自殺すれば涅槃ということになるでしょう。
「死後の世界が無いと思う」ならそうでしょうね。
ですが、自殺を抑止するのに、「死後の世界がある」と思う必要はありません。
「有るかどうかわからない」と思うだけで、十分自殺を抑止する効果はあります。
「自殺の抑止」は、理由としては極めて弱いですね。
>>353 そうですが、何か?
>>356 >「有るかどうかわからない」と思うだけで、十分自殺を抑止する効果はあります。
>「自殺の抑止」は、理由としては極めて弱いですね。
「自殺したい」「自殺しようかな・・」、と思わせる(心理的)境遇の圧力を何も解ってない。
そこにあるのが、
「(未来なんかどうでもいいから)、とにかく、今現在の、この現状から逃げ出したい!」
という強烈なベクトルであることを解ってない。
358 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 21:36:32 0
>>356 >ですが、自殺を抑止するのに、「死後の世界がある」と思う必要はありません。
分かってないな〜。常識の世界ではなく、一切皆苦ということが真とされてる体系内で、輪廻がなければということ。
>「有るかどうかわからない」と思うだけで、十分自殺を抑止する効果はあります。
>「自殺の抑止」は、理由としては極めて弱いですね。
自殺の抑止が問題なのではなく、一切皆苦と認識している体系内で輪廻がないなら、自殺必ず自殺するっていうこと。
ここら辺、体系内の論理を想定できないアナタは、あまり論理的ではないと自覚されたい。
359 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 21:36:39 0
>>356 可能性を信じたいというよりは、現代の脳科学者や心の哲学の研究者が
抱いている心脳関係に関する信念を不謬のものであるかのように妄信したく
ないだけですよ。脳機能の代行の話も、20世紀の前半にベルクソンが
その時代の脳科学を前提にして、「脳は記憶を想起するための装置では
あるが、記憶の媒体ではない」という主張の根拠にしたことで有名なので、
言及しただけ。要するに、脳と心の関係はまだほとんど分かってないのだから、
それを根拠に「輪廻はあり得ない」と言うのは、かなり限定された説得力
しかないなあってことです。
360 :
309 :2011/01/06(木) 21:36:41 0
>>357 ???
え〜と、今の論点分かってます?
>「(未来なんかどうでもいいから)、とにかく、今現在の、この現状から逃げ出したい!」
>という強烈なベクトル
なら、来世(=未来)があっても、自殺するという事になりますよね?
361 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 21:40:54 0
>>360 >なら、来世(=未来)があっても、自殺するという事になりますよね?
別人だが。そうじゃないでしょ。こことは輪廻から逃れたいので、
現世から逃れたいというわけではない。
362 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 21:43:04 0
一切皆苦で、輪廻がないことを前提にするなら、自殺のみならず、 人類全員皆殺しにしてやることこそ慈悲なんて説も出かねない、かな?
363 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 21:44:20 0
仏教は宗教だから信じるかどうかの問題。輪廻思想なんかも同様。 よく科学者がオカルトを批判しているが、科学も例えばビッグバン宇宙論なんかは無から宇宙が誕生したとしているわけで、これなんかまさにオカルトだな。 つまり、科学も根源的にはかなりあいまいで、宗教と大差ない。
>>360 そうだよ。
来世があると考えるなら、次は今より良いだろう、その可能性にこそかけるだろう。
仏教以外の「教義内に来世が設定されている宗教」は、
良きにつけ悪しきにつけその方向性を持つ。で、仏教は、そこについて業果をもってして誡めとしている。
或る種の「脅し」である点は指摘されてもいい。
論点が若干ずれているのは認める。
もともと、
「 >「有るかどうかわからない」と思うだけで、十分自殺を抑止する効果はあります 」に対する
「 >「有るかどうかわからない」と思うだけで は、抑止力にならない」という横レスだから。
365 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 21:50:42 0
>>362 そうまさにそう。そういう人が出ました。
律の不殺生戒にその因縁が書いてあります。
論理的な人は、そう考えると思います。
366 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 21:56:22 0
「一切皆苦」の方はどうだろう? 文字通りの解釈でいいんだろうか?
367 :
309 :2011/01/06(木) 21:59:24 0
>>358 いやだから、論理的に考えて、「無い」と断じさえしなければ、「ある」と説く必要は無いですよね?
一切皆苦の世界で、死後の世界が「無い」なら、自殺するでしょう。
しかしそれは、「無い」と断言できる場合だけの事です。
「死後の世界が有るか無いか分からない」だけで、死ぬ事は必然ではなくなります。
これが論理的帰結だと思いますが?
>>359 脳が心の媒体では無い可能性があったとしても、「物理敵実体をもつ何か」が存在する根拠には全くならない事は理解されてますか?
そして、誤謬がまだあるで有ろうことと、間違っているという事はイコールではありません。
また、一世紀程昔の人の意見を言われても、キョトンとしてしまいますよ。
脳科学が発達したのは、大戦で脳欠損になった戦傷者が大量に出たときですし、
当時はシナプスの存在ももろくに理解されていなかった時代です。
全く根拠のない「何らかの物理的実体説」よりは、さまざまな物的証拠により示唆される「脳が心の媒体説」の方が、
仮説として比べ物にならないぐらい説得力があると思いますがね。
369 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 22:01:47 0
>>366 まず最初にあなたが書いている文字通りの解釈を教えて下さい。
「苦」が一般的な意味の「苦しみ」の事じゃないってのは知ってますよね?
370 :
309 :2011/01/06(木) 22:09:21 0
>>361 >こことは輪廻から逃れたいので、現世から逃れたいというわけではない。
なおさらわからないんですが。
自殺する動機が、「輪廻から逃れたい」という事ですか?
輪廻が無いと考えるなら、すでに逃れる(=自殺する)必要も無いですよね?
輪廻が有ると考えるなら、なおさら、自殺しても輪廻がら逃れられないから、自殺しませんよね?
何を言いたいのかさっぱりです。
>>362 「無い」と断言すればそうでしょうね。
ですが、今は誰もそんな事言ってないと思いますが?
>>363 いや、科学とは、いかに現実と整合性があるかを見積もるものですよ。
ビッグバンにしても、背景放射など、現実に観測される現象を非常にうまく説明できています。
脳を削ったら心も削れたから、脳が心の媒体だと「推測する」のと、
根拠も無く、心には脳以外の摩訶不思議な媒体があると「信じる」のは、全くの別物です。
>>364 >「 >「有るかどうかわからない」と思うだけで は、抑止力にならない」という横レスだから。
なるほど。
ただ、「有ると分かっても、抑止力にはならない」というレスにも、なってしまってますね。
>>370 >ただ、「有ると分かっても、抑止力にはならない」というレスにも、なってしまってますね。
そうだよw
だって、私は「三世に跨る輪廻」に関しては懐疑派の外道だからwww
372 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 22:15:01 0
>>369 いえ、分かってないです。一般的な意味での「苦しみ」でないとすると、
「一切皆苦」の「苦」はどういう意味なのですか?
妄想の自由!
374 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 22:23:24 0
Wikipediaには次のような説明がありますね。なるほど。 >「苦」の原語は、パーリ語のドゥッカ(dukkha)で、これは単に、 > 日本語の「苦しい」という意味だけではなく、「空しい、不満、 > 不安定」といった幅広い語義を持つ。 それゆえ、「一切皆苦」は >「すべての存在は不完全であり、不満足なものである」と言いかえる > こともできる。不完全であるがゆえに、常に変化して止まることが > ない。永遠に存在するものはなく、ただ変化のみが続くので「空しい」 > というふうに、「苦」という一語で様々な現象が語られる。
375 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 22:26:32 0
>>372 下手な説明をするよりwikipediaの方が分かりやすいと思うので引用します。
私の解釈も一緒です。
> 「苦」の原語は、パーリ語のドゥッカ(dukkha)で、これは単に、日本語の「苦しい」という意味だけではなく、
> 「空しい、不満、不安定」といった幅広い語義を持つ。
> それゆえ、「一切皆苦」は「すべての存在は不完全であり、不満足なものである」と言いかえることもできる。
> 不完全であるがゆえに、常に変化して止まることがない。
> 永遠に存在するものはなく、ただ変化のみが続くので「空しい」というふうに、「苦」という一語で様々な現象が語られる。
376 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 22:27:14 0
すみません被りました
>>374-375 けど、人生には「楽」も「苦」もあるよ?
「苦」のみを凝視するのは病的じゃないかい?w
「代替」や「緩和」「褒美、見返り」等として「楽」を用い、見、
苦楽を相殺して日々を紡ぐのが「人」というものじゃないかい?
378 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 22:41:24 0
>>377 たった今「苦」がそういう意味では無いと書いたばかりですよ。
379 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 22:41:25 0
>>380 wikipediaで引用している部分です。
一切皆苦というのはこの世が世間一般で言う苦しみに満ちていると言っているのではなく
普遍的なものなど無く全て変化するものであり、その変化こそが全てだと言っているんじゃないでしょうか。
だからこの場合の「苦」は「楽」と対比させて論ずる事では無いと思います。
>>370 >
>>363 >脳を削ったら心も削れたから、脳が心の媒体だと「推測する」のと、
>根拠も無く、心には脳以外の摩訶不思議な媒体があると「信じる」のは、全くの別物です。
推測も信じるも似たようなもんじゃねえの
その考えを変えようとするかどうかのニュアンスみたいなのが違うだけで
根拠も無くってあるけどそれなりの根拠があって信じるんじゃないの
貴方が輪廻がどうのって言ってるように
自分が信じているものは正しいだろうっていう推測が強いものだろ
それにしても頑張るなwwwスペース空けてコメントしてるのは同じ人だよな?疲れるだろwwwあと仏教の最終目的って何か分かるか?
根拠もなく今生きているこの世界は夢ではないと信じ込んでました。
苦しい 空しい 不満 不安定 まさに日本語の苦、苦しみのことだね まったく問題なし
386 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 22:59:21 0
だから、最終目的は一応自分の「完全消滅」ってことになってるんだろ?
387 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 23:00:37 0
>>385 人間の精神状態の「空しい」や「不安定」だと楽と対比させる事もおかしくないでしょうね。
ただし一切皆苦の苦の意味は人間の感情としての空しいや不安定じゃありません。
むしろ変化こそが全てだという事を「苦」という言葉で表現しただけです。
>>382 一切皆苦一切行苦の「苦」が
「楽」を含む包括概念・上位概念である、とはどこにも書いてありませんよ?w
389 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 23:02:51 0
でも、「変化こそ全て、大いに結構」ってなことじゃないだろ? それに対し人間が抱く不満とか苦痛とかを含んでるんじゃない?
390 :
309 :2011/01/06(木) 23:09:31 0
>>383 >推測も信じるも似たようなもんじゃねえの
たしかに、科学的推測にも、蓋然性の程度を測って、その程度に従って「信じる」と言う要素はありますね。
ですが、根拠を明示して、その蓋然性の高さを示したつもりです。
それに対して、「脳以外の媒体」の方には、可能性を示すものが何かあるんですか?
蓋然性もへったくれもないものを「信じる」のと、
蓋然性を勘案したうえで「蓋然性の程度に応じて」「信じる」のには、
かなりの隔たりがあると思いますがね。
>それにしても頑張るなwwwスペース空けてコメントしてるのは同じ人だよな?疲れるだろwww
ID無いスレで何言っても無駄でしょうが、私はコテ付けたレスしかしてませんよ。
と言うか、むしろ逆に、連投規制喰らいまくりで、数人に対するレスを一つにまとめている位ですよ。
>あと仏教の最終目的って何か分かるか?
さあ? 今のところ、その部分にはさっぱり興味がわかないんで。
で、何なんですか?
>>384 今更かよw
391 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 23:16:03 0
>>388 一切行苦の行というのは、諸行無常の諸行なんだけど、
作られたもの、形成されたものという意味で、
現象世界全てをふくむんですわ。
楽も過去の業という因と諸条件という意味の諸縁によって縁起して知覚経験するという意味で、形成されたものという意味ね。
だから、あらゆる現象、知覚は苦であるという意味。
だから、世俗で一般人が楽と感じるような経験も、苦と見るのが聖者で、
真の楽は、そういった諸行が一切消滅した涅槃しかないという意味で、
涅槃寂静と言われるんですね。
>>386 やっぱそうなのか?俺の考えた物の方が救いがあるなwwww
>>390 他人にとって可能性の示すものが見えなくても信じてる人にとってはそれなりの根拠があるもんじゃないか?貴方がいい例
あとスレタイ無視して好きにコメントしていいのか?ここ
>>391 だからw
上のWikiにはそこまで書いてないだろ?ってこと。
あのWikiだけなら当然出てくるだろう疑問をレスしたまで。
もとより揚げ足取りだよw
394 :
309 :2011/01/06(木) 23:25:29 0
>>392 >他人にとって可能性の示すものが見えなくても信じてる人にとってはそれなりの根拠があるもんじゃないか?
だから、「信じる人の、それなりの根拠」を示して欲しいと言っているんだが……。
結局、提示できる根拠は無いってことかい?
>あとスレタイ無視して好きにコメントしていいのか?ここ
哲板を紹介されて来たもんでね。
確かにスレ違いだな。
哲板には、他に仏教系のスレあったっけ?
395 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 23:27:35 0
>>391 しかし、その「苦」にはやはり否定的な評価が伴うんじゃないの?
それが消滅した状態をよりよい状態と考え、目的にするのなら。
それだと、一切皆苦という現状から逃れたいという「欲求」となり、
仏教的にはまずいのかな?
396 :
考える名無しさん :2011/01/06(木) 23:34:41 0
>>393 そうですね。
私の勝手な解釈で「楽も普遍的なものでは無いので苦に含まれる」と思ってました。
なので
>>382 のレスは私が間違ってました。
でもあなたの
>>377 のレスも唐突で話の流れに沿っていないトンチンカンなものだと思います。
私なりの解釈で一切皆苦の苦を説明する為にwikipediaから引用しただけなので。
人生観について話していないし、私は別に釈迦の言ってる事が全て正しいなんて思っていません。
397 :
396 :2011/01/06(木) 23:39:45 0
>>396 >私が間違ってました。
いや、間違ってないよ。寧ろ大正解w つまらん揚げ足取りしてスマンかった・・w m(_ _)m
お詫びにURL。
(
>>368 同様)みみずんだからIEでも見れると思う。
仏教議論スレッド 5
ttp://mimizun.com/log/2ch/psy1278424122/470 >でも・・・・・・思っていません。
>>393 にあるように、仏教外からは当然に出てくるだろう疑問や指摘なので、無関係どころか最重要ですよ。
ここを説明し、納得させ得ない限り、
「一切皆苦・一切行苦」の意味するところ、根本義は、批判・指摘の対象であり続けてしまいます。
ここは哲板(仏教外というフィールド)なので、敢えてツツイてみました。
不快にさせてしまったなら申し訳ありませんでした。
>>394 >>394 >だから、「信じる人の、それなりの根拠」を示して欲しいと言っているんだが……。
>結局、提示できる根拠は無いってことかい?
そこ重要なのかよwwwww難しいぜwwww
どうとでも言える気がするしwwwそういう風に吹き込まれてきたから、でもいいかな?wwww丁度貴方が仏教に入れ込んでる根拠は何か分かるか?って聞かれてるもんかな?wwwww
普通に考えて日本語の苦とは、 「苦しさ」であり「空しさ」であり 「不満」であり「不安定」である。 以上。
402 :
309 :2011/01/07(金) 00:02:17 0
>>399 >そこ重要なのかよwwwww
というか、そこは最初(
>>309 )から聞きたかった事の一つなんだけど?
>丁度貴方が仏教に入れ込んでる根拠は何か分かるか?って聞かれてるもんかな?wwwww
全然違うと思うけど?
一応質問のようなので答えれば、
私がこのスレに来たのは、輪廻などの死後の世界を釈迦が説いた、あるいは、死後の世界が実在すると、信じている理由について知りたいから。
もっとぶっちゃけて言えば、根拠がなさそうに見えるものを信じているので、どのような根拠があって信じているかを聞きたかった。
で、やっぱり根拠を提示できる人は居ないんですかね?
403 :
考える名無しさん :2011/01/07(金) 00:07:04 0
>>398 最初突っ込まれた時は「マジで!?」って感じでしたが、不快にはなってないので大丈夫です。
>>400 のURLを見ましたが私もあの図と同じ考えです。
私も人の意見を否定したりツッコミを入れる事は大事だと思います。
そうする事で新たな発見があるかもしれませんからね。
あなたがつついてくれたおかげで、自分の考えていた事が明確になりました。
ありがとうございます。
404 :
計算機 ◆0dHzUh337A :2011/01/07(金) 00:31:33 0
>>402 話の流れが分かり辛いなwwwwとにかく貴方が知りたい根拠は無いと思うよwwwww
貴方は後光効果に振り回されて来たんだろうよwwww
405 :
309 :2011/01/07(金) 00:46:34 0
>>404 >とにかく貴方が知りたい根拠は無いと思うよwwwww
さようか。
というか、そもそも貴方はなんで私に絡んできたんだ?w
>貴方は後光効果に振り回されて来たんだろうよwwww
むしろ逆なんだが。
で、結局、「釈迦が輪廻は有ると説いた」と言う典拠すら提示されないんですかね?
出来れば、「輪廻があるという根拠」まで進みたかったんですが、第一段階で躓くとは思いませなんだ。
406 :
考える名無しさん :2011/01/07(金) 08:11:25 0
>>402 だからそういうの信じてる人達に明確な根拠なんてないって。
未知の世界を信じるってのは太古から基本的に人間に備わってる能力なんだろ。
キリストでもアッラーでもミロクでも何でもいいんだよ。
それより、大事なことはあの世の有無なんて気にかけることではなく、
今この世、この場所を浄土にすることだろ。
それが自分の中の仏心を顕す、つまり精進して我執に囚われず心清らかに生きるということ。
あの世や輪廻なんてのに囚われてはいけないよ。
407 :
考える名無しさん :2011/01/07(金) 08:14:02 0
キリストというかヤハウェか。
408 :
309 :2011/01/07(金) 08:25:19 0
>>406 >だからそういうの信じてる人達に明確な根拠なんてないって。
だから、それなら、何故私にレスをつけるw
有ると思う人に、質問しているんだぜ?
>あの世や輪廻なんてのに囚われてはいけないよ。
だから、なぜ私にレスを付けるw
私は、そうやって囚われている人に、「何が根拠でそのように囚われているの?」と、聞いてるんだぜ?
409 :
考える名無しさん :2011/01/07(金) 08:28:29 0
>>408 なら脳科学か心理学の範疇だろ。
俺は仏教シンパだ。君は仏教を信仰してる一般に聞いてるんだろ?
だからレスを付けたし、明確にそういう宗派もあるからね。
410 :
309 :2011/01/07(金) 08:46:13 0
>>409 >なら脳科学か心理学の範疇だろ。
なぜそうなる?w
あの世が有ると言う人に、「根拠を聞く」のに、脳科学や心理学の出番は無かろう?
>君は仏教を信仰してる一般に聞いてるんだろ?
いいや
厳密には、「輪廻がある」と信仰している(貴方風にいえば、囚われている)人に、聞きたかったんだよ。
411 :
考える名無しさん :2011/01/07(金) 08:51:18 0
>>410 なぜそうなるって、
「それは人類に基本的に備わってる本能」説に立ってるからだよ何回言わせんだよ
アドバイスしておくと、あの世や輪廻が有るという人にその「科学的な明確な根拠」を求めても無駄だぞ。
経典などをもって史実的な論拠を示す人もいるだろうけど、それとて君の言ってる根拠じゃないだろ。
412 :
考える名無しさん :2011/01/07(金) 08:52:47 0
「釈迦が輪廻は有ると説いた」と言う典拠だったら、昨日いっぱいでてたじゃないですか。 「輪廻があるという根拠」は、仏教徒の場合は釈迦がそう説いているということ、 それ以外の場合は自分が「前世の記憶」を持っているとか、それを持っている人が いるらしいってことでしょうかねえ? 人によっても違いそうですが。
413 :
考える名無しさん :2011/01/07(金) 09:11:40 0
創価学会の人は輪廻全肯定が好きだよねえ
414 :
考える名無しさん :2011/01/07(金) 09:12:23 0
考える必要の無い事も考えるのが哲学です 単なる信心深い仏教徒の方は宗教板へいきましょう
415 :
考える名無しさん :2011/01/07(金) 09:27:47 0
416 :
309 :2011/01/07(金) 09:35:37 0
>>411 >「それは人類に基本的に備わってる本能」説に立ってるからだよ何回言わせんだよ
だから、「人に聞く」のに、脳科学や心理学は要らんだろ?w
「聞いた結果を分析する」なら、脳科学や、心理学の出番だろうが、今はそんな事は関係ない。
>>412 >「釈迦が輪廻は有ると説いた」と言う典拠だったら、昨日いっぱいでてたじゃないですか。
はて?
「釈迦が説法をする際に、輪廻を根拠として引用した」と言う、輪廻を方便として使用した例と思われる引用は出だけど、
「輪廻がある」と単体で説かれた典拠はさっぱりでなかったよ。
「いやいや、世俗としてはあるといってますよ。 」(
>>334 )と言うから、それを出してくれ(
>>343 )と言っても、さっぱりだし。
>でしょうかねえ?
だから、貴方じゃなくて、「有ると主張している方」に聞きたいんですよw
417 :
考える名無しさん :2011/01/07(金) 09:44:23 0
>>416 それはあなたがナイーブ過ぎる。文献学的典拠というのは、
それを出せば誰もがそれを確実な証拠だと認める確定的なものではない
のが普通だよ。ある一節が、釈迦が輪廻を肯定していたことの根拠に
なるとするには、当然さまざまの解釈が必要になり、他の解釈をする人
にとっては、それはそのことの根拠になりえない。当たり前のことだ。
そして、このことは文献学だけに言えることではない。観察された事実
もまた、それをどういう理論の元で解釈するかによって、ある主張の根拠
になったりならなかったりする。「観察の理論負荷性」ってやつだ。
418 :
計算機 ◆0dHzUh337A :2011/01/07(金) 09:49:27 0
>>416 自分の信じるものを確信に持っていってくれる根拠(笑)が欲しいんだろうが、残念w
Wwwwwww有りませんwwwwwwwこれが
現実wwwww現実なんですwwwwwwww
419 :
考える名無しさん :2011/01/07(金) 09:49:30 0
それはともかく、釈迦が「身体の死とともに心は消滅する」という説を 誤りとして退けていたことは、あなたも認めるのかい? それを認めているなら、 それだけで現代の脳科学者や「心の哲学」研究者の見解と社会の見解が 一致しないことは明らかだと思うが。
420 :
考える名無しさん :2011/01/07(金) 09:50:42 0
誤字訂正:社会の見解→釈迦の見解
421 :
考える名無しさん :2011/01/07(金) 09:58:53 0
>>417 いやいや、文献学的には釈尊が輪廻を前提としていたのは明かだよ
一部の学者が無理な解釈をしてるだけのこと。
自分の研究対象が以下のようなことを言われたくないためという感情が混入しているかもしれない。
>>335 >哲学板には珍しい面白い会話だったが、落ちは梵天、紅蓮地獄、仏舎利・・・か?
422 :
計算機 ◆0dHzUh337A :2011/01/07(金) 10:11:52 0
>>421 文献wwwwww貴方も粘るなwwwwwwwww
宗教側に都合良く改訂された可能性とか考えないのか?w
>>416 輪廻が「方便としてのもの」であったかどうかは、文言の【読み解き方】による推論の域を出ない。
少なくとも「文言上」(発言、伝承上)は、「有情の輪廻すること」が、人の生及び死の在り様の前提となっていることを示している。
「輪廻すること」を前提として、その上で紡がれた文言しか伝わっていない。
「輪廻する」ということが肯定されていなければ成立しない文言なわけだが、
こうしたことは典拠(≒出典)として認められないのかい?
今、すぐコピペできた一例。
長老尼偈220
「汝は限りなき苦に逢い、汝は亦幾千度か転生せり(南伝:増永霊鳳)」
「そなたは限り無い苦しみを受けた。さらに、幾千(の苦しみの)生涯にわたって、そなたは涙を流した(岩波文庫:中村元)」
khINa kulIne kapaNe, anubhUtaM te dukhaM aparimANaM;
assU ca te pavattaM, bahUni ca jAtisahassAni.
他にも、探せば幾つも出てくると思う。
424 :
考える名無しさん :2011/01/07(金) 10:27:18 0
>>421 私は「釈迦が輪廻を前提にしていた」という点に関しては、
昨日の説明でかなり納得しているよ。しかし、「明らか」というのは、
あなたの観点から見ればそうだろうが、すべての人にとってそうだとは
言えない。あなたの言う「一部の学者」が存在しているということが、
その明白な証拠じゃないかい? それとも、彼らは明らかに誤りだと
分かっていることを主張している嘘つきだと思うの?
425 :
考える名無しさん :2011/01/07(金) 10:49:12 0
>>424 ほとんど日本だけの特殊な問題だからね。
仏教は科学、あるいは常識と矛盾しないという信念を持っている和辻みたいな人が文献を素直に読むのではなく、自分で認めたくないことを排除してるだけのこと。
単純にいえば付会、こじつけですね。
これは真っ当な学者なら認めることですよ。
426 :
考える名無しさん :2011/01/07(金) 11:23:53 0
>>422 そんなこと言ったら歴史的事実とかいうものも一つもなくなるぞ
なにせ、記述されたものは個人の認識を反映したものだから
歴史学者も19世紀みたいな事実の歴史みたいなことは、もはや時代遅れじゃないのか?
それに仏教の教えは内部資料だけでなく、ジャイナなどの外部資料や、考古学的遺物などに照らしてもなんら問題がない。大綱は一致するよ。
逆に釈尊が輪廻を否定したなら、ジャイナなどの外部資料に特記されるはずだよ。ローカーヤタのようにね。しかし、そのような徴候は管見の限り一つもない。
427 :
309 :2011/01/07(金) 11:30:24 0
>>417 だから、解釈をめぐって議論してたでしょ?
他の教説と常にセットで説かれている状態では、方便である可能性が否定できない。
だから、解釈を判定するために、「あると説いた経典」があれば、「方便として説いた」とは言えなくなるから、それを見たいと言っているの。
そして、「そのような経典」があると言っている人が居るんだから、それを提示してくれと言うのがおかしなことかい?
>>418 >自分の信じるものを確信に持っていってくれる根拠(笑)が欲しいんだろうが、残念w
だから、逆だって。
「有ると信じているなら、確信に持って行っている根拠はなんですか?」と、聞いているの。
私が欲しい訳じゃない。
私のスタンスとしては、別に、輪廻が有ろうと無かろうと、どっちでもいいんだよ。
ただ、「ある」とか、「ない」とか断言する人が居るから、その根拠を聞きたいだけ。
428 :
309 :2011/01/07(金) 11:37:58 0
>>419 >それはともかく、釈迦が「身体の死とともに心は消滅する」という説を
>誤りとして退けていたことは、あなたも認めるのかい?
うん
>それを認めているなら、
>それだけで現代の脳科学者や「心の哲学」研究者の見解と社会の見解が
>一致しないことは明らかだと思うが。
なんで?
現代脳科学が言っているのは、「生きている間に、心の媒体となっているのは、脳だ」と言う事だけ。
死後の事に関しては、何も言っていない。
それに対して、釈迦が言っているのは、「死後に、心が滅すると断定するのはオカシイ」って事だろ?
そもそも、両者の扱っている部分が重なってないんだから、現代脳科学の見解と釈迦の見解は別に矛盾しないだろw
>>421 横レスだが、「釈迦が前提としていた」のか、
「前提としている人たちに説くための手段として使った」のかは、議論の余地があると思うんだがね?
>>423 う〜ん、やはり、それじゃあ推測の域をでないでしょ。
少なくとも、輪廻をする事を、釈迦が説きたかったという根拠にはならんよね。
輪廻を単体で説いた経典が無いというのなら、
「仏教の基本となる教説が、輪廻が有ると考えていないと全く成立しない」と示されれば、それなりに納得できるかな。
今のところ、「有っても無くても成立する」と思えて、聞き手を納得させる為の方便としてしか読めないんだよね。
429 :
考える名無しさん :2011/01/07(金) 11:44:37 0
430 :
考える名無しさん :2011/01/07(金) 12:01:08 O
石飛先生なんかは輪廻を正面から認めてますよね。今のところ中心テーマにはしてないみたいですけど。
431 :
考える名無しさん :2011/01/07(金) 12:02:05 0
>>429 アンベードカルは、アウトカーストのために仏教を利用して新興宗教を興したんだよ。
だから、輪廻を否定したいわけだ。
彼の仏教は、ほとんど日本でいうアゴン宗とか幸福の科学とかわんないよ。
問題外。
>>428 >今のところ、「有っても無くても成立する」と思えて、聞き手を納得させる為の方便としてしか読めないんだよね。
だからw
文言上は、絶対にそうはならないのw
用語や言い回しの全てが、三世に跨る輪廻としてのものなの。
それら用語や言い回しの語義・定義が「三世に跨ったものでない」ことが明らかにならない限りは、
「文献上の蓋然性」として「輪廻する」ことが前提となるの。
「輪廻しない」という蓋然性は、文言上は極度に低いの。
「どちらも推測に変わりない」と言うなら、蓋然性の高さで判断するしかあるまい?
433 :
考える名無しさん :2011/01/07(金) 12:04:57 0
>>430 当然ですよ。ちゃんとした学者はみんな認めてるよ。
学者なら、輪廻が実際あるかないかは別にして、仏教の中に輪廻が必然的前提となっていることを認めないわけがない。
認めない人は、なんらかの偏見が有る以外考えられない。
輪廻というフィクションがないと仏教は成り立たないのか
435 :
考える名無しさん :2011/01/07(金) 12:16:41 0
>>432 「どちらも推測に変わりない」と言う人は、思想・哲学において解釈の妥当性をどう判断するというのだろう。
例えば、テクストを読む場合、どのように正確に読んでも解釈だし推測なわけだ。逆に適当な読みを披露しても解釈・推測という意味では等価だよね。
確実なのは、テクスト上の物理的差異ぐらいだろう。
テクスト上でも、テクスト外でも充分に整合性・妥当性のある仏教の前提としての輪廻に対して、
逆にテクスト上でも、テクスト外でもほどんどむちゃくちゃな付会以外のなにものでもない、釈尊輪廻否定説がある。
これも解釈・推測という意味では等価だけど、解釈・推測としては天地ほど妥当性に開きがある。
それを認めないのは抽象化を過剰適応した詭弁にしか思えないが、どうよ?
詭弁でないというなら、思想・哲学においてはテキスト解釈の妥当性はありえず、厳密な読みもトンデモな読みも同じってことになっちまうぜ。
436 :
考える名無しさん :2011/01/07(金) 12:17:33 0
>>434 成り立たない。仏教徒はフィクションと思わないよ。
輪廻転生については当時バラモン教が広まっていて、そちらの教えがそうなっていたから信じている 者が多くて、それで釈迦はそれについての言及をせざるを得なかっただけじゃないかな。一切皆苦であり 輪廻から解脱しなければ終わらないというのは輪廻を信じるものを悟りに導く説明方法としてはうまい 説明方法だと思う。 実際には死後の世界等については無記だ。それに対する余計な観念を持ったままでは悟りが遠退く。
>>428 とりあえず、時間があるときにでも
ttp://houjugusya.web.fc2.com/link.html の転生絡みのスレだけでも読んでみ?
これまでの議論の、もっと詳細な遣り取りになってるから。
貴方の見解が100%誤りだとは言わない。
ただ、【文献上の】「蓋然性」や
>>435 が言うような「妥当性」においては、仏教は輪廻前提なのさw
>>435 >それを認めないのは抽象化を過剰適応した詭弁にしか思えないが、どうよ?
勿論、そういうものもあろうが、
釈尊の考察開始時の前提であるだけで、それ自体が「当時の世界観」という前提であることも
可能性としてゼロではない。だから、解釈・読み解き方の上で、
「問題とされていない(→引いては、“寧ろ否定的である”)」という考察が可能となる。
(上のリンク先でのどこかでも述べたが)、それを覆す決定打は、『追体験による自らの確認』しかないでしょう?w
その意味で、単なる「詭弁」や「阿諛」と一蹴する立場を私はとっていないわけさ。
【文献を離れた時(他の要素を考察材料として組み入れたとき)】、
蓋然性、妥当性は文字通り「フィフティフィフティ(等価)」となる。
439 :
考える名無しさん :2011/01/07(金) 12:45:47 0
佐々井秀嶺 『必生闘う仏教』 ヒンドゥー教のカースト制度は、霊魂(アートマン)の存在とその不滅を前提にしています。 その霊魂にも階級があり、生きとし生けるものはすべて「あらかじめ定められた身分」の枠組みの中でしか生きることはできない、とされています。 それがヒンドゥー教でいう輪廻転生の思想です。つまり霊魂、輪廻が、現実の階級制度と密着しているわけです。 これに対しブッダの教えは、人間平等の立場から”諸法無我”、すなわち霊魂の存在を否定し、輪廻思想を根拠とするカースト制度からの解放を説いているのです。 p.76 そしてもう一点、ぜひ申し上げておきたいのは、私達インド仏教徒を「新仏教」と呼ぶのは間違っている、ということです。 この呼称は、アンベードカル博士以前の仏教と私達を意図的に区別し、”元不可触民”のレッテルを貼るもので、 いわばハリジャンにも等しい呼び方だからです。ただ、「仏教徒」と呼んで下さい。同じ人間同士に、新も旧もありません。 p.83 ヒンドゥー教神話において、世界は創造・維持・破壊の三つの時代から構成される。 宗増進ブラフマーから世界の維持を託されたヴィシュヌ神は、さまざまな化身を表して世界を守る。 だが、破壊真シヴァにバトンタッチするには、正しいヒンドゥー教が栄えていては滅びる理由がない。 そのためには邪教がはびこり、魔族が栄えて世の中が乱れる必要がある。 そこで九番目の化身ブッダとなって、邪教としての仏教を広めたのである……、と云々(『バーガヴァタ・プラーナ』より取意)。 歴史上実在した人物のお釈迦様を、自分達の神話にこじつけるのも荒唐無稽ですが、そこには、 差別解放を目指す仏教を高位カーストのヒンドゥー教徒が目の敵にした意図が窺えます。 p.119
440 :
309 :2011/01/07(金) 13:02:26 0
そういえば、明確には言ってなかったが、私のスタンスは、輪廻否定じゃなく、不可知論ね。
釈迦も、「輪廻肯定」をしていたんじゃなくて、「輪廻について不可知」だったんじゃないかと思って、質問している。
「釈迦が輪廻を否定したんじゃないか?」などとは言ってない。
どうもさっきから、そのあたりで議論が空転している気がする……。
>>432 だからw
「文献上の蓋然性が高い」と言う部分を教えてほしいんだが。
これまで引用された部分は、輪廻が前提であると言い切るには弱いと思うんだが。
また、文言上の問題とは別に、釈迦の教説が、輪廻が存在しないと、全く成立しないものなのかも聞きたいんだよ。
>>438 で紹介されたリンク先にでも載ってますかね?
>「輪廻しない」という蓋然性は、文言上は極度に低いの。
だから、私が言っているのは、「輪廻が有るとしないと、蓋然性が低くなるのか?」と言う疑問。
別に、無い事にする等とは言っていない。
>>438 fm。 リンク先を読んでみますか。
……スレの数を数えただけで、読む気が失せる量だなw
441 :
考える名無しさん :2011/01/07(金) 13:14:40 0
>>438 当時の世界観、言語習慣によって方便として用いたというのは無理でしょう。
なぜなら、道の最終過程である果に宿命智があることと、
メナンドロス王や、シナ、日本など輪廻という言語習慣がない所で、
かなり強い抵抗に会いながらも、導入しているから。
これは現代西洋でも同じことで、輪廻を受け入れないものには教えないという師もいるぐらいだよ。
442 :
考える名無しさん :2011/01/07(金) 13:16:27 0
>>439 明確に新興宗教だよ。輪廻は否定するは、法脈はないは、
彼らがやっていることは社会運動で、仏教とはほとんど関係ない
現代インド人はもはやただの土人なのであんまり興味ない なんか少しずつ変わってはいるようだが
444 :
考える名無しさん :2011/01/07(金) 14:43:10 0
土人って何だ?
445 :
考える名無しさん :2011/01/07(金) 15:35:43 O
一見矛盾する輪廻と無我説の整合的な説明としてどんなものがあるだろうか?
446 :
考える名無しさん :2011/01/07(金) 15:37:09 0
>>443 そりゃ、君がものを知らないだけじゃないか?
現代インドは、政治、経済、科学とどれをとってもシナに迫る勢いだよ。
特にコンピュータに関しては他国の追従を許さない。
個人的に、その寛容な政治は大いに評価していて、インドがアメリカに変わって世界を仕切るようになれば、かなり平和になるんじゃないかと思ってる。
そしてその頂点にバラモンが立つのか おめでたい話だな そのおめでたさに気づかないところが現代インド人の土人たるゆえんだよ
実体は信じないのに輪廻は信じるってどうなのか
449 :
考える名無しさん :2011/01/07(金) 15:45:25 0
>>445 そりゃ、簡単だ。
現在の自分や諸現象で考えてみるといい。
自分は自分という同一性を持つと思ってる。
仏教ではそれは無我・空という。
しかし、同一性を持つ自分を仮設として認めて「私」とか「私のもの」と言語習慣に合わせて説く。
輪廻の主体も同じ。無我・空だが、意識、自相続などと仮設されて呼ばれる。
輪廻の主体を恒常不変なアートマンなどとするヒンドゥーなどとそこが違う。
輪廻と無我が矛盾すると言い出したのは和辻だが、私が知る限りこのような間抜けな言明はされなかった。
もし、輪廻と無我が矛盾するなら、論理的に現在の私や知覚と無我も矛盾することになるだろう。
和辻はそうは言わない。ただの詭弁だからだ。
>>449 >もし、輪廻と無我が矛盾するなら、論理的に現在の私や知覚と無我も矛盾することに
お、このアプローチは初じゃないか?w
この方向性を間接的に示唆したものはあったが、直接的にそういう対比をしたレスは、
(貴方のレスの中にも)無かったように思うが・・、失念してるだけかw
問題は、我々の「日常の継続する自我」と「輪廻し、生を受け続ける自我」との相似性、
言い換えれば、
自我が「日常、継続しているが如く見えること」と「三世に渡り継続しているが如く見えること」との相似性
を、どのように説明するか、だなw
451 :
考える名無しさん :2011/01/07(金) 16:06:47 0
魂とは遺伝子の事である。 悟りを開くとは、一生童貞・処女で過ごす事である。
452 :
考える名無しさん :2011/01/07(金) 16:56:09 0
> 現代脳科学が言っているのは、「生きている間に、心の媒体となっているのは、脳だ」と言う事だけ。 > 死後の事に関しては、何も言っていない。 だったら、この点についてあなたとは見解が違うね。ある人の脳が機能を停止したら、 その人の心の作用も一切消滅すると多くの脳科学や「心の哲学」者は考えていると思う。 それ以前に、「心」は幽霊みたいな迷信で、存在するのは脳とその機能だけだと考える 意見も強いが。この場合は、死後消滅するか否かを問う以前に、生きているときから 「心」なんてものは存在していない、ってことだ。
453 :
考える名無しさん :2011/01/07(金) 17:00:07 0
一人の人の記憶が、その人の死後、複数の人に引き継がれる 可能性も仏教では認めるのかな? 死んだAさんの経験を 異なるBさんとCさんが両方とも自分の前世として記憶して いる、みたいな。
445
>>449-450 レスサンクス。
変化の中で自我は同一性を保っているように見えるけどそれは究極的には記憶などに基づく錯覚ってとこだね。
万人に前世の記憶が残ってれば輪廻の実証は簡単なんだけど。
瞑想を深めると前世の想起が起こったりするそうだね。
>>453 仏教は自己責任を重視するから自己の行為の結果は自己のみが受けるって考えるんじゃないかな。
455 :
309 :2011/01/07(金) 19:59:30 0
>>449 横レスだが
>輪廻の主体も同じ。無我・空だが、意識、自相続などと仮設されて呼ばれる。
とりあえず名前を付けて、その性質を規定しただけじゃ、説明したことにならんぜ?w
>もし、輪廻と無我が矛盾するなら、論理的に現在の私や知覚と無我も矛盾することになるだろう。
「現在の私」や「知覚」と、「輪廻」が決定的に異なるのは、「物理的連続があるか」だろ。
そこの所を明確にしないと、意味が無いでしょ。
>>452 >ある人の脳が機能を停止したら、
>その人の心の作用も一切消滅すると多くの脳科学や「心の哲学」者は考えていると思う。
まともな科学者で、証拠が全くない事に言及する人が居るかな〜。
精々踏み込んだとして、「脳の機能=心」と定義して、
脳が破壊されれば「脳の機能=心」も停止すると言及するぐらいじゃないか?
>それ以前に、「心」は幽霊みたいな迷信で、存在するのは脳とその機能だけだと考える
>意見も強いが。この場合は、死後消滅するか否かを問う以前に、生きているときから
>「心」なんてものは存在していない、ってことだ。
そりゃ、「心」の定義の問題。
456 :
考える名無しさん :2011/01/07(金) 20:12:33 0
人 ___ ノ:;;,ヒ=-;、 ____ ゙=c_ \ (~。‐・=-;;;) /_っ='  ̄ く:::\ ,i`(;;;゙'―---‐'ヾ /:::>' \::::\ ヽ;;';ー--―-、'';;;;;゙) /::::/ \ `ソ/ ヽ/ ̄/ . \/ "-=・=-∵-=・=} / | l )∵( | | ヽ " (_,、_,).'` | まだやってるのかね〜? | \___/ . \ ノ 人 Y ( ヽ ノ 人 Y ( ヽノ 人 Y′ ( ヽノ 人 Y′ ____/⌒``ヽ ,,ー‐,, "⌒ヽ____ |____し'⌒/ . . /"⌒し′__|::| |____( /_______|::| |____/⌒ ヽ、 /______|::| |____しイ"i ゛` ,,/._______|::| l二二二二二二 l |二二二二二二二二l__:| | |::| | |::| し′ | |::| | |::| |_|;;| |_|;;| |_|;;| |_|;;|
457 :
考える名無しさん :2011/01/07(金) 20:17:39 0
>>454 仏教は何で自己責任を重視するんでしょうね。
そこに存在し続ける実体があるわけではないのなら、
なぜ、ある時刻のある人の行為なり何なりの結果が、
他の人にではなく未来のその人に降りかかるのか?
458 :
考える名無しさん :2011/01/07(金) 20:24:01 0
>>450 ちょっとだけね
>>454 >万人に前世の記憶が残ってれば輪廻の実証は簡単なんだけど。
>瞑想を深めると前世の想起が起こったりするそうだね。
そう。オイラも何人かあったことあるよ。
しかも、一人は記憶が先行して、写真や記録等でそういうことだったと確認できた。
記憶だと妄想と言われればそれまでだけど、
この点、インド人シャンティ・デヴィのケースは徹底的に検証されたといわれます。
>>455 じゃなにか物理的基体に還元して、その物理現象を数学的に記述しないと説明体系として納得できないとでもいうのかな?
そういう実在論的前提に立ったら仏教は理解できないよ。
そもそも無我も空もありえないでしょう。
縁起も実体と実体の因果関係と捉えられて、まるでヴァイシェーシカのサマヴァーヤのような別概念になる。
縁起・空・仮設を理解するのは時間が掛かるよ。
459 :
考える名無しさん :2011/01/07(金) 20:28:42 0
>>457 世界がそうなってるからでしょう。
仏教にしてもヒンドゥーにしても行者の体験から帰納され、
何千年も伝承者たちの体験によって検証されてきたものだから。
ただし、アートマン・実体があるとする状態どまりのヒンドゥーと
そこを突き抜けた無我の仏教では到達点も根本的な見解も違うので、
途中までは共通するけど、その先は違います。
ユダヤ・キリスト・イスラム系統が輪廻思想を持たないのも不思議ですね。様々な秘儀の伝統もあるでしょうに。 輪廻思想は地球規模で見ると普遍的ではないんですよね。 ただ井筒俊彦先生の本を読むと全ての宗教は究極的には同じでただ表現の違いに過ぎないのではないかと思ったりもします。
461 :
考える名無しさん :2011/01/07(金) 22:34:54 0
>>460 井筒俊彦先生は、縁起・空の理解がなく、すべて仮象と実在で解釈するので、
ヒンドゥー止まりです。『意識と本質』の始めにそのいい訳がありますよ。
恐らく中沢新一も同様の理解で、ニンマに行ったら縁起・空ではまらなかったのでしょう。
それで仏教を正しく理解する世阿弥でなく、逸脱した金春禅竹を評価するのでしょう。
462 :
計算機 ◆0dHzUh337A :2011/01/07(金) 23:36:31 0
>>461 すげーなよくレスするよ、哲学板は変態の集まりか
お前仏教に詳しそうだから聞くけど仏教の最終目的って何?
できるだけ分かりやすく
>>462 >哲学板は変態の集まりか
今更何言ってんだw
哲板のイカレっぷりはVIP並だろw
464 :
考える名無しさん :2011/01/07(金) 23:59:32 0
俺自身、哲学学者に「袋叩きにされたくなくば、偉そうにするな。
俺ら(民衆)に逆らうな。おまえらとは人数が違う。力こそが正義だ。」
そう忠告したことがあった。しかし彼は、それを聞き入れなかった。
つまりそれは、いずれ墓掘り人が生徒の中から生まれ、
自分を叩きに来ることを了承したということだ。
「かかってこいよ。」彼は俺らにそう言ったのだ。
そしてついに民衆は憤り立ち上がった。
「女尻を舐めよ!」
http://www.youtube.com/watch?v=h_e-zyxWXkQ
465 :
考える名無しさん :2011/01/08(土) 04:07:04 0
>>462 一切皆苦に対する唯一の楽である涅槃寂静
つまり、煩悩が静まり、輪廻から解脱した涅槃
466 :
計算機 ◆0dHzUh337A :2011/01/08(土) 08:06:47 0
>>465 見苦しい思考が消え、幸せな場所に行くか
死んで、二度と苦しい場所に戻らないことってことか?
俺の考えたものの方がやはり合理的だな
>>461 460
ありがとうございます。
なるほど井筒先生の本が明快なのは全てを本質と現象に二分割する梵我一如的発想だからってことですね。松本史郎先生の言うダチュバータみたいな構造だと。
ちなみに松本先生の批判はなるほどと思ったんですがその批判の先がクリアじゃない気がします。他にクリアな人を知っているわけでもないですが。
とにかく十二支縁起説や輪廻説の解釈は十人十色で読めば読むほど解らなくなります。
>>467 ですが松本史郎先生ではなくて史朗先生ですね。失礼しました。
469 :
考える名無しさん :2011/01/08(土) 15:24:26 0
>>467 まあ、松本のいうダーツヴァーダでいいけど、
松本はより酷い唯の凡人の常識に仏教を引きずり下ろす人だから、
全くの断見ですよ松本は。
あれは酷すぎ。
470 :
考える名無しさん :2011/01/08(土) 15:41:29 0
そうそうダーツヴァーダというサンスクリットには錬金術という意味があって、 彼が用いるような実在論者とか基体論者、本質主義者という意味はありません。 彼のいうことはこのようにトンチンカンなことばかりです。
空海=仮面仏教徒
473 :
考える名無しさん :2011/01/08(土) 22:22:58 0
>>471 唯の誤解。弘法大師は日本の仏教徒で間違いなく最高の方。
ただし、多くの現代の真言学者はマクロコスモスとか言って完全に仏教から逸脱してるけど。
彼らの智慧が足りないだけのこと。
475 :
考える名無しさん :2011/01/08(土) 22:40:09 0
弘法も猿の木から念仏
向こうの「何をもってして仏教?何をもってして仏教徒?」の話とリンクするなw 仮に、空海個人に A「伝統的教義(三法印、縁起・四諦等)」 B「伝統的実践」 C「呪術、祈祷」 D「奇跡」「庶民への方便・土着文化との融合」 等があったとして、 確かなAやBがあるから偉大な仏教者とするか、 CやDがあるから逸脱だとするか、 CやDは付属要素、AやBがやはり主軸と見るか、 CやDの導入によりAやB(という価値)が相殺されたとみるか。 結局、恣意的に、何を重要視し何を余分なものと見るかに依ってしまうんじゃね?
477 :
考える名無しさん :2011/01/09(日) 07:12:38 0
>>476 伝統、インド大乗仏教の伝統を弘法大師ほど伝承して、そのまま実践されている方は希。
特に、「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば我が願いも尽きなん」は、正に普賢行の誓願そのものであり、このような誓願を正確に解釈し、体現した日本仏教徒を私は知らない。
シャーンティデーヴァやシャーンタラクシタ、グル・リンポチェ、アティシャなどにほとんど同じと考えてます。
弘法大師を外道とするのは、主に二つの要因があって、
真言学者がアートマン解釈していること、
仏教学者が小乗をもって仏教としていることと思われます。
特に後者の立場、松本みたいな仏教断見派はそう考える。
478 :
計算機 ◆0dHzUh337A :2011/01/09(日) 08:41:27 0
>>477 それ仏教の最終目標と何か関係あるのか?
ポエム垂れ流すだけなら自分で専用のスレ立てたら
479 :
考える名無しさん :2011/01/09(日) 08:47:19 0
>>478 おいおい、オイラは質問に答えただけだぜ
スレ違いの問答はずーと最初からだろう。
君もずーとスレ違いなことばかり言ってきたんじゃないか?
自分の気に入らない内容だからって、突如スレ違いというのはちと可笑しいくないか?
480 :
計算機 ◆0dHzUh337A :2011/01/09(日) 09:23:21 0
反応がまともでワロタ、俺はポエマーを適当に弄ろうと思ってコメントした
哲板は玉石混淆だからね。 脊髄反射に無自覚だと、ミイラ取りがミイラになるw
482 :
考える名無しさん :2011/01/09(日) 09:37:43 0
483 :
考える名無しさん :2011/01/09(日) 09:44:39 0
仏教の最終目的。 それは死だ。
485 :
考える名無しさん :2011/01/09(日) 13:38:09 0
486 :
考える名無しさん :2011/01/09(日) 17:43:58 O
タイのブッダダーサ先生はいわゆる輪廻を否定していたのですかね? 曽根氏のサイトにそのような記載がありましたが。
プッタタートさんの本読んでみたいんだが出てないよね。なんで?
488 :
考える名無しさん :2011/01/09(日) 18:12:36 O
486
>>487 観息正念は自費出版でしかもすでに絶版ですね。ちなみに英訳はAmazonにありますね。
489 :
考える名無しさん :2011/01/09(日) 18:13:31 0
>>486 そうらしい。
そういう人は信用できない。
チベットではツルティム・ケサンとか
>>488 そうですか、勉強がてら英訳読んでみるかな。
491 :
考える名無しさん :2011/01/09(日) 18:25:59 0
輪廻があろうがなかろうが、過去と未来の間に挟まって 身動き取れなくなってんのは同じだからどっちでもいいとか。
>>489 小池龍之介さんが大きな影響を受けた先生なんですよね。
小池さんは瞑想中前世のビジョンがおぼろげながら見えることがあるそうです。
そういう体験をする方が信奉する先生なので断見ではないと思うんですが本を読んでみないとはっきりしませんね。ぜひ再版してほしいところです。
>>491 小池さんもそんなスタンスな気がします。
ちなみに最近出た自伝は実に面白かったです。
精神崩壊寸前の状態になっていた著者が瞑想で治癒される過程が興味深かったです。
493 :
考える名無しさん :2011/01/09(日) 19:15:23 0
今まで仏教に関する本をたくさん読んできたが、原始仏教は長い間誤解されてきたと思う。 釈迦の究極目標は、飲酒をせず、規則正しい生活を送り、 節制を心がけ、病気にかかることなく、嘘などを言って他人の恨みを買わないようにして 布施をもらい、身体に負担のかかるような労働は避け、長く細く生き、 そして最期は脳内麻薬を大量に放出して、死ぬことにある。 これさえできれば、来世なぞあろうがなかろうが関係ない。 どうせ生まれ変わったところで、記憶なぞないのだから。
494 :
考える名無しさん :2011/01/09(日) 19:26:49 0
>>493 いや、そりゃ間違いなく君が常識に引きつけて誤解してるぜ
せめて、片山一良先生の翻訳全部読んでからにしてくれよんしんちゃん
495 :
考える名無しさん :2011/01/09(日) 21:19:12 0
出家修行者が
>>493 みたいな魂胆な奴らだとすると、
お布施とかする気にまったくならんな。
その「労働は避け、長く細く生き」るためには
他の人に助けてもらうのが不可欠だろうから、
「全世界を救うための修行してまつ」とか
嘘をつくが必要があるw
不耕貪食
498 :
考える名無しさん :2011/01/09(日) 23:20:51 0
ニートの究極目標は、飲酒をせず、規則正しい生活を送り、 節制を心がけ、病気にかかることなく、嘘などを言って他人の恨みを買わないようにして 生活保護をもらい、身体に負担のかかるような労働は避け、長く細く生き、 そして最期は苦痛のない手段で自殺することにある、か?
499 :
考える名無しさん :2011/01/09(日) 23:38:43 0
所詮 星の数ほどある宗教のひとつだから いいところもあるし悪いところもある
500 :
考える名無しさん :2011/01/10(月) 00:02:06 0
いきなりレベルが下がったな
いきなりレベルが上がったな
502 :
計算機 ◆0dHzUh337A :2011/01/10(月) 00:12:35 0
>>501 後光効果って知ってるか?大したこと言ってなくてもな、文章を上手く飾れば崇高な内容に見せかけることが出来るんだぜ
>>502 ミラー効果って知ってるか?大したこと言ってなくてもな、文章を上手く飾れば崇高な内容に見せかけることが出来るんだぜ
504 :
考える名無しさん :2011/01/10(月) 00:36:31 0
いや〜しかしレベルが下がったな
505 :
考える名無しさん :2011/01/10(月) 00:50:18 0
>>506 それをミラー効果(「つ鏡」)といいます。
508 :
考える名無しさん :2011/01/10(月) 02:30:09 0
ミラー効果ってのは、仲がいい者同士のしぐさや考え方が似てくることじゃなかったか。
今話題になっているのは、こっちの方だろw
ミラーリング同調効果 Mirroring effect
http://shinri.c-goto.com/jikken7.html まあ、
>>507 は、略し方が一般的じゃないし、使用例的にも一般的じゃないなw
一般的には、ミラーリングか、同調効果と略すし、
使用例としては、相手との親近感を形成するために、言動をまねることを言う。
相手をからかう為に、鸚鵡返しをするのは、ミラーリングとはあんまり言わないな。
仏教ってロボトミー手術ってありなの?強制的に解脱できそうなんだが
514 :
考える名無しさん :2011/01/10(月) 14:37:46 0
>>513 ない。それじゃ、解脱ではなくて眠ってるようなもの。
死ねば輪廻してしまうでしょう。
でも苦に悩まされることないですよ。仏教の目標は達成されてるのでは? 一生寝ていられるなら輪廻も気にならないでしょう。
>>513 ありです。釈尊が現存したら「それもあり」といわれるでしょう。
517 :
考える名無しさん :2011/01/10(月) 15:38:43 0
>>515 仏教の苦はそんな射程の狭いものじゃないんです。
そして、今生はそれでいいとしても来世が全く視野に入ってませんね。
それだったら、自殺することと同じでしょう。
ですが、仏教は凡人の自殺を認めません。
なぜなら、輪廻するだけでなんの解決にもならないからです。
>>516 ないない、上の理由で。
518 :
考える名無しさん :2011/01/10(月) 16:50:20 0
ロボトミーじゃちょっと説明つかないけど 人間がその気になれば仏教的戒律を守ったまま苦痛を薬などで和らげて生きるすべを見つけられる気がする。 そうすれば人間道から外れることなく輪廻を楽しめるのではないか。 精神医薬や麻薬をもっと研究すべき。カルト気味になってきたなw
519 :
考える名無しさん :2011/01/10(月) 19:39:18 0
>>518 それじゃ解決できないよ。
万能のカルマは、別の形で現れる。
そんなこと考えるってことは、あんまり現世的楽しみに飽きてないようですね。
輪廻は上の議論で否定された。
521 :
考える名無しさん :2011/01/10(月) 20:08:55 0
>>520 え〜、逆でしょ。輪廻が仏教の前提となってることが論証された。
523 :
考える名無しさん :2011/01/11(火) 00:48:49 0
これ以上やっても水掛け論だから、お題変えようぜよ。 誰かよろしく。
>>520 逆の逆です。釈迦は輪廻を否定しました。
525 :
考える名無しさん :2011/01/11(火) 02:03:12 0
[315] 今朝、会員の宇根君から来た学問研究メールは、すばらしいので、早速ここに載せます。
投稿者:副島隆彦 投稿日:2006/08/24(Thu) 18:28:37
http://snsi-j.jp/boards/sample1/89.html はじめまして、会員の宇根康裕です。27歳で京都で技術開発をしている会社員です。今回メールする
目的は、最近道場で話題になっている宗教に関して、最近読んだ「スピノザ」 (上野修著NHK出版)
をヒントに、私が考えたことをとを書くためです。
いきなりですが、結論は
キリスト教は、キリストを信じる「信仰」であり、スピノザ、ウィトゲンシュタインは、真理を証明する「哲学」である。
初期仏教は真理を理解する「哲学」であり、各種大乗仏教は、「信仰」のあつまりであり “仏教”ではない。
老荘思想は、儒教と対立していて、道教は、道を信じる「信仰」で、間違った政治(間違った儒教)に対抗している。
以下のブッダに関する記述は、主に宮元啓一氏と石飛道子氏の本を読み、私が理解したことである。ブッダは12因縁を
順逆に観じ、悟りを得た。ブッダが発見したのは、 西洋にはない、因果の論理学であり、ブッダはその論理学を用いて、
ついに真理を“発見”した。
これまでの ヒンズー教は、信仰であったが、信仰とは別の世界、真理の世界に入った。
仏教は真理を発見する哲学であり、信仰ではなく、必死で考えなければならなかった。考えて、考えて、考え抜いた先に、
真理を見ることができるのであって、信仰をいくらやっても、真理には到達しえない。
輪廻の輪から抜け出すということは、当時の信仰の輪(ヒンズー教)から抜け出すということである。
ブッダは信仰から抜け出して、真理の世界へ行った。
526 :
考える名無しさん :2011/01/11(火) 02:04:15 0
勘違いしてはならないのは、ブッダは輪廻を前提として、その輪廻から抜けたのではなく、輪廻など 考え無くて良しというところにいったのだ。輪廻は真理でないと悟ったのである。 また、ブッダは、信仰を捨てて真理の道へいくことが、自らの体験で難しいとわかっているから、 信仰をすてるための修行をさせている。しかし、民衆は修行に耐えれなくなった。そこで、民衆は 真理ではなく、信仰を求めるようになった。 これが大乗仏教である。空なんだと思え、あるいは、唱えろ、極楽を信じろ、という信仰だと考える。 大乗仏教は信仰であるがゆえ、よいと思った信仰はどんどん取り入れられる。こうして、大乗仏教は、 どんどん派生していったのだろう。大乗仏教は信仰である以上、本当の仏教(哲学)ではない。袴谷 (はかまや)氏の批判仏教からは、ハッキリみてとることができなかったが、私は初期仏教と後の 仏教は、真理(哲学)か信仰(宗教)か、の違いだと考える。 以上から、初期仏教と大乗仏教は、まとめられないことは明らかである。 宮元啓一氏と石飛道子氏の本は、ブッダの論理学の核心、大乗仏教の核心(=般若心経の核心)に 最速で迫る書物である。
527 :
考える名無しさん :2011/01/11(火) 02:06:44 0
[488] 私は、インド、ネパールの旅から帰ってきました。 投稿者:副島隆彦 投稿日:2007/03/08(Thu) 19:37:46 この世の一切を、根底から批判しつくそうという、私の気迫を、横山老師なら、分かってくださるでしょう。 私が、これまでに、冗談で、あれこれの真実暴露の、恐ろしい本 を冗談で書いてきたなどど、思っている ような連中は、全部、激しい、やけどを負わせてやろうと思います。 私の頭脳と思想が、そこらの生来の 軽度のキチガイたち程度に、負けるわけがないのです。 僧侶の河口慧海(かわぐちえかい)が、1898年(明治30年)からインドに入って、のちに、(「西蔵旅行記」 (あるいは「チベット三年記」)を書いたその足跡も私もネパールまで、行ってみて、カトマンドゥーからポカラ まで飛んで、「彼は、こんな道を歩いて、ヒマラヤを越えて、チベットまではいっていったのか」 と実感で 分かりました。 彼ら、明治になってからの、日本の高僧たちは、本物は、すべて日本のウソ仏教への、激しい疑念の気持ちを 持って、そして、大乗仏教(だいじょうぶっきょう、Mahayana マハヤーナ)という大嘘を、暴く ために、それで、死ぬ気で、本場の発祥の地のインドに入っていったのだと、よく分かりました。その 「大きな真実の暴き」の気迫が、他のなにものにも代えがたく何よりも大事なのだと私にはいよいよ 分かりました。 ゴータマ・ブッダその人の思想は、日本の小思想家である、小林秀雄が言った「無私(むし)」 とか、 漱石の「則天去私(そくてんきょし)」などではなくて、 無我(むが) そのものである。 日本で だけはやった、「道心」(、どうしんみちを究める)などではない。 諸行無常の「無常」(つねなるものはない)などではなない。 無常観など、ブッダの教えと無関係だ。 ただひたすら 無我(むが、おのれの存在の否定)そのものだ。縁起(えんぎ)などでもない。 四諦(したい)まではいいけど、八正道(はっしょうどう)も怪しい。
528 :
考える名無しさん :2011/01/11(火) 02:09:36 0
もっと面白い話して
529 :
考える名無しさん :2011/01/11(火) 02:11:35 0
ナーガルジュナ(竜樹)の、唯識(唯識)や阿頼耶識(あらやしき)などの中観(ちゅうがん) ですらない。それらも、ブッダ本人は言っていない。チベット仏教で発生した、マントラ(密教、 =真言しんごん、加持祈祷 )の類も、一切、ブッダ本人とは、関係ない。 仏教(ブッダのことば)は、徹底的に、無神論である。ブッダは、一切の神を信じない。 空(くう)とは、 絶対的に 無 のことである。これ以外の解釈はすべてウソだ。 死ねば一切が、消える。すべては、無だ、 という思想です。出家した者は、生きている限り修行だけせよ。 ただし、いたずらに激しい修行(苦行)などはするな、という一点で、彼は、悟った。そして、悟り(正覚) というには、解脱(げだつ)で、ブッダが6年間厳しい修行をして、35歳で到達したのですが、この「解脱 (げだつ)」というは、ヒンドゥーの思想そのものであって、仏教に中には、それに相当する言葉がない。 ブッダの80歳での死のことを、涅槃(ねはん、ニルヴァーナ)と言って、入寂、仏滅ですが、こっちが、本当の悟り (understanding、deliverence )というのではないですか。 仏教には、 悟り(解脱)というのは無いはずです。 仏教(釈迦の教え、ブッダの言葉)は、徹底的に、死ねばすべてがおしまい、消えてなくなるのだ、という思想です。
530 :
考える名無しさん :2011/01/11(火) 02:13:03 0
産業でまとめろ
531 :
計算機 ◆0dHzUh337A :2011/01/11(火) 07:56:20 0
始まってしまったかポエマーの儀式が
532 :
考える名無しさん :2011/01/11(火) 08:24:14 0
副島はドアホ、相手にすんな
533 :
考える名無しさん :2011/01/11(火) 11:06:01 0
>>529 空が絶対的に無ってのがわからん。
それなら空なんて言葉いらんやん。
虚無というのははじめから存在しない事だろ?
空の概念の中に虚無が含まれるんじゃないのか?
534 :
考える名無しさん :2011/01/11(火) 12:15:27 0
>>533 相手にすんな。何も分かって無くて言葉を適当に繋いでるだけなんだから
536 :
考える名無しさん :2011/01/11(火) 12:23:28 0
>>534 そうなんですか。
じゃあスルーします。
537 :
考える名無しさん :2011/01/11(火) 12:33:24 O
副島氏は尖閣問題は日米の陰謀だそうだ
538 :
考える名無しさん :2011/01/11(火) 12:38:40 0
>>536 間違いないよ。例えば、
「輪廻など考え無くて良しというところにいったのだ。輪廻は真理でないと悟ったのである」
「宮元啓一氏と石飛道子氏の本は、ブッダの論理学の核心、大乗仏教の核心(=般若心経の核心)に最速で迫る書物である」
宮元啓一と石飛道子は、輪廻は仏教の必然的前提であると明解に宣言している数少ない学者だし、宮元啓一と石飛道子は相容れない解釈をもっている。
宮元啓一は要するにヒンドゥーと仏教は本質的に同じで仮象と実在で捉える人。
石飛道子は真に才能ある学者で、釈尊・龍樹菩薩の本質に始めて迫っている文献学者。
そこら辺も分かってないし、もうむちゃくちゃ。
宮元先生の十二縁起解釈はピンとこなかった。 石飛先生のまとまった形での十二縁起の解釈が待たれるところ。順観としての輪廻、逆観としての涅槃もからめて。
540 :
考える名無しさん :2011/01/11(火) 13:47:29 0
そもそも仏陀は輪廻を否定したからなぁ。。
542 :
考える名無しさん :2011/01/11(火) 14:18:34 0
>>541 してないって。もう。
和辻とか並川みたいなドキュン説は問題外
543 :
考える名無しさん :2011/01/11(火) 16:34:57 O
死んだら完全に無なのが怖いのか。死んでもまた生まれて苦しみが永遠に続くのが怖いのか。現代人にしてみたら前者の方が怖い気がするんだけど。
だから凡人は輪廻を否定できないわけよ。 仏陀の眼目はそれを否定したところにある。
545 :
考える名無しさん :2011/01/11(火) 17:03:04 0
仏 陀 再 誕 !
>>544 たしかに輪廻は不死願望と相性がいいとこがあるね。永遠に幸福に暮したいみたいな。
思いつきだけどバラモン教だと輪廻と解脱両方が有の立場ってことになるかも。苦楽の違いはあるけど。
547 :
考える名無しさん :2011/01/11(火) 18:31:34 0
>>543 だから、死んだら無なら、自殺すればオッケーだよ。
輪廻するのは苦なわけ。死んでも苦から逃れられない、
逃れるには四諦にそって修行するしかないというのが仏教
>>544 何処で言ってるんだ?
並川の言ってることは唯の詭弁だぞ。
>>546 それはインドではありえない。インドのどの宗教も輪廻は苦としてる。
ローカーヤタを除いて。
548 :
考える名無しさん :2011/01/11(火) 20:19:28 0
仏陀は輪廻を否定した−んなこたぁねえ ってやり取りはもうヌルポ−ガッと同じ。
549 :
考える名無しさん :2011/01/11(火) 20:36:33 0
>>548 輪廻否定という人は、文献的、学問的根拠が全く示せませんね
上の議論で示してましたね
551 :
考える名無しさん :2011/01/11(火) 21:06:38 0
>>550 またまた、解釈だけでしょう。学説もテキストの指示も全くないでしょう。
それが示せないなら、もう輪廻否定発言しないことです。
それが学問的に話し合うやり方ではないでしょうか?
552 :
考える名無しさん :2011/01/11(火) 21:35:14 0
どんな学説もテキストも、私の脳内仏陀にはかないません、とさ。
553 :
考える名無しさん :2011/01/11(火) 21:44:56 0
輪廻否定派は唯のネラってことですね。よく分かりました。
輪廻など確かめることもできないことをブッタが肯定するわけないじゃん
すげー不毛だなこのスレ
556 :
考える名無しさん :2011/01/11(火) 21:48:11 0
脳内仏陀妄想炸裂!
557 :
考える名無しさん :2011/01/11(火) 21:49:25 0
そうでもない。文献的には、仏陀は輪廻を前提にしていると考えるしか ないことがよく分かった。
脳内輪廻妄想炸裂!
そうでもない。文献的には、仏陀は輪廻を否定していると考えるしか ないことがよく分かった。
560 :
考える名無しさん :2011/01/11(火) 22:12:49 0
>>557 そりゃそう。ウパニシャッドなどの苦行者文学を受けてサムサーラという言葉を唱えたのは釈尊である可能性が高いし、
パーリ・ニカーヤにも北伝系アーガマのサンスクリット断片、漢訳、チベット訳でも、当然パラローカ、サムサーラという言葉が前提として語られており、
パラローカ来世、サムサーラ輪廻が無いという見解は断見という邪見として斥けられているのですから。
これは『スッタニパータ』など所謂古層と言われるテキストでも同じこと。
並川説は話にならない詭弁以外の何物でもないのですから。
ワロタ!
562 :
考える名無しさん :2011/01/11(火) 22:32:09 0
邪見だろうが何だろうが少しでも可能性がある限り疑っていいんじゃないの? ここは信心深い坊さんが話し合う場所じゃないんだぜ?
563 :
考える名無しさん :2011/01/11(火) 22:44:04 0
>>554 >輪廻など確かめることもできないことをブッタが肯定するわけないじゃん
上のようなドグサ、臆説、偏見、常識で仏教読んだら、常識以上の何もでない。
そのような読みが以下にくだらないかパーリ『梵網経』で釈尊が吐き捨てるように嘆いている。
長部・中部経典を読めば、釈尊が過去世を直接知覚しているとほとんどの経典で書かれているし、仏教の最終過程に宿命通という過去世の記憶が分かる能力が結果とされる。
これは通仏教的なものだよ。
564 :
考える名無しさん :2011/01/11(火) 22:47:30 0
>>562 そういう意味ではない。テキストにはそう書かれているということ。
つまり、輪廻を否定するなら、仏教的に正しくないと明記されているということ。
なんつうか、テキストの取り扱いの初歩も知らないと告白してるようなもんだ。
テキストに書かれてることは認めなければならない。
解釈はそこからだ。
565 :
考える名無しさん :2011/01/11(火) 22:48:37 0
じゃあ面倒臭いから仏陀が肯定したって事にしとこう。 で、何でそんな適当な事ほざいたん?
566 :
計算機 ◆0dHzUh337A :2011/01/11(火) 23:45:51 0
仏教じゃないけど、俺「武士道」に知り合って、かなり助かったよ。 大学で、社会科学系(職業訓練科目)の科目の講師たちが、 生徒のプライドを殺して民間企業に放り出そうと、「おまえらは所詮はネズミにすぎない、 それを認めろよ(相手はまだ10代や20歳のほやほや)、ネズミとして平身低頭して生きてけ」 ってな感じで、生徒の個人史や無意識から来る潜在態を捨象し、上から圧力かけてくる。 大学院の研究室にまで登りつめれば、まだ完成されてないまでも、もうかなり顕在化されてるから、 あとは学歴が守ってくれるけど、それまで耐え抜くのが精神的にキツすぎる。 大人の科学的知識による帰納や権力や言葉の暴力から自らの誇りを守り抜くためには、 過去の知的巨人や戦士たちの権威が必要だ。冬休み明けて学校に行って、改めてそう思った。 俺もいまいちど、武士道の権力を借りることにする。今の俺は、はっきりいって弱い。 だからこそ、今の俺には、彼らの力が必要なんだ。 あと、この中にリアル院生いたら、大学講師への対抗手段みたいなの、誰か少し教えてくれ。 あいつらの言いなりにはなりたくない。あんな奴らの圧力には屈したくない。
568 :
考える名無しさん :2011/01/12(水) 00:31:41 0
「武士道」のことを語るスレではないので、そのような書き込みはご遠慮ください。
569 :
計算機 ◆0dHzUh337A :2011/01/12(水) 00:45:11 0
>>567 俺が質問した人か?後光効果で相手を言いくるめようってことか、その人たちが言ってる内容が後光効果で誇張されてないか意識したら、少しは楽になるかもよ
570 :
考える名無しさん :2011/01/12(水) 01:16:38 0
>>567 武士道じゃなくて覚悟の力だよ。つまり武士道的な悟りさ。
それは戦場で生き残るための必須条件であり覚悟の無い武士は
生き残らず、死と背中合わせの修羅場を潜り抜けてきた人は
その迷わない。何故かといえば迷った瞬間の遅れは死を意味するからだ。
勝負の世界では迷いほど負けに繋がる条件はない。勝つのは運だが
負けるのは運ではなく迷いによって負ける。常に勝つには迷いとは
無縁であるわけだ。
仏教も人の迷いを対処する為の教えだろ?
>>568 >>571 そもそも武士道は、仏教と神道と儒教が合体したものであり、
仏教と密接な関わりを持っていたはず。
>負けるのは運ではなく迷いによって負ける。
常に勝つには迷いとは無縁であるわけだ。
そうだよな、俺も別に、進んで周りから嫌われたいような変態ではないし、
謙虚な態度を取り、彼らと仲良くして、 折り合いをつけてゆく道も考えた。
でも、本にも書いてたけど、そういうのが一番醜い様相を呈すんだよな。
「人に好かれたいから、嫌われたくないから」なんてホザいていたら、
自分の正義を貫くことなんて出来はしない。
日頃から人を助けない人は、いざという時に周りから助けて貰えない、
人と助け合って生きていきなさいと彼らは言うが、それは試験関門をくぐり抜け、
お互いにその実力を讃えあう、戦友同士でこそあり得るものであり、
名門私立高等学校の職員室という聖域でこそ為し得るものなんだよな。
ロクに試験もくぐり抜けていない者同士で助け合うようなことを、俗に「傷の舐め合い」と呼ぶ。
素人だけど色んな解釈があったから宗派に分かれたんでないの? ざっくり言っちゃうと何を信じ、どう生きるかは本人次第だよ 多くの人は信仰の違いを問題にする。改宗はとても難しい事だからね。 だからどのような論理を持ってくるか、どう説得するか、そこに集中する。 仏教の最終目標がどうあれ、論争を起こすようでは悟りは得られないと思うよ。
574 :
考える名無しさん :2011/01/12(水) 08:19:04 O
仏教の生滅の存在論とヘーゲルの生成の存在論はどこが違うのだろう?
575 :
考える名無しさん :2011/01/12(水) 08:38:12 0
>>574 >仏教の生滅の存在論とヘーゲルの生成の存在論はどこが違うのだろう?
ヘーゲルは昔数冊読んだだけでよく憶えてないけどガイストとか神を実在としてるでしょ。
それだと、ヒンドゥーなどの実在と仮象になっちゃうんだよね。
仏教はガイストとか神のような実在を設定しないのです。
>>571 武士道を学びたいなら、
葉隠入門 (新潮文庫) [文庫]
三島 由紀夫 (著)
これがお勧めかな。
貴方の状況にもきっと役に立つと思うよ。
577 :
考える名無しさん :2011/01/12(水) 11:32:22 0
>>573 このスレは悟りよりも論争の方が大事
むしろ悟り開こうとしてるような奴は来なくていい
578 :
考える名無しさん :2011/01/12(水) 11:45:29 O
>>575 なるほど。仮象のみが生滅するって感じだね。
579 :
考える名無しさん :2011/01/12(水) 12:24:28 0
>>578 そうそう、それを縁起・無我・空・仮設というわけです。
物事・現象・経験に本質・アルケー、実在・実体などを求めてしまう傾向を実在論・本質主義と呼んでます。
仏教だと我見とか有身見と言われる根本的認識誤り、無明と言われます。
ライプニッツの問いがまさに我見とか有身見の典型と思われます。
>>567 武士道に知り合って助かったってんなら、なんでそんなくだらないことで悩んでんだよ?
仏教の視点からアドバイスできるが、
それを求めてはいなさそうなので他のスレに行った方がいいね。
>>572 インテリ武士で仏教の知識が無かった人なんていないが、
武士道と仏教とはやはり違うものだな。
剣道ならモロ仏教だが。
>>567 怨憎会苦ってやつだね。そこから離れるか、離れられないなら一切怒らず考えず受け流すのが最善。相手との勝ち負けを離れるのが最善。実践は難しいけど。
582 :
考える名無しさん :2011/01/12(水) 16:13:40 0
>>567 仏教的には一番いいのはプライドを棄てて自分を低く見ること。
これは難しいけど、これができれば無敵です。
二番は、浄観。なんでも善く考えること。
これもちょっと難しい。
三番は、上の方も言っている通り、そこから離れるか無視するか。
これは最低ですが、もっとも簡単。
>>572 >常に勝つには迷いとは無縁であるわけだ。
勘違いしているな。常に勝つとかそんな実例はない
常に活用に見えても極所的には負ける、平均した勝率で勝つだけにすぎない。
そもそも100%勝つのならば勝負とは言わないし日本語だいじょうぶか
という話になる。
584 :
考える名無しさん :2011/01/12(水) 19:22:52 0
武士道が仏教と密接なかかわりを持つのはわかったけど このスレで武士道持ち出す必要は無いと思うんだけどね 武士道のスレで仏教持ち出すならまだ解る
仏教のスレで武士道持ち出すのは正常
586 :
考える名無しさん :2011/01/12(水) 19:28:18 0
うぜえから持ち出さなくていいよ 武士道とか気持ち悪いから
587 :
考える名無しさん :2011/01/12(水) 19:28:35 0
仏教は「零(真なる自分自身)」を見出し(さとる)、 「執着」だの「欲望」だのといった「自分(零)から はみ出す余分なこと」を徹底排除して「中庸(中正)」を 得るための教えではないかと考えまてます。
588 :
考える名無しさん :2011/01/12(水) 19:29:07 0
原始仏教をアカデミックに語れ
589 :
考える名無しさん :2011/01/12(水) 19:34:03 0
「バラモンはその生まれからバラモンになるのではない」 という言葉が言い表すように、「まさに行為が自分自身となる」 のなら、その行いの中で「自分に余計なこと」をしないことが 「真の自分の位置」を見出し「苦しみと、その成り立ちと、 その消し方と、悟りに至る境地」に導くことになるのでは ないかと。本当の自分自身を見出し、それを保持し実行して 生きれば苦しみは生まれない。楽しみもない。自分があるだけですからね。
>>567 の迷の根源は
>大学院の研究室にまで登りつめれば、まだ完成されてないまでも、もうかなり顕在化されてるから、
>あとは学歴が守ってくれるけど
ここだ。上っ面では「勝ちたい、勝ちたい」なんて言ってるが、その実、
結局のところは「守って欲しい、守って欲しい」と思ってんだよ。
何かに守ってなんかもらわなくても、
人には元々それ自身で立っていける力が備わっている。
むしろ、自分を守ってくれるものなんて自分本来の力を発揮するのにはジャマでしかない。
そんなものはこっちから捨ててしまえ。
プライドも同じことだ。プライドという固い殻に閉じこもれば傷付かないかもしれないが
自分本来の持っている力を自由自在に発揮することはできなくなる。
全て捨てて空になり切ってしまえ。
空になり切れた者は自分本来が持っている無限の力を自由自在に操れるので、
勝とう勝とう、なんて力まずとも勝手に勝利は回ってくる。
しかしその時にはすでに、勝ち負けなんて意識は消えてなくなっているだろう。
だから万が一負けてもいいんだ。どっちにしろ空虚な問題なんだよそんなことは。
591 :
考える名無しさん :2011/01/12(水) 19:36:47 0
インチキ坊主みたいな奴が入ってきてレベルが落ちたな。
592 :
考える名無しさん :2011/01/12(水) 19:37:56 0
お悩み相談したいなら他行け
>>591 じゃあまず人生相談してる奴にスレ違いだって言うのがスジだろ?
>>584 > このスレで武士道持ち出す必要は無いと思うんだけどね
物事は関係によって成立している、どんな関係の無いと思うものでも関係している。
君がそれを望むか望まないかとかは関係ない。
仏教自閉症
駅前入仏
597 :
考える名無しさん :2011/01/12(水) 22:08:48 0
598 :
計算機 ◆0dHzUh337A :2011/01/12(水) 22:42:41 0
>>594 どんなものでも関係していると言ってるそばから矛盾したこと言うなよww
基準でもあるのか?
武士って日本人のうちのほんの一握りだよ。 日本人=サムライみたいなイメージっていう 明治以降、忠君愛国のために政府が押し付けた幻想に浸りこんで、無力な自分を 大学院の権威や、過去の知的巨人や戦士たちの権威や武士道の権力という虚像で 飾り立てたい人には甘い誘惑だよね。 サムライのわかりやすいイメージって。
>>599 実際に死と等価の修羅場を潜り抜け守り抜いたものがサムライだろ。
それは君主に使えているだけの立場やら、役職がそれだからとか
武芸が達者という問題ではない。仏教が抱えている問題もそれと同じ
形式だけ仏教であってもそれは形式だけにすぎない。
知識だけな間抜け君にはそれが理解できないんだよ。
601 :
考える名無しさん :2011/01/13(木) 03:29:26 0
仏教が抱えている問題って何?
なら今からチェチェン独立ゲリラに入隊してくればいいじゃん。 キレイ事言ってんじゃねえよ
>>602 は武士道とか言ってサムライに自分を重ね合わせて
何の覚悟もなく殺人の幻想に酔ってる人に向けたレス。
いや、正直、
>>599 の言うことは、かなり図星ではあるんだよね。
>大学院の権威や、過去の知的巨人や戦士たちの権威や武士道の権力という
虚像で飾り立てたい人
まさにその通りなんだけど、折角そういう伝統を利用できる環境にいるんだから、
それを利用しない手はないでしょ? これは、民衆たちの脅威から貴族を守るために、
先達たちが残してくれた遺産でもあるのだから、存分に利用するべき。
悲しいかな、世間には人の生まれや経歴や功績を認められない、浅ましい大人が
結構いるんだよね。そういう数の権力を嵩に着た鼠たちの僻みや策謀の脅威から
身を守るためには、こちら側もそれ相応の武装をせねばならない時もあるし、
時には特権勢力の権力を行使して、見せしめに叩き潰さねばならない時もある。
奴らは言う。「周りに合わせない、協調性のない奴は、いずれ潰れる」。
しかし、それを都合のいいことに、数で寄って集って、職場などで突出した人間を
引きずり降ろしたりする姿はあまりにも醜い。歴史上などでもよく言われるが、
それはその独裁者個人に焦点を当てた場合であって、そいつに無惨に引き裂かれた
大多数の弱小共に焦点を当てた話ではない。確かに、上に挙げたような命題もある。
しかし、「この世には怒らせてはいけない性格の人間もいる」。それも事実。
数に屈したら負けなんだよ、本当。個人ではまるで力を持たない
身の程知らず共に、家格の違いというものを、見せしめに教えてやらなきゃ。
こうやって口で言ってるだけの20歳のうちはまだ花なんだよ。
人を攻撃すれば、自分も攻撃されるという因果応報を、俺が身をもって教えてくれる。
>>602 サムライが知りたいなら銀魂みてこい。君のは感情論にすぎない。
そしてサムライは理屈で動くものでも感情で動くものでもない。
それが理解できろとは言わないが君程度では無理ってものさ。
>>604 >人を攻撃すれば、自分も攻撃されるという因果応報を、
それは理屈ではない、自然の摂理ってものだ。
知っていて主張しているかは不明だが、体験しないものが
それを知ることはありえない、つまり説明しても無意味ってこと。
606 :
考える名無しさん :2011/01/13(木) 05:08:32 0
仏教徒が様々な宗教・思想を取り入れて言ったと思ってたが、 当時バラモン教がすでにヴェーダにおいて高度な哲学を持っていたから それらの有力な研究者・哲学者の中で、 釈迦一派の哲学を柔軟に取り入れた動きがあったのかな?
607 :
考える名無しさん :2011/01/13(木) 07:23:50 0
>>606 インド思想は釈尊と龍樹菩薩によって一変したと思う。
608 :
考える名無しさん :2011/01/13(木) 09:35:50 O
宮元先生の「ブッダが考えたこと」のvivekatrekさんのAmazonカスタマーレビューを読んでの思いつき。 無明(本質・同一性・主体)と生老死(現象・変化・非同一性・差異)の繰り返し・循環が輪廻。 無明も仮象であったとの認識が涅槃。 無明は無明を認識することのみで滅する。 輪廻とは無明から個々に分裂した仮の主体による個々の体験の連鎖。
609 :
考える名無しさん :2011/01/13(木) 21:55:06 0
じゃあ輪廻転生というのは何ですか?
610 :
考える名無しさん :2011/01/13(木) 22:39:19 0
よく空想に熱く語れますね。
611 :
考える名無しさん :2011/01/13(木) 23:16:50 0
空想じゃなくて空想した人について語ってるんでしょ? これは学問だよ。
612 :
考える名無しさん :2011/01/13(木) 23:28:09 0
つか、学問だとテクストとか、遺物、美術など物理的なものの記述だね
613 :
考える名無しさん :2011/01/14(金) 09:09:49 O
ジャイナ教との比較みたいな新刊が出てるね
614 :
考える名無しさん :2011/01/15(土) 00:28:05 0
中国仏教がスッポリ抜け落ちてる様な気がするんだが 諸子百家や儒教が強すぎたせい?
615 :
考える名無しさん :2011/01/15(土) 08:42:12 O
616 :
考える名無しさん :2011/01/16(日) 14:13:34 0
>>615 中国は中央が漢民族、周囲はイスラム系と、チベットモンゴル系
中国思想といえば漢民族の思想であって、のこりの大多数はイスラムだって
ことを学ぶべき。つか何の調査もしていない知識のコピペ連鎖の書籍を
読みすぎ。ほとんどが自身で調べていない事実を他の書物の知識を表現しな
おしただけの情報なのに真実だと思い込んでしまう愚かさ。
617 :
考える名無しさん :2011/01/16(日) 14:51:31 0
>>616 おまえの知識も信じるに値しないけどな。
618 :
考える名無しさん :2011/01/16(日) 15:56:13 0
漢民族って20世紀初頭に付けられた名称じゃないか・・
619 :
考える名無しさん :2011/01/16(日) 16:00:09 0
老荘思想とインド教って似てるか?俺は似てるとは思わないな。
われら管民族!
621 :
考える名無しさん :2011/01/16(日) 17:22:36 O
>>619 どちらも本質と現象の二元論じゃないかな。そうじゃない宗教思想の方が珍しいけど。
>>621 >本質と現象
まずこの2つの言葉を君の言葉で説明してみせろ。
何もわかっていないんだろ?コピペー的な知識では何も解決しない。
624 :
考える名無しさん :2011/01/16(日) 18:29:22 O
>>622 神と一切世界だと考えます。
あなたはどう考えるのですか。
625 :
考える名無しさん :2011/01/16(日) 19:00:07 0
仏教というものが、インドから中国に渡ってるのが事実なわけだから その思想が似ているのは当たり前だろ? むしろ違う個所がある事のほうが問題で、時の権力者の都合で変えられて きたことにあるだろ。 そっからさらに日本はそれをコピーして、また時の権力者の都合で 解釈が変わってきてるのだから、今の日本の仏教というのは正確には 仏教でないといえるわな。 カレーと同じように考えるとわかりやすいかも。 つまり日本の仏教はオリジナルとは違うが基本は同じ感じで、 そのその宗派(家庭家庭)に独自性(味)がある。 どちらも人が造り出したものだから最終的な目的というのはなく 仏教は人の心の安定を、カレーは人の舌を満足させる。 どうだろ?
>>625 古代のインドから古典的な仏教が伝わったのであって途中やら最初の
仏教とはかなり変わっている。中国で仏教がはやったころにインドでは仏教は
衰退しその時点で逆輸入している。さら最近もインドでの仏教は衰退し
日本人がその仏教を再生して現在のインド仏教のTOPに君臨しているのは事実だ。
627 :
考える名無しさん :2011/01/17(月) 03:57:07 0
仏教の歴史はどうでもいいよ
>>627 未来もどうでもいいさ。さらに現在もな。
629 :
考える名無しさん :2011/01/17(月) 05:05:20 0
どうでもいいなら、うせてくれるかな
630 :
考える名無しさん :2011/01/17(月) 05:19:27 0
どうでもいい奴も参加していいよ
631 :
考える名無しさん :2011/01/17(月) 05:22:31 0
どうでもいい奴に限って、大学教授に対抗するとか わけわからんこと言って荒らすからうせて欲しいんだ。
567 :考える名無しさん:2011/01/12(水) 00:10:14 0 仏教じゃないけど、俺「武士道」に知り合って、かなり助かったよ。 大学で、社会科学系(職業訓練科目)の科目の講師たちが、 生徒のプライドを殺して民間企業に放り出そうと、「おまえらは所詮はネズミにすぎない、 それを認めろよ(相手はまだ10代や20歳のほやほや)、ネズミとして平身低頭して生きてけ」 ってな感じで、生徒の個人史や無意識から来る潜在態を捨象し、上から圧力かけてくる。 大学院の研究室にまで登りつめれば、まだ完成されてないまでも、もうかなり顕在化されてるから、 あとは学歴が守ってくれるけど、それまで耐え抜くのが精神的にキツすぎる。 大人の科学的知識による帰納や権力や言葉の暴力から自らの誇りを守り抜くためには、 過去の知的巨人や戦士たちの権威が必要だ。冬休み明けて学校に行って、改めてそう思った。 俺もいまいちど、武士道の権力を借りることにする。今の俺は、はっきりいって弱い。 だからこそ、今の俺には、彼らの力が必要なんだ。 あと、この中にリアル院生いたら、大学講師への対抗手段みたいなの、誰か少し教えてくれ。 あいつらの言いなりにはなりたくない。あんな奴らの圧力には屈したくない。
>サムライが知りたいなら銀魂みてこい。 >サムライが知りたいなら銀魂みてこい。 >サムライが知りたいなら銀魂みてこい。
634 :
考える名無しさん :2011/01/17(月) 10:36:33 O
>>625 心の安定と同時にこの世界の真理・自分の存在の意義を知ることも大きな目的なんじゃないかな。
真・善・美の究極を目指すものだと。
輪廻なんてないんじゃないの? ないんなら解脱なんかできないんじゃないの? そんないい加減なものを最終目的にしてる仏教って なんかアホすぎ
>>625 >仏教は人の心の安定を、カレーは人の舌を満足させる。
これと正反対なことも然り。
君が分かっていないのは全てに側面があり、何かには必ず対価となる
バランスを取る秩序が存在している。
そんな単純にはゆかないんです。
>>635 海の表面に注目すると同じような渦をずっと巻いていたり、同じような波が繰り返し来ているが、
水中にそれはない。
これと同じようなことではないかと思う。つまり、輪廻のように見える繰り返しの現象は
表層部分では起こっている。しかし全体としては特に何も起こっていないのと同じで、
始めも終わりもなく永遠にただ在るだけ。表面で高波が起ころうが津波が通り過ぎようが
底の方には影響なし。
>>635 アホはいいすぎだがいいたいことはわかる。
だからこそ仏陀は輪廻を否定したわけだが。
インドで仏教が廃れた理由って何?
>>635 根本的な疑問キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
>>640 密教化により、ヒンズー教との差が無くなり衰退。
最終的にイスラム教国の侵略により滅亡
643 :
考える名無しさん :2011/01/17(月) 21:24:36 O
>>632 その発想だと「自分もその大嫌いな講師達と同じ様な人間になって抑圧する立場になりたい」ってことになってしまわないか?
>>635 輪廻否定はいいが、仏教否定はおかしい。
ほんとうの仏教は輪廻否定派だからね。
真面目に解脱目指したら頭おかしくなって自殺やつとかいいるんじゃないの?
>>645 日本の社会や文化は、そうした人種を許容しないからね・・。
日本は俗人の社会であって、そこに解脱した者の居場所はない。
もっと言えば、 「解脱を目指す」ということは、日本に於いては「極度に反社会的なこと」なわけだ。
>>638 イメージの湧く比喩だね。
タレスの水っていう言葉は意外と仏教的なのかもしれない。
全然ちがうw
>>635 そういう捉え方の側面もあるってこと。物事の側面の一面しか見ないと
固定の答えがでてくる、答えは無限ってことな。
654 :
エロ・キャ :2011/01/18(火) 01:18:16 0
輪廻からの解脱・・と、はっきりありますね? 一行で要約できるでしょう?
>>651 わからないならわからないって言えばいいよ
キチガイくん
658 :
考える名無しさん :2011/01/18(火) 01:55:09 0
仏陀の休日
お前たち悟れない奴の共通点は? 物事の客観性の意味つまり論理(理屈)に縛られ、 物事を感じ取る主体の認知の意味つまり心(感情)に縛られ、 この2つの呪縛が物事を確定する条件となっている、 これがオマエラを支配する呪縛、仏とはこれらから開放されるってこと それは死と意味を定義してしまう単純なオコサマもいるけど違うよ。 物事の縁と関係で相互の性で自然に確定する意味、つまり自然の摂理 これを感じ、これを受け入れ、これと共に生きる。 簡単なことだ全てのオマエラの思いは無駄じゃ無駄そのも無意味だ。 オマエラ事態が無駄、かみの前に改めよ、さすれば与えられる。
661 :
考える名無しさん :2011/01/18(火) 03:57:26 0
>>659 なんだそれ。
狩りに釈迦が適当な事ほざいてたとしても、
悟ってるか悟ってないかを、悟ってない人間からは判断できんな。
662 :
考える名無しさん :2011/01/18(火) 04:02:03 0
ご変換したから訂正。
?狩り
○仮り
>>659 を読んでも、盲目的に信仰しろと書いてあるようにしか思えん。
悟るとなにもかもどうでもよくなっちゃうのかな 仏教の教えとかもどうでもよくなって廃人になったりして 悟りとはこうだといってるやついるけど説明するのもどうでもいいよね?
>>659 一知半解の詐欺師の口上だね
釈迦も呆れて見てらしゃいますよ
つか かみのこえ ってwwww
666 :
考える名無しさん :2011/01/18(火) 04:36:47 0
楽しく生きることが目的なら仏陀って何?
ブッダってそんなに楽しく生きていたのかな? けっこう辛い人生だったような まぁ、弟子を相手に好き勝手言ってるのは楽しかったかも
楽しく生きるというか、心配事が全くない状態といった方が近いかも知れんね。 とにかく苦がなく平安。時には楽しくなることもある。
>>666 たしかに
なかなかいいこといってるよ
読んでごらん
苦がないというのは例えば若者が道に座っていたとする。その時にそういうことをしては いけないという観念があると「近頃の若い者は・・・」と一々怒りが起き、しかも思い通り にはならないので苦になる。しかしそんな妄想観念が完全にないならば最初から気にならず 苦にならない。(オマケの効用としては、そういうことをする若者は元から反抗心を たっぷり持っているので、何も言われなければ反抗にならないので自然とやめてしまう。 注意されると反抗心に火がつき余計に続けたくなり中々やめなくなる)。
672 :
考える名無しさん :2011/01/18(火) 13:14:10 0
心配事がなく楽しく生きるだけでいいなら、完璧なアホになるって手もあるぜ? あっ、もうなってたんか。ごめんw
673 :
考える名無しさん :2011/01/18(火) 13:50:04 0
以前、このスレで釈迦は輪廻を否定した説をちょっと流布した者だけど 釈迦および仏教をこき下ろしたいだけの奴がその点に難癖つけてクダ巻いてる様でうっざいな 輪廻があろうがなかろうがどうでもいいんだよ、全然本質的な問題じゃない。 仏教哲学の一番の論点は自己-他者の論理を超越することであって、 輪廻なんてあろうがなかろうが関係ない。
674 :
考える名無しさん :2011/01/18(火) 14:36:55 0
難癖つけてきたのは、文献学的に「釈迦が輪廻を否定した」という 説はなりたたないと言ってた奴だろ? それに対し、お前は何も有効な 反論ができなかったじゃないか。お前の脳内釈迦についての御託の 方がよっぽど「うっざい」んだよ。
すまんかった
676 :
考える名無しさん :2011/01/18(火) 14:44:28 0
>>674 だからそんな本質的な問題ではないことについて、反論するつもりもないんだが。
どうにもこうにもそんなもん証明のしようがないんだから最終的には信じるか信じないかは貴方次第じゃないか。
バカであれば永遠に議論しとけ、勝手にしろ
バカでなければ、何がうっざいの?何を議論したいのお前は?
噛み付いてくるなら
>仏教哲学の一番の論点は自己-他者の論理を超越することであって
ここに噛み付いてこいよ?俺はここが論点だっていってんだからよ
その点については輪廻なんて関係ねえんだよ。何を議論したいからよっぽど「うっざい」の?
>>676 傍から見ても、おかしな立論だね
本質的でないって決めつけてんのあんたでしょ?
輪廻からの解脱って言ってる奴、仏教スレで腐るほどいるじゃん
僧侶だってそう答えてる奴ゴマンといるぞ?
証明不可能なことを言い張ってるのはお前だろ
それを自説が認められないとバカ呼ばわり
こんな奴の説なんて価値有るの?
>仏教哲学の一番の論点は自己-他者の論理を超越することであって これってただのヘーゲルだろ? 「超越」とかむちゃくちゃ多義で意味が錯綜してる用語を不用意に使うとか おまえ本当にバカじゃないの? 一応哲学板なんだからキチンと定義してから話せよ 曖昧な言葉こねくり回してオナニーしたいなら仏教板でやれ
明るく楽しく生きていこう!
680 :
考える名無しさん :2011/01/18(火) 18:33:59 O
仏教の最大目的が苦の解消。死もその苦に含まれる。したがって死は苦の解消にならない。ならば輪廻が論理的に要請されるんじゃないかな。科学的実証は困難だけどね。
681 :
考える名無しさん :2011/01/18(火) 18:41:34 0
仏教が争いを生むという事がこのスレを見てわかりました
683 :
考える名無しさん :2011/01/18(火) 19:57:45 0
何でその「輪廻なんて関係ねえ自己−他h差の論理を調節する」結構思想を 釈迦に帰属させたいの? あんたのマイ哲学として主張すりゃいいじゃん。
684 :
考える名無しさん :2011/01/18(火) 20:16:56 0
>>677 >本質的でないって決めつけてんのあんたでしょ?
輪廻否定してる人も、肯定してる人も、仏教徒には両方いるんだが、
なぜだと思う?そんなことは全然本質的じゃないからだよ。
以前、輪廻否定説を唱えてる人の著書から数件コピペしたけど、過去レス読んでね。
>輪廻からの解脱って言ってる奴ゴマンといるぞ?
お前はそっちの議論に一生粘着しとけや。
>>678 ただのヘーゲルって何だ?
ヘーゲルと釈迦とどっちが先に生まれたかくらいググってこいよ?なあ。
685 :
考える名無しさん :2011/01/18(火) 20:28:47 0
>>680 >死もその苦に含まれる。
それは悟りに至る以前の話であって、悟りを経ると死が苦ではなくなるよ。
っていうか生や死なんてものはそもそも無いんじゃないかな。
輪廻というのは、もちろん比喩なんだが? まさか、字義通りに捉えているのか? 輪廻は、さまざまな思い悩みと解して良いのさ。 それから、抜け出すことを仏陀は、解脱と呼んだに過ぎない。
687 :
考える名無しさん :2011/01/18(火) 20:30:37 0
という個人的見解
つまり明るく楽しく暮らすことだね、つまり
689 :
考える名無しさん :2011/01/18(火) 20:41:20 0
>>672 お前が釈迦を見たらきっとアホにしか見えんのだろうな。
690 :
考える名無しさん :2011/01/18(火) 20:42:32 0
まあアホになるのは幸せだよな。
691 :
考える名無しさん :2011/01/18(火) 20:44:24 0
死後の世界については釈迦は毒矢の喩えなどを話して結局、無記にした。
692 :
考える名無しさん :2011/01/18(火) 20:45:32 0
>>690 いや、あなたのようになることは幸せではない。
その証拠にあなたは苦の塊ではないか。
693 :
考える名無しさん :2011/01/18(火) 20:47:10 0
アホもカシコもねえんだよ。くだらない幻想だ。 それについては仏教を出すまでもなく 宮沢賢治の「けんじゅう公園林」を読んでほしい。
694 :
考える名無しさん :2011/01/18(火) 20:50:09 0
ちなみに賢治は真宗だったんだけどね こないだNHKラジオで朗読してて感動したから何となく。
695 :
考える名無しさん :2011/01/18(火) 20:50:28 0
一般的に言われる「死後の世界」と、「輪廻」及び輪廻に於ける「かの世」は違う。 前者は、我々の日常世界とは別な世界。 後者は、単に「次の人生」ということ。我々の日常世界も、前世と対比させれば死後の世界ということになる。 だから、死後、即座に次の生を受けるのか、インターバルがあるのか、という疑問が生じる。 だから、中有という考え方が必要になる。地獄や天界はどこか?という疑問が生じる。
仏陀は輪廻を否定された。(結)
249 考える名無しさん sage 2011/01/05(水) 20:01:12 0
確かなこととして一つ言えるのは、
「『現存資料(の文言)』に於いては、伝聞としても本人談としても説かれている」
ということ。
あとは、読み解き方、解釈、及び追体験の問題でしかない。
そして、最終的には、伝承(及び伝承者)を信じるか信じないか、に帰着することになる。
423 考える名無しさん sage 2011/01/07(金) 10:23:56 0
>>416 輪廻が「方便としてのもの」であったかどうかは、文言の【読み解き方】による推論の域を出ない。
少なくとも「文言上」(発言、伝承上)は、「有情の輪廻すること」が、人の生及び死の在り様の前提となっていることを示している。
「輪廻すること」を前提として、その上で紡がれた文言しか伝わっていない。
「輪廻する」ということが肯定されていなければ成立しない文言なわけだが、
こうしたことは典拠(≒出典)として認められないのかい?
432 考える名無しさん sage 2011/01/07(金) 12:02:24 0
>>428 >今のところ、「有っても無くても成立する」と思えて、聞き手を納得させる為の方便としてしか読めないんだよね。
だからw
文言上は、絶対にそうはならないのw
用語や言い回しの全てが、三世に跨る輪廻としてのものなの。
それら用語や言い回しの語義・定義が「三世に跨ったものでない」ことが明らかにならない限りは、
「文献上の蓋然性」として「輪廻する」ことが前提となるの。
「輪廻しない」という蓋然性は、文言上は極度に低いの。
「どちらも推測に変わりない」と言うなら、蓋然性の高さで判断するしかあるまい?
>一般的に言われる「死後の世界」と、「輪廻」及び輪廻に於ける「かの世」は違う。 同じ。 >前者は、我々の日常世界とは別な世界。 同じ。 >後者は、単に「次の人生」ということ。我々の日常世界も、前世と対比させれば死後の世界ということになる。 前世も後世も現実ではなく形而上の世界、錯覚にすぎない。 だが貴方が定義する貴方だけの世界なら貴方が言う説明で正しい。 それも然り。
仏陀は輪廻を否定なさった。(結)
702 :
考える名無しさん :2011/01/18(火) 22:43:03 0
誰が何と言おうと仏陀は輪廻を否定なさった これは何世紀経過しようと覆ることの無い事実である
704 :
考える名無しさん :2011/01/18(火) 22:47:13 0
>>703 まさか全五巻からなる裏仏典を知らんとはな。
楽しく明るく生きようなら一行でええやん
それじゃあ商売にならんからね たいそうな感じを出さないと業界的に
苦楽を論理で説明できるわけないだろ、マゾやろうが鞭で凄い状態に
なりながらも最高の至福と錯覚しているわけだし。
理屈で理解しようとしている奴は仏教ではなく仏教科学てことだろ?
仏教が何かを究明するのではなく経典やら教えの知識を正しく覚える
これは仏教哲学でもないし。
>>693 2chでオナニーしている他人を縛ってもつまらんだけよ。
>>684 ほんとにコイツ自説しか頭にないのな?
別に輪廻があろうがなかろうがどっちでもいいよ
突然「自己〜他者〜超越するのが云々」って言い始めたのがおかしいって指摘だろうが
どっから出てきたんだよ どうせお前の頭のトンデモ理論だろ
スレの流れ読めよ文盲
ヘーゲル出したのは、おまえがどの程度哲学知識あるかのスクリーニングだよ
で、それはちゃんと機能した。お前が全然哲学知識ないのが判明
しかし、言うに事欠いて
>ヘーゲルと釈迦とどっちが先に生まれたかくらいググってこいよ?なあ。
には驚いたわw
何々?先に釈迦が生まれてるとどうなるんですか?
ここもキッチリ説明しとけよ
まさか釈迦が西洋哲学の元ネタですとか言い始めるのかw
で?超越論とは関係あるんですか?ないんですか?
その位ははっきりしてよね
709 :
考える名無しさん :2011/01/19(水) 07:56:16 O
無我だから自己も他者も真理としては存在しない。それを唯心論的な立場から把握するのが唯識ってことになるかな。
>>709 それは唯心論的な定義かね。言葉を選べ。
輪廻肯定派はヒンズー教板いけや!
714 :
考える名無しさん :2011/01/20(木) 01:43:49 0
ムキーッ!
715 :
考える名無しさん :2011/01/20(木) 07:05:28 0
ヘーゼルナッツは古代ギリシャ起源の哲学者 ↓ 古代ギリシャ哲学は世界すべての哲学の起源(もちろん仏教も) ↓ ゆえにヘーゼルナッツの哲学は仏教以前に存在したものだ ↓ つまり仏教と彼の教えは似ている
>>715 おお、逃げたと思ったらまだいたのか
んで?
さっさと答えろよ
717 :
考える名無しさん :2011/01/20(木) 11:25:05 0
>>713 輪廻の肯定/否定と、仏教/ヒンズー教の違いは無関係の別の問題
おまえら明るく楽しく生きようぜ
719 :
考える名無しさん :2011/01/20(木) 13:55:09 0
【(日本の葬式代は)日本の葬式費用は231万円(世界の非常識)】 日本における葬儀費用の平均は、231万円。 ちなみにイギリス12万3千円、ドイツ19万8千円、韓国37万3千円、 アメリカ44万4千円。 日本だけが飛びぬけて高いのは一目瞭然で、この比較を広告や帯に打ち出した 『葬式は、要らない』が売れている。 葬儀に金がかかることはずいぶん前から知っていたが、ここまでとは……。 そんな驚きとともにこの本を手にとった読者は多いだろう。 著者の島田裕巳はまず、今にいたる日本の葬式の歴史を振り返り、 なぜこうなってしまったのか解説する。 そこでポイントとなるのが、日本の仏教が葬式仏教と化していく過程と、 村社会によって育まれた世間体という問題である。 〈生前に死後について考え語ることはできないし無駄だ〉と説いた釈迦の教えとはうらはらに、 中世の貴族たちは死後も華やかに暮らせるよう願い、浄土を目の前に 出現させようとした。ここにこそ日本人の葬式が贅沢になった〈根本的な原因〉 があると島田は指摘する。 この浄土教信仰が一般民衆にまで広がり、江戸時代に「寺請制度」 によって村落共同体が強化されることで、禅宗の方法を基本とする 仏教式の葬式が国の隅々にまで浸透。こうなると村落内での世間体が気に なり、見栄をはる葬式が増えていった。 このような歴史的背景と村社会の名残の下、私たちは金のかかる、 贅沢な葬式を続けてきた。 しかし、核家族化が地方にまで進んでいる現在、この本がベストセラーに なっているように、既成の葬式に対する疑問は高まるばかりだ。 その象徴ともいえる戒名については、島田も多くのページを割き、 自分でつけるやり方まで紹介している。ただし、減り続ける檀家に 悩む多くの寺院にとっては、戒名料は貴重な財源でもある。 急激な変化ではないにしろ、日本の葬儀が簡略化、多様化していくのは 間違いないだろう。 さて、もう一方の当事者である日本の仏教界は、この時勢にどう対処 していくのだろうか。
720 :
考える名無しさん :2011/01/20(木) 18:21:26 0
「814」 「副島隆彦という生き方」というタイトルのインタヴュー記事を、載せます。
最近の私の考えが分かりやすく表明されています。副島隆彦 2006.12.15
http://snsi-j.jp/boyakif/wd200612.html#1501 スッタニパータと、法句経(ダンマパダ)という一番古いお経がある。どうやら仏陀本人の本当の
言葉はこの二つだけのようですね。その他のいろんな膨大なお経は、全部仏陀が亡くなった後に、
弟子たちが勝手に作ったものだ。僧侶が葬式をやったり、お盆にお経をとなえたり死者を祀ったりは、
仏陀は一言も言ってない。ブッダは死に関わるな、と言っている。勝手に後の人たちが作った制度だ。
仏陀自身の言葉は、「愛欲と煩悩を捨てて、この世とあの世のすべてを捨てて、ただ一人歩め。ヘビの
皮が新しく抜け変わるように。サイの角がひとつ進むように。」と書いてあります。
奈良の興福寺、東大寺は法相宗(ほっそうしゅう)という仏教で、中国までやって来た仏教のうちでは
一番古い仏教を伝えている。それは輪廻転生(りんねてんせい)を認めないんです。
来世はない。あの世もない。「この世とあの世をともに超える」とスッタニパータ(「ブッダのことば」
岩波文庫 中村元訳、1984年初版) で仏陀は言っています。だから輪廻転生(りんねてんしょう)
もないのです。そこで私はブッダに従うならば、ゼロ、全くないと思います。「今」という現実は有るの
だけれど、それは仮のすがたであって、すべてなくなるんだ、と。輪廻転生は、仏陀が若い頃、厳しい修行
をしたヒンドゥ教の思想なのです。ヒンドゥ教 ( Hindu 、ヒンズー教、インド教)には輪廻転生が強烈
になる。六道輪廻ですね。生命は生まれ変わる。ですから、不思議な話ですが、本当の仏教(ブッダの教え)
は、徹底的に、無神論(むしんろん、atheismエイシイズム)なんです。
721 :
考える名無しさん :2011/01/20(木) 18:39:47 0
>>538 宮元啓一と石飛道子は、輪廻は仏教の必然的前提であると明解に宣言している数少ない学者だし、宮元啓一と
石飛道子は相容れない解釈をもっている。
宮元啓一は要するにヒンドゥーと仏教は本質的に同じで仮象と実在で捉える人。
石飛道子は真に才能ある学者で、釈尊・龍樹菩薩の本質に始めて迫っている文献学者。
宮元啓一と石飛道子は大乗仏教の学者。仏陀が捨てたヒンドゥ教に戻ろうとしてるだけ。
ようするに大乗仏教ってのはヒンドゥ教から送り込まれたスパイみたいなもんだろ。
ヒンドゥ教=輪廻転生
小乗仏教=輪廻否定
上座部仏教=輪廻肯定
大乗仏教=輪廻肯定
輪廻転生がそんなに好きなら仏教を学ばないでヒンドゥ教を学べばいい。
なんのために仏陀がヒンドゥ教を捨てて新しい思想を作ったのかわが分かってない。
インドの王族であった仏陀は国内の対立と分裂を抑えるため(外国に攻め込まれる要因になる)に
ヒンドゥ教のもつ分裂や対立の要素を排除して国内の平和と統一のためにこの思想を作ったんだろ。
(これは俺の政治思想から導いた感想だけど)
イギリスの階級差別と対立、民族差別と対立の持つ強さと弱さ、
アメリカの身分や民族の差別を無くそうという建前の持つ強さと弱さの違いだよ。
ロシアが共産主義革命前はたいした国家じゃなかったが、共産主義革命後から第二次大戦後には
世界でも1,2、を争うほど強大な国家になってるのと似ている。
権力者や貴族を打倒して平等主義社会を作った強さだ。
もちろん平等性が持つ脆弱さもあって崩壊したが。
722 :
考える名無しさん :2011/01/20(木) 19:14:09 0
>>720 とても興味深いですね。
王族の身分を捨て、厳しい修行に身を置き、到達したのが「無」
深いですね。
しかし、そうなると今でいうところの仏教は、仏陀の教えからかなり外れていますね。
人の心の安定には役立っていますが、信仰の対象が如来や地蔵・菩薩である
必要はなく、なんでもいいのだけど便宜上そういうものを造り出した。
という事ですね。
仏陀が今の仏教の現状をみたとしたら嘆き悲しむでしょうね。
いいお話をありがとうございます。
723 :
考える名無しさん :2011/01/20(木) 19:36:37 0
仏陀は今の仏教の現状を見れません
725 :
考える名無しさん :2011/01/20(木) 23:16:11 0
>>723 冗談かと思うけど、見れない事は誰でも知ってるよね???
>>724 仏教哲学と仏教歴史学と仏教の布教者と仏教の形式的な実践と
仏教のような基本思想の新規構築と、全部違うよな?
少なくとも中傷するなら、もっと論理的に明確にしないと
君の馬鹿さ加減を自己紹介することになる。
最低でも合理的に省かずに具体的な例や比喩を用いて論説してみせよ。
3行以下の2ch脳の病気なら許してやる。
727 :
考える名無しさん :2011/01/21(金) 00:30:57 0
728 :
考える名無しさん :2011/01/21(金) 18:46:44 0
ところが、神通力ってものがあるんだな、お釈迦様には。 で、その力で未来を見通し、自分の死後1500年たったら、 自分の教えを理解するものは誰もいなくなると知っていたのさw
>>726 スレの流れや文脈の読めないバカの見本ですね
証拠ありがとう
730 :
考える名無しさん :2011/01/22(土) 01:04:32 0
仏教ってこんなもんなんすね
仏教自体に文句をつけるつもりはないんだが 仏教スレで粘着してへんな説教はじめる奴は 間違いなく頭がおかしいな それがよくわかった
なるほど2ch脳だらけだ、。
733 :
考える名無しさん :2011/01/22(土) 14:39:49 0
>>731 同意。
仏教を分析したいだけなのに、坊主の説法聞かされるからな。
>>733 仏教哲学と、宗教の仏教とはまったく違う存在。
その側面を正しく区別して混同しないように。
>>733 仏教哲学と、仏教経営学とはまったく違う存在。
その側面を正しく区別して混同しないように。
>>734 所詮どっちも解釈学
つか仏教は本当に哲学?
俺の解釈ほうが正しい!って言ってるだけ
まぁ、仏教に限らず宗教はみんなそうだよ
>>735 仏教哲学とやらは糞だが
経営学は素晴らしいものがあるな
参考にしよう
でもその場合の「仏教」って他のものに置換可能だが
>>735 仏教経営哲学にこそ一番良質な知恵がありそうだね
"仏教経営哲学"こんな単語はグクってもでてこないのが現実。
740 :
考える名無しさん :2011/01/23(日) 14:36:17 0
googole万能論者あらわる
衰退する仏教・・・・ 葬式もイオンに取ってかわられてしまうのかw
geogle万能論者あらわる 一件も検索できないってことは、 グークルの情報は世界一ってことですね。
>>742 教えってものは救済者がいてそれを教えに導くのが本来の役割
自分で解決できる人を導くわけでもなく、各個人が勝ってに
俺思想を作り出すとか、これから開拓して意味を問うものでもない。
葬式など好きなようにやれば良い。 文句言う寺は潰れて良い。金や伝統に執着するような心があるようでは悟りは遠退く。
746 :
考える名無しさん :2011/01/23(日) 21:02:15 0
僕は浄土真宗なんで、阿弥陀如来に帰依すれば良いだけです。 悟りとかどうでもいいです。
>>742 仏教経営哲学が足らない、というべきでしょう。
グークルとかw どこの支那製検索サイトだよwww
すべての検索サイトは"仏教経営哲学"を検索するのを拒否しています これが中国の検索妨害FWです、すばらしい、
仏教学校の寄付金の数珠繋ぎは末代まで渡る。君の孫にも請求がくるよ。
そろそろ宗教にも課税すべきだな 民衆が飢えてる今 宗教にこそ数倍の税を課すべき
>>752 そうかそうか、日本は既に支配されているので不可能です。
民主が公明を敵に回しているから少しは期待できるが。民主もつぶれ
すぐ公明の傀儡となった自民の政権がきて宗教は特別優遇されるだけ。
親鸞の価値転倒もニーチェのそれも単に転倒ではなく視差が重要ということ
>>753 仏教大勝利!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
仏教経営哲学はどれだけ衆生が困窮しようが僧侶は彼らから搾取する権利が あると考える徹底的なサンガ中心思想だから富の再分配とは無縁だよ。 日本の坊主の体たらくは勿論、上座部圏では特にこの構図が酷い。 布施は功徳で仏法僧への批判は地獄行きって教えだから。
>>757 >仏教経営哲学はどれだけ衆生が困窮しようが僧侶は彼らから搾取する権利が
>あると考える徹底的なサンガ中心思想だから富の再分配とは無縁だよ。
困窮した衆生から布施をされた場合、「断ってはいけない」というのは仏教だが、
「搾取」するのは、もはや仏教じゃないだろw
「仏教経営哲学」とやらは、そんな事を本当に主張しているのか?w
ちなみに、言うまでもなく、困窮した衆生が布施をしない場合は、「飢えて死ぬ」と言うのが本来の仏教。
>「搾取」するのは、もはや仏教じゃないだろw いや。普通にしているだろ。スリランカなんぞ酷いぞ。 脅して布施巻き上げて権力に取り入ってなんぼだから。 >「仏教経営哲学」とやらは、そんな事を本当に主張しているのか?w 実際にやってる金儲けを単純に仏教経営哲学と呼んでみただけだが。 >ちなみに、言うまでもなく、困窮した衆生が布施をしない場合は、「飢えて死ぬ」と言うのが本来の仏教。 「本来の仏教」とやらも大概だな。 スッタニパータとかトンデモ満載だもんな。
>>759 >いや。普通にしているだろ。スリランカなんぞ酷いぞ。
>脅して布施巻き上げて権力に取り入ってなんぼだから。
ソースは?
>「本来の仏教」とやらも大概だな。
>スッタニパータとかトンデモ満載だもんな。
どの辺が、「大概」で、「トンデモ」なのか具体的に言ってくれよ。
>>759 > スッタニパータとかトンデモ満載だもんな。
もっとkwsk!!!
仏教経営哲学は秘伝なり。 不立文字、師資相承。
>>760-761 スッタニパータ読んだことないの?
神霊や悪魔が普通に出てきて仏陀が説法する。聖者の批判をしただけで地獄行き。
こんな話がゴロゴロ出てくる。十分、トンデモだと思うが。
パソコンから書き込めないし外出してるからソースは貼らんが自分で調べたら。
この地獄行きってのはカルトグル、スマナサーラが聖者誹謗罪だとか吹聴して回ってる。
スリランカ仏教に関しては異教徒大量虐殺にカースト差別、仏陀一神教さながらの
土着のサマン神との融合、仏シャリ信仰など原始仏典に依拠しても大概な代物だぞ。
これもネットにアホみたいに情報が溢れてるから興味があるなら自分で調べたら。
スッタニパータには仏教徒が大嫌いなアートマンが余裕で説かれていて
実に楽しい作品でもある。
764 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2011/01/26(水) 11:12:04 0
日本の仏教は釈迦の仏教とは全くの別物。 どうみても観念論をテーマにしている釈迦の仏教を、 よくもまぁ、屁理屈詭弁をこねくり回して唯物論に出来るものだ(苦笑) 歴史認識にしても思うんだが、この屁理屈詭弁をこねくり回して 自分達の都合のいいように事実を捻じ曲げてしまうなんてのは、君ら日本人の 民族性だろ。こんなことやってっから君ら日本人は汚いといわれるんだよ。 釈迦の仏教とは簡単に言うとこうだ。人はこの世への愛執と無明を因として、 業法に基づき輪廻転生している。この物質世界は実体のない幻。そんなものに執着するな。 その執着が迷いの生存でしかないこの世の生存である、輪廻転生を繰り返す。 生老病死で終わるこの世の生存は所詮苦しみでしかない。この苦しみでしかない迷いの 生存を生み出す輪廻の輪を断ち切りなさい。この苦しみでしかない迷いの 生存を繰り返す輪廻の輪を断ち切った先に、涅槃静寂がある。ここに本当の幸せがある。 ではどうすれば結局は苦しみでしかない迷いの生存を繰り返す輪廻の輪を断ち切る ことが出来るのか?それが八正道である。これが釈迦の仏教だ。日本の、唯物論者の自分達の 都合のいいように詭弁を塗り重ねたおかげで目的もはっきりしない、バッタもんの 唯物末法仏教と違い、釈迦の仏教はれっきとした宗教だし、目的もはっきりしてるだろう。
765 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2011/01/26(水) 11:21:22 0
ま、俺の書き込みを見て、唯物末法仏教徒達が、いいや俺達は唯物論者じゃない。 また観念論者でもないなんて屁理屈で反論してくるかもしれんが、これは末法仏教の 始祖ともいえる竜樹の中論を利用した詭弁な。このアホ共は、 所詮は言葉遊びに過ぎないものを悟りだと勘違いして、言葉遊びが仏教だと思っている。 だがそんなもの現実にはなんの役にも立たないものだとも気づかない池沼ぞろいだ。 全く馬鹿に付ける薬は無し。 ちなみに前に書いた迷いの生存とは、肉の自我による生存と言い換えてもいい。 もっといえば、自我の消滅にこそ涅槃はある。そこに識別作用はない。
766 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2011/01/26(水) 11:30:32 0
ん?スレッドのタイトルみたら、仏教の目的って何?じゃなく、 仏教哲学の目的って何?だった(汗) 俺はてっきり釈迦の仏教の目的は何かを論じるスレだと思っていた。 俺の話はスレ違いなのでおいとまするわ。 最後に一言。 釈迦の仏教は哲学じゃない。釈迦の仏教はあくまで宗教だ。 宗教を哲学として論じたり、ましてや学問としてとらえて研究するのは 愚か者のすることだ。
> 釈迦の仏教は哲学じゃない。釈迦の仏教はあくまで宗教だ。 少しだけ教えるとね、 それは仏教経営哲学的手法(逃げ道)である。
770 :
考える名無しさん :2011/01/26(水) 14:33:18 0
>>766 は?じゃあ古代西洋の哲学者について語るのもナシなの?
766 名前:カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 [] 投稿日:2011/01/26(水) 11:30:32 0 ん?スレッドのタイトルみたら、仏教の目的って何?じゃなく、 仏教哲学の目的って何?だった(汗) 俺はてっきり釈迦の仏教の目的は何かを論じるスレだと思っていた。 俺の話はスレ違いなのでおいとまするわ。 最後に一言。 釈迦の仏教は哲学じゃない。釈迦の仏教はあくまで宗教だ。 宗教を哲学として論じたり、ましてや学問としてとらえて研究するのは 愚か者のすることだ。 767 自分:考える名無しさん[sage] 投稿日:2011/01/26(水) 11:42:31 0 > 釈迦の仏教は哲学じゃない。釈迦の仏教はあくまで宗教だ。 少しだけ教えるとね、 それは仏教経営哲学的手法(逃げ道)である。
772 :
考える名無しさん :2011/01/29(土) 20:18:12 0
仏教哲学は仏教ではない、それは哲学で仏教とは何かを扱っているにすぎない。 区別すらできない池沼が多いのは事実である
773 :
考える名無しさん :2011/01/29(土) 20:44:05 0
*
真如苑ってなんですか
>>772 771 自分:考える名無しさん[sage] 投稿日:2011/01/26(水) 14:34:30 0
766 名前:カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 [] 投稿日:2011/01/26(水) 11:30:32 0
ん?スレッドのタイトルみたら、仏教の目的って何?じゃなく、
仏教哲学の目的って何?だった(汗)
俺はてっきり釈迦の仏教の目的は何かを論じるスレだと思っていた。
俺の話はスレ違いなのでおいとまするわ。
最後に一言。
釈迦の仏教は哲学じゃない。釈迦の仏教はあくまで宗教だ。
宗教を哲学として論じたり、ましてや学問としてとらえて研究するのは
愚か者のすることだ。
767 自分:考える名無しさん[sage] 投稿日:2011/01/26(水) 11:42:31 0
> 釈迦の仏教は哲学じゃない。釈迦の仏教はあくまで宗教だ。
少しだけ教えるとね、
それは仏教経営哲学的手法(逃げ道)である。
776 :
考える名無しさん :2011/01/29(土) 22:36:41 0
>それは仏教経営哲学的手法(逃げ道)である。 うは〜、絶句。
> それは仏教経営哲学的手法(逃げ道)である。 図星すぎる。。。
778 :
考える名無しさん :2011/01/30(日) 07:07:10 0
ネラらしい、無知なのに とにかく見下したい
自己紹介乙
自灯明、法灯明
不立文字、師資相承。
最近、悟りを開いた(自分なりの)状態になり、人生が穏やかになった 常に満足し、平静で、それ故に苦痛もない 今死んでも後悔はなく、これから先いつ死ぬにしてもその際悔やむことはないだろうと確信できる もう仏法も哲学も必要ない 全ては自分の中にある
おめ
> ネラらしい、無知なのに > とにかく見下したい これは痛い・・
釈迦の説法にある矛盾点を考慮するに、例え話に過ぎないという解釈がある。 犀の角のように進め、とか、牛のように老いる、とかを文字通り取ると動物を種別に応じて見下す姿が浮き彫りになるが、 これは単に当時の常識に合わせて理解しやすいよう例えただけで、本当に述べたいことはその深奥にある、という見方。 よく言われる輪廻や地獄などに関する矛盾も言いたい内容は深奥にこそあるという解釈にすれば解決するし、 懐疑派とその他の信徒の対立に関する度量の深さ、自身が持つ寛容の精神の実証性がより強く印象づけられることになる。
786 :
考える名無しさん :2011/01/31(月) 09:02:04 0
>>785 >よく言われる輪廻や地獄などに関する矛盾も言いたい内容は深奥にこそあるという解釈にすれば解決するし、
ありえない解釈なんだって。
常識に仏教を引きずり下ろしたい学者は和辻以来いろいろ輪廻と無我が矛盾するとか屁理屈を考え出してきたんだけど、どれも話にならない説でみな今では冷笑されている。
唯一残った説が比喩説ね。心の内容を比喩して輪廻や神々、悪魔などとしたという説。
それは無理。輪廻で言えば、先ず輪廻は妄想が覚めた悟りの結果として宿命通という過去世の記憶が全て蘇るとされます。これは方便や比喩ではない。
次に、シナやメナンドロス王、日本など輪廻概念のない文化に苦労して輪廻を伝えているので、方便や比喩でないことが分かる。
最後に釈尊は輪廻を否定したが弟子が誤解したという説がありますが、それは無茶な論理でしょう。
なぜなら、輪廻という言葉を作ったのは釈尊である可能性が高く、釈尊以前の行者・苦行者の間で輪廻は常識となっていたし、
仏教に酷似するジャイナでも当然、輪廻は常識です。
それなのに釈尊だけが輪廻を否定したとするなら、相当大きな衝撃を与えたはずです。
ですが、そのような記録はジャイナや外道、仏教内部のどこからも見つけられない。
このように証拠はもちろん徴候が全く見られないのに、逆のことを主張するのはただのこじつけ、付会、トンデモ論以外のなにものでもないからです。
釈尊輪廻否定説は、釈尊が現代人の常識に矛盾しないという思い込みだけでなされる非論理以外のなにものでもないのです。
>>786 なんの説得力もないよ、思い込みって酷いな。
憲法九条を廃止して憲法空性を発布しよう
仏陀は凡人 その証拠にこの世とかの世という概念から抜け出せなかった 西洋哲学者が仏教にある哲学的要素を発見して神格化してるけど、実際大したことない ストア派の方がまだマシなレベル
791 :
考える名無しさん :2011/01/31(月) 19:48:47 0
>>790 >その証拠にこの世とかの世という概念から抜け出せなかった
君は何も分かってないな〜
792 :
考える名無しさん :2011/01/31(月) 19:48:50 0
793 :
考える名無しさん :2011/01/31(月) 19:50:29 0
>ネラらしい、無知なのに >とにかく見下したい ヤツ、ばっかだな〜
794 :
考える名無しさん :2011/01/31(月) 19:51:35 0
>>792 曽根氏もほとんど何も分かってないっしょ
少しだけ教えてあげようか・・・ 死後世界・霊魂・輪廻は 仏教経営哲学的に 極めて貴重な財産であり 我々は決して手放さない。
釈尊の時代には輪廻転生説が圧倒的に信じられていて、 人々は輪廻説によって、悩み苦しまされていた。 釈尊の本望は、人々の苦悩を如何に除き去るかということ。 よって釈尊は、輪廻説を踏まえた上で出離の法を説いている。 しかし、これは釈尊が輪廻説を肯定したことは意味しない。 あくまで、眼前の衆生の苦悩を除かんために輪廻を押さえて説法した と言うこと。輪廻説はインド土着の習俗にすぎない。
輪廻転生を肯定も否定もしないと言うのが釈尊の立場。 「『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。 諸の事物に対する執着を執着であると確かに知って、諸の見解におけ る過誤を見て固執することなく、省察しつつ内心のやすらぎをわたく しは見た。」 相手が輪廻転生を信じていれば、それにあわせて話をする。ここで相手にあわ せず輪廻転生など無いと主張してしまっては、論争になって収拾がつかなくな ってしまう。これは無益である。毒矢の例えが示すように、仏教の教えは輪廻 転生のあるなしに関わらず有効。だから、輪廻転生を肯定も否定もしなくても 別に問題なし。
「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか。あるいはまた常住 であって、そこなわれないのでしょうか。聖者さま。どうかそれをわた くしに説明してください。あなたはこの理法をあるがままに知っておら れるからです。」 師は答えた。 「ウパシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しな い。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすかが、彼には存在しない。 あらゆる事柄がすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり 絶えてしまったのである。」
>>795 >死後世界・霊魂・輪廻は
>仏教経営哲学的に
>極めて貴重な財産であり
「日本の」とつけばあってるな。
農地解放後、葬儀・年回法要における布施収入しか、収入源が無くなったんだから、
死後の世界を否定しちまったら、経営が破綻するw
>我々は決して手放さない。
手放しちゃった宗派もあるだろw
803 :
考える名無しさん :2011/01/31(月) 20:51:39 0
>>795 ほんとネラだね。自分の貧困な心になんでも引きずり下ろす
804 :
考える名無しさん :2011/01/31(月) 20:55:23 0
>>796 いやいや、それでは何故、果に宿命通が出てくるのか全然説明できない。
『梵網経』で輪廻を直観できない凡夫が、釈尊の見える行いしか誉めないと吐き捨てるように仰り、輪廻を直観する外道の聖者を尊重し、その直観を推理とは別に述べ、自分も直観したと仰っていることも全く説明できない。
そういう解釈は無理なんです。
778 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2011/01/30(日) 07:07:10 0
ネラらしい、無知なのに
とにかく見下したい
784 名前:考える名無しさん[sage] 投稿日:2011/01/31(月) 00:22:51 0
> ネラらしい、無知なのに
> とにかく見下したい
これは痛い・・
793 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2011/01/31(月) 19:50:29 0
>ネラらしい、無知なのに
>とにかく見下したい
ヤツ、ばっかだな〜
803 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2011/01/31(月) 20:51:39 0
>>795 ほんとネラだね。自分の貧困な心になんでも引きずり下ろす
806 :
考える名無しさん :2011/01/31(月) 21:00:36 0
>>798 >>801 そりゃ誤読。如来死後どうなるかという話。
輪廻から解脱した如来は死後どうなるかという問題ね。
これは如来の原語がタターガタなんだけど、これを後代の註釈が生き物という意味で註釈していることから、タターガタは生き物で生き物の死後の問題だと読むと輪廻否定の根拠になるから、こう無理矢理読んだ学者がいるんだけど。
それが誤りであることは水野弘元先生を始め三人の学者が徹底的に論証してるよ。
ムリムリ、そんな読みは。
輪廻と生まれ変わりは違う。 輪廻は苦である。死んだら餓鬼に堕ちて苦しむかもしれない、ということを怖れる。 だから輪廻をしない解脱を求める。
信仰を捨てよといいながら信仰を強要し 全てを救うといいながら信仰を持たない者は救わない 矛盾の塊だな
809 :
考える名無しさん :2011/01/31(月) 21:53:16 0
>>807 それは誰がいってんの?
>>808 信仰を捨てよというのは、嘗ての信仰を捨てよという意味ね。
信仰は強要しないよ。信じた人だけどうぞという道ね。
・輪廻転生はある ・因果応報はある ・神々と先祖の助けはある 仏教は哲学ではない 哲学の皮を被った宗教である 哲学的な救い、哲学的な真理を得たいなら それは仏教にはない それは他者の論にもない それは己の内にある
>信仰を捨てよというのは、嘗ての信仰を捨てよという意味ね。
自分とこの信仰だけ認めるという態度。
まあ、哲学的側面があるとはいえ、基本は宗教なのだからしょうがない。
>信仰は強要しないよ。信じた人だけどうぞという道ね。
でも、自分のところの信仰をしない奴らは「外道」で救われないんでしょ?
そのくせ、ヒンドゥー教から神様から修行方法までパクっている。
他宗教の差別や殺人は、その宗教の教義的欠陥からくるかのように言うくせに、
自分たち自身もカースト差別をしたり、仏教徒の権力者が行う殺人は肯定したりする。
はては自分自身が権力者となって権勢をふるう始末。
……さて、こんな奴らが「哲学」に何の関係があるか?
「仏教哲学」という名の内輪向け「護教神学」を論じたいのならば、
心と宗教板
http://toki.2ch.net/psy/ があると思うのだけれども。
812 :
考える名無しさん :2011/02/01(火) 08:52:40 0
>>811 道を進むのに別の道の行き方、地図は棄てよという意味。
二つの地図は両立しないという意味ね。
なぜ、救われないかというと、我があると思ってるからね。
その我があるという意識が根本煩悩なので救われないわけだ。
ヒンドゥーだと三昧どまりで、仏教だと三昧中に縁起・空を観じて無我・空を悟れるので救われるわけだ。
ここが大きく違うのでヒンドゥーの信仰を持っていると無我・空ではなくて、
三昧体験をアートマン、我と勘違いしちゃったりいろいろ勘違いするから、
信仰を捨てないと仏教の道は歩めないわけだ。
言語化する時に、当然、その地の言語習慣を利用しなければ他に伝えられないでしょ。
オリジナリティなんて、くだらないことは言わないんだよ。
これは仏教だけでなくインドの宗教などはみんな同じ。
いいものは使い、悪いものは使わない。それだけ。
いや、セム系宗教は根本的に他を認めないんで、争う宗教でしょ。
これは他宗教に限定されるわけでなく、自宗教内でも同じこと。
神の言葉は絶対で、自分は神の言葉に従ってるので、
違う解釈は認めないので、排除する。
西洋ではセム系宗教がイデオロギー形成してきたので、
これはマルクス主義にも全く同じように反映されている。
異説を認めないので、内部闘争を繰り広げ、思想統制がなされる。
この点、異説を認めるインド宗教は共存してきた。
セム系のイスラムが入ってくるまでは。
別にオイラは哲学なんか論じたいわけではない。
学問的にありえない仏教解釈はあり得ないと言ってるだけのこと。
哲学はギリシャ以来、本質、アルケーを追求してきたが、そんなものあるけー、空じゃ。
ライプニッツの問いは、問い自体が本質主義の限界にあるだけ。
そこにやっと気付いたハイデガーは偉いというべきか、遅いというべきか?
813 :
考える名無しさん :2011/02/01(火) 08:55:11 0
>>811 そうそう、それとも自分が悦に入るための妄想を哲学と名付け、
そういう解釈は学問的にありえないと指摘することが、よくない、
止めてくれというなら、やめとくは。
814 :
考える名無しさん :2011/02/01(火) 09:24:24 0
ポエムはポエム板でお願いします。
>いや、セム系宗教は根本的に他を認めないんで、争う宗教でしょ。 仏教もそうですね。 812を読む限り、他宗教による救済(解脱)を認めないので、 どうしても争わざるを得ないのでしょう。 仏教の論争と流血の歴史(お釈迦さん、どちらも禁じていたよね?) を想起すると暗澹たる思いにかられます。 日本でも崇仏派による天皇暗殺とか、初っ端から味噌付けてますね。 崇仏派は対立する異教徒を攻め滅ぼしているし。 >これは他宗教に限定されるわけでなく、自宗教内でも同じこと。 仏教は内ゲバ宗門論争が好きですね。 ヒンドゥー教だと六派哲学とか自派の優越性を誇っても、 相手を滅ぼそうとはなかなか考えないようですが、 仏教では対立派を、権力者と結託して根絶やしにしたりしますね。 >神の言葉は絶対で、自分は神の言葉に従ってるので、 >違う解釈は認めないので、排除する。 仏陀は全智者で無謬であり、自分は教団の正しい経典解釈に従っているので、 頓悟論者は排除するとか、気に入らないダライ・ラマを暗殺するとか、 密教徒を島から駆逐するとかですね。わかります。
仏教が釈迦の求めた意味で人々を救済していたのは口伝の時代までのこと
>この点、異説を認めるインド宗教は共存してきた。 >セム系のイスラムが入ってくるまでは。 イスラムが入ってきても、ジャイナ教やヒンドゥー教は滅びませんでしたが… そもそも仏教が滅びたのは信者僧が薄いのに財宝をため込んでいたから、 欲の皮の突っ張った侵略者が僧院を略奪対象にしたからであって、 思想的なものは、あまり関係ないんじゃないの? イスラムを敵視する黙示録的終末経典を創作している暇があったら、 お釈迦さんのように清貧な生活に戻ればよかったのにね。
>別にオイラは哲学なんか論じたいわけではない。 >学問的にありえない仏教解釈はあり得ないと言ってるだけのこと。 「釈迦は輪廻を否定した」とかいう人が、定期的にわいてくるので、 これは少しわからなくはないけれども、 >哲学はギリシャ以来、本質、アルケーを追求してきたが、そんなものあるけー、空じゃ。 >ライプニッツの問いは、問い自体が本質主義の限界にあるだけ。 >そこにやっと気付いたハイデガーは偉いというべきか、遅いというべきか? これは蛇足だね。
>仏教が釈迦の求めた意味で人々を救済していたのは口伝の時代までのこと 実はこれに最近疑問を持っている。 阿含経読むとさあ…お釈迦さんが生きていた頃から、すでに出家の奴ら結構腐敗してんのよ。 困っている奴を無視、放置するんでお釈迦さんが直々に助ける話とか普通にあるし。 あと中部経典の「五下分結経」とか、かなり痛烈。 梵天勧請で説法を躊躇った理由がよくわかる。 かつての日本やチベットでの仏教の占めてた地位ってのが、 本来あってはいけないものだってのもよくわかる。 もちろん、今のミャンマー、タイ、スリランカでの地位も本来は…
820 :
考える名無しさん :2011/02/01(火) 14:00:38 0
>>815 >仏教の論争と流血の歴史(お釈迦さん、どちらも禁じていたよね?)
>を想起すると暗澹たる思いにかられます。
>日本でも崇仏派による天皇暗殺とか、初っ端から味噌付けてますね。
>崇仏派は対立する異教徒を攻め滅ぼしているし。
いやいや、セム系は異教徒殲滅でしょ。一切許さない。
インディアンとかアボリジニに明かだし。
イスラムは最初から戦争してるし。
ユダヤ・キリスト教圏が権威あったころは、他宗教が殲滅されたでしょ。
それに対してアショーカを始め、チベット、シナ、日本でも
他宗教の存在を認め、今に至るまで残っていることから明か。
>>これは他宗教に限定されるわけでなく、自宗教内でも同じこと。
>仏教は内ゲバ宗門論争が好きですね。
>ヒンドゥー教だと六派哲学とか自派の優越性を誇っても、
>相手を滅ぼそうとはなかなか考えないようですが、
>仏教では対立派を、権力者と結託して根絶やしにしたりしますね。
>仏陀は全智者で無謬であり、自分は教団の正しい経典解釈に従っているので、
>頓悟論者は排除するとか、気に入らないダライ・ラマを暗殺するとか、
>密教徒を島から駆逐するとかですね。わかります。
それは仏教から逸脱してるだけのこと。
日蓮とかゲルク、東南アジアあたりね。
仏教が優れているからといって、仏教徒全てがすぐれてるわけではないですよ。
むしろ、ちゃんとした仏教徒は少なくとも現代では少数でしょう。
821 :
考える名無しさん :2011/02/01(火) 14:05:40 0
>>817 >そもそも仏教が滅びたのは信者僧が薄いのに財宝をため込んでいたから、
はて? 何が根拠?
オイラがいいたいのは、イスラム以前で暴力的に他宗派を殲滅したという歴史がインドにないという意味。
ヒンドゥーが残ったのはインド人の生活に密着していてイスラムがインド人全員殺すことができなかったからというのが有力な説ね。
仏教は恐らく、現代のチベットのように外国に逃れたのではないかと思われ。
ジャイナはそうできず、インド内でなんとか生きながらえるしかなかったのでしょう。
俺の母親が創価学会員で、俺も仏教に興味を持ち、その流れで創価のおかしな部分に気がついて上座部や中観派の勉強始めたんだけど すごいな、これ。創価の教え全否定じゃん。 開眼した、と思って母親と対決するつもりで議論開始したら、大乗とか上座部とか空の概念すら知らなくて吹いた。 議論にすらならなかった上、「あんたもいつか創価学会の素晴らしさに気付く」とか言われて終わってしまった。 こっちの話には一切耳を傾けず、創価は素晴らしいの一点張り。 今の創価ってこんなレベルの連中だけで続いてる状態なのかね? こりゃもう仏教からずれたとかそういう範囲に収まってない。完全に異質の何かだ。
823 :
考える名無しさん :2011/02/01(火) 14:07:58 0
>>819 六群ビクとか?
>かつての日本やチベットでの仏教の占めてた地位ってのが、
>本来あってはいけないものだってのもよくわかる。
>もちろん、今のミャンマー、タイ、スリランカでの地位も本来は…
どういうこと?
824 :
考える名無しさん :2011/02/01(火) 14:09:21 0
>>822 創価以前に日蓮が仏教じゃないから。
ああいった排他的で暴力的、政治的な団体は全く仏教と逆です。
ある意味日蓮こそが真の仏教徒だな
826 :
考える名無しさん :2011/02/01(火) 14:33:43 0
>>822 >中観派の勉強始めたんだけど
山口益、梶山雄一、瓜龍津、石飛道子以外は読まん方がいいよ。
>>825 >ある意味日蓮こそが真の仏教徒だな
どんな意味でも仏教徒とは思えないな。
法脈がない。三宝に帰依しない。我の宗教である。排他的。
仏教哲学の真髄である仏教経営哲学からいうと 日蓮こそ真の仏教徒の一人と思われる。
828 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2011/02/01(火) 15:08:21 0
久しぶりに来てみましたが
他宗批判スレの様相でしょうか。
>>822 さん
そうして他のことも学んでみるという考えは誠に大切なことと思います。
某教団と言わずあえて創価学会と名指しさせていただきますが
仏教的な要素は取り入れつつも、実際は仏教的でないという指摘は
たしかに的を得ていると思います。これは儀礼作法をみても明らかです。
但し、日蓮聖人がそうであったかはまったくの別だと思います。
法華経や浄土経典は所謂「信心の経典」ですから。
829 :
考える名無しさん :2011/02/01(火) 15:37:29 0
>>828 >但し、日蓮聖人がそうであったかはまったくの別だと思います。
いやいや、日蓮は非仏教、反仏教で中世神道的な唯のナショナリズムだよ。
例えば『法華経』はインド・チベット・シナと本来、包括的、融和的な教えなのに、排他的に読みかえてる。
そもそも動機が自分中心で、政治的。
問題外だよ。
830 :
考える名無しさん :2011/02/01(火) 15:42:09 0
>>827 >仏教哲学の真髄である仏教経営哲学からいうと
おいおい、釈尊はほとんどなんでも所有していた王子だったんだぜ。
それらをゴミのように投げ捨ててほとんど何も所有せず裸足で遊行されたんだよ。
例えば、食事も得られなければ餓死しても、農業などにかまけるなと言っておられる。
現代日本のお坊さんとは違うよ。
>例えば、食事も得られなければ餓死しても、農業などにかまけるなと言っておられる。 この不労称揚が社会に寄生する坊主どもを世界中に蔓延させたのかもね。 >それらをゴミのように投げ捨ててほとんど何も所有せず裸足で遊行されたんだよ。 仏陀は伝説を事実としたらリアル乞食生活者なのにね。 >おいおい、釈尊はほとんどなんでも所有していた王子だったんだぜ。 ニート生活に嫌気がさして極端なことやってみたくなる気持ちはわかる。
833 :
考える名無しさん :2011/02/01(火) 16:24:45 0
流石ネラ
>>832 というか、ブッダはリアル“乞食生活者”そのものだったんじゃないの??
映画とか本とかいろいろな資料で描かれているブッダ像って、そういうものだと思うのだが。
それこそ他人からの施し物で生きているような。
乞食を観察して文学者が妄想を膨らました、でおk?
出家僧も当時の記述に沿うなら岩の上とか洞窟で修行してたみたいだからね
837 :
考える名無しさん :2011/02/01(火) 20:00:34 0
839 :
ヘヴィメタル ダニエル・カール :2011/02/01(火) 20:15:40 0
おーれ、ロックで自分が知らないことを自覚してビンビン飛んでたんだけどさあ、 最近、ED (Erectile Dysfunction) でさあ、アグレッシブさが全然なくなったんだよ。 哲学も厳かに読み上げてるけど、上の空で女の話してたろ、張り合いが無くなってさあ、 そこそこ、偉くなったので反抗することもなくなっちゃんだよなあー。 EDで子供も残せないし、魂の高度になりたい請求を、読経三昧で解消したいなって。
840 :
考える名無しさん :2011/02/01(火) 20:46:57 0
>>838 おいおい、第三者の文学者が観察したってか
道元=二乗
843 :
考える名無しさん :2011/02/02(水) 19:10:18 0
このスレで釈迦の輪廻観をどうとるかは重要問題ってのがわかった。 以下が解りやすい 空に向かってツバを吐くと自分の顔に戻ってきますが、まさに因果応報です。 業(カルマ)を受けたわけです。 今度はツバをもの凄い速度で吐き出して、二〇〇年ぐらいして戻ってきます。 そのツバを顔に受けた人があなたの生まれ変わりということです。 あなたはすでに寿命で死んでいますから、ツバを受けた人は別な人です。 でもあなたの業を受けたのだからあなたの生まれ変わりです。 これが釈迦の論理による生まれ変わりです。 つまり、アートマンが永続するから輪廻転生するのではなく、縁起の因果は継続するので、その縁起の対象が生まれ変わりと呼べますよという哲学です。 以上。誰が言ったかは内緒・・・
>>843 問題は、唾を二回以上吐いたとき、同時に二人以上に人間に当たる事だな。
因果が一対一対応していないと、輪廻は崩壊するぜw
一対一対応するという保証はなんなんだい?
まさか、アートマンとか、魂とか、真我etc.とか言わんよな?
845 :
考える名無しさん :2011/02/02(水) 20:20:39 0
>>843 あんまり巧くない譬えだね。
それだと、生きてる間は実在してるみたいで縁起の妙味がよく理解されないよ。
ほら、こんなやつがでる
>>844
847 :
考える名無しさん :2011/02/02(水) 21:02:19 0
>>846 以前の行いで生まれ変わる輪廻転生がバラモン教にあって、
仏教は別の生に生まれ変わることを迷いの道だって思って、
内面から迷いを解いて輪廻転生から解脱しようと思ったのが
仏教でしょ。ゴウタマ・シッダルタがマガダ国で悟ったのは。
もっと大きくさあ、世の中の矛盾を解決したら内面の悩みも
輪廻転生からも解脱するってことにしたらどうなの?
そうか、これは社会福祉って言うんだっけ。
>>845 じゃあ、お前さんが「縁起の妙味」とやらを教えてくれよ。
849 :
考える名無しさん :2011/02/02(水) 21:46:30 0
>>848 何回も言ってるんで、ログよんでね。
単純に言えば、何かという同一性を持った本質・実体は本来空なんだけど、
言語習慣に基づいて縁起し何かという同一性を持った本質が仮設される。
この仮設された何かという同一性を持った本質を、堅固で固定した実体として扱うからいろいろ矛盾する。
ライプニッツの問いしかり、『メノン』でのソクラテスの問いしかり、
クリプキの『名指しと必然性』しかり。
>>849 で、肝心の、輪廻と縁起の関係は?
既に言ったというのなら、レス番はってくれ。
>>850 関係というのは仕掛けではなく相性です。
相性に理屈などありえません、マジキチじゃなければそれは理解できるはず。
相性が成立するのはそれが最も自然だからです。
理屈と自然の答えが一致しない場合に理屈を選択すると自然を拒否することに
なります。貴方が知っているのは知識であって誰かが解釈した物事の側面
の一部分にすぎません。上っ面な関係を示しても貴方はそれを納得できる
わけでもありません。
853 :
考える名無しさん :2011/02/03(木) 03:21:31 0
>>853 そういうのを2ch脳というのです、なんの説得力もない無意識下で
行われる感情的単純反射で知能が低いことを自己紹介しているだけです。
855 :
考える名無しさん :2011/02/03(木) 04:33:50 0
>>843 弟子「Aさんの生まれ変わりだと主張してる人が、2人も現れたそうっすよ!おかしくないですか?」
釈迦「例れば、そのAさんがツバを二回吐いて、2人に当たったってことだな。」
弟子「1対1じゃないとおかしいっすよ?輪廻崩壊しますよ!」
釈迦「輪廻崩壊?なら、なおいいじゃない」
こういうことじゃないの?
それまでの輪廻観(今も)とは全く違う輪廻観となるのが釈迦。
>>843 >>857 それでもやっぱり、「業果の“担い手”」という意味でも『主体』の継続、『主体』の存在が必須となる。
両者を併せて言い換えれば、
【「業」(及びその影響力)のみが継承される】のであって、
【主体が継続し、果を受け取る者であり続ける】のではない、ということ。
業によって繋がっているから、前世のセバスチャンの業果を次世の田中一郎が受ける時、
『前世はセバスチャンで、今世は田中であるような「継続した」主体』が居るのでなく、
『業によって(≒縁によって、縁起によって)繋がっているから、
前世はセバスチャンであり、今世に田中である“私”』と〈見做され〉る。
と、こういうことになるのだろうと思う。
>>852 で、肝心の、輪廻と縁起の関係は?
既に言ったというのなら、レス番はってくれ。
>>857 それ、もはや「輪廻」とは呼べんだろw
連続殺人犯がたった一回蜘蛛を助けたとき、連続殺人の悪業がAさんにすべて降りかかり、善行はBさんに降りかかった場合、
Bさんは、前世が連続殺人者だったのに、善業の報いしか受けないで済むことになるぜ?w
さらに、唾を吐く側が複数人に渡った場合はどうなるんだ?
AさんとBさんとCさんの吐いた唾のうち、それぞれ半分がDさんに、残りがEさんにかかった場合、「前世」「来世」はどう考えるんだ?w
>>858 同上。
一人の人間が、複数人の業報を受けた場合、その人の前世は、誰になるんだ?
また、一人の人間が、複数人に業因を振りまいている場合には、彼の来世は、誰になるんだ?
「それぞれ関係のあった人すべてが前世であり、来世であると見做す」と言うのなら、
それは単なる因果律であって、因果応報や、輪廻とは、別概念になるだろ。
釈迦は沈黙を以って輪廻を否定した。
863 :
考える名無しさん :2011/02/03(木) 10:09:35 0
>>850 >>859 輪廻って、常に輪廻でしょ。今も。
業の連続性は、意識の連続ね。
その意識も、現在の肉体と同じように常に変化してるけど、同じ流れにあるので、同一性を持って仮設される。
レス番は勘弁してくれよん、しんちゃん。
>>861 >一人の人間が、複数人の業報を受けた場合
そういうこと自体が(仏教の業報論に於いては)あり得ないのです。
>また、一人の人間が、複数人に業因を振りまいている場合
これもそうです。「他者の行為の影響を受け」た時、それは縁となったということであり〈因〉ということではありません。
もとより、縁は(縁を受けるということは)複数でよいのです。
Aさんがわがままを通そうとして喧嘩になり、イラついたまま出掛け、ハンドルを握り、人身事故を起こしたとする。
事故の被害者Bさんは、確かに縁を受けて事故に遭うわけだが、
事故を起こした当人の受ける苦や業果(様々な結果)は、当人のわがままを因とし、
その修正・矯正が為されなかったことにより、苦悩・後悔・罪悪感含め様々な事故の責任を「果」として受ける。
Aさんがわがままを通そうとしたことが、Bさんの事故の因ではないし、事故に遭うという果への縁は多種あっただろう。
ケースによっては、赤へ変わりがけの信号を渡ろうとしたことに起因するかもしれない。
急いて、「今回も大丈夫だ」と考え、急いでいて注意が不足していたことを「因」と見做すべきとなりましょう。
勿論、災害や大事故に巻き込まれるケース等、一見、道理を無視した果の結実もありましょう。
しかしながら、厳密な因果関係のサルベージは(凡夫には)不可能としても、
時間的直接因は、事象の過去のどこかにあった筈ですし、多くの縁が作用していることでしょう。
そうした中で、最も太い連鎖に於いて、因果は結ばれてくるわけです。
その連なりを自業自得と称すし、現世一期だろうと三世に跨ろうとも、それは変わらないでしょう。
複数縁が或る一つの果に収束したとしても、それらは縁であって因ではない。
業果の受け止めが、主観的自省をその骨子とするものなれば、
「報い」とは、当人にとっての原因究明作業によって遡及され、
再び果の分析へと帰趨した時の「事象の価値付け」に他ならない。
そうした遡及と帰趨に於いて因果関係が見出せない時、
それは「報い」ではなく「単なる事象」に過ぎない。
以上試論w
>>863 >輪廻って、常に輪廻でしょ。今も。
意味不明。
回答になてないね。
で、肝心の、輪廻と縁起の関係は?
>業の連続性は、意識の連続ね。
>その意識も、現在の肉体と同じように常に変化してるけど、同じ流れにあるので、同一性を持って仮設される。
肉体と言う支持媒体が存在する状態で、意識の同一性が保たれるのは理解できるが、
輪廻と言う、肉体も、時間も、空間も、現在の人間とは断絶した、全く別の人間に、「意識の連続」が起こるという考えが理解できん。
いったい、「何」が連続するというんだ?
>レス番は勘弁してくれよん、しんちゃん。
「何回も言ってるんで、ログよんでね。」と言っておきながら、レス番を示す事すらできないとは、何と言う駄々っ子w
アートマン!!
>>864 >そういうこと自体が(仏教の業報論に於いては)あり得ないのです。
「なぜあり得ないのか」の説明をしてくれ。
>これもそうです。「他者の行為の影響を受け」た時、それは縁となったということであり〈因〉ということではありません。
>もとより、縁は(縁を受けるということは)複数でよいのです。
なるほど。本人が受ける以外の影響は、全て「縁」としてぶった切るわけだ。
そうすると一見問題が解決するように見えるが、人生の中で、「因」となるのは一つじゃないよな?
平均寿命の80年も生きていれば、数十、数百、数万の「因」が生まれるはずだ。
それらの複数の「果」が、来世において、一個人にすべて集約されるとは考えにくい。
集約されないのなら、「因」があっても「果」が無いという事になり、基本に反するよな?w
集約するというのなら、一体どういう仕組みなんだ?
また、集約したとして、それが「縁」じゃなくて「果」だと、どう判断するんだ?
さらに、その説明では、輪廻の基本となる「因果応報」の説明がつかない。
人をぶっ殺しても、その報いを受けずに、のうのうと生きている人間だっているだろ?
社会的・法的制裁を受けないで逃げている人間が居るし、「苦悩・後悔・罪悪感」すら感じない人間が居る。
単なる因果律の説明ならいいが、業報の説明にはなってないと思うが。
>現世一期だろうと三世に跨ろうとも、それは変わらないでしょう。
たとえ現世一期の中で因果業報が成立するとしても、それをいきなり三世に拡張するのは、論理飛躍が過ぎる。
>業果の受け止めが、主観的自省をその骨子とするものなれば、
>「報い」とは、当人にとっての原因究明作業によって遡及され、
>再び果の分析へと帰趨した時の「事象の価値付け」に他ならない。
単に、「自分がそう思う」程度の事なのか?w
しかも、前世を知りようもない凡夫が、「これは前世の報いだ」と決めつけるのか?w
>そうした遡及と帰趨に於いて因果関係が見出せない時、
>それは「報い」ではなく「単なる事象」に過ぎない。
全てが「単なる事象」でいいんじゃないのか?
なぜ、そこに「業報」を出す必要がある。
仏教哲学の最終目的、発見!!! 718 名前:考える名無しさん[sage] 投稿日:2011/01/20(木) 13:02:01 0 おまえら明るく楽しく生きようぜ
>>867 私は「三世に跨る輪廻」懐疑派なんでねw
あくまでも、整合性の模索だよ。もとより、業果の連鎖をつぶさに見れるのは(知れるのは)悟りを得た者(如来、覚者)だけだ。
たとえ外道の行者が、宿命通で幾度の生を想起し得たとしても、そこに業の連鎖を見ることができなければ
凡夫(の日常の因果探索)と変わりないわけだし。
>単に、「自分がそう思う」程度の事
>全てが「単なる事象」でいいんじゃないのか?
その通りです。
(ですから、中論に於いては「因果も無し」というニュアンスで語られるのですw そこには縁起しているということしかない、と。)
>前世を知りようもない凡夫が、「これは前世の報いだ」と決めつけるのか?
決め付けてきた歴史があるのは事実ですね。
しかし、本来は、他者の苦或いは果を評価判断してはならないのです。それが出来る(許される)のは如来(覚者)のみです。
そして、覚者であっても、告げることが当人の行(涅槃、悟りの完成)に資するものでなければ、示されることはないでしょう。
『自覚』と『反省の上に立った新たな歩み』こそが重要なのであって、
そこを忘れ、(倫理道徳に役立てようという善意ではあった筈ですが)他者の果に干渉し、評価することを始めてしまった。
これが、業報を巡る大きな不幸・弊害だったろうと思います。
勿論、「理不尽な死」を納得させる為の理由付けもあった筈です。撲殺された高弟もいたようです。
阿羅漢が理不尽な死を迎えねばならなかった理由は、何が何でも探されねばならなかったでしょう。
>集約したとして、それが「縁」じゃなくて「果」だと、どう判断するんだ?
「果」となって(見做されて)終わりではありません。それがまた「縁」(或いは因)となるわけです。
主幹と支線が交錯するような配置のドミノの喩えが適切かは判りませんが、イメージとしてはそのようなものです。
(蛇足的に触れれば、一個人の中に於いてのドミノの最初の一駒が「無明」と言えるかもしれません。)
>>867 >そうすると一見・・・・・・どう判断するんだ?
時間的直接因や間接因という見方は日常でもあり得るでしょう?
箱根10区、ゴール間際で肉離れが起きた時、貴方はその因や縁を特定し得ますか?或いはどのように分析しますか?
「スパートが早く、前走者に釣られ練習以上のペースでいってしまった」とか、「スタート前のウォーミングアップが不足していた」とか
「中継車の挙動にペースやコースを乱された時、イレギュラーな負荷がかかった」とか「数年前に起こしてから癖がついている」とか
種々数え上げれば幾らでも出てきます。だから、実は因果の見究めというのは多分に恣意的なのです。
また「縁」とは、言い換えれば「条件」ということでもあります。(それは「因」の側面を持ちますが、直接的な決定的原因ではないでしょう?)
複数条件があり、それらの複合的作用で果が生じるわけです。
この時、そのうちのどれかを決定的「直接因」とするのは慎重でなければなりません。
いずれしろ、これらを併置して「見た」時、そこには「事象の連鎖(≒縁起)があるのみ」です。
だから、本人の受け止め方(自覚)に依らねばならないのです。
自覚と自省無き所に、改善はありません。
三法印の一つ「一切皆苦(一切行苦)」は、自覚と頷きの上のものなのです。
>>867 >さらに、その説明では・・・・・・なってないと思うが。
ですから、「恣意的」だと言うのです。ベトナム枯葉剤の影響で(と言ってしまってますがw)奇形児が生まれた時、
その「因」を(或いは「縁」を)必ずしも前世に求める必要はありません。
その因は、やはり枯葉剤であると見るべきなのです。前世の因や縁が奇形の因となるような連関は見出し難いのです。
(と凡夫が言い得るものでもないが・・w 全ては釈迦のみぞ知る、ってとこだw)
だから、発言には気をつけねばならないのです。安易な、短絡的な因果律のゴリ押しになっていないか?と。
価値判断の織り込まれない「事象の連鎖」を見るならば、大量殺人犯がのうのうと生きていても、
それはそういう事象の連鎖の中にあるだけです。仮に、少しばかり価値判断を織り込めば、
文字通り「機が熟していない」「機縁が熟していない」ということに、仏教的世界観の上ではなるでしょう。
「殺人には相応の報いがなければならない」というのは、「単なる事象」への希望的評価なのです。
当人に於ける「殺人という行為の果」は、周囲が希望するものとは別の形で当人に生じているのかもしれません。
それが何かは知る由もありませんがw、それに気付いた時、そこに仏教という門が開かれるわけです。
何を「因」と見、何を「果」と見るかの段階で、既に既存の価値観によるミスリードが生じるのです。
個々のケースが千差万別なれば、そこに見出される連鎖も千差万別となりましょう。
この時、「善なること」「涅槃に資すること」「他の害とならないこと」「他の福となること」といったことを枠組みとして採用する時、
仏教的“業報”が成立するわけです。あくまでもそうした枠組みを用いた上で言い得る事であり、
その枠(価値観世界観)の外で「報い」を言い出せば、整合性は途端に崩壊します。
風が吹いて必ずしも桶屋が儲かるわけではありませんがw、
縁起の中に因果を見るということは(特に業報は)、風が吹いて桶屋が儲かるが如きものなのです。
「無明により苦がある」という言明は、そうした極を拾い上げたダイジェスト的表現なのです。
少なくとも形式上は、マクロ的にそういう「連関」を見ることなのです。
872 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2011/02/03(木) 15:48:04 0
横から失礼します。 輪廻転生とか、少しこのスレのお題とは離れているようですが 仏教から見た輪廻転生ということでしょうか?
>>869 >あくまでも、整合性の模索だよ。
だから、「整合性」がちょいと甘いんじゃないかと言う突込みだよ。
>その通りです。
なら、いちいち「報い」などと言う必要はあるまい?
>決め付けて〜でしょう。
結局、業報という見方は、「修行の助けにするための方便」にすぎず、
実際には、「単に個人がそう思い込んでいる程度」の存在に過ぎないという事なのか?
俺はそれでもいいが、「そうじゃない、業報は真実の法則だ!」と言っている人と、合意してくれw
>「果」となって(見做されて)終わりではありません。
>それがまた「縁」(或いは因)となるわけです。
いやいやw
そうじゃなくて、「なんで、果と見做す事が出来るんだ?」と聞いているんだよw
例えば、ある人が殺人という因を起こし、多種多様な影響を、多くの人に与えるわけだ。
そのうちのたった一つが「果」であり、その果を受けた人が殺人者の転生者であり、
その他の影響は「縁」にすぎず、転生には関係ないとぶった切るんだろ?
なんで、そのような判断が出来るんだ?
>>870 いろいろ言っているが、質問に対する回答になってないと思うが。
直接/間接とか、時間的に連続かなどは(ここでは)問題にしてないよ。
(前世にあたる)Aさんが、たった一つの因を生じ、
(来世に当たる)Bさんたった一人に、その果が生じるなら、何の問題もない。
果の生じたBを、Aさんが転生した人だと定義すればいいんだから。(唾が当たった人理論)
次に、Aさんが、@Aの2つの因を生じたとしよう。
そのうち、@AがBさんに、AのみがCさんに影響を与えたとする。
このときは、@Aが果であり、BさんがAさんの転生者とすればいい。
CさんはAさんの因によってAという「縁」を受けた人といえば整合性は保たれる。
(縁としてぶった切り理論)
だが、問題は、さらに増えた場合だ。
Aさんが、@ABの3つの因を生じたとしよう。
そのうち、@AがBさんに、ABがCさんに、@BがDさんに影響したとしよう。
どれが果であり、どれが縁であり、だれが転生者なんだ?
それとも、必ず、@ABのすべてが降りかかる人が生まれるというのか?
因が数十、数万に及ぶ場合はどうなる?
>>871 >その「因」を(或いは「縁」を)必ずしも前世に求める必要はありません。
いやいやw
解りにくく書いたこっちも悪いが、業報の部分は、前世はあまり関係ない。
「悪い事をしたら、悪い結果を得る」という業報に対する反例を挙げてみたんだが。
>文字通り「機が熟していない」「機縁が熟していない」ということに、仏教的世界観の上ではなるでしょう。
そうすると今度は、「本当にいつか報いが来るのか?」という疑問が湧くぜw
因果律(事象の連鎖)に、価値判断を織り込もうとするのが、そもそもの間違いじゃないか?
>「殺人には相応の報いがなければならない」というのは、「単なる事象」への希望的評価なのです。
それだと、単なる因果律だろ?
業報を真理だと主張する連中からは猛反発されないか?w
>この時、「善なること」「涅槃に資すること」「他の害とならないこと」「他の福となること」といったことを枠組みとして採用する時、
>仏教的“業報”が成立するわけです。あくまでもそうした枠組みを用いた上で言い得る事であり、
>その枠(価値観世界観)の外で「報い」を言い出せば、整合性は途端に崩壊します。
要するに、様々な解釈ができる中から、「仏教的に都合のいい解釈」を採用したのが業報に過ぎないって事か?
例えば、
ある人が、気まぐれで人をブッ殺した。
殺人者は、被害者の家族に敵討ちで殺された。
ところが、被害者が死ぬことで、100人の人が救われていた。
とした場合、
「気まぐれで人をぶっ殺したら、知らないうちに100人救っていた」という都合の悪い部分は無視して、
「ぶっ殺したことで、殺し返された」という、都合のいい部分だけを摘まんで、
「因果応報が成立した」とするって事か?
仏教の輪廻はアートマンに対するアンチテーゼにすぎない
>>875 とりあえず一点。
>「気まぐれで人をぶっ殺したら、知らないうちに100人救っていた」という都合の悪い部分は無視して、
>「ぶっ殺したことで、殺し返された」という、都合のいい部分だけを摘まんで、
>「因果応報が成立した」とするって事か?
ぶっちゃけて言えばその通りです。
「他を害する行為」は、それがどれほど大きな社会的利益をもたらすものであっても、「悪しき行為」であるからです。
仏教に於ける善悪の基準は極めて明解です。(このスレでも出てなかったかな?善悪の話。)
他は後ほど。
やっぱり、議論スレの名無しさんか?
だったら、今は了解済みのことを復習してる感じになるが・・w
もしそうなら、
@とかAとかの部分、多因多果とも言える、「因と縁と果」の関係について、
片山さんの小論を参考に貼ってもいいが・・w
ノシ
バラモン教の真理「アートマン=ブラフマン」 仏教の真理「明るく楽しく生きようぜ」
879 :
考える名無しさん :2011/02/03(木) 19:37:24 O
バラモン教の経営「とりあえずアートマンを認めて、個々が庶民を支配しようぜ」 仏教の経営「あるかないかわからないアートマンは置いといて組織的に庶民を支配しようぜ」
所有するなという教えはこうして消えた
輪廻への不徹底な考察は仏教の限界。 そして「生き物を殺しちゃいけない」もそうだと思う。矛盾。 万人のための宗教、哲学になりえない。 輪廻も不殺生も当時の宗教的流行にすぎないだろうに、どうして妥協してしまったのか。
ダライ・ラマも独立あきらめて妥協したね。そう言えば・・。
>>873 >「整合性」がちょいと甘いんじゃないかと
はい。甘いですねw
というか、最終的に詰め切れない部分が確実に残ります。
(それを確認し得るのは「宿命通と、その解析に依るしかありませんw)
だから私は、懐疑したまま棚上げしているのです。
誰かさんは首肯しませんがw、仏教の基本ラインは三世に跨らずとも成立するからです。
>なら、いちいち「報い」などと言う必要はあるまい?
社会の中で生き、関わり続けねばならないとするなら、
倫理道徳の領域へ下向する必要があります。生きる以上(日常生活を送る以上)避け得ないことです。
それは、倫理道徳の領域に限らず、言語や慣習・文化、世相・情勢の領域についても同様です。
「出世間」ということは、言い換えれば「縛られていない」「惑わされない・眩まされない」「誘われない・追従盲従しない」
ということであり、桃源郷の仙人が如く断絶してあることではありません。
何か土産を渡す時、「つまらない物ですが・・」と言い、表書きを「粗品」とする。
互いの間柄やシチュにより「事象そのままに」会話されることもあり得るかもしれませんが、
大概はそのように言う。『どんなに高価で、価値があって、相手の為になる・喜ばれる物であっても』、です。
当該品がそのようなものであるなら、 >いちいち「つまらない物」などと言う必要はあるまい?
なぜ言わないのでしょう? なぜ、「つまらない物」と称することが通例となるのでしょう?
それは、
【場面や文脈が、そのような表現(言語使用法)を要請している】からです。
【場面や文脈に於いて、その当該品の「位置付け」として必要な表現、呼称である】からです。
同じように、
【場面や文脈が、「報い」という表現(言語使用法)を要請している】からです。
【場面や文脈に於いて、その事象の「位置付け」として必要な表現、呼称である】からです。
他、また今度。 ノシ
国会始まったんで、また動画三昧の夜が続きそうだ・・w
>>877 >>883 なるほどね。
で、俺は別にそれで構わないが、輪廻を肯定する諸氏は、この主張に反対しないのか?w
婉曲に言っているが、ぶっちゃけて言えば、「輪廻は方便、実在しない。仏教に輪廻は不要。」と言っているのとほぼ同じだぜw
885 :
考える名無しさん :2011/02/04(金) 20:32:31 0
宗教の抑圧
886 :
考える名無しさん :2011/02/04(金) 23:07:01 O
>>461 今村仁司先生や清沢満之先生も実在仮象論になりますかね?
887 :
考える名無しさん :2011/02/04(金) 23:10:58 0
>>886 >今村仁司先生や清沢満之先生も実在仮象論になりますかね?
読んでないんで分からない。
888 :
考える名無しさん :2011/02/04(金) 23:40:58 0
池田せんせいの転生がそろそろ作られる予感
『大日経』三句法門について質問を御許し下さい。 因たる菩提心が『菩提心論』「勝義菩提心」旨陳無自性と 『十住心論』『宝鑰』第九住心に対応し、 根たる大悲と究竟たる方便が「三摩地段」と第十住心に対応している、 と理解しております。 因たる第九住心は当然として、根と究竟の二心、即ち、第十住心もまた、 無自性という理解で正しいでしょうか? 勝義菩提心は無自性だが、三摩地段は否といった理解は不可、 という理解で正しいでしょうか? また、『起信論』の体・相・用と、『即身義』の六大・四曼・三密は、 因・根・究竟は対応しているのでしょうか?
890 :
1/2 :2011/02/05(土) 10:18:12 0
>>884 >諸氏は、この主張に反対しないのか?w
しますよw
>と言っているのとほぼ同じ
大意は同じですねw
だから、この件に関して、私は外道認定されていますwww
伝統説に於いて輪廻(という「事象の在り様」の一様相)を、(教義の根幹の一つとして)肯定或いは前提とする立場が、
『業果の継承』及び『因果関係(縁果関係)の一対一対応』の詳細(≒原理、システム)を確定できない、詳らかにできないのと同様、
否定派もまた、幾つかの点で詰め切れない部分、基本に抵触する部分があるからです。
*(否定派はそれを、現代科学或いは物理学・生物学等の現代の科学的知見と併せて、
仏典古層の曖昧な記述・三世に跨る形としては不明確な言い回しを後ろ盾に、論立ての不備解消を試みています。
これを「現代(日常)“常識”への阿諛」「現代(日常)常識への強引な引き寄せによる歪曲」と評する方もいます。)
891 :
2/2 :2011/02/05(土) 10:20:36 0
なぜか。
・「輪廻しない」となれば、それは、「縁起する諸法に於ける断絶」となるからです。
(身口意の三業を立てる仏教なれば、特に心・意識の面に於いて)、業の影響の断絶となるからです。
無記として言われるように、始原と終局を問うことは避けられているわけですが、
縁起が無始無終の連鎖と言われるのは、始原・始めがあるとするなら、それは、
「因に依らず縁に依らず生じるもの(存在するもの)」を認めることになるからです。
また、終わりがある(断絶)とするなら、それは「他に影響を与えないもの(縁とならないもの)」となるからです。
それは縁起という世界観の崩壊を意味します。仏教で唯一そのような位置付けがされるのは「涅槃」のみです。
・「死」によって途絶えることがあるなら、「死を選択することによる苦の解決」となるからです。
「輪廻(或いは今ある苦)からの解脱」が名実共に目指されることであるなら、その解決策が
「悟りを得ること」と「自ら死を選ぶこと」の二種存在することになるからです。
・過去、数多の阿羅漢が輩出され、「おしえ」が伝承されてきたわけですが、
そうして説かれ続けてきたことを無視することとなります。彼等は誤っ伝承してきたのか?と。
それは三宝に対する信の棄却となります。伝承されてきた「おしえ」を信じずに(≒参照せずに)、
他に参照し得る情報があるのか?と。
・
>>858 にあるように、「業の連関による(世俗的)自我の結実、言い換えれば、
業の連関による、果として“生じた”(前世の業果として“生じた”)(世俗的)自我」を、
「継続して存在するが故に受け手足り得るのだ」とすることは、アートマンを想定することと同じであり、
『まず主体ありき』『変わらず存続を続けた、継続する主体ありき』な考え方であり、
反縁起であるからです。『主体が存続を続けたから、受け手となり得るのだ』と。
*(だから
>>843 の「天に唾するが如き」という喩えは不完全なのです。)
(上記一々に対して、私個人としての疑義もないわけではありませんが、今は措きますw)
892 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2011/02/05(土) 13:27:43 0
>>889 さん
大変失礼ですがそこまでご存知なら
それぞれの論書の関連をお調べになられたほうが
早いのではないでしょうか?
(即身成仏義は読んだことはありますが大乗起信論は若かりし頃ざっと目を通しただけで
密教との関連は後で知ったもので・・・)
実は私もこの密教経典は大乗仏教の集大成とも言えると個人的に考えておりまして
三句の法門、そして何より「如実知自心」という文句は大好きです。
(大好きというと罰が当たりそうですが)
六大体論、四曼相論、三密用大はお大師様の独特の哲学ですが
誠に理が適っているものですね。
ただ、たしかこのスレでは密教はご法度という方も居られるようですので
私的には教相の部分は大いに披瀝して何ら差し支えないと思うのですが
それもダメ、という手厳しい方のようですので。
>>890-891 >しますよw
とりあえず、このスレではいないようだが、やっぱりスレ内容から外れているからかね。
読んでる人が理解してないって事は無いよな?w
>否定派もまた、幾つかの点で詰め切れない部分、基本に抵触する部分があるからです。
ここでいう否定派というのは、「仏教信仰者で、かつ、輪廻否定派」という事かね?
(ちなみに俺は、輪廻に関しては不可知論者。)
>「輪廻しない」となれば、それは、「縁起する諸法に於ける断絶」となるからです。
天に唾を吐いて、誰かに当たれば(あるいは地面に落ちれば)縁起は充分継続しているでしょ?
単に、唾が当たった人を転生者と言うか言わないかというだけの問題で。
また、始原・終局が有ろうと、「人間の知覚範囲」で無始無終なら、「人間にとって」は同じじゃないか?
(だからこそ、無記なのだと思うが)
>「悟りを得ること」と「自ら死を選ぶこと」の二種存在することになるからです。
「死後の世界が無い」と確信できるなら死ぬ事による区からの逃避もアリだと思うが、
死ななければ死後の世界の有無が分からない以上、死は選択肢から除外されると思うが。
>そうして説かれ続けてきたことを無視することとなります。彼等は誤っ伝承してきたのか?と。
ん〜、試論としてだが、例えば、物理の教科書があるとしよう。
2500年間口伝で伝えた場合、その内容が徐々に間違っていったとしよう。
それに対して、「口伝を重んじる」と言う立場もあり得るが、「実際の現象に合致するか確認する」と言う手法もあるだろ?
前者は信仰者としては立派だが、間違っているものは、間違っている。
まあ、後者も「仏教」と言えるか微妙だがw
>・
>>858 にあるように、〜不完全なのです。)
ん〜、何を言いたいのかよくわからん。
>(上記一々に対して、私個人としての疑義もないわけではありませんが、今は措きますw)
是非、個人的疑義の方を聞いてみたいがw
>>887 そうですか。涅槃はパルメニデスで輪廻はヘラクレイトスみたいなこと書いてました。
お亡くなりになりましたけどニューアカ世代には懐かしい名前です。
話は変わりますがスマナサーラさんのアビダルマ講義の新刊は縁起が直接のテーマですね。
>>893 >ん〜、何を言いたいのかよくわからん。
「まず主体ありき」(言い換えれば“実体”ありき)な考え方だということ。
>「実際の現象に合致するか確認する」と言う手法もあるだろ?
はい。伝承上それは、「各阿羅漢による“追体験”により検証・確認されてきた」ということになりますし、
逆に言えば、宿命通を得た者以外は検証確認の術を持たない、という事になります。
つまり、「外野」「一般人」「凡夫」は「推測するしかない」「信じるしかない」ということですw
この時、どの立場でも「蓋然性」を担保とするしかないわけですが、
その中に「仏典」(言い換えれば「聖者の(阿羅漢の)伝承」)をどう位置付けるか、
「現代科学等の知見」をどう位置付けるか、によって蓋然性の質が変わり、立場も変わってくる、ということです。
>死ななければ死後の世界の有無が分からない以上、死は選択肢から除外されると思うが。
死後の世界の有無は関係ないでしょw
今感受される耐え難い苦悩・苦痛から逃れる為の選択肢として、実に魅力的じゃないかw
そのような時の心理的特徴をざっくりと言えば、『今ここからの脱出』なわけですから・・。
死後が完全無だとすれば尚更だwww
>ここでいう否定派というのは、「仏教信仰者で、かつ、輪廻否定派」という事かね?
そういう限定は必要ないと思います。仏教外の者の見解でも、それ自体が有する不備というのはあり得るわけですし。
涅槃に達しないものはあらゆるものに執着する 執着するものは死後もなくならない生を合成する ゆえに彼らは永久の苦しみを味わう ただ芽を出し、ただ成長し、ただ花を咲かせ、ただ実を実らせ、ただ枯れてゆく植物のように生きること これができたとき、人は執着から解放される
仏教の真理「明るく楽しく生きようぜ」
中村元さんの声はなんか落ち着く
>>895 >「まず主体ありき」(言い換えれば“実体”ありき)な考え方だということ。
主語が良くわからないんで、論旨が不明瞭なんだが、
「輪廻否定派」は、「先ず主体ありき」な考え方だから、「詰め切れない部分、基本に抵触する部分がある」と言っているの?
>はい。〜ということです。
いや、その通りなんだが・・・・w
ただ、追体験をしようとするものが、「阿羅漢」なのか、「凡人」に過ぎないのかの判断も、「伝統」によるんだよなw
「缶切りの入った缶詰」のような話になってきたなw
ただ、個人的には、「現代科学等の知見」は、非常に再現性の高い(=蓋然性の高い)知見だと思うので、
それを基準に判断するのは、(現代社会においては)非常に有効な手段だと思う。
少なくとも、正確に伝承されて来たか保証のない伝承を無批判に信じ込むよりは、(個人的に)好ましいな。
>今感受される耐え難い苦悩・苦痛から逃れる為の選択肢として、実に魅力的じゃないかw
いやいや、死後の世界(=輪廻)が有るなら、自殺しても苦からは逃れられないでしょ?
『今ここからの脱出』なら確かに自殺もありだが、さっき話してたのは、「苦からの脱出」でしょ?
>死後が完全無だとすれば尚更だwww
そりゃそうだが、「完全無」だと断定できるかね?w
断定できなければ、死は選択肢から除外されると思う。
>そういう限定は必要ないと思います。仏教外の者の見解でも、それ自体が有する不備というのはあり得るわけですし。
ん〜、よくわからん。
「仏教外の者の見解でも、それ自体が有する不備」ってのは、具体的にはなんだい?
PS.)現在、ベロベロに酔ってるので、誤字等あったらごめんなさい。
それから、ここの所忙しいので、返信が遅いと思うけど悪しからず。
>>899 >それを基準に判断するのは、(現代社会においては)非常に有効な手段だと思う。
ただそれを有効だと信じてしまった時点で合理化された社会ではデジタルの0と1
のように有効とは完全な法則に作用してしまうことぐらい分かっていないのか?
>少なくとも、正確に伝承されて来たか保証のない伝承を無批判に信じ込むよりは、(個人的に)好ましいな。
この手に保障などない、逆に伝承は生き物であり解釈によって常に変動するもの。
君は伝承の形の意味だけを信じる類だと錯覚していないか?
本質的なものは形ではなく中身だ、それは目で見えたり意味として理解できる
類ではない、君が行っているのは理解するという行為ではないのか?
理解しがたいから自分の価値観で言語化しても無理があるぞ。
>そりゃそうだが、「完全無」だと断定できるかね?w
君が捉えられないのは観念だ、完全というものすら学問としての知で
計算高く捉えている。念なるものはそれとは違う。故に完全の意図が
君の価値観とは似ていても非なるものである。
物事の因果関係の素を探求してゆけば、存在と存在の関係というところまで
遡れる、存在を捉えるには主体と客体という術が生まれる。
理解できないものにも必ずロゴス(理)があると考えたい君は後付けで
なんにでも論じることで解決できるという思いがそこに隠れているだけ。
意味が生まれる前の認知すらできない類に対する捉え方の術すら
まったく持ち合わせていない自己紹介にすぎない。
証拠として貴方はまったく因果関係が無いと前提したものを捉える術を
しらないだろう?たぶんあれば教えてほしいとは言い出すはずだ。
それが君の限界ってやつ。教えてもいいがその状況まで積み上げた経験が
ないものに教えても盲人に色の鮮やかさを語るようなもの。
幾ら問答しても先天的な盲人には色の鮮やかさを体感することはできない。
俺は釈迦の教えに従い、 明るく楽しく生きようと思う
902 :
考える名無しさん :2011/02/06(日) 09:16:11 0
>>889 >因たる第九住心は当然として、根と究竟の二心、即ち、第十住心もまた、
>無自性という理解で正しいでしょうか?
>勝義菩提心は無自性だが、三摩地段は否といった理解は不可、
>という理解で正しいでしょうか?
いえ、大日如来、如来蔵、仏性も無自性空でしょう。
マクロコスモス・ミクロコスモスといった大日如来が宇宙、実在という見解は
ただの誤解です。きっちり、『十住心論』で否定されてます。
ただの外道の見解です。三昧体験を実在、真実とする誤解です。
>また、『起信論』の体・相・用と、『即身義』の六大・四曼・三密は、
>因・根・究竟は対応しているのでしょうか?
いろいろ解釈があるかもしれませんが、原義的には対応していないと思います。
体・相・用は、諸法の本質・本体、形相、作用に分けた存在論的視点だと思います。
六大・四曼・三密は、その密教的視点ではないでしょうか?
それに対して三句は一切智・普賢行への道、修行体系的視点だと思います。
貴方はよくお分かりですから、お答えしましたが、
密教について、こんなところで質問するのはなしだと思います。
しかも、かなり核心的問いですよね。
903 :
考える名無しさん :2011/02/06(日) 11:15:00 0
「仏教」とは「セラピー」でありそこに最終目的というものは無くて ただただ人の心の平安のためにあるもののはずだったけど 時の権力者・仏教を生業をする者の都合で今のように複雑な形態になったんだと思う。 答えのない問いを投げかけ、それを理解しようとすることで神秘的な地位にもってった。 「無い」ものを「在る」とし、「信仰・修行」することでその存在に近づけるとする。 頭の弱い人・悩みの多い人・頭の良すぎる人はひとたまりもないよね。
>>903 そう。
だから、
明るく楽しく生きようぜ。
905 :
考える名無しさん :2011/02/06(日) 12:11:01 0
>>902 さんが一生懸命、難しい言葉つかって説明してるけど、
それらの言葉も仏に授けられた言葉じゃなくて人が考え出した言葉なんだよ
人が考えた答えのない問い。
その答えのない問いを解明する為に生まれたあらゆる解釈・単語
902さんは頭のよさそうな人にお見受けしますが、なぜ宗教に偏ってしまったのでしょうか?
906 :
899 :2011/02/06(日) 12:36:34 0
>>900 横レス?
ところどころ日本語が崩壊しているしw
おまけに、議論の内容を理解してないんじゃないですか?
>ただそれを有効だと信じてしまった時点で合理化された社会ではデジタルの0と1
>のように有効とは完全な法則に作用してしまうことぐらい分かっていないのか?
なんで、現代科学の知見に基づく判断が、0と1のデジタルと同値に扱われているんだ?
蓋然性を重んじる科学は、デジタルとは正反対のアナログ的判断だぜ。
むしろ、科学=デジタルと短絡思考している貴方の方が、0or1の思考に嵌っていないか?w
>本質的なものは形ではなく中身だ、それは目で見えたり意味として理解できる
>類ではない、君が行っているのは理解するという行為ではないのか?
議論の流れを認識してる?
今議論していたのは、むしろ、貴方の言う「中身。解釈によって変動するもの」の方なんだがw
>理解しがたいから自分の価値観で言語化しても無理があるぞ。
だからw
言語化に限界のあるものを、いかに検証するかと言う話をしているだろうがw
>君が捉えられない〜体感することはできない。
要するに、「説明も証明も出来ないけど、俺は分かってる」って言いたいんでしょ?
説明できない(しない?w)なら、出しゃばってくるなよw
せめて、自慢話をしたいなら、自慢する内容を正確に書かないと、物笑いの種だぜw
盲人云々と言っているが、自分は、何らかの手段(修行?)で、体感できるようになったんだろ?
それを説明すればいいじゃないかw
それすらできないのであれば、そのようなものは存在しないと疑われて当然だぜw
>>906 >蓋然性を重んじる科学は、デジタルとは正反対のアナログ的判断だぜ。
「蓋然性を重んじるから」アナログなのかどうかは判りませんが、
《事象がアナログである》こと、寧ろ《人の思考、観察、判断こそがデジタルである》とは言えると思う。
(養老孟司も似たようなこと言ってたなw)
人は、デジタルな把握しかできない、と。
デジタルな把握が、知覚認識である、と。
*このデジタルな知覚を、「アナログなままの」“体験”として爲されるのが「三昧」ってやつかもしれんw
>>907 補。
そのデジタルな把握、知覚認識の一端が、「因果の抽出、拾い上げ」でもある。
>>899 > いやいや、死後の世界(=輪廻)が有るなら、自殺しても苦からは逃れられないでしょ?
輪廻説に立てばそうです。しかし、当人の即時的想いは少し別です。
以前某スレで、死後の世界についてのアンケートが話題になったことがありました。
『ある「かもしれないが」、なさそうだ』というスタンスであれば、自死選択の可能性は上がります。
また、仮に『「次の生」がある』と考えたとしても、《今よりは良い「だろう」》と思う・希うのが人の常です。
飛行機の墜落可能性を知っていても、「自分の乗った飛行機は大丈夫だ」という感覚を持つのと同じです。
何度も言うように、【『今ここでないどこか』『今ここからの脱出』こそが希求されている】からです。
> 『今ここからの脱出』なら確かに自殺もありだが、さっき話してたのは、「苦からの脱出」でしょ?
死後の世界の有無は、(それを強く信じている者以外にとっては)それほど重要ではないのです。
二つの部屋があり、一つは肉屋の冷凍室のようなトコ、隣は暖房の入っていない普通の部屋としたら、
冷凍室を飛び出して、隣の部屋へ駆け込むでしょう。今居る部屋よりはずっと良い、と。
また、部屋の外がどうなっているか判らないとしても、「このまま凍るよりは・・」と部屋を出る選択は自然な心理です。
何度も言うように、【『今ここでないどこか』『今ここからの脱出』こそが希求されている】からです。
*マスコミの誘導もあったにせよ、民主与党を選択したのも、
明らかに「今ここ(自民政権)でないところ(民主政権)の選択であった」と見ることもできます。
ま、多くの人が、「しまった。前より悪い場所だった・・orz」と後悔しているかもしれませんが・・www
> そりゃそうだが、・・・・・除外されると思う。
上で述べた通りです。
>>899 > 「仏教外の者の見解でも、それ自体が有する不備」ってのは、具体的にはなんだい?
少し乱暴に言い過ぎましたが、たとえば、
・「批判相手の理屈の正当性」を否定し切れない(それを担保するのは、自サイドの蓋然性の高さのみ)ということ。
(
>>891 や、
>>909 のリンク先のような話です。)
・現代の知見もまた、蓋然性の高さのみが最後の砦であり、
「その構図自体は、蓋然性の高さの差であるだけで、批判相手の「信」の構図と変わらない」ということ。
・「事象の連鎖の中に因果を見出す行為」の恣意性は、どちらであっても変わらない、ということ。
・上記それぞれにも絡みますが、「決定論と自由意志」或いは「バタフライ効果」の議論のように、
仏教など欠片も関係無くとも、『最終的には、批判相手がしているように、
「(手元の、知り得る情報を)信じる」しかない』わけです。その確実性が100%担保されるわけではないのです。
>>873 > >「果」となって(見做されて)終わりではありません。
> >それがまた「縁」(或いは因)となるわけです。
> いやいやw
> そうじゃなくて、「なんで、果と見做す事が出来るんだ?」と聞いているんだよw
上で少し触れたように、「そのような《因果の拾い上げ》は、現代の知見でも同じ」でしょう?
参:【最終】仏陀は転生(再生誕)を説いた!?【決着】11
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1235556630/124 http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1235556630/665-669 *(ここの665〜681は、
>>893 >是非、個人的疑義の方を の一部でもあるw)
>>873 > 例えば、ある人が殺人という因を起こし、多種多様な影響を、多くの人に与えるわけだ。
> そのうちのたった一つが「果」であり、
たった一つではないでしょう?w
「【ピントを合わせるから】、或る一つが、或る文脈の上で、「果」と特定されるのです。
> その果を受けた人が殺人者の転生者であり、
「主体無き輪廻」に於いてはそうです。
たとえば、徒競走で最初にゴールテープを切った者が「一位の者」と言われるように、
或る業果として生じた生が(自我が)転生者であると言われるわけです。
最初から、その人が(自我が)居て果を受けた、ということではないのです。
一位の者は、最初から一位だったわけではありません。
スタート時、一位の者はまだ存在して(生じて)いません。
ゴールテープが切られた時、その時初めて、一位の者が存在する(生じる)のです。
> その他の影響は「縁」にすぎず、転生には関係ない
関係ないかどうか知り得るのは覚者のみですw
また、たとえ推測にしても、関係がないことは無いでしょう。
「一因一果」は、文脈的制約を受けた恣意的謂いであり、事象としては「多因多果」「多縁多果」なのです。
だから、幾つかの条件(縁)を操作してやれば、未来を変えることができるのです。
向上の機は常にあるのです。運命論に陥らずに済むのです。
>>875 > 因果律(事象の連鎖)に、価値判断を織り込もうとするのが、そもそもの間違いじゃないか?
そうです。だから、
>>911 のリンク先なのです。
しかしながら、仏教でなくともそれは爲されているでしょう?
というか、それなくして、人は生きること(日常生活を送ること)は不可能でしょう。
価値判断無き因果の拾い上げは無いのです。
> >「殺人には相応の報いがなければならない」というのは、「単なる事象」への希望的評価なのです。
> それだと、単なる因果律だろ?
> 業報を真理だと主張する連中からは猛反発されないか?w
だから、世俗と勝義の二諦なわけです。
世俗に於いて、「報い」という価値判断を見るのです。勝義に於いては、全てが等価となるのです。
>>875 > 要するに、様々な解釈ができる中から、「仏教的に都合のいい解釈」を採用したのが業報に過ぎないって事か?
悪意を持って言えばその通りですがw、
仏教が、「解脱、涅槃を最終的には希求するもの」であり
「他を害さず、利・福を求めること(善を求めること)を外さないもの」であり
「未来へ向けた、自らを観察することによる自覚・自戒に基づく、自省と向上を大切にするもの」なれば、
その文脈に於いて、業果の位置付け範囲は自ずと絞られてきます。
それは、自身の内に於いては「自律」ですし、対外的には「倫理道徳の啓蒙、助言」となります。
仏教という枠で語るなら、その看板を首に下げて語るなら、上のような文脈を外れることはないし、
寧ろ、その文脈でなければならないのです。
僕も明るく楽しく生きようと思った。
屁理屈を捨てて 明るく楽しく生きるっぺ!
悟りの境地は平穏であって明るくでも楽しくでもない
俺も悟るまではそう思っていた。 屁理屈にだまされていたよ。w
918 :
899 :2011/02/07(月) 00:11:16 0
>>907 >人は、デジタルな把握しかできない、と。
>デジタルな把握が、知覚認識である、と。
ん〜、それは確か、神経の閾値の絡みの話じゃないっけ?
その意味では確かにデジタルだが、そこをもって人間の知覚がデジタルだというのなら、
人間にとって「アナログ」は存在せず、「アナログなままの体験(三昧)」も、「デジタル」であることになるぞw
俺が言っているのは、
科学の判断とは、0〜100%の様々な値を取る蓋然性の判断だから、
0or1のデジタル的な判断ではないと言う主張。
蓋然性を「重んじる」からアナログなんじゃなくて、
「蓋然性」という判断基準自体が、アナログなんだと言う意味ね。
>>909 >そうです。
じゃあ、「詰め切れない部分、基本に抵触する部分」ってのは、具体的には?
リンク先をざっと読んだが、
「師と弟子」の間での、「体験の伝承」が可能である事が示唆しているんだよな?
それについては、別段異議を唱えるつもりはない。
しかし、結局「伝言ゲームによる誤伝の訂正方法」については検討してないんじゃないかい?
919 :
考える名無しさん :2011/02/07(月) 00:11:38 0
宗教家ってのは内に内にこもる性質があるからな。 自分たちが作った能書きをありがたそうに難しい言葉を交えて悦に浸ってる。 そんな奴らより、明るく楽しく生きてるお前らの方がよっぽどナイス
920 :
899 :2011/02/07(月) 00:12:11 0
>>910 ん?
最初の話は、輪廻を否定しつつ、仏教を説くことの問題点として、
>「死」によって途絶えることがあるなら、「死を選択することによる苦の解決」となるからです。
>「輪廻(或いは今ある苦)からの解脱」が名実共に目指されることであるなら、その解決策が
>「悟りを得ること」と「自ら死を選ぶこと」の二種存在することになるからです。
と言っていたんだよな?
910の説明だと、「輪廻が存在しようがしまいが」、とりあえず現状を改変するための手段としての死が、
苦から逃れる選択肢の一つとなるという説明になっていて、
「輪廻を否定しつつ、仏教を解くことの問題点」からずれてないか?w
そして、「とりあえず現状を改変できれば、(それがさらなる苦につながっていようとも)飛び込んでしまう」と言うのは、
仏教の考えから、かけ離れてないか?
むしろ、【『今ここでないどこか』『今ここからの脱出』】を求める人に、
冷静になって、脱出する方向性を見定めさせたのが仏教だろ?
で、そうした時に、どんな所か(そもそも存在するのか)分からない死後の世界をあてにして、飛び込むというのは、
選択肢として、ないんじゃないか?w
>>911 要するに、蓋然性の高さを根拠にしているんだから、100%はあり得ないという話でしょ?w
そりゃあたり前だw
「高さ」を比較しているんだから、「より高い方」を「とりあえず(自分は)信じる」と言うだけの話だろ。
問題は、「どっちがより蓋然性が高いか」と言う部分なんだから。
むしろ、「確実性が100%担保」されるようなものが存在するのかい?w
>上で少し触れたように、「そのような《因果の拾い上げ》は、現代の知見でも同じ」でしょう?
うん。
ただ、現代科学の知見に基づく因果の拾い上げには、「再現性」などの、「蓋然性の高い根拠」があるだろ?
つまり、「なんで、果と見做す事が出来るんだ?」という俺の質問は、
仏教における因果の認定には、「蓋然性の高い根拠」があるのかと言う質問だよ。
921 :
899 :2011/02/07(月) 00:13:15 0
>>912 >「【ピントを合わせるから】、或る一つが、或る文脈の上で、「果」と特定されるのです。
だから、なんでその「ある一つ」を特別に扱って、「ピントを合わせる」のかと言う質問だよw
別に、他の一つにピントを合わせても良いんだろ?
わざわざその特定の一つだけを取り出す理由はあるのか?
>「主体無き輪廻」に 〜 一位の者が存在する(生じる)のです。
そのたとえで言えば、「ゴールテープ(=果)」が一つしかないなら、それでもいいだろう。
でも、マラソンの途中に、数十本のテープが存在し、それぞれ別の人がテープを切ったら、どうするんだ?
その時々において、転生者(テープを切ったもの)が変わるのか?w
そして、「多因多果」「多縁多果」という観点で見るならば、
一人の人間に対する「転生者」と言うのも多数存在して、
一人の人間の「前世」も多数存在すると言う事になるが?
それは最早「生まれ変わり」からは程遠い概念じゃないか?w
>>913 >そうです。〜無いのです。
だから、価値判断による因果の拾い上げをするなら、それなりの価値基準が必要だろ?
その価値基準は、蓋然性が高く、汎用性があるのか?w
>世俗に於いて、「報い」という価値判断を見るのです。勝義に於いては、全てが等価となるのです。
なるほどね。
>悪意を持って 〜 ならないのです。
何度も言うが、俺はそれでいいんだが、それでみんな納得するのか?w
追伸
明日から出張で、しばらく返信できないと思うが悪しからず。
923 :
考える名無しさん :2011/02/07(月) 00:23:12 0
まず、ここで仏教って言ってる人はなんて宗派の事をいってんの? 今、日本でやってる仏教って釈迦の教えからは随分違う事やってんのわかってるよね? オリジナルではない、誰かが勝手に解釈したなんちゃって仏教を一生懸命勉強したところで それは、その解釈した人の考えを学んでるだけだよね?
924 :
考える名無しさん :2011/02/07(月) 01:45:39 0
綿密である反面、大雑把な ところがあり、論集は残さなかったのが多いが 興味つきせぬものがあるでしょう。 一方でここらで語る口の奴らといえば お喋りで、お喋りの中で独特の思想が生まれると思っている大雑把なブームに乗るような類だ。 今の日本といえは、、「しまった。前より悪い場所だった・・z」と後悔している口だ。 同化してんだなー。 否なりの道。私とは何か。→ 物質なのか?バイブレーションかい? 名に頼ってんだろ?そのうち形がなくなるけどな。 名称、我を思う事の難しさよな。河頭で水を売 る 自分を学ぶってことでしょうね。 暗示を捕らえて自分を学ぶんだろ?道の人ってノあ ね。
>>923 どうして解釈が間違っていると、言えるのかな?
>>925 トレースってことだ。オリジナルじゃない。ていうか誰もオリジナルにはなれない。
最悪贋作をホンモノだと言ってるようなもの。
927 :
考える名無しさん :2011/02/07(月) 08:26:11 0
俺は信心深い人じゃないけど キリスト教なんかの経典は聖書で統一されてるんじゃないの? それに比べて仏教の多岐・曖昧さはなんなの? 大雑把にしか知らなくて悪いんだけど、仏陀ってのは 前世もない・あの世もないってスタンスだったんじゃないの? しかし、時の権力者の都合で統制のとりやすい または、仏教を生業とする者の集金システム的な要素を盛り込み 曖昧さをオブラートさせて今に至るんじゃないの?ってのが俺の意見。
928 :
考える名無しさん :2011/02/07(月) 09:12:21 0
>>927 まあ、現代日本人が思いがちだよね。
全くそういう読みはありえないでしょうけど。
そうか。
930 :
考える名無しさん :2011/02/07(月) 09:20:10 0
>>927 >キリスト教なんかの経典は聖書で統一されてるんじゃないの?
>それに比べて仏教の多岐・曖昧さはなんなの?
セム系宗教は、神が唯一で真実は一つという考え方だから、
異端を許さないので、聖書を編纂したり、異なる解釈も異教も殲滅するんですね。
ところが、内容たるや不可解で、とてもすっきり解釈できるものではないと私には見えます。
仏教は、世界も知覚も空で幻のようなものと捉え、言語習慣も説明体系も仮のものと考え、
それぞれの言語習慣を尊重するから、異なる考え方も許容できるわけね。
道としての説明体系も、それぞれの人に合わせて色々な形で説かれるから、
多種多様なわけだ。
もちろん、仮の説明体系にも妥当性があって、ありえない解釈は認められない。
>キリスト教なんかの経典は聖書で統一されてるんじゃないの? どれだけ異端が出てると思ってるんだ
真実も正当も構成員の合意と信用でしかないからな
933 :
考える名無しさん :2011/02/07(月) 11:28:26 0
>>932 それは誤解ですね。再現性があるですがな。
再現できなければ、どっか誤解があるか、きっちりやってないってこと。
「きっちりやってない」ってことにする。 これがポピュラーな手法だよね。 仏教だと方便思想で後からいくらでも新説つけ加えられる、 イスラームだと「そういう過程をたどるようにあらかじめ神が定めておいた」、 キリスト教だと悪魔がどうこう。 外部化することで正しさは保たれる。
特に過去なんて自由に解釈できるしな 原理主義者のいう理想の時代とか、今までのあり方は過ちだったとか
人は喜んで自己の望むものを信じるものだ byカエサル 正しいと信じてるからこそ信者なんだしな
937 :
考える名無しさん :2011/02/07(月) 12:20:40 0
>>933 ,
>>936 >誤解があるか、きっちりやってない
>喜んで自己の望むものを信じる
豚かソクラテスか分かれるのはここか。哲学板住人はどうかな。
938 :
考える名無しさん :2011/02/07(月) 12:46:00 0
>>936 >人は喜んで自己の望むものを信じるものだ
そうそう。仏教はそういったあらゆる妄想を断っていく道ね。
>>937 >豚かソクラテスか分かれるのはここか。哲学板住人はどうかな。
少なくともプラトンの描くソクラテスも妄想家だよ。
勇気の本質なんかあるわけないっての。
>>920 >最初の話は、・・・・・・からずれてないか?
図式的にはこういうこと。
・輪廻肯定(次生有) 仏教内 →自死不可(苦の解決にならない)
・輪廻肯定(次生有) 仏教外 →自死不可(苦の解決にならない)/自死可(今より良いという理由で)
・輪廻否定(次生無) 仏教内 →自死可(苦の解決になる)(今ここじゃないという理由で)
・輪廻否定(次生有) 仏教外 →自死可(苦の解決になる)(今ここじゃないという理由で)
・輪廻懐疑(次生懐疑) 仏教内 →自死可(苦の解決になる)(今ここじゃないという理由で)
・輪廻懐疑(次生懐疑) 仏教外 →自死可(苦の解決になる)(今ここじゃないという理由で)
並べ替えると以下。
・仏教内 輪廻肯定(次生有) →自死不可(苦の解決にならない)
・仏教内 輪廻否定(次生無) →自死可(苦の解決になる)(今ここじゃないという理由で)
・仏教内 輪廻懐疑(次生懐疑) →自死可(苦の解決になる)(今ここじゃないという理由で)
・仏教外 輪廻肯定(次生有) →自死不可(苦の解決にならない)/自死可(今より良いという理由で)
・仏教外 輪廻否定(次生無) →自死可(苦の解決になる)(今ここじゃないという理由で)
・仏教外 輪廻懐疑(次生懐疑) →自死可(苦の解決になる)(今ここじゃないという理由で)
つまり、否定だろうが懐疑だろうが、今ある苦の解決として自死選択が為される可能性を有する点で変わりない、
ということ。仏教内で輪廻を否定及び懐疑すれば、それは仏教外の基準を取り込むことになり、
「何度も同様の苦を感受【し続け】ますよ」ということ。
*(勿論、輪廻を否定・懐疑しつつも、別の要素によって自死への歯止めとすることは可能だが、
教義上の理屈とはならない。あくまでも、世俗的処世術の範疇の対処法でしかない。
そしてまたそれは、仏教外に於いても通用する・導き出せるものであり、「仏教ならではの」歯止めではない。)
仏教→今ある苦の解決 ここが間違ってるね。 縁起を越えるのが仏教であって、今ここにある苦を逃れるのは、 仏教じゃない。 縁起を越えなければ、苦は再び生起してくる。
941 :
考える名無しさん :2011/02/07(月) 16:42:12 0
越えるとかもう仏教じゃない
仏教は苦を滅する方法の内の一つ。
>>941 ニュアンスとして「アリ」な表現だとは思うぞw
944 :
考える名無しさん :2011/02/07(月) 23:07:36 O
十二支の有は輪廻というシステムっていう解釈は説得的だと思った
946 :
考える名無しさん :2011/02/08(火) 01:21:44 0
愛とは、決して何も集めない性質です。 そこには、途方もない慈悲の感覚があります。 そのとき 脳が語る事は、他人が語った事ではなくて、脳が発見した事になります。 戦場で敵に遭遇しましたが、私たちが敵であり、敵が私たちなのです。 ですから、あなたが人類だという時、それについて一晩じっくり考え、 手探りでその中に進み、否定もせず鵜呑みもせず、それを追求しなさい。 空想によるでもない、感傷でもない深い変容が起こる事に気がつくでしょう。 そして、それがあるとき、突極の知恵によって指導出来るんですよ。 準備が出来たら動きたくなるでしょう。ゆっくりと動き、全ての感覚に意識を向けようとしたらどうだ。
947 :
考える名無しさん :2011/02/08(火) 03:18:20 0
まず、自分でやれ。 話はそれからだ。
哲学に終わりはないのです 人に数、考える能力を持つものがいるかぎり 哲学は進化し、形を変えていくものです
949 :
考える名無しさん :2011/02/08(火) 13:37:06 0
変化し続けて何れ消え行くものに頼ることは出来ない。
950 :
考える名無しさん :2011/02/08(火) 15:06:44 O
無明を一番明快に説明している学者は誰だろうか?
951 :
考える名無しさん :2011/02/08(火) 17:18:17 0
最近ニュー速で宗教スレと哲学スレが乱立してるけど誰の仕業?
954 :
899 :2011/02/08(火) 22:25:10 0
>>939 「仏教内 輪廻否定/懐疑」で、「今ここじゃないという理由」で「自死選択が為される可能性を有する」を認めちゃうなら、
「仏教内 輪廻肯定」でも、「今ここじゃないという理由」で「自死選択が為される可能性を有する」事になるだろ?
もし、「今ここじゃないという理由」を認めないとするなら、
「仏教内 輪廻否定/輪廻懐疑」でも、「今ここじゃないという理由」で自死するのは認められないって事になるんじゃないか?
>>954 >選択が為される可能性 という言い方が悪かったのかな・・。
自由意志的に選択可能であるという意味でなく、
「教義的裏付けを持ち得るか?」という意味で言った。
粗雑な表現でスマン。
956 :
899 :2011/02/09(水) 07:39:09 0
>>955 ん〜、あんまり変わらなくない?w
「仏教内 輪廻懐疑」(=あの世が有るかもしれない)において、「今ここじゃないという理由」で自死することが、教義的に「苦の解決」として許容されるなら、
「仏教内 輪廻肯定」でも許容されなければおかしいだろ?
逆に、「仏教内 輪廻肯定」において、あの世が存在するなら、「今ここじゃないという理由」で自死することが、教義的に「苦の解決」として認められないなら、
「仏教内 輪廻懐疑」においても、自死することは認められないんじゃないか?
>>1 だから、キリスト教も仏教もその他宗教も
本質的には言ってることは一緒なんだよ
それをお前が知識だけで「なんで?なんで?」って聞いてるの
それを自分で調べて、明識にしてくれ
その両方のバランスが大事なんだよ
やあ、、、 いろいろ考えてきたわけだが 仏教哲学の最終目的に従い 明るく楽しく生きていくことにしたよ!
959 :
考える名無しさん :2011/02/12(土) 18:48:38 0
>>957 >だから、キリスト教も仏教もその他宗教も
ないない。君がそう思ってるだけでしょ。
まあ、そんなこと言ってる人は結構いるかもしれないが
961 :
考える名無しさん :2011/02/12(土) 21:10:04 0
明るく楽しく生きるという結論がでたやつはこんなスレに来なくていいよ
962 :
考える名無しさん :2011/02/13(日) 05:52:33 0
963 :
考える名無しさん :2011/02/13(日) 13:40:34 0
>>959 どの宗教も核になる部分は同じだよ。同じものを見て違う表し方をしているだけ。
(但しその肝心な核の部分は言葉では表せない)。
だから宗教自体が既に「群盲象を撫でる」という感じで作られているので全ての
宗教は違っているとは言える。宗教自体が道標だから場所によって指している角度が
違っていて当然ではあるけどね。全ての宗教の向いている先は同じ場所だ。
大阪では富士山への道標ははだいたい東向きだろう。しかし東京での富士山への
道標はだいたい西向きだ。道標の向きだけ見れば違っている。しかし違っている
必要があるから違っているだけのことで、そうなっていなければ富士山へは
たどり着けず、言葉に変えられない富士山を直接見ることは出来ない。
>>963 仏教以外に、「縁起」と「涅槃」を説いているものは無いよ。
仮に、同じ(相似した)登山法(心構え、注意事項、他への援用可能性)であったとしても、
登っている山はやっぱり違う。
また、同じ「山」というものに登山するものだとしても、その登っている山が違うのさ。
「今度山に登るんだ」「あ、俺も」
「どこ?」
Aさん「キリマンジャロ。」
Bさん「エベレスト。」
二人とも違うとこ行くんだね。
A&B「けど、“山”に登るということは同じだし、“登り方”は似たようなもんさ」
って感じ。
965 :
考える名無しさん :2011/02/13(日) 14:03:56 0
>>963 そういうこという人はいるが、仏教はそうはいわないし、
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教もそうはいわない。
また、全く違うだろう。
ヒンドゥーの三昧体験が、諸宗教の体験に共通したものである可能性は高いが、
仏教はそのような三昧体験は、全く悟りではないと明言してるし。
>>964 そう思う。平地は凡人の常識、コモンセンスの世界。
頂上への道は色々あるけど、仏教以外の宗教は頂上じゃないとこを、
頂上だと勘違いしている、と思う。
966 :
考える名無しさん :2011/02/13(日) 16:11:01 0
死に至る病 仏教
>>965 君がイスラム教を上げるのはいいが、コーランを一度も読んだ
ことが無いことを自己紹介しているのは笑える。
968 :
考える名無しさん :2011/02/13(日) 23:37:36 0
>>965 それはあなたが「仏教が一番」という慢に陥って他が見えなくなっているだけ。
969 :
考える名無しさん :2011/02/13(日) 23:39:21 0
言葉で表された部分だけ比較したら同じ仏教の中だって全然違うものがあるじゃないか。
仏教が一番だと思う。 明るく楽しく生きることを 推進する教えはすばらしい。
971 :
考える名無しさん :2011/02/13(日) 23:56:31 0
キリスト教のネオプラトニズムは仏教の空論に近いし、ウパニシャッド哲学もかなり似てる。 どんな宗教でも哲学を本当に理解してるヤツが構成した真理は似るもんだよ。 人間である以上、思考の辿る道は同じ。 それを違うというヤツは哲学を理解せず、宗教をただの信仰だと思ってるアホだけだろ。
972 :
考える名無しさん :2011/02/14(月) 00:11:24 0
>>970 それは浄土真宗とかじゃなくて?
原始仏教もそうなのか?
973 :
考える名無しさん :2011/02/14(月) 00:39:33 0
仏教が一番 でもかかわりたくない
確かに似た面はあるしどの宗教も理想とする徳目を教えを垂れ流す側が 実践していないとこが何より共通しているよね。 所詮、商売だから仕方ないのかもしれないが企業として見たらアウトだよね。
976 :
考える名無しさん :2011/02/14(月) 05:27:29 O
>>971 一般の宗教は実体現象の二元論だけど仏教は現象一元論ってとこが大きな違いと私は考えてる。
仏教の勉強をしたいと思っていますが 何から手をつけたらいいですか?
978 :
考える名無しさん :2011/02/14(月) 07:10:49 0
>>968 私が言うのではなくテキストも伝承もいいますが
979 :
考える名無しさん :2011/02/14(月) 07:13:02 0
>>976 >一般の宗教は実体現象の二元論だけど仏教は現象一元論ってとこが大きな違いと私は考えてる。
誤解、仏教は二元論でも一元論でもない縁起なんです。
空・無我ってのは元、基体、アルケー、本質がないってことね。
それが縁起、このような考えは他の宗教には観られない、
あるというなら教えて欲しい。
>>979 教えても受け入れられないなら猫に小判という。
断言する。君は100%否定する。
なぜなら「教えて欲しい」と発言しているからだ
習うつもりがあるならそんな態度では習えるわけがない。
981 :
考える名無しさん :2011/02/14(月) 09:07:03 0
>>980 じゃ、いい方を変えよう。違うってんなら、証拠だせ。
出せないなら、ただのハッタリってこった。
なんという縁起漫談スレ
仏教哲学の最終目的って・・・涅槃だろ 現世の苦界からの解脱 到達される究極の境地・・・それが涅槃
仏教哲学の最終目的は 「明るく楽しく生きる」こと。
>>977 どっからやってもいいけど
仏教はもともと出家した人のための教えで
これとは別に俗世の人のための教えがあります。
これを方便と言うんですが、方便の意味は二つあるってことを
まず知っておいてから勉強するといろいろと捗るよ
(注意すべきなのは俗世の人のための方便が劣っていると思うこと)
チョコでも本命と義理では同じチョコでも全く意味が違うようにね(ハートのチョコ)
若き青年ブッタは現世のあらゆる醜い人間の姿や諸行無常の常に変化し生滅し永久不滅なものはない「なんと人生はかなきもの」嘆き 死後の世界に救いを求めた。極楽浄土 幸福のあるところ 幸福に満ち満ちているところ 阿弥陀仏がいるとされる苦しみのない安楽の世界を説いた
ブッタが生きていた時代は貧しさからの争い、貧困が絶えず、生きていくこと自体 大変な世の中だった。日本においては死者を手厚くあの世に幸せに送り出すための宗教。 平和な日本に暮らしていれば感じないが、今でも世界を見渡せば ほんの一部の裕福な世界とは別にこのような貧しい世界の方が多い。 昔も今もこのような世界では苦しみもだえて死んでいくものが多いから、この世で幸せでなかった分 せめてあの世だけでも幸せに暮らしてほしいという願いを込めて極楽浄土の安楽の地へおくりびとの哲学思想。 慈愛に満ちた哲学 だから仏教哲学は途絶えることはない。
>>987 だけど急いで書いたためちょっとおかしくなったので
六行目の「極楽浄土の安楽の地へおくりびとの哲学思想」を
「極楽浄土の安楽の地へ送る、おくりびとの哲学思想」としたほうが読みやすいかな
極楽浄土は死後の世界じゃないってw 生き死にに関係なく、初めから在る世界。 実相。 死後の世界の極楽浄土(いわゆる天国)は、親鸞風に言えば、仮土の浄土だよ。
明るく楽しく生きようぜっ
991 :
考える名無しさん :2011/02/14(月) 13:55:32 0
992 :
考える名無しさん :2011/02/14(月) 14:14:45 O
>>978 それならばそれも間違っているのだろう。
993 :
考える名無しさん :2011/02/14(月) 14:15:40 0
>>990 明るく楽しく生きる術を教えてくれ。
そんな風に言われただけじゃ出来ない。
994 :
考える名無しさん :2011/02/14(月) 14:37:53 0
>>992 私が知る限り、インド、シナ、東南アジア、チベット、モンゴル、日本の全てがそういうんですが?
知ってる限り、ジャワのテキストがヒンドゥーと同じというけど、これは恐らくヒンドゥーで仏教の影響を受けた人によるものと考えられます。
なぜなら、ヒンドゥーでそのような発言をするものは近世以降たくさんあるからです。
しかし、仏教にはありません。
以上から、君が間違っていると考えるのが妥当でしょう。
なぜなら、あらゆる時代、あらゆる地域の仏教がそういっているから。
もちろん、現代のオウムや幸福の科学のような新興宗教やニューエイジのようなものは、そのようにいうものもありますが、これは仏教から逸脱したものと考えられます。
例えば、世阿弥は仏教が分かっていたが、金春禅竹は仏教が分かっていなかったように。大抵、分かってない人は禅定体験を真実としますが、これはパーリ『梵網経』以来、必ず否定されます。
禅宗ではこのような勘違いした者を野狐禅と呼びます。
まあ、納得しないでしょうが。
995 :
考える名無しさん :2011/02/14(月) 14:48:57 0
>知ってる限り、ジャワのテキストがヒンドゥーと同じというけど、これは恐らくヒンドゥーで仏教の影響を受けた人によるものと考えられます。 まったくの勘違い >なぜなら、ヒンドゥーでそのような発言をするものは近世以降たくさんあるからです。 まったくの勘違い >しかし、仏教にはありません。 完全なきめつけ。 >以上から、君が間違っていると考えるのが妥当でしょう。 つ 鏡 >なぜなら、あらゆる時代、あらゆる地域の仏教がそういっているから。 かってな思い込み
997 :
考える名無しさん :2011/02/14(月) 15:11:03 O
>>994 つまりあなたの言っていることを要約するとこういうことだね。
他人が言っているから正しい。
多くの人が言っているから正しい。
昔から言われていたことだから正しい。
ではあなたにはこの言葉をお返ししよう。
「だからなに?」
今までの人類の歴史でもなかった現代の飽食日本から考えるから可笑しくなる。 人類の歴史は飢えとの戦い。ほとんど飢えとの歴史。生きるために食う、食うために生きる ブッタのいたインドなんてつい最近までそこらじゅうに死人が街中にごろごろ転がっていた国。 その中から生まれた思想。恵まれたところからいくら考えても本質は見えてこない
999 :
考える名無しさん :2011/02/14(月) 16:58:48 0
細胞の本質は生である
ブッタの頃のインドは何日もの間、飲まず、食わずの日々、飢えとの日々でやっとありつけた飯 と呼べないハエが集る臭い飯でもありつければいいほう。そんなところで難しい思想、 哲学なんて語っても何の意味もない現実がある。そんな厳しい餓鬼の生活の中から生まれた 新しい世界涅槃への心の救済へ望みを託した考え。こういう哀れな人々の心をせめて涅槃の世界だけでも 幸せに暮らしてほしいという願いから生まれたのではないだろうか
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