【最終】仏陀は転生(再生誕)を説いた!?【決着】11
以前、この板に因果応報に関するスレが立っていた。(PART5くらいまで続いてたか?)
御想像の通り(?w)、そこでは
「理不尽な殺害、災害、事故等による死(死傷)は、如何なる因によるのか(≒悪業の結果なのか)?」
という問いが主軸であった。(意外なことに、どちらの意見も仏教色は薄目だったように記憶する。)
私はそこで、「仏教として」や「仏教では」という形でなく、
「人は、事象の中に見られる因果を“どのように拾い上げるのか”」という点でのレスを入れた。
「仏教という枠を設けずとも、人は事象に因果を見る」からだ。
乱暴に略記すれば
「或る事象に於いて、《何を因と見、何を(その)果と見るか(どこに因を見、どこに(その)果を見るか)》は恣意的なものである」と。
そこには必ず「(主観的)枠組み、基準が必要」だということでもある。
※実際には、《「或る事象」という切り取り》からして恣意的であり、分別の第一歩であるわけだが・・・。
ヒトという生物の“認識に於ける切り取りの基準”は(生物学的・文化的社会的制約を含め)哲学的考察の範疇ともなるので措くとしても、
いずれにしろ、「そこに線引きが為されている」ことに変わりはない。
その線引きの基準は(個々人の用いる枠組み、既得の(前例としての)基準、顕著な差異への着目、
知り得る範囲、考察・類推可能な範囲等)種々あろうが、因と果を拾い上げる際にどうしても要請されるものだ。
もっと言えば「拾い上げるという行為そのもの」が「線引き(取捨選択)」に他ならないからだ。
差異の捨象や無分別、一相、無相など、そのような包括的視線もあり得る。が、それは「現実的対処」には力不足だ。
我々は、何らかの基準で因果を拾い上げなければ日常生活を送れない。社会生活が成り立たない。
(それが、“世俗”というものであろうし、“世俗と接して生きる”ということでもあろう。)
※ちなみに、
原始佛教 その23
http://life8.2ch.net/test/read.cgi/psy/1175249680/ の終盤、及び
原始佛教 その24
http://life8.2ch.net/test/read.cgi/psy/1177993402/ の序盤には、このスレ的にも面白いレス群が散見されると思いますよw
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仏典中、具体的に、明瞭に、因と果が結び付けられて語られている場面はある。(特に“修道”の面に於いては。)
が、「おしえの主軸として述べられる時は、抽象化・普遍化・一般化された形で述べられているのではないか?」
(まさしくアッサジが援用したように・・・。)
それは、場面場面で因果の拾い上げ方に幅が(違いが)生じることを含意してはいないだろうか。
勿論、絶対的基準は「涅槃に資するかどうか」「人道的にどうか」等ではあろうが・・。
・・・・・・いや、これはさすがに(現段階では)妄想が過ぎるな。忘れてくれw
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他、付随する形では(仏教的語義としてでなく一般的語義として)「直接因」と「間接因」の問題もある。
自動車事故という果を拾い上げた時、その因を
「スピードの出し過ぎ」と見ることもできるし「運転手のイライラ・焦り」と見ることもできる。
「昨夜の降雪で、路面が滑り易かった」かもしれない。「歩道を歩くお姉ちゃんのおっぱいに目を奪われた」からかもしれないw
「家族の危篤の知らせを聞き、運転の際に必要な自制をしなかった」と見ることもできる。
また、「イライラ」を因として『イライラしてたから事故を起こした』とするか、
イライラを引き起こした「恋人との喧嘩」を因として『恋人と喧嘩したから事故を起こした』とするか・・・。
どちらも、因果の拾い上げ方として成立する。
また、「事故という事象を果と見る」か「車の大破を果と見る」か「怪我を果と見る」か
「後悔や怖れ、今後への不安を果と見る」かによっても、その因の選定に違いが出よう。
これは仮定の話なのでどうとでも言えるが、尼崎の列車事故ともなれば事態はもっと複雑だろう。
たとえば、乗車位置によって生死が分かれたと見たなら(→「乗車位置が直接因(直近の因)であるなら」)、
その因は何か?「前世の悪業がその位置に立たせた」のか?他に理由はないのか?
或いはトリアージによって後回しにされたからかもしれない。「前世の悪業がトリアージの順を決めた」のか?
拾い上げだしたらキリが無い・・・w
また、普段乗らない列車だった人もいるかもしれない。
『財布を忘れたことに気付き、一本遅れて事故電車に乗り合わせた』のかもしれない。その時の死の因は何か?
→≪前世の悪業により、財布を忘れさせられたのか?≫
『途中、町内会長に話しかけられ、一本遅れて事故電車に乗り合わせた』のかもしれない。その時の死の因は何か?
→≪前世の悪業により、町内会長に話しかけられたのか?≫
『余裕をもって早目に家を出たら、一本前の事故電車に乗り合わせた』のかもしれない。その時の死の因は何か?
→≪前世の悪業が、早目に出かける気を生じさせたのか?≫
里帰りする孫を迎えに行くために乗ったのかもしれない。ライブを見に行く予定だったかもしれない。
→≪前世の悪業が、“その日にその用事を生じさせ”“それを彼に履行させ”“事故列車に乗り込ませた”のか?≫
(※「これらは全て《縁》である」と言うことも可能だ。そして、「《因》は《前世の悪業》である」と・・・w)
それにしても、
《或ること(果)》と《因》とを結びつける【文脈】は、果たしてどれほど決定的なのか?
スパンが長くなればなるほど、『文脈の重要性』は増す。
さて、『【文脈無しに拾い上げる】ことは可能だろうか・・?』
『三世に跨る業果・業報』を語る御仁達は、自分達の「因果の拾い上げ方の基準」について自覚はあるんだろうか?
※反感を買いそうなw事例をもう一つ二つ挙げておこう。
・朝、いつもは左足から履く筈の「靴を右足から履いた」。
.昼、職場の「段差で(右足から)つまずいた」。
.夜、「右靴下の先が破れている」ことに気がついた。
・(昨日、友達と喧嘩した。)
.朝、(腹いせもあって)通学途中、路駐してる「車を500円玉で擦った」。
.昼、購買部の前に来て、「500円玉が無い」ことに気がついた。
.夜、「家の車に硬貨で擦られたような傷が付いていた」。
いずれも、ここに有意な関連性を設けるのは、荒唐無稽で、およそあり得ない考察だ。
おそらく誰もが、このような『因果の拾い上げ』は却下するだろう。
しかし、ここにも「因果を【見ること】は可能」だ。 そう。 【見ることだけ】は・・・。
(もしかしたら、本当に全て連なって生じた事象群かもしれないが・・・www)
人が、こうした関連性にさえも因果を見る癖があることは、「地鎮祭」や
「赤子の初参り」「七五三」「厄落とし」等が今でも多く続けられていることからも推察できる。
時代劇でよく見られる「外出前の火打石」も同様の側面を持つ。
そう、「どちらの足から靴を履くか」と類似した側面を・・。
「或る行為をすることによる、どのような果が期待されているのか」。
「或る行為をしないことによる、どのような果が恐れられているのか」。
私は、『三世に跨る業果』について、上の二つの例と同じ構図を見ているのだ。
上の二つのような例と、ベトちゃんドクちゃんの例(→彼らが、前世の業によりあのように生まれたということ)と
どこに違いがあるのか?
こうした結び付け方が「同じ構図でない」というなら、その違いを、明確に、論理的に説明してほしいものだ。
「上記二例のようなこと」と「前世の業&今生の果」が同じでない理由を・・・。
(ロングパスとしても長過ぎやしないか?・・とw)
おそらく一直線とはならず、枝のある形・複数経路の離散集束のある形かもしれないが、
これらを時系列的に(ドミノ倒し的にw)因果の連鎖として並べることは不可能ではない。
(勿論、その先頭(最初のドミノ)に「前世の悪業」を持ってくることも・・・。)
そして、このような時の因果の拾い上げ方が、
法律上の解決、保険制度上の認定基準、運行システム・体制・制度等鉄道会社の予防策、
“遺族の納得”等等、目的(行う作業)によって変わってくる。
当然、宗教的(仏教的)な拾い上げ方もあるだろう。(それが前世の業かどうかは別にして・・・。)
いずれにしろ、「並んだドミノの駒を、【どのように拾い上げるのか】」が肝となる。
この「拾い上げ方」を(枝の無い一直線のものとして)巧みに利用しているのが、霊感商法等の行為なのだろう。
※おそらく、これを ≪拾い上げるのでなく、並んでいるドミノを並んでいるままに、そのままに見る≫
というのが、仏教的視座となるのだろうし、(いや、ここまで来たら、ドミノという捉え方からして顛倒妄想か?w)
そのスパンを永く永く捉えれば、輪廻の中にある因果の連鎖ということになるだろう。
(その意味で、今生のみを見て拾い上げ、輪廻を捨てる行為は、伝統仏教からすれば外道であり断滅でしょう。
伝統的な仏教という枠で考えるならば・・・。)
また、拾い上げる基準を、
常に【善なること、良き未来へ繋がること、教訓となること、涅槃に資すること】という設定にするのが、
仏教的な拾い上げ方なのかもしれない・・・。
(※「善なること」とは、《自己・他者問わず「ためになること」「害とならないこと」「苦(の因)とならないこと」
「(未来を志向する)向上(の縁)となること」》等と言えるだろう。)