49 :
,:2007/09/06(木) 19:16:08 0
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50 :
,:2007/09/10(月) 08:20:15 0
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,:2007/09/13(木) 08:25:37 0
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,:2007/09/16(日) 19:36:20 0
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,:2007/09/22(土) 08:31:27 0
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,:2007/10/14(日) 20:37:52 0
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、:2007/10/18(木) 09:15:20 0
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、:2007/12/21(金) 20:27:51 0
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、:2008/01/01(火) 18:44:13 0
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、:2008/01/03(木) 18:38:07 0
18:30 新春超歴史ミステリー古代ローマ1000年史!!空前の巨大帝国全解明スペシャル
稲垣吾郎驚異の遺跡コロッセオに挑む&謎の地下探検…2000年前のハイテク都市が今夜復活
▽完全再現映画ハンニバル!ナポレオンも心酔した超天才戦術家vsローマの切り札…宿命の対決
▽古代史上屈指の英雄カエサルの冒険…彼はなぜルビコンを渡ったのか!?暗殺の真相は?リーダーの条件に迫る
▽知花くららローマの休日&絶景シチリア(秘)体験▽暴君と呼ばれた皇帝ネロ…悲劇の真実
▽塩野七生の超ベストセラーを本格映像化!!▽超多忙男みのもんたも仰天ローマに(秘)出現(中断)
64 :
、:2008/01/03(木) 18:53:50 0
65 :
、:2008/01/03(木) 19:24:11 0
66 :
,:2008/01/25(金) 08:40:23 0
,
67 :
世界@名無史さん:2008/02/06(水) 03:29:34 0
1
68 :
、:2008/04/17(木) 23:01:17 0
,
69 :
、:2008/05/22(木) 07:22:33 0
彼らによれば、フリーメーソンリーは中世の結社であるテンプル騎士団に、そして彼らを通じて(大洪
水)にまでさかのぼることができる。
テンプル騎士団の名は、彼らの元来の本部がイェルサレムのソロモン神殿にあったことに由来している
(というか、実際にはその神殿の遺跡だが。というのも、それはヘロデによって再建されて
からわずか四年後の紀元70年、ローマ人によって破壊されたからだ)。
第一回十字軍の結果、イェルサレムは1099年にキリスト教の騎士たちの手に落ちた。20年後、トロワ
出身の9人の騎士たちがイェルサレム王ボードゥワン2世に接近し、巡礼路の保護に当たってキリスト巡
礼者の安全を確保したいと申し出て、その代わり神殿の丘に本部を構えることを願った。
ボードゥワンは彼らに神殿の「地下室」を含む一画を与えた。彼らはここに厩舎を作った。
だが実に奇妙なことに、この9人の騎士がその後、巡礼者の保護に当たった形跡はまっ
たくない(それにいずれにせよ、たった九人で効果的なパトロールが可能とも思えない)。
その代わり、それからの7年間、彼らは、「厩舎」の地下を発掘しつづけ、ほとんど外に出
ることがなかった。明らかに彼らは何かを探していたのだった。彼等の掘ったトンネルの
ひとつが、1970年にイスラエルの考古学者たちによって発見されている。
だが一体何を探していたのだろうか?ローマ人がソロモン神殿を破壊したとき、その財宝も
また奪い去った。神殿の地下にはその財宝の残りが隠されていたのか?
何を探していたにせよ、騎士たちはそれを発見できなかったらしい。発掘開始から7年
後の1126年、騎士たちの頭目であるユーグ・ド・パイアンはフランスに帰国した。騎士団を作ろう
とする試みは失敗に終わったようだ。
70 :
、:2008/05/22(木) 07:24:04 0
そこに助け船が現れる。シトー会士クレルヴォーのベルナール、後の聖ベルナールである。彼はどういう
わけか大修道院長以上の位に上ることを誇示し続けていたが、フランスの宗教界の有力者であ
ったことは間違えない。また、彼は、9人の騎士の一人アンドレ・ド・モンバールの甥でもあった。
そしてモンバールは、パイアンとともにフランスに戻っていた。
2年後、トロワの街で教会会議が開かれた。その目的はテンプル騎士団の発足を教会に支援させ
ることだ。そして1128年、「キリストとソロモン神殿の貧困騎士修道会」が正式に発足し、教皇以
外の何者に対しても責任を負わない結社とされた。ベルナールの後援を得たこの騎士団に
は人材と資金が大量に流入し、ついにはヨーロッパで最ものどかな財力を誇る結社にまで成長
したのだ。
1144年のエデッサ陥落を受けて、クレルヴォーのペルナールは第二次十字軍を開始するが、結局は失
敗に終わる――1187年、サラディン率いるムスリム軍がイェルサレムを奪回したのだ。次の世紀の間
に7回に及ぶ十字軍が繰り出されたが、キリスト教徒の勢力を盛り返すことはできなかった。
1291年のアクレ(アッコン)陥落によって十字軍の敗北は決定し、テンプル騎士団はその存在理由を
失ってしまう。
とはいうものの、彼らはその力を――あるいは、富を(その一部は免罪特権に世来する
ものだった)――失ったわけではない。新総長ジャック・ド・モレーの下で、彼らはキプロス島でそ
の傷を癒しつつ、次なる目標のために牙を研いでいた。問題は、キプロスが安全ではなかった
ことだ。ムスリム軍はリマソルを襲って人質をとり、身代金を要求していた。騎士団はフランスへの帰
国を考えた――だがそこにも問題があった。フランス王フィリップ端麗王(在位1285−131
4)が、教皇ボニファティウス8世と事を構えていたのだ。教皇を主と戴くテンプル騎士団の帰還は、
王の歓迎するところではなかった。
71 :
、:2008/05/22(木) 07:25:32 0
実際、王はこの騎士団を嫌っていた。彼らは――王である教皇と同様――王にとっては
傲慢な厄介者に他ならなかったからだ。(これはもしかしたら、かつて彼が入団を希望した
にもかかわらず、謝絶されたことを根に持っていたのかもしれない。)だが、勝ったのはフィ
リップだった。教皇に退位を迫られたフィリップは、ボニファティウスを異端と宣言し、最終的にはその
住居に軟禁してしまったのだ。ボニファティウスはそこから救出された直後に憤死した。
彼の後継者であるボニファティウス9世は、8世がやりのこした闘争を継続するそぶりを見せた。
そこでフィリップは彼を毒殺し、自らの息のかかったボルドーのベルトラン・ド・ゴを教皇の椅子に
据えた。
フィリップは、ベルトランを教皇にする代わりに、たくさんの条件を押し付けた。そのひとつは、
教皇の座をフランスに移すというものだ。だがもうひとつの条件は保留され、明るみに出
ることはなかった――テンプル騎士団を捕らえ、その財産を没収するという計画に対して、教
皇が反対しなかったのはほぼ確実だ。
ベルトランは1305年、教皇クレメンス5世となった。そして王は直ちに、歴史上最も驚くべ
き奇襲作戦を敢行した。フランスにいた1万5千人に及ぶテンプル騎士たちを全員逮捕し、異端と
して告発しようというのだ。これはたとえて言えば、現代の君主が、陸海空軍の将校全員
を逮捕しようと企むようなものだ。
信じがたいことにこの作戦は成功した。急襲の4週間前に封印された命令書が配られ、
1307年10月13日金曜日、テンプル騎士たちは逮捕された。
騎士たちは同性愛者であり、パフォメットと呼ばれる悪魔を崇拝し、十字架に唾をかけた、と
告発された。身の毛のよだつような拷問――たとえば成熟した火鉢の上に吊るされる等―
―の末に、多くのものが自供した。総長ジャック・ド・モレ―その人も自供したが、1314年3
月18日の判決の日、モレーは先の自供を撤回し、拷問によって強要された偽りの自供だった
と主張した。王は計画を台無しにされたことに激怒し、モレーと、その友人でやはり自供を撤
回したジェフロワ・ド・シャルネを生きたままとろ火にかけて焼き殺せと命じた。
72 :
、:2008/05/22(木) 07:27:09 0
翌日、セーヌ川の小島イル・ド・パレで、この命令が実行に移された。伝説によればモレーは、
一年以内に王と教皇を神の王座の前に引きずり出してやる、と予言したという。そしてそ
れから9ヶ月もしないうちに両名は死んだ――フィリップは狩猟の最中にイノシシの牙に貫かれ、
クレメンスは熱病に倒れたのである。
テンプル騎士の全員が逮捕されたわけではない。彼等の艦隊はラ・ロシェルの港に係留されてい
たが、急襲の前日に突如として出航し――そのまま姿を消した。艦隊の司令官に中に、セニュ
ール・ド・ゴがいた。彼は教皇ベルトラン・ド・ゴの一族である。まるでベルトランが、迫りく
る奇襲を彼に漏らしたかのようだ。
艦隊のうちの、少なくとも一隻の行くへは判明している。その艦長である騎士の名はアン
リ・ド・サン=クレール。彼はスコットランドに上陸し、最終的にその子孫がロスロリン礼拝堂を建てるのだ。
以上のことを踏まえたうえで面白い推理を展開しよう。騎士団の艦隊のほかの艦は、コロン
ブスよりも2世紀近くも前に大西洋を渡り、後にスコットランドに戻った。そう考えない限り、ロス
ロリン礼拝堂の壁に刻まれたトウモロコシとアロエの説明がつかない。
だが問題はそれだけではない。もしも騎士団の艦隊がアメリカの存在を知っていたのなら、
彼らは何処からその情報を得たのか?その存在を示す子文書か地図を見たに違いないーー
「古代の海王たちの地図」だ。テンプル騎士団はそこで起居し、「厩舎」を発掘していた。
では、だれがそれをそこに隠していたのか?明らかにユダヤの祭司ではない。彼等の関心
は、神殿の財宝をローマ人の目から隠すことにあった。だが、ユダヤの戦争の年――紀元66年
――には、同様に自分たちの財宝の保管を懸念する人々がいた。エッセネ派だ。
73 :
、:2008/05/22(木) 07:28:26 0
,
74 :
、:2008/05/22(木) 07:29:42 0
エッセネ派は、当時の祭司王朝、つまり、ハスモネ家(あるいはマカマイオス家)への不承認を表
明するために荒野に隠棲した宗派だ。ハスモネ家はゲリラ戦士であるユダス・マカバイオスの子孫で、彼
はその2世紀前、シリア皇帝に叛旗をひるがえした。ユダスが戦死すると、弟のヨナタンが跡を継い
だ。後に彼は大祭司となり、王朝を築いた。正統派ユダヤ教は激怒した。というのも、大祭
司はアロンの末裔でなければならないからだ。そこで彼らは反対派である(ファリサイ派)を作っ
た。
だが、(義の教師)を名乗る預言者に率いられるエッセネ派はさらにその上をいき、死海の洞
窟の近くの砂漠にあるクムランに自らの共同体を作った。彼らは天幕に住み、洞窟を倉庫代わ
りにしていたらしい。それから2000年近く後、多くのエッセネ派文書が洞窟で発見され、「死
海文書」として知られるようになった。
ロマスとナイトは、イエスもまたエッセネ派であり、彼の弟ヤコブが(義の教師)の称号を受け継いだと
いう、広くささやかれている仮説を受けている。イエスはローマ人に対する叛乱を試みた後に処
刑され、祭司たちはヤコブを神殿の城壁から突き落とし、石打にして殺した。だが、皇帝ウェス
パシアヌスが息子のティトゥスとともに紀元66年のユダヤ人叛乱の鎮圧に乗り出すと、エッセネ派は死ぬ
まで戦い抜くことを決意し――そしてロマスとナイトによれば――彼らの最も貴重な文書を神殿
に隠した。
ほとんどのものがこの戦いでしに、ティトゥスは神殿を徹底的に破壊しつくして、その財宝を
ローマに持ち帰った。だが、隠された文書があるという伝承はどうしたわけか生き残り――後
ほど解説――キリスト教会が聖地奪還のために十字軍を呼集すると、その伝承を受け継ぐもの
たちはその機会に乗じ、失われた文書を取り戻そうとした。
騎士たちの一人ジェフロワ・ド・サントメールは、ランベールという老いた学者を知っていた。現在で
は「ランベール・ド・サントメール」と呼ばれるこの人物に、彼は、1119年ごろに文書の一部を
送ったらしい。その証拠は、ランベールが現在、(天上のイェルサレム)と呼ばれる図像の書写で知ら
れていることだ。ここには、フリーメーソンリーの基本的なシンボルのすべてが登場する――
2本の柱、3つの定規とコンパス――メーソンリーがヨーロッパに設立されたのはその5世紀の後のこと
だというのに。
75 :
、:2008/05/22(木) 07:31:21 0
ロマスとナイトの指摘によれば、(天上のイエルサレム)(あるいは〈新しきイェルサレム〉)は、エゼキエルの幻
視に基づくもので、死海文書にも登場する。彼らの仮説はあまりにも複雑すぎて、ここで
簡単に要約するわけにはいかないが、その結果はこうだ。「〈天上のイェルサレム〉の巻物の発見
から明らかになったことは,、、、、、、、、、、テンプル騎士団に伝わる秘密は、彼らが発見した古代
の文書に記されていたのであり、そしてその文書は、ナザレ教徒(すなわちクムランのエッセネ派)
がそこに隠匿したものだったのである」。
もしもこの文書が、神殿の地下で発見されたものであるなら、フリーメーソンリーがエッセネ派に知ら
れていたということの確証となる。そこでロマスとナイトは、イエス時代のパレスティナに目を向ける。
そして次々に重要な事実が見つかった。
まず第一に、(キリスト教徒の知るナザレの人イエスと、彼の同時代の人々が知るイエスとはまっ
たく別の人物だったということだ。実際、イエスの時代にはナザレという町は存在していなかっ
たのだ。だからイエスは、「ナザレ派のイエス」と呼ばれていたのであって、「ナザレ人のイエス」だった
のではない。
このナザレ派というのは、ユダヤ教の清教徒といってよいだろう。彼は、厳格な菜食主義者
で、動物の生贄を拒絶し、モーセの霊感を認めない。シャル・ギュニベールは「彼らはある意味でエッセ
ネ派に似ていた」というが、ロマスとナイトは彼らこそがエッセネ派であった、と説得力豊かに論じて
いる。
ロマスとナイトは、ナザレ派が今もイラク内部に「マンダヤ教」として生き延びている事を知った。彼
らはキリスト教徒なのか?いや、まったく別物だ。彼らの献身はイエスに対してではなく、その従
兄弟である洗礼者ヨハネに捧げられているのである。イエスに対する評価は極端に低い――彼は
単なる反逆者であり、自分に託された秘密をばらした異端者であるという。
アーコン・ダロールの「秘密結社の歴史」(1961)によれば、マンダヤ教徒とは「古のグノーシス主
義を奉ずるものであり、参入儀礼、法悦、そしてフリーメーソンリーのそれに似ているとされる儀礼
を執り行う」。
76 :
、:2008/05/22(木) 07:32:37 0
さらに、マンダヤ教徒は特別な握手方を採用し、またその儀礼においては、――フリーメーソンリー
と同様――参入者が死からの復活を模倣する。ロマスとナイトは、これによってフリーメーソンリーの紀元
が17世紀どころか、もっとはるかに古いものであることを示すには十分と考えた、その
説を否定するのは困難だ。
それではここで、彼等の驚くべき、そして非正統的なキリスト教観を見よう。
彼らによれば、イエスは単に博愛だけを説いた説教師ではない。彼はローマ勢力の駆逐を望み、
その為の叛乱を率いようとした。彼の考えは多くの人を激怒させた。
「すべては同じ方向を向いている。イエス、あるいは当時の呼び方でいうならヤホシュア・ベン・
ヨセフは、イェルサレムでもクムランでもひどい嫌われ者だった。彼の計画は彼の一族のそれよりもはる
かに過激であり、クムランの理解を絶していた。すべての証拠が指し示すところによれば、マリア
やヨゼフも含むほとんどの人が応援していたのは、ヤコブだったのだ。」
ロマスとナイトによれば、エッセネ派はイエスと洗礼者ヨハネを二人のメシア、すなわちフリーメーソンリーの基盤で
ある「二本の柱」として受け入れたという。クムランとは、アーチのある入り口という意味で、柱
を繋ぐアーチが神なのだ。
洗礼者ヨハネの死によって、イエスはさらに過激化し、自ら「第二の柱」という従兄弟ヨハネ
の役割を兼任しようとした。これによってクムランは混乱に陥った(強調しておかなくてはな
らないが、ロマスとナイトは、どんな法外な主張をしているときも、きちんと歴史文書を引用し
ている)。イエスは宣教の間(それは一年だけだったが)、信奏者集めに費やしていたが、辺鄙
な場所で説教していたのでローマ人は気にもかけなかった。
それから彼は、行動を起こすべき時だと決意した。王はロバに乗ってやってくるという
預言者ザカリヤの予言を成就させるために、彼はロバに乗ってイェルサレムに入城した。それから彼
は神殿へ行って騒ぎを起こし、両替屋を襲った。その後、近隣のベタニア村に退き、革命の到
来待った。
77 :
、:2008/05/22(木) 08:16:17 0
ローマ人はイエスの人相書きを作った。それは現存しているが、彼を短躯(約4フィート・6インチ・
約137センチ)、禿頭、猫背として描いている。弟のヤコブが先に逮捕され、彼自身も神殿
から谷一つ隔てたゲツセマネで逮捕された。この位置からは、神殿の東門の二本の柱がよ
く見える。両者を繋ぐアーチもだ――新しきイェルサレムの二本の柱、すなわち彼自身だ。
どうやら彼は、自分が逮捕されるとは思っていなかったらしい。彼はまず衝撃を加えた。
それは時を移さずしてユダヤ全域に広まり、彼の旗印の下に人々を結集させるはずだった。
それから、ヤハウェの神佑を得て、2世紀近く前のユダス・マカバイオスと同じことを民のために行お
うとしたのだ。だが、彼はローマ人と、その走狗であるユダヤ権力とを見くびっていた。彼らは
この叛乱を芽のうちに摘もうとしたのだ。
私の古い友人である、傑出したユダヤ人学者のヒュー・ションフィールドは、イエスは十字架上で死んで
はおらず、仮死状態になる薬を与えられたのだと考えている。この件に関する彼の主張は、
「過越祭の陰謀」(1965)で説得力豊かに展開されている。
つまりイエスは33歳で磔刑に処せられ、その死体は特別に誂えられた墓に埋葬された。だ
が、2日後に死体は消えうせ、弟子たちは彼が生きているのを見た。だがその日付に関し
ては議論が戦われている。イエスが紀元前7年の生まれだということはほぼ確実だ。というこ
とは、ミレニアムは実際には1993年だったことになる。
78 :
、:2008/05/22(木) 08:19:46 0
79 :
,:2008/06/01(日) 07:58:33 0
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1206868737/91 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1206868737/89 / // ./ / ./_... -─\
/./ / / .//''¨_.. -‐─ __..ヽ
/ / ./,' .,' ./'_.. ‐¨ _.. ‐¨ / ',
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i l,'.,'/ l l i/''¨_.. -‐ ''¨,.イ´、/,イ .,' `¨´
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l ト、 イ /,l l. l. '´ ゙̄ヽ _..'" ,イ /
rイ! l//ヘヽ! li l iz=、_/ l /
l l } ,'/,.イ `', ll 〉 ./ .!./
',ヽ∨´'´/,.イ,ヘ l l> 、._ ´ / l/
__ゴ_,,..-ケィフ/∧ ', ヽ ._ .ノ / l. /
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r-へ ヽl/イ''´ イニニ= >ー‐--ュ、l. / .l./,.. 、
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. l l / / / / ,':::::::/ `ヽ、\!. ', ',
84 :
,:2008/06/30(月) 07:10:28 0
85 :
,:2008/08/07(木) 07:42:46 0
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,:2008/10/31(金) 16:26:51 0
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、:2008/12/18(木) 17:06:56 0
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88 :
、:2009/01/01(木) 20:36:42 0
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89 :
、:2009/01/01(木) 20:37:44 0
明けましておめでとう御座います、、今年もヨロシクお願いします
/;;;;;/ /;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ヽ
/;;;;;;/ /;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;|ヽ;;;;;;;;;;;;;;;;;l;|
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゙、;;;|''ヽ l , / |ノ
ヾ、ヽi |
入__ ,、 ,.-、 /゙、
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ヽ;;;〈 | ゙ヽ、. /ヽ;;;;;;ノ
/;;;;;ヽ | ゙''‐- ,,_ ,.イ /;;;;;;;ヽ
90 :
世界@名無史さん:2009/02/24(火) 20:11:17 0
はい、おめでとう。
91 :
、:2009/03/08(日) 07:45:59 0
、、解ればいいんだよ、、
92 :
,:2009/04/25(土) 22:33:47 0
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93 :
,:2009/06/09(火) 10:13:52 0
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94 :
,:2009/08/09(日) 08:09:04 0
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95 :
,,↑:2009/10/08(木) 20:46:43 0
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96 :
,:2009/12/04(金) 12:50:30 0
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97 :
世界@名無史さん:2009/12/20(日) 13:11:45 0
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