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パウロのキリスト教、、、
物語の次のステップは、ローマ化したユダヤ人であるサウロの登場だ。彼は、ローマ市民となった際に
その名をパウロと改めた(一般に言われているようにキリスト教に改宗した時ではない)。それか
ら彼は、ユダヤ人解放運動の残党を殲滅するという任務を与えられた。
彼がこれを開始したのは、イエスの磔刑から10年以上を経た紀元43年のことで、最初の
獲物の中にはイラクに逃亡することになるマンダヤ教徒も含まれていた。
17年後、「ダマスコへの途上」で目が見えなくなり、それからキリスト教の主たる唱道者とな
った。これはシリアのダマスコのことではない。なぜならそこへ行ったとしても、彼にはなんん
お権限もなかっただろうから。むしろこれは、同じく「ダマスコ」と呼ばれるクムランのことだ。
ロマスとナイトによれば、彼がそこに向かったのはイエスの弟子ヤコブ、すなわち〈義人ヤコブ〉を迫害
するためだった。そしてこのパウロは、権力を取り戻すとともに、後に〈キリスト教〉と呼ばれ
ることになる教義になぜか熱狂的にのめりこんでいくことになるのだ。
ヤコブはたぶん面食らっただろう。自分たちを迫害しにわざわざクムランまでやってきた男が、
独自の宗教を作り上げた。そのうちに、この新しい改宗者の説教の内容を知ったクムランの人々
は、彼を「偽りの説教師」と呼ぶことになる。
パウロによれば、イエスの生涯には2つのヴァージョンがあった。パウロじしんんおそれと義人ヤコブのそれだ。
パウロ自身のそれによれば、イエスは神の子であり、アダムの原罪から人類を救済するために十字架上で死んだ。
このヴァージョンは異邦人、特にギリシア文化を重視する人々(たとえばローマ人など)に訴求するためのものだった。
パウロのイエスは一種のギリシアの神であり、自らの信奉者を天国に入れるために死ぬ。
ヤコブと彼の率いるナザレ派はまたメシア主義者であり、依然としてメシアを待望しており、
中には殉教した革命家であるイエスが死から復活し、ローマに対する反乱軍を率いると信じているものもいた。
(こうした過激派はゼーロータイとして知られることになる)。彼等の待望していたメシアは、ユダス・マカバイオスと同様、
正確なユダヤ教徒でなくてはならない。さらに彼らは――イエスがそうであったように――世界の終末は間もなくくる、
そして彼らだけが救われると信じていた。
だがパウロのキリスト教――彼が異邦人に宣教した革命家であるイエスが死から復活し、
ローマに対する反乱軍を率いると信じている者もいた(こうした過激派はゼーロータイ
として知られることになる)。彼等の待望していたメシアは、ユダス・マカバイオスと同様、
正統なユダヤ教徒でなくてはならない。さらに彼らは――イエスがそうであったように
――世界の終末は間もなく来る、そして彼らだけが救われると信じていた。
だがパウロのキリスト教――彼が異邦人に宣教したもの――は、さらに訴求力が強かった。私は「世界犯罪百貨」(1989)で次のように述べたことがある。
「この新しいキリスト教のバージョンは、ユダヤ人と同様、異邦人にも訴求した。少しでも頭のあ
る者なら、ティベリウスの、カリグラの、そしてネロのローマを一目見れば、パウロの言う人間の堕落とは
何かを知ることができる。これらの好色な飲んだくれどもは、人類の堕落を示す生きた指
標だった。そしてまた、ローマの既婚婦人が快楽のために売春をしていたことは、エヴァもまた
アダムと同様に堕落していたことを示している。世界はローマの野蛮、ローマの物質主義、ローマの猥
褻に吐き気を催していた。キリスト教はより深い音を奏でている様に見えた――それは意味と
目的のヴィジョン、真摯さのヴィジョンを提供した。強きものにとっては、それは新たな覚知の
高みを約束するものだった。弱きものにとっては、それは平和と和解、不満からの開放、
謙遜への報酬のメッセージだった。そして万人にとって、それはカエサル王国の、磔刑と鞭打ちと、
恣意的な処刑の終焉を約束するものだった。キリスト教徒は、世の終わりの約束を望んだのだ。」
皮肉なことに、ヤコブのメシア主義に引導を渡し、パウロのキリスト教に勝利をもたらしたのは、紀元
66年のユダヤ人の叛乱だった。そのきっかけとなったのが――ユダヤ人歴史家ヨセフによれば、
少なくともその一つになったのが――紀元62年の、祭司たちによるヤコブ殺害だった。こ
の叛乱を鎮圧するためにネロは将軍ウェスパシアヌスを派遣せざるを得なかった。ネロが自殺すると、
軍はウェスパシアヌスを皇帝に担いだ。
ウェスパシアヌスはローマに戻り、息子ティトゥスがイェルサレムの包囲を続けた。城の落城は紀元70年。神
殿は焼かれ、暴徒たちは――メシア主義者たちもその中にいたが――虐殺され、神殿の財宝は
ローマに持ち去られた。こうしてメシア主義者たちは全滅し、磔刑に処せられた救世主を拝むパウ
ロの宗教――それはすでに国外の異邦人に布教されていた――には競争相手がいなくなっ
た。それはやがて世界を征服することになる。
迫害者から加害者への変貌
キリスト教がこれほどの成功を収めたのは、世の終わりを説いたからだ――イエスは善と悪の最終
戦争(ハルマゲドン)を予言していた。それは説教を聞く人が生きているうちに起こると。つ
まり、彼の聴衆の中に子供がいたとしても、遅くとも紀元90年ごろより前に起こるとい
うことになる。
現在の基準から言えば、間もなく世の終わりが来るということを神から告げられたとい
うイエスは、妄想患者だ――叛乱を開始したときのユダヤ人が、ヤハウェは神殿に異邦人の魔の手
が伸びることをお許しにならぬ、という妄想に取りつかれていたのもまた同様だ。だが、
ハルマゲドンらしきものもなしに紀元90年が過ぎ去っても、誰もそれに気づかなかった。第
一、当時のキリスト教徒はかつてないほどに暴虐な皇帝の迫害を受けていた。彼は、ウェスパシアヌス
のもう一人の息子であるドミティアヌスでのもう一人の息子であるドミティアヌスで、自ら主なる
神を名乗り、彼が神であることを拒絶した数千のキリスト教徒を殺した。彼は96年
に暗殺された。
その後の2世紀間、キリスト教徒の運命はさまざまだったが、迫害はたびたび繰り返さ
れた。――大衆を楽しませる為には、誰かをライオンの前に投げ出すのが最も手軽だというこ
とを、歴代皇帝はよく知っていたのだ。キリスト教徒のほとんどは、奴隷か抑圧犯罪者だった
ため、暮らし向きのいい人々は彼らに同情することなどほとんどなかった。
小プリニウスは、キリスト教とは何かを知るために、二人の若い奴隷女を尋問した。この二人は
たまたま女輔祭だったが、彼は当然のように彼女らを拷問にかけた。彼は後にこれに関し
て弁明しているが、この拷問によって判明したのは、彼女らの信仰が「歪んだ果てしない
迷信」に他ならないということだけだ、という。大筋においてロマスとナイトもそれに同意する
だろう。
教皇レオ10世もまた、これに同意している。ロマスとナイトによれば、彼は次のように述べた
という。「このキリストの神話は、我々にとって非常に役立ってくれた」。
325年、迫害を受けていたマイノリティであるキリスト教徒は、ほとんど信じられないほどの幸
運を得た。皇帝コンスタンティヌスが、キリスト教を帝国の公認宗教としたのだ。コンスタンティヌス自
身の説明によれば、ミルウィウス橋における重要な戦闘の前に空中に十字架が現れ、「この印の下
汝は勝利せん」という文字が見えたという。
だが、コンスタンティヌス自身はキリスト教徒にはならなかったことからして、この話は疑わしい。
彼は終世、皇帝オウレリアヌスを始祖とする不敗太陽神の信徒だった。だが彼は勝利し――敵は義
兄の簒奪帝マクセンティウスだった――マクセンティウスの身体をティベル川に投げ込んだ。かくしてキリスト教徒
は、間もなく偉大な遺産を受け継ぐことになる貧乏人のような状況となった。
コンスタンティヌスの「改宗」は、完全に政治的なものに思える。その世紀には、70年の間に7
0人以上の皇帝がいて、その大半は暗殺された。帝国の全域で野蛮人が叛乱を起こしてい
た。284年に権力をつかんだ皇帝ディオクレティアヌスは、強靭な意志と暴虐な権力で帝国を束ね
た。彼は強靭な軍団を帝国の至る所に派遣し、これが駐屯する町や村には、彼らを無償で
奪うように命じた。臣民には空前の重税が課された。にもかかわらず、彼は帝国支配を輔
佐するための3人の別の「皇帝」を指名せざるを得なかった。彼が引退し、軍団を引き上
げると、帝国はたちまち分裂し始めた。
何とかする必要があった。そして何とかする方法を見抜いたのは、ディオクレティアヌスの「皇帝」
の息子の一人であるコンスタンティアヌスだった。たぶん、その霊感はミルウィウス橋の戦い以前に得たも
ので、だからこそ彼は、ヴィジョンを見たと主張したのだろう。彼は、帝国に必要なものは巨
大な軍ではなく、新しい宗教だということを理解していた。彼がキリストを選んだのは、母親
のヘレナ――ブリテンの女王――キリスト教徒だったからだろう。キリスト教はすでに帝国の至るところ
に広まっていたが、マイナーな宗教に過ぎなかった――臣民のキリスト教徒は10人に一人、だが、
ほとんどすべての町や村に、たとえ少数ではあっては彼らはいた。もしも彼らに力を与え
れば、あらゆる村と町に支持者を作ることになる。大きな都には司教をおくこともできる。
この政策はうまくいった――だが同時に、コンスタンティヌスは新たな頭痛の種を抱えることに
なった。このおとなしい、平和を愛するキリスト教徒が、3世紀前のユダヤ人に匹敵する野蛮
さで、互いに内ゲバを始めたのだ。その争いの原因は、イェルサレムのそれとはほとんど同様だ
った――キリスト教との半数が、ほかの半数を「叛逆者」と見なしていたのだ。皇帝ディオクレティア
ヌスはキリスト教徒を迫害し、その聖典を放棄するよう命じた。多くの者は殉教よりもそち
らを選んだ。今や、妥協しなかった側のものたちは、裏切り者の処罰を欲した。
アルルで行われた宗教会議もこの仲違いを解決することはできず、困り果てた皇帝はビザ
ンティウムに逃亡した。この論争好きな狂信者たちに権力を渡してしまった愚行を後悔してしま
ったのは、間違いない。だが、ビザンチウムでも状況は似たようなものだった。ここでは論争
の原因はアレクサンドリアの司教アリウスの思想で、アリウスによればイエスは神の子であるが、彼自身では
ない、という。
だがこのころにはすでにパウロによる空想的なイエス観がしっかりと根を下ろしていて、アリ
ウスのような合理的で穏健な見方は神に対する冒涜と見なされるようになっていたのだ。
コンスタンティヌスは、この苛立たしい不和を永遠に解決してしまおうと考えた。こうして32
5年彼は、トルコのニカエアに会議を招集し、帝国のいたるところから教会指導者たちを呼び集め
た。彼は会議に同席し、キリスト教の厳密な教義を決定するように命じた。アリウスは議論に負け、
その思想は「アリウス派異端」として糾弾されることとなった。
彼は追放され、キリスト教の教義はニカエア信経によって決定されることになった。それによれ
ば、イエスは父なる神と「ひとつなる存在」であり、聖霊は哀れな第三位に置かれた。なぜな
らそれは父と子から「生じた」にすぎないからである。かくしてイエスは彼自身が好むと好ま
ざるとにかかわらず神となった――正統派ユダヤ教徒であったイエスにしてみれば、実に衝撃的
な教義ではあったろう。恐らく、真のキリスト教徒でもないコンスタンティヌスは、彼らが何を決めよう
とまったく気にしなかったが、何であれ結論が出て、内ゲバをやめて国の安全を驚かすこ
とがなくなるのを歓迎した(彼の娘)コンスタンティアはそれほど無関心ではなく、アリウスを追放か
ら呼び戻して復帰させようとした)。一方、彼の母ヘレナはきわめて貴重な人材となった。と
いうのも彼女は、「ユダヤの王」書かれた銘板のついた「本物の十字架」を発見したのだ.イエ
スが磔刑に処せられた場所も判明した。彼の墓もだ。ヘレナはまた、神が燃える柴からモーセに話
しかけた場所を初め、聖書に書かれた何十もの場所を特定し、そのすべてに教会を建てた。
当然ながら、そのすべては観光名所となった。
これは単なる始まりに過ぎない。ロマスとナイト曰く、「初期ローマ教会は、その定められたドグマ
に合致しない全てのものを破壊するという事実に着手した。真実は重要ではなかった。教
会が真実としたいものこそが真実なのであり、それにはんするものはことごとくが取り除
かれたのだ。」
415年、総大司教キュリロス率いる暴徒たちが、金切り声を上げてアレクサンドリア図書館を焼き
討ちした。当時最高の数学者で、美貌で知られる女流学者ヒュパティアは、裸に剥かれた上に、
アワビの殻で肉を骨からそげ落とされて死んだ。それからキュリロスは列聖された。その後もロー
マ・カトリック教会は歴代ローマ皇帝すらやらなかったような非道をやり続け、さらに「コンスタンティヌス
の寄進状」と呼ばれる文書まで偽造した。これは、キリスト教会こそが、単に宗教的な事柄の
みならず、世俗の事に関しても絶対の権威を持つべきであると主張している。教会は権力
の味を知り、それを気に入った――そしてそれにしがみつこうと決めたのだ。