歴史学     スレッド

このエントリーをはてなブックマークに追加
74

エッセネ派は、当時の祭司王朝、つまり、ハスモネ家(あるいはマカマイオス家)への不承認を表
明するために荒野に隠棲した宗派だ。ハスモネ家はゲリラ戦士であるユダス・マカバイオスの子孫で、彼
はその2世紀前、シリア皇帝に叛旗をひるがえした。ユダスが戦死すると、弟のヨナタンが跡を継い
だ。後に彼は大祭司となり、王朝を築いた。正統派ユダヤ教は激怒した。というのも、大祭
司はアロンの末裔でなければならないからだ。そこで彼らは反対派である(ファリサイ派)を作っ
た。

 だが、(義の教師)を名乗る預言者に率いられるエッセネ派はさらにその上をいき、死海の洞
窟の近くの砂漠にあるクムランに自らの共同体を作った。彼らは天幕に住み、洞窟を倉庫代わ
りにしていたらしい。それから2000年近く後、多くのエッセネ派文書が洞窟で発見され、「死
海文書」として知られるようになった。

 ロマスとナイトは、イエスもまたエッセネ派であり、彼の弟ヤコブが(義の教師)の称号を受け継いだと
いう、広くささやかれている仮説を受けている。イエスはローマ人に対する叛乱を試みた後に処
刑され、祭司たちはヤコブを神殿の城壁から突き落とし、石打にして殺した。だが、皇帝ウェス
パシアヌスが息子のティトゥスとともに紀元66年のユダヤ人叛乱の鎮圧に乗り出すと、エッセネ派は死ぬ
まで戦い抜くことを決意し――そしてロマスとナイトによれば――彼らの最も貴重な文書を神殿
に隠した。

 ほとんどのものがこの戦いでしに、ティトゥスは神殿を徹底的に破壊しつくして、その財宝を
ローマに持ち帰った。だが、隠された文書があるという伝承はどうしたわけか生き残り――後
ほど解説――キリスト教会が聖地奪還のために十字軍を呼集すると、その伝承を受け継ぐもの
たちはその機会に乗じ、失われた文書を取り戻そうとした。

 騎士たちの一人ジェフロワ・ド・サントメールは、ランベールという老いた学者を知っていた。現在で
は「ランベール・ド・サントメール」と呼ばれるこの人物に、彼は、1119年ごろに文書の一部を
送ったらしい。その証拠は、ランベールが現在、(天上のイェルサレム)と呼ばれる図像の書写で知ら
れていることだ。ここには、フリーメーソンリーの基本的なシンボルのすべてが登場する――
2本の柱、3つの定規とコンパス――メーソンリーがヨーロッパに設立されたのはその5世紀の後のこと
だというのに。
75:2008/05/22(木) 07:31:21 0

 ロマスとナイトの指摘によれば、(天上のイエルサレム)(あるいは〈新しきイェルサレム〉)は、エゼキエルの幻
視に基づくもので、死海文書にも登場する。彼らの仮説はあまりにも複雑すぎて、ここで
簡単に要約するわけにはいかないが、その結果はこうだ。「〈天上のイェルサレム〉の巻物の発見
から明らかになったことは,、、、、、、、、、、テンプル騎士団に伝わる秘密は、彼らが発見した古代
の文書に記されていたのであり、そしてその文書は、ナザレ教徒(すなわちクムランのエッセネ派)
がそこに隠匿したものだったのである」。

 もしもこの文書が、神殿の地下で発見されたものであるなら、フリーメーソンリーがエッセネ派に知ら
れていたということの確証となる。そこでロマスとナイトは、イエス時代のパレスティナに目を向ける。
そして次々に重要な事実が見つかった。

 まず第一に、(キリスト教徒の知るナザレの人イエスと、彼の同時代の人々が知るイエスとはまっ
たく別の人物だったということだ。実際、イエスの時代にはナザレという町は存在していなかっ
たのだ。だからイエスは、「ナザレ派のイエス」と呼ばれていたのであって、「ナザレ人のイエス」だった
のではない。

 このナザレ派というのは、ユダヤ教の清教徒といってよいだろう。彼は、厳格な菜食主義者
で、動物の生贄を拒絶し、モーセの霊感を認めない。シャル・ギュニベールは「彼らはある意味でエッセ
ネ派に似ていた」というが、ロマスとナイトは彼らこそがエッセネ派であった、と説得力豊かに論じて
いる。

ロマスとナイトは、ナザレ派が今もイラク内部に「マンダヤ教」として生き延びている事を知った。彼
らはキリスト教徒なのか?いや、まったく別物だ。彼らの献身はイエスに対してではなく、その従
兄弟である洗礼者ヨハネに捧げられているのである。イエスに対する評価は極端に低い――彼は
単なる反逆者であり、自分に託された秘密をばらした異端者であるという。

 アーコン・ダロールの「秘密結社の歴史」(1961)によれば、マンダヤ教徒とは「古のグノーシス主
義を奉ずるものであり、参入儀礼、法悦、そしてフリーメーソンリーのそれに似ているとされる儀礼
を執り行う」。
76:2008/05/22(木) 07:32:37 0

 さらに、マンダヤ教徒は特別な握手方を採用し、またその儀礼においては、――フリーメーソンリー
と同様――参入者が死からの復活を模倣する。ロマスとナイトは、これによってフリーメーソンリーの紀元
が17世紀どころか、もっとはるかに古いものであることを示すには十分と考えた、その
説を否定するのは困難だ。

 それではここで、彼等の驚くべき、そして非正統的なキリスト教観を見よう。

 彼らによれば、イエスは単に博愛だけを説いた説教師ではない。彼はローマ勢力の駆逐を望み、
その為の叛乱を率いようとした。彼の考えは多くの人を激怒させた。

 「すべては同じ方向を向いている。イエス、あるいは当時の呼び方でいうならヤホシュア・ベン・
ヨセフは、イェルサレムでもクムランでもひどい嫌われ者だった。彼の計画は彼の一族のそれよりもはる
かに過激であり、クムランの理解を絶していた。すべての証拠が指し示すところによれば、マリア
やヨゼフも含むほとんどの人が応援していたのは、ヤコブだったのだ。」

 ロマスとナイトによれば、エッセネ派はイエスと洗礼者ヨハネを二人のメシア、すなわちフリーメーソンリーの基盤で
ある「二本の柱」として受け入れたという。クムランとは、アーチのある入り口という意味で、柱
を繋ぐアーチが神なのだ。

 洗礼者ヨハネの死によって、イエスはさらに過激化し、自ら「第二の柱」という従兄弟ヨハネ
の役割を兼任しようとした。これによってクムランは混乱に陥った(強調しておかなくてはな
らないが、ロマスとナイトは、どんな法外な主張をしているときも、きちんと歴史文書を引用し
ている)。イエスは宣教の間(それは一年だけだったが)、信奏者集めに費やしていたが、辺鄙
な場所で説教していたのでローマ人は気にもかけなかった。

 それから彼は、行動を起こすべき時だと決意した。王はロバに乗ってやってくるという
預言者ザカリヤの予言を成就させるために、彼はロバに乗ってイェルサレムに入城した。それから彼
は神殿へ行って騒ぎを起こし、両替屋を襲った。その後、近隣のベタニア村に退き、革命の到
来待った。
77:2008/05/22(木) 08:16:17 0

 ローマ人はイエスの人相書きを作った。それは現存しているが、彼を短躯(約4フィート・6インチ・
約137センチ)、禿頭、猫背として描いている。弟のヤコブが先に逮捕され、彼自身も神殿
から谷一つ隔てたゲツセマネで逮捕された。この位置からは、神殿の東門の二本の柱がよ
く見える。両者を繋ぐアーチもだ――新しきイェルサレムの二本の柱、すなわち彼自身だ。

 どうやら彼は、自分が逮捕されるとは思っていなかったらしい。彼はまず衝撃を加えた。
それは時を移さずしてユダヤ全域に広まり、彼の旗印の下に人々を結集させるはずだった。
それから、ヤハウェの神佑を得て、2世紀近く前のユダス・マカバイオスと同じことを民のために行お
うとしたのだ。だが、彼はローマ人と、その走狗であるユダヤ権力とを見くびっていた。彼らは
この叛乱を芽のうちに摘もうとしたのだ。

 私の古い友人である、傑出したユダヤ人学者のヒュー・ションフィールドは、イエスは十字架上で死んで
はおらず、仮死状態になる薬を与えられたのだと考えている。この件に関する彼の主張は、
「過越祭の陰謀」(1965)で説得力豊かに展開されている。

 つまりイエスは33歳で磔刑に処せられ、その死体は特別に誂えられた墓に埋葬された。だ
が、2日後に死体は消えうせ、弟子たちは彼が生きているのを見た。だがその日付に関し
ては議論が戦われている。イエスが紀元前7年の生まれだということはほぼ確実だ。というこ
とは、ミレニアムは実際には1993年だったことになる。