テ ン プ ル 騎 士 団   ス レ ッ ド

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588、マグダラのマリアとイエス
マグダラのマリアとイエス

メロヴィング朝の王ダゴベール二世は651年に生まれ、幼いころに誘拐されてアイルランドに連
れて行かれた。そしてその間、簒奪者である宮宰が政権を欲しいままにしていた。だが彼
は、西ゴートのジゼル姫と結婚してフランスに――というかレンヌ=ル=シャトーに戻り、王位に返り咲
いた。

だが、679年、木の下で寝ているとき暗殺されてしまう。この暗殺にはローマ教会が何らかの
役割を果たしていたことは確実だが、恐らく彼の宮宰であるピピン肥満王もまた一枚噛んで
いた。

このピピンの孫が有名な戦士カール・マルテルで、彼はポワティエの戦いでムスリムを破り、フランスを奪回し、
ヨーロッパのイスラム化を食い止めた。彼の息子であるピピン短躯王はフランス王位を奪回し、ここにカロ
リング王朝が開始された。この王朝で最も有名なのが、彼の息子であるシャルルマーニュ大帝だ。ダゴ
ペールの子孫は、当然ながら王位を奪われたことを恨んでいた。そして彼らを再び王位に戻
そうとする運動が常に存在していた――イギリスのジャコバイトのようなものだ。

ジャコバイトと同様、それはまったく見込みのない運動だったのだ。だがメロヴィング朝の後裔の
中に、カール・マルテルやシャルルマーニュに匹敵する名声を得るものが現れる。ロレーヌ公ゴドフロワ・ド・ブイ
ヨン(1058−1100)。大一回十字軍を率いてイェルサレムを占領し――イェルサレム王国の初代国
王となった男だ。
589:2008/06/09(月) 19:45:26 ID:VfYk4vfc0

彼がもう一つの王朝、すなわち(シオンの僧院)、別名「シオンのノーロル・ダム騎士団」の創設者(ま
たはそのひとり)であることは疑問の余地はない。そしてイェルサレム占領後まもなく、神殿の
丘にシオンの修道院が立てられた。そしてその住人たちは「シオンのノートル・ダム騎士団」と呼ばれ
ラ。(秘密文書)によれば、この結社は1090年、すなわちイェルサレム陥落の9年前に造られてい
た。そしてテンプル騎士団の設立メンバー9人のうち、5人がこの結社のメンバーだった。というこ
とは、テンプル騎士団はおそらくこの「シオンのノートル・ダム騎士団」を母体として生まれたのだろ
う。

リンカーンによれば、この二つの組織はまもなく分裂した。莫大な富と権力を得たテンプル騎士団
は、「わががまな子供のように」手に負えない存在となったのだ。そして1189年、テンプル騎
士団のジェラール・ド・リドフォールは騎士たちを率いてムスリムと衝突、イェルサレムを失う――永遠に、だ。

 どうやらこのとき、シオンのノートル・ダム騎士団は堪忍袋の緒を切り、テンプル騎士団と袂を分か
ったらしい。そして結社はその名を(シオンの僧院)と変えた。その主要な目的は、メロヴィング
朝の子孫をフランス王位につけることだ。テンプル騎士団は1307年に瓦解するが、「シオンの僧院」
はその後も存続する――その秘密を守りぬいた故だろう。

となれば、ルイ14世が財務長官のフーケを罷免し、ブッサンの絵を入手しようと躍起になった理由
も解ける。「王といえども彼から手に入れることは極めて困難」というのが(シオンの僧院)
の秘密のことなら、ルイがそれを恐れるのも当然だ。
590:2008/06/09(月) 19:51:43 ID:VfYk4vfc0

彼の祖父であるガストン・ドルレアンはロレーヌ公の妹と結婚していたが、かつてそのガストンのために、
ガストンの兄であるルイ13世を除こうとする動きがあった。そうすれば、メロヴィング家の血が再
びフランス家の中に流れることになるからだ。

これは失敗に終わったが、ルイ13世には子供がなかったため、いずれにせよ弟のガストンが王
位を継ぐのは当然と見なされていた。そんなときに突然、ルイ13世に――というか、少な
くともその妻であるオーストリアの王女アンヌに――息子ができたのである。多くの人は、その子の
真の父は枢機卿リシュリューか、もしくは彼の雇った「種馬」であると考えていた。一説によれ
ば、この種馬はリシュリューの銃兵長フランソワ・ドージュで、つまりドージュは何とか王位に返り咲こう
とするメロヴィング家と(シオンの僧院)の計画を台無しにしてしまったことになる。

フランソワ・ドージュには2人の息子があった。名は」ルイとユスタージュ。多くの人が、この兄弟とルイ1
4世がそっくりだったと証言している。もしドージュの息子たちが王の腹違いの兄弟である
のなら、それも当然だ。

だがユスタージュはろくでなしで、常に問題を起こしていた。結局、ルイ・ドージュとユスターシュはとも
に逮捕される。ルイは不倫で、ユスターシュは素行悪さの為だった。だがルイは釈放され、その後も
出世した。ユスターシュは行方不明となった。もしかしたら彼こそが「鉄火面」なのかもしれな
い(それは実際にはヴェルヴェトの仮面だった。もしこの謎の囚人の正体がユシュターシュなら、その
仮面はたぶん彼が王にそっくりだったためだろう)。

彼の罪は、もしかしたら「兄を釈放してください、さもないと、、、、、」と王を脅迫したこと
だったのかもしれない。ルイ14世が非摘出子で、王位に就く権利などないとなれば、彼ら
にとってこの上ない朗報だ。
591:2008/06/09(月) 19:58:38 ID:VfYk4vfc0

ちなみに、ハプスブルク家もまたロレーヌ家の一員であり、ゆえに(シオンの僧院)
に加入してた可能性が極めて高い。そういえば、ソニエールの客のひとりはヨハン・フォン・ハプスブルク
であり、ソニエールはオーストリアから大金を受け取っていたのだった。

ソニエールがその秘密の共有を願う人々と出会うきっかけは、サン・シュルピスだったようだ。そして
彼はダゴベールの古い本拠地の現在の番人として、重大な経済援助を供与されたらしい。

だがこの複雑かつ魅惑的な物語には、もう一つの驚くべき展開がある。
すでに見たように、リンカーンが元牧師から聞いた話によれば、「真の財宝」とはイエスが十字架で
は真ではいないと言う情報であり、その出所はサン・シュルピスだという。もしもサン・シュルピスが

(シオンの僧院)パリ本部であるのなら、ソニエールの秘密-―彼の死の床に臨席した司祭を震え上が
らせた秘密――というのも、イエスが十字架で死んではいないという情報だったのだろう。
この情報は、キリスト教会が砂上の楼閣に過ぎないことを明かすものだ。なぜならキリスト教とは、
イエスは全人類の原罪を贖うために十字架で死んだという教えに基づいているのだから。

テンプル騎士団の影」という番組に取り組んでいたとき、リンカーンは突如、驚くべきアイデアを思
いついた。彼と研究家リチャード・リー、マイケル・ベイジェントの3人で、メロヴィング家の祖であるメロー
ヴィスについて冗談を言い合っていたときだ。
592:2008/06/09(月) 20:03:26 ID:VfYk4vfc0

伝説によればメローヴィスの母は「海の生物」とまじわって彼を生んだと言う。そこで3人の
誰かが、「海の生物だって、まサカナー」と駄洒落を言った。リンカーンとリーは思わず顔を見合わ
せた。魚――キリスト教のシンボルだ。あの伝説は、その女性を孕ませたのが、、、、キリスト教のシンボル、
つまりイエスの直系の子孫だと言っているのか?

メロヴィング朝の王は、教会の権威によってではなく、自らの血の神聖さ――聖なる血統の
権威によって統治している、と主張していた。彼らがそれほどまでに誇っていた血統と
は、イエスその人の血統なのだろうか?

もしそうなら、イエルの妻は誰だったのか?レ・サント・マリー・デ・ラ・メールの村では年に一度、
マグダラのマリアが真の十字架と聖杯を持ってフランスに漂着したことを記念する祭儀が行われ
ている。レンヌ=ル=シャトーの教会もまたマグダラのマリアに奉献され、十字架と聖杯を運ぶ2つのマリ
ア像が安置されている。ソニエールもまた「マグダラ塔」という書庫を建てていた。中世の神秘
家は、マグダラのマリアを金星――すなわち愛の女神――と同一視していた。

1945年12月、エジプトのナグ・ハマディ村近郊で興味深いものが発見された。それがマグダラ
のマリアについて新しい光を投げかけたのである。ある崖の麓の墓所で肥料を掘っていた2
人の農夫が、大きな丸石の下に一つの壺を見つけた。そこには、コブト語――ギリシア文字で
書かれた古代エジプト語――で書かれた多数の羊皮紙が入っていた。
593:2008/06/09(月) 20:04:38 ID:VfYk4vfc0

これらはまったく知られていなかったキリスト教の福音書であり、新約聖書の福音書と同時
期のものであることが判明した。たとえば「フィリポによる福音書」「トマスによる福音書」、
そして――これが重要なのだが――「マリアによる福音書」だどだ。これは聖母マリアではな
く、マグダラのマリアである。ここではマリアはイエスの復活後に弟子たちを励まし、彼らの中で最
も重要な人物であったことが記されている。また「フィリポによる福音書」はマリアをイエスの「仲
間」と記しているが、元来のギリシア語ではその言葉は配偶者を意味している。

マグダラのマリアがイエスと結婚していたという説は、それほど突飛なものではない――ユダヤ教の
ラビや説教師は、結婚を許されていたばかりか奨励されていたのだ。

新約聖書では、マリアは悔い改めた娼婦で、その髪の毛でイエスの足を拭った。だがナグ・ハマディ
の福音書によれば、彼女はイエスと同様、王家の一つであるベニヤミンの末裔だ(イエスはいうまで
もなくダヴィデの末裔)。

だが、コンスタンティヌスの集めた司教たちによって新約聖書が結集されたとき、マリアをイエスの妻とす
る記述はすべて検閲され、彼女は単なる悔い改めた娼婦にされてしまった。そして「マリア」
「フィリポ」「トマス」その他の福音書は狩り集められて燃やされた。だが、密かにナグ・ハマディ福
音書を壺に入れ、これを隠匿した者が居た。

これらの福音書は、マリアはイエスと結婚していたことを示唆している。ダ・ヴィンチの「最後の晩
餐」では、彼女はイエスのすぐ右に座っている。この絵もまた検閲を受け、マリアは男性にされ
てしまった。だが1945年の洗浄作業によって、イエスの右にいる弟子は女性に見えるように
なった(いうまでもなく、ダヴィンチは(ドシエ・スクレ)の中で、(シオンの僧院)の総長の一人に
挙げられている)。
594:2008/06/09(月) 20:05:35 ID:VfYk4vfc0

そして彼女を憎んでいた――とはっきりナグ・ハマディ福音書に書かれている――聖ペトロは、
脅迫するような仕草でその手を突き出している。さらに、肉体から離れた手がナイフを握り、
これもまた彼女を脅かしている。

以上のような事実から、リンカーンとリーは次のように推理する。

イエスとマグダラのマリアはフランスにやってきて、メロヴィング家の祖となった。マルセイユからレンヌ=ル=シャトーま
で、マグダラのマリアに関する伝承は何十もある。そしてブッサンの絵に描かれた墓は、もしかし
たらイエスの墓なのか?

この驚くべき推測――リンカーンは、それは完全な推測に過ぎないと述べている――によって、
「聖なる血脈と聖杯」はたちまちベストセラーとなった。