もっとも早く豊臣を見限った大名は?

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1人間七七四年
誰だと思う?
やはり藤堂辺りか?
2人間七七四年:2008/04/25(金) 23:56:43 ID:OyuxLwD2
東軍全部
3中山幸盛 ◆c1ZKiGzz62 :2008/04/25(金) 23:57:36 ID:LCbIvurz
ここはあえて、徳川家康といってみる
4人間七七四年:2008/04/26(土) 00:05:13 ID:BlqUkxy8
>>2
東軍全部たって個人差があるだろう
福島みたいなのもいるし
秀吉生前から見限ってた奴らもいるんじゃないかと
5人間七七四年:2008/04/26(土) 00:37:23 ID:QZIgY3yg
娘殺された最上だろ
6人間七七四年:2008/04/26(土) 00:50:44 ID:EZBGO8b+
如水。
7人間七七四年:2008/04/26(土) 00:59:50 ID:qZGVJ/5P
織田信長だろ
8人間七七四年:2008/04/26(土) 01:15:16 ID:MlAvVOka
一豊と一氏だろ
9人間七七四年:2008/04/26(土) 01:20:02 ID:XhS4/kqw
俺!
10人間七七四年:2008/04/26(土) 01:25:28 ID:cISkd+K0
そんなもん死ぬ間際の秀吉自身に決まってんじゃん
だから家康如きに必死になって後を頼んだんだよ
11人間七七四年:2008/04/26(土) 02:58:15 ID:SqR/kj1Q
秀吉ごときが家康ごときに頭を下げたのでござる
12人間七七四年:2008/04/26(土) 04:39:27 ID:EZBGO8b+
その姿をみた家康ごとき。
13人間七七四年:2008/04/26(土) 16:43:25 ID:QZIgY3yg
秀吉が死ぬ前から家康になびいてたのは
伊達 最上 藤堂辺りか
14人間七七四年:2008/04/26(土) 17:09:52 ID:EZBGO8b+
藤堂の先物買い、と言うか、割り切りは凄いね。浅野長政はどうかな。
息子の幸長は確信犯だと思うが。あ、何も悪いという意味ではないからね。
15人間七七四年:2008/04/26(土) 17:26:08 ID:0w5vo9tt
伊達政宗

秀吉に臣従して2年で、肥前名護屋の騒動時に家康に尻尾を振ってる
16人間七七四年:2008/04/26(土) 17:29:18 ID:kOZrVpLK
>>15
ただたんに二股かけてただけだからw
17人間七七四年:2008/04/26(土) 17:31:19 ID:BlqUkxy8
関ヶ原後の外様の大名配置に注目すると
大半は遠国に配置されてるのに
いくつかは外様にも関わらず大坂包囲に加わってる大名がいる
伊勢伊賀の藤堂高虎
播磨姫路の池田輝政
紀伊和歌山の浅野幸長
丹波福知山の有馬豊氏
つまりこいつら
18人間七七四年:2008/04/26(土) 18:37:58 ID:yfIjt831
↑詳しく。
19人間七七四年:2008/04/26(土) 18:51:41 ID:BlqUkxy8
例えば豊臣に未練を持ってそうな加藤や福島は
肥後熊本、安芸広島など僻地に追いやられただろ
野心のありそうな伊達や細川なども
九州、東北とこれまた僻地
>>17の四人は確信犯で家康に取り入った代表例
藤堂は言うまでもなく
池田は家康の娘婿
浅野は親父が家康の義弟
有馬は親子ともども家康に取り入り
また関ヶ原でも藤堂以外の三名は
安全な後方に配置されている
福島などは先鋒とは名ばかりの使い捨て部隊なのに
20人間七七四年:2008/04/26(土) 19:03:35 ID:EZBGO8b+
福島ってほんと哀れだな。加藤孫六も伊予から陸奥そして二代目で没収か。
太閤子飼いと家康子飼い(徳川四天王)のクオリティーの差が豊臣と徳川の命運を分けたな。
21宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c :2008/04/26(土) 23:41:59 ID:Ify4MGv3
亀井茲矩
22人間七七四年:2008/04/27(日) 01:37:48 ID:4jZmpGZE
仙石秀久
子飼いのくせに藤堂なみの素早さ
23人間七七四年:2008/04/27(日) 03:12:08 ID:NaZPrCPY
中村とか山内も早いような
24人間七七四年:2008/04/27(日) 03:34:28 ID:zNgA9NAR
福島正則は哀れだと思うし直情だなぁとも思うけど
改易予期して黙って城明渡した辺りはなんか潔さを感じる

伊達政宗の場合裏切ったってーかそもそも豊臣に恩義を
感じるような出来事なんてあったっけ?
25人間七七四年:2008/04/27(日) 08:29:55 ID:971sPTJU
ない。むしろ所領を大幅に減らされて岩出山に移された恨みの方が強い。
26人間七七四年:2008/04/27(日) 09:19:47 ID:thAOj0hy
田中吉政
27人間七七四年:2008/04/27(日) 09:37:06 ID:yTx44Vpq
最も早くという点で考えた場合
羽柴秀吉時代も含めていいなら、丹羽長秀かな?
豊臣秀吉時代なら佐々成政を推薦!

逆に関ヶ原合戦や大坂の陣で豊臣側として戦い抜いた長曾我部盛親は、ある意味よくやったよw
28人間七七四年:2008/04/27(日) 16:10:06 ID:fKI8pkZb
まぁ盛親だってあの時期に家督相続じゃ何も出来まい
そもそも本当は東軍につきたかったわけで
それが無理になったから「これも天命」ってあきらめたんだし
本戦では動いてないからそれほどでも・・・

だからなおさら改易はひどす
毛利と島津を潰せばなかった腹いせが長曾我部にきたんだな
29人間七七四年:2008/04/28(月) 09:59:53 ID:Tx+m7oUA
佐々タソ
30人間七七四年:2008/04/28(月) 17:40:19 ID:W7kojI+H
千利休
31人間七七四年:2008/04/29(火) 02:05:59 ID:oWPt1WPv
黒田 父
32人間七七四年:2008/04/29(火) 08:20:17 ID:uM+6XiRS
>>28
長曾我部は織田−豊臣ラインから受けた仕打ちを考えれば東軍側にいるべき大名だもんな
33人間七七四年:2008/04/29(火) 10:17:06 ID:ooetIKtd
そして長曾我部の代わりにすえた山内が倒幕派だもん。
変わり身はええw
34人間七七四年:2008/04/29(火) 10:27:01 ID:1/PUKq4X
>>33
幕末のことを言っているなら山内容堂は倒幕派ではないよ。
武市半平太とか処刑しているし。

まあ、山内一豊も容堂も嫌いだがな。
35人間七七四年:2008/04/29(火) 13:05:19 ID:jSNsf/8k
>>27

佐々は元々秀吉嫌いで有名だろ。
36人間七七四年:2008/04/29(火) 14:42:38 ID:M0zOP5O2
>>35
秀吉の越中佐々攻めを調べなおすのだ
恐るべきツンデレだから
37人間七七四年:2008/04/29(火) 15:13:24 ID:Y5CyoNlN
>>36 kwsk
38人間七七四年:2008/04/30(水) 01:07:29 ID:Ah7H0eEj
>>35
そうでもない、どうも佐々は秀吉と言うより
前田利家と仲が悪く秀吉は利家と仲がいいから
ついでに嫌いって感じだったらしい。
後半生は嫌ってたかもしれんが、大河では真逆だったがな。
39人間七七四年:2008/04/30(水) 12:21:43 ID:AjXp42fQ
>>38
「敵の味方も敵」ってわけだ。
40人間七七四年:2008/04/30(水) 17:21:25 ID:sG5FNkHv
それはもしかして信長をめぐっての争いだったのか?
41人間七七四年:2008/04/30(水) 18:59:38 ID:w2AB77U9
佐々征伐は秀吉軍の士気の低さが異常だったといわれてる通りでやる気なし。
秀吉本人は上杉や前田の窮地を救う怒りの出陣をアピール
細川忠興が関係する史料には戦わずに降った佐々に次から次へと挨拶に顔を出す秀吉側武将達がいて
そのお前達が尊敬している佐々さえも俺には降伏したのだと満足気な秀吉公であったみたいな・・・
全て秀吉様ツエーーー言わせる為の演出。しかし配下武将達は出陣前からツンデレな結果を見抜いていた感じ
42人間七七四年:2008/05/01(木) 11:17:09 ID:m3pET0x5
利休も見限った中に入るな
43人間七七四年:2008/05/01(木) 23:47:31 ID:LF99lIqs
石田 三成
44人間七七四年:2008/05/01(木) 23:50:35 ID:rGLQ6zJ2
北政所が一番早かったりしてw
45ねね:2008/05/02(金) 00:08:00 ID:WH9w9xrM
ありゃ、いかんわ、種無しだぎゃw
46名無しの権瓶:2008/05/02(金) 01:10:13 ID:Y8w4yIIH
やっぱ藤堂じゃねえか。
他の大名は秀吉が生きてる時は、豊臣にしっぽ振ってたし。
本人の家康ですら表向きは忠節を建てていた。
その時期に、裏で家康との関係を強化させていた事を考えると。

明智光秀は豊臣秀長を軽んじていたらしく、それを咎めなかった秀吉。
甥っ子(秀長の養子であり、秀吉の甥)が病死しても葬式にこなかった秀吉。
あっさりとお家をつぶした秀吉。

秀吉が生きているうちから見限っても、おかしくない。
47人間七七四年:2008/05/02(金) 08:12:19 ID:if752TRP
仙石
48人間七七四年:2008/05/02(金) 09:25:21 ID:DswzLZIf
先生
49人間七七四年:2008/05/02(金) 11:20:10 ID:WH9w9xrM
お茶々

大野修理にのりかえ。
50人間七七四年:2008/05/02(金) 12:14:24 ID:zX5PaOPX
>>48
誰?
51人間七七四年:2008/05/02(金) 13:50:42 ID:vRTsoegc
秀長。
52人間七七四年:2008/05/02(金) 20:38:27 ID:ov42UJbA
藤堂
仙石
最上
黒田
細川
どいつが一番早いかな
秀次事件が契機だろうな
最上なんて娘殺されてるしな
53フリーザ様 ◆LYPInvIoiQ :2008/05/02(金) 20:49:19 ID:POk++5xb
仙石先生
54フリーザ様 ◆LYPInvIoiQ :2008/05/02(金) 20:50:32 ID:POk++5xb
>>53ミス
>>50へのレスです。
55人間七七四年:2008/05/02(金) 20:52:56 ID:3+JAfCQP
秀次自身とか・・・

>>50
多分、堀尾吉晴のことだと思うよ。
官命:帯刀先生(タテワキセンジョウ)
56人間七七四年:2008/05/02(金) 20:56:38 ID:3+JAfCQP
かぶった。そっちの先生のことか
57人間七七四年:2008/05/02(金) 22:27:09 ID:vRTsoegc
柴田(善)じゃないことは確かそうだ
58全板トナメ戦国板の投票日は5/3!:2008/05/02(金) 22:29:12 ID:NFfon+AX
【第3回2ちゃんねる全板人気トーナメント】
明日5/3日は戦国板の投票日だよー

選対スレ
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1205796433/
投票方法
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1205796433/477
59人間七七四年:2008/05/02(金) 23:40:47 ID:1LkxRiZR
淀君でしょう。
60人間七七四年:2008/05/02(金) 23:42:43 ID:zvlSVvGB
真田でしょう
61人間七七四年:2008/05/03(土) 22:58:10 ID:cd+kg4AV
あの状態じゃ遅かれ早かれ豊臣は見限られる
むしろ最後まで豊臣に忠節な、または未練たらたらの大名って誰よ
62人間七七四年:2008/05/03(土) 23:16:27 ID:7+R/1+m0
そりゃ古田織部(目立ちたがりやな性格な上、豊臣が存続することを前提に東西和平に奔走。動きが目障りな幕府から切腹を命じられた)と
福島正則(兵糧米を大坂方にくれてやった)、片桐東市正(落城後、自責の念にかられて失心。自害)じゃないかな?
63人間七七四年:2008/05/03(土) 23:39:06 ID:3o5RALGL
>>61
真田でしょう
64人間七七四年:2008/05/03(土) 23:44:49 ID:TmMiIRTL
>>63
真田は食うにも困る生活に疲れ果てて大阪城に入っただけで
豊臣に絶対忠誠というのは後世の創作だよ
65人間七七四年:2008/05/04(日) 02:11:27 ID:DshEx+TA
>>64
にしては真田親子の奮戦はすごかったらしいが
66人間七七四年:2008/05/04(日) 05:08:37 ID:8w8Vyi+m
大阪の陣の浪人組は別に豊臣恩顧とか豊臣最高とかの意気込みはないでしょ
あれ正社員と失業者の戦いだから基本的に自分のため
真田、後藤・・・食うにこまって
長曾我部・・・旧領回復
明石・・・キリスト教解禁
ってかんじ

唯一の例外は毛利勝永ぐらいではないのか?
67人間七七四年:2008/05/04(日) 07:16:47 ID:mTcL+B5G
内応の誘いは眉唾なの?
68人間七七四年:2008/05/04(日) 10:27:24 ID:0AicJs/D
>>67
真田は信濃一国、後藤又やんは播磨一国という破格のもの(文書に残っている)。
ただし寝返っても約束が果たされるかどうかは・・・・多分なかっただろうな。

本人たちが寝返らなかったから、後で作られた話かも。
69人間七七四年:2008/05/04(日) 16:40:15 ID:jWPWgZWz
文書に残ってるなら後の創作説はないだろ
幸村の強さと忠義ぶりは秀吉死後あたりの戦国終盤の武将中では別格に称えられてるし
70人間七七四年:2008/05/05(月) 04:39:48 ID:WDAyC/Qw
信之からも生前の幸村は絶賛されてることだし、
何割か割り引いて考えたとしても、幸村は相当の武将だったんだろう
71人間七七四年:2008/05/06(火) 03:21:33 ID:mwP/LMeR
立花はどうなんだろ
秀吉からもらった領地を家康に分捕られるまで戦ったから
一応義理を果たしたことにはなるのかな
もし大坂側にいればそれなりに厄介な存在にはなっただろうけど
72人間七七四年:2008/05/06(火) 03:40:21 ID:qg850aMI
あれ?立花って関ヶ原後はどーしてたんだ?
大阪開場後も東軍と戦ってたの?
73人間七七四年:2008/05/06(火) 04:58:35 ID:mwP/LMeR
>>72
大坂開城→プンプン怒って柳川に帰る→帰還直後鍋島に攻め込まれる
宗茂自身はこれ以上家康に刃向かう意思がないことを示すために柳川城で引きこもり状態
代わりに小野君が出陣、なんとか撃退・・・するも結局領地はあぼん
家臣ともどもホームレス→数年後秀忠が拾う→徳川方で大坂の役参戦→5年後柳川復帰
てな流れ

もし秀忠に拾われてなかったら大阪方についていた可能性があったかもしれんね
74人間七七四年:2008/05/06(火) 07:50:06 ID:X1DctyrY
改易大名の珍しい復活例だな
75人間七七四年:2008/05/06(火) 09:24:43 ID:qg850aMI
>>73
thx 立花はそうゆー流れがあったのか。
秀忠ってさ、意外とそうゆう人の使い方してないか?
巷で言われてる程、愚かでもないような気がする。

つか、鍋島・・・お前が攻めるなよwww
76人間七七四年:2008/05/06(火) 13:14:26 ID:wyWm2rj5
>>75
> つか、鍋島・・・お前が攻めるなよwww

鍋島(父)が息子の謝罪を兼ねて攻めたんだろ。いくら兵糧を献上してたといっても生き残りに必死だったんだよ。
無能めっかちが東北で火事場泥棒してその都度撃退されてたのとは訳が違う。
77人間七七四年:2008/05/06(火) 14:53:19 ID:/m9jdrgg
伊達政宗かな。
78人間七七四年:2008/05/06(火) 15:33:56 ID:R74hu2aH
上杉・毛利・島津・立花辺りは呆れ果てたクズ野郎ですよね^^
関ヶ原で敵対したくせに西軍が負けるや保身の為に躍起になって秀頼公に襲い掛かるとはとんだゲスですよ
特に上杉は戦起こした張本人なのにのうのうと生き延びてる辺りは感心するほどの恥知らずですねぇ
恥の神様として崇めた方がいいのではないでしょうか?^^
79人間七七四年:2008/05/06(火) 17:39:40 ID:wyWm2rj5
>>78
> 特に上杉は戦起こした張本人なのにのうのうと生き延びてる

そりゃ家康が残しておこうと思ったからだろ? 島津・毛利も含めて。
生き残るも殺されるも勝った側の都合次第だからそれは家康に言ってやれよ。
戦えば必ず負けて死ぬとわかっててもまだ戦おうなんて、あんたはフレーゲル男爵ですか?
家来が「じゃあ、あなた一人でやってください。我々は降伏します」って言われたらのうのうと生き延びるより恥ずかしいです。
80人間七七四年:2008/05/06(火) 21:59:05 ID:PO4mOgbO
>>75
まぁ鍋島と立花は元々怨みバリバリの仇敵だからな
大義名分さえあればボコるさ
81人間七七四年:2008/05/06(火) 23:17:24 ID:S3/41Ep6
>>1
前田利家!

大好きだけどね又佐。
でもこいつが徳川の世をある意味で認めたイチバン初めでかつイチバン大きな奴だろう。
そりゃ利家では徳川には勝てないかもしれないけどさ。

長生きしていても徳川の世になってたんだろうな。
100万石維持した前田は結局勝ち組だけど。
82人間七七四年:2008/05/07(水) 00:06:20 ID:qYgqScfL
>>80
なんつーか、お互いに止めを刺さない(刺しきれない)印象がある
わざとなのか、いいかげんなのか、中途半端なのか、能力が拮抗してるのか、、、よくわからんけど
83人間七七四年:2008/05/07(水) 00:45:24 ID:Be63/dSo
>>82
島津義弘、鍋島直茂、立花宗茂の三者は仇敵だったけど、
互いに認め合ってた感じもあるね
84人間七七四年:2008/05/07(水) 01:22:52 ID:uLdN/HGR
無視かよ!もうこねえからなこんなスレ
85人間七七四年:2008/05/07(水) 03:54:06 ID:FdT/XTxR
大阪方についた浪人武将たちが大阪にかけるのではなく
徳川について陣借りで働いて復活しようともくろんだら復活できたのかな?
それなりに手柄立てれば一地半地なりともてにいいれられただろうか・・・
86人間七七四年:2008/05/07(水) 04:03:12 ID:QhOTca5K
塙団右衛門が徳川方の陣借りを薦められたが徳川方じゃろくな手柄も立てられん
と大坂方に行ったって逸話があるな。
87人間七七四年:2008/05/07(水) 10:08:36 ID:Zd0DRdAy
よほどの手柄をたてなきゃ、浪人なんて相手にされないだろうしね。

徳川圧倒的有利ってコンセンサスがあったんでしょう。そんな優勢な勢力で
戦っても弾除けに使われるだけで。
88人間七七四年:2008/05/07(水) 10:22:15 ID:fAAgwexu
>>85
それは無いな。浪人連中は雇って貰えなかったから
浪人になってるワケだから。徳川の治世には必要なしと
判断された連中だ。
89人間七七四年:2008/05/07(水) 11:22:55 ID:qYgqScfL
>>88
なるほどなー。てことは西軍についた丹羽や立花が浪人から
10万石大名に返り咲いたのは改めて奇跡的に感じるな
よほど使えると見たのか、放っておくと危険すぎると感じたのか・・・
あるいはその両方かな
90人間七七四年:2008/05/07(水) 11:39:07 ID:JIPQUp40
徳川家康
91人間七七四年:2008/05/07(水) 11:45:28 ID:Cy46bu5z
戦国時代の戦は基本的に飛び入り参加OKじゃない
真田や立花のように家臣団を持っている奴と同じ素浪人扱いは間違いかも試練が
92人間七七四年:2008/05/07(水) 12:16:49 ID:JIPQUp40
前田利家
93人間七七四年:2008/05/07(水) 13:03:35 ID:DTFIC+kf
>>28
今更だが、あれは盛親が新徳川派の兄を殺したのが原因
94人間七七四年:2008/05/07(水) 13:14:33 ID:JIPQUp40
毛利輝元
95人間七七四年:2008/05/07(水) 21:39:41 ID:o4Pa8mmn
盛近はそんな余裕もないだろ。勝手に周りが担いで、本人も乗るしかなかった。

>>89
立花はみんな(武士)から愛されてたから、無碍な扱いも出来なかったんだろう。
かといってあまり多く与えすぎるわけにもいかないから、旧領十万石というところ
が丁度いいんだろうね。

>>78
んな極論言われてもw
あなたは三成様なんですか?
96人間七七四年:2008/05/10(土) 01:19:02 ID:cfb5+j9/
>>64
食うのにも困るような生活の割には
幸村にはたくさんの側室に産ませた子供達がいますが
97人間七七四年:2008/05/10(土) 23:20:46 ID:rqmUqe86
側室手放さなかったから喰うのに困ってたんです

男二人所帯なら紀州藩からの賄い50石で足りる
98人間七七四年:2008/05/11(日) 08:15:00 ID:VekY9oVh
利家を80万石なんて超過分な待遇で迎えた秀吉に問題がある。
あいつの器量はせいぜいが20万石がいいとこだ。

信長ですら15万石程度しかやらんかったんだぞ。
ガキの頃から付き合いあって、贔屓目があったはずだろうにな。

利家は賤ヶ岳の合戦で友軍を見捨て逃げた経歴のある人物だ。
秀吉との友誼のため・・・って説を唱える人もいるが、逃げた事には変わりない。
筒井順慶や細川藤隆のような性根の持ち主と一緒。肝心な時に逃げ腰がある。

それを見抜けなかった秀吉の自業自得って部分は大きい。
俺が秀吉だったら、天下人の鶴の一声で有無を言わさず三成、清正に50万石ずつ
無理やりにでも渡す。

99人間七七四年:2008/05/14(水) 19:19:45 ID:kcxViHJr
子飼いに大封やって周りから総スカンですね、わかります
100人間七七四年:2008/05/14(水) 21:56:39 ID:BowClo6q
賤ヶ岳で秀吉を裏切り柴田勢に走った山路正国。
その結果、妻子は逆さ磔、本人も清正に討たれる・・・
101人間七七四年:2008/05/14(水) 22:49:26 ID:tbA8ERxv
>>98
三成と清正で同じ50万石づつなんて
ほっといても関ヶ原がおきそうな気が・・・。
家康も史実より楽できそう。
102人間七七四年:2008/05/15(木) 01:24:36 ID:oiC4Frcv
三成は大領よりも畿内に近い領地を望んだらしいじゃん。
103人間七七四年:2008/05/17(土) 07:59:11 ID:xgzY7gZR
三成は九州司令官も百万石も断ったと言われてるな。

秀吉は経済官僚の重要性は認識していたが、時代が
ついてきてないことをわかっていたのかどうか。死後瓦
解した馬鹿の集まりでしかなかった秀吉軍団を守って
いくのは秀長だろうが困難を極めただろう。

朝鮮出兵などせず、ひたすら内政の整備に努めるべき
だったな。諸勢力の融和を図る努力が足りなかったのは
明らか。自前の勢力が乏しいからといって、あまりにも権
威や権力に頼りすぎたんだよ。ちびの曹操があんな虚仮
脅かしの甲冑や衣装で身を固めたなんて考えられない。
104人間七七四年:2008/05/17(土) 11:04:06 ID:W31Knuyk
>>99
ではぜひ、あなたならどう配慮するか高説をお聞かせ頂ければ・・・
105人間七七四年:2008/05/17(土) 14:59:26 ID:TdS6VjMv
ここはそういうスレでは無い気がするんだが
とりあえず前田が20万石の器もクソも、結果だけ見るなら
加藤→お家取り潰し
石田→死亡
前田→100万石で明治まで生き延びる
とどう見ても大名家としては前田側が勝ち組というお話でしかない
106人間七七四年:2008/05/18(日) 02:40:10 ID:lGATO3ch
利家は計算高く優秀だよ、だからこそ大領土をやるべきじゃなかった。

盲目的に自分の家を守ってもらいたかったら利口な奴に大領土をやるべきじゃない。
107人間七七四年:2008/05/18(日) 21:13:15 ID:13NQMvJ5
気合い入れて合戦の決意したから周囲に消されたという説も
あるけどな。百万石はその褒美w
108人間七七四年:2008/05/19(月) 01:37:45 ID:tcrG8+4I
本気で合戦する気が少しでもあるなら家康が秀吉の禁忌を破って大名同士の婚姻をした時点で躊躇する必要などないよ。

完全に大義名分があるのに注意で済ませて見逃すと言う家康側への配慮と
五大老の代表で注意をしたと言う豊臣側への配慮の両方が含まれている
実に賢い政治アピール、この感覚こそが前田家100万石を残したゆえんだろう。

それだけに豊臣の盾にまでなるとはちょっと思えんけど、見限ったとも思えないかな。


109人間七七四年:2008/05/23(金) 11:24:18 ID:utnG2tQa
というか、大名に忠義を期待するほうが間違ってる。利害>道徳
じゃないと政治なんて出来ないし。大名自身自分の働きに対する
封土であって忠義に対する封土とは思ってないだろ。
110人間七七四年:2008/05/25(日) 22:05:43 ID:a0znd4FQ
>>109
全くそのとおり。忠義で個人は守れるが家は守れない。
忠義などと言う所詮は当人同士でしか成立しえないもので政権が成立するはずがないし、
利害を考えられない大名が大領土を統治できるはずも無い。

その次の代以降も家を政権を続かせたければ
主従お互いに利害関係も含めて納得できる形で安定させなければならない。

秀吉は途中まではその事が誰よりもわかっているように思う。
だから地方の有力大名を潰しきったりせずに巧く懐柔し、
ほど良く力を持たせる事で均衡させて安定させている。

伊達政宗などはそういう意味では理想的と言える。
大領土を統治でき周辺国に警戒されるだけの実力を持ち
かつ周辺国とは相容れず、常に強い方につく事を模索しているタイプ。
豊臣家が強くさえあれば彼は必ず裏切らない、ある意味こういうタイプが一番信用できる。
こういうタイプの大名を各地でそれぞれに巧く牽制させあって納得させる事こそ安定につながる。
忠義などと言っているタイプが、一番いざという時に何をしでかすかわからん。
111人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/08(日) 00:53:53 ID:XNwyPrWp
所詮田舎大名だろうが
112人間七七四年:2008/06/10(火) 14:14:11 ID:R0G9p29T
>>110
松永弾正もその
>大領土を統治でき周辺国に警戒されるだけの実力を持ち
>かつ周辺国とは相容れず、常に強い方につく事を模索しているタイプ。
に当てはまると思うが全く信用できない大名だったぞ
113人間七七四年:2008/06/11(水) 02:58:27 ID:M9Xj42xC
>>1122
最後が当てはまらない、常に強い方につく事を模索するタイプの人物は必ず客観的な計算に長けている。

久秀は信長だけでなく三好相手でもかなり無茶をしているし、
その後の行動を見ても客観的な計算に長けているとはとても言い難い。
信長の下についたのも三好三人衆にあれだけ追い詰められればやむをえないところだろう。
そういう人物は一番信用できない。政宗や利家は彼とは根本的に違う。
114人間七七四年:2008/06/11(水) 02:58:50 ID:M9Xj42xC
>>112
115人間七七四年:2008/09/16(火) 12:02:15 ID:zHDiCdN+
あげ
116人間七七四年:2009/01/25(日) 00:08:14 ID:LiGcHfbU
保守
117人間七七四年:2009/02/04(水) 15:52:47 ID:/EMTCKdP
良スレ
118人間七七四年:2009/02/21(土) 08:53:13 ID:zWQ9ws4S
藤堂高虎
119人間七七四年:2009/02/28(土) 00:26:07 ID:A+TW36hD
伊達政宗
120人間七七四年:2009/03/29(日) 10:59:58 ID:KC6BvxyH
最上義光でしょう
121人間七七四年:2009/04/12(日) 00:48:35 ID:18Hq06Sf
池田輝政
122人間七七四年:2009/04/18(土) 12:41:01 ID:CjE82gJS
>>89
基本的に使えるからだろうね。
宗茂なんて勇将で名を馳せてたし、丹羽は建造専門家集団だ
123人間七七四年:2009/04/25(土) 02:56:55 ID:4y7YbDlZ
黒田長政
124人間七七四年:2009/05/02(土) 21:35:54 ID:tOYROBpC
生まれてすぐ死んだ鶴松じゃね?
125りょうま:2009/05/20(水) 13:11:19 ID:Q8UDAfur
義理の兄である木下さんはかなり早くから家康についてたね。
126人間七七四年:2009/05/20(水) 14:06:28 ID:ynnsiyRa
三成。ボケた秀吉には嫌気がさしていた。しかも自分が死んだら憧れの茶々を狸にあげるなんて言うし。やってらんねー。狸倒して豊臣の金銀頂いて石田幕府のつもりが、金吾がビビって動かねーから。あー喉がかわいた茶でもくれ。柿はダメよ。
127人間七七四年:2009/05/20(水) 17:40:43 ID:ve2i5ny+
最上
藤堂
黒田
摂津有馬
伊達
128人間七七四年:2009/05/20(水) 20:47:50 ID:JFuCqFjz
御伽衆なら
織田有楽
山名禅高
129人間七七四年:2009/05/20(水) 21:18:37 ID:Hm4pm9Ut
最上は義親を秀吉の元に送ってるので
豊臣を見限ったりしてない。
最上が早々に豊臣を見限ったとするのは単なる結果論から出た捏造。
130人間七七四年:2009/05/21(木) 07:37:06 ID:GNkGt987
駒姫死後は家康への接近を強めてるけどね

九戸政実が一番早い
131人間七七四年:2009/05/21(木) 07:56:05 ID:j/l3j9Nl
それは嘘。
実際は義光は義康を上杉に出して西軍になろうとして拒否られてるから。
拒否られたのちも里見一族が直江に呼応しようとしてる。
だいたい最上は家康におもねった義光に殺された義康派や義親を含めて親秀頼派が強く、
危険視された最上は幕府の監視下に置かれ、大坂陣の冬と夏で参戦を拒否られ江戸詰め処置にされた(福島正則並みの厳しい処置)
そして後ろ盾だった家康が死ぬや早くも家親は暗殺され最上改易につながる。
132人間七七四年:2009/05/21(木) 08:09:37 ID:8//2kJU4
小笠原貞慶なんてどうだろう?
一瞬秀吉に臣従したけど、小牧・長久手の前にはもう家康に寝返ってるし
133人間七七四年:2009/05/23(土) 00:07:01 ID:YOSVH5w/
>>129 >>131
貴様の方が嘘つき
とっくに正体ばれてんだよ
134人間七七四年:2009/05/23(土) 08:21:21 ID:gtWwpf81
>>132
それはただの情勢が読めない奴。
あの時点では家康自分の影響力の拡大、家を保ちつつ秀吉に自分を高く売りつけることに必死で
秀吉死後に政権奪取のチャンスが回ってくるなんてまだ考えてないでしょ。
豊臣政権の崩壊が始まったのは秀次が腹切らされて将来的な権力の空白が決定的になってからでは。

そういう意味では秀次を讒言した増田とか、秀次をさっさと見限って秀吉におもねった堀尾、山内、田中たちが
結果的に一番最初に豊臣家を見限った行動をとったのでは。
本人達は自分の保身しか考えてなくて豊臣家がどうなるかとかの大勢は全く読めてなかったんだろうけど。
135人間七七四年:2009/05/24(日) 23:43:15 ID:oxX7TKah
>>133
基地外さんこんにちは。
136人間七七四年:2009/05/25(月) 23:13:20 ID:uU/+XHnK
藤堂高虎
137人間七七四年:2009/05/27(水) 15:58:03 ID:ZoYzkGxi
織田信雄公に決まってるだろうが
138人間七七四年:2009/05/27(水) 17:52:25 ID:SUGZ6G/A
たわけめ。家康に決まってるだろうが。
139人間七七四年:2009/08/08(土) 11:02:45 ID:b0ulOu6i
細川忠興
140人間七七四年:2009/08/08(土) 11:54:32 ID:cyv6HJHL
>>136
高虎は豊臣秀長(大和大納言家)の家臣って感じだったもんな。
秀長が死んで娘婿の秀保変死で大和大納言家が断絶した時点で豊臣から心は離れてたんだろうよ。
141人間七七四年:2009/08/15(土) 03:51:18 ID:Q1qCxHPR
黒田長政
142人間七七四年:2009/08/17(月) 22:48:08 ID:oKLl+iMM
>>134
あの頃の秀吉は相当おかしくなってたし、
もし秀次を庇ったとしても前野長康みたいに100%粛清されてしまうだろうよ。
増田や堀尾、山内、田中みたいに保身に走った事が豊臣家を見限る行為になるとは思わない。
143人間七七四年:2009/08/27(木) 00:03:59 ID:pqF87Yk0
池田輝政
144人間七七四年:2009/08/28(金) 00:00:41 ID:zk0O6I+K
田中吉政
145人間七七四年:2009/09/12(土) 07:49:58 ID:HKHMrP1o
伊達政宗
146人間七七四年:2009/09/13(日) 03:55:51 ID:dS8/KOPJ
徳川家康
147人間七七四年:2009/09/16(水) 09:11:33 ID:g/6oB4+w
石田三成だな
存命中から秀吉を見限って、恩顧武将が家康の方に奔るよう仕向けた
148人間七七四年:2009/09/16(水) 16:03:11 ID:prJzTVYi
露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢

こんな辞世の句を残すくらいだから、最初に見限ったのは秀吉自身だろう。
149人間七七四年:2009/10/27(火) 03:24:17 ID:NT6d0W/G
柴田の勝っちゃん&市カッポ〜
150人間七七四年:2009/10/27(火) 04:12:40 ID:fF1ccv0t

藤堂高虎・池田輝政・黒田長政・細川忠興の4人は確信犯。加藤清正・福島正則は4人
に篭絡された馬鹿(後陰謀で改易された)。
残りの田中吉政・加藤嘉明・山内一豊は日和見で単なる流れで・・・・

豊臣恩顧とはいえない大名(伊達・島津など)は入れない。前田は家康の陰謀により
より方向を変えた。
151人間七七四年:2009/10/27(火) 06:53:16 ID:4PkjgfMg
自分の権力拡大の為、秀次事件で自ら率先して秀次を陥れた。
その行動が家康に付け入る隙を与えるとも知らずに。
秀次が死んで誰が損をして、誰が得をするのか?
それが分からない馬鹿だったのだよ。石田三成は。
152人間七七四年:2009/10/27(火) 11:57:13 ID:X785Cgai
絶対藤堂
そして子孫は幕末でも速攻倒幕に裏切る犬
153人間七七四年:2009/10/27(火) 13:33:21 ID:aP3IgKfr
藤堂は秀長の家臣だったしなぁ

秀吉の仕打ちを考えると・・・
154人間七七四年:2009/10/27(火) 13:43:14 ID:3JnXBDCH
>>152
倒幕連合軍に対し幕府軍に合力するために出陣した(と誰もが思った)が、
いきなり幕府軍の横っ腹に鉄砲の一斉射撃を加えたため幕府軍が壊滅。

連合軍の大将も驚いて尋ねたところ
「当家はもともと豊家の臣ゆえ」と臆面もなく答えた。
155人間七七四年:2009/10/27(火) 18:20:20 ID:M8vvZUBO
小池百合子みたいだな
156人間七七四年:2009/10/27(火) 23:12:23 ID:CoFRou4M
>>150
>豊臣恩顧とはいえない大名(伊達・島津など)は入れない。

それだと藤堂高虎・池田輝政・細川忠興は豊臣恩顧には入らないぞ
こいつらは別に秀吉が天下を取らなくても何も困らないし
この3人に限らず旧織田系大名はたまたま信長の死後に権力を握ったのが秀吉だったというだけで
別人が天下を取っていればそいつに尻尾振って同じ立場になるわけで豊臣に尽くす義理などないからね
157人間七七四年:2009/10/28(水) 01:06:23 ID:fXWCw3t4
>>156
単なるゴミクズ石田の厨だろ?
158人間七七四年:2009/10/28(水) 01:22:29 ID:ZNqbX2Ds
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>>9

子宮検診  陰毛に白髪
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/cafe50/1235767589/

陰毛(玉袋)に白髪が多発
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/body/1222364924/


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159人間七七四年:2009/10/31(土) 00:31:04 ID:MlgnwFi2
>>154
マジ?
160人間七七四年:2009/10/31(土) 01:00:45 ID:4MYAaN2u
>>156
たしかに 細川藤孝 池田恒興なんて前田利家と同列だもんな となるとぶ 細川はともかく、
戦死してなければ恒興は大老であってもおかしくないじゃないか!
161人間七七四年:2009/10/31(土) 09:30:18 ID:sNBagiMb
本当の意味での豊臣恩顧なら山内あたりがかなり早いだろ。
秀吉の葬儀の時点で既に家康側だったみたいだし。
162人間七七四年:2009/10/31(土) 10:00:50 ID:4MYAaN2u
山内は旧織田家臣だろ 立場に違いはあるが同僚だろ
163人間七七四年:2009/11/01(日) 02:26:53 ID:h1Hvkz2Z
最上 藤堂 伊達 黒田 細川 摂津有馬 仙石 池田 山内 田中
この辺りかな
早そうな順に並べた
164人間七七四年:2009/11/01(日) 08:12:04 ID:RmsgJdA0
最上義親が秀頼側にいた最上が家康よりは大嘘。
最上は大坂冬夏の両陣で江戸詰めなほど信用されてなかった。
165人間七七四年:2009/11/01(日) 22:33:45 ID:AwzVd7Az
「豊臣と徳川の戦が避けられなくなったのなら、俺は豊臣側で戦おう」
こんな考えをもっとも遅くまで持ち続けていた大名の方が気になるな。
166人間七七四年:2009/11/01(日) 23:07:23 ID:5EDwl0Xj
>>163
仙石つくづく最低の男だなw

>>165
大名で言うなら大阪の陣の時の蜂須賀家政じゃね?
167人間七七四年:2009/11/02(月) 18:44:03 ID:EJeTqs91
>>165
正直なところ自分の主君がそんなこと言い出したら家臣で合議して謀殺するな俺ならw
加藤清正が生きてて大阪の陣が始まった場合どっちについたかはすごく気になるところだけど
168人間七七四年:2009/11/03(火) 04:39:02 ID:6GUCYref
清正公が生きていれば、家康は、大阪攻めには踏み切れなかったであろう。清正公が動けば福島、浅野、黒田らが同心同調する。
169人間七七四年:2009/11/03(火) 06:54:28 ID:EFTNkeo7
>>168
黒田はないなw
170名無しさん:2009/11/03(火) 07:04:43 ID:jZFYxLGC
結城秀康
171人間七七四年:2009/11/03(火) 11:48:37 ID:UcKbVZPM
>>168>>169
長政は子供のころから秀吉を信頼していない。
信長の命令とはいえ自分を殺そうとした秀吉をずっと恨んでいたらしい。
172人間七七四年:2010/01/26(火) 16:22:52 ID:hyOdqHXB
うむ、長政だけは絶対ありえないわ
173人間七七四年:2010/02/01(月) 21:14:48 ID:F1QuwzKy
そりゃ家康の狸だわな。
174人間七七四年:2010/02/11(木) 00:10:08 ID:J+EfpoXS
細川
175人間七七四年:2010/05/03(月) 01:13:04 ID:oeKGgXWE
人質は丁重に扱わないと後が怖いってことか。
176人間七七四年:2010/05/03(月) 01:37:32 ID:pzbs2x+V
それなら石田家にもう少し恩を感じないとなぁ>長政
177人間七七四年:2010/06/02(水) 23:08:46 ID:/b9R+hys
最上義光
178人間七七四年:2010/06/03(木) 12:57:34 ID:ogi+prxu
アワビの木
179人間七七四年:2010/06/03(木) 12:59:58 ID:ogi+prxu
訂正スマソ(>>178)

アワビの木 → サザエの木
180人間七七四年:2010/06/03(木) 14:11:04 ID:co62RN1X
そもそも関が原は
東軍=徳川 西軍=豊臣 ではないのだが、
どちらも豊臣の軍隊であり表向きは秀頼を護るための軍隊だが。

東軍は元は少なくとも形の上では秀頼の命令による上杉討伐軍が目的変更されて
豊臣家に仇なす石田三成一派を討っただけだしな。
福島などそういう認識で東軍についてた連中も多い。
181人間七七四年:2010/06/03(木) 14:18:11 ID:iFEw26hP
結局淀が石田切ってれば良かったって感じか
182人間七七四年:2010/06/03(木) 17:17:59 ID:2b/M3J+0
こみこだせいじ
183人間七七四年:2010/11/13(土) 08:14:29 ID:j+AgImNS
保守
184人間七七四年:2010/11/15(月) 06:10:53 ID:WPmS21qL
一般的には、藤堂だけど、黒田も似たようなものだね。
確か長政は、秀吉のお陰で命が助かって、最初の正室も、秀吉養女なのに、秀吉が死ぬと、その正室を棄てて、家康養女に鞍替えしている。
秀吉家臣の身内を、正室のままにして、家康にナビなかった某武将より、秀吉に気に入られていたのにね。
185人間七七四年:2011/01/05(水) 22:59:09 ID:i0m7Dt8A
>>180
関ヶ原に参加した東軍のメンツなんて大半豊臣恩顧だからな
豊臣恩顧同士でつぶし合ったようなもん
186人間七七四年:2011/06/05(日) 00:08:09.04 ID:sO5wvEU/
保全
187人間七七四年:2011/07/12(火) 07:47:37.79 ID:UYldFE/L
あげ
188人間七七四年:2011/07/12(火) 08:01:11.81 ID:i/IYVuuN
>>180
三成決起により越後口や山形口など会津征伐軍が瓦解して以降
一次史料において家康は一度たりとも秀頼のためとか豊臣のためなどと主張したことは無い。
家康個人への忠誠を喜ぶ書状の往来しかない。
三成を除こうとする豊臣恩顧武将らと家康は利用し合う関係でしかない。
家康が豊臣家のためをスローガンに三成と戦ったと言う一次史料を出してもらいたい
189人間七七四年:2011/07/12(火) 14:01:05.66 ID:uItBgv6Y
色んな意味で石田治部少輔三成
190人間七七四年:2011/07/13(水) 22:41:35.61 ID:s+aznKgg
>>184
長政は豊臣政権下における黒田家の石高にかなりの不満があったんじゃないかな。
関ヶ原での如水の家康への石高要求ぶりもキチガイ過ぎる。
191人間七七四年:2011/07/14(木) 01:34:09.67 ID:mDSd/orQ
>>190
書状をだした時点では、長政(備前)+別に孝高の所領要求
は別にキチガイでも何でもないんだが

この種の要求は過大にするものだし、家康も東軍諸将に
実際に与えた2倍増しの所領を提示している

孝高は、事前に井伊をつうじて九州〜中国の切取自由の許可を
家康から取りつけていたし、しかも、この時点では、
東西の戦いが長期化する可能性があった
その際、毛利の背後に位置する九州東軍の重要性が跳ね上がるのを
踏まえて交渉しているわけ

よく経緯を知りもしないのに、人をキチガイ呼ばわりする
お前の頭の方がおかしい
192人間七七四年:2011/07/14(木) 03:08:05.98 ID:M3fNvjp/
いや他のどの大名もあんなに過大な要求なんてしてない。
如水の要求は狂ってる。九州だけでなく毛利の本拠地の広島まで奪おうと考えてるし。
193人間七七四年:2011/07/14(木) 12:30:47.77 ID:lLEEmUm6
>166
仙石は家康のとりなしで復帰したからね

>168
清正は正則以上の親徳川
血縁も強化
194人間七七四年:2011/07/14(木) 12:56:35.14 ID:9zcmEpyB
>>163
最上と伊達は息子を秀頼付けにしてるから
典型的な二股外交だから違うな。
>>193
正則と違って清正は三成への七将クーデターより後だからな家康との婚姻関係は。
だから正則と違って婚姻を糾弾されてない。
清正は関ヶ原でも如水の指示に従う形で家康の指示に従う態度ではなかったし
如水も狂った領土欲丸出しで家康が勝とうが負けようがどうでもよくて
戦が出来るだけ長びいてもらえば領土の火事場泥棒が長くできると考えてただけ。
本人はガチで清正を利用して留守居役しかいない九州と中国西部くらいは切り取ろうと考えていたしな。
195人間七七四年:2011/07/14(木) 13:06:19.35 ID:9zcmEpyB
黒田・藤堂・細川だろう。
黒田は貪欲過ぎる領土欲から家康へ
細川は借金を家康が肩代わりしてくれたばかりか勝手に加増してくれた恩がある。
藤堂は秀長の養子が怪死後に熱意が冷めたのかよくわからんが一番豊臣から恩を受けた人間なのは確か。
196人間七七四年:2011/07/14(木) 18:30:56.45 ID:pJ77q0Va
まぁ細川はもともと織田家に天正元年に入ってから
義昭を見限り正式に配下になった外様だからね。
しかも秀吉ではなく明智と婚姻関係を作ってるし
豊臣恩顧とは言えない。

如水の家康への過剰な領地要求を見るに
秀吉にもそういう要求をしたことあるんだろうな。
引いた秀吉が警戒して大幅加増をしなかった理由もよくわかるわ。
197人間七七四年:2011/07/14(木) 21:25:45.06 ID:euNkZ2sc
そもそも、過大要求説が疑問なんだけど。

この話の元は、9月15日付の黒田(父)→藤堂宛ての書状だと思うけど
この手紙は、如水の豊前でのこれまでの戦果の報告が主な内容で、
「東軍が勝った場合には、宇喜多の所領を長政に、
 私の働きに対しては息子と別に所領をもらえないかな」
と書いてあるだけ。自分が九州を切り取った分の領地をよこせとか
具体的な石高の要求などはしていない。
九州での自分の働きは、息子とは別にカウントしてね、という趣旨。

恩賞として、黒田家全体で備前50万石+αって
「狂ってる」とか「過剰」というほどの要求だとは思わないんだけど。
198人間七七四年:2011/07/15(金) 11:58:34.86 ID:kURujalb
大友義統撃破の報告のあと隙を見て清正と申し合わせて
門司を超えて広島を取ろうと存じてる。
秀家領を長政にくれ。とにかく上方にて領地をくれ。
俺とは別家にしてな!(秀家は備前・備中・美作・播磨に一部を領する)
清正と俺のぶんは今度、切り取り候分はぜんぶくれ。
(つまり戦が長引いた時には九州と中国を奪うつもりでいる)

これは他のどの大名も望んでない過大要求。
完全に家康に警戒されたな。
島津攻めを家康が急いでストップかけて
結局島津を許したのも9/15書状が原因。
如水って野心が隠せないマヌケだから大成できない。
199人間七七四年:2011/07/15(金) 21:29:07.69 ID:m+dmSBPp
蜂須賀と黒田は豊臣家を見限ったというより、政敵である増田・石田が
中心になる政権では将来が真っ暗どころか、秀吉死亡時点ですでに
詰んでる状態
家康に接近するしか豊臣政権のなかで生き残るオプションがない

特に蜂須賀は、蔚山の戦いの際、三成系の軍目付の報告が原因で
ほとんど理不尽な理由で失脚・領内謹慎、切腹手前まで追い込まれてる
だから七将襲撃の中心は蜂須賀と黒田で、この二人はガチで三成を殺しにかかった
200人間七七四年:2011/07/16(土) 09:53:27.85 ID:1mhhLTId
>>199
その黒田や蜂須賀への三成の讒言からしてウソくさいんだよな。
三成が全て悪い史観で江戸時代は何でもかんでも三成のせいにした捏造逸話が作られたし。
蜂須賀家政に至っては秀吉から阿波一国加増してもらったし心情は西軍寄りだったし。
そもそも預けておいた蔵入地を豊臣家に戻すのは朝鮮出兵とは関係なく既定路線でしかないだろ。
だいたい領地が増えなかった朝鮮出兵での軍功で加増なんて最初から無理だし。
評判最悪の大友義統ですら改易止まりなのに
秀吉が家政に切腹を命じると言われるほどの事態にまで悪化なんて有り得ない。
201人間七七四年:2011/07/16(土) 13:35:04.53 ID:4ZPEvPM2
三成自身が故意に讒言したかどうかでは重要ではなく、
三成系の軍目付の報告のみを取り上げて秀吉に報告したら
武断派にとっては結果は同じなわけで
蔚山は戦としては勝ったのに、逆に関係者一同が
不当に処罰された点が問題であって、加増云々は関係ない
202人間七七四年:2011/07/18(月) 11:24:46.53 ID:247PXhTP
黒田がウソ言ってるだけ
203人間七七四年:2011/07/18(月) 22:08:01.65 ID:rErzQmAO
結局、秀吉の死後も信頼できる家臣って誰?
204人間七七四年:2011/07/18(月) 22:53:29.37 ID:jm5DB/+9
南部もかなり極悪。
あれだけ秀吉の世話になったくせに
あっさりと家康に尻尾振ってた。
205人間七七四年:2011/07/18(月) 22:58:55.54 ID:247PXhTP
でもまあ南部の豊臣窓口は前田や浅野や蒲生の派閥だからなー。
206人間七七四年:2011/07/18(月) 22:59:36.32 ID:GQCo5y1k
津軽さんが三成と仲良くしてたからです
207人間七七四年:2011/07/19(火) 00:27:56.11 ID:YtuOL1/B
秀次一家惨殺は史実なわけだからな。
徳川になぴいた豊臣恩顧のほとんどはあれがきっかけになってるだろ。
三成云々関係なく豊臣を見限る要因になる。
208人間七七四年:2011/07/19(火) 01:10:56.40 ID:lot6Vr+h
>>207
あれは秀次が悪い。駒姫を側室においた最上が小野寺侵略したり
前田や浅野らと秀次は徒党を組んで朝鮮出兵を拒んだり
伊達や毛利や細川へ軍事金支援していたりと
疑われる要素はたんまりあった。
209人間七七四年:2011/07/19(火) 10:43:14.46 ID:c1KYHs1i
>>208
それは秀吉に殺される危機が現実にあったから防衛のためにやったんだろ
210人間七七四年:2011/07/19(火) 10:51:08.42 ID:aBggM2ID
殺される危機が現実にあったとする論拠は?
211人間七七四年:2011/07/19(火) 12:32:21.60 ID:aIB589KK
やっぱり秀康を後継者にするしかなかったんじゃね。
そんで秀頼を秀康の養子にすると。
212人間七七四年:2011/07/19(火) 13:07:04.38 ID:aBggM2ID
家康が想定を超えて長生きしてしまったから結果的に大誤算になっただけ。
213人間七七四年:2011/07/19(火) 20:59:49.87 ID:3yYF0ILP
>>207
小早川秀秋も秀次事件に連座してたんだね。
山内一豊、伊達政宗、最上義光といい、粛清が中途半端すぎたよな。
214人間七七四年:2011/07/20(水) 12:11:36.00 ID:DySY15Kb
>>213
>>小早川秀秋も秀次事件に連座してた
そんなこと>>207のドコに書いてあった???
215人間七七四年:2011/07/20(水) 23:47:42.74 ID:AB+DEnd4
214とか粛清したい。
216人間七七四年:2011/07/21(木) 03:19:00.34 ID:a66ek7x9
秀吉の古くからの家臣って結構東軍へついているよね。
彼らから見たら秀吉の大出世は身分不相応というか
いい夢みさして貰ったんじゃないかという思があって
何が何でも豊臣を守らねばという意識が薄かったのかなと。
217人間七七四年:2011/07/21(木) 11:44:57.50 ID:BGkgbtWo
>>216
そんなことないぞ。
有名な武断派が目立つからそう感じるだけ。
会津征伐で家康から戦見習いと称され半ば人質のように連行された大名子弟がいたり
会津征伐軍進路上の東海道筋や中山道筋がやむなく従っていた部分もある。
218人間七七四年:2011/12/07(水) 18:42:26.14 ID:PR0JOgTA
ここまで佐竹義久が出てこないとは・・・大名とは違うけど
219人間七七四年:2012/01/18(水) 15:43:19.10 ID:tekuA5XI
1家康、2前田家(松含む)、3北政所、、、
220人間七七四年:2012/01/20(金) 13:31:35.98 ID:ZwM2LJ4a
家康
221人間七七四年:2012/01/21(土) 22:46:22.09 ID:6Dbl4Hx0
秀吉にとっての誤算は利家が早くに亡くなったのと
前田家があっさり(は言い過ぎかもしれんが)親徳川になったことだよな。
前田家があれだけ繁栄出来たのは間違いなく秀吉のお陰だし、前田夫妻
は特別待遇だったらしいから豊臣家に尽くしてくれると思っていたのかも
しれんが、現実はシビアだったという事だな。

織田家から政権簒奪する時、家を守る為には人の心がどれ程頼りなく
儚いものかはわかっていたはずなのにその教訓を秀吉は上手く活かせなかった。
222人間七七四年:2012/01/25(水) 18:20:04.70 ID:REPIzGSg
ある意味、宗氏。
223人間七七四年:2013/06/02(日) 06:01:31.55 ID:29rpLNp3
秀次がいる限り秀頼の将来が危ういと思ったのだろうな
たしかに秀次によって秀頼が滅ぼされる可能性はあった
しかし秀次粛清が豊臣家の命取りになってしまった
秀頼を秀次の養子に出せば良かったのにな
224人間七七四年:2013/06/02(日) 06:48:21.78 ID:/t8ydLzH
宗や小西に賛同したくなる
225人間七七四年:2013/06/05(水) 08:52:33.61 ID:CPdK6HUg
>>223
秀次体制が完全い固まったら、いくら秀頼を養子にしても秀吉の死後に排斥されるに決まってるやん。
少なくとも秀吉は、秀次をそこまで信頼のできる人間だとは思っていなかったってことだろ。
226人間七七四年:2013/09/15(日) 00:12:04.76 ID:IUNo1C5O
バカテスの木下秀吉について語りましょう。
227人間七七四年:2013/09/16(月) 00:08:43.99 ID:b+OQ0akv
加藤福島の豊臣への忠誠心にも疑わしい部分があるんだよな。
忠誠心が本当にガチなら、どんなに三成が嫌いでも家康には
付かなかったと思うぞ。
秀吉が三法師の為とか言いながら織田政権を簒奪するのを
間近で見てきたんだ。
同じ事を家康がする事を容易に予想できたはずだ。
228人間七七四年:2013/09/16(月) 16:06:26.45 ID:D3zOFgHd
せめて織田秀信や豊臣国松だけでも生かしておいたら後世において
言い訳ができたけど、やったことは女子供関係なく大坂20万人を虐殺して
大坂城をいったん平地化するまで完全破壊してからの新大坂城建設と、
秀吉の墓を暴いて神号剥奪。自分は東照大権現として神になる暴挙だもんな。
偽新田源氏を標榜したところでクズの本性は直らなかったな。

織田家は秀信が家康によって野たれ死にに追いやられた後も
信雄親子も有楽斎親子もみんな豊臣擁護側のリーダーとされていたし。
豊臣と共に滅亡にならないギリギリまで織田家は大坂城で家康に抵抗していた。
どんだけ織田家は豊臣が大好きで家康が嫌いなんだよレベル。
229人間七七四年:2013/09/18(水) 10:54:03.18 ID:Ri3/ltBD
最上義光じゃね
230人間七七四年:2013/09/18(水) 11:33:53.82 ID:qmo4+Xrb
義光は秀頼の小姓に息子をつけてる。
むしろ義光は積極的に支持していた。
231人間七七四年:2013/09/18(水) 17:42:53.58 ID:7LKKlfwb
>>228
末期の豊臣家は秀頼&淀殿(信長の姪)が共同家長のようなもので
実質豊臣・織田連合みたいなものだから
232人間七七四年:2013/09/18(水) 19:19:18.63 ID:qmo4+Xrb
いやそれが理由なら江と秀忠がいるし、その娘の千姫もいるから
織田家は中立もしくは徳川方でもいいじゃん。
でも実際は豊臣方だったじゃん。
233人間七七四年:2013/09/18(水) 20:46:21.56 ID:quDj+Cxy
反秀吉だった織田は淘汰されちゃったからな
234人間七七四年:2013/09/18(水) 21:35:55.88 ID:U+bIUQRs
>>1
>俳優の伊武雅刀(64)、音楽プロデューサーの桑原茂一(62)、
>DJの小林克也(72)による伝説のコントユニット、スネークマンショーが
>30年ぶりに“復活”することが29日、分かった。

>1975〜83年に活動した同ユニットは8月11日に東京・夢の島公園で
>開催される夏フェス「WORLD HAPPINESS」に出演。2011年に
>WOWOWの特別番組に出演したが、生のステージに登場するのは
>活動停止後初で、当日は伊武と小林が出演する。

>同ユニットは当時タブーとされていた同性愛などをテーマにした
>先鋭的なコントで熱狂的ファンを獲得。80年にテクノユニット、
>YMOのアルバム「増殖」にコントが収録され、ブレークした。

>今回は同フェスに出演するYMOの坂本龍一(61)、
>高橋幸宏(61)らの呼びかけで実現。“新ネタ”の披露にも期待がかかる。

>ソース:SANSPO.COM(サンスポ・コム)
http://www.sanspo.com/geino/news/20130730/oth13073005030013-n1.html
>画像:スネークマンショーがファンの前で“復活”。夏フェスの出演が決まった小林克也(左)と伊武雅刀
http://www.sanspo.com/geino/images/20130730/oth13073005030013-p1.jpg
さ>_<、ま(わ、、)巨人の沢村拓一投手(25)と元日本テレビアナウンサーの森麻季さん(32)が、
離婚していたことが12日、スポーツ報知の取材で分かった。関係者によると、
昨年末から話し合いを続け、3月末に離婚届を提出。離婚理由については
明らかにされていないが、協議の末、円満に合意したという。

2人は2010年の5月に共通の知人の紹介で知り合い、翌11年10月に
結婚を発表。同年12月に入籍し、都内のホテルで挙式していた。

森さんは9年勤めていた日テレを結婚後に退社。専業主婦になっていた。
沢村の登板日には本拠地の東京ドームだけでなく、神宮球場でのヤクルト戦や、
横浜でのDeNA戦、WBCの2次ラウンド・オランダ戦(東京D)で観戦に訪れる姿が
目撃されていた。今後はアナウンサー業などで仕事へ復帰する予定だ。

すでに2人はそれぞれ新生活をスタートさせ、別々の道を歩き出している。
沢村の離婚は近日中に球団から発表される見込みだ。

2人は巨人広報を通し、連名でコメントを出した。内容は以下の通り。
「話し合いを重ねた結果、別々の道を歩むこととなりましたが、
今もお互いを尊敬する気持ちに変わりはありません。
これからも応援し合いながら、それぞれの新しい人生を
形作っていきたいと思います。応援して下さった皆様に
感謝するとともに、2人の今後を温かく見守ってくださるようお願い申し上げます」。

ソース:スポーツ報知
http://hochi.yomiuri.co.jp/giants/news/20130413-OHT1T00033.htm
ニッカンスポーツ・コム(nikkansports.com)
http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20130413-1111831.html
画像:離婚が判明した沢村投手
http://hochi.yomiuri.co.jp/photo/20130413-660617-1-L.jpg
元日本テレビアナウンサーの森麻季さん
http://hochi.yomiuri.co.jp/photo/20130413-660624-1-L.jpg
★1が立った時間:2013/04/13(土) 07:51:20.92
前スレ:http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1365816226(^^;わ
235人間七七四年:2013/09/23(月) 06:59:52.78 ID:boh32KSo
来年の大河ドラマは軍師黒田官兵衛。
備中高松城の水攻めを羽柴秀吉に献策したのは黒田官兵衛とのこと。
大河ドラマにちなんで備中高松城の水攻め復元模型を製作した。
http://mirai660.net/castle/
236人間七七四年:2013/09/23(月) 19:11:17.20 ID:qVsQ6h/U
山内一豊はどう?
237人間七七四年:2013/09/24(火) 01:23:59.27 ID:h9mkAzHO
>>236
秀次切腹の段階である程度決めてた感じだね。
秀吉死去直後から家康に接近してるし、秀次切腹後は
秀吉が死ぬのをずっと待ってたんだろうね。
238人間七七四年:2013/09/24(火) 02:02:36.35 ID:Yulxy7Fu
まあそうだな、ただ家康に接近したのはもう少し早かったようだ。
家康が大坂江戸間を往復する際に大いに歓待し、それに対する
家康の感謝状(慶長2年)なども残っている。
239人間七七四年:2013/09/24(火) 11:24:59.77 ID:bLsugsLw
240人間七七四年:2013/09/24(火) 14:38:37.30 ID:w9BuFaKF
山内一豊は秀吉恩顧の中で家康に付いたのが池田と同じくらい早いよな。
あのまま豊臣政権に残ったところで良い事なんて一つも無いしな。
土佐一国なんて夢のまた夢。
秀次が秀吉死後も生きて豊臣政権で重きをなしてれば山内の境遇も
大きく変わってただろうけど。
241人間七七四年:2013/09/25(水) 14:08:13.16 ID:9T4cW/yB
家康が征夷大将軍の座を秀忠に譲った時からじゃないかな?
242人間七七四年:2013/09/25(水) 14:16:55.32 ID:G3FYtr2z
>>241
その時点ではほぼ全ての大名が豊臣見限ってるだろ
243人間七七四年:2013/09/25(水) 14:29:55.01 ID:9T4cW/yB
>>242
関が原後の論功行賞ですら秀頼の名前でやるくらい家康は武断派に遠慮してるよ。
それに朝廷も将来、秀頼を関白にする気まんまん。
武断派は大領を保持してたし。
黒田長政から言わせれば、
俺が武断派の気持ちをゲットしてるから家康は関が原で勝てただけだしw
って言ってるし、長政が家康うぜえと思えば、
家康の権力なんて簡単にひっくり返せるとか言ってるしな。
244人間七七四年:2013/09/26(木) 09:14:54.34 ID:FFMGSG0i
長政の遺言書
父が大坂方と通じたら清正は大喜びで味方になる。
そうしたら九州中国の兵を合わせて10万騎になるだろ。
この軍勢で家康と戦うなら楽勝や!
家康が三河までアホみたいに進軍してきたところで、
私がまとめる西軍は誰ひとり家康に内通するバカはいないから、
輝元が総大将だった関が原みたいに情けない敗北はあり得ない。
万が一やり損ねても我々は近江の諸城を堅く守り、
後詰めとして大坂には島津をつめておいて、
俺と宇喜多で伏見を堅めれば、
関東のやつらは瀬田より西には進軍不可能w
とシュミレーションしてるんだよな。
245人間七七四年:2013/09/26(木) 11:29:30.61 ID:SjDSLV0I
来年の大河はどう描くか興味深いね。
関が原での如水って明らかに輝元を総大将に認める書状を出したりと
二股をかけてるよね。
広家との友情を大切にしてるとかヌカしておいて
大友義統の豊後入りは阻止するし。
ゆくゆくは広島攻めるぜ!とか言ってたり。
毛利との関係を保ちつつやってる辺りほんと油断ならねぇ。
最も、毛利も黒田家との関係を保険と思ってるフシがあった。
だから関が原でとんだ馬鹿をやる元凶になった。
246人間七七四年:2013/09/26(木) 22:17:53.25 ID:RnNm+fSK
>>245
保険というか
もともと毛利と徳川は地理的に縁が薄いし関係も希薄なので
いざ東軍に内通しようとしても、むかし中国攻めから豊臣政権の前期の時期に
毛利の取次だった黒田くらいしかコネがなかったのよ

>>244
黒田孝高・長政あたりの単なる豊臣恩顧の1大名、しかも政権中枢から
はっきりと外れてる12万石程度の大名に毛利や宇喜多、島津が従う名分も理由もないのに
なに誇大妄想語ってんのこの長政くんは
247人間七七四年:2013/09/27(金) 08:07:30.61 ID:FBfs1zUq
そもそも徳川と毛利は地位が同じ大老。
それなのになぜか長政が理由不明ながら、家康との間に井伊らを伝手に斡旋したり、
小山会議後に武断派の離反を恐れた家康が長政に相談して、
長政が福島を始めとした武断派の裏切りは無いよう取りまとめたりという
人心掌握力こそが戦に勝つ要であることを表しているだろ。
関が原後の加増を見ても黒田を始め武断派が大領を得ている。
選挙でまとまった票田を取りまとめる人が重要なのと同じ。
248人間七七四年:2013/09/27(金) 08:47:57.83 ID:KKs21cdf
おなじw
249人間七七四年:2013/09/27(金) 09:22:55.84 ID:JeF8S5a6
中井氏
一般に秀吉は自分の死後、秀頼成人までの政務代行者を家康に委ねた、との見方がされることが多い。
これは浅野家文書の「豊臣秀吉遺言覚書」等の記述が典拠になっているが、
原文を素直に読むと、あくまで家康は政務執行者の一人として位置づけられている。
秀吉の死後、三成はくどいほど、
十人衆(いわゆる五大老・五奉行)での合議を強調し、
秀吉薨去後の誓詞にも盛り込んでいる。
250人間七七四年:2013/10/01(火) 03:47:50.66 ID:n+GR38Fi
徳川家康じゃないのか?
251人間七七四年:2013/10/13(日) 03:56:10.95 ID:Z3b0Zqqs
.
252人間七七四年:2013/10/16(水) 23:15:42.60 ID:PMLPj/sn
堀尾や山内あたりの秀次付の奴らじゃないか
253人間七七四年:2013/10/18(金) 21:36:11.34 ID:WTrUfgqH
秀次附きの田中、山内、堀尾らは秀吉から借りてるレンタル家臣だから
粛清事件で秀吉や豊臣を見限ったというのはちょっと違うと思う。
秀次が死んでも出向先から本社に戻るだけの話だしね。
清正、黒田、蜂須賀は秀吉存命時朝鮮で悪さしてるぐらいだから
このへんが最初に見限ったグループかな。
黒田、細川なんかは純粋な豊臣生え抜きじゃないから
豊臣への帰属意識は低かっただろうしね。
254人間七七四年:2013/10/18(金) 22:28:41.02 ID:45Lg+45H
細川はともかく黒田は織田家の直臣だったことは一度もなく
あくまで外様の小寺家のその家臣という陪臣扱いなわけで
小寺家の家臣→主家滅亡→播磨平定後、秀吉自身の領地から2万石割いて
朱印状を与えられて大名に取り立てらてたコース(信長は黒田の知行宛がい
についてはノータッチ)だから、信長から寄騎として秀吉に付けられた
蜂須賀や竹中よりよっぽど豊臣恩顧中の豊臣恩顧なわけなんだが
255人間七七四年:2013/10/19(土) 08:59:15.04 ID:Hd5tK14q
清正、黒田、蜂須賀は秀吉存命時朝鮮で悪さ

上記の具体的内容を書いてくれ。意味わからん。
256人間七七四年:2013/10/19(土) 11:37:54.19 ID:H/4Bm5me
細川は前田家と婚姻関係だったから豊臣派だったが、
家康暗殺疑惑の嫌疑で
浅野長政が追放、利長がマツを江戸へ送った辺りで、
家康が功もない細川へ加増して引き立ててくれたことで
完全に家康派に鞍替えした。
257人間七七四年:2013/10/19(土) 22:06:39.46 ID:3F+qgGHV
>>254
んじゃ一番タチが悪いのは黒田なんかね。
文禄期になると長政、家政は取次の職務から外されて代わりに
奉行衆がその地位に収まるんでそのへんが彼らの不満や
不安を増大させたんではないかな。

>>255
長政と家政は蔚山戦で秀吉の命令をひっくり返したり怠慢プレイしたんで
秀吉から譴責。清正は秀吉への報告に虚偽の内容を書いたり
報告そのものを怠ったりしとるね。こういう事があるから秀吉は目付を派遣して
監視しなきゃならんかったわけで、結局秀吉は一般に子飼いと
呼ばれる武将でも無条件の信頼はしてなかったし監視される側も
秀吉に絶対の忠誠を尽くすような脳天気ではなかったって事でしょ。
258人間七七四年:2013/10/21(月) 11:23:54.50 ID:tv/NB1CL
米沢没収された伊達と駒姫殺された最上は早々に豊臣なんて嫌!と実害あった方々
259人間七七四年:2013/10/21(月) 11:30:43.99 ID:BSlnGuwW
260人間七七四年:2013/10/21(月) 16:10:34.59 ID:a+X239rB
>>253
田中・堀尾クラスなら秀次が死んでもそんなにマイナスは無かったが、
二人より格下扱いだった山内に関してはマイナスが凄くでかいだろ。
秀次が秀吉後継者になるかどうかに山内家の将来がかかってたんだから。
あのまま豊臣にいたら土佐一国なんて夢のまた夢。むしろ秀吉死後は
果てしなく没落して民同然にすらなってた可能性も大いにある。
秀次切腹時に心は固まってたと考えるのが自然。
261人間七七四年:2013/10/21(月) 16:17:09.37 ID:BSlnGuwW
そりゃあ歴史を知っている人間はのちに山内家が土佐一国を貰ってるの知ってるからな。
山内なんて派手な武功もないし、あんだけ領地もらえただけでも満足だろ。
関が原の加増なんて棚からぼた餅で、
実力が反映された加増じゃないからな。
262人間七七四年:2013/10/21(月) 23:11:50.64 ID:Rh002OnS
>>257
政権が安定するにしたがって、取次の機能自体が外交だけでなく
他大名に高度な内政指南を行う重要な職に変化していったから
黒田・蜂須賀らが取次から外されたわけで
能力的に武断派には担当できないんだから仕方ないんだけね
263人間七七四年:2013/10/22(火) 22:16:56.63 ID:ij5SGPYi
>>260
秀吉からの権力移譲が順調に進んで後継者としての地位が堅固に
なれば秀次を直接支えるのは大老や奉行衆になるんでないのかね。
秀次が自前の家臣団を重用するという路線もありえるわけで
出向組にバラ色の未来が待ってるとも限らんのでは。
現実にはどちらにならなかったんでプラマイゼロぐらいではないかなぁ。

>>262
秀吉からすれば領主的実力がある連中に高次の政治機能まで
与えられねーわ、って事なんだろうけど朝鮮くんだりまできて
働いてる彼らからすればここまできてそれはないでしょ、って話だよな。
264人間七七四年:2013/10/23(水) 01:35:29.37 ID:Pnq+6vzc
>秀吉からすれば領主的実力がある連中に高次の政治機能まで
>与えられねーわ、って事なんだろうけど

領主的実力っていうのがイマイチわからないけど
石高的に豊臣政権の文治派と武断派って特に大差ないのでは?
外様と比べるとどっちも所領は小さいけどね
265人間七七四年:2013/10/23(水) 10:08:01.96 ID:jCU9TcFD
天下統一して平和になれば武断派の肩身が狭くなってくるのは
仕方ない事だけど秀吉はその武断派のなだめ方を間違えてしまった。
不満の捌け口に外征を選んだんだよね。
しかしそれが武断派と文治派の間に溝を作ってしまった。
266人間七七四年:2013/10/23(水) 10:46:06.77 ID:sGOpPt9G
征韓論を主張して拒絶されたら西南戦争の内乱。
結局、朝鮮進出するハメになるし
看羊録は大名たちが疲弊し内乱する気を起こさないようにするために朝鮮出兵したって言ってるし、
フロイスは秀吉が大名に金を使わせて貧乏にさせようとしたと書いてるし、
実際、秀吉の内政をみると、朝鮮出兵中の伊達の隙を窺って伊達領検地して土地や人口を把握したりして、
朝鮮出兵は必要なことだったはず
267人間七七四年:2013/10/23(水) 11:05:10.51 ID:e50WClIm
看羊録(笑
268人間七七四年:2013/10/23(水) 11:54:17.99 ID:xvq3bI9f
>>267
関が原の戦いへの研究において
2010年以後は看羊録を基本史料にするのは当たり前になってる。
水野伍貴氏
島津亮二氏
中井俊一郎氏などがそう。
逆に聞くが2010年以後で看羊録を否定している論者は誰がいるんだ?
269人間七七四年:2013/10/23(水) 14:04:35.42 ID:e50WClIm
朝鮮人捕虜の伝聞記録が基本資料??(笑
誰から得た情報かもわからない噂話が基本資料??(笑笑

ただの伝聞記録を否定するも何もない。
例えば、わざわざ小説を否定する識者が存在するか?
話は逆で、看羊録の記載事項のみをもって、史実認定している識者はいるのか?
270人間七七四年:2013/10/23(水) 22:41:44.94 ID:BWcrV3lR
>>264
いわゆる武断派といわれるグループの主力級は天正期には
すでに10万石級の大名になってるけど対する文治派の彼らが
大封を得るのは文禄期以降だから国持大名としての
軍政におけるノウハウの蓄積なんかでは武断派に
アドバンテージがあるのよ。こと軍事面では大きい差ががあるでしょ。
秀吉自身織田家の地方司令時代無断撤退をした前科があるんで
かつての子飼いでも国持大名として一程度自立してしまうと
制御は容易でないという事も頭にあったんではないかね。

>>265
武と文の分化は後の家康も行った事で方向としちゃ間違って
無いんだけど折り合いが上手く付く前に秀吉が死んじゃったんだよなぁ。
271人間七七四年:2013/10/23(水) 23:04:29.41 ID:om5gk5ZG
>>270
武断派にせよ文治派にせよ豊臣の古参・子飼の大名で国持ち大名は少数派では
国持ち大名=1国を一円支配は圧倒的に外様大名が多くて
むしろ恩顧の大名は半国ずつわけあってる方が大半では?
豊臣恩顧の国持ち大名って阿波一国貰った蜂須賀くらいじゃないの
272人間七七四年:2013/10/24(木) 00:17:53.02 ID:8qPe1YYn
宮部が因幡一国もらってないか?
273人間七七四年:2013/10/24(木) 00:34:37.03 ID:JfRkwgDp
それくらいしかいないよな
274人間七七四年:2013/10/24(木) 00:45:13.01 ID:JfRkwgDp
いや待て。宮部の知行って最終的に8万石程度だったはず
因幡一国が8万石って少な過ぎない?
275人間七七四年:2013/10/24(木) 07:13:48.52 ID:KD4plTww
>>271
蜂須賀が入封した当初の阿波は、「置塩領」と呼ばれる赤松家の所領も有ったので、
厳密に言えば、阿波一国が全部蜂須賀家に与えられた訳では無い。
276人間七七四年:2013/10/24(木) 07:22:44.89 ID:f93q6Pe3
一国10万石と半国15万石とでは前者の方が実力では上ってことか。
277人間七七四年:2013/10/24(木) 12:45:15.75 ID:KpXNd3ND
宮部は銀山経営やってたから
石高以上の力はあったはず
278人間七七四年:2013/10/24(木) 21:08:03.52 ID:K+MTUvlh
一国まるまる所領じゃなければそのほかみんなの一緒くたで
扱えとか随分豪気な話だな。
279人間七七四年:2013/10/24(木) 21:15:10.14 ID:/GSknnVZ
豊臣政権期は一国一円支配してる国持ち大名でも
中に蔵入り地があったり一部は他の大名領だったりする方が多いよ
それにしても四国平定の段階で大坂の喉元を扼する阿波を
ほぼ一国貰った蜂須賀は恩顧のなかでもかなり優遇されてると思うわ
280人間七七四年:2013/10/24(木) 22:31:35.46 ID:8qPe1YYn
>>274
因幡伯耆の鳥取池田藩が32万石
因幡よりも伯耆がずっと豊かだから因幡は10万石前後くらじゃないか
国人衆の反抗に但馬山名・因幡山名・武田の抗争
最後は尼子・秀吉軍の度重なる侵攻で
当時の因幡はかなり疲弊していたと思う
281人間七七四年:2013/10/25(金) 06:40:28.74 ID:BFFzYW8f
一国内に10万国と3万石の大名がいたらどっも国持ちじゃないから実力は同じという謎理論
282人間七七四年:2013/10/25(金) 07:14:53.48 ID:V6SArgd0
在地の一円支配なんて別に一国単位でなくとも成立するのに。全国を包摂する豊臣公儀が存在する時代なら尚の事。
283人間七七四年:2013/10/25(金) 12:08:58.48 ID:RCwXX50O
基本10万石以上は国主格で扱うんじゃねえの?
284人間七七四年:2013/10/25(金) 22:04:05.26 ID:znaOZYS6
豊臣を慕ってるほうが少ないだろw毛利しかいないじゃん
285人間七七四年:2013/10/26(土) 09:44:14.18 ID:4YN4z6Ky
宇喜多秀家「異議あり!」
286人間七七四年:2013/10/26(土) 10:47:52.60 ID:+VxEGkiZ
別に毛利も慕ってないだろ。
287人間七七四年:2013/10/26(土) 16:19:46.53 ID:lzDVMw46
大名領国というのは郡、荘、町、村、寺、関といった実体として機能していた単位の集合体であって、
それぞれに関わる役なり職なりをどのような形で把握できるかが大名権力の深化の度合いを規定するもであるから
物理的に一国全てを領有しているか否かは質的差異を問う場合決定的な要素ではないな。
288人間七七四年:2013/10/27(日) 09:59:55.82 ID:4fuylKYu
そういう領国支配の実態の話じゃなくて、単に「国持ち大名」って言葉は
「一国を与えられた大名」って意味で通常使われるってだけの話じゃないの?
半国しかないのに「国持ち」大名とはふつう言わないのよ
289人間七七四年:2013/10/27(日) 19:37:05.04 ID:bJ09dmRK
現実のパワーバランスについて語るのに実態の話はするなとか
290人間七七四年:2013/10/27(日) 22:22:39.99 ID:j6CZW0RO
>>288
基本、10万石以上は国主格ないしは準国主格だよ。
国持ちでも極端に石高とか低い国の大名は国主格じゃないし。
291人間七七四年:2013/10/28(月) 01:19:55.49 ID:Ot/hZy/3
対馬10万石の宗は国主じゃなくて島主って呼ばれるな
292人間七七四年:2013/10/28(月) 21:00:54.72 ID:AyR9mCmP
肥後を半国ずつ分け合った加藤清正や小西行長が国持ち大名や国主と
呼ばれたなんて聞いたことないが
293人間七七四年:2013/10/28(月) 21:54:22.98 ID:ae0a2hLz
武断派大名は腕っ節では自分らが上だって知ってるから奉行衆に
喧嘩を売れたし、家康もその腕を買って陣営に引き入れた。
豊臣から徳川へといってもノーリスクで鞍替えは出来ないわけだから
相応の勝算がなければ行動には踏み切らないよね。
武断派は個人的感情で動いたわけんでわなくて力関係をちゃんと見極めてるよ。
294人間七七四年:2013/10/29(火) 00:38:04.89 ID:7+DIi8Cv
家康が武断派を陣営に引き入れたんじゃなくて
武断派が家康を利用したと言った方が正しくないか
295人間七七四年:2013/10/29(火) 07:15:48.03 ID:lGxgAWz8
お互いメリットがあるから結びついたって事で一方的な話では無いかな。
家康だって利用価値が無い連中とはつるまないだろう。
296人間七七四年:2013/10/29(火) 12:08:33.67 ID:RbidnOpu
秀次事件以降の豊臣政権は秀吉の独裁(実質的には奉行が担当)を
外様の大大名が支える形で政権を運営するというシステムなわけで
唐入りで実際に武断派が外地に所領を切り取れなかった以上
現行の政権では武断派は傍流のまま先細り確実だから、所領拡大と政権内での
復権を目指して5大老中最大の勢力である家康とつるんで奉行派の追い落としを図る

ここまでは武断派のなかでも似たような状況だし、家康とも共通利害が一致してる
ただそのあと、豊臣政権の枠組そのものをどうするのかについては
かなり武断派のなかでも想定にバラツキが大きかったと思うけど
297人間七七四年:2013/10/29(火) 12:20:35.01 ID:P0YYZyVs
本多正信と本多忠勝の仲の悪さは異常
298人間七七四年:2013/10/29(火) 22:17:55.33 ID:CuNap6aq
>>296
武断派からすれば沈み掛けの船を捨てて家康親に
くっついていったほうがいいじゃん以上の考えは無かった思う。
家康が自分達を政権中枢の要職にしてくれようなタマ
じゃないことぐらいは知ってるだろうしね。領地やら地位がちゃんと
保証されればまずは良しなんで豊臣家が残ろうが潰れようが
現実問題どうでもいい話だったんじゃないの。政権としての実体は
ほぼ死んどるし決定権は家康にあるんだから彼らがどうこうする問題でもないべ。
299人間七七四年:2013/10/29(火) 22:47:49.26 ID:8sZ/Twa7
>>298
当時の大名にとってもう少し中央政権=「公儀」の概念って複雑であって
関ヶ原〜幕府開府後も、江戸と大坂のいわゆる二重公儀の時代が
続いたってのがむしろ日本史では定説ではないかと
それはなぜか。豊臣政権は織田政権と比べると、統一政権として
10年近くの歳月経てるわけで、実力的にも組織的にも政権としての正統性としても
格段に整ってる分「公儀」としての力が強いのよ
だから関ヶ原で徳川が勝っても、現行の豊臣政権が存在している以上
んで徳川自体がその豊臣の「公儀」の名を借りて勝った以上
現行の公儀=豊臣政権に代わる徳川政権に短期間にスムーズに移行できた
わけでは全然ないのよ
実際に関ヶ原後、中央政権担当者=公儀としてもっとも重要な所領の配分に
関わる朱印状を徳川の名で発給出来なかったのはそういう訳なんだし
逆に関ヶ原の戦勝で豊臣恩顧の武断派が大大名として西国をほぼ占める状態
になったのも、徳川からすればまったく望ましい結果ではなかった
秀忠が二代将軍に就任するまでは二重公儀が東西並立してる状態で
それまでは豊臣・徳川の政権の行方ってかなり流動的だった
300人間七七四年:2013/10/29(火) 23:59:48.99 ID:40UIKG/v
sa
301人間七七四年:2013/10/30(水) 22:15:15.59 ID:sQn5y3KU
>>299
知行宛行に関しては豊臣の名前で出されいても実際に影響力を
発揮するのは家康。大老奉行制は崩壊して秀吉の遺言も雲散霧消。
豊臣関白を頂点とした秩序体系も官位執奏権が
事実上家康の手に握られている状態では意味が無い。
(秀頼は豊臣政権を公儀たらしめていた重要な要素である関白に
就任していないどころか官位においては家康の下位であった。)
さらに軍事力経済力における優位も失った豊臣政権が
実体を伴った公儀政権として存在したとは思えない。
家康は豊臣公儀の一員としての立場を取りつつも徳川権力確立の
動きを誰にも咎められずに進めているわけだから
(流動的どころか力関係は固定化の方向一方だった。)
その過渡期に2つの公儀があったとしてもその質を同等あるいは
並列のものとして語るのは流石に無理がある。
武断派大名の何人かは関ケ原後も豊臣姓または羽柴姓を使用しているが
彼ら豊臣政権の維持強化の為に具体的に行動した痕跡はなく
その主従関係はあくまで形式的なものに留まっていた。
東西の公儀の関係もそれに近いものだったと思われる。
それから笠谷氏の二重公儀論は発表されて以降複数の史学者の
批判対象になっていて見直し論も強い。
302人間七七四年:2013/10/31(木) 12:23:18.15 ID:nVFlm2md
官位じゃなくて、武家官位でしょ。
しかも武家官位は家康と信雄が同格だったから
大坂城で反家康側は信雄を代表にしていたので、
家康は武家官位の上下の立場から独裁できない。
303人間七七四年:2013/10/31(木) 19:23:50.41 ID:DabeH8ME
武家官位と公家官位の2本だてになったのは江戸期だし官位が上だから独裁できたなんて話は誰もしてないと思うんだけども。
304人間七七四年:2013/10/31(木) 20:50:55.17 ID:8InPW02E
>>299
織田に比べたら豊臣政権の正統性と地力は比較にならないほど
強かったというのは同意
織田政権は中央政権ではあるにせよそもそも天下統一してないし
組織的にも制度がほとんど未整備のまま木端微塵に砕けたのとは
豊臣は本質的に違う

>>301
二重公儀論にはいろいろ批判点もあるけど、東西で同等の公儀が並立
したというのではなく、関ヶ原後も大坂以西には豊臣公儀の影響力が
相対的に残存したので徳川政権の安定まで時間がかなりかかった
というのは事実だと思うわ
関ヶ原後の西日本がかえって豊臣恩顧と外様一色になったのも大きい
305人間七七四年:2013/10/31(木) 20:55:30.00 ID:NiG3gLLp
>>304
関ヶ原の翌年には対馬の宗氏の書状に「秀頼はお情けで生かされてるだけ」って書状があるが
306人間七七四年:2013/10/31(木) 21:24:00.10 ID:8InPW02E
>>305
その書状が宗氏がどういう文脈で誰にどういう目的で書いたのか
それだけではまったくわからないので
正直ひとつの手紙にそう書かれてていたとしても、だから?としか・・・
307人間七七四年:2013/10/31(木) 21:31:41.69 ID:5yIqjSAy
宗は朝鮮とのパイプが生命線だからな
308人間七七四年:2013/10/31(木) 22:03:27.92 ID:xQbdHPQc
>>304
その「残存した」「影響力」を過剰に評価すべきでないってのが批判論の要点じゃんか。

現実の政治で豊臣が徳川に優越する場面が殆どなくて幕府権力への流れがどんどん
進んでる状況なら武断派大名は唯々諾々家康に従うだけだろ。
連中は奉行に対する攻撃の先兵を努めかつ家康と縁辺まで結んだんだよ。
今更豊臣への未練なんて無いだろうしあっても意味が無い。
まぁ心情的みはちょっと後ろめたいところはあったかもしれんけどな。
309人間七七四年:2013/10/31(木) 22:18:45.11 ID:kCf8WxZA
豊臣政権なんて関ヶ原直後からもはや形式的な意味しかない。

その「形式」をどう評価するかは高下あるだろうが、あくまで形式は形式だ。
310人間七七四年:2013/11/01(金) 09:53:45.49 ID:a64l2svl
1565年(永禄8年)の武家公卿 足利義輝(当年死去)、北畠具教、姉小路良頼。

天正14年
関白・太政大臣(内大臣から昇任) 豊臣秀吉
権大納言 織田信雄(正三位→従二位)
     足利義昭(従三位)
権中納言 徳川家康(参議から昇任)
     豊臣秀長(  同   )
参議   豊臣秀次
武家公卿は以上。公卿補任を見れば分かるよ。


武家關白家
羽柴本家:關白秀吉、關白秀次、右大臣秀頼
武家清華
織田(羽柴大野)家:内大臣信雄、宰相秀雄
羽柴武藏(江戸)家:内大臣家康、中納言秀忠
羽柴大和家:大納言秀長、中納言秀保
羽柴近江→尾張家:中納言秀次(→關白家へ)
羽柴加賀家:大納言利家、中納言利長
羽柴備前家:中納言秀家
羽柴越後→會津家:中納言景勝
羽柴安藝家:中納言輝元、宰相秀元(→廢嫡)
羽柴筑前家:中納言隆景、中納言秀秋

武家清華の可能性あり
羽柴會津家:宰相氏郷

秀吉が秀次に関白を譲る形を取ったのは関白職の世襲を内外に宣言するためでしかない。
秀頼には家臣に対して独自の官位叙任権を行使する権利を得ていた。
また信雄は家康と同格であり、秀頼の叔父として、旧織田家臣筋を中心に大坂城で絶大な力を持っていた。
慶長8年(1603年)
池田輝政が右近衛権少将「豊臣朝臣輝政」としての任官。
山内一豊が従四位下に叙せられ土佐守に任官「豊臣朝臣一豊」
加藤清正は肥後一国を一円領有し主計頭から肥後守に転任しているが「平朝臣清正」から「豊臣朝臣清正」に

豊臣氏は池田輝政の長男輝直(後の利隆)、加藤清正の次男清孝(忠正)、福島正則の次男忠清(後の忠勝)にも継続されていく。
摂関家の家格に沿った順調な位階や官職の昇進を遂げているが、
秀頼権力が失われていくのは慶長12年(1607年)1月11日、秀頼は右大臣を辞してからであろう。
311人間七七四年:2013/11/01(金) 12:55:34.39 ID:1Afh13O7
まぁ七武将の起こした襲撃事件も思いっ切り秀吉の遺言に違反してるしね。
まずは先制攻撃って事なんだろうけど半端な覚悟では出来ない事ではあるな。
312人間七七四年:2013/11/01(金) 22:03:09.49 ID:pjpBce4K
覚悟というか三成を殺そうと殺せまいと襲撃した時点で
5大老制が機能していれば七将は切腹・改易確実なわけで
利家が亡くなって、さらに家康が処罰しないという内諾がなければ
そもそも襲撃自体できないし、しない
313人間七七四年:2013/11/01(金) 23:45:19.28 ID:cpIQ9ZR2
>>310
信雄は1590年の改易時に内大臣の地位を失ってるし
輝政の豊臣姓下賜は1588年だし清正と一豊の叙任は家康への
将軍宣下に伴って行われた参内と同時なので推任は当然家康だし
利隆清孝忠清は単に父の姓を受け継いだだけで秀頼が関与した
形跡は無いしコピペだかなんだかしらないけどデタラメまみれじゃねーか。
314人間七七四年:2013/11/02(土) 02:00:14.38 ID:lBbbTk4S
単なるコピペだろ
何回か見た記憶があるわ
315人間七七四年:2013/11/02(土) 10:35:52.73 ID:Xg4EEtHn
>>313
お前も充分に馬鹿。
信雄は名を改め常真として出家したので前の内大臣という形になってるだけで
改易で地位が失うなんて話じゃない。本人の意思次第だからそもそも朝廷も解任なんてしてないし。
信長が右大臣を辞任しようが、前の右大臣としての権威をきっちり持ってるし
義昭も出家して准三后となってるし、秀吉も関白を引退しても太閤として地位を維持してる。
文禄4年右大臣今出川晴季が失脚しても慶長3年12月に晴季が右大臣に環任してたりしてるし。

輝政が1588年正月に得たのは従四位下侍従の地位だけであって、
1590年に初めて羽柴岐阜侍従という名前で秀吉から書状をもらってる。
(1000人を木曽から材木の切り出しに使うことを命じているので北条征伐の時と考えられている)
1591年の秀次からの書状でも羽柴三左衛門宛てだし、
1592年になると羽柴吉田侍従の名前であり、お前が主張した1588年には豊臣姓なんて、まだもらってねーよ。
つかお前が書いてる内容の方があきらかに恣意的なデタラメじゃんよw
316人間七七四年:2013/11/02(土) 19:45:52.17 ID:+EPvt9/g
>>315
散位になっても依然政権トップだった信長秀吉と返り咲きの大名信雄が
同列で比較可能だとあなたが思うなら止めはしませんが。
あと輝政は1588年の聚楽第行幸に岐阜侍従豊臣輝政として参列。
317人間七七四年:2013/11/02(土) 22:09:01.57 ID:q2MgrtcG
>>316
一次史料は?
318人間七七四年:2013/11/03(日) 04:44:01.49 ID:UZ/MKkws
ほとんど答えなのが書かれてるぞ。
まさか知らないわけ無いよね。
319人間七七四年:2013/11/03(日) 08:10:33.88 ID:ONF7OZkx
>>318
一次史料は?
320人間七七四年:2013/11/03(日) 09:26:29.40 ID:mSRtJMfU
>>319
ちょっと気になるのでお前1次資料の定義を言ってみ?
321人間七七四年:2013/11/03(日) 10:37:45.65 ID:vnmsCfOa
>>317
ヒント出しまくってるつーかほぼ名前出しちゃってるんだけど
大好きな君のために特別に大サービスヒントな

君の代の深きめくみを松のはのかはらぬ色にたたへてそみる

もうわかったよね!
君だったら当然知ってるアレだよ、アレ!!
322人間七七四年:2013/11/03(日) 11:14:16.03 ID:UEU9gzhW
>>312
家康の内諾がなくたって、処罰は問われない見込みがあったのだろう。
家康と三成の対立の構図ははっきりしていたのだ。利家と家康の地位
が拮抗していて、利家と三成寄りであった。
利家生存中に水面下で家康と三成の応酬があったはずだ。
323人間七七四年:2013/11/03(日) 11:56:22.15 ID:wVgUIAx+
大坂の淀と江戸の江の叔父にして
旧織田家臣の主筋である
前内大臣の信雄が豊臣政権を代表しているのだから
充分に比較対象足りえるだろ。
朝廷からして武家摂関家の豊臣を守ろうと動いていたんだし。
324人間七七四年:2013/11/04(月) 20:12:02.69 ID:938OE7Fb
「清正なるもの者の性質は、もともと邪(よこしま)で、はげしい。それで家康に三成を攻めるように勧め、それによって乱を起こそうとしたのである。家康と三成が恨みを解くに及ぶと、その禍心をたくましくすることができず、
憤ろしい言辞をあれこれとはきちらして、遂に家康に背き前田肥前守、備前中納言、中将政宗、長岡越中守、黒田甲斐守、浅野弾正父子らと同盟を結び共に家康を打ち滅ぼしその土地を分けようと約束した。」
325人間七七四年:2013/11/04(月) 20:24:39.71 ID:Zv7viMcI
はいはい、看羊録、看羊録(笑
姜は誰に聞いたの?
326人間七七四年:2013/11/04(月) 21:08:33.25 ID:938OE7Fb
「己亥年九月九日、家康が大坂で秀頼に拝謁した。肥前の一党が予めこのことを知り、道沿いに伏兵を忍ばせておいて、これを迎え討とうとした。土方勘兵衛なる者が自ら家康を刺そうと請うた。
三成はすでに清正らと仲違いをしており、また家康に媚びようという心積もりもあって、ひそかに書面で家康に知らせた。家康はこの事を浅野弾正に問い正したが弾正はきっぱりとこれを否認した。」
327人間七七四年:2013/11/04(月) 21:43:23.97 ID:938OE7Fb
家康は関東の諸将に武装兵を率いさせて肥前が上って来る路を守らせ、自分自身は大坂にいて不安と疑念を鎮めた。家康は自領に帰っている諸将を招集しその去就を問うた。
家康に付こうとする者は媚びへつらおうとし、家康に逆らう者は自ら明らかにしようとして、一時に道を進んで来た。ただ清正だけは命令を聞いても自領にそのまま留まり三ヶ月が過ぎてから上京してきた。
細川越中守は丹後の私城を修繕し「ここを守れば充分である。何をわざわざ内府の為を図る必要があろうか」と言った。
328人間七七四年:2013/11/05(火) 00:42:30.66 ID:EvnFXu4P
小説としか思えない記述だな。
まさかこれをそのまま史実扱いとか??
329人間七七四年:2013/11/05(火) 07:24:22.38 ID:9hz/9YVB
>>328
都合が悪いので絶対に認めないアンチ秀吉のいつものキチガイ君乙
330人間七七四年:2013/11/05(火) 11:11:18.71 ID:RvJAltH0
>>313
お前日本語不自由な鮮人?
任官した時点ですでに豊臣姓だったと書いてあるのに
まるで豊臣姓になったのが任官と同時みたいな曲解っぷりキモいぞw
331人間七七四年:2013/11/05(火) 12:04:01.60 ID:EvnFXu4P
>>329
何度でも言ってあげるよ(笑
看羊録は、
@朝鮮人捕虜が、A誰から、何処から入手したかもわからない
B伝聞記録

他の一次史料との整合性を以って、初めて史実認定可能。
看羊録単独の記載を史実認定している識者でもいるかい?
だって伝聞記録だもの(笑
332人間七七四年:2013/11/05(火) 13:07:38.82 ID:RvJAltH0
関が原の戦いへの研究において
2010年以後は看羊録を基本史料にするのは当たり前になってる。
水野伍貴氏
島津亮二氏
中井俊一郎氏などがそう。
逆に聞くが2010年以後で看羊録を否定している論者は誰がいるんだ?
333人間七七四年:2013/11/05(火) 15:57:27.21 ID:EvnFXu4P
だから、その3人がどう基本史料としたのか検証させてくれよ(笑
キミが確認した書籍なり論文を教えてもらえないかなぁ?

伝聞記録を否定するも何もない。
伝聞記録としての史料価値と史実は別の話。
334人間七七四年:2013/11/05(火) 18:17:02.87 ID:kVKpfcsc
真田信繁なんて、死後の売名しか考えていないから豊臣利用したよねw
335人間七七四年:2013/11/05(火) 22:13:13.69 ID:l0QaS4+z
「慶長の役から帰ってきた福原右馬助なる者が治部を通じて留まったまま進軍しなかったと諸将を悉く訴えた。阿波守、甲斐守、佐渡守、清正、主馬頭長政、竹中源介らがみな譴責された。賊魁は主馬頭や源介らの豊後六万石の領地を奪って右馬助への褒美とした。
清正らが皆帰還するに及ぶや賊魁は既に死んでしまっていたのでどうあっても右馬助を殺してしまうのだと身構えたのであった。治部らの一党もまた右馬助を援助したので党派がいよいよもって分裂した。」
336人間七七四年:2013/11/05(火) 22:25:05.62 ID:QLeEEs2u
前年の公卿補任に藤原姓で記載されていた秀吉が、天正15年分では豊臣姓に改める。
天正15年、秀長、秀次の血縁以外初めて豊臣姓の武家公卿が誕生している。
従四位下参議の豊臣(宇喜多)秀家だ。任参議と同時に従三位昇任。
続いて天正18年には豊臣(前田)利家が従四位下参議に任じられている。
337人間七七四年:2013/11/05(火) 22:28:14.57 ID:l0QaS4+z
「家康はまた秀吉の遺命を盾に秀頼の母を室にしようとした。秀頼の母は既に大野修理と通じて妊娠していたので拒絶して従わなかった。
家康はますます怒り修理を捕らえて関東に流し、さらに途中で死を与えた。」
338人間七七四年:2013/11/05(火) 23:44:00.96 ID:EvnFXu4P
看羊録の史実性の証明も、3名の著書(>>332)もあげられない、
ということでいいのかな??(笑
339人間七七四年:2013/11/06(水) 08:34:06.98 ID:LyXQB/uU
>>338
涙目で質問に質問で返して、回答から逃亡した挙句に勝利宣言ワロスwww腹痛ぇwww
まずは質問に回答セヨ!www
340人間七七四年:2013/11/06(水) 10:46:57.70 ID:IE5wfKRE
>>338
2010年以後で看羊録を否定している論者は誰がいるんだ?
341人間七七四年:2013/11/06(水) 12:31:17.52 ID:ZtSONa6k
>>339>>340
伝聞記録としての看羊録を否定している人間はいないよ。
噂話と個人的な推測を書き連ねたものを否定するも何もない。

それを史実化しようとするキミの頭がおかしいだけ(笑
繰り返すが、伝聞記録としての看羊録を否定する識者はいないよ。

次はこちらの質問に答えてね(笑
>>332
342人間七七四年:2013/11/06(水) 12:33:36.56 ID:ZtSONa6k

>>332
>>333
343人間七七四年:2013/11/06(水) 13:16:13.88 ID:IE5wfKRE
>>341
屁理屈たれて逃げんなよwwwwwww超ハゲwwww
344人間七七四年:2013/11/06(水) 13:57:13.79 ID:3pQ3nf0D
>>341
つまり看羊録を否定してる人は一切いない。
お前一人だけが都合が悪いからって理由だけで、
必死に否定して喚いてるだけということだねw
345人間七七四年:2013/11/06(水) 14:14:39.92 ID:ZtSONa6k
>>343>>344
いや、噂話をまとめた書としての看羊録は否定しないよ。
『看羊録に記載されてるから史実です』は誤りだと言ってるの(笑

事実、キミは3人の著書を絶対あげるつもりないだろ?(>>333)
検証されたら困るもんな(笑
346人間七七四年:2013/11/06(水) 16:40:47.47 ID:IE5wfKRE
>>345
「噂話をまとめた書としての」
わざわざ上記の文章をつけて看羊録を
評論している人自体がお前だけだろw

そんな文章つけて逃げようとすんなアホw
347人間七七四年:2013/11/06(水) 18:32:58.45 ID:ZtSONa6k
本当はそんなものをつける必要は全くないんだけど、
看羊録の定義付けも出来ないキミのためにワザワザ付けてあげてるんだよ(笑

で、>>333は?
キミが看羊録を史書と等しくする根拠だろ?(笑
348人間七七四年:2013/11/06(水) 21:53:58.48 ID:u7BZO8tE
>>330

しょうがないにゃあ

大ヒント:

池田源輝政初照政慶長八年二月二十二日左少将
輝政叙正四位下任左近衛権少将二十二日将軍ニ従テ上洛ス
349人間七七四年:2013/11/07(木) 23:03:41.11 ID:CsQx80uV
じゃあ第2ヒント:

慶長十六年三月二十五日羽柴三左右衛門様
350人間七七四年:2013/11/08(金) 20:36:28.35 ID:6h03yx49
やっぱり家康を天正12年にフルボッコした秀吉が死んだ後の豊臣家には求心力がなかったから見限られるのは止むを得ないけど、
別に家康が凄かったわけでも無い。
利家如きにビビってたくらいだしな。
つか家康が恐れた人物なんて逸話を拾うと30人はいるよなw
351人間七七四年:2013/11/08(金) 23:35:45.94 ID:TlSJxdel
所詮知恵袋で自作自演が関の山
352人間七七四年:2013/11/09(土) 08:51:33.92 ID:r+Ssiv08
160:人間七七四年 10/25(金) 09:37 MzqLsDh/ [sage]
アンチ秀吉大量コピペ厨基地外、日本史板で論破され逃亡

・日記の日付の下に書かれてある干支の意味を知らず、曲解を展開。
あまりの無知さを日本史板住民に飽きれられ、スレから落ちろと言われると、捏造コピペ大量貼り付けして逃亡。
・秀吉は家康に土下座して妹を人質に差し出してきたという捏造コピペをあちこちに貼り付け。
朝日姫が家康の人質だったという一次史料を出せと言われると、全部無視して逃亡。
・「家忠日記」で、家忠本人の行動には主語がついていないことを知らず、家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所を提示しろと言われると、何も言わずに逃亡。
・大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っているが、「大政所御帰候」がどうしても訳せず、
すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り、大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。
天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して
一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろ、と捏造。
大政所に家康は同行していないし、自由に京や大阪に住める人質がいるの、と問われると無視して逃亡。
天正14年11月12日以降も大政所が三河にいたという一次史料を上げろと言われると、それも一切無視して逃亡。

アンチ秀吉大量コピペ厨の特徴

基本的に自分の間違いは訂正しない。
常に上から目線で、相手をバカ、ハゲ、タコ、と罵倒しながら、自分の捏造コピペを大量に貼りつければ
相手が戦意喪失して自分の曲解が通ると信じている馬鹿。
史料読解は一切できず、どれだけ史料を提示されようが、自分の我流曲解以外は信じない重度の基地外。

秀吉や三成の悪口中傷して回るアンチ豊臣政権のきちがい在日チョンが
武田厨を装ってコピペ爆撃する自作自演にお気をつけください。
他人の過去レスを盗用し勝手にコピペ爆撃している中に
こっそり自分の作ったアンチ豊臣のレスを巧妙に混ぜているきちがいです。
武田関連の昔の他人のレスを大量にコピペして武田厨を陥れる工作をしつつ
自分が書いた輝元や家康を擁護レスで混ぜて秀吉を巧妙に貶めているコピペ厨。
日本史板・三戦板・歴史難民板・大河ドラマ板・歴史ゲーム板などで爆撃。
353人間七七四年:2013/11/09(土) 20:45:19.10 ID:Mc/4eOae
秀吉が圧倒し押しきった形で終わったからね。
家康信雄連合は、結局のところ秀吉から雀の涙の如き一寸の地でも奪って意地を見せることすら出来なかった程に一方的だった。
354人間七七四年:2013/11/10(日) 03:51:44.66 ID:mO7kMnm4
家康なんて元々大儀名分なんて0だから今更内府たがい条の効果とかないだろ。
無理矢理私婚を推し進めまくったり島津の領土問題に介入して豊臣蔵入り地を削ったり
奉行衆らの糾弾に対して軍事力で跳ね除けたりもうめちゃくちゃやってるからな。
家康が「天下殿」の風聞を得た後でさえ西軍に大量に兵が集まったのは、ひとえに
この勝手な振る舞いをけしからんと思った大名が多かったからだろうし

ようは前田や浅野にやったいちゃもんけしかけ→威圧屈服って事を上杉にもやろうとしたら
上杉はまともにやり返してきたんだろ。
あのタイミングで三成が挙兵しなきゃ家康の無茶苦茶なやり方で次々いちゃもんつけられて
前田や浅野やらみたいに次々降伏するだけの話だし
秀頼成人までまだ時間があるし既に天下人という世評を受け武功派連中により三成失脚、
家康は諸将の意向無視で勝手に婚姻同盟派閥形成するし島津への倉いり地問題やらで散々恩売ったりしてるし
355人間七七四年:2013/11/10(日) 03:55:49.00 ID:mO7kMnm4
>>353

○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太

また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに
家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
356人間七七四年:2013/11/10(日) 03:56:32.40 ID:jWbiG5bM
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな
357人間七七四年:2013/11/10(日) 03:57:34.86 ID:h7Ykh8HW
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから

尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定w
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないw
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは2人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるしそれ以外のやつもほとんど織田信雄分限帳で生きてるのがわかるのにwww
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね。なぜ今更付け城の話を????
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記・織田信雄分限帳など)
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)w→いやはやこれは笑うしかないw3月上旬に留守居兵ろくにいなく、陥落した犬山を4月ってw
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→2人を除いて生き残ってる

尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分w これが本当なら防衛どころじゃないw
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンwギャグがすぎるだろwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るw
9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しい?
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
9月時点での懇望を断ったのに11月では容認 明らかにデタラメ
358人間七七四年:2013/11/10(日) 03:59:32.34 ID:YCrXV9Bk
>>353
小牧長久手が秀吉圧勝とか馬鹿堀に毒されたアホがまた暴れてるな
135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
359人間七七四年:2013/11/10(日) 04:00:52.00 ID:jWbiG5bM
>>353
むしろそのくらいじゃないと説明つかないわな
何せこの後は8倍もの圧倒的兵力差がありながら秀吉はわずか16000程度の雑魚信雄に負けまくるからね
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
    →伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる

上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
360人間七七四年:2013/11/10(日) 04:01:43.14 ID:jWbiG5bM
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じる
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12秀吉→八重羽・富田・津田 木造の城がいまだ落ちず小島と相談して砦を4つ設けるよう指示
田丸・榊原・小島に申し付けるよう指示したので相談するように指示
4/12秀吉→榊原・小島・田丸 木造の砦は2箇所は小島、一箇所は田丸、一回書は榊原が申し付けるよう指示
各自相談し城中の者を一人も逃さないよう普請を堅固に申し付ける事を指示
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが敵に数多手負い死人が出た
4/23信雄→吉村 今尾口へ秀吉方兵力が出撃してきた旨を了承 吉村へ必ず加勢を申し付ける旨を伝える
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
信雄→吉村 秀吉が其の表(松ノ木)出兵してきたため信雄より加勢を使わす事を約束。伊勢方面の事を申し付けるため
本日(5/3)信雄が小牧より長島へ帰った事を伝える
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/5 信雄→吉村 松ノ木の加勢と防衛について詳細に命じる
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
361人間七七四年:2013/11/10(日) 04:04:15.32 ID:KQo/RYgu
小牧長久手合戦は、135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる)
VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。
神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
信雄は伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって
がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。
秀吉の戦略は一巻して家康打倒なので戦略目的は全く達成されてない
あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる
天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり)
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる。完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ。家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
362人間七七四年:2013/11/10(日) 04:05:37.52 ID:KQo/RYgu
秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして
圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々
これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ
織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした

つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから
家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと

顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない
アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人 4/10家康書状一万人 4/11家康書状一万人 4/13北条氏政・氏直書状1万人 5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人 5/7織田信純書状一万人 家忠日記1万五千余り 顕如日記1万人余り イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人 当代記2万人 池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる 3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ

京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
363人間七七四年:2013/11/10(日) 04:06:17.18 ID:mZn500x3
秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして
圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々
これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
>>いかに家康らが不利な状況だったかがわかる
>>必死な政略的宣伝工作かがわかる。
なら佐竹その他書状でデタラメハッタリ誇大喧伝まで書き入れまくってる秀吉はめちゃめちゃ不利な状況だったってことだな
顕如日記の数はただ秀吉が敗北をひたかくしにしたから
異常に少なく見積もられてるだけだろ
実際諸大名あてに大した事はないだのなんだのいいつくろってたしな
長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ
織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした
つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから
家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと
顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない
アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
>>実際、一万討死なんて非現実的過ぎるアホな数字だよな。いかに家康らが不利な状況だったかがわかる 必死な政略的宣伝工作かがわかる。
>>しかも不必要なまでにしつこく長期間にわたり吹聴して同盟諸将に繰り返し書き送って決起を呼びかけ秀吉の背後を襲うように言ってるからな。
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
>>当時の家康は長宗我部が秀吉の背後を突いてくれないと八方塞りで敗北必死だったから誇張宣伝を繰り返して長宗我部に決起を促していた。
>>しかし長宗我部は逆に秀吉の要請で毛利の侵攻が開始される始末。
>>そうなると家康は北条が援軍に来るなんて非現実的なことを言って
>>友軍の離反を繋ぎ止めてるが、もちろん秀吉は佐竹を使って北条を牽制してるし
>>新発田との争いを止めさせた上杉も参戦してきたから家康は完全に追い詰められてた。
圧倒的大軍がありながらわずか8分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
秀吉は佐竹や毛利にデタラメばかり書いて必死に友軍離反をつなぎとめる事に必死だったのが「わかる」
364人間七七四年:2013/11/10(日) 04:07:13.64 ID:YCrXV9Bk
>>潰そうと思いさえすれば徳川にしろ毛利にしろ簡単に潰すことは出来た
史実で上月防衛戦の熊見川で3000人戦死の大敗・徳川どころか織田家で最も無能な信雄相手に敵の8倍の135000の大軍で挑みかかって
1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北し
結局寝返りだらけで崩壊状態の信雄領国を尾張半国すら自力で切り取れなかったのに潰すことができたとか寝ぼけてんじゃねぇよボォケwwww
>>家康が北条のように上洛して臣従することを拒んでいたら間違いなく滅ぼされていただろう
史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない

享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる
そんな半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。
韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実
>>家康を倒すことが主目標ではない
お前は>>481-487のまともによめねー馬鹿だな
>> 家康は局地戦ではいくつか戦術的勝利をしたが、
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
>>その後秀吉軍に尾張の加賀野井城、奥城、竹ヶ鼻城を落とされても後詰めすら出来ない
なんで自軍の8倍もある135000の豊臣軍が、家康の地理不案内な、しかも木曽川挟んだ川に挟まれたデルタ地帯に不用意に飛び込んで
秀吉が佐竹や木曽などにあてて『必家康後巻可仕儀にて候間』 (毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛
と秀吉の思惑通り無謀に寡兵で飛び込まないと腰抜けになるんだタコw
秀吉の方が本陣の目前で蟹江前田下市場長久保などが攻められてるにもかかわらず雑魚信雄にビビリまくって味方を見捨ててよっぽど腰抜けだろうがクズw
>>その後、伊賀、伊勢は連戦連敗でほとんど占領されてしまい
お前は時系列を何もわかってねぇな。伊賀は2月〜3月初旬段階でさっさと抗戦することなく秀吉に降っているし
伊勢は三月の攻防のみ。 神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉

>>結局、信雄は伊賀と伊勢の半国を割譲して秀吉の主人という立場から臣下になり
割譲なんてしてねぇよクズw秀吉が端から棚ボタ的に留守居泥棒した所がそのまま秀吉方占領地として残っただけだろうがタコ
>>その後の家康の臣従は、信長ばりに妹を家康にくれてやったのになかなか上洛して臣従しようとしないので
>>家康を滅ぼすため、上杉や前田等の諸大名に出陣の準備を命じたら
時系列の誤り乙。家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる)
365人間七七四年:2013/11/10(日) 04:07:53.49 ID:h7Ykh8HW
84年一杯を対信雄&家康に使って伊勢口や美濃の押さえ合わせて計135000ほどの圧倒的大軍引き連れて
砦間の戦闘や城の取り合いや信濃の木曽、上杉ら周辺大名への働きかけもガチガチにあったのに
滅ぼす気がないとかアホ。3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明
陣立書や書状から上記のように秀吉側は主要メンバーほとんど引きつれて短期決戦構想で合戦やってる
松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる
伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。堀と長谷川は中入り組。(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)
3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。丹羽長重も派遣されてる。信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる。北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、
八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄もそれに合わせ多く兵残してる。
秀吉方は秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、
稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島。長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、
生駒吉一、矢部、山内。彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる。上記のように一次資料類から秀吉側は領国中主力武将ほとんどかき集めている。当代記や三河物語などでも楽田周辺の秀吉軍だけで
10万かそれ以上としている。
366人間七七四年:2013/11/10(日) 04:08:38.28 ID:mZn500x3
基本的に朝廷は京を制圧している大名と積極的に関係を築こうとするからね
近世成立記の大規模戦争86ページ 信雄は、この時期にも天皇・公家衆と積極的な関係を構築していない
これは信雄自らが京都を制圧しておらず、安堵などを通じて公家衆に対する主従的な関係を構築していないからである
公家衆や門蹟衆としても京都の支配者は秀吉であり、公家社会の擁護者である秀吉との関係が重視された。
83ページ 公家社会の政治的構造は、基本的に京都を制圧する政権やその有力武将との良好な関係の構築を試みるが、対立する武家勢力にも様々な人脈に基づき
関係を構築しうる二重性を備えていた
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれており
その他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦の痛手はひどかったんだろうね
何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだからな
>>秀吉にガンガン侵食されていくばかりで
尾張の木曽川筋をチョコっと攻め取っただけでガンガンとか言われても
>>ちなみに8月には筒井勢が駒野を攻撃していたようだが、11/5には高木貞利の居城だった東駒野城も陥落してる。
取り詰めに攻め落としたなんて意味はない。乗っ取り、落居などという時が攻め落とした時の言葉。ちなみにこの書状を東駒野「城」が落ちたなんて妄想解釈してる馬鹿はお前だけで
東大史料編纂所HPや史料編纂やら愛知県史資料編網文やら小牧長久手の戦いの構造時系列データベースでも城が落ちたなんて解釈していない。11/10にはちゃんと吉村が長久保を落として忠義を示してるのに。
>>しかし高木貞利の敗北と福田の降伏という流れは
高木は敗北なんてしてないし福田は降伏ではなく寝返り
>>この地域での秀吉の優勢をはっきり示すもので、
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない。3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの
報に接し兵糧等の支給を約束3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛。美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった
犬山城に襲撃を食らう。伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
367人間七七四年:2013/11/10(日) 04:09:11.80 ID:h7Ykh8HW
>>策の無い清洲で震えていた家康は彼らを支えることに失敗し、
震えていたなんて史料は存在しない
>>士気が崩壊した信雄軍という状況は
元々寝返りばかりで領国なんて困窮状態だがそんな信雄も自力では攻略できずヘタレ信雄の降伏に助けられただけなのが秀吉
>>秀吉の戦略通りに事態は遂行されていった結果だといえる。
秀吉の戦略は一貫して三河方面の攻撃と家康討伐なので戦略でいえば大敗といえる
批判も糞もない。徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
>>策の無い清洲で震えていた家康は彼らを支えることに失敗し、
震えていたなんて史料は存在しない
>>士気が崩壊した信雄軍という状況は
元々寝返りばかりで領国なんて困窮状態だがそんな信雄も自力では攻略できずヘタレ信雄の降伏に助けられただけなのが秀吉
>>秀吉の戦略通りに事態は遂行されていった結果だといえる。
秀吉の戦略は一貫して三河方面の攻撃と家康討伐なので戦略でいえば大敗といえる
批判も糞もない。徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
368人間七七四年:2013/11/10(日) 04:10:55.27 ID:jWbiG5bM
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で
抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく11/13秀吉→伊木、
池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている。そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっているこの時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
369人間七七四年:2013/11/10(日) 04:18:26.75 ID:mO7kMnm4
家康はおろか織田家で最も無能な信雄相手に135000で挑みかかって1万人ぶち殺され
戸木城・松ノ木城・河波城・東駒野城・二重掘砦では散々敗戦し
浜田城・長久保城・蟹江城・前田城・下市場城は秀吉方陣地のほど近くなのに見事に奪回されるアホっぷり。
雑魚すぎて涙が出てくるわw
結局会戦早々から三重臣、池田・森、尾張毛利氏はじめ離反の嵐だった信雄方に対して1年つかって自力では尾張半国すら切り取れないとかw
370人間七七四年:2013/11/10(日) 04:19:54.78 ID:zxVjuC7C
実際秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
371人間七七四年:2013/11/10(日) 10:15:56.98 ID:mZn500x3
7/10信雄→吉村 浜田城築城を申し付ける。出来次第長島へ帰城する旨を伝える
7/10信雄→吉村 尾張から伊勢まで南下して放火した
7/12家康→木造 戸木城への兵糧搬入が困難である。戸木城を堅固に守るよう指示
7/14秀吉→津田 浜田之古城を信雄方が攻略した旨を了承。信雄方にとって菅生砦へのつなぎの城になるだろう
との考えを示す。明日美濃へ行くので神戸城で大方申し付けたならば、神戸城の一柳・小野木は美濃の秀吉陣所
へ来るよう指示
7/15家忠日記 秀吉方兵力が物見に出てきて家康方と交戦した
7/17伊勢から帰った家康が在陣する清洲へ出仕。軍勢半分を返す
7/18信雄→吉村 秀吉が曽根に到着し松ノ木の吉村に調略を仕掛けてきた知らせを聞いた
7/28秀吉→小島・蒲生 戸木城からの講和に関して指示する
8/12秀吉→長浜町人中 鍬などを取り寄せ犬山に届けるよう指示
8/14信雄→吉村 近いうちに秀吉が出陣してくるようなので諸事油断せず松ノ木の普請と昼夜の番等を堅固に申し付けるべき事を指示
8/18秀吉→上杉・須田 明日19日に秀吉が木曽川を超え小牧まで出兵し付け城を申しつけ家康が逃れられないようにする、三河へ出兵すると報じる
8/19信雄→高木 駒野城への加勢について空明と太田の両名に申し付けたのでよく相談して落ち度がないように
8/25秀吉→長浜町人鍛治中 鍬をつくり完成させ、普請に利用する
8/26加藤→長浜鍛治中 鍬について10駄分命じられたので朱印状を持参した旨を伝える
9/1家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/5家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/7家忠日記 秀吉との講和交渉決裂のため重吉へ惣人数を移す
9/9秀吉→あて先不明 尾張で秀吉方が放火し要害を数箇所申し付けた
9/16秀吉→前田 尾張国内で下奈良・宮後・河田へ砦3箇所堅固に申しつけ
過半が完成したので2.3日中に兵糧玉薬及び4千〜5千くらいの人数を入れる
9/19家康→滝川 戸木城が苦戦していると家康へ注進があり、いまだ本城を堅固に守備しているならば
家康が急ぎ出陣する予定なので戸木城の様子をよく聞き届け再度滝川雄利からたまわりたい旨を伝える
9/23信雄→保田 秀吉より講和に関して懇望があったが拒絶した旨を報じる
10/27秀吉→上部 虎落に用いる竹を調達する
11/10 信雄・家康→吉村 長久保攻略を賞する
372人間七七四年:2013/11/10(日) 10:16:56.97 ID:YCrXV9Bk
●二重掘合戦 細川家記
3月27日秀吉一に25日、秀吉公犬山に入り、楽田・羽黒辺まて諸大将衆はかり召し連れられ、
仕寄の下知など仰せ付けられ先つ小牧山に対し向城を高く構え、堀を二重に深くほり、柵を堅く結び
井楼を上させられる、是を二重掘の要害といい、この外岩崎山・小松寺山・青塚内窪山等の付城勢を
分ヶ守らせらる…(省略)
秀吉公二重掘に附城三ヶ所仰せ付けられ、忠興君を初大将数多くして守らせられ、
小松山寺を本陣とし、用心厳しくして合戦を持て数日対陣有り、二重掘には細川与一朗・蒲生忠三朗
堀久太郎…(省略)
五月遡日、信雄小牧山より見て一あてせんと有しを、家康公御無用とおおせられ、ぜひにと有りて御立候間、
家康公御家人を召され、尾張勢定立らるへし、もり返す用心せよと仰せられ候、信雄の勢は木村・長谷川等の手に食い付き、
芝手の中まてかけこみ、両手の軍士散々に敗走いたし候、忠興君御手廻討に走出られ、芝手の上に御揚り御下知、…(略)
長久手にて3大将討ち死に、秀次利を失われ、二重掘にても既に味方追崩され、秀吉公御気色悪かりしに、忠興君御手にて敵を
追い返し、勢ひつくのみならず、…
徳川家の軍勢小牧山より打ち出て二重掘の前に一戦せんと備ふ、秀吉公下知には敵馬を入れ来らは成へき程折敷て防くこと、…
二重掘の神子田半左え門一戦にも及ばず敗走す、寄手是を追討…神子田、太閤の御勘気を蒙ると云々…
二重掘の軍勢周章して伍を乱す、信雄兵其の気に乗じて攻撃多く首級を得たり、
373人間七七四年:2013/11/10(日) 10:17:28.91 ID:h7Ykh8HW
>>つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
家康相手に大敗して1万人も大損害だしたから怖くて近づけなかっただけ
大垣から蟹江なんてすぐだからな。いこうと思えばいつでもいけた
二重堀合戦が史実な証拠として神子田が改易され、信雄から感状もでてる
愛知県史資料編867〜869で滝川が蟹江から退去した事で秀吉は出陣日を改める事を伝えてるんだろうが
蟹江が何も意味ないなら出陣日改める必要なし。蟹江を落とせれば清洲と長島の分断&北だけでなく西からも長島を包囲可能
蟹江は秀吉がいた大垣から眼前の距離 谷口氏の論文や愛知県史資料編が位置づけているとおり蟹江合戦が秀吉の三河侵攻計画や
領国分断作戦の一貫の証明。大体滝川はただ協力してるだけじゃねえだろうが
前年に秀吉に降ってれっきとした家臣だろうが 独断で行動してたとするならそれこそ証明が必要
>>秀吉の戦略は下記であり、滝川の行動は秀吉の戦略外だ。
>>6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
>>秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが

この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら 討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
374人間七七四年:2013/11/10(日) 12:12:20.52 ID:MRWlr2cN
>>191
連戦連敗だったからこそ、信長は光秀に殺されて織田家は滅ぼされたんだろ。
スタートでいえばチート級に有利だし畿内からも程近く上洛しやすい上に
畿内には有力者が悉く死んで衰退期に入った雑魚しかいなくて、圧倒的大国を築ける環境があるにもかかわらず
織田家は嫡流が野垂れ死にして実質滅亡。
これは単に信長が戦下手だったからというだけだろ。単純な話だ。
375人間七七四年:2013/11/10(日) 13:39:33.30 ID:P+YTiyeI
まーたIDをくるくる変えるアンチ秀吉の基地外織田チョンが暴れてるのか…日本史板で即死してろよ。
376人間七七四年:2013/11/11(月) 10:43:36.95 ID:wfX92VZl
3/25 大久保→皆川 3/17に濃州口との境目である羽黒において池田・森の守る出構を撃破した事を報じる
4/20 秀吉→上部 秀吉が在陣する尾張方面では、普請など堅固に申し付けている旨を報ずる
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
6/2信雄→吉村 松ノ木への玉薬を送付
6/7秀吉→前田 尾張河波を敵城を全て攻略する意思である旨を報じる
6/12信雄→寺西・橋本・吉村 敵(秀吉方)が松ノ木近辺に陣取った旨を了承
6/13信雄→橋本・寺西・吉村 秀吉方を撃退した旨を了承 其の城について油断なく注意するよう指示
6/13家康→信雄 昨晩秀吉方が松ノ木へ攻撃してきたが撃退した旨の注進に対して賞する
6/16信雄→橋本寺西吉村 秀吉方の様子に関する報告について了承 松ノ木についていろいろな点で注意するよう指示
6/20信雄→吉村 今尾へ秀吉方兵力が少々出てきたため松ノ木への加勢を要請を承諾しやがて遣わす事を報じる
6/20家忠日記 秀吉方楽田に向かい放火する
6/28家忠日記 楽田へ小牧衆(小牧城に在陣している家康方兵力)が物見に出かけ秀吉方と交戦した
7/7秀吉→小野木・大塩・津田・富田 神戸城の守備について滝川益重を派遣する事を報ずる
7/7秀吉→一柳 蟹江落城により、蟹江に対する秀吉方拠点として神戸城に秀吉から軍勢を派遣することを報ずる
7/7蜂須賀→南条元続 秀吉方諸将は尾濃境目の城に在陣している。数日中に秀吉が伊勢へ出兵する旨を伝える
7/9秀吉→分部 神戸方面へ敵(信雄方兵力)が出兵してきた旨を了承
安濃津・上野城に敵が出兵してきたら秀吉が出兵して討ち果たす事を伝える
377人間七七四年:2013/11/11(月) 10:44:10.49 ID:wfX92VZl
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
んで結局1年一杯使っても上記の城は攻略ならず。寝返りだらけでガタガタだった信雄領国を
8倍もの圧倒的大軍で攻め込んで結局尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
378人間七七四年:2013/11/11(月) 22:57:02.30 ID:taCY+X1X
84年一杯を対信雄&家康に使って伊勢口や美濃の押さえ合わせて計135000ほどの圧倒的大軍引き連れて
砦間の戦闘や城の取り合いや信濃の木曽、上杉ら周辺大名への働きかけもガチガチにあったのに
滅ぼす気がないとかアホ。3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明
陣立書や書状から上記のように秀吉側は主要メンバーほとんど引きつれて短期決戦構想で合戦やってる
松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる
伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。堀と長谷川は中入り組。(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)
3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。丹羽長重も派遣されてる。信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる。北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、
八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄もそれに合わせ多く兵残してる。
秀吉方は秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、
稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島。長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、
生駒吉一、矢部、山内。彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる。上記のように一次資料類から秀吉側は領国中主力武将ほとんどかき集めている。当代記や三河物語などでも楽田周辺の秀吉軍だけで
10万かそれ以上としている。
379人間七七四年:2013/11/24(日) 20:57:31.49 ID:oJQcDN3U
>>315
輝政は天正16年の聚楽第行幸に豊臣輝政として秀吉に供しているから
豊臣姓はその時点でもらってる。慶長8年の左近衛少将の任官については
一次史料がないので豊臣姓なのか池田氏本姓の源姓なのかは不明。
ただし続武家補任では源姓。息子の照直は慶長10年に豊臣姓で
任官しているがだからといって輝政が豊臣姓のままであったは別であるし、
また自分が知るかぎりでは豊臣姓の使用も確認出来なかった。
続武家補任や江戸時代の家譜類の記述を信用するなら輝政の左近衛少将任官は
家康の将軍任官と同時でかつ家康と輝政の繋がりを考えると
執奏したのは家康でほぼ間違いないと見ていい。
いずれにしても豊臣姓だから秀頼執奏という話にはならない。
関が原以降秀頼執奏による任官はごく数例に限られていて
秀吉時代の恩顧系あるいは外様系大名への執奏はほとんど無い。
逆に家康(幕府)の執奏権は年々拡大されている。
380人間七七四年:2013/11/25(月) 13:36:54.59 ID:jja7QeOi
家康は圧倒的に不利になると願望妄想の架空援軍話をでっち上げて虚勢を張る。
北条と戦った時は追い込まれた挙句に、
もうすぐ秀吉や勝家らの援軍が来ると言い出し、
秀吉と戦った時は切羽詰まり、
長曾我部相手に北条の援軍が来ると大ウソを吐いた。
381人間七七四年:2013/11/25(月) 13:45:50.90 ID:RhD4xV/8
実際秀吉が優勢だったのは伊勢で神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めた三月の攻防だけだしな
不意打ち的に尾張上陸ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
>>秀吉の圧倒的優勢化で、家康や信雄は引き篭もってひたすら佐竹に牽制されてる北条が援軍出すとかデタラメを吐き続けて
家康や信雄が引きこもってるとか秀吉書状のデタラメハッタリ誇大喧伝だな。史実では家康は小牧山→清洲→蟹江合戦などでまくってるし
信雄も小牧山→清洲→長島など動いてるし逆に引きこもってたとしたらその周辺の城郭(浜田松ノ木戸木蟹江二重堀長久保東駒野など)全く落とせず撃退されてる秀吉は雑魚にも程がある
>>毛利と宇喜多を無視して長宗我部が秀吉の背後を襲うように依頼を続けると言う現実逃避っぷりの情けなさで、
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度兵力で柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
>>戦略的に戦況が好転するなんて展望は一切見出せないまま
135000の大軍相手にわずか1万7千そこそこで優勢になるわけねーだろボケw
>>秀吉に呼応する上杉の南下と秀吉得意の調略で家康方だった信濃諸将の離反と
圧倒的大軍がありながら他勢力頼みなのが秀吉。自力では規格外の大軍がありながら雑魚国力の信雄・家康相手に勝てないのがわかる
>>無理な動員で荒廃しまくった三河と言う
徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
382人間七七四年:2013/11/25(月) 13:46:46.81 ID:MSsMo/o/
秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてるが大嘘で信雄のヘタレ降伏による秀吉のウルトラスーパーラッキーパンチでの停戦(秀吉の勝利でもなんでもない)
まで2か月も経ってるな。大体戦利まじかなんて春頃からしょっちゅう秀吉の他大名宛の基地外歪曲誇大喧伝で使われるフレーズで秀吉方の実情を示したものからは程遠い。
しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで何の根拠にもならない。戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意の
ハッタリで茶会も同様に苦戦を覆い隠すため苦戦や敗戦を歪曲して 何もなかったように振舞っているだけのパフォーマンス
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ

3月26日⇒佐竹 尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ

4月8日秀吉⇒毛利輝元 伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
 
日付不明 秀吉⇒大御ちさま 加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww

5月9日 秀吉→毛利輝元 小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)  周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね

加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)

6月4日 秀吉→佐竹義重
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww
383人間七七四年:2013/11/25(月) 13:47:58.72 ID:MSsMo/o/
9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいんですかね で、11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認?????? 明らかにデタラメ
>>信雄も家康も手も足も出ないほど追い詰められていた事実は動かない
当初去就が不明だった池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け 二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出なかったのが秀吉
384人間七七四年:2013/11/25(月) 13:48:43.79 ID:RhD4xV/8
秀吉・織田徳川方史料で各城郭攻防が激しく行われているのがわかる
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じる
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12秀吉→八重羽・富田・津田 木造の城がいまだ落ちず小島と相談して砦を4つ設けるよう指示
田丸・榊原・小島に申し付けるよう指示したので相談するように指示
4/12秀吉→榊原・小島・田丸 木造の砦は2箇所は小島、一箇所は田丸、一回書は榊原が申し付けるよう指示
各自相談し城中の者を一人も逃さないよう普請を堅固に申し付ける事を指示
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが敵に数多手負い死人が出た
4/23信雄→吉村 今尾口へ秀吉方兵力が出撃してきた旨を了承 吉村へ必ず加勢を申し付ける旨を伝える
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
信雄→吉村 秀吉が其の表(松ノ木)出兵してきたため信雄より加勢を使わす事を約束。伊勢方面の事を申し付けるため
本日(5/3)信雄が小牧より長島へ帰った事を伝える
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/5 信雄→吉村 松ノ木の加勢と防衛について詳細に命じる
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
385人間七七四年:2013/11/25(月) 13:51:27.04 ID:RhD4xV/8
3/25 大久保→皆川 3/17に濃州口との境目である羽黒において池田・森の守る出構を撃破した事を報じる
4/20 秀吉→上部 秀吉が在陣する尾張方面では、普請など堅固に申し付けている旨を報ずる
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
6/2信雄→吉村 松ノ木への玉薬を送付
6/7秀吉→前田 尾張河波を敵城を全て攻略する意思である旨を報じる
6/12信雄→寺西・橋本・吉村 敵(秀吉方)が松ノ木近辺に陣取った旨を了承
6/13信雄→橋本・寺西・吉村 秀吉方を撃退した旨を了承 其の城について油断なく注意するよう指示
6/13家康→信雄 昨晩秀吉方が松ノ木へ攻撃してきたが撃退した旨の注進に対して賞する
6/16信雄→橋本寺西吉村 秀吉方の様子に関する報告について了承 松ノ木についていろいろな点で注意するよう指示
6/20信雄→吉村 今尾へ秀吉方兵力が少々出てきたため松ノ木への加勢を要請を承諾しやがて遣わす事を報じる
6/20家忠日記 秀吉方楽田に向かい放火する
6/28家忠日記 楽田へ小牧衆(小牧城に在陣している家康方兵力)が物見に出かけ秀吉方と交戦した
7/7秀吉→小野木・大塩・津田・富田 神戸城の守備について滝川益重を派遣する事を報ずる
7/7秀吉→一柳 蟹江落城により、蟹江に対する秀吉方拠点として神戸城に秀吉から軍勢を派遣することを報ずる
7/7蜂須賀→南条元続 秀吉方諸将は尾濃境目の城に在陣している。数日中に秀吉が伊勢へ出兵する旨を伝える
7/9秀吉→分部 神戸方面へ敵(信雄方兵力)が出兵してきた旨を了承
安濃津・上野城に敵が出兵してきたら秀吉が出兵して討ち果たす事を伝える
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
んで結局1年一杯使っても上記の城は攻略ならず。寝返りだらけでガタガタだった信雄領国を
8倍もの圧倒的大軍で攻め込んで結局尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
386人間七七四年:2013/11/25(月) 13:52:33.43 ID:RhD4xV/8
7/10信雄→吉村 浜田城築城を申し付ける。出来次第長島へ帰城する旨を伝える
7/10信雄→吉村 尾張から伊勢まで南下して放火した
7/12家康→木造 戸木城への兵糧搬入が困難である。戸木城を堅固に守るよう指示
7/14秀吉→津田 浜田之古城を信雄方が攻略した旨を了承。信雄方にとって菅生砦へのつなぎの城になるだろう
との考えを示す。明日美濃へ行くので神戸城で大方申し付けたならば、神戸城の一柳・小野木は美濃の秀吉陣所
へ来るよう指示
7/15家忠日記 秀吉方兵力が物見に出てきて家康方と交戦した
7/17伊勢から帰った家康が在陣する清洲へ出仕。軍勢半分を返す
7/18信雄→吉村 秀吉が曽根に到着し松ノ木の吉村に調略を仕掛けてきた知らせを聞いた
7/28秀吉→小島・蒲生 戸木城からの講和に関して指示する
8/12秀吉→長浜町人中 鍬などを取り寄せ犬山に届けるよう指示
8/14信雄→吉村 近いうちに秀吉が出陣してくるようなので諸事油断せず松ノ木の普請と昼夜の番等を堅固に申し付けるべき事を指示
8/18秀吉→上杉・須田 明日19日に秀吉が木曽川を超え小牧まで出兵し付け城を申しつけ家康が逃れられないようにする、三河へ出兵すると報じる
8/19信雄→高木 駒野城への加勢について空明と太田の両名に申し付けたのでよく相談して落ち度がないように
8/25秀吉→長浜町人鍛治中 鍬をつくり完成させ、普請に利用する
8/26加藤→長浜鍛治中 鍬について10駄分命じられたので朱印状を持参した旨を伝える
9/1家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/5家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/7家忠日記 秀吉との講和交渉決裂のため重吉へ惣人数を移す
9/9秀吉→あて先不明 尾張で秀吉方が放火し要害を数箇所申し付けた
9/16秀吉→前田 尾張国内で下奈良・宮後・河田へ砦3箇所堅固に申しつけ
過半が完成したので2.3日中に兵糧玉薬及び4千〜5千くらいの人数を入れる
9/19家康→滝川 戸木城が苦戦していると家康へ注進があり、いまだ本城を堅固に守備しているならば
家康が急ぎ出陣する予定なので戸木城の様子をよく聞き届け再度滝川雄利からたまわりたい旨を伝える
9/23信雄→保田 秀吉より講和に関して懇望があったが拒絶した旨を報じる
10/27秀吉→上部 虎落に用いる竹を調達する
11/10 信雄・家康→吉村 長久保攻略を賞する
387人間七七四年:2013/11/25(月) 21:37:15.07 ID:Qe2ZkNVN
都合の悪い事を書かれると違う話のコピペを連発して誤魔化そうとするいつもの流れか。

ま、実際は全然ごまかせてないけど。

一度書き込んだ事は取り返しつかないのにね。

>>310

>>313

>>315

>>316

>>330

>>348
388人間七七四年:2013/11/25(月) 21:41:04.98 ID:Qe2ZkNVN
あ、書き忘れてたけど公卿補任じゃ信雄は
天正18年の改易以降散位ですらないな。
389人間七七四年:2013/11/25(月) 22:00:57.42 ID:MSsMo/o/
三成ばかりが罵倒されるが、三成は単に政権運営に必死になってただけだろう。
やってる事も外様の禄高削減や、蔵入り地の増大や家康の専横への弾劾状など
豊臣政権が正常に運営するために必要な事ばかりしかやってない。
豊臣崩壊の真の元凶は家康に篭絡されたアホ武功派と
総大将に奉り上げられながら何もできず戦力を分散しまくり大敗した馬鹿輝元と
家康の示威行動にビビッて即効土下座したヘタレ浅野・前田だよな。
390人間七七四年:2013/11/26(火) 00:37:21.46 ID:MCsXtye2
豊臣政権の正常な運営とは、徳川主導による運営に他ならない。
毛利・上杉等強大な大名が複数乱立するより余程安定的。
秀吉亡き後、豊臣家自体にこれらの外様大名を制御する力はないのだから。
391人間七七四年:2013/11/26(火) 07:18:36.25 ID:fnQviUr0
そもそも政権首班は家康なんだから、政権運営をしたいなら家康に協力するのが筋。

三成は既得権にしがみついてただけなんだよなあ
392人間七七四年:2013/11/26(火) 08:55:05.59 ID:SJTjs5Ls
秀吉は合議制にして、特定大名の暴走を牽制できるようにしてるし、
それは歴史上、幼君を傀儡として専横する奸臣が現れることを危惧したから。
秀吉は利家らには実力、人望で全く勝てない家康は卑屈に振舞っていたが、
彼らが死ぬや豹変増長し、
威嚇脅迫を以って望み幼君の諸権力を盗み奪い、ついには殺し
女子供を含む大坂20万人を虐殺し、大坂を更地にするほど徹底的に痕跡を消し、屈辱を思い出せないように破壊に偏執した。
醜く汚ない老人家康は屈辱が忘れられず秀吉の墓を暴き神号を奪うなど暴虐無道な行いをし、
朝廷すら脅迫し好き勝手したキチガイ奸臣。
393人間七七四年:2013/11/26(火) 08:57:45.20 ID:fnQviUr0
>>392
合議制になったのは秀吉の死後、五大老五奉行誓紙からだぞ
秀吉は家康独裁を容認していた
秀吉の遺命を破ったのは、三成を始めとした既得権益派
394人間七七四年:2013/11/26(火) 09:49:28.34 ID:CDuImz44
>>秀吉は利家らには実力、人望で全く勝てない家康は卑屈に振舞っていた
また秀吉厨が妄想をデッチあげてるな
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。

戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
395人間七七四年:2013/11/26(火) 09:50:28.24 ID:P4to4TND
信雄家康は秀吉に圧勝したじゃん。135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
396人間七七四年:2013/11/26(火) 09:51:50.95 ID:fKb0+Vz7
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
397人間七七四年:2013/11/26(火) 09:52:37.71 ID:nSjxmwXG
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は
天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
398人間七七四年:2013/11/26(火) 09:54:16.10 ID:cM6/mb1H
そもそも豊臣政権自体が単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
399人間七七四年:2013/11/26(火) 09:54:25.89 ID:SJTjs5Ls
中井氏
一般に秀吉は自分の死後、秀頼成人までの政務代行者を家康に委ねた、との見方がされることが多い。
これは浅野家文書の「豊臣秀吉遺言覚書」等の記述が典拠になっているが、
原文を素直に読むと、あくまで家康は政務執行者の一人として位置づけられている。
秀吉の死後、三成はくどいほど、
十人衆(いわゆる五大老・五奉行)での合議を強調し、
秀吉薨去後の誓詞にも盛り込んでいる。
400人間七七四年:2013/11/26(火) 09:55:48.39 ID:CDuImz44
豊臣家が滅ぼされたのは単に秀吉が馬鹿だったからというだけ。
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻
秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。

こんな体制じゃあっさり崩壊して当然

なんで負けたかって言えば、そもそも秀吉から政務を委託された正当な大老であり、豊臣家を蔑ろにしていたわけでもない
家康を討つことには大義名分が少なく、家康が会津討伐に向かうため畿内を離れたというチャンスに機械的に
反応してしまい、自陣営の体制を構築する前に挙兵してしまったこと。

実態としては、明智光秀の本能寺の挙兵に近いものがあった。
会津征伐に飛びつかず、もっとじっくりと待つ必要があったと思うよ。勿論その場合は家康も着々と体制がためをしてくるが、
そこは政治力の勝負だ。 むしろ政治力の勝負を諦めたために関ヶ原がおこったとも言える。
そもそも合議の結果何かを決定するのは家康の役割だし、前田は豊臣家にすら無断帰国したのだから謀反を疑われて当然だし
上杉も穏便に処理しようとした家康の提案を蹴って、武装して割拠状態になったのでこれも謀反とされて当然
島津や毛利や宇喜多の家中の争いを喜んだ?そんな証拠は一切ない。というか介入すら最低限だ。
北政所にいたっては自分から西の丸を家康に譲ってるし大名への加増は三成ら奉行衆もそれこそ「合意」してる
ついさっきまで秀吉という専制独裁者が君臨していた政権において合議を破った専制独裁者という非難そのものが馴染まないんだよ
秀吉自身は一度も合議による政権運営なんてしたことがないから
普通の大名からすれば誰も見たことがない体験したことがないものを破ったと言われてもピンとこない
それに三成の家康批判は一歩間違えれば秀吉批判にも取られかねない危険な主張だ
三成が家康に名前を変えて秀吉の専制独裁を批判していると受け取れば豊臣のため三成を討伐することに何も問題はない
そもそも徳川が体制ぶち壊したとかいうけどぶち壊されるような体制とか諸将の配置にしなきゃよかっただけじゃん
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり自分から家康が天下取りやすい状態作っといて
ぶち壊したも糞もねーじゃん

秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻を進めている。自分の死後を見据え、最有力大名徳川家との融合を企図したものだ。
秀頼・千姫の間に出来た世継ぎが、徳川家の傀儡になる事は、秀吉が認識していて当然。
実は反徳川的な行動を起こし、豊臣家を滅亡に導いた輩こそ、秀吉の意思に背いた不忠といえる。秀頼・千姫の間の子は世継ぎになるわけで。
徳川の血が、豊臣宗家に組み込まれるわけだけど。実際融合されなかったのは、邪魔をした者がいたから。そしてそのせいで、豊臣滅亡。不忠でしょ。
千姫は正室なので、当然千姫との間の子が世継ぎでしょ。そうなれば、政権における徳川家の影響力が増す
401人間七七四年:2013/11/26(火) 10:01:17.33 ID:P4to4TND
秀吉が織田家にした事を思えば家康のなんてあまっちょろいもんだよな
402人間七七四年:2013/11/26(火) 10:31:01.81 ID:cH0MPyeD
秀吉は充分に主家に義理立てしたじゃんよ。 
信孝を切腹に追い込むほど信雄は恨んでいたくらいで、 
信雄と信孝は超アホで調停不能で、 
信長の葬儀すら誰もやろうとしなかった中で、 
秀吉は朝廷から故信長の昇進を土産に弔ったし、 
信雄の官位官職も上げまくって後ろ盾になってんじゃん。 
信長なんて勝頼に官位官職が与えられないように朝廷を圧迫していた。
秀信も父の信忠の岐阜を与えられ感謝してたから、 
実際、関ヶ原では信雄も秀信も西軍として行動したし、 
大坂陣の時も豊臣と一緒に滅亡しないギリギリまで大坂にいた。 
信雄や秀信の行動をみたら織田家は秀吉に感謝していたのと同時に、 
織田が家康を嫌ってたのは明白だろ。 
だいたい、秀吉や光秀らは、佐久間や柴田らと違い、 
自らの武辺と才覚で國持ちになったようなもんで、 
信長はむしろ移動を命じたりと戦略、外交の邪魔ばかりしてたし、 
猜疑心を解くために献上品たんまり信長に送ってんじゃん。 
池田も丹羽も柴田も本能寺の変後に、
すぐ信長遺領分配を指揮してたくらい人徳がなかった。 
逆に豊臣恩顧なんて秀吉の出世のおかげで、
たまたま秀吉の部下だったおかげで身が引き立てられただけで大した武将いないだろ? 
秀吉は信雄や秀信を見捨てたりしなかった。 
しかし、家康は秀頼どころか国松まで殺し、 
秀信を高野山に幽閉し22才で死に至らしめた。 
信雄だって公家や寺社に強い影響力を公使できる 
京都五山の僧侶達が全力で擁護で助命を何とか勝ちとったほど難航した。 
勝てない相手が死ぬまでは卑屈なまでに篤実な善人顔を装おっておいて、 
いざ勝てない相手が死ぬやたちまち態度を豹変させて、 
どんだけ織田や豊臣に対して冷酷非道だよ。 
実力を競って勝ち取る下克上ならまだいい。 
しかし家康は幼君が成長しきる前に、 
圧倒的立場を築き上げて、 
国内が平和になっていたにも関わらず、 
平時に乱を望んで天下を盗んだに過ぎない。
403人間七七四年:2013/11/26(火) 10:47:53.98 ID:cH0MPyeD
秀吉は信雄を自分の後継者にする為に、
官位官職をガンガン上げた。
さらに甲斐信濃駿河遠江三河の超加増をしようとしたほど。
極上のバカ信雄はそれを拒否したので、
平凡な秀次を取り立てることになった。
404人間七七四年:2013/11/26(火) 11:04:08.13 ID:P4to4TND
>>秀吉は充分に主家に義理立てした
主家織田家の当主に当たる秀信や信雄を利用するだけ利用しといてポイ捨てしておいて義理立てしたとかないわ。
>>信孝を切腹に追い込むほど信雄は恨んでいた
だから秀信をトップに据えて兄弟の対立をこれ見よがしに対立を煽ったりして崩壊させたのが秀吉だろ。
>>信雄と信孝は超アホで調停不能
だからこそ秀信を据えたり兄弟のうちどちらかを立てて主家のために忠義をつくすのが家臣としてあるべき姿
秀吉の場合はそれどころではなく清洲会議の合議も無視して好き勝手な専横で織田家を簒奪した極悪人。
>>信雄の官位官職も上げまくって
そりゃ信雄なんて主筋で一時期は当主に据えるほど、大いに利用させてもらったのが秀吉だからな。
その負い目や、大した理由もなくいちゃもんつけて攻め込んで、和議を結んだと思ったら改易までやらかすなど、散々な専横をしまくったのが秀吉。
>>秀信も父の信忠の岐阜を与えられ感謝
ソースくれ。織田の当主になって秀吉に命令を下すべき人間がハナクソみたいな領土と地位を与えられただけで感謝も糞もねーわw
>>関ヶ原では信雄も秀信も西軍として行動したし、
関ヶ原ではむしろ豊臣恩顧系ほど東軍についたし、西軍は秀吉と繋がりの薄い連中ばかりだから
西軍=秀吉への恩義とかもう馬鹿かと。
>>大坂陣の時も豊臣と一緒に滅亡しないギリギリまで大坂にいた。
信雄などは両家の和解のためいたんじゃないのか?家康が遣わした可能性も往々に考えられるのに
自分の意思で豊臣に感謝してたからとか勝手な決めつけだろ。
>>信雄や秀信の行動をみたら織田家は秀吉に感謝
主家を乗っ取り簒奪に利用されるだけ利用されてポイ捨てされたのに感謝してるわけねーだろw
>>織田が家康を嫌ってた
ハイハイ、根拠なし。織田長益、織田信包、織田信高、織田信貞を
取り立てた家康。 信雄の息子に至っては徳川家の庇護をあてにして生活していたのに
家康は羽柴も織田も後北条も再興や存続を許している
>>秀吉や光秀は自らの武辺と才覚で國持ち
いやほとんど信長や信忠のお膳立てだよ。長浜という鉄砲の名産地・交易・流通の絶好の場所
守護の赤松・小寺・別所・山名など衰退期もいい所で、しかも中国地方からは山中ら反毛利国人まで与力として味方がなだれ込んできてる状況
永禄末期や天正の第一回目の織田家での侵攻など見る限り播磨・但馬は元々ほとんど織田方で、抵抗勢力などたかがしれてる。
それを秀吉の失態自爆で敵が増え、別所など雑魚に信長や信忠や山中ら尼子残党らの後援を受けながら苦戦しまくり、2年近く費やしたのが秀吉。
>>信長はむしろ移動を命じたりと戦略、外交の邪魔
そんな事全くやってない。信長は秀吉のためにわざわざ信忠ら主力を派遣して播磨の中枢の諸城を悉く砦や小城の普請などでいつでも攻められるようにお膳立てして帰ってる。
ちなみに明智光秀まで援軍として播磨に来ていたらしい(兵庫県史資料編の中で明智が別所攻めに加勢として遣わされてる文書があったはず)
>>逆に豊臣恩顧なんて秀吉の出世のおかげで、たまたま秀吉の部下だったおかげで身が引き立てられただけ
そりゃあんたの主観だろ。秀吉なんて小牧長久手とか紀州征伐あたりまではともかく
他はほとんど部下に戦をまかせきりで物見遊山とか茶会とかやって遊んでただけじゃん。
あげくのはてには朝鮮出兵など愚行に走り、人徳を失い、子飼い系も含め悉く徳川に篭絡される事になった。
405人間七七四年:2013/11/26(火) 11:04:43.47 ID:uJE7v8Vl
>>勝てない相手が死ぬまでは卑屈なまでに篤実な善人顔を装おって
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。

戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
406人間七七四年:2013/11/26(火) 11:05:22.67 ID:P4to4TND
家康は信長から恩なんて欠片も受けてない。大国武田に一人でガチンコで立ち向かってるのに
援軍なかなかよこさないどころか姉川金ヶ崎上洛志賀の陣など畿内平定戦には次々狩り出され、
武田に勝てたのは長年武田を抑えてくれた徳川の働きによる所が大きいのに
駿河しかよこさない身勝手ぶり。
秀吉に関しては秀吉がビビリまくって家康に気を使って顕如や信雄に取り成しやってもらったり自国の15分の1程度の国力の相手にもかかわらず
肉親を差し出したり中央から遥か離れた辺境の関東に移封し、240万石の大国の国力と、中央集権化と、五大老や千姫との婚姻という
豊臣継承の大きな大義名分を与えた秀吉が馬鹿なだけで、取り立てて恩を感じる事もなかっただろ。
織田に関してはむしろ酷使されてたにもかかわらず、それまで良好だった秀吉との友好捨てて
信雄を助けてるし、信雄が秀吉に追放された後徳川がやはり救って領土与えるし秀信も正面から歯向かったのに
殺さずに改易で済ませてるし、むしろ温情あふれる処置といっていい。
信雄家康は秀吉に圧勝したじゃん。135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
407人間七七四年:2013/11/26(火) 11:05:55.07 ID:CDuImz44
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は
天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
408人間七七四年:2013/11/26(火) 11:06:31.64 ID:P4to4TND
秀康は史実で家康に嫌われまくってたから(秀康年譜)豊臣家から戻ってきた後も徳川家なんて継がなかったし
秀忠もいるし、子なんて作ろうと思えばいくらでも作れるから家康にとってそんな大きな存在じゃない。
その証明として秀忠が問題なく継いでるし、翌年は、家康は秀吉に屈服どころか>>130のように抵抗して
秀吉も家康討伐を進めていたし、戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
その証拠に家康は翌年も秀吉に抵抗しまくってたが、秀吉は殺害対象とはしていない
岡崎殿と呼ばれる事がなぜ待遇の良さに繋がるのか不明。元の身分が高い女性なら、親の死後もその威を受けて、
呼称だけそのまま残されただけ。
五徳なんて今や徳川にとって何の愛着も恩もない他人みたいなもんだろアホ
なんで信康が死んで、離縁した後の信長の娘持ち出して家康の敗北感に繋がるんだよボケ
宣教師の記録は>>122-123を読めばわかるがほとんど秀吉側が垂れ流した偽情報を元に事実化のように記載されてる、あってる記述の方が少ないほどのデッチ上げ史料にすぎないから
全くソースにならない。秀吉が人質と書いてるのも事実を歪曲した秀吉お得意の誇大喧伝で、その証拠に天正13年6月の信雄書状で「秀吉は於義井を人質として扱ってない」と書いてる

北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
養子は当主が死ねば当然その家の後継者候補になるし
その家を継ぐ大義名分にもなるし家中で大きな権力・威信・名分・軍事力を持つきっかけにもなる
409人間七七四年:2013/11/26(火) 11:06:56.80 ID:CDuImz44
秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。

その後妹も同じように殺されてる。

秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね
410人間七七四年:2013/11/26(火) 11:07:42.40 ID:fKb0+Vz7
家康は信長や秀吉に比べると明らかに寛容だからな
前田や浅野は家康の温情で領土減らされなかっただけ(無論家康の地盤がその時点で全く固まっていなかったのも大きいが)
島津に関しては黒田や加藤らが関ヶ原合戦で大敗後領国がからっぽの島津領に向けて突進していくのを止めて
島津を助けてやったし
上杉も毛利も佐竹も減封はしたものの改易されてないし
殺されてるのはほんの一部にすぎないしね

看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。 当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。

看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別

主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
つか同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してるわけだがw
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...

関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
411人間七七四年:2013/11/26(火) 11:22:39.24 ID:CDuImz44
小牧長久手合戦は、135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる)
VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。
神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
信雄は伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって
がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。
秀吉の戦略は一巻して家康打倒なので戦略目的は全く達成されてない
あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる
天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり)
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる。完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ。家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
412人間七七四年:2013/11/26(火) 15:40:09.00 ID:nSjxmwXG
秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして
圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々
これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ
織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした

つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから
家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと

顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない
アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人 4/10家康書状一万人 4/11家康書状一万人 4/13北条氏政・氏直書状1万人 5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人 5/7織田信純書状一万人 家忠日記1万五千余り 顕如日記1万人余り イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人 当代記2万人 池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる 3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ

京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
413人間七七四年:2013/11/26(火) 15:46:59.17 ID:nSjxmwXG
尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定w
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないw
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは2人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるしそれ以外のやつもほとんど織田信雄分限帳で生きてるのがわかるのにwww
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね。なぜ今更付け城の話を????
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記・織田信雄分限帳など)
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)w→いやはやこれは笑うしかないw3月上旬に留守居兵ろくにいなく、陥落した犬山を4月ってw
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→2人を除いて生き残ってる

尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分w これが本当なら防衛どころじゃないw
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンwギャグがすぎるだろwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るw
9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しい?
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
9月時点での懇望を断ったのに11月では容認 明らかにデタラメ
414人間七七四年:2013/11/26(火) 15:49:47.39 ID:P4to4TND
>>潰そうと思いさえすれば徳川にしろ毛利にしろ簡単に潰すことは出来た
史実で上月防衛戦の熊見川で3000人戦死の大敗・徳川どころか織田家で最も無能な信雄相手に敵の8倍の135000の大軍で挑みかかって
1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北し
結局寝返りだらけで崩壊状態の信雄領国を尾張半国すら自力で切り取れなかったのに潰すことができたとか寝ぼけてんじゃねぇよボォケwwww
>>家康が北条のように上洛して臣従することを拒んでいたら間違いなく滅ぼされていただろう
史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない

享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる
そんな半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。
韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実
>>家康を倒すことが主目標ではない
お前は>>481-487のまともによめねー馬鹿だな
>> 家康は局地戦ではいくつか戦術的勝利をしたが、
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
>>その後秀吉軍に尾張の加賀野井城、奥城、竹ヶ鼻城を落とされても後詰めすら出来ない
なんで自軍の8倍もある135000の豊臣軍が、家康の地理不案内な、しかも木曽川挟んだ川に挟まれたデルタ地帯に不用意に飛び込んで
秀吉が佐竹や木曽などにあてて『必家康後巻可仕儀にて候間』 (毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛
と秀吉の思惑通り無謀に寡兵で飛び込まないと腰抜けになるんだタコw
秀吉の方が本陣の目前で蟹江前田下市場長久保などが攻められてるにもかかわらず雑魚信雄にビビリまくって味方を見捨ててよっぽど腰抜けだろうがクズw
>>その後、伊賀、伊勢は連戦連敗でほとんど占領されてしまい
お前は時系列を何もわかってねぇな。伊賀は2月〜3月初旬段階でさっさと抗戦することなく秀吉に降っているし
伊勢は三月の攻防のみ。 神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉

>>結局、信雄は伊賀と伊勢の半国を割譲して秀吉の主人という立場から臣下になり
割譲なんてしてねぇよクズw秀吉が端から棚ボタ的に留守居泥棒した所がそのまま秀吉方占領地として残っただけだろうがタコ
>>その後の家康の臣従は、信長ばりに妹を家康にくれてやったのになかなか上洛して臣従しようとしないので
>>家康を滅ぼすため、上杉や前田等の諸大名に出陣の準備を命じたら
時系列の誤り乙。家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる)
415人間七七四年:2013/11/26(火) 15:50:43.99 ID:uJE7v8Vl
基本的に朝廷は京を制圧している大名と積極的に関係を築こうとするからね
近世成立記の大規模戦争86ページ 信雄は、この時期にも天皇・公家衆と積極的な関係を構築していない
これは信雄自らが京都を制圧しておらず、安堵などを通じて公家衆に対する主従的な関係を構築していないからである
公家衆や門蹟衆としても京都の支配者は秀吉であり、公家社会の擁護者である秀吉との関係が重視された。
83ページ 公家社会の政治的構造は、基本的に京都を制圧する政権やその有力武将との良好な関係の構築を試みるが、対立する武家勢力にも様々な人脈に基づき
関係を構築しうる二重性を備えていた
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれており
その他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦の痛手はひどかったんだろうね
何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだからな
>>秀吉にガンガン侵食されていくばかりで
尾張の木曽川筋をチョコっと攻め取っただけでガンガンとか言われても
>>ちなみに8月には筒井勢が駒野を攻撃していたようだが、11/5には高木貞利の居城だった東駒野城も陥落してる。
取り詰めに攻め落としたなんて意味はない。乗っ取り、落居などという時が攻め落とした時の言葉。ちなみにこの書状を東駒野「城」が落ちたなんて妄想解釈してる馬鹿はお前だけで
東大史料編纂所HPや史料編纂やら愛知県史資料編網文やら小牧長久手の戦いの構造時系列データベースでも城が落ちたなんて解釈していない。11/10にはちゃんと吉村が長久保を落として忠義を示してるのに。
>>しかし高木貞利の敗北と福田の降伏という流れは
高木は敗北なんてしてないし福田は降伏ではなく寝返り
>>この地域での秀吉の優勢をはっきり示すもので、
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない。3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの
報に接し兵糧等の支給を約束3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛。美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった
犬山城に襲撃を食らう。伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
416人間七七四年:2013/11/26(火) 15:54:23.07 ID:uJE7v8Vl
>>完全に秀吉の大戦略により王手がかけられていたからな
全くかけられていない。
信濃の諸侯が寝返ったのは天正12年春(木曽)と戦争終結後の天正13年夏〜秋にかけてで
時期が全くずれてるし真田は天正壬午の時の徳川の恩賞問題で勝手に寝返っただけ。
木曽は天正12年春時点で離反してるし小笠原も真田も離反したのは翌13年であり家康が小牧長久手の戦い(秀吉との戦い)中に恩賞約束なんてしてねぇよクズ
天正10年〜11年にかけて小笠原や真田は家康の支援受けて勢力拡張し天正壬午の頃安曇筑摩の全域支配を任せる予定だったが
天正11年12年と連続で上杉との麻績・青柳の戦いに敗れるなど北信濃方面の拡張が滞り翌年小笠原は石川の人質連れてビビリまくって秀吉の下に参じたのと
天正壬午の恩賞問題やら沼田割譲問題やらで離反しただけで秀吉との戦いにおける恩賞なんて全く関係ない。そもそも秀吉との戦闘の部隊は美濃尾張伊勢が主なのに
なんで関係ない信濃で恩賞だされるんだよアホ
石川は小笠原が人質連れて離反したから離反しただけ(織豊政権と東国、小笠原貞慶考)

>>ついには信雄も本拠地の長島まで秀吉軍がやってきた為に降伏。
信雄は降伏なんてしてねーよボケ。
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は
天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
417人間七七四年:2013/11/26(火) 16:39:45.70 ID:jQ0hGp8e
秀吉はむちゃくちゃ早く急いで信雄の官位官職を上げまくってんだよな。
朝廷で自分の補佐が出来る立場に信雄を引き上げたかったんだろうな。
関ヶ原でも家康と同格、いや出家して前が付くだけ先輩風吹かせたのは信雄だけだったし。
信長なんて武田勝頼が官位官職につけないように朝廷を脅迫して嫌がらせしてたのに、
天正3年信長が右近衛大将になった際に、従五位下左近衛中将になったっきり昇進出来なかった信雄を
いきなり、 秀吉は正三位権大納言にしてあげたのを皮切りに、
一年を経ずして従二位かよ! しかもその年のうちに正二位内大臣か。 前例自体がない異例の大出世だろ。
よく朝廷が許可してくれたなあ。 秀吉はどんだけ信雄を厚遇しまくってんだよ。
秀吉は子供を半ば諦め、信雄に跡を継がせようとしてたのかも知れんな。
秀吉は信雄を自分の後継者にする為に、官位官職をガンガン上げた。
さらに甲斐信濃駿河遠江三河の超加増をしようとしたほど。
極上のバカ信雄はそれを拒否したので、平凡な秀次を取り立てることになった。


信雄と信孝が対立して何も決めれない無能揃いだったから秀吉が動くのは仕方ないだろ。
信長の百日供養からして、やったのは秀吉と市だけだからなー。
葬儀は誰もやらなかったから秀吉が朝廷から供養のために
故信長の従一位昇格を引き出してから秀吉だけがやったが誰も出席しなかったから無駄になった。
秀吉は信長の後妻の小倉氏の娘の鍋の生活を援助していたりと
亡くなった主君の妻も保護している家臣の鏡のような働きをしているのは褒めてもいい。
ちなみに天正11年6/1の信長1周忌の法会をやったのは秀吉ただ一人。
これに出席後に、秀吉は今までの拠点だった山崎城から、大坂新城へ移転している。
信雄の官位官職をアホみたいな速さで急速に引き上げて自分に次ぐ立場にまで登らせて後援したのも秀吉。
それなのに、なんら感謝せず増長し、家康家臣団が一生懸命、不満も言わず関東転封の作業をしている最中に、
転封なんてするわけねーだろ!本気にすんな無視!とか言って、関白秀吉を挑発したから逆鱗に触れたわけで
完全に信雄が悪いし、その代わり、秀信をちゃんと取り立てて、織田家を継続させてるし、
信雄への怒りも、秀吉は一ヶ月も経たずにすぐ水に流して許しているほど甘い。
秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍だったし、 彼らを関が原後に改易したのは家康であり、
大坂陣の時も、巻き添え滅亡にならない限界ギリギリまで家康に抵抗して大坂城にいたのも信雄や有楽斎なんだけどw
むしろ三方が原や長篠の御恩があるはずの家康の方が故信長に対してひどくないかね?
信長はロクに家臣に援助もせずに家臣自らの武辺と才覚で、俺の要求を一刻も早く達成しろって
パワハラ恫喝と改易脅迫で精神圧迫していただけで 信長自身は、鷹狩り、茶道具や武具の没収コレクション、
鹿狩り、相撲遊び、衆道、女装しての女踊り、乗馬パレードや競馬観戦、幸若舞、豪華な食材取り寄せ
など遊びほうけていただけじゃん。だから信長死んだら細川忠興くらいしか信長の死を悼んでないし、
清洲会議の池田や丹羽や勝家ら信長遺領分配もみんな自己努力と自力救済による当然の権利だと思ってるでしょ。
だけど、家康は武田家の攻撃で存亡の危機に至り、信長からの援軍や織田との安保同盟を背景にしなければ、
つなぎとめていられたかも怪しいよね。 水野みたいに、家康なんていつでも改易できたにも関わらず、
信長は家康に駿河まで加増してくれたしね。
418人間七七四年:2013/11/26(火) 17:05:13.79 ID:uJE7v8Vl
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
実際秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
徳川方は8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯の小城2箇所くらいしか放棄してない
しかも小牧山周辺の砦には秀吉方の留守居部隊2万以上いて、徳川方が動けば小牧山の陥落は必至で動けなかっただけだし、
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で罠を張ってた
から後詰なんて自殺しにいくようなもんで、そんな所危険すぎていかなかっただけ。
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし状況も兵力比も大阪の陣とは違い過ぎる
419人間七七四年:2013/11/26(火) 17:06:15.57 ID:uJE7v8Vl
徳川方は8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯の小城2箇所くらいしか放棄してない
しかも小牧山周辺の砦には秀吉方の留守居部隊2万以上いて、徳川方が動けば小牧山の陥落は必至で動けなかっただけだし、
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で罠を張ってた
から後詰なんて自殺しにいくようなもんで、そんな所危険すぎていかなかっただけ。
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし状況も兵力比も大阪の陣とは違い過ぎる
尾張松ノ木・脇田近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切りが多く発生したわけではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
420人間七七四年:2013/11/26(火) 17:08:01.08 ID:uJE7v8Vl
>>しかし信雄と家康は秀吉との正面衝突を恐れ城から出ず
恐れてるのは明らかに秀吉の方
家康・信雄は圧倒的に兵力に劣る上、楽田の留守居2万や美濃の後詰部隊放置して
加賀野井・竹鼻にむかったら別働隊に追撃されるなり小牧山襲撃されて退路たたれるなりしてアボーン
>>一益はロクに兵も物資も持ってないので、これには家康も動き夜通し鉄砲を打ち込み、
滝川からすれば物資はすぐ近くの秀吉陣からもたらされると思ったんだろう
>>すぐにヘタレ一益の蟹江城は矢玉の準備もロクになく戦意喪失し降伏。
滝川がヘタレなのではなく秀吉がビビッて放置したから降るしかなくなったのが滝川
7/3まで持ちこたえているがこれも秀吉が見捨てただけからってだけの話だろ
秀吉は三河方面への攻撃を想定していたのに結局この合戦の失敗で延期して信雄戦にきりかえる事になったんだから明らかに秀吉の失態
>>和議は難航してる間にも信雄最有力家臣の木造長政の戸木城が半年の籠城の末に10月末に開城し信雄唯一の南伊勢の拠点も消失。
これは木造記(軍記物)の造り話。ちなみに秀吉も7月には木造の事に触れてるのに
この時は何も触れていないし中川定成・佐久間正勝・土方雄良・雑賀松庵こいつらより
貫高で勝る連中も普通に人質出していない。木造記は具政を具康としてるくらいでただの軍記の信憑性だし別名木造軍記ともいうもの
>>清洲城へ11/9に入ったが何ら策なく、各戦線への援軍すら出せない諦観状態。
そりゃ8000そこそこで8万も10万もの秀吉軍とガチンコでやりあうなんて無理
そんな勝って当たり前の状況と兵力差で苦戦しまくって1年無駄にしたのが秀吉
>>もう1人の最有力家臣の滝川雄利の浜田城も秀吉軍の付け城に包囲されており救援不可能。
戸木も小牧山も松ノ木も小牧山周辺の砦郡も似たような状況で落とされなかったのにこれで勝ったような事いわれても
>>11/11書状では信雄が種々懇望と書いてある。これに恐怖した信雄は家康の支援が望めないと悟り降伏。11/12に講和成立。
あくまで秀吉が言ってる事なんでおおいに疑問
9月にも信雄が人質を出して懇望してきたけど許さなかったとか書いてるけど
なんで秀吉は11月になったら許すのかって話だし
>>重臣たちと供に人質を出し、慌てた家康も秀康を人質に差し出して秀吉勝利のうちにこの戦役は終了した。
ビビリ信雄が勝手に和議を結んだから大義名分失って和睦せざるをえなくなっただけ
>>(家康側家臣の書状では養子と書くが、秀吉の書状にははっきり人質と書かれている)
秀吉の書状なんて全部自分に都合いいことしかかかれてないし
家康領国が天正大地震と離反の連鎖と徳政連発で困窮してる状態ですら母と妹を人質に出した程のヘタレぶりかましたのが秀吉
>>三河竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃そ疲弊したと記しており
家康領国は合戦前や合戦当初から徳政連発で十分困窮してるのがわかる
元々貧国ばかりだし上杉や北条の変心に備え大部分の兵力を領国に残してたからな
>>信雄と家康は秀吉の大軍による本格南下に、蛇に睨まれた蛙状態で氷のようにカチカチ。
そんな史料にない妄想いわれても
>>秀吉軍の前に野戦回避し無策なまま籠城を続けた挙句に王手となり、
野戦回避してたのはむしろ家康がいた小牧山避けてしかも小牧山からでられないように
まわり砦で囲いまくって2万も残して一方で自分はこそこそ家康の出てこれない
木曽川筋の諸城圧倒的大軍で攻めるだけだった秀吉の方
>>家康はまったく歯が立たないで清洲でふるえていた。
7倍もの兵力比で歯がたつも立たないも糞もない
>>無条件降伏を飲む形で集結
母と妹差し出すのが無条件降伏とかアホですか
421人間七七四年:2013/11/26(火) 17:09:15.14 ID:uJE7v8Vl
>>つまりなんら策もなく傍観しかできなかった 家康贔屓な主観を解釈にいれるとそういう曲解ができるんだね。
傍観って小牧山周辺をガチガチに砦と2万もの兵力で囲われてるのに
放置して他地域にいけるわけないだろアホ
>>加賀の井城の落城阻止すらできなかったくせに竹鼻城の援軍出せない理由に加賀の井城が邪魔だからとか
加賀野井城陥落は家康にとって地理不案内の上に圧倒的兵力差&小牧山留守居部隊がいたってだけ
竹が鼻の位置は加賀の井よりもさらに秀吉のいる大垣より。加賀の井を抜かないと
竹鼻を救援するなんて無理
>>これによって長島城への道が切り開かれてしまい秀吉による一挙長島攻略の南下が開始され
>>完全に戦略的大敗を決定づけたのが加賀の井城→竹鼻城落城の一連の流れ。
竹鼻陥落から5か月もたった後での事持ち出されても。
そもそも戦略的大敗も糞もない圧倒的兵力比&信雄領国寝返りばかりの圧倒的有利な状況なんだから
勝って当たり前。そんな戦闘で長久手二重堀戸木松ノ木蟹江など負けまくって自力では1年かかって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
>>7/3落城であり秀吉が大坂へ帰っていただけの話で放置も糞もないわw
蟹江合戦当初の6/16はまだ秀吉が大垣あたりにいたと思われる。大垣から蟹江なんて半日もかからんだろ
伊勢の楠本から大阪まで2日程度で移動してるし
>>すでに9/2の秀吉書状で蒲生が田丸氏や関氏や九鬼氏や澤氏や秋山氏や芳野氏を与力として
>>南伊勢五郡を与えられてるしwww松ヶ島城あたりは算用次第(奪えたらやる)って書いてるし。
南伊勢楽に切り取れたのは関や神戸・田丸・信包など地元勢力が秀吉の味方についたのと
池田に対応するため家康が尾張に転進したおかげ
>>秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてる。
勝つまで2か月も経ってるな。しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで
>>そんなの去勢張ってるだけで見事なまでに85年中(天正13年)は
天正13年家康が領国内問題で離反した対真田の敗戦と同じく前年離反した木曽や
天正13年離反の小笠原への対応などで困窮したおかげで秀吉にとって圧倒的優位な状況
が生まれるがこの状況ですらまだ家中では主戦派が主だったが秀吉派であった石川・水野の離反と
軍事機密露見と天正大地震と天正11年からの徳政連発で困窮した家康は従わざるをえなくなっただけ
しかもそんな今川氏真でもかてそうな圧倒的優位な状況で母と妹人質に出したのが秀吉
>>紀伊雑賀・根来衆や佐々成政や長宗我部や保田(佐久間)安政や遊佐河内守を家康は見捨ててるじゃんw
そら信雄と一緒に和議結んでるのに勝手に盟約違反する馬鹿はいないだろ
>>家康が優位なんてバカなことはない。しかも酒井・石川まで人質を秀吉に取られているのに。
そもそも国力やら状況が糞みたいに秀吉有利なんだから家康優位なわけないだろアホ
石川も徳川方史料だろ天正12年秀吉との対決時でもすでに秀吉に篭絡されつつあったし
>>しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ
>>15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
これは単に陣夫として輸送や調達など非戦闘業務が主と本多氏が定本徳川家康で書いてるな
家康は兵力8000そこそこだからな(当代記・家忠日記その他合戦記や家記・家譜)
残りは信雄の兵力だし
>>秀吉は前田へ援軍を派遣したりと余裕ありすぎ。
7〜8倍もの圧倒的兵力差で兵力が余りまくらないわけないだろアホ
そんな勝って当たり前の兵力で苦戦しまくり尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
422人間七七四年:2013/11/26(火) 17:10:37.84 ID:uJE7v8Vl
>つまりなんら策もなく傍観しかできなかっただけだろ。
>家康贔屓な主観を解釈にいれるとそういう曲解ができるんだね。
策もなくも糞もこの時の秀吉の狙いは書状に「必家康後巻可仕儀にて候間」書いてるように後詰決戦行う事だから
秀吉からしたらまんまと目論見が外れた結果
家康にしてみれば少ない兵力で木曽川越えの木曽川地域に移動する方が馬鹿
>つまり加賀の井城の落城阻止すらできなかったくせに
>竹鼻城の援軍出せない理由に加賀の井城が邪魔だからとか意味不明。
竹鼻の位置は加賀の井よりもさらに秀吉のいる大垣より。加賀の井を抜かないと
竹鼻を救援するなんて無理。そして大河を越えて少ない兵力で敵地へ飛び込むとかそれこそ馬鹿
>しかもこれによって長島城への道が切り開かれてしまい 秀吉による一挙長島攻略の南下が開始されてしまい
この2城が落ちてから長島が攻撃にさらされるまで半年もかかりその間神戸や長久保、蟹江などで敗戦する醜態ぶり
>7/3落城であり秀吉が大坂へ帰っていただけの話で放置も糞もないわw
滝川が蟹江・下島・前田の三城を奪ったのは6月13日。また九鬼嘉隆も船で進軍
蟹江は清洲と長島を分断する位置にあった事から秀吉側からすれば大チャンスだった。
秀吉は10日頃まで尾張で戦い25日でも伊勢にいるのが書状で確認が取れる
どうみても大チャンスにまんまと手をこまねいていただけ
>すでに9/2の秀吉書状で蒲生が田丸氏や関氏や九鬼氏や澤氏や秋山氏や芳野氏を与力として
>南伊勢五郡を与えられてるしwww松ヶ島城あたりは算用次第(奪えたらやる)って書いてるし。
>他にも小島民部や榊原や朝成藤方や長野左京や水谷や河北佐助や恒川次助らに伊勢壱志郡を与えている。
当たり前。南伊勢半分は津15万石の信包が秀吉につき、池田と森が予想に反して家康に付いたから家康らが尾張に転進せざるをえなくなったから楽に蹂躙できただけ
>秀吉の和睦条件は信雄と家康や石川から人質を取ることであり
>それを最終的に家康らが拒否しただけの話。秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてる。
戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリ
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ
>でも結局、この条件で半年経たずに土下座することになるのが、信雄と家康。
信雄がへタレて勝手に和睦したから助かっただけ
>羽柴秀長の大軍南下の中で吉村又吉郎の独力でそれが可能なようには見えないけどな。
お前の主観なんて聞いてない
>まぁ11/10の信雄→吉村でいきなり長久保落居を聞いたと書いてるだけで
アホですか????長久保の城が落居じゃなきゃ長久保の何が落ちたというんだ?
>そんなの去勢張ってるだけ
真田との攻防や北条との同盟関係強化に努め秀吉との対決に備えている
しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
家康は十月二十八日に浜松評定を行った結果秀吉に対する強硬論派が過半を占め
また岡崎や東部の普請を始め、軍法の改革に着手し三河国衆の婦女子を遠州に移す段取りをしている
また本多重次を新たな岡崎城代に任命するなど秀吉に対して抗戦を想定している
また天正14年初頭に秀吉は上杉景勝にあてて家康討伐にあたり軍勢派遣を要請している
一貫して秀吉は家康への討伐、そして家康は秀吉に対する抗戦を想定していたが
母と妹を人質に送ってきたから上洛しただけ
木造が編纂しようが所詮は江戸期の軍記
誰々が降ったとかの注進が事細かになされていて木造に関しても7月頃書状で述べられているのに
降伏時だけ何も触れられないとか明らかに不自然
また土方雄良・雑賀松庵この二人より大身(織田信雄分限帖)の吉村氏吉、澤井雄重、森晴光、平手大炊
小坂孫九郎、天野雄光も人質を要求されていない。信包が秀吉方は家忠日記にある
木造が北畠領において実質的に権力の頂点にあったのは本能寺前の頃
この頃は全く権力関係が異なり、いわば外様中の外様みたいなもの。夏ごろ秀吉に寝返りを画策してたようだしな
>信雄がすでに懇望して侘び言を言ってきてるので、戦いはもう終わると書いてるし。
家康も書状でもうすく勝ちで終わると書いている
423人間七七四年:2013/11/26(火) 23:05:57.18 ID:ZF42d/Rs
>>393

合議制なら独裁は成立しないし

秀吉の遺言にも家康の独裁を認めるなんて文言は一切ないけどね。

秀吉の遺言を真っ先に破ったのは清正以下の武断派で

七武将の襲撃事件は完全にアウトな暴挙。
424人間七七四年:2013/11/26(火) 23:19:00.64 ID:ZF42d/Rs
一.自然於喧嘩口論者致堪忍可属理運事
一.無実儀申上輩在之者双方召寄堅可被遂御糺明事

一.何たる儀も内府大納言殿へ得御意其次第相究候へと被成御意候事

一.諸事御仕置等之儀其軽重を決し十人之衆中之多分に付而可相究事
425人間七七四年:2013/11/26(火) 23:19:40.84 ID:ZF42d/Rs
はい、ではコピペタイムスタート
426人間七七四年:2013/11/27(水) 08:36:15.94 ID:yERaneZQ
家康の耳に入れ、10人衆の裁判を催し相談を究めて鼎の軽重を決し御仕置きをすること。

つまり家康には独裁権など付与されてない。
427人間七七四年:2013/11/27(水) 11:31:26.25 ID:iGfNALai
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻を進めている。自分の死後を見据え、最有力大名徳川家との融合を企図したものだ。
秀頼・千姫の間に出来た世継ぎが、徳川家の傀儡になる事は、秀吉が認識していて当然。
実は反徳川的な行動を起こし、豊臣家を滅亡に導いた輩こそ、秀吉の意思に背いた不忠といえる。秀頼・千姫の間の子は世継ぎになるわけで。
徳川の血が、豊臣宗家に組み込まれるわけだけど。実際融合されなかったのは、邪魔をした者がいたから。そしてそのせいで、豊臣滅亡。不忠でしょ。
千姫は正室なので、当然千姫との間の子が世継ぎでしょ。そうなれば、政権における徳川家の影響力が増す
428人間七七四年:2013/11/27(水) 12:10:02.62 ID:PQtPMEa+
独裁権を付する遺言なんか残すわけないでしょ、常識で。
秀吉存命中に、(他大名比)最大の版図・最高の官位・豊臣宗家外戚の地位を約し、
最強の軍事力を持った家康が、十人を圧倒的に主導するのも当たり前。
合議が機能するとか、近代国家と時代を間違えてませんか?
家康が中核になる政権体制を構築したのは、他でもない秀吉ですね。
429人間七七四年:2013/11/27(水) 13:36:07.52 ID:pNpxUcgu
毛利領、伊予安国寺領、筑前筑後隆景領(与力に立花宗茂ら)と西国指揮権を持ってて、
家康よりも実力と信頼を得ていた隆景が死んじまったからなー。
秀秋がバカ過ぎてどうしようもなかった。
また関が原の時点なら出家していて現職じゃないが西軍だった信雄と家康は同格。
430人間七七四年:2013/11/27(水) 14:08:28.40 ID:PQtPMEa+
仮に隆景が存命だったとして、秀吉死後も豊臣家に忠実である保証は全くない。
むしろ、毛利宗家+小早川家の利益を追求するのが当然。

徳川だけが暴走し、他の外様は豊臣に忠実であり続けるというのはナンセンスな話。
譜代ですら鞍替えしてるのがいるのに。
431人間七七四年:2013/11/27(水) 21:40:01.31 ID:GC/9iG0h
そもそもそんなに隆景が野心家なら、
中国大返しの時に秀吉を追撃し光秀と挟撃していたし、
柴田と協力し秀吉を挟み撃ちにしてたし、
家康と同盟して秀吉をフルボッコしてただろ。
朝鮮出兵でも立花や筑紫らを統率力して明軍と戦う程に豊臣政権に尽くしてるのに豊臣秩序を潰す破壊屋なわけが無い。
そんな野心家なら親豊臣の安国寺を重用しねーよ。
432人間七七四年:2013/11/27(水) 22:39:23.76 ID:phATQz15
>>428
問題は家康中心的役割という範疇を越えて好き勝手しようとした事だな。
機能するとかしないとかじゃなくて決められたルールを破るのは批難されて当然。
そしてそれに率先して手を貸して豊臣に不利益をもたらした
加藤清正ら武断派の行動は少なくとも褒められたものではないのは当然だよね。
433人間七七四年:2013/11/28(木) 00:12:24.39 ID:ahKCbTcB
>>431
えーと。
野心があるとかないとか、政策決定には全く関係ないよね。
言い換えれば、挟撃しなかったから野心がない、って変だろ。

というか。
隆景が、毛利宗家よりも、絶対権力者のいなくなった豊臣家を優先するわけないでしょ。
毛利宗家に危害が及んでまで、豊臣家のために徳川と争う必要も意味もない。
キミの言うように野心がないなら尚更だ。
434人間七七四年:2013/11/28(木) 00:39:06.58 ID:ahKCbTcB
>>432
ルールを破っても罰せられない以上、ルールは機能していないんだよ。
別に非難など痛くも痒くもないでしょ。

武断派が豊臣家に不利益をもたらした?
そんな事実は全くないと思うけど。
435人間七七四年:2013/11/28(木) 07:57:13.78 ID:WrI0Yzla
>>433>>434
まーた根拠ゼロの妄想だらけだなw
お前はアンチ秀吉三成がしたいだけだろ基地外織田朝鮮人くんw
436人間七七四年:2013/11/28(木) 09:38:37.93 ID:ahKCbTcB
内容で反論しようよ。
長文コピペもなしで頼むよ(笑
437人間七七四年:2013/11/28(木) 13:21:46.14 ID:/Ag1TT0Y
>>433
隆景の性向を見れば、野心家・冒険主義的な吉川元春に対して
自制と調和を促してきた生き様であり、従って政策も融和的になるのは明らか。
それを秀吉は知っていたからこそ、毛利の分家と言っても過言じゃない小身の隆景を抜擢し大領を与えてる。
しかも毛利に西国取次を任せ、隆景・輝元・家康・秀家・利家と言う実質大老に近い地位として
秀吉生前にすでに5人中2人分の意思決定を左右する諮問機関に輝元と隆景は席を与えられていた。
これは家康をも上回る発言力であり、家康が挑戦してくることは毛利宗家への挑戦に他ならず、
豊臣秩序で最も利益がある毛利・隆景が最も、豊臣政権を護持する立場になるのは明白。

>>434
>>ルールを破っても罰せられない以上
これは論破されて、話をぶち壊して開き直ったってことだよなw
そもそも内府たがい条によって、会津征討軍は家康の私戦と認定され
その軍は瓦解し、武断派は家康を会津に残して、西上していったし、
山形に集結した米沢侵攻軍も瓦解。黒川侵攻軍でも堀らが西軍に内通開始。
政宗も上杉と和解交渉に入り、南部領を窺うようになった。
このように家康は正当性を剥奪されてしまってるんだからな。
罰せられなかったのは関が原の戦いに勝ったという結果論からきてるに過ぎん。
武断派の暴挙で5大老5奉行による仕置き運営に甚大な損害がでたのだから不利益に決まってるだろw
438人間七七四年:2013/11/28(木) 14:35:45.02 ID:ahKCbTcB
>>437
小説の話がしたいのかな?
キミの小説的な主観はよくわかったし、長々と述べてもらったんだけど、
『隆景が毛利宗家よりも、秀吉亡き豊臣家を優先する』証明は全く出来てないよ。

論破? 意味がよくわからないな。(笑
罰せられなかった云々は、関ヶ原ではなく私婚の件ね。
利家が腰砕けになって決着した件。話の流れはそうでしょ。
家康の私戦と誰に認定されたの?
三成の謀反に端を発するクーデター政権であり豊臣家も支持していない
西軍に正当性がないのはよくわかるけど。

五大老五奉行の政権運営が変化したのはわかるが、豊臣家に何の不利益があったの?
具体的に頼む。不利益を被ったのは、三成だけでしょ。
439人間七七四年:2013/11/28(木) 20:50:11.20 ID:7m2D2NNc
>>437
また菅原遼太か
のっけから嘘ばっかり
440人間七七四年:2013/11/29(金) 09:52:56.48 ID:hP/NGFSg
>>438
いやいや小説じゃなくて実際に、
元春は光秀や勝家と共同する動きをしていて、
隆景と安国寺は秀吉との協調路線を進めて、
毛利は二股外交している。
だからこそ豊臣政権は吉川家を取り立ず、小早川家を取り立てているわけだが。
私婚の件は利家が清正、浅野幸長、細川忠興らを従えて威圧したから家康がビビり、
ちゃんと罰せられて、家康は伏見城から追い出されて向島に移転させられてるだろ。
縁戚問題で詰問された家康が逆切れして戦をチラつかした話は事書として伝写が残っているが、あれは岩沢氏なども、
江戸時代には相当に信用されていたらしいが
その事書は決して正しい文書ではないと一蹴してる。
それどころか家康は前田との紛糾を避けようとしてたのが言継卿記に書かれていて、
家康はその後、利家邸に病気見舞いの名目で訪問し、
完全に利家に屈服したのがわかる。
んでさ、三成のクーデターって小説の話がしたいのか?付き合いきれないな。
441人間七七四年:2013/11/29(金) 10:12:23.86 ID:0bTVMt51
>>426
それは全員が裁判する場所に来たらという前提の話でしょ
もしも他の連中が領国に帰るなどして裁判する場所に来なかったら
当然ながら家康には欠席した連中を無視して裁判を進めることになる
これは欠席した連中に責任があるのだから家康の独裁には当たらない
だから家康は別に独裁をしていたわけではない
他の連中、特に家康以外の4大老がサボっていただけ
442人間七七四年:2013/11/29(金) 10:16:59.25 ID:hP/NGFSg
>>441
領国運営などで欠席する事情が起きたとしても、
だからと言って9人全てがいないと言う状況は考えられず、
合議制の原則は破綻し辛い。
家康が独裁専横することを正当化することは出来ない。
それは内府たがい条に指摘され糾弾されていることだ。
443人間七七四年:2013/11/29(金) 11:09:26.77 ID:0bTVMt51
家康が会津征伐を審議した時はとっくの昔に家康以外の大老全員が帰国している
それどころか家康以外の4大老は政務の実績が実際はほとんどなかった
少なくともこいつらが家康を独裁専横と糾弾する権利はない
言葉は悪いがニートが真面目に働いている人間を批判しているようなものだからね
444人間七七四年:2013/11/29(金) 11:25:56.60 ID:efQW6HIo
>>437
関ヶ原の戦いに勝ったという結果を得たのは西軍の2/3以上が内通や日和見を選択したから
つまり西軍大名のほとんどは西軍に正当性を感じておらず戦う意欲もなかったから
西軍の実態が石田派の私軍であることはとっくに見抜かれていたわけ
内府たがい条などと大げさな題名のせいで勘違いしている人間も多いがあれはただの西軍のプロパガンダ文書に過ぎない
もっと言えば反家康を隠れ蓑に石田派がどさくさ紛れに権力奪取しようと企んだトリック文書でしかない
445438:2013/11/29(金) 12:26:28.67 ID:huVc19N3
>>440
なんの話してるの?もう一度言うよ。
『隆景が毛利宗家よりも、秀吉亡き豊臣家を優先する』証明は全く出来てないよ。

それから、会津征伐が誰に家康の私闘と認定されたの?
もう一つ。武断派の三成襲撃が、豊臣家に与えた不利益を具体的に頼む。
向島に移ったのが罰なの?引き続き国政を担っているのに?
随分軽い罰もあったもんだね(笑

三成の挙兵はクーデターだよ。クーデターを辞書で調べてみたら?
七将クーデターとか間抜けなこと言ってる人もいるみたいだけど。
446人間七七四年:2013/11/29(金) 13:24:32.17 ID:NsCiPdm7
>>443
アホか。家康が遺令を破って、北政所を追い出し大坂城西の丸に天守を築いて独裁していたからだろ。
内府たがい条でもそれらを非難されてるだろが。
つか朝鮮からの撤退命令の大老たちの連署書状とか見たことないのかよ無知過ぎwww
>>444
石田派の私軍ってなに?k三成のクーデターってなに?小説の話?三成は決起に参加してないんだけどw
内府たがい条は合議制に乗っ取って出されており、それが届くや、会津征伐軍は見事に瓦解し、
武断派は家康を会津に残して、西上していったし、
山形に集結した米沢侵攻軍も瓦解。黒川侵攻軍でも堀らが西軍に内通開始。
政宗も上杉と和解交渉に入り、南部領を窺うようになった。
このように家康は正当性を剥奪されてしまってるんだからな。
関が原の戦いで大逆転できただけで、実際は内府たがい条により家康の方が私軍になってるんだけどw
>>445
隆景が豊臣政権守護側にまわるであろう根拠として、それまでの隆景の選択と行動が>>440でも列挙されてるじゃん。
むしろお前は何一つ根拠をあげてない。お前はただ単にアンチ秀吉・三成の朝鮮人の視点で豊臣政権を貶したいだけだろw
えっ?家康が糾弾された結果、向島に蟄居させられてるのが罰じゃなかったら何なの?
国政を担ったのは利家が死んでからじゃんw鬼がいるうちは大人しくしてたのが家康。
利長が家康の勧めに従って領国へ帰ったことは三壺記にも書いてあるし。
豊臣家は西軍側だったのは明白なんだけどw
447人間七七四年:2013/11/29(金) 13:28:16.72 ID:NsCiPdm7
西の丸には北政所の住居もあるから政治的に無縁ではないよ。
そもそも内府たがい条でも北政所を追い出して住んだと家康は糾弾されてるわけで西の丸掌握にはクリアしないとならん問題。
豊臣譜代と淀は秀頼を推参する立場において利害一致してるから隠然たる力はあるだろ。
積極的ではなくあくまで隠然。
秀頼の命として淀が言った形式もまだ落ち着かない政治体制下での政治問題化は大坂城で掌握指導にむけて厄介事でしかない。
表向きは浅野、内むきは孝蔵主と言われていたくらい大坂城の中枢は分権されていたほど。
女だから軽視するのはアホな考え。

もともと戦禍が起きても御所内なら兵火が及ばないだろうってことで
秀頼のために秀吉が聚楽第に代わり造営したのが京都新城で、七将クーデターの時に大坂城を不法占拠した家康の圧力で
北政所が新城へ出た後に家康が北政所がいた場所に住んだ。北政所は自分がもっとも影響を及ぼせる京に移ったわけだ。
その後の慶長5年6/18には早くも北政所が豊国社に増田と玄以も社参してるのが反家康の端緒と言われてる。
西軍は義演准后日記などで秀頼様衆と書かれているので世間的にも公認されてる。
岐阜城が落ちて美濃まで武断派が占拠したのを知った北政所は8/29より
禁裏に戦禍が及ぶのを案じて城の兵備を破壊し始めてるだけ。
大津城攻めが開始されると義演准后日記に9/9秀頼様祈祷代として金二十両・銀三枚が来ると書かれており
西軍戦勝の祈祷に大坂城の金が使われてるのがたびたび見受けられる。
大津城を開城させるため京の北政所は孝蔵主、大坂の淀殿は饗庭局、高野山は木食上人を投入し一致協力し
和睦後は大坂への人質として京極忠高を受け取る。
西軍敗北と聞くと9/17北政所は裸足で御苑内の勧修寺晴子の屋敷に逃げる。
9/22に京都新城へ北政所は戻る。言経卿記・孝亮宿禰記などで9/26に家康が大坂城へ入り秀頼と和睦をなすとしている。
10/14北政所側近の孝蔵主が罪に問われないように祈祷していたが、この日ついに不問になり西洞院時慶ら公家衆も安堵する。
10/15大坂と江戸の問題が処理され淀の供応で家康と和解し論功交渉スタート
19日秀忠・忠吉が前田玄以とともに豊国社へ参拝。
家康も北政所や淀の罪が問えないどころか饗庭局も不問。
さらに難航していた孝蔵主の処分まで不問にしないと秀頼の名で論功行賞すら行えなかったのが現実。
448人間七七四年:2013/11/29(金) 13:30:29.44 ID:NsCiPdm7
内府たがい条にも北政所が住んでたのを追放して家康が住んだと糾弾されてるように
北政所への接し方や秀頼(及び母)を敬う態度についても糾弾されてるわけで
西軍には彼女らの存在により
より強い正当性が追加されてると言うことであって
遺令による衆議を否定してない。
いや基本的には彼女らより衆議の方が優先される。
なぜなら彼女らは大坂城における内むきを取り仕切るもう1つの権威たる存在であり
表向きの権力である衆議とはその性格を異にしてる。
家康が大坂城を掌握するには力だけでは無理で内むきの権威を懐柔しなくては謀反人解除が達成されないと言うこと。
そこに豊臣譜代たる秀吉や北政所の子飼い武断派の重要性が出てくるわけ。

しかもその連署には家康の専横による前田や上杉への態度まで糾弾されていて
彼ら2大老の謀反人解除と言ってもよい内容。
これが発せられるや会津征伐軍は解体され
堀や最上と共同で上杉を攻める予定だった前田家も家康の指示を待たずに帰国してしまったために
上杉の脅威の前に堀まで西軍に内通を開始。
母を江戸に人質に取られていた前田利長はやや家康寄りの態度を示すが
前田兄弟は東西分離策をもって秀頼親衛隊たる立場だった利政は西軍側で挙兵。

また伏見城落城翌日に西軍首脳の北政所と輝元が豊国社で戦勝祈願 をしているがやはり三成は豊国社で祈願すら一切やってない。
北政所と親しい醍醐寺の座主義演が吉川ら毛利の東軍への降参を卑怯卑怯と罵っているなど首謀者毛利のあり得ない行動に、
毛利に賛同していた者たちは憤激していたし、
首謀者毛利の裏切りを受けて北政所が関が原後に京での東軍の乱暴を避けて後陽成天皇生母の屋敷に逃げ込んだ
これらの北政所人脈と三成も全く無関係。
449人間七七四年:2013/11/29(金) 22:01:57.06 ID:i5HB4BLY
菅原遼太の主張:関ヶ原の戦いの首謀者は毛利

全く何のの根拠もなし
こんなこと主張する奴は世界中探しても基地外の菅原しかいないw
450人間七七四年:2013/11/29(金) 22:08:03.32 ID:K0ONNpDB
家康は5大老筆頭だったんだろ。つまり秀頼が成人するまでは家康を中心に政権を運営するってことだろ。秀吉亡き後は
家康が政治を行うことは公に認められていたことだ。また秀吉と秀忠は義兄弟であって、徳川家と豊臣家は血縁関係にあ
る。家康は実力も待遇も秀吉亡き後の事実上の天下人であるから、天下人に対して独裁とは言いがかりだ。天下人は
独裁でいいんです。
451人間七七四年:2013/11/30(土) 09:21:48.82 ID:W3xNEHVU
>>446
キミは根本がわかっていない。
その隆景の行動と選択(>>440)というのは、毛利家の利益に基づいたものに決まってるだろ。
秀吉のための行動と選択ではない。それとも秀吉への義とか友情で行動したのか?(笑
『隆景が毛利宗家よりも、秀吉亡き豊臣家を優先する』根拠には全くなって いない。
毛利に不利益になってまで、秀吉亡き豊臣家に忠実であり続ける保証は全くない。

蟄居の意味知ってる?家康が向島に蟄居なんて初耳(笑
で。
会津征伐が家康の私戦と認定したのは誰?(>>437)
武断派の三成襲撃で、豊臣家が被った具体的な不利益は?(>>437)
三成の挙兵はクーデターね。これ当たり前。論理立てて否定してみなよ(笑
452人間七七四年:2013/11/30(土) 10:33:10.37 ID:MgWR9WS0
中井氏
一般に秀吉は自分の死後、秀頼成人までの政務代行者を家康に委ねた、との見方がされることが多い。
これは浅野家文書の「豊臣秀吉遺言覚書」等の記述が典拠になっているが、
原文を素直に読むと、あくまで家康は政務執行者の一人として位置づけられている。
秀吉の死後、三成はくどいほど、 十人衆(いわゆる五大老・五奉行)での合議を強調し、
秀吉薨去後の誓詞にも盛り込んでいる。

秀吉は死後の体制を合議制にして、特定大名の暴走を牽制できるようにしてるし、
それは歴史上、幼君を傀儡として専横する奸臣が現れることを危惧したから。
秀吉は利家らには実力、人望で全く勝てない家康は卑屈に振舞っていたが、
彼らが死ぬや豹変増長し、 威嚇脅迫を以って望み幼君の諸権力を盗み奪い、ついには殺し
女子供を含む大坂20万人を虐殺し、大坂を更地にするほど徹底的に痕跡を消し、屈辱を思い出せないように破壊に偏執した。
醜く汚ない老人家康は屈辱が忘れられず秀吉の墓を暴き神号を奪うなど暴虐無道な行いをし、
朝廷すら脅迫し好き勝手したキチガイ奸臣。
一.自然於喧嘩口論者致堪忍可属理運事
一.無実儀申上輩在之者双方召寄堅可被遂御糺明事
一.何たる儀も内府大納言殿へ得御意其次第相究候へと被成御意候事
一.諸事御仕置等之儀其軽重を決し十人之衆中之多分に付而可相究事
家康の耳に入れ、10人衆の裁判を催し相談を究めて鼎の軽重を決し御仕置きをすること。
つまり家康には独裁権など付与されてない。
453人間七七四年:2013/11/30(土) 10:55:29.06 ID:MgWR9WS0
天正12年4/10には家康が協力して秀吉に当たるなら信雄上洛成功の時は大坂返還と共に
信長が加賀を本願寺に返還すると約束していた御判に任せて本願寺に与えると出来もしないカラ約束。
(天正8年7/17に信長が和睦の時に加賀返還の神載起請文を出していたが、約束をシカトしていた)
4/23に北伊勢一揆が勃発するや秀吉の使者の鵜飼八蔵が本願寺を詰問し、
顕如はまったく知らないことなので、北伊勢坊主衆中へ御書を使わす約束をしてる。
また秀吉陣所へも馬樽3荷と使者を送ってる。顕如も戦況を冷静に観察し、劣勢の家康に組みしないことを宣言。

天正13年1/3に顕如が秀吉に使者を送った時は秀吉と人質秀康、誠仁親王にも挨拶してるな。
家康と徳川家臣から人質を取った秀吉は親家康だった紀伊和泉雑賀&長宗我部征伐のため出馬し
4/2には景勝に同じく親徳川の佐々成政討伐のため出馬を約束し、
4/3には紀伊雑賀にいた秀吉の陣所に顕如と教如が陣中見舞いし、
4/10には秀吉がついに高野山真言宗総本山金剛峯寺に到着し、
4/14に紀伊和泉平定と四国征伐宣言を小早川隆景に通知。
4/17には信雄と秀康も雑賀陣に到着。22日に秀吉が大坂へ凱旋しに出立。
4/25に信雄が四国出陣準備を命令。
5/4秀吉が摂津中島渡辺の地を顕如に与えて、顕如の大坂移転と近江末寺門徒による伽藍造営を始め、
本願寺の再興がなされたのであった。そして秀吉の卓越した戦略で家康はあっという間に完全孤立してしまった。
信長があれほど苦戦しまくった紀伊惣国一揆をいとも簡単に制圧してみせたのである。さすが天才である。
454人間七七四年:2013/11/30(土) 11:04:38.56 ID:1R4P9yRZ
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
455人間七七四年:2013/11/30(土) 11:06:25.89 ID:nueloS4d
>>人質秀康    家康と徳川家臣から人質を取った
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
石川は小牧長久手の頃から秀吉に半分篭絡されつつあったし、小笠原が石川の人質連れて秀吉の元に逃げたから
離反しただけ。翌年も家康は秀吉に従うどころか、諸城普請とか浜松会議とか北条との同盟強化とか対秀吉に備えて動きまくってたし
秀吉も天正13年中頃から天正14年初等まで上杉や真田などに天正14年春の家康討伐計画細かく書いてるが、いざその頃になるとビビリまくって信雄を家康の元に送って仲介させたり、
母と妹人質に出して「ワシに従ってくれ〜」とばかりに土下座してきたから、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
>>朝日姫は天正14年の話で、それ以前に佐々や長宗我部や紀州衆ら家康の同盟者は
>>秀吉に潰されまくってたのに、秀吉にビビって家康は見捨ててるから
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>家康の味方だった信濃衆も秀吉側に離反して
木曽なんか天正12年時点で離反してるし真田も小笠原も天正壬午の時の空手形や北条との領土交渉
など信濃内での領土問題で家康に不満もって離反しただけなのに無理矢理家康の天正13年の行動と結びつけるとか相当馬鹿だな
ウザイからさっさと出てけよクズ野郎
看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。
看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別
主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww 秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス佐々・信孝・秀次etc...
関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
456人間七七四年:2013/11/30(土) 11:07:06.31 ID:hPOhErPa
信雄がそんな追い詰められてるなら家康が美濃方面に石川派遣して秀吉方を攻撃するわけないし
あと秀吉の納馬の先が大阪ではなく縄生だというソースは?
ただ程近くの場所に一時退却するだけで納馬なんていわないだろ
あと当代記や三河物語でも信雄が勝手に和議を結んだので家康もそれに従うほかなくなったと書いている
講談だろうとなんだろうと成立年代も木造記と同じ
木造側に不利な要素だからといって木造の軍記を引用してた馬鹿に
秀吉側に不利な要素だからといって秀吉軍記引用がどうとか突っ込まれる言われはない
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状の事か。
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけだろうが
実際秀吉の予定とは全く別 何の根拠にもならんよ
楽田留守居部隊放置して東美濃やら多方面にただでさえ少ない兵力さいて
転進したら楽田留守居部隊や美濃方面留守居部隊に追撃されて撃破されるか
小牧山やら清洲陥落させられてゲームオーバ。美濃なんて高木や遠山・小里など一部除いて秀吉方
で背後の木曽も春に秀吉に寝返ってる状況
木造記って別名木造軍記ともいうものなんだが?ソースは伊勢北畠氏の研究 木造記成立の論考
>>土蔵や11/18利家にまで秀吉は語ってんじゃんよ。
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
>>信雄と家康がすでに追い詰められているのを
>>秀吉は知っていたからもうすぐ、この戦いはじき終わると終戦までのビジョンを
>>持っていて、見通しが付いていただけの話。そしてきっちり講和条件に秀吉は人質を取ってるし。
>>家康らに戦局を挽回する力はまったくないのだから。
小牧山や戸木や松ノ木ですら圧倒的大軍&周囲砦でガチガチな状況で落ちなかったのに
なぜ砦築いただけで勝ったかのように語るのか不明
>>それ砦をたんまり構築して桑名表を制圧して長島を威圧してる体制を構築したから納馬すると言ってるだけで
>>信雄を完全に八方塞りにしてんじゃんよ。秀吉は信雄を追い詰めてんだよ。
敵中孤立の戸木や周囲砦ばかりの小牧山や松ノ木ですら攻め崩せなかったのに
桑名や浜田や長島落としてもないのに制圧とか追い詰めてるとかアホかと。
>>放置してても信雄は降伏するしかない状況で王手
信雄が降伏したのは勝手にヘタレただけで降伏するしかない状況という根拠は全くなく
長島なんて秀吉が落とせなかった上記3城よりも遥かに堅固だから防戦なんて余裕
>>11/13には長島にも押詰城々数ヶ所と書いてて完全に包囲してる。
包囲しただけで城が落ちるなんて妄想もいいところ。三木に2年も要した雑魚秀吉じゃ尚更
>>納馬先として大坂ではなく、伊勢国の縄生城で秀吉が越年する姿勢に信雄が恐れて懇望してんのがわかる。
秀吉が越年するなんて秀吉が本心で考えたかどうかではなく秀吉からみた信雄の考えってだけだろ
信雄が秀吉が越年して城を攻める「様子」を見て取ってなどと秀吉が法螺ぶいているが丹羽宛では大阪に兵を納めるといっているし
>>信雄の実子や有楽斎の実子など人質に取る条件
信雄が勝手に和議結んだから当たり前
>>太田牛一の書いた太閤記は軍記であり、自分の仕えた秀頼の正当性を強調して
>>秀次を貶しまくるなど曲解を平気で書いててまったく史料として扱えない糞講談なのも知らんのか?
木造記を引用する馬鹿に言われたくないわ
>>家康は長島救援のために秀吉軍を引き付けるために軍事行動を東美濃で起こすことすらできずに
>>清洲城で震えて信雄の降伏を傍観してただけなんだから。
なぜ攻められている長島を無視して他地域に転戦するのか不明
ただでさえ圧倒的の大軍の秀吉は一部隊を東美濃に派遣して余裕で対応だろ
んで家康の後詰の心配のなくなった秀吉は長島攻略に専念できる絶好の状況創出だな
震えていたなんて史料は全く存在しない
>>家康の妄想どおりに北条軍が援軍に来たら
仮想敵国なのに来るわけねえだろアホ
>>伊木、池田・荒尾どころか土蔵や11/18利家にまで秀吉は語って
>>11/6に実際に加藤嘉明に縄尾(縄生)・桑部の両所に譜請を申しつけてる。
秀吉の書状は伊勢で越年し長島を攻略する、ではなく伊勢で越年し長島を攻略する様子を信雄が見て取って
等と信雄の目線を秀吉が勝手に推測してるだけで秀吉は納馬する予定なのが実際
そこにたまたま信雄が和議にのったから助かっただけ
457人間七七四年:2013/11/30(土) 11:07:29.63 ID:ybiucyt8
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
>>岡崎殿って信長の長女で五徳だよな。信雄は実子の他にも妹も人質に取られてたのかw
実子を人質に取ったというのは秀吉の垂れ流した事実を歪曲した誇大喧伝だな>>125
>>つかこの時点でもまだ岡崎殿という呼称で呼ばれていたほどの待遇だったんだな。
岡崎殿と呼ばれる事がなぜ待遇の良さに繋がるのか不明。元の身分が高い女性なら、親の死後もその威を受けて、
呼称だけそのまま残されただけ。
>>信雄にとっては信康の妻という徳川との絆を決定づける人物だから尊重してたんだろうな。
根拠なし
>>まぁ五徳を秀吉に差し出したから、信雄が改易された時に家康は擁護もせずに見捨てたんだな。
五徳なんて今や徳川にとって何の愛着も恩もない他人みたいなもんだろアホ
>>家康側家臣の書状では養子と書くが、秀吉の書状にははっきり人質と書かれているし、宣教師の記録でも人質って表記されてるし
宣教師の記録は>>122-123を読めばわかるがほとんど秀吉側が垂れ流した偽情報を元に事実化のように記載されてる、あってる記述の方が少ないほどのデッチ上げ史料にすぎないから
全くソースにならない。秀吉が人質と書いてるのも事実を歪曲した秀吉お得意の誇大喧伝で、その証拠に天正13年6月の信雄書状で「秀吉は於義井を人質として扱ってない」と書いてる
>>家康側は家臣への言い訳に「ひ、ひとじちじゃねぇよ・・・養子に差し出しただけなんだからね」って言ってたのか情けねぇ。
そんな事全く言ってない。秀吉が一時的な停戦の条件に家康の息子を養子にするという条件を、勝手に人質を取って勝利した、などと摩り替えただけ。その証拠に天正13年は両者とも冷戦状態が続き
秀吉側も徳川側も戦争への準備をちゃくちゃくと進めている。結局秀吉が国力差10分の1&離反の連鎖&領国機密露見で崩壊状態の家康に、いざ侵攻となったらビビリまくって
信雄を仲介に出して家康との戦い避けたうえに、母と妹を差し出して「ワシに従ってくれ〜」とばかりに土下座してきたから仕方なく応じてやっただけ。
>>秀吉は人質を一切、出してないし、一方的大勝利だったわけか。
秀吉は母と妹を国力差10分の1、木曽小笠原真田水野石川の離反とそれによる軍事機密露見の家康に対してビビリまくって人質として差し出してる
458人間七七四年:2013/11/30(土) 11:08:47.58 ID:joLRN0V4
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉の下記のようなデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな
秀康は史実で家康に嫌われまくってたから(秀康年譜)豊臣家から戻ってきた後も徳川家なんて継がなかったし
秀忠もいるし、子なんて作ろうと思えばいくらでも作れるから家康にとってそんな大きな存在じゃない。
その証明として秀忠が問題なく継いでるし、翌年は、家康は秀吉に屈服どころか>>130のように抵抗して
秀吉も家康討伐を進めていたし、戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
その証拠に家康は翌年も秀吉に抵抗しまくってたが、秀吉は殺害対象とはしていない
岡崎殿と呼ばれる事がなぜ待遇の良さに繋がるのか不明。元の身分が高い女性なら、親の死後もその威を受けて、
呼称だけそのまま残されただけ。
五徳なんて今や徳川にとって何の愛着も恩もない他人みたいなもんだろアホ
なんで信康が死んで、離縁した後の信長の娘持ち出して家康の敗北感に繋がるんだよボケ
宣教師の記録は>>122-123を読めばわかるがほとんど秀吉側が垂れ流した偽情報を元に事実化のように記載されてる、あってる記述の方が少ないほどのデッチ上げ史料にすぎないから
全くソースにならない。秀吉が人質と書いてるのも事実を歪曲した秀吉お得意の誇大喧伝で、その証拠に天正13年6月の信雄書状で「秀吉は於義井を人質として扱ってない」と書いてる
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
459人間七七四年:2013/11/30(土) 11:10:02.65 ID:+qr8IInH
秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝 
3月26日⇒佐竹    尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
4月8日秀吉⇒毛利輝元  伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
日付不明  秀吉⇒大御ちさま   加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww
5月9日 秀吉→毛利輝元   小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他) 周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね

加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
6月4日 秀吉→佐竹義重   伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww
9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明   信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいんですかね
で、 11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった

なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認?????? 明らかにデタラメ
460人間七七四年:2013/11/30(土) 11:12:09.26 ID:hPOhErPa
さしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
461人間七七四年:2013/11/30(土) 11:13:21.83 ID:ybiucyt8
小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。

結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
462人間七七四年:2013/11/30(土) 11:14:32.87 ID:OvYblCB1
信長の力を見抜き土下座外交を必死でした北条氏政が秀吉に従わなかったのは
秀吉の力のなさを見抜いてたからだろうな
運悪く周辺諸大名があっさり秀吉になびいてしまったが秀吉の天下がなあなあで形だけのものだった事は
秀吉が死んだだけで脆く崩れ去った事で裏打ちされてる
氏政は十分先見性のある武将だろう

秀吉の力を見誤ったんじゃなくて家康と伊達などの動向を見誤っただけ。

ぶっちゃけ秀吉の天下は圧倒的国力差と敵対勢力が別に抱えてた多くの敵を利用して
運だけで取ったようなもん。
実力でいえば相当無能な部類だと思う。関東でいえば小山、小田あたりにも負けそう
秀吉は元々あった対立関係利用して漁夫の利得ただけ。
中身のないゴミ政権だからすぐにボロが露呈した。
信長に従い土下座外交してた氏政が秀吉に従わなかったのも秀吉の実力のなさを見抜いてたからだろうな
本能寺時点でも光秀が運良く信長を打ち逆賊の汚名被り毛利も運良く追撃せず
柴田戦でも運良く勝家が雪で動けないのを利用し勝家と勝豊の運よく不仲なのを利用し寝返らせ
運良く権力基盤が弱い信孝を攻め運良く稲葉を寝返らせてへタレ前田が運よく軍を引きやっと勝てただけ
463人間七七四年:2013/11/30(土) 11:15:17.19 ID:+qr8IInH
秀吉は天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
464人間七七四年:2013/11/30(土) 11:16:29.09 ID:OvYblCB1
そもそも主家簒奪の名分として自分を利用するだけ利用してポイ捨てしたり
自分にいちゃもんつけて改易した秀吉の恩によって信雄や秀信が西軍についたというのは相当無理があるだろ。
恩どうこう言うなら高い身分まで取り立ててもらった秀吉の方が、ろくに援軍も出さず畿内平定にこき使われまくってた家康より遥かに恩を受けてるわな
つか、一番秀吉から恩を受けてるはずの福島加藤浅野らが家康に篭絡されてる時点で、
武功派が主家を考えず自分の好悪の感情だけで動いていたのがハッキリわかる。
家康が信長から恩を受けていたとか、もうね、笑わせるなと。
畿内平定に狩り出され、大国武田に攻められてもろくに助けてもくれず
散々いじめられてただろうが家康。
立身出生を全面的にお膳立てと棚ボタであげてやった秀吉の方が異常に恩受けてるだろうがクズ
家康は信長や秀吉に比べると明らかに寛容だからな
前田や浅野は家康の温情で領土減らされなかっただけ(無論家康の地盤がその時点で全く固まっていなかったのも大きいが)
島津に関しては黒田や加藤らが関ヶ原合戦で大敗後領国がからっぽの島津領に向けて突進していくのを止めて
島津を助けてやったし
上杉も毛利も佐竹も減封はしたものの改易されてないし
殺されてるのはほんの一部にすぎないしね
自分を取り立ててくれた恩人信長を暗殺し、家を簒奪した秀吉は主殺しと主家滅亡の極悪人。
だからこそ、自分の死後は子飼い系含め、秀吉から恩を受けた連中は皆秀吉を見捨て、家康に味方したというだけ。
465人間七七四年:2013/11/30(土) 11:17:39.41 ID:hPOhErPa
秀吉はある意味最強だよな
信雄・輝元・氏政にボロクズのように負ける武将なんてそうそういないだろうし
466人間七七四年:2013/11/30(土) 11:19:10.74 ID:hPOhErPa
>>信雄と家康が土下座した
信雄や家康は土下座なんてしてねーよボケhttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/717
>>22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任
はぁ?なんで東国なんてノータッチの場所が平定されてる事になるんだよ。
ひょっとして秀吉の「東国は氏政、北国は景勝まで秀吉の存分に候」とかデタラメをデッチあげている誇大喧伝を真に受けてるのか?。
>>12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質
アホかお前。天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
>>正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してる
そりゃ秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
467人間七七四年:2013/11/30(土) 11:20:54.30 ID:OvYblCB1
>>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく
だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。
家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw
>>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく
しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり
侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して
なんとか家康がこれに応じただけだし。、
>>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉
家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙
>>秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍だった
はぁ?
秀吉に対して信雄や秀信が恩があるわけねーだろクズw
信雄→主家簒奪に一時的に当主に祀り上げられながら、その後たいした理由もなく攻め込まれるなど
散々利用され、結果的に屈服を余儀なくされ、その後も無理矢理いちゃもんつけて改易
秀信→当時幼少だったにもかかわらず、秀吉の簒奪のために名目上の織田家当主として祀り上げられ
その後は秀信はほとんど無視の傀儡と化すほど、秀吉の勝手きままな専横によって織田政権は事実上崩壊。
主家を簒奪し滅ぼした張本人の秀吉に対して利用されただけの信雄や秀信が恩があるわけねーだろw
468人間七七四年:2013/11/30(土) 11:21:38.65 ID:OvYblCB1
>>彼らを関が原後に改易したのは家康
その後皆大名に復帰してるわアホ
織田長益、織田信包、織田信高、織田信貞を
取り立てた家康が織田に復讐www
信雄の息子に至っては徳川家の庇護をあてにして生活していたのに
流石武田正嫡の武田信道が日本本土から隔離されて
宇喜多秀家と同レベルの冷遇をされただけはあるなw
家康は羽柴も織田も後北条も再興や存続を許しているけど
唯一存続を許さなかったのが武田だもんな。
挙句の果てには自分の息子に武田氏始祖の武田信義の名前をもじって名付け
まるで己の息子が武田始祖であるかのような振る舞いをしている有様
しまいには信玄直系を大久保事件にかこつけて無一文で伊豆大島に配流し
結局武田信道は伊豆大島で生涯を終えてしまうんだよね。
後北条や織田、羽柴ですら石高を貰って徳川幕府の体制下にいたことを考えると
家康の武田に対する扱いは極めて冷酷と言わざるを得ない
469人間七七四年:2013/11/30(土) 11:28:44.86 ID:MgWR9WS0
信雄と家康が土下座したので、 講和してやり11/21に近江坂本を発して帰京するや、
22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任じて武功を讃えた。
12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質として浜松を出発させた。
20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる。

信長の譲位要求の脅迫では仙洞御所すら造ろうとしない悪魔のような所業だけど、
秀吉は家康と戦っている最中であっても、正親町天皇が譲位の思召を伝えると
すぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してるからなー。
譲位と新帝即位は天正14年(文禄元年)
正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく、
秀吉は母を10/18に三河岡崎に送り、11/1に家康がやっと上洛してきて、
秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に正三位に任じてもらい、
7日に譲位と新帝即位式典と間に合わせた。
家康がグダグダ言ってたから母を送ってまで、
後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉はやはり凄いよ。
11日、秀吉は大友支援で筑前に入った黒田や小早川と吉川の陣に検使として森吉成を派遣、
12日には前日に岡崎に着いた家康が早速、井伊直政を護衛に秀吉の母を大坂に送ってる。
新天皇の威令を広める為に自分の母を公を優先し人質に出す秀吉の忠勤の姿勢は素晴らしい一方、
私を優先するヘタレびびり家康の天皇への不忠っぷりは非難されるべき。
470人間七七四年:2013/11/30(土) 11:34:49.09 ID:MgWR9WS0
秀吉は充分に主家に義理立てしたじゃんよ。
信孝を切腹に追い込むほど信雄は恨んでいたくらいで、
信雄と信孝は超アホで調停不能で、
信長の葬儀すら誰もやろうとしなかった中で、
秀吉は朝廷から故信長の昇進を土産に弔ったし、
信雄の官位官職も上げまくって後ろ盾になってんじゃん。
秀信も父の信忠の岐阜を与えられ感謝してたから、
実際、関ヶ原では信雄も秀信も西軍として行動したし、
大坂陣の時も豊臣と一緒に滅亡しないギリギリまで大坂にいた。
信雄や秀信の行動をみたら織田家は秀吉に感謝していたのと同時に、
織田が家康を嫌ってたのは明白だろ。
だいたい、秀吉や光秀らは、佐久間や柴田らと違い、
自らの武辺と才覚で國持ちになったようなもんで、
信長はむしろ移動を命じたりと戦略、外交の邪魔ばかりしてたし、
猜疑心を解くために献上品たんまり信長に送ってんじゃん。
池田も丹羽も柴田も本能寺の変後にすぐ信長遺領分配を指揮してたくらい人徳がなかった。
逆に豊臣恩顧なんて秀吉の出世のおかげで、たまたま秀吉の部下だったおかげで
身が引き立てられただけで大した武将いないだろ?
秀吉は信雄や秀信を見捨てたりしなかった。
しかし、家康は秀頼どころか国松まで殺し、
秀信を高野山に幽閉し22才で死に至らしめた。
信雄だって公家や寺社に強い影響力を公使できる
京都五山の僧侶達が全力で擁護で助命を何とか勝ちとったほど難航した。
勝てない相手が死ぬまでは卑屈なまでに篤実な善人顔を装おっておいて、
いざ勝てない相手が死ぬやたちまち態度を豹変させて、
どんだけ織田や豊臣に対して冷酷非道だよ。
実力を競って勝ち取る下克上ならまだいい。
しかし家康は幼君が成長しきる前に、
圧倒的立場を築き上げて、
国内が平和になっていたにも関わらず、
平時に乱を望んで天下を盗んだに過ぎない。
そして女子供を含む20万人大虐殺し、大坂を秀吉時代の痕跡をすべて消して更地にした。
想いっきり屈折した嫉妬と屈辱の人生を思い出す風景を消そうとするキチガイ老人の醜い人間性が垣間見える。
471人間七七四年:2013/11/30(土) 11:51:06.12 ID:Tsn7lCNy
>>446
内府たがい条はもともと全国に発布して家康を弾劾しようとした文書ではなかった
あくまで内々の愚痴をかき集めて内部で読みまわすだけのもの
現代で言うならSNSに集まって仲間内で愚痴や悪口を書き込む程度のことだった
だから家康の近くでは絶対に言えないような仰々しいタイトルや強気の口調を使っていたわけ
それを石田とその舎弟の宇喜多の企てによって外部に漏洩したのがまずかった
もしも激怒した家康が帰還すれば改易どころか処刑もありえるからね
石田と宇喜多はそれによって全員が家康と戦う気になるだろうと計算したのだがそれが誤算だった
宇喜多以外の署名した大老・奉行は我関せずを貫くことで家康の許しを請おうとしてしまった
そして石田と宇喜多を関ヶ原の処刑ショーに差し出して除名嘆願をしたんだよ
関ヶ原の戦いで大逆転できた?関ヶ原は単に首謀者たちをリンチするだけの場所
だから首謀者たる文治派以外は戦うことなく見物していたわけ
そもそも西軍にはいかなる正統性もなく文治派が権力奪取を目的としただけの謀反集団だった
472人間七七四年:2013/11/30(土) 11:51:33.62 ID:joLRN0V4
秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。

その後妹も同じように殺されてる。

秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね

フロイス日本史22章より。関白はすこぶる狡猾であったからこの二人の武将(家康と信雄)から、己が身の安全を確保した上でないと、
北条殿に対する攻撃を開始しようとはしなかった。それがために彼はこれらの武将たちに対して並々ならぬ愛情を示し
法外な好意を与え、その関係は主従というよりは、むしろ同僚に対してのように思われた。このようにして彼らは関白から強力な指示を得、
かつ彼と結ばれていたのである。
あるときなど、関白は家康を援助するために、金九万クルザード近くを無償に与えた程で、日本では例を見ない事であった。
さらに彼はこれらの武将にたいして、北条殿の諸国を制服した暁には、それらを彼らと分かち合おうと言い、漸次このやり方でもって
彼らを自らの支配と命令下に置く事を成就した。
そして彼らを政庁へ召還し、戦端を開くにさいして安んじて通過できるようにしようと、彼らの主城を明け渡し
さらに用心のためその守備兵を自分の兵と交代させたいと要請した。
…関白はきわめて抜け目なく用心深い人物であり彼らからは人質をとって常時手許に留めており時には贈賄によって篭絡するかと思うと
自らに有利とみれば厳重な懲罰をもって彼らに臨んだからである。
特に全ての武将達が関白に大いなる恐怖心を抱いていた。
関白は彼らに対してほしいままに振舞うを得たのである。
473人間七七四年:2013/11/30(土) 11:52:43.06 ID:ybiucyt8
そもそも豊臣政権自体が単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)

>>勝てない相手が死ぬまでは卑屈なまでに篤実な善人顔を装おっておいて、

信雄家康は秀吉に圧勝したじゃん。135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
474人間七七四年:2013/11/30(土) 11:54:25.64 ID:hPOhErPa
>>自分には絶対勝てないと分かっていた秀吉にはへりくだり
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。

戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
475人間七七四年:2013/11/30(土) 12:01:32.13 ID:YYxtvgNz
>>信雄と家康が土下座した
信雄や家康は土下座なんてしてねーよボケhttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/717
>>22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任
はぁ?なんで東国なんてノータッチの場所が平定されてる事になるんだよ。
ひょっとして秀吉の「東国は氏政、北国は景勝まで秀吉の存分に候」とかデタラメをデッチあげている誇大喧伝を真に受けてるのか?。
>>12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質
アホかお前。天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
>>正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してる
そりゃ秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
476451:2013/11/30(土) 13:04:44.20 ID:W3xNEHVU
>>446
なんだよ(笑
結局長文コピペでレス流して逃亡、ってことね。
477人間七七四年:2013/11/30(土) 17:56:39.61 ID:MgWR9WS0
武田旧臣で籠城と調略の天才だった依田信蕃がいなかったら、
甲斐府中でビビって引きこもっていた家康は北条に大敗して
甲斐も信濃も手に入れることは出来なかった。
依田信蕃はもっと評価されるべき名将。 依田は武田軍団内でも随一の名将だからな。
孤軍奮闘の田中城で結局最後まで徳川方相手に粘り勝ったし、
天正壬午やその後の佐久郡平定戦でも大活躍したからね。

家康の威圧にもまったく屈せず勝頼死去確認と穴山からの開城勧告を得て
やっと開城したほど徹底抗戦したので、依田の旧武田遺臣からの信用性抜群だったのが
幸いして調略がうまくいっていたからね。
特に信濃に進出していた北条軍の背後を遮断するべく佐久郡に戻ってきた依田が
9/28真田家を調略したのは大金星
これがおきて北条は窮してしまい、1ヶ月後の10/29には北条と徳川の和睦成立だからね。
9/13の段階では宇都宮氏を相手に家康は劣勢のあまり、
秀吉と丹羽長秀と柴田勝家がもうすぐ援軍にくるから北条なんて掃討できる
などと、大ウソを吐いてまで、自陣営が見限られないように
必死に佐竹など北関東連合を繋ぎとめてるほど劣勢だったからね。

天正12年戦役でも秀吉に圧倒されヤバくなった家康は、
長曾我部らに対して、もうすぐ北条の援軍がくるから!
とか言い出して白昼夢願望を語り始めたよなw
だいたいウソ援軍話を家康が言い出した時は超劣勢で、
他大名に見限られないよう繋ぎ止める為の虚勢。
秀吉にビビって清洲城で引き篭もったまま動けず
信雄への援軍すら出せずに見捨てたくらいヘタレてたのに
秀吉から懇望があったからとか負け惜しみ言ってるくらいw
家康は人質提出でも、養子だよ!とかいい訳するし、
ハッタリとウソで生きてきた詐欺師なのが家康。
478人間七七四年:2013/11/30(土) 18:00:10.19 ID:MgWR9WS0
天正12年戦役は秀吉が圧倒し押しきった形で終わったからね。
家康信雄連合は、結局のところ秀吉から雀の涙の如き
一寸の地でも奪って意地を見せることすら出来なかった程に一方的だった。
やっぱり家康を天正12年にフルボッコした秀吉が死んだ後の
豊臣家には指導者皆無で求心力がなかったから、
皆が自分勝手やり出し見限られるのは止むを得なかったけど、
別に家康が凄かったわけでも無い。利家如きにビビってたくらいだしな。
つか家康が恐れた人物なんて逸話を拾うと30人はいるよなw

家康は武断派に騙されて、急いで西上してきただけで
それ以前はビビって江戸から動かなかったじゃん。
関ヶ原だって井伊とかもいたが、
ほとんど豊臣恩顧が戦ってただけじゃん。家康は棚ぼたなだけだし
479人間七七四年:2013/11/30(土) 18:02:32.22 ID:MgWR9WS0
秀吉は国家創業の事業をやってるから、
国づくりと整備の関係行政文書がたんまり残っている。
刀狩りによる兵農分離→検地後の農民への土地分配による中間搾取層の廃止からくる新税収システム
転封による武家と土地の切り離しと、それによる国人の官僚化と、
取次・奏者・指南と言う手筋システムによって大名後見人という内政干渉と蔵入地設置による全国監視体制。
桃山時代とは旧態依然のボロボロの統治体制から
時代に合う新政策の試行錯誤により、新たに生み出された
全国統治政策であり、惣村一揆や堺などの商人コミニティによる都市国家など
新統治方式である地域の代表たちによる合議体制と全国の中央集権的統治体制の
共存を進めた結果が大老と奉行による政治体制だったが、秀吉の死が早過ぎて、戦乱の気風が風化する時が足らなかった。
家康にはそういう国家を創業する能力がないので、関係書類があまりなく、統治体制も豊臣政権の劣化コピーだった。
480人間七七四年:2013/11/30(土) 18:04:18.33 ID:MgWR9WS0
アンチ秀吉大量コピペ厨基地外、日本史板で論破され逃亡

・日記の日付の下に書かれてある干支の意味を知らず、曲解を展開。
あまりの無知さを日本史板住民に飽きれられ、スレから落ちろと言われると、捏造コピペ大量貼り付けして逃亡。
・秀吉は家康に土下座して妹を人質に差し出してきたという捏造コピペをあちこちに貼り付け。
朝日姫が家康の人質だったという一次史料を出せと言われると、全部無視して逃亡。
・「家忠日記」で、家忠本人の行動には主語がついていないことを知らず、家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所を提示しろと言われると、何も言わずに逃亡。
・大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っているが、「大政所御帰候」がどうしても訳せず、
すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り、大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。
天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して
一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろ、と捏造。
大政所に家康は同行していないし、自由に京や大阪に住める人質がいるの、と問われると無視して逃亡。
天正14年11月12日以降も大政所が三河にいたという一次史料を上げろと言われると、それも一切無視して逃亡。

アンチ秀吉大量コピペ厨の特徴

基本的に自分の間違いは訂正しない。
常に上から目線で、相手をバカ、ハゲ、タコ、と罵倒しながら、自分の捏造コピペを大量に貼りつければ
相手が戦意喪失して自分の曲解が通ると信じている馬鹿。
史料読解は一切できず、どれだけ史料を提示されようが、自分の我流曲解以外は信じない重度の基地外。

秀吉や三成の悪口中傷して回るアンチ豊臣政権のきちがい在日チョンが
武田厨を装ってコピペ爆撃する自作自演にお気をつけください。
他人の過去レスを盗用し勝手にコピペ爆撃している中に
こっそり自分の作ったアンチ豊臣のレスを巧妙に混ぜているきちがいです。
武田関連の昔の他人のレスを大量にコピペして武田厨を陥れる工作をしつつ
自分が書いた輝元や家康を擁護レスで混ぜて秀吉を巧妙に貶めているコピペ厨。
日本史板・三戦板・歴史難民板・大河ドラマ板・歴史ゲーム板などで爆撃。
481人間七七四年:2013/11/30(土) 18:24:58.79 ID:MgWR9WS0
関が原?戦果挙げてたのは島左近だろ。足引っ張ったのは織田信雄、西軍から白金2000枚パクったw

清華家の家格を持つ北畠氏のまま、
関ヶ原の戦いの西軍首謀者だった輝元への懲罰でも強制出家が強要されていて、
結局のところ家臣らを通して必死な命乞い嘆願が行なわれて、
責任を取っての名誉を守る自刃を回避する武士の風上にもおけぬヘタレに対する恥辱的な死一等免除の慈悲であり、
武人としての生命を絶たれたと言っても良い死ぬのが怖い愚主を内外に知らしめる処置なのである。

北畠信雄の清華家の家格を上回るために秀吉は藤原氏の養子にならないといけなかったくらいだからね。
実際、北畠氏の家格は征夷大将軍と並ぶ鎮守府大将軍として地方政権を樹立できる資格も余裕で持ってるからね。
そりゃあ北畠の名前にすがってれば高貴な殿上人としてどんな大罪であろうと
死一等免除の遠罪レベルにしてもらえるんだから信雄だって織田なんてクソに戻りたくはないだろうよ。

天正12年戦役で信雄家康が秀吉に負けたから鎮守府大将軍として政権を立てられ無かったが、
秀吉に勝ってたら朝廷から任じられ北畠政権が樹立できただろうね。
実際は信雄と家康が一方的にフルボッコされ、家康は清洲、信雄は長島で、蛇に睨まれた蛙のように恐怖で固まってただけ。
家康らから人質を取る約束も成立し信雄と家康が土下座したので、 講和してやり11/21に近江坂本を発して帰京するや、
11/22日には東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任じて武功を讃えた。
482人間七七四年:2013/11/30(土) 20:05:08.50 ID:1R4P9yRZ
>>478
無知すぎてワロタwwwww
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太

また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに
家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
483人間七七四年:2013/11/30(土) 20:05:48.48 ID:+qr8IInH
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
484人間七七四年:2013/11/30(土) 20:06:16.85 ID:ybiucyt8
秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝

尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定w
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないw
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは2人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるしそれ以外のやつもほとんど織田信雄分限帳で生きてるのがわかるのにwww
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね。なぜ今更付け城の話を????
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記・織田信雄分限帳など)
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)w→いやはやこれは笑うしかないw3月上旬に留守居兵ろくにいなく、陥落した犬山を4月ってw
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→2人を除いて生き残ってる

尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分w これが本当なら防衛どころじゃないw
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンwギャグがすぎるだろwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るw
9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しい?
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
9月時点での懇望を断ったのに11月では容認 明らかにデタラメ
485人間七七四年:2013/11/30(土) 20:06:57.24 ID:nueloS4d
>>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく
だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。
家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw
>>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく
しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり
侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して
なんとか家康がこれに応じただけだし。、
>>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉
家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙
>>秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍だった
はぁ?
秀吉に対して信雄や秀信が恩があるわけねーだろクズw
信雄→主家簒奪に一時的に当主に祀り上げられながら、その後たいした理由もなく攻め込まれるなど
散々利用され、結果的に屈服を余儀なくされ、その後も無理矢理いちゃもんつけて改易
秀信→当時幼少だったにもかかわらず、秀吉の簒奪のために名目上の織田家当主として祀り上げられ
その後は秀信はほとんど無視の傀儡と化すほど、秀吉の勝手きままな専横によって織田政権は事実上崩壊。
主家を簒奪し滅ぼした張本人の秀吉に対して利用されただけの信雄や秀信が恩があるわけねーだろw
>>彼らを関が原後に改易したのは家康
その後皆大名に復帰してるわアホ
織田長益、織田信包、織田信高、織田信貞を
取り立てた家康が織田に復讐www
信雄の息子に至っては徳川家の庇護をあてにして生活していたのに
流石武田正嫡の武田信道が日本本土から隔離されて
宇喜多秀家と同レベルの冷遇をされただけはあるなw
家康は羽柴も織田も後北条も再興や存続を許しているけど
唯一存続を許さなかったのが武田だもんな。
挙句の果てには自分の息子に武田氏始祖の武田信義の名前をもじって名付け
まるで己の息子が武田始祖であるかのような振る舞いをしている有様
しまいには信玄直系を大久保事件にかこつけて無一文で伊豆大島に配流し
結局武田信道は伊豆大島で生涯を終えてしまうんだよね。
後北条や織田、羽柴ですら石高を貰って徳川幕府の体制下にいたことを考えると
家康の武田に対する扱いは極めて冷酷と言わざるを得ない
486人間七七四年:2013/11/30(土) 20:07:24.02 ID:+qr8IInH
小牧長久手が秀吉圧勝とか馬鹿堀に毒されたアホがまた暴れてるな
135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
487人間七七四年:2013/11/30(土) 20:09:11.93 ID:nueloS4d
むしろそのくらいじゃないと説明つかないわな
何せこの後は8倍もの圧倒的兵力差がありながら秀吉はわずか16000程度の雑魚信雄に負けまくるからね
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
    →伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる

上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
488人間七七四年:2013/11/30(土) 20:09:53.03 ID:joLRN0V4
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じる
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12秀吉→八重羽・富田・津田 木造の城がいまだ落ちず小島と相談して砦を4つ設けるよう指示
田丸・榊原・小島に申し付けるよう指示したので相談するように指示
4/12秀吉→榊原・小島・田丸 木造の砦は2箇所は小島、一箇所は田丸、一回書は榊原が申し付けるよう指示
各自相談し城中の者を一人も逃さないよう普請を堅固に申し付ける事を指示
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが敵に数多手負い死人が出た
4/23信雄→吉村 今尾口へ秀吉方兵力が出撃してきた旨を了承 吉村へ必ず加勢を申し付ける旨を伝える
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
信雄→吉村 秀吉が其の表(松ノ木)出兵してきたため信雄より加勢を使わす事を約束。伊勢方面の事を申し付けるため
本日(5/3)信雄が小牧より長島へ帰った事を伝える
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/5 信雄→吉村 松ノ木の加勢と防衛について詳細に命じる
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
489人間七七四年:2013/11/30(土) 20:10:20.43 ID:uOoFQ3n3
小牧長久手合戦は、135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる)
VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。
神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
信雄は伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって
がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。
秀吉の戦略は一巻して家康打倒なので戦略目的は全く達成されてない
あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる
天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり)
490人間七七四年:2013/11/30(土) 20:10:47.86 ID:+qr8IInH
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる。完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ。家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
491人間七七四年:2013/11/30(土) 20:11:21.41 ID:hPOhErPa
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は
天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
492人間七七四年:2013/11/30(土) 20:11:42.90 ID:uOoFQ3n3
さしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
493人間七七四年:2013/11/30(土) 20:12:13.05 ID:ybiucyt8
秀吉はある意味最強だよな
信雄・輝元・氏政にボロクズのように負ける武将なんてそうそういないだろうし
494人間七七四年:2013/11/30(土) 20:13:49.38 ID:Tsn7lCNy
豊臣政権の最大の問題点は讒言を繰り返し政権を混乱させてきた奸臣連中だった
奸臣連中の讒言により利休や秀次が粛清され豊臣政権はそのたびに新しい形を模索する羽目になり
秀吉は政権としての基盤を固めることが出来なかった
家康は豊臣政権から奸臣とその支援者達を排除することにより日本の安定統治を目指していたが
そういう家康の姿勢にこれまでやりたい放題を享受してきた奸臣が反発するのは当たり前だろう
彼らは秀次の時と同じ謀反人と糾弾する戦法を繰り返せば家康を排除できると考えたが
奸臣たちの糾弾騒ぎに多くの大名が辟易していたことに気付かなかった
その結果関ヶ原ではほとんどの西軍大名が戦闘を蜂起してしまい惨敗を喫するのは必然の結果だった
495人間七七四年:2013/11/30(土) 21:08:02.17 ID:pDqaO0zP
毛利輝元って大友や尼子残党や宇喜多や河野やらに苦しめられまくった戦国屈指の凡将なんだが
秀吉にだけは勝ててるんだよな。熊見川・祝山・備前児島をはじめ美作攻防。
宇喜多も不運だったわな。単体なら勝てる相手に秀吉が出てきたせいで足引っ張りまくって
496人間七七四年:2013/11/30(土) 21:09:13.96 ID:pDqaO0zP
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
497人間七七四年:2013/11/30(土) 21:10:08.11 ID:ybiucyt8
直接対決で家康どころか信雄相手に135000も動員してわずか20000そこそこの織田徳川相手に
長久手で1万戦死者だす歴史的大敗
その後の攻防も二重堀で大敗戸木で負け松ノ木で負け東駒野で負け蟹江で負けと何一ついいところなく
1年かけて尾張半分すら切り取れず諦めて大阪に納馬しようとしてたら
たまたま信雄が和議にのってくれただけじゃねぇかww
しかも天正13年に石川木曽小笠原水野真田が徳川から離反し軍事機密露見
天正大地震と天正11年からの徳政連発で徳川領国がめちゃめちゃになったのに
秀吉はビビリまくって母と妹人質に出す醜態っぷりじゃねぇかw
498人間七七四年:2013/11/30(土) 21:10:52.54 ID:joLRN0V4
天正11年の滝川征伐でもボロクズのようにやられてるよ
3/4柴田勝家→填島宛書状・滝川一益事書
大軍率いて滝川軍を攻め崩そうと出てきた秀吉は桑名攻防で一益の鉄砲隊と足軽隊を交差した奇襲戦術にあって大苦戦
結局柴田が倒れて単独で抗戦しきれなくなって降伏しただけだしそれまで兵糧攻めにしようとしても
抗戦が激しく手に負えない状態だった(桑田氏論文)
499人間七七四年:2013/11/30(土) 21:11:30.08 ID:nueloS4d
秀吉は武力平定路線が不可能だと自身で悟り朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬

小牧長久手の戦いは7倍もの圧倒的兵力差がありながら
短期決戦しかけ三河方面への大規模軍事作戦が大敗により失敗
その後家康が後詰にこれない木曽川筋を圧倒的大軍でダラダラ攻め取るのがやっと
長久保奪われ神戸も奪われ蟹江でも負け戸木城でも松ノ木でも負け
おまけに夏の対陣でも圧倒的兵力差がありながら砦間の攻防で苦戦して退却
秋になって権力基盤がガタガタで北畠の傀儡状況だったほどの弱い信雄の領国に苅田や放火の応酬を行って
示威的行動してたらヘタレ信雄がビビって勝手に和議を結んだからなんとかなっただけ
秀吉が将軍というか朝廷権威によるよりも武力平定路線を歩んでいたが小牧長久手の戦いを契機に
朝廷への急速な接近をしていくのは近世成立記の大規模戦争論文でも学説でほぼ一致する所と言われてる
近世成立期の大規模戦争、小牧長久手の戦いの構造、秀吉の天下統一戦争、戦国織豊期の朝廷と公家社会
池上裕子氏「日本の歴史 15織豊政権と江戸幕府」
立花京子「織豊期研究」「秀吉権力と「天皇の静謐」」
このあたりも上記>>18と同じ見解を示している

秀吉は84年から頻繁に上洛したり御所を造営したり禁裏での饗応に参加したり
連歌興行に参加したり積極的に朝廷への接触をはかるようになるよ。
また秀吉がこれ以前にはほとんど見られなかった献上行為
が天正12年6月 秀吉⇒天皇 鳥、百羽
天正13年3月 秀吉⇒天皇 太刀代折り紙 銀百枚
       秀吉⇒誠仁親王 銀50枚
       秀吉⇒和仁親王 銀20枚
    7月 秀吉⇒天皇  白鳥三 蝶子三十
        ⇒誠仁親王  白鳥ニ 綿百吊 
        ⇒和仁親王  太刀
        ⇒若御方   料紙

と献品しまくり

また寺社衆への所領安堵もしまくっている    
長久手で一敗地にまみれた秀吉が朝廷を利用する事を考えたんだろう
また豊臣政権の政権基盤の弱さを象徴するのが外様大名の広域な版図だな
それも当たり前。軍事力で屈服させたわけじゃなく惣無事令通達による停戦で平定しただけなんだから
トップが死ねばあっと言う間に政権が崩れるなんて誰の目にも明らか
500人間七七四年:2013/11/30(土) 21:12:22.51 ID:+qr8IInH
小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。

結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
秀吉自体が土下座と棚ボタと謀略で成り上がってきただけの人だから純粋な戦がゴミみたいに弱いのは仕方がない。
雑魚の毛利に連戦連敗するアホなんてそうそういないよ。
毛利なんて5万石程度の南条にすら攻略失敗したり20万石そこそこの宇喜多にも野戦でガチ大敗するくらい弱い軍隊なのに
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
501人間七七四年:2013/11/30(土) 21:13:09.99 ID:ybiucyt8
>>秀吉は信雄を長島城へ追い詰めて屈服させてる。
信雄も家康も全く追い詰められてもなければ屈服もしてねーよクズ
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼しこれにまんまと信雄が乗って
しまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない。兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている。ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が
起きたりしている)天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する。四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた
2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる。其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず公事に抜かりないように。
信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす。2/10くらいには尾張迄出馬するなどと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている。
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
502人間七七四年:2013/11/30(土) 21:14:38.44 ID:hPOhErPa
フロイス日本史22章より。関白はすこぶる狡猾であったからこの二人の武将(家康と信雄)から、己が身の安全を確保した上でないと、
北条殿に対する攻撃を開始しようとはしなかった。それがために彼はこれらの武将たちに対して並々ならぬ愛情を示し
法外な好意を与え、その関係は主従というよりは、むしろ同僚に対してのように思われた。このようにして彼らは関白から強力な指示を得、
かつ彼と結ばれていたのである。
あるときなど、関白は家康を援助するために、金九万クルザード近くを無償に与えた程で、日本では例を見ない事であった。
さらに彼はこれらの武将にたいして、北条殿の諸国を制服した暁には、それらを彼らと分かち合おうと言い、漸次このやり方でもって
彼らを自らの支配と命令下に置く事を成就した。
そして彼らを政庁へ召還し、戦端を開くにさいして安んじて通過できるようにしようと、彼らの主城を明け渡し
さらに用心のためその守備兵を自分の兵と交代させたいと要請した。
…関白はきわめて抜け目なく用心深い人物であり彼らからは人質をとって常時手許に留めており時には贈賄によって篭絡するかと思うと
自らに有利とみれば厳重な懲罰をもって彼らに臨んだからである。
特に全ての武将達が関白に大いなる恐怖心を抱いていた。
関白は彼らに対してほしいままに振舞うを得たのである。
秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。

その後妹も同じように殺されてる。

秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね
503人間七七四年:2013/11/30(土) 21:17:01.04 ID:+qr8IInH
さしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
504人間七七四年:2013/11/30(土) 21:18:55.79 ID:joLRN0V4
徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している。家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の
兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に
転進せざるをえなくなり不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で
手も足も出ず諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
北条徳川同盟が本格的に機能して北条軍徳川軍総力で対秀吉に臨めてたら確実に秀吉は戦死してただろうな。
135000の兵力があっても合計わずか16000程度の雑魚信雄に決戦で1万人ぶち殺される強さしか発揮できないレベルの指揮能力の秀吉なら
あと徳川北条の計40000が加われば確実に秀吉なんて討ち取れる。
開戦前から重臣がこぞって秀吉に人質を奪われていたために、あの会戦早々から領国が離反連鎖で崩壊状態の信雄ですら
松ノ木城・戸木城・浜田城・蟹江・前田・下市場・長久保・東駒野・二重掘・浜田城など秀吉に勝ちまくってたからね。
尾張でも石田毛利氏や毛利秀頼、松ノ木城近辺の諸将など会戦当初からあっさり信雄を見捨てててるのに
自力じゃ全くと言っていいほど秀吉は切り取れてないしな
確かに兵力の2乗=戦力だからね。
兵力が3倍程度に増えるなら、当然豊臣方の損害は史実の9倍の9万程度に増えるからな。
それこそ秀吉が討ち取られてていいレベルだろ。
505人間七七四年:2013/11/30(土) 21:19:38.30 ID:+qr8IInH
そもそも南伊勢も美濃も尾張の一部、木曽谷まで会戦そうそう織田方から羽柴方に寝返ってるってて
残りの地域でしか戦闘は行われてないじゃん
領国から遥かに離れた戸木城も秀吉方は敗北
秀吉方本陣から近距離の松ノ木城でも秀吉方は敗北(4月〜6月頃は戦闘が確認でき、信雄方から何回も戦功を賞されてる)
二重掘合戦では信雄方に奇襲くらって楽田から敗走(4月下旬→5月上旬にかけて)
おまけに前田・下市場・浜田・蟹江・長久保あたりは秀吉方本陣の大垣・伊勢浜田などから近距離にある拠点なのに信雄方に奪回されてる

信雄や家康は降伏なんてしてない
一時講和停戦しただけ。翌年も家康なんか浜松会議で抗戦する気まんまんなくらいに軍議開いたり
北条との同盟強化や諸城普請、人質収集など会戦に備え、秀吉方も秋には着々と出兵計画進めていたが
直前の天正14年春になったら秀吉がビビッて織田信雄に取り成し仲介を必至に依頼して、おまけに母と妹を人質に出して
「ワシに従ってくれ〜」とばかり土下座してきたので余りにかわいそうになった家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と離反の連鎖で領国軍事機密露見&天正11年からの徳政連発で極度に疲弊してたのに
ビビリまくってたのが実態
506人間七七四年:2013/11/30(土) 21:20:26.26 ID:ybiucyt8
尾張松ノ木・脇田近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切りが多く発生したわけではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
507人間七七四年:2013/11/30(土) 21:20:59.24 ID:hPOhErPa
秀吉が実力で勝った戦なんてないよ。小田原合戦もほとんど徳川や上杉・真田・佐竹らが北条方の兵力が集中した下野・上野などの要衝を自力で落したのに対し
秀吉は24万もの規格外の兵力でもって500か1000しかいない韮山城や小田原城や忍城で醜態晒しまくってたからね。
結局わずか34000程度の北条に対し24万程度の瞬殺するに十分すぎる兵力で持って前田重臣や堀尾嫡男、一柳など重臣を悉く殺されまくって北条方の重臣が運よく戦意なし&伊達の帰参の影響などで
開城になっただけだし。
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
508人間七七四年:2013/11/30(土) 21:21:57.99 ID:BXCt3MNG
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
509人間七七四年:2013/11/30(土) 21:22:10.22 ID:sQKa7A84
>>434
加藤清正などは秀吉生前に秀頼への忠誠と法の順守を自ら起請文で
誓っているわけでそれを自ら反故にしたら本人が痛くも痒くもなくても
客観的評価として非難轟々なのは当然でしょう。
だいたい機能してないから破っていいなんて法の概念そのものを
否定した野蛮人の発想だわ。清正がその理屈に従ったっていうのなら
あまりにもクズ過ぎる。

関ケ原の結果豊臣家がその後どうなったかの知らないわけじゃないよね?
本来なら率先して豊臣家を支えるべき立場の人間が
その役目を果たさなかったのが不利益じゃない、と思うなら
あなたの頭の中だけで勝手にどうぞとしか言えないね。
510人間七七四年:2013/11/30(土) 21:37:19.56 ID:sQKa7A84
>>451
家康の私戦という言葉が正確がどうか私はしらないけど
少なくとも東軍は豊臣から何かしら公認を得ているわけでないし
家康自身も自分たちが公儀の軍だとは戦役中に主張していない。

それから「三成の挙兵はクーデターね。これ当たり前」っていってるけど
具体的にどうクーデターなのか理論的に説明してみて。
勿論ちゃんと一次史料根拠でね。
511人間七七四年:2013/11/30(土) 22:18:16.66 ID:Ej4vGtT5
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
会戦当初から池田森津田富田八重羽津川尾張毛利両氏信包といった重臣連中が悉く寝返りがボロボロ出ていた上に重臣石川まで篭絡されていた織田徳川軍が一枚岩とか
とっくに軍閥化が完了し、誰も寝返らないどころか、最も外様であろう池田も森も丹羽も完全な上限関係と秀吉への必死な忠孝を行っているのが史料からわかるのに
敗戦原因を秀吉の指揮能力や采配能力ではなく、大軍ゆえに一枚岩ではなかったとか
徳川軍は結束していたとか他に押し付けようとする秀吉厨はガチで馬鹿だな
512人間七七四年:2013/11/30(土) 22:19:41.97 ID:Ej4vGtT5
信雄家康は秀吉に圧勝したじゃん。135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
513人間七七四年:2013/11/30(土) 22:21:33.52 ID:Ej4vGtT5
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
514人間七七四年:2013/11/30(土) 22:22:21.63 ID:hPOhErPa
>>秀吉は天正12年戦役で家康を屈服させ
全く屈服してねーよクズ
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は
天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ
515人間七七四年:2013/11/30(土) 22:48:16.44 ID:hPOhErPa
>>天正12年戦役でも秀吉に圧倒されヤバくなった家康は、
全く圧倒されてないしヤバくなってない。
むしろ秀吉方のは135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ
>>秀吉にビビって清洲城で引き篭もったまま動けず
兵力差7〜8倍程度なら雑魚武将相手でも流石にビビるわwしかも小牧山などに秀吉は2万以上留守居部隊置いて
家康がなかなか動けないようにした上で、家康が寡兵では到底後詰にこれない敵陣深い木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の城を
攻めて、家康から逃げ回ってる。その上、家康が秀吉のいた大垣から眼前にある秀吉方の蟹江・前田・下市場の、超重要拠点をわずかな兵で攻めてたら
ビビリまくって大垣から一目散に大阪までヘタレ敗走してる。いかに長久手合戦で自軍の8分の1にすぎない兵力にもかかわらず規格外の兵力を殺された
雑魚の信雄や家康にビビリまくってたかわかるな。
>>信雄への援軍すら出せずに見捨て
小牧山城やその周辺拠点には秀吉方の兵力2万以上いたから、秋時点で8000程度しかいなかった信雄・家康勢ではどうしようもない(家忠日記や当代記で
8月時点で家康はただでさえ少ない兵力の半分を領国に帰してるのがわかる)
しかもそんなわずかな兵力にもかかわらず6月には前田・下市場7月には蟹江・浜田を奪回し11月に長久保城を奪回してるのが信雄。
雑魚の信雄でも秀吉よりは遥かに戦上手だったのがわかる。
>>秀吉から懇望があったからとか
織田信雄の書状によれば間逆で秀吉が懇望してきたが断ったといってる
また9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
  信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった
などとデタラメをいつもの如くデッチあげているが、
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
等と、なぜか9月時点での懇望を断ったのに11月では容認という明らかにデッチ上げの内容を書き連ねてる。
池上裕子氏も、小牧長久手の講和は、秀吉の懇望によって行われたと書いてる。
秀吉の戦果報告は以下のようにデッチ上げがほとんどなので、人質と書いてるのは例の如く秀吉のハッタリ誇大喧伝と見るべき。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ
516人間七七四年:2013/11/30(土) 22:56:57.45 ID:hPOhErPa
>>家康は人質提出でも、養子だよ!とかいい訳
翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。

>>天正12年戦役は秀吉が圧倒し押しきった形で終わった
秀吉はさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。

>>家康信雄連合は秀吉から雀の涙の如き一寸の地でも奪って意地を見せることすら出来なかった程に一方的

信雄方は6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。

秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
517人間七七四年:2013/11/30(土) 23:02:11.80 ID:hPOhErPa
>>家康を天正12年にフルボッコした秀吉
家康どころか雑魚の信雄に、135000の兵力で短期決戦でフルボッコにされまくり
その後も負けまくったのが秀吉なんだがw
>>豊臣家には指導者皆無で求心力がなかったから皆が自分勝手やり出し見限られるのは止むを得なかっ
そもそも豊臣政権自体が単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
豊臣家が滅亡したのは、秀吉が広大な版図持ちながら自力ではどこにも勝てず上杉佐竹毛利長宗我部木曽小笠原真田石川水野十河河野大友龍造寺前田
柴田勝豊金森不破信雄宇喜多など諸大名に土下座しまくって力を借りて漁夫の利を得ただけの見せ掛け政権だったおかげ。
所詮自力で取った天下じゃないのであっさり徳川に敗戦し潰されたのが史実
秀吉が広範な版図支配下においたといっても所詮一時期だけだしな
所詮徳川に木っ端微塵にされて滅亡した雑魚でしかない
>>家康が凄かったわけでも無い
それは全く同意するが、その凄くもない棚ボタ家康に遥かに劣る雑魚信雄に、相手の8倍くらいの兵力で挑みかかって
規格外の敗戦を繰り返しまくったのが秀吉。
家康>>>>>>>>信雄>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉だよ
どうみても。
518人間七七四年:2013/11/30(土) 23:03:16.32 ID:nueloS4d
豊臣家が滅ぼされたのは単に秀吉が馬鹿だったからというだけ。
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻
秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。

こんな体制じゃあっさり崩壊して当然

なんで負けたかって言えば、そもそも秀吉から政務を委託された正当な大老であり、豊臣家を蔑ろにしていたわけでもない
家康を討つことには大義名分が少なく、家康が会津討伐に向かうため畿内を離れたというチャンスに機械的に
反応してしまい、自陣営の体制を構築する前に挙兵してしまったこと。

実態としては、明智光秀の本能寺の挙兵に近いものがあった。
会津征伐に飛びつかず、もっとじっくりと待つ必要があったと思うよ。勿論その場合は家康も着々と体制がためをしてくるが、
そこは政治力の勝負だ。 むしろ政治力の勝負を諦めたために関ヶ原がおこったとも言える。
そもそも合議の結果何かを決定するのは家康の役割だし、前田は豊臣家にすら無断帰国したのだから謀反を疑われて当然だし
上杉も穏便に処理しようとした家康の提案を蹴って、武装して割拠状態になったのでこれも謀反とされて当然
島津や毛利や宇喜多の家中の争いを喜んだ?そんな証拠は一切ない。というか介入すら最低限だ。
北政所にいたっては自分から西の丸を家康に譲ってるし大名への加増は三成ら奉行衆もそれこそ「合意」してる
ついさっきまで秀吉という専制独裁者が君臨していた政権において合議を破った専制独裁者という非難そのものが馴染まないんだよ
秀吉自身は一度も合議による政権運営なんてしたことがないから
普通の大名からすれば誰も見たことがない体験したことがないものを破ったと言われてもピンとこない
それに三成の家康批判は一歩間違えれば秀吉批判にも取られかねない危険な主張だ
三成が家康に名前を変えて秀吉の専制独裁を批判していると受け取れば豊臣のため三成を討伐することに何も問題はない
そもそも徳川が体制ぶち壊したとかいうけどぶち壊されるような体制とか諸将の配置にしなきゃよかっただけじゃん
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり自分から家康が天下取りやすい状態作っといて
ぶち壊したも糞もねーじゃん

秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻を進めている。自分の死後を見据え、最有力大名徳川家との融合を企図したものだ。
秀頼・千姫の間に出来た世継ぎが、徳川家の傀儡になる事は、秀吉が認識していて当然。
実は反徳川的な行動を起こし、豊臣家を滅亡に導いた輩こそ、秀吉の意思に背いた不忠といえる。秀頼・千姫の間の子は世継ぎになるわけで。
徳川の血が、豊臣宗家に組み込まれるわけだけど。実際融合されなかったのは、邪魔をした者がいたから。そしてそのせいで、豊臣滅亡。不忠でしょ。
千姫は正室なので、当然千姫との間の子が世継ぎでしょ。そうなれば、政権における徳川家の影響力が増す
519人間七七四年:2013/11/30(土) 23:06:05.03 ID:joLRN0V4
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
会戦当初から池田森津田富田八重羽津川尾張毛利両氏信包といった重臣連中が悉く寝返りがボロボロ出ていた上に重臣石川まで篭絡されていた織田徳川軍が一枚岩とか
とっくに軍閥化が完了し、誰も寝返らないどころか、最も外様であろう池田も森も丹羽も完全な上限関係と秀吉への必死な忠孝を行っているのが史料からわかるのに
敗戦原因を秀吉の指揮能力や采配能力ではなく、大軍ゆえに一枚岩ではなかったとか
徳川軍は結束していたとか他に押し付けようとする秀吉厨はガチで馬鹿だな
520434:2013/11/30(土) 23:17:12.78 ID:qXpKF/q1
>>509
加藤清正がなぜ突然?(笑
まぁいいや。その起請文、詳細教えてもらえる?
それと誰が清正に非難轟々だったの?
起請文の誓い破りなら、全国の大名はほぼ該当するね。大坂城を攻撃して秀頼を害してるし。三成の謀反も惣無事令違反だしな。
当時のルールなんて所詮その程度。守り手側の自主性次第。
法治国家における法とは違うんだよ。

そうだね。関ヶ原の結果、豊臣の力は急速に縮小したね。
関ヶ原を起こした三成は不忠極まりないと思うよ。
関ヶ原は豊臣家が主体ではないし、七将襲撃と豊臣家の不利益は全く関係ないね。
521451:2013/11/30(土) 23:33:05.47 ID:qXpKF/q1
>>510
東軍というのは、西軍が挙兵したから意味を成したものでしょ。
公認を得るも何も、家康が豊臣政権の大老である事を中断する事象がないし。
公儀の軍だと主張しなければ公儀でなくなる決め事でもあるの?(笑

理論的って大袈裟だな(笑
クーデターとは、@支配層の権力異動を目的とし、A非合法な武力によって、
B行政組織を設立し統治する活動だね。調べれば誰でもわかる。
三成の挙兵に端を発する西軍は、全てに該当するね。
それとも該当しない事でもある?
522人間七七四年:2013/12/01(日) 09:13:36.07 ID:EblQwzDf
で、三成がクーデターを起こしたとする一次史料はまだなの?
合議制の元に専横独裁した基地外家康を謀反人認定し内府たがい条を発給したら会津征伐軍が崩壊して家康は賊になってるのにw
家康は武断派に騙されて急ぎ西上した結果、棚ぼた勝者になっただけだし。
本来の上杉攻めは出来なくなり、
小山から家康を捨てて西上した武断派の思惑に家康はひきづられただけなのにw
関ヶ原の戦い後にも武断派の協力がないから上杉征伐できず断念してるのにw
523人間七七四年:2013/12/01(日) 10:15:04.60 ID:9yIX1sd1
>>510
東軍は会津征伐をするための軍隊として豊臣はもちろん朝廷からも公認を得ている
豊臣だって家康に公認どころか軍資金2万両と兵糧2万石を渡している
ちなみに豊臣は西軍に対しては軍資金も兵糧も渡していない
三成が書状で軍資金も兵糧も足りないと催促しても平然と無視している
それに増田が家康に対して三成が謀反を起こしましたと手紙を出しているから
西軍が三成主導の軍事クーデターであることは東西に関係なく認識されている
524人間七七四年:2013/12/01(日) 10:21:36.88 ID:EPCjr4eJ
言ってる意味がよくわからないんだが?
西軍がクーデター政権に該当する事は、>>521で説明済だけど。
それとも相変わらず三成の挙兵自体を否定したいのかい?(笑

7月14日付 榊原康政宛吉川広家書状
7月16日付 堅田元慶宛蜂須賀家政書状
7月21日付 細川忠興書状
7月27日付 秋田実季宛榊原康政書状

複数の大名クラスの書状(一次史料)において、三成挙兵に触れられている。
普遍性が極めて高い史実であり、これに疑義を持つ識者はゼロ。

正当性のない非合法なクーデター政権が出した『内府ちかひの条』に、
家康を賊軍にする効力など存在しない。単なる西軍勝手の宣戦布告書に過ぎない。
諸大名に対する影響力は認めるが。
525524:2013/12/01(日) 10:23:35.77 ID:EPCjr4eJ
>>522宛。
526人間七七四年:2013/12/01(日) 10:50:53.67 ID:48tVDIFF
>>523
会津征伐は家康が大坂城西の丸で独裁していた時に発令されたので
公儀扱いとしての出兵になり、軍資金が出ているが、
内府たがい条で合議による>>452専横独裁していた家康が賊となり排除されたので、
公儀の活動としての公認は消滅してる。
そして>>447>>448のように家康が豊臣政権からも敵認定されてる。
527人間七七四年:2013/12/01(日) 10:52:36.04 ID:48tVDIFF
また家康の会津への動員はかなり強引に行われているので、
純粋に、家康の会津征伐〜関が原に賛同したものは限られている。

wikiだけの知識で必死に対抗しようとするバカ毛利厨乙w
伊予を毛利が平定するチャンスがあったとかバカも休み休み言えよwww
ぜんぜん知識もないアホ丸出しで毛利史観を盲信してんじゃねーよ。
阿波や讃岐が毛利の管理下に置かれてるから毛利の功績?もうデタラメすぎて腹が痛いよwww

伊予国松前城主加藤氏の場合
毛利軍の侵攻に対して弟や正木城を預かる佃らは
宇和島城主藤堂氏の援軍の申し出を「独力で守るわ!」と断り
5/18に決戦し村上・能島・曽根の三将を打ち取るも加藤側の被害はわずか味方手勢十余人の戦死。
これにより正木付近で毛利軍は壊滅させ敗走、さらに追撃し毛利と戦闘を重ね、
毛利軍は久米郡如来寺に籠城し一揆軍の決起を促す。
19日加藤軍の先頭の黒田九郎兵衛は山門を打ち破り寺内に乱入し
毛利兵を討ちまくるうちに鉄砲に当り討ち死。
あとに続いた飛松兵介も討死するも佃は兵を二手に分け前後より攻めて毛利軍を打ち破る。
この戦いで荏原村一揆と毛利を打ち破り、さらに和気郡山越村でも一揆と毛利軍撃破
毛利軍の最後は還熊八幡社を本陣にしたところ
佃は八幡山を襲撃し毛利の防衛線は破られ風早浦から逃げ帰った。
浮穴郡荏原城、和気郡山越付近と佃率いる加藤軍は連戦連勝し
一方、藤堂領宇和郡松葉村でも力石良連らに三瀬六兵衛が打ち取られ伊予の毛利壊滅。

阿波国徳島城蜂須賀氏の場合
家康が上杉征伐の際に御陣場御見習いと称して
小笠原秀政の娘と婚姻してるこの時わずか15歳の至鎮を強引に連れ出して人質となして出征。
やむなく至鎮を守るために益田一正ら18騎も随行。
三成挙兵→至鎮の婚約者の小笠原秀政の娘を救うべく高木法斎が徳島にいた家政の許可なく
北陸軍として加賀大聖寺城に入ったために三成による弾圧を免れることに成功。
大坂方から木俣半之丞が徳島にきたが人質を取られた家政は家康追討の名分がないと反対。
これを受けて大坂から家政に親しい前田玄以が徳島へ出仕要求にきた。
家政は仕方がなく大坂へ出てきて「患いの最中でなおかつ年寄りでもあるから従軍は勘弁して欲しい。
その代わりに国兵を差し出すから自由に使って差し支えない」
と大阪に味方すると約して、諸将の了解を得て下城しのちに高野山へ行く。
そこで大坂方から小川越前&小早川豊前が徳島へ来て家政の意として大谷・木下勝俊に属して北陸へ向かうように指令。
9/12に1万で兵庫上陸するや蜂須賀隊を率いる稲田示植が病として進軍を3日の間ストップをかけ
15日枚方で関ヶ原の東軍勝報を聞き近江草津で至鎮に合流。

生駒一正は未だに部屋住みなりしも20騎を率いて家康に従う←ここら辺は至鎮と同じパターンだろ。
生駒親正は西軍として丹波田辺城を攻め向かうも関ヶ原を聞き家康を恐れて高野山へ行く←家政と違い大坂でうまく言い訳ができんかったw

西軍化した生駒も蜂須賀もまったく士気がなくやる気ゼロの軍
どこに毛利の功績があって、毛利が四国の大半を支配下に置けそうだったんだ?
毛利はいつもどうりに激弱かったので、西軍の足を引っ張って大坂方が苦労してただけだぜ。
528人間七七四年:2013/12/01(日) 10:53:56.02 ID:48tVDIFF
>>524
7月14日付 榊原康政宛吉川広家書状→光成氏が吉川広家が言い訳するために作った
のちになって作られた偽書状群の一枚と主張。
この書状が徳川家に残されていないので、徳川方へ発送されていないのは確実。

7月16日付 堅田元慶宛蜂須賀蜂須賀家政書状
それさ、謀議に関わってない蜂須賀が裏に輝元がいることに早くも感づいてる証拠だよ。
だってまだ輝元は15日に広島を出発したばかりなのに蜂須賀は嗅ぎつけてる。
また、細川らが家康へ憎い三成が蜂起するとさかんに嘘を吹聴してまわってる。
(西軍本隊は毛利を主軸にした伊勢方面軍であったが、 武断派が三成憎しで大垣へ北進) あとね内府たがい条に署名してる三奉行に三成は入ってない。
光成氏は奉行の書状が15日に輝元に届くや 待ちかねていたように急ぎ即日出発。 明らかに出発準備が完了していた。
淀、利長、三奉行は 三成と大谷が蜂起と家康にフェイクする陰で 輝元を大坂に招き入れて 家康が蜂起を過小評価させることに成功。 そもそも三成は直接、
輝元へ意見が言えず増田経由であるのに 三成首謀者なわけもない。だいたい三成は家康派になっており、三成の兄の屋敷を家康へ提供するなど、家康へ恭順しているため
なんとしても武断派は三成を敵にしたてる必要性があった。一方の輝元は毛利分封問題などで家康への敵愾心と悔しさをあらわしている。
また北政所なども西軍派で、それを動かせるのは地位的にも輝元であっても 三成じゃないだろう。
7/12に三奉行が輝元の大坂入りを要請 決起を打ち明けられ同意を求められた家政が 16日に輝元へ書状を出しただけだろ。
淀や利長や三奉行は三成と大谷の挙兵と言うフェイクで 家康を騙して時間稼ぎをしているうちに大津城を手に入れ 瀬田の大橋を確保し、伏見城を落城させて
やっと佐和山の三成との連絡線を確保できたんだし。 三成の挙兵ですぐ輝元が大兵を率いて大坂入城できるのかね?
しかも大兵の船舶まで準備せずにいきなり 物凄い速さで大坂についてるのは光成氏も指摘してる。
輝元が三成に指示も何も三成からして 三成→増田へ書状→増田から輝元へとやり取りしていて 輝元に直接書状を出せない立場なのが三成だから
そんなもん元からあるわけないだろ。

蜂須賀の書状って、 最も伝えたい、訴えたいことを書くことが多い追って書きに、なおなお両人(三成と大谷)御同意の儀、初者雑説と存、
などと書いていて、石田と大谷の逆意をただの雑な噂に思っていたら安国寺から聞いた旨によると、
東国へ向かう兵達を指し留めていると聞いて驚いたと書いていて三成らの挙兵は根拠ない噂だと楽観してたらが、
毛利から安国寺がやってきて毛利が会津征伐に行く諸将の軍を差し止めてると聞いて驚いた。などと書いていて、
実は蜂須賀が聞いていた三成らの挙兵は噂レベルであって、実際は輝元が会津へ行く諸大名の軍隊を通行止めにしてる首謀者っぷりの事実に蜂須賀が驚いて急ぎ書状を出し、
自分は昵懇してる間柄だと強調して輝元に考え直せと再考を促してるだけだよ。 三成らが悪いだけで輝元は悪くないから、
考え直せば許されるよって、蜂須賀が輝元の面子を潰さない話術でうまい言い訳を提案してるに過ぎないのは追って書きを読めば明らか。
軍記に書かれる三成が会津へ行く諸大名の軍隊を差し止めてる話も実は当初は毛利が差し止めてるのが史実だったとわかる書状。

7/17 内府たがい条がだされる。

7月21日付 四郎右・市正宛て 細川忠興書状 いつもの怪しげな細川家記シリーズ
三成憎しの忠興がかねてから三成のことを家康に中傷してきていたのがわかる書状
細川ガラシャ殺害を、大坂にいない三成がやったと捏造する細川家は、
戦後になると黒田長政ともケンカして嫌がらせをする性悪大名。
ちなみに細川家記には7/17に内府たがい条とともに細川家名指しで「太閤様が取り立てた福原長堯の領地を、
何の功も立てていないのに家康の扶助で手に入れたので、何も罪ない上杉への討伐で
細川家は一族残らず出陣した」として秀頼から討伐令が出たなどと偽書状をデッチあげて、
徳川への忠節を宣伝しまくってるアホ。

7月27日付 秋田実季宛榊原康政書状
秋田宛て榊原書状において下記の人たちが家康にガセ情報を流していたのがわかるね。
大坂より御袋様(淀)並びに三奉行(内府たがい条に署名してる面々)・北国羽肥州(利長)
前田利長まで巻き込んでこれだけおおがかりな詐欺まがいの政治外交を
指示できるのは西国取次ぎ役の大老輝元しか無理と言える。
529人間七七四年:2013/12/01(日) 10:57:45.90 ID:48tVDIFF
細川家記とは現在では綿考輯録と呼ばれていて
明智軍記からの引用もあって見事に怪しさ倍増になっている。
(本能寺の変から120年後に書かれた明智軍記から40年後に細川家記が書かれている)

内府たがい条に対する御袋様・三奉行(内府たがい条に署名してる面々)・北国羽肥州(利長)
前田利長らの挙兵を誤魔化す言い訳を家康が信じていたんじゃないかね。
それに三成謀反をチラつかせれば、武断派だけでも上杉征伐から抜けるので、上杉援護にもなる。
伏見城落城の報が宇都宮に届き家康が毛利が首謀者と確信することで、事の重大さを認識して会津から江戸へ戻ったのも8月に入ってからだし

細川家に残る霜女覚書(細川玉子(ガラシャ)侍女の霜の口述記録)
三成が捕らえに来るという「風聞」が7/12の時点ですでに流れていたのがわかる。
もちろん三成は大坂にはいないから大ウソ。
この7/12は三奉行と安国寺が輝元へ大坂へ来るように依頼した書状を出した日である。

7月14日付 榊原康政宛吉川広家書状
安国寺江州において石田と大谷と決起の密談をしたと書いてあり
これが後に広家らが自己の立場を有利にするため偽造されたものであるので、
大谷と三成の決起の計画自体が大ウソになる。

7月16日付堅田元慶宛蜂須賀家政書状
両人御同意の儀、初めは雑説と存
などと三成と大谷の決起を噂と思っていたら、輝元が決起したと驚いている。

光成氏は、7/13付益田、熊谷、宍戸書状も
広家書状同様に徳川方に送ってないと、
広家覚書に書いてあると指摘してる。
なんとしても三成と大谷を首謀者に仕立て上げたい作為が細川氏同様窺われるんだよな。。
530人間七七四年:2013/12/01(日) 10:59:21.30 ID:48tVDIFF
7/15付 上杉宛島津義弘書状
輝元・秀家を始め、大坂御老衆小西・大刑少・石治部少被仰談〜
拙者も其通りに候、委細石治より可被申候

薩藩旧記雑録収録書状。藩ではなく個人によって編集される。
明治13年に一応の完成を見るが、
増補訂正が明治30年まで続けられる。真偽問わず収録。

三成の名前は一番最後に書いているのはなぜか?三成は大坂にいないし大坂御老衆でもない。
兵を集め始める島津義弘もこの時期、まだ大坂にいない。
上杉に宛てて三成は本当に委細を述べる書状を出しているのか?
島津義弘が西軍参加をしたのは朝鮮出兵で一軍を形成していた小西との友情から。
家わけ島津家文書の中には朝鮮出兵中の小西→義弘親子への書状はやたら多い。
1/11に小西は島津義久宛てに正月の挨拶とともに肥後から上洛へ出発している。

では義弘の言う三成→上杉の連絡の話は成立しているのか?

7/17付け真田宛長束・増田・前田書状に続く
7/20付け真田宛大谷吉継書状(大谷と三成のことが始めてはっきりわかる書状)
伏見へは島津・輝元・宇喜多・小西が攻め寄せてると書いてあり、
また左衛方(信繁)へは東海道宇都宮へ出合候様に、佐和山より両使下し申候
とも書かれ、伏見攻撃が開始されたことで初めて佐和山との連絡が可能になったのがわかる。

7/29付け真田宛長束・増田・前田書状
其上景勝申談候者と、ここで初めて上杉に言及するようになり、最後に
猶石治少より可被申入候と長束・増田・前田らの命で三成が真田との取次をやるような内容である。
真田宛7/29付宇喜多書状と真田宛7/29付毛利書状も景勝申談候者と書いていて西軍と上杉の連携が開始される。

真田は7/21に真偽を確かめるべく懇意にしていた三成に書状を出し、7/27にやっと佐和山へ到着
このことから家康側は使者の佐和山への連絡を厳しく監視統制していたのが見える。
そして三成が7月末日に真田へ返信した内容に会津への使者と書状を届けて欲しいとお願いしている。
この7/末になって初めて、三成は植えすぎとの連絡を取り始めており、
大坂で指揮をとってる三奉行や毛利・宇喜多も7/29に初めて上杉に言及している。
とても義弘が7/15に書いた内容が事実を表しているようには見えない。
むしろ大谷と三成の名前を最後に書いているのは噂レベルの話だからか、
もしくは小西が噂を吹聴している張本人と思われる。
531人間七七四年:2013/12/01(日) 11:04:19.10 ID:dA8/WGhk
ソ連8月クーデターとだぶるのは気のせいか。
532人間七七四年:2013/12/01(日) 11:28:21.58 ID:48tVDIFF
>>523
>>三成が書状で軍資金も兵糧も足りないと催促しても平然と無視している
中井氏「この書状は古今消息集に収められているものだが、
正直なところ、これが三成が書いたものそのままとはとても思えない。
通常の三成文書と文体・内容ともかけ離れているからである」

そもそもこの書状は関原軍記大成やそれを元ネタにした江戸中期成立の木村高敦が書いた武徳安民記などの軍記類において、
大津の京極を訪問する北面の某が、山科辺りで石田の介者を捕縛して、書を奪い神君へ渡したなどと書いていて
とても信用できる書状写しではない。

佐竹も懇意にしていた三成へ挙兵について問い合わせているらしく
7/23・7/26と重ねて三成宛に書状を出している。
返答は8/7になってからで、
23日のものは大阪に着いたようです。26日付のものは佐和山で読みました。
この飛脚は大坂へ向かってからそちらへ帰ります。
などと書いており、三成は佐和山城にいるのがわかる。
そしてやはり三成の西軍参加への疑念から
真田同様に佐竹も必死に三成本人の意思を確認しようとしており
はっきりした三成本人の参加意思表明の確認ができるのは
真田へ宛てた7月末の書状が一番最初か?

三成を西軍に参加させる為に大谷が必死に説得した結果、
伏見城落城の目処がたってきた7月末にやっと三成も西軍参加を了承したと解釈できるね。
たしかに西軍参加を拒んでいたら、伏見城落城後に、瀬田大橋に駐留していた毛利軍に佐和山城は攻撃を受けるもんな…
三成の西軍参加の噂が事実かどうかの真偽を確かめるために
真田や佐竹が書状を出しているが、返信の書状が出されたのは7月末日になってから。
そしてこの日付けが三成が西軍参加意志を表明した初めての書状でもある。
なので、内府たがい条にはとうぜん三成の署名がない。

陰徳太平記を書いた岩国藩の香川景継が吉川家の意向を受けて、
関ケ原軍記大成などの軍記類に偽書状を元ネタに
吉川の主張を隠密裏に盛り込む活動をして
毛利は被害者ぶった史観を作りあげただけ。
このことを山本洋氏が解説し、これを土台にして光成氏が書状研究した結果だね。

若狭小浜藩の大老酒井忠勝は直江と三成を首謀者にする
会津陣物語を作り上げ東国太平記でさらに昇華させ
6/20三成→兼続書状・7/14三成→兼続偽書状を製造し
これはのちに続武者物語にも転載され一般化され根付かせるのに成功。
これで徳川史観として三成と直江がすべて悪いと汚名を着せた。

直江状に本来なかった追而書を付け足す暴挙をやってのけて加筆したり
関が原前日の内通を約束する秀秋家臣稲葉(春日局のダンナ)宛て9/14付け井伊&本多ガセ書状を
捏造したりと怪しげなネタ満載の「関ケ原軍記大成」(著者は若狭小浜藩出身の宮川忍斎1655?1716没)
若狭小浜藩の歴史捏造事業(実態は低俗な軍記)は神レベルだと言えよう。

さらに毛利側も陰徳太平記を書いた岩国藩の香川景継が、
吉川家の意向を受けて、関ケ原軍記大成などの軍記類に偽書状を元ネタに
吉川の主張を隠密裏に盛り込む活動をして三成と安国寺に騙されただけと
毛利も被害者ぶった史観を作りあげた。

三成を首謀者に仕立て上げるには
6/20三成→兼続偽書状
7/14三成→兼続偽書状
上記を偽ではなく、本物と解釈しないと成り立たないんだよ。
そうすると三成と兼続共謀説が史実化する。
533人間七七四年:2013/12/01(日) 11:32:56.83 ID:EPCjr4eJ
>>526
繰り返すが、正当性のない非合法なクーデター政権が出した『内府ちかひの条』に、
家康を賊軍にする効力など存在しない。単なる西軍勝手の宣戦布告書に過ぎない。
権威である豊臣『家』から、西軍が正当性を認定されていれば別だが。
司馬懿が郭太后から、ソンティがプミポン国王から支持を得たようにね。
534人間七七四年:2013/12/01(日) 11:41:27.53 ID:48tVDIFF
>>533
西軍は内府たがい条で、家康の罪を列挙して大義名分を告示している。
しかし家康には反論できず、黙殺するしか手段がなく、
秀吉の遺令による合議制を破壊したい家康の私軍と、
憎い5奉行を廃止したい武断派の利害がたまたま一致して徒党化した賊軍である事実は消えない。
家康には掲げるべき大義名分が一欠けらもない。
ただ秀吉の遺令を破壊し、秀頼が成長する前に権威権力を奪い取ろうと次々と大老を排除または、
従属させるべく威圧を加え平時に乱を起こし権力欲を満たすためでしかない。
535人間七七四年:2013/12/01(日) 11:41:33.74 ID:EPCjr4eJ
>>528
長文コピペ爆弾する人の説得力なんてゼロだと思うけどね。

7月14日付 榊原康政宛吉川広家書状
・光成史は、偽書状群の一枚などとの主張は全くしていない。
『関ヶ原合戦後に広家らが自己の立場を有利にするため偽造したか、作成されたが、
その直後に恵瓊から輝元も了解している証拠を提示されたため発送されなかった
という二つの可能性可能性が考えられる。』程度の推測しかしていない。
・未送付によって起こる議論は、輝元の西軍参加時期であり、三成決起には何ら影響を及ぼさない。

7月16日付堅田元慶宛蜂須賀家政書状
・キミの推測は不要だし、口語訳は正確に行うべき。
『猶々、両人御同意の儀、初めは雑説と存じ、・・・』
× 三成らの挙兵は根拠ない噂と楽観していたら
◯ 三成らの挙兵に輝元様が同意したとの事、初めは噂に過ぎないと
・この書状で、輝元が差し止めたのは、諸将の軍を指してはおらず、輝元自身の部隊だけ。

7月21日付細川忠興書書状
7月27日付秋田実季宛榊原康政書状
・全てキミの願望と推測。光成氏はこれらの書状を自身の論拠史料として活用している。

いつも同じ事言われて、長文コピペで逃げ回るよね(笑
536人間七七四年:2013/12/01(日) 11:48:31.97 ID:EPCjr4eJ
>>534
もう小説だね。客観性や冷静さの欠片も感じられない主張だよ(笑
繰り返すが、正当性のない非合法なクーデター政権が出した『内府ちかひの条』に、
家康を賊軍にする効力など存在しない。単なる西軍勝手の宣戦布告書に過ぎない。

西軍が豊臣家の支持を得られない賊軍スタートなのに、なぜ東軍の正当性を否定できるんだよ(笑
537人間七七四年:2013/12/01(日) 11:52:34.21 ID:9yIX1sd1
>>534
家康は明確に反論しているよ
三成という奸臣が天下を奪おうと仕組んだ陰謀であると
すると内府たがい条とやらで自信満々に署名した連中は三成の子分である宇喜多を除き
全員が戦意を喪失し関ヶ原で戦う気もなくしてしまった
署名した連中がこうなのだから他の一般大名など当然ながら家康と戦えるわけもない
大谷・小西といった石田派閥舎弟以外は関ヶ原を傍観するか内通するしかなくなってしまったわけ
西軍が家康の主張に対してなんらの反論も出来ずに逆に三成が首謀者であると白日の下に晒してしまったからね
538人間七七四年:2013/12/01(日) 22:30:48.19 ID:RUFLWNOS
>>520
文禄四年七月十二日付連署起請文(毛利家文書他)
文禄四年八月二十日付連署起請文(木下家文書)

>>521
主張するしない以前に公儀によって公認されなければ公儀性は纏えないわけだから
少なくとも東軍は豊臣公認の軍であるという理屈は成立しない。
豊臣家は上杉を討伐しろとは命令したけど西軍を討伐しろとは言ってないし
反西軍的言動もしていない。
あなたの言う通り「東軍というのは、西軍が挙兵したから意味を成したもの」
であって、あくまで西軍に対抗するために公儀の公認無く成立した勢力だから
上杉討伐軍とは同一のものでは無い。

>三成の挙兵に端を発する西軍は、全てに該当するね。
これを一次史料の記述を挙げて具体的に説明してください。

>>523
>増田が家康に対して三成が謀反を起こしましたと手紙を出しているから
この話の出典は「慶長年中卜斎記」だけどそんな書き方はされてない。
しかも「慶長年中卜斎記」は一次史料じゃない。
そもそも初期段階においては三成の挙兵は「雑説」つまり噂レベルの話で
挙兵の実際は個人の一存によらない豊臣大老奉行による組織的な行動でしょ。
539人間七七四年:2013/12/01(日) 22:40:35.69 ID:7Zhej8ob
群馬アンチ共沸いてるが群馬いい城多くね?
540人間七七四年:2013/12/01(日) 22:44:33.10 ID:RUFLWNOS
一.諸事太閤様御法度御置目之通無相違様可相守候事
541人間七七四年:2013/12/01(日) 22:51:14.09 ID:9SvfSkE9
留守を狙って挙兵して政庁抑えちゃえば大正義軍ってことか簡単やね
542人間七七四年:2013/12/01(日) 23:49:51.62 ID:EPCjr4eJ
>>538
起請文の内容を教えてくれ、と言ってるんだけど?
7月12日付は、三成と増田の連署だから清正は関係ないだろ。
8月20日付ではなく、朝鮮在陣諸将による8月6日付では?

稚拙な屁理屈だね(笑
西軍は謀反軍であり、家康は豊臣政権大老の地位を中断されていない。
つまり東軍は、依然豊臣政権の軍であり賊軍には転んじない。

繰り返すがクーデターとは、@支配層の権力異動を目的とし、A非合法な武力によって、
B行政組織を設立し統治する活動。
具体的に説明するので、西軍の何が該当しないと思うのか教えてもらえる?

三成の挙兵が雑説レベルだったとする史料は?
543人間七七四年:2013/12/02(月) 11:01:50.59 ID:sNu2xTNO
>>542

>>447>>448のように家康が豊臣政権からも敵認定されてる。
上記の内容を意図的に見なかったフリにしてんじゃねーよwww
544人間七七四年:2013/12/02(月) 11:17:48.50 ID:MI6ikCyo
豊臣政権が認定した敵に対して公儀とやらを主張する軍の2/3が戦闘放棄
半日で壊滅させられた挙句に大将なはずの毛利まで戦うことなく逃亡
つまり豊臣政権は末期の室町幕府のように実質的な統治能力を失っていたわけ
家康が筆頭大老として支えてあげることで辛うじて政権としての体裁を保っていたのに
その家康に不満があるからと喧嘩を吹っかければ無様な醜態を晒すだけなのは分かりきったことだろう
545人間七七四年:2013/12/02(月) 11:39:21.27 ID:sNu2xTNO
>>536
小説じゃなくて実際にあったことだろw
内府たがい条と言う大義名分に対して、
賊軍だった家康はそれに反論すらできなかっただろ。
完全に黙殺する以外に方法がなかったのは
家康自身が己に正義も大義もなく、権力欲だけで平時に乱を起した自覚があるからで、
賊認定された途端に会津征討軍が見事に瓦解。

家康は雑説に見事に騙され信じて
三成と大谷の蜂起なんて大したことねーよwwwと会津征伐をい進めようとしたが、
武断派は憎いやつらを討てると喜んで、家康を見捨てて西上していった始末。
家康と武断派は双方の思想信条で協調してたのではなく、完全に利害だけの関係でしかない。
しかも三成は家康派であったので、家康に対して挙兵する意志はまったく考えられず、
三成が始めて西軍参加を表明したのは、西軍が伏見城陥落に目処がつき、
西軍が近江へ本格的侵攻可能となった7月末日に三成が真田へ返信した書状まで一切ない。
(真田は7/21に三成挙兵の雑説の真偽を確かめるべく書状を出していた)
その次が8/7であり、佐竹が雑説が事実か?三成へ挙兵について問い合わせているらしく
7/23・7/26と重ねて三成宛に書状を出しており、その三成の返答が8/7なってやっと。
546542:2013/12/02(月) 14:10:21.69 ID:eY46III9
>>543
>>447>>448は、要領を得ない長文コピペだし、『内府ちかひの条』がベースでしょ?
何度も言ってるんだけど、内府ちかひの条自体にに正当性が付されてないわけだから。
クーデター政権の作った宣戦布告書なんだから、そりゃ敵対する家康を否定して当然でしょ(笑

意図的に見なかったフリはキミでしょ?(笑
>>542の未回答がたくさんあるけど?

>>545は架空小説でしょ?お疲れ様(笑
547人間七七四年:2013/12/02(月) 17:25:13.82 ID:sNu2xTNO
>>542>>546に書かれている内容は
すべてお前の願望妄想じゃんwwwまったく一次史料による裏づけがない
お前が「思った」ことにすぎないのに、意図的に見なかったことにする必要あるわけ?w
お前、具体的な根拠を一切あげてないだろw

んで、起請文の内容の件については俺のレスじゃないから知らねーよ。
キチガイアンチ豊臣政権の織田朝鮮人が自演してるからって、相手まで自演してると思うなよw
548人間七七四年:2013/12/02(月) 21:17:57.30 ID:rxLpZh+u
>>542
>>三成の挙兵が雑説レベルだったとする史料は?

7日12日(松井家文書)前田玄以、増田長盛、長束正家の三人が輝元へ上坂を要請。三成・吉継の名は無し。
7月13日(義演准后日記)「大坂雑説」についての記述あり。ただし三成・吉継の名は無し。
7月13日(時慶卿記)毛利勢の大坂到着の記述あり。ただし三成・吉継の名は無し。
7月13日(吉川家文書)輝元家臣が家康家臣に大坂の情勢を報告。三成・吉継の名が出てくるが二人が具体的に
何をしていたのかの記述は一切無し。そして何故か三奉行による上坂要請の件が書かれていない。
7月14日(吉川家文書)吉川広家が榊原康政に報告。内容は輝元家臣のものとほぼ同じで、上坂要請の件はまたも書かれていない。
7月16日(毛利家文書)蜂須賀家政が三成と吉継の行動に輝元が同意したという「雑説」について恵瓊に尋ねたが
東軍への参加を止めたのは輝元の意志であると説明される。家政は三成と吉継の行動を「逆意」としているが、
三奉行の件にふれていない事からその情報源は輝元家臣あるいは広家。
7月17日「内府ちかひの条々」発。三成・吉継の名は無し。
7月21日(博物館古書)徳川秀忠は滝川雄利宛て書状で「大坂御奉行」とは「別儀無」くと報告。
上坂要請どころか17日に出された「内府ちかひの条々」の記述すら無い。
549人間七七四年:2013/12/02(月) 21:18:45.83 ID:rxLpZh+u
7月23日(譜牒余録)最上義光宛て家康書状で三成と吉継が「触状」を「廻」しているという「雑説」の記述あり。
7月27日(譜牒余録)榊原康政は秋田実季宛て書状で「別心」した三成と吉継の討伐のため大坂の奉行衆らから協力要請を受けているとしているが事実は全く逆。
7月29日(戸田家文書)家康は東軍諸将に「大坂奉行衆」の「別心」を伝える。
7月30日(真田家文書)真田昌幸宛て三成書状”先以今度意趣兼而御知も不申儀御立腹無余儀候共内府在大坂中諸侍之心いかにも難計付而言發儀遠慮仕畢”。
西軍の挙兵について事前連絡がなかった事を弁明しているがその挙兵が自分の計画によるものとは言っていない。
10月2日(吉川家文書)黒田長政によって「触状」を「廻」していたのは三成でも吉継でもなく輝元であった事、そして輝元と三奉行が共謀の上で西軍決起に及んだ事が確認されている。
つまり三成と吉継に関する重ねての「雑説」は輝元家臣あるいは広家が生み出した誤った情報。
確認した限りでは7月中に三成が他の大老奉行と連署した書状は無く西軍側の史料では三成と吉継の行動の詳細は不明。大坂にいた様子も無く重要なポジションは与えられていない。
550人間七七四年:2013/12/02(月) 21:29:02.11 ID:rxLpZh+u
>>542
>>起請文の内容を教えてくれ、と言ってるんだけど?
今度御太閤御煩御大事之由承候千万一ツモ御不慮之時者各致同心罷上被仰置旨承御飛ろい様可奉致御奉公候
如此申談上此加判衆中之内若私之遺恨を含相違仕人於有之者残衆同し致一統御法度之旨可申付候
551人間七七四年:2013/12/02(月) 21:36:38.51 ID:rxLpZh+u
一.私遺恨を以諸傍輩相果候儀有之間敷候自然非分被申懸背御法度仁於有之者
各御置目をも被申付候衆相談之上を以得御諚可被加御成敗候事
552546:2013/12/03(火) 00:06:08.87 ID:45j08Al/
>>547
普遍性が高く史実として認識されているものを組み立てただけだよ。
極めて単純な主張。具体的に、何が史実と違うのか指摘してもらえる?(笑
よっぽど、
『家康自身が己に正義も大義もなく、権力欲だけで平時に乱を起した自覚があるからで』(>>545)
この自覚の有無とやらを一次史料で示して欲しいね(笑
553542:2013/12/03(火) 00:27:21.45 ID:45j08Al/
>>548>>549
よく調べたなぁ、と感心したんだけど。。。
おいおい。
これ、光成準治の著書『関ヶ原前夜』から拾い上げただけじゃないか(笑
当該著書を持ってる人がこのレス読んだら大爆笑だね。
光成氏は、三成の挙兵を雑説などとしていないのに、都合よく曲解し過ぎ(笑
氏は、7月12日付松井文書より前に、三成・吉継・恵瓊の謀議が存在を認めているよ。
(同書57ページ)
キミ、恥ずかしくない?(笑
554542:2013/12/03(火) 00:29:12.37 ID:45j08Al/

× 三成・吉継・恵瓊の謀議が存在を
◯ 三成・吉継・恵瓊の謀議の存在を
555547:2013/12/03(火) 00:35:08.12 ID:45j08Al/
>>550>>551
で、どの起請文に該当するの?日付で教えてもらえるかな?
起請文の存在自体に食いつくつもりはないから警戒しないでいいよ(笑
本命はその後なので。
556人間七七四年:2013/12/03(火) 01:08:38.02 ID:UwFtxE18
>>553
おいおいお前エラそうな態度だなw
光成準治の関ヶ原前夜なんて2009年の本だろw
もう2014年まで一ヶ月切ってるのに、
そんなに自信満々に大衆向けの安っすい古書を元に何その態度笑えるんだけどw
どんだけ過去の言説に縋って生きてんだw
557人間七七四年:2013/12/03(火) 01:13:37.28 ID:45j08Al/
>>556
そうだね。
>>548>>549は、自信満々に大衆向けの安っすい古書を元にした
本当に笑えるレスだね。キミの言うとおりだ(笑
558人間七七四年:2013/12/03(火) 12:13:31.08 ID:EnSIyDHn
よく関ヶ原は豊臣政権内の抗争であるとか言う奴がいるけどひどい間違いだよな
関ヶ原は豊臣が家康を謀反人として討とうとして失敗し完全敗北を喫した戦だろ
豊臣は勝負以前に軍隊として機能させることすら出来ず政権としての限界を露呈した
だから家康に降伏して領地をいくら切りとってもいいから筆頭大老に戻ってもらう方針に転換したわけ
家康も日本を無政府状態にすることは望んでいないから徳川政権に移行する前段階として形だけ豊臣政権を残してあげたのに
家康の温情を利用して豊臣政権内部の抗争であると関ヶ原を貶めるなんて許せないよ
559人間七七四年:2013/12/03(火) 12:55:58.21 ID:hrZ731b9
豊臣崩壊の元凶が家康に篭絡されたアホ武功派と
総大将に奉り上げられながら何もできず戦力を分散しまくり大敗した馬鹿輝元と
家康のいちゃもん無理矢理つけた示威行動にビビッて即効土下座したヘタレ浅野・前田だよな。

三成はむしろこれだけ不幸で不運な状況と無能連中に囲まれてる中でよく頑張って兵を集めた方。
560人間七七四年:2013/12/03(火) 13:18:00.37 ID:qgAknsXv
>>558
釣られるけど、
>関ヶ原は豊臣が家康を謀反人として討とうとして失敗し
そんな証跡は存在しないので、以下の文章は省略可(笑
561人間七七四年:2013/12/03(火) 16:35:12.31 ID:T8huy7eS
>>553>>557
光成氏は三成・吉継・恵瓊の謀議の存在の証明は一切やってないからなw
雑説というキーワードにまったく疑問を持たずにスルーしてしまった。
これは致命的に発想力が欠如している乏しさと言える。
当時、家康派だった三成を細川を筆頭に三成をなんとか家康の敵に仕立て上げようとしていた。

お前は一切、根拠を挙げずに屁理屈をたれて逃げてるだけだよな。
たまには「なるほど、勉強になるなぁ」と感心してもらえるレスくらいしろよw

>>556
そいつさ、最初は光成氏の本を知らずに、そんなのウソだとか鳴いて喚いていたんだぜw
光成氏の本を教えてもらったら態度を180度豹変して、そういう高飛車な態度になってんのw
2010年以降も水野や本多や林や島津や中井と言った人々が関が原の見解を示して研究が続いているのに
その馬鹿は2009年の本で、そんなに自信満々に高飛車な態度を取ってるんだぜw笑えるよなwww

>>558
家康の卑しい野心を見透かした武断派が、
家康にウソ情報を流して、それを信じた家康がまんまと武断派に騙され利用されたに過ぎない。
その結果、豊臣家に屈して、豊臣の名で武断派に大幅加増をせざるを得ない状況になり、
肝心の上杉征伐を撤回に追込まれ家康は徒労に終わってしまった。
結果、豊臣政権から正当に離脱する手段として
家康は征夷代将軍になり、武家の棟梁として支配を確立する方向に努力することになる。
562人間七七四年:2013/12/03(火) 22:33:51.20 ID:91g4uRTP
>>552
「普遍性が高く史実として認識されているもの」なら主張の材料としては
なんら問題ないし、覆したければ一次史料を出せばいいだけの事。
そもそも『家康自身が己に正義も大義もなく、権力欲だけで平時に乱を起した自覚があるからで』
なんて主張は私はしていないんだけども。

>>553
光成氏の論文はいくつか拝見しているけどその本は持っていないよ。
それとも私の家に来て確認でもされましたか。
だいたいこっちは「三成の挙兵を雑説などとしていない」という話に
賛同しているわけでもでもないし、氏の論説を敷衍しているわけでもない。
あなた自身が認めた「普遍性が高く史実として認識されているもの」を
用いて話をしただけ。

>>555
既に書いてあるんだけど。
563人間七七四年:2013/12/03(火) 23:21:16.03 ID:45j08Al/
>>561>>562
そんなに必死にならなくても(笑

キミが雑説にしたいだけでしょ?
動かざる常識を証明する必要も意味もない。
キミの妄想力は致命的な水準だと言える(笑

ウソだと喚いた記憶は全くないが、光成の著書を引用していたキミの主張が
大ウソだった事は暴いたけどね。捏造・曲解・誤訳だらけ(笑
で。水野、本多、林、島津、中井と言った人々の関ヶ原研究を読んだ結果が、
『三成・吉継の挙兵は雑説』、『三成は家康派』、『武断派が家康を騙し利用』なのか?(大笑
なんていうか、お疲れ様。
564人間七七四年:2013/12/03(火) 23:30:01.27 ID:45j08Al/
>>562
だから私の主張で、何が史実と違うか指摘してくれればいいのに(笑
何の一次史料を出せばいいのかわからないんだけど?
正直言うと、キミとの議論(?)は、一次史料を使うまでもないレベルなんだよねぇ。
ゴメンね。(笑

ではもう一度聞くので教えてもらえる?
起請文の日付は、7月12日?8月20日?
565人間七七四年:2013/12/04(水) 09:12:48.32 ID:9njVxMuq
>>561
おいおい文章を間違えているぞ
関ヶ原は三成の卑しい野心を見透かした西軍諸大名が、
三成に家康と真面目に戦うというウソ情報を流して、それを信じた三成がまんまと騙され利用されたに過ぎない
その結果、徳川家に屈して、徳川に豊臣直轄領の渡して大幅加増をせざるを得ない状況になり
肝心の上杉も降伏に追込まれ三成は徒労に終わってしまった
結果、豊臣政権から正当に離脱する手段として
家康は征夷代将軍になり、武家の棟梁として支配を確立する方向に努力することになる
566人間七七四年:2013/12/04(水) 09:57:42.59 ID:M3xdZw5L
自演乙
567人間七七四年:2013/12/04(水) 11:33:23.35 ID:2h+iwFfH
相変わらず在日朝鮮人がむりやり家康と輝元を歪曲擁護して粘着してるのか。
しかも光成の本しか読んでない無知っぷりw
568人間七七四年:2013/12/04(水) 12:41:25.93 ID:s6LLkceN
>>559
保身に走って家康に内通してた増田長盛と小早川秀秋もだな
569人間七七四年:2013/12/04(水) 13:42:54.64 ID:KvaBuDnq
>>567
無理矢理歪曲とは、こういうのを指します(笑
『三成・吉継の挙兵は雑説』、『三成は家康派』、『武断派が家康を騙し利用』。。。

光成の本しか読んでないというか、光成著書がソースであるキミの主張を検証しただけだし(笑
捏造・曲解・誤訳だらけのツッコミどころ満載(笑
570人間七七四年:2013/12/04(水) 14:50:29.02 ID:Etg5V2WL
秀吉死亡後、どうすれば豊臣家は滅亡せずに済んだの?
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news/1386044198/l50
571人間七七四年:2013/12/04(水) 15:36:03.73 ID:F47xHcj7
白川亨氏は家康が秀吉の遺令に背いた時に糾弾のために使者を差し向けた大老や奉行に、
当時、朝鮮からの撤兵指揮の為に九州にいた三成は含まれないどころか三成が帰ってくるや、
違背した婚姻である忠輝と政宗の娘の 五郎八姫を容認するかのように政宗を茶会に呼んで歓待してる。
というのも忠輝の母の於茶阿は家康の寵愛を受け、徳川家の奥向けの一切を支配しており、
強い政治力を持っていたがその兄の山田上野介は三成の重臣であり
兄の子の山田隼人正は三成長女と婚姻していて、家康と三成は於茶阿方を通じて姻戚関係であり、
浅野家譜と慶長見聞録にも利長らの家康暗殺を 増田らが通報したのは三成の差し金だと記され、
三成の邸にいた家康がより安全な三成の兄の邸を提供され退避してる。
その後に、北政所を西の丸から追い出して、そこに天守を築いて家康は移り住んだ。
佐和山隠居の三成が武断派から襲われないように
護衛に結城秀康を付けたりしており(三成は帯刀していた正宗を護衛感謝の証に秀康に贈ってる)
白川亨氏も家康暗殺に加わったとされた 浅野長政が所領の甲斐蟄居ではなく、
武蔵府中に蟄居にさせられた事と対比して、浅野より姻戚関係にある三成の方を家康は信用していたと指摘してる。
関が原後に親戚の孝蔵主が甥を茶阿に送り届け 息子忠輝の家老にして甥を取り立ててる。
三成が家康との姻戚関係を重視して協調していたのがよくわかる。
輝元に唆された大谷に風聞を流されて、何時の間にか三成は西軍に巻き込まれていた。
ただ三成→直江書状が偽書状でなければ、
三成と直江が挟撃策を狙っていたと認めざるを得ない。

水野伍貴も三成は家康派だったとしている。
なんでいきなり三成が反家康の首謀者になって準備してたなんてでっち上げが信じられるんだ。
そもそも家康は武断派からの暗殺から縁戚の三成を守るために、
結城秀康まで護衛につけてあげてるし、三成は大坂の三成屋敷や三成の兄の屋敷まで提供して、
前田利長らの暗殺から家康を守っている。
そもそも看羊録には前田利長が家康を暗殺しようとして
同士を募った際に、景勝・秀家・清正・忠興・義宣・政宗が血盟したが
三成がそれを家康に通報して、家康襲撃を阻止したと書いている。
その後、家康が忠興に金を貸したり、豊後杵築6万石加増したりして味方化してるな。
そして七将による三成襲撃では、七将が家康に三成を死刑もしくは引き渡し要求する中で
家康が三成をかばって、結城秀康に警護させて佐和山までの道中で、七将に襲撃されないようにしてる。
三成がそのまま大坂に残っていたら、また七将に襲われる大事件が勃発する恐れが高い以上は仕方がない手打ち。
看羊録によれば、佐和山への移動には目的がちゃんとあり
これは家康が対前田のために、三成に北陸防衛を任せたと書いている。

中井俊一郎氏「家康の加賀攻めの際、三成は家康に従い越前に出陣している。
これは「看羊録」だけではなく、前田家の史料にも見られるので史実と思われる。
また大谷吉継は前田派の加藤清正の上坂に備えて淡路に出陣したという。
これも島津義弘の書状にあるので史実であろう。この当時、三成らは家康に従う姿勢を示していたのである」

つまり当初は家康との衝突を避けるために、少々のことは大目に見て融和しようとしていた三成だが、
いよいよ野心むき出しになる家康を見て、輝元や上杉と協調して家康を牽制する方向に軸足を移す。
しかし利家が死ぬや抑えが効かなくなった武断派のクーデターが発生し、これを悪用した家康によって、
毛利が屈服してしまい、三成は家康へ従属し家康派に転向し、
家康と共同して前田派(武断派も含む)と対抗することになる。
そのため西軍決起には三成はまったく関与しておらず、家康へ屈服した際に悔し涙まで出していた輝元の
会津征伐に便乗した専横奸臣家康への反撃への呼びかけと
豊臣家の将来を危惧する大老と奉行と大坂うちむきの権威の積極的参加による正当性の付与が、
内府たがい条が発給された根拠となる。
いまさら光成氏の2009年の古い話なんて問題にならない。
最近の論点は「看羊録」を利用した前田派と奉行派の対立軸をたくみに利用した家康という過程の論議が活発。
572人間七七四年:2013/12/04(水) 18:06:55.81 ID:F47xHcj7
前野長康や浅野長政の失脚を見てれば いつ政争の舞台から失脚しようが浮沈の覚悟もあって当然だろうね。
そして一年以上に渡り、三成はおとなしく生活していて事を起こすような証拠はまったくない。
嫡男の石田重家(三成が実父正継のために建立した寺である寿聖院の三代目を継ぎ生存)
次男の石田重成は津軽重臣として生存。
津軽2代藩主正室の辰姫として生存(子が津軽3代藩主信義)
三成首謀説は大老にもなった若狭酒井忠勝が主導して造られた東国太平記が
三成と兼続の陰謀話の証拠として登場させたのが発端だからw
それには現在では偽書状認定されている原書が存在しない書状が記載されてる。
6/20三成→兼続書状・7/14三成→兼続書状がそれ。
これはのちに続武者物語にも転載され一般化され根付いたもの。
三成と直江がすべて悪いと汚名を着せられたことと、
陰徳太平記を書いた岩国藩の香川景継が、
吉川家の意向を受けて、関ケ原軍記大成などの軍記類に偽書状を元ネタに
吉川の主張を隠密裏に盛り込む活動をして毛利は被害者ぶった史観を作りあげただけ。
三成と直江首謀→三成首謀→三成と輝元首謀→輝元首謀と
だんだんと三成の関ヶ原での権力が疑問視されてきてるのが流れだ。
また毛利は首謀者として改易させられ輝元の罪も問われる予定だったが、島津征伐が議題に上がったので
輝元は先鋒にすることになり減封になったのであり、偽書状のように広家のおかげで輝元が助命されたわけじゃない。

9/15付けの家康から政宗への関が原勝利レターも
濃州山中及一戦、備中中納言、島津、小西、石治部人衆悉討補候
などと書いてあって一番最後に名前があがるのが三成。
優先順位で考えても明らかに重要視されてない。秀家が一番重要視されてるでしょこれ。

白峰旬「関が原の戦いに関する再検討」
加藤清正は関が原の戦い直後9/24に「天下之様子」は「関が原表之合戦」では「輝元方敗軍」と報じているので
毛利輝元が大阪城にいて関が原の戦場に出向いていないにもかかわらず「輝元方敗軍」としているのは毛利輝元が西軍のトップであり
首謀者であったとみなされていた事を示している
毛利家内への介入と分断を図る家康が目指す覇権へ抵抗するために
会津征伐をチャンスに毛利は反家康行動に踏み切った。
573人間七七四年:2013/12/04(水) 18:10:22.70 ID:F47xHcj7
上杉景勝は無罪になっているが、輝元は強制出家隠居にされていることからも、
輝元が首謀者として重い沙汰を下されている一方、
武断派の協力を得られず会津征伐を断念しなければならなかった上杉では雲泥の差。

いくら豊臣家を守るために大老として家康が関ヶ原で戦う羽目になったと曲解しても無駄だわ。
せめて国松だけでも生かしておいたら後世において
言い訳ができたけど、やったことは女子供関係なく大坂20万人を虐殺して
大坂城をいったん平地化しつくして完全破壊してからの新大坂城建設と、
秀吉の墓を暴いて神号剥奪。自分は東照大権現として神になる暴挙だもんな。
偽新田源氏を標榜したところでクズの本性は直らなかったな。
織田家は秀信が家康に改易され野垂れ死に追いやられた後になってさえ、
信雄親子も有楽斎親子も大坂城にいて、みんな反家康の豊臣擁護側のリーダーとされていたし。
豊臣と共に滅亡にならないギリギリまで織田家は大坂城で家康に抵抗していた。
どんだけ織田家は家康が嫌いなんだよレベル。
さすがは看羊録に以下のように書かれる反社会的糞人格だけあるな。
家康は恩怨を心ひそかに含み、一度でも反目することがあれば、
必ず相手を死地に追いやってしまって満足した。
それ故、諸大名は、家康の力を畏れて表面上は服従するが、一人として心服する者はいなかった。
配下が秀家に謀反したのを責めない家康を小人だと世間が言っていた。
輝元の性格は朝鮮人に似ている。朝鮮人の大内の下僕の家柄。
毛利の外交を一手に担う安国寺の周囲は朝鮮人ばかりが囲んでいる。
彼らが内乱を起こせば、朝鮮への再出兵は無くなる。
こんな内容が書かれていて、三成と家康は協調していて、小西と三成が憎い清正が内乱を欲している。
毛利や秀家は家康に屈したら、朝鮮出兵へ行かされる末路なので反抗するしか道はない。
自分には絶対勝てないと分かっていた秀吉にはへりくだり、
秀吉死んだら本性を露わにしたものの勝てるかわからん利家には和睦し、
彼らが死ぬまで待ってただけで、 ひたすら信長や秀吉や利家に屈辱の人生に、
やっと日の出をみる機会がきたから、 豹変して織田秀信や豊臣国松を死に追いやっただけだろ。
英雄群雄と競って実力で手に入れた天下ではなく、 幼君を傀儡に平時に乱を起こし簒奪して、
実力で負けたくせに逆恨みで報復しただけ。 信長に助けられて遠江や駿河を貰ったにも関わらず、
織田から甲斐信濃を盗み、 秀吉から東国取次ぎに抜擢されて関八州をプレゼントされた恩も、
すべて逆恨みとなしただけのキチガイ。
574人間七七四年:2013/12/04(水) 22:25:54.24 ID:UHtaJy8v
>>564
指摘もなにも私の主張をあなたは「普遍性が高く史実として認識されているもの」
として評価されているので話はそれで終わりなのですが。
一次史料に基づいた論説を否定するのに一次史料は必要無いとお考えなら
こちらとしては特段諫止する義理もないのですが
他の方々がどう受けとめられるか保証は致しかねるところです。
また史料の日付も内容も出典先も明示してありますので
発言者としての責はすでに充分に果たしております。
また出典先が明示されている以上私の発した情報の真偽を第三者が
検証する事は可能でありますから何ら謗りを受ける謂れもありません。
それを理解できないなのはあなたご自身の問題でありますから
私にはどうしようもない事でありますし
またそれによって私自身には何ら不都合は発生しないのです。
他人を攻撃しておきながらその人の情報に依存しなければ
持論を展開出来ないなどという理屈は普通認められませんよ。
575人間七七四年:2013/12/04(水) 22:43:24.51 ID:UHtaJy8v
では日付君の為かつスレに有益な情報を、という意味で連署したメンバーを並べてみます。

羽柴対馬侍従羽柴柳川侍従羽柴久留米侍従鍋島加賀守小西摂津守加藤主計頭
寺沢志摩守黒田甲斐守毛利豊前守嶋津又八郎松浦式部卿法印松浦源三郎秋月三郎
高橋九郎相良宮内太輔築紫上野高橋主膳有馬修理大夫大村新八郎五藤孫右衛門

以上署名順。
メンバーの豪華さでは7月20日に流石に劣りますね。
576人間七七四年:2013/12/04(水) 22:46:01.33 ID:AWcfonYE
>>自分には絶対勝てないと分かっていた秀吉にはへりくだり
>>実力で負けた
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。

戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
577人間七七四年:2013/12/04(水) 22:48:07.87 ID:wdG74qZd
>>自分には絶対勝てないと分かっていた秀吉にはへりくだり
>>実力で負けた


信雄家康は秀吉に圧勝したじゃん。135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

そもそも豊臣政権自体が単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
578人間七七四年:2013/12/04(水) 22:49:24.43 ID:UHtaJy8v
お、コピペで誤魔化しパターンはいったか
579人間七七四年:2013/12/04(水) 22:50:06.60 ID:O/1GkeJl
さしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。

小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。

結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
秀吉自体が土下座と棚ボタと謀略で成り上がってきただけの人だから純粋な戦がゴミみたいに弱いのは仕方がない。
雑魚の毛利に連戦連敗するアホなんてそうそういないよ。
毛利なんて5万石程度の南条にすら攻略失敗したり20万石そこそこの宇喜多にも野戦でガチ大敗するくらい弱い軍隊なのに
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
580人間七七四年:2013/12/04(水) 22:51:47.96 ID:O/1GkeJl
>>家康は人質提出でも、養子だよ!とかいい訳
翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。

>>天正12年戦役は秀吉が圧倒し押しきった形で終わった
秀吉はさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。

>>家康信雄連合は秀吉から雀の涙の如き一寸の地でも奪って意地を見せることすら出来なかった程に一方的

信雄方は6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。

秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
581人間七七四年:2013/12/04(水) 22:52:34.58 ID:rYBAsoDM
豊臣家が滅ぼされたのは単に秀吉が馬鹿だったからというだけ。
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻
秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。

こんな体制じゃあっさり崩壊して当然
582人間七七四年:2013/12/04(水) 23:36:05.24 ID:xvMDDp3h
まーた基地外織田チョンのアンチ秀吉コピペ爆撃かよ。
583人間七七四年:2013/12/04(水) 23:44:32.84 ID:9njVxMuq
三成が権力を奪うために内府ちかひの条々を隠れ蓑にして謀反を起こした
こんな誰でも分かる議論の余地が無いほど明らかなことを認めたくないと
おかしなトリックを使って誤魔化そうとする奴がいるから困るよな
584人間七七四年:2013/12/05(木) 00:06:00.65 ID:aXQmjAeb
>>571
以前にも言った事あるんだけどさ。結局回答なしだったんだよね。
識者の威を借るんなら、その識者と同一の主張なわけだよね?
で。
白川亨、水野伍貴、中井俊一郎、等は、
『三成・吉継の挙兵は雑説』、『三成は家康派』、『武断派が家康を騙し利用』
と明確に主張してるのかな?
検証したいので、キミが読んだ著書、論文を教えてもらえるか?

キミは、光成準治の著書について、大ウソの引用をした実績があるからね(笑
585人間七七四年:2013/12/05(木) 00:14:27.00 ID:aXQmjAeb
>>574>>575
何が言いたいのかよくわからないんだけど(笑

結局、私の主張について、史実との相違を指摘出来ないし、
起請文の日付も教えられない、って事ね。
メンバーなんて、日付を教えてくれればわかるのに(笑

逃げる人を追うつもりもないので、お疲れ様。
586人間七七四年:2013/12/05(木) 00:19:13.00 ID:nY1rKTP6
自分は一切、一次史料の根拠を出さずに、
自分の妄想に基づいてケチだけ付けてる基地外アンチ豊臣在日のクズ乙
光成の本の曲解をしておいて、
他人が曲解したと言い出す基地外。
そもそも2009年から時間が止まってる無知ケチ乙
587人間七七四年:2013/12/05(木) 00:28:52.40 ID:aXQmjAeb
いやいや。
何度も言うけど、何の一次史料が必要なのか言って欲しいんだよね(笑

『毛利輝元が西軍の首謀者』
こんな主張をしている識者を聞いた事ないし、曲解はどちらか明白だね。
その無知に反論出来なくなるキミって一体何なんだろ?(笑
588人間七七四年:2013/12/05(木) 08:56:19.08 ID:wplD8J1R
>>584
おいコジキ織田ちょん君、
クレクレコジキやってないで、自分で買って読めばいいだろ。
お前みたいな不誠実な基地外に親切するほど忍耐強い優しさはもうねーよ。
どうせお前に都合悪ければ歪曲とかウソとか言い出すだけなんだから、
自分自身の目で直接確認するのが筋だろう。
礼節のない無礼なコジキにいつまでも親切してくれると盲信すんなよちょん君。
光成氏の本の時も、
そんなのウソとか連呼した挙句に、
本を手に入れるや180度豹変して、
それまでの無知レスをまるで無かったかのようなレスを開始し、
高飛車に教えてやる!な態度で光成氏の本の我田引水曲解歪曲を始めたくせにw
589人間七七四年:2013/12/05(木) 13:32:23.52 ID:f50rLcyu
基地外織田厨は親切なレスすらも、
恩を仇にして返し、教えてもらった内容を曲解し我田引水して、
相手を捏造呼ばわりして単発IDで自演する狂人朝鮮人。
590人間七七四年:2013/12/05(木) 15:55:54.32 ID:vBEFaM+t
>>588
恩着せがましい人だな〜(笑
キミに教えてもらった事などないよ。何なら、該当スレのレス番を教えてもらえる?

自分で識者の名前を出し、自信満々に持説の根拠としておきながら、
その著書を尋ねられると、回答しないという。。。(笑
識者の主張をデタラメに引用したのを白状したようなもんだ。
キミに名前を挙げられた方々が気の毒でならないよ。

高飛車に感じるのは仕方ない。キミは私に敗北宣言した事あるんだから。
該当スレのレス番を表示しようか?(笑
591人間七七四年:2013/12/05(木) 16:18:54.08 ID:vBEFaM+t
>>591
我田引水、曲解歪曲の代表例
『三成・吉継の挙兵は雑説』、『三成は家康派』、『武断派が家康を騙し利用』
『西軍の首謀者は毛利輝元』、『南宮山では凍死者が発生』、『内府ちかひの条々で東軍は瓦解』等々。
592人間七七四年:2013/12/05(木) 16:58:02.97 ID:WEeV0Vxw
キチガイ在日アンチ秀吉が虚勢の論破宣言www
相変わらず無知だから一次史料を用いた具体的反論すら出来ずに
いつものひたすら要求する姿勢のワンパターンで、
議論から逃亡を続けてる事実を誤魔化そうと必死www
本なんて本屋か図書館に行けばいくらでも読めるだろwアホ乙www
593人間七七四年:2013/12/05(木) 17:12:40.61 ID:vBEFaM+t
>>592
論破宣言?やめてくれよ、恥ずかしい(笑
キミとは議論にすらなってないから。キミの主張の間違い探しかな。
なので、キミの『敗北宣言』ね。

話逸らしてるのはキミでしょ。
ざっとレスを100ほど遡れば、キミの未回答だらけだよ?
どうせ、起請文の日付も回答しないつもりでしょ?(笑

キミの参考にした著書がわからないのに、本屋に行ってどうする(笑
594人間七七四年:2013/12/05(木) 17:17:24.86 ID:WEeV0Vxw
えっ?2010年以降の本や論文だったら
検索したらすぐわかるだろw
お前、そんなのも調べられないほどの無知かよwwwwwwwwww
アホ過ぎて話にもならない。
つか唐突に起請文の日付って何?意味不明。日本語からまず勉強しろ。
595人間七七四年:2013/12/05(木) 17:30:22.81 ID:vBEFaM+t
キミから聞く事に意味があるんじゃないか。
キミは嘘をつくから、証跡を残さないと(笑

結局あれだよ。
自分が参考にした著書なのに、それを堂々と言えない程度の主張って事でしょ。
いつもの通り、こちらの質問には未回答で逃げ出したという事で了解したよ(笑
596人間七七四年:2013/12/05(木) 18:23:04.54 ID:WEeV0Vxw
おいおい、一次史料を元にした反論から逃亡を続けるつもりかwwww
著書なんてネットがあるんだから
調べりゃ1分かからずすぐわかるだろアホ乙w
597人間七七四年:2013/12/05(木) 21:35:56.82 ID:Nrmz1y9X
反論は一次史料を根拠に書いてくださらないと。
個人的怨恨が原因で、粘着ストーカーしてケチをつけること自体が目的になっているアンチ秀吉の低脳は改心してルールを守ってくださいよ。
598人間七七四年:2013/12/05(木) 21:47:25.08 ID:vBEFaM+t
>>596>>597
一次史料で説明するから、疑義を持つ点を指摘してくれと何度も言ってるけど?(笑
(>>552>>564>>587)

それに回答しないのは、キミだよねぇ。
大上段に一次史料と言ってるけど、キミのやってる事は只のかけ逃げ(笑

キミのトンデモ主張に対して、私が指摘のお手本見せてるので参考にしてよ(笑
(>>591)

で、結局やっぱり著書言わないんでしょ?(笑
599人間七七四年:2013/12/05(木) 22:17:33.82 ID:11B9Fy6a
>>575の続きでその7月20日の起請文。
この日付で複数の起請文が作られているので合わせ全員を書いてみます。
手打ちですので抜けがあるかもしれませんがご容赦を。

前田加賀中納言宮部中務卿法印民部卿法印富田左近将監
長束大蔵大輔石田治部少輔増田右衛門尉羽柴備前中納言
羽柴東郷侍従羽柴伊奈侍従羽柴能登侍従羽柴安房侍従
井伊侍従羽柴出羽侍従羽柴土佐侍従羽柴常陸侍従(血判無)
羽柴薩摩侍従(血判無)羽柴左近侍従羽柴金山侍従
羽柴伊賀侍従羽柴郡山侍従羽柴北庄侍従羽柴松任侍従
羽柴吉田侍従羽柴京極侍従羽柴若狹羽柴常陸侍従(血判有)
羽柴結城少将羽柴越中少将羽柴丹後少将羽柴安芸宰相
羽柴岐阜宰相羽柴越後宰相羽柴江戸中納言羽柴筑前中納言
羽柴大野宰相常真
600人間七七四年:2013/12/05(木) 22:21:24.64 ID:11B9Fy6a
起請文それぞれの条文や語句に違いはあっても秀吉の定めた法の順守と
秀頼への忠誠という部分では同様のものです。これら起請文は
秀次事件による政権内部の動揺を鎮める為に作られたとされていますが、
条文の内容は後に大老奉行の連署で作られた御掟・御掟追加と
近似しており秀次そして自身の死後の政権運営のあり方について
秀吉が明確な指針を示したという点に於いて軽んじる事が出来ないものです。
601人間七七四年:2013/12/05(木) 23:23:39.18 ID:vBEFaM+t
7月20日?

キミ、私の>>520への反論として、7月12日付と8月6日付を提示したよね?(>>538)
日付についての質問をさんざん無視してきて、今頃横からレスするなら、
まずは、その説明をするべきでしょ?

それとも口調を変えての自演ですか?(笑
602人間七七四年:2013/12/05(木) 23:25:12.87 ID:vBEFaM+t

× 8月6日付
◯ 8月20日付
603人間七七四年:2013/12/06(金) 09:13:05.83 ID:TNWzfLhs
おいおい、一次史料を元にした反論から逃亡を続けるつもりかww
ww
最も一次史料による反論なんてできないから誤魔化してるんだろうがw
著者名がきちんと明示されてんだから、
2010年以降の限定検索かけりゃ著書なんて、
30秒以下で速攻すぐわかるだろ無能乙w
つか関が原研究してれば当然読んでおくべきレベルなのに知らない時点で無知露呈なんだけどな。
まあ2009年の光成の本如きで自信満々に上から目線で語る恥ずかしい人だもん仕方ないわなw
604人間七七四年:2013/12/06(金) 10:54:59.46 ID:p12uxR0u
>>603
一次史料で説明すると何度も言ってるよ。 (>>552>>564>>587>>598)
何の一次史料が必要なのか、疑義を持ったところを指摘してくれよ(笑
それを教えてもらわないと、出しようがないんだけど。

で結局、著書は言わないんでしょ?(笑
捏造を暴露されたくないなら、最初から識者の名前なんか出さなきゃいいのに。
虎の威すら借りれてないやね(笑
605人間七七四年:2013/12/06(金) 11:17:41.02 ID:TNWzfLhs
はぁ?日本語の流れが理解出来ないの?池沼?
誤魔化して逃げてないで早く一次史料で反論してみろよw
そしたら著書名を教えてやるよ。
つか著書なんてネット検索したらすぐ出るだろ。
お前、ガチでネット検索の仕方がわからないのかよ?
日本語不自由なの?やっぱりアンチ豊臣政権の朝鮮人?
そんなに秀吉や三成が憎いからって歪曲曲解を繰り返して異常だよな。
606人間七七四年:2013/12/06(金) 11:37:13.59 ID:lC90GH8o
何を知りたいのか言わずに一次史料出せってのも新しいな
607人間七七四年:2013/12/06(金) 13:30:38.40 ID:Jqkb+lgQ
著書
水野伍貴
2010年 秀吉死後の権力闘争と会津征討
2010年 佐和山引退後における石田三成の動向について
島津亮二
2010年 小西行長「抹殺されたキリシタン大名の実像」
林千寿
2010年 慶長5年の戦争と戦後領国体制の創出
渡辺大門
2011年 戦国の交渉人 外交僧安国寺
本多隆成
2012年 小山評定の再検討
白峰旬 
2012年 慶長5年6月〜同年9月における徳川家康の軍事行動について
2012年 フィクションとしての小山評定
中井俊一郎
2012年 石田三成からの手紙

>>584
1.三成は家康派
>>571のとおり

2.三成・吉継の挙兵は雑説
そもそもすべての著者は三成首謀者とする根拠をまったく挙げずに曖昧にしている。
そりゃそうだ、まったくそんな根拠がないのだから証明責任から逃げているのだから。
それは>>561冒頭でも指摘していることだ。
そしてなぜ三成が首謀者に仕立てあげられていったかは>>572と通り。
君はそれを普遍的な事実だと言う逃げ言葉で誤魔化しているわけだ。
だから三成が首謀者であることを一次史料で証明しろとたびたび指摘してるのに、
「何の一次史料が必要なのか、疑義を持ったところを指摘してくれよ(笑」
とわからないフリを装い逃げているんだろ?バレバレな誤魔化しをするなよ。

3.武断派が家康を騙し利用
たびたび指摘してるだろ。三成を討つために起した七将クーデター後に
家康派へ転向した三成を武断派はなんとか討ちたがってた。
特に利家生前には前田派だったが家康に買収され転向した細川らは家康へたびたび三成の讒言をしていた。
家康は会津征伐をしていたが、武断派は三成の挙兵のでっち上げを聞くや、
家康が三成と大谷なんて大したことないと、会津征伐を進めようとした家康を捨てて西上。
しまいには伊勢の毛利軍も無視して三成を狙って北上。家康が疑心暗鬼で江戸で引き篭もりをしている中で
武断派は三成を包囲したとでっち上げて、それを聞いた家康が攻撃停止を命じてウソを信じて西上。
関が原の戦いでも黒田の調略で、徳川がロクに戦わずに武断派が勝利し、
大坂うちむきの勢力と和睦し豊臣の名で論功行賞をするハメになり、
しかも加増の大半が武断派になってしまうなど、終始、家康は武断派に利用されてる。

1.2.3の言えることだが、家康派になった三成を家康の敵に仕立てるため
家康を利用して三成を葬るため、細川家記に偽書状を作ってまで、
三成を首謀者に仕立て上げようとしてるほどだ。
もっとも典型的な例は、内府たがい条は何通か残されているが、
細川家記に出てくる内府たがい条にだけは、三成の名が書かれている。
宛先は別所重宗になっていて、こんなヤツに三成が出す動機すらもない。
ガラシャの侍女の口伝記でも、三成が人質を捕らえにくる風聞が書かれ、
明らかに三成を首謀者にしようとして記録作ってる。
608人間七七四年:2013/12/06(金) 16:30:31.46 ID:M7ny+WfP
昔は首謀者は三成って書かれてきて、
三成が首謀者ってのが普遍的な事実とされたが、
近年、研究が進むと、首謀者は輝元と三成と書かれるようになり、
すでに普遍性自体が消滅してるわな。
そもそも三成が首謀者である一次史料が全くなく、
輝元が首謀者であるとしか思えなくなってきてしまったので、
二人を首謀者として併記せざるを得ないまでに、
勝者の記した歴史の否定が開始された。
全く証拠がないのに三成の名が併記されるのこそ、まさに崩壊した普遍性の残骸に過ぎ無い。
三成首謀者など伝説レベルの勝者によるミスリード。
609人間七七四年:2013/12/06(金) 17:50:05.62 ID:Jqkb+lgQ
細川家記には7/17付けで別所吉治へ宛て
長束や増田や前田と一緒に三成が署名している。

忠興はなんら忠孝がないのに、秀吉が取り立てた福原の領土を
家康の助けを得て手に入れ、今度はなんら咎もない景勝の追討をする家康に
忠興は家臣団全力で助成するに至り、是非に及ばず、秀頼公のために成敗。
などと書いている。
そもそも西軍に参加していた別所吉治からどうやって、この書状内容を知ったのか?
しかもこのメンバーがこの日に揃っているなら、
なぜ真田家に伝わる7/17付け内府たがい条などには
一切、三成の署名がないんだ?そもそも三成は大坂にはいない。
しかも家康に協力してるほかの大名には同内容の書状は一切なく、
内容は細川家へのピンポイント糾弾で、
あからさまに忠興の家康への忠誠を演出している。

細川家記の7/21付け忠興→杵築城にいる家臣の松井と四郎右・市正宛てでも、
忠興は「三成と輝元が謀反する事態については、かねてから家康に言ってきていた」
などと書いていて、前々から三成の讒言を家康へ言い続けているのが窺われ
明らかに三成をどうにか敵に仕立てあげようとしてきているのがわかる。

細川家記やガラシャ侍女については>>529
610人間七七四年:2013/12/06(金) 21:44:22.41 ID:VC6kZpko
>>575
>>599
>>600
の続き。

改めてこれらの起請文及び御掟から条文を幾つか抜き出します。
●一.諸事太閤様御法度御置目之通無相違可守奉事
●一.自然於喧嘩口論者致堪忍可輩属理運事
●一.無実儀申上輩在之者双方召寄堅可被遂御糺明事
●一.私遺恨を以諸傍輩相果候儀有之間敷候
自然非分被申懸背御法度仁於有之者
各御置目をも被申付候衆相談之上を以得御諚可被加御成敗候事

七武将による襲撃事件はこれらの条文を明らかに無視しています。
家康による縁辺問題が浮上した際には条文がある程度の有効性を
発揮してとりあえず平和裏に解決していますが、七武将の襲撃事件は
家康と並んで政権を統括する立場にあった前田利家の死によって
政権が機能不全にあった時点で行われた点が大きく違います。
また七武将のバックに家康が付き、さらに七武将自身の保有する
軍事力も極めて高かった事が彼らが不問に付された主な原因でしょう。
611人間七七四年:2013/12/06(金) 21:53:04.60 ID:VC6kZpko
武断派の七武将が朝鮮出兵で率いた兵力は日本軍総兵力の約20%。
これは文禄役における毛利輝元と慶長役における
毛利秀元に匹敵する兵力です。また清正・長政・蜂須賀・正則らが
隊長クラスに任じられているように彼らは優れた指揮官であり
経験・能力において不足はありません。その軍事能力の高さは
関ヶ原において彼らが果たした役割を見れば明らかで、
それらを喪失したことは豊臣家にとって大きな打撃だったといえます。
本格的な直轄軍を持たず外様大名への動員に大きく依存する
豊臣政権なら尚更の事です。逆に家康と七武将からすれば
軍事力を背景にしたパワーゲームは望むところで、また襲撃事件の結果から
このまま力で押しきれるだろうという大きな自信を得たものと思われます。
612人間七七四年:2013/12/07(土) 08:21:32.27 ID:tR1jRGyr
>>607
ようやく著書を挙げてくれたか、ありがとう。
キミは、これらの著書を参考にしたという事でいいんだよな?
著書を羅列するだけなら、読んでいない人間でも出来る。
イエスかノーで回答してくれ。

白川亨氏は2012年に逝去しており、その著書は2010年以降ないよね。(>>571)
であれば、白川亨の古い主張を論拠にしてはいけないなぁ(笑
>いまさら光成氏の2009年の古い話なんて問題にならない。(>>571)

キミの主張と識者の整合性は著書を読んでからコメントするよ。
613604:2013/12/07(土) 08:24:30.59 ID:tR1jRGyr
>>607
ようやく著書を挙げてくれたか、ありがとう。
キミは、これらの著書を参考にしたという事でいいんだよな?
著書を羅列するだけなら、読んでいない人間でも出来る。
イエスかノーで回答してくれ。

白川亨氏は2012年に逝去しており、その著書は2010年以降ないよね。(>>571)
であれば、白川亨の古い主張を論拠にしてはいけないなぁ(笑
>いまさら光成氏の2009年の古い話なんて問題にならない。(>>571)

キミの主張と識者の整合性は著書を読んでからコメントするよ。

>三成が首謀者であることを一次史料で証明しろとたびたび指摘してるのに、
いつ指摘した?レス番を指定してくれ。
614601:2013/12/07(土) 08:29:31.02 ID:tR1jRGyr
>>610>>611
同じ事を繰り返すけど、

7月20日?

キミ、私の>>520への反論として、7月12日付と8月20日付を提示したよね?(>>538)
日付についての質問をさんざん無視してきて、今頃横からレスするなら、
まずは、その説明をするべきでしょ?
それとも口調を変えての自演ですか?(笑
615人間七七四年:2013/12/07(土) 09:50:03.64 ID:5YLGEePJ
やっぱりアンチ秀吉基地外は狂ってたか。
あとあと理不尽な屁理屈をたれる気満々のレスwww
2009年以前の著書でも2010年以降になって、
その著書に言及して批判されたもので無ければ、
その史料を利用しても何も問題ないし、
参考にした=著者の考えに全面賛同した
という意味にはならないが、
こいつは完全にそういう基地外ロジックを使う為に、
伏線として予防線をはってやがんのワロタwww
まさに基地外王チョン
616613:2013/12/07(土) 20:52:48.02 ID:tR1jRGyr
>>615
イエスか、ノーも応えられないのか。余程自信がないんだな。

>2009年以前の著書でも2010年以降になって、その著書に言及して批判されたもので
>無ければ、 その史料を利用しても何も問題ないし、
全く意味がわかりませんが(笑
2009年以前でも、キミの主張を補強する場合はOKで、反論側は不可としか思えませんが。
事実、キミは最近でも光成光成と虎の威を借っていたよね〜。(しかも歪曲)

それと。
とりあえず、本田隆成、白峰旬、中井俊一郎は、三成が徳川派などと全く言ってないし、三成を首謀者としてるね。
嘘つき(笑
617人間七七四年:2013/12/07(土) 21:11:17.86 ID:AU1eJqNG
秀吉三成アンチって理解力が無いのか、
朝鮮人脳には理解できないのか笑えてくるな。
結局、一次史料による反論が全く出来ないから、
わけわからんことを言って誤魔化してるだけなんだよな。
618人間七七四年:2013/12/07(土) 21:15:23.37 ID:tR1jRGyr
そうそう、一次史料の回答と言えば、>>613の質問の回答は?
>三成が首謀者であることを一次史料で証明しろとたびたび指摘してるのに、
いつ指摘したっけ?(笑
619人間七七四年:2013/12/07(土) 21:56:54.73 ID:Btnp3am+
>>548
>>549
の続き

慶長5年10月2日の吉川広家宛黒田長政書状の内容をもう少し詳しく

一.輝元様御身上之儀羽佐太申談涯分候へき共奉行共御一味候而
西丸御移諸方同通之廻状数々中納言殿御判慥に候上(後略)

このように戦後の調査によって輝元が奉行と共謀で決起した事と「廻状」の
「数々」が見つかった事が記されています。そして三成と吉継の名前はありません。
また「廻状」が7月23日最上義光宛て家康書状における
「治部少輔形部少輔才覚方々触状廻」に対応している事は言うまでもないでしょう。
ご存知のとおり黒田長政は七武将による襲撃事件のメンバーで三成とは
決して友好的な関係にありませんから三成を慮る必要は全く無く、また広家を陥れる
必要もありませんので調査の内容は事実と見て間違いないでしょう。
620人間七七四年:2013/12/07(土) 22:07:12.53 ID:Btnp3am+
この長政書状に対して10月3日広家は返書をしたためます。
そこには輝元の決起について「安国寺調儀以奉行衆任申分西丸罷上
」と書かれており広家としては輝元の意志では無く安国寺恵瓊の
策動によって奉行衆と連携しただけであるという立場をとっています。
しかしここでも三成と吉継の名前はありません。

加えて黒田如水が10月4日に広家に送った書状には輝元が西軍大将となった
根本原因を「悪僧之安国寺若輩之堅田兵部以下諸事被任置候故」
としていてます。つまりは問題は毛利家内部にあって三成・吉継が輝元を
西軍に引き摺り込んだとは書かれていないのです。
621人間七七四年:2013/12/07(土) 22:16:59.32 ID:tR1jRGyr
>>619>>620
なんかもう自演が痛々しいよ(笑
>>614の回答をせず自分の主張のみ一方通行の手法と、このタイミングおタイミング(笑
まずは質問に答えてからにしようね。
答えられないなら、お呼びでないよ(大笑
622人間七七四年:2013/12/11(水) 18:53:16.95 ID:VPvaREz2
44. 名無しさん 2012年09月20日 03:13 ID:J9.fXYdl0  ←
横やりだけど、淀殿や秀頼に毛利輝元の入城を拒否れって無理じゃない?

45. 名無しさん 2012年09月20日 03:16 ID:J9.fXYdl0  ←
そんなことより、無双の三成とか、天地人の三成とか、ああいうのマジで嫌いなんだけど、あの不快感は何でだろうな。

46. 名無しさん 2012年09月20日 12:13 ID:J9.fXYdl0  ←
>>44
そもそも毛利輝元の入城じたいに何の問題はない。

ただ、その後、西軍は正当性もないままに、豊臣の命もないまま独断で挙兵している。
内府ちかひの条々も不発。何故不発してしまったかは明白だよ。

これをどうして正当性は東軍と同等、などど言う人間がいるのか不思議だ。よっぽど西軍贔屓なのか。
623人間七七四年:2013/12/11(水) 18:55:25.73 ID:VPvaREz2
51. 名無しさん 2012年09月21日 04:06 ID:DGnHJnZV0  ←
いや、豊臣は西軍への協力を拒否ってるんじゃ?
確か三成が淀殿に金や兵糧を頼んだが断られてたよね?
>>47さんは東軍は西軍を攻撃する命令を受けてないと言うけど、西軍も東軍への攻撃命令受けてないよね。

>>50さんは、そりゃたしかにその通りかもしれないけど、もう少し言い方があるんじゃないかと思います。
賊軍って言い方も乱暴じゃないかと思います。

52. 名無しさん 2012年09月21日 09:14 ID:DGnHJnZV0  ←
おいおいおい、三成好きの歴女が暴れてるみて―だなww!
三成なんて、権力得ようと謀反起こした小物だろ。

53. 名無しさん 2012年09月21日 11:05 ID:DGnHJnZV0  ←
>>51
たとえ賊軍でも勝てばよかったんだよ。
でも西軍は賊軍のまま敗北し、後世においても賊軍となった。
>>52
三成が謀反を起こしたのは間違いない。ただ非常に剛腕な野心家だよ。あのままでは三成は蟄居したのちどんどんと状況が悪くなるばかりで、自身の立場の復権を狙ったんだろう。
624人間七七四年:2013/12/12(木) 22:32:06.58 ID:SEIM4/Bd
菅沼良太ことSubは早く質問に答えてやれよ
625人間七七四年:2013/12/13(金) 09:08:02.45 ID:4zWOuiHL
アンチ秀吉の織田朝鮮人は相変わらずキチガイ全開だな。
626人間七七四年:2013/12/28(土) 23:06:30.47 ID:s7jEsVfg
菅沼ことSubは早く質問に答えてやれよ
627人間七七四年:2013/12/28(土) 23:15:56.11 ID:McOE9EzB
>>612
そうだよ。
で、そろそろ読み終わっただろ?感想はどうだ?
628人間七七四年:2013/12/28(土) 23:59:25.93 ID:NuclkiOQ
>>627
書いて欲しい?
三成家康派とか、輝元首謀者と言ってる著者はゼロ。
光成の時と同じ。著者の主張を捻じ曲げてる。
なんなら原文を転記しても良いよ。
629人間七七四年:2013/12/29(日) 00:11:33.71 ID:9jSTFw3M
斉藤対菅沼
630人間七七四年:2013/12/29(日) 02:12:18.03 ID:eVIeVkc8
>>628
おぉ原文を転記してくれ。
菅沼死亡乙w
631628:2013/12/29(日) 11:50:06.06 ID:y+8oivfO
小西と安国寺については、話がズレるので未読。
それではどうぞ。

水野伍貴@
『「看羊録」の記録は誤りが多いが、それは事実を正確に把握するには難しい環境にあった�が故といえよう。
  (中略)歴史的事実としてはどうであれ、当時の人々の認識や風聞という面では正しく記されていると筆者は判断する。』
『風聞を知る上での史料として「看羊録」は活用が可能であると筆者は考える。』
『家康は三成を失脚へ追いやった張本人であるが、石田家の存続を保証したのも家康だったのである。
632628:2013/12/29(日) 11:52:25.06 ID:y+8oivfO
水野伍貴A
『家康に次ぐ大大名である輝元の存在とその動向が三成を再び反家康闘争へと進ませ、両者が軸となって西軍が組織されたことは想像に難くないだろう。』
『三奉行(増田・長束・前田)は計画の首謀者的な立場ではなく、西軍に懐柔された存在とみたほうがいいだろう。』
『三成が真っ先に政治的・戦略的な行動を開始したことに加え、失脚しているが故に行動すること自体が怪しまれやすかったのであろう。』
『(三成に)単身決起など毛頭なく、あくまで輝元・秀家といった大老衆の動向を踏まえての計画始動であったとみるべきである。』
633628:2013/12/29(日) 11:57:45.05 ID:y+8oivfO
>>631修正

水野伍貴@
『「看羊録」の記録は誤りが多いが、それは事実を正確に把握するには難しい環境にあった�が故といえよう。
  (中略)歴史的事実としてはどうであれ、当時の人々の認識や風聞という面では正しく記されていると筆者は判断する。』
『風聞を知る上での史料として「看羊録」は活用が可能であると筆者は考える。』
『家康は三成を失脚へ追いやった張本人であるが、石田家の存続を保証したのも家康だったのである。( 中略)家康に対する協力的な姿勢は、
石田家の存続を保つために必要なものだったのである
634628:2013/12/29(日) 11:59:39.32 ID:y+8oivfO
林千寿
『この戦いは、豊臣奉行衆(石田三成・前田玄以・増田長盛・長束正家)が、毛利輝元ら西国大名に大坂・伏見城への出軍を要請したことで勃発したものであるが、(後略)』
『慶長5年の戦争は、家康や三成の政治的欲求だけで成り立っていたわけではない。そこには、それぞれに自己の権益を維持・拡大しようとする諸階層の意思が介在していたのであり、(後略)』
635628:2013/12/29(日) 12:00:34.58 ID:y+8oivfO
本田隆成
『佐和山城に逼塞していた石田三成が、家康が上方を離れたのを好機として、家康打倒のための画策を始めたのである。』
『当初は三成・吉継両名の挙兵にとどまっていたのであるが、彼らは安国寺恵瓊とも協議し、三奉行を説得するとともに、毛利輝元のかつぎ出しを謀った。』
636628:2013/12/29(日) 12:03:34.36 ID:y+8oivfO
中井俊一郎@
『最近の研究では秀吉死後の政局に関して、三成と家康の対立という二極化した見方ではなく、
徳川派・前田派・毛利および三成ら奉行派と三極でみるべきという見解が水野伍貴氏らによって提唱されている。
(中略)この見方は当時の情勢を理解する上で非常に重要と思われる。』
『三成らが決起したことは、日本中に新たな混乱と混沌を生み始める。豊臣公儀という鎖から解き離れた諸侯は、
みな勝手な行動をとり始めることになる。』
637628:2013/12/29(日) 12:05:21.47 ID:y+8oivfO
中井俊一郎A
『情報不足の奥羽で孤独な戦いを続ける景勝にとっては、上方の情勢より、まず自己の基盤拡大が何よりも重要であった、ということになる。』
『一門を伊勢・美濃に派遣する一方で、国人を中心に四国・九州攻めを行っていた輝元の意図は、景勝と同じであったろう。
即ち、この騒乱に乗じて自己の所領拡大を図り、割拠の体制をとることである。』
 
638628:2013/12/29(日) 12:16:55.69 ID:y+8oivfO
>>627
というわけで、
・三成が家康派と主張している識者はいない。毛利・三成刃という第三極で説明してる人はいる。
・輝元が首謀者と主張している識者もいない。
・輝元が自領拡大に注力していた事は、もはや不動の見解。
・水野氏は看羊録を史実としていない。当時の風評を知る上での史料どまり。

もうさ、歪曲・捏造・誤訳はやめとこうよ。
まぁ、誤訳はキミの学力だから仕方ないか(笑
639人間七七四年:2013/12/29(日) 12:54:49.45 ID:YDSTmCAb
野心の塊である三成が権力を奪おうと関ヶ原を起こしたのは誰の目にも明らかだろうに
いくら歪曲・捏造・誤訳を駆使したって三成が謀反の首謀者である事実を誤魔化せるはずがない
640人間七七四年:2013/12/29(日) 13:00:23.70 ID:Yt4uTbju
つか三成と毛利の目標も利害も根本的に異なるからなあ。
対家康に関する温度差も大きすぎる
641人間七七四年:2013/12/29(日) 23:08:26.53 ID:y+8oivfO
単純に全国を東西二極化し、西軍には家康打倒という目標だけを与えると、輝元の行動は説明がつかない。
愚将だったという講談的な思考停止におちいる。まぁ優秀とも思わないけど。
実際には、関ヶ原はそんな単純な構造ではなく、諸大名それぞれに思惑があり行動していたということだな。
642人間七七四年:2013/12/29(日) 23:11:47.36 ID:2omPRJFL
「秀吉の死による戦国時代の復活」という見方は非常に真に迫ってると思う
643人間七七四年:2013/12/29(日) 23:57:51.70 ID:B9dct1U7
豊臣政権を簒奪しようとしてるか、守ろうとしてるかの2本軸はわかりやすいし。
これに善悪二元論を当てはめて、おバカな総大将と豊臣恩顧をエキストラに加えると、
正義の人、忠義の人、無念の人の三成が完成するわけ。
大抵の西軍視点の小説はこんな感じ。影響受ける人が多いのも仕方ないのかねぇ。
644人間七七四年:2013/12/30(月) 00:03:46.50 ID:GTClVnGU
光成氏の本を読んだことがないからどちらが曲解してるかよくわからんかったけど、
水野の件の内容の取捨選択しての我田引水ぶりにはたまげたなあ。
水野は看羊録の記述を他の史料で証明する作業をしていることに全く言及しないとかあり得ないだろう…
このスレで争われている三成は家康派だったことに関しても、
重陽の節句を口実に大坂へ来た家康は、
三成邸に入り、その後に兄の石田正澄邸に入ることで、
石田一族は家康に大坂における拠点を提供しているとし、
義弘→家久宛の9/21書状で、
前田対策で大谷大学と三成が越前表に派遣され、
清正対策で淡路表に菅平や有馬を派遣していることを挙げて証明しているし、
看羊録の家康が淀殿を室にしようとしたとの記述も、
多聞院日記9/17に秀頼之母家康ト祝言在之候との記述を挙げていて、
当時、実際にそういう話が流れていた事実を証明しているどころか、
家康暗殺事件でなぜ名前が挙がっていない浅野長政が謹慎になっているか不明な部分では、
看羊録にある長政が前田をかばった記述を辻褄が合うと指摘してる。
645人間七七四年:2013/12/30(月) 00:20:12.85 ID:GTClVnGU
また水野は輝元の上坂を、
安国寺の言を信じて止むを得ず応じたものではないとして、
光成氏の意見を支持して、
上坂要請状は、輝元に大坂へ入るための大義名分を与えるための、
いわば西軍総帥就任の要請状ともいうべきものであり、
家康方となっていた三奉行に対する懐柔工作が事前に行われていたことが窺われるとしている。
また秀家に関しても、光成氏の7/5の神馬立を反家康闘争の成功祈願とする見方に賛同していて、
ただし、反家康闘争を高らかに宣言するものではなく、
同時期の一次史料で風聞となっているのは三成・吉継の動向だったとしている。
さらに一人の味方もいない上に、政治上失脚した三成が、消極的な輝元・秀家を反家康闘争へ引きずり込んだという構図は不自然であり、
むしろ輝元・秀家の側に積極性があったと考えた方が自然であると結論づけている。
水野は家康派だった三成がなぜ家康を裏切り西軍に参加したのかについて、
史料を用いての経緯説明を放棄しており、
一度も三成が首謀者である証明をしてない。
646人間七七四年:2013/12/30(月) 00:23:13.44 ID:i4FLGpxI
>>644
どちらが曲解って、キミは片方の当事者だろ。自演バレバレですけども。
そんな主張してるの、キミしかいないのわかってるだろ?(笑

いや、水野伍貴は明確に書いてるから。キミと違って私の推測は全く入ってない。原文そのまま。
『「看羊録」の記録は誤りが多いが、それは事実を正確に把握するには難しい環境にあったが故といえよう。
  (中略)歴史的事実としてはどうであれ、当時の人々の認識や風聞という面では正しく記されていると筆者は判断する。』
『風聞を知る上での史料として「看羊録」は活用が可能であると筆者は考える。』

他の史料との整合性を取るのは当たり前だろ。水野は『風聞』として看羊録を捉えてるんだから。
違うというなら、水野が看羊録のみの記載を以って史実認定している箇所を教えてくれよ。
647人間七七四年:2013/12/30(月) 00:32:28.42 ID:i4FLGpxI
>>645
キミは、頭大丈夫?
そもそも三成が家康派だった事などないんだから、経緯説明自体が不要だろ(笑
(>>631-638)
自分の妄想に関して、識者が経緯説明を放棄している、とか頭どうかしてるぞ?
648人間七七四年:2013/12/30(月) 00:35:53.99 ID:U+zAgvNz
>>643
豊臣政権を簒奪といっても豊臣自身が海外遠征や粛清騒動で自爆した要素が大きいし
三成はそんな豊臣政権で既に10年以上も奉行として政権中枢部で活動しているわけで
豊臣政権を守るといってもそれまで守る行動なんて三成は何もしていないんだよな
だから西軍視点の小説だと大抵が秀吉死去から始めるなど誤魔化しを駆使している場合が多い
大河ドラマで三成を主人公にできないのは最後に負けたからというよりも
三成の人生を通しでやると正当性も一貫性もない滅茶苦茶になってしまうというのが原因だろう
649人間七七四年:2013/12/30(月) 00:48:23.66 ID:GTClVnGU
さらに水野は家康の西の丸入城を、内府たがい条や義演准后日記9月晦日の小坂内府滞留という言葉から、
不穏な空気を伝えていることから、周囲の賛同を得た入城ではなかったようだとしている。
看羊録に書かれる前田征討の際に、
前田・上杉の間に相互盟約があったとする点にも、
杉本義隣覚書や慶長中ト斎記などから察して、
こうした風聞が徳川氏側の判断材料になったとしている。
噂だからデタラメで信用できないのではなく、
噂から窺い知れる事実を史料から検証している。
事実、家康は9/14では帰国した景勝の無事を喜んでおり、
10/22では其元仕置被仰付之由尤候と上杉の領内仕置きを容認しており、
上杉の帰国は家康の同意があり、
上杉と前田の盟約の風聞の実在性が家康に疑心を起こさせたことを指摘している。
看羊録は上杉と前田の盟約の説明に、
越後を地を攻奪しようとしたから堀は大いに恐れしばしば家康に報告し、
家康も根本(関東)を心配さは手紙を送って京に戻るよう景勝に勧めたと書いており、
家康も10/17の最上宛などで其表之儀、堅固之手置等肝要と、
最上に堅固な備えが肝要と警戒しており、
戸沢にも其表之様子得其意候と家康は奥羽の情勢収集を開始しており、
堀直政のの訴えも事実と思われるとし看羊録の記述を信用している。
こういう内容を水野が書いているのに、
看羊録は噂だから信用性なしと水野は結論づけているような歪曲ぶりに驚いたわ。
光成氏の本でもかなり曲解してるんだろうな。
650人間七七四年:2013/12/30(月) 01:32:44.68 ID:i4FLGpxI
>>649
水野が書いてるのは以下の通り。原文そのまま。
『「看羊録」の記録は誤りが多いが、それは事実を正確に把握するには難しい環境にあった�が故といえよう。
  (中略)歴史的事実としてはどうであれ、当時の人々の認識や風聞という面では正しく記されていると筆者は判断する。』
『風聞を知る上での史料として「看羊録」は活用が可能であると筆者は考える。』

キミが何をグチャグチャ書こうと、本人の発言に勝るものはないから(笑
651人間七七四年:2013/12/30(月) 22:00:40.54 ID:7uk578ev
さすがアンチ秀吉三成のキチガイ織田在日君だ。
得意技の木を見て森を見ずの我田引水で、
最強キチガイっぷりを遺憾なく発揮してんな。
652人間七七四年:2013/12/30(月) 22:42:18.00 ID:McJzrADr
つか、看羊録に出てくる
家康が前田利長の上洛への道をふさぐ事を三成に命じた話や、
背後から清正が大坂城を奪う恐れってのは義弘書状で裏付け取れるガチ話だったのか。
看羊録はデタラメでウソだって連呼してたやつってクソだな。
653人間七七四年:2013/12/30(月) 23:57:12.38 ID:i4FLGpxI
>>652
>看羊録はデタラメでウソだ
そんな事を言った覚えはないが?(笑
レス番を教えてくれるか?

>看羊録は、
>@朝鮮人捕虜が A誰から何処から入手したかもわからない B伝聞記録
>他の一時史料との整合性を以って、初めて史実認定可能。
と私は主張してるけど(>>331)
義弘書状云々は、私の主張に沿った話だね(大笑
654人間七七四年:2013/12/30(月) 23:59:43.84 ID:i4FLGpxI
そして水野氏の見解。
『「看羊録」の記録は誤りが多いが、それは事実を正確に把握するには難しい環境にあった�が故といえよう。
  (中略)歴史的事実としてはどうであれ、当時の人々の認識や風聞という面では正しく記されていると筆者は判断する。』
『風聞を知る上での史料として「看羊録」は活用が可能であると筆者は考える。』
655人間七七四年:2013/12/31(火) 09:05:02.74 ID:QqqdQG+p
アンチ秀吉三成キチガイくんさー
日本史板の石田三成襲撃事件スレでも論破されて、
24時間いつ反論レスが来るか怖くて自宅警備を続けた挙句に、
ついに追い詰められてコピペ爆撃キチガイの姿を隠せなくなり、
火病発症超コピペ爆撃狂いになってるねワロスwww
656人間七七四年:2013/12/31(火) 09:12:44.63 ID:PCWD06r+
657人間七七四年:2013/12/31(火) 09:16:19.72 ID:Gv7qchwB
>>656
ID:QqqdQG+p の余りに酷い蹴散らされっぷりに吹いたw
658人間七七四年:2013/12/31(火) 11:30:55.41 ID:QqqdQG+p
相変わらずの24時間2ちゃん監視ぶりwww
さすがだわwww
もう大量レス投下と言う手法で逃げてるだけ。
最後にレスした者が論破した人って言う引きこもり理論w
自分に都合が悪い史料は全て否定する低脳理論w
subの昔のレスを盗用コピペして武田厨のフリをして、
荒らしの憎しみの目を家康にむけさせようとするも、
そもそも誰も家康なんてゴミに興味すらなく失敗連続w
さすが基地害織田チョンwww
いままで一切、批判してこなかった癖に最近になってバレてきたので、
急に荒らし爆撃を菅沼の仕業に押し付けてコピペ爆撃を批判し始める工作開始w
659人間七七四年:2013/12/31(火) 12:20:19.10 ID:PCWD06r+
>>656
こいつは反論されても無視して反証がしっかりついてる自分の同じ妄想を繰り返し垂れ流してる。

こいつの主張  http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1209135291/413
逸れに対する反論 http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1209135291/415-419
こいつの主張 http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1209135291/429
逸れに対する反論 http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1209135291/430-434

二回も同じような反論がしっかりついてる内容を、こいつは反論無視してまた妄想垂れ流し。
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1209135291/436

ガチで会話ができないリアルアルツハイマーだな。
660人間七七四年:2013/12/31(火) 12:26:13.39 ID:PCWD06r+
安価ミスった

こいつの主張  http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/413

それに対する反論 http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/415-419

こいつの主張 http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/429

それに対する反論 http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/430-434

二回も同じような反論がしっかりついてる内容を、こいつは反論無視してまた妄想垂れ流し。
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/436

ガチで会話ができないリアルアルツハイマーだな。
661人間七七四年:2013/12/31(火) 12:39:09.81 ID:zEO9x4Yg
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww
在日朝鮮織田チョンくんさー、
三河一向一揆との戦い以来の超古参の
石川数正や酒井忠次や本多重次らから、
強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう?

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
662人間七七四年:2013/12/31(火) 13:11:09.17 ID:PCWD06r+
停戦しただけなのを家康が土下座したとか曲解したり
養子を人質とかデッチ上げたり秀吉厨の脳内は相当腐ってるな。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。

戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
663人間七七四年:2013/12/31(火) 13:12:37.78 ID:1FKeqkY0
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。
664人間七七四年:2013/12/31(火) 13:13:54.78 ID:PCWD06r+
看羊録

家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。

家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。
665人間七七四年:2013/12/31(火) 13:15:20.69 ID:1FKeqkY0
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
>>秀吉が好意で家康からの人質を養子とした
いやそもそも家康は人質として息子を秀吉に指し出していない。人質として出してたというなら
翌年の両軍の冷戦状態なんてありえないし両陣営とも戦争の準備進めまくってたが秀康は切られず
佐々攻めの際の織田信雄の書状でも秀吉は秀康を人質としては扱ってないと書いてる。

家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
666人間七七四年:2013/12/31(火) 13:17:51.30 ID:1FKeqkY0
家康は信長や秀吉に比べると明らかに寛容だからな
前田や浅野は家康の温情で領土減らされなかっただけ(無論家康の地盤がその時点で全く固まっていなかったのも大きいが)
島津に関しては黒田や加藤らが関ヶ原合戦で大敗後領国がからっぽの島津領に向けて突進していくのを止めて
島津を助けてやったし
上杉も毛利も佐竹も減封はしたものの改易されてないし
殺されてるのはほんの一部にすぎないしね

看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。 当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。

看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別

主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
つか同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してるわけだがw
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...

関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐

秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。

その後妹も同じように殺されてる。

秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね
667人間七七四年:2013/12/31(火) 13:22:12.14 ID:odrk+dXo
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
668人間七七四年:2013/12/31(火) 14:27:00.42 ID:zEO9x4Yg
家康から秀康を始め、
石川数正や酒井忠次や本多重次らの嫡男を大坂に送らせ人質に取ってるのに、
これでどう解釈したら秀吉の負けになるんだよwww
しかも秀康なんて大坂の筒井屋敷にある小屋に突っ込まれたんだぜwww
在日朝鮮織田チョンくんさー、
三河一向一揆との戦い以来の超古参の
石川数正や酒井忠次や本多重次らから、
強制的に人質を徴集した秀吉が家康に屈したとかキチガイ主張してる気分はどう?

ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww


ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww


ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww


ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww



ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
ひょっとして石川や酒井や本多の嫡男も秀吉の養子になっただけニダとか喚いちゃうわけ?wwwwww
669人間七七四年:2013/12/31(火) 15:18:50.87 ID:PCWD06r+
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。

石川→天正12年時点で秀吉に篭絡されかかってて完全な秀吉親派。
三河物語で小牧合戦に勝利後秀吉を襲うぞ!と息巻いてる本多らに対して石川は秀吉に篭絡されてたから
反対してやめさせたという逸話が書いてるが、嘘くさいようだが、下記のように本当に秀吉と連絡をとりあっていたようだ
6/10秀吉→石川
去八日御状今日十日竹鼻で拝見しました。前より散々よい機会がなく、あなたのご家中宿老衆は言うに及ばず
下々の者まで存じる事になるため、音信をなし、馬・鎧1走御意にかけられ、自然家康の耳に入れられ
その方に相届かぬように候へは、如何しき候条、これにより、後の書状は下々の者まで通達は無用だ。
堀秀政より申し知らせる。 恐々謹言

本多→奉行衆の下っ端で、ろくな影響力もない雑魚。雑魚の人質なんてあげたって、家康と秀吉の上下関係の証明には全くならない。
670人間七七四年:2013/12/31(火) 15:20:31.68 ID:1FKeqkY0
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。

石川→天正12年時点で秀吉に篭絡されかかってて完全な秀吉親派。
三河物語で小牧合戦に勝利後秀吉を襲うぞ!と息巻いてる本多らに対して石川は秀吉に篭絡されてたから
反対してやめさせたという逸話が書いてるが、嘘くさいようだが、下記のように本当に秀吉と連絡をとりあっていたようだ
6/10秀吉→石川
去八日御状今日十日竹鼻で拝見しました。前より散々よい機会がなく、あなたのご家中宿老衆は言うに及ばず
下々の者まで存じる事になるため、音信をなし、馬・鎧1走御意にかけられ、自然家康の耳に入れられ
その方に相届かぬように候へは、如何しき候条、これにより、後の書状は下々の者まで通達は無用だ。
堀秀政より申し知らせる。 恐々謹言

本多→奉行衆の下っ端で、ろくな影響力もない雑魚。雑魚の人質なんてあげたって、家康と秀吉の上下関係の証明には全くならない。
671人間七七四年:2013/12/31(火) 16:51:26.68 ID:tLvoSXpS
信雄家康は秀吉に圧勝したじゃん。135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
672人間七七四年
フロイスの捏造
>> 根来衆は秀吉に対して幾つか無礼を働き、ある陰謀をたくらんでいた
明らかに秀吉サイドの目線で、根来衆からいえば明らかに秀吉が自分らを迫害
>>秀吉は伊勢に入ると敵の諸城を包囲し始め、幾ばくかの苦労をしたが、武力をもってそれらを次々と陥落せしめ
実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
>>敵方は長島と称する一城を残し国を挙げて彼に引き渡してしまった
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
>>秀吉の軍勢は同所(伊賀)から異常な迅速さをもって尾張に進撃し、犬山城はたちまち降伏
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)
>>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる