>>備前衆は仙谷や小西らに率いられ讃岐の十河城へ長曾我部対策で渡海してしまう
だから備前の衆=秀吉軍のうち、3月上旬時点で中国方面に残ってた連中を総括的に括ってるだけだと言ってるんだが?
3/13秀吉→丹羽だと、岸和田には元々中村3000しかいなかったが
加勢として蜂須賀黒田前野赤松明石生駒6000〜7000を丈夫に残し置くと書いている
だが、宇喜多軍が岸和田に入ったなどとは一言も書いてないわけだが。
4/8秀吉→丹羽長秀 彼表人数(松ヶ島城攻めに当たってた軍勢)五三日中ニ可令著陣候、併泉州表為番勢(和泉の留守居部隊)
備前衆壱万計相越候条、岸和田・大坂ニ達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事
と書いてるから、秀吉が以前に派遣した軍勢の内の黒田や蜂須賀らが楽田に呼び寄せられてるのが明確なんだが。
>>蜂須賀が当表之儀ってのは毛利との国境折衝を存分に秀吉から任された
そんな事どこにも書いてねーよクズ
つか安国寺、林殿も只今御参陣候 と書いてるし、それ以前に安国寺、林は秀吉の陣に参陣する、たとえ三河や遠江まで出兵しても
尽いていくなどと書いてるんだからこのやり取り自体蜂須賀と秀吉が同陣してなきゃありえねーよ。
その後も蜂須賀は秀吉と同陣してるのが明確なんだがお前の妄想はどうでもいいからさっさと黒田らが
この頃も中国方面にいたというソースを出せよチンカスゴミ野郎
6/12秀吉→高木 人数等之事、蜂須賀・富田両人申次第、可被申付候、若下々於猥ハ重可加成敗候、恐々謹言
7/7蜂須賀正勝→南条直秀 当表之儀、所々被任御存分、秀吉公至大坂被納御馬候、各事濃州境目ニ只今令居陣候、五三日中ニ勢へ御人数被出候、
301 :
日本@名無史さん:2013/12/25(水) 17:31:03.47
>>宇喜多と毛利の境目の確定作業やってる蜂須賀や黒田らは必要ないって言ってるんだが。
3/11秀吉→蜂須賀・黒田 其元之儀一書旨得心、渡候城城請取候分、人数兵糧以下丈夫入置候て
両人儀者、早々可被罷上候事などと、毛利より受け取った城城に人数や兵糧を入れて
大坂に帰るように指示している
3/26秀吉→黒田 備前衆於相越候者、早々此方へ可越候
などと書いており、中国方面から呼び寄せた黒田や蜂須賀らを此の方(尾張)へ来るように指示している。
>>長政に尾張に来るようにではなく備前衆に早く羽柴陣営に来るようにいっている。
完全に屁理屈だね。備前衆=中国方面にいた秀吉軍なんだからどうみても黒田や蜂須賀の事だろボケ。
とりあえずお前は馬鹿だから谷口央氏の「小牧長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」でも読んで一から勉強しなおすべきだね。
>>宇喜多と毛利の国境問題が片付いていない
ハイハイ、根拠なし。妄想乙。
>>父の如水に交渉を早く進めて宇喜多軍が来るように言ってるのだろう。
そんな事どこにもかかれてねーよクズ。
>>長政を派遣した如水がいるであろう播磨の地にて如水宛に播磨宍栗郡一職を与えている。
播磨の地に如水がいる根拠が微塵も書かれてないんだが。
>>陣立書なんて秀次の陣に如水がいたりと丹羽長秀の陣に如水がいたりと
はぁ?それのどこが間違いなんだよアホ。
>>どこまで事実が反映されているかわからん怪しいものだわ。
お前の大好きな三鬼氏が何より陣立書を当時の一揆的秩序しかなかった軍を上下関係に基づいた公儀の軍にした
画期的な物だったと誰より書いててるって何回もコピペ垂れ流してるのに矛盾した事をいうなよクズ野郎
302 :
日本@名無史さん:2013/12/25(水) 17:31:54.08
黒田如水も蜂須賀も秀吉と同陣して楽田に来てる。3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ、
三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。
三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。
合戦時の陣立書にもはっきり名前がある
秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる
(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)
松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して
攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる
伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。
堀と長谷川は中入り組。
(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)
303 :
日本@名無史さん:2013/12/25(水) 17:32:31.76
3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、
池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で
「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。
丹羽長重も派遣されてる。
信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる
北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も
それに合わせ多く兵残してる。秀吉方は
秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、
蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、
長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、
蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、
長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内
彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる
4/8秀吉→丹羽長秀 彼表人数(松ヶ島城攻めに当たってた軍勢)五三日中ニ可令著陣候、併泉州表為番勢(和泉の留守居部隊)
備前衆壱万計相越候条、岸和田・大坂ニ達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事
5/5蜂須賀正勝書状
従隆景様預御状候、則御返事申入候、東国表之儀、無異議被申付、去三日ニ濃州岐阜至令納馬候、
於趣者可被御心安候、随藤四様(秀包)長々御在陣、併以其故無異儀御座候、安国寺、林殿も只今御参陣候
近日可被打入候間、其節可得御意候、恐々謹言
6/12秀吉→高木
人数等之事、蜂須賀・富田両人申次第、可被申付候、若下々於猥ハ重可加成敗候、恐々謹言
7/7蜂須賀正勝→南条直秀
当表之儀、所々被任御存分、秀吉公至大坂被納御馬候、各事濃州境目ニ只今令居陣候、五三日中ニ勢へ御人数被出候、
7/6秀吉→秀長 其方は池尻(美濃)に在候、境目の城城へ人を遣、追々可有注進候、取分東美濃無心本候条
尾藤知宣かたまて念をやり…
播州之人数其他隼人・毛介・勝兵へも何も其方其陣ニ在之者ハ、陣後かたく可被申付候、委細森三右衛門尉口上ニ申含候て…
その方(秀長)は美濃の池尻にいて境目の城城に人を遣り、
播州の人数其の他木村や毛介などはその方(池尻にいる秀長の陣)にいる者は
陣後を固くして申しつけよ。