>>顕如日記において御書の日付6/29って書いてある
お前はどの本に載ってる顕如日記を読んでるか知らんけど
御書の日付6/29って書いてあるのは大坂御音信の文であって、その前の文には、注進が入った日付とか
何もかかれてない。御書の日付6/29の後ろには神門さまよりも御書、太刀一腰など献上品の話が出てるだけ。
ついでにこの日記自体リアルタイムに全ての記述がされてるわけではない(長久手合戦の後に1万人戦死したとの事、後の沙汰ニテ3000との事
などと後から噂を加筆して書いたりしてる)
つかこの史料自体よめばわかるがリアルタイムに記された物じゃない
九月十日の文章の一つ前でも加筆して此説皆雑説也
と書かれて後から明らかに加筆されたりしてるし九月十日の築州の音信の後に9月9日の出来事が書かれたり
十月三日の段で9月の出来事が書かれたり日記形式で、この日はこの出来事が起こったという記述方式じゃなくて
後からの継ぎ足しとか、逆に後で思い出して前の事を書いたりしてる構成になってる。
又談合かわりての部分が後から書かれた物である可能性が高いから、それは証明にならないだろ。
>>大軍集結の出陣では無く6/25付けで書かれた木曾氏を応援する為の秀吉単身の戦陣督戦の7月出陣
何回も同じ事言わせるなよリアルアルツハイマーが
お前はガチで日本語が読めないのか?6/25秀吉→木曽で来月15日諸国人数相催し至尾州秀吉可相動候間
7/3の秀吉→木曽でも先に書いたように来る15日(7月15日)に西国・北国の人数を悉く相催し
尾張は言うに及ばず三河や遠江へ罷り出でるから心安くするようにと書いてる。
7/6秀吉→秀長 滝左親子去三日被退候条、来15日動、八月まて相延候事と書いてる。
と書いてて諸国の人数を集めて全力で出兵する計画を7/15に立ててたのは明らかなんだがw
6/25→木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
滝川が退城した。
「就其」(それにつき)動之日限何も重而可申越候、
何篇我々事者此間時分に大垣まて可相越候、
然者其城番等之儀堅可被申付候
と書いてるから滝川の退城と次の出兵計画の予定日設定が直接的に影響してるのがわかるだろ。
つか愛知県史資料編綱文でも書かれてる事を平然と無視するなよ。
>>9日に近江坂本出陣、7/18美濃大垣着というように約束を果たしており滝川敗北で出陣延期になった曲解
7/6秀吉→秀長
滝左親子去三日被退候条、来15日動、八月まて相延候事と書いてる。
7/3の秀吉→木曽でも先に書いたように来る15日(7月15日)に西国・北国の人数を悉く相催し
尾張は言うに及ばず三河や遠江へ罷り出でるから心安くするようにと書いてる。
顕如日記原文には築州は六月二十八日の夜、馬五六騎にて大坂へ帰城
これは暫時(少しの間)の儀也、各長陣迷惑之由候へば又7月六日に元の陣所へ可被打帰由候也
今度小牧表へ可有行云々、又談合かはりて出陣は8月十日と云々と書いてて
元々7月六日に楽田陣に帰陣する予定だったのが、滝川の退城により8月に延期されたとする秀長への書状の内容と
全く矛盾しない。現に6/25木曽宛書状た7/3木曽宛書状でも秀吉は7月に三河遠江出兵予定と書いてるし
滝川が去った後には書状類では悉く8月に変わってるから滝川の退城で出兵日が変更されただけ。
滝川の行動が秀吉の戦略と無関係なら滝川が退城しようがしまいが秀吉の出兵日に影響あるわけないわな。
秀吉は滝川が退城したらすぐに出兵日を7月から8月中旬に変更確定してるよ。
6/25→木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7/6秀吉→秀長や7/20秀吉→蜂谷や7/28秀吉→中川でもそれはしっかり決められてて
7月3日秀吉は『来る15日に「西国・北国」の兵力を総動員して尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。
この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。
8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
6/25秀吉→木曽 来月十五日諸国の人数を相催し尾張まで秀吉が動くつもりだ。其の時そちらへも人数を差し向けるから安心しろ。
7/3木曽宛秀吉書状 先書如申(前に書上で申し上げたごとく)来十五日(来る15日)西国・北国の人数悉相催とかいてて
先書で書いたようにと秀吉が書いてるから、来15日は来る(7月)15日であって来月15日ではないのは明らか。
そして7/5に滝川が蟹江を退城。
それでその後の秀吉の書状をみると
7/6秀吉→秀長書状 滝左親子去三日被退候条、来15日動、八月まて相延候事と書いてる。
7/5秀吉→前野儀右衛門・森寺・加須屋・加藤清正
滝川が退城した。 「就其」(それにつき)動之日限何も重而可申越候、
何篇我々事者此間時分に大垣まて可相越候、然者其城番等之儀堅可被申付候
滝川親子が去る三日に楠まで悉く人数を連れて退却した。それにつき其動之日限(出兵日)を改めて伝える。
何べん我々事はこの間時分に大垣まで越すつもりだ。だから其の城の城番を固く申し付けられよ。油断はしてはいけない。
7/7秀吉→一柳
神戸城に人数を遣る。今朝小野木をも遣り、お前は人数を悉く連れて
この書状が着き次第神戸へ行け。大塩・津田・小野木と相談し在番の事を固く申しつけよ。
追々人数をやるつもりだ。
7/7秀吉→津田・富田
そこもとの儀は滝川益重がいて益重と津田が案内の者の事、皆で相談し油断なく入念にする事が肝要だ。
其元の様子は切り切り申し遣され益重の口上で申し伝える
7/9秀吉→分部
神戸表に敵が出てきた。其の表で敵が居陣しているので出馬して打ち果たすつもりだ。
追々人数を遣り今日は我々は坂本まで到着した。其元は油断なく仰せ付けられ
7/20秀吉→蜂谷や7/28秀吉→中川でもそれはしっかり決められてて 8月に出兵する予定だったのがわかる。
明らかに滝川の退城の前後で秀吉の指令は改めて出されてて、7月に出兵する予定だったのが
滝川の退城によって7月は出兵がなくなり在番衆に警固を申し付けた上で8月に出兵する予定に改められてるのがわかる。