石田三成襲撃事件

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402日本@名無史さん
>>滝川の支援のための7月の秀吉の出陣を滝川の敗北で計画がダメになり8月に出陣する羽目になった
7/6秀吉→秀長
滝左親子去三日被退候条、来15日動、八月まて相延候事と書いてる。
>>6/25の木曽宛で、7/15に出陣すると書いている半面
7/3の秀吉→木曽でも先に書いたように来る15日(7月15日)に西国・北国の人数を悉く相催し
尾張は言うに及ばず三河や遠江へ罷り出でるから心安くするようにと書いてる。

>>6/28の顕如日記で、7/6に元の陣所へ戻り談合しての出陣は8/10と書いていて
顕如日記原文には築州は六月二十八日の夜、馬五六騎にて大坂へ帰城
これは暫時(少しの間)の儀也、各長陣迷惑之由候へば又7月六日に元の陣所へ可被打帰由候也
今度小牧表へ可有行云々、又談合かはりて出陣は8月十日と云々と書いてて
元々7月六日に楽田陣に帰陣する予定だったのが、滝川の退城により8月に延期されたとする秀長への書状の内容と
全く矛盾しない。現に6/25木曽宛書状た7/3木曽宛書状でも秀吉は7月に三河遠江出兵予定と書いてるし
滝川が去った後には書状類では悉く8月に変わってるから滝川の退城で出兵日が変更されただけ。
滝川の行動が秀吉の戦略と無関係なら滝川が退城しようがしまいが秀吉の出兵日に影響あるわけないわな。
403日本@名無史さん:2013/12/30(月) 14:29:04.77
>>401
論破されてるのお前だろバーカ
虫気の病気程度で出兵できなくなるわけねーだろクズ。
現に秀吉は一時的に大坂→有馬と移動した後7/9には坂本15日には大垣
8/11には京8/14坂本8/15大垣8/19犬山8/27楽田と動きまくってるじゃねーか。
つか出陣するのがしんどいなら秀長やらに代理してもらえばいいだけだろ。
なんだかんだ言い訳つけて、信雄や家康にビビリまくって戦争から逃げ回ってるのを
グダグダ擁護してんじゃねぇよボォケwwww
404日本@名無史さん:2013/12/30(月) 14:36:11.68
>>滝川は5/24の秀吉→滝川書状で桑名如意たるへく候〜追々可承候〜切々御飛脚本望候
>>桑名はあなたの意にしていい

お前はこの書状をもって滝川に桑名を思いのままに攻めていいって書いてるって事だろ?
だったら十分委任じゃなくて、滝川の戦略行動認めてる事になるんだが。
桑名を滝川の思いのまま取るには、桑名の前に前田や蟹江や下市場など秀吉方の拠点から近いポイントに足がかりを作らないといけないだろ。
それで滝川が大垣から近い距離にある前田蟹江下市場を乗っ取って、秀吉が尾張方面や伊勢方面に侵攻する足がかりにしようとしてたら
秀吉があろうことか家康や信雄にびびりまくって大坂までヘタレ敗走したから滝川は寡兵すぎたために、三城が維持できなくなって、敗戦しただけ。
滝川の家臣でもない九鬼が滝川に従軍してるし秀吉の出兵計画は一貫して徳川領内への侵攻、
秀吉の意思がなかったら九鬼が兵出すわけないだろ
伊勢の楠本に26日大阪に28日で其の前ずっと佐和山にいたんだから位置的に余裕で後詰できたのにな
愛知県史資料編表題部や長久手町史通史編の谷口氏が領国分断作戦の一貫と書いてるし
秀吉がいたと思われる大垣と蟹江なんてすぐだし秀吉は滝川退城により三河侵攻を中断・延期してるから
三河方面への足がかりと容易に想像がつくしそもそも滝川は秀吉の同盟者でも何でもなく家臣なんだから独断での行動なら証明が必要
 其元相替儀候者追々可承候→そこもと(そこで)相替儀候者→変わった事があったら
承する→聞き入れる、うけたまわる
被入念候て切切御飛脚本望候→念を入れて飛脚を持って知らせるのが望みである。
単に滝川にそこらへんで変わった事があったら知らせよと書いてるだけ。
上記の書状から滝川から秀吉への情報は確実に伝わっていたと考えられるし
滝川の桑名奪取の第一段階である前田下市場蟹江の奪取も秀吉は公認してたことになる。
桑名をいきなり取るなんて土台無理だから、少しでも秀吉から援護しやすい位置に土台の拠点を作る必要があるからな。
405日本@名無史さん:2013/12/30(月) 14:55:25.77
>>木曽への元気付けも兼ねて、秀吉が単身で督戦に出陣するのが7月
お前はガチで日本語が読めないのか?6/25秀吉→木曽で来月15日諸国人数相催し至尾州秀吉可相動候間
7/3の秀吉→木曽でも先に書いたように来る15日(7月15日)に西国・北国の人数を悉く相催し
尾張は言うに及ばず三河や遠江へ罷り出でるから心安くするようにと書いてる。
7/6秀吉→秀長   滝左親子去三日被退候条、来15日動、八月まて相延候事と書いてる。
と書いてて諸国の人数を集めて全力で出兵する計画を7/15に立ててたのは明らかなんだがw
>>丹羽らが合流した大軍での出陣が8月
どこからそんな話出てきたんだよアホ。
>>単身出陣と大軍出陣をワザと混同
単騎出陣なんてどこにも書いてねーよ。
>>木曽の敵も大したもんじゃなく、森の援軍で充分に対応
どこにもそんな事書いてない。
>>7/3には木曽にも8/15に大軍を出すことを秀吉は述べている
7/3木曽宛秀吉書状   先書如申(前に書上で申し上げたごとく)来十五日(来る15日)西国・北国の人数悉相催とかいてて
先書で書いたようにと秀吉が書いてるから、来15日は来る(7月)15日であって来月15日ではないのは明らか。これは
7/6秀吉→秀長書状でもわかる(計画変更前は7/15が出兵予定日だった。)
>>秀吉が大坂を出ない理由が7/6の秀長への手紙で書かれている5日に大坂を出るつもりだったが
>>煩て加養生、10日出陣
その書状の一項目を無視するなよ。
滝左親子去三日被退候条、来15日動、八月まて相延候事と書いてるだろうが。
>>7/8の佐竹の東宛にも大坂で境目に目付を置いて申し付けたと
黒田や蜂須賀が目付けとして申しつけたなんてどこにも書いてないし黒田や蜂須賀は下記の資料から
戦場最前線にいたのが自明なんだが。
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/363-364
>>諸国の境目に仕置
そもそも3/13秀吉→丹羽で
西国表の事は、城城を受け取り隙が明けた。西口留守居を為し、紀州事は種種様々な懇望があり岸和田城に中村一氏3000ばかりであるが、
蜂須賀正勝・前野長康・赤松則房・明石則実・生駒親正
黒田孝高六七千を加勢にして、丈夫に残し置き申す。大坂には2000ばかり留守居を置く。って書いてるんだが。
406日本@名無史さん:2013/12/30(月) 15:10:44.87
>>大坂で境目に目付を置いて申し付けたと諸国の境目に仕置きしている
境目の目付けを置く=諸国の境目の仕置きって論理が分からんのだが、普通に考えてこの書状は
秀吉が楽田を引き払って大坂に敗走している間、徳川方に対しての留守居部隊を申し付けたってだけだろ。
境目って国境だから尾張美濃伊勢の国境地帯に留守居部隊を置いたり(徳川方資料から秀吉退陣後も尾張や美濃などの国境警備の
羽柴軍が残留していたのがわかる)
6/21秀吉→毛利広盛書状に見られるように 領地の安堵や加増をしたり
6/16秀吉→宮木らに美濃の駒野・吉里などに陣城の築城を命じているのを指して境目の目付けを置いたと書いてるだけ。
つうか羽柴方は以前からずっと行ってきた毛利との国境交渉などを
この頃新たに命じる必要もないし、そんな事やってる気配も資料も全くないし。
ましてや蜂須賀や黒田なんて秀吉軍最前線に派遣されてた連中がそんな事やってた気配は全くない。
>>境目について蜂須賀や如水らへ指示
蜂須賀や如水がこの書状で全く触れられてない件。
>>7/16の時点で虫気も良くなってきて食べ物が食べられるようになった
そんな短期間で治癒するような仮病くさい嘘病で、滝川が作った大チャンス無駄にするわけねーだろクズ。
つか秀吉が病気になったのは大坂に退却後であって、退却前じゃねーよ。
退却後にたまたま病気になった事をもって退却前の退却理由が病気とかありえんわ。
顕如日記でも退却理由には、病気というのは全く触れられてねーし。
>>体調が良くなってきたのがわかる
そんな短期間でよくなる嘘病で、秀吉が信雄や家康を討伐する大チャンスを逃すはずがない。