石田三成襲撃事件

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363日本@名無史さん
>>ほとんど中国にいた
3/11秀吉→蜂須賀・黒田   其元之儀一書旨得心、渡候城城請取候分、人数兵糧以下丈夫入置候て
両人儀者、早々可被罷上候事などと、毛利より受け取った城城に人数や兵糧を入れて
大坂に帰るように指示している

3/13秀吉→丹羽
西国表の事は、城城を受け取り隙が明けた。西口留守居を為し、備前・美作・因幡の人数は一人も動かさず
留守居にして置いておく。紀州事は種種様々な懇望があり岸和田城に中村一氏3000ばかりであるが、蜂須賀正勝・前野長康・赤松則房・明石則実・生駒親正
黒田孝高六七千を加勢にして、丈夫に残し置き申す。大坂には2000ばかり留守居を置く。

3/26秀吉→黒田 備前衆於相越候者、早々此方へ可越候
などと書いており、中国方面から呼び寄せた黒田や蜂須賀らを此の方(尾張)へ来るように指示している。

4/8秀吉→丹羽長秀 彼表人数(松ヶ島城攻めに当たってた軍勢)五三日中ニ可令著陣候、併泉州表為番勢(和泉の留守居部隊)
備前衆壱万計相越候条、岸和田・大坂ニ達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事

5/5蜂須賀正勝書状
従隆景様預御状候、則御返事申入候、東国表之儀、無異議被申付、去三日ニ濃州岐阜至令納馬候、
於趣者可被御心安候、随藤四様(秀包)長々御在陣、併以其故無異儀御座候、安国寺、林殿も只今御参陣候
近日可被打入候間、其節可得御意候、恐々謹言

6/12秀吉→高木
人数等之事、蜂須賀・富田両人申次第、可被申付候、若下々於猥ハ重可加成敗候、恐々謹言
7/7蜂須賀正勝→南条直秀 
当表之儀、所々被任御存分、秀吉公至大坂被納御馬候、各事濃州境目ニ只今令居陣候、五三日中ニ勢へ御人数被出候、
7/27秀吉→蜂須賀正勝・黒田孝高・生駒親正・前野長康
尚々各令陣取明日可被越候、己上、態申遣上、依我々此地へ相越候之間、定敵相動儀在之間敷候、然者明日可申聞子細候之間、馬乗
ニ三騎宛ニテ曾根へ可相越候、梯期面候、恐々謹言
364日本@名無史さん:2013/12/26(木) 18:16:35.31
7/6秀吉→秀長 其方は池尻(美濃)に在候、境目の城城へ人を遣、追々可有注進候、取分東美濃無心本候条
尾藤知宣かたまて念をやり…
播州之人数其他隼人・毛介・勝兵へも何も其方其陣ニ在之者ハ、陣後かたく可被申付候、委細森三右衛門尉口上ニ申含候て…
その方(秀長)は美濃の池尻にいて境目の城城に人を遣り、
播州の人数其の他木村や毛介などはその方(池尻にいる秀長の陣)にいる者は
陣後を固くして申しつけよ。

滝川が退城するのにつき、7月15日の軍事行動を8月まで延期する
越前衆は8月に動く
秀吉は養生した上で10日くらいにこの地を罷り立つ
秀吉がまかり越し次第其方をも人数をも8月まで甘させる
我々が罷り越さない間はその方は池尻にいて境目の城城に人を遣り
追々可有注進候、取分東美濃無心本候条
尾藤知宣かたまて念をやり…
播州之人数其他隼人・毛介・勝兵へも何も其方其陣ニ在之者ハ、陣後かたく可被申付候、委細森三右衛門尉口上ニ申含候て…
その方(秀長)は美濃の池尻にいて境目の城城に人を遣り、
播州の人数其の他木村や毛介などはその方(池尻にいる秀長の陣)にいる者は
陣後を固くして申しつけよ。

どっからどう読んでも秀長に対する命令文書として播磨の人数を固く申しつけよと
書いてるだけなんだがw