石田三成襲撃事件

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388日本@名無史さん
>>秀吉は虫気の病にかかって苦しんでたから大坂城へ帰る方針
秀吉が病を患ったとか仮病だろ。しかも秀吉が病気とか書いてるのは7月になって秀吉が大坂にヘタレ敗走した後だから。
病気だから退却ではなく、ビビリまくって退却した後に仮病使って休んでただけだわ。
秀吉は来月15日前後に出兵計画木曽などに書いてて、この時点では何の病気も患っていなかったのがわかる。
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと考えられるし、秀吉がビビリまくって
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
と秀吉が大垣に居座って、眼前の距離にある蟹江で信雄と家康領国を分断できる大チャンスに対して
長久手合戦でわずか自軍の7分の1の兵力の徳川や信雄に1万人殺された秀吉はビビリまくって
大坂にヘタレ敗走しただけだろ。滝川の力投むなしく蟹江も前田も下市場も奪回されるアホっぷりだし
休戦どころか、滝川が力闘してたのをむざむざ見殺しにして大坂まで大敗走したのが秀吉。
>>小和田先生すら如水は国境交渉していて、岸和田には長政が行ったから感状は長政宛だった
ですらって何だよ(笑)小和田はどうでしょうもない軍記や家譜をネタに醜態晒してるだけだろうが。つうか三鬼の陣立書評価があてにならんとか
このときだけ都合いい論理持ち出してんじゃねぇよクズ
>>357>>359>>363-364を見ればわかるが、黒田孝高は確実に来てるし小牧長久手の戦いの構造の論文でもそう結論付けられてる。
>>小和田は秀次の敗北の時に如水はいなかったと結論
そんなトンデモ学者の妄想持ち出して何がいいたんだよアホ
389日本@名無史さん:2013/12/30(月) 13:06:39.08
>>秀吉は竹鼻城落城をもって尾張での戦勝
家康や信雄を2万以上の大軍で動けない状態にして逃げ回ったあげく、尾張の隅っこにある雑魚城一城落としたのをそんな自慢げに語られても。
>>岸和田への仕置きも兼ねて一旦、大坂へ納馬したかった
岸和田への仕置きなんて戦後にすればいいだけだろうが。
秀吉は>369-370のように一貫して家康総攻撃と家康撃滅を志向しており、滝川の行動は大チャンスとしかいいようがねーよアホ。
家康が蟹江や前田を攻撃して出てくれば眼前の大垣から東ルートと西ルート経由で即座に蟹江に後詰すれば家康や信雄は背後が絶たれて全滅するのは目に見えてるからな。
>>6/21の中村一氏の書状にも触れられている。
6/21中村一氏書状和泉に秀吉が近日出馬するとは書かれてるが戦後処理など理由の事は全く触れられていない。
秀吉は出兵中でも領土宛がいとか戦後処理やりまくってる。
わざわざ大坂に戻る必要性は0

>>滝川は5/24の秀吉→滝川書状で桑名如意たるへく候〜追々可承候〜切々御飛脚本望候
>>桑名はあなたの意にしていい
桑名はお前の意のままにしていいとは書いてるけど蟹江を調略を乗っ取るなど、尾張を切り取り次第とか手柄次第とか全く書いてないし
滝川の家臣でもない九鬼が滝川に従軍してるし秀吉の出兵計画は一貫して徳川領内への侵攻、
秀吉の意思がなかったら九鬼が兵出すわけないだろ
伊勢の楠本に26日大阪に28日で其の前ずっと佐和山にいたんだから位置的に余裕で後詰できたのにな
愛知県史資料編表題部や長久手町史通史編の谷口氏が領国分断作戦の一貫と書いてるし
秀吉がいたと思われる大垣と蟹江なんてすぐだし秀吉は滝川退城により三河侵攻を中断・延期してるから
三河方面への足がかりと容易に想像がつくしそもそも滝川は秀吉の同盟者でも何でもなく家臣なんだから独断での行動なら証明が必要
390日本@名無史さん:2013/12/30(月) 13:07:04.81
>>陣替えするならおいおい承る
曲解乙 其元相替儀候者追々可承候→そこもと(そこで)相替儀候者→変わった事があったら
承する→聞き入れる、うけたまわる
被入念候て切切御飛脚本望候→念を入れて飛脚を持って知らせるのが望みである。
単に滝川にそこらへんで変わった事があったら知らせよと書いてるだけ。
>>秀吉は滝川に委任して放置している
これのどこが放置なんだよアホ
桑名をお前の望むようにしていいとは書いてるが切り取り次第とか好きに行動しろとか委任なんて全くしてねーよクズ
>>滝川がほとんど連絡してこないから連絡くらいしろ
そんな事どこにも書いていない。
>>滝川が秀吉に連絡してくることはなく
秀吉は蟹江から眼前の大垣にいたのに滝川の行動を知らないわけがねーだろクズw
>>秀勝が石川家清ルートで桑名表の情報を仕入れ
それが何で滝川が報告していない事の証明になるんだよアホ。
そもそも秀勝は秀吉陣から離れた美濃にいたんだし秀吉の情報ルートとは関係ねーよクズ
>>滝川の失敗のせいで神戸、浜田への防備増強の手当をする手間
滝川が失敗したのは目前で大チャンスを作って家康を討伐する機会を見事に失った秀吉のヘタレ退却じゃん。
>>滝川は信雄の長島と清州の家康の連絡を断つなどと無謀
無謀どころか大チャンスじゃん。蟹江や前田に秀吉が大軍で東西から後詰をすれば家康は逃げ道がなくなって殲滅されるのは目に見えてるし
それが無理でも大垣から眼前にある蟹江で2万くらい兵出せば余裕で蟹江の防衛と徳川方への大打撃は可能。
しかも今なら小牧山周辺の徳川方砦は徳川方が蟹江や前田を攻撃したことにより手薄ですっかすかな状態だから
そちらを攻めて落してもいいしな。滝川の行動により情勢が大変化する機会が生まれたが秀吉の馬鹿な退却で全てが無に喫したのが現実
391日本@名無史さん:2013/12/30(月) 13:09:14.95
>>秀吉は6/4の佐竹への書状で作戦計画を述べていて蟹江中割入りなんて全く計画に無い。
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした 『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
392日本@名無史さん:2013/12/30(月) 13:09:50.72
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。
この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。
8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
393日本@名無史さん:2013/12/30(月) 13:10:41.54
>>蟹江合戦が滝川の単独行動
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い
394日本@名無史さん:2013/12/30(月) 13:15:39.05
>>両城を落とし、竹鼻城を取巻き木曽川を放水し水攻め
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
>>これで尾張の東三郡と西二郡を手に入れた
お前頭大丈夫か?西尾張の小城三城てを家康らを動けない状態にしてこれ見よがしに火事場ドロしただけで
小牧山やその周辺ライン、清洲やその周辺ラインの情勢は全く変わってないんだが。
尾張北部や西部の城すら攻略できてないのに東三郡西二郡手に入れたとかハッタリをそのまま事実として書いて恥ずかしくないか?
395日本@名無史さん:2013/12/30(月) 13:22:29.10
>>敵は残り二郡
もしそれが本当なら家康は小牧山や蟹江合戦どころじゃねぇwww今すぐ三河に退却降伏だわw

>>木曽川の洪水で長島と清州も水浸しになり
それが本当ならもう早々に長島も清洲も孤立して援軍後詰も不可能。
秋になってはるばる大軍で苅田や放火やりまくって信雄に挑発や示威行動やりまくってるのは全く無駄な作業
(つうか秀吉の話だと尾張の過半が水浸しになるみたいなトンデモ話だから、両軍とも尾張への居住や行軍など不可能で合戦自体が成り立たないw)
>>侍どころか百姓も餓死に追い込まれた
その餓死に追い込まれた百姓や侍を1人でもあげてみろよアホ。清洲でも長島でも全く人が餓死したり洪水浴びてる様子はないんだがw

>>秀吉は6/8に墨俣で茶会を開き勝利の美酒に酔っている

東駒野・戸木・松の木・二重堀・河波など砦みたいな小城郡を全く落とせず
苦戦しまくっていた雑魚秀吉お得意の中身のないパフォーマンスだろ。11月の時だって全く勝利の糸口がつかめず
諦めて大阪に納馬しようとしてたら信雄のヘタレ降伏に助けられただけだし
本願寺顕如に和睦斡旋してもらってやっと和睦にこぎつけただけだしそれなのに秀吉は9月に信雄が種種懇望してきたが断ってやったとか大嘘吐きまくってるし

秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてるが大嘘で信雄のヘタレ降伏による
秀吉のウルトラスーパーラッキーパンチでの停戦(秀吉の勝利でもなんでもない)まで2か月も経ってるな。
大体戦利まじかなんて春頃からしょっちゅう秀吉の他大名宛の基地外歪曲誇大喧伝で使われるフレーズで秀吉方の実情を示したものからは程遠い。
しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで何の根拠にもならない
戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリで茶会も同様に苦戦を覆い隠すため
苦戦や敗戦を歪曲して 何もなかったように振舞っているだけのパフォーマンス
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ
396日本@名無史さん:2013/12/30(月) 13:23:23.72
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
本当に(ry
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
397日本@名無史さん:2013/12/30(月) 13:24:04.43
秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝

3月26日⇒佐竹
尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ

4月8日秀吉⇒毛利輝元

伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
 
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww

5月9日 秀吉→毛利輝元
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね

加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
398日本@名無史さん:2013/12/30(月) 13:25:21.91
6月4日 秀吉→佐竹義重
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww
9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいんですかね
で、
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた
11/13
家康が懇望してきたので同意してやった

なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認??????
明らかにデタラメ
399日本@名無史さん:2013/12/30(月) 13:37:44.31
>>清州が空いたので、止む無く家康が入る
つまり小牧山やその周辺の砦はガラ空きでスッカスかだったにもかかわらず
秀吉は留守居部隊2万以上の軍勢に侵攻させる事もなく、楽田からヘタレ敗走したって事だなw

>>タイミングで6/16に蟹江城を滝川が調略で手に入れる
竹鼻落城で尾張への侵攻や伊勢への侵攻に展望が見えたのなら滝川の行動が大チャンスとしかいいようがねーよ。
つか谷口央氏はじめ、滝川の行動を単独行動なんて書いてる馬鹿な学者はいねーよ。
>>同日の秀吉書状では近日納馬候って書いている
滝川が折角大チャンス作ったんだから納馬を半月でも遅らせればいいだけだろ。
短期決戦なら1週間もあれば余裕で済むし、楽田留守居部隊に小牧山やその周辺の砦を襲わせ
秀吉軍は、美濃の秀勝軍と合流して東西から家康は包みこむように蟹江に後詰すれば家康は確実に殲滅されてただろうからな
何せ秀吉と信雄家康じゃ兵力が隔絶してるから、いくらでも戦略や戦術の幅はあるわけで。
>>本願寺も6/18に蒲生宛に尾州表〜属御勝手の段と書いて秀吉の勝利を祝
下間が尾州の儀増増ご勝手とか書いてるけど実際は全くご勝手になってないんだが。
尾張の隅っこにある三城を、家康を大軍で小牧山に張り付かせてこれ見よがしにドロボウしただけじゃん。
>>秀吉は6/27夜に大坂へ帰っている
家康や信雄にビビリまくってヘタレ敗走しただけじゃん。
400日本@名無史さん:2013/12/30(月) 13:38:11.63
6/12信雄→寺西・橋本・吉村 敵(秀吉方)が松ノ木近辺に陣取った旨を了承
6/13信雄→橋本・寺西・吉村 秀吉方を撃退した旨を了承 其の城について油断なく注意するよう指示
6/13家康→信雄 昨晩秀吉方が松ノ木へ攻撃してきたが撃退した旨の注進に対して賞する
6/16信雄→橋本寺西吉村 秀吉方の様子に関する報告について了承 松ノ木についていろいろな点で注意するよう指示
6/20信雄→吉村 今尾へ秀吉方兵力が少々出てきたため松ノ木への加勢を要請を承諾しやがて遣わす事を報じる
6/20家忠日記 秀吉方楽田に向かい放火する