もっとも早く豊臣を見限った大名は?

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415人間七七四年
基本的に朝廷は京を制圧している大名と積極的に関係を築こうとするからね
近世成立記の大規模戦争86ページ 信雄は、この時期にも天皇・公家衆と積極的な関係を構築していない
これは信雄自らが京都を制圧しておらず、安堵などを通じて公家衆に対する主従的な関係を構築していないからである
公家衆や門蹟衆としても京都の支配者は秀吉であり、公家社会の擁護者である秀吉との関係が重視された。
83ページ 公家社会の政治的構造は、基本的に京都を制圧する政権やその有力武将との良好な関係の構築を試みるが、対立する武家勢力にも様々な人脈に基づき
関係を構築しうる二重性を備えていた
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれており
その他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦の痛手はひどかったんだろうね
何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだからな
>>秀吉にガンガン侵食されていくばかりで
尾張の木曽川筋をチョコっと攻め取っただけでガンガンとか言われても
>>ちなみに8月には筒井勢が駒野を攻撃していたようだが、11/5には高木貞利の居城だった東駒野城も陥落してる。
取り詰めに攻め落としたなんて意味はない。乗っ取り、落居などという時が攻め落とした時の言葉。ちなみにこの書状を東駒野「城」が落ちたなんて妄想解釈してる馬鹿はお前だけで
東大史料編纂所HPや史料編纂やら愛知県史資料編網文やら小牧長久手の戦いの構造時系列データベースでも城が落ちたなんて解釈していない。11/10にはちゃんと吉村が長久保を落として忠義を示してるのに。
>>しかし高木貞利の敗北と福田の降伏という流れは
高木は敗北なんてしてないし福田は降伏ではなく寝返り
>>この地域での秀吉の優勢をはっきり示すもので、
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない。3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの
報に接し兵糧等の支給を約束3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛。美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった
犬山城に襲撃を食らう。伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
416人間七七四年:2013/11/26(火) 15:54:23.07 ID:uJE7v8Vl
>>完全に秀吉の大戦略により王手がかけられていたからな
全くかけられていない。
信濃の諸侯が寝返ったのは天正12年春(木曽)と戦争終結後の天正13年夏〜秋にかけてで
時期が全くずれてるし真田は天正壬午の時の徳川の恩賞問題で勝手に寝返っただけ。
木曽は天正12年春時点で離反してるし小笠原も真田も離反したのは翌13年であり家康が小牧長久手の戦い(秀吉との戦い)中に恩賞約束なんてしてねぇよクズ
天正10年〜11年にかけて小笠原や真田は家康の支援受けて勢力拡張し天正壬午の頃安曇筑摩の全域支配を任せる予定だったが
天正11年12年と連続で上杉との麻績・青柳の戦いに敗れるなど北信濃方面の拡張が滞り翌年小笠原は石川の人質連れてビビリまくって秀吉の下に参じたのと
天正壬午の恩賞問題やら沼田割譲問題やらで離反しただけで秀吉との戦いにおける恩賞なんて全く関係ない。そもそも秀吉との戦闘の部隊は美濃尾張伊勢が主なのに
なんで関係ない信濃で恩賞だされるんだよアホ
石川は小笠原が人質連れて離反したから離反しただけ(織豊政権と東国、小笠原貞慶考)

>>ついには信雄も本拠地の長島まで秀吉軍がやってきた為に降伏。
信雄は降伏なんてしてねーよボケ。
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は
天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
417人間七七四年:2013/11/26(火) 16:39:45.70 ID:jQ0hGp8e
秀吉はむちゃくちゃ早く急いで信雄の官位官職を上げまくってんだよな。
朝廷で自分の補佐が出来る立場に信雄を引き上げたかったんだろうな。
関ヶ原でも家康と同格、いや出家して前が付くだけ先輩風吹かせたのは信雄だけだったし。
信長なんて武田勝頼が官位官職につけないように朝廷を脅迫して嫌がらせしてたのに、
天正3年信長が右近衛大将になった際に、従五位下左近衛中将になったっきり昇進出来なかった信雄を
いきなり、 秀吉は正三位権大納言にしてあげたのを皮切りに、
一年を経ずして従二位かよ! しかもその年のうちに正二位内大臣か。 前例自体がない異例の大出世だろ。
よく朝廷が許可してくれたなあ。 秀吉はどんだけ信雄を厚遇しまくってんだよ。
秀吉は子供を半ば諦め、信雄に跡を継がせようとしてたのかも知れんな。
秀吉は信雄を自分の後継者にする為に、官位官職をガンガン上げた。
さらに甲斐信濃駿河遠江三河の超加増をしようとしたほど。
極上のバカ信雄はそれを拒否したので、平凡な秀次を取り立てることになった。


信雄と信孝が対立して何も決めれない無能揃いだったから秀吉が動くのは仕方ないだろ。
信長の百日供養からして、やったのは秀吉と市だけだからなー。
葬儀は誰もやらなかったから秀吉が朝廷から供養のために
故信長の従一位昇格を引き出してから秀吉だけがやったが誰も出席しなかったから無駄になった。
秀吉は信長の後妻の小倉氏の娘の鍋の生活を援助していたりと
亡くなった主君の妻も保護している家臣の鏡のような働きをしているのは褒めてもいい。
ちなみに天正11年6/1の信長1周忌の法会をやったのは秀吉ただ一人。
これに出席後に、秀吉は今までの拠点だった山崎城から、大坂新城へ移転している。
信雄の官位官職をアホみたいな速さで急速に引き上げて自分に次ぐ立場にまで登らせて後援したのも秀吉。
それなのに、なんら感謝せず増長し、家康家臣団が一生懸命、不満も言わず関東転封の作業をしている最中に、
転封なんてするわけねーだろ!本気にすんな無視!とか言って、関白秀吉を挑発したから逆鱗に触れたわけで
完全に信雄が悪いし、その代わり、秀信をちゃんと取り立てて、織田家を継続させてるし、
信雄への怒りも、秀吉は一ヶ月も経たずにすぐ水に流して許しているほど甘い。
秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍だったし、 彼らを関が原後に改易したのは家康であり、
大坂陣の時も、巻き添え滅亡にならない限界ギリギリまで家康に抵抗して大坂城にいたのも信雄や有楽斎なんだけどw
むしろ三方が原や長篠の御恩があるはずの家康の方が故信長に対してひどくないかね?
信長はロクに家臣に援助もせずに家臣自らの武辺と才覚で、俺の要求を一刻も早く達成しろって
パワハラ恫喝と改易脅迫で精神圧迫していただけで 信長自身は、鷹狩り、茶道具や武具の没収コレクション、
鹿狩り、相撲遊び、衆道、女装しての女踊り、乗馬パレードや競馬観戦、幸若舞、豪華な食材取り寄せ
など遊びほうけていただけじゃん。だから信長死んだら細川忠興くらいしか信長の死を悼んでないし、
清洲会議の池田や丹羽や勝家ら信長遺領分配もみんな自己努力と自力救済による当然の権利だと思ってるでしょ。
だけど、家康は武田家の攻撃で存亡の危機に至り、信長からの援軍や織田との安保同盟を背景にしなければ、
つなぎとめていられたかも怪しいよね。 水野みたいに、家康なんていつでも改易できたにも関わらず、
信長は家康に駿河まで加増してくれたしね。
418人間七七四年:2013/11/26(火) 17:05:13.79 ID:uJE7v8Vl
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
実際秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
徳川方は8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯の小城2箇所くらいしか放棄してない
しかも小牧山周辺の砦には秀吉方の留守居部隊2万以上いて、徳川方が動けば小牧山の陥落は必至で動けなかっただけだし、
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で罠を張ってた
から後詰なんて自殺しにいくようなもんで、そんな所危険すぎていかなかっただけ。
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし状況も兵力比も大阪の陣とは違い過ぎる
419人間七七四年:2013/11/26(火) 17:06:15.57 ID:uJE7v8Vl
徳川方は8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯の小城2箇所くらいしか放棄してない
しかも小牧山周辺の砦には秀吉方の留守居部隊2万以上いて、徳川方が動けば小牧山の陥落は必至で動けなかっただけだし、
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で罠を張ってた
から後詰なんて自殺しにいくようなもんで、そんな所危険すぎていかなかっただけ。
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし状況も兵力比も大阪の陣とは違い過ぎる
尾張松ノ木・脇田近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切りが多く発生したわけではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ