石田三成襲撃事件

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327日本@名無史さん
>>蜂須賀が当表之儀って書いてて毛利との国境折衝を存分に秀吉から任されたと書いてるんだから、

いつのこと書いてるか知らんけど、蜂須賀の天正12年の史料は下記の通り

3/11秀吉→蜂須賀・黒田   其元之儀一書旨得心、渡候城城請取候分、人数兵糧以下丈夫入置候て
両人儀者、早々可被罷上候事などと、毛利より受け取った城城に人数や兵糧を入れて
大坂に帰るように指示している

3/13秀吉→丹羽
西国表の事は、城城を受け取り隙が明けた。西口留守居を為し、備前・美作・因幡の人数は一人も動かさず
留守居にして置いておく。紀州事は種種様々な懇望があり岸和田城に中村一氏3000ばかりであるが、蜂須賀正勝・前野長康・赤松則房・明石則実・生駒親正
黒田孝高六七千を加勢にして、丈夫に残し置き申す。大坂には2000ばかり留守居を置く。

3/26秀吉→黒田 備前衆於相越候者、早々此方へ可越候
などと書いており、中国方面から呼び寄せた黒田や蜂須賀らを此の方(尾張)へ来るように指示している。

4/8秀吉→丹羽長秀 彼表人数(松ヶ島城攻めに当たってた軍勢)五三日中ニ可令著陣候、併泉州表為番勢(和泉の留守居部隊)
備前衆壱万計相越候条、岸和田・大坂ニ達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事

5/5蜂須賀正勝書状
従隆景様預御状候、則御返事申入候、東国表之儀、無異議被申付、去三日ニ濃州岐阜至令納馬候、
於趣者可被御心安候、随藤四様(秀包)長々御在陣、併以其故無異儀御座候、安国寺、林殿も只今御参陣候
近日可被打入候間、其節可得御意候、恐々謹言

6/12秀吉→高木
人数等之事、蜂須賀・富田両人申次第、可被申付候、若下々於猥ハ重可加成敗候、恐々謹言
7/7蜂須賀正勝→南条直秀 
当表之儀、所々被任御存分、秀吉公至大坂被納御馬候、各事濃州境目ニ只今令居陣候、五三日中ニ勢へ御人数被出候、
7/27秀吉→蜂須賀正勝・黒田孝高・生駒親正・前野長康
尚々各令陣取明日可被越候、己上、態申遣上、依我々此地へ相越候之間、定敵相動儀在之間敷候、然者明日可申聞子細候之間、馬乗
ニ三騎宛ニテ曾根へ可相越候、梯期面候、恐々謹言
328日本@名無史さん:2013/12/26(木) 11:41:22.60
>>リアルタイムに書いてるから蜂須賀や如水がい
そりゃ普通に考えれば当たり前だろ。
安国寺、林殿も只今御参陣候 と書いてるし、それ以前に安国寺、林は秀吉の陣に参陣する、たとえ三河や遠江まで出兵しても
尽いていくなどと書いてるんだからこのやり取り自体蜂須賀と秀吉が同陣してなきゃありえねーよ。
その後も蜂須賀は秀吉と同陣してるのが明確なんだがお前の妄想はどうでもいいからさっさと黒田らが
この頃も中国方面にいたというソースを出せよ

従隆景様預御状候、則御返事申入候、東国表之儀、無異議被申付、去三日ニ濃州岐阜至令納馬候、
於趣者可被御心安候、随藤四様(秀包)長々御在陣、併以其故無異儀御座候、安国寺、林殿も只今御参陣候
近日可被打入候間、其節可得御意候、恐々謹言
などと、秀吉方の動きをリアルタイムに伝えてる
秀吉陣営への毛利方の到着を近い時間で伝えている。蜂須賀が岸和田や中国口にいたのなら、
一々秀吉の動きやその周辺の様子を秀吉が蜂須賀に知らせる→蜂須賀が毛利に知らせる
などと無駄な作業が増えるだけだし、そんな事やってる様子も全くない。
只今到着した、などとは絶対に書かない。
329日本@名無史さん:2013/12/26(木) 11:43:30.92
>>いちいち秀吉は正勝や如水に指示の書状を出さない

指示は出さなくても報告は出さないのはおかしい。
特に丹羽とか、そこそこの地位があり、かつ秀吉と同陣していない連中は、秀吉と書状でやり取りして
戦況伝えたり伝令送ったりしてるわけで、秀吉は津田・富田・八重羽など伊勢の諸将や岐阜の秀勝や因幡の亀井や、尾張の小砦にいた一柳や
北国の前田や丹羽や中国の毛利や上杉などとは連絡取り合ってるのに
如水とは音沙汰なしというのは黒田と秀吉が同陣していないのならありえないだろ。
現に黒田と一緒に行動してる蜂須賀も、出兵してきてるのがわかるし
備前衆=備前方面で国境折衝に当たってた黒田や蜂須賀らの事。その証拠に蜂須賀は5/5に
安国寺や林が只今参陣したと毛利に報告してる。蜂須賀らが中国陣にいたら参陣のタイミングが時間的にずれてしまうため
只今参陣したなどとは書くことはできない。明らかに、秀吉と同陣してた蜂須賀らが、毛利に対して戦況や援軍到着などを現地から逐一報告してる書状