石田三成襲撃事件

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306日本@名無史さん
>>越前衆のことなど5行に分けて各地の状況を秀長に報告してるだろ
その書状の要旨
滝川が退城するのにつき、7月15日の軍事行動を8月まで延期する
越前衆は8月に動く
秀吉は養生した上で10日くらいにこの地を罷り立つ
秀吉がまかり越し次第其方をも人数をも8月まで甘させる
我々が罷り越さない間はその方は池尻にいて境目の城城に人を遣り
追々可有注進候、取分東美濃無心本候条
尾藤知宣かたまて念をやり…
播州之人数其他隼人・毛介・勝兵へも何も其方其陣ニ在之者ハ、陣後かたく可被申付候、委細森三右衛門尉口上ニ申含候て…
その方(秀長)は美濃の池尻にいて境目の城城に人を遣り、
播州の人数其の他木村や毛介などはその方(池尻にいる秀長の陣)にいる者は
陣後を固くして申しつけよ。

どっからどう読んでも秀長に対する命令文書として播磨の人数を固く申しつけよと
書いてるだけなんだがw
307日本@名無史さん:2013/12/25(水) 17:41:49.02
>>お前は播磨と備前を混同してた
混同してねーよクズ
播磨から出兵しようが備前で長期間にわたって領土国分折衝交渉に当たってたら
備前之衆
備前之衆=宇喜多軍なんて決まりねーよアホ。
大体黒田だって、備前に給地があったかもしれんだろうがw
308日本@名無史さん:2013/12/25(水) 17:46:01.67
>>備前衆を率いる黒田軍と岸和田に派遣された黒田軍と言う謎の黒田軍団って言う矛盾しまくり

だから備前の衆=秀吉軍のうち、3月上旬時点で中国方面に残ってた連中を総括的に括ってるだけだと言ってるんだが?
3/13秀吉→丹羽だと、岸和田には元々中村3000しかいなかったが
加勢として蜂須賀黒田前野赤松明石生駒6000〜7000を丈夫に残し置くと書いている
だが、宇喜多軍が岸和田に入ったなどとは一言も書いてないわけだが。
4/8秀吉→丹羽長秀 彼表人数(松ヶ島城攻めに当たってた軍勢)五三日中ニ可令著陣候、併泉州表為番勢(和泉の留守居部隊)
備前衆壱万計相越候条、岸和田・大坂ニ達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事

と書いてるから、秀吉が以前に派遣した軍勢の内の黒田や蜂須賀らが楽田に呼び寄せられてるのが明確なんだが。

>>蜂須賀が当表之儀ってのは毛利との国境折衝を存分に秀吉から任された
そんな事どこにも書いてねーよクズ
つか安国寺、林殿も只今御参陣候 と書いてるし、それ以前に安国寺、林は秀吉の陣に参陣する、たとえ三河や遠江まで出兵しても
尽いていくなどと書いてるんだからこのやり取り自体蜂須賀と秀吉が同陣してなきゃありえねーよ。
その後も蜂須賀は秀吉と同陣してるのが明確なんだがお前の妄想はどうでもいいからさっさと黒田らが
この頃も中国方面にいたというソースを出せよチンカスゴミ野郎
6/12秀吉→高木  人数等之事、蜂須賀・富田両人申次第、可被申付候、若下々於猥ハ重可加成敗候、恐々謹言
7/7蜂須賀正勝→南条直秀  当表之儀、所々被任御存分、秀吉公至大坂被納御馬候、各事濃州境目ニ只今令居陣候、五三日中ニ勢へ御人数被出候、
309日本@名無史さん:2013/12/25(水) 17:48:26.87
陣立書に書かれてる武将名があてにならんとかそんな妄想書いてる学者はいないし
三鬼清一郎氏も陣立書は当時として公儀性を与える画期的な物だったと評価してる
たった一点の誤りを持って史料の全てが嘘になるわけではないわけで。
特に丹羽とか、そこそこの地位があり、かつ秀吉と同陣していない連中は、秀吉と書状でやり取りして
戦況伝えたり伝令送ったりしてるわけで、秀吉は津田・富田・八重羽など伊勢の諸将や岐阜の秀勝や因幡の亀井や、尾張の小砦にいた一柳や
北国の前田や丹羽や中国の毛利や上杉などとは連絡取り合ってるのに
如水とは音沙汰なしというのは黒田と秀吉が同陣していないのならありえないだろ。
現に黒田と一緒に行動してる蜂須賀も、出兵してきてるのがわかるし