石田三成襲撃事件

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317日本@名無史さん
備前衆=備前方面で国境折衝に当たってた黒田や蜂須賀らの事。その証拠に蜂須賀は5/5に
安国寺や林が只今参陣したと毛利に報告してる。蜂須賀らが中国陣にいたら参陣のタイミングが時間的にずれてしまうため
只今参陣したなどとは書くことはできない。明らかに、秀吉と同陣してた蜂須賀らが、毛利に対して戦況や援軍到着などを現地から逐一報告してる書状
318日本@名無史さん:2013/12/26(木) 10:31:52.53
>>315
お前の妄想
>>宇喜多と毛利の境目の確定作業やってる蜂須賀や黒田らは必要ないって言ってるんだが。
3/11秀吉→蜂須賀・黒田   其元之儀一書旨得心、渡候城城請取候分、人数兵糧以下丈夫入置候て
両人儀者、早々可被罷上候事などと、毛利より受け取った城城に人数や兵糧を入れて
大坂に帰るように指示している
3/26秀吉→黒田 備前衆於相越候者、早々此方へ可越候
などと書いており、中国方面から呼び寄せた黒田や蜂須賀らを此の方(尾張)へ来るように指示している。
>>長政に尾張に来るようにではなく備前衆に早く羽柴陣営に来るようにいっている。
完全に屁理屈だね。備前衆=中国方面にいた秀吉軍なんだからどうみても黒田や蜂須賀の事だろボケ。
とりあえずお前は馬鹿だから谷口央氏の「小牧長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」でも読んで一から勉強しなおすべきだね。
>>宇喜多と毛利の国境問題が片付いていない
ハイハイ、根拠なし。妄想乙。
>>父の如水に交渉を早く進めて宇喜多軍が来るように言ってるのだろう。
そんな事どこにもかかれてねーよクズ。
>>長政を派遣した如水がいるであろう播磨の地にて如水宛に播磨宍栗郡一職を与えている。
播磨の地に如水がいる根拠が微塵も書かれてないんだが。
>>陣立書なんて秀次の陣に如水がいたりと丹羽長秀の陣に如水がいたりと
はぁ?それのどこが間違いなんだよアホ。
>>どこまで事実が反映されているかわからん怪しいものだわ。
お前の大好きな三鬼氏が何より陣立書を当時の一揆的秩序しかなかった軍を上下関係に基づいた公儀の軍にした
画期的な物だったと誰より書いててるって何回もコピペ垂れ流してるのに矛盾した事をいうなよクズ野郎
319日本@名無史さん:2013/12/26(木) 10:32:22.89
>>どこにも如水が尾張にきていた証拠は無いな。
陣立書に書いてる。
また、3/11秀吉→蜂須賀・黒田   其元之儀一書旨得心、渡候城城請取候分、人数兵糧以下丈夫入置候て
両人儀者、早々可被罷上候事などと、毛利より受け取った城城に人数や兵糧を入れて
大坂に帰るように指示している
3/26秀吉→黒田 備前衆於相越候者、早々此方へ可越候
などと書いており、中国方面から呼び寄せた黒田や蜂須賀らを此の方(尾張)へ来るように指示している。
4/8秀吉→丹羽長秀 彼表人数(松ヶ島城攻めに当たってた軍勢)五三日中ニ可令著陣候、併泉州表為番勢(和泉の留守居部隊)
備前衆壱万計相越候条、岸和田・大坂ニ達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事
>>備前衆は宇喜多軍のこと
備前衆=備前方面で国境折衝に当たってた黒田や蜂須賀らの事。その証拠に蜂須賀は5/5に
安国寺や林が只今参陣したと毛利に報告してる。蜂須賀らが中国陣にいたら参陣のタイミングが時間的にずれてしまうため
只今参陣したなどとは書くことはできない。明らかに、秀吉と同陣してた蜂須賀らが、毛利に対して戦況や援軍到着などを現地から逐一報告してる書状

>>毛利と国境交渉を続けていた如水なら播磨衆
そもそも如水の給地が播磨限定だったかわからんし、毛利との国境付近で折衝してたんなら
備前衆=備前にいた衆=備前で国境折衝に当たってた蜂須賀黒田や宇喜多など全体指して使った、で問題ないだろ。

>>陣立書なんて当時、13歳の丹羽長重が東の構え責任者で西の構えが丹羽長秀
そんなんどこに書いてる?後、それが嘘だという根拠は?
陣立書は軍勢数は一次資料と大きく乖離があるが、メンバーに関しては史実通りだろ。
池田親子や森らや木下兄弟なんて戦死後登場しなくなるし
320日本@名無史さん:2013/12/26(木) 10:32:48.98
>>何で黒田らが備前方面の国境折衝していたから備前衆なんだよ?
>>黒田が備前にいたなんてどこにも書いてないだろ。
その前に黒田がずっと中国方面で折衝してたなんて事がどこにも書いていないんだが。
毛利との国境画定作業折衝なら、当然、毛利との国境に近い備前方面にいるのは当たり前だろタコ

>>隆景の御状への返事として人質として尾張で従軍している秀包が無事にやってることを取り次いでいるだけで
>>濃州岐阜至令納馬候も蜂須賀の動きではなく秀吉の動きじゃねぇかよ。

従隆景様預御状候、則御返事申入候、東国表之儀、無異議被申付、去三日ニ濃州岐阜至令納馬候、
於趣者可被御心安候、随藤四様(秀包)長々御在陣、併以其故無異儀御座候、安国寺、林殿も只今御参陣候
近日可被打入候間、其節可得御意候、恐々謹言
などと、秀吉方の動きをリアルタイムに伝えており、また安国寺や林が只今参陣したなどと、秀吉陣営への毛利方の到着を
近い時間で伝えている。蜂須賀が岸和田や中国口にいたのなら、
一々秀吉の動きやその周辺の様子を秀吉が蜂須賀に知らせる→蜂須賀が毛利に知らせる
などと無駄な作業が増えるだけだし、そんな事やってる様子も全くない。
只今到着した、などとは絶対に書かない。

>>秀包の母の乃美大方が輝元に早く帰って来るように嘆願して心配しまくっとる
はぁ?そんな文書どこにあるんだよ。妄想乙

>>隆景は蜂須賀に取り次いで戦況を聞いてるだけだし。
ソースなし。
321日本@名無史さん:2013/12/26(木) 10:33:41.93
>>315の妄想続き

>>備前衆は仙谷や小西らに率いられ讃岐の十河城へ長曾我部対策で渡海してしまう
だから備前の衆=秀吉軍のうち、3月上旬時点で中国方面に残ってた連中を総括的に括ってるだけだと言ってるんだが?
3/13秀吉→丹羽だと、岸和田には元々中村3000しかいなかったが
加勢として蜂須賀黒田前野赤松明石生駒6000〜7000を丈夫に残し置くと書いている
だが、宇喜多軍が岸和田に入ったなどとは一言も書いてないわけだが。
4/8秀吉→丹羽長秀 彼表人数(松ヶ島城攻めに当たってた軍勢)五三日中ニ可令著陣候、併泉州表為番勢(和泉の留守居部隊)
備前衆壱万計相越候条、岸和田・大坂ニ達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事

と書いてるから、秀吉が以前に派遣した軍勢の内の黒田や蜂須賀らが楽田に呼び寄せられてるのが明確なんだが。

>>蜂須賀が当表之儀ってのは毛利との国境折衝を存分に秀吉から任された
そんな事どこにも書いてねーよクズ
つか安国寺、林殿も只今御参陣候 と書いてるし、それ以前に安国寺、林は秀吉の陣に参陣する、たとえ三河や遠江まで出兵しても
尽いていくなどと書いてるんだからこのやり取り自体蜂須賀と秀吉が同陣してなきゃありえねーよ。
その後も蜂須賀は秀吉と同陣してるのが明確なんだがお前の妄想はどうでもいいからさっさと黒田らが
この頃も中国方面にいたというソースを出せよチンカスゴミ野郎
6/12秀吉→高木  人数等之事、蜂須賀・富田両人申次第、可被申付候、若下々於猥ハ重可加成敗候、恐々謹言
7/7蜂須賀正勝→南条直秀  当表之儀、所々被任御存分、秀吉公至大坂被納御馬候、各事濃州境目ニ只今令居陣候、五三日中ニ勢へ御人数被出候、
322日本@名無史さん:2013/12/26(木) 10:34:38.78
>>お前は至大坂納馬と書いてあれば、ぜんぶ蜂須賀がいたことに曲解できる便利な
何がいいたいのかわからん。俺がいつそんな事いったのか日本語で頼む。
>>如水が仙石や小西に指揮されて渡海するハメになる
そんな事言ってない。4/8秀吉→丹羽だと備前衆壱万計相越候条と書いてるが
3/13秀吉→丹羽だと、岸和田には元々中村3000しかいなかったが
加勢として蜂須賀黒田前野赤松明石生駒6000〜7000を丈夫に残し置くと書いている
備前衆のうち、五六千を黒田蜂須賀が率いて尾張に出兵(最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事)
残りは四国に6月に出兵したといってるだけ。

>>リアルタイムに書いてるから蜂須賀や如水がい
そりゃ普通に考えれば当たり前だろ。
安国寺、林殿も只今御参陣候 と書いてるし、それ以前に安国寺、林は秀吉の陣に参陣する、たとえ三河や遠江まで出兵しても
尽いていくなどと書いてるんだからこのやり取り自体蜂須賀と秀吉が同陣してなきゃありえねーよ。
その後も蜂須賀は秀吉と同陣してるのが明確なんだがお前の妄想はどうでもいいからさっさと黒田らが
この頃も中国方面にいたというソースを出せよ

従隆景様預御状候、則御返事申入候、東国表之儀、無異議被申付、去三日ニ濃州岐阜至令納馬候、
於趣者可被御心安候、随藤四様(秀包)長々御在陣、併以其故無異儀御座候、安国寺、林殿も只今御参陣候
近日可被打入候間、其節可得御意候、恐々謹言
などと、秀吉方の動きをリアルタイムに伝えてる
秀吉陣営への毛利方の到着を近い時間で伝えている。蜂須賀が岸和田や中国口にいたのなら、
一々秀吉の動きやその周辺の様子を秀吉が蜂須賀に知らせる→蜂須賀が毛利に知らせる
などと無駄な作業が増えるだけだし、そんな事やってる様子も全くない。
只今到着した、などとは絶対に書かない。
323日本@名無史さん:2013/12/26(木) 10:36:21.53
>>陣立書なんて秀次の陣に如水がいたり丹羽長秀の陣に如水がいたり
それはどの陣立書の事だ?
また、陣立書が作成された時期が同一ではないんだし、別の場所にいるのは当然だと思うが?
>>13歳の丹羽長重が東の構え責任者

どこにも丹羽長重が東の構え責任者なんてかかれてない。
おそらく浅野家文書Bの陣立書の事を言ってるんだろうが、丹羽長重は中五の大将とかかれてるだけであって
この陣立書では、一番下に書かれた者が総責任者になるといった構成ではかかれてない。
>>西の構えが丹羽長秀とか明らかにおかしいだろw
それはその陣立書の事だ?
>>4/8の秀吉から長秀宛で長重が陣取りした場所について
五郎左衛門尉殿陣取、可然山を要害ニ申付居陣候、普請以下万端被入精

陣立書に書かれてる武将名があてにならんとかそんな妄想書いてる学者はいないし
三鬼清一郎氏も陣立書は当時として公儀性を与える画期的な物だったと評価してる
たった一点の誤りを持って史料の全てが嘘になるわけではないわけで。
特に丹羽とか、そこそこの地位があり、かつ秀吉と同陣していない連中は、秀吉と書状でやり取りして
戦況伝えたり伝令送ったりしてるわけで、秀吉は津田・富田・八重羽など伊勢の諸将や岐阜の秀勝や因幡の亀井や、尾張の小砦にいた一柳や
北国の前田や丹羽や中国の毛利や上杉などとは連絡取り合ってるのに
如水とは音沙汰なしというのは黒田と秀吉が同陣していないのならありえないだろ。
現に黒田と一緒に行動してる蜂須賀も、出兵してきてるのがわかるし
324日本@名無史さん:2013/12/26(木) 10:37:10.44
3/11秀吉→蜂須賀・黒田   其元之儀一書旨得心、渡候城城請取候分、人数兵糧以下丈夫入置候て
両人儀者、早々可被罷上候事などと、毛利より受け取った城城に人数や兵糧を入れて
大坂に帰るように指示している

3/13秀吉→丹羽
西国表の事は、城城を受け取り隙が明けた。西口留守居を為し、備前・美作・因幡の人数は一人も動かさず
留守居にして置いておく。紀州事は種種様々な懇望があり岸和田城に中村一氏3000ばかりであるが、蜂須賀正勝・前野長康・赤松則房・明石則実・生駒親正
黒田孝高六七千を加勢にして、丈夫に残し置き申す。大坂には2000ばかり留守居を置く。

3/26秀吉→黒田 備前衆於相越候者、早々此方へ可越候
などと書いており、中国方面から呼び寄せた黒田や蜂須賀らを此の方(尾張)へ来るように指示している。

4/8秀吉→丹羽長秀 彼表人数(松ヶ島城攻めに当たってた軍勢)五三日中ニ可令著陣候、併泉州表為番勢(和泉の留守居部隊)
備前衆壱万計相越候条、岸和田・大坂ニ達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事

5/5蜂須賀正勝書状
従隆景様預御状候、則御返事申入候、東国表之儀、無異議被申付、去三日ニ濃州岐阜至令納馬候、
於趣者可被御心安候、随藤四様(秀包)長々御在陣、併以其故無異儀御座候、安国寺、林殿も只今御参陣候
近日可被打入候間、其節可得御意候、恐々謹言

6/12秀吉→高木
人数等之事、蜂須賀・富田両人申次第、可被申付候、若下々於猥ハ重可加成敗候、恐々謹言
7/7蜂須賀正勝→南条直秀 
当表之儀、所々被任御存分、秀吉公至大坂被納御馬候、各事濃州境目ニ只今令居陣候、五三日中ニ勢へ御人数被出候、
7/27秀吉→蜂須賀正勝・黒田孝高・生駒親正・前野長康
尚々各令陣取明日可被越候、己上、態申遣上、依我々此地へ相越候之間、定敵相動儀在之間敷候、然者明日可申聞子細候之間、馬乗
ニ三騎宛ニテ曾根へ可相越候、梯期面候、恐々謹言