石田三成襲撃事件

このエントリーをはてなブックマークに追加
287日本@名無史さん
>>備前衆は仙谷や小西らに率いられ讃岐の十河城へ長曾我部対策で渡海してしまう
だから備前の衆=秀吉軍のうち、3月上旬時点で中国方面に残ってた連中を総括的に括ってるだけだと言ってるんだが?
3/13秀吉→丹羽だと、岸和田には元々中村3000しかいなかったが
加勢として蜂須賀黒田前野赤松明石生駒6000〜7000を丈夫に残し置くと書いている
だが、宇喜多軍が岸和田に入ったなどとは一言も書いてないわけだが。
4/8秀吉→丹羽長秀 彼表人数(松ヶ島城攻めに当たってた軍勢)五三日中ニ可令著陣候、併泉州表為番勢(和泉の留守居部隊)
備前衆壱万計相越候条、岸和田・大坂ニ達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事

と書いてるから、秀吉が以前に派遣した軍勢の内の黒田や蜂須賀らが楽田に呼び寄せられてるのが明確なんだが。

>>蜂須賀が当表之儀ってのは毛利との国境折衝を存分に秀吉から任された
そんな事どこにも書いてねーよクズ
つか安国寺、林殿も只今御参陣候 と書いてるし、それ以前に安国寺、林は秀吉の陣に参陣する、たとえ三河や遠江まで出兵しても
尽いていくなどと書いてるんだからこのやり取り自体蜂須賀と秀吉が同陣してなきゃありえねーよ。
その後も蜂須賀は秀吉と同陣してるのが明確なんだがお前の妄想はどうでもいいからさっさと黒田らが
この頃も中国方面にいたというソースを出せよチンカスゴミ野郎
6/12秀吉→高木  人数等之事、蜂須賀・富田両人申次第、可被申付候、若下々於猥ハ重可加成敗候、恐々謹言
7/7蜂須賀正勝→南条直秀  当表之儀、所々被任御存分、秀吉公至大坂被納御馬候、各事濃州境目ニ只今令居陣候、五三日中ニ勢へ御人数被出候、