石田三成襲撃事件

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415日本@名無史さん
>>就其動之日限何も重而可申越候、 何篇我々事者此間時分に大垣まて可相越候、 然者其城番等之儀堅可被申付候
>>この文章のどこに出兵を『延期する』なんて意味の言葉がある

愛知県史資料編の綱文で滝川一益が退去した事により出陣日を改めるとなってる

>>虫気に苦しむ秀吉は大坂に帰りたくて仕方がなく7/5の前野宛や森寺宛や賀須屋・加藤宛などの諸将宛書状で、
>>出兵の日限は重ねて申します。なにぶんにも我々はいま美濃大垣まできてます。
>>その城番の儀を堅く申し付けます。
虫気で苦しんでたなんてその書状のどこにも書いてねーよ文盲かお前。
どこに虫気なんて言葉が出てくるんだよタコ


>>出兵の日限を重ねて伝えると言うのは諸将が集結する8月の出陣日のことだろが。
だから滝川の退城によって出兵日が7月から8月に替わったって話だろ。
>>6/28の時点で8/10にいったん談合で出陣日が暫定的に決まっている。
>>だから「重ねて」なんだろうが。
顕如日記の原文読めないのか?談合かわりて出陣は8月十日と云々と書いてて
その前の文章と繋げて読むと7月六日に元の陣所へ打ち帰る予定で、小牧表へ行く予定があったのが
談合によって8月になったとかいてるだけ。つか顕如日記は日記だがいつこの情報が入ったか
詳細は記されていないし、単に秀吉の7月から8月への出兵計画変更が、事後的に入っただけ。
6/28に顕如日記に築州は六月二十八日の夜、馬五六騎にて大坂へ帰城
これは暫時(少しの間)の儀也、各長陣迷惑之由候へば又7月六日に元の陣所へ可被打帰由候也
今度小牧表へ可有行云々、又談合かはりて出陣は8月十日と云々と書いてて
元々7月六日に楽田陣に帰陣する予定だったのが、滝川の退城により8月に延期されたとする秀長への書状の内容と
全く矛盾しない。現に6/25木曽宛書状た7/3木曽宛書状でも秀吉は7月に三河遠江出兵予定と書いてるし
滝川が去った後には書状類では悉く8月に変わってるから滝川の退城で出兵日が変更されただけ。
滝川の行動が秀吉の戦略と無関係なら滝川が退城しようがしまいが秀吉の出兵日に影響あるわけないわな。


秀吉は体調が悪く出陣日が確定できないからな。
8/2から有馬温泉で湯治して養生してるほどだし。
416日本@名無史さん:2013/12/30(月) 22:10:18.61
>>秀吉は体調が悪く出陣日が確定できない
いやいや秀吉は滝川が退城したらすぐに出兵日を7月から8月中旬に変更確定してるよ。
6/25→木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7/6秀吉→秀長や7/20秀吉→蜂谷や7/28秀吉→中川でもそれはしっかり決められてて
7月3日秀吉は『来る15日に「西国・北国」の兵力を総動員して尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。
この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。
8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
417日本@名無史さん:2013/12/30(月) 22:13:47.57
滝左親子去三日被退候条、来15日動、八月まて相延候事と書いてるだろうが。
虫気の病気程度で出兵できなくなるわけねーだろクズ。
そんな短期間で治癒するような仮病くさい嘘病で、滝川が作った大チャンス無駄にするわけねーだろクズ。
つか秀吉が病気になったのは大坂に退却後であって、退却前じゃねーよ。
退却後にたまたま病気になった事をもって退却前の退却理由が病気とかありえんわ。
顕如日記でも退却理由には、病気というのは全く触れられてねーし。
現に秀吉は一時的に大坂→有馬と移動した後7/9には坂本15日には大垣7/29大坂
8/11には京8/14坂本8/15大垣8/19犬山8/27楽田と動きまくってるじゃねーか。
病人とは思えない程の機敏さだなw
つか出陣するのがしんどいなら秀長やらに代理してもらえばいいだけだろ。
なんだかんだ言い訳つけて、信雄や家康にビビリまくって戦争から逃げ回ってるのを
グダグダ擁護してんじゃねぇよボォケwwww
一週間程度で直るような嘘病で出兵取りやめたとか帰陣したとかグダグダ言い訳してんじゃねぇよクズ
418日本@名無史さん:2013/12/30(月) 22:14:19.35
秀吉が病を患ったとか仮病だろ。しかも秀吉が病気とか書いてるのは7月になって秀吉が大坂にヘタレ敗走した後だから。
病気だから退却ではなく、ビビリまくって退却した後に仮病使って休んでただけだわ。
秀吉は来月15日前後に出兵計画木曽などに書いてて、この時点では何の病気も患っていなかったのがわかる。
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと考えられるし、秀吉がビビリまくって
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
と秀吉が大垣に居座って、眼前の距離にある蟹江で信雄と家康領国を分断できる大チャンスに対して
長久手合戦でわずか自軍の7分の1の兵力の徳川や信雄に1万人殺された秀吉はビビリまくって
大坂にヘタレ敗走しただけだろ。滝川の力投むなしく蟹江も前田も下市場も奪回されるアホっぷりだし
休戦どころか、滝川が力闘してたのをむざむざ見殺しにして大坂まで大敗走したのが秀吉。
419日本@名無史さん:2013/12/30(月) 22:21:49.99
滝川が退城した。
「就其」(それにつき)動之日限何も重而可申越候、
何篇我々事者此間時分に大垣まて可相越候、
然者其城番等之儀堅可被申付候

と書いてるから滝川の退城と次の出兵計画の予定日設定が直接的に影響してるのがわかるだろ。
つか愛知県史資料編綱文でも書かれてる事を平然と無視するなよ。

大体この滝川退城のタイミングで前野・糟屋・加藤・森寺ら前線にいた連中に新たな秀吉の指令に当たる文書が出されて
秀吉方予定変更作戦変更になってる時点で滝川の一連の行動が秀吉方の動きと直接的に結びついてるのがわかるだろうが。
滝川の行動が秀吉と関係なく単独の者で羽柴方として無意味だったら滝川のことなんて一々触れず放置してればいいだけだし
わざわざいちいちそんな命令も出す必要ないし、今までどおりの事やらせてればいいだけだから
命令に当たる文書なんて発給されてない。
420日本@名無史さん:2013/12/30(月) 22:23:30.61
>>414
お前が過去に論破されたレスを一つ一つ貼ってやるよ。
>>毛利軍自体が実は来てない

天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候  天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿  輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
421日本@名無史さん:2013/12/30(月) 22:26:33.65
天正6年7月7日   紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監  花押 同左近大夫殿 御返報
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫  宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長  敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼  今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
422日本@名無史さん:2013/12/30(月) 22:27:13.12
>>信雄と家康が土下座
信雄や家康は土下座なんてしてねーよボケhttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/717
>>22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任
はぁ?なんで東国なんてノータッチの場所が平定されてる事になるんだよ。
ひょっとして秀吉の「東国は氏政、北国は景勝まで秀吉の存分に候」とかデタラメをデッチあげている誇大喧伝を真に受けてるのか?。
>>12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質
アホかお前。天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
423日本@名無史さん:2013/12/30(月) 22:28:02.36
秀吉厨の嘘続き


朝鮮出兵なんて馬鹿な戦を
>帝国主義・重商主義の世界史的な流れを理解し 大陸進出により、日本が強国で植民地化が不可能だと悟らせた。
>看羊録には、秀吉の朝鮮出兵は諸大名の力を削いで 戦乱や領地を望む心を奪うためと書いている。
>戦国の機運を終わらせるためには強権発動も必要なのだろう。
>国内で変事を起こさせないように兵を消耗させ
>戦国の気風がある荒々しい武将どもの内乱意識を消す戦後処理を謀る意図があったとする。
>また土木工事も諸大名の経済力を奪い取ると同時にインフラ整備と経済活性政策であった。

こんなすり替え方してマンセーの流れに入れ替えるとか馬鹿すぎる。その結果が豊臣崩壊じゃねぇかw


秀吉厨のデタラメ
>>「一次史料を見ると信長も1万〜3万くらい
>>兵糧や衛生管理や屎尿対策の壁で一戦場3万が動員限界とされたのが戦国時代」

天正3年5/15奥平書状で織田徳川で7万騎動員してるのがわかる
毛利軍も高松攻防時5万と秀吉が本能寺後の書状で書いてる
柴田も上杉討伐の時45000の大軍を動員してるのが享禄以来年代記でわかる
手取川合戦では織田軍は主力級総メンバー連れており、少なくとも長家家譜のように4万越えはしてるはず
国力に対して課されるのが動因数で国力があっても大軍を集結できない大名なんていねぇよクズw
一揆とか国が疲弊・瓦解してるだけだろうがw
軍なんて鎌倉や南北朝時代の戦争でも動員されてるだろ
織田の場合は戦線が複数あったから一箇所に超大規模の大軍が集結しなかったというだけだし
信長公記基準だとかなり大軍動員してるし島津も大友も動員してる(耳川や水俣城攻防戦など)
足利軍30万騎とか書いてあるね。
多聞院日記や兼見卿記をみると15万とか10万とか天正5年で動員してるし
戦国期より遥かに兵站技術が遅れた鎌倉や南北朝戦争でも数十万の大軍が一遍に動いてるのに
兵の動員数に限界数値があるわけねーだろアホ
ローマ軍や清とか中国の王政はどうなるんだよ馬鹿がw
424日本@名無史さん:2013/12/30(月) 22:28:05.57
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
>>正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してる
そりゃ秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
425日本@名無史さん:2013/12/30(月) 22:29:05.98
>>東大史料編纂編纂所にガン無視された萩藩閥越録www
天正6年4月18日 2 吉川元春、小早川隆景、播磨に入り、尼子勝久、山中幸盛を上月城に囲
天正6年4月29日 1 信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援せしむ
天正6年5月4日 1 信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す
天正6年5月21日 3 羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、
尋で、宗治、同城を復す、
天正6年6月21日 3 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
天正6年7月5日 1 播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る、山中幸盛、偽り降り、尋で、毛利氏の爲めに備中合の渡に殺さる、

毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
萩藩閥閲録 晋叟寺文書 毛利家日記
[参考]備前軍記
[参考]浦上宇喜多両家記
[参考]陰徳太平記
[参考]御答書
[参考]總見記
[参考]柏崎物語
426日本@名無史さん:2013/12/30(月) 22:29:54.94
>>陣替えするならおいおい承る
曲解乙 其元相替儀候者追々可承候→そこもと(そこで)相替儀候者→変わった事があったら
承する→聞き入れる、うけたまわる
被入念候て切切御飛脚本望候→念を入れて飛脚を持って知らせるのが望みである。
単に滝川にそこらへんで変わった事があったら知らせよと書いてるだけ。
>>秀吉は滝川に委任して放置している
これのどこが放置なんだよアホ
桑名をお前の望むようにしていいとは書いてるが切り取り次第とか好きに行動しろとか委任なんて全くしてねーよクズ
>>滝川がほとんど連絡してこないから連絡くらいしろ
そんな事どこにも書いていない。
>>滝川が秀吉に連絡してくることはなく
秀吉は蟹江から眼前の大垣にいたのに滝川の行動を知らないわけがねーだろクズw
>>秀勝が石川家清ルートで桑名表の情報を仕入れ
それが何で滝川が報告していない事の証明になるんだよアホ。
そもそも秀勝は秀吉陣から離れた美濃にいたんだし秀吉の情報ルートとは関係ねーよクズ
>>滝川の失敗のせいで神戸、浜田への防備増強の手当をする手間
滝川が失敗したのは目前で大チャンスを作って家康を討伐する機会を見事に失った秀吉のヘタレ退却じゃん。
>>滝川は信雄の長島と清州の家康の連絡を断つなどと無謀
無謀どころか大チャンスじゃん。蟹江や前田に秀吉が大軍で東西から後詰をすれば家康は逃げ道がなくなって殲滅されるのは目に見えてるし
それが無理でも大垣から眼前にある蟹江で2万くらい兵出せば余裕で蟹江の防衛と徳川方への大打撃は可能。
しかも今なら小牧山周辺の徳川方砦は徳川方が蟹江や前田を攻撃したことにより手薄ですっかすかな状態だから
そちらを攻めて落してもいいしな。滝川の行動により情勢が大変化する機会が生まれたが秀吉の馬鹿な退却で全てが無に喫したのが現実
427日本@名無史さん:2013/12/30(月) 22:30:45.32
>>秀吉は竹鼻城落城をもって尾張での戦勝
家康や信雄を2万以上の大軍で動けない状態にして逃げ回ったあげく、尾張の隅っこにある雑魚城一城落としたのをそんな自慢げに語られても。
>>岸和田への仕置きも兼ねて一旦、大坂へ納馬したかった
岸和田への仕置きなんて戦後にすればいいだけだろうが。
秀吉は>369-370のように一貫して家康総攻撃と家康撃滅を志向しており、滝川の行動は大チャンスとしかいいようがねーよアホ。
家康が蟹江や前田を攻撃して出てくれば眼前の大垣から東ルートと西ルート経由で即座に蟹江に後詰すれば家康や信雄は背後が絶たれて全滅するのは目に見えてるからな。
>>6/21の中村一氏の書状にも触れられている。
6/21中村一氏書状和泉に秀吉が近日出馬するとは書かれてるが戦後処理など理由の事は全く触れられていない。
秀吉は出兵中でも領土宛がいとか戦後処理やりまくってる。
わざわざ大坂に戻る必要性は0

>>滝川は5/24の秀吉→滝川書状で桑名如意たるへく候〜追々可承候〜切々御飛脚本望候
>>桑名はあなたの意にしていい
桑名はお前の意のままにしていいとは書いてるけど蟹江を調略を乗っ取るなど、尾張を切り取り次第とか手柄次第とか全く書いてないし
滝川の家臣でもない九鬼が滝川に従軍してるし秀吉の出兵計画は一貫して徳川領内への侵攻、
秀吉の意思がなかったら九鬼が兵出すわけないだろ
伊勢の楠本に26日大阪に28日で其の前ずっと佐和山にいたんだから位置的に余裕で後詰できたのにな
愛知県史資料編表題部や長久手町史通史編の谷口氏が領国分断作戦の一貫と書いてるし
秀吉がいたと思われる大垣と蟹江なんてすぐだし秀吉は滝川退城により三河侵攻を中断・延期してるから
三河方面への足がかりと容易に想像がつくしそもそも滝川は秀吉の同盟者でも何でもなく家臣なんだから独断での行動なら証明が必要
428日本@名無史さん:2013/12/30(月) 22:31:08.10
>>秀吉は信雄を長島城へ追い詰めて屈服させてる。
信雄も家康も全く追い詰められてもなければ屈服もしてねーよクズ
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼しこれにまんまと信雄が乗って
しまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない。兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている。ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が
起きたりしている)天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する。四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた
2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる。其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず公事に抜かりないように。
信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす。2/10くらいには尾張迄出馬するなどと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている。