石田三成襲撃事件

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355日本@名無史さん
>>別本黒田家譜が長政を岸和田に派遣して如水は行かなかったとしている事には根拠

そもそも別本黒田家譜を後世の編纂史料であって一次資料じゃねーよクズ

>>隆景の奉公人やってた鵜飼元辰→中島元行宛4/1付書状において備中表河切に罷成って報告

それも別本黒田家譜がソースだろアホ。
>>3/21の如水書状に出てくる隆景との国境交渉の話

そんな文書ない。

>>岸和田での対応は急ぎであり、

根拠なし。

>>如水らは動けないから当然に長政が行く

如水らが動けない理由はなし。3/13秀吉→丹羽
西国表の事は、城城を受け取り隙が明けたと書いてて、西国方面の事は片付いて
家康領国へ領内の兵力総動員して攻めかかる準備してただけ。

>>秀吉による岸和田での戦功の7/18の感状は長政宛だ。

根拠不明。

>>岸和田では3/18や3/22で触れているように敵の攻撃が頻発
3/18や3/22の文書にそんな内容書かれた物はねーよ捏造乙
356日本@名無史さん:2013/12/26(木) 17:57:05.82
>>どう考えても如水らは岸和田に行って無いし、
はぁ?馬鹿かお前。
3/11秀吉→蜂須賀・黒田   其元之儀一書旨得心、渡候城城請取候分、人数兵糧以下丈夫入置候て
両人儀者、早々可被罷上候事などと、毛利より受け取った城城に人数や兵糧を入れて
大坂に帰るように指示している

3/13秀吉→丹羽
西国表の事は、城城を受け取り隙が明けた。西口留守居を為し、備前・美作・因幡の人数は一人も動かさず
留守居にして置いておく。紀州事は種種様々な懇望があり岸和田城に中村一氏3000ばかりであるが、蜂須賀正勝・前野長康・赤松則房・明石則実・生駒親正
黒田孝高六七千を加勢にして、丈夫に残し置き申す。大坂には2000ばかり留守居を置く。
3/26秀吉→黒田 備前衆於相越候者、早々此方へ可越候
などと書いており、中国方面から呼び寄せた黒田や蜂須賀らを此の方(尾張)へ来るように指示している。
4/8秀吉→丹羽長秀 彼表人数(松ヶ島城攻めに当たってた軍勢)五三日中ニ可令著陣候、併泉州表為番勢(和泉の留守居部隊)
備前衆壱万計相越候条、岸和田・大坂ニ達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事
>>備前衆が如水たちじゃない
備前衆=備前方面で国境折衝に当たってた黒田や蜂須賀らの事。その証拠に蜂須賀は5/5に
安国寺や林が只今参陣したと毛利に報告してる。蜂須賀らが中国陣にいたら参陣のタイミングが時間的にずれてしまうため
只今参陣したなどとは書くことはできない。明らかに、秀吉と同陣してた蜂須賀らが、毛利に対して戦況や援軍到着などを現地から逐一報告してる書状
>>3/13での秀吉の長秀への報告で
>>実際は隆景と交渉してて無理だよね。長政を動かすしかないよね。

そんな事どこにも書いてねーよクズ

>>近江は銃後というべき安全圏
アホか。近江なんて美濃と目と鼻の先の距離の上に
其の文書は最後の段に14・15日くらいで世の中の物狂いを酒の酔いを醒ます如く
決着つけてやると書かれてて伊勢方面や美濃方面の出兵に対して眼前の甲賀や近江に出兵させただけだろうがw
357日本@名無史さん:2013/12/26(木) 17:58:13.19
>>それぞれがあちこちに陣を構えて其方其陣後方を固く守っている

其方=お前
其方其陣=お前のその陣
其方にそれぞれの武将達なんて意味はないし
其陣にそれぞれの場所なんて意味もない。
>>箇条書きされている項において全く違う項に出てくる
前項から続いているんだから秀長の陣にいる者たちに対して命令しただけだろ。

その書状の要旨は

滝川が退城するのにつき、7月15日の軍事行動を8月まで延期する
越前衆は8月に動く
秀吉は養生した上で10日くらいにこの地を罷り立つ
秀吉がまかり越し次第其方をも人数をも8月まで甘させる
我々が罷り越さない間はその方は池尻にいて境目の城城に人を遣り
追々可有注進候、取分東美濃無心本候条
尾藤知宣かたまて念をやり…
播州之人数其他隼人・毛介・勝兵へも何も其方其陣ニ在之者ハ、陣後かたく可被申付候、委細森三右衛門尉口上ニ申含候て…
その方(秀長)は美濃の池尻にいて境目の城城に人を遣り、
播州の人数其の他木村や毛介などはその方(池尻にいる秀長の陣)にいる者は
陣後を固くして申しつけよ。

だから秀吉の8月の出兵計画を中心に詳しく述べただけだから
前項からの続きで秀吉が罷り越さない内はお前が池尻にいて境目の城に兵をいれ注進しろ。
東美濃が心もとないので尾藤まで念をいれて申し付けられよ。
その続きで木村や毛介らお前の陣にいる者に対して陣を固くして守れといってるだけ。
陣後とは陣の後ろの部分だから、領国内の後方部分ではなく「陣」の背後を固めろといってるだけ。
それぞれの武将達がそれぞれの場所なら各事とか各之陣とか書かれてる。
現に羽柴方の他の文書では「各」などがよく使われてて其方其陣なんて使われてない