石田三成襲撃事件

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298日本@名無史さん
>>どこにも如水が尾張にきていた証拠は無いな。
陣立書に書いてる。
また、3/11秀吉→蜂須賀・黒田   其元之儀一書旨得心、渡候城城請取候分、人数兵糧以下丈夫入置候て
両人儀者、早々可被罷上候事などと、毛利より受け取った城城に人数や兵糧を入れて
大坂に帰るように指示している
3/26秀吉→黒田 備前衆於相越候者、早々此方へ可越候
などと書いており、中国方面から呼び寄せた黒田や蜂須賀らを此の方(尾張)へ来るように指示している。
4/8秀吉→丹羽長秀 彼表人数(松ヶ島城攻めに当たってた軍勢)五三日中ニ可令著陣候、併泉州表為番勢(和泉の留守居部隊)
備前衆壱万計相越候条、岸和田・大坂ニ達、最前遣申候人数五六千候間、至当地令著陣候事
>>備前衆は宇喜多軍のこと
備前衆=備前方面で国境折衝に当たってた黒田や蜂須賀らの事。その証拠に蜂須賀は5/5に
安国寺や林が只今参陣したと毛利に報告してる。蜂須賀らが中国陣にいたら参陣のタイミングが時間的にずれてしまうため
只今参陣したなどとは書くことはできない。明らかに、秀吉と同陣してた蜂須賀らが、毛利に対して戦況や援軍到着などを現地から逐一報告してる書状

>>毛利と国境交渉を続けていた如水なら播磨衆
そもそも如水の給地が播磨限定だったかわからんし、毛利との国境付近で折衝してたんなら
備前衆=備前にいた衆=備前で国境折衝に当たってた蜂須賀黒田や宇喜多など全体指して使った、で問題ないだろ。

>>陣立書なんて当時、13歳の丹羽長重が東の構え責任者で西の構えが丹羽長秀
そんなんどこに書いてる?後、それが嘘だという根拠は?
陣立書は軍勢数は一次資料と大きく乖離があるが、メンバーに関しては史実通りだろ。
池田親子や森らや木下兄弟なんて戦死後登場しなくなるし