大月書店「世界の共産党」

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1「日本共産党」P7
 最近、おためごかしと厚顔無恥に基づいた歴史修正主義者としての日本共産党の活動が余り
にも面白いので、ここに先日ゲットした「世界の共産党」(大月書店・1955年初版)から、
当時日本共産党が各国の党をどのように紹介していたかを貼り付ける。大枚はたいてゲットし
て公開しないことは、「全ては人民のもの」(世界を揺るがした十日間より)という製作者た
ちに対して不義であろう(猛藁)。

 勿論、これはソヴェト大百科事典の訳本であるが、当時一枚岩だったらしいので、別に「日
本共産党」が紹介と言ってもかまわないと判断する。相手は日本人民だし。まずは日本共産党
から。ご要望のある国の共産党(労働党)を、順次紹介する。

・・・誹謗中傷は、XXヘ行きな、というレスがくれば、最高である。それは、自己否定って
ものである。


日本共産党

 日本共産党は、日本労働者階級の前衛部隊であり、労働者階級と全勤労者の利益を代表してい
る。日本共産党は、大十月社会主義革命の影響をうけてはじまった日本プロレタリアートの革命
的闘争の力づよい高揚の情勢のなかでうまれた。一九二〇年十二月に、「日本社会主義同盟」が
創立された。労働運動におけるさまざまな潮流を統合した同盟は、労働者階級の真の指導者とな
ることはできなかったが、それは日本共産党の創立準備に重要な役割をはたした。同盟の分裂に
おわったマルクス主義者とアナルコ・サンディカリストのグループのあいだの同盟内部の思想闘
争は、マルクス主義グループのイデオロギー的・組織的発展と強化をうながした。マルクス主義
グループ「水曜会」のメンバーのイニシアティヴによって、一九二二年七月十五日に、日本の共
産主義者とそれに親近なグループの大会が召集され、そこで、日本共産党の組織的・政治的形態
ができた。日本共産党の創立に積極的に参加したのは、日本の労働運動のすぐれた働らき手であ
る片山潜、渡辺政之輔、市川正一、徳田球一、その他であった。一九二三年二月の日本共産党第
二回大会および一九二三年三月の臨時大会で、日本共産党の規約と綱領が採択された。綱領の主
要な要求は、「天皇制の廃止と民主主義共和国の樹立」であった。日本共産党は、日本帝国主義
によってくわだてられた年若いソヴェト共和国にたいする干渉を中止させるために精力的にたた
かった。
2「日本共産党」P8:01/12/24 22:33
 日本共産党は、結成の当初から一九四五年まで、このうえもなく残忍な弾圧と迫害の条件のな
かで非合法に存在してきた。党は、社会民主主義と無政府主義にたいする、右翼日和見主義的・
解党主義的偏向(山川均その他)、左翼トロツキスト・グループ(福本一夫その他)にたいする
容赦ないたたかいのなかできたえられた。一九二四年三月に、山川の支持者からなっていた日本
共産党指導部は、日本共産党の解党を決議した。しかし、下部組織とコミンテルン執行部の支持
をうけていた日本共産党中央委員会の革命的分子の努力によって、党にたいするこの陰謀は粉砕
された。一九二七年七月に、日本における戦闘的マルクス主義政党創立のための闘争の基礎とな
ったコミンテルンの日本問題にかんするテーゼが発表された。一九三七年に、日本共産党は、コ
ミンテルン執行委員会のテーゼをその活動のよりどころとして、日和見主義的な山川一派と福本
一派を思想的に粉砕し、組織的に孤立させ、大衆のなかで、合法的な労働者・農民の政党である
「労農党」のなかで、革命的労働組合の中心である「評議会」のなかで、無産青年同盟その他の
なかで、党の勢力をつよめた。一九二八年二月の国会選挙では、日本共産党は、「労農党」との
統一戦線を結成し、候補者は、共産党員の支持のもとに二〇万票を獲得した。
 国内の革命運動の成長におそれをなした軍事的・警察的天皇制は、共産党にたいしてこのうえ
もなく残忍な弾圧をくわえた。一九二八年三月十五日と一九二九年四月十六日に、共産主義者や
その他労働運動の活動家の大量の逮捕がおこなわれた。日本共産党の影響下にあった諸組織は禁
止された。地下の困難な条件のもとで活動しながら、日本共産党は、ブルジョア・地主反動に反
対し、日本人民の解放をめざす英雄的な闘争をつづけた。日本共産党は、反戦・反ファショ統一
戦線の結成のために成功的な闘争をおこなった。日本共産党は、日本帝国主義の対外政策の侵略
3「日本共産党」P9:01/12/24 22:34
的性格をばくろした。とくに大きな意義をもっていたのは,日本共産党によって組織された、中
国における日本帝国主義の軍事的挑発と干渉に反対し、日本軍隊の満州からの撤退と中国プロレ
タリアートとの共同行動(一九二八年、三一年、三七年)をめざす広範な反戦運動であった。残
忍な弾圧の条件下における非合法的存在の時期には、日本共産党は、比較的小さかったが、戦闘
的・革命的組織であった。党員数は、一、〇〇〇名をこえなかった。
 帝国主義日本の壊滅(一九四五年)は、国の独立的・民主主義的発展のために必要な条件をつ
くりだした。しかし、民主主義運動の嵐のような発展にあらわれた平和と民主主義にたいする日
本人民の志向は、アメリカ合衆国の占領当局とそれに支持されている日本の反動のはげしい抵抗
にでくわした。このような情勢のなかで、一九四五年十月に地下からあらわれた日本共産党の合
法活動が開始された。一八年間の投獄ののちに徳田書記長を先頭とする日本共産党の指導的活動
家のグループは出獄した。一九四五年十二月に、日本共産党第四回大会がひらかれ、行動綱領と
規約を採択し、また党の指導機関を選出した。日本共産党中央委員会書記長には徳田球一がえら
ばれた。日本共産党の綱領は、帝国主義体制の絶滅と人民民主主義共和国の樹立、地主的土地所
有の絶滅と土地の農民への譲渡、独占資本の人民管理の要求をかかげた。日本共産党は、日米の
反動に反対し、一九四五年のポツダム宣言の完全かつ即時遂行をめざす断固たる行動綱領をもっ
てあらわれた国内でただ一つの政党であった。日本共産党は、民主主義統一戦線の綱領を発表し
て、全民幸主義勢力の統一のための積極的闘争を開始した。一九四五年末から一九四六年初頭に
かけての時期は、そのあいだに増大したストライキ闘争の高揚によって特徴づけられた。日本共
産党は、この闘争の指導をおこなった。ストライキは、民主主義的原則にもとづく経済の再建と
4「日本共産党」P10:01/12/24 22:34
ポツダム宣言の実施のサボタージュを中止せよとの要求をふくんだ日本共産党のスローガンのも
とにおこなわれた。この闘争のあいだに、日本共産党は、大規模に労働者の生産管理戦術を実践
した。この戦術は、日本の反動が経済再建をサボタージュしている情勢のもとでは大きな意義を
もっていた。第五回大会(一九四六年二月)までに、地下から出てきたのちの党の組織形態は完
全にできあがった。大会は、党を政治的・組織的に強化する任務を審議し、大衆のなかで党の勢
力を拡大する方策をさだめ、共産党の綱領と規約を変更し、農民運動の任務、農兼綱領草案、そ
の他多くの問題を審議した。大会は、反動的幣原政府の打倒を訴えた日本の勤労者にたいする呼
びかけと、発生した情勢のなかで共産党の新しい戦術方針をさだめた宣言を採択した。一九四六
年四月に、日本共産党は、衆議院選挙に参加した。日本共産党の立てた候補者には二一〇万票が
投ぜられ、日本共産党は、はじめて日本の国会に五名の自党の議員をおくった。権力をにぎった
吉田政府は、ポツダム宣言のサボタージュ政策をつづけた。反動政府が、勤労者の要求の遂行を
拒絶したために、日本共産党はゼネラル・ストライキをよびかけ、吉田政府の打倒と人民民主主
義政府の樹立の一般スローガンのもとにゼネラル・ストライキの準備を展開した。一九四七年二
月一日に予定されていたゼネラル・ストライキは、アメリカ占領車当局によって禁止された。そ
れにもかかわらず、ゼネラル・ストライキの準備は、革命的基礎のうえに、労働者と労働組合運
動を団結させる点で大きな役割を演じた。労働者階級の組織は成長した。日本の労働組合は、一
九四七年までに、約四〇〇万人を団結させた。一九四七年四月の参議院選挙では、日本共産党は
約一〇〇万票をあつめ、四人の自党の議員をおくった。一九四七年十二月に、日本共産党第六回
大会がひらかれた。大会の活動で主要な地位を占めたのは、綱領・戦術問題、党内のイデオロギ
5「日本共産党」P11:01/12/24 22:35
ー・教育活動の任務、党内の小ブルジョア的・社会民主主義的勢力との闘争であった。大会は、
行動綱領、農業綱領を採択し、党の戦略・戦術方針起草委員会をつくった。
 大会以後の日本共産党の主要な努力は、労働者階級と農民の大衆組織の強化、そのなかでの党
の勢力の強化、国のファショ化に反効し、アメリカ帝国主義との公然たる同盟にはいった日本の
反動の反人民的政策に反対する統一行動の組織にむけられた。
 日本共産党中央委員会の第十回、十一回、十二回総会(一九四八年)は、きわめて重要な意義
をもっていた。これらの総会で採択された「平和、民主主義、民族独立擁護のための宣言」、「民
主民族戦線の結成にかんする」決定、その他は、平和と民族独立のための全人民的闘争の発展に
とって大きな意義をもち、広範な民主主義勢力の結集を促進した。
 共産党は、ストライキにたいする日本の労働者の権利をうはった占領当局の指令(一九四八年)
に反対する広範な抗議運動を組織した。共産党は、アメリカの「日本の経済安定計画」をばくろ
し、それが、日本を奴隷化し、国をアメリカ合衆国の兵器庫にかえようとする計画であると規定
した。日本共産党は、労働者の大量馘首と労働条件の悪化に反対し、労働組合が政治活動へ参加
する権利をうばわれることに反対する強力な運動を組織した。共産党は、進歩的勢力の結集と、
大きな労働組合、農民およびその他の民主主義的諸組織がその影響下にあった民主主義運動の強
化に大きな成功をおさめた。一〇〇以上の労働組合と、一〇〇〇万人以上を結集した社会・政治
団体が、日本共産党の綱領の主要な要求を支持した。一九四九年一月の衆議院総選挙で、日本共
産党は、三〇〇万票を獲得して、三五名の自覚の議員を国会におくった。日本共産党の党員数は、
一九四九年のなかごろまでに二〇万人以上に達した。「しかしながら、他方では、二つの日和見
6「日本共産党」P12:01/12/24 22:35
主義が発生してきた。一つは、一九四九年の春、第十五回中央委貝会総会で明確になったもので、
アメリカの占領制度を軽視して、議会行動を中心とする平和的手段による革命を主張するもので
あった。他は、一九四九年九月からあらわれてきたもので、日本の支配は、完全に、アメリカ帝
国主義者の手中にあり、吉田政府以下の国および地方の政治機関は、すべて、アメリカ帝国主義
者の機械的道具にすぎないと、断定するものであった。それゆえ、彼らは、アメリカ占領軍との
みたたかうことが現在の党の主要な任務であると主張して、吉田政府との闘いを無視した。」〔徳
田球一『日本共産党三十周年にさいして』、本文庫版『日本共産党闘争小史』一四ページ〕日本
共産党第十八回拡大中央委員会(一九五○年一月)は、新しい情勢を審議し、徳川の報告「新し
い情勢とこれにたいするわが党の政策」のなかで定式化された、党の諸任務にかんする発展した
決定を採択した。しかし総会の決定は、徳田が指示しているように、日本の現情勢の評価と、国
の現情勢に適応した基本的な革命的行動の決定を十分に明確にしなかった。「われわれは、党の
発展の上に、新しい段階をひらくために、党内の矛盾と意見の相違をなくする新しい綱領を必要
とした。」〔徳田球一前掲書、本文庫版一五ページ〕戦闘的マルクス主義的綱領にたいする闘争で、
党は、「左翼」および右翼日和見主義を粉砕し、党の困難を利用し、党を内部から粉砕しようと
した日米反動の代弁者の正体をばくろした。
 党の活動は、ますます増大しつつある反動の条件のなかでおこたわれた。一九五○年六月六日、
アメリカ占領当局の命令によって、二四名の日本共帝党中央委員は、政治活動を禁止された。日
本共産党中央委員会の中央機関紙『アカハタ』は発行を停止された。民主主義運動にたいする大
衆的弾圧の新しい動きかはじまった。日本共産党は、半非合法状態に移行することを余儀なくさ
7「日本共産党」P13:01/12/24 22:36
れた。日本共産党は臨時中央指導部を設けた。六月十八日には、非合法に全国代表者会議がひら
かれ、新しい情勢下における党の任務を決定した。党は、反動の行動を、日本をアメリカ帝国主
義の同盟者として新しい戦争準備をさせるものであり、日本におけるファシズムの復活であると
規定した。
 一九五一年二月に、非合法の条件のもとで大会にかわって日本共産党第四回全国協議会がひら
かれ、党規約と、平和と民主主義のための闘争の展開にかんする重要な決定、分派主義者との闘
争にかんする決議を採択した。全国協議会は、日本共産党の指導機関を選出した。共産党員は、
日本で展開された平和擁護運動に積極的に参加した。朝鮮におけるアメリカの干渉に関連して、
さらにまた、米英ブロックによる不法な対日単独講和条約と、それにともなう軍事協定の締結準
備に関連して、乎和擁護闘争は広範に発展した。日本共産党員は、この条約と協定に調印するこ
とは人民の利益のおどろくべき裏切りであり、侵略的・帝国主義的計画を実行するために、アメ
リカ帝国主義と同盟をむすぶことを意味するものであると指求した。共産党員は、日本におしつ
けられた奴隷的な協定に反対し、ソ同盟と中華人民共和国の参加した全面講和条約の締結のため
に断固として闘争するよう日本人民によびかけた。日本の反動は、その反人民的政策にたいする
抵抗運動の成長を麻痺させようとして、アメリカ帝国主義者の指令によって、サンフランシスコ
会議の前夜九月四日に、日本共産党臨時中央指導部の一九名の逮捕命令を出した。
 一九五一年十月に、日本共産党は、第五回全国協議会によって採択された新綱領(「日本共産
党の当面の要求」)を発表した。綱領のなかでは、戦後日本の政治情勢のマルクス主義的分析に
もとづいて、日本における当面の革命の性格を民族解放民主主義革命と規定し、その革命が、日
本の民族的独立と民主主義的発展を保障するための第一段階として避けることのできないもので
あることを理論的に基礎づけた。綱領のなかでは、「占領制度から日本を解放する途上における
第一の決定的なあゆみ」として、日本の反動政府を打倒することが必要なことを定式化した。日
本の全人民がその実行に関心をよせている諸要求を提起して、綱領は、革命の重要な力としての
民族解放民主統一戦線の結成の可能なことを保障した。綱領は、日本における革命が平和の手段
によって達成できるという「理論」や、日本の革命が、あたかもアメリカ帝国主義にたいする人
民の全般的な闘争とは関係なしに特別な方法で達成できるかのように老える、党内にはいりこん
だ「理論」の正体をばくろした。綱領は、主要な綱領的・戦術的諸問題について日本共産党内に
生じた不明確さや意見の不一致をとりのぞいた。党内では、さまざまな日和見主義的グループは
一掃された。綱領は、党の政治的・組織的統一を強化する基礎となった。綱領は、人民の統一と、
民族解放、平和、民主主義のための人民の闘争の成功の強固な基礎をつくりだした。日本共産党
中央委員会書記長徳田球一は、ソ同盟共産党第十九回大会へおくったあいさつのなかでつぎのよ
うに指示した。「新綱領によって武装されたわが党は、自己の隊列の統一と団結を強化し、米・
日反動勢力にたいする闘争で、国民の進歩的勢力を着々と統一している。」国内で展開された、
吉田政府の反民族的政策にたいする全人民的抵抗運動、日本の再軍備にたいする闘争、労働者階
級の大規模な政治的ストライキ、平和のための闘争の発展は、日本共産党の新しい綱領が、全日
本人民の闘争の統一綱領になりつつあることを証明している。民族解放民主主義革命の思想は、
人民大衆のますます広範な支持を獲得しつつある。
 日本共産党は、組織関係では、民主主義的中央集権主義の原則に基礎をおいている。党の最高

機関は党大会であり、大会か中央委員会を選出する。覚の諸組織では、マルクス=レーニン主義
理論の研究とプロレタリア国際主義の思想の宣伝がおこなわれている。
 日本共産党の中央機関紙は『アカハタ』である。覚の理論的機関誌は『前衛』である。
9大月書店愛好協会:01/12/24 22:38
 特に、>>8にご注目のほどを!
10名無しさん@1周年:01/12/24 22:50
スレ乱立の予感
11名無しさん@1周年:01/12/24 23:03
>>1
おい、クリスマスイブだぞ。
引きこもってないでガールフレンドでもみつけろ。
それじゃ、人生つまらんだろう。
12共産党員:01/12/24 23:35
>>1そのエネルギー(正式にはエナジー)
彼女さがしに活かしてみないか?
13_:01/12/24 23:37
1917/1968同志、お久しぶり。
14大月書店愛好協会:01/12/25 00:46
>>11,12
 妻帯者です。

>>13
 ぶっぶー。
15名無しさん@1周年:01/12/25 00:54
これって、所感派の文章なわけ?
スターリン批判が56年だし・・・
16大月書店愛好協会:01/12/25 00:56
>>15
 ぴんぽん。分派の片割れです。XXがばくろされた、っていう物言い
に、萌え。決して原因を解明しない出来ない、今の党に続く体質がよく
わかりますね。まあ、どの共産主義団体も似たりよったりだけど。
17名無しさん@1周年:01/12/25 01:10
妻帯者って、、
うまくいってないの?イヴの新宿は大混雑だったけど、
も少し自分の人生考えたらどうよ?
18大月書店愛好協会:01/12/25 01:17
>>17
 単に寝付けないから、ここにいるのだよ。
19名無しさん@1周年:01/12/25 02:05
>>14
だから枕フレンドみつけろって善意で言ってるんだろ。
20労働者の核は美しい:01/12/25 20:10
´
                               ´.
                           __,,:::========:::,,__
                        ...‐''゙ .  ` ´ ´、 ゝ   ''‐...
                      ..‐´      ゙          `‐..ズゴオオォォォォ...............
                    /                    \
        .................;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;::´                       ヽ.:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;.................
   .......;;;;;;;;;;゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙       .'                             ヽ      ゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙;;;;;;;;;;......
  ;;;;;;゙゙゙゙゙            /                           ゙:                ゙゙゙゙゙;;;;;;
  ゙゙゙゙゙;;;;;;;;............        ;゙                              ゙;       .............;;;;;;;;゙゙゙゙゙
      ゙゙゙゙゙゙゙゙゙;;;;;;;;;;;;;;;;;.......;.............................              ................................;.......;;;;;;;;;;;;;;;;;゙゙゙゙゙゙゙゙゙     ____
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::::口旦 E=Д;‘`::::::::::::::::::::: /゙||lii|li||,;,.il|i;, ; . ., ,li   ' ;   .` .;    il,.;;.:||i .i| :;il|l||;(゙ ::::::::::::::::::::::"‘、Дロ::::
  ::::Д日T† ;j;::::::::::::::::::::::: `;;i|l|li||lll|||il;i:ii,..,.i||l´i,,.;,.. .il `,  ,i|;.,l;;:`ii||iil||il||il||l||i|lii゙ゝ :::::::::::::::::::::::・;日日T::: 日::::
  ::::Hvv´+":::::::::::::::::::::::::  ゙゙´`´゙-;il||||il|||li||i||iiii;ilii;lili;||i;;;,,|i;,:,i|liil||ill|||ilill|||ii||lli゙/`゙ :::::::::::::::::::::::::´.'田#v[][]†~~†::::
   ::::v[]>:・'::::::::::::::::::::::::::     ゙`゙⌒ゞ;iill|||lli|llii:;゙|lii|||||l||ilil||i|llii;|;_゙ι´゚゙´`゙ ::::::::::::::::::::::::::+`:F|ロxxx::::
   ::::田#YYv、*;:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::      ´゙゙´`゙``´゙`゙´``´゙`゙゙´´ ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::,,・、::日旦::::
     ::::ロ|=|E」vxxx:`l::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::;:`+E| ∩v |=|::::
21          :02/01/28 18:47
このスレッドに誰も書き込めなかったのは日共の謀略である。
22白龍7z3pd:02/01/28 20:03

私達と一緒に共産思想を乗り越えて、新しい日本、新しい地球をめざしませんか。

今、私たち日本民族が世界の指導的役割を果たし、歴史的任務を担う時期に来たよう
だ。ここに提言するものは、新しい国家社会の建設を目指して、広範多岐に亘る諸問
題を総合的且つ多角的に検討し解決策を提示するものです。具体的には、世界最大の
未利用資源である火山灰を活用した新素材技術や新思想を元にして、外交問題、防衛
に関しては、万里の長城をモデルにした全海岸線への防衛壁の建設、行政改革、立法
府改革、司法改革、憲法改正、民法改正など種々の法制度の整備、産業構造改革、景
気対策、内需拡大、国土開発、国土の有効活用による交通渋滞の解消、自転車、リヤ
カーの奨励、省資源・省エネ対策、火星での石油探索事業、地球までのパイプライン
の建設、放射性・産業廃棄物処理、コンクリート劣化対策、都市環境の整備、自然と
調和した環境造り、食糧の自給自足をめざす農家の公務員化、鯨の養殖事業の推進、
サルと人間の交配及びクーロン技術による猿人の増産、さらに創造立国、創造教育、
健全な家庭と生活、真の男女共同参画社会の在り方、夫婦別姓問題、少子化対策、霊
魂と神仏の正しい概念、真の宗教と信仰の在り方等を提示し、文明史の大転換を図り、
日本のみならず、全世界の窮状を救済していこうとするものである。
詳しくはHPをご覧下さい。

http://homepage1.nifty.com/charbeljapan/index.htm
23名無しさん@1周年:02/04/02 00:22
24名無しさん@1周年:02/04/02 17:27
大月書店のサイトってあるの?
25名無しさん@1周年:02/04/02 18:17
26名無しさん@1周年:02/04/04 00:28
27大月書店愛好会:02/04/04 12:43
 順番に、全文貼り付けることを約束しよう。さて、
>>26
 さんはなぜアゲたのですか。
28P16:02/04/06 18:35
   アイスランド統一社会党〔*〕

 一九三八年十月共産党(一九三〇年創立)と社会民主党左翼の合同によって創立された。一九
四四―四六年に政府に列した。アメリカの支配に反対し、平和と民族独立、民主主義的改革のた
めの闘争の先頭にたっている。議長は(一九三九年以来)E・オルゲイルソン、国会に九議席を
もっている。
29P17:02/04/06 18:35
   アメリカ合衆国共産党

 アメリカ合衆国共産党は、合衆国の労働者階級の前衛部隊であり、反動にたいする闘争、合衆
国の労働者階級と全勤労者の日常の利益と権利のための闘争、諸国民間の恒久平和のための闘争
の先頭に立っている。合衆国共産党は、一九一九年九月、ロシアにおける大十月社会主義革命の
影響のもとに生じた合衆国における革命的高揚の時期に創立された。尖鋭化しつつあった階級闘
争の条件のなかで、日和見主義的幹部に反対していたアメリカ社会党内に、左翼がつよくなり、
組織的に形成された。一九一九年九月に、チャールズ・ルーセンバーグに指導された左翼は、シ
カゴで大会を召集し、そこでアメリカ共産党《コミュニスト・パーティ》が創立された。同じ月
に、左翼のもう一つのグループは、アメリカ共産主義労働党《コミュニスト・レイバー・パーテ
ィ》を結成した。合衆国当局のがわからの激しい迫害のために、二つの共産党は、地下にもぐり、
別個に行動することを余儀なくされた。二つの党の指導部がおかしていたセクト的誤謬もまたそ
の統一をさまたげていた。ようやく一九二一年五月に、両党は単一の統一共産党に合流すること
ができ、ウィリアム・フォスターにひきいられた革命的気分をもった労働者のグループ――労働
組合教育同盟(一九二〇年ウィリアム・フォスターによって結成)の成員がそれに参加した。労
働組合およびその他の諸組織、ことに「世界産業労働者同盟」(I・W・W)(ヘイウッド、その
他)のプロレタリア分子もまた入党した。一九二一年十二月に、統一共産党は、その年に結成さ
れた合法的労働者党にくわわった。一九二九年から、アメリカ合

30P18:02/04/06 18:36
衆国共産党とよばれるようになった。合衆国共産党を結成し強化する事業で大きな役割を演じた
のは、ヴェ・イ・レーニンの諸労作(『アメリカ労働者への手紙』一九一八年、『共産主義にお
ける「左翼」小児病』一九二〇年、その他)およびイ・ヴェ・スターリンの諸労作(『第一回ア
メリカ労働代表団との会談』一九二七年九月九日、その他)であった。
 自党を結成するやいなや、党は、ソヴェト・ロシアにたいするアメリカ帝国主義の干渉を中止
せよという要求をかかげて断岡として行動した。一九一九年末と一九二〇年初頭には、共産党員
が積極的に参加して港湾労働者の大ストライキがおこなわれ、労働者は、アメリカ帝国主義者に
よる白衛軍の将軍連への軍需品の積荷を拒否した。
 党は、「アメリカ資本主義の例外性」の縄論を説いた右翼やトロツキストとの闘争のなかで成
長しつよくなった。一九二八年には、キャノンにひざいられたトロツキストのグループが除名さ
れ、一九二九年には、ラヴストーンにひきいられた右翼が除名された。アメリカ共産党からトロ
ツキストや右翼を粛清するうえに大きな意義をもっていたのは、コミンテルン執行委員会の決定
であった。
 党の陣列から分派主義者を追放したのち、合衆国共産党は、プロレタリアートの大衆的革命政
党に変化する方向にむかった。党の影響は増大した。一九二九―三三年の世界経済恐慌の時期に、
合衆国共産党は、勤労大衆――労働者、農民、黒人人民の日常の諸要求をまもるための積極的な
闘士として進出した。コミンテルン第七回大会(一九三五年)の決定に指導されて、共産党は、
ファシズムと戦争の脅威にたいする積極的な闘争を展開した。第九回党大会(一九三六年六月)
は、労働者階級、勤労農民、さらに小ブルジョアジー、黒人人民の勢力を単一の民主主義戦線に
31P19:02/04/06 18:37
組織するようよびかけた。
 合衆国共産党は、アメリカ合衆国、イギリス、フランスの帝国主義者によってとられた、ファ
シスト侵略者をソ同盟に反対させようとするファシストの侵略を鼓舞する政策に反対して断固と
してたたかった。合衆国共産党は、ファシスト列強の攻撃をうけた諸国民を積極的に擁護した。
スペイン共和国にたいするドイツ=イタリアの干渉の時期(一九三六―三九年)に、数千者のア
メリカ共産主義者は、国際旅団の陣列でたたかった。
 第二次世界戦争がはじまったのち、一九三九―四五年に、アメリカの反動は、国の共産党と進
歩的勢力の迫害を強化した。一九四〇年に議会は、反共的なスミス法を採択した。この法律とそ
の他の反動的な法律は、共産党の活動にとってきわめて困難な条件をつくりだした。
 一九四一年に、ヒトラー・ドイツがソ同盟を攻撃したのち、合衆国共産党は、共通の敵とたた
かうために、ソヴェト国民と連合するようアメリカ国民によびかけた。合衆国共産党は、ファシ
スト諸国家のブロックにたいする闘争における国際的協力を断固として支持した。合衆国共産党
は、合衆国政府が第二戦線をひらくという自分の義務を遂行するよう再三要求した。
 第二次世界戦争中に、共産党は、ブラウダー主義との闘争をおこなわなければなちなかった。
共産党の指導部にもぐりこんだアメリカ帝国主義者の手さきブラウダーは、自分の主人たちの指
令にもとづいて、共産党を解散させようとした。ブラウダーは、少数の支持者のグループの助け
をかりて、一九四四年の五月に、共産党を解散させることに成功した。解散した共産党にかわっ
て、非党派的共産主義政治協会《コミュニスト・ポリティカル・アソシエイション》が創立され
た。しかし・ウィリアム・フォスターおよびユージン・デニスにひきいられた平《ひら》党員の
要求によって、一九四五年七月に、特別大会がひらかれ、
32P20:02/04/06 18:38
そこで、アメリカ労働者階級の政党として合衆国共産党が復活した。新しい党規約が採択された。
大会は、全国委員会を選出した。全国委員長にはウィリアム・フォスターが選出された。一九四
六年に、全国委員会総会は、ユージン。デニスを書記長に選出した。ブラウダーは、党から除名
された。
 第二次世界戦争の終結後、資本主義の全般的危機がいっそう尖鋭化し深化した条件のもとで、
世界支配をめざすアメリカの帝国主義者は、ソ同盟と人民民主主義諸国にたいする新戦争の準備
を展開した。戦年準備は、軍国主義と国のファショ化の前代未聞の気ちかいじみた状態をともな
っている。
 戦後の時期に、合衆国共産党は、反動にたいする、アメリカ帝国主義者の反人民的な国内およ
び対外政策にたいする勤労者の闘争における指導的前衛力として行動している。共産党は、合衆
国の帝国主義グループが、一九四五年のクリミアおよびベルリン会談の決定をやぶっていること
を断固として非難した。共産党は、「トルーマン主義《ドクトリン》」および「マーシャル計画
」の侵略的本質をばくろした。共産党全国委員会六月総会(一九四七年)は、他国の事件にたい
する合衆国の干渉に反対してたたかうようアメリカ国民によびかけた。
 合衆国共産党は、国のファショ化と、勤労者の生活水準にたいする独占体の攻撃に反対し、人
種的差別に反対して断固たる闘争をおこなっている。一九四六年十二月に、共産党全国委員会定
期総会は、全勤労者の利益を反映した基本的要求を定式化した。これらの要求は、賞金の引上げ、
失業保険金と社会保障費の増額、反労働者的法律の廃止、人種的差別の撤廃等にふれている。
 一九四八年八月に、合衆国共産党第十四回大会がひらかれた。大会は、戦後の時期に、合衆国

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におけるファシズムの急速な成長、排外主義の強化、誹謗的な反ソ・反共宣伝を指示して、合衆
国で増大しつつあるファシズムの危険に反対し、アメリカ人民の民主主義的権利をまもる闘争の
計画をたてた。大会は、ソ同盟との友好と協力に基礎をおいた対外政策をおこなうようよびかけ
た。大会は、労働組合における党活動の強化に特別な注意をはらった。大会は、アメリカ労働総
同盟(A・F・L)およびアメリカ産策別労働組合会議(C・I・O)の幹部をアメリカ独占体の
代弁者ときめつけ、労働者階級の統一戦線を分裂させている反動的な労働組合幹部の正体をばく
ろするよう共産党員によびかけた。共産党全国委員長には、ふたたびウィリアム・フォスターが
選出され、書記長にはユージン・デニスが選出された。
 合衆国共産党は、大会の決定にしたがって、平和を擁護し、アメリカ人民の民主主義的権利を
擁護する闘争を強化した。一九四九年二月に、合衆国共産党は、合衆国大統領トルーマンにたい
して、平和条約締結にかんするソヴェト政府の提案をうけいれることを要求した。合衆国共産党
全国委員会は、一九四九年三月に、ウィリアム・フォスターおよびユージン・デニスの署名した
特別メッセージを発表し、そのなかでつぎのように述べた。平和にたいする脅威は、ウォール街
から出ており、もし、アメリカおよび全世界の平和擁護者の努力にもかかわらず、ウォール街が、
人類を戦争にひきいれることに成功するならば、共産党は、アメリカ人民と全人類のこのうえも
なく大きな利益に損失をもたらす、不正な、侵略的な、帝国主義的な、反社会主義的な戦争とし
てそれに反対するであろう。合衆国共産党は、侵略的帝国主義ブロック、まず第一に、北大西洋
ブロックの結成に反対する闘争を展開した。一九四九年四月にひらかれた共産党全国委員会総会
は、その決定のなかで、合衆国政府をして、ポツダム協定にもとづく国際問題調整にかんするソ

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同盟との交渉を開始し、侵略的な北大西洋条約を破棄し、平和条約締結にかんするソ同盟の提案
をうけいれさせる必要のあることを強調した。アメリカ共産党は、原子兵器禁止のために一貫し
た行動をとっている。ソ同盟の平和愛好的提案が合衆国共産党によって支持されていることは、
まず第一に、自国民の中和維持のための闘争を支持していることである。
 共産党は、原子兵器禁止にかんするストックホルム・アピールに応じて署名獲得に積極的に参
加した。一九五○年玉月に採択された共産党の特別宣言は、全共産党員にこのことをよびかけた。
朝鮮および中国にたいするアメリカの侵略がはじまったのち、共産党全国委員会は、一九五〇年
六月二十八日に甘言を発表し、政府にたいして、極東からアメリカ軍艦と空軍を即時撤退させ、
朝鮮、台湾、インドシナに一つの武器も、一合の飛行機もおくることをゆるさないよう要求した。
 一九五〇年十二月に、合衆国共産党第十五回大会がひらかれた。大会は、平和を擁護し、ファ
シズムに反対し、勤労者の重大な権利にたいするアメリカ独占者の攻繋に反対する闘争を組織す
る問題に主要な注意をはらったり大会はふたたび、アメリカ労働総同盟(A・F・L)や産業別
労働組合会議(C・I・O)の組合幹部の分裂的行動とたたかうことの必要性に重大な注意をは
らい、組合幹部の反動的行動や独占資本との緊密な関係を日常的にばくろするようよびかけた。
大会の決定のなかで、合衆国共産党が、真の人民戦線をつくることな自分の任務としていること
がしめされた。共産党は、つねに黒人問題に大きな意義をあたえてきたし、現在もあたえている。
第十五回大会で採択された決定のなかで、共産党は、黒人のなかでの活動を強化し、生活の全分
野における人種的差別に反対する闘争をひろく展開しなければならないことが強調された。大会
は、全党員および党指導者にたいして、マルクス=レーニン主義の基礎を習得する活動を強化す
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ることを要求した。大会は、従来の構成のままの全国委員会を選出し、そのほかに、はじめて九
名の全国委員代理が選出された。
 合衆国当局は、民主主義運動に圧迫をくわえることにつとめながら、共産党狩りを組織した。
当局は、それによって国内のすべての進歩的な運動の息の根をとめるために、共産党を壊滅させ
ようとしている。一九四八年七月に、進歩的行動と民主主義的見解のかどで、ウィリアム・フォ
スターとユージン・デニスを先頭とする一一名の全国委員が逮捕された。一九四九年一月に、九
ヵ月間つづいた一一名の共産党指導者にたいする裁判がはじまった。ウィリアム・フォスターの
訴訟は、彼の病気のために延期された。裁判の結果、一一名の共産党指導者にたいして長期懲役
の判決がくだされた。裁判で共産党の指導者たちは、合衆国の帝国主義者の反動的侵略政策をば
くろした。指導者たちはまた、共産党にたいする迫害が、ブルジョア民主主義的自由の最後の残
存物にたいする反動の総攻撃の開始であることを指示した。
 アメリカの反動は、共産党を法律の保護のそとにおくことにつとめ、共産党員の迫害を強化し
た。一九五〇年に、議会は、すべての進歩的組織、まず第一に共産党にむけられたファシスト的
マッカラン法を採択した。一九五一年六月に、合衆国最高裁判断は、一一名の全国委員にたいす
る判決を確認した。七月に、ユージン・デニスその他の党指導者は投獄された。これにつづいて
さらに一連の裁判がおこなわれ、その結果、多くの共産党の活動家が投獄された。
 合衆国共産党は、法外な迫害をうけているが、勇敢に闘争をつづけている。
 一九五三年七月に、合衆国共産党全国委員会は、一九五二年十一月におこなわれた大統領選挙
の結果生じた国内情勢の問題にかんする決定を採択した。全党員一致で採択されたこの決定は、
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党の今後の行動綱領となっている。この決定は、アメリカ労働者階級、農民、黒人および全勤労
者の力を労働者階級の指導下にある統一民主戦線に結集するという主要な任務を党に提起してい
る。決定は、労働者階級を先頭とする統一人民戦線のみが、反動に反対し、平和と民主的諸権利
をまもる闘争において成功を保障できることを強調している。
 合衆国共産党は、民主主義的中央集権主義の原則にしたがって創立されたり職域的・地域的原
則にしたがってつくられた下部党組織が主要な細胞である。下部党組織は、州の党組織に統合さ
れ、州の党組織の最高機関は、州党委員会が秘密投票で選出する州党協議会である。党の最高機
関は、年二回召集される全国党大会である。大会は、大会と大会とのあいだの最高指導機関であ
る全国委員会を選出する。全国委員会は、委員長と書記長によって指導されている。
37P25:02/04/06 18:43
   アルゼンティン共産党〔*〕

 大十月社会主義革命の影響をうけて一九一八年に社会党の左翼が国際社会党をつくった。それ
は一九二〇年に共産党と命名された。それ以来、党はときどき短期間しか合法活動をおこなう機
会がなかった。一九四五年以来党は合法的状態にあるが、たえず追及と制限をうけている。共産
党はアルゼンティンでは民主的改革と国の政治的・経済的独立のための闘争をおこなっているた
だ一つの政党である。党はアルゼンティンとソ同盟の関係を強化することにつとめ、ペロンの政
策、ことに彼の北アメリカ帝国主義にたいする譲歩と、ヨーロッパおよびアメリカの反動との同
盟政策を非難している。共産党は都市と農村の勤労者大衆のあいだで大きな影響力をもっている。
党の有名な組織者であり指導者であるのはH・A・アルヴァレス(中央委員会書記長)とV・コ
トヴィリアである。
38名無しさん@1周年:02/04/06 20:22
おいおい、このまま全ページコピペするつもりか?
39大月書店愛好会:02/04/06 21:15
>>38
 そのつもりですが、何か? それとも、P104〜 の「朝鮮共産党」
「朝鮮労働党」マンセーをご所望か?

 では、P106より、一部を。
「労働党の中央委員会議長には、すぐれた朝鮮の政治家金日成がえらばれた。」
   アルバニア労働党

 アルバニア労働党は、アルバニア労働者階級の前衛部隊であり、アルバニア人民共和国の政治
・経済・文化生活の指導勢力であり、社会主義の建設、諸国民間の平和と友好の強化をめざすア
ルバニア国民の闘争の組織者であり指導者である。一九四一年十一月八日に結成され〔アルバニ
ア共産党〕、一九四八年にアルバニア労働党と改称された。
 イギリス共産党〔*〕

 イギリス労働者階級の前衛部隊であり、国の民族的独立、平和、民主主義をめざすイギリス勤
労者の闘争の先頭に立っているマルクス=レーニン主義政党である。イギリス社会党左翼、社会
主義労働党、南ウェルズ社会主義諸組織、若干の地方の社会主義諸組織の合同によって一九二〇
年にうまれた。一九二一年には、W・ガラチャーを先頭とする工業委員の革命運動の代表者が党
に合流した。イギリス共産党創立に大きな役割を演じたのは、ヴェ・イ・レーニンとイ・ヴェ・
スターリンである。イギリス共産党の形成と強化にとってきわめて大きな意義をもっていたのは、
イギリス労働運動の左翼分子の誤りをばくろしたレーニンの労作『共産主義における「左翼」小
児病』と、コミンテルン第二回大会におけるレーニンの演説である。共産党は、「ロシアから手
をひけ」の運動で指導的役割を演じ、反ソ干渉軍に反対してたたかっていた「行動委員会」の活
動に積極的に参加した。
 創立の当初から共産党は、イギリス帝国主義の反動政策に反対し、植民地および従属国諸民族
の残忍な抑圧に反対する断固たる闘争をおこなった。共産党は、「階級協調」を擁護していた労
働党上層部の裏切り政策に反対する統一労働戦線の結成のために執拗な闘争をおこなった。共産
党の労働党への加入にかんする共産党員の再三の提案は、労働党の指導者によって拒絶されつづ
けた。一九二六年のゼネラル・ストライキのとき、共産党員は、勇気と堅忍不抜さの手本をしめ

し、労働党と労働組合幹部の裏切りに反対する精力的な闘争をおこなった。このことは、大衆の
なかで共産党の勢力をいちじるしく増大させた。
 一九二六年のゼネラル・ストライキののち、共産党は、党の陣列のボリシェヴィキ化をめざす
闘争、党を労働者大衆からひきはなそうとしていた右翼および「左翼」の裏切者にたいする闘争
を強化した。イギリス共産党に大きな援助をあたえたのは、イ・ヴェ・スターリンの指示である。
共産党第十一回大会(一九二九年十二月)は、ブルジョアジーの攻撃にたいする闘争のために労
働者階級の全勢力を統合することを要求した「階級には階級を」のスローガンを提起した。党書
記長にはハリー・ポリットが選出された。一九二九―三三年の世界経済恐慌の時期に、共産党は、
恐慌の重荷を労働者に転嫁しようとしていたブルジョアジーの攻撃にたいする労働者階級の抵抗
の組織者となつた。共産党員は、三○年代のはじめに、失業者の大「飢餓行進」を組織した。共
産党は、戦争とファシズムの脅威に反対するイギリス勤労者の闘争の先頭に立った。共産党員の
指導のもとに、モズレーのファシスト徒党に反対する労働者の多くの政治的デモンストレーショ
ンがおこなわれた。一九三四年九月に、共産党員は、ファシズムとの闘争のスローガンのもとに、
一五万の労働者をロンドン街頭に進出させた。
 共和制スペインに反対する独・伊の干渉(一九三六―三九年)の時期に、四○万以上のイギリ
ス共産党員が国際旅団の陣列でたたかった。第二次世界戦争に先立つ数年間に、共産党は、フラ
ンスおよびアメリカ合衆国政府とともにイギリス政府によって実行され、第二次世界戦争の勃発
を促進しつつあったファシスト侵略者との協定政策に反効して断固としてたたかった。広範な国
民大衆の要求を反映し、国の民族的利益を擁護しながら、共産党は、ソ同盟との友好をまもり、

ファシストの侵略にたいする集団的抵抗を組織するために進出した。共産党は、強化されつつあ
った弾圧と迫害にもかかわらず、反ファシスト統一人民戦線の樹立のためにたたかい、労働組合
のなかで精力的な活動を展開した。共産党員は、労働党の上層部とN・チェンバレン保守党政府
との秘密協定をばくろした。
 第二次世界戦争の時期に、共産党員は、反ファシズム闘争におけるイギリスの軍事的努力を強
化することを要求し、第二戦線の開始を挫折させたウィンストン・チャーチルおよび労働党指導
部の政策をばくろした。ファシズムに反対する共産党員の献身的な闘争は、第二次世界戦争後に
いちじるしく共産党の勢力を増大させた。一九四五年の国会選挙ではふたりの共産党員――W・
ガラチャー(一九三五年にはじめて選出された)とF・ピラティンが選出された。共産党員の増
大した勢力をおそれて、労働党指導者は、激しい中傷をくわえ、二度――一九四五年および四六
年の労働党代表者会議で――労働党への合同にかんする共産党の提案を拒否した。一九四七年末
に、共産党は、内外政策の主要問題にかんする文善を発表した。詳細に作成されたイギリス経済
発展三ヵ年計画(「イギリス繁栄計画」)のなかで、共産党員は独占体の圧迫を一掃し、国民経
済の重要部門を真に国有化し、工業の技術的再建をおこない、国民の福祉を高めることを提案し
た。共産党員の計画は、ソ同盟および人民民主主義諸国との強固な友好関係をうちたてることを
要求した。共産党は、イギリス帝国主義のドイツ干渉に反対して断固としてたたかった。共産党
は、イギリスの民族的独立と国家の独立権をめざす闘争の旗を掌握した。
 共産党員は、平和擁護闘争の支持者の運動に積極的に参加し、米・英の戦争放火者の侵略計画
を執拗にばくろした。共産党は広範な国民大衆の要求を表現して、侵略的な北大西洋条約に反対

し、ソ同盟にたいする米・英帝国主義の戦争準備に反対した。一九四九年三月におこなった演説
のなかで、ハリー・ポリットはつぎのように述べた。もし帝国主義者どもが対ソ戦を開始するな
らば、イギリス労働者は、一九二〇年の反ソ干渉のときと同じように行動し、この戦争の継続を
不可能にするであろう。共産党員は、労働党員の帝国主義的植民地政策に反対して積極的にたた
かっている。党は、特別宣言「マライの戦争を中止せよ!」のなかで、アトリー労働党政府がお
こなっているマレイにおける民族解放運動に反対する植民地戦争を非難した。
 一九四九年十一月の第二十一回共産党大会における執行委員会の報告のなかで、ハリー・ポリ
ットは、共産党が、内外政策のすべての主要な問題にかんして大体においてただしい政策をとっ
てきたことを強調し、同時に党活動における一連の欠陥を指摘した。ハリー・ポリットはとくに、
工場の党組織のなかにふかく根をおろしていないことに党の注意をむけた。ハリー・ポリットは、
党がより巧妙に、断固として労働党政府の反動的国内政策と侵略的対外政策に反対する闘争に大
衆を高め、新党員の獲得にもっと注意をはらい、新党員の日常の政治教育をおこなうべきことを
指示した。
 一九五〇年一月に発表された選挙前の宣言のなかで、共産党は平和と民主主義を擁護する闘争、
イギリスの民族的主権と独立をまもり、アメリカ帝国主義にたいするイギリスの隷属に反対し、
ソ同盟および人民民主主義諸国との友好をまもる闘争を主要な任務として提起した。宜言は国内
政策の分野では、賃金の引きあげ、住宅、学校、病院の建設、土地国有化の実施を要求した。イ
ギリス勤労者の賛同をもってむかえられたこの綱領は、保守党および労働党幹部のがわからの共
産党員にたいする気ちがいじみた中傷をよびおこした。共産党員は、一九五〇年六月に米・英帝

国主義者によって開始された朝鮮における武力干渉に反対する断固たる闘争を展開した。シェフ
ィールドにおける第二回世界平和評議会の一九五〇年十一月の常任委員会準備会で、共産党員は
労働党政府の反党的反動政策と評議会組織者をしてワルシャワにうつることを余儀なくさせた労
働党指導者の破壊的行動を断固としてばくろした。
 共産党執行委員会は、一九五一年一月十三日に、イギリス共産党の綱領「社会主義へのイギリ
スの道」〔本文庫版『イギリス共産党三十年』所収〕を採択した。共産党の綱領は、イギリス国
民の圧倒的多数の真の利益を表現している。イギリス共産党の綱領は大きな原則的意義をもった
文書である。綱領は、マルクス=エンゲルス=レーニン=スターリンの教えをよりどころにして、
労働者階級に資本主義的抑圧に反対する闘争をよびかけ、イギリスに社会主義への道を指ししめ
している。共産党はその綱領のなかで、イギリスの対外政策が、第三次世界戦争かイギリスに脅
威をあたえている破局を避け、イギリス国民の利益にこたえるために、全国民との乎和と友好の
基礎のうえにうちたてられなければならないことを指示した。綱領では、イギリスがアメリカ合
衆国に隷属して、その歴史においてはじめて独立をうしなったことが指示ホされている。綱領は
保守党および労働党指導者が喪失したイギリスの独立の回復を要求している。綱領ではつぎのこ
とが強調されている。イギリスは大西洋条約やブリュッセル条約のようなすべての軍事同盟や軍
事的義務から解放され、諸外国とくにマライと朝鮮でおこなわれている侵略的植民地戦争を中止
しなければならない。イギリスは、ドイツと日本の再軍国主義化のあらゆる試みに反対しなけれ
ばならない。イギリスは、ソ同盟、フランス、アメリカ合衆国と共同して、統一、民主、平和愛
好ドイツ樹立の全般的政策を作成しなければならない。綱領は、恒久平和確立のためにソ同盟、
国、インド、すべての平和愛好国とイギリスの協力を要求している。綱領では、共産党があたか
も「秘密の破壊的方法」の助けをかりて、イギリスおよび大英帝国を破壊しようとしているかの
ような帝国主義の虚偽の宣伝がばくろされた。イギリスおよび大英帝国を破壊しているのは、ま
さに武力による弾圧と植民地搾取をおこなっている保守党および労働党指導者である。綱領は、
政治的・経済的・軍事的隷属に基礎をおいた現帝国の諸国民間のすべての関係は絶ちきられ、完
全な民族的独立と同権に基礎をおいた関係にとってかわられなければならないことを宣言した。
綱領では、共産党の目的があたかもイギリスにソヴェト権力をうちたて、議会を廃止することに
あるかのような中傷的な主張がばくろされている。綱領では、イギリスにとっては、人民民主主
義が社会主義への道であることがしめされている。イギリスの勤労者は、搾取者をうちやぶって、
全勤労者の利益を代表する国会の多数を選出する能力を十分にもっている。民主主義の道具にか
えられるべき議会の基礎のうえに人民政府が樹立されなければならない。この人民政府が、真の
社会主義的国有化をおこない、計画経済を遂行し、帝国主義的帝国を、植民地に民族的独立をあ
たえることによって、強力な、自由な、平等の権利をもった諸国民の連合に変え、平和愛好的対
外政策を実行する強力な、自由な、独立したイギリスを樹立し、資本家階級の政治的権力を一掃
するであろう。人民政府および議会に反対してたたかおうとする資本家階級のすべての試みにた
いしては断固たる反撃がくわえられ、うちやぶられるであろう。このような人民権力を確立する
ためのもっとも重要な条件は、統一された労働者階級に基礎をおいた広範な人民同盟あるいは勤
労者のあらゆる階層の同盟の脚立である。綱領にしめされた目的を達成するためには、勤労者の
統一行動が必要である。この統一のためにイギリス共産党はたたかっているのである。イギリス
共産党には「イギリス労働者階級およびイギリス人民の利益以外のほかの利益は、過去にもなか
ったし、現在もないし、将来にもないであろう。」(ハリー・ポリット)
 イギリス労働者階級の前衛である共産党は、勤労者の利益の唯一の実際の擁護者であり、ソ同
盟、中華人民共和国、人民民主主義諸国との友好をまもり、平和と民主主義をまもり、新戦争の
放火者に反対するイギリス人民の闘争の組織者である。
 共産党は、地域的・職域的原則にもとづいて創立された。下部組織は、市委員会および区委員
会に統合されている。党大会で選川される執行委員会が党の先頭に立っている。一九四九年十一
月には、党員数は四万をかぞえた。
48「イスラエル共産党」P34:02/04/07 20:29
   イスラエル共産党〔*〕

 一九四八年にパレスチナのユダヤ人共産党とアラビア人共産党との合同の結果創立された。イ
スラエル共産党は民主主義的改革と国の政治的・経済的独立のための進歩勢力の闘争の先頭に立
ち、中和のための闘争に積極的に参加している。この党はソ同盟および人民民主主義国との関係
を強化するために行動し、アメリカ合衆国によるイスラエルの政治的・経済的隷属を促進する政
府の裏切政策をばくろしている。書記長はS・ミクーニス。
   イタリア共産党

 イタリア共産党は、労働者階級の前衛部隊であり、民族の独立、平和、民主主義、社会主義を
めざすイタリア人民の闘争の指導勢力である。イタリア共産党は、一九二一年一月二十一日に創
立された。リヴォルノにおける社会党の第十七回大会で、さまざまな流派のあいだの尖鋭な闘争
ののちに、分裂が生じた。党構成員(五万八七八三名)の三分の一を占めた大会の左翼は、大会
から退場して、その日に自派の大会で、共産党の創立を宣言した。党の創立者はA・グラムシと
P・トリアッティで、彼らは、一九二〇年につくられた社会党の共産主義分派の中核をなした共
産主義グループ「新秩序《オルディネ・ヌオヴォ》」派を指導した。
 ヴェ・イ・レーニンは、イタリアの労働運動に非常に貴重な援助をあたえた。『イタリアにお
ける帝国主義と社会主義』、『同志セラティとラツァーリへ』、『イタリア、フランス、ドイツ
の共産主義者へのあいさつ』、その他の著作のなかで、ヴェ・イ・レーニンは、イタリアの労働
運動の諸任務に大きな注意をはらった。戦後の恐慌と、とくに大十月社会主義革命によってひき
おこされたイタリアにおける革命的高揚の時期に、ヴェ・イ・レーニンは、真の共産党を創立す
ることの必要性を指示し、イタリア社会党内部に生じた状態の深い批判的分析によってこの指示
を基礎づけた。ヴェ・イ・レーニンはつぎのように書いた。「現在、イタリア革命を勝利させる
うえにもっとも必要な条件、しかも無条件に必要な条件は、十分に共産主義的な党、決定的な瞬
間に動
揺することのない党が、イタリアにおける革命的プロレタリアートの真の前衛隊となることであ
る。」〔『イタリア社会党内の闘争について。自由についての偽りのことば』、全集第三一巻三
五九ページ〕
 イタリア共産党は、一九一九―二○年の革命的高揚におどろいたブルジョアジーがファシズム
確立の道にたちあがった兇暴な階級戦の情勢のなかで創立された。党のまえには、国の進歩的勢
力を結集し、ファシズムへの道をさえぎるという直接的な戦闘任務があった。しかし、この任務
の遂行をさまたげたのは、労働者階級を分裂にみちびいた社会党中間派の降伏主義的政策であり、
さらにまた、イタリア共産党指導部の主要な地位が、のちにトロツキー主義に転落したボルディ
ガとその支持者たちの左翼日和見主義者の手中にあったことである。彼らは、民主主義諸勢力の
反ファショ統一戦線の樹立における党の指導的役割を否定し、それを大衆から孤立した宗派《セ
クト》に変える道に追いやった。イタリア共産党第二回大会(一九三二年)で、彼らはボルディ
ガのテーゼをとおすことに成功した。イタリア共産党内部における統一的な政治方針の欠如と党
組織の弱体性は、一九二二年に権力をとったファシズムの攻撃にたいする闘争の効力を低下させ、
イタリア共産党の陣列に大きな損害をもたらした。
 ヴェ・イ・レーニンはその労作『共産主義における「左翼」小児病』およびコミンテルン第一
回大会と第三回大会における演説のなかで、ボルディガの小ブルジョア的宗派《セクト》主義を
徹底的にばくろした。トロツキー主義のイタリア的変種としてのボルディガ主義にたいするレー
ニンの批判をよりどころとして、A・グラムシ、トリアッティ、その他は、ボルディガとその支
持者との断固たる闘争をおこなった。週刊紙『スタト・オペライヨ』〔『労働者国家』〕(一九
二二年創刊)、
のちには週刊紙『ウニタ』〔『統一』〕(一九二四年創刊)紙上で、彼らは、党員のイデオロギ
ー的素養の向上を促進した広範な解説活動を展開した。一九二三年に、A・グラムシとP・トリ
アッティがイタリア共産党の指導者になった。一九二四年六月に、「第三インタナショナル派」
――最高綱領派(中間派)内のコミンテルン支持者――のグループが共産党に合流した。イタリ
ア共産党の勢力と影響力は増大した。イタリア共産党は、労働者階級との結びつきを拡大する活
動を展開した。一九二四年の国会選挙で、イタリア共産党は、二六万八一九一票をあつめ、一九
の議席を獲得した。
 イタリア共産党第三回大会(一九二六年、リヨン)は、イタリア共産党史における重要な段階
を完成した。大会では、ボルディガの反マルクス主義的なイデオロギー的・戦術的指導方針は徹
底的に粉砕され、イタリア共産党内では、労働者階級の党にかんするレーニン主義的教義が勝利
をえた。第三回大会以後、イタリア共産党は、ソ同盟共産党(ボ)の経験を利用して、新しい型
の党に変える道にはいった。
 一九二六年に実施されたテロ的「例外法」が効力を発生している情勢のなかで、イタリア共産
党は、降伏したことのない、組織的に地下にもぐって、国内のファシズムとの英雄的闘争をつづ
けたただ一つの党であった。共産党員は、大衆との結びつきを保持した。しかし、ファシズムと
の闘争の時代に、党は大きな損害をこうむった。一九二六年十二月に、ほとんどすべての国会議
員団と、A・グラムシ、M・スコッチマルロ、U・テルラチーニを先頭とする党指導部が逮捕さ
れた。ムソリーニのファシスト独裁の時期(一九二二―四三年)に、全政治犯人の九〇%、流刑
者の八〇%は共産党員が占めていた。
 一九二九―三〇年に、イタリア共産党は、その後反動の陣営に転落した右翼日和見主義者や降
伏主義者(タスカ、シローネ、その他の反党的グループ)を党の陣列から一掃した。イ・ヴェ・
スターリンは、右翼的偏向に反対する自分の演説、とくに一九二八年十二月十九日のコミンテル
ン執行委員会幹部会でおこなったタスカの二心と卑怯な日和見主義の暴露によって、イタリア共
産党に大きな援助をあたえた。イタリア共産党第四回大会(一九三一年四月、ケルン)は、右翼
日和見主義的偏向を粉砕した。大会は、合法的闘争形態と非合法的闘争形熊を結合したレーニン
の原則から出発して、ファシストによって統制、指導されている労働組合その他の大衆組織内の
活動にかんする決定を採択した。この戦術は、勤労者大衆との結びつきを強化させた。
 一九二九―三三年の世界経済恐慌とドイツにおけるヒトラー独裁(一九三三年)の確立は、イ
タリアのファシズムが、公然たる戦争準備に移行するのを促進した。ファシズムと戦争にたいす
る闘争の広範な、積極的な戦線を結成するために、イタリア共産党は一九三三年に、外国の反フ
ァシスト組織と協定をむすんだ。イタリア共産党は、一九三四年八月十七日に、イタリア社会党
と行動統一の協定をむすんだ。一九三五年にファシスト・イタリアが、エチオピア(アビシニア
)を攻撃したのち、イタリア共産党は、反ファシスト・イタリア人大会(ブリュッセル)のイニ
シアティヴをとった。大会で、イタリア・ファシズムは、イタリア人民とエチオピア人民の敵と
して烙印をおされた。スペインにおけるファシストの暴動とイタリア=ドイツの干渉(一九三六
―三九年)の時期に、数千のイタリア共産党員は、銃をとって、共和国を擁護するためにスペイ
ン人民に援助をあたえた。スペインの国際旅団の組織者と指導者のなかには、P・トリアッティ、
L・ロンゴ、D・D・ヴィットリオ、その他がいた。一九三七年七月、反ファシズム闘争の
統一戦線結成にかんするコミンテルン第七回大会の決定を実行しながら、イタリア共産党は、社
会党と行動の統一について新しい協定をむすんだ。
 第二次世界戦争の時期一九三九―四五年に、イタリアがフランスを攻撃したのち、イタリア共
産党は、一九四〇年六月のイタリア人民にたいする呼びかけのなかで、はげしく侵略を非難して、
侵略戦争とファシズムに反対してたたかうようよびかけた。ドイツ、イタリアおよびその追随者
のファシスト軍隊のソ同盟にたいする一九四一年六月二十二日の背信的攻撃にたいする回答とし
て、イタリア共産党は、フフシスト独裁の打倒を準備するために、大衆のなかでの活動をさらに
広範に展開した。
 一九四一年九月に、「イタリア人民統一行動委員会」が創立された。一九四二年十―十一月に、
トリノ、ミラノ、ローマ、その他の諸都市に、最初の民族戦線委員会が創立された。委員会の構
成員には、共産党員や社会党員のほかに、多くの党(キリスト教民主党、「行動党」、その他)
の民主的分子が参加した。それと同時に、イタリア共産党は、解説活動から大衆的ストライキの
組織と街頭デモンストレーションに移行した。一九四三年の三月と四月に、イタリア共産党は、
トリノ、ミラノ、ジェノア、その他の工業都市の主要な勤労者大衆を、ストライキ運動にひきい
れた。
 ドイツおよびイタリアのファシスト侵略者にたいするソヴェト軍の決定的打撃と、それにとも
なって強化された大衆運動の高揚は、イタリア・ファシズムの崩壊(一九四三年七月二十五日)
をよびおこした。地下から出たイタリア共産党は、自己の陣列を強化した。一九四三年九月に、
北部および中部イタリアがヒトラー軍隊に占領されたのち、イタリア共産党のすべての活動は、
ヒトラー占領者とイタリア人の手さきにたいする人民の武装闘争を組織することにむけられた。
イタリア共産党は、一九四三年に民族戦線委員会の基礎のうえに組織された民族解放委員会結成
の主導者であった。ファシスト侵略者にたいするソヴェト国民の英雄的闘争の経験をひろく一般
化して、イタリア共産党は、北部および中部イタリアに展開された大衆的パルチザン運動とスト
ライキ運動の先頭に立った。もっとも戦闘力があり、もっとも人数の多かったパルチザン部隊は、
共産党員の指揮下にあったガリバルディ班(一〇〇班以上)であった。戦後に登録された三五万
四二五名の旧パルチザンのうち、二一万名以上が共産党員であった。イタリア共産党は、敗北主
義と、抵抗運動の諸組織内のキリスト教民主党員や右翼社会主義者の代表によって支持された待
期戦術にたいして断固としてたたかい、一九四三年七月にイタリアに進駐した米・英軍指令部の
パルチザン闘争を失敗させようとする試みに反対してたたかった。民族解放戦争は、イタリア共
産党に大きな犠牲をはらわせた。戦死した六万九五二〇名のパルチザンのうち、四万一三二名は
共産党員であった。
 一九四四年三月に、P・トリアッティは亡命からイタリアにかえってきた。イタリア共産党は、
民主的基礎のうえに、共産党代表の参加した連合政府をつくり、人民大衆をさらにいっそうひき
つけて広範に解放戦争にひきつけるための闘争をおこなった。三月一―八日に、イタリア共産党
の指導のもとに、ヒトラー軍に占領されたほとんどすべての都市をまぎこんだゼネラル・ストラ
イキがおこなわれた。
 一九四五年四月、ソヴェト軍のベルリンにたいする決定的な攻撃にともなって、イタリア共産
党は、全人民的蜂起の準備を開始した。一九四五年四月十日、党指導部は、全党組織に蜂起指令
第十六号を発した。この指令には、イタリアでも、ファシズム打倒のときがきたことがしめされ
た。この歴史的指令を遂行しながら、北部イタリアの共産党員は、四月武装蜂起の先頭に立って、
それを勝利にみちびいた。四月二十五日から二十八日までに、全人民の解放のための蜂起の結果、
ボローニァ、ジェノア、トリノ、ヴェネツィア、その他をふくむ二〇〇以上のイタリアの諸都市
が、ドイツ占領者とその援助者から解放された。その英雄的な闘争によって、勤労者とパルチザ
ンは、航空機および繊維企業の八〇%、発電所の九〇%、冶金および化学工場の七〇%をヒトラ
ー軍の破壊からすくうことができた。解放戦争にたいする共産党員の顕著な貢献は、政府当局に
よってみとめられた。三二〇名の共産党員が金メダルを授与され、五六〇名に銀メダル、一万一
〇二八名に青銅メダルが授与された。一九四三―四五年の民族解放戦争の過程で、共産党の権威
と影響力は増大した。イタリア共産党は、イタリアにおける大衆的な、もっとも大きな政党に変
った。一九四五年には、党の陣列に一七七万八九六名の党員かいた。このような強力な党が政治
舞台にあらわれたことは、戦後のイタリアの生活におけるもっとも重要な政治的要因であった。
 戦後イタリア共産党は、イタリアの民主的改革のための闘争を展開した。イタリア共産党第五
回大会(一九四五年十二月二十九日―一九四六年一月六日)は、民主主義共和国を樹立し工業お
よび農業における根本的な改革をおこなうという緊急な任務を国に提起した。第五回大会で採択
されたイタリア共産党の規約は、党の組織的強化の途上における前進のあらたな第一歩であった。
一九四六年六月二日の国民投票で共和制に賛成投票するよう国民大衆によびかけたイタリア共産
党の断固たる、精力的な活動は、君主制の敗北を保障した。六月十八日に、イタリアは共和制を
布告した。
 一九四四年四月から一九四七年五月まで共産党員は政府内にあって社会党員と協力して、英・
米占領当局の援助を得て大臣の椅子の多くを占めていたキリスト教民主党の反動的行為を制約し
た。共産党員は、民主的労働組合の援助を得て、労働者と勤務員の多くの要求を満足させること
ができた。すなわち、貸金のスライド制の実施、主要部門の最低賃金の制定、新しい条件での分
益農民の契約の締結、転貸の禁止、地主の未耕地を土地のない農民にわけあたえる指令の採択な
どがそれである。いくつかの省(農業、大蔵、その他)が先頭に立った共産党員の実践活潮と勤
労者の利益を表現した共産党員の提案は、大衆のなかでの共産党の権威の増大を促進した。
 イタリアの内政にたいするアメリカ帝国主義とヴァティカンの干渉、彼らによってしめされた
イタリアの反動にたいする支持は、民主主義のいっそうの強化と発展にブレーキをかけた。それ
と同時に、若干の党組織は、議会主義の幻想にとりつかれた。それらの党組織は、反動的なキリ
スト教民主党の指導者であり首相であるD・ガスペリが、一九四七年五月に、アメリカ帝国主義
者の要求に応じて、政府の危機を煽動し、共産党員と社会党員を政府から追放したときに、反動
の攻撃に反対する断固たる闘争に勤労者を動員しなかった。見のがされた誤りは、共産党員のイ
デオロギー的準備が、国内における党の勢力の増大と、変化した情勢のもとで党にあたえられた
諸任務からたちおくれていたことの結果である。これらの誤りは訂正された。イタリア共産党は、
党の要員《カードル》と、キリスト教民主党の反民族的・反人民的政策にたいする闘争の組織と
をイデオロギー的・政治的に強化する全面的な大衆活動を展開した。
 イタリア共産党は一九四七年九月に、共産党労働者党情報局の設置に参加した。イタリア共産
党第六回大会(一九四八年一月四―十日)は、政府構成員から共産党員が追放されたのち、共産

党が反政府党の立場へ移行したことにともなって、新しい任務を決定した。大会は、民族的統一
を確保し、イタリアの平和と自由と独立を擁護することのできる人民民主主義戦線の樹立の必要
なことを指示した。大会は、社会党との協力を強化するイタリア共産党の決意を確認した。
 一九四八年四月十八日の議会選挙で、人民民主主義戦線は八〇〇万以上の票を獲得した。イタ
リア共産党は、下院では一三一、上院では六七の議席を得、前回の選挙に比較して数的に増加し
た国会議員団を強化した。
 四月十八日の選挙ののち、アメリカ合衆国の反動グループとヴァティカンに支持されている政
権についたキリスト教民主党は、国内にファシスト型の教会制度を確立することをのぞんで、共
産党員にたいする圧迫と挑発の運動をゆるそうとした。弾圧と警察のテロルが強化された結果、
数十人の民主的組織の活動家がころされ、数百名が負傷し、P・トリアッティの暗殺が組織され
た(一九四八年七月十四日)。
 イ・ヴェ・スターリンは、イタリア共産党中央委員会にたいするソ同盟共産党中央委員会の電
報のなかでつぎのように書いた。「ソ同盟共産党(ボ)中央委員会は、イタリアの労働者階級と
全勤労者の指導者――われわれの愛する同志トリアッティ――の生命をねらう人非人の非道な企
てにたいして憤慨している。ソ同盟共産党(ボ)中央委員会は、同志トリアッティの友が、卑劣
な攻撃からひそかに彼をまもることのできなかったことを悲しむ。」『プラウダ』一九四八年七
月十五日、第二九七号一ページ〕
 イタリアの勤労者は、反動の攻撃にたいして断固たる抵抗をしめした。P・トリアッティにた
いする非道な暗殺の企てにたいする抗議のしるしとして計画された一九四八年七月十四―十六日

のゼネラル・ストライキは、七〇〇万の人々をとらえ三日間にわたって全国を麻痺状態におとし
いれた。
 反動の攻撃とアメリカ資本による国の奴隷化政策にたいして、イタリア共産党は、イタリア憲
法擁護のための積極的な活動を対置し、平和と民族の独立と民主主義的目的のための人民大衆の
闘争の先頭に立った。共産党員は、一九四八年には、イタリアが「マーシャル計画」の奴隷的体
制に加入することに反対し、一九四九年には、「マーシャル計画」を侵略的な北大西洋条約に結
合させることに反対した。イタリア人民の意志を表明して、P・トリアッティはつぎのように述
べた。「イタリア人民は、侵略的なアメリカ帝国主義のソ同盟と人民民主事義国にたいする戦争、
進歩に反対する戦争でともにたたかうことを拒否するであろう!」(『イタリア共産党』モスク
ワ、本文原版『イタリア共産党史』一七九ページ〕イタリア共産党は、ソ同盟、中華人民共和国、
人民民主主義諸国とイタリアの友好関係の樹立のために一貫した行動をとっている。イタリア共
産党は、ソ同盟の平和愛好的志向を支持しながら、まず第一に、平利のためにたたかっているイ
タリアの全勤労者と農民を支持している。
 イタリア共産党は、アメリカ合衆国帝国主義者の侵略政策へのイタリアの隷属に反対し、国の
軍国主義化と国の領土をアメリカの軍事基地に提供することに反対し、アメリカ独占体による民
族産業の破産に反対するイタリア人民大衆の闘争を組織している。
 イタリア共産党は、イタリア労働者階級の統一を分裂させようとする右翼社会主義者その他の
アメリカ合衆国帝国主義者の手さきの企てに反対してたたかっている。
 イタリア共産党第七回大会(一九五一年四月三―八日)は、国内に平和政府を樹立するための
闘争のスローガンを提起した。イタリアでは、イタリア共産党が活動的に参加して、二万以上の
平和擁護委員会が結成された。共産党員は、原子兵器禁止にかんするストックホルム・アピール
と五大国平和協定締結にかんする世界平和評議会の呼びかけにたいする署名獲得に積極的に参加
した。
 イタリア共産党は、勤労者の重大な利益を擁護する闘争との直接的なつながりをもって平和擁
護闘争をおこなっている。支配グループによって遂行されている国の軍国主義化と国民経済の崩
壊政策をむこうにまわして、イタリア共産党は、工業の平和部門の発展を計画したイタリア総同
盟の「労働計画」を国に提案した。農村では、イタリア共産党は、土地改革をおこなうための農
業労働者、分益農民、土地のすくない農民の闘争を指導し、不在地主の土地没収のための農民大
衆の運動の先頭に立っている。イタリア共産党は、国会の内外で、デ・ガスペリ政府(一九四五
―五三年)の反党的諸法案――労働組合の自由の制限にかんする法案、ストライキ禁止法案、労
働者の企業占拠、農民の土地占拠にたいする弾圧を強化する法案、その他――に反対して一貫し
た闘争をおこなった。一九五三年のはじめに、全国をとらえた大衆的ストライキによって、勤労
者は、国会における共産党と社会党の代表の数を削減することを予定した政府の選挙法「改正」
に反対するイタリア共産党の闘争を支持した。一九五三年六月の国会選挙では、一九五三年の反
動的な選挙「改正」は失敗した。進歩的勢力は、正確な資料によれば、九五〇万票(一九四八年
の三〇・七%にたいして三六・五%)をあつめて大勝を博した。イタリア共産党は、一九四八年
よりも多くの議席(下院一四三名、上院五七名)を得た。
 一九五三年九月に、イタリア共産党員は二一二万二〇八人をかぞえた。そのほかに、四三万七
二四〇人が共産主義青年同盟にくわわった。
 大衆的・民主的諸組織は、国内におけるイタリア共産党の勢力の拡大を促進した。それらの組
織のなかに共産党は、信頼できる支持と無尽蔵の予備軍とをもっている。イタリア共産党は、イ
タリア労働総同盟(組合員五〇〇万)、協同組合全国連盟(組合員三〇〇万)、パルチザン全国
同盟(会員二八万)、その他いくたの大衆的・民主的諸組織のなかで圧倒的な勢力をもっている
(一九五二年の資料による)。
 イタリア共産党は、民主主義的中失集権主義のうえに建設されている。第五四大会で採択され
た党規約によれば、党組織の第一の環は細胞である。そのつぎの環は、いくつかの細胞の活動を
指導する地区である。地区連合が一つの地区のイタリア共産党員を統合している。地区連合の指
導のために州委員会が組織されている。党の先頭に立っているのは中央委員会である。二年に一
度召集される大会が中央委員会を選出する。大会はまた中央統制委員会を選出する。中央委員総
会は、一八名の政治局員と四名の候補から成る指導部(政治局)および一名の書記長、二名の書
記長代理、二名の書記から成る党書記局を選出する。一九五一年に、イタリア共産党書記長には
パルミロ・トリアッティ、書記長代理にはルイジ・ロンゴが再選された。
 イタリア共産党の行動は、マルクス=レーニン主義理論、国際共産党と労働運動の経験、ソ同
盟共産党の経験によって指導されている。イタリア共産党は、プロレタリア国際主義の精神で労
働者階級を指導している。
 イタリア共産党の中央機関紙は、四つの版(ローマ、ミラノ、ジェノア、トリノ)を発行して
いる日刊紙『ウニタ』である。各版は、一般的な問題や事件のほかに、その地方に展開されてい
る生活についても報道している。理論機関誌は、P・トリアッティの編集で発行されている月刊
誌『リナーシタ』である。イタリア共産党はまた、住民のさまざまな層を対象とした大衆学習雑
誌や週刊紙を発行している。そのほかに、四八の地区連合は、それぞれの週刊紙を発行している。
毎年「共産党月間」のために盛大な人民祭がおこなわれている。
 イタリア共産党の『エディツィオニ・リナーシタ』および『エディツィオニ・デ・クルトゥラ
・ソツィアーレ』発行所は、マルクス=レーニン主義の古典作品、国際・国内政策の現実問題に
かんする書物、進歩的文学作品を発行している。
62ダヌル・ウェブスター:02/04/07 22:32
過去に執着していては未来は開けないよ(笑)
63大月書店愛好会:02/04/07 22:40
>>62
 過去を十分総括できなかったから未来が拓けないのではないでしょうか。
64ダヌル・ウェブスター:02/04/07 22:44
>>63
そんなコトはないカンボジアをみたまえ。
つーかアメリカとかロシアは総括が足りないな。
65大月書店愛好会:02/04/07 22:48
>>64
 いや、私は日本共産党のことを言っているんですよ。事情を色々知って
いたら、六全協から引き続くおためごかしの犠牲者にかける言葉もないで
すよ。

 私は中国派に知人が多数いますし、彼らは「ソ連派」と言われる中野重
治に非常に同情的ですよ。また、佐多稲子の追悼文章を中国派は書きました
が、ヨヨギはどうでしたか?

 例えば人の一生にしても、冷静かつ客観的に分析できれば、中野や佐多
へ追悼記事の一つも書く、ってもんじゃないですか。また、古在や石堂に
ついても。そういうところが、嫌われるんですよ、共産党。

(ここまで書けば、誰かわかるなぁ。つーか、1の段階でばれているかな。)
66ダヌル・ウェブスター:02/04/07 22:58
>>65
だったら日本の共産党もカルテンブルンナーであるとかクルト・ダリュ
ーゲのような法務実務経験者を登用するようでなければ体制を敷くコト
が出来ても発展しないのではないだろうか?経済面でいえばポールとか
コンラート・ヘンライン、ザイス・インクヴァルトあたりに相当する人
物が欲しいねえ。

とか逝ってみる。
67名無しさん@1周年:02/04/07 23:10
いい漫才だね。落語かな?何人よ。
68ダヌル・ウェブスター:02/04/07 23:18
>>67
にんじん
69名無しさん@1周年:02/04/07 23:18
じゃ、さようなら。
>>69
この間は玉葱って言ってたじゃないか!
71名無しさん@1周年:02/04/07 23:27
なに? こいつら著名人なの?
一人マンザイユニット。
72名無しさん@1周年:02/04/07 23:29
>>71
ダヌルは丘板で嫌われ者の唯物論者(だからだ!)なのよ。
73名無しさん@1周年:02/04/07 23:31
丘板了解であります!!
>>72
ラーメン板・ジュース板・軍事板・オークション板・電波板・最悪板・ラウンジにもダヌルタンはいるよ。
75名無しさん@1周年:02/04/07 23:43
じゃ、お忙しそうだから、ここにはご遠慮いただいて・・・。
おーい、お客さんがお帰りだ。
塩持ってきておくれ。
じゃあ最後に苦いお茶が一杯恐い・・・・お粗末さまでした・・・
77名無しさん@1周年:02/04/08 00:19
インフォメーションから入るとラーメン板って共産党のすぐ下だな
78大月書店愛好会:02/04/08 09:55
>>66
 よーわからんけど、分厚さがない、ということですかね。何故ないんでしょうね。

 とか言ってみる。
79ダヌル・ウェブスター:02/04/08 19:31
>>78
知的中産階級に対して迎遇される人材が残念ながら我が国には乏しく観念的見地においては三歩歩まずと逝ったところだね。

とか逝ってみる。
80大月書店愛好会:02/04/08 19:34
>>79
 結局、資本主義という表向きとは裏腹に、市民社会(ブルジョア社会)が
成熟していない、ということですね、同意。

とか逝ってみる。
81ダヌル・ウェブスター:02/04/08 20:17
>>80
同意されてしまうと先に進まなくなってしまうのだが史的唯物論がきっと解決してくれる。(多分)

とか逝ってみる。
82大月書店愛好会:02/04/08 21:38
>>81
 矛盾は見掛け静態の中からも生じる。

とか逝ってみる。
もったいないのでぜひ2ちゃんではなくどこぞのサイトにて公開をキボンヌ
84大月書店愛好会:02/04/08 21:55
>>83
 でも著作権は切れていない(内海周平タンはいつ亡くなった?)ので、
大月書店様に目を付けられるという、諸刃の剣。素人なので、お薦めし
ないで欲しい。

 でまあ、こういう感じで、「経済学的ロマン主義」とかの絶版物に関
するスレをドンドン作ってみようかな。

 あ、明日から東京出張で、しばらく留守にすると思います。
じゃあ僕はコレクションの四王天延高の「ユダヤ運動とその思想」から。

>>84
 若干時間が出来たので、進めましょう。

   イラク共産党〔*〕

 一九三二年創立。その後まもなく個々の党に分裂し、一九四○年にあらためて統一された。ユ
ーシフ・スレイマン・ファヒドが党創立者であり指導者のひとりであった。
 創立以来ずっと共産党は、地下ふかく追いこまれて非合法で活動している。共産党は民族独立
と平和のための、アメリカ=イギリスの戦争放火者とイラクの反動派に反対するための人民大衆
の闘争を指導している。
   インド共産党

 インド共産党は、インド労働者階級の前衛部隊であり、封建的・農奴的抑圧の一掃、国の真の
孤立、全世界の諸国民間の平和と友好のためのインド人民の闘争の指導勢力である。最初の共産
主義グループがインドにあらわれたのは、大十月社会主義革命の影響のもとに展開された民族独
立運動が高揚した二〇世紀の二〇年代初頭である。共産主義グループは、一九二八―三三年の民
族解放闘争高揚の時期に、インドのいくたの州における労働者と農民の行動を直接指導した。一
九三三年に、すべての共産主義グループの代表者会議がひらかれ、インド共産党の創立を宣言し
た。この会議で共産党臨時中央委員会が選出された。
 イギリス植民地当局は、共産党に弾圧をくわえ、一九三四年に、共産党は非合法を宣告された。
共産党は、非合法の条件下で活動しながら、労働者階級の組織と党の隣列の統一のための闘争を
つづけた。共産党の指導のもとに、一九三六年に、分散した農民組合(キサン・サブハ)が統合
された。共産党員のイニシアティヴによって、一九三八年に、もっとも大きな労働組合の中心部
が単一の全インド労働組合会議に統一された。コミンテルン第七回大会(一九三五年)の指令に
応じて、共産党は、すべての反帝国主義勢力を統一民族戦線に結集する活動を開始した。
 一九三九―四五年の第二次世界戦争の時期に、インド共産党は、(一九四二年から)合法的に
活動する可能性をえた。一九四三年五月に、第一回党大会が召集され、規約を確認し、中央委員
会を選出し、党の当面の任務を決定した。大会のときまでにインド共産党員は約一万六〇〇〇名
をかぞえた。しかし共産党の禁止を解いたのちも、イギリス植民地当局は、実際には共産党員の
迫害をやめなかった。戦時には、数百名の共産党の積極的な活動家は獄中にあった。
 第二次世界戦争の終結後、共産党は、国の民族的独立とイギリスの植民地支配の一掃をめざす
インド人民大衆の闘争の先頭に立った。一九四六年八月に樹立された、インド国民会議派にひき
いられているが、イギリス植民地支配者の直接的な監督下にあった(それゆえに、イギリスの副
王が政府の事実上の首領であった)臨時「国民」政府は、共産党およびその勢力下にあった労働
組合、農民、婦人、青年の諸組織にたいする弾圧を強化した。それにもかかわらず、共産党の勢
力は増大した。共産党員は、労働者および従業員のストライキ、農民の暴動(たとえば、一九四
六年にはじまったテレンガナの暴動)、藩王の専制権力にたいする藩王国人民の闘争を指導した。
しかし、共産党の指導は、イギリス帝国主義の策動《マヌーヴァ》をすぐにはたちきることがで
きなかった。その策動には、一九四七年八月に、インドにはいわゆる独立があたえられたが、同
時に国は、インドとパキスタンの二国に分離されたことがふくまれていた。共産党の指導は、最
初「独立」の意義を過大評価し、一九四七年八月に、インド国民会議派によって組閣されたイン
ド政府の階級的本性を理解しなかった。
 一九四八年三月に、インド共産党第二回大会がひらかれ、九万の党員を代表した約八〇〇名の
代議員が出席した。大会では、中央委員会の旧指導部によって見のがされた改良主義的性格の重
大な誤りをばくろし、鋭い批判をくわえた。大会は、新しい条件下の共産党の任務と政治方針を
きめたテーゼを確認した。大会は、中央委員会の新しい構成員を選出した。大会ではまた、パキ
スタンの共産主義者が独立した共産党を創立すべきであるという決定が採択された。
 共産党はすべての州《ステート》(属州《プロヴィンス》)、大工業中心地に党の組織を結成
し強化しはじめ、真の民族独立のための闘争の統一戦線の結成にのりだした。第二回大会以後、
インド政府は、共産党にたいする弾圧を強化した。多くの著名な党活動家が投獄された。西ベン
ガル、マドラスおよび多くの藩王国では、共産党は非合法を宣告された(ハイデラバード州とト
ラヴァンコール・コーチン州では、共産党の組織は一九五二年まで禁止されていた)。弾圧と同
時に、インド当局は、共産党員に指導される労働組合や農民組織を分裂させる戦術をとった。警
察のテロルの影響をうけ、さらにまた、べ・テ・ラナディーヴにひきいられた当時の指導部の左
翼セクト的誤りの結果、多くの組織における共産党の勢力はよわまり、党員の数は減少した。
 一九五〇年五月に、インド共産党中央委員総会は、ラナディーヴを党指導部からしりぞけた。
新しい政治方針をたてた中央委員会政治局の新構成員が選出された。一九五一年四月に、インド
共産党中央委員会は、インドの革命的発展の現段階と国内の階級勢力の配置を明確に規定した党
綱領草案を発表した。
 草案には、共産党がその遂行のためにたたかわなければならないもっとも重要な任務はつぎの
ことがらであることが指示された。すなわち、地主の土地所有の一掃と農民への土地の無償譲渡、
国の真の独立のための闘争、イギリス帝国主義者と協力する地主、藩王、大資本家のインド政府
を新しい人民民主主義政府にとりかえること、外国企業と半官半民会社の国有化、米・英の侵略
ブロックからの脱退と平和のための、パキスタン、セイロンとインドの接近のための闘争の遂行
がそれである。これらの任務を遂行するために、共産党は、緊急方策として労働者、農民、勤労
インテリゲンツィア、国の自由に関心をもつ民族ブルジョアジーの民主統一戦線の結成を提起し
た。
 一九五一年十月にひらかれた共産党全国会議は、万場一致で綱領草案を承認し、中央委員会の
新しい構成員を選出した。共産党中央委員会書記長にはアジョイ・ゴーシュが選出された。
 共産党の綱領草案は、党の組織的・イデオロギー的・政治的統一を強化するための基礎となっ
た。綱領草案は、党と人民大衆との結びつきを強化し、大衆的・民主主義的諸組織における党の
勢力を強化することを促進した。一九五二年二月におわったインド国会および州立法会議の総選
挙の結果が、このことを証明している。共産党が結成し、共産党にひきいられたさまざまな民主
主義政党や組織の参加した左翼統一戦線は、若干の州、主として南部インドでは大きな成果をお
さめた。インド共産党は、他の諸政党とならんで、平和擁護者の運動に積極的に参加している。
インド共産党は、平和条約締結にかんする世界平和評議会の呼びかけに応ずる署名獲得の主唱者
の一員である。
 インド共産党は、民主主義的中央集権制の原則と生産および地域にもとづいて創立された。下
部党機関は地方党機関に従属し、地方党機関は州党機関に従属している。党の先頭には、党大会
で選出される中央委員会が立っている。
91大月書店愛好会:02/04/09 12:45
 あ、やっぱり、マルクス・エンゲルス・レーニンは止めときますわ。大月書店
には色々お世話になってるし、それはやっぱり不義理かな、と。でも、スターリ
ンや中共系はやりますよ。
   インドシナ共産党(ヴェトナム労働党〔*〕)

 インドシナ共産党〔東洋共産党〕は、それまでインドシナにうまれていたいくつかの共産主義
団体が合同した結果として、一九三〇年一月香港大会で組織的につくられた。香港大会の活動を
指導したのは胡志明《ホチミン》(阮愛国)と彼の戦友レ・ホンフォン(一九四〇年に植民者当
局に銃殺された)であった。共産党はインドシナ諸民族の広範な解放運動の先顕に立っていた。
党は一九三〇―三一年に労働者農民の革命的戦闘を指導した。フランス植民当局は人民運動を残
酷に弾圧した。共産党はいくたの指導者と活動的党員をうしなったが、その組織を非合法のかた
ちで保存し、力を結果し、一九三五年に澳門《マカオ》で大会を召集することに成功した。大会
は大衆のあいだにおける広範な活動の展開と、勤労者を統一するための闘争と政治的自由のため
の闘争とにかんする決議を採択した。一九三六年の選挙におけるフランスの人民戦線の勝利はし
ばらくのあいだインドシナ共産党に合法的に存在する可能性をあたえた。共産党は反帝民族統一
戦線をつくりだすための闘争、勤労者の直接的要求をみたすための闘争をおこなった。一九三九
年九月フランスが第二次世界戦争にはいったすぐあとに、フランス植民当局は共産党禁止令をだ
した。一九三九年十一月、共産党中央委員会は新情勢に適用すべき今後の党活動綱領をきめた。
共産党によって「インドシナ反帝民族統一戦線」がつくられた。この戦線はインドシナ諸民族を
日本の侵入の脅威、フランス帝国主義者および現地の封建領主との闘争へと結集することをその
任務とした。日本のインド
シナ占領期間(一九四〇―四五年)中、共産党は日本侵略者にたいする諸民族の解放闘争の先頭
に立った。一九四一年三月インドシナ共産党の主唱と指導のもとの聊州(華南)の大会でヴェト
ナム独立同盟《ドクラプドンミン》(略称越盟《ヴェトミン》)がつくられた。
 ソ同盟がヒトラー・ドイツと帝国主義日本を壊滅させたので民族解放闘争の強力な高揚をよび
おこした。一九四五年八月全民族的解放蜂起がおこった。一九四五年九月二日、抵抗運動の指導
者胡志明《ホチミン》を首班とする臨時政府は、ヴェトナム民主共和国の創立を宣言した。一九
四五年十一月、インドシナ共産党中央委員会は共産党の解散宣言を発表した。「インドシナ・マ
ルクス主義研究会」がつくられた。会はマルクス=レーニン主義宣伝にひろい活動をおこなった。

 ヴェトナム労働党(ラオドン)はヴェトナム労働者階級およびすべての勤労者の前衛である。
党はマルクス=レーニン主義の原則にもとづいている。組織上、党は民主主義的中央集中制の原
則によってつくられている。党はフランス=アメリカ侵略者に反対し、独立・統一・民主ヴェト
ナムを建設するためのヴェトナム人民の闘争を指導している。
 ヴェトナム労働党は一九五一年二月十一日から十九日まで北ヴェトナムでひらかれた大会で創
立された。大会では宣言と綱領が採択された。宣言はつぎのように指摘している――ソ同盟を先
頭とする反帝国主義・民主主義の陣営はますます強力となっており、フランス=アメリカ侵略者
とたたかうことによってヴェトナム人民はこの陣営の平和と民主主義のための全般的闘争に貢献
している。ヴェトナム労働者階級とすべての勤労者の中心的任務は、抵抗戦争を完全に勝利する
までおしすすめ、独立・統一・民主・繁栄のヴェトナムを建設し、人民民主主義を完全に実現し
社会主義の道へと前進するために、全人民を団結させることである。この任務を実現するために、
ヴェトナムの労働者階級と勤労者は、強力な、先見のきく、断固とした、一貫して革命的な政党
をもたなければならない。ヴェトナム労働党は最良の愛国者、もっとも献身的・革命的な労働者、
農民、インテリゲンツィアを団結させている。党の主要な任務は「フランス植民者に反対しアメ
リカ帝国主義者をうちやぶるための闘争において、労働者階級、勤労者およびヴェトナムの全人
民を指導し、完全な勝利にいたるまで独立戦争を指導し、独立統一ヴェトナムを建設することで
ある。」〔『プラウダ』一九五一年三月二十四日、第八三号〕ヴェトナム労働党はヴェトナム民
主共和国政府を完全に支持し、ヴェトナム国民連合戦線(略称聯越《リエンヴェト》)内の他の
諸党および団体と密接に団結し協力している。会議で採択された綱領は、国際情勢、ヴェトナム
情勢の分析、ヴェトナム革命史概観をふくみ、党の政策を述べている。党の全活動は「すべては
前線のために、すべては勝利のために!」というスローガンのもとにおこなわれている。ヴェト
ナム国民の解放戦争は、ラオス〔寮国〕とカンボジ了〔高棉〕の民族の武装抵抗および全世界に
わたる平和と民主主義の闘争と密接にむすびつかなければならないと綱領がしめしている。綱領
は国内人民政権とその支柱の一つである国民連合戦線を強化することを党の任務としてかかげて
いる。ヴェトナム労働党綱領は、ヴェトミンとリエンヴェトの合同を完成し、民族ブルジョアジ
ーと愛国的地主を積極的にリエンヴェトに参加させるために国民連合戦線の基礎として労働者階
級、農民、およびインテリゲンツィアの同盟を強化し、ヴェトナム労働党の指導的役割を強化し、
敵の占領区域内の国民連合戦線の諸団体を拡大することが必要であると指摘している。経済の分
野では、綱領は、解放戦争の需要をみたし、国民の生活水準をたかめるために、あらゆる手段に
より生産を増大す
る任務を出している。綱領は、民族ブルジョアジーにたいして、彼らが国の経済の発展に参加す
るようにうながす政策をとらなければならないと指摘している。党の農業綱領は、現在、地代を
引下げ、借地制度を調整し、帝国主義と裏切者に屈していた土地を貧農および解放戦争の負傷者
と戦死者の家族に分配し、共有地を公平に分配し、不在地主の土地を合理的に利用すること、そ
の他の措置にむけられている。文化と教育の分野では、ヴェトナム労働党は国民を愛国千義と国
際主義、帝国主義侵略者にたいする憎しみ、ヴェトナム民族文化の発展、世界ことにソ同盟と中
国の進歩的文化の成児の研究、少数民族の文化の発展、科学・技術・芸術の発展という精神で教
育する任務を出している。少数民族にたいする党の政策は、完全な同権の原則にもとづいている。
ヴェトナム労働党の綱領は、ヴェトナムの対外政策が、民族独立の相互的尊重、領土の保全、同
権、全世界の平和と民主主義の擁護の原則にもとづかなければならないと指摘している。
 ヴェトナム労働党は、ヴェトナム、ソ同盟、中華人民共和国、朝鮮民主人民共和国、ヨーロッ
パ人民民主主義諸国との友好関係を強化し、自由・平等・互恵にもとづきヴェトナムの民族主権
を尊重する用意のあるすべての国と外交関係を確立する政策なとっている。
 ヴェトナム労働党綱領には、ヴェトナム人民がラオスとカンボジアの人民と密接に団結し、帝
国主義にたいする闘争と、インドシナの先全独立および全世界の平和擁護の共同闘争に援助をあ
たえなければならないと述べている。
 ヴェトナム労働党書記長には有名な政治家トルオン・チン〔長征〕がえらばれた。一九五一年
三月なかごろにヴェトナム労働党中央委員会第一回総会がひらかれ、政治局、書記局、中央審査
委員会をえらび、ヴェトナムをめぐる国際・国内情勢を審議した。総会の採択した決議につぎの
ようにいっている。「ヴェトナム国民は独立のためにたたかいつつ、全世界の平和擁護を促進し
ている。われわれは、平和運動への参加を、武力抵抗および国民的建設と結合しなければならな
い。……中央委員会は、胡志明《ホチミン》大統領の指導のもとに、党員があらゆる困難を克服
し、国民とともにこれらの任務を遂行し、われわれの国民に急速な勝利を保証し、全世界の平和
を維持しなければならない。」〔『プラウダ』一九五一年四月二十五日、第一一五号〕
   インドネシア共産党〔*〕

 一九二〇年に創立、一九二四年に第一回党大会がひらかれた。このころの党員は一、五〇〇名
であった。一九二六年ごろには党員はおよそ三、〇〇〇名であった。その影響下にあったものに、
組合員約五万名の労働組合サレカト・ライアトがあった。一九二六―二七年のインドネシアの反
乱ののち、共産党は弾圧され、多くの指導者と党員が処刑された、すなわち、ころされるかへん
ぴな地方にながされるかした。
 一九三五年に、ジャヴァ島に非合法共産党が創設され、これが一九四五年末に再建されたイン
ドネシア共産党の中核となった。一九四六年夏、共産党会議がひらかれ、議長サルジョノ、副議
長マルート・ダルースマンを首脳とする中央委員会をえらんだ。一九四八年秋、インドネシア共
産党臨時会議は、その影響下にあった社会党、諸労働者党、ならびに社会主義青年団体との合同
にかんする決議を採択した。会議では書記長ムッソを首脳とする指導部がえらばれた。
 一九四八年九―十二月に、マディウンの挑発ののちに、反動は共産党に激しい弾圧をくわえた。
数千名の党員がころされるか、または集中収容所に監禁され、共産党の著名な指導者はだましう
ちにあってころされた――そのなかにはムッソ、シャリフッディン、マルート・ダルースマン、
サルジョノがいた。共産党は法の保護をうばわれた。
 一九五一年のはじめに共産党はその組織を再建した。一九五一年夏、アイディットが中央委員
会書記長にえらばれた。共産党はほんとうの民族独立と、人民民主主義政府の樹立と、地主的土
地所有の廃止と耕すものへの土地の交付とのための闘争へと、インドネシア人民を結集している。
   オーストラリア共産党〔*〕

 一九二〇年創立。はじめのうちは、労働者階級の主要な部分と結びつきのよわい宣伝グループ
であった。党活動上の転換は一九二九―三三年の経済恐慌期におこった。一九三五年に共産党は
すでに一二〇の工場細胞をもっていた。党はニューカスル、シドニー、メルボーンの労働組合評
議会内に強力なフラクションをつくりだした。戦争のあいだ党は反ソ政策と第二戦線創設のサボ
タージュにたいしてたたかった。戦後、党は平和のための闘争、新戦争放火者の計画に反対する
闘争のうちで、勤労者の広範な運動の先頭に立った。
   オーストリア共産党

 オーストリア共産党は、オーストリア労働者階級の前衛部隊であり、国の平和、独立、民主化
をめざすオーストリア人民の闘争の指導勢力である。党は一九一八年十一月三日に、大十月社会
主義革命の影響のもとに展開された革命的高揚の情勢のなかで創立された。オーストリア共産党
は、社会民主党の左翼グループ、「社会主義学生自由連合」の代表、ロシアから帰国した捕虜兵
士、以前の労働者によって結成された。一九一九年三月に、オーストリア共産党は共産主義イン
タナショナルの結成に参加した。しかし、年若い共産党は、思想・組織関係できわめて弱体であ
った。党の指導部には、日和見主義の重荷を身につけた小ブルジョア・インテリゲンツィア、社
会民主党出身者がはいりこんだ。このことは、第一回党大会(一九一九年二月)にはっきりとあ
らわれた。戦術問題にかんして、党内では「極左的」誤謬が見のがされた。一九二〇年に、オー
ストリア共産党は、国会選挙をボイコットする決定をおこない、一九二〇年八月三十一日にオー
ストリア共産党の新聞『ローテ・ファーネ』〔赤旗〕にドイツ語で印刷されたオーストリア共産
主義者への手紙によって、一九二〇年八月十五日によびかけられたヴェ・イ・レーニンの個人的
忠告ののちにはじめてその誤りをただした。
 オーストリア共産党の活動は、党創立の当初から衝突していたカトリックのキリスト教社会党
や社会民主党指導者のような強力な反対者がいたことによって複雑かつ困難になった。党の戦闘
力は、オーストリア共産党内部の日和見主義的グループ間の闘争によってもよわめられた。第六
回(一九二三年)および第七回党大会(一九二四年)は、日和見主義者との闘争の顔のもとにお
こなわれた。一九二四年十一月にひらかれた全国党会議では、分派主義者にたいして大きな打撃
がくわえられた。一九二四年十一月十五日に、ヨハン・コプレニッヒが党書記長に選出された。
オーストリア共産党は、彼の指導のもとに分裂と分派闘争の状態からぬけだして、大衆との結び
つきを強化した。第八回党大会(一九二五年)は、歴史的意義をもっていた。この大会で、党は
当面の政策のあらゆる問題にかんする見解をさだめ、日和見主義者を粉砕した。共産党員は、ウ
ィーンの労働者の革命的進出(一九二七年七月)に積極的に参加した。共産党員は労働者大衆の
共鳴をかちとり、そのことが、オーストリア共産党を強化するうえに大きな意義をもった。
 社会民主党指導者の援助をえたブルジョアジーのウィーン労働者の反ファシスト七月行動にた
いする圧迫は、一九二九―三三年の経済恐慌の情勢下に生じつつあったオーストリアのファショ
化の長い過程に端緒をあたえた。党はファシズムに反対し、勤労者大衆にたいするブルジョアジ
ーの攻撃に反対する闘争の先頭に立った。しかし、党内にもぐりこんだ右翼日和見主義者は、党
の成功的な闘争をさまたげた。第九回党大会(一九二七年)は、右翼日和見主義者の反党的見解
に打撃をくわえ、一九二九年二月にひらかれた第十回党大会では、右翼的背教者は、徹底的に粉
砕され、党から除名された。勤労者大衆のなかで党の権威は強化された。何千という社会民主党
員が党の陣列にくわわった。第十一回党大会(一九三一年)は、労働者の経済的状態の改善をめ
ざし、ファシズムとファシズムの協力者に変った社会民主党指導者に反対する闘争のための統一
労働戦線を組織する方向に党をむかわせた。党は「社会・民放解放綱領」を作成した。
 一九三三年五月末に、ドルフース・ファシスト政府は、共産党を禁止し、七月には、オースト
リア共産党の新聞『ローテ・ファーネ』は閉鎖された。共産党は地下にもぐることを余儀なくさ
れた。オーストリア共産党は、ファシズムにたいする抵抗をしめしつづけていたただ一つの勢力
であった。反ファシスト統一労働戦線をまもりながら、オーストリア共産党は、労働者、婦人、
青年のあいだに反ファシスト統一行動委員会をつくり、小冊子や新聞を発行し、ファシストの挑
発に反対する闘争をよびかけた。一九三四年二月に、ウィーンのプロレタリアートにたいするフ
ァシストの出兵にたいする回答として、オーストリア共産党は、労働者階級にゼネラル・ストラ
イキと武装蜂起をよびかけ、指導的にそれに参加した。一九三四年の二月戦闘のときには、共産
党員のイニシアティヴによって、共産党員と社会民主党傘下の労働者のあいだの戦闘行動の統一
が実現された。
 一九三四年の二月戦闘は、共産党のまわりに大衆を結集する端緒となった。労働者をうらぎり、
公然とファシズムのがわにうつった社会民主党の指導者をばくろするオーストリア共産党の積極
的な活動がこのことを促進した。一九三四年の二月戦闘ののち、左翼社会学義者のグループ――
「ロート・フロント」〔赤色戦線〕が社会民主党から分離してオーストリア共産党にくわわった。
一九三四年に、第十二回党大会がひらかれた。大会は、反ファシズム勢力の結集とオーストリア
労働者階級の戦闘の統一をめざす闘争に注意を集中した。オーストリア共産党のイニシアティヴ
によって、一九三四年にファシストによって解散させられた自由労働組合およびその他若干の労
働者の組織が、革命的基礎のうえに地下で再建され、社会民主党傘下の労働者の一部との統一戦
線が樹立された。
 ヒトラー・ドイツのオーストリア占領に先立つ数年間、オーストリア共産党は、コミンテルン
第七回大会(一九三五年)の決定にもとづいて、オーストリアの孤立を擁護し、ドイツ・ファシ
ズムに反対する労働者階級の闘争の組織者として行動した。ヒトラー占領軍のオーストリア占領
の時期(一九三八―四五年)に、オーストリア共産党は闘争をやめなかった。共産党員は、オー
ストリア人民の民族的利益を擁護しながら、ヒトラー体制にたいして勇敢に抵抗した。一二名の
中央委員をふくむ数千の共産党員が、ヒトラーの拷問部屋で死んだ。
 一九三九―四五年の第二次世界戦争中に、オーストリア共産党は、オーストリア国民にオース
トリアの民族的復興の道をしめした。共産党は、オーストリアの民族的利益から出発して、一九
四四年六月に宣言をつくって発表した。そのなかで、ヒトラー主義に反対する闘争を積極化する
ようオーストリア国民によびかけた。ソ同盟がヒトラー主義の圧迫からオーストリアを解放した
ため、オーストリア共産党は地下から出てきた。第二次世界戦争ののち、共産党の活動は、オー
ストリアの民族的独立をまもり、国をアメリカ帝国主義の植民地に変えることに反対し、オース
トリアとの国家条約の締結をめざし、国の民主化をめざし、米・英帝同主義者の協力をえてオー
ストリアに復活しつつあるファシズムに反対する闘争にむけられた。オーストリア共産党は、ソ
同盟の平和愛好政策を支持し、オーストリアとソ同盟の友好関係の確立のためにたたかっている。
ソ同盟の平和愛好的志向を支持しながら、オーストリア共産党は、そのことによってなによりも
まずオーストリア人民の平和と自由をめざす闘争を支持している。オーストリア共産党は、帝国
主義者の協力者――社会党の右翼日和見主義的指導部およびカトリック「人氏」党の反動的指導
者――による人民の利益の裏切りをばくろしている。党は、労働者階級の行動の統一と勤労者の
生活水準の改善のために努力している。
 一九四六年四月十九―二十二日にひらかれた第十二回党大会は、十二年間のオーストリア共産
党の活動の総決算をおこなった。大会は、オーストリアに真の民主主義をうちたてるための闘争
における党の統一をはっきりとしめした。大会は、オーストリア共産党の主要な任務として、労
働者階級の統一、反動にたいする全民主勢力の団結、共産党の陣列の強化をめざす闘争を提起し
た。オーストリア共産党第十四同大会(一九四八年十月二十九―十一月二日)は、人民民主主義
と社会主義をめざす党の闘争を予定した綱領要求を採択した。大会は、共産党の陣列を思想的・
組織的にさらにいっそう強化する必要のあることを指示した。大会は、「マーシャル計画」を採
択したオーストリア政府はアメリカの政策の道具に変化し、オーストリアの右翼社会主義者はア
メリカ帝国主義の手さきに変ったことを確認した。一九四九年十月の国会選挙で、党は、国の独
立と勤労者の生活状態の改善を要求として提起した。選挙のときオーストリア共産党は「左翼ブ
ロック」をむすんで左翼社会主義者と共同行動をとり、「左翼ブロック」には二一万二〇〇〇票
が投ぜられた。「左翼ブロック」は、国会で五つの議席をえた。オーストリア共産党のイニシア
ティヴによって、一九五〇年十月に、政府による穀物、その他の食料品、さらにまた工業生産品、
石炭等々の値上げにたいする回答として、ウィーンの労働者は、全オーストリアをまきこんだス
トライキを宣言した。ストライキには、四〇万人以上の労働者と勤労者が参加した。
 戦後の時期に、党は、民主主義的中央集権主義の原則による党の建設を予定した規約を採択し、
組織的再編成をおこない、党諸組織を小単位にわけ、断固として生産労働者のなかで活動を強化
する方針をとった。
 一九五一年十一月一―四日にひらかれた第十五回党大会は、平和と民族の独立、さらにまた、
党の陣列の組織的・イデオロギー的強化をめざす党の闘争の最初の総決算をおこなった。大会は、
平和と自由と孤立をまもり、アメリカ帝国主義の侵略政策に反対し、オーストリア政府によって
実行されている民族裏切り政策に反対するオーストリア国民の闘争の統一戦線を樹立し、平和と
民族の孤立と社会的進歩の政府をめざす闘争のための統一戦線を樹立する任務を党にあたえた。
 オーストリア共産党はマルクス=レーニン主義理論とソ同盟共産党の経験によってその活動を
指導され、国際主義の精神で労働者階級と全勤労者を教育している。一九五三年二月におこなわ
れた国会選挙で共産党は、多くの民主的組織とブロックをむすんで、「オーストリア人民反対党
」をつくった。「オーストリア人民反対党」には二二万八〇〇〇の賛成票が投ぜられた。「オー
ストリア人民反対党」は国会に四つの議席をもっている。
 オーストリア共産党の中央機関紙は『エスタライヒッシェ・フォルクスシュティメ』、理論機
関誌は『ヴェーク・ウント・ツィール』である。六つの地方機関紙、多くの特殊新聞、婦人、青
年、その他のための雑誌が発行されている。
   カナダ労働者進歩党〔*〕

 カナダ労働者進歩党は一九四三年八月に創立された。一九四〇年にカナダ政府によって禁止さ
れたカナダ共産党の後継者である。カナダの支配グループは、労働者進歩党に攻撃と圧迫をくわ
え、党を禁止する計画をもっている。党は、平和と独立をまもり、あらたな世界戦争の準備にカ
ナダが参加することに反対する人民大衆の闘争の先頭に立っている。一九五一年一月にひらかれ
た労働者進歩党第四回大会は、平和をまもり、この目的でカナダ人民の統一を樹立するための運
動をあらゆる方法で発展させることに主要な注意をはらった。一九五二年二月に、労働者進歩党
国民委員会総会は、新しい党綱領草案「社会主義へのカナダの道」を採択した。新綱領は、国の
すべての民主的勢力の広範な連合をうちたて、人民民主主義制度を確立し、カナダの独立をめざ
し、平和と社会主義をめざす闘争をよびかけている。党は労働組合と農民組織に大きな勢力をも
っている。
 労働者進歩党国民委員会の書記長はティム・バックである。
   キューバ人民社会党〔*〕

 一九四四年一月、一九二五年以来存続してぎた共産党を改造した結果として創立された。反動
的支配層のために迫害をうけている。党は平和、労働者階級の統一、国の政治的・経済的独立の
ための闘争、アメリカ帝国主義の抑圧反対、戦争放火者反対の闘争というスローガンのもとに、
広範な勤労者層を統一している。
   コロンビア共産党〔*〕

 一九三〇年七月創立。勤労者、とくに石油労働者のあいだで大きな影響力をもっている。警察
のテロルにもかかわらず、共産党は一九五一年の国会選挙では多数の得票があった。コロンビア
の反動的支配層からひどい迫害をうけている。共産党は、労働者階級の行動の統一、民族解放民
主戦線の創立のためにたたかっている。党は外国帝国主義と土地の反動の圧迫に反抗し、勤労者
の生活上の権利、平和および民主主義をかちとるための闘争の光明に立っている。
   スペイン共産党

 スペイン共産党は、スペイン労働者階級の前衛部隊であり、ファシスト独裁に反対し、平和、
民主主義、民族の独立をめざすスペイン人民の闘争の鼓吹者であり組織者である。一九二〇年四
月に、スペインにおける一九一七―二〇年の革命的高揚の情勢のなかで創立された。大十日社会
主義革命の影響のもとに、スペインの労働運動では、当時支配的であった社会改良主義とアナル
コ・サンディカリズムと訣別し、革命的マルクス主義政党を創立するための左翼グループの闘争
が強化された。一九一九年十二月に社会主義青年同盟大会は、社会党からの脱退とコミンテルン
への加盟にかんする決定を採択した。一九二〇年四月十五日、社会主義青年同盟は、スペイン共
産党の結成とその綱領を宣言した檄文を発表した。この日がスペイン共産党結成の日とされてい
る。一九二一年四月に、スペイン社会労働党の左翼は、改良主義者と訣別して、共産労働党を結
成し、一九二一年十一月にスペイン共産党と合同した。一九二二年三月に、第一回共産党大会が
ひらかれた。
 年若い、まだ基礎のかたまっていない共産党は、すでに一九二三年に、プリモ・デ・リヴェラ
の軍事的・ファシスト的クーデターののち地下にもぐることを余儀なくされた。無政府主義の残
存物の存在、指導部に潜入したトロツキストのセクト主義と日和見主義的政策は、一九三一年の
ブルジョア民主主義革命の準備と遂行の時期における党の発展にブレーキをかけた。反トロツキ
スト闘争の先頭に立ったのはハ・ディアスとディ・イバルリである。一九三二年に、セヴィリア
におけるスペイン共産党第四回大会で、彼らは、当時の党指導部の日和見主義的・セクト的政策
に反対した。その年に、トロツキストは党から追放された。スペイン共産党書記長にはハ・ディ
アスが選出された。ハ・ディアスとディ・イバルリの指導のもとに、党はソ同盟共産党(ボ)の
経験をよりどころにして、マルクス=レーニン主義のイデオロギー的・戦術的基礎のうえにすべ
ての活動を再編成した。このことは、勤労者のなかでの党の勢力を拡大強化した。一九三四年の
はじめには、スペイン共産党の党員は二万をかぞえた。
 共産党は、反動の攻撃とファシズムの脅威に反対する闘争へと大衆を高めた。大衆は、一九三
四年十月の政治的ゼネストに積極的に参加した。ストライキは、国の若干の地方では武装蜂起へ
成長転化した。共産党員は、二週間以上にわたって政府軍隊の優勢な勢力の攻撃を撃退したアス
トゥリアの鉱山労働者の英雄的防衛の先頭に立った。
 労働者階級とスペイン国民のあらゆる進歩的勢力の統一をめざすスペイン共産党の闘争にとっ
てきわめて大きな意義をもっていたのは、コミンテルン第七回大会(一九三五年)の決定であっ
た。コミンテルン大会の決定に指導されながら、スペイン共産党は、労働者と国民の統一戦線を
まもり、反動的社会改良主義者とアナルコ・サンディカリストの指導者の分裂政策に反対する断
固たる闘争をおこなった。一九三五年十一月に、スペイン共産党は、社会主義者に指導される改
良主義的な勤労者総同盟と急進的労働組合を組合員一〇〇万以上をかぞえた統一勤労者総同盟に
合同させることに成功した。一九三六年に共産主義と社会主義青年の諸組織は統一社会主義青年
同盟に合同した。この年に、スペイン共産党の直接的援助のもとに、カタロニアの四つの労働者
党は、マルクス=レーニン主義綱領にもとづいてカタロニア統一社会党に合流した。カタロニア
統一社会党は、スペイン共産党と緊密に協力して党の活動を展開した。
 一九三六年一月に、広範な国民大衆の積極的支持をうけていた共産党のイニシアティヴによっ
て、人民戦線が結成された。人民戦線協定には共産主義者、社会主義者、勤労者総同盟、ブルジ
ョア共和主義者が署名した。一九三六年二月十六日の国会選挙では、人民戦線は、王制・ファシ
スト諸政党の連合に勝利した。スペイン共産党からは国会に七名の議員が選出された。勤労者の
なかで共産党の勢力は急速に増大した。一九三六年七月には、スペイン共産党員はすでに一〇万
をかぞえていた。スペイン共産党は、人民戦線綱領の実行をめざす大衆の闘争の先頭に立った。
それと同時に、党は反動によって準備されていた共和制に反対するファシストの陰謀を粉砕する
ための広範なカンパニアをおこなった。
 ファシストの反乱とイタリア=ドイツの干渉の初期に、スペイン共産党は、ファシスト反逆者
と干渉軍にたいする全国民的抵抗の鼓吹者となり、組織者となった。スペイン共産党は、自国の
自由、民族の独立、民主主義を擁護するための全国民の戦争としてのこの戦争の性格を国民にた
だしく理解させることをたすけた。イ・ヴェ・スターリンは、ハ・ディアスにあてたスペイン共
産党中央委員会への電報のなかで、スペイン国民の反ファシスト解放戦争の大きな国際的意義を
強調してつぎのように指示した。「ファシスト的反動者たちの抑圧からのスペインの解放は、ス
ペイン人の私的なことがらではなく、すべての先進的な進歩的な人類の共通のしごとである。」
〔『プラウダ』一九三六年十月十六日、第二八六号一ページ〕
 スペイン共産党は、大衆をよりどころとし、人民戦線内部の右翼理社会主義的・無政府主義的
トロツキスト的フランコの代弁者の反抗にうちかちながら、人民戦線政府による防衛組織上のも
っとも重要な諸方策の実行を主張することかできた。スペイン共産党は、正規の国民軍を創設し、
ファシストの所有していた軍需工業と企業を国家の統制下におくことに成功した。スペイン共産
党のイニシアティヴによって、五〇〇万ヘクタール以上の地主の土地を農民にあたえた農業改革
がおこなわれ、勤労者の状態を改善し、広範な国民大衆を共和国の擁護に立ちあがらせた民主的
改革がおこなわれた。すべてこれらのことが、三二ヵ月にわたって、優勢なファシスト侵略者の
勢力に抵抗させたのである。スペイン共産党のただしい政策、ファシストとの戦闘で共産党員に
よってしめされたヒロイズムは、大衆のなかで共産党の勢力をいちじるしく増大させた。一九三
八年末までに、スペイン共産党員は三〇万名以上をかそえた。
 共和制が崩壊し、国内にフランコ将軍のファシスト独裁が確立(一九三九年三月)したのち、
ファシストは、共産党にたいして太さな打雌をくわえた。何万という共産党員が監獄と強制収容
所にほうりこまれ、責めころされ、あるいは死刑に処せられた。党は地下にもぐって、フランコ
体制にたいする英雄的な闘争をおこなった。一九三九―四五年の第二次世界戦争の時期に、スペ
イン共産党は、ヒトラー侵略ブロックに援助をあたえるフランコの政策に反対してたたかうよう
国民によびかけた。一九三九年にフランスに亡命した多くのスペイン共産党員は、戦争の時期に
はその地で、抵抗運動の陣列のなかでたたかった。一九四二年三月二十日に、スペイン・プロレ
タリアートの指導者でありスペイン共産党書記長であるハ・ディアスが死んだ。ハ・ディアスの
死後、ディ・イバルリがスペイン共産党書記長になった。
 第二次世界戦争の終結後、共産党は、ファシスト独裁の打倒をめざす闘争の具体的綱領を提起
した。スペイン共産党は、フランコ体制を打倒し、スペインに民主主義共和国を復活させるため
の条件を準備する目的で、すべての反フランコ勢力の全民族戦線を結成することを主要な任務と
した。スペイン共産党は、自由と民主主義をめざすスペイン国民の闘争が、民族独立をめざす闘
争と、フランコに政権を維持させ、スペインを自国の植民地と、米・英帝国主義者によって準備
されている新世界戦争のための兵器庫に変えようとする米・英帝国主義者に反対する闘争とにわ
かちがたくむすびついていることをスペイン国民に説明している。スペイン共産党は、アメリカ
合衆国およびイギリス帝国主義者の手さきの役割をはたしながら、共産党を孤立化させようとし
ている右翼社会主義的・無政府主義的指導者の裏切政策に反対する闘争をおこなっている。「ユ
ーゴスラヴィア共産党の状態について」という共産党労働者党情報局の決定は、スペイン共産党
の革命的警戒心を高めるうえに大きな役割をはたした。
 スペイン共産党は、地下ふかくで中央機関紙『ムンド・オプレロ』〔労働者の世界〕、機関誌
『ヌエストラ・バンディエラ』〔われらの旗〕、その他フランコの反人民的政策をばくろし、国
民にファシスト独裁に反対する闘争をよびかけている機関出版物を発行している。共産党員は、
フランコ体制に反対する闘争(大衆的ストライキ、デモンストレーション、収穫物の徴発に反対
する農民の行動、その他)の活動形態の創始者である。共産党は、反動的・ファシスト的労働組
合の内部で活動をおこない、ファシスト党「ファランへ」の社会的デマゴーグを大衆のまえにば
くろしている。スペイン共産党の活動のおかげで、一九四七年の七万のバスコニア労働者の五月
ストライキ、数十万人が参加したカタロニアおよびその他の地方の勤労者の一九五一年春のスト
ライキとデモンストレーションのような大規模な国民大衆の反ファシスト行動が可能になった。
 スペイン共産党は、平和をめざすスペイン国民の闘争の鼓吹者であり組織者である。スペイン
共産党は、ソ同盟の平和愛好的志向を支持している。そのことはなによりもまず、平和保持をめ
ざす自国民の闘争を支持していることである。政治局の、さらにまた同志ドロレス・イバルリ、
ヴェ・ウリべ、その他のスペイン共産党の指導者の一連の声明のなかで、スペイン国民は、その
誠実で信頼すべき友であり同盟者であるソ同盟にたいしても、人民民主主義諸国にたいしても、
けっして武器をとらないであろうことが指示された。正義の大業の勝利にたいするスペイン国民
の確信をつよめながら、スペイン共産党は、この目的――すべての民主主義陣営の諸国民ととも
に、新戦争の帝国主義放火者に反対し、民族の独立、平和、民主主義をまもる闘争の道――を達
成するための正しい道をスペイン国民にしめしている。
   中国共産党

 中国共産党は、中国労働者階級の前衛部隊、中国の全勤労者の指導者、人民民主主義革命の勝
利の組織者ならびに鼓吹者、中華人民共和国の指導勢力である。

     党の創立。第一次国内革命戦争の時期(一九二四―二七年)の中国共産党

 中国共産党は、大十月社会主義革命の直接的影響のもとに、一九一九年五月四日に中国ではじ
まった人民の反帝・反封建運動の高揚した情勢のもとで創立された。そのころ中国のプロレタリ
アートは、独立した政治勢力として政治闘争の舞台にのぼりはじめたのである。一九二〇年に、
毛澤東、李大サ、その他の革命運動家の指導のもとに、中国の大都市にできたマルクス主義のサ
ークルやグループの代表者大会が、一九二一年七月一日に上海でひらかれた。大会には、約五〇
人の党員を代表した一二名の代表が出席した。大会は、中国共産党の創立を宣言した。中国共産
党の結成は、国の歴史における顕著なできごとであった。杭州における中国共産党第二回代表大
会(一九二二年)で、中国共産党のコミンテルンへの加盟にかんする決定が採択され、政治的行
動綱領が確認された。行動綱領では、マルクス=レーニン主義にもとづいて、帝国主義者の圧迫
をしりそげ、国の完全な独立をかちとり、軍閥の権力を打倒し、中国を民主主義共和国に変える
ことが当面の任務として提起された。
 ヴェ・イ・レーニンとイ・ヴェ・スターリンは、中国人民の民族解放運動にきわめて大きな注
意をはらった。民族・植民地問題にかんするヴェ・イ・レーニンの諸労作と、帝国主義的圧迫と
封建的残存物にたいする大中国人民の解放運動にささげられた彼の諸労作のなかで、ヴェ・イ・
レーニンは、中国人民の革命的勢力と中国人民の解放運動の国際的意義を高く評価し、戦略・戦
術をつくりあげるうえで中国共産党に大きな支援をあたえ、中国人民を鼓舞する力づよい源泉と
なった。中国革命の諸問題にささげられたイ・ヴェ・スターリンの諸労作は、中国共産党の強化
と発展に大きな役割を演じた。イ・ヴェ・スターリンは、諸労作のなかで、中国における階級勢
力の配置、中国革命の原動力、革命の性格と基本的特質、発展段階、その見通しを分析したのち、
中国革命の諸問題にかんするトロツキー派の裏切者を決定的にうちやぶった。コミンテルンは、
年若い中国共産党に不断の援助をあたえた。中国の具体的・歴史的情勢にマルクス=レーニン主
義の一般命題を創造的に適応させながら、中国共産党は、中国人民を解放闘争にみちびき、帝国
主義と国内の反動の勢力にたいする歴史的勝利をかちとった。
 中国共産党は、一九二一―二三年の時期に、あらゆる面で労働組合を組織、強化し、ストライ
キ運動を指導した。中国共産党の指導のもとに、労働者階級の活動と、民族解放闘争における労
働者階級の指導的役割は急速に増大した。それと同時に、中国共産党は、農民団体の組織に着手
した。
 一九二三年六月に、国内で急速に増大しつつあった反帝国主義的・革命的高揚の情勢のなかで、
広東で、中国共産党第三回大会がひらかれた。大会は、広範な反帝国主義民族戦線をうちたてる
ために、中国共産党の組織上・政治上の独自性と同盟者にたいする批判の権利を保持しながら、
共産党員が、孫中山に指導される国民党に加入するという決定を採択した。この決定は、右翼偏
向者にたいする闘争のなかで採択された。右翼偏向者は、共産主義者が国民党に加入することに
よって、中国共産党を大衆的な、政治上・組織上の独自性をもった党に変える闘争を放棄し、革
命における労働者階級の指導的役割をめざす闘争、さらにまた、共産党と国民党との合作に反対
する「左翼」セクト主義の傾向の代表者にたいする闘争を放棄すべきであると考えた。中国共産
党のイニシアティヴと援助によって、国民党は、労働者、農民、都市小ブルジョアジーおよび民
族ブルジョアジーの同盟体に改造した。中国共産党の正しい政策は、国内に広範な反帝国主義戦
線をつくり、広東省を革命の基地に変えた。第一次国内革命戦争(一九二四―二七年)がはじま
った。中国共産党は、広東の国民革命政府が、南部諸省の権力を強化し、国民革命軍の創設に着
手するのをたすけた。一九二五年一月に、中国共産党第四回全国代表者大会がひらかれ、大衆の
なかで党活動を強化するための一連の決定を採択した。
 一九二五年五月三十日の事件ののち、民族解放運動は全国にひろがり、中国共産党を先頭とす
る労働者階級は、革命の前衛として行動をつづけた。共産党員と国民党の革命的分子の英雄的努
力によって、一九二六年七月に北伐に出発した国民革命軍は、華中で軍国主義者の軍隊を撃破し
た。北伐の結果、人民大衆の革命運動は強化された。中国共産党の党員数は五万八〇〇〇人に増
加した。労働組合に組織された労働者と事務員の数は二八万に達し、約一〇〇〇万の農民が農民
組合に組織された。すべてこれらの成功は、共産党の指導部にもぐりこんだ陳独秀その他のトロ
ツキストおよび右翼分子がとった日和見主義的政策に反対した中国共産党の諸組織によって達成
されたのである。陳独秀その他の偏向者との闘争で、毛澤東は、マルクス=レーニン主義の理論、
戦略および戦術をしっかりとまもった。この時期に書かれた労作『中国社会各階級の分析』(一
九二六年)と『湖南農民運動視察報告』(一九二七年)のなかで、毛澤東は、中国社会の各階級
と、中国のブルジョア民主主義革命における各階級勢力の配置のマルクス主義的分析をおこなっ
た。民族ブルジョアジー(中産階級)の社会的本性、革命にたいする民族ブルジョアジーのどっ
ちつかずの態度と不断の動揺の不可避性を規定したのち、毛澤東は、革命におけるブルジョアジ
ーの役割を過大評価した陳独秀その他の右翼日和見主義者に決定的な打撃をあたえ、中国の労働
者階級だけが反帝・反封建革命の先頭に立つことができるし、また立たなければならないことを
しめした。それと同時に毛澤東は、農民運動の分析にもとづいて、中国にもっとも大きな農民革
命が成熟しているのを見ず、中国の労働者階級にとっては、労働者階級の信頼すべき同盟者であ
る土地のない、土地の少ない農民の革命闘争の先頭に立つ必要のあることを見なかった右翼およ
び「左翼」日和見主義者の見解のあやまりと有害さを指摘した。
 陳独秀その他の偏向者の裏切的・日和見主義的方針は、一九二七年四月に右翼国民党員が反革
命クーデターをおこなうのを容易にした。蒋介石の反革命クーデターののち、中国共産党は、武
漢の国民党指導部との協力を実現して、革命をいっそう発展させる方針をとった。革命は全体と
して最高の発展段階、農民運動の段階にはいった。漢口でひらかれた中国共産党第五回大会(一
九二七年四―五月)で、革命の新しい段階における労働運動と農民運動の発展にかんする決定を
採択し、陳独秀の右翼日和見主義的方針に批判をくわえた。毛澤東その他のレーニン主義に忠実
な中国共産党の活動家の指導のもとに、日和見主義者の裏切的方針に反対して、プロレタリアー
トの組織を発展、強化し、数百万の農民を農業革命にまでたかめることができた。

     第二次国内革命戦争の時期(一九二七―三六年)の中国共産党

 武漢の国民党員とその政府が、内外反動の攻撃の情勢下で反革命の陣営に移行したのち、中国
共産党は、陳独秀その他の日和見主義者を指導部からとおざけて(一九二七年八月七日の中央委
員会緊急会議)、一九二七年の秋から一九二八年の春にかけて、一連の蜂起(南昌の「秋収」蜂
起、広東蜂起、その他)を組織した。一時的な敗退をこうむった革命の後衛戦であったが、これ
らの蜂起は、革命におけるプロレタリアートのヘゲモニーと、数百万の農民大衆を労働者階級の
まわりに結集したことによって特徴づけられる第二次国内革命戦争の端緒となった。「左翼」偏
向者のあやまちは党の方針を成功的に遂行することに少なからぬ損害をあたえた。「左翼」偏向
者は、蜂起を、革命勢力を保持し、強化することにむけられた防衛戦とは兄ないで、攻撃戦であ
ると見た。「左翼」偏向者のこれらのあやまちは、中国共産党第六回大会(一九二八年七月)で
非難された。第六回大会は、革命はその性質からして依然としてブルジョア民主主義革命にとど
まると規定した。国内にあらたな革命的高揚の到来することは不可避であると考えて、中国共産
党は、都市と農村で大衆を獲得し、農業革命を展開し、農村に革命の根拠地をつくり、人民権力
の諸機関――プロレタリアートと農民の反帝・反封建的民主主義独裁の諸機関――をつくり、赤
軍を創設し、あらゆる手段で強化発展させる方針をとった。
 第二次国内革命戦争における中国共産党の成功には、毛澤東が顕著な役割を演じた。自分の労
作『中国の赤色政権はどうして存在することができるか?』(一九二八年)、『井崗山の闘争』
(一
九二八年)、その他のなかで、毛澤東は、革命の一時的な敗退後に中国に生じた情勢をマルクス
主義的に分析した。毛澤東は、帝国主義者と中国の支配階級とのあいだの矛盾、農業革命にたい
してますます高まりつつある農民の高揚、中国の大都市における蒋介石と帝国主義者の大兵力と
警察力の集中、農村における彼らの勢力の弱体が、この情勢における主要な特質であることをし
めした。毛澤東は、マルクス=レーニン主義の原理を中国の新しい、独自の情勢に創造的に適用
して、労働者階級の力によって農民の革命闘争を指導し、農村に強力な革命の根拠地を樹立強化
し、武装革命軍を創設強化するために、党活動の南心を農村にうつすことを予定した、中国革命
をいっそう発展させる計画を立てた。毛澤東は、中国共産党が正しい指導をおこなえば、これら
の革命の根拠地は、長期の革命闘争によってしだいに発展、拡大し、全中国的規模で革命を勝利
させることができることをしめした。
 中国共産党は、農業革命、強力な革命根拠地の建設、赤軍の創設の先頭に立った。江西、湖南、
江西南部、福建西部には、広大かつ強力な革命の根拠地が樹立された。その他の革命根拠地は、
湖北、安徽、広四、広東、河南、四川の各省に樹立された。毛澤東を主席に中華ソヴェト(労働
人民代表会議)共和国がつくられた。毛澤東の立てた敵の優越した勢力にたいする人民の兵力の
戦略・戦術に指導されて、赤軍および遊撃隊は、革命の拠点にたいする蒋介石の包囲攻撃を撃退
した。
 この時期に、中国共産党内に生じた李立三を先頭とする「左翼」的偏向は、革命運動に大きな
損害をあたえた。「左翼」偏向者は、新しい情勢の性格や特質を理解しないで、若干の党組織を
大都市における時機尚早の蜂起の道にひきいれ、戦争のおきてを無視し、赤軍の勢力と能力とを
過大評価して、中国の主要中心部への赤軍の攻撃を要求した。李立三の「左翼」的偏向は、中国
共産党の〔第六期〕中央委員会第三回総会(一九三〇年九月)で、ばくろされた。
 一九三一年から、中国共産党の活動は、中国における日本帝国主義者の干渉の開始によって特
徴づけられる情勢のなかでおこなわれた。日本の干渉は、労働者、農民、インテリゲンツィアの
革命的部分とならんで、小ブルジョアジーの広範な層と民族ブルジョアジーの一部もふくまれた
国内の人民の反軍国主義運動のあらたな、力づよい高揚をよびおこした。日本の侵略者にたいす
る闘争を組織することが、中岡共産党の活動の中心になった。満州の占領が開始されたのち、中
国共産党は、干渉者にたいする武装抵抗を人民によびかけた。共産党員の指導のもとに、東北そ
の他の諸地区では、日本の侵略者にたいする人民戦争が展開された。日本の侵略に反対してたた
かうかわりに、背信的にも満州を日本にあたえた蒋介石政府は、革命の根拠地にたいする包囲攻
撃をつづけた。蒋介石政府の降伏主義的政策は、全人民の憤激をよびおこした。中国共産党中央
委員会の若干の指導者(王明〔陳紹禹〕および博古〔秦邦憲〕)の重大な「左翼」的誤謬によっ
て、赤軍の偉大な戦果と国内の全人民的抗日運動の高揚の結果つくりだされた好都合な条件は、
革命運動を強化するために利用されなかった。「左翼」的一脈は、労働者と農民の国民党の軍隊
の愛国的一派、都市小ブルジョアジーおよび民族ブルジョアジーとの統一戦線の結成に反対し、
国民党政府の支配下にある諸地区で、革命闘争の合法的・半合法的可能性を利用することをこば
んで、セクト的政策をおこなった。革命の根拠地で、「左翼」的一派は、経済政策で重大なあや
まちをゆるし、さらにまた、愛国的機動戦には対した。四年間(一九三一年一月―一九三五年一
月)党の指導機関内部を支配したこのまちがった「左翼」の方針は、党と革命にとくに重大な損
害をあたえた。「左翼」のあやまちは、国民党の支配下にあった諸地域の中国共産党の諸組織に
大きな損失をもたらした。「左翼」的政策の結果、赤軍部隊の状態は、一九三三年十月の蒋介石
の第五回包囲攻撃の開始以後、極度に不利になった。中国共産党は、赤軍部隊の中国西北への遠
征にかんする決定を採択した。大遠征の当初、「左翼」的一派は、大きな軍事的あやまちをゆる
しつづけ、その結果、赤軍部隊は大きな損害をこうむった。一九三五年一月に、遵義(貴州省)
で、毛澤東の指導のもとにひらかれた歴史的な中央政治局拡大会議が召集され、そこで、「左翼
」的一派のあやまちにたいして鋭い批判かくわえられ、「左翼」的一派は、党指導部からとおざ
けられた。毛澤東を先頭とする中央委員会の新しい指導部がつくられ、それ以後、ひきつづき毛
澤東が、中国共産党中央指導部の先頭に立っている。大遠征の第二段階の時期に、中国共産党の
内部では、張国Zにひきいられた右翼日和見主義者一派の正体がばくろされた。彼らは、敗北主
義と離党主義の道に立って、中国西北への赤軍の遠征を失敗させようとした。
 中国共産党の指導のもとに、大遠征は成功裡に遂行された。このことによって中国の赤軍は、
社会主義強国――ソ同盟に代表される強固な背後を確保し、日本侵略軍にたいする闘争を展開す
る可能性をつくりだした。中国赤軍部隊が陝西省に到着(一九三五年)したのち、中国共産党は、
日本侵略軍に抵抗するために人民を動員し、革命勢力を強化するための闘争を強化した。中国の
情勢の変化と、国内に生じつつある階級勢力の再編成に適応して、中国共産党中央委員会は、日
本帝国主義者の侵略にたいする闘争の時期における戦略・戦術方針をつくりあげた。この方針は、
『日本帝国主義反対の戦術について』(一九三五年)、『抗日の時期における中国共産党の任務
』(一九三七年)、その他の毛澤東の労作のなかで述べられた。日本の侵略にたいしては、労働
者、
農民、都市小ブルジョアジーだけではなく、民族ブルジョアジーや買弁ブルジョアジーと地主の
一部の層すらも反対していることを教示して、中国共産党は、国内に広範な抗日民族戦線を樹立
し、日本侵略軍にたいする戦争における労働者階級の指導的役割をあらゆる方法で強化し、国内
の大衆の民主主義的人民運動と人民の武装勢力を強化し発展させることを主要な任務として提起
した。日本の侵略者にたいしてたたかうための人民の動員を、同時に国内の人民の民主主義勢力
の強化と発展に結合させるという中国共産党中央委員会によって作成された政策は、中国共産党
の行動の基礎におかれた。
 広範な抗日民族戦線を樹立する目的で、中国共産党は、労農民主共和国のための闘争のスロー
ガンを、日本侵略者に反対し、国家の民主的再建をめざす共通の民主的綱領にもとづいてたたか
っているすべての階級と党を統合した連合政府を先頭とする人民共和国のための闘争のスローガ
ンに変え、地主の土地の没収政策を減租減息〔小作料の引下げと高利貸利息の引下げ〕の政策に
かえる決定を採択した。
 それと同時に、中国共産党は、全党員のイデオロギー的武装の活動を強化している。この点で
は、毛澤東の諸労作が顕著な役割をはたした。著作『中国革命戦争の戦略問題』(一九三六年)
のなかで、毛澤東は、中国における革命戦争の性格とその特質をふかく分析し、国内革命戦争の
一〇年間にわたる中国赤軍の豊富な経験を理論的に普遍化した。それはのちに日本の侵略者にた
いする人民戦争の基礎にすえられた。哲学的著作『実践論――認識と実践との関係――知識と行
動との関係について』および『矛盾論』(一九三七年)のなかで、毛澤東は、唯物弁証法の法則
を中国の現実の具体的諸条件に適用して、「左翼」および右翼偏向者の教条的義的誤りや経験主
義的誤りのイデオロギー的基礎をばくろした。

 抗日戦争の時期の中国共産党(一九三七―四五年)

 一九三七―四五年の時期に、中国共産党は、日本帝国主義者にたいする中国人民の民族解放戦
争の先頭に立った。中国共産党は、断固として、広範な抗日民族戦線を樹立する方針をとった。
広範な人民大衆に支持された中国共産党の努力によって、国民党指導部は、公然たる国内戦争を
中止し、抗日戦争で中国共産党と協力する用意のあることを声明せざるをえなくなった。しかし、
この協調は、中国共産党の行動の制約をともなった。そのことは、中国共産党にたいする国民党
指導部の旧来の敵意がのこっていることを証明した。抗日統一戦線にかんする協定にともなって、
西北地区の革命の拠点は、陝・甘・寧辺区と改称され、赤軍の主要な勢力は、八路軍および新四
軍に再編成された。抗日民族統一戦線の政策の実行にあたって、中国共産党は、人民大衆のなか
での政治活動の遂行、陝・甘・寧辺区および解放区における民主主義建設の指導、八路軍および
新四軍の行動においては完全な独自性をたもった。中国共産党の努力は、広範な民族戦線を樹立
し、日本の侵略者にたいする戦争で労働者階級の指導的役割を強化し、国内の大衆的人民運動と
人民の武装勢力をあらゆる手段をつくして強化し、戦線で日本の侵略者に断固たる抵抗をしめし、
敵の背後に全人民の武装闘争を組織し、本質的には、一九三九年から抗日軍事行動を中止し、人
民民主主義運動と中国共産党にたいする敵対行動を公然ととりはじめていた国民党指導部の裏切
り政策を組織的にばくろすることにむけられた。
 中国共産党のただしい政策の結果、中国の民主主義勢力は、日本帝国主義者にたいする民族解
放戦争で大きな成功をかちとった。一九四五年四月までに、中国共産党中央委員会が存在してい
た陝・甘・寧辺区のほかに、敵の背後に、一八の解放区がつくられた。増大し強化された人民の
武装勢力は、日本侵略者にたいする中国の戦争で主要な勢力に変った。人民の武装勢力が、毛澤
東の軍事的労作『抗日遊撃戦争の戦略問題』(一九二八年)、『持久戦論』(一九三八年)、『
戦争と戦略問題』(一九三八年)のなかでつくられた戦略・戦術にもとづいて、軍事行動をおこ
なったことが、人民の武装勢力の成功をたすけた。日本侵略者との戦争の時期に、中国共産党の
権威は、はかり知れぬほど増大し、中国共産党は、中国人民の抗日戦争のみとめられた指導者と
なった。党員数は一二〇万に増加した。
 戦争の当初、中国共産党は、この時期に生じた陳紹禹〔王明〕その他「国民党の反人民的な政
策に譲歩し、人民大衆よりも国民党をより信頼し、大胆に大衆の闘争を展開することを決心せず、
解放区を拡大し、日本の占領地内で人民戦争の数を増大することを決心せず、日本侵略者にたい
する戦争の指導権を国民党にゆずりわたした」〔毛澤東『現在の情勢とわれわれの任務』〕人々
の右翼的誤りを、成功的に克服した。それと同時に、中国共産党は、国民党との統一戦線の破棄
を要求した「左翼」的偏向者に断固たる反撃をくわえた。共産党員のイデオロギー的教育、マル
クス=レーニン主義古典の研究、作風整頓にかんする多くの労作が書かれた。この時期に書かれ
た毛澤東の労作『「共産党人」発刊の辞』(一九三九年)、『中国革命と中国共産党』(一九三
九年)、『新民主主義論』(一九四〇年)、その他は、中国共産党のイデオロギー的武装にとっ
て大きな意義をもっていた。それらの諸労作のなかで、毛澤東は、中国における革命運動の経験
を一般化し、国内の階級勢力の配置をくわしく分析し、国際情勢と中国の国内情勢のマルクス=
レーニン主義
的評価にもとづいて、人民民主主義革命のいっそうの発展の見通しをあたえた。プロレタリア国
際主義の精神で党員を教育する事業で大きな役割をはたしたのは、毛澤東の論文『ソ同盟の利益
と全人類の利益の一致』(一九三九年)である。
 ヒトラー・ドイツにたいするソヴェト軍の決定的勝利と中国の民主主義勢力の大きな成功の情
勢のもとで、一九四五年の春ひらかれた第七回大会は、中国共産党史のうえで大きな意義をもっ
ていた。大会で毛澤東は、『連合政府について』という政治報告をおこなった。大会は、人民の
勢力を強化拡大し、抗日統一戦線をさらにいっそう強化し、そのなかで労働者階級の指導的役割
を強化し、その基礎のうえに、日本帝国主義者にたいする戦争をすみやかに勝利のうちに終結さ
せ、国民党の一党独裁を廃止し、革命的・民主主義的階級の連合政権をもつ人民民主主義制度を
国内にうちたてるためにたたかうことを党の任務として提起した。大会は、中央委員会の政治報
告を確認し、党の新規約を採択し、中国共産党中央委員会の新構成員を選出した。中国共産党の
経験に富んだ指導者毛澤東、劉少奇、周恩来、朱徳、その他が中央委員になった。毛澤東が中央
委員会主席にえらばれた。

     第三次国内革命戦争の時期の中国共産党

 ソ同盟が決定的な役割をはたすことによって実現されたヒトラー・ドイツと帝国主義日本の壊
滅、その結果としての全世界における民主主義勢力の増大と強化は、中国における人民解放運動
の勝利にとって好都合な前提をつくりだした。第二次世界戦争が終結したのち、中国共産党は、
その手さきである蒋介石一味の援助によって、中国を自国の植民地に変え、ソ同盟とアジア諸国
民にたいする侵略のための兵器庫に変えようとしたアメリカ帝国主義に反対する中国人民の闘争
の先頭に立った。一九四五年八月二十五日、中国共産党は、宣言を発表し、そのなかで、解放区
における民主主義的改革の保持を予知し、解放区にたいする国民党軍隊の武力攻撃、国民党の一
党独裁の廃止、民主的連合政府の樹立、自由・無制限・普通選挙にもとづく国民大会の召集を要
求した具体綱領を提起した。この綱領は、広範な人民大衆の完全な賛成をえ、国民党反動の陰謀
にもかかわらず、大体において、一九四六年一月に、政治協商会議によって採択された。しかし
国民党の蒋介石一味は、政治協商会議の決定を実行することをこばみ、一九四六年七月に、アメ
リカ帝国主義者の指示と援助にもとづいて、公然と全国的に民主的解放区への進撃をはじめた。
国内では、第三次国内革命戦争が展開した。人民解放軍は、国民党軍隊の攻撃にたいする武装反
撃を組織した。一連の宣言と声明のなかで、中国共産党は、国民党の蒋介石一味の反民族的・反
人民的政策と中国におけるアメリカ帝国主義者の侵略政策をばくろし、中国をアメリカ帝国主義
者の植民地に変えようとする、国民党政府とアメリカとのあいだに結ばれた条約や協定をはげし
く非難し、それらを承認することをこばんだ。中国共産党は、国民党の反人民的な「国民」大会
に参加することを断固として拒絶し、大会によって採択された「憲法」の非合法的ないつわりの
性格をばくろして、国民党一味の権力を打倒するよう人民によびかけた。農民の希望にこたえて、
中国共産党中央委員会は、一九四六年五月四日に、小作料をひきさげる政策を地主の土地を没収
して勤労農民にあたえる政策に変更するという決定を採択し、一九四七年九月には、全国土地会
議を召集して土地法大綱を採択した。
 人民の利益に合致した中国共産党の強固な、徹底した政策は、アメリカ帝国主義者とその手さ
きである国民党の計画を完全に崩壊させた。中国共産党の指導のもとに、労働者、農民、都市小
ブルジョアジー、民族ブルジョアジー、中国のすべての民族を包含したその他の愛国的分子をふ
くむ広範な人民民主主義統一戦線を結成した。国民党軍隊の攻撃を撃退したのち、人民解放軍は、
戦争の二年目に、みずから攻撃に転じ、国民党一味の権力から成功裡に中国を解放しはじめた。
一九四七年十二月に、中央委員会と党活動家の拡大会議がひらかれた。この会議で、毛澤東は、
『現在の情勢とわれわれの任務』という報告をおこなった。報告のなかで、人民革命戦争が、転
換点に達したことが指摘され、最後の勝利まで国民党一味と闘争をおこなうという方針が決定さ
れた。人民解放軍の決定的勝利の情勢のもとで、一九四九年三月に、〔第七期〕中央委員会第二
回総会がひらかれ、国内の民主主義建設の一連のもっとも重要な問題を審議した。経済建設にか
んする主要な命題はその後、中国人民政治協商会議の共同綱領の経済政策の基礎におかれた。党
の活動にかんして、総会は、中国共産党の党活動の重心を農村から都市にうつすという決定を採
択した。人民解放軍は、人民大衆の広範な支持をよりどころにして、一九四九年までに中国領土
の大部分を解放した。
 一九四九年十月一日、中華人民共和国中央人民政府の成立が宜言された。中央人民政府は、中
国共産党の提案によって召集され、全国人民の意志を代表する中国人民政治協商会議によって選
出されたものである。

     中国共産党は中華人民共和国の指導力である

 人民民主主義革命が勝利したのち、中国共産党は、中華人民共和国の全般的にみとめられた指
導者となった。偉大なソ同盟のまわりに団結した平和を愛する民主的諸国民の一員になった中国
人民は、中国共産党の指導のもとに、成功裡に人民民主主義中国を建設している。中国共産党の
努力は、反帝・反封建革命を遂行し、社会主義建設への漸次的移行のための主要な前提である人
民民主主義制度を強化することにむけられた。中国共産党の指導のもとに、労働者、農民、小ブ
ルジョアジー、その他の愛国的・民主主義的分子の人民民主主義統一戦線の国家権力であり、労
働者階級が指導する労農同盟を基礎とした人民民主専政が確立された。共産党員は、国家権力機
関のあらゆる環で活動し、巨大な組織・教育活動をおこない、汚職と官僚主義の残存物に反対し、
人民権力の諸機関と人民との緊密な連繋をまもる闘争の先頭に立っている。一九五〇年六月にひ
らかれた中国共産党中央委員会第三回総会は、『国家財政経済状態の基本的好転のために』とい
う毛澤東の報告をきいて、それを承認した。中国共産党の指導のもとに、買弁独占資本に属する
企業の国有化がおこなわれ、帝国主義者の特権と国の経済にたいする外国資本家の統制が廃止さ
れ、革命的農業改革が成功的に実行された。三年間で、農業と工業は、過去に達成された最高の
水準にまで復興した。経済の復興を完成したのち、中国人民は、国を工業化し、農業をいっそう
発展させる目的で、中国共産党の指導のもとに、一九五三年から、国民経済建設の第一次五ヵ年
計画に着手した。経済の固有部門と協同組合部門は、急速に発展強化しつつある。人民の物質的
福祉は不断に改善され、文化の発達では大きな成果が達成された。中国共産党は、中華人民共和
国に課せられた、世界の革命運動と労働運動の新しい「突撃隊」になるという任務の解決を、人
民の革命的創造力の動員の基礎のうえに実現しつつある。この目的のために、国内では、中国共
産党の指導のもとに三つの大衆運動が展開された。すなわち、平和擁護のためにたたかい、アメ
リカ帝国主義者の侵略にたいする抵抗を組織し、朝鮮に援助をあたえる運動、農業改革をおこな
う運動、反革命に圧迫をくわえる運動がそれである。それらの運動には、数億の市民が参加した。
中国共産党は、人民民主統一戦線のいっそうの強化と拡大に大きな注意をはらった。中国共産党
は、中国のあらゆる民主的諸政党や団体との協力を一貫して強化している。それと同時に、中国
共産党は、中国人民協商会議の共同綱領をやぶり、人民民主主義制度に損害をあたえているブル
ジョアジーの一部にたいする闘争に人民を動員している。人民民主主義権力の強化と発展におけ
る重要な段階となったのは、中央人民政府の決定にもとづいて開始された一九五三年の人民代表
大会の選挙と全国人民代表大会の召集準備であった。
 中国共産党の指導のもとに、中華人民共和国は、中和と国際的安全を強化する強力な要因に変
った。中華人民共和国は、帝国主義者が、アジア諸国民を自由に奴隷化し、アジアをあらたな世
界戦争の根源地に変えることにむけられた政策をおこなうことをゆるさない国際勢力となった。
 革命の過程で中国共産党は、数百万の大衆の党に変った。中国共産党の三十周年(一九五一年
七月一日)までに、党の陣列には五八〇万の党員がかそえられた。全国には二五万の下部党組織
があった。中国共産党は、民主的中央集権制の原則にもとづいてうちたてられた。党の最高機関
は党大会である。大会は、大会と大会とのあいだの時期における党の最高指導機関である中央委
員会を選出する。党増強の整頓にかんする第三回中央委員総会の決定にしたがって、党員の採用
は厳重な個人審査によっておこなわれ、まず第一に産業労働者を入党させている。旧解放区の農
村では、党員の採用は一時停止された。それと同時に、党の陣列から、党にとりいる者や動揺分
子を組織的に一掃している。党員の思想的・政治的水準をたかめ、プロレタリア国際主義の旗に
たいする忠誠の精神、ブルジョア・イデオロギーとその腐敗した影響にたいする非妥協性の精神
で党員を教育することに大きな注意をはらっている。党員のなかには、マルクス=レーニン主義
理論の研究が広範に組織された。国の民主主義的再組織のための闘争において、中国共産党は、
マルクス=レーニン主義の教義、ソ同盟共産党とソ同盟における社会主義建設の全世界史的経験
とによって断固として指導されている。
 中国共産党は、多数の新聞、雑誌を発行している。中国共産党中央委員会の中央機関紙は『人
民日報』である。
   チェコスロヴァキア共産党

 チェコスロヴァキア共産党は、労働者階級、勤労農民、勤労インテリゲンツィア(チェコスロ
ヴァキア共産党構成員)によって組織された志を同じくする共産主義者の自由意志にもとづく戦
闘的同盟である。チェコスロヴァキア共産党は、チェコスロヴァキア人民民主主義共和国の政治
・経済・文化生活の主要な指導勢力であり、社会主義の建設をめざすチェコスロヴァキア勤労者
の闘争の組織者であり、指導者である。
 チェコスロヴァキア共産党は、大十月社会主義革命の影響をうけてはじまった革命的高揚の時
期に結成された多くの共産主義グループを統合して、チェコスロヴァキア社会民主党左翼を基礎
として、一九二一年五月にうまれた。チェコスロヴァキア共産党の結成に先だって、一九二〇年
十二月の労働者階級の政治ストライキのときにとくに尖鋭になったチェコスロヴァキアのプロレ
タリアートとブルジョアジーのあいだの権力獲得闘争がおこなわれた。プロレタリアートの一時
的敗北の原因となった社会民主主義の右翼指導者の裏切りは、社会民主党内部を完全に分裂させ
た。一九二一年五月十四―十七日に、プラーグで、「マルクス主義左翼」チェコスロヴァキア社
会民主党の大会がひらかれ、チェコ、スロヴァキア両社会民主党を単一のチェコスロヴァキア共
産党に統合した。一九二一年十月に統一大会がひらかれ、その大会で、チェコスロヴァキア領土
内にあったドイツ、ハンガリア、ポーランド、ザカルパト・ウクライナの共産主義グループが、
チェコスロヴァキア共産党の構成員になった。
 一九二一年に四五万の党員をかぞえたチェコスロヴァキア共産党がうまれた直後、党は、チェ
コスロヴァキアの労働者階級と全勤労者の革命闘争の先頭に立った。チェコスロヴァキア共産党
創立後の最初の数年間は、日和見主義を克服するための激しい党内闘争と重大な党の危機によっ
て特徴づけられた。チェコスロヴァキア共産党内部の危機の主要な原因は、革命的高揚の時期か
ら革命闘争の一時的休止の時期への移行にともなう困難であった。チェコスロヴァキア共産党の
党内危機を克服するうえで大きな役割を演じたのは、コミンテルンとソ同盟共産党(ボ)の援助
であった。チェコスロヴァキア共産党のボリシェヴィキ化への途上における重要な第一歩は、第
二回党大会(一九二四年十―十二月)であった。その大会で、イ・ガケンを先頭とする党のマル
クス主義的中核が、いくたの組織上、イデオロギー上の問題で勝利をえた。大会は、国家が分離
されるまで民族自決権にかんする条項を党の綱領にいれた。しかし、大会は、チェコスロヴァキ
ア共産党内に社会民主主義的イデオロギーの再現を生んだ資本主義の部分的・一時的・相対的安
定への移行の条件下で尖鋭化しつつあった党内危機を克服することはできなかった。
 チェコスロヴァキア共産党を強化するうえに大きな意義をもっていたのは、共産主義インタナ
ショナル執行委員会チェコスロヴァキア委員会〔一九二五年三月二十七日〕におけるイ・ヴェ・
スターリンの演説である。イ・ヴェ・スターリンはこの演説のなかで、危機の原因をふかく分析
し、主要な危険としてチェコスロヴァキア共産党内の右翼的危険を指示し、危機を克服する方法
とチェコスロヴァキア共産党を真に革命的な政党に変える方法とを指示した〔スターリン『チェ
コスロヴァキア共産党について』、邦訳全集第七巻七〇―七九ページ〕。
 コミンテルンのがわからの援助は、チェコスロヴァキア共産党が、党の分裂の脅威をとりのぞ
き、右翼日和見主義的一派を孤立させることをたすけた。一九二五年九月二十六―二十八日にひ
らかれたチェコスロヴァキア共産党第三回大会は、党の真に革命的な分子を強化し、党内の危機
を克服することに重点がおかれた。大会で選出された中央委員会の構成員にクレメンテ・ゴット
ワルトがくわわった。彼はまた中央委員会政治局員にもなった。チェコスロヴァキア共産党の強
化は、大衆のなかで党の勢力をつよめ、一九三五年十一月十五日の国会選挙の結果にあらわれた。
そのときチェコスロヴァキア共産党は約一〇〇万票を獲得し、四一の議席を得て、チェコスロヴ
ァキア全政党のなかで第二位に進出した。ブルジョアジーはチェコスロヴァキア共産党にたいす
る闘争を強化した。党内の指導的地位に潜入したブルジョアジーの手さきは一九二八―二九年に、
チェコスロヴァキア共産党の党内闘争を激化させた。チェコスロヴァキア共産党中央委員会指導
部のなかの日和見主義者の政策は、K・ゴットワルトを先頭とする党のマルクス=レーニン主義
的部分から鋭い非難をうけた。大会は、ブルジョア的チェコスロヴァキア国家の帝国主義的性格
をばくろし、チェコスロヴァキア・プロレタリアートの今後の階級闘争の路線をさだめ、農業政
策、党の組織的建設、共産党員のマルクス=レーニン主義教育、その他の問題にかんする重要な
決定を採択した。
 党の指導機関の強化、解党主義者と分裂主義者の敗北は、大衆のなかでチェコスロヴァキア共
産党の勢力をいっそう強化させた。
 一九二九年末にはじまった世界経済恐慌の条件のなかで、チェコスロヴァキア共産党は、社会
民主主義者の助けをかりて、労働者階級の搾取を強化しようとし、国のファシズム化の道に立っ
たチェコスロヴァキア・ブルジョアジーの反動政策にたいする労働者階級と全勤労者の抵抗の先
頭に立った。
 チェコスロヴァキア共産党第六回大会(一九三一年)は、危機を脱し、勤労者の状態を改善す
るただ一つの根本的な方法は、資本主義制度の絶滅であることを強調した。それと同時に、大会
は、労働者階級と勤労農民の部分的な要求のための闘争をいっそう発展させることの重要性を指
示した。大会は、勤労者の政治的権利をまもるための一貫した闘争と、新戦争の準備に反対する
闘争をおこなうようよびかけた。大会は、政治的・社会的解放をめざす共同闘争をおこなうため
に、統一戦線と労働者階級と農民の同盟を結成する政策を実行することが必要なことを指示した。
 チェコスロヴァキア共産党は、国内でつよまりつつあった革命運動に、指導的な役割を演じた
(一九三二年には、約四〇万人が参加した失業者の行動があり、一九三二年には、クラドノ、ガ
ンドロヴァ、オストラヴァ諸州の鉱山労働者に支持されたモステッ力州の二万五〇〇〇人のスト
ライキその他がおこなわれた)。
 一九三三年のドイツにおけるファシスト独裁の確立とチェコスロヴァキアにおけるヒトラーの
手さきの破壊活動は、チェコスロヴァキア共和国の存立自体に直接的な脅威をつくりだした。チ
ェコスロヴァキアのブルジョアジーは、国を将来ファシズム化するためにつくりだされつつあっ
た情勢を利用した。一九三三年中に、チェコスロヴァキア共産党のすべての機関出版物は禁止さ
れた。共産党は事実上、政治活動の合法的可能性をうばわれ、多くの共産党員が投獄された。チ
ェコスロヴァキア共産党は、ファシストの危険に反対するチェコスロヴァキア勤労者の闘争の先
頭に立った。しかし、共産党内にいた小ブルジョア分子は、トロツキストの影響をうけて、党を
ファシズムのまえに降伏する道に追いやろうとした。正体をばくろされたトロツキストの手さき
は、チェコスロヴァキア共産党から追放された。
 チェコスロヴァキア共産党は、一貫してチェコスロヴァキア共和国の勤労者の利益、自由、民
族の独立を擁護し、コミンテルン第七回大会(一九三五年)によって宣言された労働者と広範な
反ファシスト人民の統一戦線政策をチェコスロヴァキアで実行にうつすための闘争をおこなった。
党は根気づよく、ソ同盟にたいして敵対的なチェコスロヴァキアの対外政策を変更し、ソヴェト、
チェコスロヴァキア両国の関係を強化することにつとめた。チェコスロヴァキア共産党第七回大
会(一九三六年)は、ヒトラー・ドイツから共和国の民族的独立をまもることがもっとも重要な
任務となっており、この任務を実行するためには、もっとも広範な国民大衆の動員とソ同盟との
緊密な同盟が必要であることを強調した。
 チェコスロヴァキア共産党は、政府とブルジョア改良主義的諸政党の降伏主義的・反民族的政
策に反対して断固としてたたかっていた、ただ一つのチェコスロヴァキアの政党であった。チェ
コスロヴァキア共産党は、根気づよく侵略者に抵抗するようよびかけ、ソ同盟は、ヒトラー軍が
チェコスロヴァキアに攻撃をくわえるばあいには、チェコスロヴァキア共和国に援助をあたえる
用意のあることを指示した。しかし、チェコスロヴァキアのブルジョア政府は、ソ同盟の援助を
拒否して、チェコスロヴァキアの自由と独立とを売りわたし、国をヒトラー軍にひきわたした。
 一九三八年十二月二十九日に、分裂したチェコスロヴァキアの降伏主義的政策は、チェコスロ
ヴァキア共産党の解散を宣言した。しかし党は、地下にもぐってその闘争をつづけた。
 チェコスロヴァキア共産党は、ヒトラー侵略者とその共犯者にたいするチェコ、スロヴァキア
両国民の闘争の組織者であり指導者であった。国の分裂の条件下で、いわゆる「スロヴァキア国
家」における反ファシスト運動をより機動的に指導する日的で、一九三九年にチェコスロヴァキ
ア共産党からわかれて、スロヴァキア共産党が組織された。地下にあるチェコスロヴァキア共産
党中央委員会およびスロヴァキア共産党中央委員会の指導は、K・ゴットワルトを先頭とする亡
命地にあった党中央部によっておこなわれた。
 チェコスロヴァキア共産党にひきいられたチェコスロヴァキア勤労者の反ファシスト闘争は、
一九四一―四五年のソ同盟の大祖国防衛戦争の開始後、とくに広範な規模をもつにいたった。チ
ェコスロヴァキア共産党は、チェコスロヴァキア勤労者をソ同盟との協力にむかわせ、チェコス
ロヴァキアの独立の回復をめざす闘争におけるソ同盟の決定的な役割を強調した。一九四四年の
ソヴェト軍のチェコスロヴァキア国境への進出は、国内の反ファシスト運動の力づよい高揚をよ
びおこした。チェコスロヴァキア国民の解放闘争のもっとも明瞭なあらわれは、チェコスロヴァ
キア共産党の指導のもとにおこなわれた一九四四年のスロヴァキアの蜂起と、一九四五年のプラ
ーグの蜂起であった。共産党員にひきいられたチェコスロヴァキア勤労者の英雄的闘争は、反動
主義者と、当時まだその正体をばくろされていなかった帝国主義者のスパイ(スランスキーその
他)の反人民的計画を挫折させた。チェコスロヴァキア勤労者の革命的行動は、ヒトラー占領軍
に重大な損失をあたえた。献身的な解放闘争において、チェコスロヴァキア共産党はひどい損害
をこうむった。すなわち、二万五〇〇〇人の共産党員が闘争中に死に、六万人が強制収容所に監
禁され、ゲシュタボの拷問部屋におくられた。亡くなった共産党員のなかには、チェコスロヴァ
キアの民族的英雄ユリウス・フーチクや、チェコスロヴァキア共産党の陣列におくりこまれたス
パイによってゲシュタボにひきわたされた地下のチェコスロヴァキア共産党中央委員会のその他
多くの指導的活動家がいた。
 チェコスロヴァキア共産党は、ヒトラー占領軍にたいするチェコスロヴァキア勤労者の闘争の
先頭に立ちながら、それと同時に勤労者が、ブルジョア・地主制度を一掃し、労働者階級を先頭
とする勤労者の政権を確立するための闘争をおこなうように方向づけた。完全な民族的・社会的
解放にたいする勤労者のつよい希望は、一九四五年四月五日に公布された、反ファシスト闘争の
過程でつくられたチェコスロヴァキア人とスロヴァキア人の最初の民族戦線政府のいわゆるコシ
ッツェ宣言となってあらわれた。
 ソ同盟軍隊によるヒトラー・ドイツの壊滅とソヴェト軍によるヒトラー軍からのチェコスロヴ
ァキア領土の完全な解放(一九四五年五月)は、ファシスト権力機関の絶滅をともない、それに
関連して、労働者階級を先頭とする人民の手に国内の権力をうつすために必要なあらゆる前提が
つくりだされた。
 労働者階級とその前衛――チェコスロヴァキア共産党に課せられた主要な任務はつぎの点にあ
った。すなわち、うちたてられた人民民主主義制度を強化し、国の経済・政治生活における要衝
をおさえて、ブルジョアジーの経済・政治上の地位を一掃し、労働者階級の独裁を確立すること
がそれである。
 チェコスロヴァキア共産党は、チェコスロヴァキア共和国でおこなわれた社会・経済的改革を
まもる闘争の組織者であり指導者であった。
 チェコスロヴァキア共産党の一貫した革命政策は、チェコスロヴァキアの圧倒的多数の勤労者
の指導者としてみとめられるようになった党の権威をいちじるしく増大させた。チェコスロヴァ
キアにおける人民民主主義制度をいっそう強化することを任務としたチェコスロヴァキア共産党
第八回大会がひらかれた一九四五年末から一九四六年三月までのあいだに、チェコスロヴァキア
共産党はその党員数を五〇万から一一〇万に増加させた。一九四六年五月に、党は総投票数の約
四〇%を獲得して、国民議会の選挙で大勝利を得た。政府の首班には、チェコスロヴァキア共産
党議長のK・ゴットワルトが立った。
 チェコスロヴァキア共産党に指導されているチェコスロヴァキアの勤労者は、一九四五―四七
年に、人民民主主義国家の建設に大きな成功をおさめた。これらの成功は、諸外国の帝国主義者
の直接的な指導のもとに行動したチェコスロヴァキア・ブルジョアジーのはげしい抵抗に反対し、
チェコスロヴァキア共産党にはいりこんだ帝国主義者の秘密の手さきの陰謀に反対してかちとら
れたのである。
 一九四八年二月に、チェコスロヴァキアのブルジョァジーは、アメリカ合衆国帝国主義者の指
令によって、人民民主主義制度を打倒して、国内に資本主義を復活させようとくわだてた。しか
し、一九四八年の二月蜂起は、反動の完全な敗北をもって遂行された。
 一九四八年五月九日は、チェコスロヴァキア共産党か指導的に参加してつくられ、人民民主主
義制度の諸成果を確認した新憲法が採択された。一九四八年に、K・ゴットワルトがチェコスロ
ヴァキア共和国大統領にえらばれたことは、チェコスロヴァキア共産党の指導的役割が国民一般
にみとめられた新しい、明瞭な証拠であった。チェコスロヴァキア政府の首相にはチェコスロヴ
ァキア共産党の主要な指導者の一人であるA・ザポトツキーが就任した。
 チェコスロヴァキア共産党は、一九四七年に、共産党労働者党情報局の創立に参加した党の一
つである。チェコスロヴァキア共産党の陣列を強化し、党の警戒心をたかめるうえに大きな役割
を演じたのは、「ユーゴスラヴィア共産党の状態について」(一九四八年)という共産党労働者
党の決定であった。チェコスロヴァキア労働運動におけるマルクス=レーニン主義の勝利は、労
働者階級の分裂の一掃となってあらわれた。一九四八年六月二十七日に、共産党のイデオロギー
的・組織的基礎のうえに、社会民主党とチェコスロヴァキア共産党の合同がおこなわれた。チェ
コスロヴァキア労働者階級の政治的統一の進展は、チェコスロヴァキア共産党とスロヴァキア共
産党の合同をもっておわった。
 一九四九年五月にひらかれたチェコスロヴァキア共産党第九回大会は、チェコスロヴァキアに
社会主義を建設するための党の一般方針を決定した。大会は、党と全勤労者に一九四九―五三年
の五ヵ年計画と農業の社会主義的再建を遂行するために、国のすべての創造力を動員する任務を
提起した。これらの任務は、国内の階級闘争が尖鋭化し、敵の手さきの活動が強化される情勢の
なかで実行にうつされた。帝国主義の諜報機関は長年にわたって、党の指導部を手中におさめる
ために、チェコスロヴァキア共産党内に自分たちの手さきをおくりこんだ。この結果、スランス
キーその他を首領とするスパイと人民の敵の一団は、党および国家の要職に潜入することに成功
した。アメリカの諜報部に指導されているスランスキーとその共謀者は、国内の人民民主主義制
度を打倒し、資本主義制度を復活させ、チェコスロヴァキアを平和、民主主義、社会主義の陣営
からひきはなして、アメリカ帝国主義の反ソ的兵器庫に変える目的をもった反国家的・反党的陰
謀を組織した。
 しかし、チェコスロヴァキアにおけるアメリカ帝国主義者とその手さきの計画は破産した。一
九四九―五二年には個々の陰謀家のグループが、一九五二年にはスランスキーとそのもっとも緊
密な協力者が、徹底的に正体をばくろされ、害をあたえる力をうはわれた。チェコスロヴァキア
共産党中央委員会とチェコスロヴァキア政府は、国家および党機関から敵対分子を粛清するため
の一連の方策を採用した。チェコスロヴァキア中央委員会の九月および十二月総会(一九五一年
)は、チェコスロヴァキア共産党指導機関の構成員の再編成と強化にむけられた決定を採択した。
チェコスロヴァキア共産党は、マルクス=レーニン主義理論、ソ同盟共産党およびソ同盟におけ
る社会主義建設の経験によってすべての活動を指導されている。
 一九五二年十二月十六―十七日にひらかれたチェコスロヴァキア共産党全国会議は、ソ同盟共
産党第十九回大会の決定をチェコスロヴァキアの諸条件に創造的に適用して、党の新規約を採択
した。チェコスロヴァキア共産党の新規約はつぎのことを定めている。社会主義制度をうちたて、
勤労者の物質的・文化的水準を不断に高め、国際主義、信頼、ソ同盟諸国民との友好の精神で勤
労者を教育し、万国の勤労者との兄弟的関係を強化し、敵の侵略的行動からの祖国の積極的防衛
をあらゆる方法で強化することを党は主要な任務としている。会議は、チェコスロヴァキア共産
党中央委員会の構成員の補充をおこなった。
 帝国主義の手さきとその協力者からひきつづいて解放されながら、チェコスロヴァキア共産党
は、その陣列を統一し、党員のマルクス=レーニン主義的素養の水準を高め、党の宣伝と煽動の
質と効力を高めている。チェコスロヴァキア共産党の指導のもとに、チェコスロヴァキア共和国
は、世界の革命運動と労働運動の「突撃隊」の一つに変った。
 一九五三年三月に、チェコスロヴァキア共産党は大きな損失をこうむった。――チェコスロヴ
ァキア共産党議長であり、チェコスロヴァキア勤労者の指導者であったクレメント・ゴットワル
トが逝去したのである。党は、K・ゴットワルトの戦友のまわりにその陣列をさらにいっそう緊
密に団結させ、国をあらたな勝利へとみちびいた。 L
 チェコスロヴァキア共産党には、一六〇万の党員と党員候補がいる(一九五一年)。チェコス
ロヴァキア共産党は、地域的・職域的特徴によってうちたてられた。党の組織的建設の指導原則
は、民主主義的中央集権主義である。チェコスロヴァキア共産党の最高機関は党大会で、大会は
中央委員会を選出する。中央委員会総会と総会のあいだの党の全般的指導は中央委員会幹部会が
おこない、当面の政治活動の指導は政治局が、当面の組織活動の指導は組織局がおこなっている。
チェコスロヴァキア共産党には、州、地方および都市委員会がある。党の下部組織は、企業、公
共機関、部隊等々につくられている。チェコスロヴァキア共産党には、スロヴァキア領土内の州
党組織からなるスロヴァキア共産党が、成員としてくわわっている。スロヴァキア共産党は、チ
ェコスロヴァキア共産党中央委員会の決定によってその活動を指導されている。チェコスロヴァ
キア共産党内には、党的教育の広範な網がひろげられている。
 チェコスロヴァキア共産党中央委員会の中央機関紙は、プラーグで発行され、八〇万の発行部
数をもつ『ルーデ・プラヴォ』であり、中央機関誌は『ノーヴァ・ミスリ』である。
   朝鮮共産党

 朝鮮共産党は、朝鮮労働者階級の前衛部隊である。国の自由と独立、統一朝鮮民主主義人民共
和国の樹立をめざす朝鮮人民の闘争における指導勢力である朝鮮労働党の中核となった。
 朝鮮における最初のマルクス主義サークルと共産主義グループは、大十月社会主義革命の影響
のもとに開始された民族解放運動が成長する情勢のもとで一九二〇年からうまれはじめた。一九
二五年四月に朝鮮共産党が結成された。しかし、「日本官憲の苛酷な弾圧と破壊と、その当時共
産党の中核をなしていた小ブルジョア・インテリゲンツィアの動揺は、共産党の隊列をよわめ、
一九二八年には、組織された力としての朝鮮共産党は、みずからの存在を絶つことになった。し
かし堅実な共産主義者たちは三〇年代に、新しい発展をかちとった人民的民族解放運動の先頭に
ひきつづぎとどまっていた。」〔金日成『大十月社会主義革命と朝鮮人民の民族解放運動』、『
恒久平和のために、人民民主主義のために!』一九五一年十一月二日、第四四号四ページ〕共産
主義者は、朝鮮における日本帝国主義者の植民地支配にたいする大衆闘争の組織者であった。
 ソヴェト軍によって朝鮮が日本の侵略者から解放(一九四五年)されてのち、共産党員は、地
下から出て、一九四五年八―九月に共産党を復活させた。共産党は、党と大衆とのつながりを拡
大強化し、朝鮮の勤労者のすぐれた代表の力によっていちじるしく成長した。共産党は、国内の
民主的改革のため、ソ同盟、アメリカ合衆国、大英帝国外相のモスクワ会議(一九四五年)の決
定にもとづく統一、独立、民主主義国家樹立のための朝鮮人民の闘争の組織者であり指導者であ
った。
 ソ同盟が北朝鮮に民主主義的発展の完全な自由をあたえているのに、アメリカ合衆国が、朝鮮
にかんするモスクワ会議の決定の遂行を破棄し、国を分割して、南朝鮮を自国の軍事基地に変え
る方向をとりはじめたために、共産党は、やむをえず一九四五年十月に、国の北部と南部に二つ
の指導的中心を設けるにいたった。もっとも複雑な情勢のもとでは、このことは、統一、独立、
民主主義国家の樹立をめざす人民大衆の闘争のより成功的な指導の実現を促進した。共産党の指
導のもとに、北朝鮮では、根本的な民主主義的改革が開始され、南朝鮮では共産党は、アメリカ
帝国主義者と彼らの雇人である南朝鮮反動陣営の朝鮮人民に敵対的な政策に反対する人民大衆の
民主主義的民族解放運動の先頭に立った。
 独立朝鮮民主主義人民共和国建設のための闘争に国のすべての愛国的勢力を結集する目的で、
朝鮮共産党は、すべての民主主義政党と社会団体を統一民主戦線に統合するための主導者となっ
た。一九四六年二月に、南朝鮮民主主義民族戦線が結成され、一九四六年七―八月には、北朝鮮
統一民主主義民族戦線が結成された。一九四六年八月に、北朝鮮では、共産党は、緊密に協力し
てきた新民党(一九四六年二月結成)とともに、マルクス=レーニン主義の思想的・組織的原則
にもとづいて北朝鮮労働党に合同した。南朝鮮では、一九四六年十月に、アメリカ占領当局と李
承晩一味に反対するゼネラル・ストライキと武装蜂起の最中に、共産党の地方組織、人民党(一
九四五年十一月結成)、新民党(一九四六年のはじめに結成)も南朝鮮労働党の統一組織に合同
した。一九四六年十一月二十三―二十四日に、南朝鮮労働党の創立大会がひらかれた。一九四九
年に、北朝鮮労働党と南朝鮮労働党は、朝鮮労働党に統一合同した。労働党の中央委員会議長に
は、すぐれた朝鮮の政治家金日成がえらばれた。
   朝鮮労働党〔*〕

 朝鮮労働党は朝鮮の労働者階級およびすべての勤労者の前衛であり、自由と統一と国の独立の
ために、また、人民民主主義国家を建設するためにたたかう朝鮮人民の闘争を指導し方向づける
力である。それは朝鮮におけるもっとも影響力のある、もっとも大衆的な党として労働者階級、
勤労農民およびインテリゲンツィアのもっとも積極的な意識的な部分をその隊列に結集している。
朝鮮民主主義人民共和国の支配的な党としてその活動を通じて労働者階級の指導的役割を実現し
ている。党の基本的中核となっているのは、朝鮮共産党である。
 北朝鮮では一九四六年八月、マルクス=レーニン主義の思想的・組織的原則にもとづいて、共
産党と新民党(一九四六年二月創立、進歩的インテリゲンツィア、労働者、農民から構成されて
いる)とが合同した結果として形成された。
 南朝鯖ではアメリカ占領当局と李承晩徒党にたいするゼネラル・ストライキと武装蜂起の過程
で、一九四六年十月に、共産党、人民党〔一九四五年十一月に創立、先進的労働者、農民、勤務
員から成る)、新民党(一九四六年はじめに創立、進歩的インテリゲンツィア、労働者、農民か
ら成る)の地方組織が単一の組織である労働党に統一された。一九四六年十一月二十三―二十四
日に南朝鮮労働党の創立大会がおこなわれた。
 北朝鮮労働党と南朝鮮労働党の成立は、朝鮮人民の結集がいっそうすすんだことを意味した。
労働党は労働組合、農民同盟、民主青年同盟、民主女性同盟その他の大衆的な民主団体内でおお
きな活動をくりひろげた。北朝鮮では、労働党の指導のもとに、すべての民主団体と社会団体が、
祖国統一民主主義戦線に結集され、根本的な民主的改革がおこなわれ、その結果として、単一の
人民民主主義国家を建設するための経済的・政治的な土台がつくりだされた。南朝鮮では、労働
党は民主的諸政党と社会団体を民主主義的民族統一戦線に結集し、民主的民族解放運動の指導者
として行動した。南北朝鮮の労働党は広範な人民大衆を、単一・独立・民主共和国のための闘争
に決起させ、一九四八年九月には、朝鮮民主主義人民共和国の統一政府を創設するうえで、指導
的な役割をはたした。
 国の革命的人民民主主義勢力をいっそう結集させ、朝鮮の統一と独立とをはかる朝鮮人民の闘
争の指導を中央集権化するために、北朝鮮労働党と南朝鮮労働党は単一の朝鮮労働党に合同した
(一九四九年)。党中央委員会委員長には同志金日成がえらばれた。労働党は祖国統一民主主義
戦線をつくりだす主唱者となり、南北朝鮮の平和的統一のための闘争の先頭に立った。
 アメリカ帝国主義者とその助力者の北朝鮮にたいする武力侵略の時側に、朝鮮労働党と朝鮮民
主主義人民共和国政府は全朝鮮人民によびかけて、自由と国の独立のための敵との闘争に決起さ
せ、急速に人民軍の兵力を展開し、銃後の活動を戦争に適するようにたてなおし、敵の背後でパ
ルチザン運動を組織した労働党は、戦線と銃後の活動のうち、もっとも責任のある部署に、最良
の党員を派遣した。彼らは献身的な英雄主義によって全朝鮮人民を自由と独立のための闘争へと
奮起させた。朝鮮労働党は人民大衆の英雄的努力に依拠して、戦線でも銃後でも、その組織的活
動により、外国の奴隷になることから国をすくった。
 戦争中、朝鮮労働党は、勤労者の利益と権利の擁護者として全民族的利益のための不屈の闘士
として、これまで以上に全民族的な尊敬と愛をかちえた。労働党はその活動において、マルクス
=レーニン主義理論、国際労働運動の経験、なかでもソ同盟共産党の経験を指針としている。労
働党中央委員会第五回総会(一九五二年十二月)の決議は、全党員のマルクス=レーニン主義的
教育活動を強化し、反動的ブルジョア・イデオロギーと容赦なく闘争をおこない、党および国家
の規律をつよめ、あらゆる手段によって批判と自己批判をくりひろげ、党員カードルの選択、配
置、および実践活動による教育を改善することを党組織に義務づけた。一九五二年十二月十五日、
朝鮮労働党は一〇〇万人以上の党員をもっていた。党は工業企業、施設、学校、農村、軍隊に組
織をもっている。
   ドイツ共産党

 ドイツ共産党は、ドイツ労働者階級の前衛である。ドイツ共産党は、大十月社会主義革命の影
響のもとに強化されたドイツにおける革命的危機の条件のなかで結成された。革命的危機のもっ
とも明瞭なあらわれは一九一八年の十一月革命であった。ドイツ共産党は、ドイツ社会民主党お
よびいわゆるドイツ独立社会民主党の日和見主義的指導者に反対する苛烈な闘争のなかでうまれ
た。ドイツ共産党の基礎は、第一次世界戦争中にうまれた、カール・リープクネヒト、ローザ・
ルクセンブルグ、ウィルヘルム・ピークに指導される「スパルタクス団」の革命的活動によって
準備された。
 創立党大会(一九一八年十二月三十日―一九一九年一月一日)は、ソヴェト権力とプロレタリ
アート独裁を擁護する闘争がドイツ労働者階級の直接的任務であると宣言した。大会は、党がマ
ルクス主義の忠実な継承者であることを確認した。党大会は、ソヴェト・ロシアとの完全な連帯
性を表明した。しかし、党綱領および党大会のその他の諸決定は、党がまだルクセンブルグ的誤
り(労働者階級の前衛としての党の役割にたいする認識不足、プロレタリアートの同盟者として
の農民の過小評価、その他)を克服していないことをしめした。
 党大会は中央委員会を選出し、カール・リープクネヒト、ローザ・ルクセンブルグ、ウィルヘ
ルム・ピーク、その他がそれにくわわった。ドイツ共産党創立大会は、特別な歴史的重要性をも
っていた。大会はドイツ労働者階級の革命的・マルクス=レーニン主義的・戦闘的政党の基礎を
すえた。一九一九年に、ドイツ共産党は共産主義インタナショナルに加入した。
 反動のあらゆる勢力が年若い共産党に敵対した。一九一九年に、ベルリンにおける労働者の一
月蜂起が鎮圧されたのち、ドイツ帝国主義の召使である右翼社会民主主義者は、反革命軍閥をよ
りどころにして、カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルグの暗殺を組織した。共産党
は地下にもぐることを余儀なくされた。このような条件のなかで、いまだにボリシェヴィズムの
戦略と戦術を自分のものにすることができなかったドイツ共産党は、労働者階級を統一すること
ができず、一九一九年に、明瞭な計画もなく、孤立しておこなわれたプロレタリアートの革命的
進出に指導をあたえることができなかった。このことは、反革命がプロレタリアートの革命的進
出に残忍な弾圧をくわえる可能性をあたえた。
 ドイツ共産党は、その失敗と誤りからつぎのような実践的結論をひきだした。ブルジョア国家
機関を徹底的に粉砕しなければ、プロレタリア・ソヴェト共和国を樹立することはできない。党
は、大衆との緊密な結びつきがあってはじめて成功的に運動を指導し、セクトに堕さないでいる
ことができるのである。これらの問題は、ハイデルベルヒのドイツ共産党第三回大会(一九一九
年十月二十―二十四日)における審議の対象となった。大会は、革命における党の指導的役割の
問題に明確さをあたえた。党は、反革命によってあたえられた打撃から急速にたちなおることが
できた。
 一九二〇年にドイツ共産党は、「ソヴェト・ロシアから手をひけ」という国際的カンパニアに
くわわるようドイツ労働者階級によびかけ、ドイツが、ソヴェト共和国にたいする西欧帝国主義
諸国の干渉に参加することに反対する闘争に大衆を動員することに成功した。ドイツ共産党は、
反革命的カップの一揆に反対するルール・プロレタリアートの英雄的闘争を指導した。
 ドイツ共産党は、一九二〇年六月にはじめて帝国議会の選挙に参加して、約六〇万票を獲得し
た。共産党の努力は、いわゆる独立社会民主党からその左翼を分裂させることにむけられた。こ
の仕事で大きな役割を演じたのは、左翼「独立社会民主党」員をドイツ共産党の階列にひきいれ
たエルンスト・テールマンであった。一九二〇年十二月のベルリン大会ののち、共産党と「独立
社会民主党」の左翼との合同がおこなわれ、ドイツ共産党はいちじるしく成長し、共産主義イン
タナショナルのロシア共産党(ボ)支部についでもっとも大きな支部となった。プロイセン国会
の選挙(一九二一年二月)で、ドイツ共産党は一二一万一〇〇〇票と三一の議席を獲得した。こ
れにたいする回答として、反動は労働者階級にたいする攻撃にうつった。ブルジョアジーは、労
働者階級を部分的に粉砕しようと考えて、中部ドイツのプロレタリアートが公然と進出するよう
煽動した。ドイツのマンスフェルトその他の地方の労働者は蜂起した(一九二一年三月)。三月
闘争は、一九一八年の十一月革命以後に生じたそれまでのドイツ労働者の進出にくらべて一歩前
進を意味した。しかし、労働者の闘争は、党の指導部に潜入した裏切者レヴィ一味の行動と、そ
のころドイツ共産党内にひろまっていた、攻撃のための客観条件を計算にいれないで是が非でも
攻撃するという理論によってよわめられた。ドイツ共産党は、労働者に武装蜂起をよびかけたと
はいえ、運動を指導するために統一的な中心部をつくらず、蜂起した人々に、ドイツの他の地方
の広範な人民大衆のがわからの支持を保障しなかったので、戦闘が開始されたとき、レヴィ一味
は、依然として運動を暴動《プッチ》であるといって、労働者に武器をすてるようよびかけた。
労働者の運
動は、プロイセン警察によって弾圧された。
 コミンテルン第三回大会(一九二一年)は、中部ドイツの蜂起した労働者のヒロイズムを十分
に評価したのち、ドイツ労働者の三月進撃の時期における「攻撃理論」が誤りであったことを指
示した。それと同時に、第三国大会は、右翼解党主義的風潮に反駁をくわえた。一九二一年八月
二十二―二十六日にイェナでひらかれたドイツ共産党第七回大会は、コミンテルン第三回大会に
よってあたえられた三月進撃の正当な評価を承認した。レヴィは裏切りの理由によって、すでに
一九二一年四月に党から除名されていた。自分の経験を基礎にし、コミンテルンの決定に指導さ
れて、ドイツ共産党は、社会民主党傘下の労働者との統一戦線を結成し、労働者階級の大部分を
獲得することが必要であるというもっとも前要な結論をひざだした。年若いドイツ共産党を強化
するうえに大きな意義をもっていたのは、ヴェ・イ・レーニンの労作『共産主義における「左翼
」小児病』(一九二〇年)、共産主義インタナショナルの戦術を擁護したコミンテルン第三回大
会における彼の演説、『ドイツ共産党員への手紙』(一九二一年)、その他のレーニンの労作や
演説である。フランスとベルギーのルール占領にともなって尖鋭化したドイツの政治・経済的危
機によってひきおこされた革命運動の成長の条件のなかで、ライプチヒでドイツ共産党第八回大
会(一九二三年一月二十八日―二月一日)がひらかれた。労働者階級の統一戦線の結成と労働者
政府の樹立の問題が大会の注目の中心であった。ドイツ共産党のマルクス=レーニン主義的中核
は大会で、エルンスト・テールマンの指導のもとに党指導部にかくれていた党に敵対的なブラン
ドラ=タールハイマーの日和見主義的徒党にたいして断固たる闘争をおこなった。エルンスト・
テールマンは、共産党員と社会民主党傘下の労働者の統一戦線樹立のスローガンを提起した。大
は、ドイツおよび外国の金融資本に反対し、労働者階級の権力の樹立を擁護するためにたたか
うよう労働者階級と勤労者によびかけた。
 ストライキの巨大な波がドイツをとらえ、プロレタリア百人組がつくられた。労働者階級は、
ドイツ共産党の指導のもとに特別な力をもって、ルールの占領に反対し、ドイツ帝国主義と社会
民主党の右翼指導者の反民族的政策に反対する闘争をおこなった。ドイツ共産党は、フランス共
産党といっしょに、フランス占領軍のなかで大きな活動をおこなった。一九二三年八月に、ドイ
ツ共産党にひきいられたゼネラル・ストライキの結果、クノー政府は打倒された。
 一九二三年の秋には、革命運動の波は、ドイツのすべての重要な地方をとらえ、革命的危機は
いちじるしく尖鋭化した。
 革命的大衆の圧力のもとに、一九二三年十月、ザクセンとチューリンゲンに労働者政府が樹立
された。しかし、ブランドラー=タールハイマー一味は、大衆の革命的進出が政治権力を擁護す
るための武装闘争に成長転化することにブレーキをかけた。ついに革命的大衆の圧力と共産党の
地方諸組織の執拗な要求によって、ドイツ共産党中央委員会が、武装蜂起の準備をせよという指
令を党にあたえることを余儀なくされたとき、ブランドラー一派とトロツキストは、この蜂起の
準備を挫折させた。エルンスト・テールマンを先頭とするドイツ共産党のハンブルグ組織だけが、
その背後でプロレタリアートの先進的部隊を組織し指導した。
 共産党員に指導されたハンブルグの労働者は、三日日の苛烈な戦闘で、数倍もまさった反革命
勢力に反撃をくわえた。社会民主党右翼指導者の裏切りの結果、蜂起が孤立化したことが判明し
たときにはじめて、ハンブルグの労働者は組織的に退却した。ハンブルグ蜂起は、労働者階級の
勝利への意志をはっきりとしめし、ドイツ共産党史の栄光ある一ページに記載された。
 反動の迫害にもかかわらず、一九二三年十一月にその活動が公式に禁止されていたドイツ共産
党は、その活動をつづけた。ドイツ共産党は地下にあって、一九二四年には、労働者階級の経済
的利益を擁護するためのいくたの大ストライキを組織した。資本主義の一時的・部分的なぐらつ
いた安定と、外国、主としてアメリカ帝国主義によるドイツの金融的隷属化の条件のなかで、ド
イツ共産党は、ドイツ勤労者にドーズ・プランとドイツ国民にたいするその結果に反対し、国内
の反動に反対する闘争をよびかけた。
 フランクフルトにおける第九回党大会(一九二四年四月七―十日)で、ブランドラー一派はド
イツ共産党中央委員会から除名された。しかし、ルート・フィシャーとマスロフのトロツキスト
・グループの指導者が、一時的に党指導部を占領した。これら徒党の犯罪的行動の結果、大衆こ
とに労働組合におけるドイツ共産党の広範な勢力は一時減少した。
 党員大衆は、党のマルクス=レーニン主義的中核の指導のもとに、ドイツ共産党の敵にたいす
る闘争をおこなった。ベルリンにおける第十回党大会(一九二五年七月十ニー十七日)で、党の
敵は手ひどい反撃をうけた。労働組合活動にかんする原則的結論のなかで、エルンスト・テール
マンは、革命闘争の勝利の前提として、党が労働者階級の大部分を獲得することが必要なことを
指示した。党全国協議会(一九二五年十月三十一日)で、党の敵は指導的地位から追われた。新
しい中央委員会が選出された。中央委員会の構成員はプロレタリア的になった。ドイツ共産党中
央委員会はエルンスト・テールマンを先頭に立てた。
 ドイツ共産党中央委員会の新構成員を特徴づけてイ・ヴェ・スターリンは、コミンテルン執行
委員会第六回拡大総会のドイツ委員会における演説のなかで、つぎのように述べた。「ドイツ共
産党の現中央委員会は偶然に構成されたのではない。それは右翼的な誤りとの闘争のなかでうま
れた。それは『極左的』な誤りとの闘争のなかで強化された。だから、それは右翼的でも『極左
的』でもない。それはレーニン主義的な中央委員会である。それは、現在ドイツ共産党に必要な、
指導的な労働者グループである。」〔スターリン『コミンテルン執行委員会第六回拡大総会のド
イツ委員会における演説』、邦訳全集第八巻一三九ページ〕
 エルンスト・テールマンの指導のもとに、マルクス=レーニン主義的教えの基礎のうえに、ド
イツ共産党内では、真に革命的な、戦闘的マルクス主義政党の創立をめざす闘争が開始された。
ソ同盟共産党(ボ)の経験、さらにまたイ・ヴェ・スターリンの著作『ドイツ共産党の前途とボ
リシェヴィキ化について』(一九二五年)、コミンテルン執行委員会総会における彼の演説は、
ドイツ共産党にとって大きな意義をもっていた。革命的危機の条件のなかで党のとった闘争方式
はそれ以上資本主義の相対的安定期に適応しなくなった。ドイツ共産党は、ドイツ労働者の大部
分を獲得することを目的とした「迂回運動力式」へ移行しはじめた。この闘争の成果は、党の一
連の大規模な進出にあらわれた。諸侯の財産の無償没収のためのカンパニアにおいて、ドイツ共
産党は、「一プフェニヒも諸侯にのこすな」のスローガンのもとに、一九一八年の十一月ブルジ
ョア革命によって打倒された諸侯のために巨額の補償を要求している反動の攻撃に反対して、大
衆を動員することに成功し、社会民主党の日和見主義的指導者の意志に反して、共産党員労働者、
社会民主党傘下の労働者、勤労者の広範な層とのあいだに行動の統一をえることに成功した。一
四五〇万の選挙人が、諸侯の財産の無償没収に賛成投票した。
 一九二七年三月二―七日に、エッセンで第十一回党大会がひらかれた。大会で「極左的」一味
は完全に粉砕された。大会における演説のなかでエルンスト・テールマンは、西欧帝国主義諸国
の戦争準備に反対し、社会民主党の指導者によって支持されているドイツ帝国主義の侵略政策に
反対してたたかうよう党によびかけた。
 一九二八年に党は、右翼社会民主主義者ミュラー政府によってドイツ帝国主義の任務とされた
再武装政策と、ドイツの攻撃をソ同盟にむけるために、ドイツ独占者たちがドイツの軍事工業の
潜在勢力を復興することをたすけたアメリカ帝国主義者の政策をばくろするための大力ンパニア
をおこなった。一九二七―二九年に、ドイツ共産党は、大規模な大衆的ストライキの中核を指導
した。党は、党が創立した党外の大衆組織――「赤色戦線闘士団」、共産主義青年同盟、さらに
また労働組合員をその活動のよりどころとした。党は、社会民主党右翼指導者をばくろするため
の組織的活動をおこなったが、そのことは大きな、決定的な意義をもっていた。大衆のなかでの
ドイツ共産党の権威は増大強化した。一九二八年五月の議会《ライヒスターク》選挙における共
産党の成功(共産党は三二六万票を獲得した)はそのあらわれであった。下からの統一戦線戦術
の実現をめざす執拗な闘争において、共産党は、あらゆる毛色の日和見主義者と協調主義者の露
骨な妨害にもかかわらず、いちじるしい成果をおさめた。
 一九二九年五月一日に、社会民主党のベルリン警視総監ツェルギーベルによってこのメーデー
・デモは禁止されたにもかかわらず、ドイツ共産党のよびかけに応じて、力づよいデモンストレ
ーションがおこなわれた。警察がデモ参加者に発砲したとき、労働者はバリケードをきずいて、
武装闘争のなかでデモンストレーションにたいする自分の権利をまもった。
 大衆のなかでのドイツ共産党の勢力は、あいつぐ共産党にたいする弾圧(ドイツ共産党中央機
関紙『ローテ・ファーネ』と「赤色戦線闘士団」の禁止、革命的労働者の改良主義国労働組合か
らの大量除名、労働者――ドイツ共産党員の解雇)にもかかわらず、ますます増大した。ベルリ
ン――ウェデングでひらかれた第十二回党大会(一九二九年六月九―十六日)は、せまりつつあ
る革命戦への準備であった。改良主義者の意志に反して、社会民主党傘下の労働者と共産党員労
働者との行動の統一をつくりだし、労働者階級の大多数を獲得するための闘争が、大会に課せら
れた主要な戦術的任務であった。大会は、党が独自に労働者大衆のすべての経済闘争の指導をお
こない、この闘争を大衆的ストライキの方法によって政治的・革命的進出に変えることが、ドイ
ツ共産党のさしせまった目標であることを指示した。大会は、右翼日和見主義的グループを完全
に粉砕し、党から放逐するためのあらゆる方策をとることを中央委員会に依託した。党大会は、
日和見主義者のグループを中央委員会から除名した。右翼日和見主義者ブランドラーおよびター
ルハイマーは、ドイツ共産党を除名された。
 一九二九―三三年の世界経済恐慌と強化されつつあったドイツのファショ化の条件のなかで、
ドイツ共産党は、勤労者の利益の擁護にのりだし、恐慌からの革命的活路をめざしてたたかった
ドイツにおけるただ一つの政党であった。一九三〇年にドイツ共産党は、「ドイツ人民の民族的
・社会的解放の綱領」を発表した。綱領には、ドイツ共産党の指導下にある労働者階級が、ドイ
ツおよび外国帝国主義の桎梏からドイツ人民を解放することのできるただ一つの勢力であること
が強調された。一九三〇年十月に、ドイツ共産党は、貸金ひきさげに反対し、労働条件の改善の
ために進出したベルリンの一四万人の金属労働者のストライキの先頭に立ち、一九三一年一月に
は、
ルールのストライキの先頭に立ち、その過程で、ドイツ共産党は、労働者階級の統一戦線を
つくることに成功した。ドイツ共産党は、労働者階級と勤労農民とのあいだに同盟を樹立しよう
とこころみた。一九三一年には「農民にたいする援助の綱領」が発表された。一九三二年の夏ド
イツ共産党は、広範な「反ファシスト行動」を組織した。その目的は、所属政党と政治的見解と
は無関係に、ファシズムと戦争の危険とに反対する闘争のために勤労者を団結させることにあっ
た。
 帝国主義反動が、ファシスト独裁の確立を促進しようとして、プロイセンのブラウン=セヴェ
リング社会民主党政府を強制的に更迭させた一九三二年七月二十日に、ドイツ共産党中央委員会
は、ドイツ社会党にゼネラル・ストライキをよびかけた。しかし、社会民主党傘下の労働者大衆
は、闘争の準備をしていたにもかかわらず、社会民主党の右翼指導者はこの提案を拒否した。
 ドイツ共産党は、反動との闘争と労働者階級の利益の擁護のために大衆を動員する活動を、党
の陣列を強化する方策の実行にむすびつけた。ドイツ共産党は数的に増大し(一九二八年から一
九三二年までに二・五倍以上に増加)、人民大衆のなかでますます大きな権威をかちとった。一
九三〇年九月の議会《ライヒスターク》選挙で、ドイツ共産党は四五〇万票獲得し、一九三二年
十一月には五九〇万票獲得した。選挙の総決算は、労働者のいちじるしい部分がドイツ共産党支
特にむかいつつあることをしめした。しかし共産党はまだ労働者をファシズムにたいする決定的
な武装闘争にみちびくために必要な勢力をもっておらず、労働者階級もまた、準備が不足してい
た。せまりつつあったファシズムとの闘争の決定的時期に、ドイツ共産党は、社会民主党にファ
シズムにたいする反撃のための統一戦線を結成するようよびかけたが、社会民主党の指導者たち
は統一戦線を拒否した。彼らは、ブルジョアジーと協力し、本質的にはファシズムのために権力
への道をはき清め
た。ヒトラーの独裁が確立された日に、ドイツ共産党はふたたび、ファシズム
反撃のための統一戦線を結成するよう社会民主党によびかけた。しかし、社会民主党と労働組合
の右翼指導者は、ドイツ共産党のこの提案をも拒否し、ファシスト独裁の確立に協力した。ヒト
ラー独裁の確立によって、労働者階級およびすべての民主的勢力――とくに共産党にたいする未
曾有のテロルが開始された。ファシストは、数万のドイツ共産党員を逮捕した。数千の共産党員
がゲシュタポの拷問部屋でころされた。ヒトラー一味は、ドイツ共産党の新聞と集会を禁止し、
議会《ライヒスターク》におけるドイツ共産党の議席を剥奪した。一九三三年二月二十七日、ヒ
トラーの輩下は、共産党員にその罪をなすりつけ、党員にたいするテロルを強化するために、国
会に放火した。党はふたたび地下にもぐることを余儀なくされた。
 一九三三年三月三日に、ドイツ共産党および全ドイツ人民は大きな打撃をこうむった。ドイツ
労働者階級の指導者であるエルンスト・テールマンが、ファシストによって逮捕されたのである。
エルンスト・テールマンのもっとも親しい、信頼すべき戦友ウィルヘルム・ピーク、ワルター・
ウルブリヒト、J・シェールが党の先頭に立った。一九三三年十一月十三日には、シェールもゲ
シュタポの手に落ち、一九三四年三月に殺害された。しかし、残忍なテロルは、共産党員の闘争
にたいする意志をうちこわすことができなかった。
 ドイツ共産党は、ファシスト独裁のまえに降伏したことのないドイツにおけるただ一つの政党
であった。党は、ファシズムと戦争準備にかんするヒトラー一味の計画をばくろし、一度ならず
統一戦線結成にかんする提案をおこなったが(一九三三年三月一日、三月十四日、五月三日)、
あいかわらず、社会民主党と労働組合の先頭に立っていた右翼社会民主主義者の妨害に出くわし
た。
 一九三三年三月の国会選挙で、地下にあったドイツ共産党は、四八五万票を獲得した。そのこ
とは、人民大衆の共産党員にたいする信頼がよわまっていないことを証明した。一九三三年九―
十二月に、ヒトラー一味は、ドイツ共産党にたいする国会放火事件の訴訟という筋書を書いた。
もっとも困難な条件のなかでドイツ共産党は、反ファシズム闘争に大衆を団結させることをつづ
けた。
 コミンテルン第七回大会の決定に指導されながら、ドイツ共産党ブリュッセル協議会(一九三
五年十月)は、党活動を批判的に再検討した。協議会は、ファシズムとの闘争、戦争の脅威に反
対する闘争、ドイツ労働者階級のすべての部分の行動の統一と、フソシスト体制のすべての反対
者の自由、平和、パンをもとめる反ファシスト人民戦線への統合の基礎に立って労働者階級の利
益を擁護するための闘争、ヒトラー独裁の打倒と反ファシスト人民戦線政府の樹立をめざす闘争
に全勢力を動員するよう共産党員によびかけた。ブリュッセル協議会では、ドイツ労働者階級の
単一大衆政党の創立にかんする問題、地下闘争と合法闘争の結合の必要にかんする問題が提起さ
れた。指導的中心部として、プラーグとパリに中央委員会在外専務局が設けられ、それらを通じ
て、国内の地下党組織との連絡がたもたれた。
 社会民主党右翼指導者のサボタージュにもかかわらず、ドイツ共産党は、国内のいくたの社会
民主主義者グループとの活動の統一をうちたてることに成功した。一九三六年に、ドイツ共産党
のイニシアティヴによってドイツ人民戦線準備委員会が結成された。
 一九三九年一月三十―二月一日に、ドイツ共産党ベルン協議会がひらかれた。協議会で採択さ
れた決定のなかでは、ファシズムのがわからの戦争の直接的危険が指示され、この侵略戦争は、
民族的破局にみちびくかもしれないことが強調された。協議会は、ドイツ民族の救済のために、
平和を維持する闘争のために、ヒトラー体制の打倒のために団結するようファシズムのすべての
反対者と全ドイツ国民によびかけた。ベルン協議会は、地下党組織の活動の強化にとって大きな
意義をもっていた。一九三九年の春から、ドイツ労働者、ことに炭坑と造船所労働者の大規模な
進出が開始された。
 ファシスト侵略者によって開始された戦争の当初から、ドイツ共産党はドイツ国内で、ドイツ
帝国主義の侵略戦争に反対して一貫した政策をとってきたただ一つの勢力であった。すでに戦争
の初期に、ドイツ共産党は、ビラや小冊子や新聞でヒトラー体制の打倒によって早急に戦争を終
結させるようよびかけた。ソ同盟にたいするヒトラー・ドイツの電撃的攻撃ののち、ドイツ共産
党は時をうつさず、戦争を中止してヒトラー体制を打倒するようドイツ国民によびかけた。多く
の党組織がその犠牲になった強化されたファシストのテロルにもかかわらず、党は抵抗グループ
(「赤色合唱団」その他)を組織しつづけた。一九四三年七月に、ドイツ共産党は民主的諸勢力
によって「自由ドイツ」民族委員会を結成した。「自由ドイツ」民族委員会は、住民と軍隊のた
めに同じ名前の新聞を発行した。地下の「自由ドイツ」放送局を通じてドイツ共産党は、広範な
宣伝活動をおこなった。戦争のおわりごろ、共産党は、非合法の党グループ、とくにベルリン、
その他の大工業中心地における活動を強化することに成功した。党勢力の結集に大きな活動をお
こなった個々の地下組織のあいだに連絡がつけられた。ファシズムにたいする共産党員の献身的
な闘争は、労働者階級のなかの党員の勢力の増大を促進した。
 一九四四年八月十八日に、ドイツ共産党と全ドイツ人民は甚大な損害をこうむった。約一二年
間の監禁ののち、エルンスト・テールマンがヒトラー一味によって虐殺されたのである。
 一九四五年のソ同盟によるヒトラー・ドイツの壊滅は、ドイツ共産党が地下から出ることをゆ
るした。共産党は、ドイツ国民に宣言を発し、そのなかで、ヒトラー・ドイツ崩壊の原因をしめ
し、統一、民主主義、孤立、平和愛好ドイツの樹立をめざす闘争をドイツ国民によびかけた。共
産党のイニシアティヴと指導のもとに、一九四五年の夏、ソヴェト占領地域で、党と、東ドイツ
における民主主義的改革の実行に大きな役割を演じた組織との反ファシスト民主主義ブロックが
結成された。ドイツ共産党中央委員会は、各地の党組織を復活させた。ドイツのソヴェト占領地
域では、すでに一九四五年の夏、共産党員は六〇万をかぞえていた。ドイツの西部占領地域では、
米・英・仏占領当局によって共産党員にたいして設けられた障害の結果、ドイツ共産党組織の復
活は急速にはおこなわれなかった。ここでは、党の諸組織は最初から各州および地方ごとに存在
していた。
 ヒトラー体制の絶滅後、ドイツ共産党と党中央委員会は、ドイツの民主的復興と経済的再建の
綱領をもった国内でただ一つの勢力であった。共産党および社会民主党傘下の労働者の共同の努
力は、ドイツ労働者階級の革命的統一政党結成のための基礎をつくりだした。一九四五年十二月
二十―二十一日に、ドイツ共産党中央委員会および地方委員会と社会民主党幹部および社会民主
党地方組織指導部との合同会議がひらかれ、そこで両党の合同準備に関連した諸問題が審議され
た。一九四六年四月十九―二十日のドイツ共産党第十五回大会と社会民主党第四十回大会は、合
同にかんする決定を採択した。一九四六年四月二十一―二十二日のベルリンにおける両党の合同
大会でドイツ社会統一党が創立された。
 西ドイツでは、シューマッハーその他の社会民主党右翼指導者は、帝国主義的占領当局および
ドイツ独占者の積極的支持をえて、共産党と社会民主党諸組織の合同を妨害した。西ドイツの共
産党諸組織は最初から、一九四七年に結成された「ドイツ共産党=ドイツ社会統一党労働協力体
」を通じて直接ドイツ社会統一党にむすびついていた。一九四八年四月三十日、ケルン市におけ
る第一回協議会で、西ドイツの党諸組織は、マックス・ラィマンを先頭とする独自の中央指導部
を選出した。このようにして、西ドイツの共産党は、旧来のドイツ共産党の名称を保持して独自
の組織に形成された。ドイツ共産党とドイツ社会統一党は、一貫してドイツ人民の民族的利益を
擁護しながら、統一、民主、独立、平和愛好ドイツをめざし、西ドイツの再軍国主義化に反対し、
ドイツとの平和条約締結の促進をめざすドイツ労働者階級とすべての民主的分子の闘争の先頭に
立っている。ドイツ共産党とドイツ社会統一党は、ソ同盟の平和愛好的志向を支持している。こ
の支持は同時に、平和擁護のためにたたかっているドイツ人民の支持を意味している。
 一九五一年三月に、ミュンヘンでドイツ共産党大会がひらかれ、国の民族的独立、人民の民主
的権利と自由のための闘争を党の任務とさだめた。大会はまた、党規約を採択し、ドイツ共産党
のイデオロギー的強化にかんする諸方策をたてた。共産党は、愛国的気分をもつブルジョアジー
をもふくむあらゆる民主的勢力を民主ドイツ民族戦線のスローガンのまわりにかためる政策を実
行している。一九五二年十一月二日に、ドイツ共産党は、統一・民主的・平和愛好国家としての
ドイツの再統一と対独平和条約の締結をめざす闘争を主要な任務としている「ドイツの民族的再
統一綱領」を採択した。綱領には、明瞭な、決定的な闘争の政綱があたえられ、ドイツの再統一
とアメリカ帝国主義者とボンの手さきからの西ドイツの解放の道がしめされている。共産党は、
西欧の占領列強とドイツ共産党を禁止しようとしているボン政府のがわからのテロルと迫害の条
件のもとで活動している。共産党は困難を克服しながら、ますます勤労者を自分のがわに獲得し、
平和、国の統一、ドイツ国民の独立をめざすすべての民主的勢力との共同闘争に勤労者を動員し
ている。西ドイツの一五〇〇万人(一九五三年一月)のドイツ人が、軍事条約の批准に反対し、
ドイツ問題の平和的処理に賛成した。ドイツ共産党幹部、フランス共産党中央委員会、ドイツ社
会統一党中央委員会は、ドイツおよびフランス国民に、その助けをかりてアメリカ合衆国帝国主
義者が、西ドイツを侵略的な北大西洋条約機構にひきいれようとしているボンおよびパリ条約の
批准に反対する呼びかけをおこなった。この呼びかけにはつぎのことがしめされている。ドイツ
およびフランス国民は帝国主義者の雇人にはならないであろう。両国民は対ソ戦もドイツ、フラ
ンス相互間の戦争もおこなわないであろう。ドイツ共産党は、ソ同盟共産党の経験によってすべ
ての行動を指導され、国際主義の精神で労働者階級と全勤労者を教育している。
 党の中央機関紙は『フライエス・フォルク』である。
   ドイツ社会統一党〔*〕

 ドイツ労働者階級とドイツのあらゆる勤労者の前衛党であり、党員数がもっとも多く影響力も
つよい党である。軍国主義と反動を決定的に根絶し、民主的な基礎のうえに国を統一するために
たたかっているあらゆる民主的・進歩的勢力の先頭にたっている。ドイツ社会統一党はこれまで
べつべつに存在してきたドイツ共産党(KPD)とドイツ社会民主党(SDPD)とが、マルク
ス=レーニン主義の政綱にもとづいて合同した結果としてうまれたものである。ドイツ共産党は、
一九一八年十二月三十日「スパルタクス団」を土台としてつくられた。スパルタクス団はロシア
の大十月社会主義革命の影響のもとに展開された革命的高揚の条件のもとで、カール・リープク
ネヒトとローザ・ルクセンブルグに指導されていた。一九二〇年十二月、ドイツ共産党に「ドイ
ツ独立社会民主党」の党員の大部分がはいってきて、ドイツ共産党は大衆的・革命的労働者党に
なりはじめた。共産党の指導のもとに一九二一―二三年にドイツ労働者階級の革命的行動がおこ
った。右翼日和見主義グループ、つぎにトロツキスト・グループがドイツ共産党指導部からしり
ぞけられたのち、党のボリシェヴィキ化のための闘争を指導してきたエルンスト・テールマンが
一九二五年にドイツ共産党の指導者になった。ファシズムの脅威とたたかうためにドイツ労働者
階級を結集する目的で、ドイツ共産党はドイツ社会党に労働者の統一戦線をつくることを何度と
なく提議した。だがこの提議はドイツ社会民主党の日和見主義指導者のあいだでは反響がなかっ
た。ドイツにヒトラー独裁が樹立されてから、ドイツ共産党の活動は禁止され、共産党は地下に
はいらなければならぬことになった。その多くの指導者と党員(そのうちにはエルンスト・テー
ルマンもふくんでいる)は逮捕され、監獄と集中収容所に監禁された。ドイツ共産党の指導者と
党員の一部分は亡命しなければならなかった。
 ドイツ社会民主党は、ラッサール派とアイゼナッハ派との合同の結果として、一八七五年に創
立された。一八七五年のそのゴータ綱領と一八九一年のエルフルト綱領は、重大な日和見主義的
誤謬をふくんでいた。ドイツ社会民主党指導者は、階級闘争の放棄と「資本主義の社会主義への
平和的転化」理論をとなえ、そうすることによって労働者階級解放の大業をうらぎり、労働者階
級の隊列内におけるブルジョアジーの手さきとしての役割をはたした。二〇世紀のはじめ、資本
主義の発展が独占の段階にはいるにともない、労働と資本のあいだの矛盾がはげしくなった結果、
ドイツ社会民主党内に三つの潮流がはっきりとあちわれた。すなわち、右翼日和見主義と、中間
派と左翼とである。第一次世界戦争のはじめから、ドイツ社会民主党の日和見主義指導者は、社
会排外主義の立場に立ち、帝国主義ブルジョアジーの政策を擁護した。国会内の社会民主党議員
団は、戦費に賛成し、帝国主義戦争支持の投票をした。左翼社会民主党員(カール・リープクネ
ヒト、ローザ・ルクセンブルグその他)は、国際主義の立場をとり、ドイツ・プロレタリアート
の広範な反戦運動を指導し、「スパルタクス団」を創立した。この団は共産党の基礎となった。
ロシアの大十月社会主義革命ののち、ドイツ社会民主党の日和見主義指導者は、ドイツ帝国主義
の救済者としての役割を公然とはたすようになり、労働運動を残酷に懲らしめた。彼らは十一月
ブルジョア革命の過程にうまれたソヴェトを反革命のついたてに変えた。帝国主義叢のために、
労働者階級を分裂させる政策を遂行して、社会民主党指導者は、ファシストがいまにも権力を獲
得しようとしているのに、共産党との行動の統一をうちたてることを拒否し、ファシズムの権力
への道をひらいてやった。彼らは、ヒトラーが第二次世界戦争をひきおこした時期でさえも、フ
ァシズム反対の共同行動をとろうという共産党の何回もの提議をしりぞけた。だが反動的指導者
の意志にもかかわらず、地下の反ファシスト行動をとっていた共産党員と先進的社会民主党員は
行潮の統一を実現しはじめた。
 ソ同盟によってヒトラー・ドイツが壊滅されてから、共産党員と労働者の社会民主党員のなか
に、労働者階級の分裂を克服しようというかたい努力がみえてきた。一九四五年十二月二十―二
十一日に、ドイツ共産党中央委員会とドイツ社会民主党中央指導部の合同会議がおこなわれ、こ
れに土地の団体の代表者も参加した。この会議は、できるだけ近いうちにドイツ共産党とドイツ
社会民主党が合同することを主な任務とすると宣言した。一九四六年四月一九―二十日にベルリ
ンで、ドイツ共産党第十五回大会と、ドイツ社会民主党第四十回大会がひらかれ、一九四六年四
月二十一―二十二日に両党の合同大会を召集するという決議をした。この大会は、新しいドイツ
社会統一党の創立大会であり、合同のときに一二九万八〇〇〇人の党員があった。
 ドイツ社会統一党第一回(創立)大会は「ドイツ社会統一党基本原則および目標」という綱領
的文書を採択し、党規約をきめ、ドイツ国民にたいする宣言書を採択し、党中央指導部を選出し
た。中央指導部の議長にえらばれたのはW・ピークとO・グローテヴォールである。
 大会で採択された綱領的文書はつぎの三つの基本任務を党に課した。(一)労働運動の統一の
ための闘争、(二)国を分断する企図に反対しドイツを統一するための闘争、(三)国の政治的
経済的生活全体の民主化のための闘争がそれである。さらにすすんだ目標については、第一回
大会で採択された決定のうちで、つぎのようにしめされている。「ドイツ社会統一党の目標は、
搾取と抑圧、経済恐慌、貧困、失業および帝国主義戦争の脅威を一掃すること。この目標は、わ
が国民にとって切実重大な民族的・社会的問題の解決であり、それは社会主義を樹立することに
よってはじめて達成される。」
 西ドイツでは共産党員とドイツ社会統一党内の社会民主主義者との合同は、ドイツのあらゆる
反動勢力と、アメリカ=イギリス=フランス占領者の抵抗にぶつかった。占領者たちは合同をば
彼らの帝国主義的計画にたいするゆゆしい脅威とみてとったのである。西ドイツ地域にドイツ社
会統一党を設け、それが活動することを禁止したアメリカ合衆国、イギリス、フランスの占領当
局の支持のもとに、社会民主党右翼指導者、シューマッハー派は、西ドイツにおいて共産主義者
と社会民主主義者の合同をぶちこわした。
 ドイツ社会統一党は、反ファショ=民主主義ブロックのその他の政党および団体と緊密に提携
して、ソヴェト占領地域の政治生活、経済生活の民主化のために大活動をおこなった。ドイツ社
会統一党が実現しつつある政策はドイツ国民の根本的利益に合致し、大衆のあいだにおける党の
権威と影響力をつよめている。
 一九四七年九月二十―二十四日、ドイツ社会統一党第二回大会がひらかれた。大会は、ドイツ
社会統一党の隊列の強化、ドイツの労働者階級およびすべての民主勢力の統一、国の民主化と統
一のための闘争、アメリカ=イギリス帝国主義者とドイツ反動派によるドイツの民族的統一にた
いする脅威反対のための闘争というスローガンのもとでおこなわれた。大会にさいしてドイツ社
会統一党はすでに一八〇万名の党員をもっていた。ドイツ社会統一党の主唱により、またその指
導のもとで、ドイツには国の統一と公正な講和をめざすドイツ国民大会の全人民的運動がおこっ
た。ドイツ社会統一党の指導のもとで、ソヴェト地域の平和経済の再建と発展をはかる二ヵ年計
画(一九四九―五〇年)が作成され採択された。
 一九四九年一月二十五―二十八日に、ドイツ社会統一党の第一回会議がひらかれた。全ソ同盟
共産党(ボ)中央委員会のあいさつにはつぎのように述べられている。「ドイツ社会統一党は、
ドイツ・ファシズムが壊滅したのちにひらかれた新しい、平和な、民主的な発展の道へドイツを
歴史的に転換させるための闘争に、ドイツ国民の民主勢力を結集させようとして、大きな活動を
おこなった。」『プラウダ』一九四七年一月二十七日、第二七号四面〕会議は第一義的任務とし
て、ドイツの統一のため、平和のための闘争、戦争放火者反対の闘争へとドイツ国民の民主的大
衆をおしだし、ドイツ国民がこの闘争で反帝国主義的・民主主義的陣営を、その指導力としての
ソ同盟をよりどころとしていることを指摘した。会議はまた、党をイデオロギー的・組織的にい
っそうつよめ、ドイツ社会統一党をマルクス=レーニン主義党に、新しい型の党に変えることを
めざしたいくつかの決定をも採択した。ドイツ社会統一党中央委員会政治局創設にかんする中央
部総会決定が確認され、入党者の候補期間がさめられ、党員がマルクス=レーニン主義理論をふ
かく研究できるように保障する具体的措置がとられた。
 ドイツ社会統一党はドイツを終局的に分裂させ奴隷化することをめざしたアメリカ=イギリス
=フランス帝国主義の措置〔いわゆるルール条項(一九四八年十二月)および占領条項(一九四
九年四月)の採択、西ドイツ国家の創設(一九四九年九月)その他〕に反対した。ドイツ社会

一党は、政治的見解や階級的所属や宗教的信念のいかんにかかわらず、平和愛好、単一、独立の
ドイツをのぞんで立っているすべてのドイツ愛国者に、国の統一と独立の闘争のために、民主ド
イツ国民戦線に団結せよとよびかけている。全ソ同盟共産党(ボ)中央委員会がドイツ社会統一
党第一回会議の席上のあいさつで「ドイツ・プロレタリアートの最善の革命的・国際主義的伝統
を体現し、単一の民主的ドイツのための闘争におけるドイツ国民の民族的利益の表現者である」
〔前掲紙〕と述べたドイツ社会統一党は、平和と国の独立のための全人民的運動の先頭に立った。
一九四九年十月四日、ドイツ社会統一党中央部は「民主ドイツ国民戦線とドイツ社会統一党」と
いう決議を採択した。この決議は国民戦線綱領の基礎であった。
 政府の設置にあたりドイツ民主共和国大統領にW・ピーク、首相にO・グローテヴォールがえ
らばれた。
 一九五〇年七月二十―二十四日に、ベルリンでドイツ社会統一党第三回大会がひらかれた。大
会は「現情勢とドイツ社会統一党」という決議を採択した。この決議で主要な任務としてあげら
れたのは、平和のための闘争、新戦争の放火者と西ドイツ再軍備に反対する闘争、国の統一と民
主ドイツ国民戦線を強化する闘争、ドイツ社会統一党を新しい型の戦闘的マルクス=レーニン主
義党に変えるための闘争であった。一九五一―五五年度の五ヵ年計画にかんする決定で、大会は
ドイツ経済の発展の展望をあたえた。ドイツ社会統一党第三回大会は新しい規約をきめ、正員五
一名と候補三〇名からなる中央委員会を選出した。大会でドイツ社会統一党中央委員会議長には
W・ピークとO・グローテヴォールがえらばれた。ドイツ社会統一党書話長には、中央委員会第
一回会議で、ドイツ民主共和国の著名な国家的・政治的活動家W・ウルブリヒトがえらばれた。
 一九五一年現在でドイツ社会統一党員は一二二万五〇〇〇名、候補党員一一万六〇〇〇名であ
る。ドイツ社会統一党中央機関紙は『ノイエス・ドイチュランド』〔『新しいドイツ』〕、理論
機関誌は『アインハイト』〔『統一』〕である。
   ハンガリア共産党

 ハンガリア共産党は、ハンガリア労働者階級の前衛部隊であり、一九四八年六月に結成された
ハンガリア勤労者党――ハンガリア人民共和国の政治・経済・文化生活の指導勢力であり、社会
主義の建設と、諸国民間の平和と友好をめざすハンガリア国民の闘争の組織者であり指導者であ
る――の重要な中核である。
 ハンガリア共産党は、一九一八年十一月に、大十月社会主義革命の勝利の影響のもとに展開さ
れた労働運動の力づよい高揚の結果うまれた。ハンガリア共産党は、社会民主党(一八九〇年結
成)左翼の基礎のうえに結成された。
 年若いハンガリア共産党は、一九一九年のハンガリアにおけるプロレタリア革命の主要な指導
勢力であった。イデオロギー的・組織的にまだかたまっていなかったハンガリア共産党は、一九
一九年三月に、革命をうらぎった改良主義的社会民主党との合同に同意することによって重大な
誤りをおかした。ヴェ・イ・レーニンは、つぎのように書いた。「いかなる共産党員もハンガリ
ア・ソヴェト共和国の教訓をわすれてはならない。ハンガリア共産党の改良主義者との合同はハ
ンガリア・プロレタリアートにとって高価なものについた。」〔レーニン『共産主義インタナシ
ョナルへの加入条件にかんするテーゼ』、全集第三一巻一八二ページ〕共産党の誤り、社会民主
主義者の裏切りとならんで、ハンガリア・ソヴェト共和国の敗北の主要な原因となったのは、結
局、
ハンガリア・ソヴェト共和国をおしつぶしてしまった帝国主義者の武力干渉であった。
 ハンガリア・ソヴェト共和国の顛覆とファシスト独裁の確立後、共産党は地下で再建された。
党のカードルの大部分はファシストによってころされた。一九一九―二一年には、約五、〇〇〇
人が銃殺され、責めころされ、八万人以上が監獄や強制収容所に監禁された。ハンガリア共産党
は、流血のテロルの条件下で献身的な闘争をつづけた。党は、右翼社会民主主義者の裏切り政策
をばくろし、党の陣列に潜入し、党を分裂させようとし、党組織を破壊したトロツキストやその
他の挑発者にたいして容赦ない闘争をおこなった。ハンガリア共産党の地下組織の復活と強化に
大きな役割を演じたのは、ハンガリアで非合法活動をおこなうために一九二四年に亡命から帰国
したM・ラコシであった(一九二五年の秋、M・ラコシは逮捕され、一九四〇年まで監禁されて
いた)。地下の諸組織は統合され、ホルテイのファシスト体制に反対する闘争の統一指導部が設
けられ、(復活)第一回党大会(一九二五年八月)が召集された。一九三〇年には、ハンガリア
共産党第二回大会がひらかれた。多くの党指導者がいないことを利用して、トロツキストやその
他の挑発者は党指導部に潜入することができた。党の中核はコミンテルンの援助によって、党の
陣列から敵の手さきを徹底的に粛清し、大衆との結びつきを強化した。
 一九三九―四五年の第二次世界戦争中に、ハンガリア共産党は、ハンガリアの民族的独立のた
めにたたかっていた国のすべての反ファシスト勢力を統合する方針をとった。ハンガリア共産党
は、ヒトラー一味とそのハンガリアの手さきにたいするハンガリア人民の抵抗運動の先頭に立っ
た。ハンガリア共産党のイニシアティヴによって、一九四四年に反ファシスト・ハンガリア戦線
(のちにハンガリア民族独立戦線)が結成された。
 一九四四―四五年に、ソヴェト軍によってヒトラー占領軍とその手先から国が解放されたこと
は、ハンガリアの歴史的運命における根本的な転換を意味した。ハンガリア共産党は、人民民主
主義制度を確立するための積極的な闘争を展開した。合法的に存在できるようになった当初から、
ハンガリア共産党は、国の社会・政治生活の指導勢力となっている。党は、苛烈な階級闘争の条
件下で国内でおこなわれたすべてのもっとも大規模な社会・経済的、政治的改革の鼓吹者であり、
組織者であった。ハンガリア共産党の指導のもとにおこなわれた革命的農業改革はきわだった意
義をもっていた。農業改革の結果、ハンガリアの反動政府は破壊され、勤労農民はハンガリア共
産党のがわに獲得された。一九四五年十一月の国会選挙後に強化された反動の弾圧をむこうにま
わして、ハンガリア共産党は、独立戦線の内部に左翼ブロックをつくり、全労働者階級と貧農に
たいする党の勢力をつよめ、勤労者の民主主義的達成を反動のたくらみからまもり、労働者階級
と農民の同盟を強化して人民民主主義制度の強固な基礎をつくりあげた。ハンガリア共産党の生
活でもっとも重要な出来事は、一九四六年九月末から十月はじめにかけてひらかれた第三回党大
会であった。ハンガリア共産党の党員数は、一九四五年一月の一万人から、第三回大会ごろの六
五万三〇〇〇人に増大した。大会は、国の政治情勢、農村における共産党の政策を審議し、党の
新規約を採択した。大会は、資本主義的要素を漸次制限、駆逐し、社会主義部門を漸次拡大させ
た多くの要求を提起した。大会は、人民民主主義はハンガリアが社会主義へすすむ可能性をあた
えていることを指示した。
 ハンガリア共産党のおかげで、一九四六―四七年に、外国帝国主義者と国内の反動の陰謀がば
くろされ粉砕された。その陰謀では、小地主党の反動的指導者が大きな役割を演じていた。すべ
ての反党的勢力を統一しようとする社会民主党右翼指導者のたくらみは、社会民主党の多くの党
員の支持を得てハンガリア共産党によってばくろされた。一九四七年八月の国会選挙の結果は、
ハンガリア共産党が工業労働者の圧倒的多数を獲得し、党のまわりに勤労農民を結集することに
成功したことをしめした。大会の決定に応じて、ハンガリア国民経済の復興と発展三ヵ年計画の
作成が開始された。
 ハンガリア共産党は、増大しつつあるその勢力をよりどころにして、大工業、炭坑、発電所、
運輸、銀行の国有化を実行し、一九四七年八月一日から開始されたハンガリアの経済復興と発展
三ヵ年計画にかんする法案を採択した。
 ハンガリア共産党は、一九四七年に、共産党労働者党情報局の創立に参加した。
 ハンガリア共産党は、すべての平和愛好国、まず第一に、ハンガリアの解放者であり擁護者で
あるソ同盟との友好と協力の基礎のうえにハンガリアの独立をうちかためるために終始たたかっ
てきた。プロレタリア国際主義に忠実な、ハンガリア国民の広範な大衆の信頼を得た、国内に人
民民主主義制度の勝利を保障したハンガリア共産党の正しい政策は、ハンガリアの労働運動にお
ける分裂を一掃するための前提をつくりだした。一九四八年のはじめから、社会民主党の平党員
のハンガリア共産党への集団的な入党がはじまった。つくりだされた条件のなかで、一九四八年
六月に、社会民主党とハンガリア共産党は、マルクス=レーニン主義の原則にもとづいて単一の
ハンガリア勤労者党に合同した。
   フィンランド共産党

 フィンランド共産党は、フィンランド労働者階級の前衛部隊であり、民族の独立、民主主義、
平和をめざす人民の闘争における指導勢力である。フィンランド共産党は、一九一八年八月二十
九日に、フィンランド社会民主党左翼に基礎をおいた「フィンランド在外組織」の会議で結成さ
れた。フィンランド共産党の組織者は、フィンランド労働運動の著名な活動家O・クーシネンと
E・シロラであった。
 大十月社会主義革命で勝利をえたロシアのプロレタリアートは、フィンランドのプロレタリア
ートに大きな支援をあたえた。一九一七年に、フィンランドは、ソヴェト・ロシアから国家的独
立をえた。一九一八年に、フィンランドでは、英雄的ロシア・プロレタリアートとの連帯性のス
ローガンのもとにおこなわれた労働者の革命が開始された。しかし、その革命は、ドイツ干渉軍
の援助をうけたフィンランド・ブルジョアジーによって鎮圧された。一九一八年のフィンランド
労働者革命が敗北した原因の一つは、フィンランド社会民主主義者の卑劣な戦術と社会民主党右
翼による労働者階級の利益の裏切りであった。革命の教訓によって、フィンランド社会民主主義
者の優秀な代表者たちは、社会民主党右翼と訣別して、ロシア共産党員の経験によって武装され
た新しい、革命的マルクス=レーニン主義政党を創立する必要がある、という結論をひきだした。
フィンランド共産党は、コミンテルンの創立(一九一九年)に参加した。
 一九一八―四四年の地下活動の極度に困難な条件と、フィンランド反動的右翼グループの不断
の圧迫にもかかわらず、フィンランド共産党は、闘争の合法形態と非合法形態とを結合させるレ
ーニン主義の原則に適応して、大衆との結びつきを強化した。フィンランド共産党は、各種の合
法的な労働者の組織を通じて労働運動の指導をおこなった。共産党員は、フィンランド労働組合
連合、青年の諸組織、その他の大衆組織のなかで決定的な勢力をもっていた。勤労者の重大な利
益をかたくまもりながら、フィンランド共産党は、労働者の多くのストライキの実行を指導した。
一九二四年の国会選挙では、フィンランド共産党によって結成された社会主義労働者と小作への
選挙同盟は、九万一〇〇〇票と一八議席を獲得し、一九二七年には一〇万八〇〇〇票と二〇議席、
一九二九年には一二万八〇〇〇票と二三議席を獲得した。労働運動の裏切者――労働運動指導の
独占権を自己の手に確保しようとのぞんでいた右翼社会民主主義者との尖鋭な闘争で、フィンラ
ンド共産党は勝利者となり、合法的・大衆的労働者組織の大部分を自分の味力に獲得した。一九
二九―三三年の世界経済恐慌にともなう階級闘争の尖鋭化する情勢のなかでフィンランド・ブル
ジョアジーは、一九三〇年に、公然たるファシスト休制の確立にむかった。共産党を支持した勤
労者のすべての合法組織は、破壊され禁止された。社会主義労働者と小作人同盟の国会議員団の
メンバーをもふくむ何百というこれらの組織の活動家が投獄された。
 迫害にもかかわらず、フィンランド共産党は大衆のなかで精力的な活動を展開し、大衆をファ
シズムとの闘争にむすびつけた。一九三三年に、フィンランド共産党は、労働者階級の統一を保
持する目的で、以前に党が実行していた、右翼社会民主主義者によってつくられた分裂的労働組
合のボイコット戦術を変更して、これらの労働組合およびその他の社会民主主義的合法組織内部
の仕事に党の活動をむけた。一九三四年末に、フィンランド共産党の指導者のひとりT・アンチ
カイネンの逮捕にともなって、党はもっとも大規模な反ファシスト・カンパニアをおこなった。
アンチカイネンの生命をまもれというよびかけにたいして、一〇万人以上の署名があつめられた。
コミンテルン第七回大会(一九三五年)の決定に応じて、一九三五年のフィンランド共産党第六
回大会は、反ファシスト統一人民戦線の結成を党の主要な任務として提起した。
 一九三九―四五年の第二次世界戦争の期間に、外国の帝国主義者に鼓舞されたフィンランドは、
二度――一九三九―四〇年と一九四一―四四年に (ヒトラー連合の一員として)侵略的反ソ戦
争を発展させる可能性をあたえた。これらの反ソ冒険にたいするフィンランド人民の抵抗を一掃
しようとして、フィンランドのファシスト反動は、フィンランド人民のすぐれた代表者に流血の
弾圧をくわえた。共産党員とその他の反ファシストの大部分は、監獄や強制収容所にほうりこま
れた。多くの共産党員が、フィンランドの反動的支配者の侵略的な反ソ政策に反対する闘争で勇
敢な死を遂げた。
 大祖国防衛戦争におけるソ同盟の勝利は、ファシスト反動からフィンランド国民を解放する動
機となった。一九四四年十月、ヒトラー・ドイツの隷属者の一員からフィンランドが脱出したの
ち、フィンランド共産党は(休戦協定によって)、はじめて合法的存在の可能性をえた。フィン
ランド共産党は、そのまわりに国の民主主義勢力を結集して、ファシズムの残存物の一掃、戦争
犯罪人の処刑のための闘争、国の民主化と、フィンランドとソ同盟のあいだの善隣友好関係の確
立のための闘争の先頭に立った。フィンランド共産党のイニシアティヴによって、一九四四年十
月に、フィンランド人民民主主義同盟が結成された。同盟は、勤労者の経済的・社会的利益と権
利を擁護する広範な綱領を提起した。
 フィンランド共産党は、第七回党大会(一九四五年)の決定を遂行しながら、大工業企業と銀
行国有化の要求と民主的農業改革の実施を提案した。第二次世界戦争以後、フィンランド共産党
の権威はいちじるしく増大した。一九四五年の国会選挙では、フィンランド人民民主主義同盟は
三九万八〇〇〇票と四八議席を獲得し、そのうちの四〇議席はフィンランド共産党に所属してい
た。一九四五―四八年に、フィンランド共産党は連合政府に参加した。一九四八年に、フィンラ
ンド共産党第八回大会がひらかれた。
 勤労者の重大な利益をまもりなから、フィンランド共産党は、労働者の実質賃金をひきあげ、
勤労者の税金をへらし、土地のない農民と土地の少ない農民に土地をあたえることを要求してい
る。一九四九年の夏、フィンランド共産党は、七万の労働者のストライキの先頭に立った。この
ストライキの結果、労働者の生活水準にたいする企業家の直接的攻撃は、この時期に撃退された。
 フィンランド共産党第九回大会(一九五一年)は、平和と労働者階級の統一をめざす闘争を党
の主要な任務として提起した。この大会で、フィンランド共産党書記長B・ペッシィは、フィン
ランドを新しい反ソ冒険にひきいれさせないために、米・英帝国主義者によって準備されている
戦争の脅威に反対する闘争において警戒心を高めるようフィンランド国民によびかけた。B・ペ
ッシィは、一九四九年三月三日の出版代表者との会談でつぎのように声明した。「もし平和愛好
諸国民が、平和を保持する志向をうしない、もし帝国主義者が、ソ同盟あるいはその他の平和愛
好諸国民に貪欲な戦争をしかけてくるならば、一国もしくは多くの国々の侵略者を粉砕するため
にソ同盟と侵略の対象になっているその他の国々を援助することが、全共産党員およびその他の
平和愛好者の義務である。」フィンランド共産党は、ストックホルム・アピールと平和条約締結
にかんする世界平和評議会の呼びかけにたいする署名獲得に活動的に参加した。
 フィンランド共産党は、右翼社会民主主義者を、国の民族的利益をアメリカ帝国主義者に売り
わたし、フィンランドにおけるアメリカ帝国主義者のもっとも活動的な代弁者として行動してい
るフィンランド人民の敵として徹底的にばくろした。フィンランド共産党は、民主的諸組織を破
壊し、国内に公然たるファシスト独裁を復活させ、国をふたたび反ソ攻撃の兵器庫に変えようと
しているフィンランド反動の策動の真の意味を勤労者に説明している。共産党は、戦争放火者と
の協力政策を拒否し、ソ同盟その他の平和愛好諸国民との友好と協力の政策を実行することによ
って、国の独立を確保することを要求している。フィンランド共産党がソ同盟の平和愛好的志向
を支持していることは、なによりもまず、自国民の平和擁護闘争を支持していることになる。
 フィンランド共産党の組織構成の指導原則は民主的中央集権主義である。フィンランド共産党
第九回大会(一九五一年)で採択された規約にしたがって、下部組織(支部)は、企業あるいは
党員の居住地ごとに結成されている。それらの組織は、地方あるいは地区の党活動を指導してい
る企業群および地区の党組織に統合されている。フィンランド共産党の最高機関は、三年に一度
召集される党大会である。大会は中央委員会を選出し、中央委員会が、大会と大会とのあいだの
期間の党活動を指導している。
 一九四八年に、フィンランド共産党は、その陣列に五万三〇〇〇人以上の党員をかぞえた。一
九五一年に、フィンランド共産党議長にはA・アールトーネン、書記長にはB・ペッシィが選出
された。
 フィンランド共産党の中央機関紙は日刊紙『チュエカンサン・サノマート』である。フィンラ
ンド共産党はまた、月刊の機関誌『コムニスチィ』を発行している。そのほかに、フィンランド
共産党は、フィンランド国民民主同盟と協力して八つの地方の民主主義新聞を発行している。そ
れらの新聞のなかでもっとも普及しているのは『カンサン・タフト』(オウルウ)、『ウーシ・
ピャーイヴィヤ』(トウルクウ)、『カンサン・サナ』(クオピオ)である。
   ブラジル共産党

 ブラジル共産党は、ブラジル労働者階級の前衛部隊であり、外国帝国主義とその手さきの支配
に反対して果敢な闘争をおこなっている国内でただ一つの政党である。大十月社会主義革命と、
白衛軍と外国の武力干渉との闘争のなかでソヴェト国家が獲得した勝利によってよびおこされた
労働運動の高揚にともなって一九二二年に創立された。創立の当初からほとんどひきつづいて地
下にもぐっている。
 ドウトラ政府は、アメリカの主人たちの指示にしたがって、一九四七年五月に党の合法活動(
一九四五年に地下から姿をあらわした)を禁止し、一九四八年一月には、約一〇〇名の共産党議
員の国会、州議会、リオ・デ・ジャネィロ市会の議席を剥奪した。リオ・デ・ジャネイロ市会で
は、共産党は他の諸政党よりも多くの議員をもっていた。禁止と警察の迫害にもかかわらず、党
はその活動を中止することなく、内外の反動に反対し、平和と民主主義を擁護し、アメリカ帝国
主義の攻撃に反対するブラジル人民の闘争の先頭に立ちつづけている。党は戦争放火者にたいし
て積極的に反対している。一九四九年三月に、侵略的な北大西洋条約の準備にともなって、共産
党指導部は、国の全勤労者の意志を表示して、ブラジル人民はソ同盟にたいしてけっして武器を
とらないであろうという声明を発表した。朝鮮においてアメリカの公然たる武力干渉がはじまっ
たのち、ブラジル共産党の指導者プレステスは、共産党の名で宣言を発表し、そのなかで、朝

人民にむけられたアメリカ合衆国の侵略をばくろし、アメリカ帝国主義に反対し、平和と民族の
独立をまもる闘争をブラジル国民によびかけた。共産党は、一貫して勤労者の権利と国内におけ
る民圭的改革を擁護している。
   フランス共産党

 フランス共産党は、フランス労働者階級の前衛部隊であり、民族の独立、平和、民主主義、社
会主義をめざすフランス人民の闘争における指導勢力である。
 フランス共産党は、大十月社会主義革命の影響をうけて生じた大衆的労働運動の高揚の条件の
なかで結成された。フランス共産党が結成されるまでには、社会党との長い闘争があった。一九
二〇年十二月のトゥールの社会党大会では、コミンテルン第二回大会(一九二〇年)の活動に参
加したM・カシャンの報告に大多数が賛成し、二十一カ条〔コミンテルンへの加入条件〕にもと
づくコミンテルンへの加入決議を採択した。労働者階級の裏切者レオン・ブルームを頭とする分
裂的な漸進社会主義者の少数派は、大会から退場して、社会党という名称をつけた自派の党を結
成した。
 共産党は、ソ同盟共産党の経験を広範に利用しながら、コミンテルンの指導と支援のもとに成
長強化した。
 一九二一年五月に、マルセイユでフランス共産党第一回大会がひらかれた。大会では、ヴェ・
イ・レーニンが大体それに賛成した農業綱領〔レーニン『フランス共産党の農業問題にかんする
テーゼ』、全集第三三巻一〇六―一二ページ〕が採択された。一九二二年十月に、パリで第二回
党大会がひらかれた。党の革命的中核は、大衆を動員し、労働者階級の統一戦線を結成するため
の非共産主義的傾向および社会民主主義的残滓との闘争をやりとげなければならなかった。共産
党は、中間派的・左翼的分子の反抗を克服しながら、労働組合、ことに、労働者階級の裏切者に
よっておこなわれた総同盟の分裂ののち、一九二二年に結成された統一労働総同盟のなかで活動
を展開した。ルールの占領と新しい帝国主義戦争の脅威に反対して、一九二三年に党が展開した
運動は、大衆のなかで党の勢力を強化することを促進した。この時期に、日和見主義的・排外主
義的分子が党から除名された。党は、自分の陣列をつよめ、大衆との結びつきをひろげるために
根気づよくたたかった。フランス共産党は、一九二四年にはじまった資本主義の一時的・部分的
・相対的安定の条件を日和見主義的に適用しようとする傾向に反対し、改良主義的合法主義者の
幻想に反対する執拗な闘争をおこなった。党を組織的・思想的に強化するための闘争、党の陣列
を粛清するための闘争は、リヨン(一九二四年)およびクリシー(一九二五年)における第三回、
第四回党大会の注目の中心にあった主要な問題であった。イ・ヴェ・スターリンは、一九二六年
三月六日のコミンテルン執行委員会第六回拡大総会のフランス委員会における演説のなかで、フ
ランスは危機にむかってすすんでおり、フランス共産党内には右翼からの危険が増大しているこ
とを強調したのち、つぎのように指示した。「党の当面の任務は――右翼的危険を根絶し、右翼
を孤立させることである。」〔スターリン『コミンテルン執行委員会第六回拡大総会のフランス
委員会における演説』、邦訳全集第八巻一三五ページ〕トロツキストおよび右翼日和見主義者に
たいするソ同盟共産党(ボ)の闘争の経験は、フランス共産党が党の発展にブレーキをかけてい
る敵対分子から救われるのをたすけた。一九二四―二八年の時期に、マルクス主義党のマルクス
=レーニン主義の理論的・思想的・組織的・戦術的基礎に反対した右翼およびトロツキスト・グ
ープ、さらにまた、大衆のなかでの党の勢力を掘りくずし、党をセクト的組織に変えようとし
た「極左」分子は、その正体をばくろされて党から追放された。この時期に、党の指導部には、
モーリス・トレーズのまわりに結集した強固な中核がつくられた。リヨンにおける党大会(一九
二四年)で中央委員に選出されたモーリス・トレーズは、一九二五年七月に、中央委員会書記局
員となり、組織書記となった。彼の指導のもとに、ボリシェヴィキ的原則に基礎をおいた党の組
織的再編成が開始された。
 一九二五年に、フランス共産党は、モロッコおよびシリアにおける帝国主義的植民地戦争に反
対する広範な運動を組織した。
 リヨンにおける第五回党大会(一九二六年六月)は、フランス共産党の個々の組織の偏狭さと
セクト主義にたいする闘争に重点をおいて開催された。モーリス・トレーズは大会で演説をおこ
なって、共産党員こそ真の愛国者であり、フランスの力であることをしめした。「共産主義者こ
そ、この国際主義者こそ、現に国民の財産の最良の擁護者である。多くの世代の労働の成果が、
英・米の銀行の手ににぎられているようなことをのぞまないのが共産主義者なのである。」
 大衆のなかで党の勢力を強化するためにたたかいながら、共産党は、右翼社会主義者の裏切的
・分裂的行動の暴露を強化した。一九二八年の国会選挙では、フランス共産党は、「階級にたい
する階級」の戦術を適用することができた。党の候補者は一〇七万票(一九二四年よりも二〇万
票上回る)を獲得した。サン・ドニにおける第六回党大会(一九二九年)は、企業内の大衆活動
の強化、全党員の教育、積極的党活動へのひきいれの方法と形式とをさだめた。
 一九二八―二九年に、フランス共産党は、ソ同盟にたいする戦争の危機と帝国主義的干渉の脅
威とたたかう運動をおこなった。党指導部の大部分の逮捕、政府のテロル、さらにまた、党指導
部にはいりこんだ裏切的・セクト的グループの反党活動は、一時的に党をよわめた。一九三〇年
七月から中央委員会書記長になったモーリス・トレーズは、党の陣列を粛清するための闘争の先
頭に立った。一九三一年に、政治的解党派のグループが党から追放された。
 一九三〇年のなかばから、フランスは、すでに一九二九年に全資本主義国をまきこんでいた世
界経済恐慌の時期にはいった。経済恐慌は、国内の階級的矛盾をふかめ、勤労者の物質的状態を
いちじるしく悪化させた。フランスにはファシズムの危険がつよまり、一九三三年に、ドイツに
ヒトラーの独裁が確立したのちに、ファシズムはとくに成長した。フランス共産党は、勤労者の
生活上の利益をまもり、ファシズムと戦争の危険に反対する闘争の広範な統一戦線を樹立するた
めの活溌な闘争を展開した。パリにおける第七回党大会(一九三二年三月)は、党が政治的・組
織的に大きく成長し、大衆のなかでの党の勢力がつよまったことを強調した。フランス共産党は、
強力な反ファシスト運動を組織してその先頭に立った。共産党のおかげで、一九三四年二月六日
に計画されたファシストのクーデターの企ては粉砕された。フランス共産党によっておこなわれ
たきわめて大きな活動の結果、フランス国民の広範なグループが、平和を擁護し、ファシズムと
戦争の危険に反対する積極的な闘争にたちあがった。自党の平党員の圧力によって、社会党の指
導者たちは、やむをえず一九三四年七月に、フランス共産党との統一行動に参加することに同意
した。労働者階級の統一戦線の基礎のうえに、フランス共産党によってしめされた活動力《エネ
ルギー》のおかげで、一九三五年には人民戦線が結成され、一九三六年には、統一労働総同盟が
復活された。共産党は、フランスのすべての勤労者にたいすると同時に、カトリック教徒の勤労
者にたいしても
「手をさしのべる」政策をおこない、「自由で強力な、そして幸福なフランス」
のために勇敢にたたかうよう彼らによびかけた。
 コミンテルン第七回大会(一九三五年)は、反ファシズム闘争の統一戦線の結成におけるフラ
ンス共産党の活動を高く評価した。一九三六年一月二十二―二十五日にヴィルールバンヌでひら
かれたフランス共産党第八回大会は、「二〇〇家族」の寡頭政治に反対するフランス国民を労働
者階級のまわりに統合することにむけられた選挙前の党綱領を審議した。
 一九三六年四―五月の国会選挙は、人民戦線の諸政党に大きな勝利をもたらした。共産党員は
(一九三二年に獲得した七九万票と一〇議席のかわりに)一五〇万票を獲得し、下院では七二の
議席を得た。
 選挙ののち、共産党員は労働総同盟と協力して、一九三六年六月に展開された強力なストライ
キ運動の組織者となった。ストライキ運動の圧力によって、ブルーム政府は、勤労者の状態を楽
にしたいくたの法案を採択した。しかし、人民戦線の上層部の性格、社会党と急進党の指導者の
裏切りは、人民戦線綱領の条項の大部分は実行されないままにのこされ、勤労者が社会的に獲得
したものは、まもなくうばい去られるという結果をもたらした。
 ヒトラー・ドイツ、ファシスト・イタリアのがわからの攻撃、アメリカ合衆国、イギリス、フ
ランスの帝国主義者のがわからの侵略者にたいする協力の危険が増大しつつあったために、フラ
ンス共産党は、平和、フランスの民族的独立、一九三五年のソ・仏相互援助条約にもとづくフラ
ンスとソ同盟の協力と友好のための断固たる闘争を展開した。アルルにおける第九回大会(一九
三七年一二月)で、共産党は「ファシストの侵略の危険にたいする闘争のための広範な平和戦線
を組織するよう、全国の勤労者と民主主義者によびかけた。共産党は、共和制スペインにたいす
る伊・独干渉軍の協力にむけられた裏切り的「不干渉」政策をばくろした。国際旅団の一員とし
て、一九三六―三八年に共和制スペインのがわに立ってたたかったフランス義勇軍は、反ファシ
ズム闘争におけるすぐれた模範と団結とをしめした。フランス共産党は、あらたな世界戦争の脅
威として一九三八年のミュンヘン協定をばくろした。一九三九―四五年に、フランスが第二次世
界戦争に参加したのち、フランスの反動政府は、そのときまでに党員三〇万をかぞえたフランス
共産党を禁止した。共産党の出版物は封鎖され、共産党議員は議席をうばわれて軍法会議にひき
わたされ、何千人もの共産党員と労働組合の活動家が投獄された。地下にもぐることを余儀なく
されたフランス共産党は、民族の利益を擁護し、反動的支配者一味の裏切政策に反対する徹底的
な闘争をおこなった。フランス共産党は、一九四〇年五月にフランスに侵入したヒトラーの侵略
者にたいして全国民的闘争をよびかけたただ一つの党であった。フランスの支配者が、背信的に
もヒトラー・ドイツのまえに降伏し、侵略者との協力政策に移行したのち、フランス共産党は、
迫害と弾圧にもかかわらず、ファシスト占領者とその協力者にたいする抵抗運動を展開すること
につとめた。一九四〇年七月十日に、フランス共産党中央委員会は、モーリス・トレーズとジャ
ック・デュクロが署名した宣言のなかで、侵略者とヴィシーの裏切者に反対してたたかうようフ
ランス国民によびかけた。一九四一年に、フランス共産党は、民族戦線と、義男兵《フランティ
ルール》およびパルチザンの戦闘組織を結成した。一九四一年六月に、ヒトラー・ドイツにたい
するソ同盟の大祖国防衛戦争が開始されたのち、共産党がその先頭に立っていたフランス愛国者
の解放闘争は、とくに広範な規模をもつようになった。フランス共産党は、全国抵抗《レジスタ
ンス》評議会(一九四三年三月結成)
の主導者となり、一九四四年に結成された、五〇万をかぞ
えるフランス国内の武装力の軍事行動の組織者となり指導者となった。占領軍との英雄的闘争で、
党のすぐれた活動家ピエル・セマール、G・ペリ、L・サンペ、その他をふくむ七万五〇〇〇人
のフランス共産党員が死んだ。フランス共産党は、ソヴェト軍によって獲得されたドイツ・ファ
シストの侵略者にたいする世界史的勝利の条件下の一九四四年七―八月におこなわれたフランス
人民の民族解放蜂起を準備した。フランス国内の武装勢力は、国の大部分を占領者から解放した。
フランス共産党は、民族蜂起の仕上げであった一九四四年八月の勝利したパリ蜂起の指導者とし
て進出した。
 ヒトラー占領軍とその走狗から国を解放したのち、フランス共産党は、国の経済的・政治的独
立をめざす闘争、一九四四年の夏からフランスに駐屯していたアメリカとイギリスの軍隊に依存
し、ファシスト独裁を確立することをその目的としていたド・ゴールにひきいられる反動勢力を
孤立化させる闘争のために、真に民主主義的な国民の勢力を動員した。一九四五年六月にパリで
ひらかれた第十回党大会は、国民経済の早急な復興と国の社会・政治・経済的生活の真の民主化
を要求した。
 一九四四―四七年(一九四六年十二月―一九四七年一月をのぞく)に政府の構成員にくわわっ
た共産党員は、人民大衆の強力な支持のもとに、フランスの労働者階級と勤労者の利益のための
政策をおこなうために頑強な闘争をおこなった。共産党員の努力によって、工業と銀行の若干の
部門の国有化にかんする法案と、工業および農業労働者の社会保険にかんする法案が採択され、
新しい、より民主的な憲法が確立された。共産党の指導のもとに、勤労者は工業のもっとも重要
な部門を急速に復興した。国会選挙は、共産党の勢力が増大したことを証明した。一九四五年十
月の憲法制定議会の選挙で、共産党は五〇〇万以上の票と一五〇万の議席を獲得し、一九四六年
十一月の国民議会の選挙では、五五〇万以上の票と一八五の議席を獲得して、国民議会における
最大の政党になった。
 一九四七年五月に、右翼社会主義者P・ラマディエ政府は、アメリカ合衆国帝国主義者の指示
によって、共産党員の大臣を政府から追いだした。フランスの反動は、アメリカ帝国主義者の右
翼社会主義的代弁者の支持をえて、フランスを政治的・経済的にアメリカ合衆国帝国主義者に直
接的に従属させた反民族的・反人民的政策を強化した。
 ストラスブルグにおけるフランス共産党第十一回大会(一九回七年六月)は、アメリカの膨脹
主義と、それが民主主義と平和にあたえている脅威をばくろした。
 フランス共産党は、共産党労働者党情報局が組織した一九四七年九月の会議に参加した。会議
は、個々の党活動家に生じた議会の幻想から脱却することをたすけた。これらの幻想は、モーリ
ス・トレーズが、一九四七年十月の党中央委員会総会の報告で述べたように、「ラマディエ政府
に反対する労働者と民主的大衆の急速な動員にかなりの損害をあたえ」、「労働者階級の力の過
小評価と大衆運動の恐怖にあらわれた」日和見主義的傾向に餌をあたえた。情報局の決定を実行
するために、総会は、大衆とのより緊密な接触に基礎をおくよう党によびかけ、党を勤労者の重
大な利益をまもる闘争にむかわせた。共産党は、アメリカ独占体によるフランスの奴隷化政策に
反対し、勤労者の物質的状態をいちじるしく悪化させ、フランスの主権をきずつけた国の「マー
シャル化」に反対する断固たる闘争をおこなった。
 戦争の危険と、侵略的軍事同盟――西欧ブロック(一九四八年)と北大西洋ブロック(一九四
九年)――へのフランスの加盟の情勢のなかで、フランス共産党は、フランス人民の利益の表明
者として、中和と民族の独立のための闘争を行動の中心においた。一九四八年九月三十日、フラ
ンス共産党中央委員会政治局は、宣言を発表して、そのなかで、「フランス国民は、ソ同盟に敵
対して戦争しないであろう、けっしてたたかわないであろう」と声明し、侵略的な北大西洋条約
の調印されるすこしまえの一九四九年二月二十四日に、モーリス・トレーズは国民議会で、ソ同
盟にたいするフランス人民の友好的態度にかんする声明をおこなった。
 ソ同盟の平和愛好的傾向を支持しながら、共産党はまず第一に、平和擁護のためにたたかって
いる自国の労働者と農民を支持している。
 共産党は、フランスにおける平和擁護者の諸組織を支持している。党は、フランス議会による
北大西洋条約の批准に反対する大衆的カンパニアに積極的に参加した。共産党の積極的支持のも
とに、軍事資材の生産と積みおろし拒否のための勤労者の運動が全フランスに展開された。
 一九五〇年四月にパリでひらかれた第十二回党大会は、フランス共産党の重要な任務――平和
とフランスの民族的独立を擁護し、勤労者の重大な利益と民主的権利を擁護する闘争――を決定
した。共産党員は、「平和と自由をまもる戦士」の組織と協力して、原子兵器禁止にかんするス
トックホルム・アピールと五大国平和条約締結にかんする世界平和評議会の呼びかけにたいする
署名獲得に積極的に参加した。それにもとづいて一九五一年夏に国民議会の選挙がおこなわれた
新しい、詐欺的選挙法によって、大衆のなかでの党の勢力をよわめようとするフランスの反動と
アメリカ帝国主義者の企図は成功しなかった。共産党は選挙で、五〇三万八〇〇〇票と九九の議
席を獲得して、得票数では第一位に進出した。
 フランスの反動ブルジョアジーの支持を得ているアメリカ帝国主義者の侵害から民族の利益を
まもりながら、フランス共産党は、社会的地位、政治上の信念、信仰とは関係なく、独立と平和
と民主主義的自由をまもる闘争のために、労働者階級の行動の統一の基礎のうえにすべてのフラ
ンス人を団結させることを、自分の任務としている。共産党に指導される、「シューマン・プラ
ン」に反対し、ドイツの再軍備とボン、パリ両条約の調印に反対するカンパニアは、住民の各種
の層の広範な支持を見いだした。
 一九五三年一月二十七日に、フランス共産党中央委員会、ドイツ共産党幹部、ドイツ統一社会
党中央委員会は、その助けをかりてアメリカ合衆国帝国主義者が、西ドイツを侵略的な大西洋条
約にひきこもうとしている、ボン、パリ両軍事条約の批准に反対するアピールをもってドイツ、
フランス両国民によびかけた。このアピールには、ドイツ、フランス両国民は、帝国主義者の雇
人にならないであろう。両国民は、反ソ戦もドイツ、フランス相互の戦争もおこなわないであろ
うことがしめされている。
 共産党は、国内でもっとも人数の多いそしてもっとも勢力のある労働組合組織である労働総同
盟と協力して、失業者の増大に反対する闘争、賃上げと勤労者の生活条件の改善のための闘争に
おける労働者階級の統一行動の組織をつくりつつある。
 フランス共産党は、小ブルジョアジーの正当な要求を擁護している。フランス共産党は、一九
二一年のマルセイユの大会で採択され、一九五〇年に修正された党の農業綱領に立脚して、農民
のなかでその勢力を強化し、「耕作者に土地を」あたえることを要求している。党は大きな活動
をおこない、フランスのインテリゲンツィアのあいだに大きな勢力を得ている。フランス共産党
は、フランス植民地諸国民の民族独立のための闘争を断固として支持している。共産党員は、広
範な規模にひろがったヴェトナムにおける「けがれた戦争」に反対するカンパニアの鼓吹者であ
る。
 公然たるアメリカの手さきである右翼社会主義者の暴露とならんで、共産党は、ファシスト運
動に反対する積極的な闘争をおこなっている。共産党は、破壊活動によって党をよわめようとす
る帝国主義者の手さきの企てをばくろしている。
 プロレタリア国際主義の精神で勤労者を教育しながら、フランス共産党は、ソ同盟と人民民主
主義諸国の成果をひろく宣伝し、フランス、ソ同盟両国民の友好を強化するためにたたかってい
る。マルクス=レーニン主義理論とソ同盟共産党の経験に指導されながら、フランス共産党は、
自己の陣列の組織的・イデオロギー的強化と統一をまもり、あらゆる偏向、分裂的行動のあらゆ
る試みに反対する積極的な闘争をおこなっている。
 フランス共産党は、フランス国民の広範な大衆を労働者階級のまわりに結集して、フランスの
支配グループとその協力者である右翼社会主義者によっておこなわれている反人民的・反民族的
政策に反対する断固たる闘争をおこなっている。フランス共産党は、平和、民族的主権、民主主
義的自由をまもる闘争に労働者階級とフランス国民を組織し、多くの大衆的・民主的諸組織に影
響をあたえている。
 党は、民主主義的中央集権主義の基礎のうえに建設された。党の下部組織(細胞)は、地域的
・職域的原則にしたがって結成されている。細胞は地区に従属し、地区は地区連合と地方の党組
織に従属している。党の最高機関は、二年に一度召集される党大会である。大会が中央委員会

中央財政管理委員会を選出し、中央委員会総会が政治局を選出する。
 一九五〇年には、フランス共産党の党員は八〇万人であった。党の中央機関紙は『ユマニテ』、
党の理論機関誌は月刊の『レ・カイエ・デュ・コミュニスムス』である。共産党はまた、農民む
けの特殊な新聞『ラ・テル』、週刊誌『フランス・ヌーヴェル』、月刊誌『ヌーヴェル・クリテ
ィーク』、『デモクラシー・ヌーヴェル』、『エコール・エ・ラ・ナシオン』、その他若干の刊
行物を発行している。共産党はまた、州の大都市では多くの日刊紙を発行している。地区連合の
大部分は週刊機関紙をもっている。
   ブルガリア共産党

 ブルガリア共産党は、ブルガリア労働者階級の前衛部隊であり、ブルガリア人民共和国の政治
・経済・文化生活の指導勢力であり、社会主義建設と諸国民間の平和と友好の強化をめざすブル
ガリア国民の闘争の組織者、指導者である。
 革命的マルクス主義政党としてのブルガリア共産党は、一九一九年に、ブルガリア社会民主党
(偏狭《テスヌイ》な社会主義者の党〔戦闘的分子にたいしてつけたあだ名、テスニャキ派とも
いる〕)の基礎のうえに創立された。デ・ブラゴエフがその指導者であった「テスニャキ」派は、
「広い社会主義者」あるいは「公共事業派」(『公共事業』誌からとった名称)とよばれた日和
見主義的・小ブルジョアジー的一派が分離した結果一九〇三年に組織的に形成された。ブルガリ
アにおける革命運動の発展とブルガリア社会民主党の陣営内の思想的分裂にたいして、ロシア労
働者階級の革命的政党創立のためのヴェ・イ・レーニンとレーニン的『イスクラ』の闘争、とく
にヴェ・イ・レーニンの著名な著作『なにをなすべきか?』が大きな影響をあたえた。決定的な
段階における「テスニャキ」の成功は、ヴェ・イ・レーニンを先頭とするボリシェヴィキの闘争
がブルガリアの労働運動にあたえた影響によって決定された。「テスニャキ」は、多くのストラ
イキ戦闘を成功のうちに指導し、一九〇九―二三年にG・ディミトロフにひきいられた労働総同
盟を強化し、広範な革命的宣伝と煽動をおこない、バルカン諸国民の民主主義的発展の道を擁護
し、諸外国の帝国
主義者の陰謀とブルガリア・ブルジョアジーの大国的政策に反対するためにた
たかい、反動の正体をばくろし、ブルジョア制度に反対する闘争に大衆を動員するために国会の
演壇をたくみに利用した。一九一二―一三年のバルカン戦争と一九一四―一八年の第一次世界戦
争のときに「テスニャキ」はボリシェヴィキの例にならって国際主義的立場に立った。しかし「
テスニャキ派」は、ブルガリアの土嬢に根をおろしたボリシェヴィズムではなかった。「テスニ
ャキ」は、革命理論やプロレタリアートの戦略・戦術の重要な問題で一貫した立場をとらなかっ
た。「テスニャキ」は、プロレタリア革命の主要な内容としてのプロレタリアート独裁にかんす
る問題を提起せず、労働者階級の戦闘的前衛としての党の役割の問題について完全にレーニン主
義的立場に立たず、プロレタリア革命における労働者階級の同盟軍としての農民の役割を理解せ
ず、農民を保守的分子、反動的大衆と見なした。「テスニャキ派」の欠陥と弱点は、党が、帝国
主義戦争を国内戦に転化させる自然発生的な試みであった一九一八年の兵士大衆の蜂起の先頭に
立たなかった、ということにはっきりとあらわれた。
 大十月社会主義革命の影響をうけて、「テスニャキ」党は、ロシア共産党(ボ)の立場に近づ
いた。党は、共産主義インタナショナルの結成(一九一九年三月)に参加した。一九一九年三月
にひらかれた第二十二回党大会で、「テスニャキ」党は、ブルガリア共産党(テスニャキ)と改
称された。ブルガリア共産党第一回大会とみなされているこの大会で、マルクス主義の精神につ
らぬかれた綱領宣言が採択された。大会後、党は革命運動の指導と党の陣列の強化(半無政府主
義的・メンシェヴィキ的「左翼」グループその他の追放)に大きな成功をおさめた。一九一九年
末までに、党員は三万五〇〇〇名をかぞえた。一九二〇年五月三十日―六月二日にはブルガリア
共産党第二回大会が、一九二一年五月には第三回大会がひらかれた。第四回大会(一九二二年六
月)は、コミンテルン第三回大会(一九二一年)の決定にしたがって統一戦線の戦術に関連した
諸問題を審議した。
 「テスニャキ」の残存物は、この時期にはまだ党の活動を妨害しつづけていた。このことは、
一九二三年六月九日の軍事的・ファシスト的クーデターにたいする態度にとくによくあらわれた。
ファシストと党を支配していたブルガリア農民同盟とのあいだの闘争で、党指導部は、反ファシ
ズム闘争の統一戦線を組織するかわりにあやまった「中立」的立場をとった。ブルガリア農民同
盟政府が打倒され、国内にファシスト独裁が確立されたのち、共産党は、コミンテルン執行委員
会の援助を得て、精力的に、是認された誤りをただすことに着手し、すべての反ファシスト勢力
を結集し、王制=ファシスト独裁に反対する武装蜂起を準備する方針をとった。一九二三年の人
民の反ファシスト九月蜂起の敗北にもかかわらず、蜂起はブルガリア労働者階級の革命化に顕著
な役割を演じ、党の発展の転機となった。
 九月蜂起ののちに開始されたほしいままなファシストのテロルは、党が非合法状態に移行する
ことを余儀なくさせた。党内でばくろされた日和見主義的・解党主義的分子は、党の陣列から放
逐された。一九二四―二五年に、革命運動の若干の後退と資本主義の一時的・部分的・相対的安
定の条件のなかで、ブルガリア共産党は、党諸組織を復活させるために執拗な活動をおこない、
現在ある合法的な労働者の諸組織で積極的な活動をおこなった。国内の情勢が若干変化した一九
二七年に、ブルガリア共産党の指導下にあり、短期間大衆のなかで重要な地位を獲得することの
できた合法的な労働者党が創立された。
 すぐれた党の指導者――G・ディミトロフやB・コラロフが亡命をやむなくされていたのを利
用して、ルーマニア共産党指導部には、反党的・トロツキスト的方針をとった小ブルジョア的・
出世主義的・左翼セクト主義的分子が潜入して、一九二九年の夏ごろまで上層部を占領していた。
「テスニャキ派」をメンシェヴィズムであると中傷したのち、それらの分子は、「テスニャキ主
義絶滅」の旗のもとに党のマルクス主義的カードルに反対する闘争をおこない、党内に秘密のト
ロツキスト的分派をつくった。
 ブルガリアに悪い影響をおよぼした一九二九年にはじまった世界経済恐慌の条件のなかで、あ
らたな革命的高揚がはじまった。一九三一年の国民議会の選挙では、労働者党は一七万票を獲得
した。ブルガリア共産党を思想的・政治的に強化するうえに大きな役割を演じたのは、一九三三
年にヒトラー一味によって組織されたライプチヒ公判におけるG・ディミトロフの陳述であった。
その公判は、ドイツ・ファシズムに重大な道徳的・政治的敗北をもたらした。
 一九三四年五月に、ブルガリアでは、軍事的クーデターがおこなわれた。権力をにぎった政府
は、すべての政党を解散させた。ブルガリア共産党の左翼セクト主義的指導部は、合法的労働者
党を「自壊した」党であると宣言し、共産党に冒険的戦術をおしつけようとした。一九三五年に、
G・ディミトロフを先頭とするブルガリア共産党のマルクス=レーニン主義的中核の一貫した政
策の結果、コミンテルンの援助によって、党内の左翼セクト的分子は粉砕された。一九三六年二
月末から三月はじめにかけてひらかれたブルガリア共産党第六回中央委員会総会は、G・ディミ
トロフの直接的指示にこたえて、党を大衆との結びつぎを拡大し、反ファシスト統一戦線を結成
するための闘争にむかわせた。総会では、一九三八年まで独立した党として地下に存在した非合
法的労働者党の再建にかんする決定が採択され、ブルガリア共産党と労働者党の合同にかんする
決定が採択された。党の最後的な合同は一九三九年におこなわれた。合同した党はブルガリア労
働者党という名称をもちいた。ブルガリア労働者党は、いくたの大ストライキの先頭に立ち、王
制=ファシスト政府のヒトラー支持政策に反対する闘争を展開し、多くの民主的諸組織との行動
の統一を確立し、うちたてられた人民戦線の皷舞者、組織者として行動した。
 党は、ブルガリアが第二次回界戦争にひきこまれることに反対し、ソ同盟との友好相互援助条
約の締結をめざす精力的な闘争をおこなった。一九四一年六月二十二日、すなわち、ヒトラー・
ドイツのソ同盟にたいする背信的攻撃の日に、ブルガリア労働者党中央委員会は、ブルガリア人
民にヒトラー一味の強盗とブルガリアの手さきとの闘争をよびかけたメッセージを採択した。ブ
ルガリア労働者党中央委員会は、ヒトラー一味と王制=ファシストに反対し、ブルガリアに労働
者階級を先頭とする勤労者の権力をうちたてるための武装蜂起に、ブルガリア人民をそなえる方
針をとった。すでに一九四一年に、ブルガリアには、ブルガリア労働者党によってつくられた最
初のパルチザン部隊があらわれた。ブルガリアにおける解放闘争の組織と発展において顕著な役
割を演じたのは、B・チェルヴェンコフがその指導者であった「フリスト・ボーテフ」放送局で
あった。一九四二年のなかごろ、党は、ドイツ=ブルガリア・ファシズムに反対する闘争のため
の単一の愛国的・反ファシスト組織の結成に着手した。一九四二年七月十七日、「フリスト・ボ
ーテフ」放送局によって、「祖国戦線」と名づけられたこの政治組織の綱領が放送された。一九
四三年八月までに、祖国戦線国民委員会がつくられた。党は、祖国戦線の旗のもとに、国民のす
べての進歩的・民主的・愛国的勢力を自分のまわりに結集して、それらの勢力を王制=ファシス
ト独裁にたいする突撃にみちびいた。ブルガリア労働者党中央委員会は一九四三年に、小さなパ
ルチザン隊から、一九四四年の夏までには大規模な武装勢力にまで成長した人民解放一揆軍の総
司令部をつくった。ブルガリア労働者党は、その献身的な闘争において、大きな損害をこうむっ
た。とくにブルガリア労働者党小央委員A・イヴァノフ、Z・ラドイノフ、その他多くの著名な
党活動家が亡くなったことは甚大な損失であった。
 ヒトラー・ドイツにたいするソ同盟の決定的勝利の条件のなかで、とくに、ルーマニアの領土
内にあったドイツ・ファシスト軍隊が壊滅したのち、ブルガリア労働者党は、一九四四年八月に、
全人民的武装蜂起の直接的な準備に着手した。王制=ファシスト・ブルガリアにたいする一九四
四年九月五日のソ同盟の宣戦布告とソヴェト解放軍のブルガリア領への進出は、ブルガリアの反
ファシストが王制=ファシスト制度を絶滅するのを容易にした。九月八日の夜から九日にかけて
おこなわれたブルガリア労働者党によって準備された武装蜂起の結果、国内の権力は、労働者階
級を先頭とする勤労者の手にうつった。国内には、社会主義への道に沿ってブルガリアがいっそ
う発展することを保障した人民民主主義制度がうちたてられた。
 一九四四年九月九日の直後、ブルガリア労働者党は、ブルガリア労働者党(コムニスト)とい
う名称をもちいるようになった。ブルガリア労働者党(コムニスト)の勢力は、解放闘争の過程
でいちじるしく増大した。党は、人民民主主義制度の確立に決定的な役割を演じ、国内のあらゆ
る民主主義的改革における主導者となり指導者となった。ブルガリア労働者党(コムニスト)の
指導のもとに、ファシスト分子に壊滅的な打撃が加えられ、いくたの反革命陰謀がばくろされ、
絶滅された。
 ブルガリア労働者党(コムニスト)の指導のもとに、ソ同盟の兄弟間接肋を得て、ヒトラー占
領軍と王制=ファシストに破壊された国の国民経済は成功裡に復興し、革命的農業改革が実行さ
れた。ブルガリア人民は、ブルガリア労働者党(コムニスト)のイニシアティヴによって、一九
四六年に王制を打倒してブルガリア人民共和国を宣言した。一九四七年には、工業と銀行の国有
化が実行にうつされた。この年に、人民議会は、ブルガリアにおける人民民主主義制度のかちと
られた成果を強化した憲法を採択した。
 ブルガリア労働者党(コムニスト)は、一九四七年の共産党労働者党情報局の創立に参加した
党の一つであった。「ユーゴスラヴィア共産党の状態について」という共産党労働者党情報局の
決定は、ブルガリア労働者党(コムニスト)の陣列を強化し、党の警戒心を高めるうえに大きな
役割を演じた。裏切者と背信者をその陣列から追放したブルガリア労働者社会民主党は、一九四
八年八月十一日に、マルクス=レーニン主義イデオロギーと組織原則を完全にみとめたうえでブ
ルガリア労働者党(コムニスト)に合同した。一九四八年十二月にひらかれたブルガリア労働者
党(コムニスト)第五回大会は、一九四九―五三年のブルガリア国民経済発展の五ヵ年計画およ
びマルクス=レーニン主義教育とイデオロギー活動の強化にかんするもっとも重要な決定を採択
した。大会は、国の工業化と電化、農業の協同組合化と機械化の方針を宣言した。大会では、ブ
ルガリア労働者党(コムニスト)をブルガリア共産党と改称する決定が採択され、党規約が確認
され、新しい党綱領作成のための委員会が選出された。大会後まもなく、ブルガリア共産党は大
きな悲しみに見まわれた。すなわち、一九四九年七月二日に、党および全ブルガリア国民の指導
者であり教師であったゲオルギー・ディミトロフが逝去したのである。党は、よりいっそう緊密
にその陣列を結集して、ブルガリア勤労者をあらたな勝利へとみちびいた。
 帝国主義者のふかくかくされた手さき――トライチョ・コストフとその一味が一九四九年にば
くろされ、粉砕されたことは、党の重要な勝利であった。
 一九五〇年六月に、ブルガリア共産党第三回会議がひらかれ、党中央委員会書記B・チェルヴ
ェンコフの報告「ブルガリア共産党の組織的・大衆的政治活動について」を審議し、国内に社会
主義の基礎を建設するための闘争における党およびブルガリア国民の諸任務をさだめた。
 ブルガリア共産党は、国内の社会的・経済的改革の実行における鼓舞者であり組織的勢力であ
る。党は、住民の物質的・文化的水準をたかめるために、ソ同盟および人民民主主義諸国との恒
久な友好と同盟をふかめるために倦むことなくたたかっている。ブルガリア共産党は、平和を擁
護し、帝国主義的戦争放火者とその手さきに反対するブルガリア国民の闘争の先頭に立っている。
ブルガリア共産党の指導のもとに、ブルガリア人民共和国は、世界の革命運動と労働運動の「突
撃隊」の一つに変った。ブルガリア共産党は、マルクス=レーニン主義理論、ソ同盟共産党とソ
同盟における社会主義建設の経験によってすべての活動を指導されている。
 党は、党員のイデオロギー教育、新しい社会主義文化の発展をめざす闘争に特別の注意をはら
っている。
 ブルガリア共産党は、民主主義的中央集権制度の基礎のうえに建設された。党の最高機関は党
大会であり、党大会と大会のあいだの最高機関は中央委員会である。中央委員会の政治活動の指
導のために中央委員会の構成員のなかから政治局が、組織活動の指導のために組織局が、当面の
活動をおこなうために書記局がそれぞれ分離している。ブルガリア人民共和国の行政区分に適応
して、州、地区、市、地方(区をもつ都市のばあい)の党組織がある。ブルガリア共産党ソフィ
ア市委員会は、区委員会と同等の権利をもち、ブルガリア共産党中央委員会に直属している。そ
の他の市委員会の若干のものは、村委員会と同等の権利をもち、ブルガリア共産党地区委員会に
よって直接指導されている。
 党の下部組織は、工場、公共機関、機械トラクター・ステーション、農業生産者協同組合、手
工業者協同組合、国営農場、建設現場、学校、村、都市の区、その他につくられている。もし工
場、組合、区、その他で、党員が三〇名以下のばあいには、ブルガリア共産党と党員候補からな
る党グループがつくられている。同一村落内のすべての下部党組織は、ブルガリア共産党村委員
会を頭とする地方党組織を結成している。
 一九五二年末までに、ブルガリアには、一二の地区組織、一〇一の州組織、一万四四一七の下
部党組織、市および地方組織があった。
 一九五二年には、ブルガリア共産党員および党員候補は四三万一〇〇〇名をかぞえた。ブルガ
リア共産党は、党員の圧倒的多数を網羅した広範な党教育網を組織した。
 ブルガリア共産党の中央機関紙は、ソフィアで約四〇万部発行されている『ラボートニチェス
コ・ヂェーロ』であり、理論機関誌は『ノヴォ・ヴレーメ』である。
205名無しさん@1周年:02/04/21 22:51
現在上から200番以下、下がりすぎなので、age。
206名無しさん@1周年:02/04/22 10:38
このスレは明らかに大月書店の著作権を侵害している犯罪者(>>1)のスレ
なのでsage。
207大月書店愛好会:02/04/22 11:08
>>206
 うむ。確信犯なのでぃす。おっしゃる通り、基本は"sage"でお願いします。

#このままだと、確実に「共産党に選別された」ものしか、マルクス・レーニン
主義文献は市場に出回らなくなるよ。その危機感から、こういうことをしている
のです。#

#もし、気づかれたら・・大月書店様、いい加減DVPに本腰入れて下さい!
 もう、待てませんよ!
208大月書店愛好会:02/04/22 11:21
>>208
 なんで、こんなスレに「共産党へのイヤミ」だけじゃなく、「世界の共産党」全体
を書こうとしているかというと、DVP内部から幾ら言っても、動かないから、非常
手段としてやっているわけですわ。

 まぁ、さすがにこの本を再販することはないだろうしね。一種の脅しです。
で、メールで脅してみますわ(笑)。

#資本論を含め、もう、かなりの文献が電子化できているけど、公開(販売)の
手立てはありません。これは、共産主義に関心を寄せる人々にとって「いいこと」
なのでしょうか?(真面目な反共も含めて、ね。)
209大月書店愛好会:02/04/22 11:50
>>208
 つーわけで、メールしました。もち、実名でね。ていうか、こんなことするの、
一人しかいないから、バレバレですが(苦笑)。
   ベルギー共産党〔*〕

 一九二〇年に成立。長期にわたり非常に党員が多かった。党の発展をさまたげたのは、党指導
部の日和見主義とセクト主義とであった。党からトロツキー派と日和見主義者を粛清する結果と
なった激しい党内闘争は、党をややつよくした。党史上の大きな事件は一九三二年夏の鉱山労働
者のゼネラル・ストライキにおける党の献身的闘争であった。個々の誤りにもかかわらず党はこ
のとき以来、ファシズムと戦争の危険と、勤労大衆にたいする資本の攻勢に反対するベルギー・
プロレタリアートの闘争のうちで、ますます大きな役割をはたしはじめた。党は失業者と兵士の
あいだで大きな活動をした。ところが党は、この時代には労働組合と勤労農民のあいだにおける
影響力を確保することができず、ベルギーにとってきわめて重大な民族植民地問題についての行
動を避けた。一九三九年党員はおよそ一万名となり、鉱山労働者、金属労働者、埠頭労働者のあ
いだに大きな影響力をもっていた。一九三九年ヨーロッパに戦争がおこってから、政府は共産党
員弾圧をつよめた。ドイツ・ファシスト軍がベルギーに侵入し、国王レオポルド三世が降伏して
から、党は非合法状態にあって占領者と裏切者にたいする抵抗運動の先頭に立った。一九四〇年
六月以来党は大衆的ストライキ運動を組織しその先頭に立った。党の努力のおかげで「国民防衛
委員会」がつくられた。委員会は勤労者の食糧供給の改善、ベルギー労働者のドイツ追放反対、
ファシスト的強盗と抑圧者反対の闘争をおこなった。党は地下出版物の広い網を展開し、労働者
階級を先頭とする反ファショ統一戦線をつくりだすうえで大成功をおさめることができた。
 第二次世界戦争の根本的転換を意味したヒトラー・ドイツにたいするソ同盟の偉大な祖国防衛
戦争がはじまってから、党は占領者とその同盟者にたいする武装闘争を展開した。共産党の指導
のもとでつくられたパルチザン軍におよそ五万名のものがくわわった。共産党員が先導した大衆
的抵抗団体には、およそ二五万名のものがいた。共産党員はベルギーの自由と独立のための唯一
の献身的な闘士であった。ベルギーの反対派(ロンドンに亡命していた政府もそのうちである)
は共産党員の影響力が増大するのをおそれて共産党員にたいする破壊活動を展開した。占領者お
よび裏切者にたいする英雄的な闘争のあいだに、党はその成員のおよそ二○%をうしない、党員
の三五%以上が投獄された。占領者のテロルと反国民的グループの裏切行動にもかかわらず、共
産党は組織的に強化し、戦闘的マルクス=レーニン主義党になった。
 ソ同盟によるヒトラー・ドイツ撃滅の直接的結果であるドイツ・ファシスト占領者からのベル
ギーの解放後、党は経験をつんだきたえられた団体の実をしめした。共産党員は、一九四四―四
七年の連合政府に参加して、勤労者大衆の状態の改善、国の民主化、裏切者の処罰、大工業企業
と銀行の国有のためにたえずたたかった。勤労者を国民経済の回復のための闘争へと組織するに
あたり、党は自国がアメリカ帝国主義者に隷属させられることを防止した。党の経済綱領は一九
四七年に書記長E・ラルマンが発表した「国の経済的革新案」に表現されている。党は炭坑、発
電所、銀行およびベルギー額コンゴにあるウランおよび金の鉱床の国有を要求し、資本家の利潤
を制限することにより勤労者の購買力をひきあげ、工業製品の原価にたいする統制を確立し、勤
労者を経営管理にひきいれ、税金の分配を公正にすること等々を要求した。アメリカとベルギー
の帝国主義者は、教権派、右翼「社会主義者」その他の手さきにたよって、共産党を政府からし
めだした(一九四七年三月)。
 ベルギーの反動派が国をアメリカの付属物にかえている条件のもとで、共産党はベルギーの民
族的独立、自由および民主主義のための闘争を展開しまたその先頭に立った。これらの任務に照
応して党中央委員会は第九回党大会(一九四八年)の決定にもとづき「救国綱領」を作成した。
党はベルギーの独立のなごりを一掃するおそれのあるいわゆるシューマン・プランに反対し、親
ファシストであり裏切者であるレオポルド三世の復位に反対して精力的な闘争を展開した。党は
アメリカ帝国主義者とそのベルギーの下ばたらきの侵略政策をばくろし、ストックホルム・アピ
ールの署名集めに大きな活動をしている。党は君主制に反対し連邦共和国(フランドルとヴァロ
ンの連邦)を創設し、侵略ブロックと手をきるための闘争の先頭に立っている。
 それとともに、党の政治方針は正しかったのに、一九五〇年六月にひらかれた中央委員会総会
がみとめたように、まだその影響力を組織として固定させ、勤労者である社会党員、カトリック
派、党外のものとの行動の統一を確保することができなかった。その現われの一つが、一九五〇
年の選挙で党にあたえられた票数の減少である。一九五〇年のなかごろ現在で党員はおよそ一〇
万である。党の下部組織は居住細胞と工場細胞である。地区または都市委員会がそれを指導して
いる。大きな経済的な地方では党組織は地方委員会に統一されている。党の最高機関は大会であ
り、大会が中央委員会を選出する。党の日常活動は中央委員会政治局が指導する。党議長はジュ
リアン・リャオー(一九五〇年八月十八日ベルギーのファシストによって虐殺された)、書記長
はE・ラルマンである。下院に六議席、上院に三議席をもっている。
   ポーランド共産党(一九二五年まではポーランド労働者党)

 ポーランド共産党は、ポーランド労働者階級の前衛部隊で、一九一八年から三八年まで存在し
ていた。
 ポーランド共産党は、大十月社会主義革命の影響をうけて、国内で力づよい革命運動の成長す
る情勢のなかでうまれた。ポーランド共産党は、一九一八年十二月十六日に、ポーランド・リト
ワニア社会民主党とポーランド社会党左派の合同の結果、ワルシャワでひらかれた合同大会で結
成された。第一回(合同)大会は、プロレタリアートの独裁をめざす闘争の任務を提起し、ポー
ランドのほとんどすべての工業中心地にできた労働者代表ソヴェトの網を拡火するようよびかけ、
ソヴェト・ロシアの英雄的プロレタリアートとの団結を宣言した。年若いポーランド共産党の指
導のもとに、ポーランド労働者階級の革命的進出が展開された。しかし、ポーランドのブルジョ
アジーと地主は、アメリカ合衆国、イギリス、フランスの帝国主義および労働運動における自分
の手さきである民族主義的・改良主義的ポーランド社会党の助けをかりて革命運動を鎮圧し、ポ
ーランド共産党を地下にもぐらせ、一九一九年の夏までに労働者代表ソヴェトを壊滅し、根絶す
ることに成功した。一九一八―一九年の階級戦でポーランド・プロレタリアートが敗北した主要
な原因の一つは、党の結成当初に、ルクセンブルグ的立場に立つ革命理論の根本問題にのこって
いたポーランド共産党の未熟さであった。この時期におけるポーランド共産党のルクセンブルグ
的立場、ことに新しい型の党の役割の過小評価と労働運動の自然成長性への放任、農民の革命的
可能性の過小評価、民族問題にかんするまちがった見解、さらにまたポーランド社会党左派のメ
ンシェヴィキ的残存物は、ポーランド労働者階級が、勤労者の権力をめざす闘争で、抑圧され搾
取されているポーランドの全大衆の指導者の役割を完全にはたすのをさまたげた。
 それと同時に、ポーランド社会党左派からは、ロシアの労働者階級と協力して革命闘争をおこ
なうという名誉ある伝統をうけついで、ポーランド共産党は、ソヴェト・ロシアの労働者階級と
の連帯性の立場に立ち、ソヴェト国のなかにポーランド・プロレタリアートの信頼すべき友と同
盟者とを見いだした。ポーランド共産党は、一九一九年の共産主義インタナショナルの結成に参
加した。地主のポーランドが、米・英・仏帝国主義者の支持のもとに、ソヴェト・ロシ了にたい
する侵略戦争をおこなった一九一九―二〇年に、ポーランド共産党員は、テロルのもっとも困難
な条件と警察の迫害にもかかわらず、ソヴェト共和国擁護のための行動に労働者を組織した。
 一九二一―二三年に、戦後の経済恐慌と成長しつつあった革命的高揚の情勢のもとで、ポーラ
ンド共産党員は、コミンテルンに勧告された統一戦線の戦術を採用して、ブルジョアジーが恐慌
の重荷を勤労者の両肩に転嫁することに反対する闘争を展開し、いくたびかの大規模なストライ
キと失業者のデモンストレーションを指導した。事実上共産党員がそれを指導した一九二四年の
上シレジアのゼネラル・ストライキは、ポーランド共産党の大きな成功であった。
 ポーランド共産党内では、しだいにルクセンブルグ的見解を克服して、マルクス=レーニン主
義の立場へ移行する動きが見えはじめた。この動きは、誠実な活動家と平党員の日和見主義分子
およびその他の敵対分子にたいする尖鋭な闘争のなかに生じた。ポーランド共産党のボリシェヴ
ィキ化のための闘争で決定的な意義をもっていたのは、コミンテルンの直接的な援助とロシア共
産党(ボ)の援助であった。ポーランド共産党第二回大会(一九二三年九月)は、党の政策に重
大な転換をおこない、農民問題と民族問題にかんするレーニン的スローガンを採択した。労働者
と農民の同盟の基礎をかためながら、ポーランド共産党は、地主の土地を農民のあいだに分配す
るスローガンを提起した。党は、ブルジョア・地主のポーランドに抑圧されている諸民族の民族
解放闘争を支持し、分離にいたるまでのこれら諸民族の民族自決権にかんする声明をおこなった。
ポーランド共産党の自治組織として、西部ウクライナ共産党(一九二三年)と西部白ロシア共産
党(一九二四年)が結成された。ポーランド共産党第二回大会は、ポーランドの反動的支配者の
裏切的・反民族的政策をばくろし、国の真の独立の保障は、ポーランドにおけるきたるべき革命
の勝利と、ソヴェト・ロシアおよびすべての国際革命運動とポーランドとの兄弟的同盟であるこ
とをしめした。しかし、ポーランド共産党第二回大会の決定は、徹底したものではなかった。ポ
ーランド共産党の指導部は、ポーランドならびに国際共産主義運動の諸問題にかんして日和見主
義的方針をとった。コミンテルン第五回大会(一九二四年)は、ポーランド共産党内の状態を点
検するために、イ・ヴェ・スターリンを議長とするポーランド委員会を結成した。一九二四年七
月三日の『ポーランド共産党について』という演説のなかで、イ・ヴェ・スターリンは、ポーラ
ンド共産党内の危機の原因をばくろして、それを克服するための方法をさだめた。それはつぎの
ようなものであった。ロシア共産党(ボ)の経願にもとづいて、日和見主義的な一翼ときっぱり
と手をきる方法によって日和見主義との闘争をおこなうこと。革命闘争の過程で成長しつつある
労働者階級の新しい指導者を思いきって抜擢する方針をとること〔スターリン『ポーランド共産
党について』参照、邦訳全集第六巻二七六――三ページ〕。
 コミンテルン第五回大会の決定を拠りどころにして、ポーランド共産党第三同大会(一九二五
年)は、党指導部の右翼日和見主義グループを激しく非難した。しかし、大会で選出された新中
央委員会の構成員のなかでは、のちに公然とトロツキストの立場に転落した左翼グループが指導
的な地位を占めていた。今回もまた、コミンテルンと、一九二五年七月に、コミンテルンのポー
ランド委員会でポーランド共産党の状態にかんする問題について演説をおこなったイ・ヴェ・ス
ターリンの直接的な援助によって正しい方向にむけられた。
 一九二六年五月に、ピルスドスキー一派がファシスト的クーデターをおこなったとぎ、ポーラ
ンド共産党は、独白の階級的態度をとらずに、ピルスドスキー一派を支持することによって、重
大な日和見主義的誤りをゆるした。「五月」の誤りのイデオロギー的根源は、ポーランド共産党
がそれまでに、プロレタリア革命の根本問題についての反レーニン主義的見解を徹底的にとりの
ぞかず、ポーランド帝国主義の存在を否定し、小ブルジョアジーの役割を過大評価し、小ブルジ
ョアジーが大資本との闘争の先頭に立つ能力があると考え、ピルスドスキー一派があたかも「小
ブルジョア民主主義の代表」であるかのような幻想をいだいたことにあった。一九二六年五月の
党の政策の変化で大きな役割を演じたのは、ポーランド共産党の指導機関にもぐりこんでいた敵
の手さきであった。
 コミンテルンの援助を得て、ポーランド共産党は、急速に自己の「五月」の誤りを是正して、
ポーランドにうちたてられつつあったファシスト体制に反対する容赦ない闘争を展開した。ポー
ランド共産党第四回大会(一九二七年)は、ファシスト・クーデターの内外の原因を分析し、

サナチア」党の反民族的体制に反対する闘争における党の任務をさだめた。しかし、ポーランド
共産党内にもぐりこんだ反党的分子によって一九二六―二九年にさかんになった無原則的な分派
闘争が、党をいっそう強化することをさまたげた。
 敵の手さきの挑発的な行動にもかかわらず、すべての誠実な活動家と平党員は、ファシスト体
制に反対する英雄的な闘争をおこなった。一九二八年の国会選挙で、ポーランド共産党は、大衆
のなかでの活動の非合法形態と合法形態とをたくみにむすびつけ、約一〇〇万票を獲得して大き
な成功をおさめた。
 ポーランドではとくに破局的な性格をもった一九二九―三三年の世界総済恐慌の時期に、ポー
ランド共産党は、革命運動の先頭に立ち、資本家と地主の攻撃にたいする勤労者の抵抗を組織し、
帝国主義的反ソ戦の準備との闘争に大衆を動員した。ポーランド共産党は、労働運動におけるポ
ーランド・ブルジョアジーの主要な政治的代弁者であったポーランド社会党指導部の裏切政策を
組織的にばくろした。ポーランド共産党第五回大会(一九三〇年)は、ストライキ運動の指導に
ついての党の任務および農村におけるポーランド共産党の活動にかんする重要な決定を採択した。
 ポーランド共産党にとって、とくにその綱領の作成にとって大きな原則的・実践的な意義をも
っていたのは一九三一年に、『プロレタルスカヤ・レヴォリューツィア』〔『プロレタリア革命
』〕誌の編集部にあてたイ・ヴェ・スターリンの『ボリシェヴィズムの歴史の若干の問題につい
て』という手紙であった。この手紙にもとづいて、ポーランド共産党の活動分子は、党のイデオ
ロギー・実践活動におけるルクセンブルグ主義の残存物を完全に克服するための闘争を展開した。
一九三二年に、ポーランド共産党第六回大会がひらかれ、党の綱領を採択した。
 ヒトラー一味がドイツで権力をにぎった(一九三三年)のち、ポーランド共産党は、ポーラン
ド国家の存立にたいして発生しつつあった脅威について警告し、「サナチア」のヒトラー支持体
制を根絶するための闘争を展開したポーランドのただ一つの政党であった。セクト主義のあらわ
れを克服しながら、ポーランド共産党員は、反ファシスト統一戦線確立のためのカンパニアを展
開し、ますますひんぱんに下部の労働者やポーランド共産党地方組織の多くのグループとの統一
行動を実行した。統一戦線の基礎のうえに、多くの大規模な労働者階級の進出(一九三五年の繊
維労働者と鉱山労働者のゼネラル・ストライキ、一九三六年の統一メーデー・デモンストレーシ
ョン、その他)がおこなわれた。ポーランド共産党は、一九三五年のファシスト的憲法に反対し、
ファシスト的選挙法にもとづいておこなわれた国会選挙のボイコットを擁護する闘争、強化され
た白色テロルとの闘争の先頭に立った。
 ポーランド共産党(西部ウクライナおよび西部日ロシア共産党をふくむ)の党員数は、三〇年
代には約三万人で、そのうちの一万人以上は、ポーランドの獄中にいた。
 ピルスドスキー一派の残忍なテロルにもかかわらず、共産党員は、ファシズムと帝国主義戦争
に反対する広範な国民戦線の結成というコミンテルン第七回大会(一九三五年)の決定を体現す
るために積極的に活動した。経済的・政治的要求を擁護するための労働者階級の闘争ならびに勤
労農民の革命的闘争、ポーランド帝国主義によって抑圧された諸民族の民族解放闘争における共
産党員の役割は増大した。ポーランド共産党はまた、インテリゲンツィアの進歩的グループを反
ファシスト運動にひきいれるための活動を強化した。ポーランドの対外政策の分野では、ポーラ
ンド共産党は、ヒトラー・ドイツとの同盟を即座に破棄するためにたたかい、ソ同盟とポーラン
ドの友好と協力の政策を擁護するためにたたかった。一九三六―三八年にドムブロフ名称国際旅
団の数千のポーランド義勇兵は、ファシズムに反対するスペイン人民の英雄的闘争に積極的に参
加した。ポーランド共産党は、すべての被搾取者と被抑圧者のとりでとしてのソ同盟にたいする
信服と愛情の精神で勤労者を教育した。ポーランド共産党員は、ますます断固として、ポーラン
ド共産党をマルクス=レーニン主義の党、新しい型の党に変えようとつとめた。しかし、ポーラ
ンド共産党はその存在の最後まで、ポーランド・リトワニア社会民主党およびポーランド社会党
左派からうけついだ多くのあやまった見解を克服することができなかった。ポーランドのファシ
スト、ピルスドスキー一脈は、長年にわたってポーランド共産党内に自分の手さきをおいた。そ
れらの手さきは、優秀な共産党員を保安課にひきわたしたばかりでなく、組織的に党の方針をゆ
がめ、党の活動を失敗させ、共産党にたいする労働者階級の信頼をうしなわせ、ポーランド共産
党をピルスドスキーの犯罪計画に従属させようとした。
 一九三八年に、ポーランド共産党指導部に敵の手さきが潜入したために、ポーランド共産党は、
コミンテルン執行委員会の決定によって解散した。ポーランド共産党の運動から敵の手さき、挑
発者を一掃し、健全な基礎のうえに党の復活を準備することを目的としたポーランド共産党解散
の決定は、労働者階級の大業にたいして無限の信頼をよせ、ファシスト体制に反対する献身的な
闘争をつづけていたすべての誠実なポーランド共産党員によって完全な理解をもってうけいれら
れた。一九三九年に、共産党復活の準備がおこなわれたが、開始された一九三九―四五年の第二
次世界戦争がそれをさまたげた。ポーランド共産党員は、ポーランドにたいするファシスト・ド
イツの攻撃ののち、ヒトラー侵略者および侵略者と共同したポーランドの反動にたいするポーラ
ンド人民の解放闘争の先頭に立った。ポーランド共産党によって教育され、「サナチア」党の体
制に反対する苛烈な闘争のなかできたえられたM・ノヴォトコ、P・フォンデル、B・ビエルー
トを先頭とする労働者階級の大義に忠実なポーランド共産党員のカードルは、第二次世界戦争中
には、一九四二年一月にうまれたポーランド労働者党――ポーランドをヒトラー侵略者から解放
し、人民民主主義制度の確立と勝利をめざす闘争における労働者階級と全勤労者の指導勢力――
の組織者となった。
   メキシコ共産党〔*〕

 メキシコ労働者階級の前衛として人民の生活上の利益と民主的権利のため、国の独立と平和と
民主主義と社会主義のための闘争の先頭に立っている。一九一九年、メキシコ革命運動の高揚の
うちに創立された。一九二九年に共産党は禁止された。一九三六年に勤労者の支持をうけて、共
産党はその活動を合法化することができた。党はトロツキー主義およびセクト主義との闘争のう
ちでその隊列を粛清することによってつよくなった。迫害にもかかわらず共産党は断固として平
和のためにたたかっている。一九五〇年にひらかれた共産党第十一回大会は、メキシコ国民がけ
っしてソ同盟相手の戦争に参加しないであろう、なぜならソ同盟はメキシコの主権をおびやかし
たことがないし、またおびやかさないからであると宣言した。大会は、アメリカ帝国主義がメキ
シコの民族独立の最悪の敵であり、メキシコ国民の抑圧者であることを指摘した。メキシコ共産
党はプロレタリアートの指導する反帝国主義統一戦線をつくりだすための闘争をおこなっている。
   ルーマニア共産党

 ルーマニア共産党は、ルーマニア労働者階級の前衛部隊であり、一九四八年二月に結成された
ルーマニア労働者党――ルーマニア人民共和国の政治・経済・文化生活の指導勢力、社会主義の
建設をめざし、諸国民間の中和と友好の強化をめざす、ルーマニア国民の闘争の組織者、指導者
――の主要な中核である。
 大十月社会主義革命の影響のもとにはじまった労働運動の力づよい間損の条件下で、ルーマニ
ア社会党内には、党を共産党に改変するための闘争を展開した共産主義者のグループがうまれた。
一九二一年五月八―十三日にブカレストでひらかれた社会党大会は、圧倒的多数でルーマニア共
産党の創設と共産主義インタナショナルへの加入にかんする決定を採択した。この大会は、共産
党第二回創立大会として歴史に記載された。大会はその決定のなかで、世界史的勝利をえたロシ
ア・プロレタリアートとの連帯性を表明し、ルーマニア労働者階級の名において、ルーマニアの
ブルジョアジーと地主がおこなっていた反ソ戦争をおしすすめる挑発的政策に反対した。党から
追放された改良主義的少数派は、分裂的社会民主党を創立し、その首領は、労働者階級の陣列に
おけるブルジョアジーの手さきとして行動した。
 ルーマニア共産党は、残忍なテロルの条件のもとでその活動を開始しなければならなかった。
ルーマニア共産党はボリシェヴィキ化のための闘争のなかで、指導機関ならびに地方の党諸組織
のなかにあった社会民主主義的・分裂的残存物を克服した。一九二二年十月三―四日にプロエス
ティ市でひらかれた第二回党大会は、国を外国資本に従属させた反動政府と右翼社会民主主義者
によっておこなわれていた民族裏切政策をばくろした。大会は党規約を採択した。一九二四年に、
党は非合法を宣告された。その後の党のすべての活動は、一九四四年にいたるまで、地下ふかく
もぐった条件のもとでおこなわれた。
 一九二四年九月にひらかれた第三回党大会は、そのころはじまった資本主義の一時的・部分的
・相対的安定にともなう党の任務をさだめ、労働者、農民、民族的少数派の日常闘争を指導する
ことが必要なことを指示した。民族問題にかんする党の任務についての決定のなかで、党は、ル
ーマニアに住んでいる全民族の勤労者を、友好の精神、ルーマニア国家から分離されるまで民族
自決権をみとめる精神で教育することが必要なことを指示した。ルーマニア共産党はロシア共産
党員の経験を利用して、大衆組織のなかで活動をおこない、合法活動と非合法活動とを結合させ
ることをまなんだ。
 ルーマニア共産党は、一九二六―二八年の力づよいストライキ運動で指導的役割を演じ、大衆
的農民運動に組織的性格をあたえ、労働者階級と勤労農民の同盟を確立することにつとめた。第
四回党大会(一九二八年)は、敵対的な清算主義的グループに反対する闘争を展開し、発生しつ
つあった戦争の危険にともなう党の任務をさだめ、もしも帝国主義者が反ソ戦をはじめるばあい
には、党は、ブルジョア政府を敗北させるために、帝国主義戦争を国内戦に転化するために、ソ
同盟にたいしてあらゆる手段をつくして援助をあたえるためにたたかうであろうことを指示した。
 一九二九年にはじまった世界経済恐慌の条件下で、ルーマニアの反動は、国のファショ化を強
化する道に立った。ルーマニア共産党は、献身的にファシズムと戦争の危険に反対する闘争をお
こなった。それと同時に、党の陣列に潜入した裏切分子は、党内で、無原則的な分派闘争をひき
おこすことに成功した。コミンテルンの執行委員会の援助によって、ルーマニア共産党内では分
派闘争は一掃され、党の統一が回復され、労働者階級の革命闘争を農民の進出と被圧迫民族の勤
労者の闘争にむすびつけることにむけられた大衆的闘争が展開された。党を強化し、党のまわり
にルーマニアの勤労者を結集するうえに大きな役割を演じたのは、ルーマニア共産党中央機関紙
――一九三一年に発行されはじめた『スクィンティア』〔『火花』〕――である。
 第五回党大会(一九三二年)は、ルーマニア共産党史上きわめて重要な位置を占めている。ル
ーマニアは、「革命の勝利は、プロレタリア独裁をもたらすために、いわばプロレタリアートと
農民との独裁という形で若干の中間的な諸段階を要求することが可能であり、また、きっと要求
するであろう」〔スターリン『コミンテルンの綱領について』、邦訳全集第一一巻一七七ページ
〕ところの、資本主義的にあまり発展していない、封建的残存物をもった、反封建的な型の特殊
な農業問題をもった国の一つに属しているということから出発して、大会は、ブルジョア民主主
義革命を徹底的に遂行し、社会主義革命に移行することにむけられた党の戦略・戦術方針をさだ
め、労働者階級のヘゲモニーと共産党の指導のもとにおける労働者階級と勤労農民との同盟をめ
ざす党の闘争における転換点となった。大会は、自由主義ブルジョアジーの新奴隷制「理論」を
粉砕した。この「理論」は、労働運動を、この「理論」の発案者が、革命運動における指導者と
いうことばで言いあらわしていたブルジョアジーの指導に従属させることを目的としていたので
ある。大会は、党のボリシェヴィキ化の大業に重要な一歩をすすめた。
 第五回大会の決定に指導されながら、ルーマニア共産党は、統一戦線の戦術をうまく適用した。
ルーマニア共産党によって組織され、指導された、ゲ・ゲオルギウ=デジを先頭とする一九三三
年の鉄道従業員と石油工業労働者の闘争は、ルーマニアにおける革命運動発展の根本的な転換と
なった。ルーマニア共産党は、反ファシスト運動の鼓舞者であり指導勢力であった。党の主唱と
その指導的役割のもとで、一九三六―三七年に、多くの民主的組織を包含した闘争の民主戦線を
結成した。多くの党活動家は、イタリア=ドイツ干渉軍とファシスト暴動者に反対するスペイン
共和国の英雄的闘争に参加した。ルーマニア共産党は、ヒトラー一味の指導によっておこなわれ
た一九四〇年の北部トランシルヴァニアの分離に反対し、ルーマニアをヒトラーの隷属者に変え
たファシスト独裁に反対する献身的・愛国的闘争をおこなった。ヒトラー・ドイツとルーマニア
をふくむその協力者のソ同盟にたいする背信的な攻撃の当初から、ルーマニア共産党は、大衆に
侵略者の真の強盗的な目的を説明し、ファシスト占領者とルーマニアの協力者に反対する積極的
な闘争を大衆によびかけた。ルーマニア共産党は綱領を作成し、そのなかで、党の任務が、血ま
みれのドイツ・ファシズムとその従僕の絶滅をめざす闘争のためにルーマニア人民の努力と大ソ
ヴェト国民の努力とを結合させることにあると指示した。
 しかし共産党は、はじめのあいだは、戦争からの活路をもとめ、ファシスト独裁の打倒をめざ
す広範な運動を組織することに成功しなかった。党の指導部に潜入した裏切者のグループは、党
とルーマニアの反ファシスト運動全体に大きな損害をあたえた。このグループは、一九四四年の
春までにその正体をばくろされ力をうしなった。
 ヒトラー・ドイツにたいするソヴェト軍の世界史的勝利は、ルーマニア共産党がその先頭に立
っていたルーマニア人民の解放闘争の成長を促進した。一九四四年五月に、ソヴェト解放軍がヒ
トラー軍を追撃してプルート河(ソ同盟とルーマニアの国境をなしている)に到達したときによ
うやく社会民主党の右翼指導部は、再三の拒絶と遅滞ののちに、統一労働戦線の結成にかんする
ルーマニア共産党の提案をうけいれた。
 ルーマニアからヒトラーの軍隊を完全に追放することに着手したソヴェト軍の常勝攻撃は、共
産党によって準備され、党の指導のもとにもたらされた一九四四年八月三十三日のファシスト体
制打倒の大業における決定的な要因であった。
 地下から出てその権威をいちじるしく増大したルーマニア共産党は、その陣列を強化しはじめ
た。ルーマニア共産党は、国の民主化を擁護し、王制=ファシストと外国帝国主義者の陰謀に反
対する闘争を献身的におこなった。ルーマニア共産党のおかげで、反動分子の陰謀家一味の行動
は絶滅され、一九四五年三月には、民主主義政府が樹立された。党の主唱によって、まず第一に、
労働者階級と勤労農民の同盟を強化させた農業関係の分野において大規模な社会改革をおこなっ
た。
 一九四五年十月に、全国党会議がひらかれた。マルクス=レーニン主義の教えとソ同盟の社会
主義建設の経験をよりどころとして、党会議は、労働者階級が勤労農民と同盟して完全に政治権
力も掌握するという方向をあたえ、国の工業化と電化の任務を提起した。階級の敵との闘争、経
済的困難の克服と根本的改革をめざす闘争に大衆を動員し組織しながら、ルーマニア共産党は、
めざましい成功をおさめた。一九四七年十一月には、ブルジョアジーの最後の代表者が政府から
追放され、一九四七年十二月三十日には、王制が廃止されてルーマニア人民共和国が宣言された。
ルーマニア共産党の倦むことのない闘争の結果であったこの重要な出来事は、人民民主主義の形
式をとったプロレタリアート独裁への移行を意味した。ルーマニア共産党の指導のもとに獲得さ
れたルーマニア人民のめざましい勝利は、ルーマニアの労働運動における分裂の克服へとみちび
いた。ルーマニア共産党は、倦むことなく右翼社会民主主義者の指導者を孤立させ、社会民主党
の下部組織における党の勢力を強化するための闘争をおてなった。ルーマニア共産党によって一
貫しておこなわれた労働者階級の統一政策とルーマニアの労働運動におけるマルクス=レーニン
主義原則の勝利は、すべてのプロレタリア勢力をルーマニア共産党のまわりに結集させた。一九
国八年二月、ルーマニア共産党の勝利の結果、マルクス=レーニン主義の原則の基礎のうえに、
ルーマニア労働者階級の単一の党――ルーマニア労働者党が創立された。
 ルーマニア共産党は、一九四七年の共産党労働者党情報局の創立に参加した。
   ソ同盟共産党

 ソ同盟共産党――それは、労働者階級、勤労農民ならびに勤労インテリゲンツィアによって組
織された、志を同じくする共産主義者の白由意志にもとづく、戦闘的な同盟であり、ソヴェト社
会ならびにソヴェト国家の指導勢力である。ソ同盟共産党――それは、新しい型の、理論、綱領、
政策(戦術)、組織の点で一つに結合した党である。ソ同盟共産党の目的は、共産主義社会の建
設である。
 ブルジョアジーの権力を廃止し、自己の政治的支配をうちたて、共産主義社会を建設するため
には、プロレタリアートのための革命政党が必要である。ヴェ・イ・レーニンはつぎのように書
いた。「マルクス主義は、労働者党を教育することによって、プロレタリアートの前衛を教育す
る、――かかる前衛は、権力を奪いとり、 ##全人民## を社会主義へ ##みちびき## 、新しい秩
序を方向づけ、かつ組織する能万をもち、またブルジョアジーがいなくとも、ブルジョアジーに
反対しても、自己の社会生活を建設する仕事において、すべての勤労者、被搾取者の教師、道案
内者、指導者となる能力をもっている。」〔レーニン『国家と革命』、本文庫版四一ページ〕
 自己の活動において、ソ同盟共産党は、マルクス=レーニン主義の理論によって指導されてい
る。マルクス=レーニン主義理論のただしさと活動力は、実践と革命的闘争によって点検され、
マルクス=レーニン主義理論自体は、革命的実践とのもっとも緊密な関係において発展し、ゆた
かになりつつある。マルクス主義の天才的理論家ヴェ・イ・レーニンは、帝国主義およびプロレ
タリア革命の時代のあらたな、歴史的諸条件のなかで、マルクス主義を発展させ、あらたな結論
と命題によってマルクス主義を豊富にし、あらたな、高い段階に高めた。レーニンの事業の偉大
な後継者――イ・ヴェ・スターリンは、ソ同盟における社会主義建設の経験ならびに国際的解放
運動の経験を一般化することによって、新しい歴史的諸条件に適応して、マルクス=レーニン主
義の教義を創造的に発展させ、多くの問題において、あらたな命題によって、マルクス=レーニ
ン主義の革命理論を豊富にした。マルクス――エンゲルス――レーニン――スターリンの教義は、
ソ同盟共産党に不敗の力をあたえ、歴史的過程の合法側性の朝靴、階級闘争およびプロレタリア
革命の法則の認識、資本主義的奴隷制から人類を解放するための闘争、共産主義の勝利のための
闘争における自己の力の確信によって労働者階級を武装させている。共産党は、マルクス・レー
ニン主義の理論と客観的経済法則の知識にみちびかれて、社会の物質的生活の発展の要求と、国
民の根本的な利益を反映した、科学的・実践的に点検された政策をつくりあげ、革命的エネルギ
ーと、大衆の革命的創造の鼓吹者ならびに組織者として行動している。ソ同盟共産党の全歴史は、
行動でしめされたマルクス=レーニン主義である。理論と実践の統一が、共産党のすべての活動
の特徴である。
  ##共産党## は、先進的・マルクス=レーニン主義理論、その戦闘指令部ならびに政策指導者
によって武装された、 ##労働者階級## 、全勤労大衆の ##先進的・意識的部隊である## 。党は、
労働者階級および全勤労国民のあらゆる優秀分子、彼らの経験、プロレタリアートの事業にたい
する革命性と献身的な忠誠をそのなかに吸収している。 ##共産党は――労働者階級、全勤労大
衆の組織された部隊で
ある## 。新しい入党者は、厳格な個人審査によって入党をゆるされるの
である。共産党の組織の指導原理は、下部から上部までの党の全指導機関の選挙制、党組織にた
いする党機関の定期的報告、功績やその地位に関係なく全共産党員に一様に義務づけられた厳格
な党規律、多数にたいする少数の服従、下部機関および全党員にたいする上部機関の決定の無条
件の義務をみとめる民主主義的中央集権制度である。党指導の最高原則は集団主義《コレクチブ
ノスチ》である。党の集団的指導者は中央委員会である、 ##共産党は## ――勤労者のその他の
全組織――勤労者代表ソヴェト、労働組合、青年共産同盟、協同組合、文化・啓蒙諸機関、等々
――の行動を指導している ##プロレタリアートの階級組織の最高の形態である。共産党は――
労働者階級、全勤労大衆とプロレタリアートの前衛とのつながりのもっとも完全な具現者である
## 。マルクス=レーニン主義はおしえている。大衆との広範なつながりなしには、これらのつ
ながりの不断の強化なしには、大衆の出に耳をかたむけ、大衆の必要としているものを理解する
能力なしには、大衆におしえるばかりではなく、たえず大衆におしえられる用意なしには、――
党は大衆のほんとうの指導者や領袖になることはできない。共産党のすべての活動は、人民にた
いする、勤労者の革命的エネルギーと、つきることのない創造力にたいする深い信頼につらぬか
れている。人生のすべての富を創造している労働者と農氏が、歴史のほんとうの創造者であり、
「人民を信頼し、生ぎ生きした人民の創造の泉にひたるものだけが勝利し、権力をにぎることが
できる」〔レーニン『一九一七年十一月四(十七)日全ロシア中央執行委員会会議(議事録)』、
全集第二六巻二五九ページ〕というところから党は出発している。勤労者の利益のための自己の
献身的な闘争によって、ソ同盟共産党は、ソ同盟の国民大衆のなかに最大の権威をかちとった。
党には、国民の利益以外には、どのような利益もない。党の力は――党
と国民とのひきはなすこと
のできないつながりのなかにある。人民の力は人民が党のまわりに団結している点にある。ソヴ
ェト国民は、半世紀のあいだに、ロシアに存在したあらゆる政党の事業を実際に体験した。革命
的闘争のあいだに、勤労者はすべてのブルジョア政党をみすてて、唯一の反地主的・反資本主義
的政党、国民の利益の真の擁護者としての共産党をえらんだ。 ##共産党――それはその陣列の
なかに、反党的グループの存在をゆるさない意志の統一である## 。党は、全党員が意志の統一
によってむすびついた単一の陣列に組織され、行動の統一と規律の統一によって組織されている
ばあいにのみ、労働者階級の実際の闘争を指導し、それを一つの目的にむけることができるので
ある。ソ同盟共産党は、分派の存在をゆるさず、自己の陣列から、日和見主義的分子、動揺分子、
危険分子を一掃することによって強化されている。ソ同盟共産党は、マルクス=レーニン主義や
党の路線からの小さな逸脱をもゆるさない。レーニン主義の敵との激しい闘争のなかでかちとら
れたソ同盟共産党の統一は、その内部状態の特徴である。党の力の主要な条件としてのできるか
ぎりの党の統一の保持が、一人一人の共産党員の主要な任務である。党の組織は、党の指導原理
と党生活の基準を規定した ##ソ同盟共産党規約## に体現されている。 ###共産党は、プロレタ
リアートの手中に独裁をかちとるための武器であり### 、大十月社会主義革命以後は、 ###プロ
レタリアートの手中で、社会主義ならびに共産主義の勝利の利益のために独裁を維持、強化、
発展させるための武器となっている### 。
 自己の政策を実現するために、党はすべての国家機関および勤労者の公共機関も指導している
党は、ソヴェト国家の内外政策をつくりあげ、ソヴェト国民にたいして、科学的につくりあげら
れた行動綱領をあたえ、それを達成するための目的と方法を指示し、正しい行動方針をあたえて
いる。党は、労働者階級の指導のもとに、労働者階級と勤労農民の破壊しがたい同盟をあらゆる
方法で強化する政策をとり、共産主義建設とソ同盟の力の強化における、ソヴェト諸国民の友誼
とその兄弟的協力を強化する政策をとっている。
 ソ同盟共産党は、労働者階級の党としてうまれ、国民のまっただ中から出現した。党は労働運
動の基盤のうえに成長し、最初のマルクス主義的サークルやグループから、偉大な数百万人の共
産党にいたるまでの長い、栄光の道をあゆんできた。ソ同盟共産党は、帝国主義とプロレタリア
革命の時期、ソ同盟における社会主義建設の時期に創設され、成長し、強化されたのである。F
・エンゲルスの死後、社会革命の政党から「社会改良」の政党に変質し、日和見主義の泥沼にお
ちこんだ第二インタナショナルの諸政党は、あらたな歴史的諸条件のもとで――帝国主義の廃止
と政権の奪取のために、プロレタリアートの力を直接準備すべき時代に――プロレタリアートの
革命的な闘争の指導には役だたないことがわかった。新しい型の政党、革命情勢の複雑な条件を
解明するために、戦闘的な、革命的な、十分に経験をつんだ政党、労働者階級を権力のための闘
争とプロレタリアートの独裁の獲得にみちびくために、十分に勇敢な政党を創立する必要が生じ
た。このような政党が共産党なのである。
 ソ同盟共産党は、労働運動内部の小ブルジョア諸党――メンシェヴィキ、エス・エル、無政府
主義者、ブルジョア民族主義者、党内ではメンシェヴィキ的・日和見主義的諸流派であるトロツ
キー派やブハーリン派、民族主義偏向者、その他反レーニン的グループとの原則上の闘争のなか
で成長し強化された。ソ同盟共産党は、労働者階級のあらゆる敵との、勤労者のあらゆる敵――
すなわち地主、資本家、富農、妨害者、スパイとの、国際帝国主義のあらゆる代弁者との革命的
な闘争のなかで強化し、きたえられた。
 ソ同盟共産党の歴史は、三つの革命、すなわち、一九〇五年のブルジョア民主主義革命、一九
一七年二月のブルジョア民主主義革命、一九一七年の大十月社会主義革命の歴史である。
 労働者階級と勤労農民の同盟を組織した共産党は、一九一七年の大十月社会主義革命の結果、
人類の歴史上最大の転換を実現した。すなわち、地主および資本家の権力を廃止し、プロレタリ
アートの独裁を確立し、長年にわたる社会的・民族的抑圧からロシアの諸民族を解放したのであ
る。ソ同盟共産党は、ソヴェト人民を祖国防衛戦争に決起させ、一九一八―二〇年の外国の軍事
的干渉および国内の反革命の壊滅を組織した。
 プロレタリアートの独裁の諸条件のもとで、党は、生産関係はかならず生産力の性格に照応す
るという客観的な経済法則に立脚して、国民の強大な創造力を組織し、国民の偉大なエネルギー
を社会主義建設にむけた。ソヴェト国民は、共産党の指導のもとに、第一級の社会主義工業と大
規模な社会主義農業を創設し、ソ同盟をおくれた農業国から強力な工業・コルホーズの社会主義
強国に変えた。党は、長年にわたる民族的反目をなくすことを保障し、それまでに抑圧されてい
た諸民族の経済的・文化的たちおくれを克服し、ソ同盟の諸民族を単一の多民族社会主義国家に
結合した。共産党の指導のもとに、ソヴェト国民は、一九四一―四五年の大祖国戦争において、
ファシスト・ドイツおよび帝国主義日本にたいする全世界的・歴史的勝利を獲得し、祖国とヨー
ロッパおよびアジアの諸国民をファシストの圧制の脅威から解放した。
 社会主義から共産主義への漸次的移行の時期に、共産党は、共産主義建設のもっとも重要な課
題を解決しつつある。党は、多民族ソヴェト国家を将来強固にし、労働者階級と農民の同盟、諸
民族の友誼を強化し、ソ同盟の敵の侵略的行動から、積極的にソ同盟をまもることをあらゆる方
法で強化することをその任務とし、社会主義的祖国のすべての敵との闘争において、ソヴェト国
民が政治的に細心であり、なにものをも容赦しないことをおしえている。党は、ソヴェト人の物
質的、ならびに文化的生活水準の不断の向上について配慮している。国民の福祉についての配慮
――それは共産党の最高のおきてである。党は、平和、民主主義および社会主義の強力な陣営を
将来強化することを神聖な義務と考えている。対外政策の分野における党の主要な任務は、ソヴ
ェト国民の平和的な労働を保証し、平和を維持し、あらたな戦争をゆるさないことにある。共産
党は、平和政策がソヴェト国民およびその他すべての平和愛好諸国民の生活の利益にこたえる唯
一の正しい政策であるという点から出発している。
 ソ同盟共産党の創設者、英明な指導者はヴェ・イ・レーニンである。偉大在レーニンの名は、
ソ同盟共産党の全歴史、世界最初の社会主義国家――ソヴェト社会主義共和国同盟の成立と発展
にかたくむすびついている。ヴェ・イ・レーニンの名は、平和、民主主義、社会主義をめざし、
諸民族のあかるい未来をめざしてたたかう全世界の勤労者の旗となった。天才的なレーニン、レ
ーニンの教え子で、その事業の継承者であるイ・ヴェ・スターリンおよび彼の戦友たちに指導さ
れ、戦闘できたえられたソ同盟共産党は、共産主義を建設しつつあるソヴェト社会をみちびき、
指導し、これに方向をあたえる力となっている。
 ソ同盟共産党は、万国の勤労者から最大の権威と、かぎりない信頼と、愛情を得ている。共産
党は――「われわれの時代の理智であり、名誉であり、良心である。」(ヴェ・イ・レーニン)
ソ同盟共産党は、その革命的活動によって、世界の革命運動および労働運動の「突撃隊」という
誉ある称号をかちとった。
 ソ同盟共産党のゆたかな歴史的経験は、社会の革命的な変革をめざしてあくまでもたたかって
いる万国の共産党や労働者党を激励する手本である。

     1 ソ同盟共産党の創立

 ロシアのマルクス主義政党は、資本主義がその最高の、そして最後の発展段階である帝国主義
的発展段階にはいり、寄生的な、腐敗し、死滅しつつある資本主義にかわりはじめたころ、プロ
レタリア革命が直接実践上の問題となったころの国際労働運動の転換期につくられた。このころ
ロシアは、帝国主義のもつあらゆる矛盾の結節点であった。二〇世紀初頭の革命運動の中心は、
西ヨーロッパからロシアにうつった。ロシアでは、もっとも大きな民放革命がおこり、その先頭
には、農民のなかに同盟者をもっていた世界における革命的なプロレタリアートが立っていた。
歴史的発展の全過程で、ロシアの労働者階級は、国際労働運動の先駆的な地位に前進した。
 一九〇二年に、ヴェ・イ・レーニンはつぎのように書いた。「歴史はいま、他のあらゆる国々
のプロレタリアートに課せられたあらゆる当面の任務のうちで、もっとも革命的な任務をわれわ
れに課している。この任務を実現し、ひとりヨーロッパばかりではなく(いまではこう言うこと
ができる)アジアをもふくめた反動のもっとも強力なとりでを破壊するならば、ロシアのプロレ
タリアートは、国際的な革命的プロレタリアートの前衛となるであろう。」〔レーニン『なにを
なすべきか?』、本文庫版四六ページ〕ロシアの労働者階級は戦闘的・革命的マルクス主義政党
の指導によってのみ、自己の前衛的役割をはたすことができたのであり、マルクス主義政党は、
ァーリズムと資本主義をたおすための、プロレタリアートの独裁をかちとるためのプロレタリ
アの革命的闘争の先頭に立ち、この闘争に方向をあたえなければならなかった。このような党を
創設するために、ヴェ・イ・レーニンを頭とするロシアの革命的マルクス主義者たちは闘争をお
こなったのである。
 ソ同盟共産党は、プロレタリア党の創設に必要な諸条件、すなわち労働運動の存在と科学的共
産主義理論の発展がロシアではっきりした形をとりはじめたときにうまれたのである。一八六一
年の農奴制の廃止ののちに、ロシアにおける産業資本主義の発展は、かなり急速に進行した。製
作所と工場の数は増大し、鉄曲が建設された。九〇年代の末には、大工場、鉱山業、鉄道の労働
者数は約三〇〇万人に達した。ロシアの労働者階級は、組織された革命闘争をおこなることので
きる強力な、先進的勢力となった。一九世紀の七〇年代およびとくに八〇年代には、ロシアのプ
ロレタリアートは、資本主義との闘争にたちあがりはじめた。ロシアにおける労働運動の発展の
基礎のうえに、最初のマルクス主義的組織やサークルやグループがあらわれ、それらのなかから
ソ同盟共産党が形成されたのである。
 ロシアにおけるマルクス主義的労働者党は、プロレタリアートをブルジョアジーとの決定的な
武力衝突にそなえて準備させ、プロレタリア革命の勝利を組織する能力のある新しい型の党、社
会革命の党として創設された。
 ロシアにおけるマルクス主義政党を創設するための闘争の時期(一八三三―一九〇一年)にお
けるもっとも重要な出来事は、 ##ナロードニキ主義## の思想的壊滅と、その行動がマルクス主
義と労働運動との結合にむけられていたペテルブルグ「 ##労働者階級解放闘争同盟## 」がヴェ
・イ・レーニ
ンによって創立されたことである。
 マルクス主義の普及を保障し、ロシアにプロレタリア党を創りだす可能性を保障するためには、
まず第一にナロードニキ主義を壊滅させることが必要であった。ナロードニキは、人間社会の発
展における物質的生活の諸条件の第一義的な役割をみとめず、社会発展の客観的法則を理解せず、
歴史における人民大衆の創造的役割を否定した。歴史的発展過程にたいする反動的、主観的・観
念的見解を説教しながら、ナロードニキは、ロシアでは資本主義は発展しないであろうと主張し
た。彼らが主要な革命的勢力と見なしていたのは労働者階級ではなくて、農民であった。彼らは
農民共同体《オプシナチ》のなかに社会主義の萠芽と基礎を見てとった。ナロードニキ主義的見
解は、そのころロシアにおけるマルクス主義と革命的労働運動の発展をさまたげる主要な思想的
障害であった。ナロードニキのまちがった見解に反対して、ゲ・ヴェ・プレハノフに指導された
「 ##労働解放」団## が闘争を展開した。「労働解放」団は、ロシアにマルクス主義を普及させ
るうえで仕事をし、先進的な労働者や革命的気分をもったインテリゲンツィアのあいだのナロー
ドニキ主義の影響に打撃をあたえた。しかしナロードニキ主義の思想的壊滅はまだ完全におこな
われたわけではなかった。ナロードニキ主義を思想的に先全に壊滅させるという任務は、ヴェ・
イ・レーニンが遂行した。その著書『「人民の友」とはなにか? そして彼らはどのように社会
民主主義とたたかっているか?』(一八九四年)のなかでヴェ・イ・レーニンは、実際には人民
に敵対しているにせの「人民の友」としてのナロードニキの正体を、徹底的にばくろした。九〇
年代の自由主義的ナロードニキは、革命的闘争を拒否し、ツァーリの政府と妥協せよと説教し、
富農のイデオローグおよび擁護者となったのであり、ほんとうの人民の友は、ナロードニキでは
なくて、マルクス主義
者であるとヴェ・イ・レーニンは指示した。レーニンは、社会の先進的・
革命的勢力としての労働者階級の役割を規定し、労働者階級の同盟者としての農民の役割を指示
した。この著書のなかでヴェ・イ・レーニンは、ツァーリズム、地主、ブルジョアジーをたおす
主要な手段としての労働者と農民の革命的同盟の思想を、はじめて提起した。この思想は、共産
党のあらゆる行動における指導原理となった。ヴェ・イ・レーニンは、ロシアのマルクス主義者
の主要な任務は、散在したマルクス主義者のサークルやグループから、単一の革命的労働者党を
創設することにあるということをあきらかにした。ナロードニキとの和解しがたい闘争のなかで
ヴェ・イ・レーニンは、歴史の真の創造者は、傑出した個人や「英雄」ではなく、あらゆる物質
的富をつくりだしている勤労大衆であり、社会発展の歴史は、物質的富の生産者自身の歴史であ
り、人民の歴史であるというマルクス主義のもっとも重要な命題を主張した。この時期の一連の
労作のなかでヴェ・イ・レーニンは、人民の意志派や、のちにはエス・エルによってもちいられ
た個人的テロルの戦術に批判をくわえた。レーニンは、この戦術は大衆の闘争を個人の闘争にす
りかえ、人民大衆の創造力にたいする不信を意味したものであるから、革命運動にとって有害で
あると考えた。ナロードニキ主義にたいするヴェ・イ・レーニンと彼の支持者たちの闘争は、す
でに九〇年代にナロードニキ主義を決定的な思想的崩壊にみちびき、ロシアの労働運動にマルク
ス主義的思想を広範に普及するための下地をつくりだした。ヴェ・イ・レーニンは、一八九九年
に出版された『ロシアにおける資本主義の発達』という著書のなかで、ナロードニキ主義の思想
的壊滅を完遂した。「合法マルクス主義」にたいするヴェ・イ・レーニンの闘争はマルクス主義
をブルジョア的歪曲からまもる事業において、巨大な意義をもっていた。「合法マルクス主義者
」は、マルクス主義を歪
曲し、マルクス主義のなかでもっとも主要なもの、すなわちプロレタリ
ア革命の学説、プロレタリアート独裁の学説をすて、労働運動をブルジョアジーの利益に従属さ
せようとした。ヴェ・イ・レーニンは、「合法マルクス主義者」を粉砕し、彼らの自由主義的・
ブルジョア的本質をばくろした。
 一八九五年にヴェ・イ・レーニンは、ペテルブルグのマルクス主義研究《サークル》会を統合
して、「労働者階級解放闘争同盟」を創設した。ヴェ・イ・レーニンの指導のもとに、ペテルブ
ルグ「労働者階級解放闘争同盟」は、ロシアではじめて社会主義と労働運動の結合を実現しはじ
めた。「闘争同盟」は、経済的要求のための労働者の闘争をツァーリズムにたいする政治闘争に
むすびつけ、労働者を政治的に教育した。それは労働運動をよりどころとするロシアにおける事
命的プロレタリア党の最初の重大な萠芽であった。ペテルブルグ「闘争同盟」は、ロシアの他の
都市や地方でも、労働者の研究会《サークル》をこのような同盟に合同させるための力づよい刺
激をあたえた。九〇年代にはモスクワ、イヴァノヴォ=ヴォズネセンスク、ヤロスラヴリ、コス
トロマ、ドン河畔のロストフ、エカテリノスラフ、キエフ、ニコラエフ、トゥーラ、オレホヴォ
=ズエヴォ、カザン、サマラその他ロシアの諸都市に社会民主主義の同盟が創立された。九〇年
代のなかばには、ザカフカズにいくつかの社会民主主義組織が創立され、九〇年代の終りには、
シベリア「社会民主主義同盟」が組織された。ペテルブルグ「闘争同盟」は、一八九五年十二月
にツァーリ政府によって壊滅させられた。ヴェ・イ・レーニンは逮捕されて一八九七年にシベリ
アに流刑になった。
 一八九八年三月に、ロシア社会民主労働党第一回大会がひらかれた。ヴェ・イ・レーニンは大
会の活動には参加しなかった。彼は流刑地にいたのである。大会はロシアにおけるマルクス主義
政党の創立を宣言した。しかし、党は創立されず、ロシアのマルクス主義運動は、第一回大会後
も従来どおり、戦闘的なマルクス主義の綱領と中央集権的組織の統一によってむすびつけられて
いない、個々の分散した社会民主主義のサークルやグループの段階にとどまっていた。社会民主
主義サークルの多くには「経済主義」がさびついていた。国際日和見主義のロシア的変種であっ
た「経済主義者」は、労働者階級の政治闘争を否定し、ツァーリズムと資本主義にたいする闘争
における労働者階級の指導的役割を否定し、プロレタリアートの革命的政党の創立に反対し、自
然発生的労働運動に社会主義的意識をもちこむことに反対した。「経済主義者」は、社会民主主
義組織の分散性と思想的混乱を正当化した。
 マルクス主義政党樹立の闘争、「経済主義」の思想的粉砕、分散した社会民主主義サークルの
単一の中央集権化された政党への統一で決定的役割をはたしたのは、流刑地からかえったのちに
海外でヴェ・イ・レーニンによって組織された全ロシア的マルクス主義政治新聞『イスクラ』で
あった。
 ロシア社会民主労働党形成の時期に(一九〇一―〇三年)、「経済主義者」にたいする頑強な
原則上の闘争では、レーニンの『イスクラ』の革命的方針が勝利を占めた。この時期の主要な出
来事は、ロシア労働者階級の戦闘的・革命的マルクス主義政党の端緒をひらいたロシア社会民主
労働党第二回大会である。
 一九〇一年から一九〇三年のあいだに、労働者の闘争はますます革命的な性格をおびはじめた。
労働者は経済的ストライキから政治的ストライキやデモンストレーションに移行しはじめ、民主
主義的自由にかんする政治的要求を提起しはじめ、「ツァーリ専制打倒!」のスローガンをかか
げはじめた。労働運動は、農民にたいしてもその影響をおよぼした。労働者と農民の革命的行動
は、ロシアに革命が成熟し近づいていることをしめした。革命の成熟の諸条件のなかで、社会民
主主義組織の思想的・組織的分散性を克服するための、革命運動を指導するに適した労働者階級
の政党を創立するための「経済主義者」との闘争が第一義的な意義をもつようになった。『イス
クラ』紙上や著書『なにをなすべきか?』(一九〇二年)のなかでヴェ・イ・レーニンは、「経
済主義者」のイデオロギーを粉砕し、マルクス主義政党の建設計画を展開した。ヴェ・イ・レー
ニンは、党の建設は、革命的社会民主主義の見解のために宣伝と煽動をおこなう全ロシア的な政
治新聞の組織からはじめなければならないと考えた。新聞『イスクラ』は、党の勢力を統一し、
党員幹部を結集し、教育し、明確なマルクス主義の綱領と革命的戦術、単一の意志と鉄の意志を
もつ、全ロシア的な中央集権化されたプロレタリア党に、党員幹部を結集する中心になった。
 発展しつつあるロシアの労働運動の任務は、マルクス主義理論の創造的発展、労働運動と社会
主義とのかたい結びつきをつよく要求した。ヴェ・イ・レーニンは、「経済主義者」の日和見主
義との容赦ない闘争のなかで、マルクス主義政党の思想的基礎をきすぎあげた。著書『なにをな
すべきか?』のなかで、ヴェ・イ・レーニンは、「緒済主義者」がおこなったように、ツァーリ
ズムとの全般的政治闘争から労働者階級の目をそらせ、労働者階級の任務を雇主と政府とにたい
する経済闘争に限定することは、労働者に資本家の奴隷たる運命を負わせることを意味する、と
指示した。ヴェ・イ・レーニンはつぎの点をあきらかにした。労働者は、資本家に自己の労働力
を売る条件を改善するためばかりではなく、資本主義制度を絶滅するためにもたたかうことを欲
している。労働運動の途上にツァーリズムが立ちはだかっているかぎり、資本主義をとりのぞく
とはできない。それゆえに、党および労働者階級の当面の任務は、ツァーリズムをとりのぞぎ、
それによって社会主義革命への道をきりひらくことにある。「経済主義者」による労働運動にお
ける党の指導的役割の否定は、労働者階級への裏切りを意味した。なぜならば、革命的政党なく
しては、労働者階級は、自己ならびに全勤労者を政治的・経済的・精神的奴隷状態から解放する
という自己の歴史的 #使命# をはたすことができないからである。ヴェ・イ・レーニンは、革命
的理論の意義をたかめ、先進的理論によって指導される党だけが、勤労者の前衛的闘士、真の指
導者の役割をはたすことができることを立証した。レーニンはこう書いている。「革命的理論な
くしては革命的運動もありえない。…… ##先進的な理論にみちびかれる党だけが先進的闘士の
役割をはたすことができる## 。」〔レーニン『なにをなすべきか?』、本文庫版四一、四二ペ
ージ〕全力をもってヴェ・イ・レーニンは、大衆的な労働運動と科学的社会主義との結合の意義
を強調した。
 「経済主義者」は、労働運動における党の指導的役割を否定し、プロレタリアートの政治的任
務をせばめながら、党の組織的任務をひきさげた。「経済主義者」は、手工業主義、浅薄な経験
主義、地方組織の分散性を正当化した。「経済主義者」は第二インタナショナルの日和見主義者
と同様に、資本主義を維持しようとしている漸進的社会主義者の党をもつことをのそんだ。ヴェ
・イ・レーニンは、組織問題における「経済主義者」の日和見主義にたいして、自己の党建設案
を対立させた。党は職業的革命家のせまいグループと、数十万の勤労者の共鳴と支持にとりかこ
まれた地方組織の広範な網の目から構成されなければならない、とヴェ・イ・レーニンは指示し
た。ヴェ・イ・レーニンは、党は労働者階級の先進的部隊であり、プロレタリアートの階級闘争
を統一し、それに方向をあたえる労働運動の指導的勢力でなければならないと考えた。
 『イスクラ』は、レーニンの党建設案のために、ロシアにおけるプロレタリアートのほんとう
のマルクス主義政党を創立すべき第二回党大会を召集する広範なカンパニアを展開した。『イス
クラ』のもっとも重要な仕事は、党の綱領草案を作成することであった。ヴェ・イ・レーニンは、
プレハノフによって準備された草案に批判をくわえ、綱領草葉にプロレタリアート独裁にかんす
るもっとも重要な条項を挿入し、革命における労働者階級の指導的役割を明確に指示するよう努
力した。
 第二回党大会の時期に、若いロシアの労働運動がいかなる道をすすむか――社会主義イデオロ
ギーによって勇気づけられている若いロシアの労働運動が、ツァーリズムと資本主義にたいする
勇敢な、徹底的な革命闘争の道、プロレタリアート独裁の道、ヴェ・イ・レーニン、イスクラ派、
ボリシェヴィキがしめした道をすすむか、あるいはメンシェヴィキとその先行者である「経済主
義者」がさそいこんだブルジョア・イデオロギーへの従属と、ツァーリズムと資本主義への順応
の道をすすむか――という政治問題が解決された。
 ロシア社会民主労働党第二回大会は、一九〇三年七―八月にひらかれた。大会の構成は同質的
ではなかった。『イスクラ』の支持者とならんで、代議員のなかにはその反対派もいた。イスク
ラ派と自任していたものが、みながみな、ほんとうのイスクラ派=レーニン派であったわけでは
ない。彼らの一部は、のちにメンシェヴィキ=日和見主義者になったマルトフの指導にしたがっ
た。代議員の一部は、『イスクラ』とその反対者のあいだを動揺していた。ヴェ・イ・レーニン
は、イスクラ派の勝利を確保するために非常な力をかたむけた。大会はK・マルクス、F・エン
ゲルスの死後の国際労働運動史上はじめて、プロレタリアート独裁のための闘争を基本的任務と
する革命的な綱領を採択した。ヴェ・イ・レーニンはまた、農民問題にかんする革命的・民主主
義的要求と民族自決権にかんする一項を党の綱領にいれさせた。大会で採択された綱領は、ブル
ジョア民主主義革命の段階におけるプロレタリアートの当面の任務(最小限綱領)と社会主義革
命の勝利をめざすプロレタリアートの基本的任務(最大限綱領)をあらわしていた。この綱領は、
第八回大会(一九一九年)にいたるまで、ボリシェヴィキ党の指導的文書であった。
 綱領を採択し、党の思想的統一のための基礎をつくりだしたのち、大会は、党内の手工業主義
や、サークル主義や、組織上の分散状態をなくするために、党規約をも採択しなければならなか
った。党建設の組織原側をめぐって、大会では激しい闘争が展開された。もっともはなはだしい
意見の相違は、党員の資格にかんする規約第一条の定式化から展開された。二つの方式が提起さ
れた。一つは、党員は党の綱領を承認し、党を物質的に支持し、党組織のどれか一つの一員とな
らなければならないとしたヴェ・イ・レーニンの方式であり、もう一つは、党組織の一つに参加
することを入党条件とみなさなかったマルトフの方式であった。ヴェ・イ・レーニンと彼の同志
たちは、革命世論によって武装され、プロレタリアート独裁のための労働者階級の闘争を指導す
る使命をもつ労働者階級の前衛的・意識的部隊、組織された部隊としての党にかんするマルクス
主義の根本命題をまもりぬいた。メンシェヴィキは、日和見主義的な西欧の社会民主主義諸政党
型の、改良主義的な、組織的に形をなしていない、協調主義的組織を固守した。綱領のうえの日
和見主義(プロレタリアート独裁の否定)は、組織上の日和見主義(中央集権化され、規律ある、
戦闘的なプロレタリアートの革命党の拒否)を生みだした。公然たる『イスクラ』反対派と動揺
しているイスクラ派の支持を得て、マルトフと彼の同志たちは、規約第一条の自己の方式を大会
にもちこんだ。党中央部の選出にあたってヴェ・イ・レーニンの支持者は勝利を得た。このとき
から彼らをボリシェヴィキ〔多数派〕とよび、少数の投票をえたレーニンの反対派をメンシェヴ
ィキ〔少数派〕とよぶようになった。このようにして、第二回大会における日和見主義者との闘
争の結果、第十九回ソ同盟共産党大会(一九五二年)まで存在した「ボリシェヴィキ」党の名称
が歴史上にうまれた。ロシア社会民主労働党第二回大会の歴史的意義は、それがレーニンの『イ
スクラ』によって提起され、つくりあげられた思想的・組織的基礎のうえに、真にマルクス主義
的な党、新しい型の党をロシアに創設した点にある。「ボリシェヴィズムは政治思想の一潮流と
して、また政党として一九〇三年このかた存在している。」〔レーニン『共産主義における「左
翼」小児病』、本文庫版一五四ページ〕ロシア社会民主労働党第二回大会は世界の労働運動にお
ける転換点であった。レーニンがマルクス主義に敵対するメンシェヴィキの思想的・組織的方針
を容赦なくばくろしたことは、修正主義者、あらゆる国際的日和見主義にたいする強力な打撃で
あったし、各国の革命運動の発展にとって大きな意義をもっていた。

     2 プロレタリアート独裁をめざす闘争における共産党

 第二回大会で形成された、レーニンを先頭とするボリシェヴィキの政治グループは、形式的に
は一九一二年まで単一のロシア社会民主労働党の一員として、プロレタリアート、農民、ロシア
のすべての民族の根本的利益に合致する、一頁した革命的方針を実行した。ボリシェヴィキは、
ロシアおよび国際労働運動におけるあらゆる種類の日和見主義にたいして、非妥協的な原則的闘
争をおこなった。ロシア社会民主労働党第二回大会から大十月社会主義革命の勝利にいたる歴史
的諸事件の全進行は、共産党が国内における唯一の指導的な革命勢力であったことをはっきりと
しめした。ロシアにおける三つの革命の歴史は、ボリシェヴィキ党が短期間に(一九〇三―一七
年)、経験のゆたかさにおいて、マルクス主義理論の研究と革命の進行中におけるこの理論の創
造的な適用の深さにおいて、世界にくらべるもののないような大きな政治活動をおこなったこと
をしめし、共産党の戦略と戦術の偉大な力と生命力、マルクス=レーニン主義理論の威力と無敵
の強さをしめした。
 レーニンが大会において、綱領問題および組織問題で日和見主義分子とおこなった闘争は、ロ
シア社会民主労働党の革命的な部分であるボリシェヴィキと、日和見主義的な部分であるメンシ
ェヴィキのあいだをはっきりと区別させた。メンシェヴィキは、党内で粉砕された日和見主義者
の地位、すなわち「経済主義者」の地位を占めていた。大会ののちに、メンシェヴィキは党を分
裂させ、大会の決定をぶちこわす力針をとり、党中央機関をのっとった。『イスクラ』は第五二
号からメンシェヴィキの『イスクラ』になった。ヴェ・イ・レーニンは『イスクラ』編集局から
出た。組織問題におけるメンシェヴィキの日和見主義をばくろすることが日程にのぼった。ヴェ
・イ・レーニンは、著書『一歩前進、二歩後退』(一九〇四年)のなかでこの課題を天才的に解
決した。メンシェヴィキの日和見主義を粉砕して、ヴェ・イ・レーニンは、ソ同盟共産党の組織
的基礎となった新しい型のプロレタリア党の組織的基礎をきずいた。
 ヴェ・イ・レーニンは自著『一歩前進、二歩後退』のなかで、プロレタリアートの ##指導##
組織としての党にかんする教説、プロレタリア独裁のための闘争において、それなしには勝利す
ることも、社会主義と共産主義を建設することもできない、プロレタリアートの手にある主要な
##武器## と
しての党にかんする教えを、マルクス主義の歴史上はじめて仕上げた。ヴェ・イ・
レーニンはこう書いている。「プロレタリアートは、権力獲得のための闘争において、組織のほ
かにどんな武器ももたない。ブルジョア世界における無政府的競争の支配によって分離させられ、
資本のための強制労働によっておしひしがれ、まったくの貧困と野蛮化と退化の『どん底』にた
えずなげおとされているプロレタリアートは、マルクス主義の諸原則による彼らの思想的統合が、
幾百万の動労者を一つの労働者階級の軍隊に融合させる組織の物質的統一でうちかためられるこ
とによってのみ、不敗の勢力となることができるし、またかならずなるであろう。この軍隊に面
しては、ロシアの専制の老衰した権力も、国際資本の老衰しつつある権力も、もちこたえること
はできない。」〔レーニン『一歩前進、二歩後退』、本文庫版二九八ページ〕著書『一歩前進、
二歩後退』が普及したために、地方組織の多数はレーニンのまわりに結合することになった。ボ
リシェヴィキは、第三回党大会召集のための闘争をおこなった。
 日露戦争と第一次ロシア革命の時側に(一九〇四―〇七年)、ボリシェヴィキは革命を発展さ
せ、ツァーリズムを打倒し、ブルジョア民主主義革命を社会主義革命に転化させる方針をとった。
ボリシェヴィキは、党内と国内のただ一つの革命的なマルクス主義的勢力となった。
 ロシアにおける革命の動因は成熟していた。ツァーリのロシアでは、資本主義的圧迫はツァー
リズムの圧迫によって強化され、農民は土地の欠乏や農奴刑の無数の残存物のためにあえぎ、ツ
ァーリのロシアに住んでいた諸民族は、自分の民族の地主、資本家と、ロシア人の地主、資本家
の圧迫という二つの圧迫のもとに呻吟していた。ツァーリは、日本との戦争によって革命を圧殺
しようと欲したが、戦争におけるツァーリズムの敗北は、ツァーリズムにたいする大衆の憎悪を
いっそうつよめた。ロシアにおける革命の発端は、ペテルブルグにおける一九〇五年一月九日(
二十二日)の事件であった。そのときツァーリの命令によって、宮殿にむかった労働者の平和的
な行進に発砲がおこなわれた。ツァーリズムの血なまぐさい非道についての知らせは全ロシアを
震憾させた。労働者な「専制制度打倒」のスローガンをかかげて街頭に進出した。労働者は、経
済的ストライキから、政治的ストライキへ、デモンストレーションへ、ところによってはツァー
リの軍隊にたいする武装的反抗へうつりはじめた。都市につづいて農村が立ちあがりはじめ、農
民の動揺がはじまった。ツァーリズムの軍事的支柱である陸海軍な動揺した。一九〇五年の六月
に、戦艦「ポチョムキン」に反乱が勃発した。人民の武装蜂起のための条件は成熟していた。一
九〇五年の四月に、展開されつつある革命情勢のなかで、ボリシェヴィキによって召集されたロ
シア社会民主労働党第二回大会がひらかれた。メンシェヴィキは、第三回大会に参加することを
拒否し、自派の、メンシェヴィキの会議を召集した。第三回大会の主要な問題は、革命における
党の戦術を編みだすことであった。大会はその決議のなかで、もしもプロレタリアートが革命の
先頭に立つならば、もしもプロレタリアートが農民との同盟を確保できるならば、もしもツァー
リズムとの協定によって革命を終結しようとしている帝国主義的ブルジョアジーが孤立化される
ならば、そのときはじめて革命は勝利するであろうということを強調して、党の戦術方針を決定
した。大会は、革命がブルジョア民主主義的性格をもっているにもかかわらず、この革命の完全
な勝利に利益を感じているのはまず第一にプロレタリアートである、と考えた。革命の勝利はプ
ロレタリアートに、組織をつくる可能性、政治的に向上する可能性、ブルジョア革命から社会主
義革命に移行する可能性をあたえるであろう。大会の決議には、社会民主党は、ツァーリズム

たいする人民の蜂起の組織に積極的に参加し、その結果、反革命を根こそぎにし、革命を最後ま
で遂行することのできる臨時革命政府が樹立されなければならない、と述べられた。大会は、レ
ーニンの定式化した党規約第一条を採択した。
 第一次ロシア革命の時期に、メンシェヴィキは、組織問題にかんする党の多数派との旧来の意
見の不一致に、戦術問題にかんするあらたな意見の不一致をくわえた。メンシェヴィキは、プロ
レタリアートのヘゲモニーに反対し、革命における自由主義的ブルジョアジーのヘゲモニーを固
守して、革命を歪曲する方針をとり、ツァーリズムを打倒するかわりに、メンシェヴィキは、そ
れを改革し「改良」することを提案した。メンシェヴィキは、協調主義の泥沼に転落し、労働運
動におけるブルジョアジーの手先になった。
 ヴェ・イ・レーニンは、著書『民主主義革命における社会民主党の二つの戦術』(一九〇五年
)のなかで、メンシェヴィキの戦術に批判をくわえ、第三国大会でつくりあげられたボリシェヴ
ィキの戦術を基礎づけた。ヴェ・イ・レーニンは、自著のなかで、党のボリシェヴィキ的戦術と
労働者階級の戦術を天才的に基礎づけ、共産党の政治的(戦術的)基礎をつくりあげた。彼はブ
ルショア民主主義革命におけるプロレタリアートのヘゲモニーの思想を発展させ、帝国主義の時
代において革命に勝利するに必要な条件は、プロレタリアートの指導的役割を保持したもとでの
労働者階級と農民の同盟である。ヴェ・イ・レーニンは、武装蜂起の勝利を、ツァーリズムを打
倒し民主共和国を樹立するためのもっとも重要な手段とみなした。ヴェ・イ・レーニンは、ロシ
アのマルクス主義者に、ブルジョア民主主義革命を社会主義革命に成長転化させる明瞭な見通し
をあたえた。ヴェ・イ・レーニンは、革命の民主主義的任務の遂行につづいて、 ##社会主義##
革命のた
めのプロレタリアートと他の被搾取大衆の闘争がはじめられなければならないだろうと
考え、革命の発展過程で、プロレタリアートのまわりに階級の諸勢力の再編成がおこなわれるで
あろうと考えた。ヴェ・イ・レーニンはこう書いている。
 「プロレタリアートは、実力で専制政治の反抗をおしつぶし、ブルジョアジーの動揺性を麻痺
させるために、農民大衆を味方にひきつけて民主主義的変革を最後まで遂行しなければならない。
プロレタリアートは、実力でブルジョアジーの反抗を撃破し、農民と小ブルジョアジーの動揺を
麻痺させるために、半プロレタリア分子の大衆を味方にひきつけて社会主義的変革を完成しなけ
ればならない。」〔レーニン『民主主義革命における社会民主党の二つの戦術』、本文庫版一二
二ページ〕
 それは、ブルジョア革命と社会主義革命との相互関係の問題にかんする新しい方針であり、社
会主義革命に直接移行するために、ブルジョア革命のおわりに、プロレタリアートの周囲に諸勢
力を再編城する新しいレーニン主義理論であった。プロレタリアートと農民の同盟のもとでの、
ブルジョア革命におけるプロレタリアートのヘゲモニーは、プロレタリアートとその他の勤労者
大衆および被搾取大衆との同盟のもとでの、社会主義革命におけるプロレタリアートのヘゲモニ
ーに成長転化しなければならなかった。そして、プロレタリアートと農民の民主主義的独裁は、
プロレタリアートの社会主義的独裁のための素地を準備しなければならなかった。ヴェ・イ・レ
ーニンは、プロレタリア革命の新しい理論によってマルクス主義を豊富にし、共産党の革命的戦
術の基礎をきずいた。プロレタリアートはこの戦術の助けをかりて貧農と同盟をむすび、一九一
七年十月、ブルジョアジーの権力を打倒し、真の人民の権力――労働者、農民代表ソヴェトの権
力を樹立した。ヴェ・イ・レーニンは、社会主義の新しい理論をつくりあげ、永続革命ならびに、
農民の革命運動とプロレタリア革命との結合にかんするK・マルクスの周知の命題をよりどころ
とした。あらたなレーニンの理論は、ブルジョア革命ののちには、貧農をふくめた農民は革命か
ら去ってゆくであろうと考え、新しい社会主義革命のための時期がくるまでは、五〇年ないし一
〇〇年あるいはそれ以上の長期にわたる時期がやってくるであろうと考えていた西ヨーロッパの
社会民主党の戦術的見地をこっぱみじんにうちくだいた。ヴェ・イ・レーニンの理論のなかには、
単独の一国で社会主義は勝利することができるという直接の結論はまだなかった。しかし、その
なかには、このような結論をくだすのに必要な、ほとんどすべての、基本的要素がふくまれてい
た。ヴェ・イ・レーニンは、一九一五年に、このような結論に到達したのである。
 第一次ロシア革命の諸事件は、ボリシェヴィキの戦術のただしさと生命力とを証明した。革命
の過酷で、労働者階級は専制政治にたいする人民大衆の闘争の先頭に立った。一九〇五年の秋ま
でに、いたるところでツァーリの軍隊との武力闘争に成長転化した労働者の政治的ストライキが
全国を震憾させた。十月には、全ロシア的な政治的ストライキがはじまった。ストライキは、プ
ロレタリア運動の力をしめし、びっくり仰天したツァーリに、十月十七日に詔書を発布させた。
その詔書には、立法国会を召集することが約束されていた。全ロシア的な十月ストライキの時期
に、労働者大衆の革命的創造力は、一九一七年につくられたソヴェト権力の原型である労働者代
表ソヴェトを創造した。労働者代表ソヴェトは、ペテルブルグ、モスクワ、多くの大都市、ほと
んどすべての労働者中心地に発生した。ボリシェヴィキは、ソヴェトを蜂起の機関、あらたな、
革命権力の萌芽として考察した。メンシェヴィキは、ソヴェトを地方自治の機関にすぎないとみ
た。歴史は、ボリシェヴィキの見地のただしさと革命性、さらにまたメンシェヴィキの見地の日
和見主義的本質と反革命性をも完全に証明した。
 一九〇五年の十月と十二月に、革命は武装蜂起の寸前にたっした。ボリシェヴィキは実践的に
労働者階級を武装蜂起と、ッアーリおよび地主権力の打倒に準備した。兵士と水兵のあいだでは
革命的な活動がわこなわれ、軍隊のなかに党の軍事組織がつくりだされた。いくたの都市では労
働者の戦闘隊が組織された。ヴェ・イ・レーニンは、武装蜂起の準備に直接参加した。一九〇五
年十二月に、タンメルフォルス(フィンランド)でボリシェヴィキによって召集されたロシア社
会民主労働党の第一回協議会がひらかれた。協議会は、ロシア社会民主労働党の統一の復活にか
んする決定、第一国会のボイコットにかんする決定、切取地にかんする綱領の要求を、地主、寺
院、帝室その他の土地の没収にかんする条項に変えるという決定を採択した。モスクワではじま
っていた武装蜂起のために、協議会は、代議員が各地で直接蜂起に参加できるように、いそいで
その仕事をおわった。その他の多くの都市や地域も革命的蜂起にひきいれられた。これらすべて
の蜂起は、モスクワと同様に、ツァーリズムによって非人間的な残忍さをもって鎖圧されてしま
った。十二月蜂起(一九〇五年)は革命の頂点であった。蜂起が敗北してから、革命は徐々に後
退へと転換しはじめた。
 革命の後退の情勢のなかで、一九〇六年四月に、ストックホルムでロシア社会民主労働党第四
回大会がひらかれた。入会ではボリシェヴィキとメンシェヴィキの形式的な合同がおこなわれた。
実際には、ボリシェヴィキとメンシェヴィキは、自分たちの見解と自分たちの独立した諸組織を
固執したのである。メンシェヴィキは、大会ですこしばかり多数であるのを利用して、多くの問
題に自分たちの決定をもちこんだ。この結果、ボリシェヴィキとメンシェヴィキのあいだの闘争
は、第四回大会後に新しい勢いで燃えはじめた。形式的に合同した地方の諸組織では、大会の決
定を審議するさいに、組織メンバーの多数は、多くのばあいボリシェヴィキのがわについた。国
内の大工業中心地の党組織はボリシェヴィキ的であった。第四回大会で選出されたメンシェヴィ
キ的中央委員会は、まもなくその日和見主義と、一九〇六年の夏と秋にふたたびつよまった大衆
の革命闘争を指導する能力のないこととをさらけだした。党組織の大部分は、メンシェヴィキ的
中央委員会の政策に反対した。ボリシェヴィキは、あらたな党大会の召集を要求した。
 一九〇七年四―五月に、ロンドンでひらかれた第五回大会では、ボリシェヴィキは、ポーラン
ドとラトヴィアの社会民主主義者をしたがえていたので、安定した多数派をもっていた。ブンド
派はメンシェヴィキを支持した。大会は、すべての非プロレタリア党にボリシェヴィキ的な評価
をあたえ、これらの党にたいする戦術をまとめあげた。大会は、労働者の党を解党しようとする
メンシェヴィキの試みとしての「労働者大会」というメンシェヴィキのスローガンをも非難し、
国会および労働組合にかんするボリシェヴィキ的決議を採択した。第五回大会は、ロシアの労働
運動におけるボリシェヴィキの大勝利を意味した。一九〇五―〇七年の第一次ロシア革命の敗北
にともなって、あらたな、複雑な任務がボリシェヴィキ党に課せられた。一九〇七年六月三日に、
ツァーリ政府は、いわゆる六月三日の変革をおこない、第二国会を解散し、第三国会の選挙にか
んする新しい法律を発布した。六月三日の変革は、ロシアにストルイピン反動の時代がはじまっ
たことを意味した。
 ストルィピン反動の時期に(一九〇八―一二年)黒百人組のテロがあれくるっていた条件下に
あって、ボリシェヴィキ党は、その陣列を強化し、大衆との結びつきをかためるために、合法、
非合法の可能性をたくみに利用し、新しい革命を準備する方針をとっていた。この時期のもっと
も重要な出来事は、ロシア社会民主労働党プラーグ会議である。この会議で、ボリシェヴィキは
独立のロシア社会民主労働党(ボリシェヴィキ)を結成した。
 反動期にツァーリ政府は、プロレタリアートの政治的・経済的組織をさかんに粉砕した。いた
るところで懲罰隊が活動し、農村では農民の集団的笞刑がおこなわれた。監獄、要塞、徒刑地、
流刑地は、革命闘争に参加した人々によってみたされていた。数千の革命家が処刑された。工場
主は労働者階級にたいする攻勢を強化した。人数の多い農村ブルジョアジーの階級――富農《ク
ラーチェストヴォ》――というツァーリズムにたいする強固な支柱をつくりだす目的で、農業改
革がおこなわれた。それは土地の少い農民と貧農の状態をさらにいっそう悪化させた。
 反革命の攻撃は、イデオロギー戦線でもおこなわれた。ブルジョア著述家や哲学者たちはその
当時、大衆を革命からそらせることをその目的として、マルクス主義に反対の態度をとっていた。
デカダン主義と革命勢力にたいする無信念は、マルクス主義者をもって自任しながら、かつてし
っかりとマルクス主義の立場に立ったことのないインテリゲンツィア党員の一部にもおよんだ。
彼らはマルクス主義の哲学的基礎、すなわち弁証法的唯物論にたいしても、その科学的=歴史的
基礎――すなわち史的唯物論にたいしても、「批判」を展開した。革命の敗北、反政府的な潮流
の離散、革命にたいする失望、マルクス主義にたいする修正主義的論難の強化――こういう困難
な情勢のもとにあって、ボリシェヴィキは、党の綱領にたいする忠誠をたもち、革命的マルクス
主義の理論を擁護した。一九〇九年に出版された著書『唯物論と経験批判論』のなかで、ヴェ・
イ・レーニンは、共産党の巨大な理論上の富である弁証法的および史的唯物論を、修正主義者か
らまもりぬいた。ヴェ・イ・レーニンは、それと同時に、F・エンゲルスの死後、科学によって、
しかもまず第一に自然科学によって達成されたもののうちで、もっとも重要で本質的なものを唯
物論的に普遍化した。ヴェ・イ・レーニンの著書『唯物論と経験批判論』は、マルクス主義の哲
学の発展における新しい時期をあらわし、新しい型のマルクス主義政党の理論的準備となった。
一九〇八―一二年は、党の革命的活動にとってはもっとも困難な時期であった。ボリシェヴィキ
の基本的な政治目的は、一九〇五年のときと同じく、ツァーリズムを打倒し、ブルジョア民主主
義革命を完遂し、社会主義革命に移行する、ということであった。ボリシェヴィキの党は、民主
共和国、地主の土地没収、八時間労働制という、基本的な革命的スローガンをかかげた。革命の
敗北後のもっとも複雑な、わるい情勢のもとで、革命運動の後退の条件のもとで、ボリシェヴィ
キはその戦術を変更して、ツァーリズムにたいする直接の闘争から、ツァーリズムとの闘争のま
わり道へ移行した。
 第一次ロシア革命と反動の時代は、ボリシェヴィキが、情勢がそれを必要とするときには攻撃
し、革命が衰退しているときには後退することができ、党の基幹部員をまもり、あらたな情勢の
もとで敵にあらたな攻撃をくわえるために、あわてることなく退却することができることをしめ
した。メンシェヴィキは、革命の新しい高揚の可能性を信じないであわてて退却した。彼らは恥
しらずにも、綱領の革命的要求や、党の革命的スローガンを放棄し、プロレタリアートの革命的
な非合法党の解消を要求した。メンシェヴィキの解党派に断固として反対して、ボリシェヴィキ
は、非合法の党組織を保持し強固にするためにたたかった。大衆にたいする党の勢力を強化する
ために、ボリシェヴィキは、労働組合、傷病保険金庫、労働者協同組合、クラブ、人民の家、文
化協会などの合法組織を広範に利用した。ボリシェヴィキは、ツァーリ政府やブルジョア諸政党
の政策をばくろするために、労働者を政治的に指導し、農民をプロレタリアートのがわにひきつ
けるために、国会の演壇を利用した。
 ボリシェヴィキは、非合法活動を合法的な労働者団体内の活動と結合する戦術をとりながら、
党内の二つの種類の日和見主義、すなわち党の直接の反対者である解党派と党のかくれた敵であ
るいわゆる召還派にたいして、二つの戦線でたたかいながら、自分の革命的方針を実行した。
 ロシア社会民主労働党第五回(全ロシア)会議は、解党主義を非難し、党を解消しようとする
企てにたいして決定的に闘争するよう、全党組織によびかけた。
 召還派は、労働組合やその他の労働者階級の合法的団体のなかで活動することを拒否し、国会
を革命的宣伝のために利用することを拒否し、党を労働者階級からきりはなし、党と党外大衆と
のつながりをさまたげ、そうすることによって、党および革命運動に大きな苦をおよぼした。ヴ
ェ・イ・レーニンは、彼らを「裏がえしの解党派」とよんだ。ボリシェヴィキの新聞「プロレタ
リイ」の拡大編集会議(一九〇九年六月)は召還派を非難した。召還派はボリシェヴィキ組織か
ら除名された。
 ボリシェヴィキは、トロツキー派にたいして容赦ない闘争をおこなった。トロツキー派は、そ
のころすべての重要な問題では解党派の立場をとっていたが、その解党主義を中間主義で偽装し
ていた。党にたいする闘争、ヴェ・イ・レーニンにたいする闘争で、トロツキーを援助したのは、
トロツキーのかくれた手さき――ジノヴィエフ、カーメネフ、ルイコフであった。その後一九一
二年に、トロツキーは、八月ブロック、すなわちボリシェヴィキ党との闘争のために結集したす
べての反ボリシェヴィキのグループと潮流のブロックを組織した。トロツキーの八月反党ブロッ
クをむこうにまわして、ヴェ・イ・レーニンは、非合法のプロレタリア党を保全し強固にするこ
とを支持する人々の党ブロックをつくりだした。このブロックには、ボリシェヴィキと少数のメ
ンシェヴィキ=党支持派がはいっていた。
 解党派や召還派と闘争しながら、ボリシェヴィキは、すべての革命的マルクス主義者をうって
一丸とし、独立したボリシェヴィキ党を結成するという歴史的任務を決定した。マルクス=レー
ニン主義の思想的鍛錬、革命の見通しにたいする正しい理解は、レーニンのまわりに結集した党
の基本的中核が党をまもり、党の基幹部員を保持することをたすけた。
 一九一二年一月に、プラーグで全ロシア党会議がひらかれた。会議はメンシェヴィキ=解党派
をロシア社会民主労働党から放逐し、それによってボリシェヴィキが独立した党に終局的に形成
される基礎をきずいた。プロレタリアの党から日和見主義、メンシェヴィキ=解党派を一掃した
ことは、党のその後の発展、党内統一の強化、プロレタリアート独裁樹立の成功にとって決定的
な意義をもっていた。
 ストルィピン反動期に、ボリシェヴィキは一度ならず、新しい革命的高揚が避けがたいこと、
それが近づいていることを指示した。そして、反革命の勝利は実際に短命であった。労働運動は、
いかなる勢力によっても阻止することはできなかった。ストライキ労働者の数は、一九一〇年の
夏から非常に増加した。一九一一年には、一〇万人以上がストライキをおこなった。すでにプラ
ーグ会議も、労働運動に活気がはじまったことを指摘した。しかし、革命運動のほんとうの高揚
は一九一二年の四―五月にはじまったのである。そのときレナ鉱山の労働者の射殺に関連して、
大衆的政治ストライキが勃発した。
 革命の高揚期(一九一二―一四年)に、ボリシェヴィキ党は労働運動の先頭に立ち、ボリシェ
ヴィキのスローガンのもとに、この運動を新しい革命へとみちびいた。
 かつてない生産の集中をともなったロシアにおける資本主義的産業の成長は、労働運動の高揚
を促進した。一九一〇年には、すでに、五〇〇人以上の労働者がいる大企業に、国の労働者総数
の半分以上がはたらいていた。労働者階級につづいて、ふたたび地主にたいする闘争に立ちあが
った農民大衆が革命闘争にひきこまれた。党の陣列を強化し、党と大衆の結びつきを拡大し、新
しい世代の革命的労働者を教育し、解党派、トロツキスト、召還主義者、その他の日和見主義者
とたたかううえに重要な役割をはたしたのは、一九一二年の春にペテルブルグ労働者の提唱でつ
くられた、党の合法的日刊紙『プラウダ』であった。『プラウダ』とともに、のちに大十月社会
主義革命を遂行した革命的プロレタリアートの全時代が成長した。党のもう一つの全ロシア的な
合法機関は、第四国会のボリシェヴィキ議員団であった。党は、ツァーリ専制制度の反人民的政
策をばくろし、勤労大衆をボリシェヴィズムの旗のもとに獲得するために第四国会の演壇を広範
に利用した。ボリシェヴィキ議員は、労働者と緊密にむすびついていた。彼らは国内の労働者中
心地や製作所や工場に出かけ、労働者の秘密の会合をもち、そこで党の決定を説期した。『プラ
ウダ』編集局と国会のボリシェヴィキ議員団は、党中央委員会やレーニンと緊密にむすびつき、
レーニンの指示をあおいだ。革命的綱領にもとづく行動の統一、革命的行動の非合法形態と合法
形態の結合、解党派にたいする闘争、非合法党を強化するための闘争を労働者階級によびかけた、
ロシア社会民主労働党(ボ)中央委員会と党活動家の「二月」会議(一九一三年)は、党組織の
強化にとって大きな意義をもっていた。会議は、ロシアがあらたな革命の成長の時代にはいった
ことを強調した。
 第一次世界戦争のまえの労働運動の高揚の時期に、ボリシェヴィキは、ペテルブルグおよびモ
スクワの労働組合組織の大部分を自分のがわに獲得し、労働者の合法団体を党の支掌点に変えた。
一九一四年の夏までに、ロシアの先進的労働者の五分の四がボリシェヴィキ党のがわについた。
党は労働者階級の合法団体のなかで勝利をえることができた。それは、党が革命的綱領、闘争の
正しい戦略と戦術をもち、広範な労働者大衆と緊密に結びついていたからである。党がこのよう
な勝利をえたのは、党が解党派=メンシェヴィキとその扶助者――トロツキストおよび召還主義
者、労働者階級のすべての敵と労働運動における彼らの手さきとの容赦ない闘争をおこなったか
らである。ボリシェヴィキ党は、原則的な方針を拒否し、解党派の協調政策にたいする闘争を拒
否することによって、ボリシェヴィキと解党派を和解させようとする第二インタナショナルの試
みを断固として拒絶した。
 ロシアにおけるブルジョア民主主義革命の成長、辺境地方における革命運動の熾烈化、第一次
世界戦争の切迫にともなって、民族問題が特別の意義をもつようになった。当時国際労働運動に
おいては、二つの民族問題にかんする理論、二つの民族綱領がたたかっていた。すなわち、ブン
ドやメンシェヴィキに支持されたオーストリアの民族理論とロシア――ボリシェヴィキの民族理
論であった。ボリシェヴィキのまえには、民族主義のすべての現象を粉砕するという任務が立ち
ふさがった。ヴエ・イ・レーニンの著作「民族問題にかんする批判的覚書』(一九一三年)『民
自決権について』(一九一四年)およびイ・ヴェ・スターリンの著作『マルクス主義と民族問
題』のなかで、科学的に基礎づけられた民族問題にかんするマルクス主義的綱領が述べられてい
る。ロシア社会民主労働党(ボ)中央委員会と党活動家の「八月」(「夏の」)会議(一九一三
年十月)は、民族問題にかんするレーニン=スターリン理論に指導されて、民族問題にかんする
ロシア社会民主労働党の綱領の解党派的・ブンド派的歪曲にたいして断固として反対し、今後勤
労者の民族的教育を強化する方策を立てた。ロシアの労働者階級をマルクス=レーニン主義の旗
のもとに結集したことは、労働運動を新しい革命にみちびいたボリシェヴィキ党の政策がすべて
ただしかったことを証明した。ツァーリズムとブルジョアジーにたいする労働者の前衛的戦闘は、
すでに一九一四年の上半期に展開されていた。国内では約一五〇万人がストライキをおこなった。
革命の成長は、第一次世界戦争によって中断された。
 帝国主義戦争とロシアの第二次革命(一九一四―一九一七年三月)の時期に、ボリシェヴィキ
党が、社会主義と国際主義の大業に忠実な、ただ一つのプロレタリアの党であることがしめされ
た。共産党にひきいられる労働者は、農民と同盟をむすんで、資本主義の弱化をうまく利用して、
世界ではじめて帝国主義の戦線をうちやぶり、一九一七年二月にロシアにおける専制制度を打倒
して、労働者・兵士代表ソヴェトをつくりだした。
 戦争は、同時代の独占資本主義の基礎のうえに立った世界の経済力と政治力の発展の避けるこ
とのできない結果として、世界経済の資本主義体制の最初の危機の結果勃発したのである。世界
のあらたな分割のための闘争、ある資本主義国が他の資本主義国にたいして優勢をたもつための
闘争は、一九一四―一八年の戦争をひきおこした。この戦争は、すべての帝国主義国家によって
準備された。交戦国の帝国主義政府は自国民をあざむきながら、戦争の真の目的をかくし、戦争
があたかも祖国の防衛のためにおこなわれているかのような声明をおこなった。第二インタナシ
ョナルの日和見主義者どもは、ブルジョアジーが人民をあざむくのをたすけた。社会党の指導者
たちは、プロレタリアートをうらぎって、社会排外主義と帝国主義ブルジョアジー擁護の立場に
移行した。第二インタナショナルは、実際にはたがいに交戦する個々の社会排外主義党に分解し
てしまった。ロシアのエス・エルやメンシェヴィキの小ブルジョア政党も、ツァーリズムやロシ
ア・ブルジョアジーが人民をあざむくのをたすけ、戦争の帝国主義的・強盗的性格をかくすのを
たすけた。社会排外主義の立場に立ったメンシェヴィキとエス・エルは、国内では労働者とブル
ジョアジーとの階級平和を説き、自国のそとでは他国民と戦争することを説いた。中間派のカウ
ツキー、トロツキー、マルトフ、その他は、かくれた社会排外主義で、公然たる社会排外主義者
を是認し擁護し「社会排外主義者といっしょにプロレタリアートをうらぎった。そして、労働者
階級をあざむくことをねらって、戦争にたいする闘争という「左翼的な」文句で、自分の裏切り
をかくしたてた。中間派は、公然たる社会排外主義者と同じように、自国の帝国主義政府が戦争
を遂行するのをさまたげないために、戦時中階級闘争を放棄することを要求し、組織的には、社
会排外主義者と同じ党にとどまっていた。
 ただボリシェヴィキの党だけが、革命的国際主義の偉大な旗に忠実な党としてのこり、ツァー
リ専制制度、地主、資本家に反対し、帝国主義戦争に反対する断固たる闘争をおこなうマルクス
主義の立場を固守した。ヴェ・イ・レーニンは、プロレタリア国際主義の大原則にたいする第二
インタナショナルの指導者の裏切りに烙印をおし、排外主義者や排外主義の保持者――第二イン
タナショナルの指導者との容赦ない闘争を宣言した。一九一四年十一月に、ボリシェヴィキ党の
中央機関紙『ソツィアル・デモクラート』に、ヴェ・イ・レーニンが執筆した帝国主義戦争にか
んする党中央委員会の宣言『戦争とロシア社会民主党』が発表された。帝国主義戦争の国内戦へ
の転化、戦争における「自国」政府の敗北の促進、革命的社会民主党の社会排外主義および中間
主義との完全な訣別、第三インタナショナルの創設――これが宣言のなかで述べられた党のスロ
ーガンであった。戦争の当初からヴェ・イ・レーニンは、新しい、第三インタナショナルの創設
に力をそそいだ。ツィンメルワルドにおける国際主義者の第一回会議(一九一五年)とキンター
ルにおける第二回会議(一九一六年)において、レーニンは国際主義分子を結集し、これらの分
子のうちから、のちになって、共産主義第三インタナショナルが結成された。
 国際日和見主義、ロシアの日和見主義、社会排外主義との闘争のなかで、ヴェ・イ・レーニン
はこの時代に、戦争、平和、革命にかんするボリシェヴィキ党の理論と戦術をつくりあげた。こ
の理論と戦術の基礎のうえに、党はこの時期のあらゆる自己の実践活動をうちたてたのである。
帝国主義戦争に反対して、ボリシェヴィキは、帝国主義ブルジョアジーの権力を打倒するまで平
和をめざす革命的闘争をおこなうよう主張した。ボリシェヴィキは、平和の事業をプロレタリア
革命の勝利に結びつけた。ボリシェヴィキは、帝国主義戦争におけるツァーリ政府の敗北は、最
小の害悪であると考えた。なぜならこの敗北は、ツァーリズムにたいする人民の勝利を容易にし、
資本主義奴隷制と帝国主義戦争からの解放をめざす労働者階級の闘争を容易にしたからである。
 不正義の戦争に断固として反対しながら、ボリシェヴィキは当時、正義の戦争もあると考えた。
ヴェ・イ・レーニンは、戦争の性格と本質にかんする問題を解決し、戦争にたいする自分の態度
をきめるにあたってマルクス主義者は、この戦争がいかなる目的のためにおこなわれているかと
いうことから出発しなければならないことをあきらかにした。他国や他民族の侵略や奴隷化を目
的とする不正義の、侵略戦争に反対して、断固たる闘争をおこなわなければならない。しかし、
ボリシェヴィキは、外国の攻撃と人民を奴隷化しようとする企てから人民を防衛し、資本主義の
奴隷制から人民を解放し、帝国主義者の圧迫から植民地と従属国を解放することを目的とする侵
略的でない、解放のための、正義の戦争は支持しなければならない、とレーニンは指大した。
 あらたな歴史的条件のなかで、マルクス主義を創造的に発展させながら、ヴェ・イ・レーニン
は、社会主義革命の新しい理論、一国における社会主義の勝利の可能性の理論によって、戦時中
に党を武装した。その理論の基礎は、すでに一九〇五年に小冊子『民主主義革命における社会民
主党の二つの戦術』のなかでヴェ・イ・レーニンによってつくられていたのである。一九一六年
上半期にヴェ・イ・レーニンは、古典的労作『資本主義の最高の段階としての帝国主義』を書い
た。そのなかでレーニンは、マルクス主義の文献としてははじめて、帝国主義とその主要な矛盾
や法則性を全面的にふかく分析した。ヴェ・イ・レーニンは、帝国主義が資本主義発展の特別の、
最高の段階であること、帝国主義が、腐朽し、死滅しつつある資本主義であり、社会主義革命の
前夜であることをしめした。ヴェ・イ・レーニンは、彼の発見した資本主義の経済的・政治的発
展の不均等性の法則に立脚して、つぎの結論に到達した。社会主義はただすべての国あるいは文
明国の大部分において同時に勝利する可能性がある、というK・マルクスおよびF・エンゲルス
の古い公式は、もはや新しい歴史的条件に適応しなくなっており、新しい発展の条件のもとでは、
社会主義革命は、最初は少数の国で、また単独の一国でさえ勝利することが可能であり、すべて
の国で社会主義が同時に勝利することは、これらの国々における資本主義の発展が不均等である
ために不可能である。この天才的な結論の定式化は、論文『ヨーロッパ合衆国のスローガンにつ
いて』(一九一五年)と『プロレタリア革命の軍事綱領』(一九一六年)のなかでヴェ・イ・レ
ーニンによってなされた。これは社会主義革命の新しい、完成された理論であった。この理論は、
マルクス主義をゆたかにし、マルクス主義を前進させ、個々の国のプロレタリアに革命的な見通
しをあたえ、自国の民族ブルジョアジーにたいする攻撃のうえで彼らにイニシアティヴを発揮さ
せ、プロレタリア革命の勝利にたいする彼らの信念をつよめた。
 ヴェ・イ・レーニンによってつくりあげられた戦争、平和、革命の問題にかんするボリシェヴ
ィキ党の理論と戦術は、帝国主義戦争からの革命的活路をめざす闘争にたいして党を武装させた。
ボリシェヴィキは、戦争に奉仕した軍事産業委員会にたいして、労働者を帝国主義ブルジョアジ
ーの影響にしたがわせようとするメンシェヴィキの企てにたいして、広範なカンパニアを展開し
た。ボリシェヴィキはまた、陸軍と海軍のあいだでも大活動を展開した。彼らは、人民にとって
は革命が帝国主義的殺戮からのがれるただ一つの活路であることを兵士と水兵に説明した。
 資本主義の一般的危機の反映である戦争は、この危機を激化させ、世界資本主義をよわめた。
戦争によってひきおこされた、ロシアにおける経済的崩壊、戦線における敗北、ツァーリ宮廷の
裏切りと内通――すべてこれらは、労働者、農民、兵士、インテリゲンツィアのツァーリ政府に
たいする憎悪と憤怒をつよめ、戦争に反対しツァーリズムに反対する人民大衆の革命運動をつよ
めた。あきらかにツァーリ政府に戦争をつづける能力かないこと、ツァーリが自分の地位をすく
うためにドイツ人と単独講和をむすぶ不安があることもまたロシアの帝国主義的ブルジョアジー
の不満をよびおこした。ツァーリズムは致命的な危機に当面しつつあった。ブルジョアジーは、
宮廷クーデターによってこの危機をのりきろうと考えたが、人民は革命的な方法によって危機を
解決した。一九一七年二月に、ツァーリ専制制度は顛覆された。ロシアではブルジョア民主主義
革命が勝利した。勝利した革命は、革命の最初の数日中に創設された労働者・兵士代表ソヴェト
をよりどころにしていた。一九〇五年には、労働者代表ソヴェトがつくりだされたが、一九一七
年二月には、ボリシェヴィキのイニシアティヴによって労働者・兵士代表ソヴェトが出現した、
という相違があった。しかし、ソヴェトの大多数では、当時ボリシェヴィキが街頭で大衆の闘争
を指導しており、ボリシェヴィキ党の指導者ヴェ・イ・レーニンが亡命地にあって、ペトログラ
ードにいないのを利用したメンシェヴィキやエス・エルが指導権をにぎっていた。ペトログラー
ド、モスクワ、その他多くの都市のソヴェトの先頭には、協調主義党のメンシェヴィキとエス・
エルの代表者がいた。彼らは革命を歪曲し、帝国主義戦争を継続する政策をとっていた。
 ペトログラード・ソヴェト執行委員会のメンシェヴィキ=エス・エル派の指導者たちは、革命
をうらぎって、労働者と農民によってかちとられた権力をブルジョア臨時政府に代表されるブル
ジョアジーにひきわたした。しかしながら、このブルジョア政府とならんで、労働者・兵士代表
ソヴェトが存在をつづけていた。二つの権力、二つの独裁の独特の組合せである二重権力が生じ
た。すなわち、臨時政府に代表されるブルジョアジーの独裁と、労働者・兵士代表ソヴェトに代
表されるプロレタリアートと農民の代表の独裁がそれである。革命の最初の成功に酔い、メンシ
ェヴィキやエス・エルの保証に安心してしまった小ブルジョアジー、兵士、同じく労働者の広範
な大衆は、臨時政府をすっかり信用しきって、この政府を支持した。ボリシェヴィキ党は、労働
者と兵士の大衆につぎのことを説明する任務に当面した、――革命の完全な勝利までにはまだ前
途ほど遠いこと、権力がブルジョア政府の手にあり、ソヴェトを協調派のメンシェヴィキとエス
・エルかぎりまわしているあいだは、人民は、平和をも、土地をも、パンをも手にいれられない
ということ、完全な勝利のためには、臨時政府をソヴェトの政府に変えなければならないこと、
これを説明することである。ボリシェヴィキ党は、全精力をかたむけてこの仕事にとりかかった。
 大十月社会主義革命の準備と遂行の時期(一九一七年四月―一九一八年)に、共産党は、労働
者階級のなかで、革命の進行中につくられた労働者・兵士ソヴェトのなかで多数を獲得するとい
う、もっとも困難な任務をはたしたし、数百万という勤労者を社会主義革命のがわにひぎつける
任務、勝利を獲得し、帝国主義の権力を打倒するために、労働者階級とはたらく農民との同盟を
強化するという任務をはたした。
 一九一七年二月のブルジョア民主主義革命ののち、ボリシェヴィキ党は地下からあらわれて公
然の政治活動と組織活動を展開しはじめた。党はこのときには、四万から四万五〇〇〇名をこえ
なかったが、これは闘争できたえあげられた基幹分子であった。合法的地位に党が移行したこと
は、当面の多くの重要な問題――臨時政府、戦争、防衛にたいする態度にかんする党内の意見の
不一致をあかるみにだした。カーメネフ、ルイコフ、ブブノフ、ノーギンは、臨時政府と祖国防
衛派の政策を条件つぎで支持するという――メンシェヴィキの立場に立っていた。シベリアから
かえってきたイ・ヴェ・スターリン、ヴェ・エム・モロトフその他は、党員の多数とともに、臨
時政府を信任しない政策を固守し、祖国防衛主義に反対行動をとり、平和のための積極的闘争、
帝国主義戦争反対の闘争をよびかけた。党の働き手の一部は、長年の在嶽あるいは追放の結果か
らくる彼らの政治的立ちおくれの結果、動揺しつつあった。党の指導者ヴェ・イ・レーニンのい
ないことが痛感された。一九一七年四月三日(十六日)に、長い追放ののち、ヴェ・イ・レーニ
ンはロシアにかえってきた。指導者の到着は、党にとって、革命にとって、大きな意義をもって
いた。四月四日(十七日)に、ヴェ・イ・レーニンは、ボリシェヴィキの集会に出席し、ついで、
全ロシア・ソヴェト大会に参加したボリシェヴィキとメンシェヴィキの合同会議に出席して、戦
争と革命にかんする報告をおこなった。これが有名な四月テーゼである。そのなかでヴェ・イ・
レーニンは、ブルジョア民主主義革命から社会主義へ移行するための戦術的基礎をつくった闘争
計画を党とプロレタリアートにあたえた。経済の分野では、過渡的な方策はつぎのことに帰着し
た。地主の土地を没収して国内のすべての土地を国有化すること、すべての銀行を一つの全国的
銀行に統合して、労働者代表ソヴェトのがわからそれに統制をくわえること、生産物の社会的生
産と分配に統制をくわえること。政治の分野では、ヴェ・イ・レーニンは、プロレタリアート独
裁の最良の政治形態として、議会制共和国からソヴェト共和国へ移行することな提案した。これ
は、マルクス主義理論をゆたかにし、一九一七年十月の社会主義革命の勝利とロシアにおけるソ
ヴェト権力の勝利にとって最大の意義をもっていたヴェ・イ・レーニンの新しい、天才的な発見
であった。ヴェ・イ・レーニンは、戦争は、臨時政府のもとでも依然として略奪的な帝国主義戦
争であること、強制的な方法によらないで、ほんとうの民主的な講和によって戦争をおわらせる
ということは、ブルジョアジーを打倒することなしには不可能であることを、大衆に説明すると
いう任務を党にあたえた。臨時政府にたいしては、ヴェ・イ・レーニンは「臨時政府をいっさい
支持するな!」のスローガンをかかげた。ヴェ・イ・レーニンは、まだソヴェトの支持をうけて
いた臨時政府の即時打倒を要求したのではなく、説明活動によってソヴェト内で多数を占め、ソ
ヴェトの政策を変更し、ソヴェトを通じて政府の構成と政策を変更しようと努力したのである。
これは革命の平和的発展のための指導方針であった。四月テーゼのなかでヴェ・イ・レーニンは、
ロシア社会民主労働党(ボ)を共産党と名づけ、共産主義インタナショナルを創立することを提
案した。
 ヴェ・イ・レーニンのテーゼは、ツァーリズムが打倒されたあとの闘争の新しい条件のなかで、
党に新しい方向をあたえた。四月十四日にひらかれたボリシェヴィキのペトログラード全市協議
会は、ヴェ・イ・レーニンのテーゼに賛成し、そのテーゼを自己の活動の基礎とした。カーメネ
フ、ルイコフ、ピャタコフ型の若干の仲間はずれをのぞいて、地方の全党機関、全党が大きな満
足の念をもってレーニンのテーゼを採用した。ブルジョア民主主義革命から社会主義革命へ移行
するための闘争の科学的に基礎づけられた綱領によって武装されたボリシェヴィキは、革命のい
っそうの発展を準備した。一九一七年四月にひらかれたロシア社会民主労働党(ボ)の第七回全
ロシア協議会は、戦争と革命のすべての基本的な問題、すなわち、当面の時局の問題、戦争の問
題、臨時政府の問題、ソヴェトの問題、農業問題、民族問題などにかんする党の方針を討議し作
成し、ブルジョア民主主義革命から社会主義革命への移行をめざす闘争に党をむけた。ヴェ・イ
・レーニンは、協議会の日程のすべての基本的な問題について報告をおこない、その報告のなか
で、四月テーゼのなかで彼が述べた諸命題を発展させた。党の当面の任務として、ヴェ・イ・レ
ーニンは「全権力をソヴェトへ!」というスローガンを提起した。イ・ヴェ・スターリンは、協
議会で民族問題にかんする報告をおこない、ボリシェヴィキの民族政策を基礎づけた。協議会

採択された民族問題にかんする決定は、ヴェ・イ・レーニンによって執筆された。民族問題にお
ける党の徹底した立場や、完全な民族同権のための、あらゆる形の民族的圧迫を絶滅するための
闘争、これらが党にたいする被圧迫民族の支持を保障したのである。協議会では、カーメネフ、
ジノヴィエフ、ルイコフ、ブハーリン、ピャタコフ、およびわずかな彼らの一味のものの日和見
主義的な反レーニン的方針がばくろされた。
 四月協議会の決定にもとづいて、党はソヴェト、労働組合、工場委員会、軍隊、農村で、大衆
を獲得し、大衆を戦闘的に教育し組織するための大きな活動を展開した。この時期の党の方針は、
ボリシェヴィキの政策を忍耐づよく説明し、メンシェヴィキとエス・エルの協調政策をばくろす
ることによって、これらの党を大衆から孤立させ、ソヴェト内で多数を獲得することであった。
大衆を獲得するためのボリシェヴィキの努力は成功をおさめた。四月二十日に、党中央委員会は、
臨時政府の帝国主義政策にたいする抗議を大衆によびかけた。四月二十―二十一日のデモンスト
レーションは、「戦争反対!」「全権力をソヴェトへ!」というボリシェヴィキのもとにおこな
われた。ペトログラード工場委員会会議(五―六月)では、代議員の四分の三がボリシェヴィキ
を支持していた。第一回全ロシア・ソヴェト大会のひらかれている六月十八日におこなわれた労
働者の政治的デモは、大衆の高まりつつある革命性とボリシェヴィキ党にたいする大衆の信頼の
増大とをしめした。四〇万人のデモ隊がボリシェヴィキのスローガンのもとに行進をおこなった。
 臨時政府の反人民的政策、英・仏の帝国主義者をよろこばすために、六月に臨時政府によって
組織された戦線における攻撃の失敗は、人民の堪忍袋の緒をさらせ、労働者と兵士のあらたな憤
激をよびおこした。七月三日(十六日)に、ペトログラードで自然発生的デモンストレーション
がはじまった。それは権力をソヴェトに移せ、というスローガンをかかげた大規模な総武装デモ
ンストレーションとなった。ボリシェヴィキ党は、革命的危機はまだ熟していないと考えたので、
このときには武装行動に反対であった。しかし、大衆にデモンストレーションを思いとどまらせ
ることが不可能であることがわかったとき、党はデモンストレーションに参加することにきめ、
それによってデモンストレーションに平和的・組織的な性格をあたえようとした。ボリシェヴィ
キ党はこれに成功した。デモンストレーションは平和的な性格をもっていたにもかかわらず、メ
ンシェヴィキとエス・エルは、ブルジョアジーや白衛軍の将軍連と結託して、デモンストレーシ
ョンに発砲し、ボリシェヴィキ党におそいかかった。『プラウダ』の建物は破壊され、その他多
くのボリシェヴィキの新聞は停止され、赤衛兵の武装解除がはじまり、ペトログラード守備隊の
革命的な部隊は首都からひきぬかれて戦線におくられた。七月七日には、ヴェ・イ・レーニンの
逮捕命令が出された。メンシェヴィキとエス・エルの著名な代表がはいっていた臨時連立政府な、
公然の帝国主義と反革命の泥沼に転落してしまった。二重政権は、ブルジョアジーに有利におわ
りをつげた。なぜならば、全権力は臨時政府の手にうつり、エス・エル=メンシェヴィキに指導
されるソヴェトは、臨時政府の添えものになってしまったからである。革命の発展の平和的時期
はおわった。情勢がかわったために、ボリシェヴィキ党は、その戦術を変更した。党は非合法状
態にうつり、その指導者ヴェ・イ・レーニンを地下ふかくもぐらせ、武力でブルジョアジーの権
力をたおしソヴェト権力を樹立するために、プロレタリアートと勤労大衆が蜂起する準備をはじ
めた。
 一九一七年七―八月にひらかれた第六回党大会は、武装蜂起へと党の目をむけさせた。ヴェ・
イ・レーニンは、その戦友や弟子であるイ・ヴェ・スターリン、ヤ・エム・スヴェルドロフ、ヴ
ェ・エム・モロトフ、ゲ・カ・オルジョニキッゼを通じて地下から大会を指導した。大会の根本
問題は、中央委員会の政治情勢にかんする報告であった。これらの報告のなかで、ヴェ・イ・レ
ーニンの指導的な指示が述べられた。これらの問題にかんする報告をおこなったイ・ヴェ・スタ
ーリンは、社会主義革命のための闘争における党のレーニン的戦術を述べ、武装蜂起によって臨
時政府を力ずくでたおすことの必要性に根拠をあたえ、社会主義革命のレーニンの理論を擁護し
た。大会はトロツキストのグループに決定的な反駁をくわえた。彼らは、ロシアにおいては社会
主義が勝利することは不可能であると考え、大会では、社会主義革命にたいする党の方針に反対
した。大会は、トロツキー派の立場に立っていたトロツキストのプレオブラジェンスキーとブハ
ーリンの降伏主義的な修正案を否決し、イ・ヴェ・スターリンの提案した決議案を確認した。第
六回党大会の決定のなかでは、社会主義革命の勝利の条件としてのプロレタリアートと極貧農の
同盟にかんするレーニンの命題が、とくに力をこめて強調された。大会のすべての決定は、プロ
レタリアートと極貧農の武装蜂起のための準備にむけられていた。大会はヴェ・イ・レーニンの
ブルジョア的臨時政府の裁判出頭の問題を討議した。カーメネフ、ルイコフ、トロツキー、その
他の降伏主義者たちは、大会のまえから、ヴェ・イ・レーニンが裁判に出頭することに賛成の意
見を述べていた。大会は、ブルジョア法廷が革命の指導者を刑殺するであろうと考えて、レーニ
ンの裁判出頭には断固として反対意見を述べた。
 七月事件で全権力を奪取したのちブルジョアジーは、無力化されたソヴェトを壊滅し、むきだ
しの反革命的独裁を樹立する準備をはじめた。革命は反対して、コルニロフ将軍の陰謀は公然と
準備されていた。コルニロフの行動にたいする回答としてボリシェヴィキ党は、反革命にたいす
る積極的な武装反抗を労働者と兵士によびかけた。労働者階級と貧農の広範な大衆は、ますます
緊密にボリシェヴィキの周囲に結集しはじめた。中農は、貧農大衆にくわわって、はっきりとボ
リシェヴィキ党のがわに反転しはじめた。ソヴェト内の党の影響は、これまでにないほどに増大
した。ソヴェトのボリシェヴィキ化の時期がはじまった。ボリシェヴィキは、モスクワおよびペ
トログラード労働者・兵士代表ソヴェトで多数をえた。コルニロフ反乱が壊滅したのち、七月事
件のときにボリシェヴィキによって採択された「全権力をソヴェトへ!」のスローガンがふたた
び日程にのぼった。しかし、このスローガンの内容は根本的に変更された。いまやこのスローガ
ンは、蜂起によって革命がプロレタリアート独裁へ直接接近したことを意味し、プロレタリアー
ト独裁が組織され、国家として形成されることを意味した。コルニロフ一味の壊滅は、革命の発
展の新しい時期――突撃を組織する時期をひらいた。ボリシェヴィキは、労働者、兵士、農民に
たいして熱心に蜂起の準備をはじめた。ヴェ・イ・レーニンは、その論文と、中央委員会および
ボリシェヴィキの諸組織にあてた手紙のなかで、蜂起の具体的なプランをつくりあげた。
 一九一七年十月七日に、ヴェ・イ・レーニンは非合法にペトログラードに到着した。十月十日
に、党中央委員会の歴史的会議がひらかれ、そこで近日中に武装蜂起を開始することが決定され
た。ボリシェヴィキ党の中央委員会は、地方で蜂起を組織するために、全権代表を派遣した。カ
・イェ・ヴォロシロフ、ヴェ・エム・モロトフ、エフ・エ・ジェルジンスキー、ゲ・カ・オルジ
ョニキッゼ、エス・エム・キーロフ、エリ・エム・カガノヴィチ、ヴェ・ヴェ・クイブィシェフ、
エム・ヴェ・フルンゼ、イェ・エム・ャロスラフスキー、その他は、蜂起を指導するための
党の
特別の任務をうけた。ウラルのシャドリンスクでは、ア・ア・ジダーノフが軍人のあいだで活動
した。中央委員会の全権代表は、地方のボリシェヴィキ組織の指導者に蜂起のプランを知らせ、
ペトログラードの蜂起を援助するため、彼らを動員準備にひきいれた。中央委員会の指令によっ
て、ペトログラード・ソヴェトのもとに軍事革命委員会が創設され、この委員会が合法的な蜂起
司令部になった。十月十六日の党中央委員会拡大会議で、イ・ヴェ・スターリンを長とする蜂起
指導のための党中央部が選出された。この中央部が、軍事革命委員会の指導的中核となった。革
命の裏切者カーメネフとジノヴィエフは、十月十日と十六日の中央委員会の会議で、武装蜂起に
反対した。当然の反撃をうけるや、ジノヴィエフとカーメネフは、党にたいして、出版物のうえ
で公然と反対行動をとり、近いうちに蜂起を組織するということについての、中央委員会の決定
を敵のまえにあばいた。ヴェ・イ・レーニンは、革命の裏切者に、ストライキ破りの烙印をおし、
これらの降伏主義者を党から除名する問題を中央委員会に提起した。ペトログラード・ソヴェト
の会議の席上でトロツキーは、ボリシェヴィキのきめた蜂起の日どりを敵にもらした(電子版作
成者註:これだけは付記したい。これは、トロツキーが管理していた印刷所が反革命に襲撃され、
資料が奪われたことにより「発覚」したものであり、#いかなる意味でも「もらした」わけでは
ない!日本共産党に連なる「歴史修正主義」の、「常識」にされてしまった歴史改竄の一例であ
る)。裏切者から予告をうけた革命の敵どもは、すぐさま蜂起を予防し、革命の指導司令部――
ボリシェヴィキ党――を壊滅させるための方策を講じはじめた。しかし、どんな力ももはや社会
主義革命の勝利の行進をとどめることはできなかった。十月二十一日には、車の革命的部隊全体
に、ボリシェヴィキによって軍事革命委員会のコミッサール〔委員〕が派遣された。部隊や工場
では、蜂起までのあいだ毎日精力的な戦闘準備がおこなわれた。武装蜂起を挫折させる可能性を
ケレンスキー政府にあたえないようにするために、ボリシェヴィキ党中央委員会は、予定の期日
よりもはやく、第二回ソヴェト大会の開催日の前日に蜂起を開始し決行することにきめた。
 一九一七年十月二十四日に、共産党の指導のもとに、十月武装蜂起が開始された。夜になって
ヴェ・イ・レーニンはスモーリヌィに到着し、蜂起の指導権を自分の手ににぎった。十月二十五
日(十一月七日)に、赤衛軍と革命的軍隊によって停車場、郵便局、電信局、諸官省、国立銀行
が占領された。ペトログラードの労働者は、この当時彼らがボリシェヴィキ党の指導のもとにり
っぱな訓練を経たことをしめした。ボリシェヴィキ党によって蜂起の訓練をうけた陸海軍の革命
的部隊は、戦闘命令を正確に遂行し、赤衛軍とあいたずさえてたたかった。十月二十五日(十一
月七日)に、ブルジョア臨時政府は廃止され、国家権力はソヴェトの手にうつった。大十月社会
主義革命がおこなわれたのである。ロシアは、社会主義への道をひらきつつある世界で最初の国
になった。一九一七年十月二十五日(十一月七日)の午後十時四十五分にスモーリヌィで第二回
全ロシア・ソヴェト大会がひらかれた。そのときには、ペトログラードの蜂起の勝利はまったく
の最高潮にあり、首都の権力は事実上ペトログラード・ソヴェトの手にあった。ボリシェヴィキ
は大会で圧倒的な多数を獲得した。大衆の信頼をうしなったメンシェヴィキ、ブンド派、右翼エ
ス・エルは、大会から退場した。裏切者の退場のおかげで、大会は労働者と兵士の代表の真に革
命的な大会となった。全権力がソヴェトの手にうつったことが、大会の名で宣言された。ソヴェ
ト権力の最初の布告は、ヴェ・イ・レーニンの提案によって、一九一七年十月二十六日(十一月
八日)の夜第二回ソヴェト大会で採択された平和にかんする布告であった。大会は、講和交渉を
おこなうために、即時休戦を締結することを各実戦国に提唱した。ソヴェト国家が形成された瞬
間に、ソヴェト国家によって布告された平和と諸国民間の友誼の強化の政策は、ソヴェト権力の
すべての対外政策の確固不動の基礎となった。同じ夜に、第二回大会は土地にかんする布告を採
択した。これによれば、土地の私的所有は永久に廃止され、土地の全人民的・国家的所有に変え
られた。地主の土地、皇室領および修道院の土地は、勤労者の無償の用益にゆだねられた。すべ
ての地下埋蔵物(石油、石炭、鉱石など)、森林、河川湖沼は、人民の所有にうつった。第二回
大会は最初のソヴェト政府――人民委員会議《ソヴナルコム》――を組織した。人民委員会議の
議長にはヴェ・イ・レーニンがえらばれた。大会の代議員たちはペトログラードにおけるソヴェ
トの勝利のニュースを知らせ、ソヴェト権力が全国士にわたって拡大するのを確保するために、
地方へ散っていった。数日を経て、モスクワにソヴェト権力が確立された。アメリカ、イギリス、
フランスの政府によって支持されたソヴェト権力を打倒するロシアの反革命の企ては、革命の勝
利の最初の数日中に粉砕された。ソヴェト政府にメンシェヴィキやエス・エルをいれることを要
求していたカーメネフ、ジノヴィエフ、その他の革命のストライキ破りのソヴェト権力にたいす
る攻撃も党によって首尾よく撃退された。一九一七年十月から一九一八年一―二月にかけて、ソ
ヴェト革命は首尾よく全国にわたって拡大した。膨大な国の領土にわたるソヴェト権力の拡大は
急テンポでおこなわれたので、ヴェ・イ・レーニンはそれをソヴェト権力の「凱旋行進」と名づ
けたほどであった。
 多くの原因が、ロシアにおける大十月社会主義革命の、比較的に容易な勝利を決定した。第一
には、経済的にはまだ強固になっておらず、政治的には自立しておらず、経験に乏しいロシアの
ブルジョアジーが比較的によわかったことである。第二には、十月〔革命〕の前夜までに、平和、
土地、自由、社会主義のための闘争における人民の指導者としての権威を獲得していたロシアの
労働者階級のような革命的な階級が革命の先頭に立っていたことである。第三には、労働者階級
と、農業人口の大多数をしめていた貧農の強固な同盟の存在していることが、蜂起の前夜に中農
が革命のがわに方向転換するのを容易にしたこと。第四には、ロシアの労働者階級の先頭に、平
和のための一般民主主義的な闘争や、地主の土地を奪取しようとする農民の民主主義運動や、ロ
シア諸民族の民族解放運動や、ブルジョアジーを打倒してプロレタリアート独裁を樹立するため
のプロレタリアートの社会主義運動を、一つの共通の革命の奔流に、たくみに結合することので
きた、政治闘争で試練をへた共産党が立っていたことである。第五には、帝国主義戦争がたけな
わであったときに、主要なブルジョア国家が二つの敵対的な陣営に分裂し、これらの国家が相互
の戦争に没頭し、革命の直後に武力干渉を組織する可能性がなかったときに、革命がはじめられ
たという事情も十月革命の勝利を容易にした。
 大十月社会主義革命は、人類の歴史に新しい時代――資本主義の顛覆および社会主義と共産主
義の勝利の時代をひらいた。ロシアにおけるソヴェト革命の勝利は、人類の運命と世界史を根本
的にきりかえ、古い資本主義世界から新しい社会主義世界へときりかえた。十月革命の勝利の結
果、ソ同盟共産党は、一国の力から、世界的・国際的な力となり、世界の革命運動および労働運
動の「突撃隊」となった。
 勝利した社会主義革命を実現したのち、共産党は、民族的破局からロシアをすくい、世界帝国
主義に従属した半植民地国からロシアを解放し、人類の歴史上かつてみられなかった社会主義的
改革の広い道にソヴェト国民をみちびいた。

     3 ソ同盟における社会主義建設のためにたたかう共産党

 プロレタリアートの独裁が確立するや、支配政党としての共産党は、世界最初の労働者・農民
の社会主義国家を帝国主義列強からまもり、社会主義を建設する任務ととりくむことになった。
共産党の指導著、ソヴェト政府の首班、ヴェ・イ・レーニンは、経済的にたちおくれたロシアを
先進的で強大な社会主義国にする、科学的にうらづけのある計画を作成した。この計画は、国の
社会主義的工業化、あらゆる手段をかたむけた重工業の発達、国民経済全体の電化、社会主義の
原則に立って国内の農業を改造する協同組合計画の実施、文化革命の遂行をさだめた。ヴェ・イ
・レーニンは、ソ同盟における共産主義の建設、社会主義かち共産主義への漸次的移行の方法に
かんする基本的・原則的な理論的指示をあたえた。共産党の指導のもとに、ソ同盟の勤労者は、
前人未踏の社会主義建設の道を先頭きってすすみ、全人類のために自由でしあわせな生活への道
をきりひらいた。
 共産党に指導されている労働者階級は貧農と同盟をむすんで、大十月社会主義革命後の最初の
数ヵ月間に、ソヴェト権力をかためる方策を実行にうつした。すなわち、旧来のブルジョア国家
機構を破壊し、そのかわりに、新しいソヴェト国家機構をつくりだし、ソヴェトをかため、身分
制度ののこりかすと民族的圧迫の制度を破壊した。最高国民経済会議が創設され、反革命とサボ
タージュとの闘争のために、全ロシア非常委員会が組織された。全ロシア非常委員会(ヴェ・チ
ェ・カ)の首班はエフ・ジェルジンスキーであった。赤色陸海軍の創建にかんする布告が発布さ
れた。党の民族政策を実行にうつすために、イ・ヴェ・スターリンを首班とする民族人民委員部
が創設された。一九一八年の前半期には、ソヴェト権力はブルジョアジーの経済力をくつがえし、
国民経済の瞰制要地――工場、銀行、鉄道、外国貿易など――をその手に集中することに成功し
た。産業の生産手段はうばいとられ、全人民の所有になった。ソヴェト橇力は、ブルジョア的生
産関係を絶滅し、新しい、社会主義的生産関係をつくりだし、それを生産諸力の性格に適応した
ものにした。この革命的変革は、古い、資本主義的生産方法の基礎を破壊し、国の工業に社会主
義部門を創設することを意味した。農業における生産手段の共有化はすぐには実現することがで
きなかった。それは、中小の個人生産者を生産協同組合、すなわち大規模農業企業であるコルホ
ーズに漸次統合する方法によってのみ達成することができたのである。
 ソヴェト権力を決定的に強化するためには、戦争を終結させなければならなかった。共産党は、
大十月社会主義革命の勝利の最初の日から平和のための闘争を展開したのである。フランスとイ
ギリスが講和交渉を拒絶したために、ソヴェト政府は、人民の意志を実現するために、ドイツと
オーストリアとの交渉にとりかかることにきめた。ソヴェト政府は、息つぎを得、ソヴェト権力
を強化し、敵の攻撃から国をまもる力のある新しい赤軍を創設するために、苛酷な講和条件をう
けいれることを余儀なくされた。メンシェヴィキやエス・エルから、もっとも札つきの白衛派に
いたるまでのすべての反革命派は、講和の調印に反対した。彼らは講和交渉をぶちこわし、ドイ
ツ帝国主義者の攻撃を挑発し、まだかたまっていないソヴェト権力を攻撃にさらそうと欲してい
たのである。トロツキーと彼の下働きブハーリンは、このけがらわしい仕事で彼らの同盟者とな
った。ラデックやピャタコフといっしょにブハーリンは、偽装するために「左翼共産主義者」グ
ループと自称していた、党に敵対するグループの先項に立っていた。ブレスト=リトフスクの講
和のときに、トロツキーは、党中央委員会の指令に違反して、講和条件に調印することを拒否し、
そのためにドイツ帝国主義者に攻撃の口実をあたえた。ドイツ帝国主義は、ソヴェト権力をたお
して、ソヴェトの国をその植民地に変えることを目的とした。ドイツ帝国主義の武力干渉にこた
えて、共産党とソヴェト政府は「社会主義祖国は危殆にひんす」という呼びかけを発した。赤軍
の若い部隊――革命的な人民の軍隊――は、ドイツの強盗の攻撃を勇敢に撃退した。ナルヴァと
プスコフの付近で、ドイツ占領軍に決定的な反撃がくわえられた。ドイツ帝国主義軍隊に反撃し
た日、二月二十三日は、赤軍の誕生日となった。ドイツ政府は、講和に調印することに同意した
が、その条件は、最初のときよりもはるかに苛酷なものであった。トロツキーとブハーリンの裏
切行為は、ソヴェト・ロシアにとって高価なものについた。
 党と人民の敵――「左翼共産主義者」とトロツキスト――は、裏切りの道をすすみつづけた。
彼らは、ソヴェト権力をたおし、ヴェ・イ・レーニン、イ・ヴェ・スターリン、ヤ・エム・スヴ
ェルドロフを逮捕し、殺害して、ブハーリン派、トロツキー派、「左翼」エス・エルからなる新
政府を形成することを目的で、「左翼」エス・エルと兇悪な協定を結んだ。秘密の反革命的陰謀
を組織しながら、「左翼共産主義者」は、トロツキーの支持のもとに、党にたいして公然の攻撃
をくわえ、党の統一をやぶることにつとめた。党はヴェ・イ・レーニンのまわりに結束をかため、
講和問題およびその他のすべての問題で中央委員会を支持した。「左翼共産主義者」のグループ
は、孤立させられ、粉砕されてしまった。
 一九一八年三月に召集された第七回ボリシェヴィキ大会は、ブレスト講和問題にかんするヴェ
・イ・レーニンの決議を採択し、トロツキーとブハーリンの態度を非難した。大会は、ロシア社
会民主労働党(ボ)をロシア共産党(ボリシェヴィキ)――エル・カ・ペ(ボ)と改称し、党綱
領を変更することを提案した。新しい党綱領を作成するために委員会が選出された。綱領の基礎
として、ヴェ・イ・レーニンが作成した草案が採用された。
 講和をむすび、息つぎを得たので、ソヴェト権力は、社会主義建設を展開することにとりかか
った。ヴェ・イ・レーニンが労作『ソヴェト権力の当面の任務』(一九一八年)のなかで作成し
た、社会主義建設に着手する計画の要点はつぎの点にあった。すなわち、全国民的な計算と管理
の組織、労働生産性向上のための闘争、社会主義競争の組織、新しい、プロレタリア規律の訓練、
企業の単独責任制、孤立採算制の施行であった。「左翼共産主義者」(ブハーリン、オシンスキ
ー、その他)はふたたび共産党の政策に反対した。彼らは、メンシェヴィキやエス・エルとブロ
ックをつくって、ソヴェト産業が軌道にのることに反対してたたかい、ソ同盟では社会主義の建
設が不可能であるというトロツキー派の見解を宣伝した。「左翼共産主義者」の裏切的態度は、
共産党によってばくろされた。この時期の農村における党の政策は、主として富農《クラーク》
にたいする闘争、食糧関係の仕事の組織、貧農の組織であった。富農は、公定価格で国家に穀物
を売ることをこばみ、飢餓の助けをかりて、ソヴェト権力に社会主義的方策を断念させようとし
た。党は「穀物のための闘争は――社会主義のための闘争である」というレーニンのスローガン
のもとに、労働者の農村への出動を組織した。一九一八年六月十一日の布告によって、貧農委員
会(コムベード)が創設された。貧農委員会は、農村におけるソヴェト権力の立場を強固にし、
富農を抑制するうえで大きな役割をはたした。貧農委員会の組織は、農村で社会主義をおしすす
めるいっそうすすんだ段階であった。プロレタリアの農村出動と、貧農委員会の組織とは、農村
でソヴェト権力を強固にし、中農をソヴェト権力のがわに獲得するために大きな政治的意義をも
っていた。貧農委員会がその任務をはたしおわった一九一八年の末ごろに、この委員会はその存
在をやめて農村ソヴェトに合流した。一九一八年七月に、第五回ソヴェト大会でロシア社会主義
同盟ソヴェト共和国
281「ソ同盟共産党」P237:02/04/23 22:02
憲法――最初のソヴェト憲決――が採択された。憲法の採択は、ソヴェト国
家建設の第一段階を完成した。
 ソヴェト権力が強固になったことは、国際帝国主義の陣営、とくに協商国諸国ならびに国内の
反革命陣営に不安をまきおこした。すでに一九一八年の前半には、すすんでソヴェト権力の打倒
にのりだそうという二つのはっきりした勢力、すなわち協商国がわの外国帝国主義とロシア内部
の反革命とが形成されたのである。息つぎがおわり、外国の軍事的干渉と国内の反革命勢力にた
いするソヴェト人民の闘争の長い時期がはじまった。
 外国の軍事的干渉と国内戦争の時期(一九一八―二〇年)に、共産党は、外国の侵略者とブル
ジョア=地主の反革命にたいする祖国防衛戦争に労働者・農民を決起させ、社会主義祖国の自由
と独立のための闘争において全世界的・歴史的勝利を得た。
 イギリス、フランス、日本、アメリカの帝国主義者は、宣戦の布告なしに軍事的干渉をはじめ
た。アメリカ=イギリスの占領軍は、ロシアの北部に軍隊を上陸させ、日本軍とアメリカ軍は、
ウラヂヴォストクに軍隊を上陸させた。北カフカズではコルニロフ、アレクセエフ、デニキンら
の将軍連は、イギリス=フランス軍の支持のもとに白衛軍を組織し、ソヴェト征伐を開始した。
ドンではクラスノフ将軍とマモントフ将軍が、ドイツ帝国主義者の支持のもとに反革命一揆をお
こした。中部ヴォルガとシベリアでは、イギリス=フランス帝国主義者の陰謀によって、ソヴェ
ト政府によって祖国におくりかえされた捕虜からなっていたチェコスロヴァキア軍団の一揆が組
織された。干渉者の侵入と燃えあがった反革命一揆の結果、ソヴェト・ロシアは、その主要な食
糧、原料、燃料地帯からきりはなされてしまった。この時期の信じられないほどの困難と、この
困難との死にものぐるいの闘争は、労働者階級にどんなに無尽蔵のエネルギーが秘められている
か、いかに共産党の権威の力がどこまで大きいかをしめした。飢えも、混乱も、燃料、衣料、靴
不足も、チフスの蔓延も、その他の災厄も、ロシアを分割し、帝国主義列強の植民地にしようと
ゆめみていた帝国主義略奪者どもの手さきがくわだてた富農の暴動も――なに一つとして、搾取
階級にたいする勝利と新しい社会主義生活の建設をめざすソヴェト国の勤労者の不屈の意志をう
ちやぶることはできなかった。党は、国土を戦陣と宣言し、国の経済生活と文化=政治生活を軍
事一色にたてなおしてしまった。戦線と銃後における国防にかんするあらゆる仕事を指導し、戦
線の必要に応じて国のあらゆる富源を動員するために、ヴェ・イ・レーニンを首班とする労農国
防会議が創設された。ソヴェト政府は「社会主義祖国は危殆にひんす」と宣言し、人民を敵にた
いする反撃へよびかけた。共産党と共産主義青年同盟の全成員のほとんど半分は戦線に出た。短
期間に赤軍は一〇〇万の軍隊となった。講じられた対策の結果、最初の成功がえられた。クラス
ノフ将軍は、ツァリツィンから駆逐され、デニキン将軍の行動は北カフカズの小地区に局限され、
チェコスロヴァキアとエス・エル=白衛軍の匪賊団はカザン、シンビルスク、サマラから放逐さ
れ、ウラルにおしもどされた。ヤロスラウリにおける白衛軍の一揆は撃滅された。しかし、共産
党は、赤軍の最初の成功がまだ決定的なものではなく、新しい戦闘がひかえていることを理解し
ていた。党は勤労者を長期戦にそなえはじめた。ソヴェト政府は、戦時共産主義を施行した。全
産業が国家の統制のもとにおかれ、穀物売買の独占がおこなわれ、穀物の私的売買が禁止され、
食糧割当徴発制が制定され、あらゆる階級にたいする一般労働義務制が施行された。
 ソヴェト国が外国の干渉にたいする新しい戦闘にそなえつつあったときに、西欧では交戦諸国


−−−−−−−
 あちゃー あげてもた! すまぬ!
の銃後と戦線に決定的な事件がおこった。ドイツでは一九一八年の十一月に革命が勃発し、ウィ
ルヘルム二世とその政府は打倒された。大十月社会主義革命は、ドイツの事件にきわめて大きな
影響をあたえた。一九一八年十一月に、第一次世界戦争は、ドイツの降伏によって終結した。ソ
ヴェト・ロシアの立場からみると、戦争の終結は若干のマイナスの意義をもっていた。なぜなら
ば、協商国がわの諸国家が、ソヴェト国にたいする干渉を強化する可能性を得たからである。そ
れと同時に、戦争の終結は、ソヴェト・ロシアの立場をいちじるしくらくにした。第一に、ソヴ
ェト権力は、強盗的なブレスト講和を破棄し、エストニア、ラトヴィア、白ロシア、リトワニア、
ウクライナ、外力フカズをドイツ帝国主義の抑圧から解放するための公然の闘争をおこなう可能
性をあたえた。第二に、しかもこれがたいせつなことだが、ドイツの革命は、ヨーロッパの革命
運動を高揚させた。
 大十月社会主義革命の影響をうけて、西欧に共産党が創立されはじめた。第三共産主義インタ
ナショナル創立のための現実の地盤が生じた。一九一九年三月に、諸国共産党、共産党諸組織お
よびグループの第一回大会がモスクワでひらかれた。そこで、ヴェ・イ・レーニンのイニシアテ
ィヴによって共産主義インタナショナルが創立された。コミンテルンは、先進的労働者の前衛を
革命的マルクス主義党に結集するうえに大きな役割を演じた。
 一九一九年三月に、ロシア共産党(ボ)の第八回大会がひらかれた。大会では、プロレタリア
ート独裁の条件下における党の任務にこたえる共産党の新しい綱領が採択された。綱領には、資
本主義とその最高の段階としての帝国主義、単純商品経済の性格づけがあたえられた。綱領は、
国内にいろいろな経済制度《ウクラード》が現存していることを考慮した。綱領では、社会主義
のための闘争に
おける党の具体的な諸任務、すなわち、ブルジョアジーの収奪を徹底させること、
単一の社会主義的計画にしたがって国の経済を処理すること、労働組合が国民経済を組織する仕
事に参加すること、中農を社会主義建設に徐々に、計画的にひきこむことがしめされている。綱
領の審議にあたって、大会は、ソヴェト建設における中農の役割をメンシェヴィキ的=トロツキ
ー的に否定することを意味したブハーリンの反ボリシェヴィキ的見解と、民族の平等権に反対し
たブハーリンやピャタコフの大国的・排外主義的な見解に反撃をくわえた。農村における活動に
かんするヴェ・イ・レーニンの報告にもとづいて、大会は、「中農にたいする態度にかんする」
決定を採択し、そのなかで、中盤と強固な同盟をむすび、この同盟のなかでプロレタリアートの
指導的役割を保持する政策を実行することを提案した。中農にたいする新しい政策は、貧農に依
拠し、中農との強固な同盟を堅持し、富農にたいする闘争をおこなうことを、プロレタリアート
に要求した。大会で採択された農民にたいする方針は、国内戦とソ同盟における社会主義で勝利
をおさめるうえに決定的役削を演じた。第八回大会は、軍事問題にかんする決定を採択し、その
決定は、赤軍を強固にした。大会は、ソヴェトの活動における党の指導的役割を強調して、党建
設とソヴェト建設にかんする提案をおこない、ソヴェトにおける党の指導的役割を否定したサプ
ロノフ=オシンスキーの日和見主義的グループに決定的な反撃をくわえた。大会は、党の社会的
構成を改善し、再登録をおこなう決定を採択した。これは、党の第一次粛清のはじまりであった。
第八回大会の決定は、党の陣列を結束させ、党の指導的役割を強化するうえで、党と人民との結
びつきを強化し、ソヴェト国の国防力を高めるうえで、大きな意義をもっていた。
 ドイツの降伏したあとで、協商国がわの国家は、ソヴェト国にたいして大兵力を投入した。一
九一九―二〇年に、帝国主義者どもはソヴェト共和国にたいして三たび出兵をおこなった。一九
一九年の春に開始された最初の出動のときに、帝国主義者どもは、シベリアにいた協商国の走狗
コルチャック海軍大将におもな望みをかけていた。コルチャックは「ロシアの最高統治者」と宣
言された。東部戦線が主要な戦線となった。コルチャックにたいしては、共産党の最良の勢力が
投入され、共産青年同盟員や労働者が動員された。コルチャック軍は退却しはじめた。党中央委
員会は、ウラルの前面で停止し、コルチャック軍の追撃を中止するという、トロツキーの不審な
計画をしりそげ、東部戦線の作戦指導にたずさわることから手をひかせた。赤軍は、ウラルとシ
ベリアを白衛軍から解放した。ウラルとシベリアでは、強力なパルチザン運動が赤軍を援助した。
一九一九年の夏に、赤軍の注意をコルチャックからそらす目的で、バルト沿岸の反革命勢力の先
頭に立っていたユデニッチ将軍は、ペトログラードにたいする攻撃を開始した。クラースナヤ・
ゴルカとセーラヤ・ローシャヂの二つの砲台の守備隊は、反革命的煽動に屈してしまい、ソヴェ
ト権力にたいして一揆をおこした。党中央委員会とソヴェト政府は、急速に一揆を根絶する方策
をとった。砲台は反逆者から解放され、白衛軍はペトログラードから撃退された。ユデニッチの
敗北はコルチャックにたいする闘争を容易にした。一九一九年の末ごろには、コルチャック軍は
最後的に壊滅させられた。
 一九一九年の夏に、第二回目の協商国の出兵、いわゆる一四ヵ国の出兵が開始された。こんど
は帝国主義者どもは、南部を支配していたデニキンに望みをかけた。南部戦線が主要な戦線にな
った。デニキンを援助するために、ミンスクを占領していた白色ポーランド人が出動した。ユデ
ニッチは、ペトログラード付近でふたたび攻撃にうつった。トロツキーは、南部戦線での仕事を
めちゃくちゃにし、ソヴェト軍は敗北をこうむった。デニキン軍はウクラィナを手にいれ、オリ
ョールを占領し、トゥーラにせまっていた。ソヴェト共和国には重大な危険がせまっていた。ヴ
ェ・イ・レーニンは、党中央委員会の名で「すべてをデニキンとの闘争へ!」と人民によびかけ
た。共産党に鼓舞された労働者と農民は、敵を壊滅させるために、全力をかたむけた。デニキン
軍の殲滅を組織するために、中央委員会は、イ・ヴェ・スターリン、カ・イェ・ヴォロシロフ、
ゲ・カ・オルジョニキッゼ、エス・エム・ブジョンヌィを南部戦線に派遣した。党中央委員会は、
トロツキーの裏切的計画をしりそげ、南部戦線の作戦指導から彼をとおざけ、イ・ヴェ・スター
リンによって提案された、ヴォロネジ地方からハリコフ――ドンバス――ロストフを通じて主要
な打撃をむけるべきであるというデニキン殲滅計画を採用した。この計画の実行は、赤軍に勝利
をもたらした。コルチャックとデニキンの壊滅ののち、しばらくの息ぬきがやってきた。一九二
〇年一月に、イギリス、フランス、イタリアは、ソヴェト・ロシアの封鎖を中止する決定をおこ
なった。ソヴェト国は、平和的な経済建設に息ぬきを利用した。
 短い息ぬきの条件のもとで(一九二〇年三―四月)第九回党大会がひらかれた。大会は、工業
および運輸の分野での国の当面の経済的任務を決定した。大会では、統一的な経済計画の問題に
特別の注意がはらわれた。この計画のなかで主要な地位を占めていたのは、全国民経済の電化の
問題であった。ヴェ・イ・レーニンは、「一〇―二〇年にわたる大計画案」として国の電化を提
起した。これにもとづいて、ゴエルロ〔ロシア電化国家委員会〕の計画が作成された。大会は、
「民主主義的中央集権」の反党的なグループに反撃をくわえた。このグループは、産業での企業
長《ディレクトル》の単独責任制と個人責任制に反対し、産業指導上の際限もない「合議制」と
無責任制を主張し
287名無しさん@1周年:02/04/23 22:08
ソ連共産党も病院で反体制活動家に拷問をしたり、
薬殺をしてたらしいな。
これは過去に「リーダーズ・ダイジェスト」他でも取り上げられ、
ペレストロイカの下で裏付けられたことだが。
た。
 一九二〇年の春、協商国の帝国主義者どもは、ソヴェト・ロシアにたいする三回目の出兵を開
始した。こんどは干渉者は、ブルジョア=地主のポーランドと白衛軍のウランゲリ将軍をその目
的のために利用することに決した。一九二〇年四月に、ポーランド軍隊はソヴェト・ウクライナ
の国境に突入し、キエフを占領した。ウランゲリもまた攻勢に転じ、ドンバスを脅威しはじめた。
ポーランド軍隊の攻撃にこたえて、ソヴェト軍は、全戦線にわたって反撃を展開した。南西部戦
線の軍隊はリヴォフに達し、西部戦線の軍隊はワルシャワに近づきつつあった。事態はポーラン
ド地主《パン》の完全な敗北へとすすみつつあった。しかし、トロツキーと赤軍参謀本部内の彼
の一味は、赤軍の成功を挫折させてしまった。ポーランド軍隊は攻勢に転じたが、まもなくその
攻撃は停止された。ソヴェト軍は、白色ポーランド人にたいする反撃準備をはじめた。ポーラン
ドは、戦争を継続する力がなく、ロシアとの講和をむすぶことをえらんだ。一九二〇年の十一月
に、エム・ヴェ・フルンゼに指導されたソヴェト軍は、ペレコプの設堡陣地を占領し、クリミア
に突入し、ウランゲリ軍を殲滅した。一九二〇年四月から一九二一年二月までの期間に、ソヴェ
ト権力は、アゼルバイジャン、アルメニア、グルジアで勝利をおさめた。ソヴェト国の主要な敵、
干渉の主力は、一九二〇年の末までに粉砕されてしまった。外国の干渉と国内戦の時期はおわっ
た。
 これは労働者と農民の歴史的勝利であり、ソヴェト権力の歴史的勝利であり、共産党によって
創設され、教育された赤軍の勝利であった。勝利が得られたのは、労働者と農民が、自分の若い
ソヴェト共和国とソヴェト権力を干渉軍と白衛軍からまもって、最大の英雄主義を発揮したから
である。レーニンはつぎのように指示している。「労働者と農民の大多数が、自分のソヴェト権
力――はたらく者の権力をまもりぬき、また、それが勝利すれば、自分や子供たちが、いっさい
の文化の福祉、いっさいの人間労働の創造物を利用できるようになる事業をまもりぬいているこ
とを知り、感じ、見ている――そういう労働者、農民をもつ人民をうちやぶることはけっしてで
きない。」〔レーニン『一九一九年四月十六日モスクワ鉄道分岐点従業員代表者会議における演
説』、全集第二九巻二九二ページ〕 ソヴェト権力の政策――この政策のためにたたかいがおこ
なわれたのであるが――は人民の利益に合致した政策であった。勤労者はこの政策を自分自身の
政策として意識し、理解し、それを最後まで支持していた。赤軍が勝利したのは、同軍が自国の
人民にあくまで忠実で献身的であったからである。赤軍兵士は戦争の目的を理解しており、その
ことが、規律の精神と戦闘力を彼らのうちにつよめ、比類のない自己犠牲と未曾有の大衆的英雄
主義を発揮した。赤軍は強力な銃後をもっていた。共産党は国を、戦線にすべての必要品を供給
した統一された戦列に変えた。プロレタリア革命によって輩出され、共産党によって教育された、
新しい型の軍事指導者が赤軍を指導した。すなわち、エム・ヴェ・フルンゼ、カ・イェ・ヴォロ
シロフ、エス・エム・ブジョンヌイ、その他がそれであり、赤軍の隊伍では、ゲ・イ・コトフス
キー、ヴェ・イ・チャパーエフ、エス・ゲ・ラゾー、エヌ・ア・シチョルス、ア・ヤ・パルホメ
ンコ、その他多くの天成の英雄たちがたたかい、ヴェ・イ・レーニン、イ・ヴェ・スターリン、
ヴェ・エム・モロトフ、エム・イ・カリーニン、ヤ・エム・スヴェルドロフ、エリ・エム・カガ
ノヴィチ、ゲ・カ・オルジョニキッゼ、エス・エム・キーロフ、ヴェ・ヴェ・クイブィシェフ、
ア・イ・ミコヤン、ア・ア・ジダーノフ、ア・ア・アンドレエフ、ゲ・イ・ペトロフスキー、イ
ェ・エム・ヤロスラフスキー、エフ・エ・ジェルジンスキー、イェ・ア・シチャヂェンコ、エ

・ゼ・メフリス、エヌ・エス・フルシチョフ、エヌ・エム・シヴェルニク、エム・エフ・シキリ
ャトフ、その他が赤軍の政治教育にたずさわり、赤軍はその構成のうちに、非凡な組織者、煽動
動家――軍事委員《コミサール》をもっていた。赤軍が勝利したのは、白衛軍の銃後で、労働者
と農民を蜂起させ、白衛軍と干渉軍の銃後をくつがえした党員・地下活動家が活躍したからであ
る。
 共産党は赤軍の銃後と戦線の指導的中核であった。この党は、その結束力と規律とで統一され、
その革命精神と、共同の事兼の成功のためとあればどんな犠牲をもいとわない覚悟とでつよめら
れており、幾百万の大衆を組織し、複雑な情勢のもとで大衆をただしく指導する能力をもってぬ
きんでていたのである。「党が警備につき、党がもっとも厳格に規律をまもったおかげで、また、
党の権威がいっさいの官庁および機関を団結させ、中央委員会のあたえたスローガンにしたがっ
て数十人、数百人、数千人、そして最後には数百万人がただひとりのごとくすすんだおかげでは
じめて、そしてまた、未聞の犠牲がささげられたがゆえにはじめて、――それによってはじめて、
奇蹟はうまれることができたのである。それによってはじめて、連合国の帝国主義者および全世
界の帝国主義者の二回、三回、そして四回もの出征をうけたにもかかわらず、われわれは勝利を
占めることができたのである。」〔レーニン『ロシア共産党(ボ)第九回党大会、三月二十九日
の中央委員会報告』、本文庫版『平和のための闘争』一二五ページ所収〕
 経済の崩壊と飢餓という大きな困難を克服し、外国の干渉軍と国内の反革命一揆の狂気じみた
攻撃を撃退して、共産党は、ソヴェト国の人民を干渉軍と白衛軍にたいする完全な勝利にみちび
いた。国内戦と軍事干渉の時期は、ソヴェト国における共産党の決定的勝利の時期であった。そ
れと同時に、国内戦と干渉の時期は、エス・エル、メンシェヴィキ、無政府主義者、民族主義者



>>287
 何をいまさらですが。「収容所群島」(ソルジェニーツィン)を読めば、もっと
エグいよ。
の小ブルジョア諸政党の政治的滅亡の時期であった。これらの諸政党は、白衛軍の将軍や干渉軍
を支持し、ソヴェト権力にたいする反革命的行動や陰謀をたくらんだ反革命的政党としての正体
を人民大衆の面前で先全にばくろした。
 白衛軍の反革命と外国の干渉にたいするソヴェト国の闘争は、全世界のプロレタリアの共鳴と
支持をよびおこした。全世界のプロレタリアは、帝国主義者がソヴェト共和国にたいする干渉を
断念するよう援肋をあたえた。
 国民経済復興の平和的活動の時期(一九二一―二五年)に、共産党は、労働者と農民の同盟を
強化し、新経済政策(ネップ)にもとづいて、巨大な建設活動を展開し、人民の創造力をレーニ
ンの社会主義班設計価の実行へとみちびいた。
 党の平和的な建設への移行は、きわめて困難な情勢のもとでおこなわれなければならなかった。
国は四年間の帝国主義戦争と三年間の干渉軍との戦争で荒廃していた。一九二〇年の農業生産額
は、戦前の約半分にしか達せず、工業は崩壊状態にあった。経済的困難のうえに、農民と一部の
労働者のあいだに不満があらわれた。階級敵は、ソヴェト権力を打倒するために困難な経済状態
を利用しようとこころみた。戦時共産主義体制は、その任務をおわった。党はヴェ・イ・レーニ
ンの指導のもとに、ネップに移行した。ネップは、国営社会主義工業と単純商品生産者の小規模
経済および零細経営との結合の強固な基礎を置き、労働者階級と農民の同盟を強化し、プロレタ
リアートの独裁を強固にした。ヴェ・イ・レーニンはネップの国際的意義を強調した。ヴェ・イ
・レーニンはつぎのように書いている。「われわれが現在、さしあたって――一時的には――孤
立して解決しつつある任務は、まったくロシア的なものであるが、事実、これはすべての社会

義者が直面する任務である。……労働者と農民の同盟に基礎をおく新しい社会は、不可避である。
早晩、二〇年はやいか、二〇年おそいか、とにかくそういう社会はやってくる。われわれが、わ
がネップの決定に努力するとき、われわれは、そうした社会のために労働者と農民の同盟の諸形
態をつくりあげるのをたすけているのである。われわれはこの任務を解決するであろうし、労働
者と農民の同盟は、地上のいかなる勢力もそれをやぶることができないほど強固になるであろう
)」〔レーニン『共和国の内外政策』、全集第三三巻一五一―五二ページ〕平和的建設への党の
移行は、党の陣列に組織破壊と分裂をもちこもうとこころみた反党的グループとの激烈な闘争を
ともなった。一九二〇年の末に、反党的グループのトロツキー派、「労働者反対派」、「民主主
義的中央集権派」、「左翼共産主義者」は、党に労働組合にかんする討論をおしつけた。討論と
党および中央委員会のレーニンの多数派にたいする闘争の張本人はトロツキーであった。実際に
は、闘争は農民にたいする態度、非党員の労働者大衆にたいする党の態度、一般に新しい情勢に
おける大衆にたいする党の態度についておこなわれたのである。大衆にたいする強制と命令一点
ばりの裏切的政策によって、トロツキー派は、非党員大衆を党に敵対させ、ソヴェト権力の存在
に脅威をあたえようとこころみた。ヴェ・イ・レーニンとレーニン派は、主要な打撃を、反党グ
ループの主勢力としてのトロツキー派にむけた。中央委員会のレーニンの多数派は、分派的反党
グループを壊滅させるために、党の全勢力を結集、動員した。地方の党組織は、労働組合は管理
の学校であり、経営の学校であり、共産主義の学校であると定義したレーニンの政綱に同意した。
 一九二一年三月にひらかれた第十回党大会は、労働組合にかんする討論を総括し、圧倒的多数
でレーニンの政綱を承認した。大会は、党内の分派やグループを禁止した「党の統一にかんす
293名無しさん@1周年:02/04/23 22:15
>>290
うん、読んだよ。リーダイのは「ソ連は病院を収容所にした」
というタイトルだったと記憶する。日共にはまだその悪しき影響が
温存・継承されてると思ったものだから。
スレ違い失礼しました。

」レーニンの決定を採択した。ヴェ・イ・レーニンによって提案された「わが党内のサンディカ
リスト的偏向と無政府主義的偏向について」という決議のなかで、大会は「労働者反対派」を非
難し、無政府主義=サンディカリスト的偏向の思想を宣伝することと、共産党に所属することと
は両立しないことをみとめ、反対派と断固としてたたかうよう党によびかけた。第十回党大会は、
党内の集団的指導と党の決定作成における集団性の重要性を強調し、あらゆる重要な問題の完全
な党内の批判の自由による審議と全党的決定の集団的作成が党の活動方式であることを指示した。
「割当徴発制を現物税にかえることについて」のヴェ・イ・レーニンの報告にしたがって、第十
回大会は、新経済政策への移行にかんする重要な決定を採択した。戦時共産主義からネップへの
この転換のなかに、共産党の賢明さと先見の明かあらわれていた。党は、瞰制要地をプロレタリ
ア国家の手中におさめて資本主義をゆるすことを考慮し、資本主義的分子にたいする社会主義的
分子の勝利を考慮し、社会主義経済の基礎の建設を考慮したプロレタリア国家の特別な政策とし
てのネップを研究した。ネップへの移行は、社会主義建設のための労働者階級と農民の強固な経
済的同盟を保障した。以前の被圧迫民族の経済的・政治的・文化的立ちおくれを消滅させること
を提案したイ・ヴェ・スターリンの報告にもとづいて採択された民族問題にかんする大会の決定
も、この根本的な任務に役だった。大会は、大国的排外主義と地方的民族主義という民族問題上
の反党的な偏向を非難した。
 党内の動揺分子は、ネップの実行に反抗した。党は、ネップが資本主義への復帰であり、ソヴ
ェト権力の滅亡をもたらすものであると声明した「左翼」ならびに、ソ同盟における社会主義の
勝利の可能性を信ぜず、国内国外の私的資本に大きな譲歩を要求したろこつな降伏主義者をばく



>>293
 いえいえ、どういたしまして。JCP−Watchというサイトがあるのです
が、それを巡る状況を見れば、病院に収容とは違う意味での「隔離体質」はなく
なっていない模様です。
ろし孤立させた。党は、狼狽者、降伏主義者に決定的な反撃をくわえた。党の政策にたいする反
抗が現に存在していたことは、動揺分子を党から粛清することを必要とした。中央委員会は、一
九二一年に党の粛清をおこなって、党の強化のために一大活動をおこなった。
 一九二二年の三―四月にひらかれた第十一回党大会は、ネップの第一年の総決算をおこなった。
共産党はネップに移行しながら、一時的な後退戦術と、資本主義にたいするあらたな、より決定
的な攻撃をくわえるための力と資力を蓄積する戦術をとった。第十一同党大会で、ヴェ・イ・レ
ーニンは退却がおわったことを声明して、資本主義分子にたいする決定的攻撃にうつるために勢
力を再編成するという課題を提起した。この時期に党が当面していた諸任務の鎖の主要な一環は、
商業、工業と農民経済のあいだの商品流通の発展、商品流通面からの個人商人の一掃であった。
ヴェ・イ・レーニンは、経営の仕方をまなべ、文化的に商業をおこなえというスローガンを党に
提起した。第十一回党大会は、ヴェ・イ・レーニンが直接その活動に参加した最後の大会であっ
た。一九二一年の末には、ヴェ・イ・レーニンは病気のために、しばしばその活動を中止するこ
とを余儀なくされた。
 その最後の論文『日記からの数ページ』、『協同組合について』、『わが革命について』、『
われわれは労農監督人民委員部をどう改組すべきか』、『量は少くとも、質のよいものを』のな
かで、ヴェ・イ・レーニンは、ソヴェト権力の最初の数年間における党活動の総決算をおこない、
ソ同盟における社会主義建設計画をたて、農民を社会主義社会の建設にひきいれる協同組合計画
を提案した。ヴェ・イ・レーニンはこう指示した。プロレタリアートの独裁と労働者階級と農民
の同盟のもとで、またこの同盟でプロレタリアートの指導権が確保されており、社会主義的工業
が現に
存在しているばあいには、数百万という農民を包擁する生産協同組合は、それによって完
全な社会主義社会を建設しおえることができる手段である。小規模生産者および中規模生産者の
多少とも多くの階級をもっているすべての国にとって、発展のこの方法が、社会主義の勝利にと
って、ただ一つの可能な、目的にかなったものである。ヴェ・イ・レーニンは、社会主義国家を
あらゆる方法で強化し、ソヴェト国家機関を改善、強化し、国家管理に広範な勤労大衆をひきい
れることの必要性を指示した。ヴェ・イ・レーニンによって提案され、作成された経済的・政治
的・文化的建設のもっとも重要な問題は、社会主義建設の綱領となった。
 ヴェ・イ・レーニンの指示は、第十二回党大会(一九二三年四月)の決定の基礎となった。大
会は、ネップを社会主義の陣地からの退却としてのみ理解したすべての人々に決定的な反撃をく
わえ、トロツキー派やブハーリン派の降伏主義に烙印をおした。大会はまた、農民経営を搾取す
ることによって工業を建設することを提案して、労働者と農民の同盟をやぶろうとするトロツキ
ーの試みにも反繋をくわえた。大会は、工業の発展が、農民大衆の利益に反しないで、それに結
合しておこなわれなければならないことを強調した。ヴェ・イ・レーニンの指示にしたがって、
大会は、中央統制委員会と労農監督局との合同機関を創設した。この機関には、党の統一を防衛
し、党の規律と国家の規律をつよめ、ソヴェト国家機関を改善するという任務がおわされた。イ
・ヴェ・スターリンの報告にもとづいて、大会は、民族問題にかんする中央委員会の政策に賛成
した決定を採択した。大会では、トロツキー派やブハーリン派が支持したグルジアの民族主義的
偏向者をばくろした。第十二回党大会は、二ヵ年間のネップの総決算をおこない、ソ同盟におけ
る社会主義の勝利における確信を表明した。
 単一の多民族ソヴェト国家の創立は、共産主義建設の課題を成功裡に解決するために大きな意
義をもっていた。レーニン=スターリン的民族政策の実現のために共産党によって遂行された巨
大な活動の結果、一九二二年十二月の第一回全同盟ソヴェト大会で、ソヴェト社会主義共和国同
盟(エス・エス・エス・エル)が創立された。ソ同盟の創立は、世界で最初の労働者・農民の社
会主義国家がいっそう強化されたことを意味した。
 共産党の指導下で得られたソヴェト人民の成功は、国民経済復興期の内外の諸困難を克服する
ために大衆を団結させた。党は、ヴェ・イ・レーニンの病気を利用して党と党指導部にあらたな
攻撃を開始した敵にたいして決定的な闘争をおこなった。トロツキーを先頭とする降伏主義者や
裏切者は、党をレーニンの道からはずして、ソヴェト国のなかに資本主義復活のための条件を準
備しようとこころみた。トロツキー派は分派とグループの自由を要求して、党にあらたな討論を
おしつけた。討論の過程で、反対派は、ソヴェト同盟全体にわたって粉砕されてしまった。討論
は、党の陣列の統一と一枚岩のような強固さ、中央委員会のまわりへの党の結集、レーニン主義
にたいする党の忠誠をしめした。第八回党協議会(一九二四年一月)は、トロツキー反対派をマ
ルクス主義からの小ブルジョア的偏向として断固として非難した。
 共産党は、社会主義建設のレーニン的計画を実行にうつすための闘争を展開した。この時期に、
最大の不幸――共産党の創立者、指導者であり、全世界の勤労者の指導者であり、世界で最初の
ソヴェト社会主義国家の創立者であるヴェ・イ・レーニンが一九二四年一月二十一日に逝去した
――が党と労働者階級をおそった。ソヴェト同盟の労働者階級は、共産党の周囲にさらにいっそ
う自己の隊列を結束することをもってヴェ・イ・レーニンの死にこたえた。二〇万名近くのもっ
とも階級意識のある、先進的な労働者が党の陣列にくわわった。ヴェ・イ・レーニンの喪中にひ
らかれたソ同盟第二回ソヴェト大会で、イ・ヴェ・スターリンは、党を代表して、ヴェ・イ・レ
ーニンの遺訓を遂行するという偉大な誓いをたてた。すなわち、党員という偉大な名誉を高くか
かげ、かつきよくたもつこと、党の統一をまもること、プロレタリアートの独裁をまもり、かつ
強化すること、労働者と農民の同盟とソ同盟の諸民族の兄弟のような協力を強化すること、ソヴ
ェト社会主義同盟を強化、拡大すること、赤軍と赤色海軍を強化すること、全世界の勤労者の同
盟を強化、拡大することをちかった。これは、永遠に生きるであろう、自分の指導者ヴェ・イ・
レーニンにたいする党の誓いであった。
 ソ同盟共産党は、レーニンの顔を高くかかけ、ソヴェト人民を社会主義建設の道にみちびいた。
一九二四年五月に、第十三回党大会がひらかれた。都市と農村の結合を強固にする任務から出発
して、大会は、工業を、第一番に軽工業をいっそう拡大することにかんする指示をあたえ、同時
にまた冶金工業を急速に発展させる必要を強調した。農村における活動の主要な任務として、大
会は、あらゆる手段を講じて農民大衆を協同組合にいれるというスローガンをかかげた。大会は、
レーニン記念党員募集アピールの絶大な意義を指摘し、そして、青年党員を、まず第一番にレー
ニン記念党員募集アピールに応じた青年党員を、レーニン主義の基礎によって訓練する活動を強
化することに注意をむけた。大会は、トロツキー反対派の政綱を満場一致で非難し、第十三回党
協議会の決議「党建設について」と「討論の総決算と党内の小ブルジョア的偏向について」を確
認した。トロツキー主義を思想的に壊滅させ、レーニン主義を擁護するうえで、イ・ヴェ・スタ
ーリンのすぐれた理論的労作『レーニン主義の基礎について』が重一な意義をもっていた。この
労作のなかでは、レーニン主義のたくみな叙述がなされ、ヴェ・イ・レーニンがマルクス主義理
論の発展にもたらした新しいものがしめされている。イ・ヴェ・スターリンの労作『レーニン主
義の基礎について』は、全世界の共産主義者をマルクス=レーニン主義理論という武器で武装さ
せた。
 国民経済の復興は、一九二五年にはおわりに近づいた。党に指導される労働者と農民の献身的
な活動は、その成果をもたらした。一九二四―二五年には、農業は戦前の規模に近づき、大工業
はすでに戦前の工業生産額の約四分の三を産した。復興期のおわりには、ソ同盟における社会主
義の運命にかんする問題は、もはや理論問題としてでなく、実践の問題として党が当面した問題
であった。党と人民の敵であるメンシェヴィキの残党――トロツキー派、ブハーリン派、ブルジ
ョア民族主義者は、社会主義の勝利の可能性にたいする不信の害毒によって党と労働者階級をひ
きはなそうとした。彼らは、党と国をレーニンの道からはずして、プロレタリア革命の獲得物を
一掃し、資本主義を復活する道にそらせようとした。共産党は、イ・ヴェ・スターリンを先頭と
する中央委員会の指導のもとに、裏切者や降伏主義者を粉砕し、レーニン主義をまもりぬき、社
会主義を建設する断固たる方針をとった。このさい、共産党は、社会の経済的発展の客観的法則、
社会の物質的生活の発展をもとめる熟しきった要求、人民の利益から出発した。党は、ソ同盟に
は、新しい社会主義社会を建設しとげるために必要かつ十分なものがすべてそろっているという
レーニンの命題から出発した。
 一国での最初の社会主義建設の可能性にかんするレーニンの教義を具体化するにあたって、イ
・ヴェ・スターリンは、この問題の二つの面を区別しなければならないことを した。すな
わち、
国内的な面では――国の内部の諸階級の問題であり、国際的な面では――ソ同盟と資本主義的環
境とのあいだの相互関係の問題である。問題の国内的な面についていえば、ソ同盟の労働者階級
と農民が、自国のブルジョアジーを経済的に克服し、完全な社会主義社会を建設しとげることは、
まったく可能である。しかし、資本主義の包囲が存在するあいだは、資本主義的干渉の危険も、
ソ同盟に資本主義の復活する危険もある。この危険をとりのぞくためには、資本主義の包囲を絶
滅しなければならす、資本主義の包囲の絶滅は、すくなくとも若干の国々におけるプロレタリア
革命の勝利の結果はじめて可能である。トロツキー派は、党の方針に反対行動をとり、それにメ
ンシェヴィキ的・反革命的「永久革命の理論」を対立させた。ブハーリン派は、党の指導方針に
公然と反対行動はとらなかったが、それでも彼らは、資本主義は社会主義へ平和的にうまれかわ
るものだという彼ら一派の「理論」を党の指導方針にこっそりと対立させはじめた。第十四回党
協議会(一九二五年四月)は、公然または隠然の反対派の、降伏主義的「理論」を非難し、ソ同
盟における社会主義の勝利をめざす党の指導方針を確認した。ソ同盟における社会主義の勝利の
問題にかんする党の指導方針は、全党員を拘束する党の法則となった。ジノヴィエフとカーメネ
フは、二心をもって、第十四回大会まで党との闘争を延期して、決議に賛成投票した。彼らは、
レニングラードにおける彼らの支持者をかきあつめて、いわゆる「新反対派」を結成した。
 第十四回党大会(一九二五年十二月)は、国の国民経済復興の総決算をおこない、ソ同盟にお
ける社会主義の勝利をめざす闘争が、党の中心任務であることを決議した。大会は工業化が、国
の経済を社会主義的に変革する決定的な環《かん》であることを指示した。第十四回党大会は、
ソ同盟に
おける社会主義建設の可能性を否定したトロツキー主義的=メンシェヴィキ的「新反対
派」の降伏主義的計画を万場一致で否決し、国の社会主義的工業化と社会主義の勝利のための常
の一般方針を確認した。大会の決定にはつぎのようにしめされている。「 ##経済## 建設の領域
では、本大会は、われわれの国、プロレタリアートの独裁の国が、『完全な社会主義を建設しと
げるために必要なすべてのもの』〔レーニン『協同組合について』、邦訳第一三分冊三二一ペー
ジ〕をもっていることから出発する。大会は、ソ同盟における社会主義建設の勝利のための闘争
はわが党の妹本的な任務であると考える。」〔ソ同盟共産党(ボ)決議案、第二部、七版、一九
五三年、七五ページ〕第十四回大会は、新しい党規約を確認した。第十四回大会以来、ロシア共
産党(ボ)は、ソ同盟共産党(ボリシェヴィキ)――ヴェ・カ・ペ(ボ)――とよばれるように
なった。
 大会でうちやぶられたジノヴィエフ派は、党に服従せず、第十四回大会の決定にたいする闘争
を開始した。反対派の犯罪的な、反ボリシェヴィキ的な性格を、レニングラードの党組織に説明
するために、大会代議員の一グループである同志ヴェ・エム・モロトフ、エス・エム・キーロフ、
力・イェ・ヴォロシロフ、エム・イ・カリーニン、ア・ア・アンドレエフーその他が、レニング
ラードに派遣された。レニングラード党組織のメンバーの圧倒的多数の大衆(九七%以上)は、
第十四回党大会の決定を完全に容認し、反党的なジノヴィエフ派の「新反対派」を非難した。
 社会主義的工業化のための闘争の時期(一九二六―二九年)に、ソヴェト人民は、大きな国内
的困難を克服して、新しい技術の基礎のうえに全国民経済を再武装させるに適した重工業の基礎
をつくりだすことを保障した。この緊急な国民経済の課題の解決のために主要な注意がむけられ、
そこに主要な力と資金がむけられた。ツァーリのロシアにはなかったいくたの工業部門が新規に
建設された。大十月社会主義革命の結果、地主や資本家を徴発したことと、生産手段を全国民の
財産にしたことは、工業の発展のための社会主義的蓄積の強力な源泉をつくりだした。国家のあ
らゆる富源を動員したのち、ソヴェト権力は、工業にたいする巨額の投資を保障し、そのことが、
新規の大企業を建設し、古い企業を再建する可能性をあたえた。資本主義諸国は、ソ同盟の社会
主義経済の強化を、資本主義体制の存在にとっての脅威であるとみた。だから、資本主義諸国は、
国際情勢を紛糾させることによって、ソ同盟にたいするスパイ活動と牽制活動を強化することに
よって、国の工業化をありとあらゆる方法で挫折させ、あるいは阻止しようとした。国内では、
トロツキー派、ジノヴィエフ派、その他以前に粉砕された反党グループの残党は、その破壊的・
分裂的な活動をつよめた。一九二六年の夏、彼らは、裏切的、トロツキー派=ジノヴィエフ派反
党ブロックに合同し、反レーニン的・反革命的地下党の基礎をすえ、そうすることによって、分
派の結成を禁じた党規約と党大会の決定に乱暴にも違反した。トロツキー派=ジノヴィエフ派の
ブロックを思想的・組織的に壊滅させなければ、社会主義的工業化の勝利はけっしてえられなか
ったのである。第十五回党協議会(一九二六年十―十一月)と第七回コミンテルン執行委員会拡
大総会(一九二六年十一―十二月)は、その決定のなかで、ブロックの支持者は、メンシェヴィ
キの立場に転落した分裂主義者であるときめつけた。第十五回大会の三ヵ月まえに、党中央委員
会は、全党的な討論を告示した。党は満場一致でブロックの政綱を否認した。トロツキー派とジ
ノヴィエフ派に賛成投票したのは、党員の一%以下であった。一九二七年十一月十四日に、中央
委員会と小央統制委員会の合同会議は、反党的行動のかどでトロツキーとジノヴィエフを党から
除名した。
 軽蔑すべき降伏主義者を粉砕し、しりそげたのち、共産党は、社会主義建設の大業を継続した。
すでに一九二七年の末ごろに、党の政策の決定的な成功が確定した。そのことは、工業の分野に
おける社会主義の勝利がまえもってきまったことを意味した。国の社会主義的工業化は、あらゆ
る国民経済の強力かつ全面的な発歴の基礎をすえ、そのことによって、勤労者の物質的・文化的
生活水準のゆるぎない発展を保障した。農業、とくに穀作農案は、事情が異なっていた。農業全
体としては戦前の水準をこえていたとはいえ、農業の主要部門である穀作農業の生涯総額は、戦
前の水準の九一%を占めるにすぎず、穀物生産額の商業的部分は、かろうじて戦前の水準のほぼ
三七%に達していた。小農経営を、堤業に機械技術と農業技術を適用することのできる社会主義
的大経営に統合する道に立つことが必要であった。
 一九二七年の十二月にひらかれた第十五回全同盟共産党(ボ)大会は、農業の社会主義的発展
の道を決定した。レーニンの協同組合計画から出発して、大会は、農業を集団化し、国民経済の
全部門において社会主義的部門を拡大、強化する任務を党に提起した。第十五回党大会は、コル
ホーズおよびソフホーズ網を拡大する計画をたて、農業の集団化のための闘争方法について明瞭
な指示をあたえた。大会は、富農にたいする攻撃をさらにいっそう発展させること、および農村
での資本主義の発展を抑制し、農民経営を社会主義の方向へみちびく、いくたの新しい方策を採
用した。全戦線にわたって資本主義的要素にたいする社会主義の計画的な攻撃を組織することを
念頭において、大会は、国民経済の発展の第一次五ヵ年計画を作成する指令をあたえた。トロツ
キー派とジノヴィエフ派が、思想的にレーニン主義と縁をきり、国際ブルジョアジーと国内ブル
ジョアジーのまえに降伏する道につき、反ソヴェト闘争の道についたことをみとめたのち、大会
は、トロツキー反対派に所属して、その反対派の見解を宣伝することと、ボリシェヴィキ党の陣
列にとどまることは両立しない、と宣言した。大会は、トロツキーとジノヴィエフの除名にかん
するソ同盟共産党(ボ)中央委員会と中央統制委員会の合同会議の決定を承認し、トロツキー=
ジノヴィエフ派ブロックのすべての積極的な活動分子と、「民主主義的中央集権派」の全グルー
プとを、党から除名することに決定した。党によってイデオロギー的に粉砕され、労働者階級の
あいだにおけるいっさいの基盤をうしなったトロツキー派は、政治的潮流ではなくなり、政治的
ぺてん師の無原則的な立身出世主義的徒党へ、政治的二心者の徒党へ、強化してしまった。
 第十五回大会の決定を遂行しながら、党は富農にたいする決定的な攻撃にうつった。その攻撃
のなかで、党は、貧農にかたく依拠しながら、中農との同盟を強化しつつ、営農にたいして断固
たる闘争をおこなうというスローガンを実行した。富農が公定価格で余剰穀物を国家に売ること
をこばむのにこたえて、党とソヴェト政府は、富農にたいして一連の非常手段を講じ、反抗をう
ちやぶった。
 一九二八年に、ドンバスのシャフチ地域で、帝国主義諸国家と連絡をもった、ブルジョア技術
専門家の大きな妨害者団体が摘発された。党中央委員会は、シャフチ事件から教訓をひきだすよ
う全党組織に提案した。中央委員会の決定によって、高等技術専門学校で青年技術専門家を養成
する仕事が改善された。新しい、ソヴェトのインテリゲンツィアのカードルを養成するために、
数十人の党員や、共産主義青年同盟員や、労働者階級の大業に忠誠な非党員が、学習に動員され
た。
 一九二八―二九年に、党が富農にたいする攻撃にうつるとともに、ブハーリン、ルイコフ、ト
ムスキー、すべての右翼日和見主義グループは、公然と党の政策に反対した。右翼の資本主義復
興者は、富農にたいする非常手段の撤回を要求した。党と人民の警戒をよわめる目的で、右翼日
和見主義者は、激烈な階級闘争によって階級は消滅し、階級敵の抵抗は、社会主義の成果の増大
する程度にしたがって大きくなる、というレーニン主義の有名な命題に反対した。レーニン主義
に反して、彼らは、日和見主義的な「階級闘争消滅理論」を説教した。ブハーリン=ルイコフの
反党的グループが、トロツキー=ジノヴィエフのブロックとちがっていたのは、ただ形のうえだ
けであり、ブハーリン=ルイコフのグループは、その降伏主義的な素顔に仮面をかぶせる可能性
をもたず、公然と、仮面なしに反動勢力を擁護せざるをえなかった、という点である。一九二九
年のはじめに、右翼降伏主義者は、ひそかにトロツキー派とむすびつき、彼らといっしょに反党
的共同闘争のための協定を作成した。党は、イデオロギー的に右翼日和見主義者を粉砕し、党内
における富農の手さきとして彼らをばくろした。一九二九年のソ同盟共産党(ボ)中央委員会十
一月総会は、右翼の見解を宣伝することと、党内にとどまることとは両立しないものとみとめた。
トロツキー主義と右翼日和見主義を粉砕することなしには、ソ同盟で社会主義が勝利する可能性
はなかっただろう。
 内外の敵の攻撃をうまく撃退すると同時に、共産党は、重工業の建設を展開し、ソフホーズと
コルホーズを建設し、社会主義競争を組織し、国民経済第一次五ヵ年計画の採用と実現に必要な
諸条件を準備するために、大活動をおこなった。第十六回ソ同盟共産党(ボ)協議会(一九二九
年四月)は、国民経済発展の第一次五ヵ年計画を採用した。これは、ソ同盟の工業と運輸と農業
を近代技術で装備する雄大な計画であった。協議会は、右翼降伏主義者によって擁護されつつあ
った五ヵ年計画の「最小限」案を否認し、五ヵ年計画の「最上」案を、どんな条件のもとでも実
施すべきものとして採用した。第十六回協議会は、社会主義建設の共産主義国方式である社会主
義競争の展開にかんする全勤労者あての呼びかけを採用した。党の呼びかけにこたえて、労働者
やコルホーズ員は、活動のみごとな模範をしめした。彼らは、党と政府によってたてられた計画
を遂行したばかりではなく、さらに超過遂行した。社会主義競争は、大衆的性格をもっていた。
一九二九年は、社会主義建設のあらゆる戦線における偉大なる転換の年であった。党は、労働の
年産性の分野で決定的な転換をおこなった。社会主義的工業化のもっとも困難な任務の一つであ
る重工業建設のための資金を蓄積する任務は、だいたいにおいて解決された。農業発展の根本的
な転換もおこなわれた。大衆的コルホーズ運動があらしのように発展しはじめ、コルホーズに中
農がはいってぎた。
 農業の集団化をめざす闘争の時期(一九三〇―三四年)に、共産党は、権力獲得後の社会主義
革命のもっとも困難な歴史的任務、すなわち、何百万という所有者的農民経営をコルホーズの道
へ移行させるという任務を実行した。生産関係が生産力の性格にかならず照応するという客観的
経済法則に依拠して、共産党は、農村における古い、ブルジョア的経済体制から、社会主義的コ
ルホーズ体制への移行を実行に移した。
 一九二九年の末に、コルホーズとソフホーズの発展にともなって、党は、富農を抑圧する政策
から、全面的なコルホーズ化にもとづいて階級としての富農を絶滅するという政策へ急角度の転
換をおこなった。このころまでに、ソ同盟には、階級としての富農を絶滅し、富農の生産をコル
ホーズとソフホーズの生産によってとりかえるための物質的基礎ができていた。農業の集団化は、
共産党のそれまでのすべての活動、すなわち、国の社会主義的工業化の徹底的な実行、富農との
断固とした闘争、農業協同組合の成長、最初のコルホーズとソフホーズの経験、労働者階級と農
民の同盟の強化によって準備された。農兼の集団化はへその結果からみて一九一七年の十月の革
命的変革に匹敵する深刻な革命的変革であった。この変革の特異性は、幾百万の農民大衆のがわ
からの下からの広範な支持のもとに、国家権力のイニシアティヴによって、上からおこなわれた
ところにあった。農業の集団化は、社会主義建設の三つの根本問題を解決した。すなわち、もっ
とも数の多い搾取階級である富農階級、すなわち資本主義復活の防塞を絶滅した。国内でもっと
も数の多い勤労者階級としての農民階級を、資本主義の生みだす個人経営の道から、社会主義的
な経営の道へうつした。農業における社会主義の基地をつくりだした。こうすることによって、
資本主義復活の最後の根源は国の内部で絶滅され、社会主義の建設にとって必要な新しい決定的
条件がつくりだされた。農業における古い生産関係を新しい生産関係によってとりかえたことは、
生産力の発展に見通しをあたえ、農業の急速な高揚を可能にした。
 一九三〇年一月五日のソ同盟共産党(ボ)中央委員会の決定、「集団化のテンポとコルホーズ
建設にたいする国家の援助方策とについて」のなかで、コルホーズ制度の勝利にむけられた党の
政策は強化された。決定のなかでは、ソ同盟のいろいろな地区の集団化のいろいろなテンポがき
められ、コルホーズ運動の主要な形態は農業アルテリであるという重要な指令があたえられた。
党中央委員会は、トラクター・コンバイン〔自動刈取打穀機〕、その他の農業機械を生産してい
る工場の建設をさらにいっそう促進することを必要とみとめた。
 集団化の政策を実行しながら、共産党は、党によってきめられた集団化のテンポの破壊、コル
ホーズ建設における自由意志の原則の違反、アルテリをとびこえたコンミューンへの飛躍等々に
あらわれた党の方針の「左翼的」歪曲を克服するための大きな活動をおこなった。これらの歪曲
は、党のとった農業集団化の方針を失敗させるおそれがあり、これらは、ソ同盟にたいするあら
たな干渉の計画をいだいていた帝国主義者とその手さき――右翼日和見主義者とトロツキー派を
有利にした。党中央委員会は、党方針の歪曲にかんする警報に接して、おかした誤りを訂正する
道に党幹部を転換させた。中央委員会の決定によって、イ・ヴェ・スターリンの論文『成功によ
る幻惑』(一九三〇年)が発表された。この論文は、党諸組織をたすけてその誤りを是正させた。
ゆきすぎと誤りを訂正する仕事を徹底させるために、党中央委員会は、一九三〇年三月十五日に、
「コルホーズ運動における党方針の歪曲にたいする闘争について」という決定を発表した。中央
委員会は、「左翼的」ゆきすぎの実践は、階級敵を直接に援助するものであることを指示し、党
方針の歪曲にたいする断固たる闘争をおこなう能力のない活動家、もしくはそうすることを欲し
ない活動家を、その地位から更迭させることを提案した。党は、コルホーズ運動における党方針
の歪曲を絶滅することができ、コルホーズ運動の新しい強力な発展のための地盤がつくりだされ
た。党が階級としての富農を絶滅する政策にうつることによって、資本主義的要素にたいする攻
撃は全般的な性格をおびた。
 第十六回党大会のころには、国内には復興され再建された社会主義工業とソフホーズおよびコ
ルホーズの発展した制度があり、社会主義部門は、全国民経済の経済的槓杆をその手中におさめ
ていた。このことは、ソヴェト同盟が社会主義の時期にはいったことを意味していた。
 一九三〇年の六―七月にひらかれた第十六回ソ同盟共産党(ボ)大会は、全戦線にわたる社会
主義の広範に展開された攻撃の大会として歴史にのった。大会は、社会主義建設の戦闘的テンポ
を今後においても確保し、五ヵ年計画を四ヵ年で成功裡に遂行しおわることを中央委員会に委任
した。工業の分野では、第十六回大会は、重工業を全面的に発展させ、ソ同盟の東部に新しい石
炭・冶金業の基地を創設するといる指令をあたえた。農業の分野では、大会は、コルホーズ建設
をいっそう発展させる必要のあることを指示し、一九三〇年一月五日の中央委員会の決定「集団
化のテンポとコルホーズ建設にたいする国家の援助方策とについて」を承認した。大会は、右翼
的偏向の富農的本質をばくろし、右翼的見解とソ同盟共産党(ボ)に所属していることが両立し
ないことを宣言し、あらゆる毛色の日和見主義ともっとも容赦ない闘争をおこなうよう党によび
かけた。
 第一次五ヵ年計画の遂行は、国民経済の全部門を新しい近代技術の基礎として改造することを
要求した。技術が決定的な意義をもつようになった。党は、「改造期には技術がすべてを決定す
る」というスローガンを提起した。改造期における技術の役割にたいする共産党員=経済活動家
の過小評価、技術の習得の意義の過小評価は、新しい技術を基礎として国民経済を再建する事業
を多くの点でさまたげた。国民総済の全部門への技術の導入とならんで、党は、労働者と農民の
なかから新しい、ソヴェト的な生産技術インテリゲンツィアをつくりだす任務を提起し、生産の
技術的指導の問題にたいして、共産党員=経済活動家に正しい態度をとらせることにつとめた。
農村では、共産党はこの時期に、コルホーズを組織的・経済的・政治的に強化するための闘争、
コルホーズから敵対的・富農的要素を一掃するための闘争を展開した。一九三三年一月に、ソ同
盟共産党(ボ)中央委員会は、機械トラクター・ステーション付属の政治部を組織する決定を採
択した。政治部で活動するための一万七〇〇〇名の党活動家がコルホーズ援助に農村へ派遣され
た。政治部は、二ヵ年(一九三三―三四年)のあいだに、コルホーズを強固にするために大きな
活動をおこなった。コルホーズ員=突撃隊の第一回全ロシア大会(一九三三年二月)は、コルホ
ーズ員大衆の活動力をコルホーズ強化のための闘争にひきあげるのに大きな意義をもっていた。
 大きな困難にうちかちながら、共産党のまわりに結集したソヴェト人民は、四年三ヵ月でそれ
を遂行して、第一次五ヵ年計画を成功裡になしとげた。第一次五ヵ年計画の遂行の成果として、
ソ同盟は農業国から工業国になった。社会主義的緒済体制は、工業における唯一の経済体制とな
り、農業における支配的体制となり、ソ同盟における失業は永久に根絶され、人間による人間の
搾取は根絶され、勤労者の物質的地位の不断の改善と文化的水準の向上のための諸条件がつくり
だされた。第一次五ヵ年計画の総決算は、ソ同盟における社会主義社会の建設が可能であること
を実際にしめした。
 一九三四年の一―二月にひらかれた第十七回ソ同盟共産党(ボ)大会は、勝利者の大会として
歴史に記載された。大会は、経済と文化の全部門にわたる社会主義の決定的成功を強調し、党の
一般方針が完全に勝利したことを確認した。イ・ヴェ・スターリンが大会でおこなった中央委員
会の報告演説のなかで、国民経済の分野と党およびソヴェト建設の分野における今後の具体的な
政綱があたえられた。大会は、思想的=政治的活動を強化し、敵階級およびレーニン主義に敵対
する潮流のイデオロギーとイデオロギーの残りかすを組織的にばくろすることを提案した。党と
政府の決定の実行の点検を改善するために、第十七回大会は、中央統制委員会と労農監督局のか
わりに、ソ同盟共産党(ボ)中央委員会付属党統制委員会とソ同盟人民委員会議付属ソヴェト統
制委員会とを創設した。第十七回大会では、国民経済発展の第二次五ヵ年計画が確認された。そ
れは、資本主義的要素を根こそぎ絶滅し、経済と人間の意識のなかにある資本主義の残りかすを
克服し、最新の技術にもとづいて全国民経済の再建を完成し、新しい技術と新しい企業に習熟し、
農業を機械化し農業の生産性を高めることを党に提起していたソ同盟における社会主義建設を完
成するための計画であった。大会は、新しい党規約を採択した。
 ソヴェト国で社会主義が成功したことは、うちまかされた搾取者階級の残党を憤激させ、これ
らの階級のお先棒であるトロツキー派とブハーリン派のみじめな残党を狂気のようにおこらせた。
一九三三―三四年には、外国の諜報部の仕事をおこなっていたファシズムの雇人であるトロツキ
ー=ブハーリンの地下的な、合同した一味が結成された。一九三四年には、ブルジョアジーのい
やしむべき雇人たちは、共産党およびソヴェト国家のすぐれた活動家であるエス・エム・キーロ
フにたいする兇悪な暗殺を遂行した。中央委員会は、党諸組織に手紙をおくり、政治的不注意を
根絶し、警戒心を高めるよう全党員によびかけた。絶大な意義をもっていたのは、一九三三年か
らはじめられた、異分子の党の陣列からの粛清と、一九三五―三六年の党籍書類の点検と交換で
あった。自分の陣列を粛清し、中央委員会のまわりにさらにいっそう緊密に結束して、共産党は、
新しい段階へ、社会主義社会の建設の完成へ移行した。
 社会主義社会の建設を完成し、ソ同盟の新憲法を施行するための闘争の時期(一九三五―三七
年)に、共産党に指導されたソヴェト人民は、ソ同盟の産業と農業をいっそう高揚させ、第二次
五ヵ年計画を期限前に遂行し、人民の福祉と文化をいっそう高揚させた。新憲法の施行にもとづ
いて、国の全政治生活の民主化がおこなわれた。
 ソ同盟の産業は、一九三七年の末までに、戦前の水準にくらべて七倍以上増大した。生産の技
術と産業発願のテンポにおいて、ソ同盟は、主要な資本主義国を追いこした。国の国民経済には、
第一級の技術が供給されることになった。ソ同盟は、自国の経済と国防の必要にたいしてあらゆ
る必要な技術的装備を保障する、経済的に独立した国にかわった。ソヴェト国家の国防能力はい
ちじるしく増大した。第二次五ヵ年計画が成功裡に遂行された結果、ソ同盟では、ソヴェト社会
の経済的基礎としての、全国民経済における生産手段の社会主義的所有が確立した。人間による
人間の搾取、搾取者と被搾取者への社会の分化を生みだす原因は絶滅された。農業の集団化と再
建は完成され、コルホーズ制度は決定的に確立された。コルホーズ制度の確立を促進したものは、
一九三五年三月のコルホーズ員突繋隊第二回大会で採用された農業アルテリ規約であり、またコ
ルホーズによって開墾されるすべての七地を当該コルホーズの永久の用益として確認したことで
あった。社会主義の勝利の基礎のうえに、ソヴェト社会の強力な原動力である、ソヴェト人民の
道徳的・政治的統一、諸民族の友好、ソヴェト的愛国主義を強化した。国内では、真の文化革命
が遂行され、自国の人民のインテリゲンツィアがつくりだされた。人民の物質的福祉は根本的に
改善された。労働者と事務員の実質賃金は、第二次五ヵ年計画のあいだに二倍以上増加した。普
通義務教育制が施行された結果、人民大衆の文化水準はいちじるしく高まった。新しい技術的基
礎のうえに工業と農業の再建が完成された条件のもとでは、技術を体得したカードルの問題が、
第一義的な意義を得るようになった。党は全組織の注意を、技術を身につける能力のある多数の
カードルを養成するための活動をあらゆる方法で強化するほうにむけた。この第一義的な任務を
解決するうえで大きな意義をもっていたのは、一九三五年に共産党によって提案された「カード
ルがすべてを決定する」というスローガンであった。ソヴェトの人々が新しい技術を習得し、労
働の生産性をいっそう高める明瞭なあらわれは、スタハノフ運動であった。この運動は、社会主
義競争と、自分の技術を完全に習得した新しい人間の競争の、新しい、より高い段階を意味して
いた。生産革新者の運動は、労働者が、社会主義から共産主義へ移行するため、また精神労働と
肉体労働との対立を廃止するために必要な、労働生産性のより高度の指標に到達することのでき
る道をひらいた。
 党およびソヴェト人民の偉大な、歴史的勝利は、一九三六年十二月五日に、第八回ソ同盟臨時
ソヴェト大会で採択されたソ同盟の新憲法のなかで認証された。憲法草案は、イ・ヴェ・スター
リンを議長とする憲法委員会によって作成された。憲法のなかに、ソヴェト人民の生活に生じた
深刻な変化が表現された。
 ソヴェト同盟の人口の階級的構成は変化した。すなわち、すべての搾取階級は絶滅されたので
ある。労働者階級、農民、インテリゲンツィアの地位に深刻な変化が生じた。国家権力をにぎり、
生産手段を社会的所有に変えたプロレタリアートは、ことばの本来の古い意味でのプロレタリア
ートではなくなり、新しい、搾取から解放された労働者階級にかわった。地主と資本家の搾取か
ら解放された農民は、農村におけるソヴェト制度の強固な基盤であるコルホーズ農民になった。
その大多数が労働者や農民の出身であるインテリゲンツィアは、人民に奉仕し、あらゆる搾取か
ら解放されている。選挙制度のいっそうの民主化と、秘密投票による普通・直接・中等の選挙権
の制定へ移行する可能性がつくりだされた。ソ同盟における新憲法の施行は、国の政治的生活の
転換となった。新しい選挙制度は、大衆の政治的活動を強化した。憲法は、ソヴェト同盟が新し
い発展期にはいり、社会主義の建設を完成し、共産主義に漸次的に移行する時期にはいったとい
う、世界史的な意義をもつ事実を認証した。
 ソ同盟の社会主義建設は、ヴェ・イ・レーニンの遺訓を実行したものであり、共産党の偉大な
組織し指導する活動、党の賢明な指導のおかげであり、心を一つにして党の政策を支持している
労働者、農民、インテリゲンツィアの英雄的労働のたまものである。
 新しい条件のもとにおける勤労大衆の政治的指導は、党諸組織の実践活動における民主主義的
中央集権の原則の完全な実行を要求した。ソ同盟最高ソヴェトの選挙のための党組織の準備にか
んする、ソ同盟共産党(ボ)中央委員総会(一九三七年二―三月)の決定は、党諸組織が、展開
された党内民主主義を基礎として党活動をたてなおし、すっかり準備をととのえてむかえるよう
にした。この決定は、選挙カンパニアの発端となった。一九三七年十二月七日に、党中央委員会
は、すべての選挙人あてに、全員一致をもって共産党員および非党員のブロックの候補者に投票
するようよびかけた。新憲法による一九三七年のソ同盟最高ソヴェトの選挙および一九三八年の
同盟共和国の最高ソヴェト選挙は、ソヴェト人民の道徳的=政治的統一のいっそうの発展、労働
者と農民の同盟のいっそうの強化、ソ同盟の諸民族の偉大な友好、ソヴェト国家と社会制度の強
化をしめした。ソヴェト人民は、共産党と非党員ブロックに全員一致で投県し、全世界のまえに、
共産党にたいする献身的な忠誠と党との団結を実証した。ソヴェト憲法は、大きな国際的意義を
もっていた。資本主義諸国の勤労者にとって、ソヴェト憲法は、ブルジョア反動にたいする闘争、
民主主義と社会主義のための闘争の偉大な綱領となった。
 一九三七―三八年には、裁判がおこなわれた。裁判の審理は、トロツキー=ブハーリン派の徒
党の新しい犯罪をあばきだし、人類のこれらのかすどもが、すでに大十月社会主義革命の最初の
ころから、党とその指導者ヴェ・イ・レーニンにたいし、ソヴェト国家にたいして陰謀をたくら
んでいたことをしめした。自分たちの帝国主義の意志を遂行するにあたっては、彼らは、党とソ
ヴェト国家を破壊し、国防を毀《き》損し、外国の干渉を容易にし、ソ同盟を分割し、ソ同盟に
資本主義的奴隷制を復活させることをその目的とした。ソヴェト裁判所は、ソヴェト全人民の意
志をあらわして、ブハーリン=トロツキー派の無頼漢に極刑を宣告した。ソヴェト人民は、ブハ
ーリン=トロツキー派の徒党の壊滅を承認して、さらにいっそう緊密に共産党のまわりに結束し
た。
 戦前の時期(一九三八年―一九四一年六月)に、共産党は、社会主義建設の成功的な完成と共
産主義への漸次的移行のための、国民経済発展の第三次五ヵ年計画の実行のための、ソヴェト人
民の闘争を指導した。党とソヴェト政府は、あらゆる手段をつくして攻勢防禦を強化しつづけた。
 ソ同盟で国民経済の高揚がつづいているとぎに、資本主義諸国では、一九三七年の後半にはじ
まった経済恐慌が、資本主義のあらゆる矛盾を尖鋭化した。経済恐慌は、すでにはじまった帝国
主義戦争の時期に突入した。二つの主要な侵略国家であるドイツと日本は、戦争を勃発させた。
集団的安全の原則を拒否して無干渉の立場に移行したイギリスとフランスの支配グループの政策
は、侵略を鼓舞し、戦争を拡大させ、戦争を世界戦争に転化させることを意味した。この政策は、
アメリカの帝国主義者によって鼓吹された。アメリカの資本家は、数十億ドルに達する借款をド
イツにあたえて、ドイツ経済に巨額の資金を投資した。ドイツが経済的にたちあがるのを援助す
るにあたって、アメリカ合衆国とイギリスは、ソヴェト権力を打倒し、ソ同盟に資本主義を復活
させる目的で、ドイツをソヴェト同盟に敵対させようと考えていた。首尾一貫して平和政策をお
こないながら、共産党とソヴェト政府は、国防能力をいっそう強固にし、赤軍と赤色海軍の戦闘
準備を強化する方策をとった。
 経済的・文化的建設の課題を成功裡に解決し、平和愛好的対外政策を遂行するためのソヴェト
人民の闘争の先頭に立って、共産党は、思想活動を新しい段階に高め、ボリシェヴィズムの習得
にかんするスローガンを提起した。一九三八年に、党中央委員会によって承認された『ソ同盟共
産党(ボリシェヴィキ)小史』が出版された。この書の出版は、ソ同盟共産党の思想生活におけ
る最大の出来事であった。党の思想活動全体の改善にとって大きな意義をもっていたのは、「『
ソ同盟共産党(ボ)小史』の出版に関連する宣伝の決定について」という一九三八年十一月四日
のソ同盟共産党(ボ)中央委員会の決定であった。そのなかで、宣伝活動の内容と方法が決定さ
れた。決定のなかで、『ソ同盟共産党(ボリシェヴィキ)小史』が、ボリシェヴィズムを習得し、
党員をマルクス=レーニン主義理論、すなわち社会発展の法則と政治闘争の知識で武装させるも
っとも重要な手段であり、党員および非党員ボリシェヴィキの政治的警戒心を高める手段であり、
マルクス=レーニン主義の宣伝の仕事を適当な理論的高さにまで高める手段であることが指示さ
れた。決定のなかで、党史は、人物やその伝記についてではなく、マルクス=レーニン主義思想
の発展にもとづいて説明する必要がある、というもっとも重要な指示があたえられ、マルクス=
レーニン主義理論の宣伝形式と方法がさだめられた。ソ同盟共産党(ボ)中央委員会の決定を実
行しながら、党諸組織は、党の宣伝を建てなおし、改善した。
 一九三九年三月にひらかれた第十八回ソ同盟共産党(ボ)大会は、ソヴェト人民の世界史的勝
利の総決算をおこなった。第十八回大会は、社会主義社会の建設をやりとげ、社会主義から共産
主義へと漸次に移行する道へソヴェト社会を前進させる計画をきめた。それは全党の統一と強固
さ、中央委員会をめぐる党の団結の偉大な証明であった。ソ同盟共産党(ボ)中央委員会の活動
にかんするイ・ヴェ・スターリンの報告演説を討議したのち、大会は、中央委員会の政治方針と
実践活動を承認し、全党機関にたいして、報告演説のなかで提案された命題と任務にしたがって
その活動をするよう提案した。対外政策の分野において、大会は、つぎのような党とソヴェト政
府の任務をさだめた。すなわち、平和政策および、すべての国との実務的関係の強化の政策を断
固としておこなうこと。対外政策に用心をおこたらないこと、そして、戦争挑発者が、ソ同盟を
紛争の渦中にひきずりこむのをゆるさないこと。赤色陸軍および赤色海軍の戦闘力を、手段をつ
くして強化すること。諸国民間の平和と友好に関心をもっている、万国の勤労者との国際親善関
係をつよめること、がそれであった。国内政策の分野では、大会は、党とソヴェト人民に主要な
経済的任務をあたえた。すなわち、今後ここ一〇―一五年のうちに、経済関係において主要資本
主義諸国に追いつき、追いこし、労働者、農民、インテリゲンツィアの物質的状態を改善し、文
化水準を高めるために、工業のいっそうの高揚を展開すること。国内の政治生活の民主主義化を
徹底的に実現すること。ソヴェト社会の精神的=政治的統一とソ同盟の諸民族の友好を強化し、
ソヴェト愛国主義を発展させること。資本主義的包囲を心にとめ、社会主義的諜報機関をつよめ、
人民の敵な粉砕すること、がそれである。大会は、党をいっそう強化し、党の構成員を改善する
任務を決定した。党内活動の分野では、カードルの研究、登用、選択、教育、彼らの理論的水準
の向上という任務が大会によって決定された。
 党中央委員会の活動にかんする報告演説のなかで、イ・ヴェ・スターリンは、資本主義諸国家
の発展段階を分析し、歴史的情勢と、ソヴェト人民に課せられた諸任務の変化にともなう国家機
能の変化を分析して、ソヴェト社会主義国家を、あらゆる方法で強化することが必要なことを強
調した。第十八回大会は、一九三八―四二年におけるソ同盟の国民経済発展の第三次五ヵ年計画
を確認した。計画では、工業および農業生産額をいっそう増大し、勤労者の物質的・文化的水準
をいっそう高めることが予定され、国民の消費を一倍半以上高める任務があたえられた。大会は、
社会主義から共産主義へ漸次移行し、共産主義の建設者である人々の意識のなかにある資本主義
の残りかすを克服する場合の勤労者の共産主義的教育の決定的な意義を強調した。ソ同盟共産党
(ボ)の新規的が、大会で確認された。
 第十八回大会の決定にもとづいて、ソヴェト人民は、共産党の指導のもとに、ソ同盟の経済力
と国防力をいっそうつよめるための巨大な活動と、国民経済発展の第三次五ヵ年計画を成功裡に
遂行するための闘争を展開した。第十八回党大会の決定の実行は、国に攻勢防禦の準備をさせ、
ヒトラー・ドイツと帝国主義日本を壊滅させるうえに顕著な役割をはたした。
 共産党とソヴェト政府の正しい対外政策と民族政策は、一九三九年に、西部ウクライナと西部
べロロシアの諸民族を、ポーランドの地主と資本家から解放した。これら諸民族は、ソヴェト・
ウクライナとソヴェト・ベロロシアにふたたび合同して、ソ同盟の自由な諸民族の単一の兄弟の
ような家族に結集した。このように共産党とソヴェト政府は、単一の国家にふたたび合同すると
いう諸民族の長年の希望を実現したのである。一九四〇年の夏、沿バルト海ソヴェト共和国――
リトワニア、ラトヴィア、エストニアが、ソ同盟の構成国になった。アメリカ合衆国、イギリス、
フランスの協力のもとに、フィンランドの反動グループによってしかけられた戦争の終結したの
ちに締結されたフィンランドとの講和条約の結果、北西部のソ同盟の国境は強化され、一九四〇
年には、カレリア自治ソヴェト社会主義共和国はカレロ・フィン・ソヴェト社会主義共和国とあ
らためられた。モルダヴィアとブコヴィナはふたたびソ同盟に合併され、モルダヴィア自治ソヴ
ェト社会主義共和国は、モルダヴィア・ソヴェト社会主義共和国とあらためられた。
 ソヴェト人民は、共産党の指導のもとに、国民経済発展の第三次五ヵ年計画を成功裡に遂行し
た。一九四一年二月に、第十八回全ソ同盟党協議会がひらかれた。党協議会は、社会主義工業と
運輸のいっそうの発展に主要な注意を集中し、一九四〇年度の経済的総決算をおこない、一九四
一年度のソ同盟国民経済発展の計画を審議した。工業と運輸の分野における党諸組織の任務にか
んするゲ・エム・マレンコフの報告にもとづいて、協議会は、大きな成功を強調すると同時に、
工業と運輸における一連の重大な欠陥を指摘し、これらの欠陥の原因をあかるみに出し、それら
をとりのぞく方法をさだめた。協議会は、工業と運輸の必要と利益について最大限の配慮をはら
う面に断固として注意をむけかえる任務を党にあたえた。協議会は、社会主義建設のいっそうの
発展とソヴェト国家の国防力の強化を特徴としていた。一九四一年の二月に、ソ同盟共産党(ボ
)中央委員会と人民委員会議は、銑鉄、鋼鉄、燃料、電力、機械、その他の生産手段、消費物資
の人口ひとりあたりの年産高において主要資本主義国を追いこすという、第十八回党大会によっ
て提起された主要な経済的任務から出発して、一五ヵ年間のソ同盟の一般経済計画の作成にとり
かかることを、ソ同盟国家計画委員会に依頼した。
 党の作成した、国の社会主義的工業化と農業集団化の計画を成功裡に実行した結果、ソヴェト
人民は、戦前の五ヵ年計画の期限前に、ソ同盟をおくれた農業国から強力な工業・コルホーズ国
にかえることができた。一九四一年までに、ソ同盟の強力な経済的基地がつくられた。それは、
国の攻勢防禦に利用することができた。鋼鉄の生産高は、一九二五年から一九四〇年までのあい
だに、約一〇倍増加し、戦前の一九四〇年には、一八三〇万トンに達した。採炭量は一六五二万
トンから一億六六〇〇万トンに増加した。トラクター、自動車、航空機、工作機械、その他のも
っとも重要な工業部門が新設された。
 ソヴェト人民の平和的・創造的な労働は、ソヴェト同盟にたいするヒトラー・ドイツの突然の
背信的な攻撃によって中断された。一九四一年六月二十二日に、ファシスト・ドイツの軍隊は、
ソヴェトの領土に侵入した。平和建設の時期はおわり、ドイツ・ファシストの侵略者にたいする
ソヴェト人民の祖国解放戦争の時期がはじまった。
 ソヴェト同盟の大祖国防衛戦争の時期(一九四一―四五年)に、共産党は、社会主義祖国の自
由と独立を擁護し、大十月社会主義革命の成果を擁護するためにソヴェト人民をたちあがらせ、
敵にたいする世界史的勝利にみちびいた。
 ソヴェト同盟にたいするファシスト・ドイツの戦争は、ドイツ軍にとって有利な条件のもとで
開始された。ファシスト・ドイツは、不意に、背信的にソ同盟を攻撃した。攻撃の瞬間までに、
ドイツ軍は先全に動員され、西欧で戦争をおこなった経験をもっていた。ソ同盟の国境には、フ
ァシストの一七〇個師団が集中されていたが、ソヴェト同盟のほうでは、国境には少数の掩護部
隊しかいなかった。数のうえでまさった敵の勢力と技術の圧迫をうけて、ソヴェト軍は、たたか
いながら国の奥ふかく退却することを余儀なくされた。ソヴェト司令部は、ソヴェト軍の決定的
な反撃準備(一九四一年六月―一九四二年秋)と結合した積極的防禦戦術を実行にうつした。共
産党に指導されるソヴェト政府は、帝国主義的侵略者に抵抗するために、人民を組織した。
 敵に抵抗するために国民の全勢力を急速に動員する目的で、ソ同盟最高ソヴェト幹部会、ソ同
盟共産党(ボ)中央委員会、ソ同盟人民委員会議は一九四一年六月三十日に、イ・ヴェ・スター
リン(議長)、ヴェ・エム・モロトフ(議長代理)、力・イェ・ヴォロシロフ、ゲ・エム・マレ
ンコフを構成員とする国家防衛委員会(ゲ・カ・オ)の創設にかんする決定を採択した。その後、
ア・イ・ミコヤン、エリ・エム・カガノヴィチ、エヌ・ア・ブルガーニンが委員会の構成員にく
わえられた。国家防衛委員会は、国のすべての軍事的・政治的・経済的指導をその手中に統合し
た。党は、軍備に主要な活動をむけ、ゲ・エム・マレンコフ、ヴェ・エム・モロトフ、エヌ・エ
ス・フルシチョフ、カ・イェ・ヴォロシロフ、ア・ア・ジダーノフ、エヌ・ア・ブルガーニン、
エリ・エム・力ガノヴィチ、ア・イ・ミコヤン、ア・ア・アンドレエフ、ア・エス・シチェルバ
コフ、エヌ・エム・シヴェルニク、その他のすぐれた政治家をソヴェト経済の重要な分野の首位
においた。
 党とソヴェト政府によって作成された、ドイツ・ファシストにたいするソヴェト国民の闘争計
画は、一九四一年六月三日に、イ・ヴェ・スターリンの演説のなかで述べられた。イ・ヴェ・ス
ターリンは、ヒトラー・ドイツの犯罪的計画をばくろし、ドイツ・ファシストの侵略者にたいす
るソヴェト国民の戦争が、正義の戦争であり、解放戦争であることをあきらかにし、戦線にたい
する全面的な支援を組織し、銃後を強化することの必要性を指示し、敵の背後におけるパルチザ
ン戦とソヴェト陸軍の軍事行動とを結合するよう国民によびかけた。
 共産党とソヴェト政府は、すべての活動を戦闘体制に再編成する一連の方策を実行し、すべて
を戦線の利益と、敵の撃滅を組織する任務に従属させた。国は単一の戦闘陣営にかえられた。全
産業は、軍需品の生産にきりかえられ、軍需および民需工業のソヴェト同盟東部地区への移転が
組織された。一三〇〇以上の大企業と数百万の人々が、東部に撤収した。国の背後の奥ふかくに、
防衛的意義をもった新しい工場の建設が展開された。運輸は、戦時ダイヤに移行した。農業は、
戦時の困難(数百万のはたらき手の軍隊への動員、トラクター、自動車、馬匹の減少)にもかか
わらず再建され、戦線と国に十分な食糧を供船した。党中央委員会は、工業と農業の活動の根本
的な改善にむけられた、いくたの方策を実行した。ヒトラー軍によるドンバスの一時的占領にと
もなって、クズネッツ炭田とカラガンダ炭田が、工業と運輸への供給にとって決定的な意義をも
つようになった。党は、これらの炭田における採炭の増大を組織するための決定的な方策をとっ
た。一九四二年の九月に、ソ同盟共産党(ボ)中央委員会は、クズバスおよびカラガンダ炭田地
区における党活動の改善にかんする決定をおこなった。中央委員会は、すべての党=大衆活動を
再編成するうえで、採炭の増加が、党諸組織のあらゆる活動のなかで主要なものになるよう、ク
ズバスおよびカラガンダ炭田地区の党組織に援助をあたえた。コルホーズにおける労働規律を高
揚し、農業生産を改善する仕事で大きな役割をはたしたのは、コルホーズ員の最低義務労働日の
ひきあげと、都市および農村の労働可能人口のコルホーズ、ソフホーズ、機械=トラクター・ス
テーションの農業労働への動員順位にかんするソ同盟人民委員会議およびソ同盟共産党(ボ)中
央委員会の決定(一九四二年)であった。共産党およびソヴェト政府の巨大な組織活動と、労働
組合、共産主義青年同盟、その他諸組織の支援の結果、国の経済の戦時体制への移行は、もっと
も短期間に成功裡に実行された。準備され、急速に成長しつつある戦時経済が創設された。それ
は、軍事力を物質的に確保する基礎となり、ヒトラー・ドイツにたいする軍事力の勝利の主要な
条件の一つとなった。戦争末期には、ソヴェト工業は、開戦当初よりも数倍多くの兵器を生産し
た。コルホーズとソフホーズは、間断なく住民とソヴェト軍には食糧を、工業には原料を供給し
た。
 党諸組織は、戦線では英雄的偉業にソヴェト戦士を鼓舞し、戦争の意義と目的を説明し、祖国
にたいする愛と敵にたいする憎悪とをやしなった。共産党員と共産主義青年同盟員は、社会主義
祖国の自由と独立のための献身的な闘士の戦闘に立っていた。ソヴェト軍には、あらたな補充が
おこなわれた。第一線の都市や地方では、国民兵が編成された。党は、敵の背後にパルチザン運
動を組織した。一時敵に占領されたソヴェトの領土では、地下の党および共産主義青年同盟の組
織がつくられ、ソヴェト・パルチザンが行動を開始した。大祖国防衛戦争の時期に、ソヴェト人
民は、よりいっそう共産党とソヴェト政府のまわりに団結し、結集した。
 共産党とソヴェト政府の賢明な対外政策は、第二次世界戦争中に、反ヒトラー連合の創設を確
保した。ヨーロッパとアメリカのさまざまなグループは、ソ同盟にたいするドイツの攻撃にたい
してさまざまな態度をとった。アメリカ合衆国とイギリスの支配グループは、戦争がおわるころ
に、自国の利益になるように世界を再分割するため、ソ同盟とドイツを弱体化させようとした。
米英の支配グループは、ソ同盟に資本主義を復活させ、ソ同盟を自国の植民地に変えようと考え
ていた。イギリスおよびアメリカ国民の圧倒的多数は、ソ同盟の味方であり、ヒトラー・ドイツ
にたいする共同闘争のために、ソ同盟との連合をのぞんでいた。こうした事情によって、アメリ
カ合衆国およびイギリス政府は、英・ソ・米反ファシスト連合を創設しなければならなくなった。
ソヴェト同盟の自由と独立をめざすソヴェト国民の戦争は、独立と民主主義的自由をめざすその
他諸国民の闘争と合流した。ソ同盟を孤立化させようとするヒトラー一味の考えは完全に失敗に
帰した。ドイツ・ファシズムによって奴隷化された諸国民は、ファシストの桎梏から解放される
ことを期待して、ほっと一息つき、ヒトラーが二つの戦線のあいだで頭の骨を折るだろうと判断
した。
 一九四一年の秋ごろには、ソヴェト国にとってとくに困難な事態が生じた。敵は、ウクライナ
の大部分、白ロシア、モルダヴィア、リトワニア、ラトヴィア、エストニア、その他の多くの州
を占領した。十月には、莫大な損害をうけながらもドイツ人は、モスクワ攻撃の血路をひらくこ
とに成功した。首都防衛計画とモスクワ付近におけるドイツ軍の撃滅計画が、ソヴェト総司令部
によって作成され、実行にうつされた。一九四一年十月に、ソヴェト軍は、ドイツ軍に壊滅的な
打撃をあたえ、ドイツ軍を逃走させ、いたるところで四〇〇キロ以上西部に前進した。モスクワ
を包囲し占領しようとするヒトラーの計画は失敗した。モスクワ付近におけるドイツ軍の壊滅は、
戦争第一年目の決定的な軍事的事件であり、第二次世界戦争におけるドイツへの最大の敗北であ
った。ドイツ軍が不敗だという神話は永久にふきとばされてしまった。ドイツ・ファシストのソ
同盟にたいする雷撃戦の計画は完全に失敗した。
 一九四二年の夏、ヨーロッパに第二戦線がないのを利用して、ドイツ人はすべての予備軍をソ
独戦線に投入し、南西部に多数の車隊を集結した。ドイツ・ファシスト軍は、ソヴェトの戦線を
やぶって、スターリングラードに近づくことに成功した。ドイツ軍の目的は、東部からモスクワ
を包囲し、ヴォルガおよびウラルの背後地からモスクワを遮断し、そのあとでモスクワに攻撃を
くわえることにあったが、この目的は、適当なときにソヴェト司令部にみやぶられてしまった。
一九四二年十一月十九日に、ソヴェト軍は、スターリングラード地区で攻勢にうつった。短期間
にソヴェト軍は、三三万人のドイツ侵略者の軍隊を粉砕し、一部を殲滅し、一部を捕虜にした。
これは大戦史上もっとも輝かしい勝利であった。スターリングラードの敗北は、ドイツ・ファシ
スト軍の終末であった。スターリングラードの戦闘の時期に、主導権をその手ににぎった赤軍は、
攻撃作戦をつづけた。ソヴェト国からの敵の大量の追放が開始された。
 一九四三年は、大祖国防衛戦争における根本的な転換であった。クールスク地区でソヴェト軍
を殲滅し、モスクワを攻撃することを目的にしていたドイツ・ファシスト可令部の計画は、崩壊
した。すなわち、ソヴェトは打撃に耐え、やがてみずから攻撃に転じ、一九四三年八月には、オ
リョール、ベルゴロドの諸都市を占領した。クールスク付近の戦闘は、ドイツ軍を破局に瀕せし
めた。パルチザンは、ソヴェト軍に大きな支援をあたえた。パルチザンは、ドイツ人の交通を破
壊し、ファシストの将兵を粉砕しながら、党諸組織の指導のもとに、ドイツ人の背後で積極的に
行動した。一九四三年は、ソヴェト同盟の祖国防衛戦争における転換の年であったばかりではな
く、世界戦争の将来の経過をいっそう変化させてしまった。ソヴェト軍の勝利は、ソ同盟の国際
的地位をさらにいっそう強化した。一九四三年十一月三十八日―十二月一日に、テヘランで連合
三大国――ソ同盟、大英帝国、アメリカ合衆国の指導者会談がおこなわれ、そこで対独戦争にお
ける共同行動と戦後における三大国の協力にかんする宣言が採択された。一九四三年は、ソヴェ
トの銃後の活動においてもまた転換の年であった。一九四三年には、ソ同盟の工業は、一九三九
年の水準を凌駕した。チェリャビンスクとウズベック・ソヴェト社会主義共和国では、新しい冶
金工場が活動を開始し、タギルとマグニトゴルスクでは、新設の熔鉱炉が陣列にくわわり、スタ
ーリンスクでは、新設のアルミニューム工場が活動を開始し、チェリャビンスク、スターリンス
ク、その他の場所では、新設の発電所が活動を開始した。戦博における労働者階級、コルホーズ
農民、ソヴェト・インテリゲンツィアの献身的な努力は、戦線におけるソヴェト戦士の戦功とな
らんで、祖国防衛の比類ない功績として歴史に記戦された。
 共産党とソヴェト政府は、すでに戦時中、ソヴェト軍によって解放された諸地区の国民経済の
復興に大きな注意をはらっていた。一九四三年八月に、ソ同盟人民委員会議とソ同盟共産党(ボ
)中央委員会は、「ドイツ人の占領から解放された諸地区における経済の復興にかんする緊急方
策にかんする」決定を採用した。決定は、ドイツ人の占領から解放された諸地区の経済の急速な
復興の保障と住民にたいする援助にむけられた一連の方策をあらかじめ準備していた。
 一九四三年のソヴェト軍の成功と銃後におけるソヴェト国民の英雄的事業は、大祖国防衛戦争
におけるソヴェト同盟のいっそうの勝利を準備した。一九四四年は、ソヴェト軍の決定的勝利の
年となった。ソヴェト軍隊は、一〇回にわたって敵に壊滅的な打撃をあたえ、その結果ドイツ・
ファシスト軍隊は、ソヴェト国土の境界から駆逐され、軍事的行動は、ドイツとその共犯者の領
土にうつされた。ソヴェト軍の勝利は、ファシスト・ブロックを完全な崩壊にみちびいた。ルー
マニア、ブルガリア、フィンランド、ハンガリアは、ヒトラー・ドイツと手をきり、ヒトラー・
ドイツに宣戦し、連合軍の戦線にくわわった。すでに一九四九年の夏ごろには、ソヴェト同盟は、
大英帝国やアメリカ合衆国の援助がなくても、自力で全ドイツを占領し、フランスの解放を実現
する状態にあることがあきらかだった。この事情は、英・米の帝国主義者をして、一九四四年の
六月に、西欧への侵入をくわだてさせた。しかし、北部フランスに上陸しても、連合国は、ドイ
ツ・ファシスト軍にたいする攻撃作戦はとらなかった。それは、ヒトラー軍の主力が、ソ独戦線
にとどまっていたからである。成功した戦闘行動の結果、一九四四年に、ソヴェトの国土を完全
にドイツ・ファシストの侵略者から解放しおえたソヴェト軍はまた、ルーマニア、ポーランド、
チェコスロヴァキア、ハンガリア、ユーゴスラヴィア、アルバニアの諸国民が、ファシスト奴隷
制の鎖をたちきり、民族の独立を復活するのをたすけた。
 一九四五年一月、ソヴェト軍は、バルト沿岸からカルパチアにいたる全戦線にわたって、かつ
てない強力な打撃を敵にあびせかけた。ドイツ人の強力な防禦は、一、二〇〇キロメートルにわ
たって突破され、ソヴェト軍は、頑強にたたかいながら、ドイツの奥ふかく進撃した。一九四五
年五月二日に、ベルリンは占領され、五月八日に、ドイツは降伏した。ソヴェト政府は、一九四
五年五月九日を全国民の祝典の日――勝利の祝日として布告した。
 一九四五年九月に、ソヴェト軍は、帝国主義日本との戦争を勝利をもっておわった。ソヴェト
軍は満州、南樺太、北朝鮮、千島列島を日本人から解放した。一九四五年九月二日、ロ本の政府
と軍部の代表者は、東京で無条件降伏文書に調印した。第二次世界戦争の終結がおとずれたので
ある。
 ヒトラー・ドイツと帝国主義日本の殲滅に決定的な役割を演じたのは、ソヴェト同盟とその兵
力であった。共産党の指導をうけたソヴェト国民は、その献身的な闘争によって、社会主義と民
主主義の強力な支柱であり基地であり、ファシスト隷属化の脅威からヨーロッパとアジアの諸国
民をすくったソヴェト同盟の自由と独立をまもった。第二次世界戦争の結果、好戦的な国際ファ
シスト反動の主要な勢力は粉砕され、長いあいだには戦列からはなれるにいたった。この点に、
人類にたいするソヴェト国民の偉大な功績がある。
 戦争は、ソヴェト国家のあらゆる物質力と精神力の厳しい試練であり、ソヴェト国家の強固さ
と生命力の点検であった。共産党によって方向をあたえられ、指導されているソヴェト国家は、
よく試錬に耐え、戦争から脱却してますます強固になった。
 大祖国防衛戦争におけるソヴェト同盟の勝利は、ソヴェト社会体制の勝利を意味した。大十月
社会主義革命によって生みだされたソヴェト社会主義体制は、国民に偉大な、うちかちがたい力
をあたえた。ソヴェト同盟の勝利は、ソヴェト国家体制と社会主義多民族国家が勝利したことを
意味した。戦争は、ソヴェト国家の強化にむけられた党の政策の正しさと、レーニン=スターリ
ンの民族政策の正しさとを証明した。ソ同盟の諸民族の友好は、戦争のあらゆる困難と試練に耐
え、ファシスト侵略者にたいする闘争のなかでさらにいっそううちきたえられた。ロシア国民は、
大祖国防衛戦争中に、国のすべての民族のあいだにおけるソヴェト同盟の指導力であることを一
般的にみとめられた。諸民族友好のソヴェト的イデオロギー、全人種と民族の同権のイデオロギ
ーが、残忍な民族主義や人種的憎悪のファシスト的イデオロギーにうちかったのである。したが
って、ソヴェト国民は、ヒトラー・ドイツにたいする軍事的・経済的勝利を得たばかりではなく、
ヒトラー・ドイツに道徳的=政治的敗北をもあたえたのである。祖国防衛戦争中に、ソヴェト社
会の原動力である道徳的=政治的団結、労働者階級と農民の同盟、諸民族の友好、ソヴェト愛国
主義を強化し、きたえた。祖国防衛戦争は、ソヴェト国民が、奇蹟をつくりだし、もっとも困難
な試練に耐えて勝利者となる能力のあることをしめした。ソヴェト人の労働および軍事上の功績
の源泉となったのは、ソヴェト愛国主義であった。その力は、自分の祖国にたいする国民の深い
信服と忠誠にあり、その根底には、全民族の相互の友好、諸民族の民族的伝統とソ同盟の全勤労
者の全般的な生活の利益との調和した結合がある。
 祖国防衛戦争におけるソヴェト同盟の勝利は、ソヴェト兵力の勝利と、先進国なソヴェト軍事
科学の勝利を意味した。党は、ソヴェト軍の指導要員をつくりだす問題をみごとに解決し、戦時
に新しい軍事要員が党によって養成され、抜擢された。軍事要員が先進的軍事科学を習得したこ
とによって、ソヴェト兵力は、ファシスト・ドイツにおびただしい壊滅的敗北をこうむらせ、ヒ
トラー軍とその同盟軍を完全な壊滅にみちびいた。戦争は、ソヴェト軍が、近代的な装備と経験
にとんだ指揮官と高度な道徳的・戦闘的性質とをもった第一級の軍隊であることをしめした。ソ
ヴェト同盟の軍隊は、国民とわかちがたいものである。ソヴェト国民の精神力とその道徳的・政
治的団結は、ソヴェト戦士の軍人としての勇気となってあらわれた。ソヴェト軍は、戦争にたい
する自己の確信と、ヒトラー・ドイツにたいする戦争で、自分の祖国の自由と孤立を擁護してい
るという意識によって強化された。敵撃滅の巨大な功績は、国民の復讐者――ソヴェト・パルチ
ザンのものである。
 ヒトラー・ドイツにたいする戦争で、ソヴェト国民か勝利を得たのは、共産党が、長期間にわ
たって、国にたいして積極的防衛の準備をととのえたおかげである。戦前の時期に、党は、帝国
主義の諜報部の雇人であるトロツキスト、ブハーリン一味、その他の人民の敵の敵対行為をたち
きって、断固として国の工業化と農業の集団化政策を実行に移し、国の生産力をいちじるしく発
展させた。開戦の瞬間までに、ソヴェト同盟は、大体において軍事的要求をみたすに必要な物質
的条件をもっていた。戦争は、資本主義経済にたいする社会主義経済のはかりしれない優越性を
しめした。戦時中ソヴェト同盟は、戦線の需要をみたした、整然とした、急速に発展しつつある
戦時経済をもっていた。戦前の時期に、党の指導をうけて、労働者と農民出身のインテリゲンツ
ィアがつくられ、工業では多数の技師、抜手、熟練工、農業ではコンバイン手、トラクター手、
技手の幹部が養成された。技術的に教育された幹部がいることは、工業を急速に兵器の生産に転
換し、短期間に数百万の軍隊を展開させる可能性を党にあたえた。党は、国内のすべての反ソヴ
ェト勢力をひきつける中心部であったトロツキー=ブハーリン一味の地下活動を壊滅し、党およ
びソヴェト諸組織から国民の敵を一掃することによって、ソ同盟に「第五列」のあらわれるいっ
さいの余地を適時になくし、国を積極的に防衛するために政治的に準備した。
 平和的建設ならびに戦争の時期に、ソヴェト国民を指導する力となり、方向をあたえる力とな
ったのは共産党であった。大祖国防衛戦争中に、党は、ファシスト侵略者にたいする全国民的闘
争の鼓舞者、組織者として行動した。党の組織活動は、ソヴェト人のすべての努力を一つにむす
びつけ、共通の目的にむかわせ、国のすべての勢力と資金を敵撃滅の大業に従属させた。戦時に
は、党はさらにいっそう国民と親密になり、いっそつ緊密に広範な勤労者大衆とむすびついた。
党は、戦線で大きな損害をこうむったが、戦争の期間中に、党の構成人員は、一六〇万人あまり
もふえた。入党してきたものは、ソヴェト陸海軍の戦士の陣列のなかの、労働者階級、コルホー
ズ農民、ソヴェト・インテリゲンツィアの先進的代表者のなかのもっとも強固なソヴェト人たち
である。共産党の統一と団結こそは、大祖国防衛戦争でソヴェト国民が勝利した決定的な条件で
あった。大祖国防衛戦争のもっとも困難な試練の時期に、党は、その陣列内に動揺や不和をしら
ない、単一の戦闘組織として行動した。戦争中に、ソ同盟共産党の団結は、党中央委員会のまわ
りにいっそう強化された。
 戦後の時期(一九四六―五三年)に、共産党は、ソ同盟の国民経済の復興といっそうの発展の
ための、社会主義から共産主義への漸次的移行のための、全世界における平和の維持と諸国民間
の友好の強化のためのソヴェト国民の闘争の先頭に立った。
 第二次化界戦争は、多くの国民と国家の生活を根底からゆすぶり、世界のすがたをかえ、公国
際情勢を本質的に変化させた。第二次世界戦争とファシズムの壊滅の結果、中央ヨーロッパおよ
び南東ヨーロッパの一連の国々が、帝国主義体制から離脱した。ポーランド、チェコスロヴァキ
ア、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリア、アルバニアの諸国民は、ソヴェト同盟の援助をより
どころにして、社会主義社会の建設にとりかかった。外国の桎梏と反動的国民党一味の権力をな
げすてた大中国人民の歴史的勝利は、世界の帝国主義体制に重大な打撃をあたえた。植民地や従
属諸国では、民族解放闘争のあらたな高揚がはじまった。ソ同盟の国際的意義と権威は、はかり
しれないほど増大した。戦争の総決算として、国際舞台における勢力のあらたな配置が形づくら
れた。アメリカ合衆国を先頭とする帝国主義的・反民主主義的陣営と、ソ同盟を先頭とする反帝
国主義的・民主主義的陣営の二つの陣営ができた。第二次世界戦争とその経済的結末のもっとも
重要な成業は、単一の、全体を包含する世界市場の崩壊である。民主主義国・反帝国主義的陣営
の諸国は、経済協力と相互援助をおこなった。この協力の根底には、相互にたすけあい、全般的
な経済的高揚を得たいという衷心からの欲求がある。アメリカ合衆国を先頭とする帝国主義陣営
は、まったく反対の光景を呈している。アメリカ帝国主義は、いまや、諸民族の国際的な搾取者
および征服者として行動しているばかりではなく、他の資本主義諸国の経済を破壊する力となっ
ている。アメリカ合衆国の独占資本は競争相手の弱まりを利用して、戦後、世界資本主義市場の
いちじるしい部分をうばいとった。アメリカ合衆国の侵略政策は、アメリカ=イギリス侵略ブロ
ックのがわかちの新戦争の脅威を生んでいる。
 あらたな世界戦争の脅威が増大するにつれて、すべての国々をとらえた全国民的な平和擁護運
動が展開された。原子兵器の禁止にかんするストックホルム・アピールに五億以上、五大国間の
平和条約の締結要求に六億以上の人々が署名した。諸民族は、平和擁護の大業に着手している。
ソ同盟共産党の指導のもとに、ソヴェト国家によって実行されている一貫した平和政策は、恒久
平和をめざす世界の反動とファシズムとの闘争の大業にたいする、ソ同盟のまわりにすべての進
歩的勢力を結集する大業にたいする巨大な貢献である。
 ソ同盟共産党とソヴェト政府は、第二次世界戦争がおわると、ひきつづき永続的な恒久平和の
確保と国際的協力関係の発展とをめざす対外政策をとっている。戦後、ソ同盟は、自国の武装力
をいちじるしく削減し、中国、朝鮮、ノルウェー、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィア、ブ
ルガリアなど、ファシスト侵略者にたいする作戦の進行中にソヴェト軍が派遣された領域から自
国の軍隊をひきあげた。一九五一年三月十二日に、ソ同盟最高ソヴェトは、平和擁護法を採択し、
戦争宣伝を人類にたいするもっとも重い犯罪であると宣言した。
 国際情勢とソ同盟の国内情勢のいっそうの強化の新しい条件のもとで、共産党は、共産主義建
設という大任務を断行するために、国民の勢力をさらにいっそう結集した。一九四六年二月十日
にひらかれた、戦後最初のソ同盟最高ソヴェトの選挙は、党、ソヴェト政府、国民の団結の強化
のあきらかなデモンストレーションであった。選挙の前夜、一九四六年二月二日に、党中央委員
会は、全選挙人への呼びかけのなかで、共産党員と非党員のブロックという選挙綱領を提案した。
選挙には、選挙への九九・七%が参加した。同盟ソヴェトの党員と非党員のブロックの候補者に
は九九・三四%が投票し、民族ソヴェトの候補者には九九・一七%が投票した。一九四六年のソ
同盟最高ソヴェトの選挙と、一九五〇年の同盟共和国最高ソヴェト、自治共和国最高ソヴェト、
地方ソヴェトの選挙における党員と非党員のブロックの輝かしい勝利は、ソヴェト社会の道徳的
=政治的統一がいっそう強化されたことを意味した。
 ソ同盟最高ソヴェト第一回会議(一九四六年)で、一九四六―五〇年のソ同盟国民経済の復興
と発展の五ヵ年計画にかんする法律が採択された。戦後の第一次五ヵ年計画の主要な任務は、占
領によって損害をうけた国の諸地方を復興し、工業と農業の戦前の水準を回復し、その水準を上
まわることにあった。計画によると、国民大衆の物質的・文化的水準をいっそう高め、国民所得
の水準を戦前に比較して三〇%以上高めることになっていた。ソヴェトの人々は、熱狂して五ヵ
年計画の採択をむかえ、その実行にとりかかった。計画のもっとも重要な任務は、期限前に遂行
された。ソ同盟の工業は、五ヵ年計画を四年三ヵ月で遂行した。農業もあらたな高揚を達成した。
すなわち、一九五〇年には、穀物の総収穫高は、一九四〇年の水準を上まわった。鉄道運輸は、
五ヵ年計画の期間中に、運輸における国民経済の増大しつつある需要をみたした。一九五〇年の
国民所得は、一九四〇年に比較して六四%増加した。勤労者の文化=生活施設にたいする支出は
いちじるしく増大し、住宅建設が広範に展開された。国民経済五ヵ年計画の遂行と、国の経済の
発展において達成された成果は、ソヴェト国家に、強大な発電所、航行用ならびに灌漑用運河の
建設という新しい、重要な国民経済の任務の実行に着手する可能性をあたえた。
 共産党とソヴェト国家は、コルホーズの組織的=経済的強化に大きな注意をはらった。戦後の
最初の数年間に、一連の州では、労働時間のまちがったつかいかた、コルホーズの共有地の占有、
コルホーズ財産の着服、農業アルテリ管理部の民主主義的基礎の破壊となってあらわれた重大な
農業アルテリ規約の違反が生じた。ソ同盟閣僚会議と党中央委員会は、「コルホーズにおける農
業アルテリ規約違反の一掃にかんする諸方策について」(一九四六年九月十九日)という決定の
なかで、規約違反の犯罪的事実を非難し、その事実を、コルホーズの事業にとって有害な、国の
すべての社会主義建設にとって危険なものであるとみとめた。農業アルテリ規約遵守の監督をお
こなう諸方策が、党と政府によって採択された。一九四七年二月に、ソ同盟共産党(ボ)中央委
員会総会は、「戦後における農業高揚の諸方策について」という決定をおこなった。そのなかで
は、農業の早急な復興と高揚の諸方策がしめされていた。農業生産力のいっそうの高揚にとって
大きな意義をもっていたのは、コルホーズの拡大である。一九五〇年一月一日現在の二五万四〇
〇○の小コルホーズに変わって、一九五二年十月までに、国内では九万七〇〇〇の人コルホーズ
があった。農業の分野では、大コルホーズを組織的・経済的に強化するという当面の主要な任務
が党諸組織にあたえられた。党とソヴェト政府は、農業に新しい技術を装備することに大きな注
意をはらった。戦後には機械=トラクター・ステーションには、ディーゼル・エンジンをそなえ
た新式の、いっそう改善されたキャタピラー・トラクター、自走コンバイン、草刈機、甜菜コン
バイン、亜麻コンバイン、棉花採集機、その他の機械類が多数補充された。
 戦後、共産党とソヴェト政府は、ソヴェト国民の物質的・文化的水準を向上させるためにたた
かいつづけた。工業と農業の復興が成功したために、はやくも一九四七年には、食料品や工業製
品の切符制度を廃止し、通貨改革を実施することができるようになった。そのことは、勤労者の
物質的福祉の向上、国民経済のいっそうの復興と発展、ソヴェト国家の力の強化を促進した。ソ
ヴェト国民の福祉が高まっているおもな指標となるのは、国民所得のたえまない増大である。一
九四〇年から一九五一年までに、ソ同盟の国民所得は八三%がた増加した。食料品と工業製品の
固定価格の一貫した引下げ政策は、労働著と事務員の実質賃金の増加と、工業製品を購入するた
めの農民の支出の節減を保障した。一九四七年から一九五三年までのあいだに、六回にわたって
物価の引下げがおこなわれ、その結果、食料品と工粟製品の価格は、一九四七年にくらべて、平
均して半分以下にさかった。保健と教育にたいする国家支出はいちじるしく増加した。保健にた
いする国家支出は、社会保健費からの支出をふくめて、一九四〇年に一一二億ルーブリであった
ものが、一九五一年には二六四億ルーブリにふえた。同じ時期における教育費は、二二五億ルー
ブリから五七三億ルーブリにふえた。
 戦後、国に課せられた共産主義建設の諸任務は、党のあらゆるイデオロギー活動を断固として
強化し、勤労者の共産主義教育を強化することを要求した。ソ同盟共産党は、指導的な党要員《
カードル》およびソヴェト要員のイデオロギー的養成の問題に大きな注意をはらった。この目的
のために、党学校や講習会の網が再組織された。一九四六年に、ソ同盟共産党中央委員会付属の
高級党学校が、共和国、州、地方の党およびソヴェト労働者を養成するための三年制の高級党学
校に再組織された。高級党学校に付属して、主要な活動を中断することなく理論的に党要員を養
成するために、通信部が創設された。共和国、地方、州の中心部には、一七七の二年制の党学校
と、党労働者を
再養成する一年制講習会がひらかれた。一九四六年には、党の中央諸機関、同盟
共和国共産党中央委員会、ソ同盟共産党地方委員会および州委員会の理論的活動家の要員を養成
し、さらにまた、高級学校の教員、科学研究所および科学雑誌の理論的活動家を養成するために、
社会科学アカデミーが創設された。共産党、ソヴェト国民、国際プロレタリアートの思想生活に
おけるもっとも大きな出来事は、ヴェ・イ・レーニン全集第四版とイ・ヴェ・スターリン全集の
出版であった。
 党活動の思想的・政治的活動の高揚にとって大きな意義をもっていたのは、文学と美術の諸問
題にかんする中央委員会の決定である。これらの決定は、ブルジョア・イデオロギーの残りかす
の不断の克服と、あらゆる種類のイデオロギー的歪曲にたいするボリシェヴィキ的非妥協性とに
むけられた。「雑誌『ズヴェズダ』および『レニングラード』について」(一九四六年)、「ド
ラマ劇場の上演目録とその改善方策について」(一九四六年)、「映画『大いなる生活』につい
て」(一九四六年)、「ヴェ・ムラデリの歌劇『偉大な友情』について」(一九四八年)などの
文学および芸術の諸問題にかんする決定のなかで、党中央委員会は、ソヴェト文学と芸術のなか
に、無思想性と非政治性のゆるしがたい事実を強調した。文学の党派性にかんするレーニンの綱
領的指示から出発して、中央委員会は、一連の方策をたてた。その目的は、ブルジョア・イデオ
ロギーの影響を克服し、文学および芸術の多くの働き手に、戦闘的なソヴェト愛国心の優越性を
確認させ、ソヴェト文学と芸術の党派性をつよめることにあった。党中央委員会は、無思想性・
非政治性の説教を非難し、その説教を、ソヴェト文学とは縁のない、ソヴェト国民や国家の利益
にとって有害なものであるときめた。中央委員会は、文学や芸術の働き手は、自分の創作活動に
おいて、ソヴェト国の生活の基盤となっている党の政策にしたがわなければならない、と指示し
た。科学を
いっそう発展させ、党のイデオロギー活動を高めるうえで大きな役割を演じたのは、
哲学討論会(一九四七年)、ヴェ・イ・レーニン記念全ソ農学アカデミー会議における「生物学
の状態について」の討論会、ソ同盟科学アカデミーおよびソ同盟医学アカデミー合同会議(一九
五〇年)におけるイ・べ・パヴロフの学説問題の討論であった。哲学にかんする討論会では、無
原則性、無思想性、ブルジョア哲学にたいする追従の事実がばくろされた。ソ同盟共産党中央委
員会は、これらの欠陥を一掃する方策をたて、マルクス主義哲学の分野における科学的・理論的
活動のいっそうの高揚を促進する万策をたてた。言語学の諸問題にかんする討論会(一九五〇年
)と経済学の諸問題にかんする討論会(一九五一年)には、イ・ヴェ・スターリンが参加し、多
くの問題で、新しい命題と結論によってマルクス=レーニン主義科学を豊富にした。言語学の諸
問題にかんするイ・ヴェ・スターリンの演説は、著書『マルクス主義と言語学の諸問題』となり、
経済学の諸問題にかんする演説は、著書『ソ同盟における社会主義の経済的諸問題』(一九五二
年)と」なった。
 一九九二年十月に、ソ同盟共産党第十九回党大会がひらかれた。大会は、ソヴェト国民の闘争
と勝利の総決算をおこない、共産主義社会へ漸次移行する途上の国の今後の前進計画を明示した。
大会は、党のやぶれることのない一枚岩のような団結力、党と人民のこのうえなく緊密な統一、
ソ同盟の諸民族を共産主義の勝利へとみちびく党の不動の決意をはっきりと立証した。ソ同盟共
産党(ボ)第十九回大会にたいする中央委員会の活動にかんする報告演説のなかで、中央委員会
書記ゲ・エム・マレンコフは、ソヴェト同盟の国際情勢と国内情勢を深く分析し、対外政策およ
び国内政策の分野における党の任務、党をいっそう強化する任務を定式化した。中央委員会の活
動にかんする報告演説にたいして、大会は、党中央委員会の政治方針と実践活動を満場一致で承
認した決定も採択した。
 大会で決定した対外政策の分野での党の任務はつぎのとおりである。新しい戦争の準備と開始
に反対してたたかいをつづけ、平和な強化するために強大な反戦民主戦線を結集し、全世界の平
和擁護者との友好と同結のきずなをつよめ、新戦争にたいするあらゆる準備をねばりづよくばく
ろすること。すべての国との国際的協力と実務関係の促進を今後もとること。中華人氏共和国、
ヨーロッパ人民民主主義諸国、朝鮮民主主義人民共和国、モンゴール人民共和国とのかたい親善
関係を強化発展させること。大会は、ソヴェト国家の防衛力をたゆみなく強化し、どんな侵略者
にたいしても壊滅的な反撃をあたえるよう準備を高めることの必要性をとくに強調した。
 大会は、国内政策の分野における党の具体的な任務をつぎのようにさだめた。ソヴェト同盟の
社会わよび国家制度、その経済力――社会主義工業のいっそうの高揚を実現し、コルホーズ制度
を強化すること――をひたすら強化しつづけること。大会は、労働者階級とコルホーズ農民の同
盟、ソ同盟の諸民族の統一と友好、ソヴェト陸海軍および情報機関をいっそう強化することの必
要性を指示した。大会は、国民経済のあらゆる部門と行政のあらゆる部門で、もっとも厳重な緊
縮体制を実現することの必要性を確認した。大会は、国民経済のあらゆる部門で成功がとげられ
たために、ソヴェト社会生活の物質的・文化的水準がいっそう高まったことを強調して、ソヴェ
ト国民の物質的福祉と文化水準をいっそうたえまなく高めることを、党とソヴェト国家の主要な
任務の一つとして提起した。大会は、社会主義的生産を発展させる目的が、社会のたえず増進し
てゆく物質的・文化的な諸欲望を最大限にみたすように保障することにあると強調した。社会主
義建設の諸任務を成功裡に遂行する目的で、大会は、先進的ソヴェト科学と勤労者の創意をいっ
そう発展させ、社会主義競争をよりひろく展開することが必要であると指示した。
 エム・ゼ・サブーロフの報告にもとづいて、ソ同盟共産党第十九回大会は、ソ同盟国民経済の
あらたな、力づよい向上を決定し、国民の物質的福祉と文化水準のいっそういちじるしい向上を
保障する一九五一年から五五年にわたるソ同盟発展の第五次五ヵ年計画にかんする指令を確認し
た。第五次五ヵ年計画にかんする指令によれば、工業生産額は七〇%、生産手段の生産額は約八
〇%、消費物資の生産額は六五%増加することになっている。農業の分野では、国内で住民のた
めに十分な食糧を、工業のために原料をつくりだす任務があたえられている。第五次五ヵ年計画
にかんする指令として第十九回大会によって提起された諸任務を実行することは、共産主義にむ
かうソ同盟の新しい巨大な第一歩である。
 党をいっそう強化してゆく面で、大会は、党の質的構成を改善すること、すなわち、党と国民
との血でつながったひきはなしかたい結びつきを日常的につよめることが必要であることを指示
した。大会は、党諸組織と全党員に、一貫して党内民主主義を実行し、批判と自己批判をあらゆ
る方法をつくして展開し、それにもとづいて、党諸機関の活動にたいする党員大衆の点検をつよ
め、党と国家の規律をつよめ、要員の選択、配置、教育における党の原則をまもり、党陣列の統
一と一枚岩のような団結力を維持しつよめるという任務を提起した。大会は、党およびソヴェト
要員の思想的・政治的素養とソヴェト人の共産主義教育を系統的に高め、かつ完成することの必
要性を指示した。第十九回大会は、ソ同盟共産党(ボ)規約改正にかんする中央委員会事記エヌ
・エス・フルシチョフの報告を傾聴し、ソヴェト同盟共産党の新規約を確認した。第十九回大

によって確認された規約のなかで、第十八回大会以後、党が蓄積した巨大な系統的経験が一般化
された。規約は、党のすべての組織活動と党員大衆活動を新しい、よりたかい段階にひきあげ、
党員の身分と意義をさらにいっそう高め、党の大業にたいする各党員の責任を高めている。大会
は、党名変更にかんする決定を採択した。第十九回大会以来、党は、ソヴェト同盟共産党(力・
ペ・エス・エス)とよばれている。大会ではまた、「ソヴェト同盟共産党綱領改正にかんする」
決定が採択された。第十九回党大会は、現在の党綱領が採択された第八回党大会(一九一九年)
以後の時期に、国際情勢にも、ソ同盟の社会主義建設の分野にも根本的な変化が生じ、それにと
もなって、綱領の多くの命題と綱領にのべられた党の諸任務は、この時期にはすでに実行にうつ
され、現情勢や党の新しい任務に適応しなくなっていることを確認した。大会は、ソ同盟共産党
綱領改正委員会を選出した。
 第十九回大会は、ソ同盟共産党の巨大な国際的勢力と権威のあきらかなデモンストレーション
であった。大会には、四四ヵ国の兄弟のような共産党わよび労働者党の代表が出席し、そのあい
さつのなかで、国際共産主義運動の前衛としてのソヴェト同盟共産党にたいする万国の共産主義
者のかぎりない信頼と愛情とを表現した。大会の最終日の会議にイ・ヴェ・スターリンが出席し
た。その演説のなかで彼は、一九一七年以後、友党は、その成功が、資本主義の抑圧のもとにく
るしんでいる諸民族の状態を楽にすることを期待して、ソ同盟共産党に世界革命と労働者運動の
「突撃隊」の名称をあたえたことを強調した。ソ同盟共産党は完全にこの期待にそった。イ・ヴ
ェ・スターリンは、資本主義諸国の共産党、労働者党の活動の状態を分析した。
 ソヴェト同盟共産党に鼓舞されたソヴェト国民は、ソ同盟共産党第十九回大会によって提起さ
れた偉大な任務の実行にとりかかった。ソ同盟における共産主義建設の成功は、党とすべてのソ
ヴェト国民をとらえたこのうえもなくひどい損害によってくもらされた。一九五三年三月五日、
軍病ののちに、ソ同盟閣僚会議議長、ソヴェト同盟共産党中央委員会書記イ・ヴェ・スターリン
は死去した。この悲しみの日に、ソヴェト同盟の全国民は、兄弟のように団結して、共産党の経
験にとんだ指導のもとに、いっそう緊密に大家族のなかに結集した。
 一九五三年三月九日に、モスクワの赤い広場で、ヨシフ・ヴィッサリオーノヴィチ・スターリ
ンの葬儀がおこなわれた。ソ同盟閣僚会議議長ゲ・エム・マレンコフは、葬儀における演説のな
かで、共産党中央委員会とソヴェト政府の名において、ソ同盟共産党、党の陣列の団結、党と国
民とのさくことのできない結びつきをいっそうつよめ、社会主義国家を倦むことなく、全面的に
つよめるという任務を提起し、共産主義社会の建設という巨大な任務を実行するために自分の力
を動員するようすべてのロシア人によびかけた。ソ同盟閣僚会議議長第一代理ヴェ・エム・モロ
トフは、葬儀で演説をおこなった。その演説のなかで彼は、ソヴェト政府が、今後も平和を維持
し強化する政策をとるであろうことを強調した。
 民主主義および社会主義陣営の勢力のうごかしがたい成長は、一方では、帝国主義陣営の勢力
をよわめたが、他方では、反動的帝国主義勢力とその代弁者の破壊活動を尖鋭化させた。帝国主
義者は、平和、民主主義、社会主義の国際陣営の成長しつつある力、まず第一に、その陣営の指
導的勢力であるソ同盟の力を破壊しようとしている。国際帝国主義の手先たちは、共産主義者の
仮面をかぶって、破壊的・敵対的行動をとるために党の陣列にはいりこもうとこころみたし、ま
たこころみるであろう。党中央委員会は、ふかく仮面をかぶった、党とソヴェト国民の不倶戴天
の敵、国際帝国主義の雇人――ベリヤとその共犯者の破壊活動をばくろした。ソヴェト法廷は、
これら祖国の裏切者、反ソ・反革命陰謀グループの参加者に死刑の判決をくだした。法廷の判決
は、深甚の満足をもってソヴェト国民にむかえられた。
 一九五三年七月にひらかれたソ同盟共産党中央委員会総会は、党および国家機関のあらゆる環
《かん》における指導を強化する決定を採択し、党の指導力が、集団化されており、結合してお
り、一枚岩のように団結していることを強調した。総会は、革命的警戒心をあらゆる手段をつく
して高める必要のあることを指示した。党および全国民は、最大の満足と一致をもって中央委員
会七月総会の決定に賛成した。ソヴェト国民は、さらにいっそう緊密にソ同盟共産党とソヴェト
政府のまわりに結集した。
 一九五三年の七―八月に、共産党、すべてのソヴェト国民、諸外国の共産党および労働者党は、
ソ同盟共産党の五〇周年(一九〇三―五三年)に注意をはらった。党の五〇周年記念日は、ソ同
盟共産党がやぶれることのない力をもち、党とソヴェト国民が、マルクス=レーニン主義の旗の
もとに緊密に団結していることをしめすあきらかなデモンストレーションとなった。
 社会主義から共産主義への漸次的移行の条件のもとで、共産党と、党の指導もうけるソヴェト、
労働組合および共産青年同盟の諸組織は、国の社会主義経済をいっそう高め、第十九回党大会に
よって決定された諸任務を成功裡に遂行するための闘争にソヴェト国民の創造力を組織している。
共産党およびソヴェト政府の政策は、社会主義経済の根本的基礎である重工業をあらゆる方法で、
さらに発展させることにむけられている。それと同時に、ソ同盟では、重工業の発展で達成され
た成果の基礎のうえに、軽工業および食料品工業の急激な高揚を保障し、あらゆる手段をつくし
て農業の発展を促進するためのあらゆる条件がつくりだされた。共産主義建設の時期に、党は、
勤労者大衆の消費資材を生産している国民経済の諸部門の急速な発展にその努力をむけ、ソヴェ
ト人の不断に増大しつつある物質的・文化的需要を最大限に満足させることにつとめている。
 国の社会主義的国民経済の発展とゆるぎない高揚、勤労者の生活の物質的・文化的水準の向上
にむけられた共産党とソヴェト政府の政策は、第五回ソ同盟最高ソヴェト会議(一九五三年八月
)の決定、一九五三年度ソ同盟国家予算にかんする報告、ソ同盟閣僚会議議長ゲ・エム・マレン
コフの演説のなかにはっきりとあらわされている。
 農業生産力をいっそう発展させ、勤労者の物質的福祉を向上させる事業でもっとも重要な意義
をもっているのは、ソ同盟共産党中央委員会第一書記エヌ・エス・フルシチョフの報告にもとづ
いて採択された。ソ同盟農業のいっそうの発展方策について」というソ同盟共産党中央委員会九
月総会(一九五三年)の決定である。総会は、戦後に達成された農業の成果に注意をはらった。
共産党の指導のもとにつくりだされ、強化されたソ同盟の社会主義農業は、強力な工業・技術基
地をよりどころにしており、世界でもっとも大規模な機械化された農業である。それは、小商品
農民経営、さらにまた大規模資本主義農業生産にたいしてもあらそう余地のない優越性を証明し
た。それと同時に総会は、農業の一連の部門、とくに畜産業の分野、コルホーズにおける労働の
組織、農産物の調達組織における重大な欠陥をあかるみにだした。あらゆるボリシェヴィキ的公
明さをもって、総会では、農業発展のテンポが、工業発展のテンポや住民の消費物資にたいする
需要増大のテンポにたちおくれていることを指示した。
 総会は、二、三年間に、国が住民のためには十分な食糧を、軽工業および食料品工業のために
は原料を入手し、それと同時に、コルホーズ農民大衆により高度な物質的福祉の水準を保障する
任務を提起した。この任務を断行するために、ソ同盟ではあらゆる必要な前提――強力な工業基
地、強化されたコルホーズ、経済建設の全分野で養成された要員――がつくられた。
 総会は、農業経営、コルホーズ、ソフホーズ、農業地区のおくれた諸部門を先進的諸部門の水
準にまで高めることにむけられた一連の大規模な方策を実行することが必要かつ緊急なものとみ
とめた。これらの方策のうちでます第一に関係をもっているのは、社会主義的経済運営の主要な
原則の一つである各企業と、自分の労働支出の結果にたいする社会の各成員の物質的関心の原則
を実行することである。総会の決定は、ヴェ・イ・レーニンのつぎのような指示にしたがった。
共産主義への移行期には、経済は、「直接、熱狂によってではなく、偉大な革命によって生みだ
された熱狂のたすけをかりて、個人的利益のうえに、個人的関心のうえに、経済計算のうえにた
って」建設しなければならない。「さもなければ、――ヴェ・イ・レーニンはさらに指示した―
―諸君は幾百、幾十万という人々を共産主義につれてゆけないだろう。」〔レーニン『十月革命
四周年記念日によせて』、本文庫版『平和のための闘争』一七三ページ所収〕それゆえに、個人
的利益が社会的利益に従属しているばあいに、コルホーズ員の社会的利益と個人的利益をただし
く結合するという農業アルテリ規約のもっとも重要な命題を厳格にまもることは、農業生産を高
揚させる必要な条件である。総会は、農業の全部門のいっそうの機械化にかんする一連の具体的
方策をたてた。総会は、党、ソヴェトおよび農業諸機関のがわからのコルホーズ、ソフホーズ、
機械=トラクター・ステーションの指導を決定的に改善し、農村における党・政治活動をあらゆ
る方法で強化し、熟練した要員《カードル》によってコルホーズとソフホーズを強化することを
提案した。総会
の決定のなかでは、機械=トラクタ・ステーションの活動を改善し、コルホーズ
生産の発展における機械=トラクター・ステーションの役割を強化することの必要性が指示され
た。機械=トラクター・ステーションは、コルホーズ制度の工業的・物質的・技術的基盤であり、
コルホーズ生産の発展における決定的な力であり、社会主義国家のがわからのコルホーズ指導の
支掌点である。総会は、機械=トラクター・ステーション活動の全組織を改善し、熟練した要員
《カードル》で機械=トラクター・ステーションを強化する方策を採用し、すでに一九五四年か
ら玉五年までの期間に、機械=トラクター・ステーションの活動のために六、五〇〇人の機械技
師をさしむけ、一九五四年の春までに、コルホーズにサーヴィスするために一〇万人の農業技師
と動物飼育者をさしむける義務を文化省に負わせた。
 ソ同盟共産党中央委員会総会の決定の遂行は、労働者とコルホーズ農民の破壊しがたい同盟を
強化する事業をさらに一歩すすめたものである。
 最近二、三年間に、ソヴェト国民の物質的福祉をいちじるしく高めるという緊急な任務を実行
しながら、共産党とソヴェト政府は、広範な需要をもつ工業製品および食料品の生産を拡大し、
質を改善するための一連の大規模な方策を実行にうつしている。
 党中央委員会とソヴェト政府は、ソヴェト商業をいっそう発展させる方策をたてた。党は、商
業は社会主義のもとで存在しているし、社会主義社会の成員のあいだに消費物資を分配する主要
な形式としてながくのこるであろうし、その手段によって、勤労者の増大しつつある個人的需要
がみたされるであろう、ということから出発している。党は、国営、協同組合、コルホーズ商業
の高揚を保障することを、すべての党、ソヴェト、労働組合諸機関のもっとも重要な任務の一つ
として提起した。
 党中央委員会とソヴェト政府のこれらの諸方策のなかに、ソヴェト国民の福祉についての配慮
がはっきりとあらわれている。

     4 共産党は共産主義を建設しつつあるソヴエト社会を組織し、鼓舞する力である

 ソ同盟共産党は、英雄的な闘争と困難な試練と世界史的な勝利の栄光の道をすすんできた。共
産党は、ソ同盟におけるただ一つの党である。党は、ソヴェト社会における指導的役割を全一的
にになっている。共産党の指導は、ソヴェト社会制度の強固さ、安定性および国民のすべての成
功の決定的条件である。ソ同盟共産党の主要な任務は、社会主義から共産主義への漸次的移行の
道によって共産主義社会を建設し、社会の物質的・文化的水準を不断に高め、社会の成員を国際
主義と、万国の勤労者との兄弟のような結合の確立の精神で教育し、祖国の敵の侵略行動にたい
するソヴェト祖国の積極的防衛をあらゆる手段によって強化することである。
 ソ同盟には、完全な共産主義社会を樹立するのに必要なすべてのものかととのっている。国の
自然富源は無尽蔵である。ソ同盟は、強大な社会主義工業、全面的に発達した重工業をもってい
る。工業化の方針がとられた第十四回党大会以後の二八年間に、工業生産額は二九倍、鋼鉄は二
一倍、石炭は一九倍、電力は四五倍に、それぞれ増加した。この期間に、以前ロシアになかった
トラクター、航空機、自動車、造船、工作機械製造、その他の新しい工業部門が創設された。ソ
同盟の軽工業および食料品工業は、都市と農村の勤労者の増大してゆく欲望をみたすことができ
る。一九五三年の工業生産額は、戦前の一九四〇年の水準を約二・五倍上まわった。最新の先進
的以術を保障されたソフホーズとコルホーズは、すべての農作物の収量と共有畜産の生産性を急
速に高めることができる。党とソヴェト政府は、生産力を発展させ、社会主義の生産的・技術的
基礎を完成し、ソヴェト社会主義制度のなかにかくれている巨大な能力と予備とを利用し、先進
的技術をより完全に、より有効に利用し、社会主義競争をひろく展開し、労働生産性をさらにい
っそう高め、生産原価をひきさげ、生産品の質を高める任務をもっている。 1
 ソ同盟の共産主義社会を建設しているのは、幾百万のソヴェト国民大衆であるが、その創造力
と創造的事業を組織し方向づけているのは、ソ同盟共産党である。党のあらゆる活動は、マルク
ス=レーニン主義のつぎのような基本的な命題から出発している。「歴史的諸事件の規模が大き
ければ大きいほど、ひろければひろいほど、これらの事件に参加する人の数は多いが、反対に、
われわれがおこなおうとしている改革が底のふかいものであればあるほど、ますますその改革に
関心と意識的な態度とをもたせ、新しい数百万、数千万の人々にこのことの必要性を確信させな
ければならない。」〔レーニン『人民委員会の活動報告』、全集第三一巻四六七ページ〕
 社会主義経済の発展の面でおさめたかずかずの成功は、ソヴェト国民の物質的・文化的水準を
いちじるしく高めた。このことは、国民所得のたえまない増加、生活必需品の系統的値下げ、労
働者、事務員の実質賃金および農民所得の増加としてあらわれている。ソヴェト国家は年をおう
て、住宅建設、保健、国民教育への支出をふやしている。科学、文学、芸術の発展についての党
のたえまない配慮によって、形式は民族的で、内容は社会主義的なソヴェト文化がさかえるよう
になった。
 共産主義社会の建設をめざす闘争の強力な武器は、ソヴェト国家であり、この国家の堅固ない
しずえをさすいたのは偉大なヴェ・イ・レーニンである。共産党は、多民族ソヴェト国家をいっ
そう強固にし、労働者階級と農民の同盟、諸民族の友好をかため、ソ同盟の積極的防衛をあらゆ
る手段によって強化することを自分の任務としている。ソヴェト国家の強化は、愛国的責務であ
り、また何時に、ソ同盟勤労者の神聖な国際的義務でもある。
 その対外政策において、党は、社会主義体制と資本主義体制の二つの体制の長期の共存と、平
和的競争が可能であるというレーニンの教えにもとづいている。干渉軍の主力が粉砕されたのち、
ヴェ・イ・レーニンはつぎのように述べた。「いまや、われわれと通商関係をむすばなければな
らなくなっている資本主義列強とならんで存在できる条件をわれわれは確保した。……われわれ
は、息つぎの時期をもっているばかりではなく、また、資本主義諸国の網のなかでのわれわれの
根本的な国際的存在がかちとられた新しい時期をもっている。」〔レーニン『わが国の内外情勢
と党の任務』、全集第三一巻三八四、三八五ページ〕ソ同盟共産党は社会主義経済制度、社会主
義体制の優越性をかたく信じ、ソヴェト社会主義国家の内部の力と、平和、民主主義、社会主義
の全陣営のたえず増大してゆく力をかたく信じている。ソ同盟共産党は、平和、民主主義および
社会主義の強大な陣営をいっそう強化し、大中国国民、全人民民主主義諸国の勤労者とソヴェト
国民との友好と団結をいっそう強化することを自分の神聖な義務と考えている。
 ソ同盟共産党の半世紀の全歴史は、ヴェ・イ・レーニンのつくった党指導の諸原則および党生
活の基準がこのうえなく主要な意義をもっていることをしめした。党は、党建設のこれらの諸法
則をかならずまもり、党指導の最高原則である指導の集団性、党規約の諸要求を厳格にまもるよ
うおしえている。党は、集団的経験、マルクス=レーニン主義理論の科学的基礎と指導要員の広
範なイニシアティヴに立脚している中央委員会の集団的賢明さのみが、党と国の指導のただしさ、
党の陣列の不動の統一と団結、ソ同盟における共産主義の成功的建設を確保するという原則に立
っている。欠陥との闘いで党内民主主義を展開し、集団的指導を改善する強力な手段は、自己批
判と、とくに下からの批判である。党は、大胆に批判と自己批判を展開して、共産党員と全勤労
者の創造的積極性を発展させ、これらの人々の力を現在の欠陥と困難の克服にむけ、共産主義建
設のあらゆる分野で全般的高揚をかちとりつつある。
 党は、共産党員のマルクス=レーニン的教育にとくに配慮している。党員および党員候補の思
想水準のたえまない向上は、生活のあらゆる分野における党員および党員候補の前衛的役割を高
め、党員大衆の積極性を発展させる決定的条件である。マルクス=レーニン主義理論は、教条《
ドグマ》ではなく、行動の指針であるという原則にたって、党は、共産党員にマルクス=レーニ
ン主義の創造的性格を理解し、個々の公式や引用ではなしに、世界を改造するマルクス=エンゲ
ルス=レーニン=スターリンの必勝の革命的教えの真髄を理解するよう要求している。マルクス
=レーニン主義理論を体得することは、革命運動の新しい経験、新しい命題、結論でこの理論を
ゆたかにすることができ、ふるくなった若干の命題や結論を、新しい歴史的条件に適応した新し
い命題や結論ととりかえるということにとどまらず、この理論を発展させ前進させることができ
ることを意味している。
 社会主義から共産主義への漸次的移行の条件のもとで、非常に大きな意義をもっているのは、
勤労者にたいする共産主義教育である。ソヴェト社会では、人々の意識にのこっている資本主義
の遺習が、まだ完全にとりのぞかれていない。ソ同盟にはまた、資本主義の包囲や、民族主義の
遺習をふくめてのブルジョア的な遺習に感染している人々から、われわれとは縁のない見解、思
想、気分がもちこまれる危険がのこっている。共産党は大衆のあいだの政治・教育活動の全事業
を大々的に改善し、共産主義の大業がかならず勝つという信念や、党や社会主義祖国にたいする
献身的忠誠の精神で、共産主義者や全人民を教育することを自分の任務としている。党は、勤労
者をソヴェト愛国心とソ同盟諸民族のやぶれることのない友好の精神、プロレタリア国際主義の
精神で教育し、万国の勤労者との兄弟のような結合を確立することを自分のもっとも重要な任務
と考えている。党は、ブルジョア民族主義のあらわれや、ブルジョア・イデオロギーと断固とし
てたたかっている。
 党は、ソ同盟共産党の独占的地位、とくに資本主義の包囲という条件のもとでの独占的地位は、
階級敵の陰謀にたいしてたかい革命的警戒心をもつよう義務づけていると考えている。ヴェ・イ
・レーニンがいくたびか警告したように、権力をとっている政党にはいろいろな出世主義者がと
りついており、人民の敵――国際帝国主義の手さきが、破壊的敵対活動をやるために、党のなか
にもぐりこもうとしている。それゆえに、ソ同盟共産党は、共産党員および全勤労者の革命的警
戒心をいっそう高めることは、党諸組織の政治・教育活動の重要な任務であると考えている。
 ソ同盟共産党のこのうえもなくゆたかな経験は、国際共産主義運動および労働運動の遺産であ
る。この経験は、プロレタリア革命の勝利、プロレタリアート独裁の勝利は、日和見主義に毒さ
れない、協調主義者や降伏主義者にたいして和解しない、ブルジョアジーとその国家権力にたい
して革命的なプロレタリアートの革命政党なしにはかちえられないことをおしえている。このよ
うな党は、マルクス=レーニン主義の党であり、プロレタリアートにブルジョアジーとの決定的
な闘争を準備させ、プロレタリア革命の勝利を組織し、プロレタリアートの独裁を強化し、共産
主義の建設を保障することのできる社会革命の党である。ソ同盟共産党は、このような党である。


   ソ同盟共産党大会および協議会年表

ロシア社会民主労働党第一回大会 一八九八年三月一日―三日(十三日―十五日)ミンスク
ロシア社会民主労働党第二回大会 一九〇三年七月十七日(三日B)―八月十日(二十三日)ブ
リュッセルとロンドン
ロシア社会民主労働党第三回大会 一九〇五年四月十二日―二十七日(四月二十五日―五月十日
)ロンドン
ロシアにおける社会民主主義諸組織の協議会 一九〇五年九月七日―九日(二十日―二十二日)
リガ
ロシア社会民主労働党第一回協議会 一九○五年十二月十二日―十七日(二十五日―三十日)タ
ンメルフォルス
ロシア社会民主党第四回(統一期成)大会 一九〇六年四月十日―二十五日(四月二十三日―五
月八日)ストックホルム
ロシア社会民主労働党第二回(第一回全ロシア)協議会 一九〇六年十一月三日―七日(十六日
―二十日)タンメルフォルス
ロシア社会民主労働党第五回(ロンドン)大会 一九○七年四月三十日―五月十九日(五月十三
日―六月一日)ロンドン
ロシア社会民主労働党第三回(第二回全ロシア)協議会 一九〇七年七月二十一日―二十三日(
八月三日―五日)コトカ(フィンランド)
ロシア社会民主労働党第四回(第三回全ロシア)協議会 一九〇七年十一月五日―十二日(十八
日―二十五日)ヘルシングフォルス
ロシア社会民主労働党第五回(一九〇八年全ロシア)協議会 一九〇八年十二月二十一日―二十
七日(一九○九年一月三日―九日)パリ
ロシア社会民主労働党第六回(プラーグ)全ロシア協議会 一九一二年一月五日―十七日(十八
日―三十日)プラーグ
ロシア社会民主労働党(ボ)第七回(四月)全ロシア協議会 一九一七年四月二十四日―二十九
日(五月七日―十二日)ペトログラード
ロシア社会民主労働党(ボ)第六回大会 一九一七年七月二十六日―八月三日(八月八日―十六
日)ペトログラード
ロシア共産党(ボ)第七回大会 一九一八年三月六日―八日ペトログラード
ロシア共産党(ボ)第八回大会 一九一九年三月十八日―二十三日モスクワ
ロシア共産党(ボ)第八回全ロシア協議会 一九一九年十二月二日―四日モスクワ
ロシア共産党(ボ)第九回大会 一九二〇年三月二十九日―四月五日モスクワ
ロシア共産党(ボ)第九回全ロシア協議会 一九二〇年九月二十二日―二十五日モスクワ
ロシア共産党(ボ)第十回大会 一九二一年三月八日―十六日モスクワ
ロシア共産党(ボ)第十回全ロシア協議会 一九二一年五月二十六日―二十八日モスクワ
ロシア共産党(ボ)第十一回全ロシア協議会 一九二一年十二月十九日―二十二日モスクワ
ロシア共産党(ボ)第十一回大会 一九二二年三月二十七日―四月二日モスクワ
ロシア共産党(ボ)第十二回全ロシア協議会 一九二二年八月四日―七日モスクワ
ロシア共産党(ボ)第十二回大会 一九二三年四月十七日―二十五日モスクワ
ロシア共産党(ボ)第十三回協議会 一九二四年一月十六日―十八日モスクワ
ロシア共産党(ボ)第十三回大会 一九二四年五月二十三日―三十一日モスクワ
ロシア共産党(ボ)第十四回協議会 一九二五年四月二十七日―二十九日モスクワ
ソ同盟共産党(ボ)第十四回大会 一九二五年十二月十八日―三十一日モスクワ
ソ同盟共産党(ボ)第十五回協議会 一九二六年十月二十六日―十一月三日モスクワ
ソ同盟共産党(ボ)第十五回大会 一九二七年十二月二日―十九日モスクワ
ソ同盟共産党(ボ)第十六回協議会 一九二九年四月二十三日―二十九日モスクワ
ソ同盟共産党(ボ)第十六回大会 一九三〇年六月二十六日―七月十三日モスクワ
ソ同盟共産党(ボ)第十七回協議会 一九三二年一月三十日―二月四日モスクワ
ソ同盟共産党(ボ)第十七回大会 一九三四年一月二十六日―三月十日モスクワ
ソ同盟共産党(ボ)第十八回大会 一九三九年三月十日―二十一日モスクワ
ソ同盟共産党(ボ)第十八回協議会 一九四一年二月十五日―二十日モスクワ
ソ同盟共産党第十九回大会 一九五二年十月五日―十四日モスクワ
   世界の共産党労働者党

 アイスランド統一社会党 アイスランド共産党(一九三〇年創立)と社会民主党左翼の合同の
結果一九三八年に結成。中央機関紙『ディオドヴィリン』(レイキャヴィク)。
アメリカ合衆国共産党 一九一九年創立。
アルジェリア共産党 フランス共産党の支部の一つとして一九二〇年創立。一九三四年からは独
立して存在。
アルゼンティン共産党 一九一八年創立(一九二〇年までは国際社会党)。
アルバニア労働党 一九四一年創立(一九四八年まではアルバニア共産党)。中央機関紙『ツェ
リ・イ・ポピュリット』(ティラナ)。
ィスラエル共産党〔*〕 一九四八年創立。中央機関紙『コル・ハーム』(テルアヴィヴ)。
イタリア共産党 一九二一年創立。中央機関紙『ウニタ』(ローマ、ミラノ、ジェノア、トリノ
)。
イラク共産党 一九三二年創立。
インド共産党 一九三三年創立。
インドネシア共産党〔*〕 一九二〇年創立。
ヴェトナム労働党〔*〕(インドネシア共産党) 一九五一年創立。中央機関紙『ニャン・ダン
』。
ヴェネズエラ共産党 一九二四年創立。
ウルグアイ共産党 一九二〇年創立。
エクアドル共産党 一九三〇年創立。
オーストラリア共産党〔*〕 一九二〇年創立。中央機関紙『トリビューン』。
オーストリア共産党 一九一八年創立。中央機関紙『エスタラィヒッシェ・フォルクスシュテイ
メ』(ウィーン)
オランダ共産党 一九一八年創立。中央機関紙『ヴァルヘイド』(アムステルダム)。
カナダ労働者進歩党 一九四三年創立。一九四〇年に禁止されたカナダ共産党(一九二二年に結
成されたカナダ労働者党の基礎のうえに一九二四年に創立)を継承。中央機関紙『カナディアン
・トリビューン』(トロント)。
キューバ人民社会党〔*〕 一九二五年に創立されたキューバ共産党の改造の結果一九四四年に
創立。
ギリシア共産党 社会労働党の名称で一九一八年に創立。一九二四年にギリシア共産党と改称。
グァテマラ労働者党 一九五二年創立。それまではグァテマラ共産党(一九三〇年創立)と名づ
けられていた。
コロンビア共産党〔*〕 一九三○年創立。
シャム共産党 一九二八年創立。
シリアおよびレバノン共産党 一九三〇年創立。
スイス労働党 スイス共産党(一九二一年創立)と左翼社会主義者の合同の結果一九四四年に結
成。中央機関紙『フォルウェルツ』(ジュネーヴ)。
スウェーデン共産党 一九二一年創立。中央機関紙『ニュー・ダーク』(ストックホルム)。
スペイン共産党 一九二〇年創立。中央機関紙『ムンド・オブレロ』。
セイロン共産党 一九四二年創立。
ソヴェト共産党 一九〇三年創立。中央機関紙『プラウダ』(モスクワ)。
大英帝国共産党 一九二〇年創立。中央機関紙『デーリー・ワーカー』(ロンドン)。
中国共産党 一九二一年創立。中央機関紙『人民日報』(北京)。
チェコスロヴァキア共産党 一九二一年創立。中央機関紙『ルーデ・プラヴォ』(プラーグ)。
チュニス共産党 フランス共産党の支部の一つとして一九二〇年に創立。一九三四年からは独立
して存在。
朝鮮労働党 一九四六年創立。北鮮では北朝鮮共産党と北朝鮮新民党、南鮮では南朝鮮共産党、
人民党、南朝鮮新民党のマルクス=レーニン主義の原則にもとづく合同の結果創立。一九四九年
に北朝鮮労働党と南朝鮮労働党は朝鮮労働党に合同。中央機関紙『労働新聞』(平壌)
チリー共産党 一九二二年創立。
デンマーク共産党 一九一九年創立。中央機関紙『ランド・オア・フォルク』(コペンハーゲン
)。
ドイツ共産党 一九一八年創立。東ドイツでは一九四六年にドイツ共産党と社会民主党はドイツ
社会統一党に合同。西ドイツの共産党諸組織は一九四八年独自の組織を形成し旧来のドイツ共産
党の名称を保持。中央機関紙『フライエス・フォルク』(デュセルドルフ)。
ドイツ社会統一党 ドイツ共産党と社会民主党のマルクス=レーニン主義の原則にもとづく東ド
イツでの合同の結果一九四六年に結成。中央機関紙『ノイエス・ドイチュランド』(ベルリン)。
トランスヨルダン共産党 一九五一年創立。
トルコ共産党 一九二○年創立。
日本共産党 一九二二年創立。中央機関紙『アカハタ』(東京)。
ニュージーランド共産党 一九二一年創立。
ノルウェー共産党 一九二三年創立。中央機関紙『フリヘンテン』(オスロー)。
パキスタン共産党 一九四八年創立。
パナマ人民党 一九二五年以来存在していたパナマ共産党の改造の結果一九四二年創立。
パラグアイ共産党 一九三三年創立。
ハンガリア勤労者党 ハンガリア共産党(一九一八年創立)と社会民主党のマルクス=レーニン
主義の原則にもとづく合同の結果、一九四八年に結成。中央機関紙『サバド・キプ』(ワル
シャワ)。
ビルマ共産党 一九四一年創立。
フィンランド共産党 一九一八年創立。中央機関紙『チュエカンサン・サノマート』(ヘルシン
キ)。
プエルト・リコ共産党 一九三四年創立。
ブラジル共産党 一九二二年創立。
フランス共産党 一九二〇年創立。中央機関紙『ユマニテ』(パリ)。
ブルガリア共産党 一九〇九年創立。中央機関紙『ラボートニチェスコ・ヂェーロ』(ソフィア
)。
ベルギー共産党〔*〕 一九二〇年創立。中央機関紙『ドラポー・ルージュ』〔フランス語〕、
『ローデヴァーン』〔フランダース語〕(ブリュッセル)。
ポーランド統一労働者党 ポーランド労働者党(一九四二年創立)とポーランド社会党のマルク
ス=レーニン主義の原則にもとづく合同の結果一九四八年に結成。中央機関紙『トリブナ・ルゥ
ドゥ』(ワルシャワ)。
ポルトガル共産党 一九二一年創立。
マライ共産党 一九三一年創立。
メキシコ共産党〔*〕 一九一九年創立。
モロッコ共産党 一九二〇年にフランス共産党の支部の一つとして創立され一九四三年からは独
立して存在。
モルゴル人民革命党 一九二一年創立。中央機関紙『ウネン』(ウランバートル)。
ルクセンブルグ共産党 一九二一年創立。中央機関紙『ツァイトゥング』(ルクセンブルグ)。
ルーマニア労働者党 ルーマニア共産党(一九二一年創立)と社会党のマルクス=レーニン主義
の原則にもとづく合同の結果一九四八年に結成。中央機関紙『スクィンティア』(ブカレスト)。


−−−−−−−−−−終了。何度か吐き気を催したけど(藁−−−−−−−−−−
359名無しさん@1周年:02/04/26 01:13
目次もキボン
(大月書店国民文庫=706、『世界の共産党』初版を電子化)
 ソヴェト大百科事典
 内海周平訳
 国民文庫社:当時
 初版:1955年4月25日発行
 電子版凡例(国民文庫=706凡例を適宜変更)

一 本書は、ソ同盟大百科事典第二二巻の共産党の項を訳したものである。
一 ただし、上の項にふくまれていないものは、それぞれの国の記述のうち「政党」の項からと
った。本書の表題中〔*〕をつけたものがそれである。
一 国民文庫版で傍点を付した部分は電子版では" #"と"# "で括り、太字の部分は" ##"と"## "
で括った。
一 各種読み仮名は《》内で示した。例:生半可《なまはんか》
   目次

日本共産党
アイスランド統一社会党
アメリカ合衆国共産党
アルゼンティン共産党
アルバニア労働党
イギリス共産党
イスラエル共産党
イタリア共産党
イラク共産党
インド共産党
インドシナ共産党(ヴェトナム共産党)
インドネシア共産党
オーストラリア共産党
オーストリア共産党
カナダ労働者進歩党
キューバ人民社会党
コロンビア共産党
スペイン共産党
中国共産党
チェコスロヴァキア共産党
朝鮮共産党
朝鮮労働党
ドイツ共産党
ドイツ社会統一党
ハンガリア共産党
フィンランド共産党
ブラジル共産党
フランス共産党
ブルガリア共産党
ベルギー共産党
ポーランド共産党(一九二五年まではポーランド労働者党)
メキシコ共産党
ルーマニア共産党
ソ同盟共産党
世界の共産党労働者党一覧
365名無しさん@1周年:02/04/28 14:01
100間で、斜め読みしたが、アーくたびれた。すこし休もう。
366名無しさん@1周年:02/04/28 14:06
アメリカ合衆国共産党はないの?
367名無しさん@1周年:02/04/28 14:07
あった
368名無しさん@1周年:02/04/28 17:13
>>367
ひどいな。今もあるよ
369名無しさん@1周年:02/04/28 17:21
じゃーつぶさなきゃ>>368
370名無しさん@1周年:02/04/29 13:59
>369
共産党なんてつぶしてもトロツキストとかが
まだうじゃうじゃいますぜ
>>370
 つーか、メキシコの隣のせいか、トロツキストの方がはるかに勢力が大きい
ですね。

 それから、マル共連常連のオファーにより、「カールとローザ」を電子化し
てます。
372名無しさん@1周年 :02/04/29 23:25
本当にお疲れ様です.. ありがとう
373大月書店愛好会:02/05/01 21:50
 予告編。P176まで出来ました。以下の文章は、いいですよ。ウヨ厨の一部の
低劣な連中が、「暴力革命」に反対しながらも、戦争準備に賛成している精神が、
どの階級に奉仕しているかがよくわかります。


 とくにカール・リープクネヒトが反対者の野次とまじえたやりとりが、いつまで
も私の記憶に残った。カール・リープクネヒトは十一月革命とロシアの十月革命を
比較し、これと関連して、労働者階級の武装の必要を説明していたが、そのとき、
このブルジョア平和主義者は、人間は高貴で善良であるべきもので、武器などはた
たきこわさなければならない、と野次った。

 このとき、カール・リープクネヒトはすこしもあわてず、演説を進めながら、こ
の野次にふれて言った。それはなるほどりっぱな格言ではあるが、しかしそれには
決定的な内容がない。その内容を実のあるものにするために――と彼はとりわけつ
ぎのように言った――現在、われわれのロシアの階級的同志たちは苦心しているの
だ。そのために彼らはプロレタリア革命の勝利を確実にしようとしているのだ。彼
らを助け、ドイツでもプロレクリア革命を勝利に導くことが、ドイツの労働者にと
っては善いことであり、高貴なことであろう。労働者階級が人間による人間の搾取
を除くために闘うのは、つねに善いことであり、また高貴なことである、と。

 武器をたたきこわしては――とカールは野次った相手との論争をつづけた――ロ
シア革命は勝利しなかった。資本家と軍国主義者たちは自分の武器をたたきこわす
などということは考えてもいない。まさにその逆だ。資本主義的社会体制がつづく
かぎり、ブルジョアジーは労働者階級と進歩を流血をもって抑圧するために、武器
をもちいる。だから労働者階級もまた「武器をたたきこわせ」というイデオロギー
を自分のものにするわけにはいかない。
374俺い:02/05/04 15:48
全部製本し唯。
 ありがと、ありがと。続けてくだされ
375名無しさん@1周年:02/05/08 20:11
376名無しさん@1周年:02/05/08 20:22
377名無しさん@1周年:02/05/08 20:32
378大月書店愛好会:02/06/13 12:41
 補修上げ+大月書店様への挑発。
379名無しさん@1周年:02/06/13 13:32
例えばさ、これをwinny
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley/2949/
で流してしまうとかいうのは、どお?
380名無しさん@1周年:02/07/07 19:59
∧∧  ミ  _ ドスッ
     (   ,,)┌─┴┴─┐
    /   つ  380│
  〜′ /´ └─┬┬─┘
   ∪ ∪     ││ _
381名無しさん@1周年:02/07/07 20:03
382名無しさん@1周年:02/07/21 20:46
ゴムルカワショーイ
383大月書店愛好会:02/07/30 00:56
「資本論綱要他」電子化完了。
384大月書店愛好会:02/08/31 14:29
「ドイツ農民戦争」電子化完了。現在「自然の弁証法−1」電子化中。

・・・・故あって、age進行で行きます。
385大月書店愛好会:02/09/16 20:05
「自然の弁証法−1」完了。現在「自然の弁証法−2」電子化中。
386bloom:02/09/16 20:09
387名無しさん@1周年:02/09/23 10:27
388名無しさん@1周年