大月書店「世界の共産党」

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   ルーマニア共産党

 ルーマニア共産党は、ルーマニア労働者階級の前衛部隊であり、一九四八年二月に結成された
ルーマニア労働者党――ルーマニア人民共和国の政治・経済・文化生活の指導勢力、社会主義の
建設をめざし、諸国民間の中和と友好の強化をめざす、ルーマニア国民の闘争の組織者、指導者
――の主要な中核である。
 大十月社会主義革命の影響のもとにはじまった労働運動の力づよい間損の条件下で、ルーマニ
ア社会党内には、党を共産党に改変するための闘争を展開した共産主義者のグループがうまれた。
一九二一年五月八―十三日にブカレストでひらかれた社会党大会は、圧倒的多数でルーマニア共
産党の創設と共産主義インタナショナルへの加入にかんする決定を採択した。この大会は、共産
党第二回創立大会として歴史に記載された。大会はその決定のなかで、世界史的勝利をえたロシ
ア・プロレタリアートとの連帯性を表明し、ルーマニア労働者階級の名において、ルーマニアの
ブルジョアジーと地主がおこなっていた反ソ戦争をおしすすめる挑発的政策に反対した。党から
追放された改良主義的少数派は、分裂的社会民主党を創立し、その首領は、労働者階級の陣列に
おけるブルジョアジーの手さきとして行動した。
 ルーマニア共産党は、残忍なテロルの条件のもとでその活動を開始しなければならなかった。
ルーマニア共産党はボリシェヴィキ化のための闘争のなかで、指導機関ならびに地方の党諸組織
のなかにあった社会民主主義的・分裂的残存物を克服した。一九二二年十月三―四日にプロエス
ティ市でひらかれた第二回党大会は、国を外国資本に従属させた反動政府と右翼社会民主主義者
によっておこなわれていた民族裏切政策をばくろした。大会は党規約を採択した。一九二四年に、
党は非合法を宣告された。その後の党のすべての活動は、一九四四年にいたるまで、地下ふかく
もぐった条件のもとでおこなわれた。
 一九二四年九月にひらかれた第三回党大会は、そのころはじまった資本主義の一時的・部分的
・相対的安定にともなう党の任務をさだめ、労働者、農民、民族的少数派の日常闘争を指導する
ことが必要なことを指示した。民族問題にかんする党の任務についての決定のなかで、党は、ル
ーマニアに住んでいる全民族の勤労者を、友好の精神、ルーマニア国家から分離されるまで民族
自決権をみとめる精神で教育することが必要なことを指示した。ルーマニア共産党はロシア共産
党員の経験を利用して、大衆組織のなかで活動をおこない、合法活動と非合法活動とを結合させ
ることをまなんだ。
 ルーマニア共産党は、一九二六―二八年の力づよいストライキ運動で指導的役割を演じ、大衆
的農民運動に組織的性格をあたえ、労働者階級と勤労農民の同盟を確立することにつとめた。第
四回党大会(一九二八年)は、敵対的な清算主義的グループに反対する闘争を展開し、発生しつ
つあった戦争の危険にともなう党の任務をさだめ、もしも帝国主義者が反ソ戦をはじめるばあい
には、党は、ブルジョア政府を敗北させるために、帝国主義戦争を国内戦に転化するために、ソ
同盟にたいしてあらゆる手段をつくして援助をあたえるためにたたかうであろうことを指示した。
 一九二九年にはじまった世界経済恐慌の条件下で、ルーマニアの反動は、国のファショ化を強
化する道に立った。ルーマニア共産党は、献身的にファシズムと戦争の危険に反対する闘争をお
こなった。それと同時に、党の陣列に潜入した裏切分子は、党内で、無原則的な分派闘争をひき
おこすことに成功した。コミンテルンの執行委員会の援助によって、ルーマニア共産党内では分
派闘争は一掃され、党の統一が回復され、労働者階級の革命闘争を農民の進出と被圧迫民族の勤
労者の闘争にむすびつけることにむけられた大衆的闘争が展開された。党を強化し、党のまわり
にルーマニアの勤労者を結集するうえに大きな役割を演じたのは、ルーマニア共産党中央機関紙
――一九三一年に発行されはじめた『スクィンティア』〔『火花』〕――である。
 第五回党大会(一九三二年)は、ルーマニア共産党史上きわめて重要な位置を占めている。ル
ーマニアは、「革命の勝利は、プロレタリア独裁をもたらすために、いわばプロレタリアートと
農民との独裁という形で若干の中間的な諸段階を要求することが可能であり、また、きっと要求
するであろう」〔スターリン『コミンテルンの綱領について』、邦訳全集第一一巻一七七ページ
〕ところの、資本主義的にあまり発展していない、封建的残存物をもった、反封建的な型の特殊
な農業問題をもった国の一つに属しているということから出発して、大会は、ブルジョア民主主
義革命を徹底的に遂行し、社会主義革命に移行することにむけられた党の戦略・戦術方針をさだ
め、労働者階級のヘゲモニーと共産党の指導のもとにおける労働者階級と勤労農民との同盟をめ
ざす党の闘争における転換点となった。大会は、自由主義ブルジョアジーの新奴隷制「理論」を
粉砕した。この「理論」は、労働運動を、この「理論」の発案者が、革命運動における指導者と
いうことばで言いあらわしていたブルジョアジーの指導に従属させることを目的としていたので
ある。大会は、党のボリシェヴィキ化の大業に重要な一歩をすすめた。
 第五回大会の決定に指導されながら、ルーマニア共産党は、統一戦線の戦術をうまく適用した。
ルーマニア共産党によって組織され、指導された、ゲ・ゲオルギウ=デジを先頭とする一九三三
年の鉄道従業員と石油工業労働者の闘争は、ルーマニアにおける革命運動発展の根本的な転換と
なった。ルーマニア共産党は、反ファシスト運動の鼓舞者であり指導勢力であった。党の主唱と
その指導的役割のもとで、一九三六―三七年に、多くの民主的組織を包含した闘争の民主戦線を
結成した。多くの党活動家は、イタリア=ドイツ干渉軍とファシスト暴動者に反対するスペイン
共和国の英雄的闘争に参加した。ルーマニア共産党は、ヒトラー一味の指導によっておこなわれ
た一九四〇年の北部トランシルヴァニアの分離に反対し、ルーマニアをヒトラーの隷属者に変え
たファシスト独裁に反対する献身的・愛国的闘争をおこなった。ヒトラー・ドイツとルーマニア
をふくむその協力者のソ同盟にたいする背信的な攻撃の当初から、ルーマニア共産党は、大衆に
侵略者の真の強盗的な目的を説明し、ファシスト占領者とルーマニアの協力者に反対する積極的
な闘争を大衆によびかけた。ルーマニア共産党は綱領を作成し、そのなかで、党の任務が、血ま
みれのドイツ・ファシズムとその従僕の絶滅をめざす闘争のためにルーマニア人民の努力と大ソ
ヴェト国民の努力とを結合させることにあると指示した。
 しかし共産党は、はじめのあいだは、戦争からの活路をもとめ、ファシスト独裁の打倒をめざ
す広範な運動を組織することに成功しなかった。党の指導部に潜入した裏切者のグループは、党
とルーマニアの反ファシスト運動全体に大きな損害をあたえた。このグループは、一九四四年の
春までにその正体をばくろされ力をうしなった。
 ヒトラー・ドイツにたいするソヴェト軍の世界史的勝利は、ルーマニア共産党がその先頭に立
っていたルーマニア人民の解放闘争の成長を促進した。一九四四年五月に、ソヴェト解放軍がヒ
トラー軍を追撃してプルート河(ソ同盟とルーマニアの国境をなしている)に到達したときによ
うやく社会民主党の右翼指導部は、再三の拒絶と遅滞ののちに、統一労働戦線の結成にかんする
ルーマニア共産党の提案をうけいれた。
 ルーマニアからヒトラーの軍隊を完全に追放することに着手したソヴェト軍の常勝攻撃は、共
産党によって準備され、党の指導のもとにもたらされた一九四四年八月三十三日のファシスト体
制打倒の大業における決定的な要因であった。
 地下から出てその権威をいちじるしく増大したルーマニア共産党は、その陣列を強化しはじめ
た。ルーマニア共産党は、国の民主化を擁護し、王制=ファシストと外国帝国主義者の陰謀に反
対する闘争を献身的におこなった。ルーマニア共産党のおかげで、反動分子の陰謀家一味の行動
は絶滅され、一九四五年三月には、民主主義政府が樹立された。党の主唱によって、まず第一に、
労働者階級と勤労農民の同盟を強化させた農業関係の分野において大規模な社会改革をおこなっ
た。
 一九四五年十月に、全国党会議がひらかれた。マルクス=レーニン主義の教えとソ同盟の社会
主義建設の経験をよりどころとして、党会議は、労働者階級が勤労農民と同盟して完全に政治権
力も掌握するという方向をあたえ、国の工業化と電化の任務を提起した。階級の敵との闘争、経
済的困難の克服と根本的改革をめざす闘争に大衆を動員し組織しながら、ルーマニア共産党は、
めざましい成功をおさめた。一九四七年十一月には、ブルジョアジーの最後の代表者が政府から
追放され、一九四七年十二月三十日には、王制が廃止されてルーマニア人民共和国が宣言された。
ルーマニア共産党の倦むことのない闘争の結果であったこの重要な出来事は、人民民主主義の形
式をとったプロレタリアート独裁への移行を意味した。ルーマニア共産党の指導のもとに獲得さ
れたルーマニア人民のめざましい勝利は、ルーマニアの労働運動における分裂の克服へとみちび
いた。ルーマニア共産党は、倦むことなく右翼社会民主主義者の指導者を孤立させ、社会民主党
の下部組織における党の勢力を強化するための闘争をおてなった。ルーマニア共産党によって一
貫しておこなわれた労働者階級の統一政策とルーマニアの労働運動におけるマルクス=レーニン
主義原則の勝利は、すべてのプロレタリア勢力をルーマニア共産党のまわりに結集させた。一九
国八年二月、ルーマニア共産党の勝利の結果、マルクス=レーニン主義の原則の基礎のうえに、
ルーマニア労働者階級の単一の党――ルーマニア労働者党が創立された。
 ルーマニア共産党は、一九四七年の共産党労働者党情報局の創立に参加した。