大月書店「世界の共産党」

このエントリーをはてなブックマークに追加
   ポーランド共産党(一九二五年まではポーランド労働者党)

 ポーランド共産党は、ポーランド労働者階級の前衛部隊で、一九一八年から三八年まで存在し
ていた。
 ポーランド共産党は、大十月社会主義革命の影響をうけて、国内で力づよい革命運動の成長す
る情勢のなかでうまれた。ポーランド共産党は、一九一八年十二月十六日に、ポーランド・リト
ワニア社会民主党とポーランド社会党左派の合同の結果、ワルシャワでひらかれた合同大会で結
成された。第一回(合同)大会は、プロレタリアートの独裁をめざす闘争の任務を提起し、ポー
ランドのほとんどすべての工業中心地にできた労働者代表ソヴェトの網を拡火するようよびかけ、
ソヴェト・ロシアの英雄的プロレタリアートとの団結を宣言した。年若いポーランド共産党の指
導のもとに、ポーランド労働者階級の革命的進出が展開された。しかし、ポーランドのブルジョ
アジーと地主は、アメリカ合衆国、イギリス、フランスの帝国主義および労働運動における自分
の手さきである民族主義的・改良主義的ポーランド社会党の助けをかりて革命運動を鎮圧し、ポ
ーランド共産党を地下にもぐらせ、一九一九年の夏までに労働者代表ソヴェトを壊滅し、根絶す
ることに成功した。一九一八―一九年の階級戦でポーランド・プロレタリアートが敗北した主要
な原因の一つは、党の結成当初に、ルクセンブルグ的立場に立つ革命理論の根本問題にのこって
いたポーランド共産党の未熟さであった。この時期におけるポーランド共産党のルクセンブルグ
的立場、ことに新しい型の党の役割の過小評価と労働運動の自然成長性への放任、農民の革命的
可能性の過小評価、民族問題にかんするまちがった見解、さらにまたポーランド社会党左派のメ
ンシェヴィキ的残存物は、ポーランド労働者階級が、勤労者の権力をめざす闘争で、抑圧され搾
取されているポーランドの全大衆の指導者の役割を完全にはたすのをさまたげた。
 それと同時に、ポーランド社会党左派からは、ロシアの労働者階級と協力して革命闘争をおこ
なうという名誉ある伝統をうけついで、ポーランド共産党は、ソヴェト・ロシアの労働者階級と
の連帯性の立場に立ち、ソヴェト国のなかにポーランド・プロレタリアートの信頼すべき友と同
盟者とを見いだした。ポーランド共産党は、一九一九年の共産主義インタナショナルの結成に参
加した。地主のポーランドが、米・英・仏帝国主義者の支持のもとに、ソヴェト・ロシ了にたい
する侵略戦争をおこなった一九一九―二〇年に、ポーランド共産党員は、テロルのもっとも困難
な条件と警察の迫害にもかかわらず、ソヴェト共和国擁護のための行動に労働者を組織した。
 一九二一―二三年に、戦後の経済恐慌と成長しつつあった革命的高揚の情勢のもとで、ポーラ
ンド共産党員は、コミンテルンに勧告された統一戦線の戦術を採用して、ブルジョアジーが恐慌
の重荷を勤労者の両肩に転嫁することに反対する闘争を展開し、いくたびかの大規模なストライ
キと失業者のデモンストレーションを指導した。事実上共産党員がそれを指導した一九二四年の
上シレジアのゼネラル・ストライキは、ポーランド共産党の大きな成功であった。
 ポーランド共産党内では、しだいにルクセンブルグ的見解を克服して、マルクス=レーニン主
義の立場へ移行する動きが見えはじめた。この動きは、誠実な活動家と平党員の日和見主義分子
およびその他の敵対分子にたいする尖鋭な闘争のなかに生じた。ポーランド共産党のボリシェヴ
ィキ化のための闘争で決定的な意義をもっていたのは、コミンテルンの直接的な援助とロシア共
産党(ボ)の援助であった。ポーランド共産党第二回大会(一九二三年九月)は、党の政策に重
大な転換をおこない、農民問題と民族問題にかんするレーニン的スローガンを採択した。労働者
と農民の同盟の基礎をかためながら、ポーランド共産党は、地主の土地を農民のあいだに分配す
るスローガンを提起した。党は、ブルジョア・地主のポーランドに抑圧されている諸民族の民族
解放闘争を支持し、分離にいたるまでのこれら諸民族の民族自決権にかんする声明をおこなった。
ポーランド共産党の自治組織として、西部ウクライナ共産党(一九二三年)と西部白ロシア共産
党(一九二四年)が結成された。ポーランド共産党第二回大会は、ポーランドの反動的支配者の
裏切的・反民族的政策をばくろし、国の真の独立の保障は、ポーランドにおけるきたるべき革命
の勝利と、ソヴェト・ロシアおよびすべての国際革命運動とポーランドとの兄弟的同盟であるこ
とをしめした。しかし、ポーランド共産党第二回大会の決定は、徹底したものではなかった。ポ
ーランド共産党の指導部は、ポーランドならびに国際共産主義運動の諸問題にかんして日和見主
義的方針をとった。コミンテルン第五回大会(一九二四年)は、ポーランド共産党内の状態を点
検するために、イ・ヴェ・スターリンを議長とするポーランド委員会を結成した。一九二四年七
月三日の『ポーランド共産党について』という演説のなかで、イ・ヴェ・スターリンは、ポーラ
ンド共産党内の危機の原因をばくろして、それを克服するための方法をさだめた。それはつぎの
ようなものであった。ロシア共産党(ボ)の経願にもとづいて、日和見主義的な一翼ときっぱり
と手をきる方法によって日和見主義との闘争をおこなうこと。革命闘争の過程で成長しつつある
労働者階級の新しい指導者を思いきって抜擢する方針をとること〔スターリン『ポーランド共産
党について』参照、邦訳全集第六巻二七六――三ページ〕。
 コミンテルン第五回大会の決定を拠りどころにして、ポーランド共産党第三同大会(一九二五
年)は、党指導部の右翼日和見主義グループを激しく非難した。しかし、大会で選出された新中
央委員会の構成員のなかでは、のちに公然とトロツキストの立場に転落した左翼グループが指導
的な地位を占めていた。今回もまた、コミンテルンと、一九二五年七月に、コミンテルンのポー
ランド委員会でポーランド共産党の状態にかんする問題について演説をおこなったイ・ヴェ・ス
ターリンの直接的な援助によって正しい方向にむけられた。
 一九二六年五月に、ピルスドスキー一派がファシスト的クーデターをおこなったとぎ、ポーラ
ンド共産党は、独白の階級的態度をとらずに、ピルスドスキー一派を支持することによって、重
大な日和見主義的誤りをゆるした。「五月」の誤りのイデオロギー的根源は、ポーランド共産党
がそれまでに、プロレタリア革命の根本問題についての反レーニン主義的見解を徹底的にとりの
ぞかず、ポーランド帝国主義の存在を否定し、小ブルジョアジーの役割を過大評価し、小ブルジ
ョアジーが大資本との闘争の先頭に立つ能力があると考え、ピルスドスキー一派があたかも「小
ブルジョア民主主義の代表」であるかのような幻想をいだいたことにあった。一九二六年五月の
党の政策の変化で大きな役割を演じたのは、ポーランド共産党の指導機関にもぐりこんでいた敵
の手さきであった。
 コミンテルンの援助を得て、ポーランド共産党は、急速に自己の「五月」の誤りを是正して、
ポーランドにうちたてられつつあったファシスト体制に反対する容赦ない闘争を展開した。ポー
ランド共産党第四回大会(一九二七年)は、ファシスト・クーデターの内外の原因を分析し、

サナチア」党の反民族的体制に反対する闘争における党の任務をさだめた。しかし、ポーランド
共産党内にもぐりこんだ反党的分子によって一九二六―二九年にさかんになった無原則的な分派
闘争が、党をいっそう強化することをさまたげた。
 敵の手さきの挑発的な行動にもかかわらず、すべての誠実な活動家と平党員は、ファシスト体
制に反対する英雄的な闘争をおこなった。一九二八年の国会選挙で、ポーランド共産党は、大衆
のなかでの活動の非合法形態と合法形態とをたくみにむすびつけ、約一〇〇万票を獲得して大き
な成功をおさめた。
 ポーランドではとくに破局的な性格をもった一九二九―三三年の世界総済恐慌の時期に、ポー
ランド共産党は、革命運動の先頭に立ち、資本家と地主の攻撃にたいする勤労者の抵抗を組織し、
帝国主義的反ソ戦の準備との闘争に大衆を動員した。ポーランド共産党は、労働運動におけるポ
ーランド・ブルジョアジーの主要な政治的代弁者であったポーランド社会党指導部の裏切政策を
組織的にばくろした。ポーランド共産党第五回大会(一九三〇年)は、ストライキ運動の指導に
ついての党の任務および農村におけるポーランド共産党の活動にかんする重要な決定を採択した。
 ポーランド共産党にとって、とくにその綱領の作成にとって大きな原則的・実践的な意義をも
っていたのは一九三一年に、『プロレタルスカヤ・レヴォリューツィア』〔『プロレタリア革命
』〕誌の編集部にあてたイ・ヴェ・スターリンの『ボリシェヴィズムの歴史の若干の問題につい
て』という手紙であった。この手紙にもとづいて、ポーランド共産党の活動分子は、党のイデオ
ロギー・実践活動におけるルクセンブルグ主義の残存物を完全に克服するための闘争を展開した。
一九三二年に、ポーランド共産党第六回大会がひらかれ、党の綱領を採択した。
 ヒトラー一味がドイツで権力をにぎった(一九三三年)のち、ポーランド共産党は、ポーラン
ド国家の存立にたいして発生しつつあった脅威について警告し、「サナチア」のヒトラー支持体
制を根絶するための闘争を展開したポーランドのただ一つの政党であった。セクト主義のあらわ
れを克服しながら、ポーランド共産党員は、反ファシスト統一戦線確立のためのカンパニアを展
開し、ますますひんぱんに下部の労働者やポーランド共産党地方組織の多くのグループとの統一
行動を実行した。統一戦線の基礎のうえに、多くの大規模な労働者階級の進出(一九三五年の繊
維労働者と鉱山労働者のゼネラル・ストライキ、一九三六年の統一メーデー・デモンストレーシ
ョン、その他)がおこなわれた。ポーランド共産党は、一九三五年のファシスト的憲法に反対し、
ファシスト的選挙法にもとづいておこなわれた国会選挙のボイコットを擁護する闘争、強化され
た白色テロルとの闘争の先頭に立った。
 ポーランド共産党(西部ウクライナおよび西部日ロシア共産党をふくむ)の党員数は、三〇年
代には約三万人で、そのうちの一万人以上は、ポーランドの獄中にいた。
 ピルスドスキー一派の残忍なテロルにもかかわらず、共産党員は、ファシズムと帝国主義戦争
に反対する広範な国民戦線の結成というコミンテルン第七回大会(一九三五年)の決定を体現す
るために積極的に活動した。経済的・政治的要求を擁護するための労働者階級の闘争ならびに勤
労農民の革命的闘争、ポーランド帝国主義によって抑圧された諸民族の民族解放闘争における共
産党員の役割は増大した。ポーランド共産党はまた、インテリゲンツィアの進歩的グループを反
ファシスト運動にひきいれるための活動を強化した。ポーランドの対外政策の分野では、ポーラ
ンド共産党は、ヒトラー・ドイツとの同盟を即座に破棄するためにたたかい、ソ同盟とポーラン
ドの友好と協力の政策を擁護するためにたたかった。一九三六―三八年にドムブロフ名称国際旅
団の数千のポーランド義勇兵は、ファシズムに反対するスペイン人民の英雄的闘争に積極的に参
加した。ポーランド共産党は、すべての被搾取者と被抑圧者のとりでとしてのソ同盟にたいする
信服と愛情の精神で勤労者を教育した。ポーランド共産党員は、ますます断固として、ポーラン
ド共産党をマルクス=レーニン主義の党、新しい型の党に変えようとつとめた。しかし、ポーラ
ンド共産党はその存在の最後まで、ポーランド・リトワニア社会民主党およびポーランド社会党
左派からうけついだ多くのあやまった見解を克服することができなかった。ポーランドのファシ
スト、ピルスドスキー一脈は、長年にわたってポーランド共産党内に自分の手さきをおいた。そ
れらの手さきは、優秀な共産党員を保安課にひきわたしたばかりでなく、組織的に党の方針をゆ
がめ、党の活動を失敗させ、共産党にたいする労働者階級の信頼をうしなわせ、ポーランド共産
党をピルスドスキーの犯罪計画に従属させようとした。
 一九三八年に、ポーランド共産党指導部に敵の手さきが潜入したために、ポーランド共産党は、
コミンテルン執行委員会の決定によって解散した。ポーランド共産党の運動から敵の手さき、挑
発者を一掃し、健全な基礎のうえに党の復活を準備することを目的としたポーランド共産党解散
の決定は、労働者階級の大業にたいして無限の信頼をよせ、ファシスト体制に反対する献身的な
闘争をつづけていたすべての誠実なポーランド共産党員によって完全な理解をもってうけいれら
れた。一九三九年に、共産党復活の準備がおこなわれたが、開始された一九三九―四五年の第二
次世界戦争がそれをさまたげた。ポーランド共産党員は、ポーランドにたいするファシスト・ド
イツの攻撃ののち、ヒトラー侵略者および侵略者と共同したポーランドの反動にたいするポーラ
ンド人民の解放闘争の先頭に立った。ポーランド共産党によって教育され、「サナチア」党の体
制に反対する苛烈な闘争のなかできたえられたM・ノヴォトコ、P・フォンデル、B・ビエルー
トを先頭とする労働者階級の大義に忠実なポーランド共産党員のカードルは、第二次世界戦争中
には、一九四二年一月にうまれたポーランド労働者党――ポーランドをヒトラー侵略者から解放
し、人民民主主義制度の確立と勝利をめざす闘争における労働者階級と全勤労者の指導勢力――
の組織者となった。