インド共産党
インド共産党は、インド労働者階級の前衛部隊であり、封建的・農奴的抑圧の一掃、国の真の
孤立、全世界の諸国民間の平和と友好のためのインド人民の闘争の指導勢力である。最初の共産
主義グループがインドにあらわれたのは、大十月社会主義革命の影響のもとに展開された民族独
立運動が高揚した二〇世紀の二〇年代初頭である。共産主義グループは、一九二八―三三年の民
族解放闘争高揚の時期に、インドのいくたの州における労働者と農民の行動を直接指導した。一
九三三年に、すべての共産主義グループの代表者会議がひらかれ、インド共産党の創立を宣言し
た。この会議で共産党臨時中央委員会が選出された。
イギリス植民地当局は、共産党に弾圧をくわえ、一九三四年に、共産党は非合法を宣告された。
共産党は、非合法の条件下で活動しながら、労働者階級の組織と党の隣列の統一のための闘争を
つづけた。共産党の指導のもとに、一九三六年に、分散した農民組合(キサン・サブハ)が統合
された。共産党員のイニシアティヴによって、一九三八年に、もっとも大きな労働組合の中心部
が単一の全インド労働組合会議に統一された。コミンテルン第七回大会(一九三五年)の指令に
応じて、共産党は、すべての反帝国主義勢力を統一民族戦線に結集する活動を開始した。
一九三九―四五年の第二次世界戦争の時期に、インド共産党は、(一九四二年から)合法的に
活動する可能性をえた。一九四三年五月に、第一回党大会が召集され、規約を確認し、中央委員
会を選出し、党の当面の任務を決定した。大会のときまでにインド共産党員は約一万六〇〇〇名
をかぞえた。しかし共産党の禁止を解いたのちも、イギリス植民地当局は、実際には共産党員の
迫害をやめなかった。戦時には、数百名の共産党の積極的な活動家は獄中にあった。
第二次世界戦争の終結後、共産党は、国の民族的独立とイギリスの植民地支配の一掃をめざす
インド人民大衆の闘争の先頭に立った。一九四六年八月に樹立された、インド国民会議派にひき
いられているが、イギリス植民地支配者の直接的な監督下にあった(それゆえに、イギリスの副
王が政府の事実上の首領であった)臨時「国民」政府は、共産党およびその勢力下にあった労働
組合、農民、婦人、青年の諸組織にたいする弾圧を強化した。それにもかかわらず、共産党の勢
力は増大した。共産党員は、労働者および従業員のストライキ、農民の暴動(たとえば、一九四
六年にはじまったテレンガナの暴動)、藩王の専制権力にたいする藩王国人民の闘争を指導した。
しかし、共産党の指導は、イギリス帝国主義の策動《マヌーヴァ》をすぐにはたちきることがで
きなかった。その策動には、一九四七年八月に、インドにはいわゆる独立があたえられたが、同
時に国は、インドとパキスタンの二国に分離されたことがふくまれていた。共産党の指導は、最
初「独立」の意義を過大評価し、一九四七年八月に、インド国民会議派によって組閣されたイン
ド政府の階級的本性を理解しなかった。
一九四八年三月に、インド共産党第二回大会がひらかれ、九万の党員を代表した約八〇〇名の
代議員が出席した。大会では、中央委員会の旧指導部によって見のがされた改良主義的性格の重
大な誤りをばくろし、鋭い批判をくわえた。大会は、新しい条件下の共産党の任務と政治方針を
きめたテーゼを確認した。大会は、中央委員会の新しい構成員を選出した。大会ではまた、パキ
スタンの共産主義者が独立した共産党を創立すべきであるという決定が採択された。
共産党はすべての州《ステート》(属州《プロヴィンス》)、大工業中心地に党の組織を結成
し強化しはじめ、真の民族独立のための闘争の統一戦線の結成にのりだした。第二回大会以後、
インド政府は、共産党にたいする弾圧を強化した。多くの著名な党活動家が投獄された。西ベン
ガル、マドラスおよび多くの藩王国では、共産党は非合法を宣告された(ハイデラバード州とト
ラヴァンコール・コーチン州では、共産党の組織は一九五二年まで禁止されていた)。弾圧と同
時に、インド当局は、共産党員に指導される労働組合や農民組織を分裂させる戦術をとった。警
察のテロルの影響をうけ、さらにまた、べ・テ・ラナディーヴにひきいられた当時の指導部の左
翼セクト的誤りの結果、多くの組織における共産党の勢力はよわまり、党員の数は減少した。
一九五〇年五月に、インド共産党中央委員総会は、ラナディーヴを党指導部からしりぞけた。
新しい政治方針をたてた中央委員会政治局の新構成員が選出された。一九五一年四月に、インド
共産党中央委員会は、インドの革命的発展の現段階と国内の階級勢力の配置を明確に規定した党
綱領草案を発表した。
草案には、共産党がその遂行のためにたたかわなければならないもっとも重要な任務はつぎの
ことがらであることが指示された。すなわち、地主の土地所有の一掃と農民への土地の無償譲渡、
国の真の独立のための闘争、イギリス帝国主義者と協力する地主、藩王、大資本家のインド政府
を新しい人民民主主義政府にとりかえること、外国企業と半官半民会社の国有化、米・英の侵略
ブロックからの脱退と平和のための、パキスタン、セイロンとインドの接近のための闘争の遂行
がそれである。これらの任務を遂行するために、共産党は、緊急方策として労働者、農民、勤労
インテリゲンツィア、国の自由に関心をもつ民族ブルジョアジーの民主統一戦線の結成を提起し
た。
一九五一年十月にひらかれた共産党全国会議は、万場一致で綱領草案を承認し、中央委員会の
新しい構成員を選出した。共産党中央委員会書記長にはアジョイ・ゴーシュが選出された。
共産党の綱領草案は、党の組織的・イデオロギー的・政治的統一を強化するための基礎となっ
た。綱領草案は、党と人民大衆との結びつきを強化し、大衆的・民主主義的諸組織における党の
勢力を強化することを促進した。一九五二年二月におわったインド国会および州立法会議の総選
挙の結果が、このことを証明している。共産党が結成し、共産党にひきいられたさまざまな民主
主義政党や組織の参加した左翼統一戦線は、若干の州、主として南部インドでは大きな成果をお
さめた。インド共産党は、他の諸政党とならんで、平和擁護者の運動に積極的に参加している。
インド共産党は、平和条約締結にかんする世界平和評議会の呼びかけに応ずる署名獲得の主唱者
の一員である。
インド共産党は、民主主義的中央集権制の原則と生産および地域にもとづいて創立された。下
部党機関は地方党機関に従属し、地方党機関は州党機関に従属している。党の先頭には、党大会
で選出される中央委員会が立っている。