最近、おためごかしと厚顔無恥に基づいた歴史修正主義者としての日本共産党の活動が余り
にも面白いので、ここに先日ゲットした「世界の共産党」(大月書店・1955年初版)から、
当時日本共産党が各国の党をどのように紹介していたかを貼り付ける。大枚はたいてゲットし
て公開しないことは、「全ては人民のもの」(世界を揺るがした十日間より)という製作者た
ちに対して不義であろう(猛藁)。
勿論、これはソヴェト大百科事典の訳本であるが、当時一枚岩だったらしいので、別に「日
本共産党」が紹介と言ってもかまわないと判断する。相手は日本人民だし。まずは日本共産党
から。ご要望のある国の共産党(労働党)を、順次紹介する。
・・・誹謗中傷は、XXヘ行きな、というレスがくれば、最高である。それは、自己否定って
ものである。
日本共産党
日本共産党は、日本労働者階級の前衛部隊であり、労働者階級と全勤労者の利益を代表してい
る。日本共産党は、大十月社会主義革命の影響をうけてはじまった日本プロレタリアートの革命
的闘争の力づよい高揚の情勢のなかでうまれた。一九二〇年十二月に、「日本社会主義同盟」が
創立された。労働運動におけるさまざまな潮流を統合した同盟は、労働者階級の真の指導者とな
ることはできなかったが、それは日本共産党の創立準備に重要な役割をはたした。同盟の分裂に
おわったマルクス主義者とアナルコ・サンディカリストのグループのあいだの同盟内部の思想闘
争は、マルクス主義グループのイデオロギー的・組織的発展と強化をうながした。マルクス主義
グループ「水曜会」のメンバーのイニシアティヴによって、一九二二年七月十五日に、日本の共
産主義者とそれに親近なグループの大会が召集され、そこで、日本共産党の組織的・政治的形態
ができた。日本共産党の創立に積極的に参加したのは、日本の労働運動のすぐれた働らき手であ
る片山潜、渡辺政之輔、市川正一、徳田球一、その他であった。一九二三年二月の日本共産党第
二回大会および一九二三年三月の臨時大会で、日本共産党の規約と綱領が採択された。綱領の主
要な要求は、「天皇制の廃止と民主主義共和国の樹立」であった。日本共産党は、日本帝国主義
によってくわだてられた年若いソヴェト共和国にたいする干渉を中止させるために精力的にたた
かった。
日本共産党は、結成の当初から一九四五年まで、このうえもなく残忍な弾圧と迫害の条件のな
かで非合法に存在してきた。党は、社会民主主義と無政府主義にたいする、右翼日和見主義的・
解党主義的偏向(山川均その他)、左翼トロツキスト・グループ(福本一夫その他)にたいする
容赦ないたたかいのなかできたえられた。一九二四年三月に、山川の支持者からなっていた日本
共産党指導部は、日本共産党の解党を決議した。しかし、下部組織とコミンテルン執行部の支持
をうけていた日本共産党中央委員会の革命的分子の努力によって、党にたいするこの陰謀は粉砕
された。一九二七年七月に、日本における戦闘的マルクス主義政党創立のための闘争の基礎とな
ったコミンテルンの日本問題にかんするテーゼが発表された。一九三七年に、日本共産党は、コ
ミンテルン執行委員会のテーゼをその活動のよりどころとして、日和見主義的な山川一派と福本
一派を思想的に粉砕し、組織的に孤立させ、大衆のなかで、合法的な労働者・農民の政党である
「労農党」のなかで、革命的労働組合の中心である「評議会」のなかで、無産青年同盟その他の
なかで、党の勢力をつよめた。一九二八年二月の国会選挙では、日本共産党は、「労農党」との
統一戦線を結成し、候補者は、共産党員の支持のもとに二〇万票を獲得した。
国内の革命運動の成長におそれをなした軍事的・警察的天皇制は、共産党にたいしてこのうえ
もなく残忍な弾圧をくわえた。一九二八年三月十五日と一九二九年四月十六日に、共産主義者や
その他労働運動の活動家の大量の逮捕がおこなわれた。日本共産党の影響下にあった諸組織は禁
止された。地下の困難な条件のもとで活動しながら、日本共産党は、ブルジョア・地主反動に反
対し、日本人民の解放をめざす英雄的な闘争をつづけた。日本共産党は、反戦・反ファショ統一
戦線の結成のために成功的な闘争をおこなった。日本共産党は、日本帝国主義の対外政策の侵略
的性格をばくろした。とくに大きな意義をもっていたのは,日本共産党によって組織された、中
国における日本帝国主義の軍事的挑発と干渉に反対し、日本軍隊の満州からの撤退と中国プロレ
タリアートとの共同行動(一九二八年、三一年、三七年)をめざす広範な反戦運動であった。残
忍な弾圧の条件下における非合法的存在の時期には、日本共産党は、比較的小さかったが、戦闘
的・革命的組織であった。党員数は、一、〇〇〇名をこえなかった。
帝国主義日本の壊滅(一九四五年)は、国の独立的・民主主義的発展のために必要な条件をつ
くりだした。しかし、民主主義運動の嵐のような発展にあらわれた平和と民主主義にたいする日
本人民の志向は、アメリカ合衆国の占領当局とそれに支持されている日本の反動のはげしい抵抗
にでくわした。このような情勢のなかで、一九四五年十月に地下からあらわれた日本共産党の合
法活動が開始された。一八年間の投獄ののちに徳田書記長を先頭とする日本共産党の指導的活動
家のグループは出獄した。一九四五年十二月に、日本共産党第四回大会がひらかれ、行動綱領と
規約を採択し、また党の指導機関を選出した。日本共産党中央委員会書記長には徳田球一がえら
ばれた。日本共産党の綱領は、帝国主義体制の絶滅と人民民主主義共和国の樹立、地主的土地所
有の絶滅と土地の農民への譲渡、独占資本の人民管理の要求をかかげた。日本共産党は、日米の
反動に反対し、一九四五年のポツダム宣言の完全かつ即時遂行をめざす断固たる行動綱領をもっ
てあらわれた国内でただ一つの政党であった。日本共産党は、民主主義統一戦線の綱領を発表し
て、全民幸主義勢力の統一のための積極的闘争を開始した。一九四五年末から一九四六年初頭に
かけての時期は、そのあいだに増大したストライキ闘争の高揚によって特徴づけられた。日本共
産党は、この闘争の指導をおこなった。ストライキは、民主主義的原則にもとづく経済の再建と
ポツダム宣言の実施のサボタージュを中止せよとの要求をふくんだ日本共産党のスローガンのも
とにおこなわれた。この闘争のあいだに、日本共産党は、大規模に労働者の生産管理戦術を実践
した。この戦術は、日本の反動が経済再建をサボタージュしている情勢のもとでは大きな意義を
もっていた。第五回大会(一九四六年二月)までに、地下から出てきたのちの党の組織形態は完
全にできあがった。大会は、党を政治的・組織的に強化する任務を審議し、大衆のなかで党の勢
力を拡大する方策をさだめ、共産党の綱領と規約を変更し、農民運動の任務、農兼綱領草案、そ
の他多くの問題を審議した。大会は、反動的幣原政府の打倒を訴えた日本の勤労者にたいする呼
びかけと、発生した情勢のなかで共産党の新しい戦術方針をさだめた宣言を採択した。一九四六
年四月に、日本共産党は、衆議院選挙に参加した。日本共産党の立てた候補者には二一〇万票が
投ぜられ、日本共産党は、はじめて日本の国会に五名の自党の議員をおくった。権力をにぎった
吉田政府は、ポツダム宣言のサボタージュ政策をつづけた。反動政府が、勤労者の要求の遂行を
拒絶したために、日本共産党はゼネラル・ストライキをよびかけ、吉田政府の打倒と人民民主主
義政府の樹立の一般スローガンのもとにゼネラル・ストライキの準備を展開した。一九四七年二
月一日に予定されていたゼネラル・ストライキは、アメリカ占領車当局によって禁止された。そ
れにもかかわらず、ゼネラル・ストライキの準備は、革命的基礎のうえに、労働者と労働組合運
動を団結させる点で大きな役割を演じた。労働者階級の組織は成長した。日本の労働組合は、一
九四七年までに、約四〇〇万人を団結させた。一九四七年四月の参議院選挙では、日本共産党は
約一〇〇万票をあつめ、四人の自党の議員をおくった。一九四七年十二月に、日本共産党第六回
大会がひらかれた。大会の活動で主要な地位を占めたのは、綱領・戦術問題、党内のイデオロギ
ー・教育活動の任務、党内の小ブルジョア的・社会民主主義的勢力との闘争であった。大会は、
行動綱領、農業綱領を採択し、党の戦略・戦術方針起草委員会をつくった。
大会以後の日本共産党の主要な努力は、労働者階級と農民の大衆組織の強化、そのなかでの党
の勢力の強化、国のファショ化に反効し、アメリカ帝国主義との公然たる同盟にはいった日本の
反動の反人民的政策に反対する統一行動の組織にむけられた。
日本共産党中央委員会の第十回、十一回、十二回総会(一九四八年)は、きわめて重要な意義
をもっていた。これらの総会で採択された「平和、民主主義、民族独立擁護のための宣言」、「民
主民族戦線の結成にかんする」決定、その他は、平和と民族独立のための全人民的闘争の発展に
とって大きな意義をもち、広範な民主主義勢力の結集を促進した。
共産党は、ストライキにたいする日本の労働者の権利をうはった占領当局の指令(一九四八年)
に反対する広範な抗議運動を組織した。共産党は、アメリカの「日本の経済安定計画」をばくろ
し、それが、日本を奴隷化し、国をアメリカ合衆国の兵器庫にかえようとする計画であると規定
した。日本共産党は、労働者の大量馘首と労働条件の悪化に反対し、労働組合が政治活動へ参加
する権利をうばわれることに反対する強力な運動を組織した。共産党は、進歩的勢力の結集と、
大きな労働組合、農民およびその他の民主主義的諸組織がその影響下にあった民主主義運動の強
化に大きな成功をおさめた。一〇〇以上の労働組合と、一〇〇〇万人以上を結集した社会・政治
団体が、日本共産党の綱領の主要な要求を支持した。一九四九年一月の衆議院総選挙で、日本共
産党は、三〇〇万票を獲得して、三五名の自覚の議員を国会におくった。日本共産党の党員数は、
一九四九年のなかごろまでに二〇万人以上に達した。「しかしながら、他方では、二つの日和見
主義が発生してきた。一つは、一九四九年の春、第十五回中央委貝会総会で明確になったもので、
アメリカの占領制度を軽視して、議会行動を中心とする平和的手段による革命を主張するもので
あった。他は、一九四九年九月からあらわれてきたもので、日本の支配は、完全に、アメリカ帝
国主義者の手中にあり、吉田政府以下の国および地方の政治機関は、すべて、アメリカ帝国主義
者の機械的道具にすぎないと、断定するものであった。それゆえ、彼らは、アメリカ占領軍との
みたたかうことが現在の党の主要な任務であると主張して、吉田政府との闘いを無視した。」〔徳
田球一『日本共産党三十周年にさいして』、本文庫版『日本共産党闘争小史』一四ページ〕日本
共産党第十八回拡大中央委員会(一九五○年一月)は、新しい情勢を審議し、徳川の報告「新し
い情勢とこれにたいするわが党の政策」のなかで定式化された、党の諸任務にかんする発展した
決定を採択した。しかし総会の決定は、徳田が指示しているように、日本の現情勢の評価と、国
の現情勢に適応した基本的な革命的行動の決定を十分に明確にしなかった。「われわれは、党の
発展の上に、新しい段階をひらくために、党内の矛盾と意見の相違をなくする新しい綱領を必要
とした。」〔徳田球一前掲書、本文庫版一五ページ〕戦闘的マルクス主義的綱領にたいする闘争で、
党は、「左翼」および右翼日和見主義を粉砕し、党の困難を利用し、党を内部から粉砕しようと
した日米反動の代弁者の正体をばくろした。
党の活動は、ますます増大しつつある反動の条件のなかでおこたわれた。一九五○年六月六日、
アメリカ占領当局の命令によって、二四名の日本共帝党中央委員は、政治活動を禁止された。日
本共産党中央委員会の中央機関紙『アカハタ』は発行を停止された。民主主義運動にたいする大
衆的弾圧の新しい動きかはじまった。日本共産党は、半非合法状態に移行することを余儀なくさ
れた。日本共産党は臨時中央指導部を設けた。六月十八日には、非合法に全国代表者会議がひら
かれ、新しい情勢下における党の任務を決定した。党は、反動の行動を、日本をアメリカ帝国主
義の同盟者として新しい戦争準備をさせるものであり、日本におけるファシズムの復活であると
規定した。
一九五一年二月に、非合法の条件のもとで大会にかわって日本共産党第四回全国協議会がひら
かれ、党規約と、平和と民主主義のための闘争の展開にかんする重要な決定、分派主義者との闘
争にかんする決議を採択した。全国協議会は、日本共産党の指導機関を選出した。共産党員は、
日本で展開された平和擁護運動に積極的に参加した。朝鮮におけるアメリカの干渉に関連して、
さらにまた、米英ブロックによる不法な対日単独講和条約と、それにともなう軍事協定の締結準
備に関連して、乎和擁護闘争は広範に発展した。日本共産党員は、この条約と協定に調印するこ
とは人民の利益のおどろくべき裏切りであり、侵略的・帝国主義的計画を実行するために、アメ
リカ帝国主義と同盟をむすぶことを意味するものであると指求した。共産党員は、日本におしつ
けられた奴隷的な協定に反対し、ソ同盟と中華人民共和国の参加した全面講和条約の締結のため
に断固として闘争するよう日本人民によびかけた。日本の反動は、その反人民的政策にたいする
抵抗運動の成長を麻痺させようとして、アメリカ帝国主義者の指令によって、サンフランシスコ
会議の前夜九月四日に、日本共産党臨時中央指導部の一九名の逮捕命令を出した。
一九五一年十月に、日本共産党は、第五回全国協議会によって採択された新綱領(「日本共産
党の当面の要求」)を発表した。綱領のなかでは、戦後日本の政治情勢のマルクス主義的分析に
もとづいて、日本における当面の革命の性格を民族解放民主主義革命と規定し、その革命が、日
本の民族的独立と民主主義的発展を保障するための第一段階として避けることのできないもので
あることを理論的に基礎づけた。綱領のなかでは、「占領制度から日本を解放する途上における
第一の決定的なあゆみ」として、日本の反動政府を打倒することが必要なことを定式化した。日
本の全人民がその実行に関心をよせている諸要求を提起して、綱領は、革命の重要な力としての
民族解放民主統一戦線の結成の可能なことを保障した。綱領は、日本における革命が平和の手段
によって達成できるという「理論」や、日本の革命が、あたかもアメリカ帝国主義にたいする人
民の全般的な闘争とは関係なしに特別な方法で達成できるかのように老える、党内にはいりこん
だ「理論」の正体をばくろした。綱領は、主要な綱領的・戦術的諸問題について日本共産党内に
生じた不明確さや意見の不一致をとりのぞいた。党内では、さまざまな日和見主義的グループは
一掃された。綱領は、党の政治的・組織的統一を強化する基礎となった。綱領は、人民の統一と、
民族解放、平和、民主主義のための人民の闘争の成功の強固な基礎をつくりだした。日本共産党
中央委員会書記長徳田球一は、ソ同盟共産党第十九回大会へおくったあいさつのなかでつぎのよ
うに指示した。「新綱領によって武装されたわが党は、自己の隊列の統一と団結を強化し、米・
日反動勢力にたいする闘争で、国民の進歩的勢力を着々と統一している。」国内で展開された、
吉田政府の反民族的政策にたいする全人民的抵抗運動、日本の再軍備にたいする闘争、労働者階
級の大規模な政治的ストライキ、平和のための闘争の発展は、日本共産党の新しい綱領が、全日
本人民の闘争の統一綱領になりつつあることを証明している。民族解放民主主義革命の思想は、
人民大衆のますます広範な支持を獲得しつつある。
日本共産党は、組織関係では、民主主義的中央集権主義の原則に基礎をおいている。党の最高
機関は党大会であり、大会か中央委員会を選出する。覚の諸組織では、マルクス=レーニン主義
理論の研究とプロレタリア国際主義の思想の宣伝がおこなわれている。
日本共産党の中央機関紙は『アカハタ』である。覚の理論的機関誌は『前衛』である。