オーストリア共産党
オーストリア共産党は、オーストリア労働者階級の前衛部隊であり、国の平和、独立、民主化
をめざすオーストリア人民の闘争の指導勢力である。党は一九一八年十一月三日に、大十月社会
主義革命の影響のもとに展開された革命的高揚の情勢のなかで創立された。オーストリア共産党
は、社会民主党の左翼グループ、「社会主義学生自由連合」の代表、ロシアから帰国した捕虜兵
士、以前の労働者によって結成された。一九一九年三月に、オーストリア共産党は共産主義イン
タナショナルの結成に参加した。しかし、年若い共産党は、思想・組織関係できわめて弱体であ
った。党の指導部には、日和見主義の重荷を身につけた小ブルジョア・インテリゲンツィア、社
会民主党出身者がはいりこんだ。このことは、第一回党大会(一九一九年二月)にはっきりとあ
らわれた。戦術問題にかんして、党内では「極左的」誤謬が見のがされた。一九二〇年に、オー
ストリア共産党は、国会選挙をボイコットする決定をおこない、一九二〇年八月三十一日にオー
ストリア共産党の新聞『ローテ・ファーネ』〔赤旗〕にドイツ語で印刷されたオーストリア共産
主義者への手紙によって、一九二〇年八月十五日によびかけられたヴェ・イ・レーニンの個人的
忠告ののちにはじめてその誤りをただした。
オーストリア共産党の活動は、党創立の当初から衝突していたカトリックのキリスト教社会党
や社会民主党指導者のような強力な反対者がいたことによって複雑かつ困難になった。党の戦闘
力は、オーストリア共産党内部の日和見主義的グループ間の闘争によってもよわめられた。第六
回(一九二三年)および第七回党大会(一九二四年)は、日和見主義者との闘争の顔のもとにお
こなわれた。一九二四年十一月にひらかれた全国党会議では、分派主義者にたいして大きな打撃
がくわえられた。一九二四年十一月十五日に、ヨハン・コプレニッヒが党書記長に選出された。
オーストリア共産党は、彼の指導のもとに分裂と分派闘争の状態からぬけだして、大衆との結び
つきを強化した。第八回党大会(一九二五年)は、歴史的意義をもっていた。この大会で、党は
当面の政策のあらゆる問題にかんする見解をさだめ、日和見主義者を粉砕した。共産党員は、ウ
ィーンの労働者の革命的進出(一九二七年七月)に積極的に参加した。共産党員は労働者大衆の
共鳴をかちとり、そのことが、オーストリア共産党を強化するうえに大きな意義をもった。
社会民主党指導者の援助をえたブルジョアジーのウィーン労働者の反ファシスト七月行動にた
いする圧迫は、一九二九―三三年の経済恐慌の情勢下に生じつつあったオーストリアのファショ
化の長い過程に端緒をあたえた。党はファシズムに反対し、勤労者大衆にたいするブルジョアジ
ーの攻撃に反対する闘争の先頭に立った。しかし、党内にもぐりこんだ右翼日和見主義者は、党
の成功的な闘争をさまたげた。第九回党大会(一九二七年)は、右翼日和見主義者の反党的見解
に打撃をくわえ、一九二九年二月にひらかれた第十回党大会では、右翼的背教者は、徹底的に粉
砕され、党から除名された。勤労者大衆のなかで党の権威は強化された。何千という社会民主党
員が党の陣列にくわわった。第十一回党大会(一九三一年)は、労働者の経済的状態の改善をめ
ざし、ファシズムとファシズムの協力者に変った社会民主党指導者に反対する闘争のための統一
労働戦線を組織する方向に党をむかわせた。党は「社会・民放解放綱領」を作成した。
一九三三年五月末に、ドルフース・ファシスト政府は、共産党を禁止し、七月には、オースト
リア共産党の新聞『ローテ・ファーネ』は閉鎖された。共産党は地下にもぐることを余儀なくさ
れた。オーストリア共産党は、ファシズムにたいする抵抗をしめしつづけていたただ一つの勢力
であった。反ファシスト統一労働戦線をまもりながら、オーストリア共産党は、労働者、婦人、
青年のあいだに反ファシスト統一行動委員会をつくり、小冊子や新聞を発行し、ファシストの挑
発に反対する闘争をよびかけた。一九三四年二月に、ウィーンのプロレタリアートにたいするフ
ァシストの出兵にたいする回答として、オーストリア共産党は、労働者階級にゼネラル・ストラ
イキと武装蜂起をよびかけ、指導的にそれに参加した。一九三四年の二月戦闘のときには、共産
党員のイニシアティヴによって、共産党員と社会民主党傘下の労働者のあいだの戦闘行動の統一
が実現された。
一九三四年の二月戦闘は、共産党のまわりに大衆を結集する端緒となった。労働者をうらぎり、
公然とファシズムのがわにうつった社会民主党の指導者をばくろするオーストリア共産党の積極
的な活動がこのことを促進した。一九三四年の二月戦闘ののち、左翼社会学義者のグループ――
「ロート・フロント」〔赤色戦線〕が社会民主党から分離してオーストリア共産党にくわわった。
一九三四年に、第十二回党大会がひらかれた。大会は、反ファシズム勢力の結集とオーストリア
労働者階級の戦闘の統一をめざす闘争に注意を集中した。オーストリア共産党のイニシアティヴ
によって、一九三四年にファシストによって解散させられた自由労働組合およびその他若干の労
働者の組織が、革命的基礎のうえに地下で再建され、社会民主党傘下の労働者の一部との統一戦
線が樹立された。
ヒトラー・ドイツのオーストリア占領に先立つ数年間、オーストリア共産党は、コミンテルン
第七回大会(一九三五年)の決定にもとづいて、オーストリアの孤立を擁護し、ドイツ・ファシ
ズムに反対する労働者階級の闘争の組織者として行動した。ヒトラー占領軍のオーストリア占領
の時期(一九三八―四五年)に、オーストリア共産党は闘争をやめなかった。共産党員は、オー
ストリア人民の民族的利益を擁護しながら、ヒトラー体制にたいして勇敢に抵抗した。一二名の
中央委員をふくむ数千の共産党員が、ヒトラーの拷問部屋で死んだ。
一九三九―四五年の第二次世界戦争中に、オーストリア共産党は、オーストリア国民にオース
トリアの民族的復興の道をしめした。共産党は、オーストリアの民族的利益から出発して、一九
四四年六月に宣言をつくって発表した。そのなかで、ヒトラー主義に反対する闘争を積極化する
ようオーストリア国民によびかけた。ソ同盟がヒトラー主義の圧迫からオーストリアを解放した
ため、オーストリア共産党は地下から出てきた。第二次世界戦争ののち、共産党の活動は、オー
ストリアの民族的独立をまもり、国をアメリカ帝国主義の植民地に変えることに反対し、オース
トリアとの国家条約の締結をめざし、国の民主化をめざし、米・英帝同主義者の協力をえてオー
ストリアに復活しつつあるファシズムに反対する闘争にむけられた。オーストリア共産党は、ソ
同盟の平和愛好政策を支持し、オーストリアとソ同盟の友好関係の確立のためにたたかっている。
ソ同盟の平和愛好的志向を支持しながら、オーストリア共産党は、そのことによってなによりも
まずオーストリア人民の平和と自由をめざす闘争を支持している。オーストリア共産党は、帝国
主義者の協力者――社会党の右翼日和見主義的指導部およびカトリック「人氏」党の反動的指導
者――による人民の利益の裏切りをばくろしている。党は、労働者階級の行動の統一と勤労者の
生活水準の改善のために努力している。
一九四六年四月十九―二十二日にひらかれた第十二回党大会は、十二年間のオーストリア共産
党の活動の総決算をおこなった。大会は、オーストリアに真の民主主義をうちたてるための闘争
における党の統一をはっきりとしめした。大会は、オーストリア共産党の主要な任務として、労
働者階級の統一、反動にたいする全民主勢力の団結、共産党の陣列の強化をめざす闘争を提起し
た。オーストリア共産党第十四同大会(一九四八年十月二十九―十一月二日)は、人民民主主義
と社会主義をめざす党の闘争を予定した綱領要求を採択した。大会は、共産党の陣列を思想的・
組織的にさらにいっそう強化する必要のあることを指示した。大会は、「マーシャル計画」を採
択したオーストリア政府はアメリカの政策の道具に変化し、オーストリアの右翼社会主義者はア
メリカ帝国主義の手さきに変ったことを確認した。一九四九年十月の国会選挙で、党は、国の独
立と勤労者の生活状態の改善を要求として提起した。選挙のときオーストリア共産党は「左翼ブ
ロック」をむすんで左翼社会主義者と共同行動をとり、「左翼ブロック」には二一万二〇〇〇票
が投ぜられた。「左翼ブロック」は、国会で五つの議席をえた。オーストリア共産党のイニシア
ティヴによって、一九五〇年十月に、政府による穀物、その他の食料品、さらにまた工業生産品、
石炭等々の値上げにたいする回答として、ウィーンの労働者は、全オーストリアをまきこんだス
トライキを宣言した。ストライキには、四〇万人以上の労働者と勤労者が参加した。
戦後の時期に、党は、民主主義的中央集権主義の原則による党の建設を予定した規約を採択し、
組織的再編成をおこない、党諸組織を小単位にわけ、断固として生産労働者のなかで活動を強化
する方針をとった。
一九五一年十一月一―四日にひらかれた第十五回党大会は、平和と民族の独立、さらにまた、
党の陣列の組織的・イデオロギー的強化をめざす党の闘争の最初の総決算をおこなった。大会は、
平和と自由と孤立をまもり、アメリカ帝国主義の侵略政策に反対し、オーストリア政府によって
実行されている民族裏切り政策に反対するオーストリア国民の闘争の統一戦線を樹立し、平和と
民族の孤立と社会的進歩の政府をめざす闘争のための統一戦線を樹立する任務を党にあたえた。
オーストリア共産党はマルクス=レーニン主義理論とソ同盟共産党の経験によってその活動を
指導され、国際主義の精神で労働者階級と全勤労者を教育している。一九五三年二月におこなわ
れた国会選挙で共産党は、多くの民主的組織とブロックをむすんで、「オーストリア人民反対党
」をつくった。「オーストリア人民反対党」には二二万八〇〇〇の賛成票が投ぜられた。「オー
ストリア人民反対党」は国会に四つの議席をもっている。
オーストリア共産党の中央機関紙は『エスタライヒッシェ・フォルクスシュティメ』、理論機
関誌は『ヴェーク・ウント・ツィール』である。六つの地方機関紙、多くの特殊新聞、婦人、青
年、その他のための雑誌が発行されている。