大月書店「世界の共産党」

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   ドイツ共産党

 ドイツ共産党は、ドイツ労働者階級の前衛である。ドイツ共産党は、大十月社会主義革命の影
響のもとに強化されたドイツにおける革命的危機の条件のなかで結成された。革命的危機のもっ
とも明瞭なあらわれは一九一八年の十一月革命であった。ドイツ共産党は、ドイツ社会民主党お
よびいわゆるドイツ独立社会民主党の日和見主義的指導者に反対する苛烈な闘争のなかでうまれ
た。ドイツ共産党の基礎は、第一次世界戦争中にうまれた、カール・リープクネヒト、ローザ・
ルクセンブルグ、ウィルヘルム・ピークに指導される「スパルタクス団」の革命的活動によって
準備された。
 創立党大会(一九一八年十二月三十日―一九一九年一月一日)は、ソヴェト権力とプロレタリ
アート独裁を擁護する闘争がドイツ労働者階級の直接的任務であると宣言した。大会は、党がマ
ルクス主義の忠実な継承者であることを確認した。党大会は、ソヴェト・ロシアとの完全な連帯
性を表明した。しかし、党綱領および党大会のその他の諸決定は、党がまだルクセンブルグ的誤
り(労働者階級の前衛としての党の役割にたいする認識不足、プロレタリアートの同盟者として
の農民の過小評価、その他)を克服していないことをしめした。
 党大会は中央委員会を選出し、カール・リープクネヒト、ローザ・ルクセンブルグ、ウィルヘ
ルム・ピーク、その他がそれにくわわった。ドイツ共産党創立大会は、特別な歴史的重要性をも
っていた。大会はドイツ労働者階級の革命的・マルクス=レーニン主義的・戦闘的政党の基礎を
すえた。一九一九年に、ドイツ共産党は共産主義インタナショナルに加入した。
 反動のあらゆる勢力が年若い共産党に敵対した。一九一九年に、ベルリンにおける労働者の一
月蜂起が鎮圧されたのち、ドイツ帝国主義の召使である右翼社会民主主義者は、反革命軍閥をよ
りどころにして、カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルグの暗殺を組織した。共産党
は地下にもぐることを余儀なくされた。このような条件のなかで、いまだにボリシェヴィズムの
戦略と戦術を自分のものにすることができなかったドイツ共産党は、労働者階級を統一すること
ができず、一九一九年に、明瞭な計画もなく、孤立しておこなわれたプロレタリアートの革命的
進出に指導をあたえることができなかった。このことは、反革命がプロレタリアートの革命的進
出に残忍な弾圧をくわえる可能性をあたえた。
 ドイツ共産党は、その失敗と誤りからつぎのような実践的結論をひきだした。ブルジョア国家
機関を徹底的に粉砕しなければ、プロレタリア・ソヴェト共和国を樹立することはできない。党
は、大衆との緊密な結びつきがあってはじめて成功的に運動を指導し、セクトに堕さないでいる
ことができるのである。これらの問題は、ハイデルベルヒのドイツ共産党第三回大会(一九一九
年十月二十―二十四日)における審議の対象となった。大会は、革命における党の指導的役割の
問題に明確さをあたえた。党は、反革命によってあたえられた打撃から急速にたちなおることが
できた。
 一九二〇年にドイツ共産党は、「ソヴェト・ロシアから手をひけ」という国際的カンパニアに
くわわるようドイツ労働者階級によびかけ、ドイツが、ソヴェト共和国にたいする西欧帝国主義
諸国の干渉に参加することに反対する闘争に大衆を動員することに成功した。ドイツ共産党は、
反革命的カップの一揆に反対するルール・プロレタリアートの英雄的闘争を指導した。
 ドイツ共産党は、一九二〇年六月にはじめて帝国議会の選挙に参加して、約六〇万票を獲得し
た。共産党の努力は、いわゆる独立社会民主党からその左翼を分裂させることにむけられた。こ
の仕事で大きな役割を演じたのは、左翼「独立社会民主党」員をドイツ共産党の階列にひきいれ
たエルンスト・テールマンであった。一九二〇年十二月のベルリン大会ののち、共産党と「独立
社会民主党」の左翼との合同がおこなわれ、ドイツ共産党はいちじるしく成長し、共産主義イン
タナショナルのロシア共産党(ボ)支部についでもっとも大きな支部となった。プロイセン国会
の選挙(一九二一年二月)で、ドイツ共産党は一二一万一〇〇〇票と三一の議席を獲得した。こ
れにたいする回答として、反動は労働者階級にたいする攻撃にうつった。ブルジョアジーは、労
働者階級を部分的に粉砕しようと考えて、中部ドイツのプロレタリアートが公然と進出するよう
煽動した。ドイツのマンスフェルトその他の地方の労働者は蜂起した(一九二一年三月)。三月
闘争は、一九一八年の十一月革命以後に生じたそれまでのドイツ労働者の進出にくらべて一歩前
進を意味した。しかし、労働者の闘争は、党の指導部に潜入した裏切者レヴィ一味の行動と、そ
のころドイツ共産党内にひろまっていた、攻撃のための客観条件を計算にいれないで是が非でも
攻撃するという理論によってよわめられた。ドイツ共産党は、労働者に武装蜂起をよびかけたと
はいえ、運動を指導するために統一的な中心部をつくらず、蜂起した人々に、ドイツの他の地方
の広範な人民大衆のがわからの支持を保障しなかったので、戦闘が開始されたとき、レヴィ一味
は、依然として運動を暴動《プッチ》であるといって、労働者に武器をすてるようよびかけた。
労働者の運
動は、プロイセン警察によって弾圧された。
 コミンテルン第三回大会(一九二一年)は、中部ドイツの蜂起した労働者のヒロイズムを十分
に評価したのち、ドイツ労働者の三月進撃の時期における「攻撃理論」が誤りであったことを指
示した。それと同時に、第三国大会は、右翼解党主義的風潮に反駁をくわえた。一九二一年八月
二十二―二十六日にイェナでひらかれたドイツ共産党第七回大会は、コミンテルン第三回大会に
よってあたえられた三月進撃の正当な評価を承認した。レヴィは裏切りの理由によって、すでに
一九二一年四月に党から除名されていた。自分の経験を基礎にし、コミンテルンの決定に指導さ
れて、ドイツ共産党は、社会民主党傘下の労働者との統一戦線を結成し、労働者階級の大部分を
獲得することが必要であるというもっとも前要な結論をひざだした。年若いドイツ共産党を強化
するうえに大きな意義をもっていたのは、ヴェ・イ・レーニンの労作『共産主義における「左翼
」小児病』(一九二〇年)、共産主義インタナショナルの戦術を擁護したコミンテルン第三回大
会における彼の演説、『ドイツ共産党員への手紙』(一九二一年)、その他のレーニンの労作や
演説である。フランスとベルギーのルール占領にともなって尖鋭化したドイツの政治・経済的危
機によってひきおこされた革命運動の成長の条件のなかで、ライプチヒでドイツ共産党第八回大
会(一九二三年一月二十八日―二月一日)がひらかれた。労働者階級の統一戦線の結成と労働者
政府の樹立の問題が大会の注目の中心であった。ドイツ共産党のマルクス=レーニン主義的中核
は大会で、エルンスト・テールマンの指導のもとに党指導部にかくれていた党に敵対的なブラン
ドラ=タールハイマーの日和見主義的徒党にたいして断固たる闘争をおこなった。エルンスト・
テールマンは、共産党員と社会民主党傘下の労働者の統一戦線樹立のスローガンを提起した。大
は、ドイツおよび外国の金融資本に反対し、労働者階級の権力の樹立を擁護するためにたたか
うよう労働者階級と勤労者によびかけた。
 ストライキの巨大な波がドイツをとらえ、プロレタリア百人組がつくられた。労働者階級は、
ドイツ共産党の指導のもとに特別な力をもって、ルールの占領に反対し、ドイツ帝国主義と社会
民主党の右翼指導者の反民族的政策に反対する闘争をおこなった。ドイツ共産党は、フランス共
産党といっしょに、フランス占領軍のなかで大きな活動をおこなった。一九二三年八月に、ドイ
ツ共産党にひきいられたゼネラル・ストライキの結果、クノー政府は打倒された。
 一九二三年の秋には、革命運動の波は、ドイツのすべての重要な地方をとらえ、革命的危機は
いちじるしく尖鋭化した。
 革命的大衆の圧力のもとに、一九二三年十月、ザクセンとチューリンゲンに労働者政府が樹立
された。しかし、ブランドラー=タールハイマー一味は、大衆の革命的進出が政治権力を擁護す
るための武装闘争に成長転化することにブレーキをかけた。ついに革命的大衆の圧力と共産党の
地方諸組織の執拗な要求によって、ドイツ共産党中央委員会が、武装蜂起の準備をせよという指
令を党にあたえることを余儀なくされたとき、ブランドラー一派とトロツキストは、この蜂起の
準備を挫折させた。エルンスト・テールマンを先頭とするドイツ共産党のハンブルグ組織だけが、
その背後でプロレタリアートの先進的部隊を組織し指導した。
 共産党員に指導されたハンブルグの労働者は、三日日の苛烈な戦闘で、数倍もまさった反革命
勢力に反撃をくわえた。社会民主党右翼指導者の裏切りの結果、蜂起が孤立化したことが判明し
たときにはじめて、ハンブルグの労働者は組織的に退却した。ハンブルグ蜂起は、労働者階級の
勝利への意志をはっきりとしめし、ドイツ共産党史の栄光ある一ページに記載された。
 反動の迫害にもかかわらず、一九二三年十一月にその活動が公式に禁止されていたドイツ共産
党は、その活動をつづけた。ドイツ共産党は地下にあって、一九二四年には、労働者階級の経済
的利益を擁護するためのいくたの大ストライキを組織した。資本主義の一時的・部分的なぐらつ
いた安定と、外国、主としてアメリカ帝国主義によるドイツの金融的隷属化の条件のなかで、ド
イツ共産党は、ドイツ勤労者にドーズ・プランとドイツ国民にたいするその結果に反対し、国内
の反動に反対する闘争をよびかけた。
 フランクフルトにおける第九回党大会(一九二四年四月七―十日)で、ブランドラー一派はド
イツ共産党中央委員会から除名された。しかし、ルート・フィシャーとマスロフのトロツキスト
・グループの指導者が、一時的に党指導部を占領した。これら徒党の犯罪的行動の結果、大衆こ
とに労働組合におけるドイツ共産党の広範な勢力は一時減少した。
 党員大衆は、党のマルクス=レーニン主義的中核の指導のもとに、ドイツ共産党の敵にたいす
る闘争をおこなった。ベルリンにおける第十回党大会(一九二五年七月十ニー十七日)で、党の
敵は手ひどい反撃をうけた。労働組合活動にかんする原則的結論のなかで、エルンスト・テール
マンは、革命闘争の勝利の前提として、党が労働者階級の大部分を獲得することが必要なことを
指示した。党全国協議会(一九二五年十月三十一日)で、党の敵は指導的地位から追われた。新
しい中央委員会が選出された。中央委員会の構成員はプロレタリア的になった。ドイツ共産党中
央委員会はエルンスト・テールマンを先頭に立てた。
 ドイツ共産党中央委員会の新構成員を特徴づけてイ・ヴェ・スターリンは、コミンテルン執行
委員会第六回拡大総会のドイツ委員会における演説のなかで、つぎのように述べた。「ドイツ共
産党の現中央委員会は偶然に構成されたのではない。それは右翼的な誤りとの闘争のなかでうま
れた。それは『極左的』な誤りとの闘争のなかで強化された。だから、それは右翼的でも『極左
的』でもない。それはレーニン主義的な中央委員会である。それは、現在ドイツ共産党に必要な、
指導的な労働者グループである。」〔スターリン『コミンテルン執行委員会第六回拡大総会のド
イツ委員会における演説』、邦訳全集第八巻一三九ページ〕
 エルンスト・テールマンの指導のもとに、マルクス=レーニン主義的教えの基礎のうえに、ド
イツ共産党内では、真に革命的な、戦闘的マルクス主義政党の創立をめざす闘争が開始された。
ソ同盟共産党(ボ)の経験、さらにまたイ・ヴェ・スターリンの著作『ドイツ共産党の前途とボ
リシェヴィキ化について』(一九二五年)、コミンテルン執行委員会総会における彼の演説は、
ドイツ共産党にとって大きな意義をもっていた。革命的危機の条件のなかで党のとった闘争方式
はそれ以上資本主義の相対的安定期に適応しなくなった。ドイツ共産党は、ドイツ労働者の大部
分を獲得することを目的とした「迂回運動力式」へ移行しはじめた。この闘争の成果は、党の一
連の大規模な進出にあらわれた。諸侯の財産の無償没収のためのカンパニアにおいて、ドイツ共
産党は、「一プフェニヒも諸侯にのこすな」のスローガンのもとに、一九一八年の十一月ブルジ
ョア革命によって打倒された諸侯のために巨額の補償を要求している反動の攻撃に反対して、大
衆を動員することに成功し、社会民主党の日和見主義的指導者の意志に反して、共産党員労働者、
社会民主党傘下の労働者、勤労者の広範な層とのあいだに行動の統一をえることに成功した。一
四五〇万の選挙人が、諸侯の財産の無償没収に賛成投票した。
 一九二七年三月二―七日に、エッセンで第十一回党大会がひらかれた。大会で「極左的」一味
は完全に粉砕された。大会における演説のなかでエルンスト・テールマンは、西欧帝国主義諸国
の戦争準備に反対し、社会民主党の指導者によって支持されているドイツ帝国主義の侵略政策に
反対してたたかうよう党によびかけた。
 一九二八年に党は、右翼社会民主主義者ミュラー政府によってドイツ帝国主義の任務とされた
再武装政策と、ドイツの攻撃をソ同盟にむけるために、ドイツ独占者たちがドイツの軍事工業の
潜在勢力を復興することをたすけたアメリカ帝国主義者の政策をばくろするための大力ンパニア
をおこなった。一九二七―二九年に、ドイツ共産党は、大規模な大衆的ストライキの中核を指導
した。党は、党が創立した党外の大衆組織――「赤色戦線闘士団」、共産主義青年同盟、さらに
また労働組合員をその活動のよりどころとした。党は、社会民主党右翼指導者をばくろするため
の組織的活動をおこなったが、そのことは大きな、決定的な意義をもっていた。大衆のなかでの
ドイツ共産党の権威は増大強化した。一九二八年五月の議会《ライヒスターク》選挙における共
産党の成功(共産党は三二六万票を獲得した)はそのあらわれであった。下からの統一戦線戦術
の実現をめざす執拗な闘争において、共産党は、あらゆる毛色の日和見主義者と協調主義者の露
骨な妨害にもかかわらず、いちじるしい成果をおさめた。
 一九二九年五月一日に、社会民主党のベルリン警視総監ツェルギーベルによってこのメーデー
・デモは禁止されたにもかかわらず、ドイツ共産党のよびかけに応じて、力づよいデモンストレ
ーションがおこなわれた。警察がデモ参加者に発砲したとき、労働者はバリケードをきずいて、
武装闘争のなかでデモンストレーションにたいする自分の権利をまもった。
 大衆のなかでのドイツ共産党の勢力は、あいつぐ共産党にたいする弾圧(ドイツ共産党中央機
関紙『ローテ・ファーネ』と「赤色戦線闘士団」の禁止、革命的労働者の改良主義国労働組合か
らの大量除名、労働者――ドイツ共産党員の解雇)にもかかわらず、ますます増大した。ベルリ
ン――ウェデングでひらかれた第十二回党大会(一九二九年六月九―十六日)は、せまりつつあ
る革命戦への準備であった。改良主義者の意志に反して、社会民主党傘下の労働者と共産党員労
働者との行動の統一をつくりだし、労働者階級の大多数を獲得するための闘争が、大会に課せら
れた主要な戦術的任務であった。大会は、党が独自に労働者大衆のすべての経済闘争の指導をお
こない、この闘争を大衆的ストライキの方法によって政治的・革命的進出に変えることが、ドイ
ツ共産党のさしせまった目標であることを指示した。大会は、右翼日和見主義的グループを完全
に粉砕し、党から放逐するためのあらゆる方策をとることを中央委員会に依託した。党大会は、
日和見主義者のグループを中央委員会から除名した。右翼日和見主義者ブランドラーおよびター
ルハイマーは、ドイツ共産党を除名された。
 一九二九―三三年の世界経済恐慌と強化されつつあったドイツのファショ化の条件のなかで、
ドイツ共産党は、勤労者の利益の擁護にのりだし、恐慌からの革命的活路をめざしてたたかった
ドイツにおけるただ一つの政党であった。一九三〇年にドイツ共産党は、「ドイツ人民の民族的
・社会的解放の綱領」を発表した。綱領には、ドイツ共産党の指導下にある労働者階級が、ドイ
ツおよび外国帝国主義の桎梏からドイツ人民を解放することのできるただ一つの勢力であること
が強調された。一九三〇年十月に、ドイツ共産党は、貸金ひきさげに反対し、労働条件の改善の
ために進出したベルリンの一四万人の金属労働者のストライキの先頭に立ち、一九三一年一月に
は、
ルールのストライキの先頭に立ち、その過程で、ドイツ共産党は、労働者階級の統一戦線を
つくることに成功した。ドイツ共産党は、労働者階級と勤労農民とのあいだに同盟を樹立しよう
とこころみた。一九三一年には「農民にたいする援助の綱領」が発表された。一九三二年の夏ド
イツ共産党は、広範な「反ファシスト行動」を組織した。その目的は、所属政党と政治的見解と
は無関係に、ファシズムと戦争の危険とに反対する闘争のために勤労者を団結させることにあっ
た。
 帝国主義反動が、ファシスト独裁の確立を促進しようとして、プロイセンのブラウン=セヴェ
リング社会民主党政府を強制的に更迭させた一九三二年七月二十日に、ドイツ共産党中央委員会
は、ドイツ社会党にゼネラル・ストライキをよびかけた。しかし、社会民主党傘下の労働者大衆
は、闘争の準備をしていたにもかかわらず、社会民主党の右翼指導者はこの提案を拒否した。
 ドイツ共産党は、反動との闘争と労働者階級の利益の擁護のために大衆を動員する活動を、党
の陣列を強化する方策の実行にむすびつけた。ドイツ共産党は数的に増大し(一九二八年から一
九三二年までに二・五倍以上に増加)、人民大衆のなかでますます大きな権威をかちとった。一
九三〇年九月の議会《ライヒスターク》選挙で、ドイツ共産党は四五〇万票獲得し、一九三二年
十一月には五九〇万票獲得した。選挙の総決算は、労働者のいちじるしい部分がドイツ共産党支
特にむかいつつあることをしめした。しかし共産党はまだ労働者をファシズムにたいする決定的
な武装闘争にみちびくために必要な勢力をもっておらず、労働者階級もまた、準備が不足してい
た。せまりつつあったファシズムとの闘争の決定的時期に、ドイツ共産党は、社会民主党にファ
シズムにたいする反撃のための統一戦線を結成するようよびかけたが、社会民主党の指導者たち
は統一戦線を拒否した。彼らは、ブルジョアジーと協力し、本質的にはファシズムのために権力
への道をはき清め
た。ヒトラーの独裁が確立された日に、ドイツ共産党はふたたび、ファシズム
反撃のための統一戦線を結成するよう社会民主党によびかけた。しかし、社会民主党と労働組合
の右翼指導者は、ドイツ共産党のこの提案をも拒否し、ファシスト独裁の確立に協力した。ヒト
ラー独裁の確立によって、労働者階級およびすべての民主的勢力――とくに共産党にたいする未
曾有のテロルが開始された。ファシストは、数万のドイツ共産党員を逮捕した。数千の共産党員
がゲシュタポの拷問部屋でころされた。ヒトラー一味は、ドイツ共産党の新聞と集会を禁止し、
議会《ライヒスターク》におけるドイツ共産党の議席を剥奪した。一九三三年二月二十七日、ヒ
トラーの輩下は、共産党員にその罪をなすりつけ、党員にたいするテロルを強化するために、国
会に放火した。党はふたたび地下にもぐることを余儀なくされた。
 一九三三年三月三日に、ドイツ共産党および全ドイツ人民は大きな打撃をこうむった。ドイツ
労働者階級の指導者であるエルンスト・テールマンが、ファシストによって逮捕されたのである。
エルンスト・テールマンのもっとも親しい、信頼すべき戦友ウィルヘルム・ピーク、ワルター・
ウルブリヒト、J・シェールが党の先頭に立った。一九三三年十一月十三日には、シェールもゲ
シュタポの手に落ち、一九三四年三月に殺害された。しかし、残忍なテロルは、共産党員の闘争
にたいする意志をうちこわすことができなかった。
 ドイツ共産党は、ファシスト独裁のまえに降伏したことのないドイツにおけるただ一つの政党
であった。党は、ファシズムと戦争準備にかんするヒトラー一味の計画をばくろし、一度ならず
統一戦線結成にかんする提案をおこなったが(一九三三年三月一日、三月十四日、五月三日)、
あいかわらず、社会民主党と労働組合の先頭に立っていた右翼社会民主主義者の妨害に出くわし
た。
 一九三三年三月の国会選挙で、地下にあったドイツ共産党は、四八五万票を獲得した。そのこ
とは、人民大衆の共産党員にたいする信頼がよわまっていないことを証明した。一九三三年九―
十二月に、ヒトラー一味は、ドイツ共産党にたいする国会放火事件の訴訟という筋書を書いた。
もっとも困難な条件のなかでドイツ共産党は、反ファシズム闘争に大衆を団結させることをつづ
けた。
 コミンテルン第七回大会の決定に指導されながら、ドイツ共産党ブリュッセル協議会(一九三
五年十月)は、党活動を批判的に再検討した。協議会は、ファシズムとの闘争、戦争の脅威に反
対する闘争、ドイツ労働者階級のすべての部分の行動の統一と、フソシスト体制のすべての反対
者の自由、平和、パンをもとめる反ファシスト人民戦線への統合の基礎に立って労働者階級の利
益を擁護するための闘争、ヒトラー独裁の打倒と反ファシスト人民戦線政府の樹立をめざす闘争
に全勢力を動員するよう共産党員によびかけた。ブリュッセル協議会では、ドイツ労働者階級の
単一大衆政党の創立にかんする問題、地下闘争と合法闘争の結合の必要にかんする問題が提起さ
れた。指導的中心部として、プラーグとパリに中央委員会在外専務局が設けられ、それらを通じ
て、国内の地下党組織との連絡がたもたれた。
 社会民主党右翼指導者のサボタージュにもかかわらず、ドイツ共産党は、国内のいくたの社会
民主主義者グループとの活動の統一をうちたてることに成功した。一九三六年に、ドイツ共産党
のイニシアティヴによってドイツ人民戦線準備委員会が結成された。
 一九三九年一月三十―二月一日に、ドイツ共産党ベルン協議会がひらかれた。協議会で採択さ
れた決定のなかでは、ファシズムのがわからの戦争の直接的危険が指示され、この侵略戦争は、
民族的破局にみちびくかもしれないことが強調された。協議会は、ドイツ民族の救済のために、
平和を維持する闘争のために、ヒトラー体制の打倒のために団結するようファシズムのすべての
反対者と全ドイツ国民によびかけた。ベルン協議会は、地下党組織の活動の強化にとって大きな
意義をもっていた。一九三九年の春から、ドイツ労働者、ことに炭坑と造船所労働者の大規模な
進出が開始された。
 ファシスト侵略者によって開始された戦争の当初から、ドイツ共産党はドイツ国内で、ドイツ
帝国主義の侵略戦争に反対して一貫した政策をとってきたただ一つの勢力であった。すでに戦争
の初期に、ドイツ共産党は、ビラや小冊子や新聞でヒトラー体制の打倒によって早急に戦争を終
結させるようよびかけた。ソ同盟にたいするヒトラー・ドイツの電撃的攻撃ののち、ドイツ共産
党は時をうつさず、戦争を中止してヒトラー体制を打倒するようドイツ国民によびかけた。多く
の党組織がその犠牲になった強化されたファシストのテロルにもかかわらず、党は抵抗グループ
(「赤色合唱団」その他)を組織しつづけた。一九四三年七月に、ドイツ共産党は民主的諸勢力
によって「自由ドイツ」民族委員会を結成した。「自由ドイツ」民族委員会は、住民と軍隊のた
めに同じ名前の新聞を発行した。地下の「自由ドイツ」放送局を通じてドイツ共産党は、広範な
宣伝活動をおこなった。戦争のおわりごろ、共産党は、非合法の党グループ、とくにベルリン、
その他の大工業中心地における活動を強化することに成功した。党勢力の結集に大きな活動をお
こなった個々の地下組織のあいだに連絡がつけられた。ファシズムにたいする共産党員の献身的
な闘争は、労働者階級のなかの党員の勢力の増大を促進した。
 一九四四年八月十八日に、ドイツ共産党と全ドイツ人民は甚大な損害をこうむった。約一二年
間の監禁ののち、エルンスト・テールマンがヒトラー一味によって虐殺されたのである。
 一九四五年のソ同盟によるヒトラー・ドイツの壊滅は、ドイツ共産党が地下から出ることをゆ
るした。共産党は、ドイツ国民に宣言を発し、そのなかで、ヒトラー・ドイツ崩壊の原因をしめ
し、統一、民主主義、孤立、平和愛好ドイツの樹立をめざす闘争をドイツ国民によびかけた。共
産党のイニシアティヴと指導のもとに、一九四五年の夏、ソヴェト占領地域で、党と、東ドイツ
における民主主義的改革の実行に大きな役割を演じた組織との反ファシスト民主主義ブロックが
結成された。ドイツ共産党中央委員会は、各地の党組織を復活させた。ドイツのソヴェト占領地
域では、すでに一九四五年の夏、共産党員は六〇万をかぞえていた。ドイツの西部占領地域では、
米・英・仏占領当局によって共産党員にたいして設けられた障害の結果、ドイツ共産党組織の復
活は急速にはおこなわれなかった。ここでは、党の諸組織は最初から各州および地方ごとに存在
していた。
 ヒトラー体制の絶滅後、ドイツ共産党と党中央委員会は、ドイツの民主的復興と経済的再建の
綱領をもった国内でただ一つの勢力であった。共産党および社会民主党傘下の労働者の共同の努
力は、ドイツ労働者階級の革命的統一政党結成のための基礎をつくりだした。一九四五年十二月
二十―二十一日に、ドイツ共産党中央委員会および地方委員会と社会民主党幹部および社会民主
党地方組織指導部との合同会議がひらかれ、そこで両党の合同準備に関連した諸問題が審議され
た。一九四六年四月十九―二十日のドイツ共産党第十五回大会と社会民主党第四十回大会は、合
同にかんする決定を採択した。一九四六年四月二十一―二十二日のベルリンにおける両党の合同
大会でドイツ社会統一党が創立された。
 西ドイツでは、シューマッハーその他の社会民主党右翼指導者は、帝国主義的占領当局および
ドイツ独占者の積極的支持をえて、共産党と社会民主党諸組織の合同を妨害した。西ドイツの共
産党諸組織は最初から、一九四七年に結成された「ドイツ共産党=ドイツ社会統一党労働協力体
」を通じて直接ドイツ社会統一党にむすびついていた。一九四八年四月三十日、ケルン市におけ
る第一回協議会で、西ドイツの党諸組織は、マックス・ラィマンを先頭とする独自の中央指導部
を選出した。このようにして、西ドイツの共産党は、旧来のドイツ共産党の名称を保持して独自
の組織に形成された。ドイツ共産党とドイツ社会統一党は、一貫してドイツ人民の民族的利益を
擁護しながら、統一、民主、独立、平和愛好ドイツをめざし、西ドイツの再軍国主義化に反対し、
ドイツとの平和条約締結の促進をめざすドイツ労働者階級とすべての民主的分子の闘争の先頭に
立っている。ドイツ共産党とドイツ社会統一党は、ソ同盟の平和愛好的志向を支持している。こ
の支持は同時に、平和擁護のためにたたかっているドイツ人民の支持を意味している。
 一九五一年三月に、ミュンヘンでドイツ共産党大会がひらかれ、国の民族的独立、人民の民主
的権利と自由のための闘争を党の任務とさだめた。大会はまた、党規約を採択し、ドイツ共産党
のイデオロギー的強化にかんする諸方策をたてた。共産党は、愛国的気分をもつブルジョアジー
をもふくむあらゆる民主的勢力を民主ドイツ民族戦線のスローガンのまわりにかためる政策を実
行している。一九五二年十一月二日に、ドイツ共産党は、統一・民主的・平和愛好国家としての
ドイツの再統一と対独平和条約の締結をめざす闘争を主要な任務としている「ドイツの民族的再
統一綱領」を採択した。綱領には、明瞭な、決定的な闘争の政綱があたえられ、ドイツの再統一
とアメリカ帝国主義者とボンの手さきからの西ドイツの解放の道がしめされている。共産党は、
西欧の占領列強とドイツ共産党を禁止しようとしているボン政府のがわからのテロルと迫害の条
件のもとで活動している。共産党は困難を克服しながら、ますます勤労者を自分のがわに獲得し、
平和、国の統一、ドイツ国民の独立をめざすすべての民主的勢力との共同闘争に勤労者を動員し
ている。西ドイツの一五〇〇万人(一九五三年一月)のドイツ人が、軍事条約の批准に反対し、
ドイツ問題の平和的処理に賛成した。ドイツ共産党幹部、フランス共産党中央委員会、ドイツ社
会統一党中央委員会は、ドイツおよびフランス国民に、その助けをかりてアメリカ合衆国帝国主
義者が、西ドイツを侵略的な北大西洋条約機構にひきいれようとしているボンおよびパリ条約の
批准に反対する呼びかけをおこなった。この呼びかけにはつぎのことがしめされている。ドイツ
およびフランス国民は帝国主義者の雇人にはならないであろう。両国民は対ソ戦もドイツ、フラ
ンス相互間の戦争もおこなわないであろう。ドイツ共産党は、ソ同盟共産党の経験によってすべ
ての行動を指導され、国際主義の精神で労働者階級と全勤労者を教育している。
 党の中央機関紙は『フライエス・フォルク』である。