チェコスロヴァキア共産党
チェコスロヴァキア共産党は、労働者階級、勤労農民、勤労インテリゲンツィア(チェコスロ
ヴァキア共産党構成員)によって組織された志を同じくする共産主義者の自由意志にもとづく戦
闘的同盟である。チェコスロヴァキア共産党は、チェコスロヴァキア人民民主主義共和国の政治
・経済・文化生活の主要な指導勢力であり、社会主義の建設をめざすチェコスロヴァキア勤労者
の闘争の組織者であり、指導者である。
チェコスロヴァキア共産党は、大十月社会主義革命の影響をうけてはじまった革命的高揚の時
期に結成された多くの共産主義グループを統合して、チェコスロヴァキア社会民主党左翼を基礎
として、一九二一年五月にうまれた。チェコスロヴァキア共産党の結成に先だって、一九二〇年
十二月の労働者階級の政治ストライキのときにとくに尖鋭になったチェコスロヴァキアのプロレ
タリアートとブルジョアジーのあいだの権力獲得闘争がおこなわれた。プロレタリアートの一時
的敗北の原因となった社会民主主義の右翼指導者の裏切りは、社会民主党内部を完全に分裂させ
た。一九二一年五月十四―十七日に、プラーグで、「マルクス主義左翼」チェコスロヴァキア社
会民主党の大会がひらかれ、チェコ、スロヴァキア両社会民主党を単一のチェコスロヴァキア共
産党に統合した。一九二一年十月に統一大会がひらかれ、その大会で、チェコスロヴァキア領土
内にあったドイツ、ハンガリア、ポーランド、ザカルパト・ウクライナの共産主義グループが、
チェコスロヴァキア共産党の構成員になった。
一九二一年に四五万の党員をかぞえたチェコスロヴァキア共産党がうまれた直後、党は、チェ
コスロヴァキアの労働者階級と全勤労者の革命闘争の先頭に立った。チェコスロヴァキア共産党
創立後の最初の数年間は、日和見主義を克服するための激しい党内闘争と重大な党の危機によっ
て特徴づけられた。チェコスロヴァキア共産党内部の危機の主要な原因は、革命的高揚の時期か
ら革命闘争の一時的休止の時期への移行にともなう困難であった。チェコスロヴァキア共産党の
党内危機を克服するうえで大きな役割を演じたのは、コミンテルンとソ同盟共産党(ボ)の援助
であった。チェコスロヴァキア共産党のボリシェヴィキ化への途上における重要な第一歩は、第
二回党大会(一九二四年十―十二月)であった。その大会で、イ・ガケンを先頭とする党のマル
クス主義的中核が、いくたの組織上、イデオロギー上の問題で勝利をえた。大会は、国家が分離
されるまで民族自決権にかんする条項を党の綱領にいれた。しかし、大会は、チェコスロヴァキ
ア共産党内に社会民主主義的イデオロギーの再現を生んだ資本主義の部分的・一時的・相対的安
定への移行の条件下で尖鋭化しつつあった党内危機を克服することはできなかった。
チェコスロヴァキア共産党を強化するうえに大きな意義をもっていたのは、共産主義インタナ
ショナル執行委員会チェコスロヴァキア委員会〔一九二五年三月二十七日〕におけるイ・ヴェ・
スターリンの演説である。イ・ヴェ・スターリンはこの演説のなかで、危機の原因をふかく分析
し、主要な危険としてチェコスロヴァキア共産党内の右翼的危険を指示し、危機を克服する方法
とチェコスロヴァキア共産党を真に革命的な政党に変える方法とを指示した〔スターリン『チェ
コスロヴァキア共産党について』、邦訳全集第七巻七〇―七九ページ〕。
コミンテルンのがわからの援助は、チェコスロヴァキア共産党が、党の分裂の脅威をとりのぞ
き、右翼日和見主義的一派を孤立させることをたすけた。一九二五年九月二十六―二十八日にひ
らかれたチェコスロヴァキア共産党第三回大会は、党の真に革命的な分子を強化し、党内の危機
を克服することに重点がおかれた。大会で選出された中央委員会の構成員にクレメンテ・ゴット
ワルトがくわわった。彼はまた中央委員会政治局員にもなった。チェコスロヴァキア共産党の強
化は、大衆のなかで党の勢力をつよめ、一九三五年十一月十五日の国会選挙の結果にあらわれた。
そのときチェコスロヴァキア共産党は約一〇〇万票を獲得し、四一の議席を得て、チェコスロヴ
ァキア全政党のなかで第二位に進出した。ブルジョアジーはチェコスロヴァキア共産党にたいす
る闘争を強化した。党内の指導的地位に潜入したブルジョアジーの手さきは一九二八―二九年に、
チェコスロヴァキア共産党の党内闘争を激化させた。チェコスロヴァキア共産党中央委員会指導
部のなかの日和見主義者の政策は、K・ゴットワルトを先頭とする党のマルクス=レーニン主義
的部分から鋭い非難をうけた。大会は、ブルジョア的チェコスロヴァキア国家の帝国主義的性格
をばくろし、チェコスロヴァキア・プロレタリアートの今後の階級闘争の路線をさだめ、農業政
策、党の組織的建設、共産党員のマルクス=レーニン主義教育、その他の問題にかんする重要な
決定を採択した。
党の指導機関の強化、解党主義者と分裂主義者の敗北は、大衆のなかでチェコスロヴァキア共
産党の勢力をいっそう強化させた。
一九二九年末にはじまった世界経済恐慌の条件のなかで、チェコスロヴァキア共産党は、社会
民主主義者の助けをかりて、労働者階級の搾取を強化しようとし、国のファシズム化の道に立っ
たチェコスロヴァキア・ブルジョアジーの反動政策にたいする労働者階級と全勤労者の抵抗の先
頭に立った。
チェコスロヴァキア共産党第六回大会(一九三一年)は、危機を脱し、勤労者の状態を改善す
るただ一つの根本的な方法は、資本主義制度の絶滅であることを強調した。それと同時に、大会
は、労働者階級と勤労農民の部分的な要求のための闘争をいっそう発展させることの重要性を指
示した。大会は、勤労者の政治的権利をまもるための一貫した闘争と、新戦争の準備に反対する
闘争をおこなうようよびかけた。大会は、政治的・社会的解放をめざす共同闘争をおこなうため
に、統一戦線と労働者階級と農民の同盟を結成する政策を実行することが必要なことを指示した。
チェコスロヴァキア共産党は、国内でつよまりつつあった革命運動に、指導的な役割を演じた
(一九三二年には、約四〇万人が参加した失業者の行動があり、一九三二年には、クラドノ、ガ
ンドロヴァ、オストラヴァ諸州の鉱山労働者に支持されたモステッ力州の二万五〇〇〇人のスト
ライキその他がおこなわれた)。
一九三三年のドイツにおけるファシスト独裁の確立とチェコスロヴァキアにおけるヒトラーの
手さきの破壊活動は、チェコスロヴァキア共和国の存立自体に直接的な脅威をつくりだした。チ
ェコスロヴァキアのブルジョアジーは、国を将来ファシズム化するためにつくりだされつつあっ
た情勢を利用した。一九三三年中に、チェコスロヴァキア共産党のすべての機関出版物は禁止さ
れた。共産党は事実上、政治活動の合法的可能性をうばわれ、多くの共産党員が投獄された。チ
ェコスロヴァキア共産党は、ファシストの危険に反対するチェコスロヴァキア勤労者の闘争の先
頭に立った。しかし、共産党内にいた小ブルジョア分子は、トロツキストの影響をうけて、党を
ファシズムのまえに降伏する道に追いやろうとした。正体をばくろされたトロツキストの手さき
は、チェコスロヴァキア共産党から追放された。
チェコスロヴァキア共産党は、一貫してチェコスロヴァキア共和国の勤労者の利益、自由、民
族の独立を擁護し、コミンテルン第七回大会(一九三五年)によって宣言された労働者と広範な
反ファシスト人民の統一戦線政策をチェコスロヴァキアで実行にうつすための闘争をおこなった。
党は根気づよく、ソ同盟にたいして敵対的なチェコスロヴァキアの対外政策を変更し、ソヴェト、
チェコスロヴァキア両国の関係を強化することにつとめた。チェコスロヴァキア共産党第七回大
会(一九三六年)は、ヒトラー・ドイツから共和国の民族的独立をまもることがもっとも重要な
任務となっており、この任務を実行するためには、もっとも広範な国民大衆の動員とソ同盟との
緊密な同盟が必要であることを強調した。
チェコスロヴァキア共産党は、政府とブルジョア改良主義的諸政党の降伏主義的・反民族的政
策に反対して断固としてたたかっていた、ただ一つのチェコスロヴァキアの政党であった。チェ
コスロヴァキア共産党は、根気づよく侵略者に抵抗するようよびかけ、ソ同盟は、ヒトラー軍が
チェコスロヴァキアに攻撃をくわえるばあいには、チェコスロヴァキア共和国に援助をあたえる
用意のあることを指示した。しかし、チェコスロヴァキアのブルジョア政府は、ソ同盟の援助を
拒否して、チェコスロヴァキアの自由と独立とを売りわたし、国をヒトラー軍にひきわたした。
一九三八年十二月二十九日に、分裂したチェコスロヴァキアの降伏主義的政策は、チェコスロ
ヴァキア共産党の解散を宣言した。しかし党は、地下にもぐってその闘争をつづけた。
チェコスロヴァキア共産党は、ヒトラー侵略者とその共犯者にたいするチェコ、スロヴァキア
両国民の闘争の組織者であり指導者であった。国の分裂の条件下で、いわゆる「スロヴァキア国
家」における反ファシスト運動をより機動的に指導する日的で、一九三九年にチェコスロヴァキ
ア共産党からわかれて、スロヴァキア共産党が組織された。地下にあるチェコスロヴァキア共産
党中央委員会およびスロヴァキア共産党中央委員会の指導は、K・ゴットワルトを先頭とする亡
命地にあった党中央部によっておこなわれた。
チェコスロヴァキア共産党にひきいられたチェコスロヴァキア勤労者の反ファシスト闘争は、
一九四一―四五年のソ同盟の大祖国防衛戦争の開始後、とくに広範な規模をもつにいたった。チ
ェコスロヴァキア共産党は、チェコスロヴァキア勤労者をソ同盟との協力にむかわせ、チェコス
ロヴァキアの独立の回復をめざす闘争におけるソ同盟の決定的な役割を強調した。一九四四年の
ソヴェト軍のチェコスロヴァキア国境への進出は、国内の反ファシスト運動の力づよい高揚をよ
びおこした。チェコスロヴァキア国民の解放闘争のもっとも明瞭なあらわれは、チェコスロヴァ
キア共産党の指導のもとにおこなわれた一九四四年のスロヴァキアの蜂起と、一九四五年のプラ
ーグの蜂起であった。共産党員にひきいられたチェコスロヴァキア勤労者の英雄的闘争は、反動
主義者と、当時まだその正体をばくろされていなかった帝国主義者のスパイ(スランスキーその
他)の反人民的計画を挫折させた。チェコスロヴァキア勤労者の革命的行動は、ヒトラー占領軍
に重大な損失をあたえた。献身的な解放闘争において、チェコスロヴァキア共産党はひどい損害
をこうむった。すなわち、二万五〇〇〇人の共産党員が闘争中に死に、六万人が強制収容所に監
禁され、ゲシュタボの拷問部屋におくられた。亡くなった共産党員のなかには、チェコスロヴァ
キアの民族的英雄ユリウス・フーチクや、チェコスロヴァキア共産党の陣列におくりこまれたス
パイによってゲシュタボにひきわたされた地下のチェコスロヴァキア共産党中央委員会のその他
多くの指導的活動家がいた。
チェコスロヴァキア共産党は、ヒトラー占領軍にたいするチェコスロヴァキア勤労者の闘争の
先頭に立ちながら、それと同時に勤労者が、ブルジョア・地主制度を一掃し、労働者階級を先頭
とする勤労者の政権を確立するための闘争をおこなうように方向づけた。完全な民族的・社会的
解放にたいする勤労者のつよい希望は、一九四五年四月五日に公布された、反ファシスト闘争の
過程でつくられたチェコスロヴァキア人とスロヴァキア人の最初の民族戦線政府のいわゆるコシ
ッツェ宣言となってあらわれた。
ソ同盟軍隊によるヒトラー・ドイツの壊滅とソヴェト軍によるヒトラー軍からのチェコスロヴ
ァキア領土の完全な解放(一九四五年五月)は、ファシスト権力機関の絶滅をともない、それに
関連して、労働者階級を先頭とする人民の手に国内の権力をうつすために必要なあらゆる前提が
つくりだされた。
労働者階級とその前衛――チェコスロヴァキア共産党に課せられた主要な任務はつぎの点にあ
った。すなわち、うちたてられた人民民主主義制度を強化し、国の経済・政治生活における要衝
をおさえて、ブルジョアジーの経済・政治上の地位を一掃し、労働者階級の独裁を確立すること
がそれである。
チェコスロヴァキア共産党は、チェコスロヴァキア共和国でおこなわれた社会・経済的改革を
まもる闘争の組織者であり指導者であった。
チェコスロヴァキア共産党の一貫した革命政策は、チェコスロヴァキアの圧倒的多数の勤労者
の指導者としてみとめられるようになった党の権威をいちじるしく増大させた。チェコスロヴァ
キアにおける人民民主主義制度をいっそう強化することを任務としたチェコスロヴァキア共産党
第八回大会がひらかれた一九四五年末から一九四六年三月までのあいだに、チェコスロヴァキア
共産党はその党員数を五〇万から一一〇万に増加させた。一九四六年五月に、党は総投票数の約
四〇%を獲得して、国民議会の選挙で大勝利を得た。政府の首班には、チェコスロヴァキア共産
党議長のK・ゴットワルトが立った。
チェコスロヴァキア共産党に指導されているチェコスロヴァキアの勤労者は、一九四五―四七
年に、人民民主主義国家の建設に大きな成功をおさめた。これらの成功は、諸外国の帝国主義者
の直接的な指導のもとに行動したチェコスロヴァキア・ブルジョアジーのはげしい抵抗に反対し、
チェコスロヴァキア共産党にはいりこんだ帝国主義者の秘密の手さきの陰謀に反対してかちとら
れたのである。
一九四八年二月に、チェコスロヴァキアのブルジョァジーは、アメリカ合衆国帝国主義者の指
令によって、人民民主主義制度を打倒して、国内に資本主義を復活させようとくわだてた。しか
し、一九四八年の二月蜂起は、反動の完全な敗北をもって遂行された。
一九四八年五月九日は、チェコスロヴァキア共産党か指導的に参加してつくられ、人民民主主
義制度の諸成果を確認した新憲法が採択された。一九四八年に、K・ゴットワルトがチェコスロ
ヴァキア共和国大統領にえらばれたことは、チェコスロヴァキア共産党の指導的役割が国民一般
にみとめられた新しい、明瞭な証拠であった。チェコスロヴァキア政府の首相にはチェコスロヴ
ァキア共産党の主要な指導者の一人であるA・ザポトツキーが就任した。
チェコスロヴァキア共産党は、一九四七年に、共産党労働者党情報局の創立に参加した党の一
つである。チェコスロヴァキア共産党の陣列を強化し、党の警戒心をたかめるうえに大きな役割
を演じたのは、「ユーゴスラヴィア共産党の状態について」(一九四八年)という共産党労働者
党の決定であった。チェコスロヴァキア労働運動におけるマルクス=レーニン主義の勝利は、労
働者階級の分裂の一掃となってあらわれた。一九四八年六月二十七日に、共産党のイデオロギー
的・組織的基礎のうえに、社会民主党とチェコスロヴァキア共産党の合同がおこなわれた。チェ
コスロヴァキア労働者階級の政治的統一の進展は、チェコスロヴァキア共産党とスロヴァキア共
産党の合同をもっておわった。
一九四九年五月にひらかれたチェコスロヴァキア共産党第九回大会は、チェコスロヴァキアに
社会主義を建設するための党の一般方針を決定した。大会は、党と全勤労者に一九四九―五三年
の五ヵ年計画と農業の社会主義的再建を遂行するために、国のすべての創造力を動員する任務を
提起した。これらの任務は、国内の階級闘争が尖鋭化し、敵の手さきの活動が強化される情勢の
なかで実行にうつされた。帝国主義の諜報機関は長年にわたって、党の指導部を手中におさめる
ために、チェコスロヴァキア共産党内に自分たちの手さきをおくりこんだ。この結果、スランス
キーその他を首領とするスパイと人民の敵の一団は、党および国家の要職に潜入することに成功
した。アメリカの諜報部に指導されているスランスキーとその共謀者は、国内の人民民主主義制
度を打倒し、資本主義制度を復活させ、チェコスロヴァキアを平和、民主主義、社会主義の陣営
からひきはなして、アメリカ帝国主義の反ソ的兵器庫に変える目的をもった反国家的・反党的陰
謀を組織した。
しかし、チェコスロヴァキアにおけるアメリカ帝国主義者とその手さきの計画は破産した。一
九四九―五二年には個々の陰謀家のグループが、一九五二年にはスランスキーとそのもっとも緊
密な協力者が、徹底的に正体をばくろされ、害をあたえる力をうはわれた。チェコスロヴァキア
共産党中央委員会とチェコスロヴァキア政府は、国家および党機関から敵対分子を粛清するため
の一連の方策を採用した。チェコスロヴァキア中央委員会の九月および十二月総会(一九五一年
)は、チェコスロヴァキア共産党指導機関の構成員の再編成と強化にむけられた決定を採択した。
チェコスロヴァキア共産党は、マルクス=レーニン主義理論、ソ同盟共産党およびソ同盟におけ
る社会主義建設の経験によってすべての活動を指導されている。
一九五二年十二月十六―十七日にひらかれたチェコスロヴァキア共産党全国会議は、ソ同盟共
産党第十九回大会の決定をチェコスロヴァキアの諸条件に創造的に適用して、党の新規約を採択
した。チェコスロヴァキア共産党の新規約はつぎのことを定めている。社会主義制度をうちたて、
勤労者の物質的・文化的水準を不断に高め、国際主義、信頼、ソ同盟諸国民との友好の精神で勤
労者を教育し、万国の勤労者との兄弟的関係を強化し、敵の侵略的行動からの祖国の積極的防衛
をあらゆる方法で強化することを党は主要な任務としている。会議は、チェコスロヴァキア共産
党中央委員会の構成員の補充をおこなった。
帝国主義の手さきとその協力者からひきつづいて解放されながら、チェコスロヴァキア共産党
は、その陣列を統一し、党員のマルクス=レーニン主義的素養の水準を高め、党の宣伝と煽動の
質と効力を高めている。チェコスロヴァキア共産党の指導のもとに、チェコスロヴァキア共和国
は、世界の革命運動と労働運動の「突撃隊」の一つに変った。
一九五三年三月に、チェコスロヴァキア共産党は大きな損失をこうむった。――チェコスロヴ
ァキア共産党議長であり、チェコスロヴァキア勤労者の指導者であったクレメント・ゴットワル
トが逝去したのである。党は、K・ゴットワルトの戦友のまわりにその陣列をさらにいっそう緊
密に団結させ、国をあらたな勝利へとみちびいた。 L
チェコスロヴァキア共産党には、一六〇万の党員と党員候補がいる(一九五一年)。チェコス
ロヴァキア共産党は、地域的・職域的特徴によってうちたてられた。党の組織的建設の指導原則
は、民主主義的中央集権主義である。チェコスロヴァキア共産党の最高機関は党大会で、大会は
中央委員会を選出する。中央委員会総会と総会のあいだの党の全般的指導は中央委員会幹部会が
おこない、当面の政治活動の指導は政治局が、当面の組織活動の指導は組織局がおこなっている。
チェコスロヴァキア共産党には、州、地方および都市委員会がある。党の下部組織は、企業、公
共機関、部隊等々につくられている。チェコスロヴァキア共産党には、スロヴァキア領土内の州
党組織からなるスロヴァキア共産党が、成員としてくわわっている。スロヴァキア共産党は、チ
ェコスロヴァキア共産党中央委員会の決定によってその活動を指導されている。チェコスロヴァ
キア共産党内には、党的教育の広範な網がひろげられている。
チェコスロヴァキア共産党中央委員会の中央機関紙は、プラーグで発行され、八〇万の発行部
数をもつ『ルーデ・プラヴォ』であり、中央機関誌は『ノーヴァ・ミスリ』である。