フィンランド共産党
フィンランド共産党は、フィンランド労働者階級の前衛部隊であり、民族の独立、民主主義、
平和をめざす人民の闘争における指導勢力である。フィンランド共産党は、一九一八年八月二十
九日に、フィンランド社会民主党左翼に基礎をおいた「フィンランド在外組織」の会議で結成さ
れた。フィンランド共産党の組織者は、フィンランド労働運動の著名な活動家O・クーシネンと
E・シロラであった。
大十月社会主義革命で勝利をえたロシアのプロレタリアートは、フィンランドのプロレタリア
ートに大きな支援をあたえた。一九一七年に、フィンランドは、ソヴェト・ロシアから国家的独
立をえた。一九一八年に、フィンランドでは、英雄的ロシア・プロレタリアートとの連帯性のス
ローガンのもとにおこなわれた労働者の革命が開始された。しかし、その革命は、ドイツ干渉軍
の援助をうけたフィンランド・ブルジョアジーによって鎮圧された。一九一八年のフィンランド
労働者革命が敗北した原因の一つは、フィンランド社会民主主義者の卑劣な戦術と社会民主党右
翼による労働者階級の利益の裏切りであった。革命の教訓によって、フィンランド社会民主主義
者の優秀な代表者たちは、社会民主党右翼と訣別して、ロシア共産党員の経験によって武装され
た新しい、革命的マルクス=レーニン主義政党を創立する必要がある、という結論をひきだした。
フィンランド共産党は、コミンテルンの創立(一九一九年)に参加した。
一九一八―四四年の地下活動の極度に困難な条件と、フィンランド反動的右翼グループの不断
の圧迫にもかかわらず、フィンランド共産党は、闘争の合法形態と非合法形態とを結合させるレ
ーニン主義の原則に適応して、大衆との結びつきを強化した。フィンランド共産党は、各種の合
法的な労働者の組織を通じて労働運動の指導をおこなった。共産党員は、フィンランド労働組合
連合、青年の諸組織、その他の大衆組織のなかで決定的な勢力をもっていた。勤労者の重大な利
益をかたくまもりながら、フィンランド共産党は、労働者の多くのストライキの実行を指導した。
一九二四年の国会選挙では、フィンランド共産党によって結成された社会主義労働者と小作への
選挙同盟は、九万一〇〇〇票と一八議席を獲得し、一九二七年には一〇万八〇〇〇票と二〇議席、
一九二九年には一二万八〇〇〇票と二三議席を獲得した。労働運動の裏切者――労働運動指導の
独占権を自己の手に確保しようとのぞんでいた右翼社会民主主義者との尖鋭な闘争で、フィンラ
ンド共産党は勝利者となり、合法的・大衆的労働者組織の大部分を自分の味力に獲得した。一九
二九―三三年の世界経済恐慌にともなう階級闘争の尖鋭化する情勢のなかでフィンランド・ブル
ジョアジーは、一九三〇年に、公然たるファシスト休制の確立にむかった。共産党を支持した勤
労者のすべての合法組織は、破壊され禁止された。社会主義労働者と小作人同盟の国会議員団の
メンバーをもふくむ何百というこれらの組織の活動家が投獄された。
迫害にもかかわらず、フィンランド共産党は大衆のなかで精力的な活動を展開し、大衆をファ
シズムとの闘争にむすびつけた。一九三三年に、フィンランド共産党は、労働者階級の統一を保
持する目的で、以前に党が実行していた、右翼社会民主主義者によってつくられた分裂的労働組
合のボイコット戦術を変更して、これらの労働組合およびその他の社会民主主義的合法組織内部
の仕事に党の活動をむけた。一九三四年末に、フィンランド共産党の指導者のひとりT・アンチ
カイネンの逮捕にともなって、党はもっとも大規模な反ファシスト・カンパニアをおこなった。
アンチカイネンの生命をまもれというよびかけにたいして、一〇万人以上の署名があつめられた。
コミンテルン第七回大会(一九三五年)の決定に応じて、一九三五年のフィンランド共産党第六
回大会は、反ファシスト統一人民戦線の結成を党の主要な任務として提起した。
一九三九―四五年の第二次世界戦争の期間に、外国の帝国主義者に鼓舞されたフィンランドは、
二度――一九三九―四〇年と一九四一―四四年に (ヒトラー連合の一員として)侵略的反ソ戦
争を発展させる可能性をあたえた。これらの反ソ冒険にたいするフィンランド人民の抵抗を一掃
しようとして、フィンランドのファシスト反動は、フィンランド人民のすぐれた代表者に流血の
弾圧をくわえた。共産党員とその他の反ファシストの大部分は、監獄や強制収容所にほうりこま
れた。多くの共産党員が、フィンランドの反動的支配者の侵略的な反ソ政策に反対する闘争で勇
敢な死を遂げた。
大祖国防衛戦争におけるソ同盟の勝利は、ファシスト反動からフィンランド国民を解放する動
機となった。一九四四年十月、ヒトラー・ドイツの隷属者の一員からフィンランドが脱出したの
ち、フィンランド共産党は(休戦協定によって)、はじめて合法的存在の可能性をえた。フィン
ランド共産党は、そのまわりに国の民主主義勢力を結集して、ファシズムの残存物の一掃、戦争
犯罪人の処刑のための闘争、国の民主化と、フィンランドとソ同盟のあいだの善隣友好関係の確
立のための闘争の先頭に立った。フィンランド共産党のイニシアティヴによって、一九四四年十
月に、フィンランド人民民主主義同盟が結成された。同盟は、勤労者の経済的・社会的利益と権
利を擁護する広範な綱領を提起した。
フィンランド共産党は、第七回党大会(一九四五年)の決定を遂行しながら、大工業企業と銀
行国有化の要求と民主的農業改革の実施を提案した。第二次世界戦争以後、フィンランド共産党
の権威はいちじるしく増大した。一九四五年の国会選挙では、フィンランド人民民主主義同盟は
三九万八〇〇〇票と四八議席を獲得し、そのうちの四〇議席はフィンランド共産党に所属してい
た。一九四五―四八年に、フィンランド共産党は連合政府に参加した。一九四八年に、フィンラ
ンド共産党第八回大会がひらかれた。
勤労者の重大な利益をまもりなから、フィンランド共産党は、労働者の実質賃金をひきあげ、
勤労者の税金をへらし、土地のない農民と土地の少ない農民に土地をあたえることを要求してい
る。一九四九年の夏、フィンランド共産党は、七万の労働者のストライキの先頭に立った。この
ストライキの結果、労働者の生活水準にたいする企業家の直接的攻撃は、この時期に撃退された。
フィンランド共産党第九回大会(一九五一年)は、平和と労働者階級の統一をめざす闘争を党
の主要な任務として提起した。この大会で、フィンランド共産党書記長B・ペッシィは、フィン
ランドを新しい反ソ冒険にひきいれさせないために、米・英帝国主義者によって準備されている
戦争の脅威に反対する闘争において警戒心を高めるようフィンランド国民によびかけた。B・ペ
ッシィは、一九四九年三月三日の出版代表者との会談でつぎのように声明した。「もし平和愛好
諸国民が、平和を保持する志向をうしない、もし帝国主義者が、ソ同盟あるいはその他の平和愛
好諸国民に貪欲な戦争をしかけてくるならば、一国もしくは多くの国々の侵略者を粉砕するため
にソ同盟と侵略の対象になっているその他の国々を援助することが、全共産党員およびその他の
平和愛好者の義務である。」フィンランド共産党は、ストックホルム・アピールと平和条約締結
にかんする世界平和評議会の呼びかけにたいする署名獲得に活動的に参加した。
フィンランド共産党は、右翼社会民主主義者を、国の民族的利益をアメリカ帝国主義者に売り
わたし、フィンランドにおけるアメリカ帝国主義者のもっとも活動的な代弁者として行動してい
るフィンランド人民の敵として徹底的にばくろした。フィンランド共産党は、民主的諸組織を破
壊し、国内に公然たるファシスト独裁を復活させ、国をふたたび反ソ攻撃の兵器庫に変えようと
しているフィンランド反動の策動の真の意味を勤労者に説明している。共産党は、戦争放火者と
の協力政策を拒否し、ソ同盟その他の平和愛好諸国民との友好と協力の政策を実行することによ
って、国の独立を確保することを要求している。フィンランド共産党がソ同盟の平和愛好的志向
を支持していることは、なによりもまず、自国民の平和擁護闘争を支持していることになる。
フィンランド共産党の組織構成の指導原則は民主的中央集権主義である。フィンランド共産党
第九回大会(一九五一年)で採択された規約にしたがって、下部組織(支部)は、企業あるいは
党員の居住地ごとに結成されている。それらの組織は、地方あるいは地区の党活動を指導してい
る企業群および地区の党組織に統合されている。フィンランド共産党の最高機関は、三年に一度
召集される党大会である。大会は中央委員会を選出し、中央委員会が、大会と大会とのあいだの
期間の党活動を指導している。
一九四八年に、フィンランド共産党は、その陣列に五万三〇〇〇人以上の党員をかぞえた。一
九五一年に、フィンランド共産党議長にはA・アールトーネン、書記長にはB・ペッシィが選出
された。
フィンランド共産党の中央機関紙は日刊紙『チュエカンサン・サノマート』である。フィンラ
ンド共産党はまた、月刊の機関誌『コムニスチィ』を発行している。そのほかに、フィンランド
共産党は、フィンランド国民民主同盟と協力して八つの地方の民主主義新聞を発行している。そ
れらの新聞のなかでもっとも普及しているのは『カンサン・タフト』(オウルウ)、『ウーシ・
ピャーイヴィヤ』(トウルクウ)、『カンサン・サナ』(クオピオ)である。