大月書店「世界の共産党」

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   ベルギー共産党〔*〕

 一九二〇年に成立。長期にわたり非常に党員が多かった。党の発展をさまたげたのは、党指導
部の日和見主義とセクト主義とであった。党からトロツキー派と日和見主義者を粛清する結果と
なった激しい党内闘争は、党をややつよくした。党史上の大きな事件は一九三二年夏の鉱山労働
者のゼネラル・ストライキにおける党の献身的闘争であった。個々の誤りにもかかわらず党はこ
のとき以来、ファシズムと戦争の危険と、勤労大衆にたいする資本の攻勢に反対するベルギー・
プロレタリアートの闘争のうちで、ますます大きな役割をはたしはじめた。党は失業者と兵士の
あいだで大きな活動をした。ところが党は、この時代には労働組合と勤労農民のあいだにおける
影響力を確保することができず、ベルギーにとってきわめて重大な民族植民地問題についての行
動を避けた。一九三九年党員はおよそ一万名となり、鉱山労働者、金属労働者、埠頭労働者のあ
いだに大きな影響力をもっていた。一九三九年ヨーロッパに戦争がおこってから、政府は共産党
員弾圧をつよめた。ドイツ・ファシスト軍がベルギーに侵入し、国王レオポルド三世が降伏して
から、党は非合法状態にあって占領者と裏切者にたいする抵抗運動の先頭に立った。一九四〇年
六月以来党は大衆的ストライキ運動を組織しその先頭に立った。党の努力のおかげで「国民防衛
委員会」がつくられた。委員会は勤労者の食糧供給の改善、ベルギー労働者のドイツ追放反対、
ファシスト的強盗と抑圧者反対の闘争をおこなった。党は地下出版物の広い網を展開し、労働者
階級を先頭とする反ファショ統一戦線をつくりだすうえで大成功をおさめることができた。
 第二次世界戦争の根本的転換を意味したヒトラー・ドイツにたいするソ同盟の偉大な祖国防衛
戦争がはじまってから、党は占領者とその同盟者にたいする武装闘争を展開した。共産党の指導
のもとでつくられたパルチザン軍におよそ五万名のものがくわわった。共産党員が先導した大衆
的抵抗団体には、およそ二五万名のものがいた。共産党員はベルギーの自由と独立のための唯一
の献身的な闘士であった。ベルギーの反対派(ロンドンに亡命していた政府もそのうちである)
は共産党員の影響力が増大するのをおそれて共産党員にたいする破壊活動を展開した。占領者お
よび裏切者にたいする英雄的な闘争のあいだに、党はその成員のおよそ二○%をうしない、党員
の三五%以上が投獄された。占領者のテロルと反国民的グループの裏切行動にもかかわらず、共
産党は組織的に強化し、戦闘的マルクス=レーニン主義党になった。
 ソ同盟によるヒトラー・ドイツ撃滅の直接的結果であるドイツ・ファシスト占領者からのベル
ギーの解放後、党は経験をつんだきたえられた団体の実をしめした。共産党員は、一九四四―四
七年の連合政府に参加して、勤労者大衆の状態の改善、国の民主化、裏切者の処罰、大工業企業
と銀行の国有のためにたえずたたかった。勤労者を国民経済の回復のための闘争へと組織するに
あたり、党は自国がアメリカ帝国主義者に隷属させられることを防止した。党の経済綱領は一九
四七年に書記長E・ラルマンが発表した「国の経済的革新案」に表現されている。党は炭坑、発
電所、銀行およびベルギー額コンゴにあるウランおよび金の鉱床の国有を要求し、資本家の利潤
を制限することにより勤労者の購買力をひきあげ、工業製品の原価にたいする統制を確立し、勤
労者を経営管理にひきいれ、税金の分配を公正にすること等々を要求した。アメリカとベルギー
の帝国主義者は、教権派、右翼「社会主義者」その他の手さきにたよって、共産党を政府からし
めだした(一九四七年三月)。
 ベルギーの反動派が国をアメリカの付属物にかえている条件のもとで、共産党はベルギーの民
族的独立、自由および民主主義のための闘争を展開しまたその先頭に立った。これらの任務に照
応して党中央委員会は第九回党大会(一九四八年)の決定にもとづき「救国綱領」を作成した。
党はベルギーの独立のなごりを一掃するおそれのあるいわゆるシューマン・プランに反対し、親
ファシストであり裏切者であるレオポルド三世の復位に反対して精力的な闘争を展開した。党は
アメリカ帝国主義者とそのベルギーの下ばたらきの侵略政策をばくろし、ストックホルム・アピ
ールの署名集めに大きな活動をしている。党は君主制に反対し連邦共和国(フランドルとヴァロ
ンの連邦)を創設し、侵略ブロックと手をきるための闘争の先頭に立っている。
 それとともに、党の政治方針は正しかったのに、一九五〇年六月にひらかれた中央委員会総会
がみとめたように、まだその影響力を組織として固定させ、勤労者である社会党員、カトリック
派、党外のものとの行動の統一を確保することができなかった。その現われの一つが、一九五〇
年の選挙で党にあたえられた票数の減少である。一九五〇年のなかごろ現在で党員はおよそ一〇
万である。党の下部組織は居住細胞と工場細胞である。地区または都市委員会がそれを指導して
いる。大きな経済的な地方では党組織は地方委員会に統一されている。党の最高機関は大会であ
り、大会が中央委員会を選出する。党の日常活動は中央委員会政治局が指導する。党議長はジュ
リアン・リャオー(一九五〇年八月十八日ベルギーのファシストによって虐殺された)、書記長
はE・ラルマンである。下院に六議席、上院に三議席をもっている。