ブルガリア共産党
ブルガリア共産党は、ブルガリア労働者階級の前衛部隊であり、ブルガリア人民共和国の政治
・経済・文化生活の指導勢力であり、社会主義建設と諸国民間の平和と友好の強化をめざすブル
ガリア国民の闘争の組織者、指導者である。
革命的マルクス主義政党としてのブルガリア共産党は、一九一九年に、ブルガリア社会民主党
(偏狭《テスヌイ》な社会主義者の党〔戦闘的分子にたいしてつけたあだ名、テスニャキ派とも
いる〕)の基礎のうえに創立された。デ・ブラゴエフがその指導者であった「テスニャキ」派は、
「広い社会主義者」あるいは「公共事業派」(『公共事業』誌からとった名称)とよばれた日和
見主義的・小ブルジョアジー的一派が分離した結果一九〇三年に組織的に形成された。ブルガリ
アにおける革命運動の発展とブルガリア社会民主党の陣営内の思想的分裂にたいして、ロシア労
働者階級の革命的政党創立のためのヴェ・イ・レーニンとレーニン的『イスクラ』の闘争、とく
にヴェ・イ・レーニンの著名な著作『なにをなすべきか?』が大きな影響をあたえた。決定的な
段階における「テスニャキ」の成功は、ヴェ・イ・レーニンを先頭とするボリシェヴィキの闘争
がブルガリアの労働運動にあたえた影響によって決定された。「テスニャキ」は、多くのストラ
イキ戦闘を成功のうちに指導し、一九〇九―二三年にG・ディミトロフにひきいられた労働総同
盟を強化し、広範な革命的宣伝と煽動をおこない、バルカン諸国民の民主主義的発展の道を擁護
し、諸外国の帝国
主義者の陰謀とブルガリア・ブルジョアジーの大国的政策に反対するためにた
たかい、反動の正体をばくろし、ブルジョア制度に反対する闘争に大衆を動員するために国会の
演壇をたくみに利用した。一九一二―一三年のバルカン戦争と一九一四―一八年の第一次世界戦
争のときに「テスニャキ」はボリシェヴィキの例にならって国際主義的立場に立った。しかし「
テスニャキ派」は、ブルガリアの土嬢に根をおろしたボリシェヴィズムではなかった。「テスニ
ャキ」は、革命理論やプロレタリアートの戦略・戦術の重要な問題で一貫した立場をとらなかっ
た。「テスニャキ」は、プロレタリア革命の主要な内容としてのプロレタリアート独裁にかんす
る問題を提起せず、労働者階級の戦闘的前衛としての党の役割の問題について完全にレーニン主
義的立場に立たず、プロレタリア革命における労働者階級の同盟軍としての農民の役割を理解せ
ず、農民を保守的分子、反動的大衆と見なした。「テスニャキ派」の欠陥と弱点は、党が、帝国
主義戦争を国内戦に転化させる自然発生的な試みであった一九一八年の兵士大衆の蜂起の先頭に
立たなかった、ということにはっきりとあらわれた。
大十月社会主義革命の影響をうけて、「テスニャキ」党は、ロシア共産党(ボ)の立場に近づ
いた。党は、共産主義インタナショナルの結成(一九一九年三月)に参加した。一九一九年三月
にひらかれた第二十二回党大会で、「テスニャキ」党は、ブルガリア共産党(テスニャキ)と改
称された。ブルガリア共産党第一回大会とみなされているこの大会で、マルクス主義の精神につ
らぬかれた綱領宣言が採択された。大会後、党は革命運動の指導と党の陣列の強化(半無政府主
義的・メンシェヴィキ的「左翼」グループその他の追放)に大きな成功をおさめた。一九一九年
末までに、党員は三万五〇〇〇名をかぞえた。一九二〇年五月三十日―六月二日にはブルガリア
共産党第二回大会が、一九二一年五月には第三回大会がひらかれた。第四回大会(一九二二年六
月)は、コミンテルン第三回大会(一九二一年)の決定にしたがって統一戦線の戦術に関連した
諸問題を審議した。
「テスニャキ」の残存物は、この時期にはまだ党の活動を妨害しつづけていた。このことは、
一九二三年六月九日の軍事的・ファシスト的クーデターにたいする態度にとくによくあらわれた。
ファシストと党を支配していたブルガリア農民同盟とのあいだの闘争で、党指導部は、反ファシ
ズム闘争の統一戦線を組織するかわりにあやまった「中立」的立場をとった。ブルガリア農民同
盟政府が打倒され、国内にファシスト独裁が確立されたのち、共産党は、コミンテルン執行委員
会の援助を得て、精力的に、是認された誤りをただすことに着手し、すべての反ファシスト勢力
を結集し、王制=ファシスト独裁に反対する武装蜂起を準備する方針をとった。一九二三年の人
民の反ファシスト九月蜂起の敗北にもかかわらず、蜂起はブルガリア労働者階級の革命化に顕著
な役割を演じ、党の発展の転機となった。
九月蜂起ののちに開始されたほしいままなファシストのテロルは、党が非合法状態に移行する
ことを余儀なくさせた。党内でばくろされた日和見主義的・解党主義的分子は、党の陣列から放
逐された。一九二四―二五年に、革命運動の若干の後退と資本主義の一時的・部分的・相対的安
定の条件のなかで、ブルガリア共産党は、党諸組織を復活させるために執拗な活動をおこない、
現在ある合法的な労働者の諸組織で積極的な活動をおこなった。国内の情勢が若干変化した一九
二七年に、ブルガリア共産党の指導下にあり、短期間大衆のなかで重要な地位を獲得することの
できた合法的な労働者党が創立された。
すぐれた党の指導者――G・ディミトロフやB・コラロフが亡命をやむなくされていたのを利
用して、ルーマニア共産党指導部には、反党的・トロツキスト的方針をとった小ブルジョア的・
出世主義的・左翼セクト主義的分子が潜入して、一九二九年の夏ごろまで上層部を占領していた。
「テスニャキ派」をメンシェヴィズムであると中傷したのち、それらの分子は、「テスニャキ主
義絶滅」の旗のもとに党のマルクス主義的カードルに反対する闘争をおこない、党内に秘密のト
ロツキスト的分派をつくった。
ブルガリアに悪い影響をおよぼした一九二九年にはじまった世界経済恐慌の条件のなかで、あ
らたな革命的高揚がはじまった。一九三一年の国民議会の選挙では、労働者党は一七万票を獲得
した。ブルガリア共産党を思想的・政治的に強化するうえに大きな役割を演じたのは、一九三三
年にヒトラー一味によって組織されたライプチヒ公判におけるG・ディミトロフの陳述であった。
その公判は、ドイツ・ファシズムに重大な道徳的・政治的敗北をもたらした。
一九三四年五月に、ブルガリアでは、軍事的クーデターがおこなわれた。権力をにぎった政府
は、すべての政党を解散させた。ブルガリア共産党の左翼セクト主義的指導部は、合法的労働者
党を「自壊した」党であると宣言し、共産党に冒険的戦術をおしつけようとした。一九三五年に、
G・ディミトロフを先頭とするブルガリア共産党のマルクス=レーニン主義的中核の一貫した政
策の結果、コミンテルンの援助によって、党内の左翼セクト的分子は粉砕された。一九三六年二
月末から三月はじめにかけてひらかれたブルガリア共産党第六回中央委員会総会は、G・ディミ
トロフの直接的指示にこたえて、党を大衆との結びつぎを拡大し、反ファシスト統一戦線を結成
するための闘争にむかわせた。総会では、一九三八年まで独立した党として地下に存在した非合
法的労働者党の再建にかんする決定が採択され、ブルガリア共産党と労働者党の合同にかんする
決定が採択された。党の最後的な合同は一九三九年におこなわれた。合同した党はブルガリア労
働者党という名称をもちいた。ブルガリア労働者党は、いくたの大ストライキの先頭に立ち、王
制=ファシスト政府のヒトラー支持政策に反対する闘争を展開し、多くの民主的諸組織との行動
の統一を確立し、うちたてられた人民戦線の皷舞者、組織者として行動した。
党は、ブルガリアが第二次回界戦争にひきこまれることに反対し、ソ同盟との友好相互援助条
約の締結をめざす精力的な闘争をおこなった。一九四一年六月二十二日、すなわち、ヒトラー・
ドイツのソ同盟にたいする背信的攻撃の日に、ブルガリア労働者党中央委員会は、ブルガリア人
民にヒトラー一味の強盗とブルガリアの手さきとの闘争をよびかけたメッセージを採択した。ブ
ルガリア労働者党中央委員会は、ヒトラー一味と王制=ファシストに反対し、ブルガリアに労働
者階級を先頭とする勤労者の権力をうちたてるための武装蜂起に、ブルガリア人民をそなえる方
針をとった。すでに一九四一年に、ブルガリアには、ブルガリア労働者党によってつくられた最
初のパルチザン部隊があらわれた。ブルガリアにおける解放闘争の組織と発展において顕著な役
割を演じたのは、B・チェルヴェンコフがその指導者であった「フリスト・ボーテフ」放送局で
あった。一九四二年のなかごろ、党は、ドイツ=ブルガリア・ファシズムに反対する闘争のため
の単一の愛国的・反ファシスト組織の結成に着手した。一九四二年七月十七日、「フリスト・ボ
ーテフ」放送局によって、「祖国戦線」と名づけられたこの政治組織の綱領が放送された。一九
四三年八月までに、祖国戦線国民委員会がつくられた。党は、祖国戦線の旗のもとに、国民のす
べての進歩的・民主的・愛国的勢力を自分のまわりに結集して、それらの勢力を王制=ファシス
ト独裁にたいする突撃にみちびいた。ブルガリア労働者党中央委員会は一九四三年に、小さなパ
ルチザン隊から、一九四四年の夏までには大規模な武装勢力にまで成長した人民解放一揆軍の総
司令部をつくった。ブルガリア労働者党は、その献身的な闘争において、大きな損害をこうむっ
た。とくにブルガリア労働者党小央委員A・イヴァノフ、Z・ラドイノフ、その他多くの著名な
党活動家が亡くなったことは甚大な損失であった。
ヒトラー・ドイツにたいするソ同盟の決定的勝利の条件のなかで、とくに、ルーマニアの領土
内にあったドイツ・ファシスト軍隊が壊滅したのち、ブルガリア労働者党は、一九四四年八月に、
全人民的武装蜂起の直接的な準備に着手した。王制=ファシスト・ブルガリアにたいする一九四
四年九月五日のソ同盟の宣戦布告とソヴェト解放軍のブルガリア領への進出は、ブルガリアの反
ファシストが王制=ファシスト制度を絶滅するのを容易にした。九月八日の夜から九日にかけて
おこなわれたブルガリア労働者党によって準備された武装蜂起の結果、国内の権力は、労働者階
級を先頭とする勤労者の手にうつった。国内には、社会主義への道に沿ってブルガリアがいっそ
う発展することを保障した人民民主主義制度がうちたてられた。
一九四四年九月九日の直後、ブルガリア労働者党は、ブルガリア労働者党(コムニスト)とい
う名称をもちいるようになった。ブルガリア労働者党(コムニスト)の勢力は、解放闘争の過程
でいちじるしく増大した。党は、人民民主主義制度の確立に決定的な役割を演じ、国内のあらゆ
る民主主義的改革における主導者となり指導者となった。ブルガリア労働者党(コムニスト)の
指導のもとに、ファシスト分子に壊滅的な打撃が加えられ、いくたの反革命陰謀がばくろされ、
絶滅された。
ブルガリア労働者党(コムニスト)の指導のもとに、ソ同盟の兄弟間接肋を得て、ヒトラー占
領軍と王制=ファシストに破壊された国の国民経済は成功裡に復興し、革命的農業改革が実行さ
れた。ブルガリア人民は、ブルガリア労働者党(コムニスト)のイニシアティヴによって、一九
四六年に王制を打倒してブルガリア人民共和国を宣言した。一九四七年には、工業と銀行の国有
化が実行にうつされた。この年に、人民議会は、ブルガリアにおける人民民主主義制度のかちと
られた成果を強化した憲法を採択した。
ブルガリア労働者党(コムニスト)は、一九四七年の共産党労働者党情報局の創立に参加した
党の一つであった。「ユーゴスラヴィア共産党の状態について」という共産党労働者党情報局の
決定は、ブルガリア労働者党(コムニスト)の陣列を強化し、党の警戒心を高めるうえに大きな
役割を演じた。裏切者と背信者をその陣列から追放したブルガリア労働者社会民主党は、一九四
八年八月十一日に、マルクス=レーニン主義イデオロギーと組織原則を完全にみとめたうえでブ
ルガリア労働者党(コムニスト)に合同した。一九四八年十二月にひらかれたブルガリア労働者
党(コムニスト)第五回大会は、一九四九―五三年のブルガリア国民経済発展の五ヵ年計画およ
びマルクス=レーニン主義教育とイデオロギー活動の強化にかんするもっとも重要な決定を採択
した。大会は、国の工業化と電化、農業の協同組合化と機械化の方針を宣言した。大会では、ブ
ルガリア労働者党(コムニスト)をブルガリア共産党と改称する決定が採択され、党規約が確認
され、新しい党綱領作成のための委員会が選出された。大会後まもなく、ブルガリア共産党は大
きな悲しみに見まわれた。すなわち、一九四九年七月二日に、党および全ブルガリア国民の指導
者であり教師であったゲオルギー・ディミトロフが逝去したのである。党は、よりいっそう緊密
にその陣列を結集して、ブルガリア勤労者をあらたな勝利へとみちびいた。
帝国主義者のふかくかくされた手さき――トライチョ・コストフとその一味が一九四九年にば
くろされ、粉砕されたことは、党の重要な勝利であった。
一九五〇年六月に、ブルガリア共産党第三回会議がひらかれ、党中央委員会書記B・チェルヴ
ェンコフの報告「ブルガリア共産党の組織的・大衆的政治活動について」を審議し、国内に社会
主義の基礎を建設するための闘争における党およびブルガリア国民の諸任務をさだめた。
ブルガリア共産党は、国内の社会的・経済的改革の実行における鼓舞者であり組織的勢力であ
る。党は、住民の物質的・文化的水準をたかめるために、ソ同盟および人民民主主義諸国との恒
久な友好と同盟をふかめるために倦むことなくたたかっている。ブルガリア共産党は、平和を擁
護し、帝国主義的戦争放火者とその手さきに反対するブルガリア国民の闘争の先頭に立っている。
ブルガリア共産党の指導のもとに、ブルガリア人民共和国は、世界の革命運動と労働運動の「突
撃隊」の一つに変った。ブルガリア共産党は、マルクス=レーニン主義理論、ソ同盟共産党とソ
同盟における社会主義建設の経験によってすべての活動を指導されている。
党は、党員のイデオロギー教育、新しい社会主義文化の発展をめざす闘争に特別の注意をはら
っている。
ブルガリア共産党は、民主主義的中央集権制度の基礎のうえに建設された。党の最高機関は党
大会であり、党大会と大会のあいだの最高機関は中央委員会である。中央委員会の政治活動の指
導のために中央委員会の構成員のなかから政治局が、組織活動の指導のために組織局が、当面の
活動をおこなうために書記局がそれぞれ分離している。ブルガリア人民共和国の行政区分に適応
して、州、地区、市、地方(区をもつ都市のばあい)の党組織がある。ブルガリア共産党ソフィ
ア市委員会は、区委員会と同等の権利をもち、ブルガリア共産党中央委員会に直属している。そ
の他の市委員会の若干のものは、村委員会と同等の権利をもち、ブルガリア共産党地区委員会に
よって直接指導されている。
党の下部組織は、工場、公共機関、機械トラクター・ステーション、農業生産者協同組合、手
工業者協同組合、国営農場、建設現場、学校、村、都市の区、その他につくられている。もし工
場、組合、区、その他で、党員が三〇名以下のばあいには、ブルガリア共産党と党員候補からな
る党グループがつくられている。同一村落内のすべての下部党組織は、ブルガリア共産党村委員
会を頭とする地方党組織を結成している。
一九五二年末までに、ブルガリアには、一二の地区組織、一〇一の州組織、一万四四一七の下
部党組織、市および地方組織があった。
一九五二年には、ブルガリア共産党員および党員候補は四三万一〇〇〇名をかぞえた。ブルガ
リア共産党は、党員の圧倒的多数を網羅した広範な党教育網を組織した。
ブルガリア共産党の中央機関紙は、ソフィアで約四〇万部発行されている『ラボートニチェス
コ・ヂェーロ』であり、理論機関誌は『ノヴォ・ヴレーメ』である。