中国共産党
中国共産党は、中国労働者階級の前衛部隊、中国の全勤労者の指導者、人民民主主義革命の勝
利の組織者ならびに鼓吹者、中華人民共和国の指導勢力である。
党の創立。第一次国内革命戦争の時期(一九二四―二七年)の中国共産党
中国共産党は、大十月社会主義革命の直接的影響のもとに、一九一九年五月四日に中国ではじ
まった人民の反帝・反封建運動の高揚した情勢のもとで創立された。そのころ中国のプロレタリ
アートは、独立した政治勢力として政治闘争の舞台にのぼりはじめたのである。一九二〇年に、
毛澤東、李大サ、その他の革命運動家の指導のもとに、中国の大都市にできたマルクス主義のサ
ークルやグループの代表者大会が、一九二一年七月一日に上海でひらかれた。大会には、約五〇
人の党員を代表した一二名の代表が出席した。大会は、中国共産党の創立を宣言した。中国共産
党の結成は、国の歴史における顕著なできごとであった。杭州における中国共産党第二回代表大
会(一九二二年)で、中国共産党のコミンテルンへの加盟にかんする決定が採択され、政治的行
動綱領が確認された。行動綱領では、マルクス=レーニン主義にもとづいて、帝国主義者の圧迫
をしりそげ、国の完全な独立をかちとり、軍閥の権力を打倒し、中国を民主主義共和国に変える
ことが当面の任務として提起された。
ヴェ・イ・レーニンとイ・ヴェ・スターリンは、中国人民の民族解放運動にきわめて大きな注
意をはらった。民族・植民地問題にかんするヴェ・イ・レーニンの諸労作と、帝国主義的圧迫と
封建的残存物にたいする大中国人民の解放運動にささげられた彼の諸労作のなかで、ヴェ・イ・
レーニンは、中国人民の革命的勢力と中国人民の解放運動の国際的意義を高く評価し、戦略・戦
術をつくりあげるうえで中国共産党に大きな支援をあたえ、中国人民を鼓舞する力づよい源泉と
なった。中国革命の諸問題にささげられたイ・ヴェ・スターリンの諸労作は、中国共産党の強化
と発展に大きな役割を演じた。イ・ヴェ・スターリンは、諸労作のなかで、中国における階級勢
力の配置、中国革命の原動力、革命の性格と基本的特質、発展段階、その見通しを分析したのち、
中国革命の諸問題にかんするトロツキー派の裏切者を決定的にうちやぶった。コミンテルンは、
年若い中国共産党に不断の援助をあたえた。中国の具体的・歴史的情勢にマルクス=レーニン主
義の一般命題を創造的に適応させながら、中国共産党は、中国人民を解放闘争にみちびき、帝国
主義と国内の反動の勢力にたいする歴史的勝利をかちとった。
中国共産党は、一九二一―二三年の時期に、あらゆる面で労働組合を組織、強化し、ストライ
キ運動を指導した。中国共産党の指導のもとに、労働者階級の活動と、民族解放闘争における労
働者階級の指導的役割は急速に増大した。それと同時に、中国共産党は、農民団体の組織に着手
した。
一九二三年六月に、国内で急速に増大しつつあった反帝国主義的・革命的高揚の情勢のなかで、
広東で、中国共産党第三回大会がひらかれた。大会は、広範な反帝国主義民族戦線をうちたてる
ために、中国共産党の組織上・政治上の独自性と同盟者にたいする批判の権利を保持しながら、
共産党員が、孫中山に指導される国民党に加入するという決定を採択した。この決定は、右翼偏
向者にたいする闘争のなかで採択された。右翼偏向者は、共産主義者が国民党に加入することに
よって、中国共産党を大衆的な、政治上・組織上の独自性をもった党に変える闘争を放棄し、革
命における労働者階級の指導的役割をめざす闘争、さらにまた、共産党と国民党との合作に反対
する「左翼」セクト主義の傾向の代表者にたいする闘争を放棄すべきであると考えた。中国共産
党のイニシアティヴと援助によって、国民党は、労働者、農民、都市小ブルジョアジーおよび民
族ブルジョアジーの同盟体に改造した。中国共産党の正しい政策は、国内に広範な反帝国主義戦
線をつくり、広東省を革命の基地に変えた。第一次国内革命戦争(一九二四―二七年)がはじま
った。中国共産党は、広東の国民革命政府が、南部諸省の権力を強化し、国民革命軍の創設に着
手するのをたすけた。一九二五年一月に、中国共産党第四回全国代表者大会がひらかれ、大衆の
なかで党活動を強化するための一連の決定を採択した。
一九二五年五月三十日の事件ののち、民族解放運動は全国にひろがり、中国共産党を先頭とす
る労働者階級は、革命の前衛として行動をつづけた。共産党員と国民党の革命的分子の英雄的努
力によって、一九二六年七月に北伐に出発した国民革命軍は、華中で軍国主義者の軍隊を撃破し
た。北伐の結果、人民大衆の革命運動は強化された。中国共産党の党員数は五万八〇〇〇人に増
加した。労働組合に組織された労働者と事務員の数は二八万に達し、約一〇〇〇万の農民が農民
組合に組織された。すべてこれらの成功は、共産党の指導部にもぐりこんだ陳独秀その他のトロ
ツキストおよび右翼分子がとった日和見主義的政策に反対した中国共産党の諸組織によって達成
されたのである。陳独秀その他の偏向者との闘争で、毛澤東は、マルクス=レーニン主義の理論、
戦略および戦術をしっかりとまもった。この時期に書かれた労作『中国社会各階級の分析』(一
九二六年)と『湖南農民運動視察報告』(一九二七年)のなかで、毛澤東は、中国社会の各階級
と、中国のブルジョア民主主義革命における各階級勢力の配置のマルクス主義的分析をおこなっ
た。民族ブルジョアジー(中産階級)の社会的本性、革命にたいする民族ブルジョアジーのどっ
ちつかずの態度と不断の動揺の不可避性を規定したのち、毛澤東は、革命におけるブルジョアジ
ーの役割を過大評価した陳独秀その他の右翼日和見主義者に決定的な打撃をあたえ、中国の労働
者階級だけが反帝・反封建革命の先頭に立つことができるし、また立たなければならないことを
しめした。それと同時に毛澤東は、農民運動の分析にもとづいて、中国にもっとも大きな農民革
命が成熟しているのを見ず、中国の労働者階級にとっては、労働者階級の信頼すべき同盟者であ
る土地のない、土地の少ない農民の革命闘争の先頭に立つ必要のあることを見なかった右翼およ
び「左翼」日和見主義者の見解のあやまりと有害さを指摘した。
陳独秀その他の偏向者の裏切的・日和見主義的方針は、一九二七年四月に右翼国民党員が反革
命クーデターをおこなうのを容易にした。蒋介石の反革命クーデターののち、中国共産党は、武
漢の国民党指導部との協力を実現して、革命をいっそう発展させる方針をとった。革命は全体と
して最高の発展段階、農民運動の段階にはいった。漢口でひらかれた中国共産党第五回大会(一
九二七年四―五月)で、革命の新しい段階における労働運動と農民運動の発展にかんする決定を
採択し、陳独秀の右翼日和見主義的方針に批判をくわえた。毛澤東その他のレーニン主義に忠実
な中国共産党の活動家の指導のもとに、日和見主義者の裏切的方針に反対して、プロレタリアー
トの組織を発展、強化し、数百万の農民を農業革命にまでたかめることができた。
第二次国内革命戦争の時期(一九二七―三六年)の中国共産党
武漢の国民党員とその政府が、内外反動の攻撃の情勢下で反革命の陣営に移行したのち、中国
共産党は、陳独秀その他の日和見主義者を指導部からとおざけて(一九二七年八月七日の中央委
員会緊急会議)、一九二七年の秋から一九二八年の春にかけて、一連の蜂起(南昌の「秋収」蜂
起、広東蜂起、その他)を組織した。一時的な敗退をこうむった革命の後衛戦であったが、これ
らの蜂起は、革命におけるプロレタリアートのヘゲモニーと、数百万の農民大衆を労働者階級の
まわりに結集したことによって特徴づけられる第二次国内革命戦争の端緒となった。「左翼」偏
向者のあやまちは党の方針を成功的に遂行することに少なからぬ損害をあたえた。「左翼」偏向
者は、蜂起を、革命勢力を保持し、強化することにむけられた防衛戦とは兄ないで、攻撃戦であ
ると見た。「左翼」偏向者のこれらのあやまちは、中国共産党第六回大会(一九二八年七月)で
非難された。第六回大会は、革命はその性質からして依然としてブルジョア民主主義革命にとど
まると規定した。国内にあらたな革命的高揚の到来することは不可避であると考えて、中国共産
党は、都市と農村で大衆を獲得し、農業革命を展開し、農村に革命の根拠地をつくり、人民権力
の諸機関――プロレタリアートと農民の反帝・反封建的民主主義独裁の諸機関――をつくり、赤
軍を創設し、あらゆる手段で強化発展させる方針をとった。
第二次国内革命戦争における中国共産党の成功には、毛澤東が顕著な役割を演じた。自分の労
作『中国の赤色政権はどうして存在することができるか?』(一九二八年)、『井崗山の闘争』
(一
九二八年)、その他のなかで、毛澤東は、革命の一時的な敗退後に中国に生じた情勢をマルクス
主義的に分析した。毛澤東は、帝国主義者と中国の支配階級とのあいだの矛盾、農業革命にたい
してますます高まりつつある農民の高揚、中国の大都市における蒋介石と帝国主義者の大兵力と
警察力の集中、農村における彼らの勢力の弱体が、この情勢における主要な特質であることをし
めした。毛澤東は、マルクス=レーニン主義の原理を中国の新しい、独自の情勢に創造的に適用
して、労働者階級の力によって農民の革命闘争を指導し、農村に強力な革命の根拠地を樹立強化
し、武装革命軍を創設強化するために、党活動の南心を農村にうつすことを予定した、中国革命
をいっそう発展させる計画を立てた。毛澤東は、中国共産党が正しい指導をおこなえば、これら
の革命の根拠地は、長期の革命闘争によってしだいに発展、拡大し、全中国的規模で革命を勝利
させることができることをしめした。
中国共産党は、農業革命、強力な革命根拠地の建設、赤軍の創設の先頭に立った。江西、湖南、
江西南部、福建西部には、広大かつ強力な革命の根拠地が樹立された。その他の革命根拠地は、
湖北、安徽、広四、広東、河南、四川の各省に樹立された。毛澤東を主席に中華ソヴェト(労働
人民代表会議)共和国がつくられた。毛澤東の立てた敵の優越した勢力にたいする人民の兵力の
戦略・戦術に指導されて、赤軍および遊撃隊は、革命の拠点にたいする蒋介石の包囲攻撃を撃退
した。
この時期に、中国共産党内に生じた李立三を先頭とする「左翼」的偏向は、革命運動に大きな
損害をあたえた。「左翼」偏向者は、新しい情勢の性格や特質を理解しないで、若干の党組織を
大都市における時機尚早の蜂起の道にひきいれ、戦争のおきてを無視し、赤軍の勢力と能力とを
過大評価して、中国の主要中心部への赤軍の攻撃を要求した。李立三の「左翼」的偏向は、中国
共産党の〔第六期〕中央委員会第三回総会(一九三〇年九月)で、ばくろされた。
一九三一年から、中国共産党の活動は、中国における日本帝国主義者の干渉の開始によって特
徴づけられる情勢のなかでおこなわれた。日本の干渉は、労働者、農民、インテリゲンツィアの
革命的部分とならんで、小ブルジョアジーの広範な層と民族ブルジョアジーの一部もふくまれた
国内の人民の反軍国主義運動のあらたな、力づよい高揚をよびおこした。日本の侵略者にたいす
る闘争を組織することが、中岡共産党の活動の中心になった。満州の占領が開始されたのち、中
国共産党は、干渉者にたいする武装抵抗を人民によびかけた。共産党員の指導のもとに、東北そ
の他の諸地区では、日本の侵略者にたいする人民戦争が展開された。日本の侵略に反対してたた
かうかわりに、背信的にも満州を日本にあたえた蒋介石政府は、革命の根拠地にたいする包囲攻
撃をつづけた。蒋介石政府の降伏主義的政策は、全人民の憤激をよびおこした。中国共産党中央
委員会の若干の指導者(王明〔陳紹禹〕および博古〔秦邦憲〕)の重大な「左翼」的誤謬によっ
て、赤軍の偉大な戦果と国内の全人民的抗日運動の高揚の結果つくりだされた好都合な条件は、
革命運動を強化するために利用されなかった。「左翼」的一脈は、労働者と農民の国民党の軍隊
の愛国的一派、都市小ブルジョアジーおよび民族ブルジョアジーとの統一戦線の結成に反対し、
国民党政府の支配下にある諸地区で、革命闘争の合法的・半合法的可能性を利用することをこば
んで、セクト的政策をおこなった。革命の根拠地で、「左翼」的一派は、経済政策で重大なあや
まちをゆるし、さらにまた、愛国的機動戦には対した。四年間(一九三一年一月―一九三五年一
月)党の指導機関内部を支配したこのまちがった「左翼」の方針は、党と革命にとくに重大な損
害をあたえた。「左翼」のあやまちは、国民党の支配下にあった諸地域の中国共産党の諸組織に
大きな損失をもたらした。「左翼」的政策の結果、赤軍部隊の状態は、一九三三年十月の蒋介石
の第五回包囲攻撃の開始以後、極度に不利になった。中国共産党は、赤軍部隊の中国西北への遠
征にかんする決定を採択した。大遠征の当初、「左翼」的一派は、大きな軍事的あやまちをゆる
しつづけ、その結果、赤軍部隊は大きな損害をこうむった。一九三五年一月に、遵義(貴州省)
で、毛澤東の指導のもとにひらかれた歴史的な中央政治局拡大会議が召集され、そこで、「左翼
」的一派のあやまちにたいして鋭い批判かくわえられ、「左翼」的一派は、党指導部からとおざ
けられた。毛澤東を先頭とする中央委員会の新しい指導部がつくられ、それ以後、ひきつづき毛
澤東が、中国共産党中央指導部の先頭に立っている。大遠征の第二段階の時期に、中国共産党の
内部では、張国Zにひきいられた右翼日和見主義者一派の正体がばくろされた。彼らは、敗北主
義と離党主義の道に立って、中国西北への赤軍の遠征を失敗させようとした。
中国共産党の指導のもとに、大遠征は成功裡に遂行された。このことによって中国の赤軍は、
社会主義強国――ソ同盟に代表される強固な背後を確保し、日本侵略軍にたいする闘争を展開す
る可能性をつくりだした。中国赤軍部隊が陝西省に到着(一九三五年)したのち、中国共産党は、
日本侵略軍に抵抗するために人民を動員し、革命勢力を強化するための闘争を強化した。中国の
情勢の変化と、国内に生じつつある階級勢力の再編成に適応して、中国共産党中央委員会は、日
本帝国主義者の侵略にたいする闘争の時期における戦略・戦術方針をつくりあげた。この方針は、
『日本帝国主義反対の戦術について』(一九三五年)、『抗日の時期における中国共産党の任務
』(一九三七年)、その他の毛澤東の労作のなかで述べられた。日本の侵略にたいしては、労働
者、
農民、都市小ブルジョアジーだけではなく、民族ブルジョアジーや買弁ブルジョアジーと地主の
一部の層すらも反対していることを教示して、中国共産党は、国内に広範な抗日民族戦線を樹立
し、日本侵略軍にたいする戦争における労働者階級の指導的役割をあらゆる方法で強化し、国内
の大衆の民主主義的人民運動と人民の武装勢力を強化し発展させることを主要な任務として提起
した。日本の侵略者にたいしてたたかうための人民の動員を、同時に国内の人民の民主主義勢力
の強化と発展に結合させるという中国共産党中央委員会によって作成された政策は、中国共産党
の行動の基礎におかれた。
広範な抗日民族戦線を樹立する目的で、中国共産党は、労農民主共和国のための闘争のスロー
ガンを、日本侵略者に反対し、国家の民主的再建をめざす共通の民主的綱領にもとづいてたたか
っているすべての階級と党を統合した連合政府を先頭とする人民共和国のための闘争のスローガ
ンに変え、地主の土地の没収政策を減租減息〔小作料の引下げと高利貸利息の引下げ〕の政策に
かえる決定を採択した。
それと同時に、中国共産党は、全党員のイデオロギー的武装の活動を強化している。この点で
は、毛澤東の諸労作が顕著な役割をはたした。著作『中国革命戦争の戦略問題』(一九三六年)
のなかで、毛澤東は、中国における革命戦争の性格とその特質をふかく分析し、国内革命戦争の
一〇年間にわたる中国赤軍の豊富な経験を理論的に普遍化した。それはのちに日本の侵略者にた
いする人民戦争の基礎にすえられた。哲学的著作『実践論――認識と実践との関係――知識と行
動との関係について』および『矛盾論』(一九三七年)のなかで、毛澤東は、唯物弁証法の法則
を中国の現実の具体的諸条件に適用して、「左翼」および右翼偏向者の教条的義的誤りや経験主
義的誤りのイデオロギー的基礎をばくろした。
抗日戦争の時期の中国共産党(一九三七―四五年)
一九三七―四五年の時期に、中国共産党は、日本帝国主義者にたいする中国人民の民族解放戦
争の先頭に立った。中国共産党は、断固として、広範な抗日民族戦線を樹立する方針をとった。
広範な人民大衆に支持された中国共産党の努力によって、国民党指導部は、公然たる国内戦争を
中止し、抗日戦争で中国共産党と協力する用意のあることを声明せざるをえなくなった。しかし、
この協調は、中国共産党の行動の制約をともなった。そのことは、中国共産党にたいする国民党
指導部の旧来の敵意がのこっていることを証明した。抗日統一戦線にかんする協定にともなって、
西北地区の革命の拠点は、陝・甘・寧辺区と改称され、赤軍の主要な勢力は、八路軍および新四
軍に再編成された。抗日民族統一戦線の政策の実行にあたって、中国共産党は、人民大衆のなか
での政治活動の遂行、陝・甘・寧辺区および解放区における民主主義建設の指導、八路軍および
新四軍の行動においては完全な独自性をたもった。中国共産党の努力は、広範な民族戦線を樹立
し、日本の侵略者にたいする戦争で労働者階級の指導的役割を強化し、国内の大衆的人民運動と
人民の武装勢力をあらゆる手段をつくして強化し、戦線で日本の侵略者に断固たる抵抗をしめし、
敵の背後に全人民の武装闘争を組織し、本質的には、一九三九年から抗日軍事行動を中止し、人
民民主主義運動と中国共産党にたいする敵対行動を公然ととりはじめていた国民党指導部の裏切
り政策を組織的にばくろすることにむけられた。
中国共産党のただしい政策の結果、中国の民主主義勢力は、日本帝国主義者にたいする民族解
放戦争で大きな成功をかちとった。一九四五年四月までに、中国共産党中央委員会が存在してい
た陝・甘・寧辺区のほかに、敵の背後に、一八の解放区がつくられた。増大し強化された人民の
武装勢力は、日本侵略者にたいする中国の戦争で主要な勢力に変った。人民の武装勢力が、毛澤
東の軍事的労作『抗日遊撃戦争の戦略問題』(一九二八年)、『持久戦論』(一九三八年)、『
戦争と戦略問題』(一九三八年)のなかでつくられた戦略・戦術にもとづいて、軍事行動をおこ
なったことが、人民の武装勢力の成功をたすけた。日本侵略者との戦争の時期に、中国共産党の
権威は、はかり知れぬほど増大し、中国共産党は、中国人民の抗日戦争のみとめられた指導者と
なった。党員数は一二〇万に増加した。
戦争の当初、中国共産党は、この時期に生じた陳紹禹〔王明〕その他「国民党の反人民的な政
策に譲歩し、人民大衆よりも国民党をより信頼し、大胆に大衆の闘争を展開することを決心せず、
解放区を拡大し、日本の占領地内で人民戦争の数を増大することを決心せず、日本侵略者にたい
する戦争の指導権を国民党にゆずりわたした」〔毛澤東『現在の情勢とわれわれの任務』〕人々
の右翼的誤りを、成功的に克服した。それと同時に、中国共産党は、国民党との統一戦線の破棄
を要求した「左翼」的偏向者に断固たる反撃をくわえた。共産党員のイデオロギー的教育、マル
クス=レーニン主義古典の研究、作風整頓にかんする多くの労作が書かれた。この時期に書かれ
た毛澤東の労作『「共産党人」発刊の辞』(一九三九年)、『中国革命と中国共産党』(一九三
九年)、『新民主主義論』(一九四〇年)、その他は、中国共産党のイデオロギー的武装にとっ
て大きな意義をもっていた。それらの諸労作のなかで、毛澤東は、中国における革命運動の経験
を一般化し、国内の階級勢力の配置をくわしく分析し、国際情勢と中国の国内情勢のマルクス=
レーニン主義
的評価にもとづいて、人民民主主義革命のいっそうの発展の見通しをあたえた。プロレタリア国
際主義の精神で党員を教育する事業で大きな役割をはたしたのは、毛澤東の論文『ソ同盟の利益
と全人類の利益の一致』(一九三九年)である。
ヒトラー・ドイツにたいするソヴェト軍の決定的勝利と中国の民主主義勢力の大きな成功の情
勢のもとで、一九四五年の春ひらかれた第七回大会は、中国共産党史のうえで大きな意義をもっ
ていた。大会で毛澤東は、『連合政府について』という政治報告をおこなった。大会は、人民の
勢力を強化拡大し、抗日統一戦線をさらにいっそう強化し、そのなかで労働者階級の指導的役割
を強化し、その基礎のうえに、日本帝国主義者にたいする戦争をすみやかに勝利のうちに終結さ
せ、国民党の一党独裁を廃止し、革命的・民主主義的階級の連合政権をもつ人民民主主義制度を
国内にうちたてるためにたたかうことを党の任務として提起した。大会は、中央委員会の政治報
告を確認し、党の新規約を採択し、中国共産党中央委員会の新構成員を選出した。中国共産党の
経験に富んだ指導者毛澤東、劉少奇、周恩来、朱徳、その他が中央委員になった。毛澤東が中央
委員会主席にえらばれた。
第三次国内革命戦争の時期の中国共産党
ソ同盟が決定的な役割をはたすことによって実現されたヒトラー・ドイツと帝国主義日本の壊
滅、その結果としての全世界における民主主義勢力の増大と強化は、中国における人民解放運動
の勝利にとって好都合な前提をつくりだした。第二次世界戦争が終結したのち、中国共産党は、
その手さきである蒋介石一味の援助によって、中国を自国の植民地に変え、ソ同盟とアジア諸国
民にたいする侵略のための兵器庫に変えようとしたアメリカ帝国主義に反対する中国人民の闘争
の先頭に立った。一九四五年八月二十五日、中国共産党は、宣言を発表し、そのなかで、解放区
における民主主義的改革の保持を予知し、解放区にたいする国民党軍隊の武力攻撃、国民党の一
党独裁の廃止、民主的連合政府の樹立、自由・無制限・普通選挙にもとづく国民大会の召集を要
求した具体綱領を提起した。この綱領は、広範な人民大衆の完全な賛成をえ、国民党反動の陰謀
にもかかわらず、大体において、一九四六年一月に、政治協商会議によって採択された。しかし
国民党の蒋介石一味は、政治協商会議の決定を実行することをこばみ、一九四六年七月に、アメ
リカ帝国主義者の指示と援助にもとづいて、公然と全国的に民主的解放区への進撃をはじめた。
国内では、第三次国内革命戦争が展開した。人民解放軍は、国民党軍隊の攻撃にたいする武装反
撃を組織した。一連の宣言と声明のなかで、中国共産党は、国民党の蒋介石一味の反民族的・反
人民的政策と中国におけるアメリカ帝国主義者の侵略政策をばくろし、中国をアメリカ帝国主義
者の植民地に変えようとする、国民党政府とアメリカとのあいだに結ばれた条約や協定をはげし
く非難し、それらを承認することをこばんだ。中国共産党は、国民党の反人民的な「国民」大会
に参加することを断固として拒絶し、大会によって採択された「憲法」の非合法的ないつわりの
性格をばくろして、国民党一味の権力を打倒するよう人民によびかけた。農民の希望にこたえて、
中国共産党中央委員会は、一九四六年五月四日に、小作料をひきさげる政策を地主の土地を没収
して勤労農民にあたえる政策に変更するという決定を採択し、一九四七年九月には、全国土地会
議を召集して土地法大綱を採択した。
人民の利益に合致した中国共産党の強固な、徹底した政策は、アメリカ帝国主義者とその手さ
きである国民党の計画を完全に崩壊させた。中国共産党の指導のもとに、労働者、農民、都市小
ブルジョアジー、民族ブルジョアジー、中国のすべての民族を包含したその他の愛国的分子をふ
くむ広範な人民民主主義統一戦線を結成した。国民党軍隊の攻撃を撃退したのち、人民解放軍は、
戦争の二年目に、みずから攻撃に転じ、国民党一味の権力から成功裡に中国を解放しはじめた。
一九四七年十二月に、中央委員会と党活動家の拡大会議がひらかれた。この会議で、毛澤東は、
『現在の情勢とわれわれの任務』という報告をおこなった。報告のなかで、人民革命戦争が、転
換点に達したことが指摘され、最後の勝利まで国民党一味と闘争をおこなうという方針が決定さ
れた。人民解放軍の決定的勝利の情勢のもとで、一九四九年三月に、〔第七期〕中央委員会第二
回総会がひらかれ、国内の民主主義建設の一連のもっとも重要な問題を審議した。経済建設にか
んする主要な命題はその後、中国人民政治協商会議の共同綱領の経済政策の基礎におかれた。党
の活動にかんして、総会は、中国共産党の党活動の重心を農村から都市にうつすという決定を採
択した。人民解放軍は、人民大衆の広範な支持をよりどころにして、一九四九年までに中国領土
の大部分を解放した。
一九四九年十月一日、中華人民共和国中央人民政府の成立が宜言された。中央人民政府は、中
国共産党の提案によって召集され、全国人民の意志を代表する中国人民政治協商会議によって選
出されたものである。
中国共産党は中華人民共和国の指導力である
人民民主主義革命が勝利したのち、中国共産党は、中華人民共和国の全般的にみとめられた指
導者となった。偉大なソ同盟のまわりに団結した平和を愛する民主的諸国民の一員になった中国
人民は、中国共産党の指導のもとに、成功裡に人民民主主義中国を建設している。中国共産党の
努力は、反帝・反封建革命を遂行し、社会主義建設への漸次的移行のための主要な前提である人
民民主主義制度を強化することにむけられた。中国共産党の指導のもとに、労働者、農民、小ブ
ルジョアジー、その他の愛国的・民主主義的分子の人民民主主義統一戦線の国家権力であり、労
働者階級が指導する労農同盟を基礎とした人民民主専政が確立された。共産党員は、国家権力機
関のあらゆる環で活動し、巨大な組織・教育活動をおこない、汚職と官僚主義の残存物に反対し、
人民権力の諸機関と人民との緊密な連繋をまもる闘争の先頭に立っている。一九五〇年六月にひ
らかれた中国共産党中央委員会第三回総会は、『国家財政経済状態の基本的好転のために』とい
う毛澤東の報告をきいて、それを承認した。中国共産党の指導のもとに、買弁独占資本に属する
企業の国有化がおこなわれ、帝国主義者の特権と国の経済にたいする外国資本家の統制が廃止さ
れ、革命的農業改革が成功的に実行された。三年間で、農業と工業は、過去に達成された最高の
水準にまで復興した。経済の復興を完成したのち、中国人民は、国を工業化し、農業をいっそう
発展させる目的で、中国共産党の指導のもとに、一九五三年から、国民経済建設の第一次五ヵ年
計画に着手した。経済の固有部門と協同組合部門は、急速に発展強化しつつある。人民の物質的
福祉は不断に改善され、文化の発達では大きな成果が達成された。中国共産党は、中華人民共和
国に課せられた、世界の革命運動と労働運動の新しい「突撃隊」になるという任務の解決を、人
民の革命的創造力の動員の基礎のうえに実現しつつある。この目的のために、国内では、中国共
産党の指導のもとに三つの大衆運動が展開された。すなわち、平和擁護のためにたたかい、アメ
リカ帝国主義者の侵略にたいする抵抗を組織し、朝鮮に援助をあたえる運動、農業改革をおこな
う運動、反革命に圧迫をくわえる運動がそれである。それらの運動には、数億の市民が参加した。
中国共産党は、人民民主統一戦線のいっそうの強化と拡大に大きな注意をはらった。中国共産党
は、中国のあらゆる民主的諸政党や団体との協力を一貫して強化している。それと同時に、中国
共産党は、中国人民協商会議の共同綱領をやぶり、人民民主主義制度に損害をあたえているブル
ジョアジーの一部にたいする闘争に人民を動員している。人民民主主義権力の強化と発展におけ
る重要な段階となったのは、中央人民政府の決定にもとづいて開始された一九五三年の人民代表
大会の選挙と全国人民代表大会の召集準備であった。
中国共産党の指導のもとに、中華人民共和国は、中和と国際的安全を強化する強力な要因に変
った。中華人民共和国は、帝国主義者が、アジア諸国民を自由に奴隷化し、アジアをあらたな世
界戦争の根源地に変えることにむけられた政策をおこなうことをゆるさない国際勢力となった。
革命の過程で中国共産党は、数百万の大衆の党に変った。中国共産党の三十周年(一九五一年
七月一日)までに、党の陣列には五八〇万の党員がかそえられた。全国には二五万の下部党組織
があった。中国共産党は、民主的中央集権制の原則にもとづいてうちたてられた。党の最高機関
は党大会である。大会は、大会と大会とのあいだの時期における党の最高指導機関である中央委
員会を選出する。党増強の整頓にかんする第三回中央委員総会の決定にしたがって、党員の採用
は厳重な個人審査によっておこなわれ、まず第一に産業労働者を入党させている。旧解放区の農
村では、党員の採用は一時停止された。それと同時に、党の陣列から、党にとりいる者や動揺分
子を組織的に一掃している。党員の思想的・政治的水準をたかめ、プロレタリア国際主義の旗に
たいする忠誠の精神、ブルジョア・イデオロギーとその腐敗した影響にたいする非妥協性の精神
で党員を教育することに大きな注意をはらっている。党員のなかには、マルクス=レーニン主義
理論の研究が広範に組織された。国の民主主義的再組織のための闘争において、中国共産党は、
マルクス=レーニン主義の教義、ソ同盟共産党とソ同盟における社会主義建設の全世界史的経験
とによって断固として指導されている。
中国共産党は、多数の新聞、雑誌を発行している。中国共産党中央委員会の中央機関紙は『人
民日報』である。