大月書店「世界の共産党」

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   ソ同盟共産党

 ソ同盟共産党――それは、労働者階級、勤労農民ならびに勤労インテリゲンツィアによって組
織された、志を同じくする共産主義者の白由意志にもとづく、戦闘的な同盟であり、ソヴェト社
会ならびにソヴェト国家の指導勢力である。ソ同盟共産党――それは、新しい型の、理論、綱領、
政策(戦術)、組織の点で一つに結合した党である。ソ同盟共産党の目的は、共産主義社会の建
設である。
 ブルジョアジーの権力を廃止し、自己の政治的支配をうちたて、共産主義社会を建設するため
には、プロレタリアートのための革命政党が必要である。ヴェ・イ・レーニンはつぎのように書
いた。「マルクス主義は、労働者党を教育することによって、プロレタリアートの前衛を教育す
る、――かかる前衛は、権力を奪いとり、 ##全人民## を社会主義へ ##みちびき## 、新しい秩
序を方向づけ、かつ組織する能万をもち、またブルジョアジーがいなくとも、ブルジョアジーに
反対しても、自己の社会生活を建設する仕事において、すべての勤労者、被搾取者の教師、道案
内者、指導者となる能力をもっている。」〔レーニン『国家と革命』、本文庫版四一ページ〕
 自己の活動において、ソ同盟共産党は、マルクス=レーニン主義の理論によって指導されてい
る。マルクス=レーニン主義理論のただしさと活動力は、実践と革命的闘争によって点検され、
マルクス=レーニン主義理論自体は、革命的実践とのもっとも緊密な関係において発展し、ゆた
かになりつつある。マルクス主義の天才的理論家ヴェ・イ・レーニンは、帝国主義およびプロレ
タリア革命の時代のあらたな、歴史的諸条件のなかで、マルクス主義を発展させ、あらたな結論
と命題によってマルクス主義を豊富にし、あらたな、高い段階に高めた。レーニンの事業の偉大
な後継者――イ・ヴェ・スターリンは、ソ同盟における社会主義建設の経験ならびに国際的解放
運動の経験を一般化することによって、新しい歴史的諸条件に適応して、マルクス=レーニン主
義の教義を創造的に発展させ、多くの問題において、あらたな命題によって、マルクス=レーニ
ン主義の革命理論を豊富にした。マルクス――エンゲルス――レーニン――スターリンの教義は、
ソ同盟共産党に不敗の力をあたえ、歴史的過程の合法側性の朝靴、階級闘争およびプロレタリア
革命の法則の認識、資本主義的奴隷制から人類を解放するための闘争、共産主義の勝利のための
闘争における自己の力の確信によって労働者階級を武装させている。共産党は、マルクス・レー
ニン主義の理論と客観的経済法則の知識にみちびかれて、社会の物質的生活の発展の要求と、国
民の根本的な利益を反映した、科学的・実践的に点検された政策をつくりあげ、革命的エネルギ
ーと、大衆の革命的創造の鼓吹者ならびに組織者として行動している。ソ同盟共産党の全歴史は、
行動でしめされたマルクス=レーニン主義である。理論と実践の統一が、共産党のすべての活動
の特徴である。
  ##共産党## は、先進的・マルクス=レーニン主義理論、その戦闘指令部ならびに政策指導者
によって武装された、 ##労働者階級## 、全勤労大衆の ##先進的・意識的部隊である## 。党は、
労働者階級および全勤労国民のあらゆる優秀分子、彼らの経験、プロレタリアートの事業にたい
する革命性と献身的な忠誠をそのなかに吸収している。 ##共産党は――労働者階級、全勤労大
衆の組織された部隊で
ある## 。新しい入党者は、厳格な個人審査によって入党をゆるされるの
である。共産党の組織の指導原理は、下部から上部までの党の全指導機関の選挙制、党組織にた
いする党機関の定期的報告、功績やその地位に関係なく全共産党員に一様に義務づけられた厳格
な党規律、多数にたいする少数の服従、下部機関および全党員にたいする上部機関の決定の無条
件の義務をみとめる民主主義的中央集権制度である。党指導の最高原則は集団主義《コレクチブ
ノスチ》である。党の集団的指導者は中央委員会である、 ##共産党は## ――勤労者のその他の
全組織――勤労者代表ソヴェト、労働組合、青年共産同盟、協同組合、文化・啓蒙諸機関、等々
――の行動を指導している ##プロレタリアートの階級組織の最高の形態である。共産党は――
労働者階級、全勤労大衆とプロレタリアートの前衛とのつながりのもっとも完全な具現者である
## 。マルクス=レーニン主義はおしえている。大衆との広範なつながりなしには、これらのつ
ながりの不断の強化なしには、大衆の出に耳をかたむけ、大衆の必要としているものを理解する
能力なしには、大衆におしえるばかりではなく、たえず大衆におしえられる用意なしには、――
党は大衆のほんとうの指導者や領袖になることはできない。共産党のすべての活動は、人民にた
いする、勤労者の革命的エネルギーと、つきることのない創造力にたいする深い信頼につらぬか
れている。人生のすべての富を創造している労働者と農氏が、歴史のほんとうの創造者であり、
「人民を信頼し、生ぎ生きした人民の創造の泉にひたるものだけが勝利し、権力をにぎることが
できる」〔レーニン『一九一七年十一月四(十七)日全ロシア中央執行委員会会議(議事録)』、
全集第二六巻二五九ページ〕というところから党は出発している。勤労者の利益のための自己の
献身的な闘争によって、ソ同盟共産党は、ソ同盟の国民大衆のなかに最大の権威をかちとった。
党には、国民の利益以外には、どのような利益もない。党の力は――党
と国民とのひきはなすこと
のできないつながりのなかにある。人民の力は人民が党のまわりに団結している点にある。ソヴ
ェト国民は、半世紀のあいだに、ロシアに存在したあらゆる政党の事業を実際に体験した。革命
的闘争のあいだに、勤労者はすべてのブルジョア政党をみすてて、唯一の反地主的・反資本主義
的政党、国民の利益の真の擁護者としての共産党をえらんだ。 ##共産党――それはその陣列の
なかに、反党的グループの存在をゆるさない意志の統一である## 。党は、全党員が意志の統一
によってむすびついた単一の陣列に組織され、行動の統一と規律の統一によって組織されている
ばあいにのみ、労働者階級の実際の闘争を指導し、それを一つの目的にむけることができるので
ある。ソ同盟共産党は、分派の存在をゆるさず、自己の陣列から、日和見主義的分子、動揺分子、
危険分子を一掃することによって強化されている。ソ同盟共産党は、マルクス=レーニン主義や
党の路線からの小さな逸脱をもゆるさない。レーニン主義の敵との激しい闘争のなかでかちとら
れたソ同盟共産党の統一は、その内部状態の特徴である。党の力の主要な条件としてのできるか
ぎりの党の統一の保持が、一人一人の共産党員の主要な任務である。党の組織は、党の指導原理
と党生活の基準を規定した ##ソ同盟共産党規約## に体現されている。 ###共産党は、プロレタ
リアートの手中に独裁をかちとるための武器であり### 、大十月社会主義革命以後は、 ###プロ
レタリアートの手中で、社会主義ならびに共産主義の勝利の利益のために独裁を維持、強化、
発展させるための武器となっている### 。
 自己の政策を実現するために、党はすべての国家機関および勤労者の公共機関も指導している
党は、ソヴェト国家の内外政策をつくりあげ、ソヴェト国民にたいして、科学的につくりあげら
れた行動綱領をあたえ、それを達成するための目的と方法を指示し、正しい行動方針をあたえて
いる。党は、労働者階級の指導のもとに、労働者階級と勤労農民の破壊しがたい同盟をあらゆる
方法で強化する政策をとり、共産主義建設とソ同盟の力の強化における、ソヴェト諸国民の友誼
とその兄弟的協力を強化する政策をとっている。
 ソ同盟共産党は、労働者階級の党としてうまれ、国民のまっただ中から出現した。党は労働運
動の基盤のうえに成長し、最初のマルクス主義的サークルやグループから、偉大な数百万人の共
産党にいたるまでの長い、栄光の道をあゆんできた。ソ同盟共産党は、帝国主義とプロレタリア
革命の時期、ソ同盟における社会主義建設の時期に創設され、成長し、強化されたのである。F
・エンゲルスの死後、社会革命の政党から「社会改良」の政党に変質し、日和見主義の泥沼にお
ちこんだ第二インタナショナルの諸政党は、あらたな歴史的諸条件のもとで――帝国主義の廃止
と政権の奪取のために、プロレタリアートの力を直接準備すべき時代に――プロレタリアートの
革命的な闘争の指導には役だたないことがわかった。新しい型の政党、革命情勢の複雑な条件を
解明するために、戦闘的な、革命的な、十分に経験をつんだ政党、労働者階級を権力のための闘
争とプロレタリアートの独裁の獲得にみちびくために、十分に勇敢な政党を創立する必要が生じ
た。このような政党が共産党なのである。
 ソ同盟共産党は、労働運動内部の小ブルジョア諸党――メンシェヴィキ、エス・エル、無政府
主義者、ブルジョア民族主義者、党内ではメンシェヴィキ的・日和見主義的諸流派であるトロツ
キー派やブハーリン派、民族主義偏向者、その他反レーニン的グループとの原則上の闘争のなか
で成長し強化された。ソ同盟共産党は、労働者階級のあらゆる敵との、勤労者のあらゆる敵――
すなわち地主、資本家、富農、妨害者、スパイとの、国際帝国主義のあらゆる代弁者との革命的
な闘争のなかで強化し、きたえられた。
 ソ同盟共産党の歴史は、三つの革命、すなわち、一九〇五年のブルジョア民主主義革命、一九
一七年二月のブルジョア民主主義革命、一九一七年の大十月社会主義革命の歴史である。
 労働者階級と勤労農民の同盟を組織した共産党は、一九一七年の大十月社会主義革命の結果、
人類の歴史上最大の転換を実現した。すなわち、地主および資本家の権力を廃止し、プロレタリ
アートの独裁を確立し、長年にわたる社会的・民族的抑圧からロシアの諸民族を解放したのであ
る。ソ同盟共産党は、ソヴェト人民を祖国防衛戦争に決起させ、一九一八―二〇年の外国の軍事
的干渉および国内の反革命の壊滅を組織した。
 プロレタリアートの独裁の諸条件のもとで、党は、生産関係はかならず生産力の性格に照応す
るという客観的な経済法則に立脚して、国民の強大な創造力を組織し、国民の偉大なエネルギー
を社会主義建設にむけた。ソヴェト国民は、共産党の指導のもとに、第一級の社会主義工業と大
規模な社会主義農業を創設し、ソ同盟をおくれた農業国から強力な工業・コルホーズの社会主義
強国に変えた。党は、長年にわたる民族的反目をなくすことを保障し、それまでに抑圧されてい
た諸民族の経済的・文化的たちおくれを克服し、ソ同盟の諸民族を単一の多民族社会主義国家に
結合した。共産党の指導のもとに、ソヴェト国民は、一九四一―四五年の大祖国戦争において、
ファシスト・ドイツおよび帝国主義日本にたいする全世界的・歴史的勝利を獲得し、祖国とヨー
ロッパおよびアジアの諸国民をファシストの圧制の脅威から解放した。
 社会主義から共産主義への漸次的移行の時期に、共産党は、共産主義建設のもっとも重要な課
題を解決しつつある。党は、多民族ソヴェト国家を将来強固にし、労働者階級と農民の同盟、諸
民族の友誼を強化し、ソ同盟の敵の侵略的行動から、積極的にソ同盟をまもることをあらゆる方
法で強化することをその任務とし、社会主義的祖国のすべての敵との闘争において、ソヴェト国
民が政治的に細心であり、なにものをも容赦しないことをおしえている。党は、ソヴェト人の物
質的、ならびに文化的生活水準の不断の向上について配慮している。国民の福祉についての配慮
――それは共産党の最高のおきてである。党は、平和、民主主義および社会主義の強力な陣営を
将来強化することを神聖な義務と考えている。対外政策の分野における党の主要な任務は、ソヴ
ェト国民の平和的な労働を保証し、平和を維持し、あらたな戦争をゆるさないことにある。共産
党は、平和政策がソヴェト国民およびその他すべての平和愛好諸国民の生活の利益にこたえる唯
一の正しい政策であるという点から出発している。
 ソ同盟共産党の創設者、英明な指導者はヴェ・イ・レーニンである。偉大在レーニンの名は、
ソ同盟共産党の全歴史、世界最初の社会主義国家――ソヴェト社会主義共和国同盟の成立と発展
にかたくむすびついている。ヴェ・イ・レーニンの名は、平和、民主主義、社会主義をめざし、
諸民族のあかるい未来をめざしてたたかう全世界の勤労者の旗となった。天才的なレーニン、レ
ーニンの教え子で、その事業の継承者であるイ・ヴェ・スターリンおよび彼の戦友たちに指導さ
れ、戦闘できたえられたソ同盟共産党は、共産主義を建設しつつあるソヴェト社会をみちびき、
指導し、これに方向をあたえる力となっている。
 ソ同盟共産党は、万国の勤労者から最大の権威と、かぎりない信頼と、愛情を得ている。共産
党は――「われわれの時代の理智であり、名誉であり、良心である。」(ヴェ・イ・レーニン)
ソ同盟共産党は、その革命的活動によって、世界の革命運動および労働運動の「突撃隊」という
誉ある称号をかちとった。
 ソ同盟共産党のゆたかな歴史的経験は、社会の革命的な変革をめざしてあくまでもたたかって
いる万国の共産党や労働者党を激励する手本である。

     1 ソ同盟共産党の創立

 ロシアのマルクス主義政党は、資本主義がその最高の、そして最後の発展段階である帝国主義
的発展段階にはいり、寄生的な、腐敗し、死滅しつつある資本主義にかわりはじめたころ、プロ
レタリア革命が直接実践上の問題となったころの国際労働運動の転換期につくられた。このころ
ロシアは、帝国主義のもつあらゆる矛盾の結節点であった。二〇世紀初頭の革命運動の中心は、
西ヨーロッパからロシアにうつった。ロシアでは、もっとも大きな民放革命がおこり、その先頭
には、農民のなかに同盟者をもっていた世界における革命的なプロレタリアートが立っていた。
歴史的発展の全過程で、ロシアの労働者階級は、国際労働運動の先駆的な地位に前進した。
 一九〇二年に、ヴェ・イ・レーニンはつぎのように書いた。「歴史はいま、他のあらゆる国々
のプロレタリアートに課せられたあらゆる当面の任務のうちで、もっとも革命的な任務をわれわ
れに課している。この任務を実現し、ひとりヨーロッパばかりではなく(いまではこう言うこと
ができる)アジアをもふくめた反動のもっとも強力なとりでを破壊するならば、ロシアのプロレ
タリアートは、国際的な革命的プロレタリアートの前衛となるであろう。」〔レーニン『なにを
なすべきか?』、本文庫版四六ページ〕ロシアの労働者階級は戦闘的・革命的マルクス主義政党
の指導によってのみ、自己の前衛的役割をはたすことができたのであり、マルクス主義政党は、
ァーリズムと資本主義をたおすための、プロレタリアートの独裁をかちとるためのプロレタリ
アの革命的闘争の先頭に立ち、この闘争に方向をあたえなければならなかった。このような党を
創設するために、ヴェ・イ・レーニンを頭とするロシアの革命的マルクス主義者たちは闘争をお
こなったのである。
 ソ同盟共産党は、プロレタリア党の創設に必要な諸条件、すなわち労働運動の存在と科学的共
産主義理論の発展がロシアではっきりした形をとりはじめたときにうまれたのである。一八六一
年の農奴制の廃止ののちに、ロシアにおける産業資本主義の発展は、かなり急速に進行した。製
作所と工場の数は増大し、鉄曲が建設された。九〇年代の末には、大工場、鉱山業、鉄道の労働
者数は約三〇〇万人に達した。ロシアの労働者階級は、組織された革命闘争をおこなることので
きる強力な、先進的勢力となった。一九世紀の七〇年代およびとくに八〇年代には、ロシアのプ
ロレタリアートは、資本主義との闘争にたちあがりはじめた。ロシアにおける労働運動の発展の
基礎のうえに、最初のマルクス主義的組織やサークルやグループがあらわれ、それらのなかから
ソ同盟共産党が形成されたのである。
 ロシアにおけるマルクス主義的労働者党は、プロレタリアートをブルジョアジーとの決定的な
武力衝突にそなえて準備させ、プロレタリア革命の勝利を組織する能力のある新しい型の党、社
会革命の党として創設された。
 ロシアにおけるマルクス主義政党を創設するための闘争の時期(一八三三―一九〇一年)にお
けるもっとも重要な出来事は、 ##ナロードニキ主義## の思想的壊滅と、その行動がマルクス主
義と労働運動との結合にむけられていたペテルブルグ「 ##労働者階級解放闘争同盟## 」がヴェ
・イ・レーニ
ンによって創立されたことである。
 マルクス主義の普及を保障し、ロシアにプロレタリア党を創りだす可能性を保障するためには、
まず第一にナロードニキ主義を壊滅させることが必要であった。ナロードニキは、人間社会の発
展における物質的生活の諸条件の第一義的な役割をみとめず、社会発展の客観的法則を理解せず、
歴史における人民大衆の創造的役割を否定した。歴史的発展過程にたいする反動的、主観的・観
念的見解を説教しながら、ナロードニキは、ロシアでは資本主義は発展しないであろうと主張し
た。彼らが主要な革命的勢力と見なしていたのは労働者階級ではなくて、農民であった。彼らは
農民共同体《オプシナチ》のなかに社会主義の萠芽と基礎を見てとった。ナロードニキ主義的見
解は、そのころロシアにおけるマルクス主義と革命的労働運動の発展をさまたげる主要な思想的
障害であった。ナロードニキのまちがった見解に反対して、ゲ・ヴェ・プレハノフに指導された
「 ##労働解放」団## が闘争を展開した。「労働解放」団は、ロシアにマルクス主義を普及させ
るうえで仕事をし、先進的な労働者や革命的気分をもったインテリゲンツィアのあいだのナロー
ドニキ主義の影響に打撃をあたえた。しかしナロードニキ主義の思想的壊滅はまだ完全におこな
われたわけではなかった。ナロードニキ主義を思想的に先全に壊滅させるという任務は、ヴェ・
イ・レーニンが遂行した。その著書『「人民の友」とはなにか? そして彼らはどのように社会
民主主義とたたかっているか?』(一八九四年)のなかでヴェ・イ・レーニンは、実際には人民
に敵対しているにせの「人民の友」としてのナロードニキの正体を、徹底的にばくろした。九〇
年代の自由主義的ナロードニキは、革命的闘争を拒否し、ツァーリの政府と妥協せよと説教し、
富農のイデオローグおよび擁護者となったのであり、ほんとうの人民の友は、ナロードニキでは
なくて、マルクス主義
者であるとヴェ・イ・レーニンは指示した。レーニンは、社会の先進的・
革命的勢力としての労働者階級の役割を規定し、労働者階級の同盟者としての農民の役割を指示
した。この著書のなかでヴェ・イ・レーニンは、ツァーリズム、地主、ブルジョアジーをたおす
主要な手段としての労働者と農民の革命的同盟の思想を、はじめて提起した。この思想は、共産
党のあらゆる行動における指導原理となった。ヴェ・イ・レーニンは、ロシアのマルクス主義者
の主要な任務は、散在したマルクス主義者のサークルやグループから、単一の革命的労働者党を
創設することにあるということをあきらかにした。ナロードニキとの和解しがたい闘争のなかで
ヴェ・イ・レーニンは、歴史の真の創造者は、傑出した個人や「英雄」ではなく、あらゆる物質
的富をつくりだしている勤労大衆であり、社会発展の歴史は、物質的富の生産者自身の歴史であ
り、人民の歴史であるというマルクス主義のもっとも重要な命題を主張した。この時期の一連の
労作のなかでヴェ・イ・レーニンは、人民の意志派や、のちにはエス・エルによってもちいられ
た個人的テロルの戦術に批判をくわえた。レーニンは、この戦術は大衆の闘争を個人の闘争にす
りかえ、人民大衆の創造力にたいする不信を意味したものであるから、革命運動にとって有害で
あると考えた。ナロードニキ主義にたいするヴェ・イ・レーニンと彼の支持者たちの闘争は、す
でに九〇年代にナロードニキ主義を決定的な思想的崩壊にみちびき、ロシアの労働運動にマルク
ス主義的思想を広範に普及するための下地をつくりだした。ヴェ・イ・レーニンは、一八九九年
に出版された『ロシアにおける資本主義の発達』という著書のなかで、ナロードニキ主義の思想
的壊滅を完遂した。「合法マルクス主義」にたいするヴェ・イ・レーニンの闘争はマルクス主義
をブルジョア的歪曲からまもる事業において、巨大な意義をもっていた。「合法マルクス主義者
」は、マルクス主義を歪
曲し、マルクス主義のなかでもっとも主要なもの、すなわちプロレタリ
ア革命の学説、プロレタリアート独裁の学説をすて、労働運動をブルジョアジーの利益に従属さ
せようとした。ヴェ・イ・レーニンは、「合法マルクス主義者」を粉砕し、彼らの自由主義的・
ブルジョア的本質をばくろした。
 一八九五年にヴェ・イ・レーニンは、ペテルブルグのマルクス主義研究《サークル》会を統合
して、「労働者階級解放闘争同盟」を創設した。ヴェ・イ・レーニンの指導のもとに、ペテルブ
ルグ「労働者階級解放闘争同盟」は、ロシアではじめて社会主義と労働運動の結合を実現しはじ
めた。「闘争同盟」は、経済的要求のための労働者の闘争をツァーリズムにたいする政治闘争に
むすびつけ、労働者を政治的に教育した。それは労働運動をよりどころとするロシアにおける事
命的プロレタリア党の最初の重大な萠芽であった。ペテルブルグ「闘争同盟」は、ロシアの他の
都市や地方でも、労働者の研究会《サークル》をこのような同盟に合同させるための力づよい刺
激をあたえた。九〇年代にはモスクワ、イヴァノヴォ=ヴォズネセンスク、ヤロスラヴリ、コス
トロマ、ドン河畔のロストフ、エカテリノスラフ、キエフ、ニコラエフ、トゥーラ、オレホヴォ
=ズエヴォ、カザン、サマラその他ロシアの諸都市に社会民主主義の同盟が創立された。九〇年
代のなかばには、ザカフカズにいくつかの社会民主主義組織が創立され、九〇年代の終りには、
シベリア「社会民主主義同盟」が組織された。ペテルブルグ「闘争同盟」は、一八九五年十二月
にツァーリ政府によって壊滅させられた。ヴェ・イ・レーニンは逮捕されて一八九七年にシベリ
アに流刑になった。
 一八九八年三月に、ロシア社会民主労働党第一回大会がひらかれた。ヴェ・イ・レーニンは大
会の活動には参加しなかった。彼は流刑地にいたのである。大会はロシアにおけるマルクス主義
政党の創立を宣言した。しかし、党は創立されず、ロシアのマルクス主義運動は、第一回大会後
も従来どおり、戦闘的なマルクス主義の綱領と中央集権的組織の統一によってむすびつけられて
いない、個々の分散した社会民主主義のサークルやグループの段階にとどまっていた。社会民主
主義サークルの多くには「経済主義」がさびついていた。国際日和見主義のロシア的変種であっ
た「経済主義者」は、労働者階級の政治闘争を否定し、ツァーリズムと資本主義にたいする闘争
における労働者階級の指導的役割を否定し、プロレタリアートの革命的政党の創立に反対し、自
然発生的労働運動に社会主義的意識をもちこむことに反対した。「経済主義者」は、社会民主主
義組織の分散性と思想的混乱を正当化した。
 マルクス主義政党樹立の闘争、「経済主義」の思想的粉砕、分散した社会民主主義サークルの
単一の中央集権化された政党への統一で決定的役割をはたしたのは、流刑地からかえったのちに
海外でヴェ・イ・レーニンによって組織された全ロシア的マルクス主義政治新聞『イスクラ』で
あった。
 ロシア社会民主労働党形成の時期に(一九〇一―〇三年)、「経済主義者」にたいする頑強な
原則上の闘争では、レーニンの『イスクラ』の革命的方針が勝利を占めた。この時期の主要な出
来事は、ロシア労働者階級の戦闘的・革命的マルクス主義政党の端緒をひらいたロシア社会民主
労働党第二回大会である。
 一九〇一年から一九〇三年のあいだに、労働者の闘争はますます革命的な性格をおびはじめた。
労働者は経済的ストライキから政治的ストライキやデモンストレーションに移行しはじめ、民主
主義的自由にかんする政治的要求を提起しはじめ、「ツァーリ専制打倒!」のスローガンをかか
げはじめた。労働運動は、農民にたいしてもその影響をおよぼした。労働者と農民の革命的行動
は、ロシアに革命が成熟し近づいていることをしめした。革命の成熟の諸条件のなかで、社会民
主主義組織の思想的・組織的分散性を克服するための、革命運動を指導するに適した労働者階級
の政党を創立するための「経済主義者」との闘争が第一義的な意義をもつようになった。『イス
クラ』紙上や著書『なにをなすべきか?』(一九〇二年)のなかでヴェ・イ・レーニンは、「経
済主義者」のイデオロギーを粉砕し、マルクス主義政党の建設計画を展開した。ヴェ・イ・レー
ニンは、党の建設は、革命的社会民主主義の見解のために宣伝と煽動をおこなう全ロシア的な政
治新聞の組織からはじめなければならないと考えた。新聞『イスクラ』は、党の勢力を統一し、
党員幹部を結集し、教育し、明確なマルクス主義の綱領と革命的戦術、単一の意志と鉄の意志を
もつ、全ロシア的な中央集権化されたプロレタリア党に、党員幹部を結集する中心になった。
 発展しつつあるロシアの労働運動の任務は、マルクス主義理論の創造的発展、労働運動と社会
主義とのかたい結びつきをつよく要求した。ヴェ・イ・レーニンは、「経済主義者」の日和見主
義との容赦ない闘争のなかで、マルクス主義政党の思想的基礎をきすぎあげた。著書『なにをな
すべきか?』のなかで、ヴェ・イ・レーニンは、「緒済主義者」がおこなったように、ツァーリ
ズムとの全般的政治闘争から労働者階級の目をそらせ、労働者階級の任務を雇主と政府とにたい
する経済闘争に限定することは、労働者に資本家の奴隷たる運命を負わせることを意味する、と
指示した。ヴェ・イ・レーニンはつぎの点をあきらかにした。労働者は、資本家に自己の労働力
を売る条件を改善するためばかりではなく、資本主義制度を絶滅するためにもたたかうことを欲
している。労働運動の途上にツァーリズムが立ちはだかっているかぎり、資本主義をとりのぞく
とはできない。それゆえに、党および労働者階級の当面の任務は、ツァーリズムをとりのぞぎ、
それによって社会主義革命への道をきりひらくことにある。「経済主義者」による労働運動にお
ける党の指導的役割の否定は、労働者階級への裏切りを意味した。なぜならば、革命的政党なく
しては、労働者階級は、自己ならびに全勤労者を政治的・経済的・精神的奴隷状態から解放する
という自己の歴史的 #使命# をはたすことができないからである。ヴェ・イ・レーニンは、革命
的理論の意義をたかめ、先進的理論によって指導される党だけが、勤労者の前衛的闘士、真の指
導者の役割をはたすことができることを立証した。レーニンはこう書いている。「革命的理論な
くしては革命的運動もありえない。…… ##先進的な理論にみちびかれる党だけが先進的闘士の
役割をはたすことができる## 。」〔レーニン『なにをなすべきか?』、本文庫版四一、四二ペ
ージ〕全力をもってヴェ・イ・レーニンは、大衆的な労働運動と科学的社会主義との結合の意義
を強調した。
 「経済主義者」は、労働運動における党の指導的役割を否定し、プロレタリアートの政治的任
務をせばめながら、党の組織的任務をひきさげた。「経済主義者」は、手工業主義、浅薄な経験
主義、地方組織の分散性を正当化した。「経済主義者」は第二インタナショナルの日和見主義者
と同様に、資本主義を維持しようとしている漸進的社会主義者の党をもつことをのそんだ。ヴェ
・イ・レーニンは、組織問題における「経済主義者」の日和見主義にたいして、自己の党建設案
を対立させた。党は職業的革命家のせまいグループと、数十万の勤労者の共鳴と支持にとりかこ
まれた地方組織の広範な網の目から構成されなければならない、とヴェ・イ・レーニンは指示し
た。ヴェ・イ・レーニンは、党は労働者階級の先進的部隊であり、プロレタリアートの階級闘争
を統一し、それに方向をあたえる労働運動の指導的勢力でなければならないと考えた。
 『イスクラ』は、レーニンの党建設案のために、ロシアにおけるプロレタリアートのほんとう
のマルクス主義政党を創立すべき第二回党大会を召集する広範なカンパニアを展開した。『イス
クラ』のもっとも重要な仕事は、党の綱領草案を作成することであった。ヴェ・イ・レーニンは、
プレハノフによって準備された草案に批判をくわえ、綱領草葉にプロレタリアート独裁にかんす
るもっとも重要な条項を挿入し、革命における労働者階級の指導的役割を明確に指示するよう努
力した。
 第二回党大会の時期に、若いロシアの労働運動がいかなる道をすすむか――社会主義イデオロ
ギーによって勇気づけられている若いロシアの労働運動が、ツァーリズムと資本主義にたいする
勇敢な、徹底的な革命闘争の道、プロレタリアート独裁の道、ヴェ・イ・レーニン、イスクラ派、
ボリシェヴィキがしめした道をすすむか、あるいはメンシェヴィキとその先行者である「経済主
義者」がさそいこんだブルジョア・イデオロギーへの従属と、ツァーリズムと資本主義への順応
の道をすすむか――という政治問題が解決された。
 ロシア社会民主労働党第二回大会は、一九〇三年七―八月にひらかれた。大会の構成は同質的
ではなかった。『イスクラ』の支持者とならんで、代議員のなかにはその反対派もいた。イスク
ラ派と自任していたものが、みながみな、ほんとうのイスクラ派=レーニン派であったわけでは
ない。彼らの一部は、のちにメンシェヴィキ=日和見主義者になったマルトフの指導にしたがっ
た。代議員の一部は、『イスクラ』とその反対者のあいだを動揺していた。ヴェ・イ・レーニン
は、イスクラ派の勝利を確保するために非常な力をかたむけた。大会はK・マルクス、F・エン
ゲルスの死後の国際労働運動史上はじめて、プロレタリアート独裁のための闘争を基本的任務と
する革命的な綱領を採択した。ヴェ・イ・レーニンはまた、農民問題にかんする革命的・民主主
義的要求と民族自決権にかんする一項を党の綱領にいれさせた。大会で採択された綱領は、ブル
ジョア民主主義革命の段階におけるプロレタリアートの当面の任務(最小限綱領)と社会主義革
命の勝利をめざすプロレタリアートの基本的任務(最大限綱領)をあらわしていた。この綱領は、
第八回大会(一九一九年)にいたるまで、ボリシェヴィキ党の指導的文書であった。
 綱領を採択し、党の思想的統一のための基礎をつくりだしたのち、大会は、党内の手工業主義
や、サークル主義や、組織上の分散状態をなくするために、党規約をも採択しなければならなか
った。党建設の組織原側をめぐって、大会では激しい闘争が展開された。もっともはなはだしい
意見の相違は、党員の資格にかんする規約第一条の定式化から展開された。二つの方式が提起さ
れた。一つは、党員は党の綱領を承認し、党を物質的に支持し、党組織のどれか一つの一員とな
らなければならないとしたヴェ・イ・レーニンの方式であり、もう一つは、党組織の一つに参加
することを入党条件とみなさなかったマルトフの方式であった。ヴェ・イ・レーニンと彼の同志
たちは、革命世論によって武装され、プロレタリアート独裁のための労働者階級の闘争を指導す
る使命をもつ労働者階級の前衛的・意識的部隊、組織された部隊としての党にかんするマルクス
主義の根本命題をまもりぬいた。メンシェヴィキは、日和見主義的な西欧の社会民主主義諸政党
型の、改良主義的な、組織的に形をなしていない、協調主義的組織を固守した。綱領のうえの日
和見主義(プロレタリアート独裁の否定)は、組織上の日和見主義(中央集権化され、規律ある、
戦闘的なプロレタリアートの革命党の拒否)を生みだした。公然たる『イスクラ』反対派と動揺
しているイスクラ派の支持を得て、マルトフと彼の同志たちは、規約第一条の自己の方式を大会
にもちこんだ。党中央部の選出にあたってヴェ・イ・レーニンの支持者は勝利を得た。このとき
から彼らをボリシェヴィキ〔多数派〕とよび、少数の投票をえたレーニンの反対派をメンシェヴ
ィキ〔少数派〕とよぶようになった。このようにして、第二回大会における日和見主義者との闘
争の結果、第十九回ソ同盟共産党大会(一九五二年)まで存在した「ボリシェヴィキ」党の名称
が歴史上にうまれた。ロシア社会民主労働党第二回大会の歴史的意義は、それがレーニンの『イ
スクラ』によって提起され、つくりあげられた思想的・組織的基礎のうえに、真にマルクス主義
的な党、新しい型の党をロシアに創設した点にある。「ボリシェヴィズムは政治思想の一潮流と
して、また政党として一九〇三年このかた存在している。」〔レーニン『共産主義における「左
翼」小児病』、本文庫版一五四ページ〕ロシア社会民主労働党第二回大会は世界の労働運動にお
ける転換点であった。レーニンがマルクス主義に敵対するメンシェヴィキの思想的・組織的方針
を容赦なくばくろしたことは、修正主義者、あらゆる国際的日和見主義にたいする強力な打撃で
あったし、各国の革命運動の発展にとって大きな意義をもっていた。

     2 プロレタリアート独裁をめざす闘争における共産党

 第二回大会で形成された、レーニンを先頭とするボリシェヴィキの政治グループは、形式的に
は一九一二年まで単一のロシア社会民主労働党の一員として、プロレタリアート、農民、ロシア
のすべての民族の根本的利益に合致する、一頁した革命的方針を実行した。ボリシェヴィキは、
ロシアおよび国際労働運動におけるあらゆる種類の日和見主義にたいして、非妥協的な原則的闘
争をおこなった。ロシア社会民主労働党第二回大会から大十月社会主義革命の勝利にいたる歴史
的諸事件の全進行は、共産党が国内における唯一の指導的な革命勢力であったことをはっきりと
しめした。ロシアにおける三つの革命の歴史は、ボリシェヴィキ党が短期間に(一九〇三―一七
年)、経験のゆたかさにおいて、マルクス主義理論の研究と革命の進行中におけるこの理論の創
造的な適用の深さにおいて、世界にくらべるもののないような大きな政治活動をおこなったこと
をしめし、共産党の戦略と戦術の偉大な力と生命力、マルクス=レーニン主義理論の威力と無敵
の強さをしめした。
 レーニンが大会において、綱領問題および組織問題で日和見主義分子とおこなった闘争は、ロ
シア社会民主労働党の革命的な部分であるボリシェヴィキと、日和見主義的な部分であるメンシ
ェヴィキのあいだをはっきりと区別させた。メンシェヴィキは、党内で粉砕された日和見主義者
の地位、すなわち「経済主義者」の地位を占めていた。大会ののちに、メンシェヴィキは党を分
裂させ、大会の決定をぶちこわす力針をとり、党中央機関をのっとった。『イスクラ』は第五二
号からメンシェヴィキの『イスクラ』になった。ヴェ・イ・レーニンは『イスクラ』編集局から
出た。組織問題におけるメンシェヴィキの日和見主義をばくろすることが日程にのぼった。ヴェ
・イ・レーニンは、著書『一歩前進、二歩後退』(一九〇四年)のなかでこの課題を天才的に解
決した。メンシェヴィキの日和見主義を粉砕して、ヴェ・イ・レーニンは、ソ同盟共産党の組織
的基礎となった新しい型のプロレタリア党の組織的基礎をきずいた。
 ヴェ・イ・レーニンは自著『一歩前進、二歩後退』のなかで、プロレタリアートの ##指導##
組織としての党にかんする教説、プロレタリア独裁のための闘争において、それなしには勝利す
ることも、社会主義と共産主義を建設することもできない、プロレタリアートの手にある主要な
##武器## と
しての党にかんする教えを、マルクス主義の歴史上はじめて仕上げた。ヴェ・イ・
レーニンはこう書いている。「プロレタリアートは、権力獲得のための闘争において、組織のほ
かにどんな武器ももたない。ブルジョア世界における無政府的競争の支配によって分離させられ、
資本のための強制労働によっておしひしがれ、まったくの貧困と野蛮化と退化の『どん底』にた
えずなげおとされているプロレタリアートは、マルクス主義の諸原則による彼らの思想的統合が、
幾百万の動労者を一つの労働者階級の軍隊に融合させる組織の物質的統一でうちかためられるこ
とによってのみ、不敗の勢力となることができるし、またかならずなるであろう。この軍隊に面
しては、ロシアの専制の老衰した権力も、国際資本の老衰しつつある権力も、もちこたえること
はできない。」〔レーニン『一歩前進、二歩後退』、本文庫版二九八ページ〕著書『一歩前進、
二歩後退』が普及したために、地方組織の多数はレーニンのまわりに結合することになった。ボ
リシェヴィキは、第三回党大会召集のための闘争をおこなった。
 日露戦争と第一次ロシア革命の時側に(一九〇四―〇七年)、ボリシェヴィキは革命を発展さ
せ、ツァーリズムを打倒し、ブルジョア民主主義革命を社会主義革命に転化させる方針をとった。
ボリシェヴィキは、党内と国内のただ一つの革命的なマルクス主義的勢力となった。
 ロシアにおける革命の動因は成熟していた。ツァーリのロシアでは、資本主義的圧迫はツァー
リズムの圧迫によって強化され、農民は土地の欠乏や農奴刑の無数の残存物のためにあえぎ、ツ
ァーリのロシアに住んでいた諸民族は、自分の民族の地主、資本家と、ロシア人の地主、資本家
の圧迫という二つの圧迫のもとに呻吟していた。ツァーリは、日本との戦争によって革命を圧殺
しようと欲したが、戦争におけるツァーリズムの敗北は、ツァーリズムにたいする大衆の憎悪を
いっそうつよめた。ロシアにおける革命の発端は、ペテルブルグにおける一九〇五年一月九日(
二十二日)の事件であった。そのときツァーリの命令によって、宮殿にむかった労働者の平和的
な行進に発砲がおこなわれた。ツァーリズムの血なまぐさい非道についての知らせは全ロシアを
震憾させた。労働者な「専制制度打倒」のスローガンをかかげて街頭に進出した。労働者は、経
済的ストライキから、政治的ストライキへ、デモンストレーションへ、ところによってはツァー
リの軍隊にたいする武装的反抗へうつりはじめた。都市につづいて農村が立ちあがりはじめ、農
民の動揺がはじまった。ツァーリズムの軍事的支柱である陸海軍な動揺した。一九〇五年の六月
に、戦艦「ポチョムキン」に反乱が勃発した。人民の武装蜂起のための条件は成熟していた。一
九〇五年の四月に、展開されつつある革命情勢のなかで、ボリシェヴィキによって召集されたロ
シア社会民主労働党第二回大会がひらかれた。メンシェヴィキは、第三回大会に参加することを
拒否し、自派の、メンシェヴィキの会議を召集した。第三回大会の主要な問題は、革命における
党の戦術を編みだすことであった。大会はその決議のなかで、もしもプロレタリアートが革命の
先頭に立つならば、もしもプロレタリアートが農民との同盟を確保できるならば、もしもツァー
リズムとの協定によって革命を終結しようとしている帝国主義的ブルジョアジーが孤立化される
ならば、そのときはじめて革命は勝利するであろうということを強調して、党の戦術方針を決定
した。大会は、革命がブルジョア民主主義的性格をもっているにもかかわらず、この革命の完全
な勝利に利益を感じているのはまず第一にプロレタリアートである、と考えた。革命の勝利はプ
ロレタリアートに、組織をつくる可能性、政治的に向上する可能性、ブルジョア革命から社会主
義革命に移行する可能性をあたえるであろう。大会の決議には、社会民主党は、ツァーリズム

たいする人民の蜂起の組織に積極的に参加し、その結果、反革命を根こそぎにし、革命を最後ま
で遂行することのできる臨時革命政府が樹立されなければならない、と述べられた。大会は、レ
ーニンの定式化した党規約第一条を採択した。
 第一次ロシア革命の時期に、メンシェヴィキは、組織問題にかんする党の多数派との旧来の意
見の不一致に、戦術問題にかんするあらたな意見の不一致をくわえた。メンシェヴィキは、プロ
レタリアートのヘゲモニーに反対し、革命における自由主義的ブルジョアジーのヘゲモニーを固
守して、革命を歪曲する方針をとり、ツァーリズムを打倒するかわりに、メンシェヴィキは、そ
れを改革し「改良」することを提案した。メンシェヴィキは、協調主義の泥沼に転落し、労働運
動におけるブルジョアジーの手先になった。
 ヴェ・イ・レーニンは、著書『民主主義革命における社会民主党の二つの戦術』(一九〇五年
)のなかで、メンシェヴィキの戦術に批判をくわえ、第三国大会でつくりあげられたボリシェヴ
ィキの戦術を基礎づけた。ヴェ・イ・レーニンは、自著のなかで、党のボリシェヴィキ的戦術と
労働者階級の戦術を天才的に基礎づけ、共産党の政治的(戦術的)基礎をつくりあげた。彼はブ
ルショア民主主義革命におけるプロレタリアートのヘゲモニーの思想を発展させ、帝国主義の時
代において革命に勝利するに必要な条件は、プロレタリアートの指導的役割を保持したもとでの
労働者階級と農民の同盟である。ヴェ・イ・レーニンは、武装蜂起の勝利を、ツァーリズムを打
倒し民主共和国を樹立するためのもっとも重要な手段とみなした。ヴェ・イ・レーニンは、ロシ
アのマルクス主義者に、ブルジョア民主主義革命を社会主義革命に成長転化させる明瞭な見通し
をあたえた。ヴェ・イ・レーニンは、革命の民主主義的任務の遂行につづいて、 ##社会主義##
革命のた
めのプロレタリアートと他の被搾取大衆の闘争がはじめられなければならないだろうと
考え、革命の発展過程で、プロレタリアートのまわりに階級の諸勢力の再編成がおこなわれるで
あろうと考えた。ヴェ・イ・レーニンはこう書いている。
 「プロレタリアートは、実力で専制政治の反抗をおしつぶし、ブルジョアジーの動揺性を麻痺
させるために、農民大衆を味方にひきつけて民主主義的変革を最後まで遂行しなければならない。
プロレタリアートは、実力でブルジョアジーの反抗を撃破し、農民と小ブルジョアジーの動揺を
麻痺させるために、半プロレタリア分子の大衆を味方にひきつけて社会主義的変革を完成しなけ
ればならない。」〔レーニン『民主主義革命における社会民主党の二つの戦術』、本文庫版一二
二ページ〕
 それは、ブルジョア革命と社会主義革命との相互関係の問題にかんする新しい方針であり、社
会主義革命に直接移行するために、ブルジョア革命のおわりに、プロレタリアートの周囲に諸勢
力を再編城する新しいレーニン主義理論であった。プロレタリアートと農民の同盟のもとでの、
ブルジョア革命におけるプロレタリアートのヘゲモニーは、プロレタリアートとその他の勤労者
大衆および被搾取大衆との同盟のもとでの、社会主義革命におけるプロレタリアートのヘゲモニ
ーに成長転化しなければならなかった。そして、プロレタリアートと農民の民主主義的独裁は、
プロレタリアートの社会主義的独裁のための素地を準備しなければならなかった。ヴェ・イ・レ
ーニンは、プロレタリア革命の新しい理論によってマルクス主義を豊富にし、共産党の革命的戦
術の基礎をきずいた。プロレタリアートはこの戦術の助けをかりて貧農と同盟をむすび、一九一
七年十月、ブルジョアジーの権力を打倒し、真の人民の権力――労働者、農民代表ソヴェトの権
力を樹立した。ヴェ・イ・レーニンは、社会主義の新しい理論をつくりあげ、永続革命ならびに、
農民の革命運動とプロレタリア革命との結合にかんするK・マルクスの周知の命題をよりどころ
とした。あらたなレーニンの理論は、ブルジョア革命ののちには、貧農をふくめた農民は革命か
ら去ってゆくであろうと考え、新しい社会主義革命のための時期がくるまでは、五〇年ないし一
〇〇年あるいはそれ以上の長期にわたる時期がやってくるであろうと考えていた西ヨーロッパの
社会民主党の戦術的見地をこっぱみじんにうちくだいた。ヴェ・イ・レーニンの理論のなかには、
単独の一国で社会主義は勝利することができるという直接の結論はまだなかった。しかし、その
なかには、このような結論をくだすのに必要な、ほとんどすべての、基本的要素がふくまれてい
た。ヴェ・イ・レーニンは、一九一五年に、このような結論に到達したのである。
 第一次ロシア革命の諸事件は、ボリシェヴィキの戦術のただしさと生命力とを証明した。革命
の過酷で、労働者階級は専制政治にたいする人民大衆の闘争の先頭に立った。一九〇五年の秋ま
でに、いたるところでツァーリの軍隊との武力闘争に成長転化した労働者の政治的ストライキが
全国を震憾させた。十月には、全ロシア的な政治的ストライキがはじまった。ストライキは、プ
ロレタリア運動の力をしめし、びっくり仰天したツァーリに、十月十七日に詔書を発布させた。
その詔書には、立法国会を召集することが約束されていた。全ロシア的な十月ストライキの時期
に、労働者大衆の革命的創造力は、一九一七年につくられたソヴェト権力の原型である労働者代
表ソヴェトを創造した。労働者代表ソヴェトは、ペテルブルグ、モスクワ、多くの大都市、ほと
んどすべての労働者中心地に発生した。ボリシェヴィキは、ソヴェトを蜂起の機関、あらたな、
革命権力の萌芽として考察した。メンシェヴィキは、ソヴェトを地方自治の機関にすぎないとみ
た。歴史は、ボリシェヴィキの見地のただしさと革命性、さらにまたメンシェヴィキの見地の日
和見主義的本質と反革命性をも完全に証明した。
 一九〇五年の十月と十二月に、革命は武装蜂起の寸前にたっした。ボリシェヴィキは実践的に
労働者階級を武装蜂起と、ッアーリおよび地主権力の打倒に準備した。兵士と水兵のあいだでは
革命的な活動がわこなわれ、軍隊のなかに党の軍事組織がつくりだされた。いくたの都市では労
働者の戦闘隊が組織された。ヴェ・イ・レーニンは、武装蜂起の準備に直接参加した。一九〇五
年十二月に、タンメルフォルス(フィンランド)でボリシェヴィキによって召集されたロシア社
会民主労働党の第一回協議会がひらかれた。協議会は、ロシア社会民主労働党の統一の復活にか
んする決定、第一国会のボイコットにかんする決定、切取地にかんする綱領の要求を、地主、寺
院、帝室その他の土地の没収にかんする条項に変えるという決定を採択した。モスクワではじま
っていた武装蜂起のために、協議会は、代議員が各地で直接蜂起に参加できるように、いそいで
その仕事をおわった。その他の多くの都市や地域も革命的蜂起にひきいれられた。これらすべて
の蜂起は、モスクワと同様に、ツァーリズムによって非人間的な残忍さをもって鎖圧されてしま
った。十二月蜂起(一九〇五年)は革命の頂点であった。蜂起が敗北してから、革命は徐々に後
退へと転換しはじめた。
 革命の後退の情勢のなかで、一九〇六年四月に、ストックホルムでロシア社会民主労働党第四
回大会がひらかれた。入会ではボリシェヴィキとメンシェヴィキの形式的な合同がおこなわれた。
実際には、ボリシェヴィキとメンシェヴィキは、自分たちの見解と自分たちの独立した諸組織を
固執したのである。メンシェヴィキは、大会ですこしばかり多数であるのを利用して、多くの問
題に自分たちの決定をもちこんだ。この結果、ボリシェヴィキとメンシェヴィキのあいだの闘争
は、第四回大会後に新しい勢いで燃えはじめた。形式的に合同した地方の諸組織では、大会の決
定を審議するさいに、組織メンバーの多数は、多くのばあいボリシェヴィキのがわについた。国
内の大工業中心地の党組織はボリシェヴィキ的であった。第四回大会で選出されたメンシェヴィ
キ的中央委員会は、まもなくその日和見主義と、一九〇六年の夏と秋にふたたびつよまった大衆
の革命闘争を指導する能力のないこととをさらけだした。党組織の大部分は、メンシェヴィキ的
中央委員会の政策に反対した。ボリシェヴィキは、あらたな党大会の召集を要求した。
 一九〇七年四―五月に、ロンドンでひらかれた第五回大会では、ボリシェヴィキは、ポーラン
ドとラトヴィアの社会民主主義者をしたがえていたので、安定した多数派をもっていた。ブンド
派はメンシェヴィキを支持した。大会は、すべての非プロレタリア党にボリシェヴィキ的な評価
をあたえ、これらの党にたいする戦術をまとめあげた。大会は、労働者の党を解党しようとする
メンシェヴィキの試みとしての「労働者大会」というメンシェヴィキのスローガンをも非難し、
国会および労働組合にかんするボリシェヴィキ的決議を採択した。第五回大会は、ロシアの労働
運動におけるボリシェヴィキの大勝利を意味した。一九〇五―〇七年の第一次ロシア革命の敗北
にともなって、あらたな、複雑な任務がボリシェヴィキ党に課せられた。一九〇七年六月三日に、
ツァーリ政府は、いわゆる六月三日の変革をおこない、第二国会を解散し、第三国会の選挙にか
んする新しい法律を発布した。六月三日の変革は、ロシアにストルイピン反動の時代がはじまっ
たことを意味した。
 ストルィピン反動の時期に(一九〇八―一二年)黒百人組のテロがあれくるっていた条件下に
あって、ボリシェヴィキ党は、その陣列を強化し、大衆との結びつきをかためるために、合法、
非合法の可能性をたくみに利用し、新しい革命を準備する方針をとっていた。この時期のもっと
も重要な出来事は、ロシア社会民主労働党プラーグ会議である。この会議で、ボリシェヴィキは
独立のロシア社会民主労働党(ボリシェヴィキ)を結成した。
 反動期にツァーリ政府は、プロレタリアートの政治的・経済的組織をさかんに粉砕した。いた
るところで懲罰隊が活動し、農村では農民の集団的笞刑がおこなわれた。監獄、要塞、徒刑地、
流刑地は、革命闘争に参加した人々によってみたされていた。数千の革命家が処刑された。工場
主は労働者階級にたいする攻勢を強化した。人数の多い農村ブルジョアジーの階級――富農《ク
ラーチェストヴォ》――というツァーリズムにたいする強固な支柱をつくりだす目的で、農業改
革がおこなわれた。それは土地の少い農民と貧農の状態をさらにいっそう悪化させた。
 反革命の攻撃は、イデオロギー戦線でもおこなわれた。ブルジョア著述家や哲学者たちはその
当時、大衆を革命からそらせることをその目的として、マルクス主義に反対の態度をとっていた。
デカダン主義と革命勢力にたいする無信念は、マルクス主義者をもって自任しながら、かつてし
っかりとマルクス主義の立場に立ったことのないインテリゲンツィア党員の一部にもおよんだ。
彼らはマルクス主義の哲学的基礎、すなわち弁証法的唯物論にたいしても、その科学的=歴史的
基礎――すなわち史的唯物論にたいしても、「批判」を展開した。革命の敗北、反政府的な潮流
の離散、革命にたいする失望、マルクス主義にたいする修正主義的論難の強化――こういう困難
な情勢のもとにあって、ボリシェヴィキは、党の綱領にたいする忠誠をたもち、革命的マルクス
主義の理論を擁護した。一九〇九年に出版された著書『唯物論と経験批判論』のなかで、ヴェ・
イ・レーニンは、共産党の巨大な理論上の富である弁証法的および史的唯物論を、修正主義者か
らまもりぬいた。ヴェ・イ・レーニンは、それと同時に、F・エンゲルスの死後、科学によって、
しかもまず第一に自然科学によって達成されたもののうちで、もっとも重要で本質的なものを唯
物論的に普遍化した。ヴェ・イ・レーニンの著書『唯物論と経験批判論』は、マルクス主義の哲
学の発展における新しい時期をあらわし、新しい型のマルクス主義政党の理論的準備となった。
一九〇八―一二年は、党の革命的活動にとってはもっとも困難な時期であった。ボリシェヴィキ
の基本的な政治目的は、一九〇五年のときと同じく、ツァーリズムを打倒し、ブルジョア民主主
義革命を完遂し、社会主義革命に移行する、ということであった。ボリシェヴィキの党は、民主
共和国、地主の土地没収、八時間労働制という、基本的な革命的スローガンをかかげた。革命の
敗北後のもっとも複雑な、わるい情勢のもとで、革命運動の後退の条件のもとで、ボリシェヴィ
キはその戦術を変更して、ツァーリズムにたいする直接の闘争から、ツァーリズムとの闘争のま
わり道へ移行した。
 第一次ロシア革命と反動の時代は、ボリシェヴィキが、情勢がそれを必要とするときには攻撃
し、革命が衰退しているときには後退することができ、党の基幹部員をまもり、あらたな情勢の
もとで敵にあらたな攻撃をくわえるために、あわてることなく退却することができることをしめ
した。メンシェヴィキは、革命の新しい高揚の可能性を信じないであわてて退却した。彼らは恥
しらずにも、綱領の革命的要求や、党の革命的スローガンを放棄し、プロレタリアートの革命的
な非合法党の解消を要求した。メンシェヴィキの解党派に断固として反対して、ボリシェヴィキ
は、非合法の党組織を保持し強固にするためにたたかった。大衆にたいする党の勢力を強化する
ために、ボリシェヴィキは、労働組合、傷病保険金庫、労働者協同組合、クラブ、人民の家、文
化協会などの合法組織を広範に利用した。ボリシェヴィキは、ツァーリ政府やブルジョア諸政党
の政策をばくろするために、労働者を政治的に指導し、農民をプロレタリアートのがわにひきつ
けるために、国会の演壇を利用した。
 ボリシェヴィキは、非合法活動を合法的な労働者団体内の活動と結合する戦術をとりながら、
党内の二つの種類の日和見主義、すなわち党の直接の反対者である解党派と党のかくれた敵であ
るいわゆる召還派にたいして、二つの戦線でたたかいながら、自分の革命的方針を実行した。
 ロシア社会民主労働党第五回(全ロシア)会議は、解党主義を非難し、党を解消しようとする
企てにたいして決定的に闘争するよう、全党組織によびかけた。
 召還派は、労働組合やその他の労働者階級の合法的団体のなかで活動することを拒否し、国会
を革命的宣伝のために利用することを拒否し、党を労働者階級からきりはなし、党と党外大衆と
のつながりをさまたげ、そうすることによって、党および革命運動に大きな苦をおよぼした。ヴ
ェ・イ・レーニンは、彼らを「裏がえしの解党派」とよんだ。ボリシェヴィキの新聞「プロレタ
リイ」の拡大編集会議(一九〇九年六月)は召還派を非難した。召還派はボリシェヴィキ組織か
ら除名された。
 ボリシェヴィキは、トロツキー派にたいして容赦ない闘争をおこなった。トロツキー派は、そ
のころすべての重要な問題では解党派の立場をとっていたが、その解党主義を中間主義で偽装し
ていた。党にたいする闘争、ヴェ・イ・レーニンにたいする闘争で、トロツキーを援助したのは、
トロツキーのかくれた手さき――ジノヴィエフ、カーメネフ、ルイコフであった。その後一九一
二年に、トロツキーは、八月ブロック、すなわちボリシェヴィキ党との闘争のために結集したす
べての反ボリシェヴィキのグループと潮流のブロックを組織した。トロツキーの八月反党ブロッ
クをむこうにまわして、ヴェ・イ・レーニンは、非合法のプロレタリア党を保全し強固にするこ
とを支持する人々の党ブロックをつくりだした。このブロックには、ボリシェヴィキと少数のメ
ンシェヴィキ=党支持派がはいっていた。
 解党派や召還派と闘争しながら、ボリシェヴィキは、すべての革命的マルクス主義者をうって
一丸とし、独立したボリシェヴィキ党を結成するという歴史的任務を決定した。マルクス=レー
ニン主義の思想的鍛錬、革命の見通しにたいする正しい理解は、レーニンのまわりに結集した党
の基本的中核が党をまもり、党の基幹部員を保持することをたすけた。
 一九一二年一月に、プラーグで全ロシア党会議がひらかれた。会議はメンシェヴィキ=解党派
をロシア社会民主労働党から放逐し、それによってボリシェヴィキが独立した党に終局的に形成
される基礎をきずいた。プロレタリアの党から日和見主義、メンシェヴィキ=解党派を一掃した
ことは、党のその後の発展、党内統一の強化、プロレタリアート独裁樹立の成功にとって決定的
な意義をもっていた。
 ストルィピン反動期に、ボリシェヴィキは一度ならず、新しい革命的高揚が避けがたいこと、
それが近づいていることを指示した。そして、反革命の勝利は実際に短命であった。労働運動は、
いかなる勢力によっても阻止することはできなかった。ストライキ労働者の数は、一九一〇年の
夏から非常に増加した。一九一一年には、一〇万人以上がストライキをおこなった。すでにプラ
ーグ会議も、労働運動に活気がはじまったことを指摘した。しかし、革命運動のほんとうの高揚
は一九一二年の四―五月にはじまったのである。そのときレナ鉱山の労働者の射殺に関連して、
大衆的政治ストライキが勃発した。
 革命の高揚期(一九一二―一四年)に、ボリシェヴィキ党は労働運動の先頭に立ち、ボリシェ
ヴィキのスローガンのもとに、この運動を新しい革命へとみちびいた。
 かつてない生産の集中をともなったロシアにおける資本主義的産業の成長は、労働運動の高揚
を促進した。一九一〇年には、すでに、五〇〇人以上の労働者がいる大企業に、国の労働者総数
の半分以上がはたらいていた。労働者階級につづいて、ふたたび地主にたいする闘争に立ちあが
った農民大衆が革命闘争にひきこまれた。党の陣列を強化し、党と大衆の結びつきを拡大し、新
しい世代の革命的労働者を教育し、解党派、トロツキスト、召還主義者、その他の日和見主義者
とたたかううえに重要な役割をはたしたのは、一九一二年の春にペテルブルグ労働者の提唱でつ
くられた、党の合法的日刊紙『プラウダ』であった。『プラウダ』とともに、のちに大十月社会
主義革命を遂行した革命的プロレタリアートの全時代が成長した。党のもう一つの全ロシア的な
合法機関は、第四国会のボリシェヴィキ議員団であった。党は、ツァーリ専制制度の反人民的政
策をばくろし、勤労大衆をボリシェヴィズムの旗のもとに獲得するために第四国会の演壇を広範
に利用した。ボリシェヴィキ議員は、労働者と緊密にむすびついていた。彼らは国内の労働者中
心地や製作所や工場に出かけ、労働者の秘密の会合をもち、そこで党の決定を説期した。『プラ
ウダ』編集局と国会のボリシェヴィキ議員団は、党中央委員会やレーニンと緊密にむすびつき、
レーニンの指示をあおいだ。革命的綱領にもとづく行動の統一、革命的行動の非合法形態と合法
形態の結合、解党派にたいする闘争、非合法党を強化するための闘争を労働者階級によびかけた、
ロシア社会民主労働党(ボ)中央委員会と党活動家の「二月」会議(一九一三年)は、党組織の
強化にとって大きな意義をもっていた。会議は、ロシアがあらたな革命の成長の時代にはいった
ことを強調した。
 第一次世界戦争のまえの労働運動の高揚の時期に、ボリシェヴィキは、ペテルブルグおよびモ
スクワの労働組合組織の大部分を自分のがわに獲得し、労働者の合法団体を党の支掌点に変えた。
一九一四年の夏までに、ロシアの先進的労働者の五分の四がボリシェヴィキ党のがわについた。
党は労働者階級の合法団体のなかで勝利をえることができた。それは、党が革命的綱領、闘争の
正しい戦略と戦術をもち、広範な労働者大衆と緊密に結びついていたからである。党がこのよう
な勝利をえたのは、党が解党派=メンシェヴィキとその扶助者――トロツキストおよび召還主義
者、労働者階級のすべての敵と労働運動における彼らの手さきとの容赦ない闘争をおこなったか
らである。ボリシェヴィキ党は、原則的な方針を拒否し、解党派の協調政策にたいする闘争を拒
否することによって、ボリシェヴィキと解党派を和解させようとする第二インタナショナルの試
みを断固として拒絶した。
 ロシアにおけるブルジョア民主主義革命の成長、辺境地方における革命運動の熾烈化、第一次
世界戦争の切迫にともなって、民族問題が特別の意義をもつようになった。当時国際労働運動に
おいては、二つの民族問題にかんする理論、二つの民族綱領がたたかっていた。すなわち、ブン
ドやメンシェヴィキに支持されたオーストリアの民族理論とロシア――ボリシェヴィキの民族理
論であった。ボリシェヴィキのまえには、民族主義のすべての現象を粉砕するという任務が立ち
ふさがった。ヴエ・イ・レーニンの著作「民族問題にかんする批判的覚書』(一九一三年)『民
自決権について』(一九一四年)およびイ・ヴェ・スターリンの著作『マルクス主義と民族問
題』のなかで、科学的に基礎づけられた民族問題にかんするマルクス主義的綱領が述べられてい
る。ロシア社会民主労働党(ボ)中央委員会と党活動家の「八月」(「夏の」)会議(一九一三
年十月)は、民族問題にかんするレーニン=スターリン理論に指導されて、民族問題にかんする
ロシア社会民主労働党の綱領の解党派的・ブンド派的歪曲にたいして断固として反対し、今後勤
労者の民族的教育を強化する方策を立てた。ロシアの労働者階級をマルクス=レーニン主義の旗
のもとに結集したことは、労働運動を新しい革命にみちびいたボリシェヴィキ党の政策がすべて
ただしかったことを証明した。ツァーリズムとブルジョアジーにたいする労働者の前衛的戦闘は、
すでに一九一四年の上半期に展開されていた。国内では約一五〇万人がストライキをおこなった。
革命の成長は、第一次世界戦争によって中断された。
 帝国主義戦争とロシアの第二次革命(一九一四―一九一七年三月)の時期に、ボリシェヴィキ
党が、社会主義と国際主義の大業に忠実な、ただ一つのプロレタリアの党であることがしめされ
た。共産党にひきいられる労働者は、農民と同盟をむすんで、資本主義の弱化をうまく利用して、
世界ではじめて帝国主義の戦線をうちやぶり、一九一七年二月にロシアにおける専制制度を打倒
して、労働者・兵士代表ソヴェトをつくりだした。
 戦争は、同時代の独占資本主義の基礎のうえに立った世界の経済力と政治力の発展の避けるこ
とのできない結果として、世界経済の資本主義体制の最初の危機の結果勃発したのである。世界
のあらたな分割のための闘争、ある資本主義国が他の資本主義国にたいして優勢をたもつための
闘争は、一九一四―一八年の戦争をひきおこした。この戦争は、すべての帝国主義国家によって
準備された。交戦国の帝国主義政府は自国民をあざむきながら、戦争の真の目的をかくし、戦争
があたかも祖国の防衛のためにおこなわれているかのような声明をおこなった。第二インタナシ
ョナルの日和見主義者どもは、ブルジョアジーが人民をあざむくのをたすけた。社会党の指導者
たちは、プロレタリアートをうらぎって、社会排外主義と帝国主義ブルジョアジー擁護の立場に
移行した。第二インタナショナルは、実際にはたがいに交戦する個々の社会排外主義党に分解し
てしまった。ロシアのエス・エルやメンシェヴィキの小ブルジョア政党も、ツァーリズムやロシ
ア・ブルジョアジーが人民をあざむくのをたすけ、戦争の帝国主義的・強盗的性格をかくすのを
たすけた。社会排外主義の立場に立ったメンシェヴィキとエス・エルは、国内では労働者とブル
ジョアジーとの階級平和を説き、自国のそとでは他国民と戦争することを説いた。中間派のカウ
ツキー、トロツキー、マルトフ、その他は、かくれた社会排外主義で、公然たる社会排外主義者
を是認し擁護し「社会排外主義者といっしょにプロレタリアートをうらぎった。そして、労働者
階級をあざむくことをねらって、戦争にたいする闘争という「左翼的な」文句で、自分の裏切り
をかくしたてた。中間派は、公然たる社会排外主義者と同じように、自国の帝国主義政府が戦争
を遂行するのをさまたげないために、戦時中階級闘争を放棄することを要求し、組織的には、社
会排外主義者と同じ党にとどまっていた。
 ただボリシェヴィキの党だけが、革命的国際主義の偉大な旗に忠実な党としてのこり、ツァー
リ専制制度、地主、資本家に反対し、帝国主義戦争に反対する断固たる闘争をおこなうマルクス
主義の立場を固守した。ヴェ・イ・レーニンは、プロレタリア国際主義の大原則にたいする第二
インタナショナルの指導者の裏切りに烙印をおし、排外主義者や排外主義の保持者――第二イン
タナショナルの指導者との容赦ない闘争を宣言した。一九一四年十一月に、ボリシェヴィキ党の
中央機関紙『ソツィアル・デモクラート』に、ヴェ・イ・レーニンが執筆した帝国主義戦争にか
んする党中央委員会の宣言『戦争とロシア社会民主党』が発表された。帝国主義戦争の国内戦へ
の転化、戦争における「自国」政府の敗北の促進、革命的社会民主党の社会排外主義および中間
主義との完全な訣別、第三インタナショナルの創設――これが宣言のなかで述べられた党のスロ
ーガンであった。戦争の当初からヴェ・イ・レーニンは、新しい、第三インタナショナルの創設
に力をそそいだ。ツィンメルワルドにおける国際主義者の第一回会議(一九一五年)とキンター
ルにおける第二回会議(一九一六年)において、レーニンは国際主義分子を結集し、これらの分
子のうちから、のちになって、共産主義第三インタナショナルが結成された。
 国際日和見主義、ロシアの日和見主義、社会排外主義との闘争のなかで、ヴェ・イ・レーニン
はこの時代に、戦争、平和、革命にかんするボリシェヴィキ党の理論と戦術をつくりあげた。こ
の理論と戦術の基礎のうえに、党はこの時期のあらゆる自己の実践活動をうちたてたのである。
帝国主義戦争に反対して、ボリシェヴィキは、帝国主義ブルジョアジーの権力を打倒するまで平
和をめざす革命的闘争をおこなうよう主張した。ボリシェヴィキは、平和の事業をプロレタリア
革命の勝利に結びつけた。ボリシェヴィキは、帝国主義戦争におけるツァーリ政府の敗北は、最
小の害悪であると考えた。なぜならこの敗北は、ツァーリズムにたいする人民の勝利を容易にし、
資本主義奴隷制と帝国主義戦争からの解放をめざす労働者階級の闘争を容易にしたからである。
 不正義の戦争に断固として反対しながら、ボリシェヴィキは当時、正義の戦争もあると考えた。
ヴェ・イ・レーニンは、戦争の性格と本質にかんする問題を解決し、戦争にたいする自分の態度
をきめるにあたってマルクス主義者は、この戦争がいかなる目的のためにおこなわれているかと
いうことから出発しなければならないことをあきらかにした。他国や他民族の侵略や奴隷化を目
的とする不正義の、侵略戦争に反対して、断固たる闘争をおこなわなければならない。しかし、
ボリシェヴィキは、外国の攻撃と人民を奴隷化しようとする企てから人民を防衛し、資本主義の
奴隷制から人民を解放し、帝国主義者の圧迫から植民地と従属国を解放することを目的とする侵
略的でない、解放のための、正義の戦争は支持しなければならない、とレーニンは指大した。
 あらたな歴史的条件のなかで、マルクス主義を創造的に発展させながら、ヴェ・イ・レーニン
は、社会主義革命の新しい理論、一国における社会主義の勝利の可能性の理論によって、戦時中
に党を武装した。その理論の基礎は、すでに一九〇五年に小冊子『民主主義革命における社会民
主党の二つの戦術』のなかでヴェ・イ・レーニンによってつくられていたのである。一九一六年
上半期にヴェ・イ・レーニンは、古典的労作『資本主義の最高の段階としての帝国主義』を書い
た。そのなかでレーニンは、マルクス主義の文献としてははじめて、帝国主義とその主要な矛盾
や法則性を全面的にふかく分析した。ヴェ・イ・レーニンは、帝国主義が資本主義発展の特別の、
最高の段階であること、帝国主義が、腐朽し、死滅しつつある資本主義であり、社会主義革命の
前夜であることをしめした。ヴェ・イ・レーニンは、彼の発見した資本主義の経済的・政治的発
展の不均等性の法則に立脚して、つぎの結論に到達した。社会主義はただすべての国あるいは文
明国の大部分において同時に勝利する可能性がある、というK・マルクスおよびF・エンゲルス
の古い公式は、もはや新しい歴史的条件に適応しなくなっており、新しい発展の条件のもとでは、
社会主義革命は、最初は少数の国で、また単独の一国でさえ勝利することが可能であり、すべて
の国で社会主義が同時に勝利することは、これらの国々における資本主義の発展が不均等である
ために不可能である。この天才的な結論の定式化は、論文『ヨーロッパ合衆国のスローガンにつ
いて』(一九一五年)と『プロレタリア革命の軍事綱領』(一九一六年)のなかでヴェ・イ・レ
ーニンによってなされた。これは社会主義革命の新しい、完成された理論であった。この理論は、
マルクス主義をゆたかにし、マルクス主義を前進させ、個々の国のプロレタリアに革命的な見通
しをあたえ、自国の民族ブルジョアジーにたいする攻撃のうえで彼らにイニシアティヴを発揮さ
せ、プロレタリア革命の勝利にたいする彼らの信念をつよめた。
 ヴェ・イ・レーニンによってつくりあげられた戦争、平和、革命の問題にかんするボリシェヴ
ィキ党の理論と戦術は、帝国主義戦争からの革命的活路をめざす闘争にたいして党を武装させた。
ボリシェヴィキは、戦争に奉仕した軍事産業委員会にたいして、労働者を帝国主義ブルジョアジ
ーの影響にしたがわせようとするメンシェヴィキの企てにたいして、広範なカンパニアを展開し
た。ボリシェヴィキはまた、陸軍と海軍のあいだでも大活動を展開した。彼らは、人民にとって
は革命が帝国主義的殺戮からのがれるただ一つの活路であることを兵士と水兵に説明した。
 資本主義の一般的危機の反映である戦争は、この危機を激化させ、世界資本主義をよわめた。
戦争によってひきおこされた、ロシアにおける経済的崩壊、戦線における敗北、ツァーリ宮廷の
裏切りと内通――すべてこれらは、労働者、農民、兵士、インテリゲンツィアのツァーリ政府に
たいする憎悪と憤怒をつよめ、戦争に反対しツァーリズムに反対する人民大衆の革命運動をつよ
めた。あきらかにツァーリ政府に戦争をつづける能力かないこと、ツァーリが自分の地位をすく
うためにドイツ人と単独講和をむすぶ不安があることもまたロシアの帝国主義的ブルジョアジー
の不満をよびおこした。ツァーリズムは致命的な危機に当面しつつあった。ブルジョアジーは、
宮廷クーデターによってこの危機をのりきろうと考えたが、人民は革命的な方法によって危機を
解決した。一九一七年二月に、ツァーリ専制制度は顛覆された。ロシアではブルジョア民主主義
革命が勝利した。勝利した革命は、革命の最初の数日中に創設された労働者・兵士代表ソヴェト
をよりどころにしていた。一九〇五年には、労働者代表ソヴェトがつくりだされたが、一九一七
年二月には、ボリシェヴィキのイニシアティヴによって労働者・兵士代表ソヴェトが出現した、
という相違があった。しかし、ソヴェトの大多数では、当時ボリシェヴィキが街頭で大衆の闘争
を指導しており、ボリシェヴィキ党の指導者ヴェ・イ・レーニンが亡命地にあって、ペトログラ
ードにいないのを利用したメンシェヴィキやエス・エルが指導権をにぎっていた。ペトログラー
ド、モスクワ、その他多くの都市のソヴェトの先頭には、協調主義党のメンシェヴィキとエス・
エルの代表者がいた。彼らは革命を歪曲し、帝国主義戦争を継続する政策をとっていた。
 ペトログラード・ソヴェト執行委員会のメンシェヴィキ=エス・エル派の指導者たちは、革命
をうらぎって、労働者と農民によってかちとられた権力をブルジョア臨時政府に代表されるブル
ジョアジーにひきわたした。しかしながら、このブルジョア政府とならんで、労働者・兵士代表
ソヴェトが存在をつづけていた。二つの権力、二つの独裁の独特の組合せである二重権力が生じ
た。すなわち、臨時政府に代表されるブルジョアジーの独裁と、労働者・兵士代表ソヴェトに代
表されるプロレタリアートと農民の代表の独裁がそれである。革命の最初の成功に酔い、メンシ
ェヴィキやエス・エルの保証に安心してしまった小ブルジョアジー、兵士、同じく労働者の広範
な大衆は、臨時政府をすっかり信用しきって、この政府を支持した。ボリシェヴィキ党は、労働
者と兵士の大衆につぎのことを説明する任務に当面した、――革命の完全な勝利までにはまだ前
途ほど遠いこと、権力がブルジョア政府の手にあり、ソヴェトを協調派のメンシェヴィキとエス
・エルかぎりまわしているあいだは、人民は、平和をも、土地をも、パンをも手にいれられない
ということ、完全な勝利のためには、臨時政府をソヴェトの政府に変えなければならないこと、
これを説明することである。ボリシェヴィキ党は、全精力をかたむけてこの仕事にとりかかった。
 大十月社会主義革命の準備と遂行の時期(一九一七年四月―一九一八年)に、共産党は、労働
者階級のなかで、革命の進行中につくられた労働者・兵士ソヴェトのなかで多数を獲得するとい
う、もっとも困難な任務をはたしたし、数百万という勤労者を社会主義革命のがわにひぎつける
任務、勝利を獲得し、帝国主義の権力を打倒するために、労働者階級とはたらく農民との同盟を
強化するという任務をはたした。
 一九一七年二月のブルジョア民主主義革命ののち、ボリシェヴィキ党は地下からあらわれて公
然の政治活動と組織活動を展開しはじめた。党はこのときには、四万から四万五〇〇〇名をこえ
なかったが、これは闘争できたえあげられた基幹分子であった。合法的地位に党が移行したこと
は、当面の多くの重要な問題――臨時政府、戦争、防衛にたいする態度にかんする党内の意見の
不一致をあかるみにだした。カーメネフ、ルイコフ、ブブノフ、ノーギンは、臨時政府と祖国防
衛派の政策を条件つぎで支持するという――メンシェヴィキの立場に立っていた。シベリアから
かえってきたイ・ヴェ・スターリン、ヴェ・エム・モロトフその他は、党員の多数とともに、臨
時政府を信任しない政策を固守し、祖国防衛主義に反対行動をとり、平和のための積極的闘争、
帝国主義戦争反対の闘争をよびかけた。党の働き手の一部は、長年の在嶽あるいは追放の結果か
らくる彼らの政治的立ちおくれの結果、動揺しつつあった。党の指導者ヴェ・イ・レーニンのい
ないことが痛感された。一九一七年四月三日(十六日)に、長い追放ののち、ヴェ・イ・レーニ
ンはロシアにかえってきた。指導者の到着は、党にとって、革命にとって、大きな意義をもって
いた。四月四日(十七日)に、ヴェ・イ・レーニンは、ボリシェヴィキの集会に出席し、ついで、
全ロシア・ソヴェト大会に参加したボリシェヴィキとメンシェヴィキの合同会議に出席して、戦
争と革命にかんする報告をおこなった。これが有名な四月テーゼである。そのなかでヴェ・イ・
レーニンは、ブルジョア民主主義革命から社会主義へ移行するための戦術的基礎をつくった闘争
計画を党とプロレタリアートにあたえた。経済の分野では、過渡的な方策はつぎのことに帰着し
た。地主の土地を没収して国内のすべての土地を国有化すること、すべての銀行を一つの全国的
銀行に統合して、労働者代表ソヴェトのがわからそれに統制をくわえること、生産物の社会的生
産と分配に統制をくわえること。政治の分野では、ヴェ・イ・レーニンは、プロレタリアート独
裁の最良の政治形態として、議会制共和国からソヴェト共和国へ移行することな提案した。これ
は、マルクス主義理論をゆたかにし、一九一七年十月の社会主義革命の勝利とロシアにおけるソ
ヴェト権力の勝利にとって最大の意義をもっていたヴェ・イ・レーニンの新しい、天才的な発見
であった。ヴェ・イ・レーニンは、戦争は、臨時政府のもとでも依然として略奪的な帝国主義戦
争であること、強制的な方法によらないで、ほんとうの民主的な講和によって戦争をおわらせる
ということは、ブルジョアジーを打倒することなしには不可能であることを、大衆に説明すると
いう任務を党にあたえた。臨時政府にたいしては、ヴェ・イ・レーニンは「臨時政府をいっさい
支持するな!」のスローガンをかかげた。ヴェ・イ・レーニンは、まだソヴェトの支持をうけて
いた臨時政府の即時打倒を要求したのではなく、説明活動によってソヴェト内で多数を占め、ソ
ヴェトの政策を変更し、ソヴェトを通じて政府の構成と政策を変更しようと努力したのである。
これは革命の平和的発展のための指導方針であった。四月テーゼのなかでヴェ・イ・レーニンは、
ロシア社会民主労働党(ボ)を共産党と名づけ、共産主義インタナショナルを創立することを提
案した。
 ヴェ・イ・レーニンのテーゼは、ツァーリズムが打倒されたあとの闘争の新しい条件のなかで、
党に新しい方向をあたえた。四月十四日にひらかれたボリシェヴィキのペトログラード全市協議
会は、ヴェ・イ・レーニンのテーゼに賛成し、そのテーゼを自己の活動の基礎とした。カーメネ
フ、ルイコフ、ピャタコフ型の若干の仲間はずれをのぞいて、地方の全党機関、全党が大きな満
足の念をもってレーニンのテーゼを採用した。ブルジョア民主主義革命から社会主義革命へ移行
するための闘争の科学的に基礎づけられた綱領によって武装されたボリシェヴィキは、革命のい
っそうの発展を準備した。一九一七年四月にひらかれたロシア社会民主労働党(ボ)の第七回全
ロシア協議会は、戦争と革命のすべての基本的な問題、すなわち、当面の時局の問題、戦争の問
題、臨時政府の問題、ソヴェトの問題、農業問題、民族問題などにかんする党の方針を討議し作
成し、ブルジョア民主主義革命から社会主義革命への移行をめざす闘争に党をむけた。ヴェ・イ
・レーニンは、協議会の日程のすべての基本的な問題について報告をおこない、その報告のなか
で、四月テーゼのなかで彼が述べた諸命題を発展させた。党の当面の任務として、ヴェ・イ・レ
ーニンは「全権力をソヴェトへ!」というスローガンを提起した。イ・ヴェ・スターリンは、協
議会で民族問題にかんする報告をおこない、ボリシェヴィキの民族政策を基礎づけた。協議会

採択された民族問題にかんする決定は、ヴェ・イ・レーニンによって執筆された。民族問題にお
ける党の徹底した立場や、完全な民族同権のための、あらゆる形の民族的圧迫を絶滅するための
闘争、これらが党にたいする被圧迫民族の支持を保障したのである。協議会では、カーメネフ、
ジノヴィエフ、ルイコフ、ブハーリン、ピャタコフ、およびわずかな彼らの一味のものの日和見
主義的な反レーニン的方針がばくろされた。
 四月協議会の決定にもとづいて、党はソヴェト、労働組合、工場委員会、軍隊、農村で、大衆
を獲得し、大衆を戦闘的に教育し組織するための大きな活動を展開した。この時期の党の方針は、
ボリシェヴィキの政策を忍耐づよく説明し、メンシェヴィキとエス・エルの協調政策をばくろす
ることによって、これらの党を大衆から孤立させ、ソヴェト内で多数を獲得することであった。
大衆を獲得するためのボリシェヴィキの努力は成功をおさめた。四月二十日に、党中央委員会は、
臨時政府の帝国主義政策にたいする抗議を大衆によびかけた。四月二十―二十一日のデモンスト
レーションは、「戦争反対!」「全権力をソヴェトへ!」というボリシェヴィキのもとにおこな
われた。ペトログラード工場委員会会議(五―六月)では、代議員の四分の三がボリシェヴィキ
を支持していた。第一回全ロシア・ソヴェト大会のひらかれている六月十八日におこなわれた労
働者の政治的デモは、大衆の高まりつつある革命性とボリシェヴィキ党にたいする大衆の信頼の
増大とをしめした。四〇万人のデモ隊がボリシェヴィキのスローガンのもとに行進をおこなった。
 臨時政府の反人民的政策、英・仏の帝国主義者をよろこばすために、六月に臨時政府によって
組織された戦線における攻撃の失敗は、人民の堪忍袋の緒をさらせ、労働者と兵士のあらたな憤
激をよびおこした。七月三日(十六日)に、ペトログラードで自然発生的デモンストレーション
がはじまった。それは権力をソヴェトに移せ、というスローガンをかかげた大規模な総武装デモ
ンストレーションとなった。ボリシェヴィキ党は、革命的危機はまだ熟していないと考えたので、
このときには武装行動に反対であった。しかし、大衆にデモンストレーションを思いとどまらせ
ることが不可能であることがわかったとき、党はデモンストレーションに参加することにきめ、
それによってデモンストレーションに平和的・組織的な性格をあたえようとした。ボリシェヴィ
キ党はこれに成功した。デモンストレーションは平和的な性格をもっていたにもかかわらず、メ
ンシェヴィキとエス・エルは、ブルジョアジーや白衛軍の将軍連と結託して、デモンストレーシ
ョンに発砲し、ボリシェヴィキ党におそいかかった。『プラウダ』の建物は破壊され、その他多
くのボリシェヴィキの新聞は停止され、赤衛兵の武装解除がはじまり、ペトログラード守備隊の
革命的な部隊は首都からひきぬかれて戦線におくられた。七月七日には、ヴェ・イ・レーニンの
逮捕命令が出された。メンシェヴィキとエス・エルの著名な代表がはいっていた臨時連立政府な、
公然の帝国主義と反革命の泥沼に転落してしまった。二重政権は、ブルジョアジーに有利におわ
りをつげた。なぜならば、全権力は臨時政府の手にうつり、エス・エル=メンシェヴィキに指導
されるソヴェトは、臨時政府の添えものになってしまったからである。革命の発展の平和的時期
はおわった。情勢がかわったために、ボリシェヴィキ党は、その戦術を変更した。党は非合法状
態にうつり、その指導者ヴェ・イ・レーニンを地下ふかくもぐらせ、武力でブルジョアジーの権
力をたおしソヴェト権力を樹立するために、プロレタリアートと勤労大衆が蜂起する準備をはじ
めた。
 一九一七年七―八月にひらかれた第六回党大会は、武装蜂起へと党の目をむけさせた。ヴェ・
イ・レーニンは、その戦友や弟子であるイ・ヴェ・スターリン、ヤ・エム・スヴェルドロフ、ヴ
ェ・エム・モロトフ、ゲ・カ・オルジョニキッゼを通じて地下から大会を指導した。大会の根本
問題は、中央委員会の政治情勢にかんする報告であった。これらの報告のなかで、ヴェ・イ・レ
ーニンの指導的な指示が述べられた。これらの問題にかんする報告をおこなったイ・ヴェ・スタ
ーリンは、社会主義革命のための闘争における党のレーニン的戦術を述べ、武装蜂起によって臨
時政府を力ずくでたおすことの必要性に根拠をあたえ、社会主義革命のレーニンの理論を擁護し
た。大会はトロツキストのグループに決定的な反駁をくわえた。彼らは、ロシアにおいては社会
主義が勝利することは不可能であると考え、大会では、社会主義革命にたいする党の方針に反対
した。大会は、トロツキー派の立場に立っていたトロツキストのプレオブラジェンスキーとブハ
ーリンの降伏主義的な修正案を否決し、イ・ヴェ・スターリンの提案した決議案を確認した。第
六回党大会の決定のなかでは、社会主義革命の勝利の条件としてのプロレタリアートと極貧農の
同盟にかんするレーニンの命題が、とくに力をこめて強調された。大会のすべての決定は、プロ
レタリアートと極貧農の武装蜂起のための準備にむけられていた。大会はヴェ・イ・レーニンの
ブルジョア的臨時政府の裁判出頭の問題を討議した。カーメネフ、ルイコフ、トロツキー、その
他の降伏主義者たちは、大会のまえから、ヴェ・イ・レーニンが裁判に出頭することに賛成の意
見を述べていた。大会は、ブルジョア法廷が革命の指導者を刑殺するであろうと考えて、レーニ
ンの裁判出頭には断固として反対意見を述べた。
 七月事件で全権力を奪取したのちブルジョアジーは、無力化されたソヴェトを壊滅し、むきだ
しの反革命的独裁を樹立する準備をはじめた。革命は反対して、コルニロフ将軍の陰謀は公然と
準備されていた。コルニロフの行動にたいする回答としてボリシェヴィキ党は、反革命にたいす
る積極的な武装反抗を労働者と兵士によびかけた。労働者階級と貧農の広範な大衆は、ますます
緊密にボリシェヴィキの周囲に結集しはじめた。中農は、貧農大衆にくわわって、はっきりとボ
リシェヴィキ党のがわに反転しはじめた。ソヴェト内の党の影響は、これまでにないほどに増大
した。ソヴェトのボリシェヴィキ化の時期がはじまった。ボリシェヴィキは、モスクワおよびペ
トログラード労働者・兵士代表ソヴェトで多数をえた。コルニロフ反乱が壊滅したのち、七月事
件のときにボリシェヴィキによって採択された「全権力をソヴェトへ!」のスローガンがふたた
び日程にのぼった。しかし、このスローガンの内容は根本的に変更された。いまやこのスローガ
ンは、蜂起によって革命がプロレタリアート独裁へ直接接近したことを意味し、プロレタリアー
ト独裁が組織され、国家として形成されることを意味した。コルニロフ一味の壊滅は、革命の発
展の新しい時期――突撃を組織する時期をひらいた。ボリシェヴィキは、労働者、兵士、農民に
たいして熱心に蜂起の準備をはじめた。ヴェ・イ・レーニンは、その論文と、中央委員会および
ボリシェヴィキの諸組織にあてた手紙のなかで、蜂起の具体的なプランをつくりあげた。
 一九一七年十月七日に、ヴェ・イ・レーニンは非合法にペトログラードに到着した。十月十日
に、党中央委員会の歴史的会議がひらかれ、そこで近日中に武装蜂起を開始することが決定され
た。ボリシェヴィキ党の中央委員会は、地方で蜂起を組織するために、全権代表を派遣した。カ
・イェ・ヴォロシロフ、ヴェ・エム・モロトフ、エフ・エ・ジェルジンスキー、ゲ・カ・オルジ
ョニキッゼ、エス・エム・キーロフ、エリ・エム・カガノヴィチ、ヴェ・ヴェ・クイブィシェフ、
エム・ヴェ・フルンゼ、イェ・エム・ャロスラフスキー、その他は、蜂起を指導するための
党の
特別の任務をうけた。ウラルのシャドリンスクでは、ア・ア・ジダーノフが軍人のあいだで活動
した。中央委員会の全権代表は、地方のボリシェヴィキ組織の指導者に蜂起のプランを知らせ、
ペトログラードの蜂起を援助するため、彼らを動員準備にひきいれた。中央委員会の指令によっ
て、ペトログラード・ソヴェトのもとに軍事革命委員会が創設され、この委員会が合法的な蜂起
司令部になった。十月十六日の党中央委員会拡大会議で、イ・ヴェ・スターリンを長とする蜂起
指導のための党中央部が選出された。この中央部が、軍事革命委員会の指導的中核となった。革
命の裏切者カーメネフとジノヴィエフは、十月十日と十六日の中央委員会の会議で、武装蜂起に
反対した。当然の反撃をうけるや、ジノヴィエフとカーメネフは、党にたいして、出版物のうえ
で公然と反対行動をとり、近いうちに蜂起を組織するということについての、中央委員会の決定
を敵のまえにあばいた。ヴェ・イ・レーニンは、革命の裏切者に、ストライキ破りの烙印をおし、
これらの降伏主義者を党から除名する問題を中央委員会に提起した。ペトログラード・ソヴェト
の会議の席上でトロツキーは、ボリシェヴィキのきめた蜂起の日どりを敵にもらした(電子版作
成者註:これだけは付記したい。これは、トロツキーが管理していた印刷所が反革命に襲撃され、
資料が奪われたことにより「発覚」したものであり、#いかなる意味でも「もらした」わけでは
ない!日本共産党に連なる「歴史修正主義」の、「常識」にされてしまった歴史改竄の一例であ
る)。裏切者から予告をうけた革命の敵どもは、すぐさま蜂起を予防し、革命の指導司令部――
ボリシェヴィキ党――を壊滅させるための方策を講じはじめた。しかし、どんな力ももはや社会
主義革命の勝利の行進をとどめることはできなかった。十月二十一日には、車の革命的部隊全体
に、ボリシェヴィキによって軍事革命委員会のコミッサール〔委員〕が派遣された。部隊や工場
では、蜂起までのあいだ毎日精力的な戦闘準備がおこなわれた。武装蜂起を挫折させる可能性を
ケレンスキー政府にあたえないようにするために、ボリシェヴィキ党中央委員会は、予定の期日
よりもはやく、第二回ソヴェト大会の開催日の前日に蜂起を開始し決行することにきめた。
 一九一七年十月二十四日に、共産党の指導のもとに、十月武装蜂起が開始された。夜になって
ヴェ・イ・レーニンはスモーリヌィに到着し、蜂起の指導権を自分の手ににぎった。十月二十五
日(十一月七日)に、赤衛軍と革命的軍隊によって停車場、郵便局、電信局、諸官省、国立銀行
が占領された。ペトログラードの労働者は、この当時彼らがボリシェヴィキ党の指導のもとにり
っぱな訓練を経たことをしめした。ボリシェヴィキ党によって蜂起の訓練をうけた陸海軍の革命
的部隊は、戦闘命令を正確に遂行し、赤衛軍とあいたずさえてたたかった。十月二十五日(十一
月七日)に、ブルジョア臨時政府は廃止され、国家権力はソヴェトの手にうつった。大十月社会
主義革命がおこなわれたのである。ロシアは、社会主義への道をひらきつつある世界で最初の国
になった。一九一七年十月二十五日(十一月七日)の午後十時四十五分にスモーリヌィで第二回
全ロシア・ソヴェト大会がひらかれた。そのときには、ペトログラードの蜂起の勝利はまったく
の最高潮にあり、首都の権力は事実上ペトログラード・ソヴェトの手にあった。ボリシェヴィキ
は大会で圧倒的な多数を獲得した。大衆の信頼をうしなったメンシェヴィキ、ブンド派、右翼エ
ス・エルは、大会から退場した。裏切者の退場のおかげで、大会は労働者と兵士の代表の真に革
命的な大会となった。全権力がソヴェトの手にうつったことが、大会の名で宣言された。ソヴェ
ト権力の最初の布告は、ヴェ・イ・レーニンの提案によって、一九一七年十月二十六日(十一月
八日)の夜第二回ソヴェト大会で採択された平和にかんする布告であった。大会は、講和交渉を
おこなうために、即時休戦を締結することを各実戦国に提唱した。ソヴェト国家が形成された瞬
間に、ソヴェト国家によって布告された平和と諸国民間の友誼の強化の政策は、ソヴェト権力の
すべての対外政策の確固不動の基礎となった。同じ夜に、第二回大会は土地にかんする布告を採
択した。これによれば、土地の私的所有は永久に廃止され、土地の全人民的・国家的所有に変え
られた。地主の土地、皇室領および修道院の土地は、勤労者の無償の用益にゆだねられた。すべ
ての地下埋蔵物(石油、石炭、鉱石など)、森林、河川湖沼は、人民の所有にうつった。第二回
大会は最初のソヴェト政府――人民委員会議《ソヴナルコム》――を組織した。人民委員会議の
議長にはヴェ・イ・レーニンがえらばれた。大会の代議員たちはペトログラードにおけるソヴェ
トの勝利のニュースを知らせ、ソヴェト権力が全国士にわたって拡大するのを確保するために、
地方へ散っていった。数日を経て、モスクワにソヴェト権力が確立された。アメリカ、イギリス、
フランスの政府によって支持されたソヴェト権力を打倒するロシアの反革命の企ては、革命の勝
利の最初の数日中に粉砕された。ソヴェト政府にメンシェヴィキやエス・エルをいれることを要
求していたカーメネフ、ジノヴィエフ、その他の革命のストライキ破りのソヴェト権力にたいす
る攻撃も党によって首尾よく撃退された。一九一七年十月から一九一八年一―二月にかけて、ソ
ヴェト革命は首尾よく全国にわたって拡大した。膨大な国の領土にわたるソヴェト権力の拡大は
急テンポでおこなわれたので、ヴェ・イ・レーニンはそれをソヴェト権力の「凱旋行進」と名づ
けたほどであった。
 多くの原因が、ロシアにおける大十月社会主義革命の、比較的に容易な勝利を決定した。第一
には、経済的にはまだ強固になっておらず、政治的には自立しておらず、経験に乏しいロシアの
ブルジョアジーが比較的によわかったことである。第二には、十月〔革命〕の前夜までに、平和、
土地、自由、社会主義のための闘争における人民の指導者としての権威を獲得していたロシアの
労働者階級のような革命的な階級が革命の先頭に立っていたことである。第三には、労働者階級
と、農業人口の大多数をしめていた貧農の強固な同盟の存在していることが、蜂起の前夜に中農
が革命のがわに方向転換するのを容易にしたこと。第四には、ロシアの労働者階級の先頭に、平
和のための一般民主主義的な闘争や、地主の土地を奪取しようとする農民の民主主義運動や、ロ
シア諸民族の民族解放運動や、ブルジョアジーを打倒してプロレタリアート独裁を樹立するため
のプロレタリアートの社会主義運動を、一つの共通の革命の奔流に、たくみに結合することので
きた、政治闘争で試練をへた共産党が立っていたことである。第五には、帝国主義戦争がたけな
わであったときに、主要なブルジョア国家が二つの敵対的な陣営に分裂し、これらの国家が相互
の戦争に没頭し、革命の直後に武力干渉を組織する可能性がなかったときに、革命がはじめられ
たという事情も十月革命の勝利を容易にした。
 大十月社会主義革命は、人類の歴史に新しい時代――資本主義の顛覆および社会主義と共産主
義の勝利の時代をひらいた。ロシアにおけるソヴェト革命の勝利は、人類の運命と世界史を根本
的にきりかえ、古い資本主義世界から新しい社会主義世界へときりかえた。十月革命の勝利の結
果、ソ同盟共産党は、一国の力から、世界的・国際的な力となり、世界の革命運動および労働運
動の「突撃隊」となった。
 勝利した社会主義革命を実現したのち、共産党は、民族的破局からロシアをすくい、世界帝国
主義に従属した半植民地国からロシアを解放し、人類の歴史上かつてみられなかった社会主義的
改革の広い道にソヴェト国民をみちびいた。

     3 ソ同盟における社会主義建設のためにたたかう共産党

 プロレタリアートの独裁が確立するや、支配政党としての共産党は、世界最初の労働者・農民
の社会主義国家を帝国主義列強からまもり、社会主義を建設する任務ととりくむことになった。
共産党の指導著、ソヴェト政府の首班、ヴェ・イ・レーニンは、経済的にたちおくれたロシアを
先進的で強大な社会主義国にする、科学的にうらづけのある計画を作成した。この計画は、国の
社会主義的工業化、あらゆる手段をかたむけた重工業の発達、国民経済全体の電化、社会主義の
原則に立って国内の農業を改造する協同組合計画の実施、文化革命の遂行をさだめた。ヴェ・イ
・レーニンは、ソ同盟における共産主義の建設、社会主義かち共産主義への漸次的移行の方法に
かんする基本的・原則的な理論的指示をあたえた。共産党の指導のもとに、ソ同盟の勤労者は、
前人未踏の社会主義建設の道を先頭きってすすみ、全人類のために自由でしあわせな生活への道
をきりひらいた。
 共産党に指導されている労働者階級は貧農と同盟をむすんで、大十月社会主義革命後の最初の
数ヵ月間に、ソヴェト権力をかためる方策を実行にうつした。すなわち、旧来のブルジョア国家
機構を破壊し、そのかわりに、新しいソヴェト国家機構をつくりだし、ソヴェトをかため、身分
制度ののこりかすと民族的圧迫の制度を破壊した。最高国民経済会議が創設され、反革命とサボ
タージュとの闘争のために、全ロシア非常委員会が組織された。全ロシア非常委員会(ヴェ・チ
ェ・カ)の首班はエフ・ジェルジンスキーであった。赤色陸海軍の創建にかんする布告が発布さ
れた。党の民族政策を実行にうつすために、イ・ヴェ・スターリンを首班とする民族人民委員部
が創設された。一九一八年の前半期には、ソヴェト権力はブルジョアジーの経済力をくつがえし、
国民経済の瞰制要地――工場、銀行、鉄道、外国貿易など――をその手に集中することに成功し
た。産業の生産手段はうばいとられ、全人民の所有になった。ソヴェト橇力は、ブルジョア的生
産関係を絶滅し、新しい、社会主義的生産関係をつくりだし、それを生産諸力の性格に適応した
ものにした。この革命的変革は、古い、資本主義的生産方法の基礎を破壊し、国の工業に社会主
義部門を創設することを意味した。農業における生産手段の共有化はすぐには実現することがで
きなかった。それは、中小の個人生産者を生産協同組合、すなわち大規模農業企業であるコルホ
ーズに漸次統合する方法によってのみ達成することができたのである。
 ソヴェト権力を決定的に強化するためには、戦争を終結させなければならなかった。共産党は、
大十月社会主義革命の勝利の最初の日から平和のための闘争を展開したのである。フランスとイ
ギリスが講和交渉を拒絶したために、ソヴェト政府は、人民の意志を実現するために、ドイツと
オーストリアとの交渉にとりかかることにきめた。ソヴェト政府は、息つぎを得、ソヴェト権力
を強化し、敵の攻撃から国をまもる力のある新しい赤軍を創設するために、苛酷な講和条件をう
けいれることを余儀なくされた。メンシェヴィキやエス・エルから、もっとも札つきの白衛派に
いたるまでのすべての反革命派は、講和の調印に反対した。彼らは講和交渉をぶちこわし、ドイ
ツ帝国主義者の攻撃を挑発し、まだかたまっていないソヴェト権力を攻撃にさらそうと欲してい
たのである。トロツキーと彼の下働きブハーリンは、このけがらわしい仕事で彼らの同盟者とな
った。ラデックやピャタコフといっしょにブハーリンは、偽装するために「左翼共産主義者」グ
ループと自称していた、党に敵対するグループの先項に立っていた。ブレスト=リトフスクの講
和のときに、トロツキーは、党中央委員会の指令に違反して、講和条件に調印することを拒否し、
そのためにドイツ帝国主義者に攻撃の口実をあたえた。ドイツ帝国主義は、ソヴェト権力をたお
して、ソヴェトの国をその植民地に変えることを目的とした。ドイツ帝国主義の武力干渉にこた
えて、共産党とソヴェト政府は「社会主義祖国は危殆にひんす」という呼びかけを発した。赤軍
の若い部隊――革命的な人民の軍隊――は、ドイツの強盗の攻撃を勇敢に撃退した。ナルヴァと
プスコフの付近で、ドイツ占領軍に決定的な反撃がくわえられた。ドイツ帝国主義軍隊に反撃し
た日、二月二十三日は、赤軍の誕生日となった。ドイツ政府は、講和に調印することに同意した
が、その条件は、最初のときよりもはるかに苛酷なものであった。トロツキーとブハーリンの裏
切行為は、ソヴェト・ロシアにとって高価なものについた。
 党と人民の敵――「左翼共産主義者」とトロツキスト――は、裏切りの道をすすみつづけた。
彼らは、ソヴェト権力をたおし、ヴェ・イ・レーニン、イ・ヴェ・スターリン、ヤ・エム・スヴ
ェルドロフを逮捕し、殺害して、ブハーリン派、トロツキー派、「左翼」エス・エルからなる新
政府を形成することを目的で、「左翼」エス・エルと兇悪な協定を結んだ。秘密の反革命的陰謀
を組織しながら、「左翼共産主義者」は、トロツキーの支持のもとに、党にたいして公然の攻撃
をくわえ、党の統一をやぶることにつとめた。党はヴェ・イ・レーニンのまわりに結束をかため、
講和問題およびその他のすべての問題で中央委員会を支持した。「左翼共産主義者」のグループ
は、孤立させられ、粉砕されてしまった。
 一九一八年三月に召集された第七回ボリシェヴィキ大会は、ブレスト講和問題にかんするヴェ
・イ・レーニンの決議を採択し、トロツキーとブハーリンの態度を非難した。大会は、ロシア社
会民主労働党(ボ)をロシア共産党(ボリシェヴィキ)――エル・カ・ペ(ボ)と改称し、党綱
領を変更することを提案した。新しい党綱領を作成するために委員会が選出された。綱領の基礎
として、ヴェ・イ・レーニンが作成した草案が採用された。
 講和をむすび、息つぎを得たので、ソヴェト権力は、社会主義建設を展開することにとりかか
った。ヴェ・イ・レーニンが労作『ソヴェト権力の当面の任務』(一九一八年)のなかで作成し
た、社会主義建設に着手する計画の要点はつぎの点にあった。すなわち、全国民的な計算と管理
の組織、労働生産性向上のための闘争、社会主義競争の組織、新しい、プロレタリア規律の訓練、
企業の単独責任制、孤立採算制の施行であった。「左翼共産主義者」(ブハーリン、オシンスキ
ー、その他)はふたたび共産党の政策に反対した。彼らは、メンシェヴィキやエス・エルとブロ
ックをつくって、ソヴェト産業が軌道にのることに反対してたたかい、ソ同盟では社会主義の建
設が不可能であるというトロツキー派の見解を宣伝した。「左翼共産主義者」の裏切的態度は、
共産党によってばくろされた。この時期の農村における党の政策は、主として富農《クラーク》
にたいする闘争、食糧関係の仕事の組織、貧農の組織であった。富農は、公定価格で国家に穀物
を売ることをこばみ、飢餓の助けをかりて、ソヴェト権力に社会主義的方策を断念させようとし
た。党は「穀物のための闘争は――社会主義のための闘争である」というレーニンのスローガン
のもとに、労働者の農村への出動を組織した。一九一八年六月十一日の布告によって、貧農委員
会(コムベード)が創設された。貧農委員会は、農村におけるソヴェト権力の立場を強固にし、
富農を抑制するうえで大きな役割をはたした。貧農委員会の組織は、農村で社会主義をおしすす
めるいっそうすすんだ段階であった。プロレタリアの農村出動と、貧農委員会の組織とは、農村
でソヴェト権力を強固にし、中農をソヴェト権力のがわに獲得するために大きな政治的意義をも
っていた。貧農委員会がその任務をはたしおわった一九一八年の末ごろに、この委員会はその存
在をやめて農村ソヴェトに合流した。一九一八年七月に、第五回ソヴェト大会でロシア社会主義
同盟ソヴェト共和国
281「ソ同盟共産党」P237:02/04/23 22:02
憲法――最初のソヴェト憲決――が採択された。憲法の採択は、ソヴェト国
家建設の第一段階を完成した。
 ソヴェト権力が強固になったことは、国際帝国主義の陣営、とくに協商国諸国ならびに国内の
反革命陣営に不安をまきおこした。すでに一九一八年の前半には、すすんでソヴェト権力の打倒
にのりだそうという二つのはっきりした勢力、すなわち協商国がわの外国帝国主義とロシア内部
の反革命とが形成されたのである。息つぎがおわり、外国の軍事的干渉と国内の反革命勢力にた
いするソヴェト人民の闘争の長い時期がはじまった。
 外国の軍事的干渉と国内戦争の時期(一九一八―二〇年)に、共産党は、外国の侵略者とブル
ジョア=地主の反革命にたいする祖国防衛戦争に労働者・農民を決起させ、社会主義祖国の自由
と独立のための闘争において全世界的・歴史的勝利を得た。
 イギリス、フランス、日本、アメリカの帝国主義者は、宣戦の布告なしに軍事的干渉をはじめ
た。アメリカ=イギリスの占領軍は、ロシアの北部に軍隊を上陸させ、日本軍とアメリカ軍は、
ウラヂヴォストクに軍隊を上陸させた。北カフカズではコルニロフ、アレクセエフ、デニキンら
の将軍連は、イギリス=フランス軍の支持のもとに白衛軍を組織し、ソヴェト征伐を開始した。
ドンではクラスノフ将軍とマモントフ将軍が、ドイツ帝国主義者の支持のもとに反革命一揆をお
こした。中部ヴォルガとシベリアでは、イギリス=フランス帝国主義者の陰謀によって、ソヴェ
ト政府によって祖国におくりかえされた捕虜からなっていたチェコスロヴァキア軍団の一揆が組
織された。干渉者の侵入と燃えあがった反革命一揆の結果、ソヴェト・ロシアは、その主要な食
糧、原料、燃料地帯からきりはなされてしまった。この時期の信じられないほどの困難と、この
困難との死にものぐるいの闘争は、労働者階級にどんなに無尽蔵のエネルギーが秘められている
か、いかに共産党の権威の力がどこまで大きいかをしめした。飢えも、混乱も、燃料、衣料、靴
不足も、チフスの蔓延も、その他の災厄も、ロシアを分割し、帝国主義列強の植民地にしようと
ゆめみていた帝国主義略奪者どもの手さきがくわだてた富農の暴動も――なに一つとして、搾取
階級にたいする勝利と新しい社会主義生活の建設をめざすソヴェト国の勤労者の不屈の意志をう
ちやぶることはできなかった。党は、国土を戦陣と宣言し、国の経済生活と文化=政治生活を軍
事一色にたてなおしてしまった。戦線と銃後における国防にかんするあらゆる仕事を指導し、戦
線の必要に応じて国のあらゆる富源を動員するために、ヴェ・イ・レーニンを首班とする労農国
防会議が創設された。ソヴェト政府は「社会主義祖国は危殆にひんす」と宣言し、人民を敵にた
いする反撃へよびかけた。共産党と共産主義青年同盟の全成員のほとんど半分は戦線に出た。短
期間に赤軍は一〇〇万の軍隊となった。講じられた対策の結果、最初の成功がえられた。クラス
ノフ将軍は、ツァリツィンから駆逐され、デニキン将軍の行動は北カフカズの小地区に局限され、
チェコスロヴァキアとエス・エル=白衛軍の匪賊団はカザン、シンビルスク、サマラから放逐さ
れ、ウラルにおしもどされた。ヤロスラウリにおける白衛軍の一揆は撃滅された。しかし、共産
党は、赤軍の最初の成功がまだ決定的なものではなく、新しい戦闘がひかえていることを理解し
ていた。党は勤労者を長期戦にそなえはじめた。ソヴェト政府は、戦時共産主義を施行した。全
産業が国家の統制のもとにおかれ、穀物売買の独占がおこなわれ、穀物の私的売買が禁止され、
食糧割当徴発制が制定され、あらゆる階級にたいする一般労働義務制が施行された。
 ソヴェト国が外国の干渉にたいする新しい戦闘にそなえつつあったときに、西欧では交戦諸国


−−−−−−−
 あちゃー あげてもた! すまぬ!
の銃後と戦線に決定的な事件がおこった。ドイツでは一九一八年の十一月に革命が勃発し、ウィ
ルヘルム二世とその政府は打倒された。大十月社会主義革命は、ドイツの事件にきわめて大きな
影響をあたえた。一九一八年十一月に、第一次世界戦争は、ドイツの降伏によって終結した。ソ
ヴェト・ロシアの立場からみると、戦争の終結は若干のマイナスの意義をもっていた。なぜなら
ば、協商国がわの諸国家が、ソヴェト国にたいする干渉を強化する可能性を得たからである。そ
れと同時に、戦争の終結は、ソヴェト・ロシアの立場をいちじるしくらくにした。第一に、ソヴ
ェト権力は、強盗的なブレスト講和を破棄し、エストニア、ラトヴィア、白ロシア、リトワニア、
ウクライナ、外力フカズをドイツ帝国主義の抑圧から解放するための公然の闘争をおこなう可能
性をあたえた。第二に、しかもこれがたいせつなことだが、ドイツの革命は、ヨーロッパの革命
運動を高揚させた。
 大十月社会主義革命の影響をうけて、西欧に共産党が創立されはじめた。第三共産主義インタ
ナショナル創立のための現実の地盤が生じた。一九一九年三月に、諸国共産党、共産党諸組織お
よびグループの第一回大会がモスクワでひらかれた。そこで、ヴェ・イ・レーニンのイニシアテ
ィヴによって共産主義インタナショナルが創立された。コミンテルンは、先進的労働者の前衛を
革命的マルクス主義党に結集するうえに大きな役割を演じた。
 一九一九年三月に、ロシア共産党(ボ)の第八回大会がひらかれた。大会では、プロレタリア
ート独裁の条件下における党の任務にこたえる共産党の新しい綱領が採択された。綱領には、資
本主義とその最高の段階としての帝国主義、単純商品経済の性格づけがあたえられた。綱領は、
国内にいろいろな経済制度《ウクラード》が現存していることを考慮した。綱領では、社会主義
のための闘争に
おける党の具体的な諸任務、すなわち、ブルジョアジーの収奪を徹底させること、
単一の社会主義的計画にしたがって国の経済を処理すること、労働組合が国民経済を組織する仕
事に参加すること、中農を社会主義建設に徐々に、計画的にひきこむことがしめされている。綱
領の審議にあたって、大会は、ソヴェト建設における中農の役割をメンシェヴィキ的=トロツキ
ー的に否定することを意味したブハーリンの反ボリシェヴィキ的見解と、民族の平等権に反対し
たブハーリンやピャタコフの大国的・排外主義的な見解に反撃をくわえた。農村における活動に
かんするヴェ・イ・レーニンの報告にもとづいて、大会は、「中農にたいする態度にかんする」
決定を採択し、そのなかで、中盤と強固な同盟をむすび、この同盟のなかでプロレタリアートの
指導的役割を保持する政策を実行することを提案した。中農にたいする新しい政策は、貧農に依
拠し、中農との強固な同盟を堅持し、富農にたいする闘争をおこなうことを、プロレタリアート
に要求した。大会で採択された農民にたいする方針は、国内戦とソ同盟における社会主義で勝利
をおさめるうえに決定的役削を演じた。第八回大会は、軍事問題にかんする決定を採択し、その
決定は、赤軍を強固にした。大会は、ソヴェトの活動における党の指導的役割を強調して、党建
設とソヴェト建設にかんする提案をおこない、ソヴェトにおける党の指導的役割を否定したサプ
ロノフ=オシンスキーの日和見主義的グループに決定的な反撃をくわえた。大会は、党の社会的
構成を改善し、再登録をおこなう決定を採択した。これは、党の第一次粛清のはじまりであった。
第八回大会の決定は、党の陣列を結束させ、党の指導的役割を強化するうえで、党と人民との結
びつきを強化し、ソヴェト国の国防力を高めるうえで、大きな意義をもっていた。
 ドイツの降伏したあとで、協商国がわの国家は、ソヴェト国にたいして大兵力を投入した。一
九一九―二〇年に、帝国主義者どもはソヴェト共和国にたいして三たび出兵をおこなった。一九
一九年の春に開始された最初の出動のときに、帝国主義者どもは、シベリアにいた協商国の走狗
コルチャック海軍大将におもな望みをかけていた。コルチャックは「ロシアの最高統治者」と宣
言された。東部戦線が主要な戦線となった。コルチャックにたいしては、共産党の最良の勢力が
投入され、共産青年同盟員や労働者が動員された。コルチャック軍は退却しはじめた。党中央委
員会は、ウラルの前面で停止し、コルチャック軍の追撃を中止するという、トロツキーの不審な
計画をしりそげ、東部戦線の作戦指導にたずさわることから手をひかせた。赤軍は、ウラルとシ
ベリアを白衛軍から解放した。ウラルとシベリアでは、強力なパルチザン運動が赤軍を援助した。
一九一九年の夏に、赤軍の注意をコルチャックからそらす目的で、バルト沿岸の反革命勢力の先
頭に立っていたユデニッチ将軍は、ペトログラードにたいする攻撃を開始した。クラースナヤ・
ゴルカとセーラヤ・ローシャヂの二つの砲台の守備隊は、反革命的煽動に屈してしまい、ソヴェ
ト権力にたいして一揆をおこした。党中央委員会とソヴェト政府は、急速に一揆を根絶する方策
をとった。砲台は反逆者から解放され、白衛軍はペトログラードから撃退された。ユデニッチの
敗北はコルチャックにたいする闘争を容易にした。一九一九年の末ごろには、コルチャック軍は
最後的に壊滅させられた。
 一九一九年の夏に、第二回目の協商国の出兵、いわゆる一四ヵ国の出兵が開始された。こんど
は帝国主義者どもは、南部を支配していたデニキンに望みをかけた。南部戦線が主要な戦線にな
った。デニキンを援助するために、ミンスクを占領していた白色ポーランド人が出動した。ユデ
ニッチは、ペトログラード付近でふたたび攻撃にうつった。トロツキーは、南部戦線での仕事を
めちゃくちゃにし、ソヴェト軍は敗北をこうむった。デニキン軍はウクラィナを手にいれ、オリ
ョールを占領し、トゥーラにせまっていた。ソヴェト共和国には重大な危険がせまっていた。ヴ
ェ・イ・レーニンは、党中央委員会の名で「すべてをデニキンとの闘争へ!」と人民によびかけ
た。共産党に鼓舞された労働者と農民は、敵を壊滅させるために、全力をかたむけた。デニキン
軍の殲滅を組織するために、中央委員会は、イ・ヴェ・スターリン、カ・イェ・ヴォロシロフ、
ゲ・カ・オルジョニキッゼ、エス・エム・ブジョンヌィを南部戦線に派遣した。党中央委員会は、
トロツキーの裏切的計画をしりそげ、南部戦線の作戦指導から彼をとおざけ、イ・ヴェ・スター
リンによって提案された、ヴォロネジ地方からハリコフ――ドンバス――ロストフを通じて主要
な打撃をむけるべきであるというデニキン殲滅計画を採用した。この計画の実行は、赤軍に勝利
をもたらした。コルチャックとデニキンの壊滅ののち、しばらくの息ぬきがやってきた。一九二
〇年一月に、イギリス、フランス、イタリアは、ソヴェト・ロシアの封鎖を中止する決定をおこ
なった。ソヴェト国は、平和的な経済建設に息ぬきを利用した。
 短い息ぬきの条件のもとで(一九二〇年三―四月)第九回党大会がひらかれた。大会は、工業
および運輸の分野での国の当面の経済的任務を決定した。大会では、統一的な経済計画の問題に
特別の注意がはらわれた。この計画のなかで主要な地位を占めていたのは、全国民経済の電化の
問題であった。ヴェ・イ・レーニンは、「一〇―二〇年にわたる大計画案」として国の電化を提
起した。これにもとづいて、ゴエルロ〔ロシア電化国家委員会〕の計画が作成された。大会は、
「民主主義的中央集権」の反党的なグループに反撃をくわえた。このグループは、産業での企業
長《ディレクトル》の単独責任制と個人責任制に反対し、産業指導上の際限もない「合議制」と
無責任制を主張し
287名無しさん@1周年:02/04/23 22:08
ソ連共産党も病院で反体制活動家に拷問をしたり、
薬殺をしてたらしいな。
これは過去に「リーダーズ・ダイジェスト」他でも取り上げられ、
ペレストロイカの下で裏付けられたことだが。
た。
 一九二〇年の春、協商国の帝国主義者どもは、ソヴェト・ロシアにたいする三回目の出兵を開
始した。こんどは干渉者は、ブルジョア=地主のポーランドと白衛軍のウランゲリ将軍をその目
的のために利用することに決した。一九二〇年四月に、ポーランド軍隊はソヴェト・ウクライナ
の国境に突入し、キエフを占領した。ウランゲリもまた攻勢に転じ、ドンバスを脅威しはじめた。
ポーランド軍隊の攻撃にこたえて、ソヴェト軍は、全戦線にわたって反撃を展開した。南西部戦
線の軍隊はリヴォフに達し、西部戦線の軍隊はワルシャワに近づきつつあった。事態はポーラン
ド地主《パン》の完全な敗北へとすすみつつあった。しかし、トロツキーと赤軍参謀本部内の彼
の一味は、赤軍の成功を挫折させてしまった。ポーランド軍隊は攻勢に転じたが、まもなくその
攻撃は停止された。ソヴェト軍は、白色ポーランド人にたいする反撃準備をはじめた。ポーラン
ドは、戦争を継続する力がなく、ロシアとの講和をむすぶことをえらんだ。一九二〇年の十一月
に、エム・ヴェ・フルンゼに指導されたソヴェト軍は、ペレコプの設堡陣地を占領し、クリミア
に突入し、ウランゲリ軍を殲滅した。一九二〇年四月から一九二一年二月までの期間に、ソヴェ
ト権力は、アゼルバイジャン、アルメニア、グルジアで勝利をおさめた。ソヴェト国の主要な敵、
干渉の主力は、一九二〇年の末までに粉砕されてしまった。外国の干渉と国内戦の時期はおわっ
た。
 これは労働者と農民の歴史的勝利であり、ソヴェト権力の歴史的勝利であり、共産党によって
創設され、教育された赤軍の勝利であった。勝利が得られたのは、労働者と農民が、自分の若い
ソヴェト共和国とソヴェト権力を干渉軍と白衛軍からまもって、最大の英雄主義を発揮したから
である。レーニンはつぎのように指示している。「労働者と農民の大多数が、自分のソヴェト権
力――はたらく者の権力をまもりぬき、また、それが勝利すれば、自分や子供たちが、いっさい
の文化の福祉、いっさいの人間労働の創造物を利用できるようになる事業をまもりぬいているこ
とを知り、感じ、見ている――そういう労働者、農民をもつ人民をうちやぶることはけっしてで
きない。」〔レーニン『一九一九年四月十六日モスクワ鉄道分岐点従業員代表者会議における演
説』、全集第二九巻二九二ページ〕 ソヴェト権力の政策――この政策のためにたたかいがおこ
なわれたのであるが――は人民の利益に合致した政策であった。勤労者はこの政策を自分自身の
政策として意識し、理解し、それを最後まで支持していた。赤軍が勝利したのは、同軍が自国の
人民にあくまで忠実で献身的であったからである。赤軍兵士は戦争の目的を理解しており、その
ことが、規律の精神と戦闘力を彼らのうちにつよめ、比類のない自己犠牲と未曾有の大衆的英雄
主義を発揮した。赤軍は強力な銃後をもっていた。共産党は国を、戦線にすべての必要品を供給
した統一された戦列に変えた。プロレタリア革命によって輩出され、共産党によって教育された、
新しい型の軍事指導者が赤軍を指導した。すなわち、エム・ヴェ・フルンゼ、カ・イェ・ヴォロ
シロフ、エス・エム・ブジョンヌイ、その他がそれであり、赤軍の隊伍では、ゲ・イ・コトフス
キー、ヴェ・イ・チャパーエフ、エス・ゲ・ラゾー、エヌ・ア・シチョルス、ア・ヤ・パルホメ
ンコ、その他多くの天成の英雄たちがたたかい、ヴェ・イ・レーニン、イ・ヴェ・スターリン、
ヴェ・エム・モロトフ、エム・イ・カリーニン、ヤ・エム・スヴェルドロフ、エリ・エム・カガ
ノヴィチ、ゲ・カ・オルジョニキッゼ、エス・エム・キーロフ、ヴェ・ヴェ・クイブィシェフ、
ア・イ・ミコヤン、ア・ア・ジダーノフ、ア・ア・アンドレエフ、ゲ・イ・ペトロフスキー、イ
ェ・エム・ヤロスラフスキー、エフ・エ・ジェルジンスキー、イェ・ア・シチャヂェンコ、エ

・ゼ・メフリス、エヌ・エス・フルシチョフ、エヌ・エム・シヴェルニク、エム・エフ・シキリ
ャトフ、その他が赤軍の政治教育にたずさわり、赤軍はその構成のうちに、非凡な組織者、煽動
動家――軍事委員《コミサール》をもっていた。赤軍が勝利したのは、白衛軍の銃後で、労働者
と農民を蜂起させ、白衛軍と干渉軍の銃後をくつがえした党員・地下活動家が活躍したからであ
る。
 共産党は赤軍の銃後と戦線の指導的中核であった。この党は、その結束力と規律とで統一され、
その革命精神と、共同の事兼の成功のためとあればどんな犠牲をもいとわない覚悟とでつよめら
れており、幾百万の大衆を組織し、複雑な情勢のもとで大衆をただしく指導する能力をもってぬ
きんでていたのである。「党が警備につき、党がもっとも厳格に規律をまもったおかげで、また、
党の権威がいっさいの官庁および機関を団結させ、中央委員会のあたえたスローガンにしたがっ
て数十人、数百人、数千人、そして最後には数百万人がただひとりのごとくすすんだおかげでは
じめて、そしてまた、未聞の犠牲がささげられたがゆえにはじめて、――それによってはじめて、
奇蹟はうまれることができたのである。それによってはじめて、連合国の帝国主義者および全世
界の帝国主義者の二回、三回、そして四回もの出征をうけたにもかかわらず、われわれは勝利を
占めることができたのである。」〔レーニン『ロシア共産党(ボ)第九回党大会、三月二十九日
の中央委員会報告』、本文庫版『平和のための闘争』一二五ページ所収〕
 経済の崩壊と飢餓という大きな困難を克服し、外国の干渉軍と国内の反革命一揆の狂気じみた
攻撃を撃退して、共産党は、ソヴェト国の人民を干渉軍と白衛軍にたいする完全な勝利にみちび
いた。国内戦と軍事干渉の時期は、ソヴェト国における共産党の決定的勝利の時期であった。そ
れと同時に、国内戦と干渉の時期は、エス・エル、メンシェヴィキ、無政府主義者、民族主義者



>>287
 何をいまさらですが。「収容所群島」(ソルジェニーツィン)を読めば、もっと
エグいよ。
の小ブルジョア諸政党の政治的滅亡の時期であった。これらの諸政党は、白衛軍の将軍や干渉軍
を支持し、ソヴェト権力にたいする反革命的行動や陰謀をたくらんだ反革命的政党としての正体
を人民大衆の面前で先全にばくろした。
 白衛軍の反革命と外国の干渉にたいするソヴェト国の闘争は、全世界のプロレタリアの共鳴と
支持をよびおこした。全世界のプロレタリアは、帝国主義者がソヴェト共和国にたいする干渉を
断念するよう援肋をあたえた。
 国民経済復興の平和的活動の時期(一九二一―二五年)に、共産党は、労働者と農民の同盟を
強化し、新経済政策(ネップ)にもとづいて、巨大な建設活動を展開し、人民の創造力をレーニ
ンの社会主義班設計価の実行へとみちびいた。
 党の平和的な建設への移行は、きわめて困難な情勢のもとでおこなわれなければならなかった。
国は四年間の帝国主義戦争と三年間の干渉軍との戦争で荒廃していた。一九二〇年の農業生産額
は、戦前の約半分にしか達せず、工業は崩壊状態にあった。経済的困難のうえに、農民と一部の
労働者のあいだに不満があらわれた。階級敵は、ソヴェト権力を打倒するために困難な経済状態
を利用しようとこころみた。戦時共産主義体制は、その任務をおわった。党はヴェ・イ・レーニ
ンの指導のもとに、ネップに移行した。ネップは、国営社会主義工業と単純商品生産者の小規模
経済および零細経営との結合の強固な基礎を置き、労働者階級と農民の同盟を強化し、プロレタ
リアートの独裁を強固にした。ヴェ・イ・レーニンはネップの国際的意義を強調した。ヴェ・イ
・レーニンはつぎのように書いている。「われわれが現在、さしあたって――一時的には――孤
立して解決しつつある任務は、まったくロシア的なものであるが、事実、これはすべての社会

義者が直面する任務である。……労働者と農民の同盟に基礎をおく新しい社会は、不可避である。
早晩、二〇年はやいか、二〇年おそいか、とにかくそういう社会はやってくる。われわれが、わ
がネップの決定に努力するとき、われわれは、そうした社会のために労働者と農民の同盟の諸形
態をつくりあげるのをたすけているのである。われわれはこの任務を解決するであろうし、労働
者と農民の同盟は、地上のいかなる勢力もそれをやぶることができないほど強固になるであろう
)」〔レーニン『共和国の内外政策』、全集第三三巻一五一―五二ページ〕平和的建設への党の
移行は、党の陣列に組織破壊と分裂をもちこもうとこころみた反党的グループとの激烈な闘争を
ともなった。一九二〇年の末に、反党的グループのトロツキー派、「労働者反対派」、「民主主
義的中央集権派」、「左翼共産主義者」は、党に労働組合にかんする討論をおしつけた。討論と
党および中央委員会のレーニンの多数派にたいする闘争の張本人はトロツキーであった。実際に
は、闘争は農民にたいする態度、非党員の労働者大衆にたいする党の態度、一般に新しい情勢に
おける大衆にたいする党の態度についておこなわれたのである。大衆にたいする強制と命令一点
ばりの裏切的政策によって、トロツキー派は、非党員大衆を党に敵対させ、ソヴェト権力の存在
に脅威をあたえようとこころみた。ヴェ・イ・レーニンとレーニン派は、主要な打撃を、反党グ
ループの主勢力としてのトロツキー派にむけた。中央委員会のレーニンの多数派は、分派的反党
グループを壊滅させるために、党の全勢力を結集、動員した。地方の党組織は、労働組合は管理
の学校であり、経営の学校であり、共産主義の学校であると定義したレーニンの政綱に同意した。
 一九二一年三月にひらかれた第十回党大会は、労働組合にかんする討論を総括し、圧倒的多数
でレーニンの政綱を承認した。大会は、党内の分派やグループを禁止した「党の統一にかんす
293名無しさん@1周年:02/04/23 22:15
>>290
うん、読んだよ。リーダイのは「ソ連は病院を収容所にした」
というタイトルだったと記憶する。日共にはまだその悪しき影響が
温存・継承されてると思ったものだから。
スレ違い失礼しました。

」レーニンの決定を採択した。ヴェ・イ・レーニンによって提案された「わが党内のサンディカ
リスト的偏向と無政府主義的偏向について」という決議のなかで、大会は「労働者反対派」を非
難し、無政府主義=サンディカリスト的偏向の思想を宣伝することと、共産党に所属することと
は両立しないことをみとめ、反対派と断固としてたたかうよう党によびかけた。第十回党大会は、
党内の集団的指導と党の決定作成における集団性の重要性を強調し、あらゆる重要な問題の完全
な党内の批判の自由による審議と全党的決定の集団的作成が党の活動方式であることを指示した。
「割当徴発制を現物税にかえることについて」のヴェ・イ・レーニンの報告にしたがって、第十
回大会は、新経済政策への移行にかんする重要な決定を採択した。戦時共産主義からネップへの
この転換のなかに、共産党の賢明さと先見の明かあらわれていた。党は、瞰制要地をプロレタリ
ア国家の手中におさめて資本主義をゆるすことを考慮し、資本主義的分子にたいする社会主義的
分子の勝利を考慮し、社会主義経済の基礎の建設を考慮したプロレタリア国家の特別な政策とし
てのネップを研究した。ネップへの移行は、社会主義建設のための労働者階級と農民の強固な経
済的同盟を保障した。以前の被圧迫民族の経済的・政治的・文化的立ちおくれを消滅させること
を提案したイ・ヴェ・スターリンの報告にもとづいて採択された民族問題にかんする大会の決定
も、この根本的な任務に役だった。大会は、大国的排外主義と地方的民族主義という民族問題上
の反党的な偏向を非難した。
 党内の動揺分子は、ネップの実行に反抗した。党は、ネップが資本主義への復帰であり、ソヴ
ェト権力の滅亡をもたらすものであると声明した「左翼」ならびに、ソ同盟における社会主義の
勝利の可能性を信ぜず、国内国外の私的資本に大きな譲歩を要求したろこつな降伏主義者をばく



>>293
 いえいえ、どういたしまして。JCP−Watchというサイトがあるのです
が、それを巡る状況を見れば、病院に収容とは違う意味での「隔離体質」はなく
なっていない模様です。
ろし孤立させた。党は、狼狽者、降伏主義者に決定的な反撃をくわえた。党の政策にたいする反
抗が現に存在していたことは、動揺分子を党から粛清することを必要とした。中央委員会は、一
九二一年に党の粛清をおこなって、党の強化のために一大活動をおこなった。
 一九二二年の三―四月にひらかれた第十一回党大会は、ネップの第一年の総決算をおこなった。
共産党はネップに移行しながら、一時的な後退戦術と、資本主義にたいするあらたな、より決定
的な攻撃をくわえるための力と資力を蓄積する戦術をとった。第十一同党大会で、ヴェ・イ・レ
ーニンは退却がおわったことを声明して、資本主義分子にたいする決定的攻撃にうつるために勢
力を再編成するという課題を提起した。この時期に党が当面していた諸任務の鎖の主要な一環は、
商業、工業と農民経済のあいだの商品流通の発展、商品流通面からの個人商人の一掃であった。
ヴェ・イ・レーニンは、経営の仕方をまなべ、文化的に商業をおこなえというスローガンを党に
提起した。第十一回党大会は、ヴェ・イ・レーニンが直接その活動に参加した最後の大会であっ
た。一九二一年の末には、ヴェ・イ・レーニンは病気のために、しばしばその活動を中止するこ
とを余儀なくされた。
 その最後の論文『日記からの数ページ』、『協同組合について』、『わが革命について』、『
われわれは労農監督人民委員部をどう改組すべきか』、『量は少くとも、質のよいものを』のな
かで、ヴェ・イ・レーニンは、ソヴェト権力の最初の数年間における党活動の総決算をおこない、
ソ同盟における社会主義建設計画をたて、農民を社会主義社会の建設にひきいれる協同組合計画
を提案した。ヴェ・イ・レーニンはこう指示した。プロレタリアートの独裁と労働者階級と農民
の同盟のもとで、またこの同盟でプロレタリアートの指導権が確保されており、社会主義的工業
が現に
存在しているばあいには、数百万という農民を包擁する生産協同組合は、それによって完
全な社会主義社会を建設しおえることができる手段である。小規模生産者および中規模生産者の
多少とも多くの階級をもっているすべての国にとって、発展のこの方法が、社会主義の勝利にと
って、ただ一つの可能な、目的にかなったものである。ヴェ・イ・レーニンは、社会主義国家を
あらゆる方法で強化し、ソヴェト国家機関を改善、強化し、国家管理に広範な勤労大衆をひきい
れることの必要性を指示した。ヴェ・イ・レーニンによって提案され、作成された経済的・政治
的・文化的建設のもっとも重要な問題は、社会主義建設の綱領となった。
 ヴェ・イ・レーニンの指示は、第十二回党大会(一九二三年四月)の決定の基礎となった。大
会は、ネップを社会主義の陣地からの退却としてのみ理解したすべての人々に決定的な反撃をく
わえ、トロツキー派やブハーリン派の降伏主義に烙印をおした。大会はまた、農民経営を搾取す
ることによって工業を建設することを提案して、労働者と農民の同盟をやぶろうとするトロツキ
ーの試みにも反繋をくわえた。大会は、工業の発展が、農民大衆の利益に反しないで、それに結
合しておこなわれなければならないことを強調した。ヴェ・イ・レーニンの指示にしたがって、
大会は、中央統制委員会と労農監督局との合同機関を創設した。この機関には、党の統一を防衛
し、党の規律と国家の規律をつよめ、ソヴェト国家機関を改善するという任務がおわされた。イ
・ヴェ・スターリンの報告にもとづいて、大会は、民族問題にかんする中央委員会の政策に賛成
した決定を採択した。大会では、トロツキー派やブハーリン派が支持したグルジアの民族主義的
偏向者をばくろした。第十二回党大会は、二ヵ年間のネップの総決算をおこない、ソ同盟におけ
る社会主義の勝利における確信を表明した。
 単一の多民族ソヴェト国家の創立は、共産主義建設の課題を成功裡に解決するために大きな意
義をもっていた。レーニン=スターリン的民族政策の実現のために共産党によって遂行された巨
大な活動の結果、一九二二年十二月の第一回全同盟ソヴェト大会で、ソヴェト社会主義共和国同
盟(エス・エス・エス・エル)が創立された。ソ同盟の創立は、世界で最初の労働者・農民の社
会主義国家がいっそう強化されたことを意味した。
 共産党の指導下で得られたソヴェト人民の成功は、国民経済復興期の内外の諸困難を克服する
ために大衆を団結させた。党は、ヴェ・イ・レーニンの病気を利用して党と党指導部にあらたな
攻撃を開始した敵にたいして決定的な闘争をおこなった。トロツキーを先頭とする降伏主義者や
裏切者は、党をレーニンの道からはずして、ソヴェト国のなかに資本主義復活のための条件を準
備しようとこころみた。トロツキー派は分派とグループの自由を要求して、党にあらたな討論を
おしつけた。討論の過程で、反対派は、ソヴェト同盟全体にわたって粉砕されてしまった。討論
は、党の陣列の統一と一枚岩のような強固さ、中央委員会のまわりへの党の結集、レーニン主義
にたいする党の忠誠をしめした。第八回党協議会(一九二四年一月)は、トロツキー反対派をマ
ルクス主義からの小ブルジョア的偏向として断固として非難した。
 共産党は、社会主義建設のレーニン的計画を実行にうつすための闘争を展開した。この時期に、
最大の不幸――共産党の創立者、指導者であり、全世界の勤労者の指導者であり、世界で最初の
ソヴェト社会主義国家の創立者であるヴェ・イ・レーニンが一九二四年一月二十一日に逝去した
――が党と労働者階級をおそった。ソヴェト同盟の労働者階級は、共産党の周囲にさらにいっそ
う自己の隊列を結束することをもってヴェ・イ・レーニンの死にこたえた。二〇万名近くのもっ
とも階級意識のある、先進的な労働者が党の陣列にくわわった。ヴェ・イ・レーニンの喪中にひ
らかれたソ同盟第二回ソヴェト大会で、イ・ヴェ・スターリンは、党を代表して、ヴェ・イ・レ
ーニンの遺訓を遂行するという偉大な誓いをたてた。すなわち、党員という偉大な名誉を高くか
かげ、かつきよくたもつこと、党の統一をまもること、プロレタリアートの独裁をまもり、かつ
強化すること、労働者と農民の同盟とソ同盟の諸民族の兄弟のような協力を強化すること、ソヴ
ェト社会主義同盟を強化、拡大すること、赤軍と赤色海軍を強化すること、全世界の勤労者の同
盟を強化、拡大することをちかった。これは、永遠に生きるであろう、自分の指導者ヴェ・イ・
レーニンにたいする党の誓いであった。
 ソ同盟共産党は、レーニンの顔を高くかかけ、ソヴェト人民を社会主義建設の道にみちびいた。
一九二四年五月に、第十三回党大会がひらかれた。都市と農村の結合を強固にする任務から出発
して、大会は、工業を、第一番に軽工業をいっそう拡大することにかんする指示をあたえ、同時
にまた冶金工業を急速に発展させる必要を強調した。農村における活動の主要な任務として、大
会は、あらゆる手段を講じて農民大衆を協同組合にいれるというスローガンをかかげた。大会は、
レーニン記念党員募集アピールの絶大な意義を指摘し、そして、青年党員を、まず第一番にレー
ニン記念党員募集アピールに応じた青年党員を、レーニン主義の基礎によって訓練する活動を強
化することに注意をむけた。大会は、トロツキー反対派の政綱を満場一致で非難し、第十三回党
協議会の決議「党建設について」と「討論の総決算と党内の小ブルジョア的偏向について」を確
認した。トロツキー主義を思想的に壊滅させ、レーニン主義を擁護するうえで、イ・ヴェ・スタ
ーリンのすぐれた理論的労作『レーニン主義の基礎について』が重一な意義をもっていた。この
労作のなかでは、レーニン主義のたくみな叙述がなされ、ヴェ・イ・レーニンがマルクス主義理
論の発展にもたらした新しいものがしめされている。イ・ヴェ・スターリンの労作『レーニン主
義の基礎について』は、全世界の共産主義者をマルクス=レーニン主義理論という武器で武装さ
せた。
 国民経済の復興は、一九二五年にはおわりに近づいた。党に指導される労働者と農民の献身的
な活動は、その成果をもたらした。一九二四―二五年には、農業は戦前の規模に近づき、大工業
はすでに戦前の工業生産額の約四分の三を産した。復興期のおわりには、ソ同盟における社会主
義の運命にかんする問題は、もはや理論問題としてでなく、実践の問題として党が当面した問題
であった。党と人民の敵であるメンシェヴィキの残党――トロツキー派、ブハーリン派、ブルジ
ョア民族主義者は、社会主義の勝利の可能性にたいする不信の害毒によって党と労働者階級をひ
きはなそうとした。彼らは、党と国をレーニンの道からはずして、プロレタリア革命の獲得物を
一掃し、資本主義を復活する道にそらせようとした。共産党は、イ・ヴェ・スターリンを先頭と
する中央委員会の指導のもとに、裏切者や降伏主義者を粉砕し、レーニン主義をまもりぬき、社
会主義を建設する断固たる方針をとった。このさい、共産党は、社会の経済的発展の客観的法則、
社会の物質的生活の発展をもとめる熟しきった要求、人民の利益から出発した。党は、ソ同盟に
は、新しい社会主義社会を建設しとげるために必要かつ十分なものがすべてそろっているという
レーニンの命題から出発した。
 一国での最初の社会主義建設の可能性にかんするレーニンの教義を具体化するにあたって、イ
・ヴェ・スターリンは、この問題の二つの面を区別しなければならないことを した。すな
わち、
国内的な面では――国の内部の諸階級の問題であり、国際的な面では――ソ同盟と資本主義的環
境とのあいだの相互関係の問題である。問題の国内的な面についていえば、ソ同盟の労働者階級
と農民が、自国のブルジョアジーを経済的に克服し、完全な社会主義社会を建設しとげることは、
まったく可能である。しかし、資本主義の包囲が存在するあいだは、資本主義的干渉の危険も、
ソ同盟に資本主義の復活する危険もある。この危険をとりのぞくためには、資本主義の包囲を絶
滅しなければならす、資本主義の包囲の絶滅は、すくなくとも若干の国々におけるプロレタリア
革命の勝利の結果はじめて可能である。トロツキー派は、党の方針に反対行動をとり、それにメ
ンシェヴィキ的・反革命的「永久革命の理論」を対立させた。ブハーリン派は、党の指導方針に
公然と反対行動はとらなかったが、それでも彼らは、資本主義は社会主義へ平和的にうまれかわ
るものだという彼ら一派の「理論」を党の指導方針にこっそりと対立させはじめた。第十四回党
協議会(一九二五年四月)は、公然または隠然の反対派の、降伏主義的「理論」を非難し、ソ同
盟における社会主義の勝利をめざす党の指導方針を確認した。ソ同盟における社会主義の勝利の
問題にかんする党の指導方針は、全党員を拘束する党の法則となった。ジノヴィエフとカーメネ
フは、二心をもって、第十四回大会まで党との闘争を延期して、決議に賛成投票した。彼らは、
レニングラードにおける彼らの支持者をかきあつめて、いわゆる「新反対派」を結成した。
 第十四回党大会(一九二五年十二月)は、国の国民経済復興の総決算をおこない、ソ同盟にお
ける社会主義の勝利をめざす闘争が、党の中心任務であることを決議した。大会は工業化が、国
の経済を社会主義的に変革する決定的な環《かん》であることを指示した。第十四回党大会は、
ソ同盟に
おける社会主義建設の可能性を否定したトロツキー主義的=メンシェヴィキ的「新反対
派」の降伏主義的計画を万場一致で否決し、国の社会主義的工業化と社会主義の勝利のための常
の一般方針を確認した。大会の決定にはつぎのようにしめされている。「 ##経済## 建設の領域
では、本大会は、われわれの国、プロレタリアートの独裁の国が、『完全な社会主義を建設しと
げるために必要なすべてのもの』〔レーニン『協同組合について』、邦訳第一三分冊三二一ペー
ジ〕をもっていることから出発する。大会は、ソ同盟における社会主義建設の勝利のための闘争
はわが党の妹本的な任務であると考える。」〔ソ同盟共産党(ボ)決議案、第二部、七版、一九
五三年、七五ページ〕第十四回大会は、新しい党規約を確認した。第十四回大会以来、ロシア共
産党(ボ)は、ソ同盟共産党(ボリシェヴィキ)――ヴェ・カ・ペ(ボ)――とよばれるように
なった。
 大会でうちやぶられたジノヴィエフ派は、党に服従せず、第十四回大会の決定にたいする闘争
を開始した。反対派の犯罪的な、反ボリシェヴィキ的な性格を、レニングラードの党組織に説明
するために、大会代議員の一グループである同志ヴェ・エム・モロトフ、エス・エム・キーロフ、
力・イェ・ヴォロシロフ、エム・イ・カリーニン、ア・ア・アンドレエフーその他が、レニング
ラードに派遣された。レニングラード党組織のメンバーの圧倒的多数の大衆(九七%以上)は、
第十四回党大会の決定を完全に容認し、反党的なジノヴィエフ派の「新反対派」を非難した。
 社会主義的工業化のための闘争の時期(一九二六―二九年)に、ソヴェト人民は、大きな国内
的困難を克服して、新しい技術の基礎のうえに全国民経済を再武装させるに適した重工業の基礎
をつくりだすことを保障した。この緊急な国民経済の課題の解決のために主要な注意がむけられ、
そこに主要な力と資金がむけられた。ツァーリのロシアにはなかったいくたの工業部門が新規に
建設された。大十月社会主義革命の結果、地主や資本家を徴発したことと、生産手段を全国民の
財産にしたことは、工業の発展のための社会主義的蓄積の強力な源泉をつくりだした。国家のあ
らゆる富源を動員したのち、ソヴェト権力は、工業にたいする巨額の投資を保障し、そのことが、
新規の大企業を建設し、古い企業を再建する可能性をあたえた。資本主義諸国は、ソ同盟の社会
主義経済の強化を、資本主義体制の存在にとっての脅威であるとみた。だから、資本主義諸国は、
国際情勢を紛糾させることによって、ソ同盟にたいするスパイ活動と牽制活動を強化することに
よって、国の工業化をありとあらゆる方法で挫折させ、あるいは阻止しようとした。国内では、
トロツキー派、ジノヴィエフ派、その他以前に粉砕された反党グループの残党は、その破壊的・
分裂的な活動をつよめた。一九二六年の夏、彼らは、裏切的、トロツキー派=ジノヴィエフ派反
党ブロックに合同し、反レーニン的・反革命的地下党の基礎をすえ、そうすることによって、分
派の結成を禁じた党規約と党大会の決定に乱暴にも違反した。トロツキー派=ジノヴィエフ派の
ブロックを思想的・組織的に壊滅させなければ、社会主義的工業化の勝利はけっしてえられなか
ったのである。第十五回党協議会(一九二六年十―十一月)と第七回コミンテルン執行委員会拡
大総会(一九二六年十一―十二月)は、その決定のなかで、ブロックの支持者は、メンシェヴィ
キの立場に転落した分裂主義者であるときめつけた。第十五回大会の三ヵ月まえに、党中央委員
会は、全党的な討論を告示した。党は満場一致でブロックの政綱を否認した。トロツキー派とジ
ノヴィエフ派に賛成投票したのは、党員の一%以下であった。一九二七年十一月十四日に、中央
委員会と小央統制委員会の合同会議は、反党的行動のかどでトロツキーとジノヴィエフを党から
除名した。
 軽蔑すべき降伏主義者を粉砕し、しりそげたのち、共産党は、社会主義建設の大業を継続した。
すでに一九二七年の末ごろに、党の政策の決定的な成功が確定した。そのことは、工業の分野に
おける社会主義の勝利がまえもってきまったことを意味した。国の社会主義的工業化は、あらゆ
る国民経済の強力かつ全面的な発歴の基礎をすえ、そのことによって、勤労者の物質的・文化的
生活水準のゆるぎない発展を保障した。農業、とくに穀作農案は、事情が異なっていた。農業全
体としては戦前の水準をこえていたとはいえ、農業の主要部門である穀作農業の生涯総額は、戦
前の水準の九一%を占めるにすぎず、穀物生産額の商業的部分は、かろうじて戦前の水準のほぼ
三七%に達していた。小農経営を、堤業に機械技術と農業技術を適用することのできる社会主義
的大経営に統合する道に立つことが必要であった。
 一九二七年の十二月にひらかれた第十五回全同盟共産党(ボ)大会は、農業の社会主義的発展
の道を決定した。レーニンの協同組合計画から出発して、大会は、農業を集団化し、国民経済の
全部門において社会主義的部門を拡大、強化する任務を党に提起した。第十五回党大会は、コル
ホーズおよびソフホーズ網を拡大する計画をたて、農業の集団化のための闘争方法について明瞭
な指示をあたえた。大会は、富農にたいする攻撃をさらにいっそう発展させること、および農村
での資本主義の発展を抑制し、農民経営を社会主義の方向へみちびく、いくたの新しい方策を採
用した。全戦線にわたって資本主義的要素にたいする社会主義の計画的な攻撃を組織することを
念頭において、大会は、国民経済の発展の第一次五ヵ年計画を作成する指令をあたえた。トロツ
キー派とジノヴィエフ派が、思想的にレーニン主義と縁をきり、国際ブルジョアジーと国内ブル
ジョアジーのまえに降伏する道につき、反ソヴェト闘争の道についたことをみとめたのち、大会
は、トロツキー反対派に所属して、その反対派の見解を宣伝することと、ボリシェヴィキ党の陣
列にとどまることは両立しない、と宣言した。大会は、トロツキーとジノヴィエフの除名にかん
するソ同盟共産党(ボ)中央委員会と中央統制委員会の合同会議の決定を承認し、トロツキー=
ジノヴィエフ派ブロックのすべての積極的な活動分子と、「民主主義的中央集権派」の全グルー
プとを、党から除名することに決定した。党によってイデオロギー的に粉砕され、労働者階級の
あいだにおけるいっさいの基盤をうしなったトロツキー派は、政治的潮流ではなくなり、政治的
ぺてん師の無原則的な立身出世主義的徒党へ、政治的二心者の徒党へ、強化してしまった。
 第十五回大会の決定を遂行しながら、党は富農にたいする決定的な攻撃にうつった。その攻撃
のなかで、党は、貧農にかたく依拠しながら、中農との同盟を強化しつつ、営農にたいして断固
たる闘争をおこなうというスローガンを実行した。富農が公定価格で余剰穀物を国家に売ること
をこばむのにこたえて、党とソヴェト政府は、富農にたいして一連の非常手段を講じ、反抗をう
ちやぶった。
 一九二八年に、ドンバスのシャフチ地域で、帝国主義諸国家と連絡をもった、ブルジョア技術
専門家の大きな妨害者団体が摘発された。党中央委員会は、シャフチ事件から教訓をひきだすよ
う全党組織に提案した。中央委員会の決定によって、高等技術専門学校で青年技術専門家を養成
する仕事が改善された。新しい、ソヴェトのインテリゲンツィアのカードルを養成するために、
数十人の党員や、共産主義青年同盟員や、労働者階級の大業に忠誠な非党員が、学習に動員され
た。
 一九二八―二九年に、党が富農にたいする攻撃にうつるとともに、ブハーリン、ルイコフ、ト
ムスキー、すべての右翼日和見主義グループは、公然と党の政策に反対した。右翼の資本主義復
興者は、富農にたいする非常手段の撤回を要求した。党と人民の警戒をよわめる目的で、右翼日
和見主義者は、激烈な階級闘争によって階級は消滅し、階級敵の抵抗は、社会主義の成果の増大
する程度にしたがって大きくなる、というレーニン主義の有名な命題に反対した。レーニン主義
に反して、彼らは、日和見主義的な「階級闘争消滅理論」を説教した。ブハーリン=ルイコフの
反党的グループが、トロツキー=ジノヴィエフのブロックとちがっていたのは、ただ形のうえだ
けであり、ブハーリン=ルイコフのグループは、その降伏主義的な素顔に仮面をかぶせる可能性
をもたず、公然と、仮面なしに反動勢力を擁護せざるをえなかった、という点である。一九二九
年のはじめに、右翼降伏主義者は、ひそかにトロツキー派とむすびつき、彼らといっしょに反党
的共同闘争のための協定を作成した。党は、イデオロギー的に右翼日和見主義者を粉砕し、党内
における富農の手さきとして彼らをばくろした。一九二九年のソ同盟共産党(ボ)中央委員会十
一月総会は、右翼の見解を宣伝することと、党内にとどまることとは両立しないものとみとめた。
トロツキー主義と右翼日和見主義を粉砕することなしには、ソ同盟で社会主義が勝利する可能性
はなかっただろう。
 内外の敵の攻撃をうまく撃退すると同時に、共産党は、重工業の建設を展開し、ソフホーズと
コルホーズを建設し、社会主義競争を組織し、国民経済第一次五ヵ年計画の採用と実現に必要な
諸条件を準備するために、大活動をおこなった。第十六回ソ同盟共産党(ボ)協議会(一九二九
年四月)は、国民経済発展の第一次五ヵ年計画を採用した。これは、ソ同盟の工業と運輸と農業
を近代技術で装備する雄大な計画であった。協議会は、右翼降伏主義者によって擁護されつつあ
った五ヵ年計画の「最小限」案を否認し、五ヵ年計画の「最上」案を、どんな条件のもとでも実
施すべきものとして採用した。第十六回協議会は、社会主義建設の共産主義国方式である社会主
義競争の展開にかんする全勤労者あての呼びかけを採用した。党の呼びかけにこたえて、労働者
やコルホーズ員は、活動のみごとな模範をしめした。彼らは、党と政府によってたてられた計画
を遂行したばかりではなく、さらに超過遂行した。社会主義競争は、大衆的性格をもっていた。
一九二九年は、社会主義建設のあらゆる戦線における偉大なる転換の年であった。党は、労働の
年産性の分野で決定的な転換をおこなった。社会主義的工業化のもっとも困難な任務の一つであ
る重工業建設のための資金を蓄積する任務は、だいたいにおいて解決された。農業発展の根本的
な転換もおこなわれた。大衆的コルホーズ運動があらしのように発展しはじめ、コルホーズに中
農がはいってぎた。
 農業の集団化をめざす闘争の時期(一九三〇―三四年)に、共産党は、権力獲得後の社会主義
革命のもっとも困難な歴史的任務、すなわち、何百万という所有者的農民経営をコルホーズの道
へ移行させるという任務を実行した。生産関係が生産力の性格にかならず照応するという客観的
経済法則に依拠して、共産党は、農村における古い、ブルジョア的経済体制から、社会主義的コ
ルホーズ体制への移行を実行に移した。
 一九二九年の末に、コルホーズとソフホーズの発展にともなって、党は、富農を抑圧する政策
から、全面的なコルホーズ化にもとづいて階級としての富農を絶滅するという政策へ急角度の転
換をおこなった。このころまでに、ソ同盟には、階級としての富農を絶滅し、富農の生産をコル
ホーズとソフホーズの生産によってとりかえるための物質的基礎ができていた。農業の集団化は、
共産党のそれまでのすべての活動、すなわち、国の社会主義的工業化の徹底的な実行、富農との
断固とした闘争、農業協同組合の成長、最初のコルホーズとソフホーズの経験、労働者階級と農
民の同盟の強化によって準備された。農兼の集団化はへその結果からみて一九一七年の十月の革
命的変革に匹敵する深刻な革命的変革であった。この変革の特異性は、幾百万の農民大衆のがわ
からの下からの広範な支持のもとに、国家権力のイニシアティヴによって、上からおこなわれた
ところにあった。農業の集団化は、社会主義建設の三つの根本問題を解決した。すなわち、もっ
とも数の多い搾取階級である富農階級、すなわち資本主義復活の防塞を絶滅した。国内でもっと
も数の多い勤労者階級としての農民階級を、資本主義の生みだす個人経営の道から、社会主義的
な経営の道へうつした。農業における社会主義の基地をつくりだした。こうすることによって、
資本主義復活の最後の根源は国の内部で絶滅され、社会主義の建設にとって必要な新しい決定的
条件がつくりだされた。農業における古い生産関係を新しい生産関係によってとりかえたことは、
生産力の発展に見通しをあたえ、農業の急速な高揚を可能にした。
 一九三〇年一月五日のソ同盟共産党(ボ)中央委員会の決定、「集団化のテンポとコルホーズ
建設にたいする国家の援助方策とについて」のなかで、コルホーズ制度の勝利にむけられた党の
政策は強化された。決定のなかでは、ソ同盟のいろいろな地区の集団化のいろいろなテンポがき
められ、コルホーズ運動の主要な形態は農業アルテリであるという重要な指令があたえられた。
党中央委員会は、トラクター・コンバイン〔自動刈取打穀機〕、その他の農業機械を生産してい
る工場の建設をさらにいっそう促進することを必要とみとめた。
 集団化の政策を実行しながら、共産党は、党によってきめられた集団化のテンポの破壊、コル
ホーズ建設における自由意志の原則の違反、アルテリをとびこえたコンミューンへの飛躍等々に
あらわれた党の方針の「左翼的」歪曲を克服するための大きな活動をおこなった。これらの歪曲
は、党のとった農業集団化の方針を失敗させるおそれがあり、これらは、ソ同盟にたいするあら
たな干渉の計画をいだいていた帝国主義者とその手さき――右翼日和見主義者とトロツキー派を
有利にした。党中央委員会は、党方針の歪曲にかんする警報に接して、おかした誤りを訂正する
道に党幹部を転換させた。中央委員会の決定によって、イ・ヴェ・スターリンの論文『成功によ
る幻惑』(一九三〇年)が発表された。この論文は、党諸組織をたすけてその誤りを是正させた。
ゆきすぎと誤りを訂正する仕事を徹底させるために、党中央委員会は、一九三〇年三月十五日に、
「コルホーズ運動における党方針の歪曲にたいする闘争について」という決定を発表した。中央
委員会は、「左翼的」ゆきすぎの実践は、階級敵を直接に援助するものであることを指示し、党
方針の歪曲にたいする断固たる闘争をおこなう能力のない活動家、もしくはそうすることを欲し
ない活動家を、その地位から更迭させることを提案した。党は、コルホーズ運動における党方針
の歪曲を絶滅することができ、コルホーズ運動の新しい強力な発展のための地盤がつくりだされ
た。党が階級としての富農を絶滅する政策にうつることによって、資本主義的要素にたいする攻
撃は全般的な性格をおびた。
 第十六回党大会のころには、国内には復興され再建された社会主義工業とソフホーズおよびコ
ルホーズの発展した制度があり、社会主義部門は、全国民経済の経済的槓杆をその手中におさめ
ていた。このことは、ソヴェト同盟が社会主義の時期にはいったことを意味していた。
 一九三〇年の六―七月にひらかれた第十六回ソ同盟共産党(ボ)大会は、全戦線にわたる社会
主義の広範に展開された攻撃の大会として歴史にのった。大会は、社会主義建設の戦闘的テンポ
を今後においても確保し、五ヵ年計画を四ヵ年で成功裡に遂行しおわることを中央委員会に委任
した。工業の分野では、第十六回大会は、重工業を全面的に発展させ、ソ同盟の東部に新しい石
炭・冶金業の基地を創設するといる指令をあたえた。農業の分野では、大会は、コルホーズ建設
をいっそう発展させる必要のあることを指示し、一九三〇年一月五日の中央委員会の決定「集団
化のテンポとコルホーズ建設にたいする国家の援助方策とについて」を承認した。大会は、右翼
的偏向の富農的本質をばくろし、右翼的見解とソ同盟共産党(ボ)に所属していることが両立し
ないことを宣言し、あらゆる毛色の日和見主義ともっとも容赦ない闘争をおこなうよう党によび
かけた。
 第一次五ヵ年計画の遂行は、国民経済の全部門を新しい近代技術の基礎として改造することを
要求した。技術が決定的な意義をもつようになった。党は、「改造期には技術がすべてを決定す
る」というスローガンを提起した。改造期における技術の役割にたいする共産党員=経済活動家
の過小評価、技術の習得の意義の過小評価は、新しい技術を基礎として国民経済を再建する事業
を多くの点でさまたげた。国民総済の全部門への技術の導入とならんで、党は、労働者と農民の
なかから新しい、ソヴェト的な生産技術インテリゲンツィアをつくりだす任務を提起し、生産の
技術的指導の問題にたいして、共産党員=経済活動家に正しい態度をとらせることにつとめた。
農村では、共産党はこの時期に、コルホーズを組織的・経済的・政治的に強化するための闘争、
コルホーズから敵対的・富農的要素を一掃するための闘争を展開した。一九三三年一月に、ソ同
盟共産党(ボ)中央委員会は、機械トラクター・ステーション付属の政治部を組織する決定を採
択した。政治部で活動するための一万七〇〇〇名の党活動家がコルホーズ援助に農村へ派遣され
た。政治部は、二ヵ年(一九三三―三四年)のあいだに、コルホーズを強固にするために大きな
活動をおこなった。コルホーズ員=突撃隊の第一回全ロシア大会(一九三三年二月)は、コルホ
ーズ員大衆の活動力をコルホーズ強化のための闘争にひきあげるのに大きな意義をもっていた。
 大きな困難にうちかちながら、共産党のまわりに結集したソヴェト人民は、四年三ヵ月でそれ
を遂行して、第一次五ヵ年計画を成功裡になしとげた。第一次五ヵ年計画の遂行の成果として、
ソ同盟は農業国から工業国になった。社会主義的緒済体制は、工業における唯一の経済体制とな
り、農業における支配的体制となり、ソ同盟における失業は永久に根絶され、人間による人間の
搾取は根絶され、勤労者の物質的地位の不断の改善と文化的水準の向上のための諸条件がつくり
だされた。第一次五ヵ年計画の総決算は、ソ同盟における社会主義社会の建設が可能であること
を実際にしめした。
 一九三四年の一―二月にひらかれた第十七回ソ同盟共産党(ボ)大会は、勝利者の大会として
歴史に記載された。大会は、経済と文化の全部門にわたる社会主義の決定的成功を強調し、党の
一般方針が完全に勝利したことを確認した。イ・ヴェ・スターリンが大会でおこなった中央委員
会の報告演説のなかで、国民経済の分野と党およびソヴェト建設の分野における今後の具体的な
政綱があたえられた。大会は、思想的=政治的活動を強化し、敵階級およびレーニン主義に敵対
する潮流のイデオロギーとイデオロギーの残りかすを組織的にばくろすることを提案した。党と
政府の決定の実行の点検を改善するために、第十七回大会は、中央統制委員会と労農監督局のか
わりに、ソ同盟共産党(ボ)中央委員会付属党統制委員会とソ同盟人民委員会議付属ソヴェト統
制委員会とを創設した。第十七回大会では、国民経済発展の第二次五ヵ年計画が確認された。そ
れは、資本主義的要素を根こそぎ絶滅し、経済と人間の意識のなかにある資本主義の残りかすを
克服し、最新の技術にもとづいて全国民経済の再建を完成し、新しい技術と新しい企業に習熟し、
農業を機械化し農業の生産性を高めることを党に提起していたソ同盟における社会主義建設を完
成するための計画であった。大会は、新しい党規約を採択した。
 ソヴェト国で社会主義が成功したことは、うちまかされた搾取者階級の残党を憤激させ、これ
らの階級のお先棒であるトロツキー派とブハーリン派のみじめな残党を狂気のようにおこらせた。
一九三三―三四年には、外国の諜報部の仕事をおこなっていたファシズムの雇人であるトロツキ
ー=ブハーリンの地下的な、合同した一味が結成された。一九三四年には、ブルジョアジーのい
やしむべき雇人たちは、共産党およびソヴェト国家のすぐれた活動家であるエス・エム・キーロ
フにたいする兇悪な暗殺を遂行した。中央委員会は、党諸組織に手紙をおくり、政治的不注意を
根絶し、警戒心を高めるよう全党員によびかけた。絶大な意義をもっていたのは、一九三三年か
らはじめられた、異分子の党の陣列からの粛清と、一九三五―三六年の党籍書類の点検と交換で
あった。自分の陣列を粛清し、中央委員会のまわりにさらにいっそう緊密に結束して、共産党は、
新しい段階へ、社会主義社会の建設の完成へ移行した。
 社会主義社会の建設を完成し、ソ同盟の新憲法を施行するための闘争の時期(一九三五―三七
年)に、共産党に指導されたソヴェト人民は、ソ同盟の産業と農業をいっそう高揚させ、第二次
五ヵ年計画を期限前に遂行し、人民の福祉と文化をいっそう高揚させた。新憲法の施行にもとづ
いて、国の全政治生活の民主化がおこなわれた。
 ソ同盟の産業は、一九三七年の末までに、戦前の水準にくらべて七倍以上増大した。生産の技
術と産業発願のテンポにおいて、ソ同盟は、主要な資本主義国を追いこした。国の国民経済には、
第一級の技術が供給されることになった。ソ同盟は、自国の経済と国防の必要にたいしてあらゆ
る必要な技術的装備を保障する、経済的に独立した国にかわった。ソヴェト国家の国防能力はい
ちじるしく増大した。第二次五ヵ年計画が成功裡に遂行された結果、ソ同盟では、ソヴェト社会
の経済的基礎としての、全国民経済における生産手段の社会主義的所有が確立した。人間による
人間の搾取、搾取者と被搾取者への社会の分化を生みだす原因は絶滅された。農業の集団化と再
建は完成され、コルホーズ制度は決定的に確立された。コルホーズ制度の確立を促進したものは、
一九三五年三月のコルホーズ員突繋隊第二回大会で採用された農業アルテリ規約であり、またコ
ルホーズによって開墾されるすべての七地を当該コルホーズの永久の用益として確認したことで
あった。社会主義の勝利の基礎のうえに、ソヴェト社会の強力な原動力である、ソヴェト人民の
道徳的・政治的統一、諸民族の友好、ソヴェト的愛国主義を強化した。国内では、真の文化革命
が遂行され、自国の人民のインテリゲンツィアがつくりだされた。人民の物質的福祉は根本的に
改善された。労働者と事務員の実質賃金は、第二次五ヵ年計画のあいだに二倍以上増加した。普
通義務教育制が施行された結果、人民大衆の文化水準はいちじるしく高まった。新しい技術的基
礎のうえに工業と農業の再建が完成された条件のもとでは、技術を体得したカードルの問題が、
第一義的な意義を得るようになった。党は全組織の注意を、技術を身につける能力のある多数の
カードルを養成するための活動をあらゆる方法で強化するほうにむけた。この第一義的な任務を
解決するうえで大きな意義をもっていたのは、一九三五年に共産党によって提案された「カード
ルがすべてを決定する」というスローガンであった。ソヴェトの人々が新しい技術を習得し、労
働の生産性をいっそう高める明瞭なあらわれは、スタハノフ運動であった。この運動は、社会主
義競争と、自分の技術を完全に習得した新しい人間の競争の、新しい、より高い段階を意味して
いた。生産革新者の運動は、労働者が、社会主義から共産主義へ移行するため、また精神労働と
肉体労働との対立を廃止するために必要な、労働生産性のより高度の指標に到達することのでき
る道をひらいた。
 党およびソヴェト人民の偉大な、歴史的勝利は、一九三六年十二月五日に、第八回ソ同盟臨時
ソヴェト大会で採択されたソ同盟の新憲法のなかで認証された。憲法草案は、イ・ヴェ・スター
リンを議長とする憲法委員会によって作成された。憲法のなかに、ソヴェト人民の生活に生じた
深刻な変化が表現された。
 ソヴェト同盟の人口の階級的構成は変化した。すなわち、すべての搾取階級は絶滅されたので
ある。労働者階級、農民、インテリゲンツィアの地位に深刻な変化が生じた。国家権力をにぎり、
生産手段を社会的所有に変えたプロレタリアートは、ことばの本来の古い意味でのプロレタリア
ートではなくなり、新しい、搾取から解放された労働者階級にかわった。地主と資本家の搾取か
ら解放された農民は、農村におけるソヴェト制度の強固な基盤であるコルホーズ農民になった。
その大多数が労働者や農民の出身であるインテリゲンツィアは、人民に奉仕し、あらゆる搾取か
ら解放されている。選挙制度のいっそうの民主化と、秘密投票による普通・直接・中等の選挙権
の制定へ移行する可能性がつくりだされた。ソ同盟における新憲法の施行は、国の政治的生活の
転換となった。新しい選挙制度は、大衆の政治的活動を強化した。憲法は、ソヴェト同盟が新し
い発展期にはいり、社会主義の建設を完成し、共産主義に漸次的に移行する時期にはいったとい
う、世界史的な意義をもつ事実を認証した。
 ソ同盟の社会主義建設は、ヴェ・イ・レーニンの遺訓を実行したものであり、共産党の偉大な
組織し指導する活動、党の賢明な指導のおかげであり、心を一つにして党の政策を支持している
労働者、農民、インテリゲンツィアの英雄的労働のたまものである。
 新しい条件のもとにおける勤労大衆の政治的指導は、党諸組織の実践活動における民主主義的
中央集権の原則の完全な実行を要求した。ソ同盟最高ソヴェトの選挙のための党組織の準備にか
んする、ソ同盟共産党(ボ)中央委員総会(一九三七年二―三月)の決定は、党諸組織が、展開
された党内民主主義を基礎として党活動をたてなおし、すっかり準備をととのえてむかえるよう
にした。この決定は、選挙カンパニアの発端となった。一九三七年十二月七日に、党中央委員会
は、すべての選挙人あてに、全員一致をもって共産党員および非党員のブロックの候補者に投票
するようよびかけた。新憲法による一九三七年のソ同盟最高ソヴェトの選挙および一九三八年の
同盟共和国の最高ソヴェト選挙は、ソヴェト人民の道徳的=政治的統一のいっそうの発展、労働
者と農民の同盟のいっそうの強化、ソ同盟の諸民族の偉大な友好、ソヴェト国家と社会制度の強
化をしめした。ソヴェト人民は、共産党と非党員ブロックに全員一致で投県し、全世界のまえに、
共産党にたいする献身的な忠誠と党との団結を実証した。ソヴェト憲法は、大きな国際的意義を
もっていた。資本主義諸国の勤労者にとって、ソヴェト憲法は、ブルジョア反動にたいする闘争、
民主主義と社会主義のための闘争の偉大な綱領となった。
 一九三七―三八年には、裁判がおこなわれた。裁判の審理は、トロツキー=ブハーリン派の徒
党の新しい犯罪をあばきだし、人類のこれらのかすどもが、すでに大十月社会主義革命の最初の
ころから、党とその指導者ヴェ・イ・レーニンにたいし、ソヴェト国家にたいして陰謀をたくら
んでいたことをしめした。自分たちの帝国主義の意志を遂行するにあたっては、彼らは、党とソ
ヴェト国家を破壊し、国防を毀《き》損し、外国の干渉を容易にし、ソ同盟を分割し、ソ同盟に
資本主義的奴隷制を復活させることをその目的とした。ソヴェト裁判所は、ソヴェト全人民の意
志をあらわして、ブハーリン=トロツキー派の無頼漢に極刑を宣告した。ソヴェト人民は、ブハ
ーリン=トロツキー派の徒党の壊滅を承認して、さらにいっそう緊密に共産党のまわりに結束し
た。
 戦前の時期(一九三八年―一九四一年六月)に、共産党は、社会主義建設の成功的な完成と共
産主義への漸次的移行のための、国民経済発展の第三次五ヵ年計画の実行のための、ソヴェト人
民の闘争を指導した。党とソヴェト政府は、あらゆる手段をつくして攻勢防禦を強化しつづけた。
 ソ同盟で国民経済の高揚がつづいているとぎに、資本主義諸国では、一九三七年の後半にはじ
まった経済恐慌が、資本主義のあらゆる矛盾を尖鋭化した。経済恐慌は、すでにはじまった帝国
主義戦争の時期に突入した。二つの主要な侵略国家であるドイツと日本は、戦争を勃発させた。
集団的安全の原則を拒否して無干渉の立場に移行したイギリスとフランスの支配グループの政策
は、侵略を鼓舞し、戦争を拡大させ、戦争を世界戦争に転化させることを意味した。この政策は、
アメリカの帝国主義者によって鼓吹された。アメリカの資本家は、数十億ドルに達する借款をド
イツにあたえて、ドイツ経済に巨額の資金を投資した。ドイツが経済的にたちあがるのを援助す
るにあたって、アメリカ合衆国とイギリスは、ソヴェト権力を打倒し、ソ同盟に資本主義を復活
させる目的で、ドイツをソヴェト同盟に敵対させようと考えていた。首尾一貫して平和政策をお
こないながら、共産党とソヴェト政府は、国防能力をいっそう強固にし、赤軍と赤色海軍の戦闘
準備を強化する方策をとった。
 経済的・文化的建設の課題を成功裡に解決し、平和愛好的対外政策を遂行するためのソヴェト
人民の闘争の先頭に立って、共産党は、思想活動を新しい段階に高め、ボリシェヴィズムの習得
にかんするスローガンを提起した。一九三八年に、党中央委員会によって承認された『ソ同盟共
産党(ボリシェヴィキ)小史』が出版された。この書の出版は、ソ同盟共産党の思想生活におけ
る最大の出来事であった。党の思想活動全体の改善にとって大きな意義をもっていたのは、「『
ソ同盟共産党(ボ)小史』の出版に関連する宣伝の決定について」という一九三八年十一月四日
のソ同盟共産党(ボ)中央委員会の決定であった。そのなかで、宣伝活動の内容と方法が決定さ
れた。決定のなかで、『ソ同盟共産党(ボリシェヴィキ)小史』が、ボリシェヴィズムを習得し、
党員をマルクス=レーニン主義理論、すなわち社会発展の法則と政治闘争の知識で武装させるも
っとも重要な手段であり、党員および非党員ボリシェヴィキの政治的警戒心を高める手段であり、
マルクス=レーニン主義の宣伝の仕事を適当な理論的高さにまで高める手段であることが指示さ
れた。決定のなかで、党史は、人物やその伝記についてではなく、マルクス=レーニン主義思想
の発展にもとづいて説明する必要がある、というもっとも重要な指示があたえられ、マルクス=
レーニン主義理論の宣伝形式と方法がさだめられた。ソ同盟共産党(ボ)中央委員会の決定を実
行しながら、党諸組織は、党の宣伝を建てなおし、改善した。
 一九三九年三月にひらかれた第十八回ソ同盟共産党(ボ)大会は、ソヴェト人民の世界史的勝
利の総決算をおこなった。第十八回大会は、社会主義社会の建設をやりとげ、社会主義から共産
主義へと漸次に移行する道へソヴェト社会を前進させる計画をきめた。それは全党の統一と強固
さ、中央委員会をめぐる党の団結の偉大な証明であった。ソ同盟共産党(ボ)中央委員会の活動
にかんするイ・ヴェ・スターリンの報告演説を討議したのち、大会は、中央委員会の政治方針と
実践活動を承認し、全党機関にたいして、報告演説のなかで提案された命題と任務にしたがって
その活動をするよう提案した。対外政策の分野において、大会は、つぎのような党とソヴェト政
府の任務をさだめた。すなわち、平和政策および、すべての国との実務的関係の強化の政策を断
固としておこなうこと。対外政策に用心をおこたらないこと、そして、戦争挑発者が、ソ同盟を
紛争の渦中にひきずりこむのをゆるさないこと。赤色陸軍および赤色海軍の戦闘力を、手段をつ
くして強化すること。諸国民間の平和と友好に関心をもっている、万国の勤労者との国際親善関
係をつよめること、がそれであった。国内政策の分野では、大会は、党とソヴェト人民に主要な
経済的任務をあたえた。すなわち、今後ここ一〇―一五年のうちに、経済関係において主要資本
主義諸国に追いつき、追いこし、労働者、農民、インテリゲンツィアの物質的状態を改善し、文
化水準を高めるために、工業のいっそうの高揚を展開すること。国内の政治生活の民主主義化を
徹底的に実現すること。ソヴェト社会の精神的=政治的統一とソ同盟の諸民族の友好を強化し、
ソヴェト愛国主義を発展させること。資本主義的包囲を心にとめ、社会主義的諜報機関をつよめ、
人民の敵な粉砕すること、がそれである。大会は、党をいっそう強化し、党の構成員を改善する
任務を決定した。党内活動の分野では、カードルの研究、登用、選択、教育、彼らの理論的水準
の向上という任務が大会によって決定された。
 党中央委員会の活動にかんする報告演説のなかで、イ・ヴェ・スターリンは、資本主義諸国家
の発展段階を分析し、歴史的情勢と、ソヴェト人民に課せられた諸任務の変化にともなう国家機
能の変化を分析して、ソヴェト社会主義国家を、あらゆる方法で強化することが必要なことを強
調した。第十八回大会は、一九三八―四二年におけるソ同盟の国民経済発展の第三次五ヵ年計画
を確認した。計画では、工業および農業生産額をいっそう増大し、勤労者の物質的・文化的水準
をいっそう高めることが予定され、国民の消費を一倍半以上高める任務があたえられた。大会は、
社会主義から共産主義へ漸次移行し、共産主義の建設者である人々の意識のなかにある資本主義
の残りかすを克服する場合の勤労者の共産主義的教育の決定的な意義を強調した。ソ同盟共産党
(ボ)の新規的が、大会で確認された。
 第十八回大会の決定にもとづいて、ソヴェト人民は、共産党の指導のもとに、ソ同盟の経済力
と国防力をいっそうつよめるための巨大な活動と、国民経済発展の第三次五ヵ年計画を成功裡に
遂行するための闘争を展開した。第十八回党大会の決定の実行は、国に攻勢防禦の準備をさせ、
ヒトラー・ドイツと帝国主義日本を壊滅させるうえに顕著な役割をはたした。
 共産党とソヴェト政府の正しい対外政策と民族政策は、一九三九年に、西部ウクライナと西部
べロロシアの諸民族を、ポーランドの地主と資本家から解放した。これら諸民族は、ソヴェト・
ウクライナとソヴェト・ベロロシアにふたたび合同して、ソ同盟の自由な諸民族の単一の兄弟の
ような家族に結集した。このように共産党とソヴェト政府は、単一の国家にふたたび合同すると
いう諸民族の長年の希望を実現したのである。一九四〇年の夏、沿バルト海ソヴェト共和国――
リトワニア、ラトヴィア、エストニアが、ソ同盟の構成国になった。アメリカ合衆国、イギリス、
フランスの協力のもとに、フィンランドの反動グループによってしかけられた戦争の終結したの
ちに締結されたフィンランドとの講和条約の結果、北西部のソ同盟の国境は強化され、一九四〇
年には、カレリア自治ソヴェト社会主義共和国はカレロ・フィン・ソヴェト社会主義共和国とあ
らためられた。モルダヴィアとブコヴィナはふたたびソ同盟に合併され、モルダヴィア自治ソヴ
ェト社会主義共和国は、モルダヴィア・ソヴェト社会主義共和国とあらためられた。
 ソヴェト人民は、共産党の指導のもとに、国民経済発展の第三次五ヵ年計画を成功裡に遂行し
た。一九四一年二月に、第十八回全ソ同盟党協議会がひらかれた。党協議会は、社会主義工業と
運輸のいっそうの発展に主要な注意を集中し、一九四〇年度の経済的総決算をおこない、一九四
一年度のソ同盟国民経済発展の計画を審議した。工業と運輸の分野における党諸組織の任務にか
んするゲ・エム・マレンコフの報告にもとづいて、協議会は、大きな成功を強調すると同時に、
工業と運輸における一連の重大な欠陥を指摘し、これらの欠陥の原因をあかるみに出し、それら
をとりのぞく方法をさだめた。協議会は、工業と運輸の必要と利益について最大限の配慮をはら
う面に断固として注意をむけかえる任務を党にあたえた。協議会は、社会主義建設のいっそうの
発展とソヴェト国家の国防力の強化を特徴としていた。一九四一年の二月に、ソ同盟共産党(ボ
)中央委員会と人民委員会議は、銑鉄、鋼鉄、燃料、電力、機械、その他の生産手段、消費物資
の人口ひとりあたりの年産高において主要資本主義国を追いこすという、第十八回党大会によっ
て提起された主要な経済的任務から出発して、一五ヵ年間のソ同盟の一般経済計画の作成にとり
かかることを、ソ同盟国家計画委員会に依頼した。
 党の作成した、国の社会主義的工業化と農業集団化の計画を成功裡に実行した結果、ソヴェト
人民は、戦前の五ヵ年計画の期限前に、ソ同盟をおくれた農業国から強力な工業・コルホーズ国
にかえることができた。一九四一年までに、ソ同盟の強力な経済的基地がつくられた。それは、
国の攻勢防禦に利用することができた。鋼鉄の生産高は、一九二五年から一九四〇年までのあい
だに、約一〇倍増加し、戦前の一九四〇年には、一八三〇万トンに達した。採炭量は一六五二万
トンから一億六六〇〇万トンに増加した。トラクター、自動車、航空機、工作機械、その他のも
っとも重要な工業部門が新設された。
 ソヴェト人民の平和的・創造的な労働は、ソヴェト同盟にたいするヒトラー・ドイツの突然の
背信的な攻撃によって中断された。一九四一年六月二十二日に、ファシスト・ドイツの軍隊は、
ソヴェトの領土に侵入した。平和建設の時期はおわり、ドイツ・ファシストの侵略者にたいする
ソヴェト人民の祖国解放戦争の時期がはじまった。
 ソヴェト同盟の大祖国防衛戦争の時期(一九四一―四五年)に、共産党は、社会主義祖国の自
由と独立を擁護し、大十月社会主義革命の成果を擁護するためにソヴェト人民をたちあがらせ、
敵にたいする世界史的勝利にみちびいた。
 ソヴェト同盟にたいするファシスト・ドイツの戦争は、ドイツ軍にとって有利な条件のもとで
開始された。ファシスト・ドイツは、不意に、背信的にソ同盟を攻撃した。攻撃の瞬間までに、
ドイツ軍は先全に動員され、西欧で戦争をおこなった経験をもっていた。ソ同盟の国境には、フ
ァシストの一七〇個師団が集中されていたが、ソヴェト同盟のほうでは、国境には少数の掩護部
隊しかいなかった。数のうえでまさった敵の勢力と技術の圧迫をうけて、ソヴェト軍は、たたか
いながら国の奥ふかく退却することを余儀なくされた。ソヴェト司令部は、ソヴェト軍の決定的
な反撃準備(一九四一年六月―一九四二年秋)と結合した積極的防禦戦術を実行にうつした。共
産党に指導されるソヴェト政府は、帝国主義的侵略者に抵抗するために、人民を組織した。
 敵に抵抗するために国民の全勢力を急速に動員する目的で、ソ同盟最高ソヴェト幹部会、ソ同
盟共産党(ボ)中央委員会、ソ同盟人民委員会議は一九四一年六月三十日に、イ・ヴェ・スター
リン(議長)、ヴェ・エム・モロトフ(議長代理)、力・イェ・ヴォロシロフ、ゲ・エム・マレ
ンコフを構成員とする国家防衛委員会(ゲ・カ・オ)の創設にかんする決定を採択した。その後、
ア・イ・ミコヤン、エリ・エム・カガノヴィチ、エヌ・ア・ブルガーニンが委員会の構成員にく
わえられた。国家防衛委員会は、国のすべての軍事的・政治的・経済的指導をその手中に統合し
た。党は、軍備に主要な活動をむけ、ゲ・エム・マレンコフ、ヴェ・エム・モロトフ、エヌ・エ
ス・フルシチョフ、カ・イェ・ヴォロシロフ、ア・ア・ジダーノフ、エヌ・ア・ブルガーニン、
エリ・エム・力ガノヴィチ、ア・イ・ミコヤン、ア・ア・アンドレエフ、ア・エス・シチェルバ
コフ、エヌ・エム・シヴェルニク、その他のすぐれた政治家をソヴェト経済の重要な分野の首位
においた。
 党とソヴェト政府によって作成された、ドイツ・ファシストにたいするソヴェト国民の闘争計
画は、一九四一年六月三日に、イ・ヴェ・スターリンの演説のなかで述べられた。イ・ヴェ・ス
ターリンは、ヒトラー・ドイツの犯罪的計画をばくろし、ドイツ・ファシストの侵略者にたいす
るソヴェト国民の戦争が、正義の戦争であり、解放戦争であることをあきらかにし、戦線にたい
する全面的な支援を組織し、銃後を強化することの必要性を指示し、敵の背後におけるパルチザ
ン戦とソヴェト陸軍の軍事行動とを結合するよう国民によびかけた。
 共産党とソヴェト政府は、すべての活動を戦闘体制に再編成する一連の方策を実行し、すべて
を戦線の利益と、敵の撃滅を組織する任務に従属させた。国は単一の戦闘陣営にかえられた。全
産業は、軍需品の生産にきりかえられ、軍需および民需工業のソヴェト同盟東部地区への移転が
組織された。一三〇〇以上の大企業と数百万の人々が、東部に撤収した。国の背後の奥ふかくに、
防衛的意義をもった新しい工場の建設が展開された。運輸は、戦時ダイヤに移行した。農業は、
戦時の困難(数百万のはたらき手の軍隊への動員、トラクター、自動車、馬匹の減少)にもかか
わらず再建され、戦線と国に十分な食糧を供船した。党中央委員会は、工業と農業の活動の根本
的な改善にむけられた、いくたの方策を実行した。ヒトラー軍によるドンバスの一時的占領にと
もなって、クズネッツ炭田とカラガンダ炭田が、工業と運輸への供給にとって決定的な意義をも
つようになった。党は、これらの炭田における採炭の増大を組織するための決定的な方策をとっ
た。一九四二年の九月に、ソ同盟共産党(ボ)中央委員会は、クズバスおよびカラガンダ炭田地
区における党活動の改善にかんする決定をおこなった。中央委員会は、すべての党=大衆活動を
再編成するうえで、採炭の増加が、党諸組織のあらゆる活動のなかで主要なものになるよう、ク
ズバスおよびカラガンダ炭田地区の党組織に援助をあたえた。コルホーズにおける労働規律を高
揚し、農業生産を改善する仕事で大きな役割をはたしたのは、コルホーズ員の最低義務労働日の
ひきあげと、都市および農村の労働可能人口のコルホーズ、ソフホーズ、機械=トラクター・ス
テーションの農業労働への動員順位にかんするソ同盟人民委員会議およびソ同盟共産党(ボ)中
央委員会の決定(一九四二年)であった。共産党およびソヴェト政府の巨大な組織活動と、労働
組合、共産主義青年同盟、その他諸組織の支援の結果、国の経済の戦時体制への移行は、もっと
も短期間に成功裡に実行された。準備され、急速に成長しつつある戦時経済が創設された。それ
は、軍事力を物質的に確保する基礎となり、ヒトラー・ドイツにたいする軍事力の勝利の主要な
条件の一つとなった。戦争末期には、ソヴェト工業は、開戦当初よりも数倍多くの兵器を生産し
た。コルホーズとソフホーズは、間断なく住民とソヴェト軍には食糧を、工業には原料を供給し
た。
 党諸組織は、戦線では英雄的偉業にソヴェト戦士を鼓舞し、戦争の意義と目的を説明し、祖国
にたいする愛と敵にたいする憎悪とをやしなった。共産党員と共産主義青年同盟員は、社会主義
祖国の自由と独立のための献身的な闘士の戦闘に立っていた。ソヴェト軍には、あらたな補充が
おこなわれた。第一線の都市や地方では、国民兵が編成された。党は、敵の背後にパルチザン運
動を組織した。一時敵に占領されたソヴェトの領土では、地下の党および共産主義青年同盟の組
織がつくられ、ソヴェト・パルチザンが行動を開始した。大祖国防衛戦争の時期に、ソヴェト人
民は、よりいっそう共産党とソヴェト政府のまわりに団結し、結集した。
 共産党とソヴェト政府の賢明な対外政策は、第二次世界戦争中に、反ヒトラー連合の創設を確
保した。ヨーロッパとアメリカのさまざまなグループは、ソ同盟にたいするドイツの攻撃にたい
してさまざまな態度をとった。アメリカ合衆国とイギリスの支配グループは、戦争がおわるころ
に、自国の利益になるように世界を再分割するため、ソ同盟とドイツを弱体化させようとした。
米英の支配グループは、ソ同盟に資本主義を復活させ、ソ同盟を自国の植民地に変えようと考え
ていた。イギリスおよびアメリカ国民の圧倒的多数は、ソ同盟の味方であり、ヒトラー・ドイツ
にたいする共同闘争のために、ソ同盟との連合をのぞんでいた。こうした事情によって、アメリ
カ合衆国およびイギリス政府は、英・ソ・米反ファシスト連合を創設しなければならなくなった。
ソヴェト同盟の自由と独立をめざすソヴェト国民の戦争は、独立と民主主義的自由をめざすその
他諸国民の闘争と合流した。ソ同盟を孤立化させようとするヒトラー一味の考えは完全に失敗に
帰した。ドイツ・ファシズムによって奴隷化された諸国民は、ファシストの桎梏から解放される
ことを期待して、ほっと一息つき、ヒトラーが二つの戦線のあいだで頭の骨を折るだろうと判断
した。
 一九四一年の秋ごろには、ソヴェト国にとってとくに困難な事態が生じた。敵は、ウクライナ
の大部分、白ロシア、モルダヴィア、リトワニア、ラトヴィア、エストニア、その他の多くの州
を占領した。十月には、莫大な損害をうけながらもドイツ人は、モスクワ攻撃の血路をひらくこ
とに成功した。首都防衛計画とモスクワ付近におけるドイツ軍の撃滅計画が、ソヴェト総司令部
によって作成され、実行にうつされた。一九四一年十月に、ソヴェト軍は、ドイツ軍に壊滅的な
打撃をあたえ、ドイツ軍を逃走させ、いたるところで四〇〇キロ以上西部に前進した。モスクワ
を包囲し占領しようとするヒトラーの計画は失敗した。モスクワ付近におけるドイツ軍の壊滅は、
戦争第一年目の決定的な軍事的事件であり、第二次世界戦争におけるドイツへの最大の敗北であ
った。ドイツ軍が不敗だという神話は永久にふきとばされてしまった。ドイツ・ファシストのソ
同盟にたいする雷撃戦の計画は完全に失敗した。
 一九四二年の夏、ヨーロッパに第二戦線がないのを利用して、ドイツ人はすべての予備軍をソ
独戦線に投入し、南西部に多数の車隊を集結した。ドイツ・ファシスト軍は、ソヴェトの戦線を
やぶって、スターリングラードに近づくことに成功した。ドイツ軍の目的は、東部からモスクワ
を包囲し、ヴォルガおよびウラルの背後地からモスクワを遮断し、そのあとでモスクワに攻撃を
くわえることにあったが、この目的は、適当なときにソヴェト司令部にみやぶられてしまった。
一九四二年十一月十九日に、ソヴェト軍は、スターリングラード地区で攻勢にうつった。短期間
にソヴェト軍は、三三万人のドイツ侵略者の軍隊を粉砕し、一部を殲滅し、一部を捕虜にした。
これは大戦史上もっとも輝かしい勝利であった。スターリングラードの敗北は、ドイツ・ファシ
スト軍の終末であった。スターリングラードの戦闘の時期に、主導権をその手ににぎった赤軍は、
攻撃作戦をつづけた。ソヴェト国からの敵の大量の追放が開始された。
 一九四三年は、大祖国防衛戦争における根本的な転換であった。クールスク地区でソヴェト軍
を殲滅し、モスクワを攻撃することを目的にしていたドイツ・ファシスト可令部の計画は、崩壊
した。すなわち、ソヴェトは打撃に耐え、やがてみずから攻撃に転じ、一九四三年八月には、オ
リョール、ベルゴロドの諸都市を占領した。クールスク付近の戦闘は、ドイツ軍を破局に瀕せし
めた。パルチザンは、ソヴェト軍に大きな支援をあたえた。パルチザンは、ドイツ人の交通を破
壊し、ファシストの将兵を粉砕しながら、党諸組織の指導のもとに、ドイツ人の背後で積極的に
行動した。一九四三年は、ソヴェト同盟の祖国防衛戦争における転換の年であったばかりではな
く、世界戦争の将来の経過をいっそう変化させてしまった。ソヴェト軍の勝利は、ソ同盟の国際
的地位をさらにいっそう強化した。一九四三年十一月三十八日―十二月一日に、テヘランで連合
三大国――ソ同盟、大英帝国、アメリカ合衆国の指導者会談がおこなわれ、そこで対独戦争にお
ける共同行動と戦後における三大国の協力にかんする宣言が採択された。一九四三年は、ソヴェ
トの銃後の活動においてもまた転換の年であった。一九四三年には、ソ同盟の工業は、一九三九
年の水準を凌駕した。チェリャビンスクとウズベック・ソヴェト社会主義共和国では、新しい冶
金工場が活動を開始し、タギルとマグニトゴルスクでは、新設の熔鉱炉が陣列にくわわり、スタ
ーリンスクでは、新設のアルミニューム工場が活動を開始し、チェリャビンスク、スターリンス
ク、その他の場所では、新設の発電所が活動を開始した。戦博における労働者階級、コルホーズ
農民、ソヴェト・インテリゲンツィアの献身的な努力は、戦線におけるソヴェト戦士の戦功とな
らんで、祖国防衛の比類ない功績として歴史に記戦された。
 共産党とソヴェト政府は、すでに戦時中、ソヴェト軍によって解放された諸地区の国民経済の
復興に大きな注意をはらっていた。一九四三年八月に、ソ同盟人民委員会議とソ同盟共産党(ボ
)中央委員会は、「ドイツ人の占領から解放された諸地区における経済の復興にかんする緊急方
策にかんする」決定を採用した。決定は、ドイツ人の占領から解放された諸地区の経済の急速な
復興の保障と住民にたいする援助にむけられた一連の方策をあらかじめ準備していた。
 一九四三年のソヴェト軍の成功と銃後におけるソヴェト国民の英雄的事業は、大祖国防衛戦争
におけるソヴェト同盟のいっそうの勝利を準備した。一九四四年は、ソヴェト軍の決定的勝利の
年となった。ソヴェト軍隊は、一〇回にわたって敵に壊滅的な打撃をあたえ、その結果ドイツ・
ファシスト軍隊は、ソヴェト国土の境界から駆逐され、軍事的行動は、ドイツとその共犯者の領
土にうつされた。ソヴェト軍の勝利は、ファシスト・ブロックを完全な崩壊にみちびいた。ルー
マニア、ブルガリア、フィンランド、ハンガリアは、ヒトラー・ドイツと手をきり、ヒトラー・
ドイツに宣戦し、連合軍の戦線にくわわった。すでに一九四九年の夏ごろには、ソヴェト同盟は、
大英帝国やアメリカ合衆国の援助がなくても、自力で全ドイツを占領し、フランスの解放を実現
する状態にあることがあきらかだった。この事情は、英・米の帝国主義者をして、一九四四年の
六月に、西欧への侵入をくわだてさせた。しかし、北部フランスに上陸しても、連合国は、ドイ
ツ・ファシスト軍にたいする攻撃作戦はとらなかった。それは、ヒトラー軍の主力が、ソ独戦線
にとどまっていたからである。成功した戦闘行動の結果、一九四四年に、ソヴェトの国土を完全
にドイツ・ファシストの侵略者から解放しおえたソヴェト軍はまた、ルーマニア、ポーランド、
チェコスロヴァキア、ハンガリア、ユーゴスラヴィア、アルバニアの諸国民が、ファシスト奴隷
制の鎖をたちきり、民族の独立を復活するのをたすけた。
 一九四五年一月、ソヴェト軍は、バルト沿岸からカルパチアにいたる全戦線にわたって、かつ
てない強力な打撃を敵にあびせかけた。ドイツ人の強力な防禦は、一、二〇〇キロメートルにわ
たって突破され、ソヴェト軍は、頑強にたたかいながら、ドイツの奥ふかく進撃した。一九四五
年五月二日に、ベルリンは占領され、五月八日に、ドイツは降伏した。ソヴェト政府は、一九四
五年五月九日を全国民の祝典の日――勝利の祝日として布告した。
 一九四五年九月に、ソヴェト軍は、帝国主義日本との戦争を勝利をもっておわった。ソヴェト
軍は満州、南樺太、北朝鮮、千島列島を日本人から解放した。一九四五年九月二日、ロ本の政府
と軍部の代表者は、東京で無条件降伏文書に調印した。第二次世界戦争の終結がおとずれたので
ある。
 ヒトラー・ドイツと帝国主義日本の殲滅に決定的な役割を演じたのは、ソヴェト同盟とその兵
力であった。共産党の指導をうけたソヴェト国民は、その献身的な闘争によって、社会主義と民
主主義の強力な支柱であり基地であり、ファシスト隷属化の脅威からヨーロッパとアジアの諸国
民をすくったソヴェト同盟の自由と独立をまもった。第二次世界戦争の結果、好戦的な国際ファ
シスト反動の主要な勢力は粉砕され、長いあいだには戦列からはなれるにいたった。この点に、
人類にたいするソヴェト国民の偉大な功績がある。
 戦争は、ソヴェト国家のあらゆる物質力と精神力の厳しい試練であり、ソヴェト国家の強固さ
と生命力の点検であった。共産党によって方向をあたえられ、指導されているソヴェト国家は、
よく試錬に耐え、戦争から脱却してますます強固になった。
 大祖国防衛戦争におけるソヴェト同盟の勝利は、ソヴェト社会体制の勝利を意味した。大十月
社会主義革命によって生みだされたソヴェト社会主義体制は、国民に偉大な、うちかちがたい力
をあたえた。ソヴェト同盟の勝利は、ソヴェト国家体制と社会主義多民族国家が勝利したことを
意味した。戦争は、ソヴェト国家の強化にむけられた党の政策の正しさと、レーニン=スターリ
ンの民族政策の正しさとを証明した。ソ同盟の諸民族の友好は、戦争のあらゆる困難と試練に耐
え、ファシスト侵略者にたいする闘争のなかでさらにいっそううちきたえられた。ロシア国民は、
大祖国防衛戦争中に、国のすべての民族のあいだにおけるソヴェト同盟の指導力であることを一
般的にみとめられた。諸民族友好のソヴェト的イデオロギー、全人種と民族の同権のイデオロギ
ーが、残忍な民族主義や人種的憎悪のファシスト的イデオロギーにうちかったのである。したが
って、ソヴェト国民は、ヒトラー・ドイツにたいする軍事的・経済的勝利を得たばかりではなく、
ヒトラー・ドイツに道徳的=政治的敗北をもあたえたのである。祖国防衛戦争中に、ソヴェト社
会の原動力である道徳的=政治的団結、労働者階級と農民の同盟、諸民族の友好、ソヴェト愛国
主義を強化し、きたえた。祖国防衛戦争は、ソヴェト国民が、奇蹟をつくりだし、もっとも困難
な試練に耐えて勝利者となる能力のあることをしめした。ソヴェト人の労働および軍事上の功績
の源泉となったのは、ソヴェト愛国主義であった。その力は、自分の祖国にたいする国民の深い
信服と忠誠にあり、その根底には、全民族の相互の友好、諸民族の民族的伝統とソ同盟の全勤労
者の全般的な生活の利益との調和した結合がある。
 祖国防衛戦争におけるソヴェト同盟の勝利は、ソヴェト兵力の勝利と、先進国なソヴェト軍事
科学の勝利を意味した。党は、ソヴェト軍の指導要員をつくりだす問題をみごとに解決し、戦時
に新しい軍事要員が党によって養成され、抜擢された。軍事要員が先進的軍事科学を習得したこ
とによって、ソヴェト兵力は、ファシスト・ドイツにおびただしい壊滅的敗北をこうむらせ、ヒ
トラー軍とその同盟軍を完全な壊滅にみちびいた。戦争は、ソヴェト軍が、近代的な装備と経験
にとんだ指揮官と高度な道徳的・戦闘的性質とをもった第一級の軍隊であることをしめした。ソ
ヴェト同盟の軍隊は、国民とわかちがたいものである。ソヴェト国民の精神力とその道徳的・政
治的団結は、ソヴェト戦士の軍人としての勇気となってあらわれた。ソヴェト軍は、戦争にたい
する自己の確信と、ヒトラー・ドイツにたいする戦争で、自分の祖国の自由と孤立を擁護してい
るという意識によって強化された。敵撃滅の巨大な功績は、国民の復讐者――ソヴェト・パルチ
ザンのものである。
 ヒトラー・ドイツにたいする戦争で、ソヴェト国民か勝利を得たのは、共産党が、長期間にわ
たって、国にたいして積極的防衛の準備をととのえたおかげである。戦前の時期に、党は、帝国
主義の諜報部の雇人であるトロツキスト、ブハーリン一味、その他の人民の敵の敵対行為をたち
きって、断固として国の工業化と農業の集団化政策を実行に移し、国の生産力をいちじるしく発
展させた。開戦の瞬間までに、ソヴェト同盟は、大体において軍事的要求をみたすに必要な物質
的条件をもっていた。戦争は、資本主義経済にたいする社会主義経済のはかりしれない優越性を
しめした。戦時中ソヴェト同盟は、戦線の需要をみたした、整然とした、急速に発展しつつある
戦時経済をもっていた。戦前の時期に、党の指導をうけて、労働者と農民出身のインテリゲンツ
ィアがつくられ、工業では多数の技師、抜手、熟練工、農業ではコンバイン手、トラクター手、
技手の幹部が養成された。技術的に教育された幹部がいることは、工業を急速に兵器の生産に転
換し、短期間に数百万の軍隊を展開させる可能性を党にあたえた。党は、国内のすべての反ソヴ
ェト勢力をひきつける中心部であったトロツキー=ブハーリン一味の地下活動を壊滅し、党およ
びソヴェト諸組織から国民の敵を一掃することによって、ソ同盟に「第五列」のあらわれるいっ
さいの余地を適時になくし、国を積極的に防衛するために政治的に準備した。
 平和的建設ならびに戦争の時期に、ソヴェト国民を指導する力となり、方向をあたえる力とな
ったのは共産党であった。大祖国防衛戦争中に、党は、ファシスト侵略者にたいする全国民的闘
争の鼓舞者、組織者として行動した。党の組織活動は、ソヴェト人のすべての努力を一つにむす
びつけ、共通の目的にむかわせ、国のすべての勢力と資金を敵撃滅の大業に従属させた。戦時に
は、党はさらにいっそう国民と親密になり、いっそつ緊密に広範な勤労者大衆とむすびついた。
党は、戦線で大きな損害をこうむったが、戦争の期間中に、党の構成人員は、一六〇万人あまり
もふえた。入党してきたものは、ソヴェト陸海軍の戦士の陣列のなかの、労働者階級、コルホー
ズ農民、ソヴェト・インテリゲンツィアの先進的代表者のなかのもっとも強固なソヴェト人たち
である。共産党の統一と団結こそは、大祖国防衛戦争でソヴェト国民が勝利した決定的な条件で
あった。大祖国防衛戦争のもっとも困難な試練の時期に、党は、その陣列内に動揺や不和をしら
ない、単一の戦闘組織として行動した。戦争中に、ソ同盟共産党の団結は、党中央委員会のまわ
りにいっそう強化された。
 戦後の時期(一九四六―五三年)に、共産党は、ソ同盟の国民経済の復興といっそうの発展の
ための、社会主義から共産主義への漸次的移行のための、全世界における平和の維持と諸国民間
の友好の強化のためのソヴェト国民の闘争の先頭に立った。
 第二次化界戦争は、多くの国民と国家の生活を根底からゆすぶり、世界のすがたをかえ、公国
際情勢を本質的に変化させた。第二次世界戦争とファシズムの壊滅の結果、中央ヨーロッパおよ
び南東ヨーロッパの一連の国々が、帝国主義体制から離脱した。ポーランド、チェコスロヴァキ
ア、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリア、アルバニアの諸国民は、ソヴェト同盟の援助をより
どころにして、社会主義社会の建設にとりかかった。外国の桎梏と反動的国民党一味の権力をな
げすてた大中国人民の歴史的勝利は、世界の帝国主義体制に重大な打撃をあたえた。植民地や従
属諸国では、民族解放闘争のあらたな高揚がはじまった。ソ同盟の国際的意義と権威は、はかり
しれないほど増大した。戦争の総決算として、国際舞台における勢力のあらたな配置が形づくら
れた。アメリカ合衆国を先頭とする帝国主義的・反民主主義的陣営と、ソ同盟を先頭とする反帝
国主義的・民主主義的陣営の二つの陣営ができた。第二次世界戦争とその経済的結末のもっとも
重要な成業は、単一の、全体を包含する世界市場の崩壊である。民主主義国・反帝国主義的陣営
の諸国は、経済協力と相互援助をおこなった。この協力の根底には、相互にたすけあい、全般的
な経済的高揚を得たいという衷心からの欲求がある。アメリカ合衆国を先頭とする帝国主義陣営
は、まったく反対の光景を呈している。アメリカ帝国主義は、いまや、諸民族の国際的な搾取者
および征服者として行動しているばかりではなく、他の資本主義諸国の経済を破壊する力となっ
ている。アメリカ合衆国の独占資本は競争相手の弱まりを利用して、戦後、世界資本主義市場の
いちじるしい部分をうばいとった。アメリカ合衆国の侵略政策は、アメリカ=イギリス侵略ブロ
ックのがわかちの新戦争の脅威を生んでいる。
 あらたな世界戦争の脅威が増大するにつれて、すべての国々をとらえた全国民的な平和擁護運
動が展開された。原子兵器の禁止にかんするストックホルム・アピールに五億以上、五大国間の
平和条約の締結要求に六億以上の人々が署名した。諸民族は、平和擁護の大業に着手している。
ソ同盟共産党の指導のもとに、ソヴェト国家によって実行されている一貫した平和政策は、恒久
平和をめざす世界の反動とファシズムとの闘争の大業にたいする、ソ同盟のまわりにすべての進
歩的勢力を結集する大業にたいする巨大な貢献である。
 ソ同盟共産党とソヴェト政府は、第二次世界戦争がおわると、ひきつづき永続的な恒久平和の
確保と国際的協力関係の発展とをめざす対外政策をとっている。戦後、ソ同盟は、自国の武装力
をいちじるしく削減し、中国、朝鮮、ノルウェー、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィア、ブ
ルガリアなど、ファシスト侵略者にたいする作戦の進行中にソヴェト軍が派遣された領域から自
国の軍隊をひきあげた。一九五一年三月十二日に、ソ同盟最高ソヴェトは、平和擁護法を採択し、
戦争宣伝を人類にたいするもっとも重い犯罪であると宣言した。
 国際情勢とソ同盟の国内情勢のいっそうの強化の新しい条件のもとで、共産党は、共産主義建
設という大任務を断行するために、国民の勢力をさらにいっそう結集した。一九四六年二月十日
にひらかれた、戦後最初のソ同盟最高ソヴェトの選挙は、党、ソヴェト政府、国民の団結の強化
のあきらかなデモンストレーションであった。選挙の前夜、一九四六年二月二日に、党中央委員
会は、全選挙人への呼びかけのなかで、共産党員と非党員のブロックという選挙綱領を提案した。
選挙には、選挙への九九・七%が参加した。同盟ソヴェトの党員と非党員のブロックの候補者に
は九九・三四%が投票し、民族ソヴェトの候補者には九九・一七%が投票した。一九四六年のソ
同盟最高ソヴェトの選挙と、一九五〇年の同盟共和国最高ソヴェト、自治共和国最高ソヴェト、
地方ソヴェトの選挙における党員と非党員のブロックの輝かしい勝利は、ソヴェト社会の道徳的
=政治的統一がいっそう強化されたことを意味した。
 ソ同盟最高ソヴェト第一回会議(一九四六年)で、一九四六―五〇年のソ同盟国民経済の復興
と発展の五ヵ年計画にかんする法律が採択された。戦後の第一次五ヵ年計画の主要な任務は、占
領によって損害をうけた国の諸地方を復興し、工業と農業の戦前の水準を回復し、その水準を上
まわることにあった。計画によると、国民大衆の物質的・文化的水準をいっそう高め、国民所得
の水準を戦前に比較して三〇%以上高めることになっていた。ソヴェトの人々は、熱狂して五ヵ
年計画の採択をむかえ、その実行にとりかかった。計画のもっとも重要な任務は、期限前に遂行
された。ソ同盟の工業は、五ヵ年計画を四年三ヵ月で遂行した。農業もあらたな高揚を達成した。
すなわち、一九五〇年には、穀物の総収穫高は、一九四〇年の水準を上まわった。鉄道運輸は、
五ヵ年計画の期間中に、運輸における国民経済の増大しつつある需要をみたした。一九五〇年の
国民所得は、一九四〇年に比較して六四%増加した。勤労者の文化=生活施設にたいする支出は
いちじるしく増大し、住宅建設が広範に展開された。国民経済五ヵ年計画の遂行と、国の経済の
発展において達成された成果は、ソヴェト国家に、強大な発電所、航行用ならびに灌漑用運河の
建設という新しい、重要な国民経済の任務の実行に着手する可能性をあたえた。
 共産党とソヴェト国家は、コルホーズの組織的=経済的強化に大きな注意をはらった。戦後の
最初の数年間に、一連の州では、労働時間のまちがったつかいかた、コルホーズの共有地の占有、
コルホーズ財産の着服、農業アルテリ管理部の民主主義的基礎の破壊となってあらわれた重大な
農業アルテリ規約の違反が生じた。ソ同盟閣僚会議と党中央委員会は、「コルホーズにおける農
業アルテリ規約違反の一掃にかんする諸方策について」(一九四六年九月十九日)という決定の
なかで、規約違反の犯罪的事実を非難し、その事実を、コルホーズの事業にとって有害な、国の
すべての社会主義建設にとって危険なものであるとみとめた。農業アルテリ規約遵守の監督をお
こなう諸方策が、党と政府によって採択された。一九四七年二月に、ソ同盟共産党(ボ)中央委
員会総会は、「戦後における農業高揚の諸方策について」という決定をおこなった。そのなかで
は、農業の早急な復興と高揚の諸方策がしめされていた。農業生産力のいっそうの高揚にとって
大きな意義をもっていたのは、コルホーズの拡大である。一九五〇年一月一日現在の二五万四〇
〇○の小コルホーズに変わって、一九五二年十月までに、国内では九万七〇〇〇の人コルホーズ
があった。農業の分野では、大コルホーズを組織的・経済的に強化するという当面の主要な任務
が党諸組織にあたえられた。党とソヴェト政府は、農業に新しい技術を装備することに大きな注
意をはらった。戦後には機械=トラクター・ステーションには、ディーゼル・エンジンをそなえ
た新式の、いっそう改善されたキャタピラー・トラクター、自走コンバイン、草刈機、甜菜コン
バイン、亜麻コンバイン、棉花採集機、その他の機械類が多数補充された。
 戦後、共産党とソヴェト政府は、ソヴェト国民の物質的・文化的水準を向上させるためにたた
かいつづけた。工業と農業の復興が成功したために、はやくも一九四七年には、食料品や工業製
品の切符制度を廃止し、通貨改革を実施することができるようになった。そのことは、勤労者の
物質的福祉の向上、国民経済のいっそうの復興と発展、ソヴェト国家の力の強化を促進した。ソ
ヴェト国民の福祉が高まっているおもな指標となるのは、国民所得のたえまない増大である。一
九四〇年から一九五一年までに、ソ同盟の国民所得は八三%がた増加した。食料品と工業製品の
固定価格の一貫した引下げ政策は、労働著と事務員の実質賃金の増加と、工業製品を購入するた
めの農民の支出の節減を保障した。一九四七年から一九五三年までのあいだに、六回にわたって
物価の引下げがおこなわれ、その結果、食料品と工粟製品の価格は、一九四七年にくらべて、平
均して半分以下にさかった。保健と教育にたいする国家支出はいちじるしく増加した。保健にた
いする国家支出は、社会保健費からの支出をふくめて、一九四〇年に一一二億ルーブリであった
ものが、一九五一年には二六四億ルーブリにふえた。同じ時期における教育費は、二二五億ルー
ブリから五七三億ルーブリにふえた。
 戦後、国に課せられた共産主義建設の諸任務は、党のあらゆるイデオロギー活動を断固として
強化し、勤労者の共産主義教育を強化することを要求した。ソ同盟共産党は、指導的な党要員《
カードル》およびソヴェト要員のイデオロギー的養成の問題に大きな注意をはらった。この目的
のために、党学校や講習会の網が再組織された。一九四六年に、ソ同盟共産党中央委員会付属の
高級党学校が、共和国、州、地方の党およびソヴェト労働者を養成するための三年制の高級党学
校に再組織された。高級党学校に付属して、主要な活動を中断することなく理論的に党要員を養
成するために、通信部が創設された。共和国、地方、州の中心部には、一七七の二年制の党学校
と、党労働者を
再養成する一年制講習会がひらかれた。一九四六年には、党の中央諸機関、同盟
共和国共産党中央委員会、ソ同盟共産党地方委員会および州委員会の理論的活動家の要員を養成
し、さらにまた、高級学校の教員、科学研究所および科学雑誌の理論的活動家を養成するために、
社会科学アカデミーが創設された。共産党、ソヴェト国民、国際プロレタリアートの思想生活に
おけるもっとも大きな出来事は、ヴェ・イ・レーニン全集第四版とイ・ヴェ・スターリン全集の
出版であった。
 党活動の思想的・政治的活動の高揚にとって大きな意義をもっていたのは、文学と美術の諸問
題にかんする中央委員会の決定である。これらの決定は、ブルジョア・イデオロギーの残りかす
の不断の克服と、あらゆる種類のイデオロギー的歪曲にたいするボリシェヴィキ的非妥協性とに
むけられた。「雑誌『ズヴェズダ』および『レニングラード』について」(一九四六年)、「ド
ラマ劇場の上演目録とその改善方策について」(一九四六年)、「映画『大いなる生活』につい
て」(一九四六年)、「ヴェ・ムラデリの歌劇『偉大な友情』について」(一九四八年)などの
文学および芸術の諸問題にかんする決定のなかで、党中央委員会は、ソヴェト文学と芸術のなか
に、無思想性と非政治性のゆるしがたい事実を強調した。文学の党派性にかんするレーニンの綱
領的指示から出発して、中央委員会は、一連の方策をたてた。その目的は、ブルジョア・イデオ
ロギーの影響を克服し、文学および芸術の多くの働き手に、戦闘的なソヴェト愛国心の優越性を
確認させ、ソヴェト文学と芸術の党派性をつよめることにあった。党中央委員会は、無思想性・
非政治性の説教を非難し、その説教を、ソヴェト文学とは縁のない、ソヴェト国民や国家の利益
にとって有害なものであるときめた。中央委員会は、文学や芸術の働き手は、自分の創作活動に
おいて、ソヴェト国の生活の基盤となっている党の政策にしたがわなければならない、と指示し
た。科学を
いっそう発展させ、党のイデオロギー活動を高めるうえで大きな役割を演じたのは、
哲学討論会(一九四七年)、ヴェ・イ・レーニン記念全ソ農学アカデミー会議における「生物学
の状態について」の討論会、ソ同盟科学アカデミーおよびソ同盟医学アカデミー合同会議(一九
五〇年)におけるイ・べ・パヴロフの学説問題の討論であった。哲学にかんする討論会では、無
原則性、無思想性、ブルジョア哲学にたいする追従の事実がばくろされた。ソ同盟共産党中央委
員会は、これらの欠陥を一掃する方策をたて、マルクス主義哲学の分野における科学的・理論的
活動のいっそうの高揚を促進する万策をたてた。言語学の諸問題にかんする討論会(一九五〇年
)と経済学の諸問題にかんする討論会(一九五一年)には、イ・ヴェ・スターリンが参加し、多
くの問題で、新しい命題と結論によってマルクス=レーニン主義科学を豊富にした。言語学の諸
問題にかんするイ・ヴェ・スターリンの演説は、著書『マルクス主義と言語学の諸問題』となり、
経済学の諸問題にかんする演説は、著書『ソ同盟における社会主義の経済的諸問題』(一九五二
年)と」なった。
 一九九二年十月に、ソ同盟共産党第十九回党大会がひらかれた。大会は、ソヴェト国民の闘争
と勝利の総決算をおこない、共産主義社会へ漸次移行する途上の国の今後の前進計画を明示した。
大会は、党のやぶれることのない一枚岩のような団結力、党と人民のこのうえなく緊密な統一、
ソ同盟の諸民族を共産主義の勝利へとみちびく党の不動の決意をはっきりと立証した。ソ同盟共
産党(ボ)第十九回大会にたいする中央委員会の活動にかんする報告演説のなかで、中央委員会
書記ゲ・エム・マレンコフは、ソヴェト同盟の国際情勢と国内情勢を深く分析し、対外政策およ
び国内政策の分野における党の任務、党をいっそう強化する任務を定式化した。中央委員会の活
動にかんする報告演説にたいして、大会は、党中央委員会の政治方針と実践活動を満場一致で承
認した決定も採択した。
 大会で決定した対外政策の分野での党の任務はつぎのとおりである。新しい戦争の準備と開始
に反対してたたかいをつづけ、平和な強化するために強大な反戦民主戦線を結集し、全世界の平
和擁護者との友好と同結のきずなをつよめ、新戦争にたいするあらゆる準備をねばりづよくばく
ろすること。すべての国との国際的協力と実務関係の促進を今後もとること。中華人氏共和国、
ヨーロッパ人民民主主義諸国、朝鮮民主主義人民共和国、モンゴール人民共和国とのかたい親善
関係を強化発展させること。大会は、ソヴェト国家の防衛力をたゆみなく強化し、どんな侵略者
にたいしても壊滅的な反撃をあたえるよう準備を高めることの必要性をとくに強調した。
 大会は、国内政策の分野における党の具体的な任務をつぎのようにさだめた。ソヴェト同盟の
社会わよび国家制度、その経済力――社会主義工業のいっそうの高揚を実現し、コルホーズ制度
を強化すること――をひたすら強化しつづけること。大会は、労働者階級とコルホーズ農民の同
盟、ソ同盟の諸民族の統一と友好、ソヴェト陸海軍および情報機関をいっそう強化することの必
要性を指示した。大会は、国民経済のあらゆる部門と行政のあらゆる部門で、もっとも厳重な緊
縮体制を実現することの必要性を確認した。大会は、国民経済のあらゆる部門で成功がとげられ
たために、ソヴェト社会生活の物質的・文化的水準がいっそう高まったことを強調して、ソヴェ
ト国民の物質的福祉と文化水準をいっそうたえまなく高めることを、党とソヴェト国家の主要な
任務の一つとして提起した。大会は、社会主義的生産を発展させる目的が、社会のたえず増進し
てゆく物質的・文化的な諸欲望を最大限にみたすように保障することにあると強調した。社会主
義建設の諸任務を成功裡に遂行する目的で、大会は、先進的ソヴェト科学と勤労者の創意をいっ
そう発展させ、社会主義競争をよりひろく展開することが必要であると指示した。
 エム・ゼ・サブーロフの報告にもとづいて、ソ同盟共産党第十九回大会は、ソ同盟国民経済の
あらたな、力づよい向上を決定し、国民の物質的福祉と文化水準のいっそういちじるしい向上を
保障する一九五一年から五五年にわたるソ同盟発展の第五次五ヵ年計画にかんする指令を確認し
た。第五次五ヵ年計画にかんする指令によれば、工業生産額は七〇%、生産手段の生産額は約八
〇%、消費物資の生産額は六五%増加することになっている。農業の分野では、国内で住民のた
めに十分な食糧を、工業のために原料をつくりだす任務があたえられている。第五次五ヵ年計画
にかんする指令として第十九回大会によって提起された諸任務を実行することは、共産主義にむ
かうソ同盟の新しい巨大な第一歩である。
 党をいっそう強化してゆく面で、大会は、党の質的構成を改善すること、すなわち、党と国民
との血でつながったひきはなしかたい結びつきを日常的につよめることが必要であることを指示
した。大会は、党諸組織と全党員に、一貫して党内民主主義を実行し、批判と自己批判をあらゆ
る方法をつくして展開し、それにもとづいて、党諸機関の活動にたいする党員大衆の点検をつよ
め、党と国家の規律をつよめ、要員の選択、配置、教育における党の原則をまもり、党陣列の統
一と一枚岩のような団結力を維持しつよめるという任務を提起した。大会は、党およびソヴェト
要員の思想的・政治的素養とソヴェト人の共産主義教育を系統的に高め、かつ完成することの必
要性を指示した。第十九回大会は、ソ同盟共産党(ボ)規約改正にかんする中央委員会事記エヌ
・エス・フルシチョフの報告を傾聴し、ソヴェト同盟共産党の新規約を確認した。第十九回大

によって確認された規約のなかで、第十八回大会以後、党が蓄積した巨大な系統的経験が一般化
された。規約は、党のすべての組織活動と党員大衆活動を新しい、よりたかい段階にひきあげ、
党員の身分と意義をさらにいっそう高め、党の大業にたいする各党員の責任を高めている。大会
は、党名変更にかんする決定を採択した。第十九回大会以来、党は、ソヴェト同盟共産党(力・
ペ・エス・エス)とよばれている。大会ではまた、「ソヴェト同盟共産党綱領改正にかんする」
決定が採択された。第十九回党大会は、現在の党綱領が採択された第八回党大会(一九一九年)
以後の時期に、国際情勢にも、ソ同盟の社会主義建設の分野にも根本的な変化が生じ、それにと
もなって、綱領の多くの命題と綱領にのべられた党の諸任務は、この時期にはすでに実行にうつ
され、現情勢や党の新しい任務に適応しなくなっていることを確認した。大会は、ソ同盟共産党
綱領改正委員会を選出した。
 第十九回大会は、ソ同盟共産党の巨大な国際的勢力と権威のあきらかなデモンストレーション
であった。大会には、四四ヵ国の兄弟のような共産党わよび労働者党の代表が出席し、そのあい
さつのなかで、国際共産主義運動の前衛としてのソヴェト同盟共産党にたいする万国の共産主義
者のかぎりない信頼と愛情とを表現した。大会の最終日の会議にイ・ヴェ・スターリンが出席し
た。その演説のなかで彼は、一九一七年以後、友党は、その成功が、資本主義の抑圧のもとにく
るしんでいる諸民族の状態を楽にすることを期待して、ソ同盟共産党に世界革命と労働者運動の
「突撃隊」の名称をあたえたことを強調した。ソ同盟共産党は完全にこの期待にそった。イ・ヴ
ェ・スターリンは、資本主義諸国の共産党、労働者党の活動の状態を分析した。
 ソヴェト同盟共産党に鼓舞されたソヴェト国民は、ソ同盟共産党第十九回大会によって提起さ
れた偉大な任務の実行にとりかかった。ソ同盟における共産主義建設の成功は、党とすべてのソ
ヴェト国民をとらえたこのうえもなくひどい損害によってくもらされた。一九五三年三月五日、
軍病ののちに、ソ同盟閣僚会議議長、ソヴェト同盟共産党中央委員会書記イ・ヴェ・スターリン
は死去した。この悲しみの日に、ソヴェト同盟の全国民は、兄弟のように団結して、共産党の経
験にとんだ指導のもとに、いっそう緊密に大家族のなかに結集した。
 一九五三年三月九日に、モスクワの赤い広場で、ヨシフ・ヴィッサリオーノヴィチ・スターリ
ンの葬儀がおこなわれた。ソ同盟閣僚会議議長ゲ・エム・マレンコフは、葬儀における演説のな
かで、共産党中央委員会とソヴェト政府の名において、ソ同盟共産党、党の陣列の団結、党と国
民とのさくことのできない結びつきをいっそうつよめ、社会主義国家を倦むことなく、全面的に
つよめるという任務を提起し、共産主義社会の建設という巨大な任務を実行するために自分の力
を動員するようすべてのロシア人によびかけた。ソ同盟閣僚会議議長第一代理ヴェ・エム・モロ
トフは、葬儀で演説をおこなった。その演説のなかで彼は、ソヴェト政府が、今後も平和を維持
し強化する政策をとるであろうことを強調した。
 民主主義および社会主義陣営の勢力のうごかしがたい成長は、一方では、帝国主義陣営の勢力
をよわめたが、他方では、反動的帝国主義勢力とその代弁者の破壊活動を尖鋭化させた。帝国主
義者は、平和、民主主義、社会主義の国際陣営の成長しつつある力、まず第一に、その陣営の指
導的勢力であるソ同盟の力を破壊しようとしている。国際帝国主義の手先たちは、共産主義者の
仮面をかぶって、破壊的・敵対的行動をとるために党の陣列にはいりこもうとこころみたし、ま
たこころみるであろう。党中央委員会は、ふかく仮面をかぶった、党とソヴェト国民の不倶戴天
の敵、国際帝国主義の雇人――ベリヤとその共犯者の破壊活動をばくろした。ソヴェト法廷は、
これら祖国の裏切者、反ソ・反革命陰謀グループの参加者に死刑の判決をくだした。法廷の判決
は、深甚の満足をもってソヴェト国民にむかえられた。
 一九五三年七月にひらかれたソ同盟共産党中央委員会総会は、党および国家機関のあらゆる環
《かん》における指導を強化する決定を採択し、党の指導力が、集団化されており、結合してお
り、一枚岩のように団結していることを強調した。総会は、革命的警戒心をあらゆる手段をつく
して高める必要のあることを指示した。党および全国民は、最大の満足と一致をもって中央委員
会七月総会の決定に賛成した。ソヴェト国民は、さらにいっそう緊密にソ同盟共産党とソヴェト
政府のまわりに結集した。
 一九五三年の七―八月に、共産党、すべてのソヴェト国民、諸外国の共産党および労働者党は、
ソ同盟共産党の五〇周年(一九〇三―五三年)に注意をはらった。党の五〇周年記念日は、ソ同
盟共産党がやぶれることのない力をもち、党とソヴェト国民が、マルクス=レーニン主義の旗の
もとに緊密に団結していることをしめすあきらかなデモンストレーションとなった。
 社会主義から共産主義への漸次的移行の条件のもとで、共産党と、党の指導もうけるソヴェト、
労働組合および共産青年同盟の諸組織は、国の社会主義経済をいっそう高め、第十九回党大会に
よって決定された諸任務を成功裡に遂行するための闘争にソヴェト国民の創造力を組織している。
共産党およびソヴェト政府の政策は、社会主義経済の根本的基礎である重工業をあらゆる方法で、
さらに発展させることにむけられている。それと同時に、ソ同盟では、重工業の発展で達成され
た成果の基礎のうえに、軽工業および食料品工業の急激な高揚を保障し、あらゆる手段をつくし
て農業の発展を促進するためのあらゆる条件がつくりだされた。共産主義建設の時期に、党は、
勤労者大衆の消費資材を生産している国民経済の諸部門の急速な発展にその努力をむけ、ソヴェ
ト人の不断に増大しつつある物質的・文化的需要を最大限に満足させることにつとめている。
 国の社会主義的国民経済の発展とゆるぎない高揚、勤労者の生活の物質的・文化的水準の向上
にむけられた共産党とソヴェト政府の政策は、第五回ソ同盟最高ソヴェト会議(一九五三年八月
)の決定、一九五三年度ソ同盟国家予算にかんする報告、ソ同盟閣僚会議議長ゲ・エム・マレン
コフの演説のなかにはっきりとあらわされている。
 農業生産力をいっそう発展させ、勤労者の物質的福祉を向上させる事業でもっとも重要な意義
をもっているのは、ソ同盟共産党中央委員会第一書記エヌ・エス・フルシチョフの報告にもとづ
いて採択された。ソ同盟農業のいっそうの発展方策について」というソ同盟共産党中央委員会九
月総会(一九五三年)の決定である。総会は、戦後に達成された農業の成果に注意をはらった。
共産党の指導のもとにつくりだされ、強化されたソ同盟の社会主義農業は、強力な工業・技術基
地をよりどころにしており、世界でもっとも大規模な機械化された農業である。それは、小商品
農民経営、さらにまた大規模資本主義農業生産にたいしてもあらそう余地のない優越性を証明し
た。それと同時に総会は、農業の一連の部門、とくに畜産業の分野、コルホーズにおける労働の
組織、農産物の調達組織における重大な欠陥をあかるみにだした。あらゆるボリシェヴィキ的公
明さをもって、総会では、農業発展のテンポが、工業発展のテンポや住民の消費物資にたいする
需要増大のテンポにたちおくれていることを指示した。
 総会は、二、三年間に、国が住民のためには十分な食糧を、軽工業および食料品工業のために
は原料を入手し、それと同時に、コルホーズ農民大衆により高度な物質的福祉の水準を保障する
任務を提起した。この任務を断行するために、ソ同盟ではあらゆる必要な前提――強力な工業基
地、強化されたコルホーズ、経済建設の全分野で養成された要員――がつくられた。
 総会は、農業経営、コルホーズ、ソフホーズ、農業地区のおくれた諸部門を先進的諸部門の水
準にまで高めることにむけられた一連の大規模な方策を実行することが必要かつ緊急なものとみ
とめた。これらの方策のうちでます第一に関係をもっているのは、社会主義的経済運営の主要な
原則の一つである各企業と、自分の労働支出の結果にたいする社会の各成員の物質的関心の原則
を実行することである。総会の決定は、ヴェ・イ・レーニンのつぎのような指示にしたがった。
共産主義への移行期には、経済は、「直接、熱狂によってではなく、偉大な革命によって生みだ
された熱狂のたすけをかりて、個人的利益のうえに、個人的関心のうえに、経済計算のうえにた
って」建設しなければならない。「さもなければ、――ヴェ・イ・レーニンはさらに指示した―
―諸君は幾百、幾十万という人々を共産主義につれてゆけないだろう。」〔レーニン『十月革命
四周年記念日によせて』、本文庫版『平和のための闘争』一七三ページ所収〕それゆえに、個人
的利益が社会的利益に従属しているばあいに、コルホーズ員の社会的利益と個人的利益をただし
く結合するという農業アルテリ規約のもっとも重要な命題を厳格にまもることは、農業生産を高
揚させる必要な条件である。総会は、農業の全部門のいっそうの機械化にかんする一連の具体的
方策をたてた。総会は、党、ソヴェトおよび農業諸機関のがわからのコルホーズ、ソフホーズ、
機械=トラクター・ステーションの指導を決定的に改善し、農村における党・政治活動をあらゆ
る方法で強化し、熟練した要員《カードル》によってコルホーズとソフホーズを強化することを
提案した。総会
の決定のなかでは、機械=トラクタ・ステーションの活動を改善し、コルホーズ
生産の発展における機械=トラクター・ステーションの役割を強化することの必要性が指示され
た。機械=トラクター・ステーションは、コルホーズ制度の工業的・物質的・技術的基盤であり、
コルホーズ生産の発展における決定的な力であり、社会主義国家のがわからのコルホーズ指導の
支掌点である。総会は、機械=トラクター・ステーション活動の全組織を改善し、熟練した要員
《カードル》で機械=トラクター・ステーションを強化する方策を採用し、すでに一九五四年か
ら玉五年までの期間に、機械=トラクター・ステーションの活動のために六、五〇〇人の機械技
師をさしむけ、一九五四年の春までに、コルホーズにサーヴィスするために一〇万人の農業技師
と動物飼育者をさしむける義務を文化省に負わせた。
 ソ同盟共産党中央委員会総会の決定の遂行は、労働者とコルホーズ農民の破壊しがたい同盟を
強化する事業をさらに一歩すすめたものである。
 最近二、三年間に、ソヴェト国民の物質的福祉をいちじるしく高めるという緊急な任務を実行
しながら、共産党とソヴェト政府は、広範な需要をもつ工業製品および食料品の生産を拡大し、
質を改善するための一連の大規模な方策を実行にうつしている。
 党中央委員会とソヴェト政府は、ソヴェト商業をいっそう発展させる方策をたてた。党は、商
業は社会主義のもとで存在しているし、社会主義社会の成員のあいだに消費物資を分配する主要
な形式としてながくのこるであろうし、その手段によって、勤労者の増大しつつある個人的需要
がみたされるであろう、ということから出発している。党は、国営、協同組合、コルホーズ商業
の高揚を保障することを、すべての党、ソヴェト、労働組合諸機関のもっとも重要な任務の一つ
として提起した。
 党中央委員会とソヴェト政府のこれらの諸方策のなかに、ソヴェト国民の福祉についての配慮
がはっきりとあらわれている。

     4 共産党は共産主義を建設しつつあるソヴエト社会を組織し、鼓舞する力である

 ソ同盟共産党は、英雄的な闘争と困難な試練と世界史的な勝利の栄光の道をすすんできた。共
産党は、ソ同盟におけるただ一つの党である。党は、ソヴェト社会における指導的役割を全一的
にになっている。共産党の指導は、ソヴェト社会制度の強固さ、安定性および国民のすべての成
功の決定的条件である。ソ同盟共産党の主要な任務は、社会主義から共産主義への漸次的移行の
道によって共産主義社会を建設し、社会の物質的・文化的水準を不断に高め、社会の成員を国際
主義と、万国の勤労者との兄弟のような結合の確立の精神で教育し、祖国の敵の侵略行動にたい
するソヴェト祖国の積極的防衛をあらゆる手段によって強化することである。
 ソ同盟には、完全な共産主義社会を樹立するのに必要なすべてのものかととのっている。国の
自然富源は無尽蔵である。ソ同盟は、強大な社会主義工業、全面的に発達した重工業をもってい
る。工業化の方針がとられた第十四回党大会以後の二八年間に、工業生産額は二九倍、鋼鉄は二
一倍、石炭は一九倍、電力は四五倍に、それぞれ増加した。この期間に、以前ロシアになかった
トラクター、航空機、自動車、造船、工作機械製造、その他の新しい工業部門が創設された。ソ
同盟の軽工業および食料品工業は、都市と農村の勤労者の増大してゆく欲望をみたすことができ
る。一九五三年の工業生産額は、戦前の一九四〇年の水準を約二・五倍上まわった。最新の先進
的以術を保障されたソフホーズとコルホーズは、すべての農作物の収量と共有畜産の生産性を急
速に高めることができる。党とソヴェト政府は、生産力を発展させ、社会主義の生産的・技術的
基礎を完成し、ソヴェト社会主義制度のなかにかくれている巨大な能力と予備とを利用し、先進
的技術をより完全に、より有効に利用し、社会主義競争をひろく展開し、労働生産性をさらにい
っそう高め、生産原価をひきさげ、生産品の質を高める任務をもっている。 1
 ソ同盟の共産主義社会を建設しているのは、幾百万のソヴェト国民大衆であるが、その創造力
と創造的事業を組織し方向づけているのは、ソ同盟共産党である。党のあらゆる活動は、マルク
ス=レーニン主義のつぎのような基本的な命題から出発している。「歴史的諸事件の規模が大き
ければ大きいほど、ひろければひろいほど、これらの事件に参加する人の数は多いが、反対に、
われわれがおこなおうとしている改革が底のふかいものであればあるほど、ますますその改革に
関心と意識的な態度とをもたせ、新しい数百万、数千万の人々にこのことの必要性を確信させな
ければならない。」〔レーニン『人民委員会の活動報告』、全集第三一巻四六七ページ〕
 社会主義経済の発展の面でおさめたかずかずの成功は、ソヴェト国民の物質的・文化的水準を
いちじるしく高めた。このことは、国民所得のたえまない増加、生活必需品の系統的値下げ、労
働者、事務員の実質賃金および農民所得の増加としてあらわれている。ソヴェト国家は年をおう
て、住宅建設、保健、国民教育への支出をふやしている。科学、文学、芸術の発展についての党
のたえまない配慮によって、形式は民族的で、内容は社会主義的なソヴェト文化がさかえるよう
になった。
 共産主義社会の建設をめざす闘争の強力な武器は、ソヴェト国家であり、この国家の堅固ない
しずえをさすいたのは偉大なヴェ・イ・レーニンである。共産党は、多民族ソヴェト国家をいっ
そう強固にし、労働者階級と農民の同盟、諸民族の友好をかため、ソ同盟の積極的防衛をあらゆ
る手段によって強化することを自分の任務としている。ソヴェト国家の強化は、愛国的責務であ
り、また何時に、ソ同盟勤労者の神聖な国際的義務でもある。
 その対外政策において、党は、社会主義体制と資本主義体制の二つの体制の長期の共存と、平
和的競争が可能であるというレーニンの教えにもとづいている。干渉軍の主力が粉砕されたのち、
ヴェ・イ・レーニンはつぎのように述べた。「いまや、われわれと通商関係をむすばなければな
らなくなっている資本主義列強とならんで存在できる条件をわれわれは確保した。……われわれ
は、息つぎの時期をもっているばかりではなく、また、資本主義諸国の網のなかでのわれわれの
根本的な国際的存在がかちとられた新しい時期をもっている。」〔レーニン『わが国の内外情勢
と党の任務』、全集第三一巻三八四、三八五ページ〕ソ同盟共産党は社会主義経済制度、社会主
義体制の優越性をかたく信じ、ソヴェト社会主義国家の内部の力と、平和、民主主義、社会主義
の全陣営のたえず増大してゆく力をかたく信じている。ソ同盟共産党は、平和、民主主義および
社会主義の強大な陣営をいっそう強化し、大中国国民、全人民民主主義諸国の勤労者とソヴェト
国民との友好と団結をいっそう強化することを自分の神聖な義務と考えている。
 ソ同盟共産党の半世紀の全歴史は、ヴェ・イ・レーニンのつくった党指導の諸原則および党生
活の基準がこのうえなく主要な意義をもっていることをしめした。党は、党建設のこれらの諸法
則をかならずまもり、党指導の最高原則である指導の集団性、党規約の諸要求を厳格にまもるよ
うおしえている。党は、集団的経験、マルクス=レーニン主義理論の科学的基礎と指導要員の広
範なイニシアティヴに立脚している中央委員会の集団的賢明さのみが、党と国の指導のただしさ、
党の陣列の不動の統一と団結、ソ同盟における共産主義の成功的建設を確保するという原則に立
っている。欠陥との闘いで党内民主主義を展開し、集団的指導を改善する強力な手段は、自己批
判と、とくに下からの批判である。党は、大胆に批判と自己批判を展開して、共産党員と全勤労
者の創造的積極性を発展させ、これらの人々の力を現在の欠陥と困難の克服にむけ、共産主義建
設のあらゆる分野で全般的高揚をかちとりつつある。
 党は、共産党員のマルクス=レーニン的教育にとくに配慮している。党員および党員候補の思
想水準のたえまない向上は、生活のあらゆる分野における党員および党員候補の前衛的役割を高
め、党員大衆の積極性を発展させる決定的条件である。マルクス=レーニン主義理論は、教条《
ドグマ》ではなく、行動の指針であるという原則にたって、党は、共産党員にマルクス=レーニ
ン主義の創造的性格を理解し、個々の公式や引用ではなしに、世界を改造するマルクス=エンゲ
ルス=レーニン=スターリンの必勝の革命的教えの真髄を理解するよう要求している。マルクス
=レーニン主義理論を体得することは、革命運動の新しい経験、新しい命題、結論でこの理論を
ゆたかにすることができ、ふるくなった若干の命題や結論を、新しい歴史的条件に適応した新し
い命題や結論ととりかえるということにとどまらず、この理論を発展させ前進させることができ
ることを意味している。
 社会主義から共産主義への漸次的移行の条件のもとで、非常に大きな意義をもっているのは、
勤労者にたいする共産主義教育である。ソヴェト社会では、人々の意識にのこっている資本主義
の遺習が、まだ完全にとりのぞかれていない。ソ同盟にはまた、資本主義の包囲や、民族主義の
遺習をふくめてのブルジョア的な遺習に感染している人々から、われわれとは縁のない見解、思
想、気分がもちこまれる危険がのこっている。共産党は大衆のあいだの政治・教育活動の全事業
を大々的に改善し、共産主義の大業がかならず勝つという信念や、党や社会主義祖国にたいする
献身的忠誠の精神で、共産主義者や全人民を教育することを自分の任務としている。党は、勤労
者をソヴェト愛国心とソ同盟諸民族のやぶれることのない友好の精神、プロレタリア国際主義の
精神で教育し、万国の勤労者との兄弟のような結合を確立することを自分のもっとも重要な任務
と考えている。党は、ブルジョア民族主義のあらわれや、ブルジョア・イデオロギーと断固とし
てたたかっている。
 党は、ソ同盟共産党の独占的地位、とくに資本主義の包囲という条件のもとでの独占的地位は、
階級敵の陰謀にたいしてたかい革命的警戒心をもつよう義務づけていると考えている。ヴェ・イ
・レーニンがいくたびか警告したように、権力をとっている政党にはいろいろな出世主義者がと
りついており、人民の敵――国際帝国主義の手さきが、破壊的敵対活動をやるために、党のなか
にもぐりこもうとしている。それゆえに、ソ同盟共産党は、共産党員および全勤労者の革命的警
戒心をいっそう高めることは、党諸組織の政治・教育活動の重要な任務であると考えている。
 ソ同盟共産党のこのうえもなくゆたかな経験は、国際共産主義運動および労働運動の遺産であ
る。この経験は、プロレタリア革命の勝利、プロレタリアート独裁の勝利は、日和見主義に毒さ
れない、協調主義者や降伏主義者にたいして和解しない、ブルジョアジーとその国家権力にたい
して革命的なプロレタリアートの革命政党なしにはかちえられないことをおしえている。このよ
うな党は、マルクス=レーニン主義の党であり、プロレタリアートにブルジョアジーとの決定的
な闘争を準備させ、プロレタリア革命の勝利を組織し、プロレタリアートの独裁を強化し、共産
主義の建設を保障することのできる社会革命の党である。ソ同盟共産党は、このような党である。


   ソ同盟共産党大会および協議会年表

ロシア社会民主労働党第一回大会 一八九八年三月一日―三日(十三日―十五日)ミンスク
ロシア社会民主労働党第二回大会 一九〇三年七月十七日(三日B)―八月十日(二十三日)ブ
リュッセルとロンドン
ロシア社会民主労働党第三回大会 一九〇五年四月十二日―二十七日(四月二十五日―五月十日
)ロンドン
ロシアにおける社会民主主義諸組織の協議会 一九〇五年九月七日―九日(二十日―二十二日)
リガ
ロシア社会民主労働党第一回協議会 一九○五年十二月十二日―十七日(二十五日―三十日)タ
ンメルフォルス
ロシア社会民主党第四回(統一期成)大会 一九〇六年四月十日―二十五日(四月二十三日―五
月八日)ストックホルム
ロシア社会民主労働党第二回(第一回全ロシア)協議会 一九〇六年十一月三日―七日(十六日
―二十日)タンメルフォルス
ロシア社会民主労働党第五回(ロンドン)大会 一九○七年四月三十日―五月十九日(五月十三
日―六月一日)ロンドン
ロシア社会民主労働党第三回(第二回全ロシア)協議会 一九〇七年七月二十一日―二十三日(
八月三日―五日)コトカ(フィンランド)
ロシア社会民主労働党第四回(第三回全ロシア)協議会 一九〇七年十一月五日―十二日(十八
日―二十五日)ヘルシングフォルス
ロシア社会民主労働党第五回(一九〇八年全ロシア)協議会 一九〇八年十二月二十一日―二十
七日(一九○九年一月三日―九日)パリ
ロシア社会民主労働党第六回(プラーグ)全ロシア協議会 一九一二年一月五日―十七日(十八
日―三十日)プラーグ
ロシア社会民主労働党(ボ)第七回(四月)全ロシア協議会 一九一七年四月二十四日―二十九
日(五月七日―十二日)ペトログラード
ロシア社会民主労働党(ボ)第六回大会 一九一七年七月二十六日―八月三日(八月八日―十六
日)ペトログラード
ロシア共産党(ボ)第七回大会 一九一八年三月六日―八日ペトログラード
ロシア共産党(ボ)第八回大会 一九一九年三月十八日―二十三日モスクワ
ロシア共産党(ボ)第八回全ロシア協議会 一九一九年十二月二日―四日モスクワ
ロシア共産党(ボ)第九回大会 一九二〇年三月二十九日―四月五日モスクワ
ロシア共産党(ボ)第九回全ロシア協議会 一九二〇年九月二十二日―二十五日モスクワ
ロシア共産党(ボ)第十回大会 一九二一年三月八日―十六日モスクワ
ロシア共産党(ボ)第十回全ロシア協議会 一九二一年五月二十六日―二十八日モスクワ
ロシア共産党(ボ)第十一回全ロシア協議会 一九二一年十二月十九日―二十二日モスクワ
ロシア共産党(ボ)第十一回大会 一九二二年三月二十七日―四月二日モスクワ
ロシア共産党(ボ)第十二回全ロシア協議会 一九二二年八月四日―七日モスクワ
ロシア共産党(ボ)第十二回大会 一九二三年四月十七日―二十五日モスクワ
ロシア共産党(ボ)第十三回協議会 一九二四年一月十六日―十八日モスクワ
ロシア共産党(ボ)第十三回大会 一九二四年五月二十三日―三十一日モスクワ
ロシア共産党(ボ)第十四回協議会 一九二五年四月二十七日―二十九日モスクワ
ソ同盟共産党(ボ)第十四回大会 一九二五年十二月十八日―三十一日モスクワ
ソ同盟共産党(ボ)第十五回協議会 一九二六年十月二十六日―十一月三日モスクワ
ソ同盟共産党(ボ)第十五回大会 一九二七年十二月二日―十九日モスクワ
ソ同盟共産党(ボ)第十六回協議会 一九二九年四月二十三日―二十九日モスクワ
ソ同盟共産党(ボ)第十六回大会 一九三〇年六月二十六日―七月十三日モスクワ
ソ同盟共産党(ボ)第十七回協議会 一九三二年一月三十日―二月四日モスクワ
ソ同盟共産党(ボ)第十七回大会 一九三四年一月二十六日―三月十日モスクワ
ソ同盟共産党(ボ)第十八回大会 一九三九年三月十日―二十一日モスクワ
ソ同盟共産党(ボ)第十八回協議会 一九四一年二月十五日―二十日モスクワ
ソ同盟共産党第十九回大会 一九五二年十月五日―十四日モスクワ