【初心者】スレッド立てる前に質問をPart21【歓迎】

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1日本@名無史さん
分からないことがあるときは、スレッドを立てて聞く前にこのスレで質問してください。
専門的な質問については、各分野の専門スレで聞くほうが、より詳しい説明を得られるかも知れません。
回答に時間がかかったり、回答が得られなかったりしても、怒らないでください。
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日本史 ・ 世界史FAQ
http://www.geocities.jp/magurogyosenn2000/index.html

前スレ
【初心者】スレッド立てる前に質問をPart20【歓迎】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1186467502/

それ以前の過去スレは>>2
2日本@名無史さん:2007/12/03(月) 15:30:24
3日本@名無史さん:2007/12/03(月) 15:59:59
兵衛、左衛門、右衛門のランクはどの順ですか?
4日本@名無史さん:2007/12/03(月) 17:33:29
おらが村の権兵衛と納屋助左衛門と石川五衛門は?
5名無し募集中。。。:2007/12/03(月) 18:31:48
新スレおめっ\(^O^)/
6日本@名無史さん:2007/12/03(月) 18:46:43
期末テストの予想問題がわかりません
どなたか教えてくれませんか?
1、16世紀前半に中国・朝鮮から伝わった、石見銀山で最初に試された銀の製錬法をなんというか答えなさい
2、16世紀前半に民の治水技術を生かして築かれた、甲斐国にある窯無川の堤防をなんというか答えなさい
3、越前国を主な勢力範囲とした戦国大名の名字を答えなさい
4、織田信長が築いた安土城の天守閣は、主にどのような時に使われたのか答えなさい
5、豊臣秀吉が朝鮮侵略を行った理由を2つ答えなさい
7日本@名無史さん:2007/12/03(月) 23:01:38
1
飛鳥時代の官営工房、奈良県明日香村の飛鳥池遺跡(7世紀後半〜8世紀初め)で、銀の純度を上げるため、
「灰吹(はいふき)法」と呼ばれる精錬技術が使われていたことが、奈良文化財研究所の分析調査でわかった。
最古とされていた世界遺産登録が決まった石見銀山(島根県)の使用例を900年近くさかのぼる国内最古の例で、
古代の金工技術の水準の高さを裏付ける資料となる。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is70629a.htm

2
民→明?
窯無川→釜無川?

3
朝倉

4
出題者の主観(思い込み)に基づく質問には答えようが無い

5
何故2つに限定できるのか此方が知りたい(苦笑
8日本@名無史さん:2007/12/04(火) 00:43:49
教師のイデオロギーに沿った解答をしておくとよいw
9日本@名無史さん:2007/12/04(火) 22:53:05
近代史板の質問スレ
【初心者】初心者はまずここで質問をPart2【歓迎】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history2/1188651343
10日本@名無史さん:2007/12/05(水) 02:19:48
>>3
官位相当表においては、兵衛と衛門に位階の差はない。
あと兵衛にも衛門と同様、左と右があるからな。
11日本@名無史さん:2007/12/05(水) 04:57:44
>>9
近代以降の日本史についての質問はそっちのスレで、という但し書きを>>1
入れたほうがよかったかもね。
12日本@名無史さん:2007/12/06(木) 00:56:13
武田信玄が家来、馬場信春を討ったとされる人物・岡三郎左衛門は誰の家来で、またどのような役職だったのでしょうか?
13日本@名無史さん:2007/12/07(金) 00:32:58
>>6
専門性の高い学問板でくだらない質問してんじゃねーよ
ここはガキの来るところじゃねんだ
14日本@名無史さん:2007/12/07(金) 15:33:10
>>13
まあまあ、そんなに冷たく突き放さなくても・・・。

>>6
受験・勉強としての日本史なら下記スレで聞くのが妥当。

大学受験板「日本史総合スレpart5」
http://ex23.2ch.net/test/read.cgi/kouri/1194651060/
15日本@名無史さん:2007/12/07(金) 15:54:35
内記と外記ってどっちが上ですか?
16日本@名無史さん:2007/12/07(金) 18:20:34
>>10
左兵衛=左武衛
右兵衛=右武衛
左衛門=左金吾
右衛門=右金吾
17日本@名無史さん:2007/12/08(土) 00:53:39
邪馬台国の人々は刺青だらけだったらしいんですけど、
18日本@名無史さん:2007/12/08(土) 00:54:28
誤爆
19日本@名無史さん:2007/12/08(土) 02:09:43
>>16
左近衛=左羽林
右近衛=右羽林
なのか?
20日本@名無史さん:2007/12/08(土) 04:16:26
平安期以降、辛酉の年と甲子の年には改元するのが通例になっていたと思うのですが、
1561年(永禄4年)辛酉、1564年(永禄7年)甲子、1621年(元和7年)辛酉に
改元が行われなかったのは何故でしょうか?

南北朝期の南朝でも辛酉と甲子の改元はちゃんと行っていることを考えると、
朝廷の財政状況というわけではないように思えるのですが。
21日本@名無史さん:2007/12/08(土) 04:26:01
>>9
リンクに追加

世界史板の質問スレ
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1195490763/
22日本@名無史さん:2007/12/08(土) 07:21:13
23日本@名無史さん:2007/12/08(土) 10:31:15
あたかも大和朝廷という表記は正しくないかのような書き方だが、
なぜ学習指導要領で定めているものをこのように書いているのだろうか?
自分の印象では、大和朝廷→大和政権→大和王権→ヤマト政権のように
表記が変わっているように思うが、なぜころころ呼び名を変えているのか?
そのとき歴史が動いたの継体天皇の回では、ヤマト政権と合わせるためか、
他の地名は漢字で大和地方だけヤマトなどと表示していたが、あきらかに
不自然。ヤマトだけカタカナにしないといけない特別な理由でもあるのか?
天皇あるいは朝廷を過小評価したくてたまらない左翼がなにか画策している
ように見えてしょうがないのだが。

1970年代より以前は大和朝廷と呼ばれることが多かったが、「大和」という表記は
奈良時代以降のものであるとともにこの政治勢力を説明するには「朝廷」という用語
は適当でないとされ、1980年代以降はヤマト王権の呼称が一般的となっている。
しかし、必ずしもこの呼称が定着したわけではなく大和政権、ヤマト政権、倭国政権、
倭王権などの呼称を用いる研究者も少なくない。日本の学習指導要領は大和朝廷を
採用している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%88%E7%8E%8B%E6%A8%A9
24日本@名無史さん:2007/12/08(土) 11:33:29
はじめまして。漁師の歴史について知りたいです

これまで日本史に学んできたのは農家ばかりで
いまいち漁師の事が良くわかりません。

・漁師の起源
・漁師の身分
・戦時中の漁師は仕事をしていたのか(第二次)

あと、歴史関係のドラマで砂浜のシーンを見る事があまりありません。 江戸時代やそれ以前の時代の人達は砂浜で海を眺めながらデートしたりしなかったのでしょうか
25日本@名無史さん:2007/12/08(土) 11:46:04
>>24
>江戸時代やそれ以前の時代の人達は砂浜で海を眺めながらデートしたりしなかったのでしょうか

出会って気が合えば即、君とガッタイガッタイ ですよ。
砂丘へ行っても、ガッタイガッタイ です。
みんな現代より奔放でしたから。
26日本@名無史さん:2007/12/08(土) 12:08:13
戦時中の国民生活について、教科書に「国民1人1日当りのエネルギー摂取量は1942年に2000キロカロリーを割り、1945年には1793キロカロリーまで低下した」と記載されています。
私にとっては衝撃、驚きでした。もっと低いと思っていた。1日1800キロカロリーって、結構高いと思うんですが…(私的には)
しかも当時は穀物ばっかりだったんですよね?なのにそんなにカロリーを摂取できたのはどうして?そして、この数字はやはり「低い」ものなのでしょうか。

詳しい方の見解を聞かせてください。
27日本@名無史さん:2007/12/08(土) 12:26:02
>>26
>1日1800キロカロリーって、結構高いと思うんですが…(私的には)
ダイエットの普及により、カロリーに敏感になった私たちにとっては高く感じますよね。
28日本@名無史さん:2007/12/08(土) 13:40:48
>>26
俺は6000キロカロリーほど摂取しているけど?
29日本@名無しさん:2007/12/08(土) 14:07:02
>>26
こんなにカロリーを摂取できた理由ですが、やはり炭水化物での摂取以外には考えられません。
『国民栄養調査』などのデータによると、終戦頃の摂取脂肪量はカロリー比でわずか数%。
(現在は20%超)畜産物の生産は昭和期で戦争前後の頃が最低。

エネルギー量自体は低いとはいえませんね。
でもそれは、あくまで現代の成人にとってはの話です。

にもかかわらず、戦時食料が不足していたと言われていた理由は

・労働年齢、特に肉体労働者や若年者の生活活動強度が勤労奉仕や教練などで更に高くなったこと
・(輸送中の損失、運輸インフラの破壊などでの)流通が滞ったこと
・もともとの脂肪や蛋白質摂取比の低さも相まって、学童の体格(身長など)が低下したこと
・食料統制が与えた欠乏感

などでしょうね。
30日本@名無史さん:2007/12/08(土) 17:56:18
>>26
消費カロリーといっても、居住する環境や職業(軍人なんかは優遇されていると思う)で違うでしょう。
実際の摂取量を全国で調査なんてできないと思うので
国が支給すると決めた国民一人あたりの量を基にした、机上の数値じゃないでしょうか。

で、輸送時に被害を受けたり、遅配・物資の偏在で、計画通りには全国の国民に行き渡らなかったのではないかな。

31日本@名無史さん:2007/12/08(土) 18:36:42
>>25
ええ!意外です
ご回答ありがとうございます。
では日本において純潔教育というか貞操を守るといった考えが根付いたのは戦後からでしょうか?
また昔の方は奔放だったとありますが男女間での意識や見られ方の違いはあったのでしょうか
ご教授お願い致します
32日本@名無史さん:2007/12/08(土) 18:46:30
戦後の食糧不足って輸送インフラの破壊が原因じゃないの?
現に田舎に買いだしに行ければ食料はあったわけだし。
33日本@名無史さん:2007/12/08(土) 18:55:28
>>31
民俗・神話板のほうが詳しい話を聞けるような気はしますが。

フロイスだったかな、戦国時代だと女性は離婚・再婚について全然気にしていないのでびっくりしたと記録を書いている。
(離婚ダメなカトリックの人ですからね)

あとは、江戸時代は一般の銭湯でも混浴が普通だったり、田舎だと夜這いとか(これは戦前までは残ってた習俗のようですが)あって
現代からすると、おおらかだったイメージはあります。

純潔とか貞操にうるさいのは江戸時代の武家あたりからでは。
で、全国民的にうるさくなったのは明治以降。

風呂の混浴が基本的にNGになったのは、明治政府が「外国からみると野蛮な習慣で恥ずかしい」とか言い出したからだったような。
34日本@名無史さん:2007/12/08(土) 19:19:24
田舎だと、夜ばいは昭和20年代にも普通にあったな。
35日本@名無史さん:2007/12/09(日) 01:36:16
夜這いがらみの末のおとろしい事件もあったな
3623:2007/12/09(日) 11:27:49
>>23への回答はいただけませんか?
37日本@名無史さん:2007/12/09(日) 21:19:21
素人です。
663年の白村江の戦いで唐と戦った倭国は、
なぜ遣唐使を送り続けてるのですか?
殺されちゃったりしないんですか?
38日本@名無史さん:2007/12/09(日) 22:08:43
>>26-30
板違いです。以下のスレでどうぞ。

近代史板の質問スレ
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history2/1188651343/
39日本@名無史さん:2007/12/09(日) 22:58:46
>>37
敵対国であっても外交使節を簡単に殺したりはしません。
入国を拒否したり追い出すことはあっても。

例えば太平洋戦争勃発のときに、
日本国内にいたアメリカの外交官は殺されましたか?
アメリカ国内にいた日本の外交官は殺されましたか?
40日本@名無史さん:2007/12/10(月) 03:00:06
>>31
社会階層によって大きく違う。
儒教的な道徳は、近世の武士社会にはある程度根付いていても、もっと下の
庶民にとってはハァ?だろう。
明治〜戦前の道徳教育は、要は近世に武士社会で一般的だったことを
庶民末端まで押し付けたものだが、そこにはかなりの無理を伴った。

現代で考えても、例えば中卒ドキュソに倫理とか道徳なんて説くだけ無駄という
ことはよく分かるだろう。
41日本@名無史さん:2007/12/10(月) 04:46:58
42日本@名無史さん:2007/12/10(月) 10:20:23
>>40
学校行ってない人に倫理や道徳は通じなくても、
お墓やお地蔵さんなどのヒトが大事にしているものを粗末にしてはいけないとか、
お天道さんに顔向けできないをしてはいけないとかは、
理解されていたように思うヨ。
下手に高等教育を受けている方がそういうのは論理的でないとか言って
悪行三昧するように思う。

先般も、事務次官夫婦はひどいことをしたような報道があった。
頭で分かっても身に付かないというのは、情けない。
43日本@名無史さん:2007/12/10(月) 10:45:52
>>37
百済の滅亡により多くの百済人が日本にやってきて重職につきます。
彼らの目的は新羅を倒して朝鮮に帰国したいと言う希望がありました。
それでは朝鮮半島の情勢はと言えば、668年高句麗が滅び新羅が半島を統一すると、
共通の敵がいなくなった唐と新羅は別の目論見を持ちます。
新羅は中国の影響力を脱して完全に独立したいと思い、
唐は新羅を完全に属国にしたいと考えた。
こうした情勢を読んだ天智天皇と取り巻きの百済難民は、
唐と誼を通じて新羅に圧力を掛け続け、
あわよくば再度海を渡って新羅を滅ぼそうと考えます。
勿論、唐も日本に対して新羅挟撃を提案。
その為、今までの唐に対する対立外交を改めると共に、
対新羅の相談のため遣唐使を送り続けました。
なお次代の天武天皇が外交方針を変え、新羅と仲良くすることで、
唐との緩衝帯を作ろうとして、遣唐使の派遣を中止するまで続きます。
使者、外交使節は>>39で述べられている様に、
不殺が基本となっています。
44日本@名無史さん:2007/12/10(月) 11:10:35
上杉謙信は関東管領就任式の際、成田長泰を殴打した事件で教養がなかった人物と
書かれたものがありました。
成田の家柄を知らなかったことは、一介の大名としてどのくらい恥ずかしいことだったのでしょうか?
45日本@名無史さん:2007/12/10(月) 14:56:10
>>44
それは以前にこっちで出ていた。

大河ドラマ板質問スレ
http://live27.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1192446934/
46日本@名無史さん:2007/12/10(月) 15:01:01
>>42
生物としての本能の自制という点では、育ちの良い高い階層ほど自制が効くような気もするが。
下層民は躾がなってないからね。
47日本@名無史さん:2007/12/10(月) 15:54:26
>>37
世界史板の質問スレでも同じような質問を見たぞw
4842:2007/12/10(月) 22:47:59
>>46
学校に行ってない人の話をしているんだが、そういう人は下層民と同じこと
と言いたそうに見える。
49日本@名無史さん:2007/12/10(月) 23:15:20
実際似たようなもんだろ。
50日本@名無史さん:2007/12/11(火) 01:59:38
>>14
>まあまあ、そんなに冷たく突き放さなくても・・・。

お前みたいな甘ちゃんがいるから
板が低レベル化するんだよ
51日本@名無史さん:2007/12/11(火) 03:36:41
冷たく突き放すと展開次第ではスレが荒れる原因になりかねないから、
穏便に誘導したほうが上策。
52日本@名無史さん:2007/12/11(火) 14:55:14
>>51
俺も同意。どうもこのスレはギスギスしている感がつよいな。
穏便な対応が出来ないというのもレベルが低い証拠のようなもんだ。
53日本@名無史さん:2007/12/11(火) 15:53:44
受験板・大河ドラマ板へのリンクを>>1に入れておけばよかったかな?
54日本@名無史さん:2007/12/11(火) 16:10:36
おすすめ2ちゃんねる が見事に質問スレだらけだ
55日本@名無史さん:2007/12/11(火) 16:33:17
こんちわ。日本史板初めて来ました。スレタイ見てるだけで面白いです。
えーと質問させてください。

日本史上での、「裏切り」事件を教えてください。

大学受験は世界史だったんですが、世界史上に裏切り者はたくさんいます。
それと比べて日本史では裏切り者は相対的に(むしろ絶対的に?)少ないという印象があります。
いま少し調べてみましたが、いわゆる戦国時代周辺の話しか見つけられませんでした。
一般人で思いつくのは明智光秀だけって言っても問題ないのではないでしょうか?

そこで歴史にたいへん造詣の深いこちらの住民の方にお聞きしようと思ったわけです。
お暇な方いらっしゃいましたら、少し知識を分けていただければ嬉しいです。
どうぞよろしくお願いします。
56日本@名無史さん:2007/12/11(火) 16:38:33
57日本@名無史さん:2007/12/11(火) 17:31:56
糸割符制度で糸割符仲間が輸入生糸の価格を決め、その価格で輸入生糸を一括購入しましたが、
それでポルトガルが打撃を受けたのはどうしてですか?
58日本@名無史さん:2007/12/11(火) 18:51:29
>>56
ちょっ、『謀反人とされた著名人』に加藤紘一ってw
59日本@名無史さん:2007/12/11(火) 18:53:26
質問です
大日本帝国の食料自給率ってどの位あったんでしょうか
今の日本と変わらないくらいなんでしょうか
お願いいたします
60日本@名無史さん:2007/12/11(火) 18:54:24
時期書くの忘れてました
開戦前です
61日本@名無史さん:2007/12/11(火) 19:01:50
>>59-60
誘導

日本近代史板の質問スレ
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history2/1188651343/
62日本@名無史さん:2007/12/11(火) 19:09:37
>>56
「当今御謀叛」と似たような言葉に「公儀御逆心」があるな。
これは足利義昭と織田信長が決裂した後、信長が義昭のことをいった言葉だが。
63日本@名無史さん:2007/12/11(火) 20:09:30
>>58
〔加藤の乱〕は十二分に謀反だろw
64日本@名無史さん:2007/12/11(火) 21:38:12
足利義尚は義政のホントの子なんでしょうか?
65日本@名無史さん:2007/12/11(火) 21:45:35
義政じゃなきゃ誰なんだ?w
66日本@名無史さん:2007/12/11(火) 22:35:07
男には女の腹の中にいる子が本当は誰の子供なのか分かりません。
67日本@名無史さん:2007/12/11(火) 23:33:58
平安〜鎌倉〜室町時代の日本の人口ってどれくらいと推定されていますか?

奈良時代の人口については560万というある程度信用できる数字があります。
江戸以降はある程度の統計があります。
が、その間については聞かないのでふと疑問に思いました。
日本史上、人口が急減したこととか無いんですか?
68日本@名無史さん:2007/12/12(水) 01:14:27
華族廃止論者っていたの?
共産主義者除いて
69日本@名無史さん:2007/12/12(水) 02:05:15
>>68
誘導

日本近代史板の質問スレ
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history2/1188651343/
70日本@名無史さん:2007/12/12(水) 08:45:46
>>64
義尚は日野富子と後土御門天皇の子であるとかいう説?
富子と天皇に変な噂が立つのは義尚誕生の微妙に後だけどね・・・
7155:2007/12/12(水) 17:08:14
>>56さん どうもありがとうございます。

一通り読んでみましたが、どうでしょう、
「裏切り者」と呼ぶには全体的に少し弱い気がしませんか?
部下の謀反は、もちろん主君にとっては裏切りだとは思いますが、
なんなんですかね、敵に寝返った訳じゃないからですかね?
どの人も、それなりの「理由」を持っているというか、
少なくとも本人は「筋は通した」と主張するように思えます。

やっぱり言語の異なる他民族との抗争と、
国内での勢力争いのみってことの差でしょうかね?
日本史であんまり「悪人」っていませんよね。
ちょっと調べてみましたけど、「私は好きじゃない」ってレベルですね。
徳川綱吉の評価とかも変わってきてるとか、ぜんぜん知りませんでした。
こーゆーの調べるのはやっぱり面白いですね。
72日本@名無史さん:2007/12/12(水) 18:04:47
>>71
幕末の藤堂家とか島津家でいいんじゃね?
先祖の藤堂高虎は、別に裏切りってことではないと思うけど。

後は、小早川秀秋とか。
73日本@名無史さん:2007/12/12(水) 18:33:06
>>55,71さん
ある勢力から別の勢力に鞍替えした事例募集ってことでしょうかね。

・楠木正儀
・前田利家(賤ヶ岳にて)
・石川数正
・小早川秀秋

この辺しか思い浮かばないなぁ。
74日本@名無史さん:2007/12/12(水) 21:43:48
>>71
寝返りの事例が知りたいなら初めからそうと(ry

まあ日本史でも動乱期なら寝返りの事例は事欠かないけどそのうち幾つか挙げると

壇ノ浦の戦い、箱根・竹ノ下の戦い、多々良ヶ浜の戦い、関が原、鳥羽・伏見の戦い、北越戦争

このあたりを調べてみたらいいのでは?
75日本@名無史さん:2007/12/12(水) 22:18:19
永禄4年当時の、浅野又右衛門長勝、杉原助左衛門定利、木下藤吉郎秀吉のそれぞれの禄高を教えて下さい。
76日本@名無史さん:2007/12/13(木) 00:59:09
どうせ日本人は裏切りはしないとか信じてるバカウヨだろ、質問者は。
バカウヨは学もないくせに
どうして学問板にのこのこやってくるのかな?
77日本@名無史さん:2007/12/13(木) 01:44:29
>>73
今大河でやっているやつなら、大熊朝秀とかもかな?
78日本@名無史さん:2007/12/13(木) 01:45:50
>>75
何故に永禄4年?

てゆうかその時期の彼らの知行高って分かるのか?
79日本@名無史さん:2007/12/13(木) 10:00:26
>>78
>何故に永禄4年?
秀吉と寧子が結婚した年だから。

>てゆうかその時期の彼らの知行高って分かるのか?
さぁ? ここの人なら分かるかと思って聞いたし、わからなければ、それは判明していないことだろうから、諦められる。
80日本@名無史さん:2007/12/13(木) 10:31:48
戦国時代で、仲の良い兄弟って誰がいますか?
パッと思いつくのは、豊臣秀吉−秀長兄弟、武田信玄−信繁兄弟、真田信之−信繁兄弟ですが。
81日本@名無史さん:2007/12/13(木) 11:06:46
平安〜鎌倉時代あたりの小説や随筆はどのように発表され、又読まれていたのでしょう?
例えば源氏物語なら、
紫式部が何章か書く → 同僚に見せる → 好評&続きキボンヌ →手書きコピー出回る
みたいな感じだったのでしょうか?

あるいは土佐日記で
紀貫之書く→うちのOLさんの日記面白いよと同僚に見せる → 好評 → ネカマ死ね!
みたいなことがあったのか?

徒然草や○○日記の類はどこかに連載されていたのか?あるいは書き溜めていたのが
死後発見されて評価されたのか?鴨長明失言で炎上!とかなかったのか?

よろしくお願いいたします。
82まい:2007/12/13(木) 13:03:03
お聞きしたいのですが、19世紀初め頃、アメリカに移民していた日本人は、階級的にはどのくらいの人たちだったんですか?
教えてください。
83日本@名無史さん:2007/12/13(木) 16:26:58
多種多様ですわ
たしかカナダの山林王は和歌山アメリカ村のひとだったかな・・・

外に出る事が伝統的かつ日常的だったですから。
84日本@名無史さん:2007/12/13(木) 16:32:38
◆◆ユーチューブ◆◆
★テレビ取材流失モノ「これ、絶対使わないでください」
田中康夫長野県知事の脱ダム関連問題発言
http://jp.youtube.com/watch?v=2ofKvImD0Wc
この動画について 田中康夫が長野県知事時代にした脱ダム関連問題発言。

「これ使えないですが、」という取材クルーの声... (続き)
追加日: 2007年10月18日
田中康夫が長野県知事時代にした脱ダム関連問題発言。
「これ使えないですが、」という取材クルーの声の後に
「これ、音声とってないだろうな」
「今のは、絶対使わないでください」
といって語られたホンネ発言。
当時長野県議会でも問題になった。

田中知事(当時)は自分の声かどうかわからないと会見で私の質問に答えたり、
議会で「 記憶にない」などと答弁し失笑をかった。皆さんの耳には誰の声と
聞こえるでしょう。
8555:2007/12/13(木) 17:02:39
>>76 概ね当たってますけどね。
一応学が無いと非難されないように振舞ったつもりでした。
あなたの態度はたいへんに知的ですね。

みなさんに教えていただいた事例を一通りwikiなどで見てみましたが、
多くはなにか大義名分があるように思えます。
そして「悪人」としての評価が確定されている人も見当たりません。

情報を小出しにするつもりは無かったんですが、
最初に考えたことは、
日本は天皇を頂点とする形がある程度維持されてきたため、
名誉・信頼・権威といった関係が、根底から覆されることは無かったということです。
言葉の通じない異民族が侵入してきた場合、このへんは完全に無意味になります。

結果として、ある程度の倫理観・道徳観が保たれるということもあるのではないかと思いました。
人目を気にして、あまりに悪いことはできなかったということです。
そこで歴史上で悪人の代表格?として、裏切り者をお聞きしたわけです。
言いがかりをつけるのとかも多いですけど、一応理由をつけてますよね。
86日本@名無史さん:2007/12/13(木) 22:36:37
>>85

門外漢の質問なのと、質問スレでもあるので細かい突っ込みは避けて

>日本は天皇を頂点とする形がある程度維持されてきたため、
>名誉・信頼・権威といった関係が、根底から覆されることは無かったということです

この言葉に乗っかると、天皇や天皇を頂点とする社会システムに反抗した人を探しているということ?
8755:2007/12/13(木) 23:12:55
>>86
お気遣いいただきどうもありがとうございます。
うまく答えられるか自信がないのですが、
探している事例があるとすれば、

裏切り等の倫理・道徳に反する行為を公然と行ったことで、
後世に、あるいは同時代においても、悪名を轟かせている人物についてです。

最初に55で書きましたが、自分は受験が世界史だったので、日本史は中学レベルです。
そのレベルで、悪人で思いつくのは
本能寺の明智光秀・比叡山焼き討ちの織田信長・言われて思い出した小早川秀秋
こんなもんですね。小早川秀秋の評価はwikiによれば少し変わってきてるようですが。
調べてもあまり見つからなかったので、なにか事例がないかお聞きしてみました。
その意味で、専門知識にあたるような細かい事例は当てはまらないかと思います。

天皇うんぬんは、あくまで指標の一つとしてです。システムの完全崩壊を経験してないという。
なんちゅーか、ゲルマンが攻めてきたらローマ帝国での地位は無意味になりますし、
最終戦争の後には、お札なんてケツをふく紙にもならないってことですかね?
8886:2007/12/13(木) 23:50:01
>>87

まじめに質問しているの?
一一間違いを指摘するのもアレなので

>後世に、あるいは同時代においても、悪名を轟かせている人物
足利尊氏なんかは日本三悪人の筆頭だった時期もある
平将門あたりが質問者の趣旨に該当するのかな…

余談
>ゲルマンが攻めてきたらローマ帝国での地位は無意味
ゲルマンとローマの関係は服従と反抗の繰り返しだったと記憶しているが…
ローマ帝国の最晩年に帝国の支配地域に定住しはじめたゲルマン人においても
テクノクラートを筆頭として社会階層のあらゆる人々の地位は保全されたと記憶しているが?

>最終戦争の後には、お札なんてケツをふく紙にもならない
一定の社会秩序が維持されていれば札を発行していた国家が消滅しても、札は流通可能
日本が連合国に降伏し満州国が消滅しても現地の人々は日本や旧来の札を使用していた
札が紙屑になったのは進駐したソ連が無計画に増刷してからの話
89日本@名無史さん:2007/12/14(金) 00:28:21
>>82
19世紀初めならアメリカに定住した日本人がいたとしても漂流民くらいだと思うよ。
90日本@名無史さん:2007/12/14(金) 05:01:34
なんかレスしてもムダな気がするんだが、とりあえず書いとく。

>世界史上に裏切り者はたくさんいます。
>それと比べて日本史では裏切り者は相対的に(むしろ絶対的に?)少ないという印象があります
少なくてあたりまえ。
日本史上だけで世界史上と同数の裏切り例があったら、そっちのが驚きだ。

>悪人としての評価
人物評価が時代や地域で変わることは理解してる?
逆に、世界史上で悪人としての評価が時代や地域を超越して確定してる例を教えてくれ。

>ゲルマンが攻めてきたらローマ帝国での地位は無意味になりますし
88氏がすでに書いてるが無意味になんかなってない。
当のゲルマン人自身が、自分達の権威付けに東ローマから官位もらってる。

他にもつっこみどころあるけど、一番の問題は85でのレスが真意なのかどうかだわな。
結論ありきで理論を組み立ててるなら、まずそれをやめるべきだよ。



最後におまけ・・・裏切りなら松永久秀がかなり面白い。
9155:2007/12/14(金) 11:10:56
>>88
最初に書きましたが、受験で世界史をやった程度ですので、
正確さについてはまったく自信がありません。

足利尊氏と平将門については、wikiで見る限りでは「悪人とされている」程度という印象です。
特別に悪いことをしたわけじゃありませんよね。事実がどうなのかは知りませんが。

ゲルマンは明らかに不適切な例でした。
異民族の侵入で思いついたものがこれだったものですから。
小さな侵入のほうが原住民を根絶やしとかありそうですけど、
小さい例じゃ例にならないと思ってゲルマンと言ってしまいました。
今思うと南北アメリカなんかじゃどうでしょう?

最終戦争は冗談です。失礼しました。
社会システムの崩壊した例を考えていて、北斗の拳が思い浮かんだものですから。

意図していなかった方向に話が進んでいるようですので、そろそろやめることにします。
いくつか挙げていただいた例はずいぶん参考になりました。
歴史関係のwikiもおもしろいですね。これからは活用してみたいです。
いろいろとどうもありがとうございました。
92日本@名無史さん:2007/12/14(金) 11:31:20
>>91
平将門、源頼朝、足利尊氏は天皇の権威に挑戦した良い例。
93日本@名無史さん:2007/12/14(金) 22:36:29
今の天皇と最古の天皇って血がつながってるんですか?
あと天皇の血に韓国の血が混じったときの韓国人は日本に来て何代目の人なんですか?
94日本@名無史さん:2007/12/14(金) 22:56:57
>>80
それらと比べると地味だがなんとなく思いつくのは
石田正澄-三成兄弟、小西行長- 行景兄弟
結城秀康-徳川秀忠兄弟も母違いでぎくしゃくする要素も
あったけど仲はいいんじゃなかったっけ
95日本@名無史さん:2007/12/14(金) 23:14:30
>>80
毛利3兄弟、島津4兄弟、長曽我部元親と弟達、北条氏政と弟達(何人なのかいろいろ説あるけど)
兄貴に逆らわなかったw宇喜田直家-忠家とか。

織田信長も家督を争った信勝(信行)以外の兄弟とは仲悪くない。

96日本@名無史さん:2007/12/15(土) 00:24:59
ニュー速で
「俺は伊豆諸島に住んでるが、琉球人は伊豆諸島の住民を虐殺したのに被害者ぶってる」
とかいう書き込みがあっただけど
検索してもそういう事実が出てこない。
これって本当?嘘?
97日本@名無史さん:2007/12/15(土) 12:15:16
かつては「大連」まで生み出した大伴氏はなぜ,大伴「宿禰」になってしまったんだ?

蘇我(石川),物部(石上),中臣(藤原),安部,紀,平群,土師(菅原),小野,その他
諸々の豪族たちはみんな「朝臣」になっているというのに・・・
飛鳥時代後期〜奈良時代,それほどまで衰えているように見えないのだが?
98日本@名無史さん:2007/12/15(土) 19:54:11
後世まで残る氏族だと、小槻氏も宿禰。
99日本@名無史さん:2007/12/16(日) 10:49:50
信長の英語版wikiで下記の記述がありました。

Due to his defeat, Nobunaga harbored clear fears of Uesugi and, according to one account,
told the messenger that brought news of Kenshin's orders of general mobilization that,
if Kenshin did in fact lead his armies to the capital, he would have no choice but to surrender
and cede his eastern domains in the hopes of being granted mercy.

要するに「謙信に手痛い敗北を喫した信長は、謙信が軍を率いて上洛した場合には一も二もなく降伏して
領地の東部分を差し出して許しを請うと決めていた」となっています。
謙信の靴を舐めるかのような信長というのは想像しがたいのですが通説なんでしょうか?
100日本@名無史さん:2007/12/16(日) 12:39:48
>>99
1、そんな通説はない。また信長がそんな話を洩らしたという記録も無い。

2、Due to the defeat のdefeatは手取川の敗戦を指すと思われるが、
織田軍の一方面軍が局地的敗戦をしただけのもの。
それだけで降伏を考えるような性質の物ではない。

3、謙信が頓死せずに上洛を目指した場合、信長は負けたに違いないと主張する人もいるが、多数ではない。
101日本@名無史さん:2007/12/16(日) 13:03:50
>>99
はっきり言おう。
どんな記述であろうと、ウィキペディアを信用するな。
102日本@名無史さん:2007/12/16(日) 13:32:58
>>100
サンクス

>>101
いや、あまりに承伏しかねる記述だったので
書き換えてやろうと思って
103日本@名無史さん:2007/12/16(日) 13:36:39
>>102
AをBに書き換えても、Aに書き直す奴もいるし、Cに書き換える奴もいる。
ウィキペディアなんて、所詮そんな程度の価値しかない。
104日本@名無史さん:2007/12/16(日) 13:46:40
>>103
そりゃそうだけど、気づいたときに正しい方向に直しておくのはやっといた方がいいでしょ。
105日本@名無史さん:2007/12/16(日) 14:05:27
>>104
国際関係についてならともかく、国内のことならどうでも良いと思うけどね。
106日本@名無史さん:2007/12/16(日) 15:20:31
流れでちょうど良いので質問。謙信は出陣の直前に死にましたが、
出陣の目的はおそらく上洛ではなく関東だったと思われると聞きました。
そうなんですか?
107日本@名無史さん:2007/12/16(日) 17:34:14
御館の乱って、武田が景虎支持で、北条が景勝支持だったんだっけ?
108日本@名無史さん:2007/12/16(日) 19:29:33
北条は景虎支持。
武田は最初景虎、途中から景勝支持に鞍替え。
109日本@名無史さん:2007/12/16(日) 20:45:15
実況スレだけ悪禁で、せっかくの最終回にカキモできない無念さといったら・・・
110日本@名無史さん:2007/12/17(月) 00:55:07
>>108
それが越相同盟の最終的な破綻と、甲越同盟に繋がるということですか?
111日本@名無史さん:2007/12/17(月) 00:56:34
>>108
あと北条氏康死後に復活した甲相同盟の破綻も御館の乱がきっかけですか?
112日本@名無史さん:2007/12/17(月) 01:41:23
戦国時代の足軽は簡単な鎧の下にはどんな着物を着てたんですか?
時代劇を見ると股引にキャハンとか祭り装束ライクな感じですが。
113日本@名無史さん:2007/12/17(月) 02:19:44
age
114日本@名無史さん:2007/12/17(月) 02:20:44
江戸時代は日本はロバをなんでもっと使わなかったの?
馬は日本には大きすぎるし、山道なんか苦手そうだけど
ロバはちょうどいいと思うけど
人が担いだり、ひいたりして荷物を運んでるけど。
115日本@名無史さん:2007/12/17(月) 02:53:11
>>109
大河見てるような低能が学問板に来るなよ
116日本@名無史さん:2007/12/17(月) 03:14:03
>>115
いちいち噛み付くなよ。それこそ低能に見える。

それにしても、日本史板って学問板のくせに民度が低いのはなぜかね?
すぐに煽ったり叩いたり口汚く罵ったりするが、そのくせ学問板としての
気位ばかりが高い。なんか自我ばかりが肥大した大人子供の巣みたい。
117日本@名無史さん:2007/12/17(月) 04:25:24
>>115
大河ドラマを見て、それが真実だと思うのは如何なものかと思うが、
普通に見る分には何の問題もないだろ。
それとも、NHKになんか恨みでもあるのか?w
118日本@名無史さん:2007/12/17(月) 11:50:53
>>116
スルー耐性の無い香具師の自己批判乙
119日本@名無史さん:2007/12/17(月) 14:03:35
戦国時代の足軽が持っている弓矢程度でも射られたら人が死ぬほどの殺傷力あるんですか?
120日本@名無史さん:2007/12/17(月) 14:13:51
>>119
合戦での一番の死因が矢
121日本@名無史さん:2007/12/17(月) 15:40:37
中国では宋王朝の頃から燃料に石炭を使うことが広まっていたそうです。
日本では九州(や北海道)で石炭が取れますが、
明治以前の日本では石炭を採掘して燃料にするといったことは行われていたのでしょうか?
122日本@名無史さん:2007/12/17(月) 20:00:12
>>115
ガキんちょはその場で注意しないと
理解する脳がないんだよ
お前育児経験ないだろ?
123日本@名無史さん:2007/12/17(月) 20:00:48
上間違い

>>116
124日本@名無史さん:2007/12/17(月) 23:09:36
>>121
九州は大陸ほど寒くないからね
125日本@名無史さん:2007/12/17(月) 23:39:03
>>124
寒くなくても、煮炊きや金属加工等で火力を必要とすることは多かったと思うのですが…
126日本@名無史さん:2007/12/17(月) 23:50:33
>>104
それは信長から謙信に宛てた手紙の内容では?
安土城建設を聞いた謙信がワシの上洛を邪魔するつもりだな!みたいな手紙を信長に出した返信がたしかにそんな内容で送ってたような。
ついでに信長は謙信が京で将軍に会いに行く姿を描いた屏風絵も送ってたかな?
手取川合戦は柴田を総大将に佐々・前田・佐久間・明智・丹羽・羽柴らフルメンバーで加賀へ進軍。後詰めは信長本体。
羽柴は負ける予想をしてたのか戦線離脱し信長に激怒される。
謙信と敵対するのを回避したい織田からの援軍がまるでなく長期籠城してた七尾城がいよいよ陥落まじかになり、織田派の長氏が一族滅亡を覚悟し長男だけ脱出させ信長の元へ走らせ援軍を哀願。
やむなく馬防柵と多くの鉄砲を持たせ援軍を派遣したが進軍は遅く、ついに陥落の報を受けたので雨天の中で急ぎ柴田が撤退開始。
織田軍進軍中との報を受けた謙信は野戦決戦を望み電撃的な機動追撃開始。
手取川で捕捉され謙信が意図していた通り夜の雨天の中で鉄砲が完全に封じられ散々に敗れて増水した手取川に叩きこまれ大敗。長篠の戦いの再現を完璧に阻止された。
と言う説がある。謙信は手紙の中で織田は存外に弱かったからこの分なら意外と早く上洛できるなって書いているから何らかの戦いがあったんだろう。
でなければ能登国だけでなく加賀国からも撤退した理由がつかない。
127日本@名無史さん:2007/12/18(火) 00:15:07
>後詰めは信長本体。
>羽柴は負ける予想をしてたのか戦線離脱し信長に激怒される。

さらっと嘘を交ぜるなよ
128日本@名無史さん:2007/12/18(火) 00:16:27
>>125
日本は大陸よりも燃料となる木材の入手が容易。
しかも降水量が多いから、大量に伐採しても短期間で元の森に戻る。
しかし大陸でこれをやると多くのケースではそのまま禿げ山となり、やがて砂漠化する。
そうした条件の違いから、大陸では早くから化石燃料に白羽の矢が立ったってことでは?
129日本@名無史さん:2007/12/18(火) 00:21:37
>>126
>ついでに信長は謙信が京で将軍に会いに行く姿を描いた屏風絵も送ってたかな?

それはいわゆる上杉本『洛中洛外図』。
最近の研究では、この絵の元々の発注者は将軍義輝で、義輝が謙信に贈るために
制作依頼したといわれる。
その根拠として挙げられるのが、描かれている風景が1550年頃の京都を
モデルにしているからということだ。
ただ絵の完成前に義輝は没し、その後上洛した信長が完成した絵を受け取り、
謙信に贈ったのではないかとされる。
130日本@名無史さん:2007/12/18(火) 05:30:17
土佐藩の郷士や佐賀藩の手明鑓は士に入るのでしょうか?又、維新後は士族の班に列したのでしょうか?
131日本@名無しさん:2007/12/18(火) 10:49:33
>>121
江戸時代から九州の炭田は既に開かれていました。
若松では「五平太船」に載せていたので、石炭のことを五平太とよんでいたそうです。
異国船が開国要求する際「燃料の補給」を要求していたのはご存知かと思いますが、これは石炭のことだったりします。
また開国後、炭田を大々的に掘り出せたのも、江戸時代からやっていたからだといえます。もちろん技術導入はしましたが。
132日本@名無史さん:2007/12/18(火) 15:28:18
>>127
柴田勝家を総大将に滝川一益ら1万8000人の軍勢を先発隊。後詰めに信長自らも3万の軍勢で臨み
織田軍が2000人近くの死傷者を出し手取川で数千人の溺死者を放置し逃走。
133日本@名無史さん:2007/12/18(火) 20:05:54
>>131
どの程度実用化されていたかは別にしても、化石燃料に対する
興味・関心くらいはあっただろうな。

例えば間宮林蔵や松田伝十郎は、樺太探検の際に
わざわざ北樺太に油田・ガス田が存在することを記録している。
134日本@名無史さん:2007/12/18(火) 20:08:15
手取川の戦いに繋がる信長軍の出陣は謙信に包囲された七尾城を助けることだから
それまでの信長のやり方からすると謙信より多くの兵を動員すると思われる。

その点、勝家達だけだと、謙信より劣る兵力しかなく、救援するには中途半端な印象はあります。
更に応援を出す予定だったと考えてもおかしくないかと。
信長自身が出陣するかどうかは別にして。

ただ同時期に、畿内で松永久秀が信長に反乱を起こしたので、応援を中止してそちらの鎮圧を優先したとも考えられる。
その間に目的の七尾城が落ちたので出兵の目的自体がなくなってしまった。
135日本@名無史さん:2007/12/18(火) 20:30:44
いや前年から包囲され続け
冬場に一時上杉軍は春日山城に帰還。年明けしてからまた包囲を再開している。
その長い間にずっと織田は援軍要請を無視してる。
いよいよ落城確定になった時点でゆっくり織田援軍が行軍開始。
これは明らかに織田軍が謙信と戦っても勝算がまるでない為に北陸戦線を放置し続けた証拠。
ゆっくり進み落城を聞いてさっさと引くと言うのも当初から決められていたんだろう。
ただ謙信の急速南下までは想定外で捕捉された。
万が一にも落城しなかった場合は要害に野戦築城して冬場の撤退まで長対陣し、謙信から攻めかかってきたら鉄砲隊で長篠の再現を行なうつもりだった。
謙信はどうせ長篠の時みたいな事をやろうと思ってんだろうがそうはいかないって言ってたしな。
謙信に完全に信長の考えは読まれてたんだよ。
136日本@名無史さん:2007/12/18(火) 21:32:00
戦国板でやれ
137日本@名無史さん:2007/12/18(火) 22:10:05
だれか >>97 知ってる古代豪族の専門家はいない?
138日本@名無史さん:2007/12/18(火) 23:16:24
>132
板、間違えてない?
こ・こ・は学問板
小説の話は他所でやってくれ

板違いだが、そういう愚かな妄想を書いた作家は誰?
139日本@名無史さん:2007/12/19(水) 01:03:51
官位のお礼の相場はどれくらいなんですか?
室町期で。

140日本@名無史さん:2007/12/19(水) 09:53:56
>>137
>>97のなかには平安以降に朝臣姓に変わったものもあるんじゃないの?
平安以降は、基本的に小槻氏とかごく一部に宿禰が残る他は全て朝臣に一本化されるし。
141日本@名無史さん:2007/12/19(水) 20:02:29
>こ・こ・は学問板

いい加減うぜえぞ。
2ちゃんで何気取ってやがんだ。
お前みたいなのをスノッブってんだ。
142日本@名無史さん:2007/12/19(水) 20:21:52
>>141
全くだ。所詮2chなのに、お高くとまってやがってw
日本史板の住人ってこういう手合いが多いんだよな。
やたら攻撃的で罵倒や煽りばかりするくせに知識に乏しく、
気位だけはやけに高い・・・・正直趣味カテの戦国の方が
雰囲気良いってどうなのよ?
143日本@名無史さん:2007/12/19(水) 21:31:46
>>139
戦国板の阿蘇氏スレに以前書いたのをコピペ。


351 名前: 人間七七四年 [sage] 投稿日: 2007/10/21(日) 10:46:40 ID:0Ichd1Rk
>>349
>従二位になった時の「二万疋」ってどのくらいなんだろ?
>二万疋≒二百貫
今谷明の「戦国大名と天皇」の記載だと100貫ってなってますが。
天皇に対して100貫、取次などの関係者への贈答・使者の交通費などの諸経費も合わせて200貫ってことなのかな。
天皇に対する官位のお礼は、20貫+太刀一振〜100貫ってのが相場って書いてありました。
144日本@名無史さん:2007/12/19(水) 21:54:57
>>140
大伴氏が当時,なぜ宿禰になってしまったのか気になっていたんだ.

大伴金村が512年に百済への任那譲渡,540年の新羅による任那併合の責任を負って
失脚して以来,子孫にまで依然として責任を問われているのか?と考えてしまった.
145日本@名無史さん:2007/12/19(水) 22:19:51
>>140
Wikipediaの朝臣の項にはこう書いてある。

-朝臣は、主に壬申の乱で功績の有った主に臣(おみ)の姓(かばね)を持つ氏族に優先的に与えられた。
-その次に位置する主に連(むらじ)の姓(かばね)を持つ氏族には宿禰(すくね)の姓を与えていた。
-しかしながら、その後も朝廷に功績が有った氏族には朝臣の姓を下賜していき、奈良時代にはほとんどの氏が朝臣の姓を持つようになった。

大伴氏は壬申の乱で功績を挙げているけど、その後の政界ではどちらかというと不遇だった印象だから
他の連だった氏族は朝臣にランクアップしたけど、据え置きのままだったとか?
146日本@名無史さん:2007/12/19(水) 23:40:20
>>143
ありがとうございます。
147日本@名無史さん:2007/12/20(木) 04:09:40
>>145
大伴旅人・・・長屋王の変に連座して左遷。
大伴古麻呂・・・橘奈良麻呂の乱に連座して拷問死。
大伴古慈悲・・・藤原仲麻呂の乱に連座して左遷。その後、氷上川継の乱に連座して再び左遷。
大伴家持・・・氷上川継の乱に連座して左遷。その後、藤原暗殺事件の首謀者とされる(本人は事件直前に死去)。
大伴継人・・・藤原暗殺事件により死刑。
伴善男・・・応天門の変により流罪。

これだけことごとく奈良〜平安初期の政変で必ず負け組になっていれば、そりゃ没落するよ。
148日本@名無史さん:2007/12/20(木) 04:59:16
今の皇居が江戸城跡ですが、いつ城がなくなったんですか?やはり戦争で空襲をうけてからなくなったんですか?
149日本@名無史さん:2007/12/20(木) 05:28:49
天守閣のことかな?
1657年、 明暦の大火(振袖火事)で焼けて無くなっちゃったのよ
150日本@名無史さん:2007/12/20(木) 18:22:10
はじめまして
鎌倉時代の偉い人(殿様クラス)の埋葬法について質問させてください
当時の殿様は姫(女性)と一緒に埋葬される事ってないのでしょうか?
151日本@名無史さん:2007/12/20(木) 18:36:14
鎌倉時代の将軍、執権の埋葬方法は
遺体を火葬せずそのまま土に埋めていました
一族を代々同じ場所に葬ると言う概念も無いため、
親子兄弟妻妾でも別々の寺などに埋葬されたようです
152日本@名無史さん:2007/12/20(木) 20:08:06
>>149
振袖?着物のですか?
153日本@名無史さん:2007/12/20(木) 20:26:29
稲葉正休の父親・稲葉正吉(春日局の息子)を殺害した家老は
何という姓名の人物だったのですか?
また、この家老と一緒になって主君を弑殺した小姓の氏名も教えて下さい。
154日本@名無史さん:2007/12/20(木) 21:20:09
八連隊スレが無いようですが、八連隊は不敗の最強連隊だって事で落ち着いたのでしょうか?
155日本@名無史さん:2007/12/20(木) 21:36:28
>>145
一〇世紀はじめだったかに公卿になった伴氏の人が居て、確か名前保平だったかな、
その人が晩年に朝臣を賜姓されています。
但し子孫がどうなったか不明。
なお善男の子孫になっている系図もあるが、おそらく間違い。
156日本@名無史さん:2007/12/20(木) 21:47:25
>>144
連姓の大伴が当初宿禰だったのは妥当です。
むしろ連姓の藤原と石上が朝臣になったのが特例的扱い。
ただしその後大伴よりはるかに弱小な氏が多少出世した程度(せいぜい五位とか)、
ないしちょっとばかり目立った女官が居る程度でばんばん朝臣に改姓。
どうして大伴が改姓されなかったのか不思議なくらい。
大伴の場合は五位は全然珍しくもなく、公卿も相当居るので改姓のきっかけがなかっただけかも。
157日本@名無史さん:2007/12/20(木) 22:34:31
実体はともかく大阪兵が弱いという通念は明治初年からあったそうで、
初代大阪鎮台司令官が「大阪兵は確かに弱いが、楠木正成の例もあり運用によってはいける」
のようなことを言っているそうだ。
西南戦争の時薩摩兵の最初の抜刀大襲撃でたまたま潰走したのが八連隊で、
それで上記の通念が、やっぱりってことになってしまったのだろう。
一度弱いという評判が出来てしまうとその後どれだけ力戦奮闘しても、
その評価を覆すことは難しかったのだと思う。
158日本@名無史さん:2007/12/20(木) 23:09:47
>>157
ありがとうございます。
発足当初に負けてるんですね。
「確かに弱いが」ってw
159日本@名無史さん:2007/12/21(金) 09:47:40
160日本@名無史さん:2007/12/21(金) 10:10:13
正確には8連隊全体が潰走したわけではなく、8連隊の中の3中隊。
もっとも西南戦争当時は連隊単位出動することはほとんどなく、
大隊・中隊単位で各駐屯地から引き抜かれて、その混成で連隊・旅団を編成していた。
それと史実として8連隊が弱兵だったどうかは、議論の余地があり見解の相違もあるだろうが、
8連隊が弱兵であると世間的に思われていたと言うのはどうも歴史的事実らしい。
つまり8連隊はそう言うキャラクターなんだろう。
亀田や沢尻の実体がどうあれ、世間ではあれだと思われいることは否定できないのと同じ。
161日本@名無史さん:2007/12/21(金) 12:29:40
>>160
キャラですかw
また大阪人はそれを美味しいとか言いながら否定しなさそうですなwww
162日本@名無史さん:2007/12/21(金) 13:32:33
質問する前に教科書だけの知識で認識不足があると思いますが、予めご了承ください。
承久の乱で思ったのですが、天皇は何故あの時点で途絶えなかったのですか?
その後も黒船来航などの助言をするなど、表舞台から消えただけで幕末の尊皇攘夷までの
流れが不可思議です、権威を失墜しても根を断絶することに対する影響力は大きいということなのでしょうか?
現在においても、天皇が尊重という立場であり続けるのに疑問を抱いています。
163日本@名無史さん:2007/12/21(金) 17:27:13
権力は失われても権威は失われてない。
武家政権が恒常化したところでその後ろ盾は朝廷だから。
164162:2007/12/21(金) 17:40:05
>>163
分かりやすい説明ありがとうございます。
大まかに考えると天皇がタレントでスポンサーが朝廷って解釈していいですか?
まだ学習不足の面があるので、もう少し具体的に勉強しています。
165日本@名無史さん:2007/12/21(金) 18:00:26
祭祀を司る司祭だから。
武家に神や豊穣を祈り文化を保護する品性に欠けているし
あえてそれを求めない。

国民も自分がかわりに司祭やりたいと思うやつはいないし
そんな教育を受けて育ったわけじゃない。

いくら経済立国になったとて、五穀豊穣は国家国民の生活の土台。
これを尊重するのは当たり前。
166日本@名無史さん:2007/12/21(金) 20:35:27
>>151
そういうこだわりは当時なかったのですね
お答え頂きありがとうございました!
167日本@名無史さん:2007/12/21(金) 22:22:25
大伴氏の件,サンクス.ここまで不遇な一族も珍しい.
よほど藤原氏の目の敵にされていたのか,功名心に駆られていたのか・・・
栄華盛衰をそのまま凝縮した感じだな.
168日本@名無史さん:2007/12/21(金) 22:32:44
まあ蘇我(石川),物部(石上),平群といった連中よりも
後世まで活躍していたようだから,幾分マシなんだろうな.
169日本@名無しさん:2007/12/21(金) 22:34:11
>>164
天皇はタレント…というよりも、本質的にはアイドルに近いです。
そして朝廷は、天皇のプロダクション会社。天皇は朝廷のタレント兼オーナー。
でもプロデュースや経営まで天皇が一人でやっていたわけではありません。
先代のオーナーたちが実権を持っているか(これは院政)。
オーナーの姻族にして支援している一族が実権を握っているか(これは摂関政治)
はたまた実務畑のトップが実権を握っているか(これは武家政治)というところ。

ここで大事なことは、幕府は朝廷の対立概念ではないということです。

承久の乱はオーナー一族(ここでは院で、そのトップは後鳥羽院)が実務畑(鎌倉)を
嫌っていたから争ったというだけのことで、幕府にとって、天皇や朝廷は初めから
打倒の対象ではないのです。

結果、後鳥羽一派は流されて後高倉院の一族が迎えられるのですが逢えなく
絶えたりなどして結局後鳥羽の子孫が皇統に戻りました。この皇子は北条氏に
近かったことと、この頃のゴタゴタで九条家が絶大な権力をもっていて、天皇家と
北条氏が力を合わせて排除しようという動きもあったのです。

170日本@名無しさん:2007/12/21(金) 22:56:12
>>169つづく
幕府はあくまで朝廷内の一勢力にして絶大な代理組織というものに過ぎないのです。
これはもっと後世になってからでもそうです。源平のブランドも親王や王の末裔にして
天皇をサポートする一族というところがその権威の根拠なのですし、幕府・将軍として
権力を握ったとしても、権威のオーナーである天皇と常に近づき姻戚関係でも
つけ続けておかなくては話も通じません。徳川家はここで挫折してしまいました。

話が飛びますが、黒船来航から幕末の話。
外交権は幕府が一手に握っていたのですが、やはり上には報告せねばなりません。
ところが実務担当の幕府がワケワカランドウシヨー誰が責任取るんだということになれば、
まぁとりあえず上に決済を求めてしまうわけです。ココで天皇が一喝、拒否となりますと
また下に戻される。担当者が辞任しても対外問題だから放置も出来ない。
ならば覚悟を決めて処理しないといけない・・・・のですが、これを傍から見てた若造が
「実務が処理しきれない、しかも上が拒否ったのを強行採決?ケシカラン冗談じゃねぇ
実力がないのにそんなことするんじゃねーよ」とばかりにテロったりなんだりで。

幕府の側は「そういうことならもっと親しくなって一緒にやりましょうよ」と慣れなれしくしたり
「あーじゃあ誰が幕府の代わりをやってくれるんです?」と空かしてみたりもしたけれど、
天皇と朝廷が(無理矢理にでも)「お前はあくまで下。イラネ。切る」という建前を崩せずに
潰されてしまったというところ。

171日本@名無史さん:2007/12/21(金) 23:33:27
あるサイトで縄文語を紹介しているところがありました。
しかし、文字がなかった縄文時代の発音や単語等どうやって調べたのでしょうか。
172日本@名無史さん:2007/12/21(金) 23:40:34
>>171
ネタ
173日本@名無しさん:2007/12/21(金) 23:54:03
>>171
調べたというよりも、アイヌ語や原ポリネシア語などから基礎単語を推定・復元したもの。
原日本語を探った一種の模型。
174日本@名無史さん:2007/12/22(土) 00:09:14
>>172-173
そうなんですか。推定復元ということは正確なものではないんですね。
どうもオカルトというか、胡散臭い感じがしていたもので疑問に思っていたんです。
175日本@名無史さん:2007/12/22(土) 01:43:49
戦国〜江戸によく行われた法論ってどーやって決着つけるの?
有力者が判定するの?
176日本@名無しさん:2007/12/22(土) 10:36:21
>>175
評定の場を開き、処罰するのは有力者(寺社奉行)。
177日本@名無史さん:2007/12/22(土) 23:08:11
>>162氏は南北朝の内乱のような状況をどう考えているんだろう。
天皇や朝廷に権威がなければ、そもそも南北朝のような状況は起こり得ない。
178日本@名無史さん:2007/12/22(土) 23:40:56
>>177
教科書だけで勉強していると天皇の存在は
承久の乱から江戸時代まで一機に飛んでしまうんで
それは仕方ないのでは。

南北朝の扱いに関しても教科書的には天皇権威うんぬんというよりも
政治権力の争いという扱いになっているし。
故に後醍醐天皇崩御後の南北朝については一切記載がない状態。
現場の教員の知識と裁量によるところだと思うよこの辺は。
179日本@名無史さん:2007/12/22(土) 23:52:50
戦になると謀略によって寝返り、離反、暗殺などよく行われていますが
この謀略の内容などを纏めたホームページや本などありましたら教えてください。
180日本@名無史さん:2007/12/23(日) 16:23:52
>>179
ググレカス
181日本@名無史さん:2007/12/23(日) 21:27:01
知らないならわざわざ書かなくてもいいのにアホかこいつは。
182日本@名無史さん:2007/12/23(日) 23:11:30
>>181
すぐにカス呼ばわりする>>180もどうかと思うが、
検索しないで質問をする>>181も如何なモノかと思う。

検索すればすぐに見つかるのに。
183日本@名無史さん:2007/12/25(火) 20:21:22
自分でぐぐる努力すらしないやつが
好意だけ無条件で期待しているスレはここですか?
184日本@名無史さん:2007/12/25(火) 22:34:46
今川の苗字は宗家しか名乗れないと、江戸時代でもそうだったみたいですけど、
これは家康が人質時代に今川家に預けられてたのと関係あるんでしょうか。
185日本@名無しさん:2007/12/26(水) 06:56:04
>>184
関係ない。
186日本@名無史さん:2007/12/26(水) 09:47:30
>>184
今川範忠が足利義教に与えられた特権だったはず
187日本@名無史さん:2007/12/27(木) 02:12:18
関ヶ原合戦後の伊達政宗による福島侵攻について質問です。
所謂「松川合戦」といわれるものですが、ググると
上杉方が勝ったとしているものが多いのですが、2chの
戦国板やウィキペディアでは伊達方優位に推移したとなっています。
また、「梁川町史」などでは梁川城代の須田氏が伊達政宗の後方を
扼し、政宗方に損害を与えた( 上杉方優位に推移)としているそうですが、
戦国板では「そのソースは寛文期の覚え書きで信憑性は皆無」と言って
いました(「市史」の類いはそんなに信用できなのでしょうか?)。

結局この合戦の結果、推移などはどのようなものであったのでしょうか?
188日本@名無史さん:2007/12/27(木) 02:30:18
>>184,185
ありがとうございます。

つまり今現在、今川という名前の苗字の人はインチキということですかね?
189日本@名無史さん:2007/12/27(木) 10:15:17
なんだそのスペシャル短絡思考は
190日本@名無史さん:2007/12/27(木) 12:42:32
ヒント 冬休み
191日本@名無史さん:2007/12/27(木) 13:54:28
「家紋」についてお訊ねいたします。

日本や西洋の貴族・豪族には家紋があるのに、何故中国や朝鮮には家紋が存在
しないのでしょうか?
山本七平氏の本にその持論があった気がするのですが、合点のゆく内容で
なかったせいか、失念してしまいました。

正確な答えでなくとも、どなたか持論を展開して頂ければ助かります。
192日本@名無しさん:2007/12/27(木) 16:39:32
>>191
西洋の紋章、そして日本の武家紋は、家によって構成された軍団を章したものが由来です。
他の地域でも武将や軍団はありますが、この軍団は将帥・氏族というコアと、それについて
いっているだけの有象無象が基本構成だったのですから、逆に言うと氏族単位より下の
シンボルは必要なかったのです。ですから中国の時代劇では軍旗に「劉」の字…という
感じになる。敵もそうなのですから、「劉」vs「項」の旗がガチガチやるなどという図式。

ここまで来るともう軍旗の歴史まで遡らなければならないでしょうが、軍団の紋章が
「家紋」にまでなっていくには、家族の封地が固定され、家族が戦闘団の基本単位に
なっていき、その過程で任意の紋章が、家の中で継承されていくべきシンボルであると
いう意識が形成されることが十分条件になろうかと思われます。

この「封地の固定」と「家族内継承」が家紋成立のポイントかと。
しかし中国の戦争は民族部族が小移動し続けるような図式ですから、上記の条件を満たさない。
ゆえに、いわゆる家紋はできなかったのだろうと考えています。


193日本@名無史さん:2007/12/28(金) 01:00:43
>>192
ありがとうございました。
大変合点のゆくもので、且つ興味深い御意見でした。
全く、核心をついたものと思います。

「封地の固定」と「家族内継承」・・・いわゆる政治システム
としての「封建制」と関係があるのですね。

中国や朝鮮での地方領主は中央政府からの任官制で、入れ替え
があり、土着することがなかったと聞いています。
日本で言えば、頼朝以前がこれにあたるのですね。

194日本@名無史さん:2007/12/28(金) 01:01:29
>>192
ありがとうございました。
大変合点のゆくもので、且つ興味深い御意見でした。
全く、核心をついたものと思います。

「封地の固定」と「家族内継承」・・・いわゆる政治システム
としての「封建制」と関係があるのですね。

中国や朝鮮での地方領主は中央政府からの任官制で、入れ替え
があり、土着することがなかったと聞いています。
日本で言えば、頼朝以前がこれにあたるのですね。

195日本@名無史さん:2007/12/28(金) 01:56:29
>187
>2chの戦国板やウィキペディア
参考程度で信頼するものではありません

>「市史」の類いはそんなに信用できなのでしょうか
首を傾げたくなる記述もありますが、誰もなんの責任も負わない(上記のような)webの書き込みよりはマシです
また、出版年度の古いものが大半ですので最新の研究成果が反映されていないことも承知してください

>193
当人が得心しているのであれば余計なレスになりますが・・・
西洋の紋章は個人や一族の武功・来歴、領土の象徴を表しているので封建制と関係はあります
しかし日本の家紋は氏族制と関係があると捉えるべきです

また、お尋ねの中国に家紋が無い理由ですが、中国では混乱期にある種のカリスマをもつ人物に人が集まります
端的に表現すると「誰が俺たちを食わせるのか」という欲求を満足させられる人物です
そのためある程度の知識・教養が無いと理解できない紋章は役に立たないのです
196日本@名無史さん:2007/12/28(金) 14:05:38
>>195
松川合戦の件は日本史板のウィキスレでも物議を醸していた。
197日本@名無史さん:2007/12/28(金) 15:47:19
>>187
>「市史」の類いはそんなに信用できなのでしょうか?
ウィキペディアと同レヴェル。実名が出ているか出ていないかの違いしかない。
198日本@名無史さん:2007/12/28(金) 21:06:32
「南北朝の合一」は日本の国家主権が正式に(?)二分割されていた混乱の時代が終結したという、非常に重要な事件のはずです。
それなのに歴史教科書や参考書ではろくに扱われず、試験にも出てきません。
正直言って、大塩平八郎の乱や桶狭間の戦いなんかよりもよっぽど歴史的な覚えるべき事項だと思います。

それなのにこの軽い扱いとは、皇室の分裂を無かったことにしたい皇国主義者か、あるいは天皇制の歴史上の役割を無視したい進歩主義者の陰謀かと疑ってしまいます。
果たしてそのような裏事情は存在するのでしょうか?それとも単にそれなりの軽い事件だというのでしょうか?
199日本@名無史さん:2007/12/28(金) 21:31:06
>>198
後南朝を無視したいお前さんの陰謀には騙されないぞ
200日本@名無史さん:2007/12/29(土) 02:12:29
>>197
でも一応名前もだしているわけだし、素人が弄り回せるウィキペなどとは
やはり違うとは思うが
201195:2007/12/29(土) 03:08:54
>200
町・村史には“?”な記述があるのは事実
しかしながら197が具体的な例示を行っていないのだから
その種の問いかけは無意味かと

そもそも197の論法では全ての書籍が否定されてしまう
これは歴史学に対する姿勢の問題であって白黒をつけねば
ならない問題ではない

先行研究の取捨選択の最終責任は論者にあるのだから
特定の書をカテゴライズし否定することも、悪書であることを
認識していても、それに頼らざるをえないこともある
202日本@名無史さん:2007/12/29(土) 08:49:21
日本には、有史以来全部で何人の皇帝が居たんですか?
203日本@名無史さん:2007/12/29(土) 14:21:10
>>202
ゼロ
204日本@名無史さん:2007/12/29(土) 14:32:55
>>202
明治以降の対外文書には「大日本帝国皇帝」とされる。
また漢化が進められた奈良朝後期にも「皇帝」号は少し見られるかな。
渤海使の国書なんかはどうだったかなあ。
205日本@名無史さん:2007/12/29(土) 14:47:41
猛将の評価が高い福島正則が、文禄・慶長の役では加藤清正のように
前線指揮官として配置されなかったのでしょうか?
206日本@名無史さん:2007/12/29(土) 17:47:22
>>204
中世にも天皇を「皇帝」と称している例は普通にあるぞ。
207日本@名無史さん:2007/12/29(土) 17:58:49
福島左衛門大夫様大好き!
208日本@名無史さん:2007/12/29(土) 18:03:56
現在の西暦のような通年での暦が無かった時代、昔の歴史学者はある事件が何年前にあったか、というのをどうやって計算していたのでしょうか。
たとえば江戸時代の学者は、
「えっと、関が原の戦いが起こった慶長5年ってのは何年前の話だったかな?
 元号が慶長、元和、寛永、正保、慶安、承応、……で、
 それぞれ続いたのが20,10,21,5,5,4、……で、
 足し合わせてから重複分を削ると……」
といった感じで計算していたのでしょうか?
209日本@名無史さん:2007/12/29(土) 18:19:06
>>208
ヒント:干支
210日本@名無史さん:2007/12/29(土) 18:42:27
>209
そうなると、
「壬申の乱って何回前の壬申だったかな?」といった間違いも起こりそうなもんですが……。
211日本@名無史さん:2007/12/29(土) 19:47:24
>>208
年号を通しでズラズラ書き連ねた年表っていうか早見表みたいなのがあったんじゃないの?
正直、そんなのがなかったらわかりにくいでしょ。
212日本@名無史さん:2007/12/29(土) 20:00:31
必要な人は基準年を決めて私的通暦を作っていたんじゃないだろうか。
大化改新後何年とか、保元の乱後何年とか、関ヶ原後何年とか。
さらに一覧表を作ったりもしたかも。
○○元年は関ヶ原後何年、○○2年は何年、××元年は何年とか。
脳の機能自体は現代人と変わらないんだからいくらでも工夫は可能では。
と言うより絶対にもっと良い方法を思いついている人がいるよね。
213日本@名無史さん:2007/12/29(土) 20:19:23
>>210
日本書紀の神功皇后関連記事の年紀は、そうした間違いが起こった結果という話も聞くが。
214日本@名無史さん:2007/12/29(土) 20:39:40
>>208
たぶん干支だろ。
元号の順番、継続年数、そして各元号の元年の干支が頭に入っていれば、
まず間違えない。

現代の研究者でも、自分の専門の時代やその前後は、
西暦よりも和暦で頭に入っているのが普通だし。
普段から和暦が当たり前のような環境で歴史を見ていれば、
さほど困難なことではないと思うが。

俺の場合も、自分の専門の時代の前後300年くらいは、
意図的に覚えたことなんてないにも関わらず、元号の順番や干支との対応は
ほとんど頭に入っている。
ただ西暦との対応は結構怪しいから、細かい事件が起こった年なんかは、
和暦でいわれないとしっくり来ない。

もっとも専門外の時代だと逆に西暦でしか分からないが。
215日本@名無史さん:2007/12/29(土) 22:52:19
>>202
3人です。
大日本帝國の時代、天皇が皇帝の地位についていました。

明治天皇は大日本帝國の初代皇帝に、
大正天皇は大日本帝國の二代皇帝に、
昭和天皇は大日本帝國の三代皇帝と
それぞれ即位しておられました。
216日本@名無史さん:2007/12/30(日) 05:09:05
>>215
とりあえず、ここまでの流れを踏まえてからレスしなよw
217日本@名無史さん:2007/12/30(日) 08:26:37
戦国時代や江戸時代も、
現代と同じような口語だったのでしょうか?
218日本@名無史さん:2007/12/30(日) 09:25:57
219日本@名無史さん:2007/12/30(日) 10:37:58
漢字の伝来は何年(もしくは何世紀)になるのでしょうか?
220日本@名無史さん:2007/12/30(日) 10:57:32
昔の人間にも、「今の時代は昔とは違っている」といった認識はあったのでしょうか?
それとも自分の身の回りが全てという狭い認識で生きていたのでしょうか。

鎌倉時代の武士が「平安時代の武士は搾取されていたようだが、今は武家が天下を握るいい時代になったもんだ」と考えたり、
戦国時代の人間が「その昔は戦乱の無い平和な世の中だったのになあ」と嘆くようなことはあったのでしょうか。
221日本@名無史さん:2007/12/30(日) 11:05:46
>>220
>鎌倉時代の武士が「平安時代の武士は搾取されていたようだが、今は武家が天下を握るいい時代になったもんだ」と考えたり、
これは、北条政子が承久の乱のときに演説した内容からみれば、少なくとも鎌倉初期の(幕府成立前のことを実体験している)世代は
感じていたでしょうね。
222日本@名無史さん:2007/12/30(日) 13:59:18
質問です

 武田家旧家臣ですが徳川に吸収されたものが多いようですが、これは大名クラスの
禄高の者だけでしょうか?
 今年佐久郡に言ったのですが行く先々の旧家(旧庄屋等)に伝承や古文書等残って
いて不思議です。地理的情勢的に見ても詐称とはいえない気もしますし・・・
 何故、あの辺りの藩(小諸藩等)では家臣化しなかったのでしょうか?

 また、石高も割りとあるほうな割には藩も少ない理由も知りたいです
 
223日本@名無史さん:2007/12/30(日) 14:41:44
>>215
対外文書で皇帝を名乗ったから皇帝だって言うけど、大日本帝国に決定したのは昭和11年からなんだけどね。
224日本@名無史さん:2007/12/30(日) 18:49:55
>>220-221
昔より境遇は改善されたとは思っているだろうけど、鎌倉時代の武士が
「今は武家が天下を握る時代」などと認識していたとは考えにくい。
225日本@名無史さん:2007/12/30(日) 18:52:12
最初期でそう言う認識を持っていたとしたら、
京下りの下級公家くらい?
226日本@名無史さん:2007/12/30(日) 19:22:21
大江広元なんかは長男を公卿にするためにいろいろと画策したりしているし、
あくまで自分は京都政界で落ちこぼれた負け組でやむを得ず関東に来たという
意識が強いんじゃないの?
227日本@名無史さん:2007/12/30(日) 21:37:46
中には、「昔のように我々が政権を握るべきだ」なんて時代錯誤なことを考える人たちもいたけどな。
いつの時代も。
228日本@名無史さん:2007/12/30(日) 21:54:03
頼朝自身、京生まれの京育ち、
同母の妹は京の公家に嫁いでおり、
娘を天皇の后に差し上げようとしていたくらいだから、
創生期の鎌倉幕府そのものがそういう傾向にあったのだろうね
229日本@名無史さん:2007/12/30(日) 22:26:48
>216
荒らしにかまう奴も荒らし
230日本@名無史さん:2007/12/30(日) 22:59:09
いや、>>215は事実だろ。
231日本@名無史さん:2007/12/30(日) 23:25:22
>>228
しかし京の公家って言っても、一条能保じゃ公家としては大したことないよな。
まあ頼朝にくっついてきた大江広元・三善康信・中原親能あたりなんかも
そもそも堂上なのか地下なのかすら怪しいレベルだが。
232日本@名無史さん:2007/12/30(日) 23:54:45
>>231
頼朝に招かれた公家たちは、鎌倉での功績を認められて
また京へ戻りたいと願っていた。
233日本@名無史さん:2007/12/31(月) 00:38:44
>>226, 231, 232
そのように考えれば,史上最初の幕府体制の最大の貢献者は
武士ではなく,むしろ公家であったと言っても過言ではないな.

幕府は武士と下級公家たちが共同しながら整備していったわけだ.
234日本@名無史さん:2007/12/31(月) 00:41:45
>>230
初代-三代皇帝と記された公文書があるんですか?
235日本@名無史さん:2007/12/31(月) 04:14:48
今現在、城を建てるとするといくらくらいするものなのでしょうか?
236日本@名無史さん:2007/12/31(月) 05:52:42
江戸居住でない旗本ってどのくらいいたのですか?
237日本@名無史さん:2007/12/31(月) 06:17:22
>>235
東北の羽柴秀吉さんに聞くと解るよ
実際に建ててるし
238日本@名無史さん:2007/12/31(月) 06:45:22
羽柴清造の城は建造物はそこそこ立派だが縄張りがクソ
だれでも余裕で攻め落とせる
239日本@名無史さん:2007/12/31(月) 11:10:38
版籍奉還がスムーズに行われた理由について、「当時はどこの大名も財政難にあえいでいたので、素直に応じた」
というものを聞きました。しかし、
1.大名家(地方領主)の誇りを守るため。
2.大名か家老が優秀で財政がまともだった。
などの理由で版籍奉還を拒否した大名家はなかったのでしょうか?
240日本@名無史さん:2007/12/31(月) 14:54:57
>>238
以前テレビでちらっと見ただけだが、
羽柴秀吉城って天守閣もどきが有るだけで
縄張りもクソもないのでは?

それよりホテル○キャッスルの方が攻め落とし難そうw
241日本@名無史さん:2008/01/01(火) 11:23:38
>>239
版籍奉還って言葉を知ってんだから、ぐぐれ。
おれもぐぐって分かったよ。
242日本@名無史さん:2008/01/01(火) 11:41:35
律令制が始まる以前の豪族は,政権業務で飛鳥に来る
用事があるとき,どこで寝泊りしていたんだ?
243日本@名無史さん:2008/01/01(火) 16:29:17
>>233
それを言い出せば、後の室町幕府や江戸幕府だって公家の入れ知恵なしには成立し得ないよ。
244日本@名無史さん:2008/01/01(火) 16:32:02
>>239
版籍奉還は原則としては各藩主たちの自発的な意思によって行われたという
建前であったが、最後まで自発的に奉還しようとしなかった小倉藩など15藩に
対しては、最終的に政府から奉還命令が出ている。
245日本@名無史さん:2008/01/01(火) 16:44:24
豊臣秀吉が官位を有力大名たちにばら撒いてから、江戸幕府が武家官位を設定するまでの期間、京都の公家たちは官位の多くを奪われて大量失業状態にあったのでしょうか?
もちろん、たとえば右衛門大尉といった官位を持っていても実際に内裏の門を守っていたわけではないでしょうが。
246日本@名無史さん:2008/01/01(火) 16:58:30
>>245
大半の官途は既に実態を伴っていない時代なのだから、散位でも位階だけあれば十分。
247日本@名無史さん:2008/01/01(火) 21:50:44
門松の歴史について教えてください
248日本@名無史さん:2008/01/01(火) 22:06:53
>>246
前官待遇も存在したから
249日本@名無史さん:2008/01/01(火) 22:44:37
>>242
オレの想像だけど、飛鳥の頃に遡らなくても、例えば去年の大河ドラマに
出た、海津城。なぜあれを作ったと思う。それなりの軍勢を駐屯させるため
雨露しのぐのに必要だったからではないか。あの城がなければ、軍勢はどこ
で雨露しのぐと思う。幹部は近くに家があれば徴用するだろうが、下っ端は
野宿だな。

今でも旅館やホテルのない田舎はある。もしそこで夜になったらどうする。
神社仏閣か裕福そうな家を探すんじゃなかろうか。でなければ農作の小屋
とか。なんもなければ、野宿だな。そういう場所と分かっていれば、テント
を持って行くな。

江戸時代の大名行列は、基本的に行軍を想定していて、どこでも泊まれる前提
ではなかったか。
250日本@名無史さん:2008/01/02(水) 06:52:43
江戸時代の大名行列でも下っ端は農家泊まりや野宿ですよ
251日本@名無史さん:2008/01/02(水) 10:37:08
ここは何時から初心者が回答するスレになったんだ?
252日本@名無史さん:2008/01/02(水) 10:44:14
>>250
下っ端は現地調達やがな
253日本@名無史さん:2008/01/02(水) 11:23:13
>>249
普段は斑鳩にいる聖徳太子(厩戸王)や河内の物部守屋も
政務の間は,飛鳥の宮の前でテント暮らしか?www
254日本@名無史さん:2008/01/02(水) 17:02:09
>>252藩によるがな
255249:2008/01/02(水) 18:35:13
>>253
マ、似たようなモンでしょ。板蓋の宮だっけか、字がちょっと定かでないが、
屋根がごつい板で葺いてある。当時は鉋とたて引きの鋸がないから、板は
ごつかったようだ。(これらは室町時代とか)

板で葺けないのは、草葺きになる。(木の皮はあったかも→コケラフキだな)
フィリピンだか、インドネシアの島の狩人は移動しながら、竹や草でテント
様の小屋を作って生活するとか言うから、仮の住まいは、似たようなもんじゃネ。

後、大方は草葺なのに、大寺は瓦葺きで丹色などを塗りたくった建物が出現
するから、「青丹よし」となって、田舎モンはびっくりだな。
国分寺などが各地に出現すれば、土地の人はビックリで、もう権威に腰を
抜かすだろ。工事に動員されて恨むのもいるだろうがネ。
256日本@名無史さん:2008/01/03(木) 12:18:28
参考書によって同じ問題の答えが違うんですけど
皆さんわかりますか?

明治政府は1871年に廃藩置県を行ったが、
その結果の記述として正しいのは次のうちどれか。

全国の土地と年貢が新政府の統治下に置かれ、
中央集権的体制としての国内の政治的統一が確立された。
(A参考書はこれが答え。
B参考書では土地は既に版籍奉還によって政府の統治下に置かれているから、誤りである)

集権体制を整備するために三院制とし、
その下に各省を置く制度がとられ、
薩長を中心とする藩閥政府の基礎がほぼ固まった。
(A参考書では、
中央集権体制を整備するために行われたのは太政官制の改正である。
よって誤り。
B参考書では正解)

どっちが正しいですか?
257日本@名無史さん:2008/01/03(木) 14:03:33
>>256
マルチ乙
258日本@名無史さん:2008/01/03(木) 16:47:05
答えてよ
まじで
259日本@名無史さん:2008/01/03(木) 17:04:12
ここは学問文系のカテにある日本史板です。
学問的に無価値な受験勉強についての話題は受験板でやって下さい。

大学受験板、日本史総合スレ
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/kouri/1198013812/
260日本@名無史さん:2008/01/03(木) 17:55:38
>>259
スノッブ乙
学問学問うぜえよいい加減
2ちゃんでナニ気取ってんだよ
261日本@名無史さん:2008/01/03(木) 19:02:51
>>260
停脳乙
262日本@名無史さん:2008/01/03(木) 20:02:35
停脳って味のある誤字だな。
低脳以下って感じが良く出てる。
263日本@名無史さん:2008/01/03(木) 20:34:00
>>260
それを言うなら、参考書の答えを2ちゃんで聞くお前もどうかと思うぞw
264日本@名無史さん:2008/01/03(木) 20:34:33
教えて下さい。
「合戦」と「会戦」の違いってなんですか?
言葉が違うだけなんでしょうか?
265日本@名無史さん:2008/01/03(木) 23:26:47
辞書調べればわかるはずです
266日本@名無史さん:2008/01/04(金) 01:47:55
>>262
気に入ってくれて、ありがと
267日本@名無史さん:2008/01/04(金) 07:03:26
さあみんなで「停脳」を流行らせよう!
268日本@名無史さん:2008/01/04(金) 14:15:47
>>267
黙れ、停脳。
269日本@名無史さん:2008/01/04(金) 15:38:24
昔から武力もあり、政治も表舞台で大活躍でした。
貿易を密かに行っていたイギリス人達でさえ

「薩摩の人間は同じ日本人なのか?と思うくらい他の藩とは違い
恐ろしく強い民族だ」

と絶賛していたそうです。長州も会津も徳川幕府でさえも薩摩の
同行一つで歴史を変えることができる力を持っていることは承知
の上だったので、薩摩が恐ろしくて仕方がなかったそうです。

日清、日露、第二次世界大戦中も薩摩の軍人が率いる九州軍団は
日本軍最強の部隊であり、関西や関東の人間は全く役に立たなく
さぼってばかりだったそうです。根性からして違いますよね。

現代でもスポーツの分野で大活躍の鹿児島県。
鹿児島県の強さの秘密は何なのか?
教えてください。
270日本@名無史さん:2008/01/04(金) 17:18:16
質問です。

富田勢源、富田景政は別人なのでしょうか?
参考資料↓
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E7%94%B0%E5%8B%A2%E6%BA%90
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%A1%E6%B5%81

名人越後として有名な富田重政は
富田勢源の娘婿とも義理の甥とも書かれています。
娘婿の場合、景政が出家して勢源と号したという説、
義理の甥の場合、景政は勢源の弟とする説があります。

教えていただけると有難いです。
271日本@名無史さん:2008/01/04(金) 18:38:01
日本で華族制度が(欧州ほどには)根付かなかったのは、版籍奉還で地方貴族が絶滅したからなのでしょうか?
イギリスとかじゃ今でも地方に荘園を持ってる大貴族とかいるらしいですし。
272日本@名無しさん:2008/01/05(土) 02:46:42
>>271
華族制度がスタートしたのは明治二年のことで、藩籍奉還と時を同じくしています。
ですから藩籍奉還の所為で華族制度が根付かなかった…というのは全くの誤解。

華族制度というのは「皇室の藩屏」…つまり天皇家の取巻きを構築するためのものでして、
同時に資本の偏在を是正し税制を整備、中央集権体制をとる明治政府を強化するためのものだったのです。
従いまして、広大な領地を有する諸藩主を明治政府がそのまま公認するなどということは、寧ろ本末顛倒。

さて、この華族制度が根付かなかった原因ですが、本質的なところはこの制度が自活手段として
生かせなかったことかと思われます。
特権といえるものは貴族院議員になれることくらい。
しかし政治家であり品位も保たなくてはならないので何かと物入り。
しかしながら、藩の殆どは超過債務に苦しんでいたのですから大層な資産などあろうはずもない。
ましてや、貧乏公家や幼少時の貧乏話が自慢な勲功貴族においておや。

まぁ華族世襲財産法といって世襲財産を設定し国が保護する法律もあったのですが、
これは世襲財産に対する第三者の抵当権や質権らを禁止するというものでして、逆に言えば
融資を受ける余地が少ないということであり、事業も起こせない。全うな担保を用意できなければ
「大名貸し」する商人などいません。結果として、この法律が足かせになったのです。

そして日清日露戦争に勝利し、天皇を「臣と民」によって直接支える国民国家が醸成される明治末期に
なれば、華族はさしたる存在意義もなくなりその立場自体が重荷になるだけだったのです。
273日本@名無史さん:2008/01/05(土) 03:45:34
>271
>日本で華族制度が(欧州ほどには)根付かなかったのは、版籍奉還で地方貴族が絶滅したからなのでしょうか?
つ相続税
>イギリスじゃ今でも地方に荘園を持ってる大貴族
富の九割りを一%に満たない貴族が独占している事をどう捉えるかによりますが完全に板違いですね

>269
ここは学問・文系の日本史板です
誤爆でしょうか?お国自慢という板が別のところに在ったと記憶しております
274日本@名無史さん:2008/01/05(土) 08:46:50
勲功華族を増やしすぎたことで、華族=貴種という等式が必ずしも
成立しなくなったことが、一般国民の華族に対する尊崇の念を希薄にし、
結果的に戦後の華族制度廃止に際して反対論がほとんど沸き起こらない状況を
つくった側面もある。
275日本@名無史さん:2008/01/05(土) 09:54:48
日本史・日本近代史は学問板なのに、戦国史はなんで趣味板にあるんだろうか。
276日本@名無史さん:2008/01/05(土) 11:48:29
>275
それを言うと軍事板のやつらが暴れだすので黙殺せよ。
277日本@名無史さん:2008/01/05(土) 12:08:36
>>276
それじゃあ、軍事も学問板に入れればいいのに。
まぁ、少なくとも、戦国史は学問板に入れた方が良いと思うけど。
278日本@名無史さん:2008/01/05(土) 13:40:47
277の言う学問板の定義って・・・
とりあえず漏れ的には両方とも不許可
279日本@名無史さん:2008/01/05(土) 13:55:39
個人的に華族制度が崩壊したのは経済的問題よりも国民に対して責任を果たしてないからな気がする
軍部の暴走も止められなかったわけだし・・・国家存亡のときに命を投げ出して(大局にという意味で)
処理に当たるべきなのに近衛をはじめ軍部に抗し切れず・・・

経済的に貧しくとも江戸期の武士のような存在もいるわけで、

存在意義が無かったのが最大の原因では?
280日本@名無史さん:2008/01/05(土) 14:15:51
まあ,日本では特権制が馴染まないのも事実なわけで・・・と,
持っていても何のメリットを見出せない,博士持ちが言ってみる.
281日本@名無史さん:2008/01/05(土) 17:32:26
軍事板の連中、暴れるかなぁ。↓のようなこと書いて笑ってる連中だしw


> 【質問】
> 軍事はなぜ「趣味」カテゴリーなんですか?

> 【回答】
> 『実用』だったら怖いだろ?

> 良いじゃないか。
> 軍事が「生活」な国も有るんだぞ。
282日本@名無史さん:2008/01/05(土) 20:22:25
ちょっと違う質問よろしいですか?

(平安)京を「京都」と名乗った始めはいつのことですか?
京都所司代などは、信長の時代からあるようですが、確か
に「京都」と名乗っていたのでしょうか?

東海道五十三次などは「京」ですよね?
283日本@名無史さん:2008/01/05(土) 20:41:06
>>282
〔京都〕の初出は988年の「尾張国郡司百姓等解」
とりあえず言うが、平安京=京都ではないぞ。
284日本@名無史さん:2008/01/05(土) 20:59:28
「尾張国郡司百姓等解」で調べたら、京都地名研究会
でも「京都」の初出のことを言及してるようですね。
ただし京都は普通名詞のみやこをさしているようです
が。

平安京=京都ではないとの指摘ですが、改めて質問さ
せてください。現在の京都市の中心部あたりを「京都」
と一般的に言うようになったのはそうするといつなん
でしょうか?
285日本@名無史さん:2008/01/05(土) 21:12:38
>>284
>ただし京都は普通名詞のみやこをさしているようですが。
そういう言葉なんだが?w
286日本@名無史さん:2008/01/05(土) 21:56:52
>>280妬みぽっい民族なのかな?
287日本@名無史さん:2008/01/05(土) 22:13:13
むしろ勲功華族が少なすぎた為だと思うけど。
もっと下位の爵位が2、3あって、誰でも努力と運に恵まれれば手に届く可能性もある。
って感じなら愛着があったんじゃなかろうか?
手が届くわけもなければ、妬むか無関心しか有りえない。
反対派より大多数の無関心層が問題だったのでは?
288日本@名無史さん:2008/01/05(土) 22:17:51
下位の売爵とかあったら面白かったかもね。
金持ちから政府が金を巻き上げる為の単なる名誉職みたいなやつ。
289日本@名無史さん:2008/01/06(日) 01:33:04
>279
貴族制度が崩壊したのは経済的問題よりも国民に対して責任を果たしてないからな気がする
軍部の暴走も止められなかったわけだし・・・国家存亡のときに命を投げ出して(大局にという意味で)
処理に当たるべきなのに軍部に抗し切れず・・・

WWTの独貴族をこう批判していた日本人評論家がいた希ガス
貴族なんてこんなもんジャマイカ?
それとも>279が言う貴族って中国人なのだろうか…
日本の場合はGHQの政策だろ?
WWUに参戦しなければ英の上院(貴族院)のような形で現在まで続いていたんじゃないのかな
皇室が存続している限りその藩屏たる貴族はどういう“カタチ”であれ存続するだろうし
まぁ仮定の話に結論なんかでないわけだが(苦笑
290日本@名無史さん:2008/01/07(月) 03:12:53
>>285
九州には郡名としても京都(みやこ)郡が存在するしな。
「京都」と書いて「みやこ」と読む一般名詞は確実に存在する。
291日本@名無史さん:2008/01/07(月) 03:33:35
>>279
日本の華族は元々多分に名誉的な身分であって、秩禄処分以降は実のある
特権なんて現実的にはほとんどなかったから、国家・国民への責任云々を
いうのは酷な話だろう。
明治政府はあくまで皇室の藩屏として華族を組織したかっただけで、必要以上の
特権や政治的発言力を与えるつもりは当初からなかったわけだし。

貴族院議員についても、皇族や公・侯爵は成人すると形式的には自動的に議席を
与えられたが、これも名目的な肩書きを与えているに過ぎず、彼らは議場へは
足を運ばないことを通例とし、議員歳費の給付もなかった。
だから結局貴族院を運営していたのは、勲功華族の割合が高い伯爵以下の
華族から互選で選ばれた議員と勅撰議員・多額納税者議員がほとんどであり、
名前とは裏腹に、正真正銘の貴族のための議会とはとても言い難い状況だった。
292日本@名無史さん:2008/01/07(月) 03:45:12
>>287
でも日本の華族なんて、例えば軍人になって将官クラスまで出世したりすれば、
割と簡単になれたと思うぞ。

やはり貴族に一番求められるのは貴種性であって、そういう意味では出自の
怪しげな勲功華族の増大はマズかっただろう。
戦後の廃止時には、華族の5割強くらいが勲功華族だったといわれるし。

もちろん国家に対して功績を挙げた者に対して爵位の授与という形で報いる
という方法はあってよいと思うが、それでも勲功華族については、明治維新の
元勲レベルの偉功がある場合を除いては、イギリスのように本人一代限りの
爵位にしておけば一番良かったのだろうと思う。
293日本@名無しさん:2008/01/07(月) 12:43:46
>>292
軍人なんていうのは昔から成り上がりのルートであって、華族がやりたがるものではないよ。
兵卒になればそこいらの百姓と扱いは同じ。3Kだけじゃなく華族だという理由でイジメに遭う。
出世しなければそんな暮らしのまま。士官学校を出てもそこいらの士官と扱いは同じ。
だから大名の分家筋とかが多い。「武門の家だから」という動機づけや矜持もあろうが
辛抱していれば成り上がりも叶うからね。それに華族の嫡子なら親がさせたがらない。
戦争に限らず、事故などであっさり死んでしまっては困るから。
醍醐提督のような人は例外に近い。

294日本@名無史さん:2008/01/08(火) 04:48:30
>>293
てか>>292は勲功華族の話だろ。
勲功華族の出身分野として一番多いのは軍人。
軍人としての勲功が叙爵理由になるケースが勲功華族では多いからね。
だから日清・日露戦争の直後の時期に勲功華族の数が一挙に増える。
295日本@名無史さん:2008/01/08(火) 17:52:54
そんでもって昭和期の無能力の頭でかっちな軍人が自分たちの勲功の為に無意味な作戦をたくさん立て
ことごとく失敗したと・・・
296日本@名無史さん:2008/01/09(水) 02:51:48
昭和期になると国益重視のバランス感覚に優れた薩長閥に復讐すべく東北人脈が
国益無視の党利に走ったから破滅したんだよね。
天皇機関説とか皇道派とかもう不毛で結論の出ない無意味な軍人も混ざって政争を開始して政治は迷走破滅。
297日本@名無史さん:2008/01/09(水) 09:00:41
日本外史を読みたいんですが漢文は読めないので
現代語訳でお勧めの本を教えて下さい。
298日本@名無史さん:2008/01/09(水) 09:05:39
>>297
まともな教育を受けた日本人なら漢文は読めるはずです。
299日本@名無史さん:2008/01/09(水) 10:36:36
センター試験とかだと、漢文って一番満点が取りやすい科目だしね。
300日本@名無史さん:2008/01/09(水) 12:26:48
>>296
薩長閥だって元老クラスが消えたあとは大した人材はいない。
301日本@名無史さん:2008/01/09(水) 13:28:27
御家人や旗本の株っていくらくらいで取引されていたのでしょうか?
302日本@名無史さん:2008/01/09(水) 14:17:22
時代によって違うけど一例として、与力千両、徒五百両、同心二百両が相場だったそうだ。
303日本@名無史さん:2008/01/09(水) 19:24:53
生類憐れみの令廃止後、中野の囲いなどにいた何万という野犬はどうなったのですか?
304日本@名無史さん:2008/01/09(水) 19:53:07
1400年頃前の豪族には、正妻と妾みたいなのってあったのですか?対立したりドロドロしたり。
305日本@名無史さん:2008/01/09(水) 23:19:55
>>302そんな高いわけ無かろうに・・・
306日本@名無史さん:2008/01/10(木) 00:14:21
室町時代に将軍から名前を一文字貰ってる人が居ますけど
謝礼はいくらぐらいなのでしょうか?
307日本@名無史さん:2008/01/10(木) 00:39:05
>>306
黄金3000枚
308日本@名無史さん:2008/01/10(木) 03:01:22
戦国時代、改元はどのように知らされたのですか?改元を知らずに前の元号を使い続けた例も
あるのですか?
309日本@名無史さん:2008/01/10(木) 03:02:10
>>306
下の字で20両程度、上の字(義)で100両程度とどっかで
読んだ記憶が有る。
310301:2008/01/10(木) 09:05:17
>>302,>>305

ありがとうございました。
311日本@名無史さん:2008/01/10(木) 18:55:14
>>308
戦国時代に限らず、例えば関東とかの史料を見ていると、京都で改元が
行われてから、一週間程度は改元を知らずにそれまでの元号を使用している
ケースが多い。
その日のうちに情報が伝わらない以上、当たり前だが。
ただ改元の情報を知っていながら、旧元号を使い続けている場合は、別の意図を
考えなければならない(例、享徳の乱の最中の古河公方成氏とか)。
312日本@名無史さん:2008/01/10(木) 19:27:00
>>309
当時のお金の単位は「〜両」ですか?
313日本@名無史さん:2008/01/10(木) 20:59:45
つくばね社「資料が語る江戸期の社会実相100話」日本風俗史学会編
(執筆者圭室文雄・小川恭一等)によると、
与力の収入が228俵2斗、徒が95俵、同心が40俵で、
各々1000両、500両、200両に利息を考えても
購入側は採算が取れるものとされていたそうだ。
そうすると購入額はまあ概ね収入に比例していることになるな
314日本@名無史さん:2008/01/10(木) 21:12:13
>>312
貫もしくは疋
315日本@名無史さん:2008/01/10(木) 21:20:52
>>312
その程度はググるべきかと。
316日本@名無史さん:2008/01/10(木) 21:29:03
>>312は正解を知ってる上で突っ込みを入れてるとしか思えないが。
317日本@名無史さん:2008/01/10(木) 21:46:35
1貫=10疋=1000文だっけ?
318日本@名無史さん:2008/01/10(木) 22:05:25
1疋=100文
319日本@名無史さん:2008/01/11(金) 03:12:14
青空文庫で読める、戦国時代を舞台にした小説を教えて。
320日本@名無史さん:2008/01/11(金) 03:42:55
1疋=0.1貫
321日本@名無史さん:2008/01/11(金) 04:44:04
近江の山奥に逃げていて改元を知らされなかった将軍っていたよね。
周りはみんな知ってて将軍周辺だけずっと知らずに手紙を書いてたやつ。
322日本@名無史さん:2008/01/11(金) 07:18:28
>>231
それって天文改元のときの義晴?
323日本@名無史さん:2008/01/11(金) 19:34:10
>>308
元号とか天皇関係の質問には特定団体の意図に沿った回答をしなければ荒れてしまう現状です。
ですから私の回答は極論だと思ってください。

元号は使用する人が限られていました。
民衆の大多数の生活には元号も曜日もありませんでした。
時計もカレンダーも民衆の生活にありませんし書状もたしなみません。
日々の生活は領主との関係や村単位の人間関係に集約され隣の村や他の領主の支配地は敵国となっている場合も多かったのです。
祭りなどは告知で伝えられ領主の管理の下行なわれました。(当然一般論です。例外はあって当然です。)

で、元号を使う人とは僧侶や一部の領主です。
通常は十二支の組み合わせによる暦を使います(当時の書状の大半がこれ)
元号は添え書きされる程度です。
その添え書きで改元を知る程度でした。
私のレスは極論ですので当時の書状を検索して調べたり資料を当たってみると面白いと思います。
(あくまでこのレスは私の個人的な見解であり皇国史観を否定する意図も天皇陛下の威光を傷つける気もございません。)
324日本@名無史さん:2008/01/11(金) 19:52:47
>>323
それはいつの話だ?近世初頭(慶長〜元和頃)の農村の借金証文
などは普通に元号と干支が見られるんだが。
で、民衆たちはころころ変わった年号よか、60年周期の十干十二支を
使う場合が多かったらしいという話も聞いた事が有る。
325日本@名無史さん:2008/01/11(金) 20:30:08
>>323
>元号は添え書きされる程度です。

それは差出人が書いたものではない。
私的な書状とかでは、日付は月日のみで年を書かないケースが多いが、それを
受取人が廃棄せずに長く保存したい場合に、何年に受け取ったものか分からなく
ならないように年をあとから書き添えている。
これは文書の実物を見れば、そこだけ明らかに筆跡や墨の色・濃淡が異なる
ことも多いから、よく分かる。

ただ後世に証拠文書となりうるような公的性格の強いものは、最初から
年号付きで日付が記載される。
例えば将軍の命令書でも、私的な性格の強い御内書には年号は書かれないことも
多いが、公的な性格の強い御教書では必ず年号は書かれる。
326日本@名無史さん:2008/01/11(金) 20:38:29
てゆうか農作業に暦は必須。
農民が暦を知らないことはありえない。
327日本@名無史さん:2008/01/11(金) 20:58:22
>>326
解ってて言っているような気がするが、
米作は徴税品であり徴税を任されている庄屋や村役が指導している。
当時の村は個人で生きている社会じゃない。
328日本@名無史さん:2008/01/11(金) 21:14:44
昔は日本史が好きな人が解答者だった。
今は皇国史観の解答しか許されない。
解答を前程とした質問も多くなり自作自演ばかり。
だからみんな去っていった。
勉強は自分のためにすればいいんだから時間を浪費して解答してやる必要は無いよ。
329日本@名無史さん:2008/01/11(金) 21:46:54
皇国史観もブサヨ史観も平等に無価値だ
ネットで価値があるのは説得力ある根拠に支えられた意見、それだけだ

それが分からないようなやつは、一生回答なんかしなくて結構
330日本@名無史さん:2008/01/11(金) 21:53:41
徳川家継は一七歳未満で死んだわけだから将軍職は誰かが成るにしても、
徳川宗家は取りつぶしになるべきじゃないの?
331日本@名無史さん:2008/01/11(金) 23:15:24
>>330
wikiソースで申し訳ないが、1663年に17歳未満でも
末期養子を取ることが認められたみたいよ。
332日本@名無史さん:2008/01/12(土) 00:10:16
>>323>>328
このスレで、そんなイデオロギー的な発想の強い奴なんて、質問者にも回答者にも普通にいないだろ。
このスレは、別にウヨサヨ論争とか皇国史観orマルクス史観が云々とかそういうことを論ずるスレじゃないし。
>>329に同意。
333日本@名無史さん:2008/01/12(土) 00:11:21
>>327
だからなんだ?
334日本@名無史さん:2008/01/12(土) 02:42:50
>>323>>328

日本史よろず問い合わせ処とかの質問スレが乱立していた頃(五年ぐらい前かな)から見てるけど
質問スレで君が言うような荒れ方をしたことは無いよ

そういう書き込みがあっても、別スレへ誘導されるだけで誰も相手にしないし(苦笑
335日本@名無史さん:2008/01/12(土) 06:54:29
きっと>>323>>328はこのスレの流れをウヨサヨ論争に誘導したいんだよw
相手にしちゃダメ
336日本@名無史さん:2008/01/12(土) 07:00:19
>>327
前近代の暦には、朝廷の陰陽寮が作っている具注暦とか各地の神社とかが頒布している暦とかがある。
特に木版印刷が可能になった室町期以降だと、こうしたものが地方の農村なんかでもかなり大量に出回っている。
だから中世後期や近世の場合、少なくとも農村の有力者クラスは当然そうした暦を毎年入手している。
そして彼らは村の一般農民に対しても、そうした暦から得られた知識を教え、農作業を指導していたはず。
337日本@名無史さん:2008/01/12(土) 08:04:00
>>330
武家諸法度は徳川幕府には適用されない。
338日本@名無史さん:2008/01/12(土) 09:16:03
式目は適用される。
339日本@名無史さん:2008/01/12(土) 09:17:33
上が範を示さないのはどうかとおもう。
340日本@名無史さん:2008/01/12(土) 09:22:25
当初の規定では、大名の正室に男子がない場合、
庶子があろうともお家取り潰しじゃなかったか?
上の規範も何も、徳川宗家では、家康、家光以外、
すべて妾が産んだ庶子だったはずだが。
341日本@名無史さん:2008/01/12(土) 10:58:51
大河「吉宗」では、家継の死後に、吉宗が幕臣達に向かって
「あんたらみんな今日から浪人だ」っていってたね
342日本@名無史さん:2008/01/12(土) 11:38:48
徳川宗家は家継で滅んで吉宗は新徳川家の開祖と言うのが正しいのかもしれない。
旧幕臣は再雇用されただけ。
343日本@名無史さん:2008/01/12(土) 11:49:43
徳川家斉は新徳川家の開祖
徳川家茂は新徳川家の開祖
徳川慶喜は新徳川家の開祖

徳川吉宗が将軍となった後も
江戸城内には先々代の正室や側室たちが住んでいたが
344日本@名無史さん:2008/01/12(土) 12:02:11
じゃあ綱吉と家宣も新徳川家の改組なんじゃん?
345日本@名無史さん:2008/01/12(土) 12:10:02
>>340
慶喜は正室所生
346日本@名無史さん:2008/01/12(土) 12:13:02
>>345
慶喜は養子。
慶喜は水戸屋敷で誕生し、
慶喜生母は大奥へ入ったことが一度もない。
347日本@名無史さん:2008/01/12(土) 12:22:53
だからなに?
348日本@名無史さん:2008/01/12(土) 13:02:29
慶喜は誰の養子?
349日本@名無史さん:2008/01/12(土) 13:38:36
徳川綱吉は新徳川家の開祖
徳川家宣は新々徳川家の開祖
徳川吉宗は新々々徳川家の開祖
徳川家斉は新々々々徳川家の開祖
徳川家茂は新々々々々徳川家の開祖
徳川慶喜は新々々々々々徳川家の開祖
350日本@名無史さん:2008/01/12(土) 19:43:57
徳川家達は新々々々々々々徳川家の開祖
徳川恒孝は新々々々々々々々徳川家の開祖
351日本@名無史さん:2008/01/12(土) 22:32:51
なんか尾張家も五郎太が死んだ時点で本来は断絶で、
その後続いているのは特恩みたいなものだから将軍継承権がさがったって説もあるみたいだな。
352日本@名無史さん:2008/01/13(日) 00:26:21
昔の日本では一日の始まりは何時からだったんですか?
夜明け?日暮れ?子の刻?正午?
353日本@名無史さん:2008/01/13(日) 00:26:52
上げ忘れた
354日本@名無史さん:2008/01/13(日) 01:24:14
夜明け
355日本@名無史さん:2008/01/13(日) 03:14:07
>>351
そんなこといったら、紀州も水戸も直系じゃなく弟だよ。
綱教、頼職の弟が吉宗だし、綱方の弟が綱條。
どんな根拠でそういう説ができたの?
356日本@名無史さん:2008/01/13(日) 10:36:13
弟でも遠い親類でも極端に言えば赤の他人が継いでもかまわない。
まあ御三家の場合は徳川の男系じゃないと問題有るだろうけど。
また非成人、更には零歳児が継ぐことも許容される。
ただしこれは将来成長して将軍に奉公することが前提。
従って幼少のうちに死亡したものは奉公の実績がないので後継者を指名することが出来ない。
と言う理屈のようだ。
つまり紀州や水戸は成人からの継承だから問題なし、
尾張の五郎太は奉公の実績がないうちに死亡したから駄目。
本来なら尾張家は取りつぶしだが、徳川一門でかつ大藩であることから、
取りつぶした場合の影響の大きさを考えて特に継承を許す。
と建前上はそうなるらしい。

実際は家の組織で奉公するんだから当主が幼少でも問題ないけど、
建前上は当主個人が家を代表して奉公するものだからこうなる。
封建制度は建前が重視される。
裏は色々、身代わり相続とか年齢詐称とか。
357日本@名無史さん:2008/01/13(日) 14:14:57
近世の養子縁組って血縁関係を考慮しないよね。
中世だと信じられないが。
358日本@名無史さん:2008/01/13(日) 14:49:19
中世は異姓養子禁止社会
359日本@名無史さん:2008/01/13(日) 15:15:58
後期足利将軍の第10代・義稙から第14代・義栄までの肖像画を
示したサイトって知らない? どんな顔だったのか知りたいんだが・・・
360日本@名無史さん:2008/01/13(日) 15:19:15
>>359
文献に当たれ
バカが
361日本@名無史さん:2008/01/13(日) 15:26:46
バカっていうほうがバカだって吉永先生が言ってた
362日本@名無史さん:2008/01/13(日) 16:10:00
>>357
それは下級武士や商人の場合。
大名クラスだと、政治的理由や幕府側の都合など、よほどのことがない限り、
男系の血縁者を最優先している。

宇和島伊達家など、旗本の養子に出されていた男系子孫を呼び戻している。
363日本@名無史さん:2008/01/13(日) 16:19:03
大名の家系図を調べてみればわかるけど、親藩や外様の国持大名のほとんどは男系維持。

親藩で、早くに家康の男系が崩れたのは、久松系から養子を取った糸魚川藩(福井分家)と、
松江の分家の小藩の二つしかない。
あとは幕末も押し迫った文久期に、川越藩が有馬家から養子を入れた例があるのみ。

また、外様の国持大名で男系が途絶えたのは、江戸中期までは上杉、黒田、蜂須賀しかない。
あとは幕末になってから徳川の血縁者から養子を入れた池田両家があるのみだ。
364日本@名無史さん:2008/01/13(日) 16:22:22
元老制度って元老がみんな死んだら終わりじゃないですか、
桂 太郎や牧野 伸顕あたりを元老にして継続しようという案は
なかったのですか?
365日本@名無史さん:2008/01/13(日) 17:19:02
桂太郎は元老になってる。

あと、大正末期から山本権兵衛を元老または準元老にしようという構想はあったが、
西園寺が反対して実現しなかった。
薩摩閥があまり強固な結束でなかったのも、実現しなかった理由といわれる。
366日本@名無史さん:2008/01/13(日) 17:21:28
>>361
俺の恩師は、「バカにはバカといってやれ。いっとくが本人のためじゃない。邪魔でうざいからだ」
とよくいってたなw
367日本@名無史さん:2008/01/13(日) 18:25:02
しりとしりとでおしりあい、かばとかばとでかばいあい、ばかとばかとでばかしあい
368日本@名無史さん:2008/01/13(日) 19:07:17
星亨の書生には誰がいましたか?
369日本@名無史さん:2008/01/13(日) 19:10:39
質問です。
平安時代末期、後白河天皇は今様にうつつを抜かし、
「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と兄の崇徳上皇jから酷評されていたと申します。

この発言から多少気になったのですが、この時代に天皇や皇族が武芸をたしなむ事はあったのですか?
370日本@名無史さん:2008/01/13(日) 19:53:39
>>363
池田は幕末期以前にも相良から養子が入ってなかったか?
371日本@名無史さん:2008/01/13(日) 20:10:09
相良長寛(第11代人吉藩主:1769相続)が
備前岡山藩主・池田宗政の次男。
372日本@名無史さん:2008/01/13(日) 20:28:11
岡山池田の最初他家養子藩主は島津からみたい。
たしか母親が鳥取池田の姫だから女系でわずかに血縁が繋がるのかな。
373日本@名無史さん:2008/01/13(日) 21:57:47
>>369
武芸としてまず乗馬は皇族の基本だったようです。
馬で天皇の参内のお供をすることも多かったようですし、
光源氏も、有名な葵祭で馬に乗っています。
あと、弓矢も練習はしていたようですよ。
皇族ではありませんが、伊周・隆家が花山天皇を弓で射ています。
374368:2008/01/13(日) 23:17:44
追加質問
三浦梧楼は星亨の書生になっていたことはありますか?
375日本@名無史さん:2008/01/13(日) 23:30:49
376日本@名無史さん:2008/01/14(月) 00:00:27
三浦の方が年長で地位もはるかに高いんだが・・・
377日本@名無史さん:2008/01/14(月) 02:45:35
宇佐八幡神託事件で有名な和気清麻呂の、本来の役職や職務は何ですか?
長岡京から平安京への遷都を提案したり、大和川の新水路を開鑿しかけたりと、
土木関係の職務が多いようですが。
378日本@名無史さん:2008/01/14(月) 03:27:24
>>369
これって藤原信頼の評じゃなかったっけ?
379368:2008/01/14(月) 09:02:48
>>376
じゃあ、どんな人が書生だったのか解らないでしょうか?
380日本@名無史さん:2008/01/14(月) 10:14:41
>>377
和気清麻呂は普通に奈良〜平安時代にかけての官僚なんだが
宇佐八番宮神託事件で道鏡の即位を阻んだことから
称徳天皇が没すると都へ呼び返されて
藤原氏および桓武天皇に重用されたが
平安京造営使に任命されたことなどは桓武天皇による厚遇じゃないのか
道鏡を追っ払ってくれたことで桓武天皇は即位できたのだし

381日本@名無史さん:2008/01/14(月) 11:37:54
和気清麻呂
733年備前の地方豪族一族(藤野郡司?)として生まれる。本姓は磐梨別公か?
その後おそらく姉広虫が采女。本人は兵衛となったと思われる。
姉広虫が孝謙女帝の側近となりおそらくはその引きで昇進。
765年時点従六位上(33歳、地方豪族としては上々:当時藤野別真人)
同年勲六等(従五位下礼遇、おそらく恵美押勝の乱の功績、但し具体的戦功不明)
吉備藤野和気真人に改姓(このとき従六位上右兵衛少尉)。
その後正六位上に昇進。(766年正月か?)
766年従五位下近衛将監昇進(34歳、一流貴族並み)
769年輔治能真人に改姓。
同年道鏡事件で因幡員外介(左遷)、更に流罪、別部に改姓。
770年称徳女帝崩御、その後姉と供に京都召還(この時は単なる和気?)。
771年無位から従五位下に復す(この時和気公)。
同年播磨員外介(この時和気宿禰)。
774年和気朝臣に改姓。
781年従四位下昇進(49歳。一挙四階特進)
783年摂津大夫。
784年従四位上(52歳)
786年兼民部大輔。
788年兼中宮大夫。
788年時点美作・備前二国国造
790年正四位下(58歳)
796年以前民部卿。
796年従三位(64歳、地方豪族としては異例)
799年没、贈正三位(67歳)

簡単に言うと地方豪族出身で中下級武官に昇進、さらに一般官僚に転じて異例の昇進、
って感じかな。
382日本@名無史さん:2008/01/14(月) 13:30:22
地方官としての実績じゃないかな?
光仁朝で復位こそしたけれど、出世していない。
だから、宇佐事件における朝廷の清麻呂評価は後世が思うほどには高くなかったかと。
383日本@名無史さん:2008/01/14(月) 19:10:18
日本史板ってどうしてこんなに板の気風が殺伐としているんでしょうかね?
384日本@名無史さん:2008/01/14(月) 19:22:22
>382
和気清麻呂の父親は無位無官の郡司。
清麻呂は成人後まもなく姉を頼って平城京へ出仕しており
中央官僚の道へ。
地方官はやっていないよ
385日本@名無史さん:2008/01/14(月) 19:36:50
いやおそらくここで言う地方間とは中央官僚としての国司の意味だと思うが、
ただ具体的に国司として活動があるかどうかよくわからない。
復権直後の播磨員外介は単なる待遇かもしれないし、
その後正史では摂津大夫就任まで官歴がよくわからない時期が続く、
摂津大夫はまあ副都長官みたいなもの。
今の感覚だと京職大夫を東京都知事とする神奈川県知事くらい?
その後の経歴から見てこの間は国司、民部省(財務省)や造宮関係あたりをやっていたのだろうか?
386日本@名無史さん:2008/01/14(月) 19:55:31
和気清麻呂が791年の平安京遷都に何らかの
有益な役割を果たしたことは間違いない。
造作好きな桓武天皇に気に入られたのだろう。
その後、桓武天皇に民部卿に抜擢され、
桓武のブレインでもあった民部大輔菅野真道とともに働き、
桓武天皇の母方和氏譜の編纂にかかわる。
最終的には郡司の出身としては出世をした。
387日本@名無史さん:2008/01/14(月) 20:41:45
郡司の息子(多分)で公卿になったのは和気清麻呂一人だろう。
後に郡司出身の参議がいるが、一応父親の段階で下級とは言え国司になっている。
吉備真備も国造家のでらしいので郡司層の出身とは言えるが、
これも父親が既に下級官僚となっている。
388日本@名無史さん:2008/01/14(月) 23:45:27
和気氏って渡来系じゃないの?
桓武朝で活躍した人は基本的に渡来系と昔ならったような・・・。
389日本@名無史さん:2008/01/14(月) 23:53:20
帰化人だよ
390日本@名無史さん:2008/01/15(火) 00:09:50
辛酉の年と甲子の年はどうして必ず改元するんですか?
中国とかにはそんな風習ないですよね?
391日本@名無史さん:2008/01/15(火) 07:30:58
平清盛と源頼朝は両者共に武士身分で、異例の出世を遂げた人物なのですか?

あと日章旗が紅白の色で成り立っているのは、
源平となにか関係があるのですか?
源平は源氏が白旗、平氏が赤旗を用いたと聞いた事がありますので。
392日本@名無史さん:2008/01/15(火) 08:23:49
幕末の薩摩を扱った「篤姫」に何故に男色シーンが登場し無いのぢやゑ?
如何に「婦女童蒙」向きの大衆ドラマだとて、はてさて面妖な限りぢゃて。
当時の鹿児島では衆道が、まだまだ盛んで、男尊女卑は身分の上下を問わず
徹底していた筈であろうに(つい近年まで男女の衣類は一緒に洗濯せなんだの)
脚本家は、原作者よりも非道い歴史に何の関心もナイ無知な人物なのぢやな?
西郷や島津公らの男色場面は何としても描く可きぢゃぞゑ!
わけを教えてたもれ。
393日本@名無史さん:2008/01/15(火) 08:56:12
平清盛と源頼朝、武士ではあるけど武士身分はないと思う。
どちらも先祖が侍身分(武士とイコールではない)まで低下していたが、
遅くとも父親の代には諸大夫身分に上昇。
つまり中級ないし下級貴族の出で異例の出身をしたと捉えるべきでは。
と言うかこの時期には武士身分なんてものはないと思う。
武士は諸大夫身分と侍身分の一部、郎党は微妙。
394日本@名無史さん:2008/01/15(火) 11:10:01
勘解由小路家はどうして「かげゆこうじ」でなくて「かでのこうじ」なんですか?
395日本@名無史さん:2008/01/15(火) 14:16:54
万里小路家はどうして「ばんりこうじ」でなくて「までのこうじ」なんですか?
396日本@名無史さん:2008/01/15(火) 14:33:18
>>394-395みたいな低脳が学問板に迷い込んでるのはなんでですか?

しょせん2ちゃんだからとか言ってたやつはスレが幼稚園みたいになったら責任とれるんですか?
397日本@名無史さん:2008/01/15(火) 22:04:21
>>394-395が低脳なら、>>396は停脳だ
398368:2008/01/16(水) 10:58:45
まとめサイトに、氏は「の」が入り名字には入らないとありますが、いまの人の名前は氏なんですか?
例えば、田中一郎だったら、「たなかのいちろう」とか。
399日本@名無史さん:2008/01/16(水) 11:04:44
現代日本人の姓は概ね名字の流れをくむもので氏ではないです。
但し別に規定があるわけではないので氏をそのまま名字にしても違法ではないです。
あと公家の一条とか近衛とかの場合は正確には名字とは言わないそうです。
確か称号とか言ったような。間違ってたらすみません。
400日本@名無史さん:2008/01/16(水) 11:12:06
×氏をそのまま名字にしても
○氏をそのまま姓にしても
現代の一般的用法だと姓=名字なので、ついやってしまいました。
401368:2008/01/16(水) 11:43:38
>>399>>400
サンクス。
いま、歌会始を見てたら、「の」を入れて言ってたから、何でかなぁと思ってさ。
402日本@名無史さん:2008/01/16(水) 11:44:04
>>399
公家の場合は普通は家号だろ。
403日本@名無史さん:2008/01/16(水) 11:47:21
あと家(氏族)を指していう言い方も、
公家の家号の場合は「○○家」、武家の苗字の場合は「○○氏」という言い方が普通。
404日本@名無史さん:2008/01/16(水) 14:36:02
鎧武者が持ってる弓で射られたら死んだり大怪我しますか?
405368:2008/01/16(水) 16:17:12
よく大河ドラマで、戦国大名のことを「お屋形様」と呼んでおりますが、江戸時代の大名の場合、何と呼ばれていたのでしょうか?
406日本@名無史さん:2008/01/16(水) 16:58:10
tono
407368:2008/01/16(水) 17:15:44
>>406
それが変わったのは、いつからでしょうか?
408日本@名無史さん:2008/01/16(水) 17:58:01
御屋形様って言うか室町時代の屋形号は守護か特別に許可されたものだけだったらしい。
だから今川や武田は当然として、北条・織田・浅井・毛利などが呼ばれていると変?
僭称ってことになるのかな?特に許されていれば別だけど。
朝倉は正式な守護かどうかよくわからんけど、多分屋形だったんだろう。
江戸時代はそう言う旧族大名がほぼ絶滅しちゃったから自然に一般の大名は殿になったのでは?
江戸時代でも御三家とか旧守護の佐竹・島津あたりは屋形号を許されていた。
上杉は本来守護代だが前代から特に許されていたから江戸時代も屋形。
409日本@名無史さん:2008/01/16(水) 21:12:16
国持大名は御屋形様ないし太守って言われたって説もあるみたい。
410日本@名無史さん:2008/01/16(水) 23:47:12
雑役と臨時雑役はどう違うのですか?
411日本@名無史さん:2008/01/17(木) 05:38:29
日本史板こそIDが欲しいと思ってるのは俺だけでしょうか?
412日本@名無史さん:2008/01/18(金) 19:56:51
和気清麻呂の妻が桓武の生母の妹だとか言う説が有るみたいですが、
どういう根拠でしょうか?
あと系図に出てくる清麻呂の孫の中納言家麻呂って、
和家麻呂を混同しちゃってるんですよね。
ほぼ同年輩だから養子ならまだしも孫ってことはないですよね。
413日本@名無史さん:2008/01/18(金) 20:23:10
>>408
没落した守護家に代わって、その国の守護公権を継承したような家も屋形号を名乗ることが多い。
だから守護代クラスから戦国大名化した家は屋形号を使っているケースも多い。
その点で、織田・朝倉は問題ない。
毛利は最初から屋形ではなかっただろうが、大内滅亡後に防長芸備4ヶ国の守護に補任されているので、それ以降は屋形。
北条は確証はないがおそらく中央からも伊豆・相模の守護扱いされているからOKだろう。
ただ浅井クラスではちと厳しいかな。
414日本@名無史さん:2008/01/18(金) 20:24:42
>>409
江戸時代だと、屋形号は国持ち大名以外に交代寄合の山名と最上がある。
415日本@名無史さん:2008/01/18(金) 20:25:52
>>408
一般的な大名なら「上様」では?
416日本@名無史さん:2008/01/18(金) 20:38:49
山名と最上は旧族としての既得権だろうな。
交替寄合山名は因幡守護家、最上は守護以上の権威だし。
417日本@名無史さん:2008/01/18(金) 22:34:50
418日本@名無史さん:2008/01/19(土) 03:25:15
>>416
最上が守護以上の権威って?
419日本@名無史さん:2008/01/19(土) 07:10:55
>>415
「上様」を、「うえさま」と読むか、「かみさま」と読むかでも変わってくる。
420日本@名無史さん:2008/01/19(土) 09:30:27
>>418
羽州探題の家柄ってことでしょ。
421日本@名無史さん:2008/01/19(土) 10:21:08
羽州探題っていうのは、最上氏の家格を高く見せようとした最上義光の自称に過ぎないのでは?
422日本@名無史さん:2008/01/20(日) 04:48:46
南北朝室町の東北地方の史料に羽州探題って名称が1回でも出てくればいいんだがな。
423日本@名無史さん:2008/01/20(日) 04:54:58
EEジャンプかよ!
424日本@名無史さん:2008/01/20(日) 04:58:18
>>419
「かみさま」と読む場合は、女性を指すことが普通じゃね?
425日本@名無史さん:2008/01/20(日) 11:58:42
小泉純一郎の郵政解散は、ロイド=ジョージのクーポン選挙を真似たものなのですか?
426日本@名無史さん:2008/01/20(日) 13:55:14
「上様」を「うえさま」と読むのが一般化するのっていつぐらいから?
427日本@名無史さん:2008/01/20(日) 16:17:39
能の大成者である観阿弥 世阿弥の芸風と室町殿との関係について説明してくださいo(><)o
428日本@名無史さん:2008/01/20(日) 18:37:11
>>426
質問者への期待のレスではないが、接待費や交際費に領収証が必要になってからが、
ヤッパ一般化だろ。
429日本@名無史さん:2008/01/20(日) 20:41:30
大名が江戸に置く人質について、
産みの母:父の側室、育ての母:父の正室、妻子はまだいない、という場合
江戸に置かれるのは産みの母ですか?
430日本@名無史さん:2008/01/21(月) 02:48:52
スレ違いだと思いますが ここにいる歴史ヲタのみなさんに教えてほしいのです。
自分中学3年ですが 小さい頃から日本史が好きで
特に江戸〜近代ぐらいが好きです。

それで、将来大学で日本史専門に学びたいのですが
どこの大学がいいでしょうか?さっぱりわからないので。・゜・(/Д`)・゜・。
歴史ヲタのみなさんなら 詳しいし分かるのではないかと思い質問しました。
大学で日本史専攻のところがあれば教えてください。
幾つかあればいろいろな大学を教えてくださればありがたいです。

よろしくお願いします。長文スマソ
431日本@名無史さん:2008/01/21(月) 03:25:50
歴史ヲタ?
なめんな
出直して来い
432日本@名無史さん:2008/01/21(月) 03:35:58
中世〜近世で、武蔵から下総に下るときに通ったルートを教えてくださいm(_ _ )m
433日本@名無史さん:2008/01/21(月) 03:43:17
>>431
冷たいやろうだなおまえw

>>530
ちなみに地域はどこだ?
静岡大学ならいんじゃね?漏れの大好きな小和田先生がおるぞwwwwwww
まぁ戦国史の先生だけどな
434433:2008/01/21(月) 03:44:10
スマソ
>>430なw
435日本@名無史さん:2008/01/21(月) 05:25:34
>>430
東大か京大

>>432
武蔵から下総なら普通に総武線のルートじゃね?
436日本@名無史さん:2008/01/21(月) 07:08:14
>>423
平成ジャンプは?
437日本@名無史さん:2008/01/21(月) 10:28:14
むしろ、ジャンプ亭ジャンプだな
438日本@名無史さん:2008/01/21(月) 12:43:36
>>430
足利学校
439日本@名無史さん:2008/01/21(月) 14:01:17
学生運動は 1960年の安保闘争と、1960年代末の全共闘運動 主にどちらを指すことがおおいんですか?
440日本@名無史さん:2008/01/21(月) 16:30:57
大犯三箇条のうちのひとつ、大番催促というのは具体的に何をすることだったのでしょうか?
教えてください
441日本@名無史さん:2008/01/21(月) 16:58:35
>>431
大学の教授はそれぞれが専門にしている分野があります。
大学の講義は教授の説を講義される感覚がありますので通説と相容れなくなる危険があります。
日本史の勉強は大まかな流れを掴み、その後各事例や人物事件を通説に従いこなしていくのが良いのではないでしょうか。
研究者になるなら大学は何処でも良いと思います。
大学院を選ぶ際、目指す方向に合った教授の下へ行くようにがんばるのが大事だと思います。
目指す方向は学んでいくうちに見えてくると思います。

>>439
学生運動は総称で安保闘争は事例ではないでしょうか。
全共闘運動も総称だと思います。
安保闘争は学生も参加しましたが一般の人も参加していました。
学生運動の一環ではありますが学生運動そのものでは無いと思います。
442日本@名無史さん:2008/01/21(月) 17:05:01
>>439
つ70年代
443日本@名無史さん:2008/01/21(月) 18:57:14
>>433
小和田さんは教育学部の教授なんだが、静岡大学の場合
歴史コースはたしか人文学部だ。だから、人文へ行ったら
小和田氏と関われる可能性は低い。

>>430
俺は国学院とか、史学を売りにしてるような私大にいくか、
京都府立など、史学科のある大学へ行くのがいいんでは?
まあ、東大や京大へいけるいんなら、それに越したことはないが
444日本@名無史さん:2008/01/21(月) 21:14:32
「史学科のある大学」で、あえて京都府立が出てくる意味がわからん
445日本@名無史さん:2008/01/21(月) 21:40:33
>>430
オマエの才能の良し悪しは分からんが悪いことは言わん,やめとけ!
史学なんか選ぶと就職できるところなんかないぞ.ここには史学で飯を
食っている連中はいないぞ.

歴史は趣味に留めるのが無難.素直に工学関係に行くか,
できれば医者,弁護士を目指せ!

>>433,435,441,443-444
お前らも前途ある中学生を,路頭に迷わせる生き方を教えるなよwww
446日本@名無史さん:2008/01/21(月) 21:51:35
>>445
あの程度で路頭に迷うような人生なら、どうでも良い人生ってことだ。
447日本@名無史さん:2008/01/21(月) 23:56:20
448日本@名無史さん:2008/01/22(火) 01:03:04
おれも歴史なんて趣味でいいと思うがな
449日本@名無史さん:2008/01/22(火) 09:22:51
失敗したらやり直せばいい
450日本@名無史さん:2008/01/22(火) 18:04:55
元禄頃から墓が一般的に成りだしたようですが戒名ってのはOOOO信士が一般的なのでしょうか?
居士号は少ない?又、院号はどの程度の層に用いられたのでしょうか?
451日本@名無史さん:2008/01/22(火) 21:54:28
見もせずに語るなということわざ

西洋なら ナポリを見てから死ね

では日本なら?(´・∀・`)
452日本@名無史さん:2008/01/22(火) 22:08:30
江戸の敵を長崎で討つ
453日本@名無史さん:2008/01/22(火) 22:28:37
日光を上手に活かした写真を撮るには背景を
見ずに順光で撮りましょう。そうすれば
ケッコウな写真が撮れます
言うならば、ボカしてしまえば背景はどうせ分からないのだから気にしないことです
454日本@名無史さん:2008/01/22(火) 23:23:57
標準語は明治時代に東京の山手言葉を基にして作られたと聞いたのですが、
では、江戸時代なんかはそれぞれバラバラの方言で話してたのでしょうか?

参勤交代とかで江戸に来て、地方の人と江戸の人が交流することもあったと
思うのですが、そのとき話される共通語みたいなものはなかったのでしょうか?

よろしくお願いします。またその辺りの事情に関する本だとか、ウェブページだとか
もあれば教えてください。
455日本@名無史さん:2008/01/22(火) 23:39:54
>>450
戒名で献策したら「戒名・法名の辞典」って言うのが引っかかって、
江戸時代は庶民の居士は禁止とか、院号は本来家老以上とか載ってましたよ。
詳しくは自分で見てください。
456日本@名無史さん:2008/01/23(水) 01:34:18
>>455 浄土真宗では院号なんてものは昔はなかったはず。法名も5文字とか精々長くても7文字まで。
457日本@名無史さん:2008/01/23(水) 01:37:20
浄土真宗は非僧非俗だから
458日本@名無史さん:2008/01/23(水) 02:18:02
>>454侍言葉はほぼ全国共通だったらしい(上級武士のみ)。島津久光は薩摩育ちで
薩摩弁だったので通訳が必要だったらしい。

 庶民になると同じ藩でも職業によって違い分からないことが多かったそうな
459日本@名無史さん:2008/01/23(水) 08:38:47
今年の大河は久光を薩摩弁にしていない。
460日本@名無史さん:2008/01/23(水) 08:47:34
国許育ちで地五郎の久光は石田純一がやるべきだった
461日本@名無史さん:2008/01/23(水) 09:23:30
薩摩弁を忠実に再現したら字幕がいるんじゃないのか?
それとも副音声を薩摩弁にするか。
462日本@名無史さん:2008/01/23(水) 09:30:49
>>461
>それとも副音声を薩摩弁にするか
それはアリかも。
463日本@名無史さん:2008/01/23(水) 09:49:55
琉球の風がやってたな、それ
464日本@名無史さん:2008/01/23(水) 11:26:21
>>451
「論より証拠」とか「百聞は一見にしかず」とかがニュアンス的に近いだろう。
465日本@名無史さん:2008/01/23(水) 11:35:06
>>463
マジで?
それは知らなかった。あんまり見てないけどw
466日本@名無史さん:2008/01/23(水) 11:57:41
467日本@名無史さん:2008/01/23(水) 15:15:35
今川義元はマロマロしていますが、息子の氏真もマロマロしていたんですか?
468日本@名無史さん:2008/01/23(水) 15:46:51
俳優は薩摩弁を忠実に再現、
声優が現代日本語で吹き替え。
469454:2008/01/23(水) 19:58:58
>458
ありがとうございました!
470日本@名無史さん:2008/01/23(水) 23:46:26
age
471日本@名無史さん:2008/01/24(木) 01:00:00
江戸時代の封建官僚制ってどんな内容の制度ですか?
ググっても詳しくわからなくて・・・・
472日本@名無史さん:2008/01/24(木) 01:25:15
>>471
封建制という言葉と官僚制という言葉の意味が分かれば分かると思うよ。
473日本@名無史さん:2008/01/24(木) 02:18:04
恥ずかしながら、日本史が全くの苦手な26歳OLです。
幕末あたりの勉強をしたいのですが、おすすめの本やDVDを教えて下さい。

試験勉強的な勉強ではなく、教養として身につけたいです。
474日本@名無史さん:2008/01/24(木) 02:33:08
>>473
「そのとき歴史が動いた」の幕末編全5作はどう?
レンタルでも置いてある。
475日本@名無史さん:2008/01/24(木) 07:16:36
>>473
通史的な流れが知りたいのならば、とりあえずは高校の日本史教科書を
読むのでもいいし、中央公論社などの各出版社が出している
「日本の歴史」シリーズの該当する時代の巻を読むのでもよい。
それで概要は分かるだろう。

その上で細かなところで疑問点が出てきたら、2chの質問スレで聞けばよい。
ただ幕末だと、ここよりも近代史板の質問スレのほうが常駐している専門家の
数は多いかも。
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history2/1188651343/
476日本@名無史さん:2008/01/24(木) 08:33:05
世界史板質問スレ、新スレに移行
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1200803262/l50
477473:2008/01/24(木) 10:21:07
>>474
>>475
ありがとうございます。

「そのとき〜」DVD、ぜひ借りてこようと思います。
また、教科書は思いもよりませんでした。
押入れから引っ張り出してみます。

また、質問があったら相談に来させていただきます。
478日本@名無史さん:2008/01/24(木) 19:30:44
>>473
ネカマ乙
479日本@名無史さん:2008/01/24(木) 22:08:11
>>473
何故幕末?
480日本@名無史さん:2008/01/24(木) 22:13:09
NHK大河?
481日本@名無史さん:2008/01/24(木) 23:03:05
こんばんわ。

大学の講義で令集解の儀制令の原文まるまる与えられ意味もわからないまま
レポートしてこいと言われグーグルなどで調べましたが残念ながらヒットしませんでした。
ですので令集解の儀制令について簡単な内容でもいいのでご存知の方がいましたら教えていただけたら幸いです。
482日本@名無史さん:2008/01/25(金) 10:26:03
こんばん「わ」、と書くバカには理解できないだろうね
483日本@名無史さん:2008/01/25(金) 10:54:12
ttp://www.hoolulu.com/zh/
こういう感じで、日本の歴史書を読むことが出来るサイトはないでしょうか?
484日本@名無史さん:2008/01/25(金) 13:35:58
織田氏について質問です。
読売の新聞小説には「藤原姓を名乗っておるが実は織田の祖は物部」
と書いてあるんですが、織田氏は忌部氏の系統を汲むんですよね?
物部と忌部、どう違うんでしょうか?
単なる作者の誤記と考えてよろしいでしょうか?
485日本@名無史さん:2008/01/25(金) 14:50:56
新聞「小説」が史実に基づいているとは限らん。
「小説」なんだから、どんな空想も可能。
486日本@名無史さん:2008/01/25(金) 18:00:00
>>485
誰もそんな答え求めてない。知らんのなら黙ってろよ。
487日本@名無史さん:2008/01/25(金) 19:27:47
>>486
作者に聞け、カス
488日本@名無史さん:2008/01/25(金) 19:41:45
484≠486
489日本@名無史さん:2008/01/25(金) 20:17:24
織田信長の先祖は越前織田庄剣神社神官の家系。
物部氏の一部が忌部氏になったという説もあるが、
いずれも家系図は疑わしく、
織田氏ももともとは織田庄を管理する越前在住の豪族(荘園領主)
の一族だったのだろう。
490日本@名無史さん:2008/01/25(金) 21:07:32
黒船辺りからの外交について中立な観点でまとめてる本とかないですかね?
491日本@名無史さん:2008/01/25(金) 23:13:33
幕末の、鉄 銅 金 銀、それぞれの値段はどれくらいの差があったのでしょうか?
出来れば比率もあればありがたいのですが。宜しくお願い致します。
492日本@名無史さん:2008/01/26(土) 11:37:45
>>485
おっしゃるとおりです。フィクションなのでどんな妄想も可能です。

>>489
なるほど
神官の家系ですか。
いずれにせよ、織田氏の先祖が物部だという証拠もないし、
忌部だという証拠もないということですね。
ご丁寧にありがとうございました。
493日本@名無史さん:2008/01/26(土) 13:12:43
>いずれにせよ、織田氏の先祖が物部だという証拠もないし、
>忌部だという証拠もないということですね。

意味わからん。氏ね
消えろこのチンカス
494日本@名無史さん:2008/01/26(土) 14:13:50
>>484
織田信長の織田氏は、元が織田剱神社(越前国の二宮)の神主家の一族という
ことでほぼ間違いないとされる。
そしてこの剣神社の神主家は、平安期には忌部氏を名乗っていることが
藤原行成の日記『権記』の長徳4年(998)3月21日条から分かる。
織田氏の本姓が忌部氏であるという説の根拠はこれによる。

なお尾張守護代織田氏の直接的な祖と見られる信昌・将広父子が
明徳4年(1393)6月17日に剣神社に奉納した置文においては、既に
藤原姓による署名が見られる。
将広の「将」の字は、当時の越前守護斯波義将(しば・よしゆき)からの偏諱と
考えられ、この時期には織田氏は既に斯波氏の重臣になっていると見られる。
その後、斯波義将の子である義重が応永の乱後の論功行賞によって
応永7年(1400)に尾張守護となると、先程の将広の系統が守護代として
尾張に入り、そしていずれも将広の子とされる常松と常竹が、それぞれ
清洲織田氏と岩倉織田氏の 祖となる。

>>489
「荘園領主」という言葉は、普通は中央にいる領家などの上級領主を指す。
現地の荘園にいて、実際に荘園を管理しているような豪族は、普通は
「開発領主」とか「在地領主」という。
495日本@名無史さん:2008/01/26(土) 14:28:59
>>484
だからその小説の作者は大いなる勘違いをしている。
織田の祖は忌部。物部なんかじゃない。

そんなんでよく小説が書けるよな〜
バッカじぇねぇの
中卒の俺でも知ってるちゃうや
496日本@名無史さん:2008/01/26(土) 14:33:06
>>495
単なる誤解程度なら普通にある。
最近は、日本人作家のくせに、まともな日本語を書くことが出来ない作家が増えて、しかも色んな文学賞を受賞していると、阿川御大が嘆いていたよ。
497日本@名無史さん:2008/01/26(土) 14:52:08
>まともな日本語を書くことが出来ない作家が増えて、しかも色んな文学賞を受賞していると

村上龍だな、これ。
498日本@名無史さん:2008/01/26(土) 14:54:47
尾張守護代織田氏の系譜はそうなのでしょうが、
信長の織田氏って本当に守護代家の一門なんでしょうか?
本来は別家で織田姓を与えられただけとか?
499日本@名無史さん:2008/01/26(土) 14:59:54
500日本@名無史さん:2008/01/26(土) 16:36:35
>>497
思っても、固有名詞は出すなよw
501491:2008/01/26(土) 18:18:02
誰か答えてくれる人はいませんか?
502日本@名無史さん:2008/01/26(土) 18:25:38
えっと、催促はしない方がいいですよ。
503日本@名無史さん:2008/01/26(土) 18:42:02
そうだね。今でしゃばりヴァカが粘着してるし…
504日本@名無史さん:2008/01/26(土) 23:21:00
福井県織田町は「おだ」じゃなくて「おた」なんだよね。
505日本@名無史さん:2008/01/27(日) 00:28:43
閔妃暗殺のときに日本軍が閔妃をレイプしたって聞いたのですが本当ですか?
506日本@名無史さん:2008/01/27(日) 11:32:31
自由民権運動の時期に松方財政の緊縮財政により農民が蜂起を起こしましたが、
これを指導したのって誰か居たんですか?
「一部の自由党員の指導のもと」←これ間違いですよね?この蜂起で自由党は解党したんですから。
507日本@名無史さん:2008/01/27(日) 12:14:09
織田氏も戦国時代までは「おた」と読んでいたらしい。
「おたのぶなが」じゃあなんかしまらないけどね。
508日本@名無史さん:2008/01/27(日) 12:29:55
>>507
オタの信長

何かギャルゲーを買ったり,コミケに並んでいそうwww
509日本@名無史さん:2008/01/27(日) 13:12:47
かぶきものだからコスプレしてたんだな
オタ信長
510日本@名無史さん:2008/01/27(日) 13:26:11
サークルオタのうつけでコミケの天下を取ったるだぎゃ!
オタ信長先生のありがたいお言葉
511日本@名無史さん:2008/01/27(日) 13:32:58
「とよとみひできち」とか「しゅうきち」
「まつたいらもとやす」ないし「まつひら」だとかなり変?
人気落ちそう。
512日本@名無史さん:2008/01/27(日) 13:42:25
>>506
あながち間違ってもいない。
自由党は解党したがその残党は地方にゴロゴロしていた。
513日本@名無史さん:2008/01/27(日) 14:06:47
>>512
お返事ありがとうございます、その部分は正しかったんですね。
お陰で、間違いと正しい箇所の検討がつきました
514日本@名無史さん:2008/01/27(日) 14:39:41
殺すぞチンカス
515日本@名無史さん:2008/01/28(月) 02:23:57
>>507
『寛永諸家系図伝』に書かれている読み仮名(清濁区別あり)が基本的に「おだ」ではなく「おた」になってるんだよね。
516日本@名無史さん:2008/01/28(月) 13:17:29
織田信雄については、
「おだのぶかつ」や「おだのぶお」よりは
「おたのぶお」の方が似合っているとは思う。
517日本@名無史さん:2008/01/28(月) 13:51:32
旧仮名遣いでは「おたのぶを」
518日本@名無史さん:2008/01/28(月) 14:38:06
戦前の東大って、ちょっとした金持ちで教育を受けた子弟なら殆ど誰でも入れたって本当ですか?
なぜなら国民全体が平均的に教育を受けたわけじゃないので競争率が今より極端に低かったとか…
その代わり、卒業順位が高くなきゃ東大の学歴もあまり使えないとか…
519日本@名無史さん:2008/01/28(月) 20:22:23
江戸時代の将軍家や大名家における側室と妾の違いって何なんですか?

子を産まなくても側室となることはあったのでしょうか?
520日本@名無史さん:2008/01/28(月) 20:43:02
いきなりですいません

名前に「錬」という字がつく日本史の人物(何人でも構いません)がGoogleなどで調べてもわからないんです

知ってる方がいました是非名前だけでも教えてください
521日本@名無史さん:2008/01/28(月) 20:45:18
スレを立てようとしても絶対にエラーになります
どうしたらよいのでしょうか?
522日本@名無史さん:2008/01/28(月) 20:48:22
>>521
確か同じプロバイダー使っている奴が立てたいサーバーにある板で先にスレ立てすると暫く立てられない筈。
どっちにしても板違い
523日本@名無史さん:2008/01/28(月) 20:48:38
>>520
柴田錬三郎
524日本@名無史さん:2008/01/28(月) 20:52:07
>>523
お早い解答の方ありがとうございます
525日本@名無史さん:2008/01/28(月) 21:17:49
女性の出家後の髪型ですが、男のように丸坊主にはしなかったという
話を見たことがあります。事実、待賢門院の肖像には尼僧姿ですが髪が
生えています。一方で、建礼門院の肖像や北条政子の木像をみると
丸坊主になっています。
出家後の女性の髪形は実際のところどうなるのでしょうか?
526日本@名無史さん:2008/01/28(月) 22:22:59
深草天皇や小松天皇はいないのに、なぜ後深草や後小松という名の天皇がいるのでしょうか?
教えてください
527日本@名無史さん:2008/01/28(月) 22:24:16
>>526
釣れますか?
528526:2008/01/28(月) 23:57:12
>>527
いたって真面目にお尋ねしています
529日本@名無史さん:2008/01/29(火) 00:05:59
深草天皇=仁明天皇
小松天皇=光孝天皇
530日本@名無史さん:2008/01/29(火) 00:40:43
ああ、、別名だったのですね。
勉強不足でした。
教えてくださってありがとうございました。
531日本@名無史さん:2008/01/29(火) 01:33:41
松平元康ってどんな人ですか?
532日本@名無史さん:2008/01/29(火) 01:37:07
「仁明」「光孝」は諡号、「深草」「小松」は追号。
諡号を加後号にすることはできないから追号を使った。
同等の例に、
桓武と後柏原、平城と後奈良、淳和と後西、清和と後水尾がある。

また後花園は当初「後文徳」にされそうになったが、「文徳」は追号ではなくて
諡号だという横槍が入ったために「後花園」とした。
なお文徳には「田邑」という追号があるにはあるが、「後文徳」の代わりとして
「後田邑」が検討された形跡はない。
533日本@名無史さん:2008/01/29(火) 05:22:27
昔、時代劇で浪人が尼寺に入り尼さん犯しまくって殺しちゃうってのがあったんですが
現実的には警備のために何かしてたんでしょうか??

 3,40年前の時代劇はお色気シーンが過激すぎ
534日本@名無史さん:2008/01/29(火) 05:41:28
もちろん、寺男がいますよ、尼寺にも。
寺侍もいるしね。
女所帯だと危険だもの

昭和20年代にも、奈良の円照寺っていうめちゃくちゃ格の高い尼門跡寺院があるんだけど、
ここで冷遇されたと勘違いした寺男(雑用などする)が、寺務の執事(男性)ら数人をころしてしまう
事件があったんだよ。
535日本@名無史さん:2008/01/29(火) 07:23:08
小松天皇って

なにか、こまってんの?


ベタでゴメン。
536日本@名無史さん:2008/01/29(火) 07:54:10
>>532
後西院天皇を後西天皇に改名した奴って
脳に障害があったんじゃないかと思うよ
537日本@名無史さん:2008/01/29(火) 08:40:57
ttp://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/archives/53980547.html

天領に郷士っているの?書いた人自体は素人だと思うけど研究者は?
538日本@名無史さん:2008/01/29(火) 08:50:36
縄文時代や弥生時代の海岸線を知りたいのですが
全国の貝塚を報告して地図を作ろうみたいなスレはありませんか?
539日本@名無史さん:2008/01/29(火) 10:33:57
地役人とか牧士のことを郷士って言ってるのかな?
あとは千人同心とか。
ソースを見ないで想像で書き込み。
540日本@名無史さん:2008/01/29(火) 11:16:28
>>538
平安海進は無視ですか?
541日本@名無史さん:2008/01/29(火) 11:21:01
>>536
「○○院」の「〜院」を機械的に「〜天皇」に改めたからこうなった。
542日本@名無史さん:2008/01/29(火) 11:30:53
私の知り合いが徳川家康は織田信長の隠し子だと言っています。
素人の私でもそんなことはないということは知っているので
「まさか。いくらなでもそれはないでしょ」と返したら、
なんだ、こんことも知らないのか。お前は時代遅れな野郎だ。と笑われてしまいました。

改めてお聞きするまでもないと思いますが、冗談ですよね?
543日本@名無史さん:2008/01/29(火) 11:50:21
>>542
そんな有名な話があるなら、とっくに周知されてるだろw
544日本@名無史さん:2008/01/29(火) 12:07:38
>>541
正しくは「後西院院」だったといいたいってこと?
545日本@名無史さん:2008/01/29(火) 12:15:46
>>542
織田信長・・・1534年生まれ
徳川家康・・・1542年生まれ
万に一つでも親子の可能性があり得ると思いますか?
546日本@名無史さん:2008/01/29(火) 12:18:25
>>544
「後白河院」の「院」をとって代わりに「天皇」を付けると「後白河天皇」
「後醍醐院」の「院」をとって代わりに「天皇」を付けると「後醍醐天皇」
同様に
「後西院」の「院」をとって代わりに「天皇」を付けると「後西天皇」
547日本@名無史さん:2008/01/29(火) 14:26:56
>>542
逆に、その知り合いに会ってみたいw
548日本@名無史さん:2008/01/29(火) 14:56:28
>540
うーん立てるなら別スレですね。

ってマジレスでいいのかな?
549日本@名無史さん:2008/01/29(火) 15:52:34
すいません。質問です。
古代の大学において、式部省の試験に落ちたら大学初めからやりなおしって本当ですか?
550日本@名無史さん:2008/01/29(火) 21:30:15
>>548
本気で立てるの?
551日本@名無史さん:2008/01/29(火) 21:34:09
信長と家康の年齢が公称どおりって言う証拠もないですけどね。
いや隠し子説を信じてるわけじゃないですよ。
552日本@名無史さん:2008/01/29(火) 21:59:26
本当に信長の子だったら信長と嫡男の信忠が死んでしまったんだから、
庶長子として後継者レースに打って出れば史実よりよほど楽じゃないだろうか?
大義名分有り。
損得勘定が身に付いている家康がそれをしなかったんだから、
やはり関係ないのでは?
553日本@名無史さん:2008/01/29(火) 22:04:53
後白河院の元ネタである白河院の場合、「白河」だけでも意味をなすが、
後西院の元ネタである「西院」帝から院を取ったら、「西(さい)」だけで
意味をなさなくなる。

この場合、「西院」が「白河」に相当する固有名詞だから。
554日本@名無史さん:2008/01/29(火) 22:07:01
>>553
不敬罪
555日本@名無史さん:2008/01/29(火) 22:22:03
武陽因子ってどこのスレにかきこんでるの?
今名無しなんだろうけど
556日本@名無史さん:2008/01/30(水) 00:35:36
織田家を簒奪した豊臣秀吉が憎いです。
成敗したいですが、もう鬼籍の人です。
どうしたらいいでしょうか。気になって夜も眠れません
557日本@名無史さん:2008/01/30(水) 12:08:10
>>555
あいつは文体で分かる。
558日本@名無史さん:2008/01/30(水) 13:26:05
>>556
豊国神社に行って老人の手から日の丸を奪って足で踏みつけて止めに入ってきた男を殴れ
559日本@名無史さん:2008/01/30(水) 13:37:15
豊国神社の近くに耳塚があるな。
あの耳塚には同胞の耳の慰霊と称して年中半島から観光客が来ているから、
彼らは耳塚に参拝した後、豊国神社に唾を吐いて帰るのがお決まりのパターン。
560日本@名無史さん:2008/01/30(水) 14:35:14
今の大河ドラマのことはこの板でいいの?
561日本@名無史さん:2008/01/30(水) 14:47:14
>>560
大河ドラマ板へどうぞ。
562日本@名無史さん:2008/01/30(水) 16:29:04
質問いたします。

1.現在、日本で発見されている銅鏡のなかで一番古い物は
いつ頃の時代でどこのなんと言う遺跡から出た物でしょうか?

2.日本だけでなく副葬品として 鏡が用いられたのは
どこの国でいつ頃からなのでしょうか?

3.鏡を副葬品として用いる意味はなんでしょか?

以上よろしくお願いいたします。
563日本@名無史さん:2008/01/31(木) 11:26:57
ttp://mytown.asahi.com/shiga/news.php?k_id=26000000801310002
>西大津駅周辺にあった近江大津宮は、『京』の定義である碁盤目状の区画が
>確認されておらず、学術的に『大津京』と呼ぶことはできない。

『京』の定義:碁盤目状の区画
って聞いたことないんですが、本当ですか?
564日本@名無史さん:2008/01/31(木) 13:12:31
近代以前に日本で初潮を迎えた女性との性交を禁じていた法は有りましたか?
あと初潮前後の娘との性交がタブー視されていた時代って有りましたか?


紫の上が最終的なヒロインなのが源氏物語だけれども
これは禁忌なんでしょうか?
565日本@名無史さん:2008/01/31(木) 17:35:49
○○国という名称が使用されなくなったのは、いつ頃でしょうか?
566日本@名無史さん:2008/01/31(木) 21:16:31
戦国武将が居城と関係ない地域の〇〇守などに任ぜられていますが、
領民は「なんでここに〇〇守がいるんだよ?」という疑問をもたなかったのでしょうか?
567日本@名無史さん:2008/02/01(金) 01:28:04
>>554
おまえがな
568日本@名無史さん:2008/02/01(金) 09:23:36
鎌倉幕府が関東平野の開発をして武蔵・下総国境を大規模埋め立てをしたりしたと言うのはそれほどの規模だったんですか?
徳川幕府以前に江戸はかなり開発されてたんですか?
山内扇谷上杉氏時代はそんなに開発されてない気がしますが。
569日本@名無史さん:2008/02/01(金) 09:35:29
>>566
と言うより当時の農民って自分の住んでいる国名や領主の官名なんて知っていたんでしょうか?
そもそも官名や国制度と言うものの存在自体を知っていたのでしょうか?
また例えば領主の加賀の住民が領主が尾張守だと知っていたとして、
尾張が別の国の名で、尾張守がその国の長官の名だと認識できたのでしょうか?
570日本@名無しさん:2008/02/01(金) 11:16:01
>>569
よーわからんのだが、百姓だって名乗るときは「○○の住人××」というものなのだから
知らずにおくことはできないと思うよ。それに総領名主庄屋だと、領主とのつきあいは
ともかく奉行や代官とは付き合わなければならない立場なのだから、
領主の名を知らずにいるということはないと思うのだが。布告にも領主の名は出てくるもんだろ。

戦国時代なら特にそうだが、領主がコロコロ変わるし同じ領主でも官名は変わっていく。
忘れたとか覚えてないならともかく、知らずに済ますことはないのでは。
571日本@名無史さん:2008/02/01(金) 14:16:45
>>563
「〜京」という言い方は、明らかに条坊制の整備された都城というニュアンスが強い。
そういう意味では、「〜京」と呼んで問題ないのは、藤原京以降の都。

それ以前の場合は、単に天皇(大王)の宮の所在地ということで「〜宮(〜のみや)」と呼ばれているだけで、条坊制などは整備されていない。
史料的にも一部の後世の史料を除いて大津にあった都を「大津京」と呼んでいるケースはない。

ただ大津での条坊制の存在を信じて疑わなかった某研究者が、近代以降になって「大津京」という言葉を意図的に多用して誤った認識を広めてしまった。
572日本@名無史さん:2008/02/01(金) 14:19:24
>>565
法的には現在でも無効になったわけではないが、旧郡に行政区画としての機能が
なくなった大正期くらいから、旧国が公に使用されることも少なくなったと思う。
573日本@名無史さん:2008/02/01(金) 16:08:03
>>526-532
加後号の話は専門スレあります。
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1184819056/l50
574日本@名無史さん:2008/02/01(金) 17:45:07
初代征夷大将軍は
大伴弟麻呂だよね?
575日本@名無史さん:2008/02/01(金) 18:30:10
どうも生前は征夷大将軍と呼ばれた確証はないようだけど、
坂上田村麻呂との関係からは前任者と言いうるようだし、
事実上の第一号ではあるんだろうな。
形式上の第一号だったかどうかは議論の余地があるけど。
576日本@名無史さん:2008/02/01(金) 21:42:14
室町幕府の在京守護の守護代(越前の甲斐氏とか尾張の織田氏)で、京都に拠点を置いて生活していた期間も多い
(尾張の織田氏はそれが原因で二つに分かれたし)ようですが、彼らはどのような経緯で京都に居住するようになったのでしょうか。

守護自身は幕府の中枢メンバーでもあり、将軍との個人的な関係しだいでは守護を罷免されたり、裁判で負けたりしちゃうので
京都にいる必要性や仕事はわかるし、その主要被官が守護への兵力提供や奉仕のために交替で上京するとか、戦のため兵を率いて短期間上京するのは当然としても、
例えば守護代を誰かと代わって上京する(守護代というポストの人間はあくまで国許にいる)というのが職務上自然なのでは?

守護代が京都にいて、やらないといけない仕事とかあったのでしょうか?
577日本@名無史さん:2008/02/01(金) 22:01:12
征夷大将軍って変だよな
討伐する相手は昔っからの日本人なんだから
578日本@名無史さん:2008/02/01(金) 22:15:31
2600年前に出来た大和朝廷に従わない勢力なら邪馬台国も蛮族扱いか?
579日本@名無史さん:2008/02/02(土) 00:06:55
>>576
在京守護代と在国守護代がいる。
守護代が在京の場合、その下にさらに守護代から指令を受ける小守護代や郡代みたいな者が現地にいるケースが多い。
むしろ在京守護の場合は、守護代も原則在京で、在国で実務を行うのはもっと下の連中と考えたほうがいい。
580日本@名無史さん:2008/02/02(土) 00:16:13
>>577
文字通り東夷を征服する大将軍じゃない?
581日本@名無史さん:2008/02/02(土) 04:16:15
蝦夷を征服する将軍。
なお六国史の表記では、陸奥の住人は「蝦夷」、出羽の住人は「蝦狄」という
区別がある。
582日本@名無史さん:2008/02/02(土) 11:29:07
>>579
回答ありがとうございます。

守護代不在の場合、代わりの人間が国許にいるのは知っていますが、
何故守護代が在京するのかがわかりません。
原則があるということは、守護代という役職の人間が京都にいないとまずい何らかの理由があるということですよね?
(つまり甲斐氏や織田氏の当主が京都にいなければならないわけじゃなくて、越前守護代や尾張守護代が京都にいなければならない)
583日本@名無史さん:2008/02/02(土) 11:38:02
江戸時代で言えば
城代家老は国許にいるから城代なんであって
江戸にいたらそれは既に城代ではないだろう
みたいなもんか?
584日本@名無史さん:2008/02/02(土) 12:14:31
>>583
そんな感じです。
守護は、成立時から、複数のしかも全国に散らばった国の守護を兼ねているケースが多いので
本人は在国せずに鎌倉や京都などにいて現地に代理の責任者を置くというのは理解できるのですが、
その代理のポストである守護代が京都に常駐しているのは何故?ってことです。

甲斐氏の女が将軍義政の妾になってませんでしたっけ?
これは、甲斐氏が京都に生活の基盤を置いていた(臨時駐在じゃなくて、京都に家族がいる)ってことだと思いまして。
守護代が一種の名誉職で、実務を伴わないってわけでもないでしょうから。


585日本@名無しさん:2008/02/02(土) 14:26:19
>>584
土岐氏は美濃・尾張・伊勢の守護を勤めていましたが、南北朝時代美濃では守護代が在国、尾張では在京
(小守護代が在国)、伊勢では守護代・小守護代とも在国という配置をしいていたことがあるそうです。
(『岐阜史学』第92号)

まぁ守護代というのは、その管轄地の都合、あるいは時代といわずその時々の都合で
在京したり在地したりするフレキシブルな役だったのではないでしょうか。

「在京守護の代理として在国する」のが守護代なら、「在京守護の補佐として在京する」守護代もいたと考えれば、
どうでしょうか。支配の責任者は管轄地と深い縁があるものがなるのでしょうが、全ての守護代がそうであるとは
限らないのですし、京から近いところなら態々出向かなくてもいいのです。(そもそもこういうところは既得権益を
持つ者が多い)守護がお家騒動を起こしたり、乱などで軍功をあげると守護代が守護に出世するというケースも
ありますが、これは守護代と守護が必ずしも厳密に分化されてはいなかったということでもありましょう。


そう考えると、守護代というのは、監督代理として現場の責任を持つ任というより、助監督のように監督にベッタリ
ついて動き回るか、スタッフサイドにいて監督の意向を伝えるかという風に実務に幅のあるものだったのかも
しれません。

586日本@名無史さん:2008/02/02(土) 19:21:52
よかったらどなたか教えてください。
天皇は女御・更衣と嫁さんがたくさんいたのでしょうけど、
退位したあとその嫁さんたちはどうしたのでしょうか?
引き続き次の天皇の嫁さんになったのですか?
587日本@名無史さん:2008/02/02(土) 19:33:36
退位した場合はそのまま関係を保つのでは?
まあもともとあまり寵愛が深くなければそのまま実家に帰るかもしれない。
死別の場合は尼になる場合も多いけどいろいろでは?
平徳子は夫高倉天皇没後、舅の白河法皇の後宮(と言えるかな?)入り話が出てたし、
臣下と駆け落ちしちゃって父親から勘当された女御もいるし、
近衛天皇の未亡人が甥の二条天皇の后にならなかったけ?
588日本@名無史さん:2008/02/02(土) 19:36:31
あーあ、白河じゃなくて後白河だった。
素で間違えた。
589日本@名無しさん:2008/02/02(土) 22:46:32
>>586
三宮(さんぐう)は嫁さん(后)だが、女御や更衣はお女中さんであって嫁ではないぞ。
嫁さんは尼そぎして入道するんだろうが、それ以外は帰ったり嫁に行ったり
別の人に仕えたりってとこじゃないのか。
590日本@名無史さん:2008/02/02(土) 23:08:58
>>587氏、589氏
なるほど。
ありがとうございました。
591日本@名無史さん:2008/02/03(日) 10:06:21
>>585
同じ守護家でも守護代の所在はばらばらなんですね。
南北朝時代の伊勢なら北畠対策で現地にいるってこともありえるでしょうけど、京都により近い美濃の守護代は在国で尾張は在京ってことは
京都との距離は関係ないのかな。
592日本@名無史さん:2008/02/03(日) 12:34:35
質問です。奈良時代の外交って唐以外にも新羅や渤海にもわたっていたのに、
なぜ中国との外交のみがクローズアップされているのでしょうか?
593日本@名無史さん:2008/02/03(日) 13:13:46
奈良時代を代表する天平文化は中国の唐の影響を色濃く受けたから。
また、日本の律令制度にも唐の影響が残る。
新羅や渤海はそれほどの影響を及ぼさなかった。
594日本@名無史さん:2008/02/03(日) 13:24:21
>>589
女御や更衣は天皇の妃ですよ(女官ではない)。
もっとも、大勢いた女御や更衣は、夫である天皇が没したり出家したりすれば、
ほかの男性に嫁ぐことも可能でした。
醍醐天皇の女御で、醍醐天皇の没後、藤原実頼の妻となった藤原能子、
花山天皇の女御で、花山天皇出家後、藤原実資の正室になった婉子女王、
一条天皇の女御で、一条天皇の没後、藤原通任の正室となった藤原尊子などがあります。
一条天皇の女御だった藤原元子が一条没後源頼定と通じて父に勘当されたのは、
父が許した相手ではなかったためで、再婚そのものが禁じられていたわけではありません。
もっとも、天皇の正妃(皇后、中宮)ともなれば、「宮」と呼ばれて皇族の一員であるかのごとく扱われ、
よって夫が没しても臣下の男性に嫁ぐことはありませんでした。
正妃が嫁いだ例は、天皇妃がまた天皇妃になったという藤原多子(近衛・二条天皇后)のみです。
高倉天皇中宮平徳子も、夫が没したあと義父後白河法皇に入内するという話が
平清盛・時子によって進められていたことは事実のようです(玉葉)。
595日本@名無史さん:2008/02/03(日) 13:27:36
>>589
「三宮」は「三后」の誤り?
三后=皇后、皇太后、太皇太后
は夫が死んだら出家しなければならないという決まりもありませんでした。
藤原多子は最初の夫近衛天皇が没しても出家しませんでしたし、
藤原彰子なども出家したのは夫が没し、息子の即位を見てから随分後のことです。
596日本@名無史さん:2008/02/03(日) 14:48:55
>>591
京都に近ければ在国業務と在京業務を一人の守護代がカバーできるが、
ある程度離れると、在京の守護代と在国の小守護代を分離せざるを得ないって
ことでは?

あと上のほうで甲斐氏の話が出ているが、室町期の甲斐氏はかなり特殊な一族。
597日本@名無史さん:2008/02/03(日) 15:05:56
>>595
三宮=三后
准三宮=准三后
598日本@名無史さん:2008/02/03(日) 15:45:42
>>592-593
ただ白村江の一件から、特に7世紀の後半だと唐との関係は
ギクシャクしていたので、もしものときの保険として、新羅や渤海とも交渉を
持っていた。
まあもっとも新羅との関係は、唐との関係以上に気まずかったようだが。
599日本@名無史さん:2008/02/03(日) 17:28:59
渤海は渤海のほうから日本へ使者を派遣しているよ
唐や新羅と敵対したため日本と仲良くしたかったらしい
朝貢形式で、渤海からの使者が来ると
日本はそれ以上に立派な品を返してやらなければならなかった
600日本@名無史さん:2008/02/03(日) 17:33:03
新羅も白村江戦いでは唐と連合軍を組んだが
朝鮮半島統一後は唐の影響力を排除しようと躍起で
かならずしも唐と一心同体でもなかった
白村江ののち、天武天皇の頃には早くも交易を開始し、
奈良時代を通じて交流があった
601日本@名無史さん:2008/02/03(日) 19:54:51
奈良時代の後半以降は、新羅滅亡時まで日本と新羅は敵対関係だけどな。
602日本@名無史さん:2008/02/03(日) 20:12:14
唐とぎくしゃくしたための
保険ではないわな
603日本@名無史さん:2008/02/03(日) 20:14:34
>>602
保険の要素が全くないとはいえないと思うがな。
604日本@名無史さん:2008/02/03(日) 20:15:09
>600
日本が渤海と交流したことにより緊張関係に入ったり
唐での席次を日本と新羅とで争ったことはあるが
日本と新羅が敵対関係などであるはずがない
勿論、白村江以降、新羅と戦を構えたことも無い
何を根拠に言ってるの?
605日本@名無史さん:2008/02/03(日) 20:23:20
とゆうか7世紀や8世紀初頭の段階での新羅や渤海の通交は、唐との万が一に
備えての保険というニュアンスはある。
ただ8世紀半ば以降は、その唐自体が弱体化して周辺国への脅威は薄れる。
そうすると共通の脅威がなくなった以上、もともとあまり仲の良くなかった
日本と新羅の関係が悪くなるのはある意味自明だろう。
古くは任那の滅亡問題もあるし、白村江の戦い以降に百済の亡命民が大量に
日本へ流れ込んだこともあって、日本の朝廷は根本的には新羅を快く思って
いなかったからね。

そして新羅がいよいよ弱体化して滅亡間近になると、今度は新羅を倒そうとする
後百済や後高句麗が日本の朝廷に援助を求めたりするようになる。
606日本@名無史さん:2008/02/03(日) 20:25:56
8世紀以降の遣唐使が、朝鮮半島沿岸を通るのではなく、敢えて危険を冒して
東シナ海の真ん中を横断するルートに変わるのも、新羅との関係悪化が原因と
いわれるね。
半島の沿岸を通ると新羅から攻撃される恐れもあった。
607日本@名無史さん:2008/02/03(日) 20:28:00
>>604
直接戦火を交えていなければ仲がいいのか?w
608日本@名無史さん:2008/02/03(日) 20:28:51
渤海は日本側からではなく
渤海側から来たんだが・・・
609日本@名無史さん:2008/02/03(日) 20:29:58
新羅も、日本からと新羅からの使節が半分半分。
毎回、日本からの遣使という方法でしかアプローチできなかった唐と異なり、
渤海や新羅は自分の国の意思で日本と通商している
610日本@名無史さん:2008/02/03(日) 20:30:30
>>608
それ>>599で既出
611日本@名無史さん:2008/02/03(日) 20:55:01
最初にどっちからアクセスしたかも重要ではあるが、その後互いに使者の
派遣を続けるには、それだけの利害関係の一致がないと続かない。
612日本@名無史さん:2008/02/03(日) 21:21:32
遣唐使
毎回、日本からの遣使。
よって、日本の都合でいつでもやめられる。
実際、菅原道真の建議でやめた。

最初のアクセスだけじゃないよね。
遣唐使の場合、日本から唐への一方通行。
渤海使の場合、渤海から日本への一方通行。

新羅の場合は双方。

最初のアクセス方法についてのべてるんじゃないよ。
613日本@名無史さん:2008/02/03(日) 23:37:21
>>612
日本からの遣渤海使もあるのを知らないのか?w
614初心者:2008/02/03(日) 23:53:34
教えて下さい
壬生義士伝とはイコール新選組の話なんでしょうか?新選組は実際に居た人物達ですが、壬生義士伝という話も実話なのですか?
また、壬生義士伝を調べたところ岩手県の盛岡が舞台というものと京都が舞台というものがでてきました。
実際の舞台はどこなのか教えて下さい
615日本@名無史さん:2008/02/04(月) 01:39:51
質問です
Yahoo!知恵袋で『日本人が最初に出会った黒人の一番古い記録は1543年』っての見つけたんですけど
これ、ソース何かわかる人いませんか?
俺はてっきり弥助だと思ってた
616日本@名無史さん:2008/02/04(月) 04:30:55
>>614
そういうのは歴史学ではないので、日本史板では板違い。
時代劇板にでも行って下さい。
617日本@名無史さん:2008/02/04(月) 12:33:01
>>615
Yahoo!知恵袋に質問すれば?
618初心者:2008/02/04(月) 12:37:26
>>616
時代劇板ですか!ありがとうございました
619日本@名無史さん:2008/02/05(火) 02:18:38
お願いします。
平安〜大正の犯罪について、具体的な犯罪の内容や
刑罰、犯罪の件数等を知りたいのですが、
それが載っている本を御存知でしたら教えて頂けませんか。
そのどれかひとつでも、載っている事例が少数でも構いません。
620日本@名無史さん:2008/02/05(火) 03:46:01
法務省のサイトでも見れ
621日本@名無史さん:2008/02/05(火) 03:50:53
>>620
犯罪白書は昭和からの物しかないようです。
622日本@名無史さん:2008/02/05(火) 12:21:08
>>612
頭悪すぎw
623日本@名無史さん:2008/02/05(火) 12:41:52
大学受験板 日本史総合スレ
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/kouri/1198013812/
624日本@名無史さん:2008/02/05(火) 13:09:49
時代劇でよく犯人逮捕のために人相書きが配られたりしていますが、あれはどのくらい効果があったのでしょうか。
625日本@名無史さん:2008/02/05(火) 19:18:05
壬生義士伝は実話を基に作家が創造したフィクションです。
吉村や斉藤→山口については人気のもなのでネットで検索し易いですし熱烈なファンサイトもあります。
作家の空想エピソードと史実は別だと認識して楽しめばいいのではないでしょうか。
大河ドラマも山岡や司馬達作家の作品も歴史を舞台とした空想です。
坂本竜馬が何を考えていたのかは誰も知りませんしセリフも作家が創りだしたセリフです。
ドラマや小説は史実ではありません。記紀のように作者がいて作者が創りだしたドラマです。
626日本@名無史さん:2008/02/05(火) 23:01:07
>619

井上和夫『戦国の犯科帳』
具体的な犯罪の内容や刑罰の記述はありますが犯罪の件数等の統計資料はありません
また著者は法学が専門のようで用いている史料は玉石混交です

半世紀前に出版された本なので大きな図書館でないと見つけられないかもしれません
627586:2008/02/05(火) 23:20:19
遅レスですが、594さんありがとうございました。
628日本@名無史さん:2008/02/06(水) 16:10:27
>>626
>用いている史料は玉石混交です

そういうのよくあるね。法学専門の勘違い野郎が書いた歴史論文なんかだと。
629日本@名無史さん:2008/02/06(水) 16:17:46
ネット上で日本外史を読めるサイトはないでしょうか?
630日本@名無史さん:2008/02/06(水) 20:46:47
>629
http://kindai.ndl.go.jp/index.html

ここで、「日本外史」をキーワードにして検索して、
お好きなのを、どうぞ。
631武陽隠士:2008/02/06(水) 23:52:33
>>628
法制史のこと?
悪いけど、それは君が無知なだけだよ。あのへんの議論は、ネットの切り貼りですんじゃう馬鹿には
ついていけないだけ。

>>629
ちゃんと書籍で読んでください。岩波文庫で出てます。理由は敢えて述べません。
ところで校訂、テクスト批評って意味分かります?
632日本@名無史さん:2008/02/07(木) 00:04:22
武陽隠士は勘違い法制史家だったのか
633武陽隠士:2008/02/07(木) 00:08:55
>>632
それは君が馬鹿なだけだよ
634日本@名無史さん:2008/02/07(木) 00:13:10
明治維新によって侍・武士がいなくなって今のような身分の差がない時代になったんですか?
635日本@名無史さん:2008/02/07(木) 01:11:01
>632
つ 【スルー力】
636日本@名無史さん:2008/02/07(木) 01:23:06
>>635
了解
637日本@名無史さん:2008/02/07(木) 03:10:36
>>604
藤原仲麻呂の時期の日本の朝廷は、渤海の要請で新羅征討を計画していたこともある。
638日本@名無史さん:2008/02/07(木) 13:07:58
東北の狩人集団のマタギは鉄砲が普及する以前は弓矢を使ってたんでしょうか?
639日本@名無史さん:2008/02/07(木) 14:02:57
前九年合戦って11年間ある戦いなのに、なんで9年って名前がついてるんですか?
640日本@名無史さん:2008/02/07(木) 14:19:42
前九年とか後三年は地名じゃなかったっけ?
641日本@名無史さん:2008/02/07(木) 19:09:27
足かけ12年だから12年の役とか言っていたのが、
後3年の役と合わせ12年だって誤解が生じて、
12−3だから9年ってことになったらしい。
642639:2008/02/07(木) 19:50:41
>>640
ありがとうございます。地名説もあるんですね。初耳でした。

>>641
ありがとうございます。
なるほど誤解が生じないようにという配慮からでしたか。
でも、そうすると別に12から3を引かずに、前十二年合戦とすればよかったのではないでしょうか?前という字がつけば、後三年と対になることは簡単に想像できまっし。
9という無関係な数字を出すよりも分かりやすいのではないかと思うので、不思議です。
643642:2008/02/07(木) 19:58:08
>>641
すみません、よく読めていませんでした。
そもそも十二年合戦が後三年と合わせたものという誤解があって、その誤解に基づいた前九年という呼び名が現在も踏襲されているというお話だったのですね。失礼しました、、
644日本@名無史さん:2008/02/07(木) 20:51:27
江戸時代の公家の家禄は、大体家格で決まっているみたいですが、名家の日野家は
1000石以上、広橋家は850石と大抵の清華家すら上回る家禄をもらっているのは
何故でしょうか。

やっぱり足利将軍家と縁戚関係だったので、優遇されたのでしょうか。
645日本@名無しさん:2008/02/07(木) 21:35:56
>>644
日野輝資(唯心)時代の功績によるものでしょう。
この人は天海や崇伝のような徳川家のブレーンであり、
家は幕府から武家伝奏(武家から朝廷への取次役)に
任ぜられたのですから。

646日本@名無史さん:2008/02/07(木) 22:13:04
>>626
有難うございました。
647日本@名無史さん:2008/02/07(木) 22:15:17
むしろ半家でしかも卜部なんて卑姓の吉田の760石や萩原の1000石の方が不思議です。
なにか旧家はいろいろと行きがかりや経緯があるのか、
家格の割に禄高が高い場合がままありますね。
648日本@名無史さん:2008/02/07(木) 22:57:10
>>645
ありがとうございました。

>>647
萩原なんて豊国神社の社務だったのに江戸幕府から優遇されているのは不思議ですね。
649日本@名無史さん:2008/02/08(金) 00:28:04
650日本@名無史さん:2008/02/08(金) 01:00:45
>>649
それって後付じゃないの?
651日本@名無史さん:2008/02/08(金) 01:11:18
唐から日本へ戻った遣唐使船は人が降りる順番とかありますか?
652日本@名無史さん:2008/02/08(金) 06:44:47
江戸時代の風俗についての質問ってここでいいのでしょうか?

武道、武術としての剣道や剣術って江戸時代には既にあったと思うのですが、
これらは、武士の身分でなくても入門したり道場を開いたりする事ができたの
でしょうか?
653日本@名無史さん:2008/02/08(金) 10:37:38
>>652
つ試衞館
654日本@名無史さん:2008/02/08(金) 18:16:56
>>649
盛岡市前九年の地図にある厨川小学校って、厨川柵の厨川?
655日本@名無史さん:2008/02/09(土) 10:08:18
以前どこかのスレで読んだ平安時代の日記か小説を探しています。
「妻の持ち物をお気に入りの男の子にあげて怒られた」
「内裏で掘られた。掘るのも良いけど掘られるのも良い」

「妻がいるのに男色の上司(同僚?)に言い寄られて困る」
「妻と子が死んだorz」
こんな形で意訳されてました。
上と下は別の物か、作者に言い寄られている登場人物側からみると
こんな感じだろうと想像したものだったかも知れません。
うろ覚えですが苗字は藤原で、漢文で書かれたものと言う
情報もあったような気がします。
ご存じの方が居られましたらお願いします。
656日本@名無史さん:2008/02/09(土) 11:26:07
これ?

18 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2006/10/21(土) 16:38:30
平安の大物ホモ藤原頼長の日記「台記」の研究を読んでるんだけど
「受領讃」こと大僕卿孝標とかいう男が笑えた。


孝標日記(仮)

1. 頼長から手紙でしつこく言い寄られる。うざい。無視。
 つーか俺には愛する妻もいるし。

2.このまま無視し続けるつもりだが、どうやら
 俺とヤりたいがために坊主に加持祈祷までさせてるらしい。キモすぎ。

3.元上司の藤原忠雅さんは頼長の愛人の1人だったらしく、
 俺と頼長の仲を取り持ってポイントを稼ごうとしてやがる。
 これはかなり断り辛い。最悪。
(略)

19 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2006/10/21(土) 16:39:09
(略)
8.妻が難産で死んだ……。子供も死産だった。欝だ。俺も死にたい。
 とか言ってる矢先に、玄関先まで頼長が来てるらしいと従者から連絡が。
(略)
なんかこんな感じだったw
続きが気になる人はヒストリア84号を読もう。
真面目な論文なんだけどそれだけに妙に生々しい。
657日本@名無史さん:2008/02/09(土) 14:29:11
日本の歴史上で美女と言えば誰がいますか? 小野小町以外で。
658日本@名無史さん:2008/02/09(土) 15:24:53
お市の方とか
659日本@名無史さん:2008/02/09(土) 17:11:39
>>656
それです!有難うございました。
660日本@名無史さん:2008/02/09(土) 21:42:02
>>657
日本三大美女は、小野小町、光明皇后、藤原道綱母。
661日本@名無史さん:2008/02/09(土) 22:07:43
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/kouri/1202388925/l50
大学受験板 日本史総合スレ
662日本@名無史さん:2008/02/09(土) 22:54:05
>650
地名辞典には何て書いてあった?
663日本@名無史さん:2008/02/10(日) 00:59:43
>>658
正しくは小谷の方
664日本@名無史さん:2008/02/10(日) 02:12:50
>>651漂流してボロボロになってるから、適当じゃないかな
665日本@名無史さん:2008/02/13(水) 00:15:18
戦国時代、他家に養子に出る我が子に餞別の短剣を渡し、
(高橋紹運と立花宗茂だったと思いますがもしかしたら違うかも)

「戦場で我が家とお前の養子先の家が戦う場合、迷う事無く我が家に刃を向けよ。
少しでも迷うようならば、自分自身の腹をその短剣で刺せ。」

と言ったというエピソードを聞いたのですが、この話は実話ですか?
666日本@名無史さん:2008/02/13(水) 01:57:12
>665

名将言行録にその記述はあります
名将言行録を俗書として、その全てを切り捨てるか
是々非々で応じ、当該箇所においては然もありなんと肯定するかは人それぞれです
実話かどうかは誰にもわかりません(苦笑

私見ですが、665の引用で省略された部分を読むと
紹運の鑑連感は他の鑑連評と重なるので
そう的外れな話ではないと私は思います

667日本@名無史さん:2008/02/14(木) 18:53:56
>>644-648
近世の公家の家禄でいえば、五摂家筆頭の近衛家より九条家のほうが石高が
多いのも凄いね。
あれって九条家が将軍秀忠夫人の連れ子の嫁ぎ先であることとかが
関係するのかな?
戦国織豊〜江戸初期の政治的な活動という点では、九条家って近衛家に比べると
影が薄い気がするけど、石高多いのって何か不思議。
668日本@名無史さん:2008/02/14(木) 18:54:54
あと地下官人の家でも並の堂上家よりも高禄なケースとかあるよね。
669日本@名無史さん:2008/02/14(木) 19:15:44
>>663
そんな言い方すんのか?
670日本@名無史さん:2008/02/14(木) 21:22:17
随身の土山とかはかなり多い。両局よりも多い。
六位蔵人から昇格したような家は少ないな。
職務によっては家禄以外の役料もあって堂上になると多少家禄が増えても
かえって減収になるから地下のままに留まった家もある。
その代わりに華族になれなかったけど。
671日本@名無史さん:2008/02/14(木) 22:04:26
調子とかは?
672日本@名無史さん:2008/02/14(木) 22:08:50
七〇石前後だったと思う。土山は百数十石だから土山よりは少ない。
673日本@名無史さん:2008/02/15(金) 01:54:11
卑弥呼は何天皇に当たるのですか?
674日本@名無史さん:2008/02/15(金) 02:31:41
当たりません
675日本@名無史さん:2008/02/15(金) 12:19:12
剣豪と侍はどう違うんですか?
676日本@名無史さん:2008/02/15(金) 12:32:36
職人とサラリーマンの違い
677日本@名無史さん:2008/02/15(金) 14:46:23
質問です。
よく「江戸時代」とか「鎌倉時代」とか言う時代区分がありますよね。
そういう時代区分の名称って、誰が命名したんでしょうか。
江戸時代の人間が、
「平城京に遷都した時代は奈良時代だよ」と語っていたとはとても思えません。
きっと、明治になって、西洋の歴史学か何かのメソッドが日本に移入されてから
「奈良時代」とか言い出したんだと思いますが。
「奈良時代」とか言う時代区分を具体的に言い出したのは、誰なのか
ご存知の方いらっしゃいましたら、ぜひ教えてください。
よろしくお願いします。
678日本@名無史さん:2008/02/15(金) 17:51:54
>「平城京に遷都した時代は奈良時代だよ」と語っていたとはとても思えません。

じゃあ思わなきゃいいじゃんw
679日本@名無史さん:2008/02/15(金) 18:54:54
別に近代以降に付けられたものってわけでもないだろ。
680日本@名無史さん:2008/02/15(金) 19:06:06
>>678
知らないんならレスするな
681日本@名無史さん:2008/02/15(金) 19:39:26
>>677
明治に学校制度が整備され国定教科書ができたとき
このような時代区分を設けたんじゃなかったっけ
ただ時代とともに時代区分も変わる
明治時代には南北朝時代を吉野朝時代と呼んだ時期もあるし
戦前は天照大神から教えていたし
682日本@名無史さん:2008/02/15(金) 19:58:25
>>680
>>678のレスはともかく、そういう言い方は宜しくないな。
683日本@名無史さん:2008/02/15(金) 20:24:04
684日本@名無史さん:2008/02/15(金) 21:41:16
平安時代のことで質問なのですが、、
藤原頼通が関白職を息子じゃなくて弟に譲ったのはなぜですか?弟に次の関白は自分の息子にするよう約束させるくらいなら、はじめから息子に譲れば良かったのではないでしょうか?
後三条天皇は白河天皇に次は弟に皇位を譲るよう遺言したわけですが、これは堀河天皇というか白河天皇に息子が生まれても弟に譲るようにという意味だったのでしょうか?

685日本@名無史さん:2008/02/15(金) 22:28:39
頼通→教通→頼通の子っていう継承が父道長の意向らしくて、
姉である彰子も亡父の意向を尊重しろって立場で、
頼通は逆らえなかったらしい。
兄弟二人とも父同様にお姉ちゃんには頭が上がらず、
仮に彰子の方が教通より1年ほど長生きしていれば、
その後の継承争いも起こらなかったんじゃないだろうか?
後三条天皇の意向はその通りです。
686日本@名無史さん:2008/02/16(土) 03:34:36
>>681
『大日本史料』は戦前の編纂分でも「南北朝時代」の表記が使われているけど。
687日本@名無史さん:2008/02/16(土) 03:35:29
おしえてくださ〜い。
蝦夷っているじゃないですか、北海道エゾの地に住む、少数民族。
その蝦夷は、蘇我氏の蘇我蝦夷となにか関係あるのでしょうか?
また、蝦夷の漢字自体は当時の貴族につけるにふさわしい字面だったでしょうか?
688日本@名無史さん:2008/02/16(土) 08:01:06
悪いやつとか怖いやつという意味なんじゃね?
689日本@名無史さん:2008/02/16(土) 09:36:16
>>684
頼通が息子の師実に関白を譲りたいと姉の上東門院彰子に申し出た際、彰子は不機嫌となり、
後冷泉天皇にあてて「関白の申すこと承引あるべからず」と文を書き送ったため教通が関白となりました。
一般的に彰子は亡き父道長の意向であるからと主張したとされますが、道長の意向のほかに
教通はときの後冷泉天皇の伯父だったが師実は天皇の外戚に当たらず、
師実が関白になったのでは摂関政治が停滞すると考えたともとれます。
かつて東三条院詮子が兄の子藤原伊周ではなく一条天皇のおじである道長をとったように、
天皇との血縁関係が近い教通を彰子がとったともされるわけです。
教通の後の関白については頼通が個人的に師実を関白にせよと要求したのであって、
特に道長や彰子の指示というわけではありません。

後三条天皇は白河天皇が藤原師実(藤原頼通の子)の養女賢子を寵愛するのを見て、
師実を外戚とする皇子の即位を阻止し摂関政治をやめさせるため
2人の異母弟を後継者とすると定めたとされます。
最も、後三条の遺言はたとえ賢子の子以外であっても
白河天皇の子は即位させないというものだったので、
晩年の寵妃である源基子の子に帝位を伝えたいという本音も見え隠れします。
これにより白河天皇は父後三条院から一代限りの天皇だと運命づけられています。
690日本@名無史さん:2008/02/16(土) 10:47:45
>>686
「大日本史」じゃなくて明治期の「国定教科書」
の話をしているんだが?
691日本@名無史さん:2008/02/16(土) 11:52:16
wikipediaの「吃音」の項や、吃音関係のサイトで吃音であった歴史上の人物として柴田勝家の名前が挙げられています。
しかし古典からの出典などはありませんでした。
それらしい言葉で検索しても、根拠を示しているサイトはありません。
全てが障害者関連のサイトで「歴史上にはこんな吃音の障害者もいた」とかかれているだけです。

はたして柴田勝家が吃音であったのは確かなことなのでしょうか?
692日本@名無史さん:2008/02/16(土) 13:06:57
>>691
司馬遼太郎著「新史太閤記」に出てくる話。
饒舌な秀吉に対し無口な勝家を際立たせるために、
勝家は吃音のために秀吉を言い負かすことができなかったとしている。
ただ、「新史太閤記」はあくまでも小説。
当時の一次資料に勝家は吃音であるとしているものはないらしい。
693日本@名無史さん:2008/02/16(土) 13:20:30
>692
ありがとうございます。
坂本竜馬の過大評価と同じで司馬史観(創作、表現という意味で)の賜物なのですか。。。
694日本@名無史さん:2008/02/16(土) 15:30:07
>>690
「大日本史」じゃなくて>>686がいってるのは「大日本史料」だろw
695日本@名無史さん:2008/02/16(土) 16:28:21
696日本@名無史さん:2008/02/17(日) 01:37:02
江戸時代について勉強を始めたばかりの者です。
江戸ことばについての本はいろいろと出ているのですが、
たとえば「月代」とか「しもた屋」、「匕首」などの言葉がひけるお勧めの辞書はありますか?
697日本@名無史さん:2008/02/17(日) 03:08:55
辞書買え
698日本@名無史さん:2008/02/17(日) 03:45:35
>>696
例えばであげられている程度の言葉程度でいいならば広辞苑とか。
もし、もっと踏み込んだような内容なら、他にしかるべき本があると
699日本@名無史さん:2008/02/17(日) 12:21:09
>>698
>もっと踏み込んだような内容なら、他にしかるべき本があると

もっと踏み込んで調べたいときの「しかるべき本」を教えてください
700677:2008/02/17(日) 15:10:03
日本史板の人間でもご存知ないということですね。
分かりました、ありがとうございます。
701日本@名無史さん:2008/02/17(日) 18:11:04
そうですよね〜、この板で聞けばなにかヒントが、と思っても
知識のある人は2ちゃんねるに来ないということが
証明されているようなものですもんネ。
702日本@名無史さん:2008/02/17(日) 19:57:11
>>700
自分で本を見て調べればいいじゃないか
703日本@名無史さん:2008/02/17(日) 21:15:46
大河ドラマ見てふと思ったのですが、
篤姫の実家は1万石もらっていても大名家とは言いませんよね、それに比べて淺野家の分家の赤穂淺野家はれっきとした大名家ですよね。
この二家の根本的な違いは何でしょうか?

将軍様は篤姫輿入れの時に篤姫は養女だと知っているのでしょうか?
というかほかにも武田勝頼とか真田幸村の兄ちゃんとかも奥さんは養女ですが、知ってるの?
704日本@名無史さん:2008/02/17(日) 22:36:10
一番ややこしいのが吉川家
705日本@名無史さん:2008/02/17(日) 22:40:14
>>703
直臣か陪臣かの違い。
706日本@名無史さん:2008/02/18(月) 01:38:19
>>698
そこで「広辞苑」なんて挙げるなよ。
「広辞苑」や「大辞林」はあくまで一般向けの辞書。
研究には向かない。


>>696
たぶん一番いいのは「日本国語大辞典」だろう。
あと江戸でも前半期(17世紀)がメインなら、
「時代別国語辞典」(室町編)や「日葡辞書」が役に立つこともある。

まあ「時代別国語辞典」に江戸編があればベストなのだが、今のところ
上代編と室町編しか出てない。

あと最近は「日本国語大辞典」が入った電子辞書も出たという噂を聞いたが、
詳しくは知らない。
707日本@名無史さん:2008/02/18(月) 03:45:43
>>670
官司請負制による役得って近世でもあるの?
708日本@名無史さん:2008/02/18(月) 12:44:47
吉田神道は官司請負とはちょっと違うか?
大内記は幕末まで収入があったらしいけど、
菅原6氏の回り持ちらしいから官司請負にはあたらない?
内蔵頭山科家の装束関係はなにか収入になったのかな?
神祇伯白川家は一部神職を支配していたから役得があるとおもうけど。
地下官人でも役職で裕福な家が数軒あったらしい。
709日本@名無史さん:2008/02/18(月) 19:30:17
持ち回りでも官司請負は官司請負。
近世には1つの家系に固定される局務や官務だって元々は持ち回り。
710日本@名無史さん:2008/02/18(月) 23:43:34
戦時中って東京にナチスの将校いっぱいいましたよね。
俺の爺さんが戦時中に国技館に相撲を見に行ったら、
そのときナチスの将校がいっぱい相撲を観戦に来ていた。
と言っていました。

東京にいたナチス将校たちは戦後どうなったんですか?
アメリカ軍に引き渡されたのでしょうか?
ドイツ降伏から日本の降伏まで3ヶ月以上ありますから
日本から逃亡した人、ドイツから逃亡してきた人、日本国内で隠れていた人
なんていうのはいないのでしょうか?
711日本@名無史さん:2008/02/18(月) 23:51:27
>>710
近代史板か世界史板できいたほうが有効な回答が得られると思うぞ
712日本@名無史さん:2008/02/19(火) 18:35:38
>>686
歴史教科書も明治末期に南北朝正閏論争が発生するまでは「南北朝時代」の表記だった。

教科書が「吉野朝時代」の表記に変わったあとも国家の刊行物である『大日本史料』が「南北朝時代」の表記のままだったのは興味深いが、理由はよく知らない。
713日本@名無史さん:2008/02/19(火) 21:24:46
吉野朝というのは教育的な観点から名づけられた用語だから、史学の研究としては
南北朝といってよいというのが政府の見解だとか聞いたことがある。

天皇が二人いるというのは教育上よろしくないから、子供にはそう教えてはいけないが、
学者の研究としては構わないというダブルスタンダードだったらしい。
714日本@名無史さん:2008/02/19(火) 21:38:59
禁書にするけど悪魔退治の為に研究はして良いというのとどことなく通じるものがある。
715日本@名無しさん:2008/02/19(火) 23:36:14
究めるもの⊇教えるべきもの だからな。
単純にダブスタというべきものではない。

716日本@名無史さん:2008/02/20(水) 02:21:49
>>713
何がどうダブスタなのかよく分からん。
子供に教えるべきではないが、研究のために研究者は知っておくべき事。
いくらでもあるような?
717日本@名無史さん:2008/02/20(水) 06:54:41
津田左右吉の古代の天皇系図に関する研究とかも、
学校教育で教えるべきこととは違うが研究としてやる分には構わない
っていうのが昭和1桁期までは基本的なスタンスだったはず。
718日本@名無史さん:2008/02/20(水) 14:47:11
今、菅野祐孝(著)日本史Bノートを使っています。
これに「斯波氏は尾張を守護代の織田信長に奪われた」というような記述があるのですが、信長が守護代の地位についたことはあるのでしょうか?
守護代の家老の家柄から力をつけて云々というのを何かで読んだ気がしてまして、守護代にはつかなかったものと思っていたのですが。
教えて下さい。
719日本@名無史さん:2008/02/20(水) 14:59:27
「というような」では判断つけられんよ
単にお前さんの誤読かもしれんわけだから
720718:2008/02/20(水) 15:12:10
>>719
そうですね。では、信長が守護代になったことがあるかどうかだけ教えていただけますか
721日本@名無史さん:2008/02/21(木) 00:47:48
質問です。
藤原道長は生きてる内に摂関の職を長男に引き継がせ後に次男が関白の職を継ぐわけですよね。
で、道長の平等院立てられるような経済力の元になったであろう荘園は長男次男ほかにも側室の息子たちもいる訳ですが、どのように相続したのでしょうか?
大部分は長男が継いだのでしょうか?それとも長男次男は同じくらい?さすがに側室の子供は少ないとして。
722日本@名無史さん:2008/02/21(木) 09:57:31
当時の相続は女系に厚かったらしい。
たしか実資の莫大な財産はほとんど娘に行って養子には行かなかったし、
屋敷は女系で相続することが多かったらしい。
忠実の頃だったかに女系で伝わっていた摂関家の荘園を相続で再統合とかで、
それが権門としての摂関家の基礎だとかそんなのではなかったっけ。
それとなんか摂関家の縁のある受領かなにかの後妻が財産独占して、
先妻の子と争いになったとか読んだことがある。
結局は先妻の子は泣き寝入りみたいだったけど。
723日本@名無史さん:2008/02/21(木) 10:19:07
>>720
正確には守護代の一族の織田信長。信長の家は守護代の分家の1つで守護代ではない。
だが、受験日本史でそんなことは瑣末な事なんだろう。
724日本@名無史さん:2008/02/21(木) 15:06:25
たしか、守護代の被官の三奉行のうちの一家が信長の出身。
それで、守護代とその家老が守護の斯波義統を殺したため、
その子斯波義銀を擁立して信長が、守護代と家老を倒したんだが、
のちに守護を追放している。
725日本@名無史さん:2008/02/21(木) 16:33:04
「愛や友情という概念がない時代に兜に『愛』という字をつけていた越後の武将・直江兼続を描くんですが、
そんな時代に兼続の掲げた愛とはどういうものだったのか、興味がありますね。歴史が知らない人でも面白く見られる大河にしたいです。
いま、毎日勉強です。例えば、お風呂が無いんですよ。あの時代は。においがつきそうとか、水浴びをしていたのかとか、
当時の生活を想像すると、いろんなことが気になってきちゃって。もう書く前から疲れてます。(笑)」

天地人(来年の大河ドラマ)の脚本家がこんなことを抜かしていたらしいですが、当時の風呂とはどんな感じだったのでしょうか?
鎌倉時代の熊谷氏の譲り状には「不断湯」を絶やすなという一文が出てきたり、戦国時代でも信玄が温泉について
言及した書状が残っていたりしますよね。正直「お風呂が無かったんだて〜w」みたいな喜び方してるような人が大河の脚本かいな・・・
という感じなんですが。
726日本@名無史さん:2008/02/21(木) 18:24:57
>>723-724
で、守護代を追放した後に守護を擁立した時期があったわけで
そのときに自ら守護代になったんですか?という話です
727718:2008/02/21(木) 18:34:03
>>723さん
>>724さん
参考になりました。ありがとうございました。
特に信長が守護を追い出す過程はよく知らなかったのでこれから勉強してみます。

>>726さんのおっしゃるところにも興味があるので、どなたか教えていただけるとありがたいです。
728日本@名無史さん:2008/02/21(木) 19:16:24
帝国大学って、今と違って入試科目も少なく競争率も低かったので
お金に余裕のあるうちの子弟で、高校出てりゃ誰でも入れたって本当ですか?
729日本@名無史さん:2008/02/21(木) 20:05:55
>>728
その前に、中学な
730日本@名無史さん:2008/02/21(木) 20:15:56
>>722
当時は婿入りだったから仕方がない。
子供もすべて女が親から伝領した邸で育てられる。
後妻が独占て、阿仏尼のこと?
阿仏尼なら先妻の子と後妻の子が父藤原為家の残した遺産のうち、
ひとつの荘園の相続をめぐって争った話で、
財産全部を後妻が独り占めしたとかいう話ではない。
先妻の子が二条家、阿仏尼の子が冷泉家を起こして
のちのちまで歌道を争ったけど。
731日本@名無しさん:2008/02/21(木) 23:14:59
>>725
「入浴=湯=風呂」と概念がリンクするのは江戸時代からです。
浴というのは古くは治療法の一種でして、宗教上の「禊」とリンクしています。
清潔を保つ習慣づけが心身を整え幸福に繋がるということです。
「森林浴」はさすがに理解できると思いますが、「海水浴」も日本に導入されたときは治療法としてでした。
温泉浴も「湯治」という言葉が残っていますね。お湯に浸かるとは元々治療法の一種だったのです。
では「風呂」はといいますと、これは「風」…つまりサウナに近いものです。
私の住処の近くにも、古代から明治まで使われたという石風呂が文化財として残っています。
732日本@名無史さん:2008/02/23(土) 03:02:06
>>727
受験生が受験勉強としてやるなら、信長が守護を追い出す過程なんて細かく
追求するところじゃないだろ。
あとそもそもここは受験板じゃないし。
733日本@名無史さん:2008/02/23(土) 04:20:03
>>730
要は、家名の相続は男系でなされるが、家産の相続は女系によるケースがかなりあるってことだ。
734日本@名無史さん:2008/02/23(土) 15:30:13
>>694
意味不明。大日本史=大日本史料
735日本@名無史さん:2008/02/23(土) 18:36:33
ww
736日本@名無史さん:2008/02/23(土) 19:23:22
>>734
大日本史の著者=水戸徳川家及び家臣
大日本史料の著者=塙保己一及び和学講談所、ならびに東京帝国大学史料編纂掛

で、どこが一緒?
737日本@名無史さん:2008/02/23(土) 20:15:24
>>690に言ってあげな。
738日本@名無史さん:2008/02/23(土) 20:25:37
いや>>734に言うのは間違ってないだろ
739日本@名無史さん:2008/02/23(土) 20:49:01
>>690にも、なら満足か?
740日本@名無史さん:2008/02/23(土) 20:56:36
うむよかろう
741日本@名無史さん:2008/02/23(土) 22:18:41
なにこの上から目線
742日本@名無史さん:2008/02/24(日) 00:54:02
これにて一件落着
743718:2008/02/24(日) 01:38:28
>>732
いえ、受験生ではないんです。もう社会人なんですが、日本史をちゃんと勉強しておきたくなって、高校生用の参考書など買って勉強しています。
744日本@名無史さん:2008/02/24(日) 02:11:46
>>743
だったら、図書館で基礎的な通史の本を借りて読んだ方がいいんでないか?
745日本@名無史さん:2008/02/24(日) 04:26:34
まずは学習漫画から始めたら?
746日本@名無史さん:2008/02/24(日) 08:19:43
平民苗字必称義務令についての質問です。
この布告によって町人や百姓が苗字を取得する時に、
近衛、西園寺、武藤、菊地、橘、綾小路などの貴族風の苗字を選ぶことは認められていたのでしょうか。
それともこのような苗字を名乗ろうとしても官吏に拒絶されたのでしょうか。
747日本@名無史さん:2008/02/24(日) 08:33:59
武藤、菊池、橘なんて普通の苗字だし、そこいらにいくらでもいるけど。
さすがに近衛とかは拒否されそうだが。
748日本@名無史さん:2008/02/24(日) 14:10:02
京都で電話帳を開いてみましょう。
749日本@名無史さん:2008/02/24(日) 17:19:08
日本史って長い目で見ると平安末期〜戦国時代まで前後の時代と比べたら
戦乱の続く時代がありますよね。
中国では大局で見ると気候が不安定な時期には戦乱状態に陥りやすいという
定説があると聞きますが、日本でもこの一連の長い期間は、前後の時期と比べて
気候が不安定だったんでしょうか(つまり農業生産高が低い)。
750日本@名無史さん:2008/02/24(日) 17:26:57
>>744-745

743は別に勉強の仕方に対するアドバイスを求めているわけではあるまい。
751日本@名無史さん:2008/02/24(日) 17:28:12
>>743
あまり範囲を絞らず、まずは日本史関連の新書を乱読するといいよ。
752日本@名無史さん:2008/02/24(日) 19:23:00
戦国時代の戦役感状って戦役のたびに発行するのですか?
時々合戦と感状発行が10年ぐらい離れてるのも見るのですが・・・何故?
753日本@名無史さん:2008/02/24(日) 21:20:27
>>749
鎌倉時代は一般に低温な時代といわれるが、室町〜戦国時代は割と高温。
で、江戸時代に入ると再び低温になる
だいたいのイメージとして
1250年頃・・・低温のピーク
1500年頃・・・高温のピーク
1750年頃・・・低温のピーク
って感じじゃね?
754日本@名無史さん:2008/02/24(日) 21:35:42
>>753
間氷期に入ったのが18世紀。
寒さのピークはもっと後。
755日本@名無史さん:2008/02/24(日) 23:46:20
天気予報でも「寒さのピークは〜」って言うシトがいるけど
寒さは底じゃね?つー突っ込みは置いといて(苦笑

戦国時代と江戸時代中期が小氷河と教わった私は古い人間なのでしょうか…
↓の左
http://depts.washington.edu/isolab/images/tdicecore.gif
756日本@名無史さん:2008/02/25(月) 01:46:45
宮内庁が
陵墓を発掘させない本当の理由はなんですか?
マジレスで
757日本@名無史さん:2008/02/25(月) 01:57:25
>>756
国民から搾取した金が隠してあるから
758日本@名無史さん:2008/02/25(月) 02:59:24
墓荒らしは倫理上の問題があるから
759日本@名無史さん:2008/02/25(月) 08:05:34
志賀島金印って、石室から出てきたって言うけど
その石室自体調査したことあるんですか?それとも失われた?
760日本@名無史さん:2008/02/25(月) 13:54:00
志賀島の金印は石室から発見されたのではなく、
江戸時代、農民が畑を耕していたら畑から出てきたということで
藩に届け出があったというもの。
大石の下から出てきたとあるので石棺の一部だった可能性はある。
もっとも、奴国王の遣使は西暦57年。
頑丈な石室が築かれるのはもっと後の時代。
761日本@名無史さん:2008/02/25(月) 16:44:54
教えてください。
方丈記が生まれた時期、日本には海外からの思想は、どの程度入っているのですか?
中国はもちろん、ギリシャ、ローマの思想、文献は入ってきていますか?
http://homepage2.nifty.com/murasaki-miyako/quotations/heraclitus.html
これは、方丈記の「ゆく川の〜」と似ていますが、
方丈記はそれのマネでしょうか?
762日本@名無史さん:2008/02/25(月) 23:01:17
日本では浮世絵や狩野派に代表される、絵画美術が発達していたのに対して
音楽家というものが近代まで発達しなかったのはなぜなのでしょうか?
763日本@名無史さん:2008/02/25(月) 23:15:36
江戸時代大名が転封した時、菩提寺が地元だった時
転封先に移動かそのままの場合とありますが
残した場合残した先祖の法事や墓参りとかはどうしていたのでしょうか?
764武陽隠士:2008/02/25(月) 23:16:28
>>762
いっぱいいるじゃない?
さっぱり分からない。
君は西洋を規範としてる。
君の言いぐさは「なぜ西洋が日本文化を評価するときは絵画が多くて、
邦楽(Jポップじゃないよ)は評価されないのかと
訊いてるようなものだ
ただ宣教師とか外人の日本の音楽を聞くと雑音に聞こえたらしいね
ちなみに西洋の音楽も日本人には騒音にしか聞こえないという逸話もある
765日本@名無史さん:2008/02/25(月) 23:52:02
>>763
北条氏の場合だと、秀吉の小田原合戦の際に消失した早雲寺を狭山藩主家が再興して
5代の供養を行っていたみたい。幕末には狭山藩主家が早雲の木像を作らせているしね。
766日本@名無史さん:2008/02/26(火) 01:10:50
斎藤義龍が長生きしてたら信長は美濃取れなかった?
767日本@名無史さん:2008/02/26(火) 02:36:32
>>763祖母方の母親が真田の家臣だったが寺は上田だったよ。
768日本@名無史さん:2008/02/26(火) 04:07:23
真田村(真田名字由来の地)じゃないんだ。
769日本@名無史さん:2008/02/26(火) 05:57:03
>>764
いっぱいいるって、例えば誰?
770日本@名無史さん:2008/02/26(火) 14:43:54
いっぱいでた・・・
771日本@名無史さん:2008/02/26(火) 15:16:40
>>762
武陽君はさておき・・・
日本の音楽は、もともと神社での奉納や
宮中での儀式の一貫として発達し、
貴族たちも教養の一貫として取得しました。
のちには、公家たちが家業として代々伝えていました。

久我家・・・家業は、笛。
西園寺家・・・家業は、琵琶。
正親町家・・・家業は、箏。
中御門家・・・家業は、笙。

民間での音楽家といえば、琵琶法師や検校などがあげられるかもしれません。
772日本@名無史さん:2008/02/26(火) 20:04:45
奈良時代か平安時代初期にキリスト教のなんとか派、「景教」が
唐の長安経由で日本に伝来していたと聞いたのですが、
どのような証拠があるのでしょうか?
773日本@名無史さん:2008/02/26(火) 20:52:28
頼山陽の詩でおなじみの「工藤の銅拍 秩父の鼓 」だが
畠山こそ院の御感に入りたりし笛の名人と言われるほど畠山重忠も鎌倉武士に中では音楽に秀でていたようだ
774日本@名無史さん:2008/02/26(火) 22:09:03
明治初年の人口統計で神社に仕える神主の階層が「神官」ではなく、
「旧神官」となっているのはどういうことなんだろう?
社家が廃止されたので、神主階層には「旧」がついてるのか?

ちょっと考えてみたんだが、下のA・Bのどちらが適切だろうか?


社家が廃止されたので、江戸時代、「神官」であった家系の人々がその身分を失った。
その時点では士族でも僧でも平民でもないので、とりあえず「旧神官」でくくった。


伊勢神宮など、特別な例を除いて神社の奉仕者は国家の「官吏」ではなくなったので、
「神官」と称するのは不都合となり、大部分の神官は「神職」と呼ばれるようになった。
だから江戸時代に神官であった者たちは「旧神官」と呼ばれた。
775日本@名無史さん:2008/02/26(火) 22:55:13
>>764
例えば誰が当てはまるのでしょうか?
自分は洋楽云々という話ではなく、近代までいわゆる「音楽家」という
ものが日本で発達しなかった理由を教えてほしいのです。
776日本@名無史さん:2008/02/26(火) 22:59:23
天守閣ってなんなんですか?
よくわからないけど城の一番上の部屋のことなんだろうなぁって程度にしかイメージ出来ないんです。
あと天守閣があることのメリットも一緒に教えてくれませんか。
777日本@名無史さん:2008/02/26(火) 23:19:27
>>775
和声とか対位法って概念が日本にはなかったので
日本では音楽が発達しなかったのではないかな。
778日本@名無史さん:2008/02/26(火) 23:49:14
>>777
それはまったく違う
そもそも日本の音楽は絶対音感が必要とされない、否じゃまなだけの存在。
音楽そのものつくりが違う
ついでにいえば近代的な意味での彫刻家も画家も作家も近世以前はいない
高村光太郎は彫刻家だが、親父の高村光雲は彫刻家じゃない。
彫り物職人だ。
779日本@名無史さん:2008/02/27(水) 00:16:35
>>772
ゾロアスター教(拝火教)も伝来してる
780日本@名無史さん:2008/02/27(水) 00:56:35
ブヨー、ピンチ!
どうした頑張れブヨー!
781武陽隠士:2008/02/27(水) 01:02:54
ハンドルネーム忘れた。>>778は私だ。
782日本@名無史さん:2008/02/27(水) 01:35:09
>762
>771氏の回答では不満なのでしょうか?
留保が必要なコテにだけ反応していると、自演や荒らし認定されますよ(苦笑

>日本では浮世絵や狩野派に代表される、絵画美術が発達していた
絵画に限らず彫刻・画家・作家あらゆる文化が平安時代以降独自の極みに昇華しております
むしろ例外を挙げるほうがよろしいかと

>音楽家というものが近代まで発達しなかったのはなぜなのでしょうか?
日本では音楽家というものが近代まで発達しなかったと主張なさりたいのであれば、もう少し説明が必要ですね
貴方はどういうものを念頭においているのですか?
複雑なアラビア音楽でしょうか、それとも所謂クラシックと称せられる音楽でしょうか?
あるいはアフリカや中央アジア等の部族が奏でる音楽でしょうか?

何れにせよ、能楽等の伝統音楽は近代までなんら発達しなかったという自説をまずは開陳し
そのうえで貴方の言う発達した音楽家の例を述べるべきでしょう

貴方の言い様は換言(ついでに極言w)すると
「モーツアルトの音楽は軽すぎて耐えられない。グリーグは冬のドライブBGMには使えるが夏は駄目だ。」
と当人の嗜好のみで、クラシック音楽の極一部だけを聞いたに過ぎないのにクラシック音楽全体を否定し、
意識の埒外においてしまっている人の様です

能や歌舞伎をきちんと鑑賞したことはありますか?ほとんど気に留めていなかったのではないですか?
日本では宮中や武家に支持されたカタチで音楽は発達してきたのです

音楽家というものが近代まで発達しなかったのか
貴方の好む音楽家というものが近代まで発達しなかったのかは
厳密に区別すべきでしょう
783日本@名無史さん:2008/02/27(水) 05:32:19
>>780
ブヨブヨいうなw
784日本@名無史さん:2008/02/27(水) 10:18:48
>962はそんな難しいこと考えてないと思うぞ。
欧州での評価を基準にして勘違いしてるだけだと思う。
785784:2008/02/27(水) 10:20:51
失礼、>762でした
786日本@名無史さん:2008/02/27(水) 12:31:46
>>782
じゃ、モーツァルトとかバッハみたいな作曲家の類は?
787784:2008/02/27(水) 14:10:33
箏曲だと八橋検校。
近世箏曲を最初に完成させ、後の様々な流派に色々な影響を残してる。
浄瑠璃だと竹本義太夫は外せないでしょう。
788日本@名無史さん:2008/02/27(水) 14:34:15
西洋との違いを聞くとすぐ、西洋の評価気にしすぎだの日本だって云々w
国士というか阿呆ばっかww
789日本@名無史さん:2008/02/27(水) 17:32:52
>>776
天守閣はもともと敵が攻めてきたときに遠くまで見渡すことができるよう、
周囲の建物よりも高く作られた物見のための建物だった。
もっとも、時代とともに遠くからでも見える天守閣は権力の象徴ともなり、
平屋を何層にも重ねた豪華な建物へと変わっていった。
初期には天守閣と城主の屋敷が一体になったものもあったようだが、
安土桃山時代や江戸時代には城主の通常の屋敷とは完全に分離した
天守閣だけが建てられている。
790日本@名無史さん:2008/02/27(水) 18:57:53
>>762
音階の違い。
日本や中国なんかはピアノで言うところの黒鍵のみでひける音階で発達。
これは旋律(メロディー)重視にむいている。
西洋は白鍵、黒鍵の12音。これは和音(ハーモニー)重視に向く。

どちらがいいという問題ではないが結果的に和音(和声)重視の西洋音楽の方が
複雑に発達するのに向いていた。人間も和声が心地よく感じるみたいだ。
791日本@名無史さん:2008/02/27(水) 19:48:45
欧州は宗教の重厚さと音楽
中華は権力の尊厳さと音楽
日本は宗教者も権力者も音楽に金かけてないって感じだねぇ!
792日本@名無史さん:2008/02/27(水) 22:50:54
江戸時代の貨幣で、1両というのは、現代のいくらぐらいになるのですか?
大名や旗本などで、「石高が××石」と云いますが、1石は何両に該当したのですか?
793武陽隠士:2008/02/27(水) 23:25:41
歌舞伎、能も音楽(が含まれる)さ
いいかげん近代西洋音楽を規範として邦楽を考えるのはて止めてくれ
そもそも日本の音楽は「自己表現」(西洋も近代前はそうだ。試みに近代前の西洋音楽家の名前は挙げてみたまえ)じゃない。

794日本@名無史さん:2008/02/28(木) 00:28:24
西洋の音楽などインドや中東の複雑で高度に洗練された音楽に比べると
全く垢抜けない、土人の音楽のようなものだ。
西洋音楽が1オクターブ12音なのに対して中東の音楽は1オクターブ24音。
西洋音楽の旋法が特殊なものまで含めて数十種類なのに対してインドの古典音楽は
数千種類。しかも上方と下方でスケールが違うものまであるうえに
「この音からこの音には行かない」等のものすごく細かい規則がある。

リズムに至ってはインド音楽は百十何拍子なんてのが出てくる。

そういう体系と厳しい修行の元で天与の才能のあるものだけが
伝授される秘密の音律のもとで鍛えられたインドのミュージシャンに
比べると、西洋のクラシック音楽家など中学生のパンクバンドにも等しい。
795武陽隠士:2008/02/28(木) 00:40:31

モーツァルトやベートーベンを聞くと吐き気を催す……
そういう人たちが明治大正までは庶民に多くいた。
あか抜けないという云い方は、どこまでいっても邦楽を外国音楽の規範で裁断した言い方だ。
戦国時代、ある宣教師の日本見聞録では日本の音楽を騒音とみなして(君と同じだW)る。
しかしその「あか抜けしない」音楽を日本人は楽しんでいたのだ。
君は耳が時代や共同体の制約を受けていることをご存じないらしい。
君の音楽的審美観は先天的に具備されてきたものではないのだよ。
796池田大作 ◆NmGvY4xptU :2008/02/28(木) 01:35:46
初めまして、実は私は高卒です。
高卒だからコンプレクスがあるのかもしれないのですが、
処女の女子大生とエッチがしてみたいのです。
頭はいいのですが今更大学受験をするのも面倒臭いです。
聞くところによると大学教授になれば処女の女子大生エッチが出来るそうです。
そこで世間をあっと言わせる論文を書いていきなり大学教授になるつもりです。
797日本@名無史さん:2008/02/28(木) 01:37:22
それはよかったですね、頑張って下さい。
798池田大作 ◆NmGvY4xptU :2008/02/28(木) 01:38:08
論文のネタは、↓の通りです。
そして質問は、
これを緻密に証明した論文が書ければ「世間をあっと言わせる論文を書いた」と言えるでしょうか?

軍事的権力者=クーデター、反乱者、が自らの正当性を証明するために天皇家を利用してた。
つまり、天皇家はその時の軍事的権力者のメカケ、寄生虫、ニートみたいなものと。
ただ、天皇家にしてみれば軍事的権力者として殺し合いには参加しないですみ、実際、長い年月家系を維持できた。
結果的にみればこの天皇家の選択は賢い選択だった。
このメカケ業は、
・明治〜終戦間は薩長のメカケ
・敗戦直後はマッカーサーのメカケ
・戦後は自民党のメカケ
と現在でも続いている。
799池田大作 ◆NmGvY4xptU :2008/02/28(木) 01:43:28
つまり、なんからの新しい法則性を提示する論文ではなく、
新しい歴史の見方を提示する論文なのです。
これで大学教授になれるでしょうか?
800池田大作 ◆NmGvY4xptU :2008/02/28(木) 01:45:41
あと、論文の書き方も教えて欲しいです。
801池田大作 ◆NmGvY4xptU :2008/02/28(木) 01:52:51
>>791
> 欧州は宗教の重厚さと音楽
> 中華は権力の尊厳さと音楽
> 日本は宗教者も権力者も音楽に金かけてないって感じだねぇ!

欧州の教会は音楽にしても建物にしてもマインド・コントロールの装置だね。で、重厚、荘厳さを追究したんだろ。
そんなアホ臭い事に力点をおかない日本の宗教はそれはそれでいいんじゃないかな。
802池田大作 ◆NmGvY4xptU :2008/02/28(木) 02:02:55
>>762
> 日本では浮世絵や狩野派に代表される、絵画美術が発達していたのに対して
> 音楽家というものが近代まで発達しなかったのはなぜなのでしょうか?
必要なかったからでしょう。
西洋に人的に大規模なオーケストラが育ったのは、
やっぱ教会がマインド・コントロールで音楽に力をいれていたから、じゃないかな。
803日本@名無史さん:2008/02/28(木) 02:07:02
 恍惚感って集団催眠かもね
804池田大作 ◆NmGvY4xptU :2008/02/28(木) 02:42:53
あと、日本の仏教の坊主が読経を集団でやるのも重厚、荘厳さがあるね、あれも広い意味で音楽かも。
あと、能に付随した音楽、歌舞伎に付随した音楽があるね。
805日本@名無史さん:2008/02/28(木) 07:38:41
西洋音楽の秀でていたところは、
音楽の分析・研究だと思うな。
806日本@名無史さん:2008/02/28(木) 12:24:01
武陽隠士っていうクソはトリップつけれないうえに、sageもできないバカなので
NG推奨ですよ☆
807日本@名無史さん:2008/02/28(木) 12:26:39
一時期トリップつけてたじゃん
808日本@名無史さん:2008/02/28(木) 13:18:35
キモイ糞コテが同時に2匹も現れるとは・・・
809日本@名無史さん:2008/02/28(木) 13:32:49
>>794
で、何でもその気になれば聴ける現代においてそういう音楽聴いている人が
どれだけいる?
モーツァルト信者は世界中に掃いて捨てるほどいるが。
西洋音楽だってピタゴラス、純正律中全音律などから平均律へと単純化させて
汎用性重視に変えてきている。
複雑だからいいというものでもないだろ。
結局複雑で扱える人間が少ないものは参加者の絶対数が少ないから発展しない。
汎用性のあるものは参加者が多くなって発展する。
810池田大作 ◆NmGvY4xptU :2008/02/28(木) 14:52:24
>>805
> 西洋音楽の秀でていたところは、
> 音楽の分析・研究だと思うな。
だから、通常の生活をしてるヤツは金にならない音楽の分析・研究なんてやらないんだよ。
西洋では、教会という権力の後ろ盾があったから、音楽の分析・研究をやる専門職が出来たわけ。
811池田大作 ◆NmGvY4xptU :2008/02/28(木) 15:14:57
>>794
>西洋の音楽などインドや中東の複雑で高度に洗練された音楽に比べると
つか、インドや中東の音楽は洗練されてないから複雑なままなんじゃねーの?w
だから全部同じように聞こえると思うんだけどw
812日本@名無史さん:2008/02/28(木) 18:40:17
音階が複雑なのと曲の構成が複雑なのとは全然意味が違うもんな。
813池田大作 ◆NmGvY4xptU :2008/02/28(木) 19:11:40
>>812
そうそう。音楽を単純化し短調、長調、和声学の概念を見いだした西洋音楽はたいしたもんだし、音楽の広がりバリエーションがあると思う。
全部同じように聞こえるインドや中東の音楽も嫌いじゃないけどね。
814池田大作 ◆NmGvY4xptU :2008/02/28(木) 20:12:43
つーか、私の天皇論の第一章の名前が決まりました。
『クーデターの口実としての天皇』です。で、私が大学教授になれるような論文の内容を皆さん考えて下さい。
815日本@名無史さん:2008/02/28(木) 20:43:43
>814
そんなこと言って何が楽しいの?
816日本@名無史さん:2008/02/28(木) 20:45:17
まあ趣味は人それぞれ、なにが楽しいかなんか他人には理解不能な世界だから。
817日本@名無史さん:2008/02/28(木) 21:02:54
>>815
「自分はすごい理論を思いついた!大論文を書くぞ!」
ってのは躁病患者に典型的な症状の一つなんだよ。
そっと見守っておきな。
818日本@名無史さん:2008/02/28(木) 21:17:56
明治初年の人口統計で神社に仕える神主の階層が「神官」ではなく、
「旧神官」となっているのはどういうことなんだろう?
社家が廃止されたので、神主階層には「旧」がついてるのか?

ちょっと考えてみたんだが、下のA・Bのどちらが適切だろうか?


社家が廃止されたので、江戸時代、「神官」であった家系の人々がその身分を失った。
その時点では士族でも僧でも平民でもないので、とりあえず「旧神官」でくくった。


伊勢神宮など、特別な例を除いて神社の奉仕者は国家の「官吏」ではなくなったので、
「神官」と称するのは不都合となり、大部分の神官は「神職」と呼ばれるようになった。
だから江戸時代に神官であった者たちは「旧神官」と呼ばれた。
819日本@名無史さん:2008/02/28(木) 21:31:35
元興寺縁起説ッテなんですか?
820日本@名無史さん:2008/02/28(木) 21:43:39
仏教伝来
821日本@名無史さん:2008/02/28(木) 22:47:01
継体死後の2王朝対立説
822池田大作 ◆NmGvY4xptU :2008/02/29(金) 00:03:58
この板には日本史がらみの大学院生なんて来ないの?
823武陽隠士:2008/02/29(金) 00:41:02
>>822
こんなとこに書き込みするメリットないからね
824池田大作 ◆NmGvY4xptU :2008/02/29(金) 00:42:15
いやー、マジ論文に関して教えて欲しいんだけど。
825日本@名無史さん:2008/02/29(金) 08:14:54
>>824
あなたってひょっとして東京の錦糸町界隈に住んでない?
俺の知り合いにそっくり似たようなこと言ってる男がいる。
826日本@名無史さん:2008/02/29(金) 09:22:00
池波正太郎の賊将を読んで
細川勝元が正義で、山名持豊が賊将って印象を受けました。
実際はどちらのほうが正当性が高かったのでしょうか?

細川勝元・・統率92武勇70知略100政治110
山名持豊・・統率102武勇92知略89政治90

827日本@名無史さん:2008/02/29(金) 10:37:41
食べた貝を庭に埋めたら、将来貝塚になりますか?
828日本@名無史さん:2008/02/29(金) 10:49:36
大量に埋めればなるんでね?
829日本@名無史さん:2008/02/29(金) 11:55:01
>>828
そうなんですか!ありがとうございます!
830名無し募集中。。。:2008/02/29(金) 13:12:48
頼山陽の日本政記は文庫化しとらんが?
日本外史なら岩波文庫にあるげんけど
831日本@名無史さん:2008/02/29(金) 13:28:13
コテ池田大作は浪人生かなんかだろ。
見識つたなく言動が幼い。
832池田大作 ◆NmGvY4xptU :2008/02/29(金) 13:45:13
論文に関してご存じの方いたら上の質問よろしくお願いします。
833日本@名無史さん:2008/02/29(金) 14:07:39
炎立つっていう小説あるじゃないですが、あれでどこまでが本当でどこからがフィクションなのかよく分からないので、教えてください。

当時の奥州の刀と馬って評価が高かったのですか?
安陪氏は津軽のあたりまで勢力圏に納めていたのですか?

後純粋に不思議なんだけど、
清原氏はなんで清衡を殺さずに自分たちの一族に加えて育てたんですか?


さすがに中国の船が直接津軽に入港していて朝廷にばれてない、というレベルまで行くとネタだと分かるのですが。
834日本@名無史さん:2008/02/29(金) 15:12:56
>当時の奥州の刀と馬って評価が高かったのですか?
平安時代後期は、関(岐阜県)が刀の最大の産地。
鎌倉時代以降最大の産地となった備前も有名だった。
平安時代後期最大の馬の産地は武蔵国。
奥州の刀や馬がそれほど評価が高かったということはない。

>安陪氏は津軽のあたりまで勢力圏に納めていたのですか?
安部頼時は奥六州の酋長とされている。
現在でいうところの、岩手県胆沢郡、江刺郡、和賀郡、紫波郡、稗貫郡、岩手郡。
津軽地方には進出していなかった模様。

>清原氏はなんで清衡を殺さずに自分たちの一族に加えて育てたんですか?
清衡の母が清原武貞の妻になったため。
もともと安部氏や清衡の実父経清と長年戦を続けていたのは奥州に足掛かりを得たい源頼義であり、
清原氏は頼義に援軍を差し出し勝利に導いたものの、もともとそれほどの悪感情はなかったためか。

>中国の船が直接津軽に入港していて朝廷にばれてない
まあ、なかったでしょうね。

835日本@名無史さん:2008/02/29(金) 17:14:52
>>824
東大の大学院で日本史の博士号をとった後、地方の公立大学で
教鞭をとっているものです。
あなたの視点は非常に面白いし斬新なものがあると思います。
もし宜しければメールで詳しい話しを聞かせてもらえませんか。
836日本@名無史さん:2008/02/29(金) 19:46:31
東大には日本史の博士号があるのか。
837日本@名無史さん:2008/02/29(金) 20:17:48
自演だからきにするな
838日本@名無史さん:2008/02/29(金) 20:30:53
>>834
ありがとうございます。
作中でひょっとしたら本当かもと思った部分もフィクションですか。

清衡も「殺す必要がないから生かしておいた」と言うことですね。
戦国時代あたりだと「生かしておく必要がないから殺す」とかなりそうですが、時代の違いですかね。
839日本@名無史さん:2008/02/29(金) 20:31:03
>>834
江戸以前というと鍋釜は男の買い物だったらしいね。
というからにはやたら分厚く重く、分厚いからにはえらく脆いものだったんだろう。
炭素や珪素を多分に含んでいたものと思われる。
買ったそばから割れるような鋳物が少なくなかったように思うのだが、
この辺りは想像になる。
日本の鉄が、量はともかく質的に向上したのはいつからだろうね。
明治維新を興した大日本イデオロギーでは何でもかでも
「中世の昔から日本の技術は精巧だった」ってことになりがちだけど、
太平の江戸時代に精巧になった技術の方が実は多い気がする。
少なくとも、明治一代を支えた絹織物が江戸時代の所産であるということは比較的はっきりしている。
この手のバイアスやフィルターはあちこちにありそうな。
840日本@名無史さん:2008/02/29(金) 21:50:50
>>833
日本刀の特徴の一つである刀身の反りは、
東北地方を中心として出土している「蕨手刀」の影響が強く、
ここから、毛抜形衛府太刀、衛府太刀に繋がってゆくようです。

>>834
むしろ関(美濃)の鍛冶は、南北朝〜戦国期にかけてが
最も繁栄したはず。「孫六兼元」とか、「兼定」などが有名、
次の時代の「新刀」に大きな影響を与えたようです。
841日本@名無史さん:2008/02/29(金) 23:13:56
毛抜形ってどういう意味なの?
842武陽隠士:2008/03/01(土) 01:07:14
>>833>>840
つまんない忠告するとネット上のデータの敷き写しなら止めておくことだ。
ちゃんといくつか先行研究に当たったほうがよい。
>>840のうんちくは、石井昌国著『蕨手刀』が出所だ。>>840は多分ザっと目を通すどころか、ネット上で適当に切り貼りしてきたんだろう。
2ちゃんで質問するのはバカだよ。
ググって分かるくらいのことしか皆レスしない(若干名を除く)。
ちなみに石井の説は反駁反論も多い。
気鋭の武家故実研究者、近藤好和氏はまっこうから批判している。
私も極めて妥当な批判だと思う。
近藤好和氏のミネルヴァ書房刊『源義経』はヒドい出来だったが、
さすがに武家故実は専門だけあって、余人の追随を許さない。
ところで>>840(だけじゃないが)には他にも批判あるいは留保をつけなくてはならない点があるが、
面倒くさいので気が向いたら叩くとしよう。
まあみんな早速ググって私を叩く材料でも探すんだろうなW
私のケアレスミスでも探すのかな?
843日本@名無史さん:2008/03/01(土) 01:08:07
教科書に出てくる昔の外人の名前にはなんでイコールがついているんですか?
例えばフランシスコ=ザビエルとかルイス=フロイスとか
844aratame_himiko:2008/03/01(土) 01:40:30
スレ立て専門のとこですよね?〜ここでよかったかな。
845池田大作 ◆NmGvY4xptU :2008/03/01(土) 02:36:21
>>835
つーか、そもそも日本史の論文ってものがどんなものだかわからない。
ネット上にあればありがたいので、何かあればリンクを貼って下さい。
846日本@名無史さん:2008/03/01(土) 06:44:58
朝鮮は新羅時代に唐にびびって創始改名しましたが
(昔のほうがどくじせいがあってよかったのだが。そして責められる日本・・・)
日本はいつ創始改名したんでしょうか?そしてなぜ?
いやだって、大昔の豪族の名前って明らかに当て字な上に
独自性があってかっこいいんだもんよ
847840:2008/03/01(土) 07:36:10
>>842
武陽さま
ご指摘有難う存じます。

蕨手刀云々の記載は、東京国立博物館1997年特別展「日本のかたな」
図録の「刀剣概説」小笠原信夫から引いてきました。
なにぶん、浅学のため失礼いたしました。
848日本@名無史さん:2008/03/01(土) 10:43:53
質問です。幕末、政治の中心が実質京都に移り薩長土その他藩、幕府などから大量のカネが
市中や政界工作とかで落とされたようですが、このカネで京都の景気とか好景気になったんでしょうか?
849日本@名無史さん:2008/03/01(土) 11:57:01
幕末の動乱は海外でも報道されていたのでしょうか?
報道されていたとしたら、どういう扱われ方だったのでしょうか?
「民主化の大クーデター」
「野蛮国で酋長同士が殺し合い」
どうだったんでしょうか・
850日本@名無史さん:2008/03/02(日) 04:47:05
>>849
当時の新聞を読め、カス。
851日本@名無史さん:2008/03/02(日) 12:25:24
しばらくこないうちに過疎化しとるな
852日本@名無史さん:2008/03/02(日) 13:09:42
日本史板は何時も過疎ってますが何か?
電波コテハンが二匹うろついているのを賑わうとは通常言いません。
コノ板住人のスルー力が弱いだけです。
853kogindama:2008/03/02(日) 13:23:58
初めて質問します。

アイヌ人って日本人ですか?
いろんな意味においてですが
854日本@名無史さん:2008/03/02(日) 13:27:09
それは
インディアンってアメリカ人ですか?
とか
イヌイットってカナダ人ですか?
と聞くようなもんだ。
855kogindama:2008/03/02(日) 13:30:42
はい、そうなることを知っていての質問です。
856kogindama:2008/03/02(日) 13:31:27
ちなみにインディアンじゃなくてネイティブアメリカンって表現したほうがいいと思いますよ
なんとなくですが
857日本@名無史さん:2008/03/02(日) 14:01:36
>>840
石井説を支持している下向井氏は、蕨手刀を蝦夷の騎馬戦用の武器ではないかと
考えて、そこから毛抜形太刀が生まれ、日本刀が出来たのではないかとしています。
毛抜形太刀は俘囚剣とも呼ばれているそうです。
858武陽隠士:2008/03/02(日) 15:05:33
>>857
ググる、お疲れW
859日本@名無史さん:2008/03/02(日) 15:35:04
>858
君が糞と呼ばれている理由がよく理解できたよ
860日本@名無史さん:2008/03/02(日) 16:14:18
どなたかお答え下され

平安期の内裏の変遷年表みたいな本があると聞いたんですが
書名のわかる人おりませぬか。
何年何月何日から何年何月何日にどの邸宅が
内裏として扱われていたか
861日本@名無史さん:2008/03/02(日) 17:57:24
奈良や平安時代にあった八色の姓について質問です。
朝臣の家に生まれた人は、生まれた時から「○○朝臣」と呼ばれていたんですか?
それとも、成人するまで、あるいは成人しても一定の役職に付けるまで、
「○○朝臣」という呼ばれ方はしなかったんですか?
862日本@名無史さん:2008/03/02(日) 18:45:47
>861
一般に幼名には姓を付けない。
貴族の子弟は一般的に元服したときに
同時に官位を受けて社会人の仲間入りをするので、
「藤原朝臣道長」というような名前になる。
役職は特に関係ない。
ただ、元服前、いみなが決まる前には
そのような呼ばれ方はしないね。
863日本@名無史さん:2008/03/02(日) 19:07:18
>>862
なるほど、ありがとうございます。
それでは子供の頃は「時定」や「今仁」などだけで事実上のフルネームなんですね。
864日本@名無史さん:2008/03/02(日) 19:16:17
いや子供の頃は幼名だけでしょう。
道長の息子で「いわ君」とか。これは頼宗だったけ?
無位無官でも○○朝臣××。
865日本@名無史さん:2008/03/02(日) 19:22:46
「○○朝臣××」の「××」の部分(いみな)は省略されることもあったんですよね?
正三位以上の人は苗字+かばねだけで呼ばれることも多かったと聞いていますが。
866日本@名無史さん:2008/03/02(日) 20:00:19
>>858
一応本に書いてあったことなんだけどなあ

867日本@名無史さん:2008/03/02(日) 22:24:25
>>866
NGワード推奨
868武陽隠士:2008/03/03(月) 00:27:12
>蕨手刀のことで私にレスした人へ
君の本というのは、講談社日本の歴史かな(あのシリーズは玉石混淆だよ。ひどいのがいくつもある。下向井の出来は敢えてノーコメント)
確か革命的戦術とかいうくだりがあったがあれに私は批判的だ。
あの蕨手刀の件は過渡的通説とでもいえばいいかな。
おいおい通説じゃなくなるという感じね。
そういう通説、今までいえば、伝源頼朝像、等伯の信玄像(違うという説が有力になってきたが、未だにこれを信玄像とする「通説」にすがりつく連中がいる。君の好きな東京国立博物館の連中もそうだ)、早雲の年齢などetc.
下向井はともかく、石井先生は偉い方だけど、
はっきりいってあんな単純な議論で結論等だしちゃまずいよ。
近藤氏ならずとも批判するのは当然さ。
特に下向井だけど、刀の馬上戦の根拠が根拠自体の根拠になっている。
もうひとつ直刀だから刺突とかいうのはおかしい。
第一、刀自体の構造の目配りもない。
はっきりいえば、ここは学問的業績の穴場かも。新学説で勝負挑める。
否、無理か。
近藤氏がいる。
近藤氏は刀剣博物館にいた人で刀剣に関する造詣は筋がね入り。
天下の石井先生だって刀に関しては近藤氏には太刀打ちできないだろうな(当たり前か)。
私も刀剣の勉強会みたいなもの何回も聴いたんだけど、今だに理解できない。
科学的な知見も入ってくるしさ。
運用面は身体レベルの話にもなる(一応武道習ってるんだが、もちろん中世の武技とは浅くない断絶がある)。
とにかく近藤氏の研究は余人のレベルを越えている。
近年中に近藤氏のが通説になるね。
今、湾刀化の完全論証(蕨手刀じゃないよ)近藤氏はがんばってるからね。
楽しみだな。
869武陽隠士:2008/03/03(月) 00:50:41
連投御免。
国立博物館の話になるけど、あそこの研究者には、学問的にどうかしてるんじゃないか?
ってのが沢山いるよ。
たとえば書道史だかの研究者(なんかよく知らないけどさ)小松某なんか
利休の真筆の数を恐ろしく多く断定しちゃっている。
私の知人も批判してたし、古文書学の権威もあれは批判してる。
ところがパンピーは国立博物館の人間が鑑定したからってんで、明らかな利休の偽筆を真筆と信じちゃう。
いや喜んじゃうか。銭になるからな。
これは批判されて当然なんだけどね。
それからこれは国立博物館とは別の話だが、
神護寺の伝源頼朝像だけど
あれを美術史学界の権威M氏は、今だに源頼朝像といいはってる。
またさっきも触れたけど、国立博物館の連中が、等伯の描いた武将を信玄像と言い張る(高野山の特別展のとき図らずも彼らの主張が出た。若手の研究者は唖然としてたね)。
これらは学界内の暗闘で一般の人間に関係ないように思われるだろうが、
実は違う。おおいにパンピーに関係する話だ。
伝頼朝像はやはり頼朝像じゃないと困る連中がいっぱいるし(寺の奴らとか)、
信玄像も同様、
利休の偽筆も真筆としたほうが持ち主(公共機関も含む)は喜ぶ(お墨付きで売れる。箔になる)。
学説が色んな権益を守る道具になっちゃってる。
ウンザリなんだよね。
まあインチキ大家の本人たちも分かってるんだけどね。
追伸:南京虐殺のスレに武陽隠士のコテハンで何やら
妙な一人何役をしてる奴がいますが、
あれは手の込んだなりすましです。
当局は一切関知しないので、そのつもりで(笑)
870日本@名無史さん:2008/03/03(月) 00:52:07
今やってる篤姫で
近衛家ってどのくらい影響力あったのですか?
871日本@名無史さん:2008/03/03(月) 01:30:30
>>870
質問の意味がちょっとわかりづらいです。
何に対する近衛家の影響力を質問しているのですか?
872日本@名無史さん:2008/03/03(月) 16:19:43
将軍御台所は、3代将軍家光以降、
宮家、摂関家の息女に限られてきました。
篤姫はいずれかの養女になることが将軍御台所になる前提でした。
近衛家には島津家が正室を送り込んだ過去がある姻戚であり、
唯一宮家摂関家以外の御台所だった広大院を
養女にしていた家であることでも知られています。
873日本@名無史さん:2008/03/03(月) 23:20:19
秋山真之と正岡子規って本当に友人だったんですか?
874武陽隠士:2008/03/04(火) 00:13:29
>>873
友人です。
875日本@名無史さん:2008/03/04(火) 00:20:21
中納言と近衛少将はどちらが格上なのでしょうか?
876日本@名無史さん:2008/03/04(火) 04:00:12
誰か>>843に答えてやってくれ
877日本@名無史さん:2008/03/04(火) 06:19:49
>>843
たとえばスペイン系ではファーストネーム・セカンドネーム・父方性・母方性
と二つ性があります。

このような性が二つある場合や名前が二つある場合性=性
というように性や名が並ぶ場合は=でつなぐとなります。

正式な決まりごとではなく日本では区分しやすいよう使われているだけです
878日本@名無史さん:2008/03/04(火) 08:35:24
中納言は相当位、当初正四位上、後に改訂され従三位、
極初期はともかく改訂以前から三位以上が当然。最高は正二位。
近衛少将は正五位下。実際の位階としては三位から五位。
実際の昇進も少将→中将→参議→中納言の順で明らかに中納言の方が上。
※注:一般的モデルであり必ずしもこの段階を踏むわけではない。
879日本@名無史さん:2008/03/04(火) 09:14:49
>>873
うん
880処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :2008/03/04(火) 09:24:58
規制かい。「歴史とロマン」でオナニーばっかりやってんじゃねえよ。
誰かスレ立ててくれよん。

【535年】クラカタウ火山【大噴火】
名前: 日本@名無史さん
E-mail:
内容:
90年代に注目され始めたばかりの新説です。日本書紀にも
記述があって、大陸文化の輸入を促進したこの天変地異に
ついて検証しましょう。

未だに認知度が低いせいで、素人でも未発見の状況証拠が
簡単に見つけられたりします。
881日本@名無史さん:2008/03/04(火) 09:37:26
少将経験者が後に中納言になるのはごく通常の昇進コース。
中納言経験者が少将になった例は多分ないと思う。
882日本@名無史さん:2008/03/04(火) 14:55:26
質問です。
江戸時代の侍の石高と家格について。たとえば、
「5両3人扶持の侍」と「父親が20石だが自分は3男坊の部屋住み」
とが個人的付き合いをする場合、どちらが上位に立つものなんでしょう?
883日本@名無史さん:2008/03/04(火) 15:08:27
石高が少なくても歴とした士分なら相手が家老でも表向きの儀礼的には大きな差がないらしい。
徒になるとずんと落ちるから相手が部屋済みでも礼を尽くしたのでは。
足軽は下手すると領民以下、なまじ宮仕えな分扱いが酷いことがある。
884日本@名無史さん:2008/03/04(火) 15:45:45
>>875
中納言=公卿
近衛少将=非公卿
よって中納言のほうが上。

>>881
特に羽林家の湘新パターンでは、近衛の少将・中将を経て参議や中納言へ上がるのが普通だね。
885日本@名無史さん:2008/03/04(火) 16:29:09
http://www.youtube.com/watch?v=azcJCLrwU74
↑この映像が放送されてた番組を教えてもらえますか?
886処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :2008/03/04(火) 18:31:12
噴火以前って言ったら倭の五帝の武が東征大将軍の任を南朝から
受けたとかって記録が向こうにある時代だろ(502年)。
887日本@名無史さん:2008/03/04(火) 20:30:03
高等学校レベルですが、せいかんろんの節で、内治派は留守政府だったため征韓派より政治力がおとろえていたのになぜ明治六年で西郷が辞職したのでしょうか?
888日本@名無史さん:2008/03/04(火) 20:57:23
>>838
>戦国時代あたりだと「生かしておく必要がないから殺す」とかなりそうですが、時代の違いですかね。

戦国時代だと、降伏した場合でも生かしておく必要のない人間は、女子供でも皆殺しがデフォだったの?
889日本@名無史さん:2008/03/04(火) 20:58:13
>>888続き
確か前九年の役の頃だと清衡ってまだ幼児だよね?
890833:2008/03/04(火) 21:49:31
浅井長政の子供とか豊臣秀頼の息子とかは幼児なのにばっさりやられちゃってるじゃないか。

炎立つのネタでもう一つ質問があるのですが、
あの時代の東北の人たちって主食はなんでしょう?米が取れるとは思えないし、雑穀類?
あのお話の中では「5万の兵力」を動員できるらしいけど、実際食糧事情を考えれば当時そんなに人口会ったのでしょうかね?
成人男子全員兵士と仮定しても20万じゃ5万も動員できないだろうし。
891日本@名無史さん:2008/03/05(水) 00:00:47
878さん、881さん、884さんありがとうございました。
892日本@名無史さん:2008/03/05(水) 07:56:42
江戸時代、非人の管理は弾左衛門がしていたようですが
例えば天領以外の、普通の藩にいるような非人も幕府の直接支配下にいたのですか?
893日本@名無史さん:2008/03/05(水) 08:31:10
そっちは藩の管理
894日本@名無史さん:2008/03/05(水) 12:00:23
ぐぐってもよくわからなかったんですが長州藩、薩摩藩は江戸から明治まで続いた領地のことですか?
895日本@名無史さん:2008/03/05(水) 12:14:22
>>890
石田三成の子供なんて成人していたけど、殺されなかったわけだが。
896日本@名無史さん:2008/03/05(水) 22:14:22
日露戦争従軍兵卒で最近まで生きていた人って記録に残っていますか?
103年前に18歳だとしたら121歳なのでいくらなんでも
もう生き残っていませんよね。
897日本@名無史さん:2008/03/05(水) 23:36:15
>>888-890
>>895
時代に関係なく、敵方の黒幕の縁者で情状酌量の余地がなければ殺されるよ。

関ヶ原のときに三成の子供が助命されているのは、三成の行動自体に成り行き上
仕方がなかった部分もあるし、三成なりの豊臣家への忠義であったという
点(当時は名目的には東西両軍とも豊臣家のためというスローガンでの戦争)も
考慮されているのだろう。

前九年のときの清衡の場合も、父親の経清の行動は安倍頼時の娘婿という立場上
やむを得ないものだったし、またこの前九年では安倍宗任をはじめとする
安倍一族の者もかなり助命されている。
このあたりのところは朝廷側でも、この戦争が安倍氏側から一方的に起こされた
反乱ではなく、陸奥守源頼義の側からもかなり反乱を誘発するような挑発行動が
あった結果であることを認識していたから、ってこともあるかもね。
898武陽隠士:2008/03/06(木) 00:13:01
>>896
鈴木健二アナウンサーが司会やってた『歴史への招待』には生き残りの老人が二人出てくる
899日本@名無史さん:2008/03/06(木) 00:25:51
昔NHKの番組の再放送で、迫水久常が2.26事件の証言をしている番組を見たことがあるなあ。
900日本@名無史さん:2008/03/06(木) 00:34:02
神武天皇の即位は
紀元前らしいが
では卑弥呼は天皇ではないのですか?
それか、その時代は天皇いないとか?
901武陽隠士:2008/03/06(木) 00:48:11
>>900
いるわけないだろ天皇が
ていうか
釣りか…
902日本@名無史さん:2008/03/06(木) 01:01:54
神武天皇の即位を紀元前660年て事にしたのは誰?
903日本@名無史さん:2008/03/06(木) 11:46:44
>>890
兵力=兵士の数だと思うなよ
あと、バレてないんじゃなく、黙認な。
土佐藩だって、加賀藩だって、薩摩藩だって、江戸時代には密貿易してたじゃないか。
904日本@名無史さん:2008/03/06(木) 21:18:45
密貿易なら石見浜田藩だろ
905833:2008/03/06(木) 21:54:54
>>903
少なくとも炎立つの中では陸奥の守以下朝廷の官僚たちは「知らない」事になっています。藤原経清は「噂として聞いたことがある事実だとした由々しき問題」という認識です。
兵力も「衣川には三万の人口がある、半分は男なので衣川だけで1万5千の兵士を動員できる」という感じで「安陪の領地を合わせて5万にはなる」そうです。
俺は二つとも信じてないというか小説の中の話と思っているので、つっこまれてもどうしようもありません。

現在の人口ですら青森岩手合わせて280万なのに平安時代に5万も兵士として動員できるとは思えないなぁ。
906日本@名無史さん:2008/03/06(木) 22:10:50
>衣川には三万の人口がある、半分は男なので衣川だけで1万5千の兵士を動員できる
老人も子供も動員?凄い計算だなあ。せいぜい良くて男子の半分じゃないの。
907日本@名無史さん:2008/03/06(木) 23:31:23
>>905
だからぁ、全員兵士だと思うなよ、バカ
908833:2008/03/06(木) 23:53:36
炎立つの話をしているのに読まずに馬鹿と言われても呆れるしかないわけだが。引用しようか

少なく見積もってもここには三万以上の人間が居る。男を半分と見なせば一万五千の兵力を有する計算になる。その上この地は前後左右が山と川で囲まれた天然の砦になっている。
柵攻めには三倍の兵力が基本だ。つまり五万近い兵を用いねば落とせない。

ここまで。
他にも安陪は5万の兵を動員できるといった記述があったりするわけで、そもそもこの時代に「兵力」と「兵士の数」にどのくらいの乖離があるといいたいのですか?
909日本@名無史さん:2008/03/07(金) 01:33:56
>>908
例えば、その5万の兵が一ヶ月戦うとして、その一カ月分の資材を5万人分に分けて、それぞれで持って行くと思っているのか?
お前の頭の中には、輸送部隊ってのは存在しないことになっているのか?
910833:2008/03/07(金) 03:11:53
高橋克彦に言って。
少なくとも「前線部隊を5万」というのは高橋が言っていることであり俺は信じていないから。
というか、そもそも「後方部隊を含めて5万の動員」でさえ可能とは思えない。
890でも言っているように、「米が取れると思えない当時の東北」では。

911日本@名無史さん:2008/03/07(金) 09:25:57
>>910
じゃあ、何人なら可能なのかね?
912日本@名無史さん:2008/03/07(金) 10:35:22
無位無官、武士農民以外の奴は社員だろうが派遣だろうが何だろうが、大和朝廷から見れば穢多非人と一緒です。これが事実であり、真に日本的人間として認められるのは100万人前後であり、その他はどうでもいい非人ばかりです。
また朝鮮や琉球など非人以下であります。

913日本@名無史さん:2008/03/07(金) 12:43:31
>>910
学問板でやる話題じゃない。
大河板の炎立つスレにでも行ったら?
914日本@名無史さん:2008/03/07(金) 12:55:45
むしろ軍板にでも行かれたらどうでしょう。
915日本@名無史さん:2008/03/07(金) 20:25:26
世界史板には軍板兼任のやつ多いけど、日本史にもいるんだ
916833:2008/03/07(金) 21:46:07
うんまあたしかに俺も悪かったので、当時の東北地方の主食について教えてください。
917日本@名無史さん:2008/03/07(金) 22:07:07
人肉
918日本@名無史さん:2008/03/07(金) 22:58:07
犬肉
919日本@名無史さん:2008/03/07(金) 23:18:25
江戸時代、各地に存在した「時の鐘」を突いていた人は、何を基準にしていたのですか。
不定時法を表示できる和時計が、それほど一般的に普及していたとは思えないのですが。
920日本@名無史さん:2008/03/08(土) 00:48:45
不定時法なら、
明け六=日の出
暮れ六=日の入り
に必ずなるから、原始人でも分かる。
921日本@名無史さん:2008/03/08(土) 01:05:24
雨の日や曇りの日は、どうなるのでしょうか。

それと明け六つから七つまでの一刻が、厳密に言うと毎日、
数分ずつずれていくはずですが、
それは、どのようにして測ったのでしょうか。
922日本@名無史さん:2008/03/08(土) 02:39:42
人力の場合は体内時計、ずれは日時計が使えないら適当に補正

時計の場合は文字盤を15日ごとに交換して対応
923日本@名無史さん:2008/03/08(土) 06:57:14
仮に秀頼の遺体が見つかったら
やはりさらし首になってた可能性大だったの?
それとも真田幸村の例を見ても
秀頼を殺せば消し去ればOKだからとりあえず世論を考えてさすがにそこまでは不可?
924日本@名無史さん:2008/03/08(土) 08:58:20
>>921
子供の頃田舎で夏海にサザエやアワビ(今のように漁業権とか言わなかった)
を採りに行っていたとき、太陽の位置を見ながら、泳いだな。
ア、もうそろそろ昼だな、弁当食うかなとか、
ア、もうそろそろ何時だな、上がって帰るかなとかネ。
人里にいれば、サイレンがなったから、何時か分かったし、太陽の位置を
改めて眺めて、あの辺だと学習した。
自分が時計を買った貰ったのは、高校2年のときだった。それまでなくても
不自由しなかった。因みに現金を持ったのは、高校1年になってから。
のどが渇いたら、他所のうちへ入って井戸水を飲ませてもらった。
925日本@名無史さん:2008/03/08(土) 09:02:38
江戸時代には関孝和みたいな数学者もでてるわけだし少なくとも
室町時代くらいには一通りの天文学の知識はあったのでは?
926日本@名無史さん:2008/03/08(土) 11:33:49
天文知識がなければ、そもそも暦がつくれない。
927日本@名無史さん:2008/03/08(土) 13:51:37
>>926
輸入すればできるだろ
928日本@名無史さん:2008/03/08(土) 19:05:43
輸入しただけじゃズレを修正できない
929日本@名無史さん:2008/03/08(土) 19:47:19
>>921
↓時の鐘は、このサイトによると城下町では、お城にあった和時計を基にして撞かれていたようだね。
http://kkubota.cool.ne.jp/tokinokane11.html

農村部では、お寺の僧侶が、かなり適当に撞いていたのではなかろうか。
自然相手の生活では、30分や1時間のズレは、大した問題とならなかっただろうから。
930日本@名無史さん:2008/03/08(土) 20:21:31
>>929
当時の朝廷や幕府において,今と変わらないぐらい様々な儀式や会議,挨拶など
があっただろうが,それらも厳格に時刻を決めていたわけじゃないようだなw

現代の分・秒単位の会議に振り回されるのがバカらしくなるな.
931日本@名無史さん:2008/03/08(土) 23:46:31
>>928
授時暦と貞享暦
時憲暦と天保暦
だって完全にイコールじゃないからね。
観測地点が違うから、月の始まりが1日ずれることがあり得る。
932日本@名無史さん:2008/03/09(日) 00:55:41
>>923
家康は秀頼を相当憎んでいたから
100%淀とともにどう考えても晒し首だろうな
たとえ相当な反発があったとしても
933日本@名無史さん:2008/03/09(日) 02:01:19
徳川による支配の盤石の基盤を作ることを至上の目的とし、ために豊臣に無理から喧嘩ふっかけるような家康が、これ以上無駄に反感を買うような秀頼晒し首を絶対するかと言えば疑問。
934日本@名無史さん:2008/03/09(日) 02:34:46
>>932
憎んでいたのか?
存在が危険とは思っても個人的な憎悪があったかどうかなんてわからんだろ。
935日本@名無史さん:2008/03/09(日) 04:52:26
936日本@名無史さん:2008/03/09(日) 05:25:57
>>933
徳川が秀頼を晒し首にしても何のメリットも無い
むしろ百害あって一利なし

ただ生け捕りにしたら間違いなく島流しではなく処刑してただろうけど
937933:2008/03/09(日) 11:24:44
>>936
だからそう言ってんじゃん
938日本@名無史さん:2008/03/09(日) 11:30:06
>>932
私怨うんぬんよりも諸大名の徳川服従を
徹底させるためにさらし首にしただろう
徳川に逆らうとこういう目に逢うということで
さらし首にする理由はだいたいそんなところ
939日本@名無しさん:2008/03/09(日) 15:02:52
死んだことを明らかにするつもりなら、晒し首はアリだと思うのだが…
940日本@名無史さん:2008/03/09(日) 17:32:44
941日本@名無史さん:2008/03/09(日) 21:59:41
本スレはこっち
942日本@名無史さん:2008/03/09(日) 22:26:49
>>930
そこまで厳密じゃなくても太陽の方向と高度で時間は分かる。
日時計なら原始人にも作れる。
943日本@名無史さん:2008/03/09(日) 22:36:28
西洋でも時計が重要視されるようになったのは、工場制手工業が始まってから
と聞いた気がする。同じ時間に皆が集まらないと仕事にならないからネ。
んで、町の広場に大きな時計が設置されるようになったと言う。

分業とかいうのは、アダムスミスの資本論だっけかにも書いてったんじゃある
まいか。
944日本@名無史さん:2008/03/10(月) 00:12:24
『資本論』はエンゲルスとマルクス
アダムスミスで有名なのは『諸国民の富』だょ
945日本@名無史さん:2008/03/10(月) 00:51:50
>>931
レスを遡った限りだと室町時代の天文学について解説する必要があるのでは?
946武陽隠士:2008/03/10(月) 01:00:38
>>944
うっかりミスでしょ。
記憶は錯綜するもだから。
私も気がついてはいたが、敢えて間違いの指摘を慎んだ。
私もうっかりミスよくやるんでね。
947日本@名無史さん:2008/03/10(月) 01:38:01
都道府県の名前は
どうやって決まったの?
948日本@名無史さん:2008/03/10(月) 01:46:59
岐阜は信長の時代の頃だね。カッコいいじゃん!!な感じだろ。
949日本@名無史さん:2008/03/10(月) 04:24:32
>>945
室町時代なら暦は宣命暦だと思うけど。
950943:2008/03/10(月) 06:55:36
>>944, >>948 ありがと。
国富論だった。ぐぐって確認しとけばよかったが、手抜き。
951943:2008/03/10(月) 06:56:30
>>944, >>948 ありがと。
国富論だった。ぐぐって確認しとけばよかったが、手抜き。
952日本@名無史さん:2008/03/10(月) 12:20:17
>>947
都道府県による。
角川の地名辞典を読むことをオススメする。
953日本@名無史さん:2008/03/10(月) 12:21:25
平凡社のじゃダメなのか?
954日本@名無史さん:2008/03/10(月) 13:53:53
近衛府や衛門府は大内裏の警備などほぼ同じ職務なのになぜ一体化されなかったのでしょうか?

955日本@名無史さん:2008/03/10(月) 16:09:39
>>944
>私も気がついてはいたが、敢えて間違いの指摘を慎んだ。

はいはい。お前は中学生か。
956日本@名無史さん:2008/03/10(月) 17:11:26
一個人が軍事権を一手に握ることを嫌ったんじゃないだろうか。
もともとどんなしょうもないものでもポストが減るのことには抵抗が大きいし。
957日本@名無史さん:2008/03/10(月) 18:42:29
>>953
俺が角川の本を読んでて、平凡社の本を読んでないから、角川の方をオススメしただけだよ。他意はない。
ま、正確性を求めなければウィキペディアでもいいし、要するに結局は辞典を読めってことですな。
958日本@名無史さん:2008/03/10(月) 20:58:57
959950-951:2008/03/11(火) 09:59:00
ゴメン。2回も書き込みボタンを押した覚えはないけど、2回だ。
Vista になって、こんなの3回目かな。なんでだろう。クソVista。
960日本@名無史さん:2008/03/11(火) 15:48:41
>>959
お前いい奴だな
961日本@名無史さん:2008/03/11(火) 19:20:04
なぜ浅野内匠頭は吉良上野介に斬りかかったのですか?
962日本@名無史さん:2008/03/11(火) 19:57:09
ノイローゼだったんじゃないかな
963日本@名無史さん:2008/03/11(火) 20:51:47
>>961
イコンがあったから
964日本@名無史さん:2008/03/11(火) 20:58:41
>>961
誰にも分からない。
俺は正気だ、思うところがあった、と本人は言っている。
でも理由は何も言っていない。

遺恨云々は周りの人の勝手な想像。
965日本@名無史さん:2008/03/11(火) 21:19:23
羽田沖で片桐機長が逆噴射した後、心身症って言葉が大流行してな。
その頃よく言われたのが内匠頭心身症説ってやつだ。
昔も今もみなストレス溜まってたんだなあ。
966日本@名無史さん:2008/03/11(火) 21:23:04
>>964
松の廊下で「この間の遺恨」か何か叫んでたんじゃなかったっけ?
967日本@名無史さん:2008/03/11(火) 22:20:46
>>966
それは忠臣蔵(後世の創作)。
実際の事件でそんな声を聞いたものはいない。
968日本@名無史さん:2008/03/12(水) 00:39:23
イコン画があったのか
969日本@名無史さん:2008/03/12(水) 08:21:48
つまり赤穂浅野家はご禁制のキリシタンだと言うことが発覚して改易になったんだな。
ってギリシア正教も禁止の対象?
970日本@名無しさん:2008/03/12(水) 11:46:22
>>969
当時はカトリックもプロテスタントも関係なかったのでわ?
971日本@名無史さん:2008/03/12(水) 22:47:56
忠臣蔵といえば、綱吉が即日切腹を決めたのは、内匠頭があんな事しなければ、母親に従一位の位階が与えられたはずなのに、という思いこみがあったという話がありますが、

勅使が勝手に勅書を無しに出来るのですかね?
母親が従一位に任じられるなら、それは勅使が京都を出た時点ですでに決まっていることであって、勅書はその連絡に過ぎないわけで、また後日って事にはなっても、
「内匠頭があんな事したから母親の従一位が流れた」なんてあり得ないのでは?
972日本@名無史さん:2008/03/13(木) 00:38:32
マザコンの綱吉が母親絡みの儀式を汚されたってことで激怒しちゃったんでしょ?
973日本@名無史さん:2008/03/13(木) 15:19:53
条防制と条里制の違いを教えてもらえませんか。
974日本@名無史さん
>>972
勅使が来ていようが来ていまいが、
殿中で他藩の藩主を切り殺そうとして切腹にならないはずはなかった。
ただ、勅使がもし事件に巻き込まれるようなことになれば
朝廷に面目が立たないという意味で綱吉を激怒させたということはあると思う。