【初心者】スレッド立てる前に質問を Part3【歓迎】

このエントリーをはてなブックマークに追加
1日本@名無史さん
Part3についてはどうしようかと思いましたが、『日本史よろず〜』では検索しにくく、こういうスレのがないと別の質問スレが立つという意見もありますので、とりあえず立てました。
とりあえず今後もよろしくお願いします。

☆ 前スレ
【初心者】スレッド立てる前に質問を Part2【歓迎】
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1041658641/l50

☆ インターネット検索
Google  http://www.google.co.jp/
Yahoo!  http://www.yahoo.co.jp/
Goo   http://www.goo.ne.jp/

☆関連スレッド
 >2-5辺り
2日本@名無史さん:03/05/05 08:12
【関連のスレッド】
素朴な疑問質問のスレ
http://mentai.2ch.net/history/kako/969/969624784.html
日本史版質問統一スレッド
http://mentai.2ch.net/history/kako/974/974738924.html
★くだらない質問、近現代史編★
http://mentai.2ch.net/history/kako/985/985320244.html
くだらない質問はここに書け
http://mentai.2ch.net/history/kako/981/981044823.html
くだらない質問はここに書け その2
http://mentai.2ch.net/history/kako/1005/10051/1005111739.html
日本史なんでも質問コーナー Part6
http://mentai.2ch.net/history/kako/1016/10166/1016622804.html
日本史よろず問い合わせ処 其ノ七
http://academy.2ch.net/history/kako/1024/10248/1024836631.html
雑談スレ
http://academy.2ch.net/history/kako/973/973427193.html
【初心者】スレッド立てる前に質問を Part2【歓迎】
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1041658641/l50
31 ◆AOvP0B7AO2 :03/05/05 08:18
追加です。

日本史よろず問い合わせ処 其ノ八
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1036379545/
★★日本史よろず問い合わせ処 其ノ九★★
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1050207840/
4日本@名無史さん:03/05/05 08:40
【世界史板】

世界史なんでも質問コーナー3
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/whis/1022151987/
高校生用質問スレ Part 3
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/whis/1020659057/

三国志・戦国時代板

@雑談・質問スレッド@
http://curry.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1020330373/

5日本@名無史さん:03/05/05 08:43
【世界史板】

世界史なんでも質問スレッド 6
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/whis/1047759810/

中・高生用質問スレ Part4
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/whis/1040693271/
6日本@名無史さん:03/05/05 11:05
>>1-5
7日本@名無史さん:03/05/05 16:31
質問カモン
8日本@名無史さん:03/05/05 16:36
井伊直弼はゲイだったんですか。
9日本@名無史さん:03/05/05 18:21
源義経=チンギスハーン伝説があるのに、
織田信長=ヌルハチ伝説がないのはなぜですか?
10日本@名無史さん:03/05/05 18:34
>>8
ちがうと思います

>>9
年代があわないからかと
11日本@名無史さん:03/05/05 18:37
>>9
ヌルハチって誰?
といわれるのがおちだから
12日本@名無史さん:03/05/05 18:38
っていうかなんですか、part3はネタスレなんですか
歴史学の俺様スレッドと区別しましょうよ
13日本@名無史さん:03/05/05 21:48
ネタのつもりはなかったんですが…
14日本@名無史さん:03/05/05 21:49
質問どーぞ!
159:03/05/05 22:42
>>10
20歳ぐらいなら伝説が出来ても良さそうなのに・・
他に何か要因はないんですかね。
楠木正成=ティムール説はできないかな。。
16日本@名無史さん:03/05/06 21:11
 そういえば源義経=チンギスカン説は有名だけど、西郷隆盛が実は西南戦争で死んでなくて独かに生き延びてたって話もあったよね。
 他にも豊臣秀頼が生き延びて、鹿児島まで逃げ延びたとか。実際鹿児島には豊臣秀頼の墓って伝えられてるのがあるし、他の地域にはない「豊〜」で始まる名字もある。(ホントかどうかはしらんが、名字を名乗るのが許された際、それにまつわる一族があやかってつけたとか。)

 ほかにそういう「実は生きてました」とか「○○の墓」って伝えられてるのが残っている地域、知っている人います?

17日本@名無史さん:03/05/06 21:41
世界で二二六事件はどういう風に報道されたのですか?
単なるクーデター失敗としか報道されなかったの?
18日本@名無史さん:03/05/06 22:31
>>17
ググッてみたけどみつからないね〜
おそらく二二六事件そのものが世界的なニュースにならなかったのでは?
19日本@名無史さん:03/05/07 01:37
やはり欧米からしたらどうでもいい事件なのか?
日本では重大事件でも当時は頻発するクーデターの一個としか見られなかったのか?
20日本@名無史さん:03/05/07 21:24
なんで
皇太子が狙撃されたら、首相がやめるんですか?
関係ないじゃん

ヨーロッパの情勢が変わった理由でやめた首相もいたな
ヨーロッパが変わっても日本の首相は日本という国の首相だろ
わけわからん
21日本@名無史さん:03/05/07 21:32
>>16
安徳天皇の伝説は多いね。
やはり鹿児島で、種子島に末裔と言われる人が生きているとか。
九州、四国に落ち延びたという伝説がある場所は多数、と記憶。
22日本@名無史さん:03/05/07 21:51
結局、日本はいつの時代でもどこかの国の犬なのでしょう
当時はヨーロッパの犬
今は中国・アメリカの犬
23日本@名無史さん:03/05/07 21:59
江戸城はどうして残っていないのでしょうか?
東京大空襲で壊されてしまったのでしょうか?
24日本@名無史さん:03/05/07 22:16
>>20
どの事件をさすのかを具体的に。

>>22
それは斜に構えすぎ。

>>23
規模はだいぶ縮小して外郭部は地名で残るのみになってるけど、でも残ってるよ?
25日本@名無史さん:03/05/07 22:17
>>23
大体残ってます。
ただし、天守閣は1657年以後なし。
1869年5月旧西丸宮殿が罹災全焼。88年10月に至り旧西丸地区に宮殿が
完成。いわゆる明治宮殿。総坪数1万2600余坪。
この明治宮殿は,1945年5月,米軍機の空襲によって焼失。
1961年に,もとの御文庫の跡に天皇・皇后の住居として吹上御所を建造。
さらに68年10月明治宮殿の跡に新宮殿が完成し,翌年4月から使用が開始。
新宮殿は,延べ床面積6900余坪の建物である。
26日本@名無史さん:03/05/07 22:22
>>24
>>25
どうもありがとうございます。
今度、見に行って見ます。
27日本@名無史さん:03/05/07 22:25
>>24

20のはおそらくロシアのニコライ2世(当時は皇太子)が撃たれたあの事件かと思われますね。
たしかあの時狙撃した警備の人を裁判で裁くとき、今で言う最高裁の裁判長が法の独立を守ったとかなんとか…

昔習ったことなので、どうも思いだせん…
28日本@名無史さん:03/05/07 22:44
>>27
違う
上は虎の門の山本首相で
下のは平沼首相だろ

どっちも無責任きわまりない
29日本@名無史さん:03/05/08 20:26
>虎の門事件のショック度
この事件は,群集の眼前で起こった大逆事件であったため,支配層に異常な
ショックを与え,時の山本権兵衛内閣は直ちに総辞職した。警視総監湯浅倉平,
警視庁警務部長正力松太郎らは懲戒免官となった。
また,山口県知事は減俸となり,難波の出身小学校の校長,訓導は辞職し,
父作之進(代議士)は閉門の形式をとって謹慎した。

>虎ノ門と平沼の変な関連
虎の門事件に衝撃をうけ,24年からは国家主義団体国本社を主宰(会長),同年
には枢密顧問官に就任,翌年枢密院副議長となり,台湾銀行救済問題,ロンドン
条約批准問題などで政府を苦しめた。満州事変後には首相候補者として右翼・軍部
から期待されるようになったが,元老西園寺公望は彼の右翼色を忌避した。
平沼も36年枢密院議長への昇任に際して国本社会長を辞し,ついで国本社をも解散。
しだいに親英米派とも妥協的となり,39年1月第1次近衛文麿内閣のあとをうけて
首相に推されたが,独ソ不可侵条約調印を機に8ヵ月で内閣を投げ出している。
30日本@名無史さん:03/05/08 22:03
教科書に、1877年地租が3%から2.5%に引き下げられて
「2割近く減額されたので、地主にとっては負担はかなり軽くなった」
と書いてあるんだけどどういう計算でしょうか?
31日本@名無史さん:03/05/08 22:18
>>30
0、025÷0,03=0、83333333333333333・・・
約8割になるから、約2割減。
32日本@名無史さん:03/05/08 22:29
>>31
なんかわかったようでわかりません…。
なんで0.3−0,25とかにならんので割るのでしょうか?
数学強くないのでその計算式がわからんです
33日本@名無史さん:03/05/08 22:34
>>31
小数は分数のはずですが、そもそも分数はわり算のはずです。
それなのに、どうしてわり算をわり算する(できる)のですか?
34日本@名無史さん:03/05/08 22:37
>>27
>20のはおそらくロシアのニコライ2世(当時は皇太子)が撃たれた→×
正解は斬りつけられた
35日本@名無史さん:03/05/08 22:40
ハルノートの内容を教えてください。
36日本@名無史さん:03/05/08 22:52
37日本@名無史さん:03/05/08 22:54
日本の首相が簡単に?すぐ辞めるのはやっぱ元老が決めて
いまいちその重みが分からないからだろ

山本→皇太子狙撃が理由で辞任
田中→天皇に怒られたから辞任
若槻→安達謙蔵がやめないから自分が辞任
平沼→ドイツとソ連が組んだので辞任
近衛→アメリカとの戦争に自信がないから辞任
鈴木→戦争が終わったから辞任。戦後処理という考えはなかったのかな?
東久邇→昭和天皇とマッカーサーの写真が載ったことで辞任
幣原→GHQが公職追放を実行したから、やってられんって辞任
わけわからんわ
こいつらに首相の重みってもんがないのか?

犬養も自分の首相と言う立場の重みと状況判断が出来る人間だったら
暗殺されなかっただろう
38日本@名無史さん:03/05/08 23:16
>>35
ハル・ノート
Hull Note
日米交渉の最終段階におけるアメリカ側の提案。
1941年11月20日日本側が提出した対米交渉要領乙案にたいする回答として,
11月26日に C. ハル国務長官が提示した。
おもな内容は,いっさいの国家の領土と主権の不可侵,内政不干渉,
通商上の機会の平等,国際紛争の平和的解決の4原則のほか,日本,
アメリカ,イギリス,中国,オランダ,タイ,ソビエトの間の多辺的
不可侵条約の締結,中国とインドシナからの日本の軍隊と警察力の
全面撤退,重慶にある中華民国国民政府以外の政府もしくは政権の
否認,日独伊三国同盟の否認などであった。
東条英機内閣と軍部は,ハル・ノートを対日最後通牒とみなし,12月1日
の御前会議で12月8日の太平洋戦争開戦を最終的に決定した。

ハル・ノート作成中に、日本輸送団の東南アジア方面への南下の情報が
入り、より厳しい内容になったそうだ。
39日本@名無史さん:03/05/08 23:26
>地租改正
地価1000円の3%は30円。これが、2、5%なら25円。
>>32-33
25円は30円の約8割になる。
だから差し引き約2割の税の軽減。

(25÷30≒0,8)
(2,5/100÷3/100=25/1000÷30/1000=5/6≒0,8)
頼む、わかってくれ。小学生レベルだぞ。
40日本@名無史さん:03/05/08 23:44
>>38
ハル・ノートってアメリカが日本と戦争をするためにわざと無理難題をふっかけたんだっけ?
41日本@名無史さん:03/05/08 23:47
>>29
>>難波の出身小学校の校長,訓導は辞職し,
>>父作之進(代議士)は閉門の形式をとって謹慎した。

責任が出身小学校にまで及ぶとは…
息子の責任は親に及ぶのはよくあるけどね〜
(某国では親が起こした犯罪も息子に責任が及ぶらしいが)
42日本@名無史さん:03/05/08 23:52
>>40
ルーズベルトとハルは強硬でいったけど
最後通牒のつもりでは出してない

ただ日本側がこれは最後通牒って判断した
それでも若槻、平沼、米内、阿部、岡田、広田なんかの重臣会議では
まだ、妥協の可能性はあるといってたけど
東郷がいいやもう無理といって打ち切りで進めた

>>41
浅沼刺した山口の親父も防衛庁の幹部じゃなかったっけ?
あいつは責任取らなかったな
43日本@名無史さん:03/05/09 00:03
なるほど、妥協点を見つけようとはしたんだ。
平沼、米内…っていかにも温厚派ってイメージがあるし(文官系だし)、納得。

東郷(軍人系)が押し進めたのもこれまた納得。
44日本@名無史さん:03/05/09 11:41
>>42
>>43
東郷?
失礼ながら東条英機のことですか?
昭和天皇は、10月には英米協調派よりで和歌を披露したが、12月には内部工作が
効果をあげ、開戦認可派になっており、御前会議では無言と言うかたちで裁可したそうです。
45日本@名無史さん:03/05/09 14:17
内部工作→御前会議で無言という形で裁可
って、ようするにホントはイヤだったけど、脅して開戦させたんでしょうか?
開戦認可派っていっても実際のトコはわかんないしね。
46動画直リン:03/05/09 14:20
47日本@名無史さん:03/05/09 14:24
>>45
木戸日記などによると、東条あたりから、早期講和(=ローマ法王やソ連仲介)
で領土拡大の見通しを聞かされて、その気になって行ったようです。
穏健派の木戸らの言うことに耳をかさなくなって来たと、愚痴めいた記述があるようです。

明治天皇を尊敬してましたから、領土拡大は天皇の務めの一つと考えていたようで、
喪失は恐れていたようです。
「火事場泥棒のようにではなく、八紘一宇の精神で」領土拡大して欲しいとは、
語っていたようです。
4832:03/05/09 18:29
>>39
なるほど。丁寧な解説有り難うございます。
やっと理解できました。
(あと、まぎらわしいかもしれないので補足、私は31さんではないです)
4935:03/05/09 19:44
>>38さん
ありがとうございました。
50日本@名無史さん:03/05/09 22:10
\(^O^)/どういたしまして!
51日本@名無史さん:03/05/09 22:23
>>47
「領土拡大は天皇のつとめ」ですか。
たしかにどの国も植民地を増やすことに明け暮れていた当時としては、為政者はそう考えるのが当たり前だったのかもしれませんね。

ただ自分の考えにそのような信念があったのなら、無言と言う形でで裁可よりは、しっかりと自分の考えを述べて裁可して欲しかったものですね。そして敗戦したときは、それを認めた最高責任者としてきちんと責任をとって欲しかったものです。

ともあれ47さん、解説ありがとうございました。
52日本@名無史さん:03/05/09 22:25
以前NHKかなにかで、太平洋戦争中、日本はある一人の情報を元に戦争を始めたって言う話があったけど、本当なんですか?
53日本@名無史さん:03/05/09 23:13
>>44
なんでそこまで知ってんのに
外相の名前を知らんのだ
54日本@名無史さん:03/05/09 23:18
>>51
領土拡大の時代は第一次世界大戦後に終わり。その後は、経済権益拡大の時代
に変化してたかと思われます。そこに誤解の悲劇があったのかと。

>>52
大島浩駐ドイツ大使の事かな?
ヒトラーと仲がよく、ドイツ有利・イギリス&ソ連降伏寸前の秘密電報を東京
へ打ち続けました。
それを聞いて、東京では、東南アジア権益までドイツに持っていかれるのではぐらいに
ドイツの勝利を確信し、対英米戦開始へ傾斜していったといわれています。
ヒトラー情報でドイツのソ連侵攻を事前に秘密連絡した大島電報は東京では
信頼度が高かったそうです。
しかし、確か、皮肉にも真珠湾攻撃前後に、モスクワでソ連軍の反撃が始まった記憶が
あります。
さらに、大島暗号電報は、実はアメリカに全部解読されてたそうです。
アメリカも独ソ戦を当てた大島電報に関心が高かったそうです。
途中で釈放はされましたが、東京裁判でA級戦犯として終身刑です。
http://www007.upp.so-net.ne.jp/togo/human/ao/hiroo.html

55日本@名無史さん:03/05/09 23:51
>>53
東郷茂徳外務大臣の事ですか。失礼しました。ただ、彼は軍人系ではなく
文官で、ハルノートの誤解?以外は和平派で、本土決戦を避け、戦争終結に
努力してたかと。戦犯(禁固20年)にはなりましたが・・・。
56日本@名無史さん:03/05/09 23:54
>>54

速レス、ありがとうございます。
テレビではちょこっと見ただけだったし、記憶も曖昧だったのですが、本当だったんですね。
暗号、アメリカに全部解読されていたって…
57日本@名無史さん:03/05/10 00:02
東郷外相の出身地では戦犯にもかかわらず東郷茂徳記念館がありますよ。
たしか建てるときに町議会で一悶着あったそうですが、55さんもいってたとおり、戦争終結に向けて努力していたということで落ち着いたそうです。
58日本@名無史さん:03/05/10 00:07
ハル・ノートと日米の最終交渉に関しては↓をどうぞ
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4166600281/ref=sr_aps_b_/250-6792795-2166641

日米政府関係者の認識の違いや内部での駆け引きが分かりやすかった
59日本@名無史さん:03/05/10 00:07
>>57
終結に向けて努力したのは
木戸も近衛も東郷も努力してる

問題は始まる時に彼らがどういう風に考えたのか
結局彼のハルノートの誤解が開戦に直結した
ま、彼が何言ってもどうしようもなかったけどね
60日本@名無史さん:03/05/10 00:10
>>59
近衛も木戸も東久邇も
天皇を含めた自分たちに責任が及ばぬように
全部東条の責任に帰そうと努力してただけ

ま、どっちみち
近衛の場合は日中戦争拡大で確実に死刑なんだけどな
61日本@名無史さん:03/05/10 00:13
>>59
ハルノートが最後通牒でなかったのは明らかだが、
アメリカはいずれ開戦するつもりだったのは間違いないでしょ。
62日本@名無史さん:03/05/10 00:13
>>60
だが、近衛自身は自分が戦犯になるとは夢にも思っていなかった。
自分は正しいことをしたのだと最後まで信じていたようだ。
そして、出頭当日の朝、服毒自殺…。
63日本@名無史さん:03/05/10 00:28
>>62
支那事変の拡大と泥沼およびお前が選んだ松岡の独走と
日米交渉の失敗が太平洋戦争につながったのだから
東条なんかよりも罪は重い

東条首相就任の頃にはもうどうしようもなかったし
64日本@名無史さん:03/05/10 07:51
東条は陸軍を押さえて開戦回避のため首相に推薦され裁可されたのに、
裏切って「いつが勝機だ」とか和平派の東郷に怒ってる。
この東条の実態を見抜けなかった、木戸・昭和の人選ミス。
さらに、東条採用はアメリカに戦争開始のサインを与えたようなもの。

近衛以来、日米交渉では、3回くらい日本は誤解をしたようだ。
ハル・ノートも、満州からの撤兵はいらないと抜け道解釈もできた。
吉田茂ラインは、ハルノートに日付がないのを利用して、再交渉しようと
画策したらしいが。
甲乙案2つあるのがばれてなければ、東京裁判で東条が「これが来てれば」
と絶句した「3ヶ月間戦争回避案」てのもアメリカは準備してたらしい。

つか、ナチのモスクワ敗退情報が早く入ってれば回避したかなどと夢想。
65日本@名無史さん:03/05/11 02:08
戦国時代では鉄砲などの間接兵器が雌雄を決したというのは本当ですか?
鉄砲は装備率が3割程度だというしとてもそうとは思えないんですけど。

あとは鉄砲隊と槍隊、どちらが訓練を必要とされるのでしょうか?
66日本@名無史さん:03/05/11 02:08
なんで「火出づる国」が「日本」なんですか?
67日本@名無史さん:03/05/11 02:09
曽我の虫五匹=645年
の虫五匹って誰ですか?
68日本@名無史さん:03/05/11 13:20
>>65
後半になるにしたがって、鉄砲の重要性が増したと思います。
鉄砲隊のほうが訓練が必要と思われます。

>>66
《隋書》に〈日出処天子〉,《日本書紀》に〈東天皇〉とあって,倭と自称
することを避けるようになっていたらしい。中国側でも《旧唐書(くとうじよ)》
の東夷伝に至って初めて〈倭国〉と〈日本国〉とを併記し,〈日本国は倭国の
別種なり。其の国,日の辺に在るを以ての故に,日本を以て名と為す〉とか,
〈或いは曰く,倭国自ら其の名の雅ならざるを悪(にく)み,改めて日本と為す〉
とか,〈或いは曰く,日本は旧(もと)小国,倭国の地を併す〉とか,倭から
日本に変わった理由を紹介している。

>>67
5を出すための単なる語呂合わせでは?
69日本@名無史さん:03/05/11 19:30
>>65
鉄砲が普及するまでは弓矢や石つぶての傷が多いって話だな。

ただ戦国時代の戦いって殲滅線でなく拠点の取り合いが主だからどの武器が雌雄を決めたかってのは難しい話だと思う
70日本@名無史さん:03/05/11 21:32
朝鮮戦争の原因と経過、またその後の日本経済への影響について書かれているHP等ないでしょうか?
もし宜しければ教えてください。
71日本@名無史さん:03/05/11 23:50
江戸時代を前期・中期・後期・終期と分ける場合、どのような事柄や事件で
分けたらいいでしょうか。
よろしくお願いします。
72日本@名無史さん:03/05/12 12:21
>>71
私案だが、
前期→1603年の開幕から1639年の鎖国の完成まで
中期→1639年から田沼の失脚まで(1786年)
後期→田沼失脚からペリー来航まで(1853年)
終期→ペリー来航から崩壊まで

終期をペリー来航でなく、天保の改革からが近代とする人もいる。
前・中・後は様々な意見があるだろう。
農業の発達段階から分けても面白いかもしれない。

>>70
検索を頑張ってください。基本を知りたいなら、事典や書籍のほうが良いのでは。
7371:03/05/12 18:18
>>72
ありがぞうございます。
74日本@名無史さん:03/05/12 19:12
当方小説書きなのですが、女郎屋・遊郭を舞台にしようと思っているのです。
「これ読んだほうがいいぜ!」みたいな資料ってあるでしょうか?
ネタが出たのはいいけど時代モノに関してはまったく無知なので…
7574:03/05/12 19:13
あ、ちなみに明治辺りを舞台にしたいです。
76日本@名無史さん:03/05/12 20:23
>>74

既読かもしれないが 以下のスレをまず。

売春の歴史
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1041163265/
江戸時代の性風俗
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1006037206/
飯盛女について
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1002488738/
7774:03/05/12 20:48
>76
ありがdです!!見てみます!!!
78日本@名無史さん:03/05/12 21:22
>>74
>明治以後の遊郭
明治維新後,娼妓解放令の翌年の1873年発令の〈貸座敷渡世規則〉に
より遊郭は貸座敷営業指定地となり,従来の公認遊郭のほか飯盛旅籠屋
や私娼街などが続々と指定地の免許をうけて拡大移行した。
1924年における全国の許可地は545ヵ所,業者は約1万1200軒,娼妓は
約5万2200人に及んだ。その後も廃娼運動を抑えて存続し,ことに軍隊
はその存在を肯定させる一原因であった。46年の公娼廃止指令によって
表面上は廃止されたが,いわゆる〈赤線地帯〉が旧遊郭をそのまま引き
ついだ。52年6月の赤線および類似地帯は全国に618ヵ所,業者約1万8000軒
であったが,58年4月の〈売春防止法〉の実施によって消滅した

>玉ノ井
たまのい
東京都墨田区北部,東向島4〜6丁目の通称。隅田川と荒川放水路に囲
まれた低地で,下町的な商工業地区。関東大震災後,私娼(ししよう)街
となり,1958年の売春防止法実施まで,その名が知られた。
尾崎士郎の《遠き跫音(あしおと)》,永井荷風の《災東綺譚(ぼくとうきだん)》
などにもこの町の様子が描かれ,〈の井〉と略称された。
東武伊勢崎線玉ノ井駅があり,付近にはハギやウメの名所,向島百花園がある。        
79日本@名無史さん:03/05/16 23:08
戦争が起こったときに農民の反応としては
・家財道具持って村から一時避難
・家でガクガクブルブル
・すでに落ち武者狩りの準備
・見学に行く
のどれが正しいのですか
80日本@名無史さん:03/05/17 07:46
戦前、ロシアに拉致された邦人を救出した日本海軍の話を
ご存じの方いませんか?
81日本@名無史さん:03/05/17 10:00
>>戦争が起こったときに農民の反応としては

核シェルターにはいるだべよぉ
この前のF5クラスの竜巻でもそうじゃったべのぅ
82日本@名無史さん:03/05/18 00:01
日本史の通史でなにかよい読物(奇矯に走らず、かつ面白いもの)はないですか?
新書で3冊くらいの分量だと特にありがたいのですが
この考えが甘ちゃんだったら、なにか本当のお勧めのものを教えてください。
一応受験で山川の教科書の太字程度の知識はあります。
83日本@名無史さん:03/05/18 01:12
>>82
>一応受験で山川の教科書の太字程度の知識はあります

↑から察するに人物とかじゃなくて社会や文化を知りたいのかな?
84日本@名無史さん:03/05/18 01:33
>>82
割と本気で 小学館の漫画
85日本@名無史さん:03/05/18 01:36
本気汁で網野善彦『日本社会の歴史』上・中・下(岩波新書)
8682:03/05/18 02:09
ありがとうございます。
 先ず>>84-85
 見事にストライクで、『漫画日本の歴史21冊(だったっけ)』と『日本社会の歴史全三巻』を
ここ二年くらいの間にまさに読み終えての新開拓のつもりでの質問だったのです。あと併読で
『日本残酷物語全5巻+別2巻』と『忘れられた日本人』をようやっと読み終えたところだったのです。
>>82で明記していなかった事ははっきり俺の惰性で過失です、すいません。

 ここから>>83-85への併レスになるんですが、俺は「何々〜が好きだ」のような
日本史、人物・事象愛好者でなく、且つ亦別に中世が特に好きとか民俗学が好きで
偏読しているとかいった類の、深く掘り下げて読むのが好きというわけでもないのです。
通史的背骨の一本通ったもので、何か読んでて面白い本はないものかという質問なのです。
 あまりペダンティックに陥らず、かといって奇説珍説にも走らない、正統的で読み応えのある
日本史の本で、なにかお勧めや読んどいて損はない本を教えてください。
併せて、ダラダラと長文すいませんでした。
87日本@名無史さん:03/05/18 02:45
>>86
再び本気汁になるが、講談社『日本の歴史シリーズ』全25巻。
3冊程度という条件を黙殺し、全部買ってそろえると5万近くになるが
市立の図書館でも置いている所が多いので借りれば交通費だけで済む。
新しいものなので当然推論なども新しい資料に基づいて書かれている。

通史を読む→特定の人物・時代・文化に興味を持つ→
興味を持った対象を取り上げた本を読む→参考文献として取り上げた本を読む
↑のリピートで知識も増え尚且つ自分なりの考えも持つようになる。
これで立派な歴史バカ完成。


>奇説珍説にも走らない、正統的で読み応えのある日本史の本
に関しては難しいと思う。
研究者は様々な資料から歴史的事実を拾う。
しかしそれは飽くまでも「部分」。
その「部分」を組み合わせて「全体的な歴史像」を作る。
すなわちその研究者の推論だ。
読んでみて明らかに「電波」を発しているものは分かるが、
「部品」が良くて推論がおかしいものは時々気付かないので
結局読む人の知識やバランス感覚で受け入れるかどうか決まると思う。

あんまり適切なレスではないが参考になれば。
8882:03/05/18 03:05
>>87
ふたたびありがとうございます。
漫画でなしに全25巻ときましたか。。いやぁ、、ムリカナ……
いや、とりあえずはじめの一歩に第一巻に手を伸ばしてみようと
思います。『日本社会の歴史』感覚で、「新書三冊程度で通史を〜」など
とは甚だ甘ちゃんでした。薦書以外での、参考文献からのリピートも
今後の読書の参考にしていきたく思います。
どうもありがとうございました。
89日本@名無史さん:03/05/18 20:50
>>80
「尼港事件」の事かな?
にこうじけん
シベリア出兵中の1920年3〜5月に尼港(ニコラエフスク・ナ・アムーレ)で発生
した事件。同市はソ連(現,ロシア)極東のアムール川河口に近い漁業都市で
日本領事館も置かれていた。日本軍はここを1918年9月占領し,20年冬には
日本人居留民約380名,陸軍守備隊1個大隊,海軍通信隊約350名がいた。
たまたま同年1月トリャピーツィン Ya.I. Tryapitsin の率いる約4000名の
パルチザン部隊が日本軍を包囲した。衆寡敵せず日本軍は敗れ,パルチザン
との間で停戦協定をむすんだ。ところが3月11日武器引渡しを要求されたのを
機に日本軍は奇襲をかけ一般人もこれに加わった。結局日本人側は大半が戦死,
残った者も降伏し投獄された。この間石田虎松副領事一家は自決をとげた。
やがて解氷期となり日本の救援隊が向かうと,その到着前の5月下旬パルチザン側は,
監獄に収容中の日本人俘虜を虐殺した。また同地を退去する際にパルチザンは
市街を焼き払い,一般市民約8000名の半数を殺害したと伝えられた。この〈尼港の惨劇〉
は日本に大々的に宣伝され,〈元寇以来の国辱〉として,シベリア駐兵の必要を
説く軍部などに利用された。日本政府は7月3日,同事件の解決の保障として北樺太
の占領を宣言し同地への出兵が行われた。この尼港事件は,その後の日ソ国交
回復交渉の難点となった。
なお,トリャピーツィンはのちにソ連に逮捕され,人民革命裁判所の裁判をへて
7月死刑を執行された。
90日本@名無史さん:03/05/18 20:53
>>79
戦国時代は、割と農民は見学してたと聞きます。
戊辰戦争でも、会津農民は見ているだけで、逆に薩長軍に握飯を出したとか。
91日本@名無史さん:03/05/18 21:54
>>80
=====================================
http://village.infoweb.ne.jp/~navy/toukou/001.htm
ひうらさんの思ひ出 (帝國海軍は断じて同胞を救ふ)
  
北鮮による邦人誘拐問題はさっぱり進展しませんが、この点でも昔の日本の方が
しっかりしてゐたものです。

 日本海軍は北洋警備−北洋漁業保護の為に、最旧式駆逐艦を以て編成する駆逐隊の
一隊(定数四隻 司令は大佐または古参の中佐)を毎シーズン派遣しておりました
 國民性なのでせうか、蘇聯は昔から露骨な國で、我が駆逐隊が漁業海域に到達し警
備任務に就くや、日頃横暴なる蘇聯艦艇も、途端に猫の如く大人しくなりました
 だから駆逐隊は毎度漁民から熱狂的大歓迎を受けたものですが、必要に応じ、戦隊
若くは艦隊を神速に
派遣することも行はれたやうです

ーーーー

以下はこちらで
http://ex.2ch.net/test/read.cgi/korea/1052651606/75-76
92日本@名無史さん:03/05/18 22:02
>>88
小学館の「大系日本の歴史」なら全15巻
たしか文庫本でも出てたはず
93山崎渉:03/05/22 03:03
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
94日本@名無史さん:03/05/22 12:23
スレを救出してきますた。
95日本@名無史さん:03/05/22 12:45
戦時中の刑務所や囚人について
教えてください。
ドイツのように
彼らは前線に送られたりしなかったのですか?
96日本@名無史さん:03/05/22 13:54
>>95
三池炭田での囚人労働は、1930年で全廃されてます。
徴兵された件は確認できませんでした。

ただ、証言などによると、炭鉱労働に使われたとの声も聞くこともあるので、
強制労働が実は戦時にあったのかもしれません。
少しずれますが、戦争中は自殺率が下がる傾向があります。
ある意味で、人生の目的や生き抜く意欲が逆に高まるのでしょう。
そこから推測すると、犯罪率の減少が推理されます。
あと、731部隊の人体実験の材料にされたという話も聞くことがあります。
不確実なレスでスマソ。
97日本@名無史さん:03/05/23 03:16
>>96
いえいえ、マジレすサンクスです。
98日本@名無史さん:03/05/23 23:23
質問なのですが関ヶ原の合戦後、豊臣家は200万石から60万石に石高を
減らされましたが、このことに関して淀君とか豊臣家は反対とかはしなかった
のでしょうか?
豊臣家は関ヶ原に合戦もしていなくてあくまで石田と徳川の私的な戦いで豊臣が
領地を減らされる理由がないと思うのですが…
なんで豊臣家は領地を減らされるのに納得してしまったのですか?
99日本@名無史さん:03/05/23 23:34
豊臣の直轄地ではなく、豊臣が他大名に預けていた領地をどさくさに紛れて没収された
と聞いたことがある
100日本@名無史さん:03/05/23 23:42
三成は,家康東下の間に他の4奉行と申し合わせ,五大老の一人毛利輝元
を盟主として,7月17日家康を糾弾する〈内府ちがひの条々〉を明らかに
して挙兵。
が、西軍の大義名分だが、そこをつかれたかな。
実際は、力関係が歴然で、抵抗できなかったものと思われ。
101日本@名無史さん:03/05/24 08:31
正直、ハングマンの熱狂的なファンでサイトまで作ろうと
してたけど、スカパーで1〜GOGOまで全話録画
してから強烈に熱が冷めた。黒沢年雄はバラエティで
笑われ者だし、名高達郎は姿みせないし、林隆三も
最近みないし。
102日本@名無史さん:03/05/24 08:34
↓突っ込み担当
103日本@名無史さん:03/05/24 12:19
稲川順二の恐い話
104日本@名無史さん:03/05/24 15:46
Yahoo! News で見つけました。
1941年にアメリカ人によって描かれた、日本軍の絵のようです。
一応翻訳ソフトで訳してみたのですが、いまいちよく理解できませんでした。
解説お願いします。

http://story.news.yahoo.com/news?tmpl=story&u=/030516/168/434kl.html
105日本@名無史さん:03/05/24 22:41
「日本軍が攻めてきて、占領されたら、こんな風に収容所に入れられるぞ!」
ということを宣伝する戦時中の絵のようですね。
解説は、「戦時中はこんなタイプの絵が書かれ、政府プロパガンダの一翼を担った」って
感じですかな。
106日本@名無史さん:03/05/25 02:59
運上・冥加金って何ですか?
107日本@名無史さん:03/05/25 04:27
なんで日本では御一新で西洋文化が流入するまで
馬車が存在しなかったんですか? つーか前にも
聞いたんだけど誰も答えちゃくれなかった。
いいかげん教えれ。
108日本@名無史さん:03/05/25 10:58
>>107
馬より牛の方が汎用性が高くてよく使ってからじゃないの?
朝廷の儀式では「牛車(ぎっしゃ)」を
田んぼの耕作にも牛を、
年を取って働きが悪くなると堵殺業者に売られ革製品に。

推測だが。
109日本@名無史さん:03/05/25 14:33
千葉県にある「貝の花貝塚」って何て読むの?
110日本@名無史さん:03/05/25 14:45
牛車(御所)いつごろまで残っていたの?
111日本@名無史さん:03/05/25 14:45
訂正
牛車(御所車)って
112日本@名無史さん:03/05/25 14:56
>>107
江戸時代は車自体が禁止されていたはず。
113日本@名無史さん:03/05/25 15:01
>>107
>馬車が存在しなかった理由
牛車は室町以降使われなくなったようです。
ということは、室町後半・江戸時代の3〜400年間、日本には動物に引かせる
乗り物が存在しませんでした。馬への騎乗を好むことや、石やレンガの道路が
作れなかった(必要が無かった)ことが理由と思われます。
遊牧民族にも馬への騎乗を好む民族には馬車等が無いそうです。
ポリネシアやインディアンにも白人と接触するまで動物の車はありませんでした。
1860年(万延1)サンフランシスコで初めて馬車に乗った福沢諭吉は、走りだして
初めて乗物と理解できたと回想しているので、牛車を中世にもつ日本でも明治まで
家畜に引かせる乗物の伝統は絶えていたことがわかると思います。

つまり、理由としては、
1、船交通が発達してきて、陸上動物乗り物の必要性を感じなかった。
2、武士階級は階級的伝統で馬への騎乗を好んだ。
3、道路が徒歩や馬の単騎には適したが、動物乗り物には適さなかった。
4、馬車は発想されなかった。不必要は不発明の母。
あたりと思います。
114日本@名無史さん:03/05/25 15:03
>>109
その貝塚がある所在地の教育委員会か県の広報課か教育委員会に電話汁!
115日本@名無史さん:03/05/25 17:49
>>114
やっぱ読み方わかんないっすか?
まあ、何でもいっかな
116日本@名無史さん:03/05/25 18:31
素朴な疑問です。
蘇我馬子&息子の蝦夷(毛人?)&孫の入鹿とか、権力者の割に「ヘンな名前」だけど
何か由来があるのですか? 
当時は役職で呼ばれてたから関係ないのかな。
117日本@名無史さん:03/05/25 18:38
何で日本では戦車(映画「ベンハー」や「グラディエーター」に出てくるような
馬に引かせるヤツね)が戦において使用されなかったのでしょうか?
だだっ広い平野などの戦では有益な気がするのですが?

あと毒矢とか。
118日本@名無史さん:03/05/25 21:25
107と同じコト、僕も気になってました。
113さんサンクスです。
119日本@名無史さん:03/05/25 21:47
外人が日本史や日本文化について語っている英語の掲示板はありませんか
120日本@名無史さん:03/05/25 22:41
>>116
蝦夷は毛人(えみし)、入鹿は鞍作(くらつくり)が正式名のようです。
馬子もいますね。
毛人(=関東辺りの人間)は、勇敢とのイメージがあったと聞いたことがありますが。
馬は貴重な財産ですよね。入鹿は、自信がありませんが鹿と神との関係かなと思います。
121日本@名無史さん:03/05/25 22:46
>>117
鳥や小動物を捕獲してきた地域では毒矢はあまりなく、中型・大型動物
を捕獲してきた地域では、なかなか致命傷を負わせられないので、毒矢
を使用するようになったことが多いそうです。

古代日本には、馬はいませんでした。
武士出現後は、馬への騎乗が価値観を持ち、平安期以降、日本には
動物乗り物が存在しませんでしたので、発想がなかったと思われます。
122日本@名無史さん:03/05/25 22:48
>>119
英語板で聞かれた方がよいのではないでしょうか。
または、ヤフー英語版で、英語で検索してみてはいかがでしょうか。
123日本@名無史さん:03/05/26 21:57
局の号は父親と夫どちらに因みますか?
名字に由来する場合(京極局、西郷局など)
職掌に由来する場合(大蔵卿局など)
それぞれ教えて下さい。
124日本@名無史さん:03/05/27 21:24
>>113,107
 荷物輸送にあたった馬や牛は、江戸時代にもいくらかは存在します。
 馬の場合、馬車はないようです。馬の背中の両側に俵をつるして、
人がひいていくという感じですね。なお、当時の馬は、サラブレッド
ではないというのはいいですよね。
 牛車は、京都−大津で使われているようです。歌川広重の「東海道
五十三次」の大津には、米穀以下荷物満載の牛車群が描かれています
(下記アドレス参照。頭にhを補ってね)。
ttp://www.ukiyo-e.co.jp/one/tokaido53/t54.html
他に、江戸・駿府・仙台でも牛車が利用されています。ただ、牛の飼
養料、車両製造技術、道路事情(橋の荷重、事故)などで、十分には
展開しなかったようです。
  『日本の近世』6<情報と交通>p38以下(丸山雍成氏執筆)参照
125日本@名無史さん:03/05/28 01:44
馬車はなかったと。
牛車は一部ではあったということかな。
ま、全般的には、発達しなかったということはいいのかな?
海と川の交通の発達があったからじゃないのかな。
126山崎渉:03/05/28 10:42
     ∧_∧
ピュ.ー (  ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄〕
  = ◎――◎                      山崎渉
127日本@名無史さん:03/05/28 13:10
山崎くん、勘弁してよ。一番下の方にあったよ。落ちちゃうじゃん。もう!
128日本@名無史さん:03/05/29 12:17
満州事変が一通りわかるhpがあればおせてくらはいませ。
129bloom:03/05/29 12:20
130_:03/05/29 12:21
131日本@名無史さん:03/05/29 12:27
業者はナイスタイミングなわけだが
ずっとスレ見てるのか?諤諤ぶるぶる
132日本@名無史さん:03/05/29 15:28
4〜5世紀頃の日本の人口ってどれくらいだったんでしょうか?
また、その頃の大和朝廷(?)の勢力範囲はどの程度でしょうか?
133日本@名無史さん:03/05/29 23:34
>>128
これどうかな?
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/data/thisei_0.htm

>>132
直接統治でなく、連合政権的な勢力範囲だが、
九州(南部を除く)〜関東・東北南部くらいかな。
人口はわからんが、8世紀で600万人といわれるから、
200〜300万人程度か?
ちなみに、まだ日本は存在してなくて「倭」ね。
134日本@名無史さん:03/05/30 14:57
種子島に流れ着いた商人は地元の方々とどうやってコミュニケーション取れたんですか?
言葉が通じずに狩られそうな気がするんですが…
135日本@名無史さん:03/05/30 15:07
>>134
いつの誰の話だ?
博多や堺の商人が漂着したらお互い日本語だろ。
方言はきついかもしれんがな。
136日本@名無史さん:03/05/30 16:56
>>134
いわゆる「鉄砲伝来」のときの話ですか?
それでしたら、彼らが乗船していた船の船主である王直(中国人の倭寇の頭目)と
砂の上に文字を書いて筆談で話をしたという伝説があります。このとき王直は
明の儒生の五峰と名乗っていたそうです。
137日本@名無史さん:03/05/30 21:49
王直の通訳の件は伝説なの?実話かとおもったが?
138134:03/05/30 22:19
浅学ですみません。鉄砲伝来以外に種子島に漂着した事例を知らないもので。
王直で検索して色々わかりました。ありがとうございました。

139日本@名無史さん:03/05/31 03:47
平沼経済産業省の義母はやっぱ徳川家の子孫でしょうか?
140日本@名無史さん:03/05/31 05:02
141日本@名無史さん:03/05/31 05:23
昭和初期とくに昭和恐慌について詳しい本を教えてください。
142日本@名無史さん:03/05/31 06:44
日銀調査局編『日本金融史資料 昭和編二一』(一九六八、大蔵省印刷局)
長幸男『昭和恐慌』(一九九四、岩波書店)
143136:03/05/31 11:09
>>137
上記の種子島上陸時の王直との会話などの鉄砲伝来時のエピソードを伝える資料として
『鉄炮記』があり、これが唯一の資料ではありますが、
この本が成立したのは鉄砲伝来より半世紀後の1606年(慶長11)で鉄砲を購入した
種子島時堯を顕彰するため、孫の久時が禅僧の玄昌に書かせたものであることから、
史料として重要視することに疑問が一部で出ています。
それゆえに伝説と書きました。
(ただ個人的には最初に出会ったときは大体こんな感じだったのではと思います)
144日本@名無史さん:03/05/31 15:58
>>143
137です。サンクス。よく理解できました。
ただ、伝説であれば、王直を登場させる必要性や面白みがないので、
(1606年に倭寇や倭寇のリーダーは中国人というのは興味を引かなかった気がする)
事実のような気がします。
砂で筆談したというのが、犯罪心理学的に言うとw、虚偽にしては必要外の
リアルネタです。普通、虚偽なら誰か語学堪能者を登場させるという常識に持っていく。
心理学分析なので、歴史学では相手にされませんがw。
145日本@名無史さん:03/06/01 01:54
>>142
産休
146日本@名無史さん:03/06/01 10:46
産休代理講師キボンヌ。
147日本@名無史さん:03/06/03 08:12
初めまして。時代劇板から来ました2ch初心者です。宜しくお願い致します。

江戸時代、大名の側室や子供は人質として江戸に住まなければいけないお定めとか。
では、お世継ぎのいない大名家の側室が死んだ場合は誰が人質になるのでしょうか?
148日本@名無史さん:03/06/03 08:16
高天原と葦原中国って今で言うと、どこ(もしくは何)ですか?
149日本@名無史さん:03/06/03 09:20
>>147
側室は正妻でないよ。正妻の事でしょ。正妻が死んだら、新しい正妻。
その間は母親など親族。子どもがいないまま大名が死んだら、
お家は、おとりつぶしだから、子どもは養子や側室(妾)にたくさん産ませとく。

150日本@名無史さん:03/06/03 09:27
>高天が原=高天原
日本神話で、空の上にあり、神がみが住むという国。 ←さらなる詳細希望ならレスして。

>葦原中国(あしはらのなかつくに)
記紀の伝承において,この地上が高天原(たかまがはら)から見て地下の
黄泉国(よみのくに)との中間に位置しているためにつけられた神話上の名称。
〈葦原〉とは葦の葉がざわざわと無気味にさわぐ未開の地を示し,荒ぶる
国つ神が蟠踞する混沌とした無秩序の世界であった。
そこはまた人間生活の中心地に対する野蛮な周辺部でもあり,死者が住む
とされた山や原始林地帯との中間の地でもあった。だからこそ〈天孫〉
によって平定されるわけであるが,その際にこの中国を代表する舞台と
して〈出雲〉が選ばれたのは,出雲国が聖なる中心地である大和からみて
日の没する西の辺境に位置したからであり,神話的には黄泉国に接する
とされたからである。
中国は当時の人々の生活空間や王権のあり方と密接に関連し,大和王権
と〈出雲〉によって代表される国々との政治的関係を,天上と地上,
中心と周辺といった神話的秩序によって表現したところに成立した。
151日本@名無史さん:03/06/03 16:03
江戸時代の浪人は、身分としてはどう扱われたのですか?
その浪人の息子は?


152日本@名無史さん:03/06/03 17:00
>>151
浪人らは,士籍を失ったのちにも苗字帯刀を許されて武士のような体裁
を保ったが,町方にあっては裏店(うらだな)の借家に住居し,身柄は
町奉行の支配下におかれるなど,その法的身分は百姓,町人らとなんら
変わるところはなかった。

浪人は、平民。浪人の子も平民。
153日本@名無史さん:03/06/03 17:38
>>150
ありがとうございます。よくわかりました。
ついでに教えていただきたいのですが
「中国(なかつくに)」っていうのはどういう意味なんでしょうか?
映画「ロード・オブ・ザ・リング」にも出てきたのですが。
154日本@名無史さん:03/06/03 18:02
>>153
天の世界と、地下の死者の世界の間の、「なかのくに」「あいだのくに」
「あいだのせかい・くに」って感じ。
ロードオブザリングはわかりません
155歴史学博士の俺様:03/06/03 18:49
>>151 浪人身分。詳細は地方による。またニセモノ多し。

よっしゃこい
156日本@名無史さん:03/06/03 18:53
>>153
映画「ロード・オブ・ザ・リング」の「中国(なかつくに)」ってのはMiddle Earth の訳語。
157日本@名無史さん:03/06/03 20:08
ペリーの白旗って本当何ですか?
東大の学閥が資料判断できなくなっているという説もあるのですが・・

158日本@名無史さん:03/06/03 20:33
歴史学博士の俺様があらゆる質問に即答するスレ の博士が、本物の
歴史学博士である確率は何パーセントくらいだと思われますか?
よろしければその理由もお願いします。
159日本@名無史さん:03/06/03 21:00
荒らしは放置、完全無視!
160歴史学博士の俺様:03/06/03 21:20
>>157 宮地説が正しい
161チングーからのSOS:03/06/03 21:54
翻訳サイト「チングー」の歴史討論板でこんな発言を見かけました。
私は日本史は学校で習った程度なのであまり詳しくありません、これってどうなのでしょうか?
http://chingu.friend.jp/

番号 : 181693 翻訳 ニックネーム : jager 2003-06-03 20:07:31
re : 日本の歴史歪曲 略述
【日本書紀】は、世界でも有名な偽書ですね。
【任那日本府】も【日本】と、言う名前の固有名詞が世界(日本を含めた)に登場したのが8世紀であるにもかかわらず
3世紀に【日本】と、言う固有名詞の記述をするぐらい出鱈目な書物です。

神功皇后の血筋の話も、日本書紀、古事記でまちまちで、両方とも嘘があります。
神功皇后は、生まれも育ちも大和朝廷で無いので、大和朝廷の血が入っているはずがありません。
(当時の婚姻習慣から、子供は父の血筋の家で育てられる)

日本人は実に、7世紀の末頃から、自国の歴史を改竄し
真史書である風土記を焚書していたのです。
162日本@名無史さん:03/06/03 22:14
>>161
一般論では

>天皇
確かに国号「日本」は、8世紀からです。それ以前は倭国です。

>神功皇后
国家成立史以前に属する邪馬台国の卑弥呼は別として,巫女的霊能を疎外しつつ
形成されていった古代国家において,巫女的霊能を発揮して政治的実権を握った
女帝的人物が存在したとは考えられない。
神功皇后は王権の危機的状況を克服すべく創出された神話において,過去のもの
となった巫女的霊能を大いに発揮した,偉大な虚像としての女帝であったといえよう。

>歴史改竄
日本書紀・古事記の作った目的が、もともと、天武王朝の正当化のためですから。
歴史と神話と創作の境が曖昧です。
焚書の件はわかりません。5冊ほど残ってますね。
163147:03/06/04 01:52
>>149
申し訳ありません。正室と書いたつもりが側室になってました。
こんな大馬鹿者の質問を理解してくださった上、ご回答頂きまして
本当にありがとう御座いました。
164チングーからのSOS:03/06/04 22:29
>>162
丁寧なご返答,有難う御座いました。また、御礼が遅くなったこと、お詫び申し上げます。

改めて、質問なのですが…

日本書紀に「任那日本府」という記述があるないの論議で…

番号 : 181739 翻訳 ニックネーム : jager 2003-06-04 20:29:05
馬鹿なやつ
欽明2年(540)4月、 「安羅や加羅、多羅の諸旱岐らとともに任那日本府吉 備臣」
と、有るじゃないか

というカキコがありました。
しかし、これを検索してみると、なぜか半月城通信にまったく同じ文言がありまして
原文引用とは思えないのです。
実際のところはどうなのでしょうか?個人解釈のサイトでも「日本府」となっていますが
当時の機関・役職である国府、国司などを指すのか、今一つ判断がつきかねます。
度々の質問ですが、宜しくお願いいたします。
165日本@名無史さん:03/06/05 11:08
>>164
日本書紀の成立は、8世紀で、「日本」という国号の成立は7世紀が定説になり
つつあります。
ですから、4〜6世紀に「任那日本府」と言う言葉があったと言うのは、常識的
には変な話です。

日本書紀には「任那日本府」と記述があります。
日本書紀は、この辺の記述は「百済本記」から引用したといわれてます。
しかし、やっかいなことに、この百済本記は偽書との説もあり、
任那日本府の存在についても、意見はまとまってません。

最近の講談社「日本の歴史」全25巻では、加羅に影響力を持っていた程度の記述
になってます。
文部省検定調査官の判断基準では、日本がかつて植民地的支配をしていたと
取れるような記述には訂正要求し、「任那日本府」の語句は削除対象のようです。
作る会の教科書でも「日本の拠点となった」にとどまっています。他社はすべて
「加羅(任那はあまり使わない)と列島の交流は深かった」的な記述です。

個人的には、倭国とは列島と半島南部を含んだ生活文化圏で、列島の国づくり
が進む過程で、百済・新羅の国づくりの速さに、加羅と列島の共同国づくりが
出遅れ、百済・新羅に編入されたのではと推測しています。
もともと、列島と半島南部は一つの倭と言う国みたいなもので、支配とか拠点では
ないような気がします。

次のレスに任那日本府問題の諸説を張っておきますので参考にしてください。
チングーって何ですか?どこかのチャットでもめてるんですか?
答えは出ないと思いますよ。現在進行形の学者連中の研究課題ですから。
166日本@名無史さん:03/06/05 11:14
>任那日本府・1

「日本書紀」引用の《百済本記》(《百済記・百済新斤・百済本記》)にみえる
6世紀中葉の加羅地方(朝鮮南部)の政治組織。
ただし現在の学界では,任那日本府の存在を全面的に否定する説や,
名称の造作説,その政治組織や歴史記述に疑問をもつ説などが錯綜し,定説がない。
それゆえ,任那日本府に関連する次の4項目の基本問題に対し代表的な
意見を列記する。

(1)《百済本記》の史料価値 
(a)《日本書紀》編者により,大和朝廷の国内統一の過程を,加羅地方に
仮託したとする偽書説。
(b)660‐663年に亡命してきた百済貴族が,大和朝廷での政治的地位を要請
するために編纂した歴史書とする説。
(c)597年に百済王子阿佐が来朝したとき,大和朝廷との国交再開を要請す
るため,百済王朝からもたらされた歴史書とする説。

(2)大和朝廷と加羅諸国・百済との関係 
(a)大和朝廷の南朝鮮支配は4世紀中ごろから6世紀中ごろまで,約250年
間つづいたとする説。
(b)大和朝廷ないしは日本列島内の倭国(倭)が,5世紀後半に加羅諸国を
一括して,直接支配したとする説。
(c)4世紀後半に百済と加羅諸国が,6世紀初頭に百済・加羅諸国と大和朝廷が,
それぞれ国交を開いた。百済が大和朝廷と国交を開いた目的は,国際関係
の強化と軍事力の援助にあったとする説。
167日本@名無史さん:03/06/05 11:15
>任那日本府・2

(3)任那日本府の名称と実態
(a)正式な名称を任那日本府とし,伝承記事の朝鮮出兵・遣使などを含め
大和朝廷の朝鮮経営がすべてここを基地としたとする説。
(b)任那日本府は仮称で,原名は任那倭府であるとし,その実態は大和朝廷
が百済王を仲介にして,加羅諸国を間接的に支配したとする説。
(c)原名は倭府で,倭を加羅諸国の別名とみ,実態は百済の支配下に入った
加羅諸国内の反百済自立派の亡命者集団であるとする説。

(4)任那の調 600‐645年に,任那の調を新羅が5回,百済が1回納めて
いる。
(a)これを大和朝廷が加羅諸国を支配していた証拠とする説。
(b)百済・高句麗の滅亡後,新羅が百済の使者を4度,高句麗の使者を8度
派遣したのと同様,新羅の外交政策とする説。

以上の諸説のうち比較的穏当な説とみられるものは,(1)(c),(2)(c),
(3)(c),(4)(b)であろう。
今後の研究では,まず《日本書紀》の任那日本府像を明確にしたうえ,
その歴史像をもとに加羅史を中心とする朝鮮古代史や日本古代史の他の
事象の歴史像との関係を追究し,史実解明への緒を求め,最後にその成果
にもとづいて,日本・朝鮮の関係史のみならず,両国古代史を抜本的に
再検討することが必要であろう。
168とも:03/06/05 11:17
169日本@名無史さん:03/06/05 11:31
任那日本府→九州王朝→大和朝廷と移動して行ったのでは
ないか?
170チングーからのSOS:03/06/05 16:08
>>165
ご丁寧な返答と諸説の提示、有難う御座います。
チングーというのは日韓翻訳サイトの一つで、そこの歴史討論掲示板で論議の一つとなっております。
http://ime.nu/chingu.friend.jp/

太安万侶百済人説やら、百済の武寧王と継体天皇が兄弟だとか、いろいろと飛び交っております。
主張者のjager氏にあっては、半ば無条件で日本史を全否定するような風も見受けられます。
私は日本史に関して門外漢に近い状態ですので、度々質問に伺うかとは思いますが
宜しくお願いしたいと思います。
171日本@名無史さん:03/06/06 09:31
はい。ただし、荒らしがここに来ないように、出所はふせてください。
あと、あまりにトンデモ説は、無視されちゃうかも?
ま、頑張ってください。名無しさんで聞いたほうがいいのでは?
172日本@名無史さん:03/06/09 09:00
「山人」や「サンカ」について、柳田国男氏以外の見解を見たいのですが
何か参考文献ありませんか? 
ぶっちゃけ「山人」=日本の先住民族なんでしょうか?
173日本@名無史さん:03/06/09 09:38
>>172
一般論
種族的系統については,渡来人説や落人説,中世の傀儡(くぐつ)の
後裔説などがあり一定していない。

個人的意見
先住民にしては、数や地域分布が少なすぎる印象。
縄文人は、東日本では健在だったし、西では弥生人と混血している。
水田耕作に抵抗した縄文人の一部と言うなら、理解できなくもない。
先住民説は通説ではないようです。
山窩の言葉はさんしょ言葉とも言われ、さんしょは「散所」であり、
中世の芸能・宗教民。彼らとの関係があると思われる。
174日本@名無史さん:03/06/09 09:39
>>172
参考文献

・柳田以外の基本的文献
後藤興善《又鬼と山窩》(1940)
三角寛《サンカの社会》(1965)

・今売れてる本(内容はアマゾンででも確認してください)売れてる順。
山窩物語、三角寛サンカ選集、 三角 寛 (著) 単行本 (2000/11) 現代書館 ¥2,800
山窩の生活 、鷹野 弥三郎 (著) 単行本 (1993/10) 明石書店 ¥2,500
又鬼と山窩、 単行本 (1989/08) 批評社 ¥3,800
裾野の山窩、三角寛サンカ選集 、三角 寛 (著) 単行本 (2000/12) 現代書館 、¥2,800
椋鳩十の本 第3巻 山窩物語 (3) 椋 鳩十 (著) ¥1,456
椋鳩十の本 第2巻 山窩物語 (2) 椋 鳩十 (著) ¥1,456

・図書館ネット検索
近代民衆の記録・第4巻・流民 、新人物往来社 1971 書籍
山窩の生活・鷹野弥三郎/著 明石書店 1993.10 書籍
大衆文学大系 30 短篇集 下   講談社 1973 書籍
漂泊の民・山窩の謎 日本のジプシー 忍者カムイと出雲阿国 佐治芳彦/著 新国民社 1982.6 書籍
三角寛サンカ選集 第1巻 山窩物語 三角寛/著 現代書館 2000.11 書籍
三角寛サンカ選集 第2巻 裾野の山窩 三角寛/著 現代書館 2000.12 書籍
流木・西木正明/著 徳間書店 1995.9 書籍
倭と山窩・田中勝也/〔著〕 新国民社 1977
175日本@名無史さん:03/06/09 11:25
http://ime.nu/www.getda.com/evweb/ad/WIN004_q019/img/who.jpg

この武将らしき人は誰なんでしょうか解る方教えてください。
176日本@名無史さん:03/06/09 14:42
>>175
気になってるみたいね。たびたびの質問に答えがないってことは、
難しいんじゃないかな?出典とか、時代背景とか、何か手がかりはないの?
177172:03/06/09 15:05
>>173-174
ありがとう〜。とても参考になりました。
図書館に行って探してみます。
178日本@名無史さん :03/06/09 17:22
近現代の日本経済史のスレってありますか?
179おいおい:03/06/09 17:50
○○は林羅山に学び、朱子学を受け継いで人と人との関係における上下の身分関係を説き、江戸幕府の政治顧問として重用された。○○って誰なの?
180日本@名無史さん:03/06/09 19:54
☆  経済学質問スレッドpart2  ☆
http://money.2ch.net/test/read.cgi/eco/1054832803/
井上準之助と浜口雄幸について語る。語り明かす。
http://money.2ch.net/test/read.cgi/eco/1045499756/
181日本@名無史さん:03/06/09 22:28
>>179
林羅山の直系なら、林鵞峯(がほう)も治部縁法印,弘文院学士としてその役割
を継承し,
3代の林鳳岡(ほうこう)は蓄髪して大学頭に任ぜられ,将軍綱吉の学問振興策
に際会し教学の中心となった。

新井白石は木下順庵に学び〜だと、すっきりするんだけどねw。
182日本@名無史さん:03/06/10 00:01
武士は何で2本も刀をさげていたのですか?
1本が切れなくなった時のための予備ですか?
183日本@名無史さん:03/06/10 02:00
江戸は嫁不足だったのって本当ですか?
184日本@名無史さん:03/06/10 07:40
>>175
周りの状況も見せてくれないかな
185日本@名無史さん:03/06/10 08:08
>>183
男子対女子の比率が他の日本の町に比べて著しくバランス悪かったのはホントのようです。
原因は「参勤交代」です。武士の割合が高くなる=男子人口が異常に多くなる から
とか。

なんかの本で読んだんだが、その本のタイトルが思い出せないのでソースは提示できません。スイマソン。
186日本@名無史さん:03/06/10 08:36
>>183
追加として、近郊の農村を離れた人たち(農家の次男・三男)が、
職を求めて流入してきています。
人返し令は一定の効果もあったようですが、不十分でした。
大阪も似てるんじゃないかな。
187日本@名無史さん:03/06/10 08:42
>>182
最初は予備のためで、後に形式美になったと推測されます。

脇指(わきざし)
脇差とも書く。太刀を帯びたとき,脇に指し添えたため,脇刀(わきがたな),
腰刀(こしがたな)などともいう。
室町時代末期以降,打刀(うちがたな)が盛行すると,打刀拵(こしらえ)と
同形式の短い拵を添えるようになり,
これが江戸時代に入って大小となって,大を刀,小を脇指というようになった。
また刀身をいう場合は長さ1尺(30cm)以上,2尺以下のものをいい,
特に1尺8,9寸のものは長脇指,1尺2,3寸のものを小脇指と称した。
一般に脇指は鎬造(しのぎづくり),平造(ひらづくり)が多い。
江戸時代には町人の道中用の護身刀(道中差(どうちゆうざし))としても用いられた。
188日本@名無史さん:03/06/10 18:30
>>182
短いほうは

ヨロイの間(わき)に刺してトドメをさすのに便利。
そのあと 首を斬ったり,
まあ 鼻や耳をそいだりするにも便利。
最後 自殺するにも便利。
189日本@名無史さん:03/06/10 19:19
質問です。
高校の課題で、『律令体制化の外交』ということで、
1.高松塚古墳について
2.遣唐使について
3.水城について
4.防人について
のどれか一つを選びレポートを提出しなければなりません。

なので、本日本屋に行って資料を探したのですが、
自分の低スペックなオツムでは見つけられず、
何も買えずに帰ってきました。

どの本を買えば、上記についてのレポートがかけますでしょうか。
ご教授願います。
190日本@名無史さん:03/06/10 22:55
>>189
これが手ごろかな?

遣唐使船―東アジアのなかで 朝日選書・東野 治之 (著)・価格:¥1,200

内容
古代の日本の持つ二つの顔。777年、宝亀の遣唐使は船出した。大使の仮病、
難破、漂流…一行の苦難は続く。なにを求めて中国へ行き、なにを持ち帰ったか。
中国との駆け引きは?東アジア世界の片隅で懸命に生き抜く日本。
ある一行の旅路のすべてを検証する手法で迫る新・遣唐使論。

図書館にもあることが多い。
191日本@名無史さん:03/06/10 23:59
>>189
石井正敏『東アジア世界と古代の日本』というのが出たばかり。
山川出版社の日本史リブレットで定価八百圓とお買い得だ。
192189:03/06/11 16:16
>>190-191
ありがとございます。
早速本屋に行ってきます。
193日本@名無史さん:03/06/11 21:24
ドラマの中で「別式女」という奥向きを警護する女性たちが出てきました。
聞きなれない言葉だったので検索してみると、「武芸を買われ、大名の娯楽用として
囲われた女性」という解釈もありました。ほんとのところはどうなのでしょう。
ご存知の方がいらっしゃいましたら、どうか教えてください。
194日本@名無史さん:03/06/11 23:11
>>193
別式女(べっしきめ)
武家の奥向きに武芸で仕える女性。忍であるくノ一と違い公然の存在で、士分。

これだと思います。

ただ、女同士を戦わせて、それを見ると言う趣向があったようです。
今では女子プロレス。昔では女相撲ですね。
そういう意味では、俗称として使われていたかもしれません。
195日本@名無史さん:03/06/12 12:55
今でも女泥んこプロレスとか一部マニアに人気あるからなぁ。
漏れもちょっと興奮するw。
196日本@名無史さん:03/06/12 15:13
>>187
>>188
遅くなったけど有難うございました。
197日本@名無史さん:03/06/12 16:04
戦前に大陸浪人と呼ばれる人がいたが、
彼等は戦後はどうなったのですか?
198日本@名無史さん:03/06/12 16:28
>>194
お答えありがとう御座いました。
多少はカノ国のナントカ組のような役割も担っていたということでしょうか。
学生時代は苦手としていた歴史も、こういうことがわかると面白いですね。
199日本@名無史さん:03/06/12 19:34
>>197
満州事変以降は、大陸浪人の活動余地はせばまり、軍と官僚に吸収されたようです。
つまり、1930年代には大陸浪人の活動余地はなくなっていったと思われます。
岸田吟香,荒尾精,石光真清,横川省三などが有名な大陸浪人ですが、いずれも
明治や昭和10年代に死亡しています。

とくに陸軍の各特務機関は大陸浪人を駆使して諜報と謀略をさかんに行い,
また日本の大陸経営の根幹である南満州鉄道株式会社(満鉄)も多くの大陸浪人
を擁していた。

しかし中国の国民革命が進展し,軍閥割拠が打破されてからは,活動の余地と
必然性がせばまった。
とくに満州事変以後日中戦争期にかけての日本の対中政策は,占領地に傀儡政権
を樹立し,これに日本の行政官庁が直接官吏や顧問を派遣する形になったため,
大陸浪人もその体制の中に吸収されていった。
200日本@名無史さん:03/06/12 23:43
ココ、つるつるワレメが丸見えだけどさぁ、
いいのかよ!(*´Д`*)ハァハァ
http://plaza16.mbn.or.jp/~satchel/turuturu/
201日本@名無史さん:03/06/13 04:32
高橋是清の自伝を読んでます。
面白いのはいいんですが、凄く簡単に引っ越したり、家を建てたりします。
明治初期の日本はそんな簡単に引っ越しできたもんなんでしょうか?
202日本@名無史さん:03/06/13 09:41
>>201
明治には、移転の自由は許可されてたからね。
極貧まではいかない、わりと貧しい家庭がよく引越ししてたんでないかな。
彼の経歴を見ると、確かに移動は多そうだねw。

近代日本の財政家,政治家。幕府の絵師川村庄右衛門の庶子として江戸に生ま
れた。幼名和喜次。仙台藩足軽高橋是忠の養子となる。1867年(慶応3)藩の留学
生として渡米し苦学。翌年帰国し森有礼の書生となり,大学南校に入学。文部省
を経て農商務省に入り特許局長まで進む。90年ペルーの銀山開発に失敗。92年
日本銀行に入り,95年横浜正金銀行支配人に転じ,99年日銀副総裁に就任。
日露戦争外債募集に成功し,1905年貴族院議員に勅選され,07年には男爵を受けた。
11年日銀総裁に昇任した。
203日本@名無史さん:03/06/13 12:05
「日本」の名前と国旗と国歌はいつ、誰が考えて決定したんですか?
あと、国歌の歌詞の意味が分からないので教えて下さい。
204日本@名無史さん:03/06/13 15:51
>>203
>「日本」という国号
8世紀初頭には使ってたようです。一般には、天武天皇(「天皇」号使用の初代)から
と言われています。天武か、天武のブレーンでしょう。中国の許可をもらったようです。
もっとも聖武天皇などは、8世紀中ごろでも倭国と自称してますが。

確かなのは,702年(大宝2)に32年ぶりで唐を訪れた遣唐使が,唐側では〈大倭国〉
の使人として扱ったのに対して,〈日本国使〉と主張したという《続日本紀》
の記述であり,《旧唐書》東夷伝の記事も,この当時の日本側の説明に基づく
ものと思われる。

>日の丸
海防参与を命じた前水戸藩主徳川斉昭の意見を徴した。6月から1ヵ月余にわた
って,日本船の標識として日本の日を表す日の丸を強硬に主張する斉昭と,
幕府船の標識としての日の丸に固執する幕府の間で折衝が繰り返されたあげく,
幕府は斉昭に押し切られて,7月,白地日の丸の幟を日本総船印と決めた。
日の丸が国民に浸透したのは、明治憲法か日清日露戦争の頃。
国旗となったのは、近年の国旗国歌法制定から。

205日本@名無史さん:03/06/13 15:52
>君が代
歌詞は《古今和歌集》に由来するが,その初句は〈我が君は〉であり,〈君が代は〉
となったのは,《和漢朗詠集》の一写本に始まるといわれる。
近世に入り,地歌,長唄などにもとり入れられ,祝賀の歌詞として用いられた。
1869年(明治2)ころ,横浜にいたイギリス軍楽隊長 J. W. フェントンが国歌の必要を説き,
醍摩藩砲兵隊長大山弥助(のちの元帥陸軍大将大山巌)が醍摩琵琶歌《楕族山(ほうらいさん)》
に入っていた《君が代》を歌詞として選定(選者については異説あり),フェントンが
これに作曲。76年,この曲は日本人には不適であるとの判断から,海軍軍楽隊長中村祐庸は
〈天皇陛下ヲ祝スル楽譜改訂ノ儀上申〉を提出,西南戦争後,海軍省は新曲作成
を宮内省式部寮雅楽課に委嘱,80年同課では壱越(いちこつ)調律旋により作曲
(形式上は〈林広守斤譜〉と公表),海軍省傭教師 F. エッケルトが和声を付し,
同年11月3日,天長節宮中御宴で伶人らにより初演。82年,音楽取調掛が文部省
の命を受け国歌選定に努力したが実現せず,雅楽調の《君が代》が天皇礼式曲と
しておもに軍隊で演奏され,88年海軍省が吹奏楽譜を〈大日本礼式
Japanische Hymne(von F. Eckert)〉として各官庁や条約国に送付した。
しかし国内でそれを認めていた人は少なく,《君が代》の普及は,1890年の
教育勅語発布以後,学校をとおして強力に進められた。

正式の国歌となったのは、これも先日の国旗国歌法の制定によって。
なお、国旗国歌法には義務や罰則の規定はありません。ただ、国旗と国歌と決めただけ。

206日本@名無史さん:03/06/13 15:52
>君が代の歌詞
もともとは単なるお祝いの歌ですが、明治から敗戦までは、君が代は国威発揚・
天皇に尽くす心情の育成の教材として、文部省の教師用学習の手引きに書かれ、
長らく学校や日本社会では天皇を賛美する歌として使われてきました。

国定修身教科書には〈私たち臣民が《君が代》を歌ふときには,天皇陛下の万歳
を祝ひ奉り,皇室の御栄を祈り奉る心で一ぱいになります〉(《小学修身書》巻四)とあった。

戦前の文部省解釈では以下のような意味です。

天皇の世(天皇中心の時代が)が
いつまでもいつまでも
小さな石が
大きな岩となって
コケが生えるまでも(永久に続きますように)

戦後は一時、ほとんど歌われなくなりましたが、1950年に文部省が祝日には望ましいとの
談話を発表し、58年ごろから学校教育に復活してきました。
その間文部省の見解は右往左往し、君が代は国民の幸せを祝う歌だとか、象徴天皇を
祝う歌だとか迷走してきました。
現在は、象徴天皇制下の日本の繁栄を祝う歌あたりのようです。
現実社会では、ワールドカップ以来、天皇はふっとび、「君が代」は国際大会
などにおける日本を識別する、シンボルの曲として思想性は消えつつある気がします。
スタジアムなどを見ると、歌う人が2/3。歌わない人が1/3位ですかね?
207203:03/06/13 16:29
>>204
ありがとうございました。大変勉強になりました。
スタジアムでは若い人のほうが歌っていますね。
意味も分からず歌っていた自分が恥ずかしい・・・。
これからは胸を張って歌えそうです。
208日本@名無史さん:03/06/13 21:09
>>202
回答ありがとです。

でも、引っ越しするにも、敷金礼金いらなかったのか?保証人は?引っ越し代は??
など疑問がいっぱいです。
貧しい=引っ越し説は首肯しがたいです。

あと是清の経歴が途中で切れてるのは何故?

209日本@名無史さん:03/06/13 21:52
>>208
1913年第1次山本権兵衛内閣の蔵相となり,同時に政友会に入党。18年原敬内閣
の蔵相に就任,政友会の積極政策を財政面で推進した。20年子爵。21年11月原敬
暗殺のあとを受け,政友会総裁と首相の座を継承。ワシントン体制と国内の戦後
不況・階級闘争の激化に対応する協調的新政策路線を模索したが,政治力が欠けて
いたこともあり党内対立を招き,内閣改造に失敗し,22年6月辞職。24年1月清浦奎吾
内閣成立に対し第2次護憲運動がおこると,爵位を返上し,貴族院議員を辞任して
運動に加わることを表明,原敬の選挙区盛岡市より当選した。政友本党の分裂で
政友会は第3党に落ち,高橋は加藤高明の要請で護憲三派内閣の農商務相に就任したが,
25年5月,政友会総裁を田中義一に譲り閣外に去った。27年金融恐慌に際し,
田中義一新首相の懇請で蔵相となり,モラトリアムその他の処置で危機を脱する
と在職42日で辞任,その無欲と政財界における信用度を示す。
 満州事変勃発後政友会犬養毅内閣が成立するとまたも蔵相として入閣,
大恐慌によって破綻した民政党の金解禁・緊縮財政・非募債政策を一新して,
金輸出再禁止,軍備拡張と農村救済を柱とする積極財政による景気刺激政策を
推進した。五・一五事件後の斎藤実内閣にも蔵相として留任,積極財政の具体化
のため日本銀行券の発行限度を1.2億円から一挙に10億円に拡大し,赤字公債日
銀引受けの道を開いた。この一連の政策により,貿易は伸張し景気はいちじるしく
回復した。しかし軍部の軍拡要求はとどまるところを知らず,34年11月政友会の
反対を押し切って岡田啓介内閣の蔵相に就任した高橋は,36年度予算編成にあたり
悪性インフレを警戒して軍事費抑制の姿勢を示した。このため青年将校の恨み
を買い,二・二六事件で襲撃を受け射殺された。無欲な人柄で〈だるま〉の愛称
のもとに大衆的人気をもった彼の不慮の死は世人の同情を集めた。
210日本@名無史さん:03/06/13 23:12
新撰組のトップなのに、どうして近藤勇は局長と呼ばれるのでしょうか?
なぜ組長と呼ばれなかったのでしょうか?
211日本@名無史さん:03/06/13 23:34
下関で李鴻章を暗殺しようとした人の名前教えて
212日本@名無史さん:03/06/13 23:35
足利義満は、源氏で、もとをたどれば皇族出なのに
なぜ皇位簒奪を狙ったとされるんですか。
つまり足利義満が天皇になっても、万世一系は維持可能では?
213日本@名無史さん:03/06/13 23:54
>>211
小山豊太郎という青年。

>>212
皇位の資格を持つ男系系列でなかった。
214日本@名無史さん:03/06/14 01:59
>>210
新撰組が会津藩の一部局との考えから
215日本@名無史さん:03/06/14 02:10
>210
組長=京都守護職(松平容保)本人かその臣下では?
百姓の倅は局長でよし。
216日本@名無史さん:03/06/14 04:41
歴史には全く詳しくありません。
新選組は名前程度しか知らなかった程のボケなのですが、
燃えよ剣を購入して読んでいる途中です。
新選組を理解しようとしたら、さかのぼって何の事件から学んだらいいですか?
またおすすめの小説等あれば教えてください。
217日本@名無史さん:03/06/14 12:01
>>局長
最初は隊長と読んでたみたいね。初代が芹沢、次が近藤か。
土方が動きやすいように組織改革して、近藤が局長になったんじゃなかったかな。

>>216
「燃えよ剣」をまず読む。そして、大書店のコーナーへ行き、数冊読む。
すると、知りたいことがはっきりしてくるので、それについて、調べる。

「新選組始末記」子母沢寛が研究所としては一般的なのかな?
218日本@名無史さん:03/06/14 14:49
江戸時代に士農工商という身分制度がありましたが、
林業や漁業の人たちも、一応、「農」の中に入るのですか?
219日本@名無史さん:03/06/14 17:21
縄文土器が盗まれたとニュースで聞きましたが、
詳細がわかりませんでした。

どこの遺跡から発掘された物とか、
詳しくご存じでしたら教えてください。
220日本@名無史さん:03/06/14 17:47
>>212
義満が皇胤であることは間違いないのだけど、
彼の家系は源氏となってすでに幾代も重ねており、
臣下の家として固定していたので、皇統を継ぐ資格は
ないとされていた。
221日本@名無史さん:03/06/14 18:21
義満は皇胤なのは確実なのですか?詳しく教えて下さい
222日本@名無史さん:03/06/14 19:02
>>221
足利家は歴とした清和源氏ですよ。
系図をつなげただけの徳川さんとは違います。
その辺は特に疑う必要はないと思うけど。
223日本@名無史さん:03/06/14 19:09
あー皇胤とはそういう意味なのですね。御落胤かと思って質問したのです。ばかでスマソ。
224日本@名無史さん:03/06/14 20:34
>>218
実際には、「士農工商」よりも、「武士>百姓・町民」あるいは「武士>平民>賎民」
が、実務的に使われていたようです。
近世では「漁業民」「林業民」は「百姓」で、狭義には「農」に入るでしょう。
225日本@名無史さん:03/06/14 20:43
226210:03/06/15 01:37
新撰組の局長に対する疑問に答えていただいた方々、ありがとうございます。
なるほど、会津藩の一つの部局の考え方からなのですか。
ずっと魚の小骨のように引っかかっていたので、大助かりです。
227日本@名無史さん:03/06/15 22:16
>>226
組長とか局長とか名称に意味はありません。
新撰組は会津の一部局でもありませんし、
そもそも局長が二人いたことからもわかるように、局長とは取りまとめくらいの意味しかありませんので、
上下関係はありません。
228日本@名無史さん:03/06/15 22:21
会津藩お抱え傭兵部隊。
229日本@名無史さん:03/06/16 00:26
譜代大名について語りたい人誰かスレたててくれませんか
230日本@名無史さん:03/06/17 11:58
「語りたいので、ぜひスレを立ててください」じゃなきゃ立たないのでは?
初心者板でも、スレ立て依頼スレがあるようだよ。
231日本@名無史さん:03/06/17 16:24
>>217
>「新選組始末記」子母沢寛が研究所としては一般的なのかな?

小説と研究書を混同したらドキュソ扱いされるぞなもし
232日本@名無史さん:03/06/17 20:30
>>231
子母沢のは、一応、足と史料で調べている。幾つかの事実誤認はあるがな。
こんなところではどうかな?

新選組戦場日記―永倉新八「浪士文久報国記事」を読む・木村 幸比古 (Author)

新選組史料集・新人物往来社・価格:¥4,000
233日本@名無史さん:03/06/20 10:52
age
234日本@名無史さん:03/06/21 00:24
けんれい門院は、安徳天皇の毋で
平清盛と二位尼の娘であってますか?
235日本@名無史さん:03/06/21 03:44
辛亥革命って日本にどう映ったのでしょうか?
皇帝の代名詞の中国が共和制になることは
おなじ君主制の日本にとってかなり衝撃だったと思いますが

これを真似して日本も・・・って勢力もあっただろうし
236日本@名無史さん:03/06/21 04:13
>>235
北一輝や大陸浪人は辛亥革命に義勇軍参加していた

日本の民間右翼の活動には思想的影響を与えた
237日本@名無史さん:03/06/21 04:51
>>236
でも逆に言えばその程度か
始皇帝以来の帝制が終わる事の意味が日本にとってきわめて重要だと思うけど
天皇制自身にも影響を与えるし
238日本@名無史さん:03/06/21 09:24
>>237
日本側からすればあの頃の中国の興亡が天皇制に影響を及ぼすほど
中国を高く評価してないでしょ。
それに結局、共和政体というより軍閥政治になったようなもんだし。
239日本@名無史さん:03/06/21 09:56
>>235
基本的には中国での権益確保に奔走したのが第一のようです。
天皇制への憂慮も大きかったようですが、袁世凱が逆コースを歩むことに
よって、心配は減ったようです。

列強利権の交錯するなかでの革命であっただけにその影響は全世界におよび,
とりわけ隣国日本の反応は敏感だった。
この機に乗じての中国分割論,あるいは列強との強調による保全論が叫ばれ,
さらには犬養毅らによる日中提携論も唱えられた。

また革命による君主制の打倒が天皇制と家族制に及ぼす影響を憂慮する
むきも多かった。忠孝,男尊女卑等の封建的綱常体系の崩壊が恐れられ
たわけだが,やがて袁世凱による逆コースの開始とともに,この方面の
論議は下火になった。
240日本@名無史さん:03/06/21 09:59
>>234
建礼門院 1155‐1213(久寿2‐建保1)

生没年ともに異説がある。高倉天皇の中宮。名は徳子。平清盛の次女。
母は平時子(二位尼)。1171年(承安1)従三位に叙され,後白河法皇の猶子
として入内,女御宣下のうえ翌年中宮に冊立。
78年(治承2)言仁親王(安徳天皇)を生み,81年(養和1)院号を与えられて建礼門院と称する。
しかしこの間,諸国源氏の蜂起により内乱が勃発。83年(寿永2)平氏一門は
安徳天皇と門院を奉じて西走。85年(文治1)長門壇ノ浦で一族滅亡のおり,
天皇とともに入水したが,女院のみ救助されて帰京,吉田の律師実憲の坊に入り,
同年5月落飾して法名を真如覚と称した。ついで吉田野津御所から大原寂光院に移り,
終世仏に仕えた。後白河法皇が大原に女院を訪れたときの話は《平家物語》
灌頂巻の名文で知られ,源頼朝も平宗盛の旧領摂津国真井・島屋両荘を彼女
に贈って生活の資とした。没後は寂光院裏山の大原西陵に葬られた。
241日本@名無史さん:03/06/22 00:28
戦国大名の最上義光に関する軍談物を知りたいのですが、
『奥羽永慶軍記』以外に有りますでしょうか?
242日本@名無史さん:03/06/22 01:27

質問です。

源義仲については1184年に征夷大将軍にしているのに、なぜ後白河上皇は
自分の存命中に頼朝を征夷大将軍にしなかったのでしょうか?

243日本@名無史さん:03/06/22 03:23
>>232
同じ著者が、新書で永倉新八と島田魁の日記をまとめたものを出していました。
244日本@名無史さん:03/06/22 11:07
>>241
『最上記』、『会津四家合考』、『天正最上軍記』
などはどうだろうか?くぐればまだあるかも。
245日本@名無史さん:03/06/22 11:20
>>242
義仲は、京から兵士を追放したが、兵粮の不足と軍兵の無秩序から人心
を失い,閏10月には備中水島で平氏に敗れて帰京。
その間に法皇は〈寿永2年10月宣旨〉(←義仲追討)を頼朝に与え頼朝との
接近を図っている。
孤立した義仲は11月クーデタを敢行,翌年1月みずから従四位下征夷大将軍
となって〈旭将軍〉と称した。

つまり、義仲は後白河を幽閉し、クーデターで征夷大将軍宣旨を天皇から
出させた。
頼朝は、後白河生存中は将軍にはなれなかったが、義経への頼朝追討へ
の宣旨を逆手に取り、1815年に全国への守護・地頭の設置を強行に認めさせ、
鎌倉時代はここから始まるというのが定説のひとつ。
後白河は、頼朝の組織だった新政権樹立を恐れ、将軍任命を許可しなかったのでしょう。
頼朝も、京都との調整を気にしてましたから、あまり無理はしなかったのでしょう、
本気で軍事で脅せば、将軍任命を出させられたと思います。
246直リン:03/06/22 11:22
247日本@名無史さん:03/06/22 11:39
皆さん助けて・・・。

鎌倉・室町時代の商業の発達を述べた文として誤った文を選べ。ない場合は6番と解答せよ。
2003 早稲田大学商学部

1.貢納手段として銭納も多くなり、安全のために為替も用いられるようになった。
2.京の米場、淀の魚市など特定商品だけを扱う市場も生まれた。
3.応仁の乱後は六斎市も一般化した。
4.輸入された中国の銅銭に加えて、日本でも粗悪な私鋳銭がつくられた。
5.円滑な商取引を妨げる撰銭を禁止するために、しばしば撰銭令が出された。

代ゼミ公式解答 5番  河合塾公式解答 6番

どっちだよっ!
248日本@名無史さん:03/06/22 11:49
>>244
サンクス。
249日本@名無史さん:03/06/22 11:59
撰銭令は、
1、特に粗悪な銭の使用禁止
2、その他の銭の撰銭の禁止
の両面を含むから、
1を重視すれば、撰銭令は公的な撰銭→解答は5番
2を重視すれば、撰銭令は撰銭の禁止→解答は6番
で、混乱してんじゃないのかな?

抗議をこめて早稲田に聞くべし!
250日本@名無史さん:03/06/22 18:45
>>245
頼朝は江戸時代まで生きてたのか。(w
251日本@名無史さん:03/06/22 18:56
>>248の説明とかぶるが、

撰銭令って一回でただけじゃないし、出した人間も幕府・守護大名・織田政権と
多種多様だから、
その性質についても、撰銭令ごとの吟味が必要なんだよね。

だから、5番については
あるときの撰銭令をとれば、撰銭の禁止をうたっている条文があるから正解であり、

別のときの撰銭令では、ある換算率を設定して、その換算率を強制したり、
一定の割合までは悪銭混入を認めてたりして、「円滑な銭貨流通を促進する」
ために撰銭を認める内容だったりするから間違いとなったりするわけでつ。

山川の教科書ではなんと書いてるのでしょうかねぇ。
252日本@名無史さん:03/06/22 20:26
>245

ありがとうございました。
二人とも強引な形で将軍になったのですね。
253歴史を教えて:03/06/22 20:31
慶安御触書について簡単に分かり易く教えて下さい
254日本@名無史さん:03/06/22 21:44
初心者です。お願いします。

女性が日本髪を結うのはいつごろからでしょうか?
大河ドラマを見ると戦国時代や江戸時代初期は髪を下ろしていますが、
元禄時代にはすでに日本髪を結っています。

正座はいつごろから始まったのでしょうか?
戦国時代や江戸時代初期には大名は将軍や関白の前でもあぐらをかいていますが、
元禄時代には正座をしています。
255日本@名無史さん:03/06/22 22:26
>>250
ははは、大間違い。訂正サンクス。
×1815年
○1185年
256日本@名無史さん:03/06/22 22:30
>>253
>慶安御触書
1649年(慶安2)2月26日,江戸幕府が公布した〈諸国郷村江被仰出〉という
触書を通常〈慶安御触書〉〈慶安の御触書〉といっている。
全32ヵ条からなり,幕府の農村法令では最も詳細なもので,農民の日常生活,
農業経営,農民の心得などをこまかに規制している。
まず第1条では幕法の順守,領主への服従,村役人を親と思えなど,封建制下
の身分・階層性を強調している。農業経営の場合,たとえば第10条で肥料に
ついていっているが,この触書の最大の特徴は農民生活への規制である。
酒や茶の購入禁止(第6条),雑穀を主食とする(第11条),さらに大茶を飲み
夫のことをおろそかにする女房を離別するなどと干渉し(第14条),最後に
年貢さえ済ませば百姓ほど心やすいものはないと,人間性を無視した封建領主
としての幕府の意図が露骨に表れている。
なお,この触書に類似した事例に1619年(元和5)12月の〈直江兼続四季農戒書〉がある。  

逆説的に見れば、この当時まで、農民は、米を食べ、酒や茶を飲み、
遊び好きの女房がいた。だから、規制したともいえる。
257山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/06/22 22:32
>>253
江戸後期の捏造です。
>>254
日本髪→徳川家綱の頃、寛文には島田髷が結われていました。
正座→定着したのは16世紀だといいますが・・・女性はそれまでは
片膝を立てた姿勢が多かった。
>255
でも『吾妻鏡』には大江広元の献策で云々と書かれていますが、『玉
葉』には地頭のことしか書かれていないようですが信用出来るのでし
ょうか。教科書的な答えならそれでいいか。
258日本@名無史さん:03/06/22 22:39
>>254
日本髪とは、本来は明治以降の髪型だそうです。
でも、ここでは、平安時代と違うアップした髪形ということで答えます。
奈良時代と、それ以前も髪をアップしてましたが。

室町末期から桃山時代にかけて、徐々に結い上げられるようになってきた。
江戸時代女髷(マゲ)の概要を述べると,中期以降における特徴として,
髪を前髪,髷,両鬢(びん),髱(たぼ)の五つに分髪して結いあげる形式が生まれ,
後世の日本髪の基礎となった。この分髪形式は同時に生まれたわけではなく,
それぞれの発達経路が少しずつ異なる。江戸前期の唐輪髷,立兵庫(たてひようご)
などは髷の発達期と考えられ,次は前髪,髱の発達をみ,中期は特に髱の発達をみた。
貞享(1684‐88)のころに髱刺(たぼさし)というものが生まれ,これによって
技巧的な髱が結われ,優美なカーブを描く洗練された髱として,セキレイの長い尾
の形をした〈せきれい髱〉,カモメの舞い飛ぶ姿からとった〈かもめ髱〉などの名で呼ばれた。
関西では髱を〈つと〉と呼んだ。髷は前期からの兵庫髷をはじめとして島田髷系統,
心(こうがい)髷系統が発達した。心髷は心を用いて髷を固定させて結いあげた
髪形で,民間でも流行したが,はじめは大奥の女性の髪形として生まれた。
髷の中の心を引き抜くと髷がほどけ垂髪の状態になり,平安時代以来の
垂髪の伝統をのこしている。
江戸後期は鬢中心の時代で,髱と前髪は目立たぬ髪形となり,鬢には安永
(1772‐81)ころ,鬢張(びんはり)というものが工夫され,横に大きく張り
出した灯籠鬢が流行した。この派手な鬢とともに,髷も多岐にわたり,
島田髷も文金島田,つぶし島田,きりずみ島田などが結われ,勝山髷も
前期の細い髷から,大きな幅広の髷に変わった。これは忌に髪結が増え,
腕を競い合い,さまざまな髪形を創り出したのも原因の一つといえよう。
259日本@名無史さん:03/06/22 22:45
>正座
日本では畳が江戸時代の元禄・享保のころ普及するにつれて正座も
庶民に広がった。
260山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/06/22 22:45
>>258
詳しい説明をどうも。でも手元にある本には「寛文ころの上級の町人」
の髪型・服装が模型つきで出ているのですが、髪型の説明に「鶺鴒髱の
島田髷」とあるのです。こちらがおかしいのでしょうか。
261254:03/06/22 22:57
>>257>>258
さっそくていねいな回答ありがとうございます。
長年の疑問がすっきりしました。
262日本@名無史さん:03/06/22 22:57
>>257
1185年11月に大江広元が頼朝に守護地頭を献策したと言われているが、
頼朝は1180年の段階ですでに平安後期の国守護人を活用するビジョンは持ってたらしい。

鎌倉幕府の守護制度は,12世紀の80‐90年代すなわち幕府草創の時代に
成立する。この守護制度成立については古くから諸説が分かれ,
(1)指称と成立時期にかんし,惣追捕使と守護は同一実体で,ともに1185年
(文治1)勅許で成立したと見る説,85年勅許では惣追捕使として登場し,
建久年間(1190‐99)に守護に切り換えられたとする説などがあり,
(2)設置目的や範囲についても,(1)との関連で,源義経追討と恒久的な
諸国治安維持一般のいずれを重視するか,また特定地域であるか全国的
であるかなど,学説は一定せず,
さらに(3)職務内容についても,大犯(だいぼん)三箇条,兵粮米徴集,
庄公下職進退などをめぐり,(1)(2)と絡みながら種々の解釈が提出されている。
いまこれらの諸見解の対立を全面的に解決することは不可能であるが,
諸研究で確実になった点を基礎に若干の私見を加えて見通すと,すでに
頼朝は1180年(治承4)の挙兵直後から,おそらく国守護人を土台として,
守護人を平家追討後の国々に反逆予防・治安のために承認ないし新置して
いたが,平家追討完了後の85年11月,この一国を軍事的に統率して鎮護
する守護人を,惣追捕使という公式指称で,朝敵となった義経を討滅する
手段という大義名分をもって,地頭職とだきあわせで全国的に設置する
ことを朝廷にせまり,勅許された。この時期の惣追捕使の職権は戦時大権
として,謀反人(義経)追討を固有の核として兵粮米徴集,庄公下職指揮権
をも含む広いものであったが,89年義経追討終了以後,平時に復する中で,
鎌倉時代を通じて存続する守護制度の体制へと順次転形し,平時にふさわ
しい守護が指称としても公私を問わず使われることとなった。
文責は義江彰夫氏。
263254:03/06/22 22:59
>>259>>260
ありがとうございます。
正座は畳と関係があるのですね。確かに板の間で正座はつらい。
264山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/06/22 23:06
>>262
長文ありがとうございます。義江先生ですね。早速調べてみます。
265日本@名無史さん:03/06/22 23:08
>>260
はっきりしませんが、島田について貼っておきます。

>島田髷
日本髪の一種。未婚の女性が結う。江戸前期,男髷を基礎として案出され,
語源は定説はないが,東海道島田宿の遊女が結いはじめたのに由来するという。
初期の髷は大島田(おおしまだ)といわれ髷が太く素朴に結われているが,
のち技巧が加えられ,根を高く髷を厚く結う高島田,根を低くし髷の中央
をくぼませるつぶし島田,投げ島田などが親しまれている。
このほか,江戸中期,後期を含めてその名称だけで30種類近くある。
一般に髷の根が高い結い方を品格ありとして武家階級の女性に結われ,
根の低い髷は粋筋に好まれた。
現代の花嫁が用いる文金高島田は,武家風の流れを耀むものである。
島田髷は古代の埴輪人物像にもみられ,結髪の原点ともいえる。
266山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/06/22 23:10
>>265
わざわざすみません。
267歴史を教えて:03/06/23 20:27
慶安御触書について詳しい説明ありがとうございました。
268日本@名無史さん:03/06/25 08:45
あのー、、、日本史関係の質問なのかさえ分からないのですが、
取りあえず質問させてください。
第2次世界大戦中の刑事犯は刑務所で何をしていたのでしょうか。
彼らは徴兵は免れるわけですよね。結果的にラッキー!という人もいたはずですが、
それを狙って悪事をした人はいないのでしょうか。
269日本@名無史さん:03/06/25 08:56
>>268
刑務所内勤労動員。炭鉱労働は1930年代に廃止されたそうだが、
戦争末期は炭鉱や農作業もありかも。
戦争中は、犯罪や自殺率が下がるそうです。
誰にでも「生きる意味」「生きぬく意欲」が強まるそうです。
おまけをつけときます。
>徴兵忌避 (ちょうへいきひ)
国民の必任義務とされた兵役を免れるための合法・非合法の行為。絶対的
平和主義などの信条にもとづく良心的兵役拒否と,その他の動機にもとづく
徴兵忌避とがあった。前者は日露戦争以来,少数であったが一部のキリスト
教徒の間に出現し,徴兵を拒否して懲役に服する道を選んだ。
合法的徴兵忌避は,初期の徴兵令が戸主とその後継者,代人料を払った者,
外国在住者などを免役としたため,名目だけの養子縁組,代人料支払,
外国渡航などの方法が行われた。
また北海道,沖縄県は日清戦争(1894‐95)後まで徴兵令が施行されなかった
ので本籍地をこれらの地方に移し,さらに朝鮮植民地化(1910)後数年は
朝鮮移住者に対する徴兵令違反の裁判権がなかったことを利用するなどのことも行われた。
兵役義務を事実上短期間で終わらせるための特権的制度,中等学校以上
の卒業生に対する1年志願兵=幹部候補生制,師範学校卒業生に対する
短期現役兵制(6週間現役兵,1年現役兵)も利用された。
非合法の徴兵忌避で多かったのは徴兵検査を受けずに逃亡し所在不明と
なることであったが,約18年間発見されずに逃亡しつづけなければ,
刑事罰と優先的徴兵という二重の罰を科せられた。徴兵検査に合格しな
いための詐病・自傷も多かった。兵役法では徴兵忌避に3年以下の懲役が
科せられた。平時には徴兵検査合格者中から抽選で徴集されたので,
全国各地でくじ逃れの神仏が信仰を集めた。 
270日本@名無史さん:03/06/25 08:59
足利直冬の晩年はどうなったのでしょう。
また何歳の時に直義に養子に行ったのですか?
271日本@名無史さん:03/06/25 09:23
晩年は公式には記録がないですね。検索すれば、伝説は出てくるかも。
何歳に養子かは検索してみてください。「足利直冬  養子」

足利直冬
南北朝時代の武将。生没年不詳。越前局と呼ばれる女性を母とする足利
尊氏の庶子であるが,父尊氏,その嫡子義椿とは生涯を通じてほぼ敵対
関係に終始した。はじめ鎌倉東勝寺の喝食(かつしき)であったが叔父
直義の手によって還俗,その養子となり,1349年(正平4‖貞和5)長門探題
として下向。翌年直義の失脚後も反尊氏・高師直の兵を九州に広げ,51年
の直義の勝利後鎮西探題に任ぜられた。翌年直義が敗死後は宮方,武家方
とならぶ佐殿(すけどの)方(直冬は左兵衛佐)として九州・中国地方に勢力を
もったがしだいに非勢となり,旧直義党の石塔頼房らを頼って南朝に下った。
55年1月,これも旧直義党の桃井直常らの北国軍と呼応して京都を占領したが,
わずか2ヵ月しか保つことができず再び西下し,中国地方で勢力の回復
をはかったが果たせず,66年12月,安芸の吉川氏に備後,備中等の所領
を勲功賞として与えた文書を最後に史上その消息を断った。
法名玉渓道昭,慈恩寺殿と号す。 
272日本@名無史さん:03/06/25 12:38
(続き)
>尊氏が実子であることを認めず、鎌倉幕府時代は東勝寺の渇食となる。
>尊氏が将軍となった折りに上洛するが、尊氏が会わず、直義が養子として
>「直冬」と名乗らせた。
ってのがあった。

尊氏は、1338年に北朝より征夷大将軍に任命されているから、
直冬は生まれ年不明だが、1327年前後と予測されるので、
数えで12歳で養子となるのかな?
273日本@名無史さん:03/06/25 12:45
>>271>>272
有難うございます。大変参考になりました。
274日本@名無史さん:03/06/25 17:10
>>269
ありがとうございました。徴兵制度あるところ必ず徴兵逃れがあるのですね。
275日本@名無史さん:03/06/26 10:00
関係ないけど、ニューギニアかどっかで、治安維持法に反する言動を取った
一兵士のために、わざわざ内地から特高が出向き、逮捕してます。戦後釈放。
276日本@名無史さん:03/06/26 23:34
五大厚友ってどのくらい有名ですか?
織田信長を100して相対値でお願いします?
277日本@名無史さん:03/06/26 23:56
10
278日本@名無史さん:03/06/27 00:32
>>276
五代友厚だろ。
間違えんなよ。
279日本@名無史さん:03/06/27 01:46
古谷一行主演のドラマがあったな。
その当時で20、今なら1か?
しかし相対値って、人それぞれで意味ねえ感じが。
街に出て、アンケートでも取るのが正確かと。
280日本@名無史さん:03/06/28 03:16
お伺いします。
大名などの高貴な方の祖母のことを、家臣は何と呼んだのでしょうか?
281日本@名無史さん:03/06/28 03:42
母親だろうが祖母だろうが、個人名。
たとえば桂昌院とか。
282日本@名無史さん:03/06/28 10:07
>>281
早速お答えいただきありがとうございます。
あ〜、それなのに私の質問の仕方が間違っておりました。

私のお尋ねしたかったのは、例えば、「この御方は藩主ナニナニ様の(祖母)・
桂昌院様でござる」といった場合のカッコの中に当てはまる言葉だったのです。
「祖母」ではちょっと失礼な気がするのですが、「御祖母様(おばあさま)」
しか思いつきません。他の言い方はないのでしょうか?
283日本@名無史さん:03/06/28 11:09
>>282
江戸時代に主君のことを「藩主」などとは言いません。
また直接「祖母」にあたる関係を示すことばは使いません。
284282:03/06/28 12:57
>>283
そうだったんですか。ありがとうございました!
285名無し:03/06/28 13:58
縄文人と弥生人の平均寿命に関しての質問なんですけど、縄文人は30歳で弥生人
は40歳で正しいのでしょうか?
また、どうして縄文人は30歳で弥生人は40歳なんですか?
教えてください。
286日本@名無史さん:03/06/28 17:48
栄養と食物獲得の安定度の差でしょう。
はっきりとはわかってなくて、概算のようですが、縄文人の骨は、
木の年輪のように、成長のない季節があって、骨輪があるそうです。
287日本@名無史さん:03/06/30 13:28
本当に初歩的な質問で申し訳ないんですが、「殺生関白」で有名な豊臣秀次に関してです。

秀次は「聚楽第」を住居としていたのでしょうか?
それとも聚楽第は飽くまでも豊臣政権の政庁だったのでしょうか?

もし住居としていたのだとしたら、寝所としていたのは本丸なのでしょうか?

ご存知の方いらっしゃいましたら、何卒ご教授ください。
よろしくお願い致します。
288日本@名無史さん:03/06/30 13:44
>>287
小和田哲男『豊臣秀次―「殺生関白」の悲劇』PHP文庫 が秀次について
詳しいよ
文庫本だから読みやすいし、一読してごらんよ。
289日本@名無史さん:03/06/30 14:38
前から気になってたことで、勘合貿易について何ですけど
相手が倭寇の場合は勘合をくっつけようとしてる間に
やられると思うんですけど。
その辺はどうなんでしょうか?
290日本@名無史さん:03/06/30 15:33
>>289
寧波と北京で確認してから交易(朝貢)します。海岸で行わないので平気です。

遣明船が勘合を所持して入明すると,まず寧波(ニンポー)の浙江市舶司,
ついで北京の礼部で明側の底簿(台帳)と照合検査され,その後は礼部に没収された。
291日本@名無史さん:03/06/30 16:37
こちらに書き込むべきか迷ったのですが、物知りさんが多いかと思い
書き込みさせて頂きます。
スレ違いでありましたら、ご指摘くださいませ。

「関のお万」の詳しい内容、出典、等、知っている方がいらっしゃいましたら
ご教授ください。宜しくお願いいたします。
292日本@名無史さん:03/06/30 21:57
>>291
徳川の側室のお万?
293291:03/06/30 22:03
女性の仇討ちのお話しらしいです。
仇討ちで検索しても出てくるのは、曽我兄弟ばかりで・・。
確か、雪の坂道を何日も剣術の稽古に通った、ような内容だったと思います。
もしかして、創作でしょうか(汗)
294日本@名無史さん:03/06/30 23:41
>>293  これかな?
関宿の昔話 2 ■関の小万
 鈴鹿馬子唄にも謡われる関の小万は、女の身で父の仇討ちをした仇討烈女と
して名高い。小万の父は、九州久留米有馬氏の家来で、剣道指南役牧藤左衛門と
言ったが、遺恨により同輩の小林軍太夫に殺された。身重の妻は夫の仇を討つ
ため旅に出たが、鈴鹿峠を越え、関宿についた頃には旅の疲れが重なって、
地蔵院前の旅籠山田屋の前まで来たときには行き倒れ同様の有様であった。
山田屋の主人も女将も親切な人たちであったので、この女を引き取って手厚く
看病し、女はそこで女の子を産んだ。これが小万である。女はまもなく、子供
の将来を宿の主人山田屋吉右衛門に託して死んだ。
 小万は成長して養父母から両親のことを聞き、女の身ながら亡き母の志を
継いで亡父の仇討ちをする決心 をする。山田屋の主人は、亀山藩家老加毛寛斎
に頼んで武術の修行に励むようにした。
 天明三年(1783)八月、運良く仇と巡り会うことができた小万は、馬子姿に
変装して亀山城大手前の辻で仇のくるのを待ち受け、見事本懐を遂げることが
できたのであった。これにより、関の小万の名前は一躍高まったが、その後も
山田屋にとどまって養父母に仕え、享和三年(1803)正月十六日、三十六歳で
死んだ。墓は福蔵寺にある。
 関の小万はこのほかに、近松門左衛門作「丹波与作待夜の小室節」に出てくる
遊女小万が有名である。しかし、これは近松が書いたのが宝永四年であるから、
仇討ちの小万より百年ほど前のことである。
http://www.town.seki.mie.jp/machinami/mukashi/
ここに聞けば、史実かどうかや、詳しい資料を教えてくれると思います。
関町役場
〒519-1192 関町木崎町919-1 TEL 0595-96-1212 FAX 0595-96-2414  
http://www.town.seki.mie.jp/index.html
新田次郎の「六合目の仇討」(新潮文庫)と言う短編集のうちのひとつに、
「関のお万」というのが入ってるようです。史実か小説かはわかりません。

295291:03/07/01 01:51
>294
有り難う御座います!!
やっと解った・・・。お手数おかけ致しました!
296日本@名無史さん:03/07/01 13:51
「女   仇討ち」で、検索したら釣れましたw。
本は、国会図書館ホームページからNDL-OPAC検索。
297日本@名無史さん:03/07/01 14:55
西南戦争や戊辰戦争の錦絵(?)が沢山載っている本を紹介していただきたのですが、宜しくお願いします。
298日本@名無史さん:03/07/01 20:45
>>297
適当に載せますので、図書館などで調べて下さい。いきなり買わないほうがいいよ。

・西郷南洲翁と十年の役に関する図書・文書・錦絵目録 / 鹿児島県立図書館, 昭和2
・西南の役五十三景 / 北斗南舟. -- 北斗南舟, 1989.10
・錦絵・西南の役. -- 熊本市観光協会, 1988.1
・錦絵日本帝国史. 第1 / 佐藤求太. -- 〔 〕, 〔大正--〕
・錦絵幕末明治の歴史. 1〜12 / 小西四郎. -- 講談社, 1977
・錦絵幕末明治の歴史 〔付録〕. -- 〔講談社〕, 〔1977-1978〕
・明治の錦絵新聞 / 大阪城天守閣特別事業委員会, 1980.3. -- (南木コレクションシリーズ ; 6)

西南戦争は多いが、戊辰はあまりなさそうだな。錦絵どころじゃなかったかな?
299ピース:03/07/01 21:47


9 :日本@名無史さん :03/05/05 18:21
源義経=チンギスハーン伝説があるのに、
>織田信長=ヌルハチ伝説がないのはなぜですか?

凄くどーでもいい話だけど信長はドジな奴の事を大ぬる山と呼んだそうだ


300日本@名無史さん:03/07/01 22:09
太平洋戦争末期の首脳陣について質問します。

広田・マリク会談、近衛特使など、ソ連に和平仲介工作をしてますが
なんでソ連に頼んだんですか?
むざむざ反故にされて、、、

こんなアホなことしてなかったら、原爆投下もソ連参戦もシベリア抑留も
北方領土問題もなかったかと思うと、いてもたってもいられません。
301日本@名無史さん:03/07/01 22:52
>>300
日ソ不可侵条約があったからじゃないのかえ
まあ、ソ連ごとき相手に結んだ条約を信用して
工作を頼む方も困った香具師らだなあとは思うが。

誰か後フォローよろ
302日本@名無史さん:03/07/02 07:22
>>300
1、開戦前から講和の仲介はソ連かローマ法王と考えていた。この安心感で
昭和天皇は、御前会議で英米強調派から開戦派へ変身したといわれている。

2、ソ連がヤルタ密約で対日参戦をアメリカから要請を受け合意してたのを知
らなかった。
天皇・内閣・外務省は、なぜかソ連信頼派が多かった。
松岡の不可侵条約締結のインパクトが幻を生んでいたのではないかと思う。
一部に、ソ連対日参戦可能性ありとの情報も入ったらしいが最上部まで届かな
かったらしい。
大国で、頼める国が他になかったのも大きい理由のひとつ。法王は非現実的だし、
スイスなどではちょっと力不足。それに、満州からすぐ行けるのも大きい。

3、ソ連も、日本の提案は具体的でないとか、近衛特使の使命が不明確とか
時間稼ぎをしていて、日本に気を持たせていた。

4、軍部・政策決定上層部の、情報不足が致命傷。しっかり、諜報して分析
していれば、ソ連はアメリカ側についてるとわかったはず。
どうも、当時の軍や上層部は思い込みが激しい。ドイツ勝利の確信とか(以下略。

5、ソ連への仲介工作がなくとも、原爆・ソ連参戦・千島占拠はあったと思います。
対日参戦と見返りとしての千島確保のヤルタ密約は45年2月、和平仲介交渉は45年
の6〜7月。
シベリア抑留は、関東軍参謀が助かるために抑留を内諾してたとかしてないとか
言われててわかりませんが。
303日本@名無史さん:03/07/02 10:32
(追加)
推測ですが、満州北部権益割譲や樺太南部割譲などの秘密取引材料があったのかも
知れません。
304日本@名無史さん:03/07/02 10:43
>>300
上のカキコに付け足しで

和平交渉時点では
太平洋戦争に参加してないソ連とするとアジアで米などが東アジアで主導権を握るのは好まないから
均衡策から日本のことでアメリカをけん制するんじゃないか、っていう甘い見通しがあった
305日本@名無史さん:03/07/02 11:05
(再追加)
ソ連が講和斡旋してくれた場合の日本の手土産は、以下のとおり。
・南樺太返還
・漁業権解消
・津軽海峡開放
・北部満州諸鉄道譲渡
・内蒙におけるソ連の勢力範囲
・旅順と大連の租借
・北千島割譲
・満州国中立化(6月に追加)
(朝鮮は留保と満州帝国は独立維持)

1945年5月14日の最高戦争指導会議にて。

関東軍特別演習など、ずっと敵視政策をしてきたソ連に頼るという観点が
甘えの構造を感じさせる。
306日本@名無史さん:03/07/02 13:18
>>298
有難う御座います。参考にさせて頂きます。
307日本@名無史さん:03/07/02 15:00
>>301 >>302 >>303 >>304 >>305
ありがとうです。
勉強になりました。
308日本@名無史さん:03/07/05 01:26
いま時代小説を書いているんですが、町人とも言いにくいような身分の人の
妻に対する呼称で悩んでいます。
武士の妻の呼称は身分によってわかれていたようですが、たとえば浪人の妻は
どうなるんでしょうか?町人とおなじ「おかみさん」はなんか馴染まない気が
しますが、でも「御新造」は御家人の場合だからそれもおかしいような気がするし。
あと医者や手習師匠の妻も。
武士でなければ全部「おかみさん」なんでしょうか。

309日本@名無史さん:03/07/05 11:05
>>308
「新造」
310日本@名無史さん:03/07/05 13:08
>>308
江戸時代の武家や町家では妻女を御新造(ごしんぞう)とよぶことがあり,
またときには結婚前の少女を新造といった。
311日本@名無史さん:03/07/05 19:56
なるほど。町家でも「おかみさん」じゃちょっと合わないなって感じの人の場合は
「ご新造」を使っていいんですね。ありがとうございました。
312日本@名無史さん:03/07/06 14:37
agetokouka
313日本@名無史さん:03/07/06 18:38
この板初心者のスレッド質問なんですが、
「歴史人物や事件に電波な突込みをするスレ」みたいなのはないですか?

例↓

何故いま海国兵談

江戸蘭学者ぐるーぷの林子平氏が最近、
ゆーらしあの民が侵略戦争をたくらんでいるかのような
差別、偏見の塊というべき主張をしている。
このようなことを主張して平和を愛する諸外国の民を刺激するようなことがあれば
それはすなわち我が日本が戦争を引き起こそうとしているということなのである。
このような論調の後ろに非常にきな臭い企みが隠れているといわざるを得ない。
あちこちから軍草鞋の音が聞こえてくるのは私だけだろうか。
314日本@名無史さん:03/07/06 20:34
WWU関連のスレはどこでしょうか?
315日本@名無史さん:03/07/06 22:07
>>313-314
スレッド一覧を開き、Windowsの場合はCTRL+F、Macの場合はコマンド+Fで
ブラウザ検索をしてください。

>>313
ひそかにあるかもしれんが、わかりません。名前のついたスレにあるかも。
なければ、作ってみてもいいかも。面白いかもね。

>>314
日中戦争スレはあります。あと、当時の人物スレが幾つかあります。
戦争関係は戦争責任とか、侵略だ正当防衛だとかで荒れやすいです。
へたすると数日でスレが終わることもあります。
世界史板のほうが荒れにくいです。世界大戦全般なら世界史板のほうがよいかも?
316日本@名無史さん:03/07/06 22:09
>>315
>世界史板のほうが荒れにくいです。世界大戦全般なら世界史板のほうがよいかも?

あっちでも、荒れる
317日本@名無史さん:03/07/06 22:16
そうなんだよね。初心者はむきになってレスするけど、ある程度なれた人は、
また始まったかって感じで無視しちゃうんだよね。
その結果、恐怖の「万年繰り返し地獄」ですなw。
どうせなら政治思想板がいいのかな?
318日本@名無史さん:03/07/07 06:00
これに答えてあげたいのですが
ttp://www.japan-guide.com/forum/quereadisplay.html?0+2846

「第二次大戦の日本海軍の制服は何色だったか教えていただけませんか?
カーキグリーンか青だろうかと思うのですが
リサーチで使いますので」
319日本@名無史さん:03/07/07 08:54
>>318
1914年(大正3)以来,一種は紺の軍装,二種は白の夏服の一濫を指している。
日中戦争勃発の翌年に儀礼服は戦時中着ないことにし,サーベルの代りに
黒造り陣太刀ごしらえの軍刀を制定し,次に戦闘帽型で黒と白2種類の艦内帽を定めた。

41年太平洋戦争へ突入し,戦場が太平洋からインド洋へかけて広がると,
半袖半ズボンの防暑服は,士官用の純白,官給品の淡茶色と濃い緑茶褐色が
併用される。
42年に下士官・兵官職区別章のシンボルマークをやめ,楯形の台地に兵科
は小さな桜花の色分けで示し,士官の識別線は襟章の細い線だけに残った。
戦局は航空戦で左右され搭乗員養成が急務となり,大勢の少年が予科練を
志願し,彼らの誇りを満たすためいわゆる七つボタンの予科練服が生まれた。
南方海域では防暑服が快適だが,海戦時に露出した手足は火傷が重くなる。
戦訓により長袖長ズボンの服,士官は夏衣,兵は作業服に脚絆をつけるが,
白色なので敵機の機銃掃射の目標になりやすく戦闘に不利であった。
43年に海軍は,戦地勤務でつねに着ることができる陸戦隊服とよく似た
略装を制定し,艦内帽も同じ褐青色にして略帽と称する。
戦局が極度に悪化し,前線が本土に近づいた44年秋,略装を正式に第三種軍装
とし,すべての海軍服の代りに着ることになる。それは戦時下服装の二重生活
を精算し,艦船を喪失した海軍の総陸戦隊化の覚悟を表明したようにも受けとれる。
320日本@名無史さん:03/07/07 18:56
すいません質問です
江戸城無血開城ってよくいいますよね
なんで今は江戸城ってないんですか?友達は空襲で焼けたっていってるけど
何しろ馬鹿なので当てになりません。
学級新聞のネタに使おうと思ってるので教えて下し
321日本@名無史さん:03/07/07 20:11
>>320
天守閣は1657年以後なくなってます。火災かな。
明治維新後,新政府は天皇親政を標榜して,1868年(明治1)閏4月二条城の本丸
に皇宮を,二丸に太政官を造営する計画を発表したが,7月に至り江戸を東京と
する詔を発布し,この計画は消滅した。
ついで天皇は同年9月20日京都を発して10月13日東京に到着,江戸城西丸御殿
(当時本丸殿舎は焼失)に入り,江戸城を東京城と改称し,12月にはその本丸
に宮殿を造営すべき命を下した。しかし天皇は遷都反対論をなだめるためいったん
京都に還幸し,翌年3月再び東幸して東京城を皇城と改称し,なしくずしに
遷都を既成事実化した。こうして72年3月には,本丸以下の旧江戸城内郭を
皇居と定めることを公告したが,翌年5月旧西丸宮殿が罹災全焼したため,
天皇・皇后は赤坂離宮に移り,以後15年余にわたってこれを仮皇居とした。
一方,皇城の再建は西南戦争その他の事情によって遅延したが,88年10月に
至り旧西丸地区に宮殿が完成し,以後宮城と称することが告示され,翌年1月
天皇・皇后は赤坂仮皇居より移った。いわゆる明治宮殿である。宮殿は銅瓦葺き
入母屋造の和風木造建築36棟より成り,公式行事に使用される表宮殿(正殿,豊明殿,
鳳凰の間など)と,天皇・皇后の常居する奥宮殿に分かれ,総坪数1万2600余坪に
のぼった。また旧時庭園であった吹上地区には,賢所・皇霊殿・神殿の宮中三殿が新建された。

[昭和宮殿]  
しかしこの明治宮殿は,1945年5月,米軍機の空襲によって焼失し,天皇・皇后は
吹上御苑内に築造されていた,防空地下室をもつ御文庫(おぶんこ)に仮住いする
ことになった。ついで戦後の48年7月1日を期して宮城の称が廃止され,以後は
皇居と通称されるようになった。そして61年に至り,もとの御文庫の跡に天皇・
皇后の住居として吹上御所を建造し,さらに68年10月明治宮殿の跡に新宮殿が
完成し,翌年4月から使用が開始された。新宮殿は,伝統的な和風宮殿の外観をもつ,
鉄骨鉄筋造の地上2階,地下1階,延べ床面積6900余坪の建物である。
322直リン:03/07/07 20:11
323314:03/07/08 12:52
>>315-316 回答ありがとう御座います。
324日本@名無史さん:03/07/10 03:17
江戸時代のお城に履物を置く場所ってあるんでしょうか?
何百人の武士が毎日仕事しに来るから結構規模が大きそうですが
あとロッカールームみたいな私物置く場所とかあるんでしょうか?
325日本@名無史さん:03/07/10 10:06
>>324
江戸時代の商家には下駄箱があったようです。
お城はどうなんですかね。下足番がいたんじゃないでしょうか。
傘などの私物も預かりどころがあったと思います。
小さな手荷物は持ち込んだのでしょう。
326日本@名無史さん:03/07/10 13:25
すみません、日本史の初心者ですが、質問させていただきます。

明治時代に入ると、日本の人口が急激に増加します。
その人口増加の直接的な要因は何だったのでしょうか?

農業技術について何か特別な革新でもあったのでしょうか?
327日本@名無史さん:03/07/10 15:34
>>326
0、幕末の開港により、輸出品(生糸・茶など)の商品作物生産がより活性化した。
1、明治になり人間の移動の自由により、都市部への人口集中が江戸期以上に高まる。
2、農村では、地租改正等により、江戸期の商品作物栽培への意欲がさらに高まる。
3、西洋医学の拡大により、死亡率が下がり始める。
4、牛乳・肉食などへの変化により栄養補給が高まり死亡率がへり、出生率が増える。
5、産業の発展とのちの産業革命により、農村の人口を都市が吸収する能力が増え、
農村部で間引きなどせずに、余剰家族を都市へ出せた。
6、政府も富国強兵の一環として、人口増加を求めた。(明治天皇が牛乳・肉食のPRをした)
7、以上が複合的にからみ、出生率が死亡率を上回り、人口増加が開始した。
その後は、資本主義の発展にからみ人口増加が継続した。

などではないでしょうか。
余談ですが、江戸時代の前半は人口増加してるようです。
328326:03/07/10 16:01
>>327
丁寧なご返事ありがとうございます。

都市部の発展という観点は、すっかり見落としていました。
勉強になりました。
329日本@名無史さん:03/07/10 19:21
>>325
なるほど江戸時代にも下駄箱とかあったんですね。
ありがとうございました
330日本@名無史さん:03/07/10 23:50
ageれやヽ(^o^)丿
331日本@名無史さん:03/07/11 00:20
坂野潤治さんの研究の特色ってなんでしょう。
332日本@名無史さん:03/07/11 00:34
近衛文麿が生きていて裁判を受けていたら
木戸幸一は死刑になっていましたか?

当然近衛はその重要性から言って死刑だろうし
近衛と宮中の関係が明るみになって木戸に不利になったのでは?
333日本@名無史さん:03/07/11 00:40
>>331
「日本にはなぜ社会民主主義が育たないのか」が研究テーマで、
「社会民主主義は明治維新以来の日本の『伝統』」と考えていて、
「自民党左派と民主党が合同せよ」と希望してるようです。
http://www.rengo-soken.or.jp/dio/no156/shohyo.htm
334日本@名無史さん:03/07/11 00:46
>333
有難うございます!
今から早速読んできます
335日本@名無史さん:03/07/11 09:00
>>332
イフの話なので、予測しかできませんが、
死刑にはならならかったんじゃないかな?

連合軍側は、木戸が「革新」宮廷派で、東条首相を成立させたとは知ってたでしょう。
それで、終身禁固刑になったんじゃないかな。
裏で動いてたが、近衛のように表立って国政を左右はしてないからね。
336日本@名無史さん:03/07/11 11:31
はじめて質問させて頂きます。
(よろず〜のスレに書き込んでしまいましたが
 こちらが正しかったんですね、すみませんでした)
松平忠輝の配流後についていろいろ検索してみたんですが
いまひとつはっきりわかりません。
そもそも配流、幽閉というのはその場所から一歩も出られない
監禁のような状態なのでしょうか?
くだらない質問ですみませんがお教えいただければ嬉しいです。
337日本@名無史さん:03/07/11 21:46
配流は死罪に次ぐ重い刑罰。
流人は島において牢名主に類した流人頭,および村役人の統制に服し,島民の
漁業・農業の手伝いをして苦しい生活を送ったが,技能をもつ者や,本土から金品
が送られてくる者は比較的余裕があり,事実上妻帯して家庭をもつこともできた。
武士の子や家来は願えば親や主君と同船,島で同居できる例もあった。島に定着し,
赦免されても帰島を願う者さえあり,その願いも許可されている。
重刑という建前は崩れ,刑としての不平等が顕著になった。

松平氏は、伊勢朝熊(あさま)へ配流ですね。
不自由はあったでしょうが、それなりの生活はできたのではないでしょうか。
幽閉のほうが、狭い敷地に蟄居と言う感じですね。
338日本@名無史さん:03/07/11 22:27
>>335
一票差で死刑を免れたんだぜ
かなり微妙じゃないの?

11人中5人は死刑を支持
二人は迷った挙句終身刑だぜ
339日本@名無史さん:03/07/11 22:55
日本国内で、いわゆる「奴隷」(奴婢とか)が存在していたのはいつ頃までなのでしょうか?
小作農などは、時代や地域によって、その扱いが酷い場合があったとされていますが、これは「奴隷」とは別物と考えて良いのでしょうか?
340日本@名無史さん:03/07/11 23:21
>>339
奴婢身分も,律令制から荘園制へという時代・社会構造の大きい転換の
なかで,10世紀初めの延喜年間(901‐923)にいたり全面的に廃止され,
日本の賤民史上に特筆される画期をなした。
これ以後,律令制にもとづく身分制・賤民制の仕組みは急速にくずれて
いった。
鎌倉幕府法にも奴婢の規定は存在し,人身売買も行われたが,中世的な
隷属民の体系の中で奴婢は副次的な意義しかもたなくなった。

小作農とは、少し違うと思います。
341日本@名無史さん:03/07/12 02:35
>>336
忠輝は軟禁状態で、屋敷から一歩も出られないどころか、
訪問者にも滅多に会えません。
いちいち幕府にお伺いをたてています。
342日本@名無史さん:03/07/12 08:39
すいません、ブックガイドになっているスレッドはないでしょうか。
一応目を凝らしてスレタイ読んでいったのですが
見つけられませんでした。

できれば、文明論的なアプローチの含まれた
日本史の本を読みたいのです。
ノルベルト・エリアスの『文明化の過程』(とくに下巻)(法政大学出版会)
の日本史版もようなものや
エゴン・フリーデル『近代文化史』(みすず書房)
の日本史版とか
フェルナン・ブローデル『文明の文法』の日本の項をもっと
詳細にしたような感じのもの
というイメージなのですが。
よろしくお願いします。
343日本@名無史さん:03/07/12 10:43
>>342
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1045662544/l50
が、「日本史の良書2」というスレです。
反応があるかどうかは保証できませんが…。

講談社「日本の歴史・25」<日本はどこへ行くのか>byハルトゥーニアン、
T・フジタニ、姜、岩崎菜緒子、比屋根照夫、t・モーリス・スズキ、
c・グラックはどうかな?
物足りなければ、巻末の参考文献で探っていくってのは?
344日本@名無史さん:03/07/12 11:15
明治新政府が出来た時の県庁の役職で、
(柏崎県庁ねんですが)
「横大層」とかいうのってご存知ないですか?
どこに聞けばいいのかもわからなくて・・・・
345日本@名無史さん:03/07/12 11:17
>344
県史でもよめば?
346山崎 渉:03/07/12 11:18

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
347日本@名無史さん:03/07/12 14:14
保全age
348日本@名無史さん:03/07/12 16:54
>>343
ありがとうございます。アンドお手数おかけしました。
ちゃんとスレッドありましたですね。失礼。

ご紹介の本から手始めに読んでいくことにします。
参考文献以外にも、共著者からも広がりそうですので
スタートとしてはいいと思いました。

素早いレスもありがとうございます。
349339:03/07/12 19:35
>>340
どうもありがとうございました。
350日本@名無史さん:03/07/12 23:16
小林多喜二が拷問死したのは多喜二が取調べ中に特高を挑発しまくったからであり、
半分は自業自得だと聞いたことがありますが、本当ですか?
最初はネタだと思ったのですが、戦後日本の共産党幹部たちは
非転向のために獄中にいたにも関わらず、苛烈な拷問をされたわけではなさそうですし、
なんだかわからなくなってきた次第です。
私は修正主義者に脳髄侵されかかってるのでしょうか?
351日本@名無史さん:03/07/13 09:42
>>350
挑発ってのはどのような意味でしょうかねぇ。
「殴ってみろよ」「痛くねぇよ、オラ」「天皇死ねよ」とかでしょうか?
小林が拷問を受けたのは東京の築地署です。特高警察によってですね。
拷問の記録は残ってないはずです。作り話でしょう。
挑発されて、指を何本も逆に折られ、太ももには錐が刺されたのでしょうか。
もし、挑発があったら7時間拷問し虐殺して、自業自得なんでしょうか?
自業自得と言う言葉の前提には、特高が善で、一切逆らうのは悪という前提があります。

ポイントは、下部警察署で行われたということです。
仲間や上層部の情報を聞き出そうと功にあせった現場特高員の暴力虐殺と言う
ところではないでしょうか。
「蟹工船」など、作品内容はかなり挑発的ですがw。

3・15や4・16の共産党大弾圧総検挙では、きちんと裁判に送られてます。
小林は、裁判もされず警察署でリンチされてしまったわけです。
小林も法廷に回されれば、リンチは受けなかったでしょう。

関東大震災時に大杉栄を殺した甘粕憲兵と同じ心理状況が推測されます。
352325:03/07/14 03:22
また聞きたいんですが城で働いている武士は
どこで食事をしているのでしょうか?
城下町で食べているのか、弁当を持参しているのか
それとも城の中に食堂があってそこでたべているのでしょうか
353日本@名無史さん:03/07/14 04:36
>>352
基本的に弁当持参。
一応食事は出るが、食べられるようなものではないため、ほぼ全員が持参する。
354(;´Д`):03/07/14 04:37
サンプルムービーで逝っとけ
http://www.k-514.com/sample/sample.html
355日本@名無史さん:03/07/14 08:24
>弁当箱
弁当箱は信長の時代にできたそうです。武士を城下町に集めたのと関係するのかも。

神沢杜口(かんざわとこう)の《翁草(おきなぐさ)》(1791)に,弁当箱は信長の
安土時代にできたもので,〈小さき内に諸道具をさまると云,偽ならんとて信
ぜぬ者も有しとぞ〉としている。諸道具の範囲がはっきりしないが,いろいろ
の器を納めたとすれば,食器や酒器までを組み込んだ提重(さげじゆう)の小型
のようなものだったかもしれない。だいたい弁当という語が〈割りあてる〉の
意であるから,古く野外の食事や贈物をする際に器物や食物を納めて運んだ行器
(ほかい)などに由来すると思われ,《多聞院日記》天正19年(1591)10月26日条など
にそうした用例が見られる。
個人用の弁当箱は,破子(破籠)(わりご)や曲物(まげもの)の面桶(めんつう)など
から変化したもので,行器などが下僕に運ばせるものであったのに対し,みずから
携帯するようになり,〈独弁(どくべん)〉と呼ばれた。
356日本@名無史さん:03/07/14 10:06
336です。
337さん、341さん、配流についての質問にお答え頂き、
ありがとうございました。
「松平忠輝と家臣団」という本がなかなか見つからないのですが
他の本も探して勉強します。
ありがとうございました!
357日本@名無史さん:03/07/14 10:39
>>356
古本屋にあったYO。ネットで買えるよ。
http://www.kosho.or.jp/servlet/bookselect.Kihon_result

松平忠輝と家臣団・中嶋次太郎・名著出版・ 常陸野・1,800円
松平忠輝と家臣団・中嶋次二郎著、古本の店 ひまわり・4,000円
松平忠輝と家臣団 ・中嶋次太郎、名著出版、 岳陽堂書店・3,000円
松平忠輝と家臣団・中嶋次太郎著・勉強堂書店・2,500円
358日本@名無史さん:03/07/14 10:44
>>356-7
おや?入りにくいかな。
http://www.kosho.or.jp/servlet/bookselect.Kihon
http://www.kosho.or.jp/servlet/bookselect.Menu
http://www.kosho.or.jp/index.html
どれかは、入れるでしょ。
古本屋界では、安心なサイトです。
359日本@名無史さん:03/07/14 11:17
初めて質問します。
自由民権運動を支えた思想は初期から仏流(中江兆民など)と
英流(福沢諭吉など)と考えているのですが、激化事件の時など
それとは違った思想があったのでしょうか?
360325:03/07/14 12:58
>>353、355さんありがとうございます。
なるほど弁当持参していたんですか。
愛妻弁当持参の武士もいたんでしょうね
361日本@名無史さん:03/07/14 13:50
>>359
「激化諸事件の中にはロシアの虚無党(ナロードニキ)の運動への共感も
みられる」とも言われますが、個々の激化事件を見ますと、自由党急進派
中心のものから、自由党急進派と農民が合同したもの、農民に中心が移動
したものなどいろいろあると思います。

個人的には、ナロードニキの思想はあまり関係なく、江戸時代以来の
農民の生活安定要求や地租軽減などの数々の一揆の潜在力量と、自由党
急進派の思想がからんだものではないかと思われます。

福島事件は県議会議長(自由党)と農民が中心となった広い階層の運動で、秩父事件は
困民党中心の農民中心の運動ですが「板垣さんの世直し」を意識してます。
自由党への弾圧への対抗の側面、松方財政での生活苦への生活闘争の面、
農民の既存権保全運動の面などがいくつも絡まっているのではないかと思います。
362日本@名無史さん:03/07/14 13:53
>>359
福沢諭吉氏は民権運動派というより、政府に近い立場の気がしますので
一言貼っておきます。

彼は明治政府の開明性に過大な期待をかけ,実学教育を受けた士族による
産業化と政治への影響力の発展を楽観視した反面,
民権運動・民党の大衆的基礎や統治能力を正当に認識できなかった。

その結果,初期議会における寡頭制政府と民党との抗争激化に直面して,
彼の論評は,責任内閣論にもとづく原理的な論評より民党操作の戦術論
に傾き,日清戦争中の城内平和の提唱にいたった。

363日本@名無史さん:03/07/15 00:22
後北条って、どういう理由で「北条」という姓に変えたのですか?
もともと伊勢でしたよね。
364日本@名無史さん:03/07/15 00:34
鎌倉時代の北条氏についてですが、どうして将軍になれなかったのでしょうか?
権威不足と言われたりしますが、北条氏も、元をたどれば平氏(平高望)に
繋がりますよね?

よろしくお願いします。
365日本@名無史さん:03/07/15 01:19
日本史のテストが水曜日にあり
お恥かしながらまだ手をつけてません。
勝手な質問で申し訳ございませんが重要事項などがまとまっている
お薦めな暗記ブック見たいな物はありませんでしょうか?
ちなみに山川の教科書を使っております。

ご存知の方いらっしゃいましたら
アドバイス頂けますと幸いです。
366日本@名無史さん:03/07/15 01:32
がいしゅつだったらスミマセソ
苗字と名前の間に”の”が入る人と入らない人の違いって何ですか?
例 
 みなもと”の”よりとも(”の”が入る)
 おだ−のぶなが(”の”が入らない)
367日本@名無史さん:03/07/15 02:00
姓には入る 氏・苗字には入れない
ふじわらのかまたり、このえもとざね
みなもとのよりとも、あしかがたかうじ
たいらのきよもり、ほうじょうよしとき
たちばなのもろえ、くすのきまさしげ
368日本@名無史さん:03/07/15 02:00
>>366
「みなもとの」とか「たいらの」というのは、
氏の名前であって、家の名前である名字とは違う。
織田信長も、任官の時などには、「平信長(たいらののぶなが)」と名乗っている。
名字の「織田」は、越前国丹生郡織田荘にちなむのだそうだ。
369日本@名無史さん:03/07/15 02:01
370日本@名無史さん:03/07/15 02:02
>>368訂正

×「みなもとの」とか「たいらの」というのは
○「みなもと」とか「たいら」というのは
371日本@名無史さん:03/07/15 03:08
>>366
367は間違い368が正しい
もともと
氏=源、藤原など
姓=朝臣、宿禰など
苗字(名字)=徳川、織田など
本来は氏と姓をつなげてその間に「の」といれたもの
372日本@名無史さん:03/07/15 04:13
姓は 藤原朝臣 となるのではないか?
373日本@名無史さん:03/07/15 09:11
>>363
1524年(大永4)氏綱は江戸城に上杉朝興を攻めこれを河越城に追って武蔵に進出した。
この江戸城奪取前後に氏を伊勢から北条に改めている。
これは朝興の〈他国の凶徒〉論理に対抗して相武支配の正当性を主張するため
の改姓とみられる。
この〈北条〉は鎌倉幕府の執権北条氏によるものであるが,その系図的結びつけ
は現在まだ明らかでない。

支配正当性のためのようです。鎌倉近辺は、源氏よりもともとは北条氏のもの(開発領主)
と、考えられていたようですから。土着の正当性を出したかったのでしょう。
374日本@名無史さん:03/07/15 09:21
>>364
桓武平氏の庶流ですね。将軍になろうと思えばなれたでしょうが、
世評や正当性を考えると、将軍は摂関家や皇族の傀儡の方が、
政治をしやすかったようです。

跡継ぎを将軍にしようとしているとの噂は、当時は致命的な噂だったらしく、
それを言いがかりとされ有力者が何人も倒されています。

鎌倉御家人も、のちには西国や朝廷も、北条氏を関東の支配者として認知してますので、
将軍家となるメリットはさほどなくデメリットの方が大きかったと思われます。
藤原氏が天皇にならなかったようなものでしょう。
375日本@名無史さん:03/07/15 09:23
>>365
本屋で探しなさい。解説の載ってる年表(日本史要覧っぽいの)は?
376日本@名無史さん:03/07/15 11:07
>>372
藤原が氏、朝臣が姓。
西郷隆盛についていえば,氏姓は平朝臣(たいらのあそん),家名は西郷,
幼名は小吉,諱は隆盛,通称は吉之助,雅号は南洲。
377山崎 渉:03/07/15 11:32

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
378日本@名無史さん:03/07/15 11:44
あげ
379日本@名無史さん:03/07/15 11:48
>>376
西郷隆盛の諱は隆盛でなく隆永。
隆盛は明治になって戸籍登録のときの名前だから厳密には諱ではない。
380日本@名無史さん:03/07/15 13:53
>>379
厳密には、諱は「隆永のちに隆盛」。
この場合の隆盛は名だが、名を諱と称するのは漢代から行われている。
381日本@名無史さん:03/07/15 17:08
おまいら、もう少し丁寧に言葉を交わせw
知識はともかく、人間性を疑うぞ。
382日本@名無史さん:03/07/15 21:58
そうか。気づかなかった。スマン。
初心者がびびってしまうか…。
383366:03/07/15 23:24
>>367-380
レスサンクスコです。
ところで、氏、姓、苗字の違いって何ですか?氏姓制度は習ったんですが、よく判らなかったんです。
諱、雅号と言うのもよく判らないです。
バカでスマソ
384日本@名無史さん:03/07/15 23:42
わりと長くてこんがらがる説明になりそうなので、
一つずつ、百科事典か歴史事典で調べるほうが良いのでは。
それでもわからなかったら再度、もっと具体的に聞いたほうがいいと思います。
385日本@名無史さん:03/07/16 02:03
源朝臣徳川光圀なら
源が氏、朝臣が姓、苗字が徳川、諱が光圀、号が西山
386日本@名無史さん:03/07/16 03:00
>>380
>厳密には、諱は「隆永のちに隆盛」。
>この場合の隆盛は名だが、名を諱と称するのは漢代から行われている。
「厳密には」諱=名とはいえません。
ですから隆盛は諱ではありません。
たとえば三郎、拓哉は名ですが、諱ではありません。
387日本@名無史さん:03/07/16 11:26
三郎などの場合は、名乗りなどになるのでしょうか。
388日本@名無史さん:03/07/16 20:04
>諱
それを言ったら、もともとは死後に生前の名を呼ぶのが諱だよ。

中国や日本などで,生前の実名をいう。死後,実名を忌んで口にしない風習
より生じた。秦代に始まるとするのが郭沫若の説。
のち転じて生存中の名も忌むようになる。名を諱と称する例は漢代からあり,
日本でも貴人を敬うときに認められる。
だから諱は「隆永のちに隆盛」でも、別におかしくはない。
389???:03/07/16 20:05
390日本@名無史さん:03/07/16 20:09
>>387
名乗りは門地と祖先の自慢が第一だね。最後に名を名乗るのでは。
391日本@名無史さん:03/07/16 23:01
明が女真族の侵攻を受けて滅ぶ寸前、徳川幕府に対して援軍を要請したと聞いたのですが、
これは本当なのでしょうか?

明にしてみれば、秀吉に庭先に攻め込まれた記憶がまだ色濃く
残っているでしょうし、日本を味方と思う理由が分かりません。
そもそも、中国の王朝が外国に助けを求めるというのは、なんか違和感があるのですが…
392日本@名無史さん:03/07/16 23:31
>>391
明が滅びた後の、明の流れを汲む派の抵抗復活戦争ですね。
ですから、正式に中国王朝が助けを求めたとはいえないかと。
正式な明王朝はすでに滅びて、皇帝は殺されてましたから。
さらに、彼らは日本だけでなく、ローマ法王にまで援軍を求めてます。

中国,明朝滅亡ののち,その遺王たちは江南各地で清朝に対抗したが,
彼らが建てた政権を南明と総称する。
南明の抗清運動は各地の政権がそれぞれ正統を主張して対立し合い,
統一勢力を生み出せず,内部には諸臣の間に不和と党争がたえず,
新興の清軍の前に敗れ去った。ただこの間に周鶴芝や馮京第また苫氏一族
がしばしば日本に援軍を求め,桂王やその重臣にキリスト教徒が多かった
ことから,彼らの政権はローマにまで援助を求める使節を派遣するなど
注目すべき動きも存在した。
393391:03/07/16 23:44
>>392
なるほど、そういうことでしたか。どうもありがとうございました。
心境的には藁にもすがりたい感じだったんでしょうねえ…
394日本@名無史さん:03/07/17 00:47
板違いなのかもしれないのですが…
原爆投下から50年以上経った現在でも、原爆症に苦しむ人はいますよね?
395????s??s:03/07/17 00:53
がんばったあなたにご褒美サイト!
http://homepage3.nifty.com/coco-nut/
396日本@名無史さん:03/07/17 00:57
>>394
当然います。
397日本@名無史さん:03/07/17 01:35
ところでなんで皆さんは日本史を研究しようと思ったのですか?
動機は?
398日本@名無史さん:03/07/17 02:42
>>388
>だから諱は「隆永のちに隆盛」でも、別におかしくはない。
おかしいよ。
隆盛とは「諱」が無くなってからの名前だから。
だから「厳密に」と書いたのに。
399日本@名無史さん:03/07/17 05:11
う〜む、話がこんがらがってきた。
そもそもこういう風習はいつまであったのですか?

少なくとも今の名字と名前とは明らかに違うわけですけど。

あと、名字ってのは明治以後に本来「氏」を持っていたヒトはそれを使ってたのでしょうか?
(藤原って名字は今もあるし…)
400日本@名無史さん:03/07/17 05:32
中世武士の「みょうじ」は名字、
現代庶民の「みょうじ」は苗字が普通じゃないかな。
ttp://dictionary.goo.ne.jp/index.html?kind=jn&mode=0
ここで、「うじ」、「かばね」、「みょうじ」を調べてみたらどうでしょうか。
当の私も勘違いを知ったばかりで僭越かとは思いますが。

>>398さんは、
諱は生前に名を隠す風習があったときの物だから、
「諱」の考えが無くなった壬申戸籍以降では問う事が出来ない、ということでしょうか。

>>388さんは「諱」という語意から問うているのでしょうか。

素人ながら口を挟んでしまい、申し訳ありません。
401日本@名無史さん:03/07/17 08:26
>>398
ま、あんまりしつこいのも大人気ないんで、もういいんだが、一応。

壬申戸籍の制定時、名を一つ出すことになりましたが、通称を出した人と、
諱を出した人がいました。この意識が完全に日本人から薄れるのは、
昭和かもしれません。

1872年における壬申戸籍の制定によって日本人は
苗字(氏名,家名または適宜に案出した名であれ)を一つ,
名(諱,通称,幼名または適宜に案出した名であれ)を一つ
つけるよう定められた。
伊藤俊輔(家名と通称)こと越智宿衝博文(氏名,姓(かばね),諱)は,苗字
を伊藤,名を博文と登記したし,大隈八太郎(家名と通称)こと菅原朝臣重信は,
登記名を大隈重信と定めた。
こうして明治・大正時代の男性名には,諱系の名(大久保利通,西園寺公望,
乃木希典,等々)と,通称系の名(尾崎徳太郎(紅葉),森林太郎(宝外),
岩崎弥太郎,児玉源太郎,夏目金之助(漱石),堀切善兵衛,等々)と
二つの大潮流がみられた。
402日本@名無史さん:03/07/17 08:33
>>394
原爆病患者の病院を、毎年、首相あたりが訪れています。
毎年、広島・長崎の、被爆死亡者が慰霊帳に追加されています。
数百人以上の規模でないかな。年だってのもあるけど、一応、原爆病死亡者です。
胎児被爆は、遺伝が確認されています。
胎児被爆以外の2世3世は、現在の時点では遺伝は確認されてませんが、
胎児被爆以外の2世も、各都道府県で無料健康診断が受けられるようです。
403日本@名無史さん:03/07/17 15:22
>>401
正しい。
でも細かいけど
>宿衝
 ↓
「宿禰」が正しい
404日本@名無史さん:03/07/17 23:46
初めまして、高1の者です。
数日前期末テストがあったのですが、日本史はかなりハイレベル(大学入試レベルと言われましたが…)で、
殆どのものが赤点確実です。
しかも模範解答は配布せず、
・自分たちで改めて問題を解き、レポートを作成。
・そして答案返却日、レポートを見ながら自分の答案をチェック。
・チェック後にレポート提出。
という指示が出されました。
教科書使って調べろ、と言われそうですが、
その教師は教科書は使わず、全てかなり細かい所まで口頭で説明するので調べようがありません。
何日か図書館に通って調べてはいるのですが、もうお手上げ状態です。
そこで皆様にお聞きしようかと思ったのですが。
1問や2問とかではなく、何問にもなるのですが、よろしいですか?
405日本@名無史さん:03/07/18 03:41
いいよ。
406日本@名無史さん:03/07/18 07:19
代官手代の身分はなんですか?又、在地代官とは何ですか?
407日本@名無史さん:03/07/18 10:46
>>406
個人差があるようですが、幕臣採用もあったようです。

江戸幕府の郡代・代官の属僚。江戸初期の手代は〈てがわり〉と呼び,代官クラス
をいう。
江戸中期以降は農民,町人で地方(じかた)の事務の熟練者を縁故により採用した。
その場合,勘定所の許可を得て正式に雇われ,給料は郡代,代官の諸入用で賄われた。
書役より昇格したが,待遇には個人差があった。
1725年(享保10)以降の給与は20両五人扶持で,役所の事務を総括した元締手代
になると30両五人扶持が給された。
江戸詰,代官所詰で常駐した。代官とともに任地を移ることが多く,失職中の
元手代が再採用されることもあり,元締手代は功績により幕臣に登用されるこ
ともあった。

>在地代官
江戸時代初期の在地に力を持っていて任命された土着の代官かと思われます。
綱吉の時代に改革が行われ、多くが罷免され、中央から新代官が送り込まれてます。

初期の代官は70〜80名もしくはそれ以上に及び,徳川譜代,武田・今川・後北条
旧臣の地方巧者(じかたこうしや)を中心に任ぜられ,支配地に陣屋を設けて
周辺諸地域の民政が行われた。
408404:03/07/18 14:39
江戸時代、鎖国が完成する前後の歴史の問題です。

問 「南蛮貿易」と「キリスト教布教」の関係を記せ。
問 ポルトガル船来航禁止が出された1639年、
  この頃のポルトガルの対日本貿易は、
  17世紀初頭に比べかなり衰退していた。
  衰退の事情を記せ。(世界史板に聞いた方がいいでしょうか?)
問 1801年に「鎖国論」を出したのは誰か。
問 1631年の奉書船制度を説明せよ。
問 豊臣秀吉の朝鮮侵略後、この過程で明確となる非常時の華夷秩序の特徴を記せ。
409404続き:03/07/18 14:50
 
 次の文を読み、空欄に敵語をいれ後の問いに答えよ。

1630年代には将軍が対外的に「大君」と称し、
朝鮮、琉球の外交使節を江戸に迎え、
中国、オランダ船と□□で貿易を行う対外関係が成立したのである。

問 「将軍が対外的に「大君」と称し」とあるが、
(1)ある事件の後、朝鮮は将軍の呼称を「大君」に変えた。
  ある事件で何が発覚したか、簡潔に記せ。
(2)大君と変わるまでの将軍の呼称が
   幕府にとって不都合である理由を記せ。
問 中国、オランダと貿易を行う事により、以後貿易額は増加するが、
  やがて貿易額は制限されることになる。
  その理由の一つを「貨幣経済」という語を用いて説明せよ。

次の語句について説明せよ。
  「日本型華夷意識」

長々と申し訳ありません。
もし宜しければ、コメント(この問題は、この時代は○○だから、
××は△△になる。だから答えは□□…のような感じで)もお願いします。
でもお答えいただくだけでも嬉しいことなので、面倒ならばコメントはもちろん無くて結構です。
410日本@名無史さん:03/07/18 16:28
全部分からないの?
中学以来歴史習ってない俺でも分かるのあるけど。
411406:03/07/18 21:15
>>407 サンクス!!
412日本@名無史さん:03/07/18 21:16
>「南蛮貿易」と「キリスト教布教」の関係を記せ。
西国の大名は貿易の利益を求め、キリスト教を許した。

>ポルトガル衰退の事情を記せ。
オランダ・イギリス・スペインとの貿易競争での衰退。

>1801年に「鎖国論」を出したのは誰か。
志築忠雄

>1631年の奉書船制度を説明せよ。
朱印状以外の老中の奉書が必要とされ。
資金があっても、幕府と特殊な関係にある者しか貿易できなくなった。

>豊臣秀吉の朝鮮侵略後、この過程で明確となる非常時の華夷秩序の特徴を記せ。
中華中心の世界秩序をこころよしとせず,朝貢しないだけでなく,反発して中華の
自尊心を傷つけ、侮り、攻撃の矛を向けようものなら,中華意識はがぜん憤激し
排撃的となる。〈夷狄を膺懲(ようちよう)すべし〉の攘夷論に転ずる。
413日本@名無史さん:03/07/18 21:16
>中国、オランダ船と□□で貿易を行う対外関係が成立したのである。
長崎

>朝鮮は将軍の呼称を「大君」に変えた。ある事件で何が発覚したか、簡潔に記せ。
1631年の津島反のお家騒動で、国書の偽造がばれた。
将軍が日本国王と書かれ、日本の元号をつかってなかった。

>大君と変わるまでの将軍の呼称が幕府にとって不都合である理由を記せ。
日本国王だと、古代や足利氏のように、中国皇帝から正式に国王に冊封
されたことになる。中国の従属国的ということになってしまう。

>やがて貿易額は制限されることになる。
>その理由の一つを「貨幣経済」という語を用いて説明せよ。
貨幣経済の発達により、幕府の出費が増え、財政が苦しくなった。
新井白石は長崎貿易の制限を指示した。

>「日本型華夷意識」
蝦夷(えぞ)が松前藩から、琉球が薩摩藩から従ってくる。
朝鮮が対馬から慶賀に来る。
中国、オランダが長崎から交易に来る。
日本を中心に周囲を考える、小中華意識。
414日本@名無史さん:03/07/18 21:30
社会人になってから漢文を学ぶのに何か良い入門書とかないですか?
415日本@名無史さん:03/07/18 21:46
個人的には、対訳つきの論語や、
読み下し文のついている漢詩集などはどうかなと。
受験用から中国語コーナーなど、大書店を見てみてはいかがでしょうか。
416404:03/07/19 00:06
404です。
>>412>>413有難う御座います!!


大変図々しいのは承知ですが、
また何問か連続して質問してよろしいですか?
417日本@名無史さん:03/07/19 00:11
>>404
同じ学校の同じ学年の仲間がいるとは思わなんだ。
お互い明日にむけて頑張ろう
418日本@名無史さん:03/07/19 00:18
>>416-417
キティな教諭にめげず、がんばってくれ。
419404:03/07/19 00:24
>>417
奇遇だネ(w
何組の人かは知らんが、頑張ろうゼ…。(´д`;)
>>418
有難う御座います。頑張ります。
420日本@名無史さん:03/07/19 00:31
>>419
ここで聞くしかもう方法がないものね・・・
今日図書館で8時間粘ったけど無理だった。
>>418
ありがとうございます。
421404:03/07/19 00:41
以下のそれぞれの語句について、正しいものを選べ。一つとは限らない。
正しいものが無い場合は×を記せ。

院政期の日本について
(あ) 院政を行う上皇は、議政官の首班である太政大臣となり、
    国政を掌握した。
(い) 荘園領主は在地領主を保護し、
    在地領主は荘園領主に余剰を納めた。
(う) 国家が6年ごとに戸籍を作成することで人民を掌握していた。

鎌倉時代の日本について
(あ) 北条氏を中心とする執権政治は、御家人合議制であり、
    合議の基準を明らかにするために御成敗式目が制定された。
(い) 得宗専制が強まると、得宗と御内人の対立が激しくなる一方で、
    鎌倉殿と御家人の主従関係が強化された。
(う) 鎌倉末期、鎌倉殿を支持する持明院統と御内人を中心とする
   大覚寺等の対立が激化し、幕府は滅亡へと向かった。

室町時代の日本について
(あ) 幕府の所在地は京都である
(い) 室町時代には、多くの村落が自治を達成し、惣村は守護大名や国人の支配から脱して、
    余剰を直接荘園領主に納入した。
(う) 守護大名は、鎌倉時代の守護とは異なり、領内の一円支配を達成し,
   その分国は独立国の様相を呈した。

>>420
 八時間…すげぇ。(|||゚Д゜)
422417:03/07/19 00:52
まだどなたかいらっしゃったら、私も質問させていただきたいのですが、よろしいでしょうか?;;

問。16世紀半ば以降、明を中心とする東アジアの秩序が変動し、
  日本近世はそれに対応して自己を東アジアのなかに位置づけていく。
  このとき、秀吉の場合を説明せよ

問。「日本型華夷意識」を再生・強化して、明の国際秩序の外側に、
  日本を中心とする国際秩序を設定した。
  このとき、日本を中心とする国際秩序を詳説せよ

問。家康は、長崎、対馬、薩摩、松前の四つの口を中国の窓口として、
  明との講和をめざした。
  そのねらいを簡潔に記せ

問。華夷秩序は「ほぼ前近代の東アジア諸国に共通する国家意識の類型」である。
  このとき、朝鮮について「国家意識」を説明せよ

問。武家政権と天皇という題で論述せよ

ちゃんとログは読んだのですが、404さんとかぶっていたらごめんなさい。
私は朝まで起きているので、どなたか暇な方、いつでもかまいませんので
教えていただけると嬉しいです。どうぞよろしくお願いします。

>>421
クラスによって問題微妙に違うのかな?
かぶる問題とかぶらない問題があるっぽい
423日本@名無史さん:03/07/19 00:55
いつまでの宿題?
短い期間だったら遠慮しろよ。
424417:03/07/19 00:56
>>423
すみません。
明日です。
425404続き:03/07/19 01:01
琉球について
(あ) 琉球が食料採取段階から食糧生産段階に移行した時期は、
    中山王察度が明から冊封された前後である。
(い) 中山王察度が明から冊封された時期は、応仁の乱より後である。
(う) 中王尚巴志が琉球を統一し、琉球王国を建国したのは中山王察度が明から冊封された後である。

秀吉の政策について
(あ) 検地帳に登録された農民は、大名などの領主に対して、生産物地代を納入した。
(い) 土地耕作権を持つ農民の納入する年貢は、その年の収穫高に税率を乗じて算出された。
(う) 身分統制令で兵農を分離した上で、刀狩によって分離した兵農を固定した。

幕藩体制について
(あ) 将軍の家臣である直臣のうち、一万石以下で将軍に直接お目にかかることの出来るものを旗本という。
(い) 豊臣氏滅亡後に軍役すなわちご恩が無実化したため、軍役を形式化した参勤交代を制度化することで、
    将軍と大名の主従関係が確認された。
(う) 徳川幕府の養殖のうち、老中、若年寄などには譜代大名が、
   老中や若年寄の下にある役職には旗本が就任した。

幕藩体制について
(あ) 大寺院は、王法仏法相即といわれるように、幕府からの自立が促進された結果、
    経済的に困窮した。
(い) 楽市楽座の原則から理解できるように、町人は幕藩体制の基礎ではなく、流動性が強いので
    農民に比べて厳しく統制された。
(う) 農村では名主などの村方三役が、領主の代官として、農村支配を強め、
   自治を否定して本百姓から年貢を徴収した。
426404:03/07/19 01:05
>>417
最初のは少し自分で問題文変えたから。
てゆーか最後の論述は自分で考えたほうがよくないか…?
私はもう論述はやったぞ。
あとは聞いていない問題もやった。
今聞いた問題でも、少しずつ自分でノート読んだりして調べてる。

明日までの宿題ではあるけれど、返事は急かしたりはしません。
427417:03/07/19 01:08
打ったあと思った。
でもまず用語の意味がわかんないレベルだから、活用方法などを聞けたらなぁ、と思って。

あの先生のテストの問題はときにくいけど、わかったら嬉しい気分になれるね!!
がんばろぉー
428417:03/07/19 01:47
先ほどは、明日までの問題をたくさん聞こうとしてすみませんでした。
結局夜間書庫に行ってもう一度調べて、何とか答えがでました↓
注意して下さった方も、みなさんも、どうもありがとうございました。
(404さんが質問された問題は、私も知りたかったものもあったので
429日本@名無史さん:03/07/19 01:48
陸軍記念日と海軍記念日
これらの日はお祭りのようなイベントがあったのでしょうか。
430日本@名無史さん:03/07/19 04:30
自分で調べろよ
431日本@名無史さん:03/07/19 04:47
ググッタら出る答えばかりだ
横着するなよ
432429:03/07/19 09:32
レベルの低い質問ですいませんでした。
433日本@名無史さん:03/07/19 10:17
>>429
記念日には、各地で式典。学校で全校訓示。
陸軍記念日などは大元帥の天皇による観閲式。
家庭では日の丸の掲揚。
434日本@名無史さん:03/07/19 11:24
太平洋戦争末期に降伏を具申した東大七教授って、南原繁・高木八尺の
他誰?
435日本@名無史さん:03/07/19 12:05
>>434
2人の教授の名前しか出てこないね。
2人だけなんじゃないの?
東大七博士だと、日露戦争の開戦賛成でしかでてこない。

>東京帝大教授の南原繁と高木八尺は内大臣木戸幸一に向かい、「陛下は
>どうなさっているのかという国民の声なき声がある」と言った。
>天皇は、六月九日、内大臣からそれを聞き、戦争終結の決意への一歩を
>踏みだす。 

>この巻は六月九日の朝、天皇が議会の開院式において「賢所あるいは新嘉殿
>で告文を奏するのと同じ抑揚、独特の口調で」勅語を読みあげる情景にはじまり、
>同日午後、南原繁、高木八尺両教授の戦争収拾策がついに上聞に達し、
>天皇の共感を得たはずだ、天皇は栗の木の林のなかを歩きながら南原と高木
>の言う通りだと思ったはずだ、という著者の推定で終る。

2つとも、以下の本の書評・紹介より。
「昭和二十年・第一部=10・天皇は決意する」
鳥居民・著<草思社・1600円
http://www.mainichi.co.jp/life/dokusho/2003/0105/02.html
436日本@名無史さん:03/07/19 19:24
>>434
435です。ごめんなさい。7人いました。
南原繁、高木八尺、田中耕太郎、末延三次、我妻栄、岡 義武、鈴木武雄の
合わせて7人。東大法学部メンバーです。
「高木を最も便りとし、練り上げ、他の仲間も同調した終戦工作」と、ありました。
近衛・若槻・東郷・木戸・米内の側近の高木・宇垣らに具申したが、
東条内閣が倒れた後の混乱で、実を結ばなかったそうです。
(「南原繁」加藤節・岩波新書)
437日本@名無史さん:03/07/20 12:50
素朴な素人の質問です。
日本は戦争に負けていなかったら今どんな感じですか?
天皇も憲法もあのままですか?
438日本@名無史さん:03/07/20 13:08
負けないって状況にも色々なケースがあるからなんともいえない
439日本@名無史さん:03/07/20 13:31
>>437
解釈改憲が行われそうです。今と同じように、憲法条文が改正されないまま、事実上の改憲が行われそうだ。統帥権がらみとか。
440日本@名無史さん:03/07/20 22:13
昭和護憲運動や平成デモクラシーで、民主改革されたのでは。
戦争勝利の熱気の冷めた後、戦い死んでいった国民の声を吸い上げる
政党が民主改革をなしたのでは。
441日本@名無史さん:03/07/20 22:14
イフじゃ、答えようが・・・
442???:03/07/20 22:45
画像を取りに来てね♪無臭性を探し出せ♪

http://akipon.free-city.net/page003.html

http://nuts.free-city.net/index.html
443日本@名無史さん:03/07/20 23:46
日本国憲法って、漆塗りの箱におさめられているそうですが、
それはどこにあるのでしょう?
また、その箱はどういうものなのでしょう?
画像、どういう技術が使われたか、等教えてください。
それと、その原本が焼かれたらどうなるんでしょう?
444日本@名無史さん:03/07/21 03:36
どうもなりません。
445日本@名無史さん:03/07/21 08:26
>>443
国立公文書館に旧憲法、新憲法の原本があります。
箱はわかりませんが、たぶん、他の公文書原本と同じく、温度・湿度の調整された
部屋で、書類が長持ちするように保存されていると思います。
>>444さんの言うとおり、燃えてしまってもどうにもならないでしょう。
http://www.archives.go.jp/list/koubun.html
446日本@名無史さん:03/07/21 14:00
古文も漢文も明治文語文ですら全く読めません。
この板に来て、ちらほらと見ているにつけ、
「どうしてここの住人はこれほどまでに教養豊かなのか!?」
と疑問がふつふつと沸いてきます。

どうすれば古典の教養が身につくのか、どのような書物を紐解けばよいのか、
御教示頂きたい。当方、学生ではありません。
447日本@名無史さん:03/07/21 14:10
わたしも古文・漢文に親しみたいと思います。
お勧めの勉強法とか本とかあったら教えて下さい。
448日本@名無史さん:03/07/21 15:13
>>446-447
やはり美しい文章、面白い物語に直接触れるのが一番なのでは?
『平家物語』などはわりと読みやすく、筋もわかりやすいので、
お勧めです。丁寧な解説書や研究書もたくさん出ているので
それほど困難なく読むことができると思います。
449日本@名無史さん:03/07/21 15:29
>>446-447
448さんの言うように、楽しみながらが一番。
論語・漢詩・源氏・枕・平家・奥の細道などなど、大書店へGO!
あと、本格的な古文書読みは、たまに大学の公開講座や、
公民館の市民文化講座でやってます。
450日本@名無史さん:03/07/21 23:06
445>
ありがとうございます。
燃えてもどうもないのですか!?
憲法原本って憲法そのもの(いま憲法があるということの証拠)
ではなくて、ただの紙に書いてある文なんでしょうか?
残念・・・。
中身がじゅうようであっても物体が大事っていうのがすきだったのに・・・
三種の神器とか
451日本@名無史さん:03/07/22 10:45
>>450
もし、大日本帝国憲法の時代に、帝国憲法が燃えてしまっても、
天皇制が廃止になったり、主権が国民に移動したりしないですよねw。

>三種の神器
《古語拾遺》によれば鏡と剣を移しまつるに際し模造品を造って宮中にとどめたが,
これが後世即位に当たって新帝に献上される〈神璽(しんじ)の鏡と剣〉であるという。
伊勢・熱田の神体の鏡・剣と宮中のそれとは元来別のものであったが,それらを
統一的に物語る必要から模造品の話が作られたとみる説もある。

壇ノ浦の戦いで、海に沈んだ神器のうち、宝剣は見つからなかったそうです。
452日本@名無史さん:03/07/22 11:36
浦島太郎はエロい!

冒頭のシーン
・浜辺で子供たちがカメを叩いたり、つついたりしていじめていました。
いきなりエロい!どう考えてもカメ=男性器の隠語でしょう。
いじめられているのは浦島自身。それも喜んでいじめられている。
また、子供としか書いていないという事から→女の子→ょぅι゛ょの可能性が高い。
しかも「たち」ということは複数人確定です。
要するに『浜辺で複数のょぅι゛ょに男性器を弄ばれてた。』という事。
更に子供達にこづかいを渡して帰らせたという説もあります。
これはどう考えても児童買春でしょう。犯罪です。
露出。乱交。SM。ロリ。どうやら浦島は重度の変態だったようです。

次のシーン
・カメが龍宮城へ連れて行きました。
まず龍宮城ですが、とても広い、煌びやか、ごちそうが有る、
綺麗な姫がいる所となると一つの建物ではありません。そう夜の繁華街です。
ムラムラしてきたから街に繰り出したということです。

・タイやヒラメの舞い踊り、魚や貝のごちそう、乙姫の接待。
タイはタイ人女性、ヒラメはフィリピン人女性、
舞い踊りはストリップと考えられます。
勢いで2軒目、ごちそう。貝=女性器の隠語とすると
ズバリごちそうとは女体盛でしょう。
そして締めの3軒目、乙姫。超高級風俗嬢です。
浦島は月日の経つのもすっかり忘れる程にはまったようです。

最後に玉手箱。開けるだけで歳をとるはずがありません。
激しい夜遊びを続けたために男性器が不能になったという比喩です。
このように最初から最後までぎっしりとエロがつまっているのです。
子供には浦島太郎を教えないように気をつけましょう。
453日本@名無史さん:03/07/22 16:52
日本の古代を伝える史書は、古事記、日本書紀、続日本記などがありますが、
天皇家に公開されていない史書が伝わっている可能性はあるんでしょうか?
454日本@名無史さん:03/07/22 18:42
451>
>もし、大日本帝国憲法の時代に、帝国憲法が燃えてしまっても、
>天皇制が廃止になったり、主権が国民に移動したりしないですよねw。
そうなのですか?
憲法が燃えたら憲法が存在するという証拠も無くなったということになって、
大混乱に陥るかと思ってました・・・。

三種の神器は昔スレを読みました。

455日本@名無史さん:03/07/22 20:42
>>453
ないでしょう。日記や会議録は別ですが。
ないという理由は、日本の史書は、天皇家権力や国政を正当化するために書かれて
いることが多いからです。
ということは、公表されなければ意味がありませんから。
続日本紀は、30巻目が問題が多いということでなくなったということにして
抹殺してます。
日本後紀には天皇批判はありますが。
456_:03/07/22 20:43
457_:03/07/22 20:49
458日本@名無史さん:03/07/22 21:31
ニュース速報から議論板に移転しますた。
【スーパーフリー】早大生ら5人 集団強姦114【Xデーは?】

さあ、皆さん!xデーめざしてage続けましょう!

http://news3.2ch.net/test/read.cgi/news2/1058814853/l50

459日本@名無史さん:03/07/23 00:13
>455
30巻は何でしたっけ?
460453:03/07/23 06:35
>455
どうもありがとうございました
461日本@名無史さん:03/07/23 09:04
>>459
淳仁朝に書かれた最初の続日本紀の30巻目ですね。
孝謙天皇のあたりと思われます。

編纂過程は複雑なようです。
文武1年(697)1月から延暦10年(791)12月までを含み,全40巻。
編纂過程は複雑であるが,《類聚国史》に収められている延暦13年8月13日付の
藤原継縄の上表文と,《日本後紀》にみえる延暦16年2月13日付の菅野真道の上
表文によって,概要が知られる。
まず(1)文武〜孝謙紀(文武1年1月〜天平宝字2年7月)が淳仁朝に30巻として斤修
されたが,その発議は藤原仲麻呂によるらしい。光仁朝に石川名足が淡海三船,
当麻永嗣とともにこれに修正を加えて奏上したが,29巻のみで,問題の多い巻
三十は亡失と称して削除された。
名足はまたほぼ同時に上毛野大川と(2)淳仁〜光仁紀(天平宝字2年8月〜宝亀8年12月)
を20巻に斤修した。
さらに桓武朝に入ると,藤原継縄,菅野真道,秋篠安人が勅を受けて(2)を修正して
14巻に改め,現《続日本紀》の巻二十一〜三十四が完成し,794年(延暦13)8月に奏上された。
ついでこれにつづく(3)光仁〜桓武紀(宝亀9年1月〜延暦10年12月)が菅野真道,
秋篠安人,中科巨都雄によって4巻(現《続日本紀》巻三十五〜四十)として斤修され,
また同じ人たちによって(1)で欠けていた部分を補充して改めて20巻に再編され
(現《続日本紀》巻一〜二十),併せて797年(延暦16)2月に奏上された。
かくて現在の(1)20巻,(2)14巻,(3)6巻がまとまって《続日本紀》が完成した。
462日本@名無史さん:03/07/23 15:35

       2ちゃんねる遂に閉鎖か?

こっちが本スレですよ!  
(閑散とした板にスレッドを立てました!)

【緊急】法務省強制的に閉鎖を検討!【緊急】
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/kobun/1026769846/
  
463日本@名無史さん:03/07/23 21:02
江戸期の酒造家について、よくスレで米を大量に集めなきゃならないし
販路などで人員も大量に使うので名主で苗字帯刀を許されている階級の人々だ
というのが時々見られますけど、実際はどうなんですか?
464日本@名無史さん:03/07/23 21:04
もう少し落ち着いて、自分の文章を読み直してから書き込んでくれないかな。
465日本@名無史さん:03/07/23 21:26
>>463
政商と言うか、幕府夜半と結びつきの深い大商業資本は、
名字帯刀をゆるされてますね。
醤油業でもいます。
466日本@名無史さん:03/07/23 23:19
幕府夜半→幕府や藩
467日本@名無史さん:03/07/23 23:54
「幕末に名主層の一部が郷士に格上げになった」というのはどういうことですか。詳しくお願いします。
その理由、経緯など。
468日本@名無史さん:03/07/24 00:00
>>467
「幕末に名主層の一部が郷士に格上げになった」
文献名を記せ。
469467:03/07/24 07:23
>>468 文献名は知りません。ときどきスレで見るんですが・・・・・。
470日本@名無史さん:03/07/24 08:21
>>467
幕末と言うよりも、江戸時代全般を通して、新田開発や治水工事などで
功績を挙げた名主は「名字帯刀」になってます。
功績評価の面と、権力側への丸め込みの両面からです。

郷士には、「旧族郷士」と、「取り立て郷士」の2種類あります。
旧族郷士は,元来は正規の武士になるべきものが,近世初頭あるいは
その後になんらかの事情により郷士となったもの。
取立郷士の種類はさまざまだが,多額の献金や新田開発などの功により
郷士の格を与えられたもの。
471日本@名無史さん:03/07/24 22:20
日本で大砲が普及しなかったのは何故でしょうか?
1、作れなかった。
2、山が多くて持ち運びに不便だった。

と思いつくんですが。どうですか?
472日本@名無史さん:03/07/24 22:34
>>471
戦国期末には普及していると思うが・・・。
江戸期には大砲鋳造禁止令が出ていたような・・・。
473日本@名無史さん:03/07/24 22:39
>>471
江戸時代の話ですか?
一応はありました。大阪の陣などでも使われてます。
大量生産されなかったのは、産業革命の未達成が大きいでしょう。
幕末〜明治に輸入し、明治から大量生産してますね。
474日本@名無史さん:03/07/24 23:54
江戸時代は犯罪発生率が低かったと言う話しをよく聞くのですが、
江戸での犯罪発生率はどの程度だったのでしょうか、
また資料などがありましたら教えていただけないでしょうか。
475日本@名無史さん:03/07/25 00:40
>>474
土地によって差があるだろう。
徳川幕府連合国の場合は。

徳川統治領は厳罰主義で一日平均3人くらい死刑。
476日本@名無史さん:03/07/25 15:45
現在の感覚だと、犯罪発生率は高度成長期まで少なかったと言える。
それ以前は、都市近郊の農村でも家に鍵をかけずに外出してた。

江戸の犯罪発生率は、明治時代の東京と、さほど変わらなかったと思われる。
ただし、ばくちや浮浪(都市流入民)も犯罪とすれば、明治より多いでしょう。

徳川天領は、民衆に優しかったと聞きますが。
磔やさらし首は、一種のイベント的興味で見物客が集まったと聞きますので、
頻繁には行われなかったと思いますが。

江戸時代の犯罪に関する統計を見てびっくりしてしまいました。
社会全体の犯罪の発生率の低さばかりでなく、中でも武士の犯罪ときたら
ほとんどなかったと言っていいほど少ないのです。
http://www.melma.com/mag/21/m00030321/a00000054.html
これを書いた人に聞けば、統計資料がわかるかな?
477変態戦隊ロリレンジャー:03/07/25 15:50
祭は微視高く冴えられた失恋それは巳継この未来♪
478日本@名無史さん:03/07/25 20:20
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4759/130324-1.html
 これによりますと,イタリアに対し,日本は終戦後,「各種請求権に基づく
支払い」を行っていますが,どういう理由に基づく支払いであるのか,ご教示
いただければ幸いです.
479日本@名無史さん:03/07/25 20:48
浮世絵の特質とその歴史的意義を教えて下さい。
よろしくお願いします。
480日本@名無史さん:03/07/25 21:00
>>478
見過ごされかちなのですが、
イタリアは第二次大戦における戦勝国です。

個別の請求理由や、金額の根拠については存じ上げませんが、
戦勝国がなんらかの理由で、敗戦国から賠償をうけることが一般的なのは、
ご存知の通りです。
481日本@名無史さん:03/07/25 21:40
某スレであったのですが、豊臣というのは、うぢ? かばね?
かばねだったら、羽柴豊臣秀吉ですよね?
姓を「せい」と読めば違うのでしょうか。中国のように「日本の氏や名字にあたる」など。

素人ですいません。辞書は調べたんですけど。
482日本@名無史さん:03/07/25 21:43
>>478
自信はありませんが、これは8億円の請求権であって、実際には
請求されず、払ってないんじゃないでしょうか?
スイス(12億)やアルゼンチン(8千万)にも請求権が認められてますよね。
これも請求されず、支払ってないと思うのですが。

ちなみにイタリアは多額の賠償金を支払ってます。
ソ連に1億ドル、アルバニアに5000万ドル、エチオピアに2500万ドル、
ギリシャに1億5000万ドル、ユーゴスラビアに1億2500万ドルの賠償義務。
また連合国は、自国占領地域内のイタリア所有資産を没収。
483日本@名無史さん:03/07/25 21:51
>>479
浮世絵は江戸地方の民衆絵画から、全国へと広まりました。
さらに、海外の芸術にも影響を与えました。

浮世絵は江戸特産の民俗的な絵画,いわゆる民画であり,大津追分の肉筆の
戯画〈大津絵〉や,長崎の異国風俗を扱った版画〈長崎絵〉,大坂や京都の
役者絵を主体とした版画〈上方絵〉などと同類のものに違いない。
しかし,他の土地の民画がいずれも扱う主題の範囲を特定し,様式の展開も
微弱な範囲にとどまったのに反して,浮世絵は比較を絶するほどに多彩で豊かな
発展を長期にわたって継続させている。
そして市場を全国的に広げることになる19世紀には,各地に直接的な影響が及び,
東北のねぶた絵や凧絵(たこえ),あるいは土佐の絵金(えきん)の台提灯絵など,
土着の民衆のたくましいエネルギーを盛り込んだ新たな民画を創生させることになる。

明治維新後急速に関心が薄れてしまった日本から,数多くの浮世絵が海外へ流出
した。しかし,19世紀の後半から20世紀の初頭にかけてヨーロッパやアメリカで
その芸術的価値が高く評価され,浮世絵は印象主義やアール・ヌーボーなど西洋
近代の芸術運動に大きな影響を与えている。
日本における浮世絵再評価の動きもこうした欧米の認識に教えられた結果であった。
484日本@名無史さん:03/07/25 21:55
>>481
姓(かばね)

秀吉は尾張中村出自の木下氏だが,織田信長の重臣となり1573年(天正1)
羽柴氏に改めた。
平姓を称していたが,85年関白になるに際し近衛前久の養子となり
藤原を姓とし,翌年太政大臣になるに及び朝廷より豊臣の姓を受けた。
485日本@名無史さん:03/07/25 22:03
すると豊臣姓になったあとも羽柴秀吉でいいの?

近衛前久=藤原前久
羽柴秀吉=豊臣秀吉
486日本@名無史さん:03/07/25 22:20
>>484
早速丁寧なレス、有難うございます。

カバネということは、ウヂ+カバネ+名ですから、
「羽柴豊臣秀吉」が殿上での正しい名乗りな訳でしょうか?
政宗は藤原朝臣政宗ですよね。
487日本@名無史さん:03/07/25 22:44
飛鳥時代の氏姓制とは違うと思ふのだが・・・
488日本@名無史さん:03/07/25 22:46
>>484
>>486
羽柴が名字。
豊臣は氏。
姓は朝臣。
かりに名乗るとすれば「羽柴太政大臣豊臣朝臣秀吉」
489日本@名無史さん:03/07/25 23:03
>>486
豊臣姓は平姓や藤原姓同様ウヂなので、「豊臣朝臣秀吉」です。
羽柴は名字ですから、豊臣姓になっても「羽柴秀吉」です。
490日本@名無史さん:03/07/25 23:28
>>484
その場合、姓は「かばね」じゃなくて「せい」と読むんじゃないかな。
491日本@名無史さん:03/07/25 23:37
>>490
同じ「姓」で「せい」と読むのと「かばね」と読むのが混乱するのはよくあるよね。
492日本@名無史さん:03/07/25 23:43
庄屋のうち何パーセントぐらいが苗字帯刀を許されていたの?
493日本@名無史さん:03/07/25 23:46
羽柴→名字
豊臣→氏(ウヂ)
朝臣→姓(カバネ)
秀吉→名(諱)
494日本@名無史さん:03/07/26 00:45
>>487-493
暫く見ない間に… みなさん、助け舟、ありがとうございます。
そして、>>493さん、明解な纏め有難うございます。
やはり「羽柴豊臣秀吉」は有り得ないわけですね。

>>490-491さんも仰られていますが、「姓」を「せい」と読む場合もありますよね。
ウヂ+カバネ+名である「豊臣朝臣秀吉」のどの部分を指すのでしょうか。
実はずっと、「豊臣姓」などという表現に疑問を感じていたんですよね。
そこで以前、「ウヂ+カバネ」=「姓(セイ)」と仰っていた方がおられたのですが、
これが正しかった場合、「豊臣姓」は間違いではなくなるような気もします。

あと、姓に二つの語意があるように、氏では「シ」と「ウヂ」に違いはあるのでしょうか。
本当に質問ばかりですいません。ぐぐっても氏姓制度についてのページばかりなもので…
495日本@名無史さん:03/07/26 03:36
>>494
「氏」「姓」はいつからか混同されるようになりました。
したがって厳密には>>493のとおりですが、
「豊臣姓」という場合は「せい」とよむべきで、
時代や使用している人間の意識により「氏」「苗字」両方の意味を持ちます。
「氏姓」という使い方をするようになって氏と姓の混同がはじまり
明治になって氏、苗字等の区別が廃止されて完成したというところでしょう。

また>「シ」と「ウヂ」に違い
これが何のことを言うのかわかりませんが、単純に読み方の違いでは?
496日本@名無史さん:03/07/26 04:52
>>495
ウヂは姓とも氏とも書く。姓と氏が違う以上、ウヂと氏が完全にイコールなわけないでしょ。
ウヂは漢文の姓にも氏にも対応する。豊臣姓の姓は訓読みすればウヂで正解。
カバネを姓と書くのは、間違いではないが、かなり捻った用法が定着してしまったもの。
>>493の書き方はそれ自体はまちがってないが、初心者にはかなり誤解を招く書き方といえる。
497日本@名無史さん:03/07/26 07:40
ふと思ったのですが、現在自分の家について、氏、姓がわかっている人ってどのくらいいるんでしょ?
人によっては自分の家紋すらわからない人がいるわけですし…。
498日本@名無史さん:03/07/26 09:12
>484 :日本@名無史さん :03/07/25 21:55
>>>481
>姓(かばね)

>秀吉は尾張中村出自の木下氏だが,織田信長の重臣となり1573年(天正1)
>羽柴氏に改めた。
>平姓を称していたが,85年関白になるに際し近衛前久の養子となり
>藤原を姓とし,翌年太政大臣になるに及び朝廷より豊臣の姓を受けた。

これを書いたのは、私だが、基本的な間違いだった。すまん。m(__)m
藤原はカバネでないからな。この文の姓は、「氏の意味での姓(せい)」だね。
大体調べたページの一番上に大きく「豊臣氏(うじ)」と項目がでてた。
訂正とお詫びをさせてください。
499日本@名無史さん:03/07/26 09:23
>>492
大庄屋の多く(ほとんど)は永代苗字帯刀御免。
一般の庄屋でも割と多かったのでは?
500日本@名無史さん:03/07/26 12:22
>>495-496
お二方も有難うございます。

>ウヂは漢文の姓にも氏にも対応する
これは判り易い表現かもしれませんね。個人的には今まで
漢:姓 と 日:ウヂ、
漢:氏 と 日:名字(或いは苗字) が対応すると考えておりました。

>カバネを姓と書くのは…かなり捻った用法が定着してしまったもの。
古代中国とローマは名前の付け方が似通ったいたようですよね。
姓と氏族名、氏と家族名、名と個人名といった形で(訳語に疑問はありますが)。

日本のウヂに相当する用語としては姓・氏などがあったようですが、
カバネに相当する単語というものは、中国に限らずあったのでしょうか。
それとも、カバネは官のように名前に付随するものとして考えた方が良いのでしょうか。
501日本@名無史さん :03/07/26 12:25
日本の歴史を学習することどうしてひつようだとおもいますか??
502日本@名無史さん:03/07/26 14:27
【歴史を知って何に役立つの?】
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1054544402/
503日本@名無史さん:03/07/26 23:12
安政五カ国条約による開国がわが国にもたらした影響について
述べてくれ。
504日本@名無史さん:03/07/26 23:45
>>503
インフレ、異人切り、軍事技術の進歩、幕府の威信低下
505日本@名無史さん:03/07/27 07:42
>>500
カバネは、起源としては個人について血筋の高貴さを表したようだが
後にはウヂについて爵位のように氏のランキングを表すようになっていった。
ぴったり該当するものは外国にはないが、新羅の骨品制との類似が少々ある程度。
カバネを「骨」とも書くのは、男系の血筋の意味をとったもの。

漢文の「姓」は血縁だから、所領や官職でわかれた「氏」に対比させて
ウヂを氏で、カバネを姓で当て字した、ということは、
現代人にも理解はできるが、あまりうまいやり方とはいえなかったと思う。
姓の字のもつウヂの意味が消えたわけではないから面倒になった。

日本もウヂと名字と屋号とがあることを考えれば、
「部族名・氏族名・家族名・個人名」と何段階にもなった可能性はあるが
その前に父系リネージが磨耗したかはじめから未熟だったかして
血縁共同体がうやむやになってしまって確立しなかった。
506日本@名無史さん:03/07/27 12:05
>>503
外国商人たちは,当時の東アジアの国際通貨たるメキシコ・ドル(洋銀)を持ちこ
んでは国際的には相対的に安かった国内の金貨(小判)と交換して自由に国外に
持ちだし,ぼろもうけをした。
さらに,当初は一律従価5%とされた輸出関税率,5〜35%とされた輸入関税率も,
1866年(慶応2),江戸協約(改税約書)を強要して輸出入関税とも一律従価5%規準
の従量税という低税率に改定させ,欧米資本主義の市場拡大の一環として日本市場
をさらに深く開放させていった。
 こうして展開しはじめた対外貿易では,横浜がすぐにその中心となった。
かくて横浜は通商港として急膨張しはじめ,外商たちが殺到してきたが,
しかしその中心はすでに東インド貿易や中国貿易の経験をつんで世界の市況
に通じた近代商社,植民地銀行群や大海運会社であった。いずれもイギリス系
のジャーディン・マセソン会社,東洋銀行,香港上海銀行,P&O 汽船会社など
は,その代表的なものである。そのため,海運や貿易金融をふくむ商権はすべ
て欧米列強が独占し,日本人貿易商といえば,外商に国産品を売りこむ売込商,
外商が持参した諸商品を買いとる引取商というのがせいぜいで,日本人の手に
なる直輸出・直輸入などは皆無に近かった。
このような半植民地的な貿易形態と対応して,貿易構造もまた従属的であった。
すなわち日本は,手工業的な半製品たる生糸や,茶,水産物などの第1次産品
を輸出する一方,まず大衆的に需要される綿製品,さらに毛織物,砂糖また
武器・艦船などの資本制大工業生産物の輸入が急増し,それらの輸入全体が輸出
総額を上まわるようになっていった。
メキシコ・ドルの流入・金貨流出にともなう幣制の混乱とかさなったこの綿製品
や砂糖の大量流入のなかで,国内各地の広範な綿業や糖業など商業的農業・農村
手工業は打撃をうけて衰退し,物価急騰と経済の混乱,各地民衆の生活破綻に
ともなう社会不安もまた未曾有となった。
507日本@名無史さん:03/07/27 16:59
>>506
何言ってんだよボケ!!
508日本@名無史さん:03/07/27 17:20
愛知県の地名で
豊川とか豊橋とか
豊○ってなまえが多いのは
意味ありますかですか?
509日本@名無史さん:03/07/27 20:34
豊川という川があるからでは?
510日本@名無史さん:03/07/27 21:23
清少納言の肖像画のあるページ知りませんか?
511日本@名無史さん:03/07/27 21:29
存在するの?
512日本@名無史さん:03/07/27 21:30
今回のフィリピン反乱はまんま226事件でしょうか?
513日本@名無史さん:03/07/27 21:32
さあ?
514日本@名無史さん:03/07/27 21:44
反乱グループは発表した声明の中で「国軍上層部は、イスラム反政府武装
勢力などに武器・弾薬を横流ししている」などと非難しており、
蜂起の背景には国軍内部の腐敗や兵士の処遇への不満があるとみられる。
(毎日新聞)

政府退陣を要求しているが、占拠はビルだけ。
200人中、50人がすでに逃げ出している。
515日本@名無史さん:03/07/27 22:55
>>512
東南アジアにおける風物詩です。
80-90年代に経済がそれなりに発展してからは少なくなりましたが、
それ以前はこの時期になると、どこかしらで政変が起こっていたものです。
516日本@名無史さん:03/07/28 11:32
↑参加した連中、お咎めなしで原隊復帰だっけ?
いつだかのクーデターのときは罰が「腕立て伏せ」だったし。
すげぇ国(w
517日本@名無史さん:03/07/28 16:34
幕末の水戸藩って天狗党の乱とかの後どうなったんですか。
戊辰戦争の最中まで藩内で殺しあってたとかも聞いたけどそれマジですか。
518日本@名無史さん:03/07/28 16:57
>>517
マジです。ろくなもんじゃないです。
山川菊栄の覚書とか読むといいですよ。
519日本@名無史さん:03/07/28 17:02
日本史板に2年半いるけどいまだに分からないので聞いてみる

「アズマ」って何?

出所とその定義を誰か教えて・・・
520日本@名無史さん:03/07/28 17:56
何故、朝廷が臣下の足利義満に太上天皇の尊号を贈ろうとしたのですか?
教えてください。
521日本@名無史さん:03/07/28 18:13
私が作ったから凄いんだから♪

http://www3.free-city.net/home/akipon/page001.html

ピンク色だよ〜♪何がって?見ればわかるよ!

http://angely.h.fc2.com/page008.html
522日本@名無史さん:03/07/28 18:19
>>520
・従一位、太政大臣、准三宮とすでに位人臣をきわめていたため太上天皇以外に待遇のしようがなかった。
・現実問題としてすでに生前に太上天皇に等しい待遇を朝廷から受けていた
の2つが理由なんじゃないですかね?
523DVDエクスプレス:03/07/28 18:20
アダルトDVDが
 最短でご注文いただいた翌日にお届け!
         dvd-exp.com
        開店セール1枚 500円より
524日本@名無史さん:03/07/28 19:16
魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝には、日本の記述はどの位書かれているんですか?
どんなことが書かれているんですか?
525日本@名無史さん:03/07/28 19:50
>>519
あ、それ洩れも知りたいなあ。
誰か教えて?
526日本@名無史さん:03/07/28 21:45
>>520
義満の圧倒的権力と権威により、南北朝の混乱が収集し、
公家は後醍醐叛乱以前の、公家世界の家格の安定と年中行事の安定に戻れ、
義満参りが盛んに行われ、上級公卿は足利権力による安定を求めていたようです。
それで、義光死後も、足利権力による朝廷世界の安定を求め、太政天皇号を送った面もあるようです。
527日本@名無史さん:03/07/28 21:48
>>524
>魏志倭人伝
3世紀の邪馬台国,および2〜3世紀の倭人の風習などが記されている中国
の文献。《三国志》魏書東夷伝の中の一部を通称したもの。著者は西晋の
陳寿(233‐297)で,その成立は3世紀後半。陳寿とほぼ同時代の魚豢の斤
になる《魏略》の記述を受けつぎ,邪馬台国の存在していた時代とは,
それほど隔りのない時期に書かれたものであるから,その史料的価値は高い。
倭人伝は,倭国の地理的位置づけから書きはじめられ,帯方郡より邪馬台国
への道程,倭にあった諸小国の名称,倭人の生活風俗などが,かなり詳細
に記述されている。なかでも女王の卑弥呼が共立によって王となったありさま,
邪馬台国の政治のあり方,卑弥呼の王としての姿が活写されており,また
239年(魏の景初3)から247年(正始8)までの魏との通交のことが克明に書き
とめられている。邪馬台国までの日程,距離の記述の解釈には難解さが
あって,同国の所在をめぐる〈邪馬台国論争〉は未解決。 
528日本@名無史さん:03/07/28 21:54
>>524
>後漢書
「東夷伝」のなかの倭国の記事は「魏志倭人伝」と重なる。

>宋書倭国伝
中国の《宋書》夷蛮伝の東夷の条に属している倭国伝をいう。この夷蛮伝
は他の中国史書の外国伝と異なり,風土,産物,制度,歴史といった各国
の固有のものに関する記述はほとんどなく,宋朝と諸国の交渉記事に限定
されている。
倭国伝もこの特色をもち,ほぼ宋朝と倭国との交渉(いわゆる〈倭の五王〉
の朝貢,それをふまえた宋朝による任官)記事で占められている。
ここに記された武の上表文は著名である。
529日本@名無史さん:03/07/28 22:00
>>519
東日本独立史観。西日本の大和国家や、薩長天皇制明治政府を認めない。
天皇制や靖国や君が代も認めない。
イデオロギーと言うよりも、東日本を大切にしろやゴルァって感じ。
本気かネタかは不明。
530日本@名無史さん:03/07/28 22:04
ネタです。
531日本@名無史さん:03/07/28 22:29
>>508
豊川は、そのまま豊川という名前の川があるから。
豊橋は、その豊川にかかる橋の名前から。
よってこの2つは関係がある。

一方豊田は、トヨタ自動車からとった地名なので、まったく関係がない。
豊明は、「日本地名大百科」によると、村制施行と豊明節会が
時期的にかぶったことからの命名だそうなので、さらに関係がない。
532日本@名無史さん:03/07/29 09:15
最初はアズマと名乗るコテハンが表れてそういうこと主張したんじゃなかったっけ?
んで次第にそういう人間が増殖してアズマが一般名詞になっていったと。
533日本@名無史さん:03/07/29 10:00
お願いします。
各世紀、または各時代の日本の人口の概数を教えてください。
534日本@名無史さん:03/07/29 11:06
>>533
江戸時代で3000万人くらい
535日本@名無史さん:03/07/29 11:15
ありがとうございます。
各時代の人口の概数がわかるサイトか何かないでしょうか。
536史学科生:03/07/29 11:17
武家諸法度の読み下し文をうpして下さい…。
明日までに提出のレポートで時間がないんです。
ググっても出てこないし…。
537_:03/07/29 11:24
538日本@名無史さん:03/07/29 11:31
539日本@名無史さん:03/07/29 11:37
>>536
岩波書店の「御触書集成目録」に載ってないかい
540史学科生:03/07/29 13:46
売ってないです…。
載ってるサイトなんかはないですかね?
541日本@名無史さん:03/07/29 13:47
>>540
おまいさんの大学の図書館には行ったのかよ
542史学科生:03/07/29 13:51
遠くて…いや分かりました、行きましょう。
っていうか図書館という手段をすっかり忘れてますた。
543日本@名無史さん:03/07/29 21:54
何で日本では防具としての「盾」は登場しなかったのでしょうか?
544日本@名無史さん:03/07/29 21:58
アズマ==親幕系
サツマ=新政府系

お互いを罵らせ合わせようという、朝鮮系の日本分断工作でした。
545日本@名無史さん:03/07/29 21:59
>>543
元々はありましたが発展しませんでした。
546日本@名無史さん:03/07/29 22:10
>>545
その理由が知りたいのですが。
547日本@名無史さん:03/07/29 22:47
この日本史板に書き込んでいる方々は、どのような人なのですか?
学者さんなどですか?
一般人だとしたら、すごいですよね、記憶力が。
548日本@名無史さん:03/07/29 22:54
>>544
出てくるな嫌韓厨。
549日本@名無史さん:03/07/29 23:04
>>538
大変ありがとうございました。
550日本@名無史さん:03/07/29 23:06
>>547
単に質問する前に自分で調べるクセがついているだけです。
記憶だけに頼って書いているわけではありません。
551_:03/07/29 23:06
552日本@名無史さん:03/07/29 23:09
>>543
古墳時代からあり、鎌倉時代や戦国時代でも使われています。
それなりに進化・発達しています。

日本では携帯用の盾を手盾,または持盾といい,革または木製,ときには
木質革包みとするが,総体に小型で,もっぱら歩兵による打物や長柄の戦い
に用いた。
騎射防御として用いるのは陣前に並列する仰盾(かいだて)であり,櫓の周囲
や船のへりにも並列するが,これは大型で鉄または鉄質革包みもあるが,
多くは堅硬な木の厚板を使用し,鎌倉時代ころから表面に旗標と同様,
所有者の標識をつけた。
仰盾は長方形の板で,裏面上部寄りに横桟をいれて支柱をとりつけるが,
さらに板の端に懸金と壺を設けて板塀のように懸け合わせる仕立がある
のを畳盾といった。
なお木盾の表面に大竹を割りひしいで張ったのをひしぎ盾といい,火器が
発達してからはもっぱら竹束にかわった。
553日本@名無史さん:03/07/29 23:14
白馬ってのは昔の日本でも「普通に」いたの?
554_:03/07/29 23:15
555_:03/07/29 23:29
556お札君:03/07/29 23:38
戦後のお札の詳しい発行状況を知りません。
例:夏目漱石の千円は 何年から何年まで
1円札から最新の2千円札まで
どこかのページにあれば教えてください。
待ってます。
557日本@名無史さん:03/07/29 23:52
>>556
日本のお札はどこで造っているのか貨幣はどこで
造っているのか考えなさい。
558_:03/07/30 00:39
559_:03/07/30 01:09
560_:03/07/30 03:53
561日本@名無史さん:03/07/30 05:39
倭国が渤海と同盟して、新羅を攻める計画があったという話を聞いたんですが
それって、聖徳太子が自分の親族を将軍にして新羅を侵略しようとしたけど、途中で将軍が病死して注視になったという話ですか?
562日本@名無史さん:03/07/30 08:27
>>552
ありがとうございます。
諸外国と比較して、携帯用の「盾」が一般的に普及しなかった理由が
知りたいのですが。しつこいようですが、よろしくお願いします。
騎乗での戦が主流ってわけでもなし、西洋の剣やアラビアなどの刀よりも
日本刀の方が切れ味も鋭く、かつ軽いので障害になると思えないので・・・。
何でだろうと。
563日本@名無史さん:03/07/30 08:53
言っとくが日本刀は言われてるほどすごいわけでもない。欠点も多い。

で質問だが東西を問わず刀は重たい。そして盾も重たい。
片手剣と盾にしたら攻撃力機動力は激減すし乱戦では意味をなさない。
盾を持つ事は有利でも不利でもある。
564日本@名無史さん:03/07/30 09:03
>>561
聖徳太子の時代には、まだ渤海国はないです。
565日本@名無史さん:03/07/30 09:23
>>561
新羅攻撃計画は藤原仲麻呂。本人が失脚して中止。あと新羅と敵対関係が薄れた。

渤海は、727年新羅を牽制することのできる勢力である日本に使節を派遣して、
日本と結ぼうとした。ここに渤海と日本の国交が開始され、以後919年(延喜19)
まで続くが、その間渤海からの使節の来日は34回に及び、一方、日本からの
遣渤海使派遣は13回で、その多くは渤海の使節を送る使であった。
こうした両国の通交の歴史は、大きく2時期に区分できる。
第1期(727‐811)は、渤海が新羅を牽制することを日本に期待して使節を派遣する
一方、日本は新羅を蕃国に位置づけ続けるために、渤海の協力を得ようとする
政治的な目的をもった外交であった。
特に759年(天平宝字3)に藤原仲麻呂政権によって立案された新羅征討計画は、
日本と渤海が連携して征討を実現しようとしたものであり、そのために両国の
使節の往来も頻繁であった。しかし藤原仲麻呂政権の衰退にともなって新羅
征討計画が消滅し、また大欽茂が762年に唐から渤海国王に冊立されて唐との
緊密な関係が維持され、同時に新羅との緊張も緩和されるにしたがって、日本
と渤海との関係も変質し始めた。

566日本@名無史さん:03/07/30 10:49
>>562
欧州でも、盾は15〜16世紀くらいまででは?
日本では、鉄砲以前の戦国時代に集団発射弓矢の防御として使われていました。
鉄砲伝来後は、鉄砲隊が城から射撃するとき、竹などでできた盾を
使ってたようです。

西欧の剣は切るより突きますよね。
盾が運動的に必要になりやすいです。
日本刀は切りますから、体の動きが回転しますので、
盾を持っていると運動力学的に不自由です。
このへんかと思います。

現実の戦闘では、ほとんどが弓矢と槍だったようですので、
長槍と盾を片手づつで扱う筋力が日本人にはなかったのもあるかと思われます。
567日本@名無史さん:03/07/30 11:29
>>550
例外は、思い込みで書いている伊達遠江守家中くらいだな。
568日本@名無史さん:03/07/30 11:39
>567
まだ言ってるのか
粘厨は消えてくれ
569日本@名無史さん:03/07/30 17:01
西郷隆盛が、スイカを天皇に投げつけたのって本当ですか?
570@@@@@:03/07/30 17:51
こんなに見えちゃってヤバクない???
抜いても抜いても また勃起しまくり・・・
 ↓ ↓ ↓

☆★☆★ 海外サイトだから安心無修正 ★☆★☆
http://upbbs.s2.x-beat.com/linkvp/linkvp.html
http://upbbs.s2.x-beat.com/linkvp/linkvp.html
☆★☆★ 本気汁丸出しのお○○こが! ★☆★☆
571日本@名無史さん:03/07/30 18:59
日本の主力は槍だったんですか?
海外も大体そうなんですか?
572日本@名無史さん:03/07/30 19:40
>>571
みんなで君を教育するスレじゃないんだから自分でも検索しなさい。
573日本@名無史さん:03/07/30 19:55
>>571
リーチの長い武器から使います。
接近戦は恐いので実際はあまりなかったそうです。

「刀と首取り―戦国合戦異説」 平凡社新書・鈴木 真哉
によると、長距離戦(鉄砲・弓矢)と中距離戦(槍)で、ほとんど勝負が決まり、
白兵戦や馬上戦は、平和な江戸時代につくられた作り話だそうです。
日本刀は、儀式・宗教・象徴の意味合いで持っているのであり、
武器としての認識はほとんどなかったそうです。
首を切るときに使ったり、恩賞などに使いました。
574日本@名無史さん:03/07/31 02:57
過去レス嫁

盾とか武器のはなしは死ぬほど出まくっていた。
575日本@名無史さん:03/07/31 13:02
>>568
でも事実は事実ジャン。こうして牽制しているからヤシは戻ってこれないんだよ。
もう少し積極的に伊達叩きを評価してもらえないかなぁ。
576日本@名無史さん:03/07/31 13:03
伊達遠江守家中て見たことないんだけどどこにいるの?
577日本@名無史さん:03/07/31 15:00
日本史を簡単に楽しく教えてくれるサイトを知ってる方がいたら
おしえて下さい。
578山埼渉:03/07/31 17:34
関西にはどうしてコリアの人が多いんですか。
579日本@名無史さん:03/07/31 17:39
西日本人はチョンだからだよ。
580日本@名無史さん:03/07/31 17:48
>>577
2ちゃんねる
581山埼渉:03/07/31 18:29
>>577
ttp://homepage2.nifty.com/mazzn/
いすとワールド
582受験生:03/07/31 20:12
受験勉強中です。論述問題中に、
「享保期以来の年貢増徴や金融資本依存の収奪強化から、村方騒動>百姓一揆、の傾向が明らかになった」
とありました。で、村方騒動自体がどういうものか理解できない。
村方騒動:村落内における一般農民と、村役人・地主・豪農との対立抗争
ってコメントが付記してあったけどイマイチ掴めません。
何か詳しい文献ありますか?ここで解説して頂ければ更に嬉しいのですが・・・
583日本@名無史さん:03/07/31 21:55
>>582
>村方騒動・1
江戸時代の村落内部の対立,闘争。村方出入(でいり),小前(こまえ)騒動ともいう。
江戸時代の村落は,前後の時代と比べると小農の比率が高く,比較的に均一な
印象を与えるが,実際には上下の階層差が小さくなかった。
村落の成員はほとんど百姓身分の農民だったが,初期には百姓以下の名子(なご),
前地(まえち),被官(ひかん)などと呼ばれる隷属身分の下層農民がかなり存在した。
また百姓身分であっても,家格によって家宅の構造や衣類の種類や婚姻,葬儀
の形式などの区別が強いられていた。
さらに近世の支配は村請(むらうけ)年貢制度を採用し,有力農民を村役人に任命
して年貢徴収にあたらせ,その手当として百姓の使役権を認めたり,負担量を
特別に減じたりしたため,かえって階層差を固定させることになった。
また村請制は領主が村高に対して一括賦課し,個々の百姓に対しては村役人が
惣百姓立会いのもとで家数や持高に応じて割り当て,それを村役人が徴収し上納
するという方法だったが,実際には惣百姓を立ち会わせなかったり,不公平な
割当てを行うこともあり,村役人の恣意が働きやすく不正が生まれやすい制度であった。
584日本@名無史さん:03/07/31 21:56
>村方騒動・2 
このような事情から,近世村落の成立過程で初期村方騒動が数多く起こり,それを
通じて,小農が中心となる近世村落が形成されていった。隷属身分の下層農民は,
主家に提供する賦役の日数の限定や菩提寺の分離や独立の家宅普請,身分変更など
をめぐって,個別的にまた村中をまきこんで争ったりした。隷属身分の農民は
しだいに減少するが,地域によっては長く残り,彼らの身分解放闘争はのちの
ちまで現れる。また小百姓は村役人の特権や恣意の限定をめざして争ったり,
村役人の不正ではないが上層農民が有利になる軒割(のきわり)賦課に反対し,
負担を持高割(もちだかわり)にすることを求めたりした。
これらはすべて小農自立闘争としての意義をもった。村請制に随伴する年貢徴収
の過程での村役人の不正と私欲,横領,村政の横暴さに対する村方惣百姓の闘争
はどの時期でも起こった。
これらは村政改革(民主化)闘争と評価されているが,ふつう小前百姓連判の訴状
を領主に提出して,村役人の不正,非法を告発するという方法がとられた。
領主は多くの場合,説諭ののち仲裁人を入れて示談のかたちで終息させるほうを選んだ。
585日本@名無史さん:03/07/31 21:56
>村方騒動・3
中・後期になると,新しい経済動向を反映した質地騒動,小作騒動なども加わって,
村役人や上層農民の非分を追及する村方騒動はいよいよ増大した。
小前百姓の伸張にともない,衣服や家宅の不公平な規制に反発する騒動も増える。
新興の勢力が小前百姓の先頭に立ち,村役人交代を迫る村方騒動を起こすこと
も少なくなかった。
百姓一揆のなかには,村方騒動の内容である村役人の任期や不正を要求条項の
なかに掲げるものがあり,また一揆の後に村方騒動が広がることもあった。
豪農商に対する激しい打毀(うちこわし)である世直しの基礎にはたいてい村方
騒動があり,打毀に連動して村方騒動が急速に波及していくことが多かった。
なお近世村落には,村役人や地主,豪農などに対する村方騒動と同じ対抗関係
ではないが,一村の内部あるいは村と村との間で山や水や地境などをめぐって
山論,水論など種々の争論が発生しており,階層間の対立とあわせて数多くの
村方出入が起こった。
百姓一揆を経験しない村はあっても,村方騒動を経験しない村はほとんどなかっ
たのである。
586日本@名無史さん:03/07/31 22:07
>>578
朝鮮からの来日ルートは、多くは博多に船で来る。
九州の炭鉱で一部が吸われる。炭鉱労働は、1944年で4割以上が朝鮮人。
その後、残りの労働者は雇用の多い大都市に向かうが、大阪にかなり吸われる。
大阪は、企業が多く、戦後しばらくまで日本一の工業地帯だった。
587学生:03/07/31 22:12
日本史を勉強したいんですが、1冊で一通り網羅してあり、
分かりやすく、学問的レベルも高い本を教えていただけませんか?
588日本@名無史さん:03/07/31 22:24
大書店の大学受験コーナーへ!
文英堂の「日本史必修用語事典」は年表対照式だから時代順になってて
1冊でわかりやすいかも?
589学生:03/07/31 22:29
>>588
どうもありがとうございます。
用語辞典ですか。今度みてみます。
他に教科書タイプでおすすめの物はありませんか?
590582:03/07/31 22:31
>>583-585
丁寧な解答ありがとうございました。
村方騒動の具体的な様子を実感できた気がします。
591日本@名無史さん:03/07/31 22:38
戦前の昭和天皇は普段からべからずとか難しい言葉を使ってたのですか
592日本@名無史さん:03/07/31 22:53
>>591
時と場所によって使い分けてたようです。
下問のとき、近衛や木戸と話すとき、家族と話すとき、おつきと話すとき、
会議のとき、などなど。
近衛や木戸には、ややくだけた感情表現をしてたようです。
593日本@名無史さん:03/07/31 23:05
戦後の「あっそ」とかよく使ってたけど
一般的な日本語は戦後になってから覚えたの?
それともそういう教育もうけたけど、ただ使わなかっただけ?

でも戦後すぐの巡業とか普通の日本語使ってたけど
594日本@名無史さん:03/08/01 01:35
>>593
ヴァカでつね!!!

それとも本気?W
595日本@名無史さん:03/08/01 01:37
>>592
>おつきと話すとき、

ドキドキ…ヒロヒロタンニ、ナニガ?!(・∀・)
596日本@名無史さん:03/08/01 08:58
ハマコーによると、宮沢賢治は人を殺したことがあるらしいですが本当ですか?
597山埼渉:03/08/01 15:44
>>589
「シグマベスト 理解しやすい日本史B」(文英堂)
これが一番丁寧で詳しくて、最新の学説も紹介しつつなおかつ分かりやすい。
598_:03/08/01 15:46
599山埼渉:03/08/01 15:47
>>596
共産党の宮本顕示と言い間違えたんです。
宮本顕示のリンチ事件については、立花隆「日本共産党の研究」(講談社文庫)
に詳しく書いてある。
600日本@名無史さん:03/08/01 15:50
はじめまして
読み方の分からないので質問です
福岡干孝
挟河城
の二つの読みを教えてください
601学生:03/08/01 23:02
>>597
おお!
どうもありがとうございます。m(__)m
早速読んでみます。

602日本@名無史さん:03/08/01 23:49
シグマは多方面で信頼性があるんだなぁ。
603山崎 渉:03/08/02 01:02
(^^)
604日本@名無史さん:03/08/02 02:13
質問です。
旧日本陸軍参謀 辻政信は戦後、政界に復帰しますが、その後東南アジアで失踪して
ますよね。いい歳したオッサンが、平和な日本からなんでわざわざあんなところに潜伏
したんでしょう。
ご教示くださいませ。
605日本@名無史さん:03/08/02 02:22
>>604
辻スレあるよ。

辻バカ日誌2〜学業優等実戦劣等
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1039686761/
606日本@名無史さん:03/08/02 03:18
ttp://village.infoweb.ne.jp/~fwky4834/
これなに?民俗板でもきいたけどあそこ人少のうて。
607日本@名無史さん:03/08/02 09:07
現在の大阪府には、4世紀末〜5世紀ぬかけて、仁徳陵(大山古墳)などの巨大古墳が多くつくられた。この期間の、わが国と東アジアとの関係について述べた文章として正しいものはどれか。次のア〜エから一つ選び、その記号を書け。
  
 ア 30余りの国を従えていた女王が、魏に使いを送っていた。

 イ 隋に使者を送るなど、隋と対等の立場で国交を開こうとしていた。

 ウ 朝鮮南部に支配する地位を認めてもらおうと、中国の皇帝に使者を送っていた。

 エ 倭の奴国が、後漢に使いを送り、皇帝から金印を授けられた。

教えてください。お願いしますm(_ _)m
608日本@名無史さん:03/08/02 10:21
>>607
あのさあ
こんな少し調べればわかるようなことを聞くなよ。
お願いしますm(_ _)m
609日本@名無史さん:03/08/02 11:39
確かに理系の俺でも即答だな。
610日本@名無史さん:03/08/02 13:17
>>608
>>609
そんなこと言って分からないんだろ?ほんとは
>>607 アだよ、ア。絶対にア
611日本@名無史さん:03/08/02 13:20
分からない・・・
612日本@名無史さん:03/08/02 13:28
613日本@名無史さん:03/08/02 14:12
本当は



が答え
614日本@名無史さん:03/08/02 14:47
オ 清朝に対し交戦するなど、帝国主義の第一歩を踏み出そうとしていた。

カ 勘合符を用いるなど、貿易での交流が行われた。
615山埼渉:03/08/02 15:26
消去法で
 


が正解でつ。
616日本@名無史さん:03/08/02 17:37
中国と通交したのは九州倭国だから、この中に正解はない
617山埼渉:03/08/02 18:43
>>601
「Story 日本の歴史 古代.中世.近世史編」(日本史教育研究会/山川出版社)
「   々      近現代史編」(々) 各本体950円

これも通史で重要なポイントに絞って説明されてるからお勧めです。
618604:03/08/02 20:29
>>605
ありがとうございます。
とても参考になりました。
619日本@名無史さん:03/08/03 08:01
江戸時代の海商銭屋五兵衛がアメリカやタスマニアに行ったことがあるとか
タスマニアから銭屋五兵衛の領土であるという石碑が出土したということを
聞きましたが、これにはどの程度歴史的事実の反映があるのでしょうか。
まったくのトンデモ説なんでしょうか?
620日本@名無史さん:03/08/03 10:50
>>619
普通の彼の経歴は以下のとおり。せいぜいロシア関係ですね。

>銭屋五兵衛 1773‐1852(安永2‐嘉永5)

幕末期の加賀国宮腰(みやのこし)の富豪の海運業者。
姓は清水,幼名茂助,俳号亀巣。

1789年(寛政1)家を継いでしょうゆ製造,質商,呉服商等を営んだが,1811年
(文化8)古船を買って海運業に転じ,36年(天保7)に隠居した後も経営に当たった。
40年,加賀藩天保改革に際して御銀(かね)(御用銀)裁許,御手船裁許となり,
以後,おもに回漕業と米相場によって急速に巨富を成した。
全国に支店34ヵ所,持船は約200艘を数えたともいう。

49年(嘉永2)三男要蔵名義で大規模な河北潟埋立新開(しんがい)に着手したが,
漁民の反対を受け,52年潟内に死魚が浮き,魚を食べて中毒死する者も出たため
流毒の疑いがかかり,その年9月,その男子や関係者とともに捕らえられた。

もっぱら投毒容疑で吟味を受けたが,世上には対ロシア密貿易や南部・津軽材木
買占め容疑説もあった。
しかしその確証は今もって得られていない。11月21日牢中で病死。     
621日本@名無史さん:03/08/03 12:02
江戸東京博物館で受け付けや案内をしている制服姿の女性たちは「学芸員」?
それとも、学芸員資格のないただの職員?
622日本@名無史さん:03/08/03 12:05
電話して聞くべし。
普通に考えれば、職員。
623日本@名無史さん:03/08/03 14:39
624日本@名無史さん:03/08/03 14:41
「法隆寺を建てたのは誰か?」「平等院鳳凰堂を建てたのは誰か?」

とかの問題で「大工さん」で不正解なのは何故ですか?
625日本@名無史さん:03/08/03 14:44
>>621
コンパニオン会社からの派遣です。
626日本@名無史さん:03/08/03 14:50
「近世日本国民史」って信頼できますか?
627日本@名無史さん:03/08/03 14:56
>>624
大工さんの名前を答えていないから。
628日本@名無史さん:03/08/03 15:00
「日光東照宮を建てたのは甲良宗廣」で正解ですか?
629日本@名無史さん:03/08/03 15:12
棟梁だけでは建てられないので不正解でつ。
630日本@名無史さん:03/08/03 15:25
いったい、何人書けば正解なのでしか…(((((;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
631日本@名無史さん:03/08/03 16:00
>>626
1、古い
2、資料も古い、思い込みも古い
3、徳富蘇峰がどのような人物か知ってますよね?
4、文筆家というよりアジテーター
5、文書校訂者は平泉澄。どういう人物か知ってますよね?
6、よって、常識のある人なら、距離を置いて読むでしょう
632日本@名無史さん:03/08/03 18:09
>>631
レスありがとうございます。
う〜ん・・、偏ってるんですかね?でも気になる本が有るんです。
古本で、3冊で3000円だから買おうと思います。
だけど、それは普及版なんですけど、内容は同じですよね?
あと、どんな文体か分かりますか?ネット通販なんで確認できないんです。

633山埼渉:03/08/03 19:27
>632
>古本で、3冊で3000円だから買おうと思います。
だったら買えばよろしい。内容は同じです。
多少昔の文体でも大体読めるよ。
634日本@名無史さん:03/08/03 19:31
講談社学術文庫の分は、もう絶版なんですか?>蘇峰の国民史
635日本@名無史さん:03/08/03 19:51
>>633
ありがとうございました。
636日本@名無史さん:03/08/03 22:30
>>635
ちょちょ、まって。
普及版て、昭和10年ごろの出版ですよ。
私なら、漢字に自信がないのでためらいます。

アマゾンで講談社学術文庫(1979年ごろ)の中古本が、
だいたい800円前後で売ってましたよ。
こっちのほうが読みやすいのでは?
637日本@名無史さん:03/08/03 22:41
なんで鎖国になったんですか?
今現在の中国 朝鮮半島を
見たら今すぐにでも 鎖国してほしいんですが…
徳川幕府は正しかったとおもいます!
638日本@名無史さん:03/08/03 22:43
>>637
いまから鎖国?
北朝鮮みたいになりたいのか?
639日本@名無史さん:03/08/03 22:45
>>637
現在の日本の食料自給率は約40%です。
先進国中最低の自給率なんです。
640日本@名無史さん:03/08/03 23:21
なるほど。
641日本@名無史さん:03/08/03 23:26
いや…
米とか欧とかが相手ならいいんだけど
中 とか 北 韓 ならって
おもいました。
642日本@名無史さん:03/08/03 23:26
>>641
「相手」?なんのこと?
643日本@名無史さん:03/08/03 23:30
面倒くさいから もう
いいや 
644日本@名無史さん:03/08/03 23:33
鎖国って貿易もしないの?
中国なしじゃ日本経済はやってけないでしょ。
中国も同じ。
GDPに対する、輸出寄与度は高い。
経済界は東アジア自由貿易圏まで考えてるよ。
645日本@名無史さん:03/08/03 23:33
>>643
そんな事ではいつまでも成績が上がりませんよ。
646日本@名無史さん:03/08/04 01:04
>>637-644
江戸時代の「鎖国」は全く外交がなかったわけでもないし、貿易をしなかったわけでもないんだがな
ちなみに637氏には申し訳ないが
その江戸時代において徳川幕府が数少ない外交を結んでいた国の一つが李氏朝鮮なのだが。
647日本@名無史さん:03/08/04 01:48
なぎなたと長柄はなんで廃れたんですか
突く槍よりなぎ払えるなぎなたのほうが便利だと思うんですけど
648日本@名無史さん:03/08/04 01:58
>>647
江戸時代に入ってから刀は男の武器、長刀は女の武器になりました。
649日本@名無史さん:03/08/04 02:35
薙刀、長柄が廃れたのって室町時代だろ?
まじでなんでだろう?
650日本@名無史さん:03/08/04 02:38
すたれていません
651日本@名無史さん:03/08/04 02:39
>>649
誰の小説を読んでそう思い込んでいるんだ?
652日本@名無史さん:03/08/04 03:03
なんかそんな問題が出たんよ、昔試験で。
「室町期になると武器も様変わりし源平の時代より主武器だった
(なぎなた)、長柄は姿を消し(長槍)にとって代わられた」
カッコ内をうめよってかんじの
653日本@名無史さん:03/08/04 10:38
薙刀は刃が大きいから金がかかるんじゃないか?
扱うにも時間がかかるし。

素人は長巻、玄人なら長槍ってとこで。
654日本@名無史さん:03/08/04 12:15
>薙刀
鎌倉時代までは,薙刀は徒歩(かち)の雑兵や僧兵の兵器とされ,長大化していった。
戦国時代になると鍔(つば)付薙刀もできたが,足軽の集団による戦闘様式が中心となり,
槍の利用が増え,薙刀はしだいに衰えた。

江戸時代に入って薙刀は,主として女子の護身術として用いられ,武家の女子にとって
必須の心得とされた。
剣術同様多くの流派も生まれ,基本の型が考案された。戦国末期以来のおもな流派には,
天道流,新当流,先意流,常山一刀流,正木流,直心影流,月山流,武甲流などがあり,
現代にまで盛行している主要な2流は天道流と直心影流である。

明治以降薙刀は,男子の柔剣道とともに女子の武道として発展し,1904年大日本
武徳会に薙刀部が設けられ,さらに学校体育に準正課として採用されて,とくに
昭和10年代にその最盛期を迎えた。
655_:03/08/04 12:17
656日本@名無史さん:03/08/04 12:26
>長柄
長柄ってのは長槍の一種でないの?
戦国期には長槍は使われていたが、大阪の陣では鉄砲の割合が40%。
江戸の平和が続くと、長槍は儀礼化・家格の象徴になった。

長さは6尺または9尺の〈手舶(てやり)〉から一丈(約3m)ないし2間(1間
は約1.8m),3間に及ぶ〈長柄(ながえ)〉があり,アカガシを材として,
江戸時代以前には素地(きじ)の柄が多く,長柄には狂わぬように割竹
をあわせて魚膠(にべ)で練りつけた打柄が用いられた。
657日本@名無史さん:03/08/04 12:54
満洲国について質問です。

日本の太平洋戦争の開戦理由に、アメリカの石油・鉄鋼禁輸やABCD包囲網に対抗して
インドネシアの石油の確保というのがあったはずですが、満洲の油田開発(ターチン)や
鉄鉱石採掘(アンシャン)でしのぐことは出来なかったのでしょうか。
満州国の資源開発の状況を教えてください。

また、サハリンのオハ油田を確保する(北進論)のは戦略的にどう見られていたのでしょうか。
658日本@名無史さん:03/08/04 13:47
 郷士庄屋格ってなんですか?郷士格・庄屋格なら知ってるのだが・・・。
659日本@名無史さん:03/08/04 14:00
郷士・庄屋格?
660日本@名無史さん:03/08/04 14:36
>>657
アンシャンには満鉄が製鉄工場を作ってます。大規模化されるのは、
人民共和国になってからです。

ターチンでの油田発掘成功は、1960年ごろです。
石炭と鉄鉱石は採掘できたようですが、石油は技術能力的に
見つけるのが無理だったようです。

北サハリンのオハ油田は、1920年の尼港事件の見返りに、日本が45年間の
採掘権を手にしてます。
協定成立後オハに中里重次・海軍中将を社長とする北樺太石油が誕生して,
最盛期には年間19万5千トンを日本に送ります。
良質の原油が帝国海軍に供給されますが,日本がナチスドイツと同盟を結び
更に独ソ戦が始まるとソ連の反発が強まり、1944年、オハ油田の権利と資産は
500万ルーブルでソ連に売却されます。
ソ連とは、事を構えたくなかったようです。
661日本@名無史さん:03/08/04 15:09
すみません。教えてください。
明治以前の住所表記がうまくイメージできません。
例えば、江戸に住んでいた人は武蔵国○○郡○○町と書いていたんでしょうか。
住所表記には「江戸」という言葉は出てきたんでしょうか。
そもそも江戸って国とか藩とはどういう関係なんでしょうか。
辞書は、東京の前称と書いたりしてるんですが、どうもピンと来ないんです。

662日本@名無史さん:03/08/04 15:13
江戸は武蔵国豊島郡ですよ。
ただ、当時は「御府内」として別格扱いだと思います。

あと、昔は今みたいな厳密な住所表記はしていません。
みんな、けっこうアバウトに表記してます。
663662:03/08/04 15:17
ありがとうございます。
江戸というのは、豊島郡の範囲とイコールなんですか?
664662:03/08/04 15:20
豊島郡の一部です。
665661:03/08/04 15:24
たびたびありがとうございます。
もっと勉強してみます。
レス番間違えてすみませんでした。
666日本@名無史さん:03/08/04 15:49
もうしわけないが立てられないので
↓の内容ですれたてして貰えませんか?
667日本@名無史さん:03/08/04 15:50
我々の歴史観に大陸人の潜在意識が刷り込まれているのでは無いか、
という疑問が弥生時代問題等、昨今の科学技術によっての
大陸文化に対しての日本文化の優秀性の発覚で現実味を帯びてきた。
東洋の歴史に対する大陸人学者の発言力はいまだ強く、
あるいは古代の史料レベルにおいても、
無意識的にも日本文化が矮小化されて来たのではないか、
という疑問は日本-大陸間の長きに渡る歴史を見ればもっともな事ではある。

さて、そこで私は漢字は日本起源なのではないか?
という従来タブー視されてきた問題にあえて触れてみたいと思う。
この問題提起が、日本観の見直しのきっかけとなれば幸いである。

スレッドたてにあたっては、言語学板に立てるか迷ったが、
あくまで歴史全体に対する意義として、討論に幅を持たせる為
日本史板にたてた次第である。
668日本@名無史さん:03/08/04 15:51
ちなみにタイトルは「漢字は日本起源?!」でよろ
669日本@名無史さん:03/08/04 16:22
>661
江戸を「東京の前称」とか「現在の東京」とか書いてる辞典類は多いけど
確かに少し不親切な気がするね。東京と言っても都か府か市か23区かいろいろある。
だいたい、江戸ってのは、東京「都」「府」「市」のような行政機構だったのかね。
あとは詳しくないから知りません。スマソ
670日本@名無史さん:03/08/04 16:22
んなDQNスレ、誰が立てるか、ヴぉけ。
671日本@名無史さん:03/08/04 17:19
十九世紀中葉には既に列強の間で日本では金がとれないという情報が
行き渡っていたと思いますが、その情報を伝えたのはやはりオランダでし
ょうか。あと具体的な年代が分かれば教えてください。
672日本@名無史さん:03/08/04 17:43
>>667-668
初心者板で頼め
673日本@名無史さん:03/08/04 17:51
「江戸」自体は単なる地名で「御府内」というのも朱引地内をさす美称。
「都」「府」「市」に相当する行政機構は「町奉行」とか「町年寄」であって、
江戸全体を示す行政区画の名称はない。
674sage:03/08/04 18:17
>>673
『新編武蔵風土記稿』では江戸の中心部は遠慮があるとか言って記述を
避けてましたね。あれはどの範囲だったか・・・。
実は自分で持っていながら調べるのが面倒だという(笑)。
675674:03/08/04 18:18
間違ってさらし上げになってしまいますた。
676日本@名無史さん:03/08/04 21:13
>>658
一般的な用語ではないようなので
この言葉だけ引っ張ってこられても、みなさん答えようがないと思う。

ちなみにググって見ると
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/futagami/jyouheniseki.htm
というのが引っかかったが、研究者のサイトではないようだ。
677日本@名無史さん:03/08/04 21:15
>>676  これを見て????と思ったんです。
678日本@名無史さん:03/08/04 21:22
  郷士は維新後士族になったそうですけど郷士格の家はどうだったんですか?
679日本@名無史さん:03/08/04 21:39
>>660
回答ありがとうございます。
680日本@名無史さん:03/08/04 21:43
大庄屋の中には士族になった家があるようですが、どうしてですか?
681日本@名無史さん:03/08/05 00:04
戦前の日本人って昭和天皇を崇拝してたのでしょうか?
例の玉音放送の映像でも土下座してる人間の後ろでは普通に歩いている人間もいるし

フセインの銅像と同じで一部だけを写して
さも国民みんながそうであるかと思わせてるんじゃないのですか?
682日本@名無史さん:03/08/05 00:12
>>680
私の知っている範囲では、大庄屋の家が士族になったという例を見たことがないので
申し訳ないですが、答えられません。
もう少し詳しい情報をお教えいただけるとありがたく思います。
683日本@名無史さん:03/08/05 00:14
『ポツダム宣言は7月26日に発表されました。これに対して、日本はいったん
これを「黙殺する」と声明した上で、ソ連に対して和平を斡旋してくれるよう
依頼します。ところがこの「黙殺」は海外では「無視」と誤訳されて報道され
てしまい、8月6日広島に原爆投下。斡旋を頼んだ相手のソ連は日ソ不可侵条
約を破って9日参戦・・・・』
ココから引用⇒ttp://www.ffortune.net/social/history/nihon-mei/syusen.htm

俺は最近までこの話を鵜呑みにしてたんだけど今はちょっと考えが変わった。
ジパングって漫画を読んでからなんだけどね。

アメリカが核の抑止力を誇示する為にはどーしても前例が必要だったんだよね。
もし上記の誤訳が無ければ原爆は投下されず世界は核兵器使用の無いまま
現代に至る・・・ってな話はあり得ないと思うな。

歴史にもしもは無いとよくいいますが、あったとして・・・
日本がポツダム宣言を即時受け入れたとしても、アメリカは日本に原爆を落とし
たと思う。場所や時期は多少変わってたかもしれんけど、何か適当な理由付けて・・・
終戦間近のあの状況でアメリカが今後の自国の為に核の脅威を世界に示すには、
日本が最適な舞台だったんだな、と最近思う。

今も昔もあんまり変わらん、亜米利加。
684日本@名無史さん:03/08/05 00:50
>>683
この漫画を読んでいないので教えていただきたいのですが
政府声明というのは
昭和20年7月28日の鈴木貫太郎首相の記者会見のことですか?
これは同年7月30日付朝日新聞に
「私は三国共同声明は、カイロ会談の焼き直しと思ふ。政府としては何等価値あるものとは思はない。ただ黙殺するだけである。われわれは断固戦争完遂に邁進するだけである。」
と出ています。
これなら「無視」と翻訳しても、あながち誤訳とは言えないと思うのですが。
685日本@名無史さん:03/08/05 09:51
>>682 529 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 03/07/27 04:20
大庄屋で先祖が武家なら江戸時代は郷士で、明治には士族になっている家も少なくない。
530 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 03/07/27 11:43
大庄屋の中には経済的に困窮した藩に金を貸していた家もあり、下級藩士など比較にならないくらい裕福だったし、
先祖が武家の場合(藩主に家系史料を提出して認められたもの)は、藩士扱いの富裕郷士として処遇され、明治以後は士族になっている家も多い。

>>530
藩士扱いどころか、客分扱いの藩もある。
客分扱いってことは、藩主の家来ではなくってお客さんってこと。
だから家老にも藩主の名代として来たとき以外は頭を下げる必要はない。
藩主にのみ頭を下げればいいわけだ。
こういうのがあったんです。

686_:03/08/05 10:00
687日本@名無史さん:03/08/05 10:23
>>683
「アメリカは戦後のソ連との対抗を考えて、原子爆弾を使用した」
と、ちょっと前の中学生の歴史の教科書には、はっきりと書いてあったが。。。

無視する ignore、その他
黙殺する ignore、その他
英語でもかぶってるね、誤訳とまではいえない。

対テロ戦争前の日米会議で「立場をはっきりさせてほしい」というのを
「戦場に日の丸を立ててほしい」と、誤訳したのは外務省の役人か?
「わざとか?」とも言われてる歴史的誤訳。
688日本@名無史さん:03/08/05 10:34
>>681
皇居前の土下座フィルムは、メガネの学生が泣いてるのと、
女性が泣いてる場面。
ラジオ放送を聴いてうなだれてるのは、焼け跡の場面。
ここら辺の種類しか見たことなくないですか?

あれは、ニュース映画フィルムの使い回しです。
つまり戦意高揚のニュース映画をつくってた会社がそのまま撮りました。
皇居前広場に用意したカメラとスタッフのまん前で泣いてるわけです。
「やらせ」も入ってるかもしれませんね。
特に、メガネの学生の泣く場面など今の北朝鮮風な泣き方ですからねw。

実際は、東京大空襲後の陛下の視察に敬礼をしない民衆が増えたり、
近衛が大和に乗せて特攻させようとしたり、複雑な立場だったようです。

また、玉音放送を聞いた側では、「ホッとした」「空襲がもうこない」
「助かった死ななくてすむ」「やっと終わったか」あたりが多かったようです。
689_:03/08/05 10:41
690日本@名無史さん:03/08/05 11:21
>>671
金産出量は秘密にされていたと思われます。

幕末開港後は、金がかなり海外に流れていますよね。
19世紀中は江戸初期には及びませんでしたが、
佐渡金山は明治に洋式技術で活況を取り戻してます。
金の産出量は1940年が最高で、本土のみで27tです。
691日本@名無史さん:03/08/05 11:29
>>685
郷士の多くは明治維新で士族になるが
そもそも郷士という制度のない藩の方が多いのでは?
692日本@名無史さん:03/08/05 11:44
郷士は最初平民に入籍したそうで後に士族に編入したようですがこのへんの経過というか理由はなんですか?
693日本@名無史さん:03/08/05 13:39
>>683
以下の行為は恥ずかしいことだと覚えておきましょう。

「ソースは2ちゃん」
「ソースはマンガ or アニメ or 映画」(どこまで脚色でどこから史実か分からないからね)
「ソースは木村愛二」
「ソースは広瀬隆」
「ソースは大田龍」
「ソースは(以下略
694日本@名無史さん:03/08/05 16:14
>>692
明治2年、藩士は一門以下平士にいたるまですべて士族と称した。
このうち微禄の者は同年12月に卒とされ,士族は18等,卒は3等に分けられた。
72年1月,卒は廃止され,世襲の卒は士族へ,一代抱えの卒は平民に編入された。  

郷士は最初は士族、次に卒族、そして72年にほぼ士族に入りました。
1代抱えの武士は、最終的には平民になりました。

21等にも分けられ、複雑すぎたのと、経費の関係が理由と思われます。
695日本@名無史さん:03/08/05 16:20
【クレジットカードのショッピング枠を現金化!】

クレジットカードで買い物をすると、商品代金の80〜90%のキャッシュバック!!
10万円の買い物をすれば8〜9万円の現金がお手元に!!

■■朝日カード■■
http://www2.pekori.to/~ryu/asahi/
696山埼渉:03/08/05 17:05
>>693
岩波書店や朝日新聞からの引用は、恥ずかしいことですか。
697じゃ子:03/08/05 17:19
しつもーーーん!
何か夏休みになって厨房が増えたのか、やたら日教組史観を振りまくヤシに掲示板で遭ってビックリ。
このまま討論しつづけると頭が痛くなりそうなんで、放置プレイをするか説教するか、どっちの対応がいいんでしょう(切実)
698日本@名無史さん:03/08/05 17:21
>>697
説教されなさい。
699日本@名無史さん:03/08/05 17:22
>>697
放置プレイ推奨
700日本@名無史さん:03/08/05 17:48
>>696
後者は恥ずかしいですが、前者は執筆者によります。
まず執筆者の素性や、他の著書、発言の傾向を確認しましょう。
701じゃ子:03/08/05 18:08
>696

説教しますた。速攻で「右翼!」と罵られますた。あまりに早いカキコにおねーさんびっくりです。

>297

やはり放置プレイにしよかなと思います。
何だかものすごい数のレスをその厨房君がしてくるので返信する気がうせる。
702日本@名無史さん:03/08/05 18:53
平賀源内を書いた小説を読みたいのですが
お勧めのものはありますか?
703日本@名無史さん:03/08/05 20:26
>>702
小説を読む前に、吉川弘文館の人物叢書でもお読みになればいかがかと。
704日本@名無史さん:03/08/05 20:30
>>703
しんじゃえ
705日本@名無史さん:03/08/05 21:00
>>704
なんのこっちゃ
706GET! DVD:03/08/05 21:00
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
☆★☆★☆★ 新商品 ゾク・ゾク 入荷 ☆★☆★☆
★☆                       
☆★ 送料激安!!  送料激安!!  送料激安!!
★☆      http://www.get-dvd.com.tw      
☆★  激安アダルトDVDショップ        
★☆    お買い得!! 1枚500円〜 急げ!   
☆★    インターネット初!「きたぐに割引」  
★☆    北海道・東北の皆様は送料も激安!   
☆★      http://www.get-dvd.com.tw      
★☆        スピード発送!        
☆★      http://www.get-dvd.com.tw      
★☆        商品が豊富!         
☆★      http://www.get-dvd.com.tw      
★☆                       
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
707日本@名無史さん:03/08/05 21:08
708日本@名無史さん:03/08/05 22:33
709GET! DVD:03/08/05 22:34
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
☆★☆★☆★ 新商品 ゾク・ゾク 入荷 ☆★☆★☆
★☆                       
☆★ 送料激安!!  送料激安!!  送料激安!!
★☆      http://www.get-dvd.com.tw      
☆★  激安アダルトDVDショップ        
★☆    お買い得!! 1枚500円〜 急げ!   
☆★    インターネット初!「きたぐに割引」  
★☆    北海道・東北の皆様は送料も激安!   
☆★      http://www.get-dvd.com.tw      
★☆        スピード発送!        
☆★      http://www.get-dvd.com.tw      
★☆        商品が豊富!         
☆★      http://www.get-dvd.com.tw      
★☆                       
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
710702:03/08/05 23:01
>707
手当たり次第、ということでしょうか?
晩年の狂気を物語仕立で読みたいと思ったのですが。
とりあえず読んでみます。ありがとうございました。
711日本@名無史さん:03/08/05 23:07
>>683
誤訳されようがされまいが
休戦条件の受諾以外の対応であれば戦争状態の継続であり
当然、原爆も投下の対象となるのが自然。

>もし上記の誤訳が無ければ原爆は投下されず世界は核兵器使用の無いまま
>現代に至る・・・
ってのがありえないのは当たり前

それ以外は妄想の域をでないが
        ,,,--─===─ヽ/へ
      /iiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡|≡ヾ ヽ
     iiiiiiiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡≡|≡ミミヾ丶
    iiiiiiiiiiiiiiiiiiii/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ミiiiiiヽ
   iiiiiiiiiiiiiiiiii/             \iiiiiiiゞ
   iiiiiiiiiiii/                \iiヽ
  iiiiiiiiiiiiiii《    ━━━'/  ヽ━━━ ヽミヽ
 ...iiiiiiiiii彡/      __,.::  :: __  ヽiiiii|
 ..iiiiiiiiiiiii》|             :::      |iiiii|
 iiiiiiiiiiiiiiii|,                     |iii|
..iiiiiiiiiiiiiiiiii,         ( ● ● )      .|iiii|
iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii       》━━━━《       |iiiii|
iiiiiiiiiiiiiii《《《ヽ     》 / ̄ ̄\ 《     |iiiiiiii|
iiiiiiiii《《《《《《《《    《《 \ ̄ ̄/ 》》   |iiiiiiiiiii|
iiiiiiiiiiii《《《《《《《《《《《 》》   ̄ ̄  《《 》》》》》iiiii|
iiiiiiiiii《《《《《《《《《《《《《《《《《《《《》》》》》》》》》》》》》》iii|
iiiiiiiiiiiiiii巛巛巛巛巛巛巛巛巛》》》》》》》》》》》》》》IIII
iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii巛巛巛巛巛巛巛巛》》》》》》》》》》》》iiiiiii
                     ■■■■■■■■
                  ■■■■■■■■■■■■
                 ■■■■■■■■■■■■■■
                ■■■■■■ 〜〜 ■■■■■■
              ■■■■■■〜〜〜〜〜〜■■■■■■
             ■■■■■ 〜〜〜〜〜〜〜〜 ■■■■■
             ■■■■■   ■■〜〜■■   ■■■■■
           ■■■■■  ■■■■〜〜■■■■  ■■■■■
           ■■■■         ||          ■■■■
          ■■■■■   〓〓〓〓||〓〓〓〓   ■■■■■
          ■■■■   〓〓     ||    〓〓   ■■■■
          ■■■■        //  \\       ■■■■
          ■■■■      //( ●● )\\     ■■■■
          ■■■■    // ■■■■■■ \\   ■■■■
          ■■■■■  / ■■■■■■■■ \  ■■■■■
          ■■■■■   ■/〓〓〓〓〓〓\■   ■■■■■
          ■■■■■■ ■ /▼▼▼▼▼▼\ ■ ■■■■■■
          ■■■■■■■■■ ▼▼▼▼▼▼ ■■■■■■■■■
           ■■■■■■■■■   ■■   ■■■■■■■■■
           ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
           ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
            ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
              ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
              ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
□□□□□□□□■■■■■■■■■■■■■□□□□□□□□□□□
□□□□□□□■■■■■■■■■■■■■■■□□□□□□□□□□
□□□□□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□□□□□□□□□
□□□□□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□□□□□□□□
□□□□□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□□□□□□□
□□□□■■■■■□□□□□□□□□□□■■■■■■□□□□□□
□□□□■■■■□■■■□□□■■■■□□■■■■■□□□□□□
□□□■■■■□□□□□□□□□□□□□□□■■■■■□□□□□
□□□■■■■□□■■■□□□■■■□□□□■■■■■■□□□□
□□□■■■□□■□□□□□□□□□■□□□□■■■■■□□□□
□□□■■■□■□□■■■■□□□□□■□□□■■■■■□□□□
□□■■■■□□□□■□□□□□□□□□□□□□■■■■■□□□
□■■■■□□□□□■■■■□□□□□□□□□□■■■■■□□□
□■■■■□□□□□□■■■■■■□□□□□□□■■■■■■□□
□■■■□□□□□■■■□□□□■■□□□□□□■■■■■■□□
□■■■□□□□□■□■■■■■□■■□□□□□■■■■■■□□
□■■■■□□□■■□■□□□□□□■■□□□□□■■■■■□□
□■■■■□□■■□□■■■□□□□■■□□□□■■■■■■□□
□■■■■■■■■□□■□□□□□□□■■□■■■■■■■■□□
□■■■■■■■■□□■■■■■□□□■■■■■■■■■■■□□
□■■■■■■■■□□□□□□□□□■■■■■■■■■■■■□□
□□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□□□
□□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□□□□
□□□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□□□□
□□□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□□□□□□
□□□□□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□□□□□□□□
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
715日本@名無史さん:03/08/07 01:11
平安時代と戦国時代の日本の人口ってどれくらいだったのでしょうか?
716日本@名無史さん:03/08/07 02:05
>>715
平安時代で500万〜600万人
戦国時代は1000万とも2000万とも言われているようですが。
717日本@名無史さん:03/08/07 05:15
>>683
「無視する」と「黙殺する」は日本語でも同じ意味。ignoreと訳しても誤訳とはとても言えません。
訳が悪いのではなく、鈴木首相の発言の時点で「まだコメントできない」という意味で「黙殺」と
言ったのが問題。何か提案をした時に「黙殺する」と言われたら誰だろうと拒否の意で受け取るでしょうに、
この件は完全に日本側の自爆です。素直に「目下検討中」とでも言えばよかったんですが。
718おすすめ:03/08/07 05:28
☆美女の○○○を見放題(^^)v!☆
http://endou.kir.jp/yuminet/link.html
http://endou.kir.jp/marimo/link.html
719_:03/08/07 05:31
720日本@名無史さん:03/08/07 11:25
>>717
最もなご意見ではあるが、

鈴木内閣を「バドリオ内閣」と呼んだりして、その戦争遂行意志を疑う勢力も、
軍部にはあったようだし、

あの時点で「検討中」とか「ノーコメント」とかあいまいな表現をしたら、
その連中を刺激して、さらに政局は混迷しかねない。
主戦派のクーデターなどを惹起しては、さらに和平は遠くなる。

「黙殺」発言についての評価は、いわゆる「結果論」による評価に
ならざるを得ない、ということをお忘れなく。
(政治家は「結果」に責任をとるものだから「結果論」は当然かもしれないが)
721日本@名無史さん:03/08/07 18:32
教えてください。
武蔵とかの「国」は9世紀に66国2島に決まったあと
全然変更なかったんでしょうか?
722日本@名無史さん:03/08/07 18:37
明治維新後の変更
陸奥→磐城、岩代、陸前、陸中、陸奥
出羽→羽前、羽後
蝦夷地→渡島、後志、北見、日高、釧路、根室、千島など
723721:03/08/07 18:41
>722
ありがとうございます。明治維新までは変わってないんですね。
律令体制って偉大だったんですねえ
724日本@名無史さん:03/08/07 21:35
何で脱藩って罪になるんでしょう?
仕官を待ってる浪人だっているんだし、そいつらと交代させれば
良いだけの話じゃないの?
725日本@名無史さん:03/08/07 22:56
日本の封建制度、特に江戸時代中期以降においては、
家臣が主君を捨てたり変えたりするのは大きな罪です。

戦国時代は、よくありましたけどね。
726日本@名無史さん:03/08/07 23:21
ねつ造問題があったのって何県でしたっけ?
727日本@名無史さん:03/08/07 23:25
>>726
宮城と埼玉と・・・とにかくそこらじゅう。
728日本@名無史さん:03/08/07 23:27
捏造天国・中華人民共和国
729726:03/08/07 23:30
いっぱいあったのかぁ
俺のやってる参考書が5年前くらいのなんですが、
ちょっと気になりまして、、
730日本@名無史さん:03/08/08 00:11
>>724
主君の許可なく牢人となることを脱藩といいます。
主君の許可を得ないという点が問題なんですね。
家臣の側からの一方的な主従関係の破棄だから罪とされるのです。

ただ幕末に増加する脱藩の場合は
自己の政治的行為の責任が藩に及ぶのを回避するという意味合いもありましたから
こういう場合は黙認されてますね。
731他にもあるかも:03/08/08 04:42
【捏造遺跡リスト】

総進不動坂遺跡 (北海道新十津川町)
下美蔓西遺跡 (北海道清水町)
美葉牛遺跡 (北海道北竜町)
天狗鼻遺跡 (北海道浦臼町)
瓢箪穴遺跡 (岩手県岩泉町)
座散乱木遺跡 (宮城県岩出山町)
馬場壇A遺跡 (宮城県古川市)
鹿原D遺跡 (宮城県小野田町)
大原B遺跡 中島山遺跡 (宮城県色麻町)
青葉山B遺跡 青葉山E遺跡 住吉遺跡 山田上ノ台遺跡 富沢遺跡 北前遺跡 (宮城県仙台市)
小泉東山遺跡 (宮城県村田町)
志引遺跡 柏木遺跡 (宮城県多賀城市)
中峯C遺跡 (宮城県大和町)
高森遺跡 上高森遺跡 (宮城県築館町)
袖原3遺跡 (山形県尾花沢市)
上ミ野A遺跡 (山形県新庄市)
一斗内松葉山遺跡(福島県安達町)
竹ノ森遺跡  (福島県福島市)
原セ笠張遺跡 箕輪宮坂遺跡 (福島県二本松市)
大平遺跡 (福島県西郷村)
桐原遺跡 (群馬県大間々町)
下川田入沢遺跡(群馬県沼田市)
長尾根遺跡 長尾根南遺跡 長尾根北遺跡 小鹿坂遺跡 (埼玉県秩父市)
多摩ニュータウンNO.471―B遺跡(東京都稲城市)
732日本@名無史さん:03/08/08 04:45
神の手は調子こいてたら
ばれたんです。
733日本@名無史さん:03/08/08 12:45
>>693
禿同。
あと、思い込み厨の伊達遠江守家中と同レベルだと思われたくなければ、「ソースはネット」
とか「ソースはググってみたHP」っていうのもやめておけ。
すっごく人間として恥ずかしい行為だからな。それこそ回線切って首吊(ry方がマシみたい
な。

>>726
ネット上には伊達みたいな思い込み厨がいっぱいいて、ゴッドハンド級の捏造は日常茶飯
事だ。
ここでの話も、話半分くらいに聞いておいた方がいいと思われ。
734日本@名無史さん:03/08/08 12:49
「ソースは井沢元彦」
「ソースは古田武彦」
「ソースは梅原猛」
「ソースは(ry
735日本@名無史さん:03/08/08 15:16
>>724
>>725氏、>>730氏のご説明で十分ですが、
ひとこと蛇足を付加えます。

侍というのは今でいう「軍人」です。
主君から動員がかかると、いつでも出陣しなければ
ならないわけですね。
そのために城下町に集住しているわけです。
建前では。

「脱藩する」というのは、いわば「軍からの脱走」
のようなもの、と考えて頂ければ。
736日本@名無史さん:03/08/08 15:28
単純に、リーマンが辞表も出さずに失踪することを考えたら如何?
737日本@名無史さん:03/08/08 23:32
731に書かれてる遺跡って完璧になんの価値もなくなったん?
旧石器じゃなくて新石器遺跡としての価値がある奴とかないのだろうか

座散乱木とか上高森とか馬場壇Aとか普通に学校で習ってたのがアホらしい
738日本@名無史さん:03/08/09 13:55
三等士族の下の郷付銃卒の詳しい解説をお願いします。
739日本@名無史さん:03/08/09 15:50
江戸開城のあと、大奥の女性たちはどうなったんですか?
実家が没落してたり、身寄りがいない人はお妾奉公や遊女に転落ですか?
740日本@名無史さん:03/08/09 20:59
塀には板塀、土塀などありますけど格式によって違うのですか?それとも個人的趣向?
741日本@名無史さん:03/08/09 23:54
戦前何らかの功績で男爵を授爵するようなことがあったそうですが功績により士族に編入ということはなかったのですか?(十津川郷士など維新時を除いて)
742日本@名無史さん:03/08/10 02:21
ところで柳生十兵衛の実名は三厳ですが、本当は光厳ということはないのかな?
将軍と同じよみをもつ実名って当時有り得たのだろうか?
とくに十兵衛は家光の側近く仕えていただけに少し不思議。

あるいは大賀弥四郎みたいに名を変えられたとか。
743日本@名無史さん:03/08/10 08:39
日本で最初にトムジェリが放送されたのっていつなんでしょ。
744日本@名無史さん:03/08/10 09:07
>>743
昭和39年らしいです。
745日本@名無史さん:03/08/10 13:54
>>739
一概に言うことはできませんが、身寄りのない人の一部は、徳川家で引き取っています。
将軍職はなくなっても、大名としての徳川本家は残ったからです。
まず大奥似あがること自体が、しっかりした家の娘さんですので、実家や身寄りがまるでないという人は少なかったと思います。
だから、意外とさばけていて、大奥上がりの娘さんなら結婚相手として引く手あまたでした。
だから逆に吉原に引っ張られる(背徳的な快楽が得られる)、新政府関係者に引っ張られるものがいたことは事実ですが・・・
746日本@名無史さん:03/08/10 15:33
>>741
あまり聞きませんねぇ。

1914年の戸籍法の改正で身分登記制は廃止されたから,以後の士族称呼は
たんに家系が武士であったことを示すにとどまった。
747日本@名無史さん:03/08/10 15:59
新規の士族編入はないと思います。
維新後に北海道に移民して士籍を失った旧仙台藩士たちが、
明治中期に士籍を回復したというケースはありますが。
748741:03/08/10 16:36
>>746-747 ありがとうございます。
749日本@名無史さん:03/08/10 19:12
〇〇に過ぎたるものが二つあり

家康に過ぎたるものが二つあり唐の頭に本多平八
三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城
松山に過ぎたるものが二つあり河原ぽいとに千秋の寺
本所に過ぎたるものが二つあり、津軽大名、炭屋塩原
新潟に過ぎたるものが二つあり、万代橋と新潟県庁
駿河に過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠
岩槻に過ぎたるものが二つあり、児玉南阿に、時の鐘
秋元家に過ぎたるものが二つあり、無の字の槍と岩田彦助
とても面白いので他にもいろいろ教えてください。

で、たてようかなって思ったんですが、やっぱりつまらないしょうか?
750日本@名無史さん:03/08/10 20:09
大奥物の映画なんかで将軍が側室と同衾するとき、
女性は全裸になっても将軍は白の寝間着を着たままですが、
本当にそんなセックスだったんでしょうか?
751山埼渉:03/08/10 20:48
明治維新後、日本の国名が「大日本帝国」と決まったのはいつですか。
752日本@名無史さん:03/08/10 20:52
1889年の「大日本帝国憲法」でいいんでは?
753日本@名無史さん:03/08/10 21:16
高宮太平というのはいかなる人物ですか?
朝日の記者だということしかわかりません・・・
754日本@名無史さん:03/08/10 21:40
>>749
そんなあるとは知らなんだ。サンクス。
話題を広げられる自信があれば、立ててもいいんじゃない?
俺は知識不足なのでROMしかできんが。
755日本@名無史さん:03/08/10 22:16
>>750
どうも全裸のエッチは下品なものと思われていたような。

将軍や殿様のエッチの時は隣の部屋で聞き耳を立てている係りがいた。

フランスは公開エッチだっけ?
756日本@名無史さん:03/08/10 22:49
>>754
う〜ん。実際、ググってみて調べたんですよ。
ネタもできるかもしれないので広がると思ったんです。
ただ、私は知性に乏しいので面白いネタで話題を広げる
事ができないもので。
しかも、立てられませんでした。
757日本@名無史さん:03/08/10 22:50
>>755
将軍と側室の同衾の時は二人を挟むように大奥の人間がいっしょに布団に入る。
758日本@名無史さん:03/08/10 22:57
天皇のセックスにもおつきがつきます。
今は??
759日本@名無史さん:03/08/10 23:05
>>751
明治憲法で正式国号は「大日本帝国」ですが、
通常は日本といっていたようです。

「1934年の文部省臨時国語調査会では,ニッポン(ニホンでなく)を正式呼称
とする案が議決されたが,法律制定には至らなかった」
と、ウダウダしてます。
760日本@名無史さん:03/08/10 23:13
>>753
戦争前夜に仲の悪かった朝日と陸軍のコンタクトをつけようとした記者のようです。

人間緒方竹虎 
米内光政(三代宰相列伝) 
天皇陛下 
昭和の将師 
などの本を書いてます。読んでいけばわかるでしょう。
761日本@名無史さん:03/08/10 23:36
>>755
15世紀末のイタリア貴族(つーか法皇の庶子なんだが)が
フランスだかスペインだかの貴族の姫と政略結婚をしたときに、
「確かにエッチしました」という証人を、横の部屋だか同じ部屋だかに
おいておいて、1回終了ごとに合図したって話なら聞いたことがある。

そいつは後に、妹の政略結婚相手に、
「わたすは不能でした」という誓約書を書かせて、結婚を無効とさせ(当時離婚は不可)
他の相手と、もう一度政略結婚をさせてもいる。

スレ違いのうえに亀レス、スマソ。
762日本@名無史さん:03/08/11 09:15
フランスは公開出産ではなかったかと思った。
763日本@名無史さん:03/08/11 20:30
>>760
ありがとうございますた
764日本@名無史さん:03/08/12 10:28
age
765日本@名無史さん:03/08/12 10:41
で、将軍は寝間着を脱がずにセックスしてたのか?
766日本@名無史さん:03/08/12 11:54
大室ネタって、どの程度まで信用できるんでしょうか?
全くの捏造、妄想ですか?

たまたま、世界史板見てたら、類似のスレが失笑を買っていたので・・・
767受験生:03/08/12 16:29
平安期の農民についての質問なのですが
農民の逃亡と浮浪の意味のちがいがよくわかりません。
浮浪:公民が不法に他所にある状態
逃亡:公民が無断で他所に移住
となっているのですが。どこで聞けばよいのかよくわからなかったので
ここで聞いてみた次第です。
768日本@名無史さん:03/08/12 20:57
>>767
浮浪も逃亡も本願地を離れて他所にあるという点では同じですが
調・庸を出す者を浮浪、出さない者を逃亡と、令では規定されています。
769日本@名無史さん:03/08/12 20:58
>>768の訂正
本願→本貫
770受験生:03/08/12 23:23
>>768
なるほど〜一歩志望校に近づきました
   ありがとうございます。
771日本@名無史さん:03/08/12 23:39
先祖が慶喜の祐筆のひとりだったらしいのですが、
どんな文献を見れば確認できますか?
(たぶん頭などといった偉い人じゃないと思います。)
772日本@名無史さん:03/08/12 23:55
>>771
「江戸幕臣人名事典」(新人物往来社)をごらんになればよろしいのでは?
773日本@名無史さん:03/08/12 23:59
続徳川実紀の「慶喜公御実紀」は?
あと新人物往来社から幕末の幕臣人名辞典が出ていました。
いずれも大きな図書館なら置いてあるはずです。
774日本@名無史さん:03/08/13 00:08
>>773
組頭ならともかく、単なる右筆だと実紀に個人名が出てくることはほとんどないでしょう。

775日本@名無史さん:03/08/13 04:03
>>766
ああいうのを本気にする時点で人間終わってます
776日本@名無史さん:03/08/13 10:40
説明無しで人間否定する時点で人間終わってます
777日本@名無史さん:03/08/13 18:36
つまり失笑を買うレベルの話だってこった。
通じるのは日本史板だけ、しかも信じてるヤシらには何言っても効果ないしうざいので
日本史板住人のほとんどがスルーしてる
778日本@名無史さん:03/08/14 12:52
日本史のフラッシュってありますか?できれば鎌倉時代など・・・。
厚かましくて申し訳無い。
779日本@名無史さん:03/08/14 23:11
たとえばどんな?
780日本@名無史さん:03/08/14 23:21

781日本@名無史さん:03/08/15 07:00
世界史板で作ってるみたいな奴でしょ?<FLASH
あったらおもしろそうだけどね、職人いないかな。
782日本@名無史さん:03/08/15 11:41
はい!世界史のフラッシュを見たことがあって、日本史はどうなのかなって思いまして。
迫力あって年号とかも覚えやすいし。

そうですか・・・まだないんですね。ありがとうございます。
783山崎 渉:03/08/15 12:11
    (⌒V⌒)
   │ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  ⊂|    |つ
   (_)(_)                      山崎パン
784日本@名無史さん:03/08/15 14:31
>>782
確かすぐdat落ちしたんじゃなかたっけ?
785日本@名無史さん:03/08/15 17:22
初歩的ですが、綱吉何で犬大事にしたの?
786日本@名無史さん:03/08/15 18:21
>785
世継ぎが生まれないのは、前世で犬を粗末にしたからだと、まじない師に言われて。
787日本@名無史さん:03/08/15 18:23
隆光という坊さんです>まじない師
788@@:03/08/15 18:24
ショートカットの幼い娘!といった感じのいずみちゃんです。
部屋の中のベンチでローターをクリにあてしきりにオナニーに励み、
男性二人に責められて喘ぎまくる姿が妙に色っぽいです。
感じやすそうなピンクの乳首もいいですよ。
セーラー服いっぱいで無修正!
無料ムービーいい感じだよ。
http://www.pinkschool.com/
789日本@名無史さん:03/08/15 18:38
>>785
山室恭子「黄門さまと犬公方」(文春新書)嫁。
790漫画ネタですまんが:03/08/15 20:00
るろうに剣心の過去を語る追憶編の冒頭で。
京都所司代が供をたた二人だけでであるくことなんてあるのですか?
京都所司代って大名だったような気がするんだけど・・・。

あと最後に殺された侍が京都所司代が殺されたとき「石倉さん!」と叫んでいたが
(貧乏御家人という設定なのに)
「石倉様!」のような気がするんですけど・・・。つーか供があんなに弱くて
いいのか?

あとその最後に殺された侍、婚約者との祝言が来月に控えているという理由で
死にたくないという執念がすごかったが、所司代が死んだら切腹になるような
気がするのですが・・・。

どうか漫画ねたながらこの素人目に教えてやってください。
791日本@名無史さん:03/08/15 21:39
>>785
戌年だから
792日本@名無史さん:03/08/15 21:50
>>790
質問するなら他人にわかるような文にしよう。

誰が石倉か?
誰が誰に斬られたのか?
誰が「石倉」と叫んだのか?
誰が供なのか?

いったい全体聞きたいことは何か?
793日本@名無史さん:03/08/15 23:03
「五木の子守唄」という曲を聴きました、
いい曲だし歌詞にも問題ないと思うんだけど。

なんで放送禁止曲なんですか?
794日本@名無史さん:03/08/16 00:05
子守唄には子守娘がみずからの薄幸な境遇を嘆く内容のものがあり,五木のは
それである。
かつての農山村では貧しい娘たちは恵まれない子守女としての年季奉公を勤め,
その悲しい日々の生活心情を基盤に,この種の子守唄は伝承されてきている。

この辺の貧しい村が、未開放被差別部落を連想させると言う、
某同和団体の圧力にマスコミが過敏反応してます。
武田の子守唄もそうです。
795日本@名無史さん:03/08/16 00:11
英米では戦争時にジョンレノンの「イマジン」や「平和をわれらに」が放送
禁止になるね。
この間の戦争のときは、イマジンのリクエストが急に増えて流した放送局もあった
ようだけど。アメリカの話ね。
CCRの「雨をみたかい」がアメリカで一時放送禁止。
ナパーム弾の雨をみたかい?とかなーり強烈。
日本では朝鮮分断や自衛隊や部落問題に混ざり、
なぜか、ピンクレディのSOSも放送禁止。なぜ??
796  :03/08/16 00:42
戦前・戦中の写真を見ると日章旗と旭日旗が同等の扱いをされてるように感じます。
当時の正式な国旗は多分日章旗だと思うのですが、、
それぞれの旗のもつ役割や意味合い、歴史等を教えて下さい!
797日本@名無史さん:03/08/16 00:52
十六条旭日旗は軍艦旗。
798日本@名無史さん:03/08/16 02:13
現在も自衛艦旗>旭日旗
799日本@名無史さん:03/08/16 04:19
徳川家康の歴史書に「大望(野望?)」ってありますか?
800日本@名無史さん:03/08/16 13:04
太田道灌スレないな
801日本@名無史さん:03/08/16 13:38
素朴な疑問なんだけど皇族の在学した年の学習院の学生名簿には皇居の電話番号も載ってるんですか?
で、同級生とかが連絡網(「明日台風だから午前中授業カットです」とか)で電話したら陛下が出たりするの?
「はい、もしもし、天皇です」みたいに
それで次の人にはやっぱり陛下が伝えるために電話するんですか?
802日本@名無史さん:03/08/16 13:58
>>801
一般家庭だって連絡網に本人が出るとは限らないだろうに。
803 :03/08/16 14:27
天皇はいつどっからやってきて、
どうやって天皇の地位について、
なんで今まで天皇の地位でいられたのですか?
804日本@名無史さん:03/08/16 14:36
>>803
他スレか、数冊の読書をしてからポイントを絞って再質問を。

簡潔に言えば、持ちつ持たれつの、利用したりされたりの
あいまいで無責任な日本的風土が幸いしたのでは。
805日本@名無史さん:03/08/16 15:04
>>801
結構皇族の人ってこういうことしてるイメージがあるんだけどw
806日本@名無史さん:03/08/16 15:24
天皇は金官加羅から来た傭兵隊長の子孫。
807日本@名無史さん:03/08/16 15:58
質問
808日本@名無史さん:03/08/16 16:01
何?
809日本@名無史さん:03/08/16 17:11
武家門や庄屋門の構造について詳しいHPはありませんか?時々不思議に思うのですが石のうえに柱が乗かってるだけで
よく2本の足で立ってるなと思うんです。横の塀とかが支えてるんですかね?
810日本@名無史さん:03/08/16 23:56
藩主と家老が同じ名字の藩がどっかにあったと思うのですが、
こういう場合、家老の家系は藩主の家系から、分家して成立したのでしょうか。
811日本@名無史さん:03/08/17 00:02
一族の場合もあるし、他姓の重臣に藩主の姓を与える場合もあります。
また、細川氏は旧姓の「長岡」を重臣に与えています。

これらは、徳川氏が外様の大藩に「松平」の称号を与えたのと同様、
擬制的な同族関係にとりこんだものといえるでしょう。
812日本@名無史さん:03/08/17 00:10
>>753
高宮は大正日日、読売を経て朝日です。朝日をやめたあとは、朝鮮京城日報社長。
著作には>>760のほかに、代表作「軍国太平記(順逆の昭和史)」があります。
同郷の杉山元帥に可愛がられ、その流れで小磯、永田、東條らと親しくしてました。
813日本@名無史さん:03/08/17 01:24
江戸時代のお相撲さんやお坊さん・神主さん、芸人は
士農工商の階級ではどこに分類されるのですか?
814日本@名無史さん:03/08/17 01:31
まず、士農工商というのは儒学者による観念的な身分秩序であって、
実際には武家・百姓・町人の三大身分に分類されます。
僧侶・神官はこれらの身分外の存在で、支配者である武家に準じます。
力士・芸人は基本的に町人と思います。
815日本@名無史さん:03/08/17 01:48
>>813
お相撲さんは藩抱えです帯刀許されてりします。
江戸時代の番付表を見るとお抱えの藩名が書いてあります。
現代相撲の呼び出しで○○県しゅっしーんと呼ばれるのは
抱え藩名の名乗りの名残です。

芸人は通常非身分になりました、全国を興行する為には身分は
軽いほうが楽ですから、役者を河原乞食というのもその辺からです。

士農工商という言葉は語呂がよくていいけど、そのような身分制度は
江戸時代にはありません。

身分と階級も同一ではありません。
816日本@名無史さん:03/08/17 11:16
江戸時代に入り、日本は経済的に右肩上がりの成長をみせたらしいのですが
詳しい資料など載ってるサイトをご存知の方はいませんか?
817日本@名無史さん:03/08/17 12:29
表1-6 近代以前の日本人口(1,000人)
年 次人 口年 次人 口年 次人 口
縄文早期 20.1 750( 奈 良 )4,512.2 1721( 享 保 )31,278.5
縄文前期 105.5 900( 平 安 )5,506.2 1786( 天 明 )30,103.8
縄文中期 261.3 1150( 平 安 )6,441.4 1792( 寛 政 )29,869.7
縄文後期 160.3 1600( 慶 長 )12,273.0 1846( 弘 化 )32,297.2
弥 生 594.9

人口動態から見ると、江戸時代前も、一応順当に成長してきている。
明治以後を比較してしまうと、江戸時代が加速度的とは、あまり感じられないが。
818日本@名無史さん:03/08/17 12:50
>>816
「右肩上がり」でないと成長とは言わないのですが。

それはさておき、例えば
http://www.toushi-club.com/kansoku/i1111a.html
ここには人口増加率や実収石高の変化をデータとしてあげていますが
これだけで経済成長を見るのは少し厳しいように思います。

新保博 『近世の物価と経済発展』(東洋経済新報社、1978年)
速水融 「近世日本の経済発展とIndustrious Revolution」(新保博他編『近代移行期の日本経済』(日本経済新聞社、1979年)
西川俊作 『日本経済の成長史』(東洋経済新報社、1985年)
岡崎哲二 『江戸時代の市場経済』(講談社、1999年)

これらの書物をお読みになればいかがかと思います。

819日本@名無史さん:03/08/17 13:41
すいませんが口分田について教えてください

良民に与える口分田は男が2段で720歩ですよね?
で、女がその3分の2の480歩っていうのはわかるんですが
1段120歩と本に書いてあります。
120歩×4段=480歩だと思っていたのですが
某スレでそれは違うと指摘されました。
どういうことなんですか…?よくわかりません
820日本@名無史さん:03/08/17 13:53
>>819
「1段120歩」とは、1段+120歩のことでしょう。
つまり360歩+120歩で480歩です。
821日本@名無史さん:03/08/17 13:59
高校受験対策に使えそうなオススメの問題集ありませんか?
とにかく分厚いのがいいです。
822819:03/08/17 14:01
>>820
あぁ〜!!そういう事ですか!
ありがとうございます。これでスッキリしました!
823日本@名無史さん:03/08/17 14:43
質問です。

戦前における有力な歴史学者に平泉澄という人がいますが、
現在の学界では、この人の評価はどのようなものなのでしょうか?
極悪人として抹殺されているのでしょうか?

以前、氏の書籍読んでいて気になったもので質問してみました。
824日本@名無史さん:03/08/17 15:53
>>823
皇国史観の人ですな。

一昨年の大阪歴史学会大会の近代部会報告で取り上げられているように
昨今は極悪人とかの価値判断を超えて
史学史の研究対象になりつつあるような気がしますが。
825日本@名無史さん:03/08/17 15:58
質問です。

日本で欧州や中国大陸のように城塞都市が発達しなかったのは
どうしてですか。
826823:03/08/17 16:44
>>824

レスありがとうございます。

氏も歴史的人物になりつつあるということですね。
827日本@名無史さん:03/08/17 17:40
>>825
作る必要がなかったんじゃないか?
828日本@名無史さん:03/08/17 18:05
中学の教科書には、
平城京と平安京しか書いてないんですが、
他に「〜京」とつくのはどのくらいあったんですか?
829日本@名無史さん:03/08/17 18:17
伊集院さんという名字の人がいますが、公家の末裔なんですか?
830日本@名無史さん:03/08/17 18:22
>>829
伊集院という名字の公家はありません。
831日本@名無史さん:03/08/17 18:23
>829
違います。もとは鹿児島の地名です。
832日本@名無史さん:03/08/17 18:30
>>825
アジアの島的な国やアメリカ大陸にもありませんでした。

日本では,堀や自然河川による市街地の囲郭はみられるが,京都の土囲い
などを除くと,市街地全体を囲む城壁の類はまれであった。
1、堀や河川がかわりをした。
2、大和朝廷を考えると、3つの関所をおさえると、畿内と畿外を遮断できる。
畿内を囲む山並みが大きな天然城壁の役割をなしていた。
天皇の急な代替わりや、反乱がおきたとき活用し、かつ成果があった。
壬申の乱で、天武が畿外勢力と結んで勝利したのを教訓に、それ以後の
政府は畿内と外部が結ばないよう山脈を利用し、関所を常に天皇勅命で
閉じられるようにしておいた。
3、鎌倉幕府も要害の地。天然の山・崖・海を利用した。
4、城下町では、住民の住居を防御として利用した。
5、江戸幕府も江戸防御の観点で関所を利用していた。大井川に橋をかけなかった、等。   

総じて、平原の欧州や中国と、山がちな日本の自然差も大きいと思われます。
833日本@名無史さん:03/08/17 18:33
>>828
694・藤原京
710・平城京
740・恭仁京
784・長岡京
794・平安京
834日本@名無史さん:03/08/17 18:36
>>823
某事典による評価。

歴史学者。福井県生れ。1919年東京帝国大学文学部国史学科を卒業し,
講師,助教授を経て,35年教授となった。日本中世史の研究者であったが,
教授就任の前後から熱烈な皇国史観の主唱者となり,戦時下の国史学界
をリードするとともに,軍部との関係を深め,社会的にも大きな影響力
をもった。
太平洋戦争降伏阻止のため皇居を占拠するクーデタ計画(宮城事件)を立
てた陸軍将校たちもその信奉者であった。
敗戦後東大を辞して,郷里の福井県平泉寺の白山神社に引きこもったが,
思想的立場を変えず,皇学館大学学事顧問,日本を守る国民会議発起人
などとして活動した。
その皇国史観は,神勅に示された〈万古不易の国体〉を絶対のものとし,
国史はその国体を顕現するための歴史だと主張するもので,著書《伝統》
(1940)などで,皇国史観の先駆者としての江戸時代の国学者を熱心に顕彰
した。
835日本@名無史さん:03/08/17 18:37
倭京・難波京・近江京
836日本@名無史さん:03/08/17 19:07
>>829
鹿児島は〜院が多いんだよ。
伊集院を始め、菱刈院、祁答院、入来院など。
謂れは知らないんだけど。
837日本@名無史さん:03/08/17 19:46
飛鳥京
838日本@名無史さん:03/08/17 20:21
難波、近江、飛鳥あたりは京ってか宮じゃないか?

東京も一応京。
839日本@名無史さん:03/08/17 20:31
833ですが、
一応、宮ははずしました。
〜京だけ入れてみました。
資料では、難波・近江・飛鳥は宮でしたので(汗。
840日本@名無史さん:03/08/17 20:33
都城としての最初の「京」は藤原京でしょう
これ以後については
都城としての区画を持っているか、あるいは持たせようとしたかで
「京」であるか「行宮」であるかは判断できると思いますが。
841829:03/08/17 20:37
>>830
>>831
>>836
ありがとう。
皆さん物知りなんですね。
842日本@名無史さん:03/08/17 20:41
難波長柄豊碕宮(前期難波京)
志賀大津宮(近江京、大津京)
藤原宮(藤原京、新益京)
平城宮(平城京)
大養徳恭仁大宮(恭仁京)
難波宮(後期難波京)
紫香楽宮(信楽京)
由義宮(西京)
長岡宮(長岡京)
平安宮(平安京)=京都
福原京
東京

こんなん出たが。
843日本@名無史さん:03/08/17 21:38
飛鳥浄御原宮跡の周辺を飛鳥京跡といったりするが、あれは京として認められないもの?
844日本@名無史さん:03/08/17 21:57
>>843
小治田宮・斑鳩宮・飛鳥浄御原宮などは
宮殿跡は確認されているものの
この宮殿をめぐって京が存在していたかどうかは確認されていない。
したがって「京」と呼べるのは藤原京以降であろうと思う。
845日本@名無史さん:03/08/17 23:12
奈良の橿原考古学研究所は「飛鳥京」跡という名称を使用しているようですね
http://search.yahoo.co.jp/bin/search?p=%C8%F4%C4%BB%B5%FE

その場合、宮殿の周辺にある苑池などを含んだ遺跡群の総称としての使用かもしれませんが
846日本@名無史さん:03/08/17 23:19
Yahooが書き換えたかもよ。
847日本@名無史さん:03/08/17 23:27
>>845
おっしゃるとおり、「京」をどのように定義するかで変わってくる問題かと思います。
私は基本的に都城を「京」と見るべきと思っていますが
大王の宮殿を中心とする地域を
律令制の都城に準じて「京」と呼ぶことも行われているようです。
この定義に従えば
難波京・近江京という言い方も成り立ちます。
848日本@名無史さん:03/08/18 09:11
昨日、何気なく読んだ本に神武以来、天皇家は最低でも三度は王朝断絶(?)してる。
と書いてあったのですが、これは一般的にはトンデモ説ですか?
崇神(?)、継体、天武・・・だったかな。
また、こういう話のスレはどれでしょうか?

よろしくお願いします。
849日本@名無史さん:03/08/18 09:13
ヘルスに行って、20歳位の子に、尻の穴を舐めて貰おうや!

最後は、精液を顔にかけておしまいだ!!!!!!


850日本@名無史さん:03/08/18 09:16
西郷隆盛って征韓論唱えたのになんで批判されないの?
豊臣秀吉や伊藤博文は韓国じゃ極悪人扱いだし、左系の日本の歴史本でも
酷い事した扱いじゃん。
851日本@名無史さん:03/08/18 09:35
>>848
そういう説や意見の人もいます。
以前は継体スレがありましたが、今は消えてしまったようです。
852日本@名無史さん:03/08/18 09:40
>>850
唱えた人は江戸時代から多数いましたから。実行してないですからね。
あと、天皇政府との内戦で敗死したと言うのも、日本人に好まれるのではないかと。
鹿児島では「遣韓論」と教えろという一派があるそうです。
853日本@名無史さん:03/08/18 09:54
西郷隆盛ってなぜかヒーローなんだよな。
他国侵略しろって言ってたのに。
まあ、侵略目標がチョンだったからどうでもいいんだけど。

実際チョンではどう思われているのよ、西郷って。
そんなやつシラネ状態?
854日本@名無史さん:03/08/18 10:05
>>850
最終的には反乱者だから左の人には都合がいいんでしょう。
855日本@名無史さん:03/08/18 10:10
>>848
実在する天皇は崇神からと言われてます
水野祐氏が唱えた三王朝交替説は「崇神古王朝」「応神中王朝」「継体新王朝」の三つの王朝が存在したというもので
それまでの万世一系という思想を否定し、現在はほぼ定説となってるんじゃないでしょうか?
856日本@名無史さん:03/08/18 11:41
西郷隆盛は確かに批判されないし人気あるよな。
俺は子供の頃、小学館の漫画で西郷の征韓論のくだりを読んでいて、
なんて酷い奴だって思ってた。なんでこいつが維新三傑扱いで、正義面
して英雄扱いされているかわからなかった。

今となっては西郷の言うとおり征韓論で逝け逝けGOGO!で良かったのに
って思うし、征韓論に関しては岩倉具視・伊藤博文憎しがあの頃より増した。
857日本@名無史さん:03/08/18 12:41
>>851-855
ありがとうございます。
天智(−持統?)ー天武天皇間はどうでしょうか?
  ↑
これは逆説の日本史で見ますた。
個人的には?と思うのですが。

858日本@名無史さん:03/08/18 13:02
天智-天武って断絶してるか?
天智が最初称制だったから?
弘文と天武だって同時に並立してたわけでもないでしょ?
859日本@名無史さん:03/08/18 13:22
>>857,858
天智と天武の間が断絶しているという説は
日本書紀では兄弟ということになっている天智と天武は実はまったくの他人で
天智の後(弘文が存在するかは不明)天武が天智側を破って覇権を握ったのではという話です。

個人的には眉唾な話だと思ってます

860日本@名無史さん:03/08/18 13:36
日本史って、何でつまんないんですか?
年号暗記して何が楽しいんですか?
861日本@名無史さん:03/08/18 13:36
「逆説」か。
862日本@名無史さん:03/08/18 13:36
860はスルーよろ
863日本@名無史さん:03/08/18 13:52
>>860
それは学校で習う日本史がつまらないのでしょう。
864日本@名無史さん:03/08/18 13:58
古事記にはどう書かれてるのかな?
古事記でも天智天武は兄弟って書いてあるんじゃないの?
しかも同母の。
865日本@名無史さん:03/08/18 14:05
西郷は単に「自分を非武装で朝鮮に使節としていかせてくれ」と言っただけ。
即刻武力論者の板垣を押さえているし、
まず礼儀を持って朝鮮と話し合いしてくるのが先だとも言っている。

ま、西郷の真意については今持ってよく分からんというのが妥当でせう。
866日本@名無史さん:03/08/18 14:10
でも結局は朝鮮半島を押さえることが目的なんでしょ。
867日本@名無史さん:03/08/18 14:27
あの当時朝鮮半島をロシア南下防止、及び西欧列強からの盾として使うことなんて
大勢の人が持ってた考えだからね。
別にそれは責められるべき考えじゃないと思うよ、今とは時代も倫理も違うんだから。
あと明治6年の征韓論に関しては李氏朝鮮側も対応が激しくDQNなな為発した問題なので
どっちもどっちかと。
868日本@名無史さん:03/08/18 14:51
当時は当時だけど、今でも西郷は悪い側面としてもあまり描かれないし。
伊藤博文とは対照的。西郷が当時の常識・正義なら、伊藤もまた然り。
869856:03/08/18 14:57
俺が消防の頃、西郷が嫌いだったのは、確か満韓交換論のときは、
どっちも他国の領土なのにそれを交換しましょうなんて酷い、みたい
な事が書かれているのに、征韓論に関してはそういう描写が見受け
られなかった事。西郷だけ贔屓だって思った。
870日本@名無史さん:03/08/18 15:02
>>868
んだな、正義なんて人それぞれ。
まあ伊藤がお隣や日本国内の一部から悪く言われるのは
初代総督府総監、初代内閣総理大臣等を歴任し
彼ら的な日帝=悪の代表者として見られているからだろう。

西郷が悪く書かれないのは…
思想的な面から見ると反乱者として死んだから、
一般的には日本人が元々持っている伴官びいきな面、
あと伝えられている西郷の人間性が
征韓論や幕末のかなりあくどい面を覆い隠すほどデカイからってとこじゃないだろか。
871日本@名無史さん:03/08/18 15:11
あー、あれか。
天皇を初めて名乗ったのが天武で、それまでは大王だったから
そこに断絶があるって言う意味か?
872日本@名無史さん:03/08/18 15:13
「塘沽停戦協定」
タンの字が微妙におかしいんだけど、だれか正しいタンの字出してくれませんか?
873日本@名無史さん:03/08/18 15:20
( ´,_ゝ`)ペッ
874日本@名無史さん:03/08/18 15:39
>>872
フォントの具合で唐の真中の縦棒が突き抜けてないように見えるだけで、
それであってる。
875日本@名無史さん:03/08/18 16:21
>>868
別に日本国内でも伊藤博文はそんなに評判は悪くないでしょ
朝鮮関係のシンパに受けが悪いだけで。

多くの日本人にとって伊藤博文は安重根に暗殺されたとか朝鮮統監だったということより
日本初の総理大臣である認識の方が大きいと思われる
876日本@名無史さん:03/08/18 16:24
>>871
言いたいことはわかってると思うけど(w
天智と天武には血縁関係がなかったと。逆説の日本史には書いてあって、
私のような素人が読むと丸め込まれて「なるほどなあ」と思ってしまうわけ。
でも、ここを始め他のサイトではトンデモ学説扱いなのはなんでかなあと。
877日本@名無史さん:03/08/18 16:37
仮に血縁関係がなくて、後に天武の皇位に正当性をもたせる為に歴史書を
捏造したとしても、なんでわざわざ天智と同母兄弟にしたの?
せめて異母弟、従兄弟、叔父と甥くらいにしとけばいいのに。

だいだい稗田阿礼って天智に命令されて暗記したんじゃなかったっけ?
878日本@名無史さん:03/08/18 17:00
>>877
同母弟じゃないと皇位を継ぐ正当性が崩れるからでしょうな
舒明と皇極(斉明)の子供という方が都合がいい
俺は本当に天智の同母弟だったと思ってるけどね

それと稗田阿礼は天武に命じられて古事記の内容を暗記。
古事記は推古の時代までのことしか書いてないから関係なし

879日本@名無史さん:03/08/18 19:02
>>876
井沢説については、例えばこういう批判があります。
「一代要記」も「本朝皇胤紹運録」も
見るのがそれほど難しい史料ではありません。
(国会図書館にも入っています)

ですからこの件について論ずる方は
少なくとも原史料に当たるべきだろうと思います。
880日本@名無史さん:03/08/18 19:03
すみません。
井沢批判の例について、リンクを貼るのを忘れてました。
これです。
http://homepage3.nifty.com/osuzume/izawa/2.htm
881日本@名無史さん:03/08/19 07:50
ハングル板や海外サッカー板に逝くと、韓国の犬食いを馬鹿に
した書き込みをよく見かけます。
でも、日本でも犬を食べてたって本当ですか?
882日本@名無史さん:03/08/19 07:51
なんかの本で徳川家斉の55人の子供のうち、成人したのは25人だけ
と読んだことがありますが、それって30人も夭逝したってこと?
883日本@名無史さん:03/08/19 08:00
>>881
ほんとうです。
徳川綱吉の生類憐れみの令は、犬を食う風習を根絶することが目的だったという説もあるくらいです。
884日本@名無史さん:03/08/19 09:01
>>879
ここは「初心者向けスレ」だから、気軽に一般的にはどうなんですか?
って質問したのに「国会図書館にもあるから資料は読んでおけ」みたいな
描き方をされても弱ってしまいます。田舎町に住んでる一高校生には
到底無理な話です。
885日本@名無史さん:03/08/19 09:09
886日本@名無史さん:03/08/19 09:16
>>879
少し無理なことを言いすぎたかも知れません。申し訳ないです。
でも井沢説に対する批判に疑問があるなら
せめて井沢氏が批判している坂本氏の著作くらいは読んで下さい。
これなら県立図書館くらいのところにはあるはずです。
そこまで出かけるのは大変とおっしゃるかも知れませんが
幸い今は夏休みです。
本来の勉強(研究)というのは、それくらいの手間を惜しんではならないものです。
887日本@名無史さん:03/08/19 09:18
なんだ、日本でも犬食ってたんじゃん。

あれ?でも牛や馬は食べてなかったの?
888日本@名無史さん:03/08/19 09:18
自己レスです。
寝起きで頭が呆けてますねえ。
「井沢氏が批判している」は
「井沢氏批判に出てくる」に訂正して下さい。
889日本@名無史さん:03/08/19 09:22
>>887
「ももんじ屋」というのがあって
一種の薬として食べてました。
890日本@名無史さん:03/08/19 09:59
じゃ、文明開化で牛を初めて食ったってのはうそ?
891816:03/08/19 10:43
遅レスですみません

>>817-818
ありがとうございます
892日本@名無史さん:03/08/19 11:40
>>890
「和漢三才図絵」の牛の項の注に
日用の食とするは厳法なれども、禁ずる能はず、と出てくることは
渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館、1964年)に紹介されていますから
近世に牛肉を食べていたことは、古くから知られていることです。
893日本@名無史さん:03/08/19 12:00
>>867
>明治6年の征韓論に関しては李氏朝鮮側も対応が激しくDQNなな為発した問題なので
>どっちもどっちかと。
口喧嘩ならどっちもどっちでいいけど、先に手を出したらだめだね。
このときはおさまったけどね。
朝鮮にしては、日本の態度の変化が???に思えたわけだから。
それまでの、江戸期のつき居合いが一種、ごまかしのところがあったせいもあるけどね。
894日本@名無史さん:03/08/19 12:06
>>876
>天智と天武
通説では王朝交代ではありません。
現人神としての天皇像を創出したのは天武で、「天皇」とは天武個人を指し、
「天皇号」は天武からです。
また、天武は東国勢力も率い、旧豪族を打ち倒し、政権基盤を変えました。
しかし、王朝交代と言えるほどの確証は出てないと思われます。
895日本@名無史さん:03/08/19 12:09
>肉食
犬は昭和の戦後でも食べてました。

牛などの店は、江戸に一軒でした。増えたのは幕末、急増は明治。
広まったのは明治でいいと思う。
古代・中世のほうが実は食べてたと思う。
死牛馬が出ると、御祓いしながら実は喜んで食べてたようなことを聞いた。
896日本@名無史さん:03/08/19 12:17
>>894
天智と天武の間で王朝交替はないという点には同意しますが
天皇号の成立については
吉田孝や大津透は推古朝説を唱えていますよ。
897日本@名無史さん:03/08/19 20:24
読み方が分からないのでお願いします。
溥儀、津田左右吉、近衛文磨
898日本@名無史さん:03/08/19 20:27
ふぎ!
899日本@名無史さん:03/08/19 20:27
>>897
字を写し間違えてるよ。「近衛文麿」でしょ。
900日本@名無史さん:03/08/19 20:28
つだそうきち!
901897:03/08/19 20:31
>>899
すみません。よく見ると違ってましたね。
902日本@名無史さん:03/08/19 20:32
konoehumimaro!
903日本@名無史さん:03/08/19 20:34
近衛篤麿
904日本@名無史さん:03/08/19 20:35
>>897
ふぎ、つだそうきち、このえふみまろ

津田を「つだ」と読むことは。中学生でもわかると思います。
ならばちょっとした歴史事典
例えば角川日本史辞典の「つだ」を見ていけば
自然と読み方はわかると思うのですが。

溥儀の「溥」は漢和辞典を引けば「ふ」と読むことはわかるはず。
辞典によれば、そこに出てくる可能性もありますし
儀は礼儀の「ぎ」ですから
おのずと読み方はわかるはずです。

905日本@名無史さん:03/08/19 21:16
戸籍上では「あやまろ」になってるとかいう話を聞いたことがあるが・・・。
906日本@名無史さん:03/08/20 02:53
でも息子の文隆は「ふみたか」だよ。
907日本@名無史さん:03/08/20 05:08
最近スレの進行が速いですね。
このペースだと2、3日で次スレにいきそうなんで、テンプレ早めに作ってみたけど、いかがなもんでしょうか?
気になる点は修正お願い致します。

--------------------------------------------------------------------------------------------

『日本史よろず〜』との明確な区別については前々から議論されてますが、『日本史よろず〜』では検索しにくく、こういうスレのがないと別の質問スレが立つという意見もありますので、とりあえず立てました。
今後ともよろしくお願いします。

☆ 前スレ
 【初心者】スレッド立てる前に質問を Part3【歓迎】
  http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1052089841/l50

☆ 過去スレ
 ●初心者歓迎:スレッド立てる前に質問を●
  http://academy.2ch.net/history/kako/1026/10268/1026810759.html
 【初心者】スレッド立てる前に質問を Part2【歓迎】
  http://academy2.2ch.net/history/kako/1041/10416/1041658641.html

☆ インターネット検索
Google  http://www.google.co.jp/
Yahoo!  http://www.yahoo.co.jp/
Goo   http://www.goo.ne.jp/

☆関連スレッド
 >2-5辺り

---------------------------------------------------------------------------------------------


908日本@名無史さん:03/08/20 09:06
宮本武蔵と戦った
吉岡道場の跡地って
どこにあるんですか?
909_:03/08/20 09:09
910日本@名無史さん:03/08/20 09:23
904みたいな調べ方しなくても、みんな歴史上の有名人物なんだから
gooの辞書で調べれば一発だと思うんだが。
911日本@名無史さん:03/08/20 14:26
あの、急遽日本史で大学受験することになったんですけど
いまから勉強するのにわかりやすい参考書ってありますか?
912日本@名無史さん:03/08/20 14:43
小学館まんが日本の歴史
913_:03/08/20 14:43
914日本@名無史さん:03/08/20 15:11
>伊集院さんという名字の人がいますが、公家の末裔なんですか?

あれは芸名。
本名は篠岡建(旧姓・田中)
915日本@名無史さん:03/08/20 15:13
苗字変わったんだ。田中建のままだと思ってた。
916日本@名無史さん:03/08/20 15:28
昨日、フジテレビの大奥見てたら
江戸城に天守閣がありました。
幕末にはなくなってますよね?
江戸城から今の皇居の姿(建物として)になるまでの
経過がわかる本とかサイトとかありますでしょうか?
917日本@名無史さん:03/08/20 19:02
某スレに、即位灌頂、二神約諾、、などが書かれており、関心を持ったのですが、今いちちょっと分かりません。
そのスレは割り込めない雰囲気でして、こちらで教えていただけないでしょうか?
参考文献や論文なども何卒御教示下さい。
宜しくお願い致します。
918日本@名無史さん:03/08/20 19:41
>>917
割り込め!
919917:03/08/20 20:00
>918
そうおっしゃらずにお願いします(笑)

どなた様もよろしくお願いします!
一応ググッてはみたのですがどうもあんまりなもので。
920日本@名無史さん:03/08/20 21:27
>>917
即位灌頂とは、顕密体制の王法仏法相依論に由来する皇位継承儀礼です。
灌頂というのは、密教で弟子に法を印可・伝授するときに施す儀式ですが
即位の際に天皇は高御座において1人でこれを行い
それによって大日如来と合体し、世界を領掌する存在になったとみなされたのです。
この儀式は11世紀ないし13世紀にはじまったとされ、幕末まで続きました

詳しくは
平雅行「中世宗教の社会的展開」(『講座日本歴史』3(東京大学出版会、1984年))
上川通夫「中世の即位儀礼と仏教」(『日本史研究』300、1987年)
これらをご覧下さい。

なおこの方面は私の専門ではありませんので
「二神約諾」についてはよくわかりません。
921917,919:03/08/20 22:31
>920
本当にどうもありがとうございます!m(__)m
他のみなさんにも宜しくお願いいたします。
922日本@名無史さん:03/08/20 23:18
井上馨って何て読むんですか?
漢字難しすぎです
923日本@名無史さん:03/08/20 23:19
>>896
>天皇号の成立については
>吉田孝や大津透は推古朝説を唱えていますよ。
推古説の証拠となるのは天寿国刺繍でしたっけ?なんか、あの天皇号が
後世のものらしいです。
天武の天皇号は木簡から出てます。

924日本@名無史さん:03/08/20 23:20
>>922
かおる!教科書とか歴史事典にのってる。
925日本@名無史さん:03/08/20 23:21
>>920
>大日如来と合体
伊勢神宮も大日如来だね。
大日は仏の中心だから、本地垂迹せず、本願の仏の名を持たない神なのだそうだ。
そうなると、「伊勢の神道も、顕密体制の仏教の一種」という黒田俊夫の話が
みにしみるな。
「日本中世の国家と宗教」だけど、古すぎて現在の評価はどうなのかな?

926日本@名無史さん:03/08/20 23:25
伊勢神宮で、仏法作法をしてはいけないのは、
内心が仏教で形式は違う儀式でと言うことらしい。
つまり、天皇家の一部の儀式のように、
中世において、伊勢や天皇家は儀式は古代の色を残したが、
本質的には両方とも仏教だったということ。
伊勢も天皇家即位も大日如来という中心仏に依拠してたってわけだな。
927日本@名無史さん:03/08/20 23:26
質問です。
天皇家を「王家」と言ってたのは中世の何年から何年くらいまででしょうか?
古代・中世・近世・近代で、それぞれ天皇家を南都呼んでいたのでしょうか?
わかる範囲で結構ですのでお願いします。
928日本@名無史さん:03/08/20 23:43
>>923
天皇号の成立をめぐる研究史を簡潔にまとめると
かつては推古朝成立説が通説だったが
福山敏夫氏が天寿国繍帳(「刺繍」ではありません)などの推古朝遺文に問題があることを指摘して以来
天武朝成立説が有力となり、通説化した。
先にあげた吉田氏・大津氏もこの立場に立っていたが
吉田氏は『飛鳥・奈良時代』(岩波ジュニア新書)で、再び推古説に立つことを宣言しているし
大津氏も『古代の天皇制』で天武朝説の根拠が必ずしも盤石でないことを指摘している。
また同様に天武朝説に立っていた鎌田元一氏も自説を修正し、天智朝あるいは孝徳朝にまで遡る可能性を示唆している。
このように近年は通説となっていた天武朝説が揺らぎはじめていると言ってよい。

なお天武朝の木簡に天皇号が記載されていることは
天武朝に天皇号が用いられていたことの証明にはなるが
天武朝を始期とすることの証明にはならない。
929日本@名無史さん:03/08/20 23:43
「中世の天皇」スレでも、思わず聞いてしまいました。
マルチになってしまい、申し訳ありません。教えていただければ幸いです。
930日本@名無史さん:03/08/20 23:45
>>928への自己レスです。
福山氏は敏男が正しいお名前です。
訂正させていただきます。
931921,919,917:03/08/20 23:50
>926
>925
ありがとうございますm(__)m
伊勢神宮の話がでましたが、二神約諾というのがわかりません。
重ねて御教示下さい。
参考文献や論文も宜しくお願いします。
932日本@名無史さん:03/08/21 00:10
>>922,>>924
読みが判らない場合、
まずはテキストエディタに貼り付けて、再変換してみなよ。
大抵の日本語ソフトなら、馨くらい再変換できるはずだ。
933日本@名無史さん:03/08/21 00:10
あ、あと、中高生用のスレもあるから、初級の話題はそちらにドゾ。
934日本@名無史さん:03/08/21 00:11
>>927
近世だと禁裏かな?
禁裏というのは本来は御所を指す語だが
禁裏御料という言い方もあるから
皇室の意味もあると思うが。
935日本@名無史さん:03/08/21 00:11
世界史板にね
936日本@名無史さん:03/08/21 01:20
信長公記はなんで「しんちょう」って言うんですか?
937日本@名無史さん:03/08/21 01:50
>>936
なんとなく、深い意味は無い。
938日本@名無史さん:03/08/21 02:53
義経記と同じ
939日本@名無史さん:03/08/21 08:46
>>936
「シン・チョウ・コウ・キ」
全て音読み
940 :03/08/21 08:57
交通誘導警備員は、臭い、汚い、危険、給料安い、昇給賞与ほとんど無し、
スキル無い、転職できない、将来性無い、高卒、童貞、独身、負け犬、向上心無し、
女子高生・パンチラ好き、変態、歯が汚い、口臭、体臭、とにかく臭い、
腕章、ワッペン、ダサい制服、死んだ目、ハゲ、デブ、もやし、短足、皮膚病、
デカリュック、だべ語、ウンチ我慢している、汗だくのタオル、置物、生ごみ、イラね、
がぶ飲みコーヒー、嘔吐、めまい、直行直帰、自称ヤクザ、死眺星が見える、
田舎者、ホームレス予備軍、顔が黒い、ロレックスに憧れている精神疾患者である。
交通誘導警備員は、敗北者、肩身がせまい、顔がデカイ、とにかく謝る、耳が遠い、
夜光チョッキ、汗臭い制服、ヘルメット・制帽着用によりハゲ、暑い寒い、
雨・直射日光に弱い、天気予報が気になる、ウンチがハミ出している、酒荒れした声、
蚊に刺される、つのる性欲、起床就寝時オナニー、真性包茎、コンジローム、
銅像、イラね、趣味パチンコ、無愛想、座る時に「アーどっこいしょ」と声がでる、
グロッキー、ハァハァ、おじチャン何やってんの?、ダさいたま出身である。
交通誘導警備員は、身分が低い、常に転職を考えている、憂鬱、競馬の予想、妄想、
排ガス吸い込み、鼻毛が発達、手が汚い、白内障にかかりやすい、失うものは何もない、
使い捨て、字が汚い、息が臭い、模範囚以下、カラーコーン以下、壊れた無線機、誘導灯にうんこの香り、
出会い無し、結婚不可、タケチャン、ダメおやじ、たずね人、逃亡者、借金生活、
路上生活経験あり、学生運動経験者、酒臭い、立ち飲み、飴舐めれ、誘導灯でアナルオナニー、
ピップエレキバン、屁のつっぱりはいらんぜよ、尿モレ、シミ付ぱんつ、掲示板でも弱気
941__:03/08/21 09:00
942日本@名無史さん:03/08/21 18:34
警視庁の警官に、熊本や鹿児島出身者が多いという話を聞いたことがありますが、なぜですか?
明治維新の時の何かのいきさつがあるんですか?
943日本@名無史さん:03/08/21 18:50
>>942
熊本・鹿児島両県出身者が多いというのは
現在のことですか?
それとも明治期など過去のことでしょうか?
944942:03/08/21 19:56
レスありがとうございます。
現在の話です。
945日本@名無史さん:03/08/21 20:11
>>944
東京だけでなく京都でも多いようです。
http://www.kyoto-np.co.jp/kp/journalist/report/kyushu.html

多い理由は記事の中に出てきますが
東京の場合も同様ではないでしょうか。
946942:03/08/21 20:26
>>945
こういうことがあったんですか。
勉強になりました。
ありがとうございます。
947日本@名無史さん:03/08/21 23:40
質問させて頂きます。
双子についてなのですが、
双子を畜生腹として忌み嫌っていたのはいつの時代から
いつの時代までなのかご存知の方がいらっしゃいましたら
教えて下さい。
ググってはみたのですが、いまいち核心を突いた答えを
得られなかったので。
宜しく御願いします。

畜生腹と呼びだした時代もご存知でしたら、宜しく御願いします。
948936:03/08/21 23:52
ありがとうございました
949日本@名無史さん:03/08/21 23:55
古代の神話から不吉なものとされてたそうなので、かなり古いでしょう。
また、昭和初期まで、異常な事態と思われていたようです。

「日本では昭和初期ころまで,双子は常態でない異例なものとされ,育てるのも
大変なため一般に喜ばれなかった。双子に関する俗信は多く,双子栗,ミカン
の双子などを食べたり,ハチの巣をまたぐと双子ができるといったり,また男
女の双子はメオトゴといってとくに嫌われた。
双子は先に生まれたほうが兄姉で後のほうが弟妹とされる。東北地方などには,
双子が生まれると,父親はすぐに屋根にのぼって妻が双子を産んだとか双子の
父はここにいるなどと叫ぶ風習があった。こうすれば双子を再び産まないという」

950日本@名無史さん:03/08/21 23:56
おまけ
「双子は不吉だとみなす民族と,歓迎すべきものとする民族がある。不吉とされ
る理由は,一度に複数の子どもが生まれるのは動物と同じだから(日本では畜生腹
といわれた),悪霊や邪術師のしわざだから(西アフリカのコンコンバ族),
母親の姦通の結果だから(南米のチャコ族),男女の双子は母の胎内で近親相姦
を犯すから(サモア),親を殺す(スーダンのディンカ族),あるいは親が死ぬから
(ラオスのラメート族)など,動物性,邪性と結びつけられた場合である。
このような社会では,双子はその双方か一方が殺されるか,社会的に排除され,
あたかも双子が存在しなかったかのような処置を取ることが多い。
 
双子が歓迎されるのは,神の贈物,多産の象徴とされる場合で,スーダンや
ウガンダでは双子は鳥であり,鳥は神のものであるという論理で祝福される
(ヌエル,マンダリ,テソなど)。この場合も双子は神性を帯びているために
危険でもあり,また双子の怒りは非常に恐れられる。双子の儀礼は多くの場合
,たいへん複雑で,性的冗談を伴ったり,両性具有,秩序逆転といった象徴性
の高いものである」
951日本@名無史さん:03/08/21 23:57
畜生腹という言葉は、仏教的なので、
仏教とともに昭和前期まで使われたように推測されます。
952日本@名無史さん:03/08/22 00:03
>>949-950
カギ括弧がついているところを見ると、引用のように思われますが
引用元を明らかにしていただけませんか?
953947:03/08/22 01:02
>949
>950
>951

丁寧な解説有難う御座いました。
参考になりました。

もう一つ質問なのですが。
平安時代の双子は不吉の枠に入るでしょうか?
当時にもし双子が生まれたとしたら、どういう処置をとったのか
ご存知でしたら教えて頂きたいです。
重ね重ね申し訳ないです。
954日本@名無史さん:03/08/22 09:11
>>952   
>>950は長島信弘氏 
>>949は大藤ゆき氏
で、出展は平凡社大百科事典。

>>953 947氏
かつては男の三つ子が生まれれば泰平の世が来るとされ、衣類を贈っている。
文武天皇も双子を大舎人に取り立てた。日本武尊も双子であるし、畜生腹と
いう禁忌は後年のものである。
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Queen/2954/zatu.html

というのがありました。
奈良時代あたりまでは蔑視はされてなかったといえるのでしょうか。
江戸時代には「畜生腹」という言葉が使われたのは確認されてるようです。
平安時代はわかりませんでしたが、江戸時代などでは双子は、片方を養子に出して
いたようです。
個人的には、双子はあまり歓迎されてなかったのではないかと推測しますが、
根拠となる分権はわかりませんでした。殺すことはなかったと思います。
よそに預けたのではないでしょうか。
なお、現在でも「畜生腹」と言う言葉を使う人はいるようです。
955953:03/08/22 15:39
>>954
丁寧に有難う御座いました。
参考になりました。
956日本@名無史さん:03/08/22 21:47
近藤勇は農民の出だった、とよく書かれていますが、八王子千人同心の家系のはずです。
それなら、武士だったのではないでしょうか。
957日本@名無史さん:03/08/22 22:05
宮川家って八王子千人同心でしたっけ?
958日本@名無史さん:03/08/23 01:51
>>956
八王子千人同心は人別帳に記載されます。
つまり百姓身分です。
ですからふだんは苗字を名乗ることができません。
959956:03/08/23 06:36
>>958
お答えありがとうございます。
「千人同心は武田家の家臣たちだった。江戸の西側の防備を固めるために家康が連れてきて移住させた」と
聞いていたので、ずっと士分だと思っていました。
社会が安定するにつれて防備の意義が薄れて、農民扱いになってしまったんでしょうか。
960日本@名無史さん:03/08/23 09:50
>>959
八王子千人同心は幕府の郷士です。
村上直編『江戸幕府八王子千人同心 』という本が出ていますので
詳しくはこちらをご覧下さい。
961日本@名無史さん:03/08/23 09:54
>>959
>武田家の家臣
そういう家もあったようですが、ごく一部のようです。
962日本@名無史さん:03/08/23 09:58
>>960
幕府には郷士という身分も職制もありませんが。
963日本@名無史さん:03/08/23 10:00
>>962
表現が舌足らずでした。
藩領における郷士にあたるものと書くべきでしたね。
964日本@名無史さん:03/08/23 13:48
>>958
人別帳に記載される点はご指摘の通りですが
一方で彼らは一般の御家人と同様に目安箱への投書を禁止されており
この点では武士身分と同じ扱いを受けています。
したがって基本的には兵農未分離状態の特殊な階層とみるべきでしょう。
965日本@名無史さん:03/08/23 20:12
>>964
うろ覚えですがたしか
江戸も中期になると武士としての待遇をもとめて罰せられています。
そのときの罰も武士のそれではなく百姓町民のそれだったと思います。
966日本@名無史さん:03/08/23 20:40
>>965
>>964に書いたのは享保期の状況です。
あなたが指摘される事件が何なのかよくわかりませんが
たしかに安永6年のいわゆる「苗字一件」の結果
千人同心は人別帳をはじめ地方の諸書物に苗字を記してはならないこととなり
その地位は低下したとされています。
ただし寛政7年には人別帳に千人同心という肩書きをつけることは許されていますので
やはり純然たる農民身分ではないと言うことはできると思います。
967日本@名無史さん:03/08/23 22:31
ご存知の方がいらしゃったら教えて下さい。
平安時代の姫君の実際の名を知るのは夫と母親だけ
とネットで見かけたのですが、それはいつからいつの時代までなのでしょう?
見かけたところでは、その事を「名乗り」と記してあったのですが…。
ご存知の方、御願い致します。
968日本@名無史さん:03/08/24 00:06
>>956  近藤勇の生家宮川家は農民、近藤家が八王子千人同心で養子に入った。
969日本@名無史さん:03/08/24 00:50
>>968
近藤勇の養父、天然理心流3代近藤周助は八王子千人同心ではないと思いますが。

2代近藤三助の孫登右衛門は千人同心となり、後に組頭もつとめていますが
天然理心流の宗家は門弟で多摩郡小山村の名主島崎休右衛門の三男であった周助が継いでいます。
したがって近藤勇は千人同心の家に養子に入ったというわけではないと思います。
970日本@名無史さん:03/08/24 00:53
歴史の先生が足軽だと言ってたよ
971日本@名無史さん:03/08/24 01:00
>>968-969  微妙に噛み合ってない
972日本@名無史さん:03/08/24 01:06
  道場主というのは農民身分なんですか?普段は士装してないの?
973日本@名無史さん:03/08/24 01:13
>>972
天然理心流初代近藤内蔵之助は遠州出身ということ以外、その出自はよくわかっていません。
2代近藤三助は多摩郡戸吹村の名主坂本戸右衛門の長男として生まれ、20歳前後で内蔵之助に入門、その死後2代目を継いでいます。
974日本@名無史さん:03/08/24 03:36
どうなってんだよ、みんな全然噛み合ってないじゃん。もう少し注意して日本語読もうよ!
975日本@名無史さん:03/08/24 04:45
どうなってんだよ、みんな全然噛み合ってないじゃん。もう少し注意して日本語書こうよ!
976日本@名無史さん:03/08/24 10:08
要するに近藤家は八王子千人同心の家ではない。
977日本@名無史さん:03/08/24 10:27
>>967
姫というのは、上級公卿の娘をさすのでしょうか。
自信はありませんが、上級公卿では江戸時代でも続いたかもしれません。
ただし、武門では、女子の土地相続等の関係で鎌倉期には名を名乗ってた
と思います。
詳しい方いましたら訂正をお願いします。
978日本@名無史さん:03/08/24 13:24
忌み名ってやつですか?
979967:03/08/24 15:48
ご丁寧に有難う御座いました。
参考にさせて頂きます。

>>977
そうです。
上級公卿の娘さんの事を指します。
説明不足で申し訳ないです。
やはり○○姫というのが愛称であって、
本名は母親と夫のみが知るというのは事実のようですね。

>>978
忌み名、そうですね、忌み名の事なのかもしれません。
見かけたサイトには名乗りと記してあったので、
そればかり頭にあって、忌み名の存在を忘れていました。
980956:03/08/24 15:58
近藤勇は千人同心ではなかったんですね。
みなさんご回答ありがとうございます。

ところで、千人同心が武士階級だったかどうかですが、
以下のサイトを見ると、
「千人同心とは,徳川家康が関東入国とともに,武蔵・甲斐の国境の甲州街道警備を
 するために設置された十組千人の武士団です」
とはっきり書いてあるんですが、これはサイトの作者の思い違いでしょうか。
 http://www.cec.co.jp/CEC/freeway/History/sennin_dosin.html
981日本@名無史さん:03/08/24 17:03
>>980
八王子千人同心の原型は、武田氏の小人頭に率いられた同心集団です。
武田の家臣団編成は在地の名主層(有力農民)を家臣の末端に組み入れる寄親−寄子・同心制がとられていることが多く、
この同心集団も名主層で構成されていたと考えられています。
すなわち兵農未分離状態にあります。

武田氏の滅亡後、徳川家康は、甲斐・信濃の支配にあたって武田旧臣をできる限り登用しますが
甲斐9口の防衛にあたっていた小人頭とその配下の同心集団も、徳川の家臣団に組み込まれ、国境警備を続けます。
天正18年家康の関東入国とともに小人頭は約250名の同心を引き連れ、八王子に移ります。
翌19年小人頭を1名増やし、また新たに諸家の浪人250名が召し出され、同心500人(1組50人)の体制となり、
慶長5年関ヶ原の戦いに備えて諸家の浪人を召し出して500人が増員されます。

このような経緯をたどって千人同心成立したわけですが
武田氏時代の兵農未分離状態を引き継ぎ
同心は30俵1人扶持から10俵1人扶持の俸禄を支給されるものの
公務に携わるとき以外は代官・領主の支配を受けています。

豊臣秀吉は太閤検地などのいわゆる兵農分離政策で
それまで必ずしもはっきりしていない部分があった武士と農民の区別をはっきりつけたわけですが
郷士や八王子千人同心のように、区別がつけられないまま残った者もいたのです。

ある方向からみれば武士、ある方向からみれば農民
極めて大雑把に言うと、そういうものだと考えればよいと思います。





983日本@名無史さん:03/08/24 17:21
  うちは武田信玄の旧臣で江戸期は信濃の名主でした・・・なぜうちは登用されなかったんですか?戦国期は一城の主でしたけど。
 せめて郷士ぐらいにしてくれなかったの家康ちゃん。
984日本@名無史さん:03/08/24 18:13
「長門等の国」という記述を見たのだが、何処のことだ?
そもそも何て読むかもわからんし・・・。
985日本@名無史さん:03/08/24 18:15
986日本@名無史さん:03/08/24 18:16
>>984
長門国とその周辺国、みたいな意味での「等」じゃないの?
987日本@名無史さん:03/08/24 18:32
>>984
>天平11年3月、甕原離宮行幸。同年5.25、三関国(伊勢・美濃・越前)、陸奥・出羽・越後・長門等の国、及び大宰府管掌諸国を除いた国々の兵士を停止(天平18年12月旧に復す)。
ググってみると、こんなのに当たりましたが、これのことでしょうか?
988日本@名無史さん:03/08/24 18:40
>>983
家康の誘いに応じなかったのかも知れませんね。
天正10年10月に家康は武田旧臣から起請文を集めて、遠江国秋葉神社に奉納しています。
これが「天正壬午甲信諸士起請文」ですが
『新編甲州古文書』(角川書店、1966〜69年)に収録されていますので
ご先祖の名前が出てくるかどうか確認されてはいかがでしょうか。

またこの起請文については
柴辻俊六「『天正壬午甲信諸士起請文』の考察」(『古文書研究』3、1970年)という論文があります。
合わせてご参照下さい。
989日本@名無史さん:03/08/24 18:51
>>984
「ながと(長州=山口県西半分)」とう(など・ら)のくに
990984:03/08/24 18:59
>>987 、989
すみませぬ。正確には「長門等の国司」、「長門等の守護」(前に他の国
がつかないで)といった記述を見つけ、ググってみて987のやつを見つけた
ので「国」だと思ってかいたのですが・・・。
991日本@名無史さん:03/08/24 19:01
>>988 >>家康の誘いに応じなかったのかも知れませんね
そうかもしれませんね!あの辺の名主層は武田家旧臣なんでなんかあったのかもしれませんね!ありがとうございます。
   調べてみます。
992日本@名無史さん:03/08/24 19:05
>>990
http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/rekisi.html
>1399年10月から12月にかけて、京都から山陽にかけて、鎌倉公方足利満兼の呼びかけによって、長門等の守護 大内義弘が大軍を率いて堺へ進出し、足利義満打倒を謀った。

これですかね?
これなら長門国等という意味でしょう。
993日本@名無史さん:03/08/24 19:07
次スレまだ?
994日本@名無史さん:03/08/24 19:35
次スレ立てました

【初心者】スレッド立てる前に質問をPart4【歓迎】
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1061721234/l50
995956:03/08/24 21:30
>>981
丁寧なお返事ありがとうございました。
996日本@名無史さん:03/08/24 22:24
梅田
997日本@名無史さん:03/08/24 22:25
うめ
998日本@名無史さん:03/08/24 22:25
ume
999日本@名無史さん:03/08/24 22:26
1000
1000日本@名無史さん:03/08/24 22:26
1000
10011001
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。