1 :
神も仏も名無しさん:
仏教に関するよろず質問スレッドです。
知識を有する有志によって仏教に関する疑問・質問に答えます。
主に参学の途にある方々の知識によって対応しますので、明確な答えは出ないかもしれません。
皆で協力しあって何かの参考になるスレッドを作っていきましょう。
初心者にはやさしく接してあげてください。
良ければ出典などを示してください。質問する人がどんな本を読めばいいかの目安になります。
明確な出展なく自説を述べる場合は、その旨はっきりさせると無用な議論の紛糾の防止になるでしょう。
無駄な荒廃や議論の紛糾防止のため、皆様のご協力をお願いいたします。
*「議論の白熱化、専門化」「話題の拡散、変異」「売り言葉に買い言葉のような応酬」
等の事態が生じましたら、関係各位は“自発的に”速やかに
他スレ・該当スレへ移るか、ふさわしい新スレを建てるかなどして、
『質問し易い雰囲気』作りに御協力ください。
【前スレ】
☆ 卍 仏教 @ 質問箱 卍 ☆ パート28
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/psy/1273950612/ 【過去ログ・関連スレは
>>2-5辺り】
※みみずん変換は、URLの 「 /psy/0000000000 」を残し、
それより前を「
ttp://mimizun.com/log/2ch/ 」へ。
4 :
記憶喪失した男:2011/01/30(日) 14:21:48 ID:MeI7LEV9 BE:221582922-2BP(791)
質問です。
仏が天地の造物主より偉くて真理に迫ってるという短編小説を書こうと思うのですが、
おりは、天地創造は儚いものだ、と書いたのですが、理解してもらえません。
仏教では、万物の創造はむなしく儚いものであってますよね?
質問2
愛や慈愛や救済欲も、煩悩ですよね。これに関して、何か面白い話が聞けたら
うれしいです。
あと、スレチガイですが、キリスト教で愛が尊重される聖書の根拠って何ですか?
質問3
涅槃とは、何ですか? ヒントだけでもわかるとありがたいです。
5 :
?:2011/01/31(月) 11:49:51 ID:mGyD90OP
☆ ウィキペディア参照 ☆
涅槃(ねはん)
南伝のパーリ語教典を訳した中村元は
ダンマパダ、第十章、「暴力」、百三十四節の訳注において
「安らぎ - Nibbāna(= Nirvāṇa 涅槃)
心の安らぎ、心の平和によって得られる楽しい境地というほどの意味であろう。」
としている。
涅槃は、「さとり」〔証、悟、覚〕と同じ意味であるとされる。
しかし、ニルヴァーナの字義は「吹き消すこと」「吹き消した状態」であり、
すなわち煩悩(ぼんのう)の火を吹き消した状態を指すのが本義である。
その意味で、滅とか寂滅とか寂静と訳された。
「人間の本能から起こる精神の迷いがなくなった状態」という意味で涅槃寂静といわれる。
6 :
?:2011/01/31(月) 12:09:29 ID:mGyD90OP
>>4 様へ
> 愛や慈愛や救済欲も、煩悩ですよね
無始の時、以来、続いて来た、
過去の長い間の経験により、蓄積された、我愛によって、
自己に愛着し、執着された、戯論と善悪業よって、
阿頼耶識(あらやしき)
末那識(まなしき)によって
煩悩がつくられる
− − −
愛や慈愛や救済欲も、煩悩である
と考えられます
7 :
?:2011/01/31(月) 12:26:01 ID:mGyD90OP
>>4 様へ
> 仏教では、万物の創造はむなしく儚いものであってますよね?
☆ ウィキペディア参照 ☆
瑜伽行唯識派
仏教の中心教義である無常・無我を体得するために、
インド古来の修行方法であるヨーガをより洗練した瑜伽行(瞑想)から
得られた智を教義の面から支えた思想体系
ヨーガを実践することによって「唯識観」という具体的な観法を教理的に組織体系化した
唯識(ゆいしき)とは、
個人、個人にとってのあらゆる諸存在が、唯(ただ)、
八種類の識によって成り立っているという大乗仏教の見解の一つ
あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、
それら諸存在は主観的な虚構であり客観的存在ではない。
− − −
仏教では、万物の創造はむなしく儚いものである
と考えられます
8 :
?:2011/01/31(月) 12:36:46 ID:mGyD90OP
中阿含経などに説かれた、仏教で、悟りに至る為の、三十七菩提分法の
四如意足(四神足) 四つの自在力
◎欲 (すぐれた瞑想を得ようと願う)
◎精進 (すぐれた瞑想を得ようと努力する)
◎念 (すぐれた瞑想を得ようと心を集中する)
◎思惟 (すぐれた瞑想を得ようと智慧をもって思惟観察する)
◎身修習
◎戒修習
◎心修習
◎慧修習
の修習などによって
涅槃に到達できる
と、私【?】は、考えています
9 :
?:2011/01/31(月) 13:04:45 ID:mGyD90OP
☆ 初心者の方に おすすめの書籍 ☆
図説 地図とあらすじで読むブッダの教え [大型本]
高瀬 広居 (監修) (2005/8/10) 価格: ¥ 1,134 (税こみ)
図解 ブッダの教え (歴史がおもしろいシリーズ!) [単行本]
田上 太秀 (監修) (2010/5) 価格: ¥ 735 (税こみ)
下ヨシ子の死後の世界 (図解雑学) [単行本(ソフトカバー)]
下 ヨシ子 (著) (2008/2/21) 価格: ¥ 1,449 (税こみ)
10 :
?:2011/01/31(月) 13:20:30 ID:mGyD90OP
Samgha JAPAN
サンガジャパン Vol.4
(2011/01)
正木晃 107ページ
初期仏教の段階の時から
性欲を修行によって
悟りへの原動力に変容させる事を
もくろんでいた
会陰部に潜む性的な技法(シャクティ=クンダリニー)
を駆使して、霊的な方向へ覚醒させる
チャクラ(輪)とナーディ(脈管)の
霊的な器官の中を上昇させていけば
性的エネルギーは次第に霊的エネルギーに変換され
頭頂のチャクラに到達した時に
修行者は最高の智恵を獲得して、解脱を遂げる
11 :
?:2011/01/31(月) 14:56:29 ID:mGyD90OP
アビダンマ講義シリーズ
第6巻 縁起の分析
ブッダの実践心理学
アルボムッレ・スマナサーラ(著) 藤本晃(著)
発売日 2011/01
30〜58ページ
44ページ
戒禁取(かいごんしゅ)
◎固執している心の働き
◎固く囚われている心の働き
◎(間違った考え方を)信じる心の働き
◎邪見に固執している心の働き
◎間違った考え方に固執している心の働き
12 :
?:2011/01/31(月) 15:11:53 ID:mGyD90OP
アビダンマ講義シリーズ
第6巻 縁起の分析
ブッダの実践心理学
アルボムッレ・スマナサーラ(著) 藤本晃(著)
発売日 2011/01
30〜60ページ
58〜60ページ
科学者も
「これこそ科学的な真実だ!」
と決めつける
その意見と違う意見が出ると
攻撃の為の論文が提出される
− − −
↑ これが『真実だ!』と執着する心の働きである
13 :
?:2011/01/31(月) 15:30:16 ID:mGyD90OP
十随煩悩 十結
戒取とは
仏陀の正しい教法を理解しようとせず、
それ以外の道徳や、仏教以外の宗教を
『絶対に正しい』と固執する
心の働き、煩悩の事である
末法の世である。なにがウソで真実かをピタッと言い当てます。「悟った人」いません。「正しい修行」ありません
15 :
?:2011/01/31(月) 15:53:51 ID:mGyD90OP
>>6 のところ
無始の時、以来、続いて来た、
過去の長い間の経験により、蓄積された、我愛によって、
自己に愛着し、執着された、戯論と善悪業よって
自己に愛着し、執着された、戯論と善悪業によって
− − −
↑ 訂正して、お詫び、申し上げます
よって、安易に悟りましたとか、悟る方法論があると言われてもすぐに「ウソ」だとわかるワケです。上記の事実は確実なものです。この時代にあっては「経典」しか残っていません。お経を読む事のみが今日の修行なのです
実は大乗経典以外、仏教はあり得ないのです。それはもう、どうしようもない事実なのです。救いはありません。救いはあなた方一人一人が日常生活のなかで見いだすしかないのです。
18 :
?:2011/01/31(月) 16:03:47 ID:mGyD90OP
スッタニパータ
788
「最上で無病の、清らかな人を、わたくしは見る。
人が全く清らかになるのは見解による」
と、このように考える事を最上であると知って、
清らかな事を観ずる人は、
(見解を、最上の境地に達し得る)
智慧であると理解する。
− − −
瞑想によって
最上の境地に到達する為の智慧を獲得して
最上の境地に到達する為の智慧によって
最上の境地に到達できる
もっとも始末に負えないのは「自分で正しい修行をしているつもり」な人々です。どうせ悟れやしないのに。まさにバカの壁です。愚かな彼らは決して夢から醒めようとしません。怠惰で真実を見据えず、夢を見続けて眠っていたいのです
そして彼らはせいぜい、岩波文庫程度の教養で仏教がわかったつもりになっているのです。そんな暇があればもっと自分らしく自由に生きればよいのに…
瞑想してます。バカですか?実は本当に瞑想出来る人間は500年にひとり現れるか否かぐらい確実性がありません。ですからもっと日常をエンジョイしましょう。ソープランドで若い姉ちゃんから人生を教えてもらいなさい。それとて修行なのです
22 :
?:2011/01/31(月) 16:41:24 ID:mGyD90OP
仏法
テーラワーダ仏教の叡智
ポー・オー・パユットー 野中 耕一
(2008/02)
376ページ
「世尊はどのように修習者であられるか?
世尊は身修習者、戒修習者、心修習者、慧修習者で
(増進した御身体、戒、心、慧を持たれ)
〔三十七菩提分法(三十七道品)を増進され……と内容を広げて続く〕」
− − −
中阿含経などに説かれた、仏教で、悟りに至るための
三十七菩提分法(三十七道品)の
@四念住(四念処)四種の観想
A四正断(四正勤)四つの努力
B四神足(四如意足)四つの自在力
C五根、五つの能力
D五力、五つの行動力
E七覚支、存在を観察する際に、心の状態に応じた注意と方法
F八正道
口語全訳華厳経・江別鴨村訳(国書刊行会)上下2冊セット
仏説仏名経
ジョンコルトレーン・コズミックミュージック。一曲目の「マニュフェステーション」からいきなり成層圏突破!一気に宇宙へ駆け昇るテンションの高さ!これはもはや大乗経典である
26 :
?:2011/01/31(月) 17:00:23 ID:mGyD90OP
新アジア仏教史03 インド3
仏典からみた仏教世界
奈良康明 下田正弘 (2010/07)
317〜318ページ
◎シャーリプトラが実践する【不断の法観】
初禅、第二禅、第三禅、第四禅、
空無辺処、識無辺処、無所有処、悲想悲悲想処、という
一連の精神的な深まり経て、究極的精神集中状態である
感受過程も表象作用も暫時的に尽く完全抑止状態となる
【想受滅(滅尽定)】に入る
(滅尽定に入定する)
◎この瞑想で
【智慧によって煩悩が滅尽している】
と、観察する
◎シャーリプトラは、自らの生存を
【意成身 (意識のみから成る身体)】へと
作り為す事が巧みであった
いつも心におまんこを(ラブ・アンド・ピース)
28 :
?:2011/01/31(月) 17:12:21 ID:mGyD90OP
須陀洹(しゅだおん)
預流 - 聖者の流れに入ることで、最大7回欲界の人と天の間を生れかわれば悟りを開く位。
斯陀含(しゅだごん)
一来 - 一回人と天の間を往来して悟りに至る位。
阿那含(あなごん)
不還 - 欲界には再び還らず色界に上って悟りに至る位。
阿羅漢(あらかん)
応供 - 供養を受けるにふさわしい者で、今生の終りに悟り涅槃に至り再び三界には生れない位。
29 :
?:2011/01/31(月) 17:30:19 ID:mGyD90OP
四向四果 (しこうしか)
部派仏教や上座部仏教における修行の階位
◎預流向(よるこう)、預流果(よるこか)、
◎一来向(いちらいこう)、一来果(いちらいこか)、
◎不還向(ふげんこう)、不還果(ふげんこか)、
◎阿羅漢向(あらかんこう)、阿羅漢果(あらかんか)。
リーマンショック後の世界同時不況は日本の経済はおろか、人間、人間性(ヒューマニズム)さえ破綻させました。金で買えない物は日本にはありません。宗教でさえ金次第なのです
しかし、金で買えない心の安らぎ、魂の救いを求める行為自体、悪魔的人間たちの良いカモなのです。時代、時代の節目、世の中の不安定期に必ずこざかしい小カリスマが現れ、類い希な集金活動を始め、多くの人々を騙すのです
彼らはおろか者ですが馬鹿ではありません。もっともらしく仏典や論書を持ち出し、たやすく社会的免疫力のない人間たちを襲います
33 :
?:2011/01/31(月) 17:41:40 ID:mGyD90OP
>>21 様へ
> 本当に瞑想出来る人間は500年にひとり現れるか否かぐらい確実性がありません。
例えば
瞑想をする為の呼吸法と
瞑想によって
預流向(よるこう)
須陀洹(しゅだおん)に向かう状態へ
意識を変容させる事が重要です
◎身修習
◎戒修習
◎心修習
◎慧修習
の修習などによって
34 :
?:2011/01/31(月) 18:10:31 ID:mGyD90OP
☆ おすすめの書籍 ☆
大安般守意経に学ぶ
釈尊の呼吸法
村木弘昌(2001/12) 価格: ¥ 2,625 (税こみ)
チベットの生と死の書
(講談社プラスアルファ文庫)
ソギャル・リンポチェ、大迫 正弘、 三浦 順子
(2010/9/21) 価格: ¥ 1,600 (税こみ)
新アジア仏教史 01 インド1
仏教出現の背景
奈良康明 下田正弘
(2010/4) 価格: ¥ 4,200 (税こみ)
なにをやってもうまくいかず、何を聞いても何をみても社会はもはや「感動」を若者たちに伝えられず、不安と隣り合せの怒りと憎しみだけがこの国を魔の島に変えたのですが、誰のせいでもなく歴史的必然なのです
この国の団塊の世代がそんな社会を作ってしまったのですから、彼らを絶対信じてはいけません。同時にひとりハッキリ言える事は仏教であれ何であれ、人を幸せにする事など不可能なのです。
あきらめましょう。無い物ねだりは…それが人生です。ああ…Lord Help Me To Be!
華厳経はいつもわたくしを裏切りませんでした。ジョンコルトレーンのサウンドも…現在、人は悟れない。従ってささやかな日常卑近の内に幸せを見いだせない者は、犯罪者になるか、社会的弱者としてますます世の底辺に転げ落ちていくのです
39 :
?:2011/01/31(月) 18:39:18 ID:mGyD90OP
>>38 様へ
> 華厳経はいつもわたくしを裏切りませんでした
華厳経についての
『おすすめの解説書』の
ご教示を、よろしく、お願い、致します
直接、現代語訳をよむべきです。解説書は、原田霊道の現代意訳華厳経がお薦めです。いつも心におまんこを(ラブ・アンド・ピース)
41 :
?:2011/01/31(月) 19:29:10 ID:mGyD90OP
>>40 様へ
現代意訳 華厳経
原田 霊道 (著) (2011/1)
価格: ¥ 5,985 (税こみ?)
↑ 了解、致しました
道聴塗説スレはここですか?
↑犬
シャカは生まれてすぐ喋ったそうですがこれは後の人が色を付けたということですか?
45 :
?:2011/02/04(金) 12:37:42 ID:zKYqkgqQ
>>44 様へ
@テレパシーによって
A他人の心を知る、他心通(たしんつう)によって
B後の人の色付けによって
Cその他
@〜Cまでの可能性が有る
と考えられます
釈迦を普通の人間であるとするのは釈迦を理解しないも甚だしい。彼は「神格化」されたなどとほざくヤツがいますが、神格化されて当たり前なのです。神をも超えるステージにある訳ですから
インドの33億の神様は、みんな嘘っぱちの詐欺だと見抜き、一切は始めから空にして寂滅、あたかも虚空のごときものと悟られたのです。そう、釈迦は神を倒した男なのです。華厳経、梵文和訳維摩経をググりましょう
上座部は釈迦の真意の一部分に過ぎず、大半は大乗経典に熱い彼の魂のドキュメントがフリージャズよろしく文字とともに乱舞しているのです。チャールズミンガスの「直立猿人」やら、アルバートアイラーの「スピリチュアル・ユニティ」のように熱い
49 :
?:2011/02/04(金) 18:41:18 ID:zKYqkgqQ
50 :
?:2011/02/04(金) 19:13:02 ID:zKYqkgqQ
>>44 様へ
> シャカは生まれてすぐ喋ったそうですがこれは後の人が色を付けたということですか?
@テレパシーによって
A他人の心を知る、他心通(たしんつう)によって
B現代科学では説明できない不可思議な出来事によって
Cその他
@〜Cまでの可能性が有る
と考えられます
>>45-50 ありがとうございます。確かめる方法もないしいろいろな可能性が考えられるということですね。
52 :
50 :?のほら吹きスレに注意w:2011/02/06(日) 10:59:22 ID:AqYYJ8mS
ホラ垂れ流しw
華厳経以外はすべてほらふき野郎。?はあまりに人間ナメすぎだから、あえて相手にしなかっただけの事。こっちは全部お見通し。どうせ地獄行きの極道者だ
54 :
?:2011/02/06(日) 15:26:44 ID:ycejWbnr
現代意訳
華厳経
原田 霊道
発売日: 2011/01
価格: ¥ 5,985 (税こみ)
156〜157ページ
三十七道品
…次で聖者は真実の
智慧を生ずる定力を得る為めに
四如意足を修行する。
@欲定、これは断悪に就ての欲求で、
諸の煩悩を厭い離れこれを断滅して涅槃の
真智に回向することに依って成就せらるる。
A精進定
B心定
Cは慧定で、その欲求を体得せんと精進し、
心を専注し、観察実行して厭、離、滅、回向の
次第に断悪の行は完成さるる。
55 :
?:2011/02/06(日) 15:35:50 ID:ycejWbnr
仏法
テーラワーダ仏教の叡智
ポー・オー・パユットー 野中 耕一
発売日: 2008/2/25
376ページ
「世尊はどのように修習者であられるか?
世尊は身修習者、戒修習者、心修習者、慧修習者で
(増進した御身体、戒、心、慧を持たれ)
〔三十七菩提分法(三十七道品)を増進され……と内容を広げて続く〕」
56 :
神も仏も名無しさん:2011/02/06(日) 15:44:36 ID:DHq+zbuy
さて・・。
そろそろ即死判定も免れた頃と思うので、いいかげん書評・書紹レスはやめろ。
>>55 仏教書の目録を作りたいなら、専用スレを建ててそこでやれ。
(前にも同じことを言ったよな?)
57 :
?:2011/02/06(日) 15:57:44 ID:ycejWbnr
現代意訳
華厳経
原田 霊道
発売日: 2011/01
価格: ¥ 5,985 (税こみ)
156〜157ページ
三十七道品
…次に聖者は修善の根基をなす
@意志の堅固なる「信根」、
A目的を貫徹する「精進根」、
B正念に安住する「念根」、
C理解し決断する「定根」、
D境界を理解する「慧根」
の五を修行して
厭、離、滅、回向の
次第に断悪を成就する。
これを五根と云う。
58 :
?:2011/02/06(日) 16:06:54 ID:ycejWbnr
☆ ウィキペディア参照 ☆
中阿含経などに説かれた、仏教で、
悟りに至るための三十七菩提分法(三十七道品)
四神足(四如意足) 四つの自在力
◎欲 (すぐれた瞑想を得ようと願う)
◎精進 (すぐれた瞑想を得ようと努力する)
◎念 (すぐれた瞑想を得ようと心を集中する)
◎思惟 (すぐれた瞑想を得ようと智慧をもって思惟観察する)
五根、五つの能力
◎信根
◎精進根
◎念根
◎定根
◎慧根
59 :
?さんよ:2011/02/06(日) 16:17:59 ID:LCtwrD6Z
頼むから華厳経をマジで勉強しろよ…お前だってこのまま人生終わりたくないだろ?悪いこたぁ言わない。な?華厳経だ
風俗嬢からさえ仏法は学べるものだぞ?
61 :
?:2011/02/06(日) 16:57:22 ID:ycejWbnr
>>59 様へ
現代意訳
華厳経
原田 霊道
発売日: 2011/01
価格: ¥ 5,985 (税こみ)
156〜157ページ
− − −
華厳経の解説書によって
中阿含経などに説かれた、仏教で、
悟りに至るための
三十七菩提分法(三十七道品)
にたどり着く事が出来ました
ご教示、大変、ありがとう、ございました
うむ。わかってくれたか…しかし大乗から小乗へ転落したお前に一言言いたい「アッチャー!」
木村文輝氏が言う「アジアの仏教は変化している。日本は取り残されている。」
なんて話はこの板的にはどうなんだろ
64 :
神も仏も名無しさん:2011/02/11(金) 13:09:23 ID:jjMnbcS6
>>63 どういう意味? その人の名前さえ知らないんだけど?
65 :
神も仏も名無しさん:2011/02/14(月) 19:26:17 ID:vZR2ar1O
三十三天の善法堂天とは帝釈天の別名ですか?
>>64 挑戦する仏教―アジア各国の歴史といま という著書がありますが…
amazonのカスタマーレビューを参考になさっては?
善法堂は帝釈天が法をとく場所。それ以外しらん
68 :
神も仏も名無しさん:2011/02/21(月) 20:21:24.52 ID:2Flfgj5i
【質問です】
お葬式の時に白と黒の簾をかけますが、その意味を教えて下さい。
仏教で、寛容な宗派はどこですか?
過疎ってますな・・
>>68 ざっとぐぐった所によると、
明治(或いは大正)以降、(どこかの葬儀社が)葬儀に特化して使用したことに由来するようです。
神事に於いて用いられ、黒白を鯨幕(くじら幕、げい幕)と言い、他に紅白、青白・水色白(浅黄幕)があるそうです。
ブログなので裏付けてきにどうかはしりませんが、ここ↓とか解り易いですね。
ttp://plaza.rakuten.co.jp/makiplanning/diary/201001100000/ 本来どれでもよく、使用例の積み重ねで自然と慶弔の別のイメージがついてしまったという感じでしょうか。
西洋の「喪に際しての黒」も影響してるかもしれませんね。
寧ろ紅白の使用の方が、由来無きことのようです。
厳かで神聖な儀式ということで「幕が使用される」ということでしょうか。
>>69 本質的には、仏教そのものが寛容なものです。
(日本の)宗派的にと言い出すと微妙な問題が出てきますがw、原則としてはそうです。
ただ、「解脱、或いは涅槃を目指す」としたとき、それが、『仏教的目標』であるが故に、
「説かれている方法以外では到達できません」という意味での差別(区別)はあります。
これを排他的に強調する姿勢を有する場合もあるでしょうし、
どんなことでもそうですが、
「或る体系、枠組みに於いて、その体系・枠組みに於ける目標へ向う“手法”が説かれていれば、
それ以外の手法は適切でない」ということにならざるを得ません。
極端な譬えになりますが、ボクシングの練習をしても剣道が強くなるわけではないようなものです。
剣道で上達するなら、やはりそれなりの方法が取られねばなりません。
その意味で、或る種の排他性をもってしまうことは仕方が無いのではないでしょうか。
71 :
69:2011/02/23(水) 18:10:41.12 ID:JiR1JyY1
>>70 あちらでも、レスいただきましたね。
どうもありがとうございます。
こちらでお礼をさせていただきます。
m(_ _ )m
>>70 丁寧に答えていただき有り難うございました。
73 :
神も仏も名無しさん:2011/03/01(火) 16:08:46.81 ID:/U9LckjV
パーリ仏典を読みたいのですが、
春秋社と大蔵出版のと、どちらが良いのでしょう?
春秋のは中部までですが、大蔵のはこれから年二冊出るけど前者より高い・・・
訳文の正確さ読みやすさではどちらが勝っているのでしょうか。
74 :
神も仏も名無しさん:2011/03/01(火) 16:23:02.38 ID:PCOL7Wxx
>>73 だんぜん大蔵出版の片山先生訳。
片山先生は一人でパーリ・ニカーヤの全訳に挑んでおられる。
しかもテクストや諸註を精査した忠実な訳だよ。
この全訳が完成したら、仏教史の中でも特筆すべき偉業になるんじゃないかな?
この仕事は大蔵出版なんかじゃなくて、岩波文庫で出してほしい。
中村先生の仕事はもう出さなくていいから、片山先生のものを岩波文庫に収録すべき。
しかしながら、岩波は仏教に関しては最低なもんばっか出してるから、
まあ、そんなことしないよね。
75 :
神も仏も名無しさん:2011/03/01(火) 22:03:21.93 ID:/U9LckjV
春秋社版に問題点があれば教えてください
76 :
神も仏も名無しさん:2011/03/01(火) 22:45:52.64 ID:PCOL7Wxx
>>75 特に問題点はありません。
基本的には底本が違うだけで、翻訳方針はほぼ同じでしょう。
ただ、片山先生の仕事と徹底性が違うということです。
譬えて言えば、芸術家の仕事と、職業職人の仕事みたいなものです。
かたや、色々な学者を集めて短期的にやった企画もの、
かたや、一生パーリに捧げた学者のライフワークです。
もちろん、春秋社の諸学者もほとんどパーリの専門家ですから、適当な仕事ではないのですが、
出色のものではないということです。
一見して分かる違いは註の付け方です。
片山先生は、厳格にパーリ註、パーリ復註の情報を提供しますが、
春秋社本は、それらも記述しますが、学問的成果を盛り込むことにも余念がありません。
77 :
神も仏も名無しさん:2011/03/02(水) 13:21:17.79 ID:uO/OqcuT
昨日は回答ありがとうございます。
第三文明社から出ている法華経の全訳は
良いものでしょうか、そうでないでしょうか。
少なくとも古本屋で800円で売ってあったら確保しておいても
いい位の価値はあるのでしょうか。
質問
@釈迦の悟りとは端的に言って何だと考えますか?
A悟りを得る為の具体的な方法はありますか?
79 :
?:2011/03/02(水) 14:29:35.09 ID:egyYvi7z
>>78 様へ
A悟りを得る為の具体的な方法はありますか?
☆ ウィキペディア参照 ☆
クンダリニーは、
悟りを得るために必要なシャクティ(性力)のこと。
クンダリニーの活性化を念頭においたヨーガは、
「クンダリニー・ヨーガ」と呼ばれる。
クンダリニーは、
普段は尾てい骨付近のムーラーダーラチャクラに眠っているが、
ヨーガの実践や宗教の各種修行によって活性化し始め、
生涯をかけ各チャクラを開花させグランティ
(=結節。ブラフマー結節、ヴィシュヌ結節、ルドラ結節の3種類がある)
を破壊し、最終的には
頭頂のサハスラーラを押し開け解脱に至る。
80 :
?:2011/03/02(水) 14:35:04.97 ID:egyYvi7z
>>79 の続き
頭頂のサハスラーラ・チャクラ覚醒によって
悟りの境地に至る
81 :
?:2011/03/02(水) 14:39:46.18 ID:egyYvi7z
☆ ウィキペディア参照 ☆
悟り(さとり)は
知らなかったことを知ること、気がつくこと、感づくことを言い覚りとも書く。
宗教上の悟りは迷妄を去った真理やその取得を言う。
サンスクリットでは「 बोधि bodhi ボーディ 」。
日本語では「菩提」「開眼」「開悟」「成道」(じょうどう:成仏得道の略)ともいう。
悟りを開いた者を「buddha ブッダ」といい、
漢字で音写し「仏陀」「仏」としたり、「覚者」と意訳したりする。
>>78さんへ
それだと、バラモン教のヨガと余り変わらないような気がしますが。
アーレフへどうぞ見たいな話になってしまうw
83 :
神も仏も名無しさん:2011/03/02(水) 14:47:14.22 ID:mJX4RkGI
創価はヤクザ後藤組を行使した。しかも本山を攻撃するのに右翼まで使った
これのどこが平和的かつ正義なのでしょうか。最近では創価公明のポスターに
「人にやさしく環境に優しく」などという標語を使っていたが、こういうのを偽善という
のです。
決してやってはならない宗教は
@ 創価学会
A エホバ
B 日本キリスト教団 です。これはしかるべき伝統スジから手に入れた
貴重な情報です
これらの宗教をやると人生のどこかがオカシクなり始めます。なんなら
みなさんも見学しにゆきますか?面白い光景をお目にかけます
創価との関係を元後藤組組長が暴路、後藤忠政「憚りながら」
創価学会に雇われ、殺人事件も起こしている。
墓苑事業では、反対住民の自宅にブルドーザーで突っ込み、
日本刀で片腕を切り落とした。
又、創価にはヤクザ右翼学会員が多いのをご存知ですか?聖教を読んでるせいか
素行の悪い学会員が多いのは偶然ですか?それと創価を誹謗中傷して破門になった会員もいる。学会批判をさせないために恫喝してきた。手法は
「創価はオウムより怖いのだよ」という恫喝でニセ本尊等々の批判
をさせてこなかったという話を会員から聞いた。また病人と貧乏人の集合体となり果ててしまったのは偶然ですか?
84 :
?:2011/03/02(水) 14:52:18.96 ID:egyYvi7z
ゴータマ・シッダールタは
バラモンの環境の中で、生まれ育った
無所有処とか、非想非非想処などは
バラモン由来である、と思われる
ゴータマ・ブッダはもともと天性の才能を持ったヴェーダーンティストであった。彼の悟りはいにしえのヴェーダの論理的完成であり、はじめて一部の聖仙しか知らなかった真理を民衆に紹介した
ブッダが入滅すると、案の定堕落が起きた…その形骸化した教えがいわゆる南伝仏教であり、改革の炎がインドで爆発し、ブッダの真精神を再び再構築したのが大乗仏教である。まさにヴェーダーンタの精華である。
87 :
神も仏も名無しさん:2011/03/02(水) 15:12:04.13 ID:+jBwAFbv
しかしバラモン教とは一線をかくした教えである事も確かだと思います。
ユダヤ教とキリスト教が別のものであるがごとく
例えば釈迦はバラモン教のカーストの最下層の人々を弟子にしていました
これはバラモン教並びにカーストを否定する振る舞いであり釈迦の教えや悟りがバラモン教とは根本的に異質のものだったこと
を示しても居ると思います
インドのヒンズー教では釈迦を神の化身だが人々を惑わすために現れたとも位置付けており
釈迦の教えはバラモン教と同じとするのは困難と思います
88 :
?:2011/03/02(水) 15:15:29.00 ID:egyYvi7z
ゴータマ・シッダールタは
バラモン、ヴェーダを、受け継いで
シッダールタ独自の
滅尽定と言う、技法を作り上げた
と思われる
89 :
神も仏も名無しさん:2011/03/02(水) 15:19:30.60 ID:+jBwAFbv
バラモン教は輪廻転生説の上に成り立っていますが、釈迦の言動を見ると輪廻転生説に対して懐疑的です
輪廻転生を無条件に肯定する立場に立つとオウムや幸福の科学のような
教義がすぐに生まれてしまいますが、釈迦の悟りがそのようなものだとすると
カルトと変わらない訳で、現代人にとっての評価の対象にはならないと思います
90 :
?:2011/03/02(水) 15:31:49.68 ID:egyYvi7z
新アジア仏教史 03 インド 3
仏典からみた仏教世界
奈良康明、下田正弘
☆ 317〜318ページ
◎シャーリプトラが実践する【不断の法観】
初禅…(省略)…無所有処、非想非非想処という
一連の精神的な深まり経て、究極的精神集中状態である
感受過程も表象作用も暫時的に尽く完全抑止状態となる
【想受滅(滅尽定)】に入る
この瞑想で
【智慧によって煩悩が滅尽している】
と、観察する
シャーリプトラは、自らの生存を
【意識のみから成る身体 → 意成身】へと
作り為す事が巧みであった
91 :
?:2011/03/02(水) 15:46:09.63 ID:egyYvi7z
新アジア仏教史 02 インド 2
仏教の形成と展開
奈良康明、下田正弘
☆ 74ページ ☆
スッタニパータ(351)
「死を繰り返す輪廻を余す事なく捨てられた方にすがって、
私は浄らかな真理を説いて下さいと言うでしょう。
如来の方々は事を慎重に熟慮され成しえられるのです。」
− − −
輪廻を余す事なく捨てる事が出来ていない人は、輪廻を繰り返す。
輪廻に対して肯定的に、捉(とら)えようとする
心がけが重要である
愚か者だけがブッダは涅槃に入ったと言う…だが智者はそうは言わない
ブッダの現れた時代のインドではかつては栄光に輝いていたヴェーダの理念は堕落して恐るべき退廃的唯物主義が猛威を奮い、真のヴェーダを知る者はいなかった。ブッダはそれを再発見したのである。民衆のために…そこに彼の革新性があった。驚嘆すべき偉大なる魂であった
94 :
神も仏も名無しさん:2011/03/02(水) 16:12:42.66 ID:uO/OqcuT
質問でも回答でもないことを
ここではやらないでください。
自説の披露は議論スレッドでお願いします。
95 :
?:2011/03/02(水) 16:22:42.06 ID:egyYvi7z
ワイド版 岩波文庫
ブッダのことば
スッタニパータ
中村元
786
邪悪を掃(はら)い除いた人は、
世の中のどこにいっても、
さまざまな生存に対して
あらかじめいだいた偏見が存在しない。
邪悪を掃(はら)い除いた人は、
いつわりと驕慢を捨て去っているので
どうして輪廻に赴(おもむ)くであろうか?
かれはもはやたより近づくものがないのである。
− − −
邪悪を掃(はら)い除いた人は、輪廻に赴(おもむ)かないけど
邪悪を掃(はら)い除いてない人は、輪廻を繰り返す
96 :
神も仏も名無しさん:2011/03/02(水) 16:34:27.27 ID:YNxLoTm0
自説ではなく、仏説である。程度の低い教えの要点は、この世のすべては無常、人間は必ず死ぬである
だがより高い真理の見地からは人間には、そもそも生もなく、死も無いと宣言する。自己は肉体でも、心でもないからだ。つまりは絶対、永遠である。これは最古の現代においても通用する福音である
仏教に限らずあらゆる宗教、哲学の目的は「他者の幸福」追求であり、自己の幸福を求めるものは、仏教や他の宗教とは無縁の何事かにすぎない。現代のカルトによく似ている
>>97 ここは、
聞かれてもいないこと、応答の流れに与ってもいないことを書き込むスレではありません。
ここで言う「自説」とは、オリジナルな、独創的なものということだけでなく、
「自らが受け止め、肯っている説」ということも含みます。
だから「垂れ流し」と評するのです。
単に言いたいだけならtwitterでもやっていれば宜しい。
いわゆる言論統制ですね?(笑)
>>101 国語算数理科社会、と別れてるようなもんだ。
貴方には「常識」というものが欠落しているようですね・・。
瞑想をやって無念夢想になっているときは確かに「予め抱いた偏見が存在しない」状態と言える。
大抵の場合、人は偏見の奴隷になっており、「あいつはムカつく」と言う事を100篇繰り返している事が在る。
すると「あいつはムカつく」がリアリティを持ち始める。
例えば、海にバカンスに行ったり、山登りを3日くらいして、町に帰ってきたときなど、世間の風景が新鮮に感じるときがあるだろう。
それは「日常の雑事」に三日間触れなかったことで、その点においては「無念無想」になっている訳で、仲たがいしていた友人とかとも、新鮮な気持ちで接する事が出来たりするからだと思われる。
普段当たり前に見ていた町の風景も、なにやら美しいものに見えてきたりする。
偏見が無くなり、「存在のありのまま」が一瞬見えたような瞬間と言える。
もし、無念無想の瞑想に効果があるとしたらこういうものだろう。
日常の想念、妄想から自由になると言う事である。
24時間のうち、1時間でも「無念無想」であれば、それだけ、「煩悩から自由」になる可能性はある。
しかし、下界に下りて、三日もすれば、また煩悩の虜になる。
何故なら、下界の人全てが悟りを得ているわけではないからだ。
下界に生きて、尚且つ、煩悩の虜にならないような瞑想の工夫をする必要がある。
一つ、私がやって有効だったのは、下界の人全てが釈迦ムニ仏であると言う瞑想である。
これを毎日やっていれば、下界に居ながらにして、仙人郷にいるような心境がするだろう。
心に妄想が起きる余地が無いのである。
常に安らかな気持ちで、日常を過ごす事が出来る。実際にチベット密教ではこういう瞑想があるようである。
ただ、よっぽど瞑想に習熟しないと、俗悪資本主義的リアリティの方が勝ってしまい、「とてもじゃないが目の前の上司や同僚が釈迦には見えない」と言う心境に陥ってしまう。
この辺、もう少し工夫の余地があると思う。
殆ど、住民全てが仏教に強化されているチベットやブータンなどと、現代日本では条件が違いすぎるのだ。
精神の衛生という観点から2ちゃんねるの評価
「2ちゃんねる」ははっきり言って、瞑想、精神の衛生と言う観点からすると、かなりマイナスである。
他人の悪口が主であるからである。
毎日のように2チャンネルをやっている人は、他人が悪人に見えてくると思うw
人間に対してネガティブな偏見を増長してしまう効果があるのだ。
2ちゃんねるをやるくらいなら、その時間を瞑想に当てたほうがいいだろう。
106 :
?:2011/03/02(水) 17:52:35.22 ID:egyYvi7z
バラモン由来の
無所有処とか、非想非非想処などの場合は
> 下界に下りて、三日もすれば、また煩悩の虜になる
ゴータマ・シッダールタ独自の
想受滅(滅尽定)の場合は
輪廻から解脱できる
無念無想の瞑想を一日10時間くらいやったらどうなるか。
その間は煩悩は止んでいる訳である。
10時間と言うと、半日小旅行に出かけたくらいの時間である。
さすがに認知の上で何らかの変化が起こりそうである。
10時間無念夢想の瞑想が出来るとしたら、日常生活でも無念夢想で生活できるくらいの「精神力」が生まれそうに思う。
普通は、無念無想で仕事をしたり、生活をしていない。
思い出したように2ちゃんねるに書き込みをしたり、友達の事が気になったり、他人の噂話に興じたりしている。
しかし10時間無念夢想の瞑想が出来るならば、3時間くらい無念夢想でいることは十分可能であろうし、3時間無念無想ならば、休憩を挟んでさらに三時間無念夢想も可能だろう。
つまり24時間無念夢想で一生無念無想と言う事も不可能ではない。
無念無想と言うのは、要は、存在そのものをありのままに認識していると言う事である。
全てのものが見えていると言う状態のはずである。
例えば、目の前に居るものを、普通は「奥さん」だと思うわけだ。
日常意識では「奥さん」と言う概念を認識している事になるが、無念無想でみればそれは「一瞬一瞬で変化する縁起の総体」かなにかに見えるやもしれぬ。
理屈ではそうなるので、是非実践して報告してくださいw
仏教とフッサールの現象学って相通じる面があるようにも思う。
要するに、どちらも「あるがままの世界」を見ようと言う取り組みだからである。
フッサール現象学では例えば「パソコン」と言う概念を括弧でくくってそれを認識する。
所謂「現象学的還元」である。
現象学的還元を通してみた世界では、あらゆる情報が飛び込んでくるはずである。
と言うのも、普段我々の意識は、一定の「志向性」を持ち、それに対応するような情報しか見えないからである。
弟子のハイデッガーが「道具存在」と言っているのもそれに近かろう。
(話は脱線するが、ハイデッガーは世界を「事物存在 道具存在 人間存在」に分類した。
会社の奴隷となって働いてい居るA君は、まさに「道具存在」である。「おい、飯作れよ」と妻に命令する主人にとって妻は道具存在である。
ちなみに道具存在である前段階を事物存在と言う。奥さんはかつてA君にとって事物存在であったが、結婚して、いつのまにか「道具存在」になっている訳である。
それは「親しみが増した」と言う面があるが、一方で、包丁や鞄と同じような日常生活を形成する「道具」になっている訳である。)
次に無念無想とハイデガーの存在論について考えてみよう。
目の前のパソコンは、もはや、MITUBISIの○○型パソコンと言うような存在ではなくなっている。
無かったらしっくりしない、いつもの「あれ」である。
パソコンである事自体忘れるくらい、自己の一部になっている。要するに「道具存在」と化している訳である。
毎日履いている靴は、もはや、事物としての靴ではなく、自己の一部になっている。
「奥さん」もそうだが、無念無想の瞑想をした場合、奥さんや靴は「ただの事物存在」になるのであろうか。
だとすると、無念無想の瞑想は、世界との疎外感を増すだけであって、余り意味が無いではないか。
この辺の問題について、ハイデガーがどう考えていたかは私は寡聞にして知らない。
『存在と時間』も未完なので、その辺の話は曖昧に終わっているのではないかと思われる。
(ただし彼の思想は非常に面白い問題提起をしていると思う。)
何の変哲も無い茶碗に美を発見した千利休
丁度、利休の美学と言うのは、日常生活を形成する道具に過ぎなかった茶碗などを、芸術に昇華している面がある訳だ。
丁度、子供のころ、木目の模様に見とれ、歯ブラシで戦争ごっこをしたように、「欠けた茶碗」も見ようによっては宇宙を感じると言うこともあるだろう。
道具存在と化しているパソコンに名前をつけたり、飾ったりして楽しむようであれば、それは、もはや道具ではなく一種の芸術品である。
「芸術品も道具存在ではないか?」
茶道具として政治に利用するような場合、それは道具存在であろう。
しかし、その茶碗そのものの在りのままの価値を楽しむと言った域に達している場合、それは単なる「道具存在」とはいえなかろうと思う。
では、無念無想の瞑想の到達点が千利休なのであろうか
もはや質問箱じゃないな・・。
隠居の一件で責任感じてる者達は議論スレ建てて移民してるというのに・・。
112 :
?:2011/03/02(水) 19:28:34.81 ID:egyYvi7z
ワイド版 岩波文庫
ブッダのことば
スッタニパータ
中村元
972
…瞑想に専念して、
大いに目覚めておれ。
心を平静にして、
精神の安定をたもち、
思いわずらいと
欲のねがいと
悔恨を断ち切れ。
>>112
どういう瞑想をすればいいかが書いてないね。
それとも三段目以下の「心を平静にして・・断ち切れ」までが瞑想の内容と捉えて差し支えないのかな?
114 :
?:2011/03/02(水) 19:46:04.12 ID:egyYvi7z
仏法
テーラワーダ仏教の叡智
ポー・オー・パユットー
☆ 376ページ ☆
「世尊はどのように修習者であられるか?
世尊は身修習者、戒修習者、心修習者、慧修習者で
(増進した御身体、戒、心、慧を持たれ)
〔三十七菩提分法(三十七道品)を増進され……と内容を広げて続く〕」
− − −
三十七菩提分法の
身修習、戒修習、心修習、慧修習
などの修習による
瞑想に専念して、
大いに目覚めて…
115 :
神も仏も名無しさん:2011/03/02(水) 19:46:04.27 ID:pVDAEvkC
>>113 ここは「質問スレ」です。
自己の見解を述べたいのであれば「議論スレ」にどうぞ。
貴方も仏教に関心があるのであれば、最低限のマナーは守りましょうよ。
それから、?さん。
貴方も、ここでの目録作りは止めようや。
以前にも、誰かに注意されてたでしょ?
そういうのは自分のスレでやって下さいね。
?さんの引用は、偏見を払って見ると、「結構、面白い」
つまり、本格的な大瞑想に入る前に無所有処とか、非想非非想処の瞑想で、煩悩の塵を払っておく事が
重要と言うことですな。
>>115
すいませんでした。以後気をつけます。
では改めて質問なのですが
>想受滅(滅尽定)
という瞑想は具体的にどういうものですか?
119 :
神も仏も名無しさん:2011/03/02(水) 19:58:47.90 ID:pVDAEvkC
>>118 ご理解頂けてありがとうございます。
質問の回答は私には無理です。
少しまつと、仏教に詳しい方々の回答があると思います。
と言うのも、個人的に「記憶」による、世界観の固定化(要するに偏見)をどのように解体するべきか
と言う問題にぶつかってまして。
例えば、誰かと口論したとしますね。すると、その記憶が縁となり、「嫌な奴」と言う固定観念が生まれます。
「これは固定観念に過ぎない」と理性的に考えても、大本となる「記憶」が存在する限り「嫌な奴」と言う固定観念も消えません。
(まぁ記憶を消去すればいいんですが、記憶を消去したと言う記憶によって、記憶された内容が再現してくるw)
「過去の記憶」と言うのが「煩悩の原因」なんだと思います。
例えば「私とは何か」と言うのは「過去の記憶」に関連しています。
過去の記憶が「私」と言う自我を形成していると言えましょう。
一切の記憶が無ければ、「私」も消える訳です。
しかしそれではただの記憶喪失患者になってしまうw
ので、新しい記憶を作る必要があります。新しい記憶を作る方法、それが瞑想だと思います。
ただし、古い記憶をうまい具合に消去する方方が無いと、新しい記憶と古い記憶が衝突を起こしてしまう。
或いは「無念無想の瞑想」が古い記憶をデリートする方法の一つかもしれませんが
121 :
神も仏も名無しさん:2011/03/02(水) 20:12:37.50 ID:pVDAEvkC
瞑想の実践的な側面に関する質問ですか。
すると体験者の回答が必要になりますね。
はい、三昧体験者さん
お願いします。
>>120 体操選手が、本番(大会競技中)に怪我をしたとする。
怪我が治り、以前と同様に演じることが可能となっても、
いざ本番!といった時、足がすくむ、身体がこわばる、結果、ミスをする、ということはありえる。
この時、まさに120にあるように、過去の記憶が、滑らかな演技を阻害しているわけだ。
さて、プロ選手(でなくてもいいが)は、これをどうやって克服するだろうか。
おそらく、地味だが最も確実なのは、
「練習を重ね、繰り返し」、「成功した回数を増やす、成功のイメージを塗り重ねる」ということではないだろうか。
そのことにより、本番直前に、「その新たな記憶、何度も繰り返したという経験を信じ」、
そして「成功のイメージを描く」ことにより乗り越えるんじゃなかろうか。
これは、怪我や失敗をしていなくても、成功へ向かう為の手法としては共通と思う。
(ま、どちらかと言えば、「失敗はあった方が、その方向を避ける」ということがし易くなるとは思うが・・。)
同じことが、煩悩や過去の悪業の受け留め方と、将来の自己像、善業による上書き、ということになるんじゃないかな。
過去の悔恨があれば、それは避けるべきもの、二度と陥らないように心がけられるもの、そうした道標として機能するだろうし。
決して、「デリート」ではないと思いますよ。
なるほど、今、さらっと想受滅について調べてきましたが、大体、私が持っている問題意識と同様の論点を持っているようです。
つまり、「想」(記憶、或いはそれを縁にした妄想)が無ければ、自我も他我も解体される。
あいつはこういう奴だとか自分はこういう人間だと言う偏見は「想」から生まれる訳ですからね。
要するに、心を「空っぽ」にしようと、意識して務める事が、禅の瞑想の目標なのではないかと思います。
輪廻転生から解脱するのも当然と言えば当然で、輪廻転生と言う観念体系も心の中から削除されてしまえば、「輪廻転生によって来世ノミに生まれたらどうしよう」
などと「悩まない」訳だ。悩む種が無い。
>>122
ただ、それだと「練習中に、本番で怪我をしたときの事を思い出し、足がすくみ、失敗を繰り返し
さらにその失敗が、失敗のイメージを想起させて、さらなる失敗を呼ぶ」と言う悪しき連鎖による世界の固定化の方向に向かっていく」可能性もかなり在りえる訳です。
対人恐怖症などもそういう例でしょう。
順序としては、想起そのものを断滅させて、成功体験のイメージを繰り返し、繰り返し植えつけて、その上で、競技にチャレンジすると言うような方法が取られるべきはずで
実際、現代のコーチ理論と言うのはそういうものになっているようです。
>>124 >実際、現代のコーチ理論と言うのはそういうものになっているようです
「なぜ失敗したか?」ということを切り捨ててしまってもいいの?
失敗のイメージ(負のイメージ)(≒想)の「増長」、或いは「想起」は避けられるべきでしょうが、
その元となった因(縁)の見極めは、保持されるべきでは?
解決して(無事演技の成功がコンスタントに、障りなく爲されるようになって)初めて、その「元」の消去が可能なのでは?
勿論、失敗のイメージが想起され(≒想)、そうした原因を恐れ、縛られ、「避けよう避けよう」と思うこと(≒行)が、
新たなミスや同じミスを誘発するということ(≒果)はありえますが、だから、捉われてはならない、ということになるのでしょう。
しかし、感受による想(想という想起―同語反復になりますがw―)が無くなるということが(→想受滅が)、
悟りの完成にしかありえないとすれば、その手前の方途を採らざるを得ません。
負の想を負の行へ深化させない手筈が採られるべきでしょう。益する想を益する行へと増長させるべきでしょう。
そして、それこそが代々受け継がれてきた瞑想(→禅定)法ということになるんじゃないでしょうか・・。
ま、以上グダグダ述べましたが、眉唾で聞いといてくださいw
さて、かずよさん、出番ですよw ノシ
126 :
?:2011/03/02(水) 20:54:05.10 ID:egyYvi7z
アビダンマ講義シリーズ
第2巻 心の分析
ブッダの
実践心理学
アルボムッレ スマナサーラ
☆ 302〜303ページ ☆
想受滅(滅尽定)
◎非想非非想処の次の段階の禅定
◎ゴータマ・シッダールタの独自の禅定
◎煩悩を消す為の禅定
◎存在を消す為の禅定
◎心の波を消す為の禅定
◎阿羅漢になる為の禅定
◎生きていながら、涅槃を体験できる禅定
127 :
神も仏も名無しさん:2011/03/02(水) 21:05:34.33 ID:dIO83N33
>>77 分からない。少なくとも岩波の岩本訳はだめですよ。
>>78 >@釈迦の悟りとは端的に言って何だと考えますか?
一切智
>A悟りを得る為の具体的な方法はありますか?
伝統を継承する聖者から教えを聞き、それを考え、修行すること。
>>89 いやいや、釈尊は輪廻をしっかり説いてるよ。
パーリ『梵網経』を始め長中部経典のほとんどには、果として宿命通が説かれます。
宿命通とは、あらゆる過去世の記憶に通じることですから。
>>125
「何故失敗したか」ですが、偶発的なアクシデントのようなものの場合、その原因はまさに「たまたま」以上の何ものでもないと思います。
それ以上に考察すると「妄想」に至ります。
跳び箱で千回飛べばどんな名人でも一回は失敗します。
しかし、そのたまたまの失敗を拡大して解釈し、分析を繰り返す事で、心の中に失敗イメージを繰り返し植えつけます。
そうするといつの間にか「たまたまの失敗」が縁になり「俺は駄目人間だ」と言ううつ病まで発展する事にもなり得る訳です。
そして物事の根本の原因は、その原因を観察しているところの、「心」であるともいえます。
「オリンピックで金メダルとろう」と思ったのも心であり、その初心が無ければオリンピックで金メダルは取れません。
「オリンピックで金メダルをとろう」と言う初心が「怪我しないようにそこそこ頑張ろう」になれば、金メダルは取れません。取れたとしてもそれは「偶然」です。
心は絶えず動いているので、もし何かの結果を出そうとすれば、心の状態を適切なものに戻す必要があります。
余計な雑念が在る心より、余計な雑念が無く「オリンピックで金メダルとろう」と言う心が、もっとも金メダルに近い心である事は間違いないでしょう。
勿論、仏教瞑想の観点からすれば「オリンピックで金メダルとろう」と言う心も煩悩ではありますが
>>125
負の想を正の想にしようと言うのは確かに瞑想の効用としてそういう手段もとりえますが
仏教の瞑想とは、どうやら正負を超えた瞑想のようです。
負の想から正の想にしたとして、例えば「バリバリ社会で活躍して億万長者になっている自分」をイメージしたとしましょう。
間違いなく、そのようなイメージを持ったほうが、「成功」する確立は高いでしょう。多くの人間の想念は、そういった能動的なものではなく
日々、社会や環境の中で「作られた」、マイナスのイメージの方が多く、それに翻弄されているからです。
ナポレオンヒルの成功哲学などでも「自分が成功しているイメージを持ちましょう!」と書いてあります。
しかし、それって、「想に囚われている意味では同じじゃないですか?」ということもいえると思います。
「社会的成功」と言っても、自分や社会が「彼は成功者だ」と認識しているだけのことで、実態は狸や狐に化かされているような状態とも
言えないことはない訳です。
年商100億の会社を作ったが過労死で30代で死にましたなどと言う例がそうでしょう。
>>128 四諦や懺悔(さんげ)全否定ですか・・。
>>129 手段(方法)の話じゃなかったでしたっけ?
(最終の)境地としては、言う通りです。しかし、途上に於いて「原因への視線」を忘れれば、
それは、再度生起させることの因となりえます。
恐れてはいけないが、忘れてもいけない。
途上にある者にとっての負のイメージの因は、そういうものではないでしょうか。
>>130
原因と言うのは、大乗仏教の受け売りそのまんまで言えば、その人の心です。
天台仏教では「一念三千」と言いますね。
原因を分析しているのも心なのですから、客観的な原因の特定などと言うものは到底不可能です。
何で俺は苦しいんだろう、そうだ社会のせいだ、いや親のせいだ・・いや結局自分のせいなんだ・・と自他を苛みます。
特に日本人はその傾向が強く、自殺者も半端無く多いです。
実際は、苦しいと「思う」から苦しいのであり、楽しいと「思え」ば楽しいわけです。
苦しみを生み出している原因は心にあると言うゆえんです。
132 :
神も仏も名無しさん:2011/03/02(水) 22:14:36.90 ID:dIO83N33
>>131 ここは質問スレなんで、議論するなら他でやった方がいいんじゃないの?
とはいえ、こういう悟り切った見解は、実際に座禅の達人であった天台大師だから言えることで
その受け売りそのまんまの答えを述べても自分のものになったとは言えないでしょう。
解法だけではなく実際に解いて(座禅をしてみる)見る必要があると思います。
(もっとも、釈迦は悟りを得るのに座禅は必ずしも必要ないという考えだったようですが。)
>>131 だからw
ゴールはそうでしょうけど、道程は道程としての在り方があるってことです。
ゴールテープを切った後は止まっててもいいですが、
途中で止まっていてはいつまで経ってもゴールには届きません。
>>132 サーセンw
|
|彡サッ
|
>>132
私の質問に答えられる人がいればいいが、どうやら、答えられる人が居ないので
私が質問に答えるスレになってしまいました。想定外のことでした。
ここは質問するスレだけではなく、質問に答えるスレでもあるので、一応、スレタイと矛盾はしていないのではないでしょうか。
座禅と喫煙
例えば、煙草を吸っているとき、「ああ体に悪いものを吸ってるな」と思いながら吸っている場合、
その人は、煙草を吸っていると言うより、かっこつけて言えば「意味を吸っている」訳です。
つまり「煙草→発癌物質→肺ガン」という想念が湧き上がり、「私は肺ガンで早世する」などと言うような信念すら助長する訳です。
こうなると、果たしてブラセボ効果で肺ガンになっているのか、純粋に物理的な影響で肺ガンになっているのかあやしいものです。
ま、それはさておき、そろそろ禅定に入ろうと思うので今日はここまでにしたいと思います。
お付き合いありがとうございました。
137 :
神も仏も名無しさん:2011/03/02(水) 22:28:47.30 ID:dIO83N33
>>135 いや、私が思うに君は質問してるんじゃなくて、
素晴らしいオレチャンの見識をひけらかしたいだけなんじゃないか?
そういう人には慈悲深い人以外は答えないもんですよ。
138 :
神も仏も名無しさん:2011/03/02(水) 23:39:50.40 ID:uO/OqcuT
127
岩波文庫版はどんなふうにダメですか?
質問です。
釈迦は女にもてましたか?
140 :
神も仏も名無しさん:2011/03/03(木) 03:14:08.92 ID:gBTuhN49
私は悟りの証明として自分の好きな女が他の男と結婚しても祝福できるかと言う点が基準になると思う
無念無想であれば結婚した女とか女と別れると現象は意味の上では存在するが実在はしない
我が解体していれば別れた女もいなければ奪った男もいない
ユイマ経のユイマ居士の如く
非道を犯しながら清浄なる境地で居られるはずである
悟ったならば最愛の妻が浮気をしても彼女に対する尊敬を失わず平然と受け入れるはずである
心の平安を完全に得た境地
完全なる自由な境地というのはそういうものであるはずだ
自分の彼女が浮気をしていると想像してみよう
そこで怒りや嫉妬の心が沸き上がったとしたら
貴方の悟りは本物ではないし
悲しい気持ちや相手を蔑む気持ちが起きても本物ではない
釈迦がこの最上の平安の境地に到ったのが事実であるならば
釈迦は勿論女にもモテる
教祖や王子の下駄をはかなくてもモテたはずだ
少なくとも中谷彰宏よりモテているはずだ
141 :
神も仏も名無しさん:2011/03/03(木) 05:53:39.51 ID:y6K+Y2Aa
>>138 誤訳が多い。岩本裕の仕事は私が知る限りみんなそう。
142 :
神も仏も名無しさん:2011/03/03(木) 06:16:05.82 ID:y6K+Y2Aa
143 :
神も仏も名無しさん:2011/03/03(木) 15:03:24.18 ID:xxbJcD4n
小松玄澄貫主
というようなカッコいい名前には何か意味がありますか?
またどのようにしてつけているのでしょうか。
144 :
神も仏も名無しさん:2011/03/03(木) 15:22:06.81 ID:y6K+Y2Aa
>>143 過去に於いては師匠の一字を貰って付けることが多い。
意味はあったり、なかったり。それぞれでしょう。
145 :
?:2011/03/04(金) 14:13:15.65 ID:KrpKvebb
>>116 様へ
> 本格的な大瞑想に入る前に
> 無所有処とか、非想非非想処の瞑想で、
> 煩悩の塵を払っておく事が、重要と言うことですな。
アビダンマ講義シリーズ
第2巻 心の分析
ブッダの
実践心理学
アルボムッレ スマナサーラ
☆ 287〜303ページ ☆
無所有処 → 非想非非想処 → 想受滅(滅尽定)
仏教は役に立たない。人をしあわせにできないと悩む者ですが、いろんな連中がくだらない本を書き売ってますが空虚感だけですね…子供にはいかに自分の手を汚さず金持ちになるか教えた方がいいと思ってしまいます。金がなきゃ仏教もできんですから。どうか良き助言を頼んます
悟った人などひとりも現代日本にはいないので、そんな連中から教えをこうても意味が無いのでは?と疑問になります
148 :
神も仏も名無しさん:2011/03/04(金) 18:45:27.80 ID:uzeDs2A+
>>146 仏教は素晴らしいですよ。
ただ、本を読んでもそれほど意味はありません。
仏教を習うなら、伝統の聖者から教えを聞き、考え、修行する必要があります。
テーラワーダか、チベット仏教を習うのがいいと思います。
テーラワーダなら、ビルマ。
チベット仏教なら、ネパールに行くのがいいと思います。
もし、そんなこと出来ないと考えるのでしたら。
アミダの誓願を信じて、ナンマンダブを唱えましょう。
これだけでも充分です。
聖者なんてどこにも見あたりませんが?しょせん仏教はブタ箱のなかの幸福しか提供しない気がしますね。俺が欲しいのは本当の自由、幸福、新しい世界なんだ
150 :
神も仏も名無しさん:2011/03/04(金) 20:22:43.62 ID:uzeDs2A+
>>149 いやいや、ビルマやチベットにはまだまだたくさんいますよ。
なにしろ、あのレッドチャイナが強制収容所に入れたものの、
あまりの聖者ぶりになんの出だしもできず、そこで平然と教えと行に邁進した聖者がいたぐらいですから。
お陰で、20世紀後半チベットの仏教の中心は、強制収容所になって、
そこから次々に成就者が輩出されたほどです。
その方は無くなられましたが、そのお弟子さんで、全くの菩薩が、
日本にも来られたガルチェン・リンポチェです。
この方は拷問も受けましたが、そんなことは感じさせない、
人のことしか考えてない方です。
なるほど…でも中国共産党を見下すような発言はやめてください。そんなつまらない聖者のひとりやふたり死のうが生きようがどうでもいいです。当時のレッドチャイナは全人類解放の根拠地でしたから
ブッダを自称するぐらいなら、今すぐ動物園のトラのエサにでもなれば少しは私の懐疑心も解消されるでしょうに…そんな聖者なんてどこにもいやしない
153 :
神も仏も名無しさん:2011/03/04(金) 21:15:58.56 ID:uzeDs2A+
>>152 ブッダを自称する人は、伝統仏教では釈尊以来、釈尊のみですよ。
エサになった方は知りませんが、18世紀に罪人の身代わりになって死んだ方はいます。
それも殺されそうになっている罪人に偶然であって、私が代わりに死ぬからこの人を助けてくださいと言って身代わりになったそうです。
その後、弟子が探しに来て、これこれの風采の高僧はいませんかというと、
いや、高僧は知らないが、罪人の身代わりになって死んだバカな坊さんならいたぞ、と言われ。
それは我が師だと言って弟子達が号泣したという話ならあります。
155 :
神も仏も名無しさん:2011/03/07(月) 12:26:12.18 ID:0KV0qI4F
八敬法って、いつ、だれが言い出したんですか?
156 :
神も仏も名無しさん:2011/03/07(月) 12:50:52.01 ID:byNPHyL8
157 :
神も仏も名無しさん:2011/03/07(月) 13:33:24.45 ID:0KV0qI4F
げっ 釈迦本人の言なんですか・・・
158 :
神も仏も名無しさん:2011/03/07(月) 14:00:41.24 ID:byNPHyL8
>>157 伝統的にはそう考えられております。
女の方がサンガに入ると問題が多いということで、釈尊は拒んでいましたが、アーナンダに促されて渋々認められました。
そのお認めになる際の条件です。
このことは男女平等が常識とされる現代では違和感があるとおもいますが、
私見では、女の方は愛着が強く党派を結成しやすいので、とても現実的な条件だと思います。
私が知っているいくつかのサンガでも政治的問題を起こすのは女性が多いです。
非常に優秀な女性でも、愛憎が絡むと問題を起こすことが多いと思います。
律にもそのような話が沢山出てきます。
私は後世の編集のようには思えません。
159 :
神も仏も名無しさん:2011/03/07(月) 19:45:30.28 ID:0KV0qI4F
それにしても、一番目は極端に見えます
160 :
神も仏も名無しさん:2011/03/07(月) 20:10:10.86 ID:byNPHyL8
>>159 尼は半月ごとに比丘の指導を受けよですか?
162 :
神も仏も名無しさん:2011/03/07(月) 21:30:07.97 ID:0KV0qI4F
160
いえ。百歳の尼であっても、新参の男性僧侶を礼拝するというくだりです。
ビクに問題があっても指摘してはならないってのも・・・
後者のは批判にかこつけてヒートアップしたり、批判のための非難になるのを戒める、
とか考えることも出来なくはないですが、極端ですね。
それらは「問題の指摘」そのものの問題ではないし・・・。
161
まあ、あのマヌ法典を生んだ世界ですしね・・・
163 :
神も仏も名無しさん:2011/03/07(月) 21:34:42.04 ID:byNPHyL8
>>162 要するにそうしないと政治的に分派しやすいからだと思います。
私もサンガとかに関わらない頃は、時代的な習慣かと思ってましたが、
今は当たり前ですが、釈尊は流石だと私は思います。
164 :
神も仏も名無しさん:2011/03/07(月) 21:45:39.27 ID:0KV0qI4F
政治的に分派、とはどういうものですか。
仏教資料では、どういうエピソードがありますか?
尼が何か新興宗教つくったとかでしょうか。
165 :
神も仏も名無しさん:2011/03/07(月) 22:13:13.73 ID:byNPHyL8
>>164 恐らく尼は自分の師匠を絶対視するあまり他者を貶すなど公平を欠いた行動をより起こしやすく、諫めても聞かないというようなことです。
例えば、学問のないけど羅漢のチューラパンタカを馬鹿にするために講義を要請したり、
自分の師匠が死んで仏塔を造って、比丘の邪魔になるほど供養が喧しいとか、
自分の好きな人の罪を庇う、暴力沙汰を起こすといったことが思いつきます。
恐らく納得できないかもしれません。
西洋人で、尼になった人が、これらの問題でいろいろ物議を醸し、最終的に還俗したという話もあります。
ですが、重要なことは仏教をやるなら三宝に帰依することです。
三宝に帰依したなら、それを疑っては罪を作るだけでしょう。
これ以上は、ちゃんとした先生に伺ってください。
166 :
神も仏も名無しさん:2011/03/08(火) 20:43:28.33 ID:nb7TBJus
仏陀は堕胎や間引きについて、どのように語っていますか?
167 :
神も仏も名無しさん:2011/03/08(火) 21:00:36.75 ID:vNep7IiA
168 :
神も仏も名無しさん:2011/03/08(火) 21:07:13.76 ID:nb7TBJus
例えば、子供がこれ以上いると生活が成り立たない
というギリギリの状況の場合は、
どうなるのか、という疑問です。
やりとりの事例として記録されてるのでしょうか。
169 :
神も仏も名無しさん:2011/03/08(火) 21:21:14.05 ID:vNep7IiA
>>168 それは調べないと分かりません。
基本的に仏教は自分が生きるために他を害するという行為は認められません。
170 :
神も仏も名無しさん:2011/03/08(火) 21:56:35.52 ID:S1A05M6u
ならば、強姦によりレイプ犯の子どもを妊娠してしまった場合は?
それも堕胎は殺生だからとその女性に産むように言うわけか?
当時のインドの風潮から言ってレイプされた女はカーストを失い自害したと思われる
アウトカーストの助け合いネットワークはあっただろう…犬喰いチャンダーラとか…食い物が無きゃ死体を食う人々も当然いたはずです。出家教団としてのサンガは平和そのものでも在家問題にはブッダも相当苦心惨憺したはず
俺個人はブッダ駄目だと言っても生きるためならどんな悪事もやってのけるだろう。それで非仏教徒、外道扱いされてもかまやしない。アッカンべーだ
174 :
神も仏も名無しさん:2011/03/08(火) 22:21:28.26 ID:S1A05M6u
ある女の子が全く見知らぬ男に強姦され妊娠してしまった。
本人は勿論、親兄弟みな堕胎に賛成だ。ここで問題、
1 堕胎は殺生なので止めるように説く
2 本人の意志を尊重して堕胎を認める
仏教としては、どちらが正解?
175 :
神も仏も名無しさん:2011/03/08(火) 22:23:57.53 ID:vNep7IiA
>>174 そういうのは、個別に判断しないと分からない。
堕胎反対!例外なく
177 :
神も仏も名無しさん:2011/03/08(火) 22:30:55.57 ID:S1A05M6u
>>175 ある程度、判断できるように設定しているが?
現実に起きた事例として、ブラジルのクリスチャンの例がある。
幼い女の子が強姦により妊娠。
中絶した。そのときは、その中絶を行なった医師がカトリックを破門されたね。
仏教ならどうなの?
似たような事例は、それこそ、山のようにあるが。
そもそも古代インドにおいて女に選択権など与えられるわけがない。子供を産んで自害、もしくは子供と自害。いずれにしてもカースト追放
俺がブッダ教団の比丘だったら、レイプされた女に出家を勧めるしかあるまい。汚れた女の末路は比丘尼になる以外想像できない。産まれた子供は沙弥にしてブッダの許可を仰ぎ正式に比丘になればよい
>>170 言うと思うね。少なくとも、釈尊はそう言うだろう。
原理原則はその通りなのだから。
ただ、それが「悪しきこと」であること、「してはならないこと」「しない方がよいこと」であることは《諭す》だろうが、
強制、圧力をかけることはしないと思う。 選択は当人(及び関係者)に委ねると思う。
在家生活者である以上、出家者と同等に縛られる必要は無い。
何よりも、自身の意業を尊重する仏教なれば・・。
だから、忠告はするけれども或る意味黙認、という形が大勢だろうと推測される。
世俗には世俗のルールがある、事情がある。それを出世間の立場から全て出世間色に塗りつぶすことはない。
ちなみに、尼僧出家の際も、本意を譲った形となっている。
(その為、サンガ内で世俗の基準(男女の区別)を設けざるを得なかった。
雨安居の開始も、世俗の評の輸入に他ならない。ダイバダッタの反旗も世俗評への対処と言えないこともない。)
アングリマーラは、世俗法によって裁かれていない。捕獲される前に出家しているからだ。
釈尊は、彼を王(≒政府)に引き渡すことをしなかったし、王(≒政府)もまたそれを求めなかった。
(或いは求めたが釈尊に拒否されたか・・。)
彼以降、幾つかの事例により、犯罪者に類する者のサンガ入りは認められなくなった。
アングリマーラの処遇は、最初に述べたような「出世間の基準による原理原則」が適用されたケース。
晩年のケース(律制定の件)は「世俗法への歩み寄り」。
釈尊在世時から、実は、
「原理原則は希求されるけれども、世俗法(この“法”は価値観というほどの意味)への妥協はあって、
理想形の運用には結構な幅があった」、と見るべきかと思う。
中絶した女にはもはや生きる資格がない。個人的には破門してやりたいが、ブッダ教団は慈悲深いので比丘尼にするべき。人殺しでさえ阿羅漢になった例もある
いいえ、ブッダは絶対堕胎を認めないと思う。生まれにより、人は高貴になるのではなく、おこないによって人は高貴になると言った口から、堕胎OKなんて二枚舌は有り得ず、もし堕胎OKならブッダは嘘つき野郎に過ぎない
というより、インド料理屋でタンドリーチキン食い放題したい。チキンティカーもうまいぞ。インドのホテルアショカで食ったチキンティガーはあまりにもうますぎてビールによくあう。この世にあんなうまい食い物があったとは!
186 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/03/08(火) 23:47:45.55 ID:NjugqhPt
>>160>>170>>174 これは仕方ありません。
このような状況下の場合には堕胎も止む無しです。
私は、アメリカのキリスト教伝統固執主義者(ファンダメンタリスト)らのような狂信的な
中絶反対に同意しません。もちろん、それは堕胎の味方という意味ではなくて、これはあ
くまでも悲しむべき二つの悪の内のより小さい方に過ぎません。
胎児とはいえ、命を奪う行為としての最小限のカルマ的責務は追うことにはなりますが、
まだ早い内であれば、転生に引き込まれつつある魂も完全には乗り舟(胎児の肉体)に
鉤を降ろしていません。
ただし、4-5週間の間にはそれが起こるので、できるだけ4週間以内にすべきです。
こうしてこの魂は転生できずに、従って次の機会まで待機することになります。実際、当人
は転生を望んでなどはいないかもしれません・・・。
これは伝統仏教的な判断ではないので(私個人のオカルティズムの学習による総合的
な判断です)、その辺も含めてご自由にご判断下さい。
尚、伝統仏教とは単に歴史上、最も古くから長く存続してきたものにしか過ぎず、そのこ
とが最も正しいものである、ということの証明とはいえません。----私の意見ですが。
187 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/03/08(火) 23:49:50.53 ID:NjugqhPt
>>186 >尚、伝統仏教とは単に歴史上、最も古くから長く存続してきたものにしか過ぎず、
>そのことが最も正しいものである、ということの証明とはいえません。
天皇制とは、単に歴史上、古くから長く存続してきたものにしか過ぎず、
そのことが最も正しいものである、ということの証明とはいえません。
アメリカ大統領制とは、単に歴史上、アメリカ建国以来存続してきたものにしか過ぎず、
そのことが最も正しいものである、ということの証明とはいえません。
日本国憲法とは、単に歴史上、GHQ指導の下作成されたものにしか過ぎず、
そのことが最も正しいものである、ということの証明とはいえません。
って台詞と、(“いろんな意味で”)全く同じだということに気付きましょうw
189 :
神も仏も名無しさん:2011/03/09(水) 00:10:45.10 ID:X94f2cKd
堕胎の話の次にタンドリーチキン食い放題!
流石、浄土の布施飯で育っただけはある
190 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/03/09(水) 00:12:41.77 ID:Ql/FYdib
>>188 そう。単にそこまでにしておいた。
賢明でしょう?(笑)
>>186 オマケとして。
水子霊による霊障害がある・・・
なーんていうチンケなお話はしませんから。
>>190 >そう。単にそこまでにしておいた。
>賢明でしょう?(笑)
そう。
だから、≪「苦の滅」「涅槃」という文脈(伝統仏教の文脈)に於いて「正しい」≫んだよw
192 :
神も仏も名無しさん:2011/03/09(水) 00:24:40.72 ID:TYMnSSZv
>>180 >ただ、それが「悪しきこと」であること、「してはならないこと」「しない方がよいこと」であることは《諭す》だろうが、
強制、圧力をかけることはしないと思う。 選択は当人(及び関係者)に委ねると思う。
そうか?
もし、その女の子が(そしてその家族が仏教徒であったとき、または
仏教徒とはいえなくても仏教的教えに心惹かれているとき)
そのような行為が、悪しきこと、するべきではないことを諭したのであるならば、
堕胎を行った女の子、及び家族は「仏教的に良くないことをした」という
自責の念をもつよね?
「自分は殺生を行ったという思いが強くなるわけだ。」
女の子は、それ以後の人生においてその負担を背負って生きていくことになる。
釈迦が、そんな重荷を背負わすようなこと言うか?
女の子の意志もはっきりしているし、産んだ後のその女の子の人生を考慮すれば
ここは、ひとこと
「何も考えずに堕胎しなさい。」と言うのがベストだと考えるがな。
「それは良くないことだよ。」と言った後に、「決定を本人ゆだねる」
のは、結局、殺生の責任を女の子に背負わせることになるだろ?
ここは一番
「何も憂えることはない。安心して堕胎しなさい。」
と言ってほしいね。
193 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/03/09(水) 00:31:58.15 ID:Ql/FYdib
>「何も憂えることはない。安心して堕胎しなさい。」
>>192 そして、
「祈りなさい。更に善行に励みなさい!」って、
感じのことを言うに、私は1万ペソ賭ける w
>>192 一代が
>>175で述べているように、具体的な話になれば、そのようなケースもあり得るとは思う。
あくまでも、一般論として、仮定の話では、「原理原則がまず第一に提示されるだろう」ということ。
チュッラパンタカには詳細な教えは何一つ説かれていない。
しかし、そのことによって詳細(たとえば四諦、三法印、縁起、四念処等、若しくはそれらに準じた教義や修道法)が
説かれることの重要性、第一義性が無視されるわけではない。
192のような台詞は実際にあり得るものとは思う。
キサーゴータミーに対して、「各家回ってケシの実を貰ってきなさい。そうしたら生き返らせることができるから」
なんてのは、或る意味「嘘」なわけだ。
けれども、レアケースと見るべきだと、(私個人は)考える次第。
195 :
神も仏も名無しさん:2011/03/09(水) 00:44:56.04 ID:TYMnSSZv
なんていうかねえ、
この場合の堕胎ってのは、悪行か?善行か?
一つの(生まれてくる予定の)命を奪うという側面をみれば、悪行だが
この女の子は堕胎せずに産むと、それ以後の人生が悲惨なものになるのは
わかりきってるわけだ。この女の子は自分の人生を犠牲にしなければ
ならないのか?この女の子自身にには何の落ち度もないわけで、そんな子が
自分の人生を優先させる選択肢を選んだとしても何ら責められるべきでは
ないよね?
すると、「堕胎」は、この女の子の人生から「苦を消去してあげた」
という見方も可能なわけで、すると善行ということになるわな。
>>192 少し補足すれば、そこで「懺悔(さんげ)」という考え方の登場ですよw
また、善悪の価値付けは「(文脈に依った)恣意的なもの」であるが故に、
>>195のような見方も不可能ではない。「不定、不決定(aniyata)」という語があるが、
事象そのもの(≒縁起する諸法それ自体)は本来善でも悪でもない。
ただそのような事象であるだけ(≒縁起しているだけ)だ。
そこへ、或る文脈でもって価値付け、意味付けをする。
その時、大局的に見て(小利を捨てて大利を取るが如く)、将来的善、楽へ繋がる事が予測されるなら、
「懺悔(さんげ)」とともに許容される行為、と見做し得るかもしれない。
それと、
確かに、直接本人にストレートなことを言わないケースは事例として見られないことでもないか・・。
大般涅槃経冒頭のアジャセ王訪問に際し、王が去った後、比丘達に王に対する評を述べているね。
197 :
神も仏も名無しさん:2011/03/09(水) 01:30:42.51 ID:TYMnSSZv
懺悔かい? それも納得しかねるなあ。 それはこの女の子の行為に「責められるべき点」
を認めるということだよな?
堕胎を行うと言うことは、確かに生まれてくる生命を絶つわけだから「殺生」
にあたるかもしれない。
しかし、この堕胎の因は強姦になるわけだ。
「強姦」→「妊娠」→「堕胎」=殺生(悪行)
という構図なわけだ。 この右辺の悪行を行うことになった因は、強姦であり
それに関して、この女の子は何ら責めを負うべき事情は無い。
自分に全く過失が無いのに、それを是正して元の状態に戻すことを悪行と看做される
ことは、不合理だよね? この女の子にしてみれば、自分に全く落ち度がないのに
「そんなことすれば(堕胎すれば)、悪行をおこなうことになるぞ。」と言われたのでは
たまったもんじゃないのでは?
と思うわけよ。 やはり、全く無過失のこの女の子の、以後の人生を考慮すると
堕胎は悪行である ということを敢えて告げる必要はなく、自己の行為に自責の
念を持たせることも避けて、ただ「安心して堕胎するように」ということだけ告げ、
誰にも知られずに、陰で堕胎された子に対して経をあげるような坊主の姿を期待
したいんだがね、俺としてはw
198 :
神も仏も名無しさん:2011/03/09(水) 02:06:03.58 ID:TYMnSSZv
ついでに(スレ違いだが)
ブラジルの事例のとき、何で中絶した医師を破門にしたのかね?カトリックは。
そこの管区のお偉いさん(司教?司祭?)だかが、
「この堕胎に関する全ての罪をわが身に負わせてください。」と神に祈って
役職を辞職するなり、なんなりして自己犠牲の精神を示せば良いのに。
裁くだけが神様じゃなかろうになw
199 :
神も仏も名無しさん:2011/03/09(水) 03:25:36.14 ID:OjZ8e3Au
その中絶を行なった何処かの医師のような者がカトリックを破門されたね。
似たような事例は、それこそ、山のようにあるが、お前知ってるか? くらいの
俺の心の傷は幼少期です、、なんて打ち明けたりするのがいるよね?
アホそうなおばんちゃん見つけては経を唱えろとか言うのが
あんたの思考は生きてきた道理に反したものなのに、、と残念がられるだけいいかぁですが。。。
鬼が住むといっては畏れる姿勢を見につけたような人を見つけては
将来の可能性リスク云々数え上げ
ものを申せない所でしばき口のオバサンに物言わせて
「私は怖くなる」みたいな人間にするんですよーー。
耳を立てれば「どうしてこうなるの?」な時にどもる事があるような環境下に
奇麗事も言う普通な奴と一緒にいたりしながら丸めこまれて治療法がないような事に追い込む。
良い場合もある、、等々を小出しにして考慮する姿勢から外れないように横目では物事を見るように
押さえ込まれてる自分にある日気がついたりもするかもしれないね。
レイプされた女には2つの過失がある。1.男を欲情させるチャラチャラした態度をとった(女としての美しさも罪の内)2.レイプされるという過去世のカルマを持った悪人であった
俺は純潔という観点からはかなり非情で厳粛な態度を取る。イエスが罪なき者は姦淫の女に石を投げよと言われたら、罪があろうがあるまいが石打の刑を女に課すだろう。そもそもイエスなんて大嫌いだし、態度が生意気だ
そもそもこの堕胎論議がレイプは罪という観点からしか論じられていないのが残念だ。知っての通り男には時には慰めが必要で、怒り狂う欲情のはけ口が必要。レイプして何が悪いの?って議論まで踏み込む必要がある
203 :
神も仏も名無しさん:2011/03/09(水) 06:06:59.51 ID:Rdc81iBf
>>202 そんな勝手な理屈を述べるのは、ヤクザと生命教ぐらいだ。
仏教は、他者を傷つけてはならない。
しかも、性欲なんか否定されてる。
つくづくネラだなお前は。
そういうお前は単純すぐる。レイプする男は仏教徒ではないと仮定する想像力が欠如している。これこれこういう理由で性欲はいけませんと説明するのが比丘の仕事。でなければ信者からタダ飯食う資格がない
比丘、比丘尼も…いやブッダ自身もメシを食いクソ小便垂れ流す人間。世俗の信者から布施を得ていながら、彼らに奉仕しないなら誰がそんなヤツらを相手にするか!お前らに騙されてなるものか。お前らはブッダの慈悲を自分の狭い了見に閉じこめようとする。彼の慈悲は無限なのだ
206 :
神も仏も名無しさん:2011/03/09(水) 07:41:20.55 ID:Rdc81iBf
>>204 自慢のために屁理屈吐くのは勝手だが、仏教について妄言すると後が怖いぞと一応言っておく。
207 :
神も仏も名無しさん:2011/03/09(水) 09:17:49.40 ID:lNVHyHFy
続きは議論スレッドで
208 :
神も仏も名無しさん:2011/03/09(水) 09:21:11.42 ID:C7vOCMcO
ミャンマーに在家修行として1年ぐらいいってきます。
マハシです。チャンミーにもいきます。
きちんとできるのならば、現地の御坊様に直接、出家
させてください、って頼む予定です。相手がいい、と
言ってくれたら、何十年も帰らないつもりです。
何かアドバイスありますでしょうか?
209 :
神も仏も名無しさん:2011/03/09(水) 09:29:16.23 ID:lNVHyHFy
僧侶個人の機転としてはアリかと思いますが、
原則そのものは曲げてはいけないと思います。
世俗を超え(ようとす)る宗教として最終ラインは守らないと、
世間の価値観に呑まれて独自性を失う。
堕胎のあとは、彼女について仏尊や神々の執り成しを望むって形になるんでしょうか。
参:仏教 議論スレッド その4
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1275992988/104 104 1/2 sage 2010/06/10(木) 20:43:41 ID:LQQ+TrJr
仏教が、非生産的であり、出世や利益(利潤)・余剰追求をしない価値観である
ということは、留意されていい。
勿論、それは、世俗的価値観からすればマイナスの性格を持つ。
(だから、世俗の価値観に於いても、(理由として)そのフォローは必要とされる。)
今、これを托鉢という行為に引き当てて見てみよう。
(仏典にも、具体的にそのような記述があるが)、
托鉢に回った時、一軒も施して貰えなかったとしよう。或いはほんの少しだったとしよう。
その時、行者には次のような考えが起きる。「もう一度回ったら、貰えるかもしれない」、と・・。
だが、その考えは「私にとって(=修行者にとって)ふさわしくない」と、はっきりと排斥される。
この境界が、まさに、世俗と聖、在家と出家の(価値観の)明確な境界となる。
世俗的に見れば、「もう一度回って食を得て、身体の維持に資させる」ことは、
寧ろ目指されるべき判断だろう。
(また、身体の維持自体も聖なる価値観に於いて蔑ろにされるわけではない。)
だが、釈尊は再度托鉢に回ることをしなかった。
なぜか。 それは、「施物に余裕の無い所に対しても、しつこい勧誘になる」し、
「もっと欲しい」「食べたい、空腹を満たしたい」
或いは「“食べれない”ということ、一食抜くということがあってはならない」
といった欲の肯定或いは保身に繋がっているから。
*そういう【形式に捕らわれている】という言い方をしてもいい。
(一般的に言えば『必ず一日3食食べねばならない。【2食の日があってはならない】』という【形式】に。)
捕らわれている、と。)
「自己の欲求(欲、ひいては貪り)を【肯定し】、【それに従うことを意味する】」から。
参:仏教 議論スレッド その4
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1275992988/105 105 2/2 sage 2010/06/10(木) 20:45:12 ID:LQQ+TrJr
境界の話だったか。
たとえば、営業マンがいたとする。販路開拓の為、(あちこちに)足しげく通う。
ついに相手が折れ、繋がりができる。長い付き合いとなれば、三者(取引先・会社・自分)の利益となる。
それは儲けだけでなく「繋がり」や「信頼」、「充実感」「自信」「ノウハウ」等々、様々なものがある。
だから、再度と言わず、『相手が契約してくれるまで何度でも通う』という姿勢は、
悪い行為であるどころか、『営業マンとしてふさわしい姿勢、意気込み、情熱』ということになる。
そして、同じコースで二度三度托鉢に回った時も、財施・法施・功徳(衆生済度)として3者の利はあり得る。
そのことで、《各家の者に、“より強い”(仏)縁ができ、教えに強く耳を傾け、理解が高まる》
ということもあり得ないことではない。
だが、上で触れたように、《我欲の肯定に繋がる》ので斥けられる。
たとえ三者の利が見込まれても、【それが我欲の肯定、我欲への従属となるならば】、(それを背後に持つならば)、
斥けるのが「聖なる」「出世間の」価値観であろう。
その意味でも、この価値観の境界は押さえられるべきものとなる。
比丘(修行者・遊行者)足らんとしたなら、踏み越えてはならない境界となる。
翻って見た時、《現代日本仏教は、生活、寺院経営、伽藍の維持、慣習・前例・地域との繋がり関係性等のため》
この境界を踏み越えねばならない。
(上で言えば、【三者の利をこそ求めるべき】ということだ。これを「大乗的」と言えないこともないが・・。)
212 :
神も仏も名無しさん:2011/03/09(水) 10:02:51.05 ID:TYMnSSZv
このID:EX1NmyYq ってのは、確か「華厳命」とかいうやつだろ?
>>202 みると、こいつも基地がいか? こんなこと言う馬鹿は隠居だけだと
思ってたがw
こんな奴が「仏教徒ですよ」って、リアルで言いふらしていたら、仏教そのものが
クソ宗教だと思われるなw
213 :
神も仏も名無しさん:2011/03/09(水) 10:13:29.69 ID:TYMnSSZv
議論スレに移ろう
214 :
神も仏も名無しさん:2011/03/09(水) 10:19:27.48 ID:C7vOCMcO
議論スレに移ろう
215 :
神も仏も名無しさん:2011/03/09(水) 10:37:28.66 ID:Rdc81iBf
>>208 最初の一年はいろんな師匠に会って教えを聞いて善く考えて、
修行しながらいろんな所を廻るのがいいと思います。
一年たったら、どの師匠に就くか決めて、その下で一年ほど修行してみて、
それでも出家したい気持ちが変わらなければすべきだと思います。
まあ、その頃は、師匠の言葉に従うべきだと思いますが。
一端、着くと決めたら、師匠の言葉には必ず従うべきです。
それと、身体が慣れるまでは現地の方が贅沢だと思うような食事でも取った方がいいですよ。三ヶ月たっても贅沢してるようじゃだめですが、最初の頃は身体を壊しやすいので、慣れるまではちょっと甘めにされた方がよいと思います。
とにかくがんばってください。随喜します。
そうそう、タンドリーチキン食い放題からはじめて次第に激辛マトンカレーを食うとか贅沢をするんだ。間違ってもベジタブルサンバールみたいな病人食は食べてはいけない。
カレーにもいろいろ種類があり、それなりのこだわりがある。南インド風フィッシュカリーはココナッツのにおいが最初はきついかも?だからフィッシュティカーでまず慣れる。お薦めは赤坂のインド料理店タージのランチバイキングだろう
218 :
神も仏も名無しさん:2011/03/09(水) 13:24:35.01 ID:MlUOnWhg
創価はヤクザ後藤組を行使した。しかも本山を攻撃するのに右翼まで使った
これのどこが平和的かつ正義なのでしょうか。最近では創価公明のポスターに
「人にやさしく環境に優しく」などという標語を使っていたが、こういうのを偽善という
のです。
決してやってはならない宗教は
@ 創価学会
A エホバ
B 日本キリスト教団 です。これはしかるべき伝統スジから手に入れた
貴重な情報です
これらの宗教をやると人生のどこかがオカシクなり始めます。なんなら
みなさんも見学しにゆきますか?面白い光景をお目にかけます
創価との関係を元後藤組組長が暴路、後藤忠政「憚りながら」
創価学会に雇われ、殺人事件も起こしている。
墓苑事業では、反対住民の自宅にブルドーザーで突っ込み、
日本刀で片腕を切り落とした。
又、創価にはヤクザ右翼学会員が多いのをご存知ですか?聖教を読んでるせいか
素行の悪い学会員が多いのは偶然ですか?それと創価を誹謗中傷して破門になった会員もいる。学会批判をさせないために恫喝してきた。手法は
「創価はオウムより怖いのだよ」という恫喝でニセ本尊等々の批判
をさせてこなかったという話を会員から聞いた。また病人と貧乏人の集合体となり果ててしまったのは偶然ですか?
管に荷担した 仏教 遍路のゴキブリども。
皆殺しにしてやる!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
阿頼耶識はどこにありますか? 脳内にありますか、空間にありますか
阿頼耶識は個人のものですか? 集団レベルの意識ですか、石ころも阿頼耶識で構成されてますか
221 :
神も仏も名無しさん:2011/03/09(水) 20:37:55.29 ID:Rdc81iBf
222 :
神も仏も名無しさん:2011/03/10(木) 00:16:15.09 ID:YjSdfbSe
>>215 アドバイスありがとうございます。腐敗を見ることもあるでしょう
が、西澤長老みたいにやります。長老の修行法を真似ると思います。
ということは、2年ですね。嫌だと思うなら、帰ってきて警備員に
就職です。それはそれでいいことだと考えています。
最初は、西澤さんの師僧になるでしょうね。英語の習得、ミャンマー
語の習得、日本語の書籍2つ(智慧の眼を開く(大乗)、仏法(上座))、
アビダンマッタサンガハを読み込む、パーリ語の上達。色々ありますね。
Buddhaが死を前にした病を家族に持つ者を説法する話があったと思いますが どんな風に説いたか忘れました
どなたかご存知ですか?
224 :
神も仏も名無しさん:2011/03/13(日) 05:21:04.48 ID:iZ+iuTIF
225 :
?:2011/03/14(月) 20:00:07.02 ID:QMYZfWmn
>>220 様へ
> 阿頼耶識はどこにありますか? 脳内にありますか?
> 阿頼耶識は個人のものですか?
変化的生存として
変化的な存在として
阿頼耶識(あらやしき)は
個人の脳内にあると
仮設として
仮の設定としている
ようです
226 :
神も仏も名無しさん:2011/03/14(月) 20:11:26.82 ID:oVTkv36H
>>225 >阿頼耶識(あらやしき)は
>個人の脳内にあると
>仮設として
>仮の設定としている
>ようです
違います。
貴方は質問する側の人なので、答えないでくださいね。
227 :
?:2011/03/14(月) 20:47:19.75 ID:QMYZfWmn
瑜伽師地論(ゆがしじろん)の場合は、
人がまさに、死せんとする時に、過去の長い間の経験により、蓄積された、
我愛が現起して、その力に、促(うなが)されて、
自己に愛着し、無始の時、以来、続いて来た、執着された、戯論と善悪業により、
中有身(死んでから次の生まれるまでの状態の意識)が形成される
その、中有身(死んでから次の生まれるまでの状態の意識)が、
次に、生まれるべき処を、求めて、母胎に入り、
ここで、父母の、精子と卵子が、結合する時に、
中有身(死んでから次の生まれるまでの状態の意識)が、
滅すると同時に、生有が生じて、
一切種子たる、阿頼耶識(あらやしき)が、結合して、
胎児を形成して、出生に至るのである
− − −
変化的生存として、変化的な存在として
仮設としての、阿頼耶識(あらやしき)と
男性の精子と、女性の卵子が、結合して
胎児を形成して、出生に至るのである
228 :
神も仏も名無しさん:2011/03/18(金) 23:41:11.09 ID:gI401frk
悟りは在家でも開けるのですか?
229 :
神も仏も名無しさん:2011/03/18(金) 23:57:28.64 ID:VLjVh/kd
だれも
悟ることはできんよ
230 :
神も仏も名無しさん:2011/03/19(土) 00:01:26.16 ID:t4EZlmc6
>>228 あるレベルまで進むと在家生活が困難になり
出家せずにはいられなくなるらしい
231 :
神も仏も名無しさん:2011/03/19(土) 00:03:37.14 ID:2ZvOxEc2
悟ることができないことを悟るのが、悟りとか?
書き込んでる俺自身わからんw
232 :
神も仏も名無しさん:2011/03/19(土) 00:10:40.13 ID:t4EZlmc6
>>231 悟りはあるし解脱も涅槃もある。
なぜかというと、生命は生存欲により死後転生するが
生存欲の尽きた心には転生するエネルギーがないから。
悟りたいという欲はつまり最後の欲で、
彼岸に達すれば乗り捨てられる筏のようなもの。
233 :
神も仏も名無しさん:2011/03/19(土) 10:24:05.39 ID:TGsucG11
ここにいる人間は要するに「根気強さ」がないだけだ。悟りを求めれば必ずグルは現れる。だがブッダになりたいという殊勝な人間にはさらなる困難がある
235 :
神も仏も名無しさん:2011/03/19(土) 15:03:22.67 ID:TGsucG11
なにがなるほどだ!
237 :
神も仏も名無しさん:2011/03/20(日) 12:21:42.88 ID:6CjGpCEX
すみません。自分はまだグルに出会う為の準備が出来ていないと自覚している物で
見性というかまだ自分をよく知っていないと
238 :
神も仏も名無しさん:2011/03/20(日) 12:33:44.52 ID:qE7z/ZNP
掲示板で布教しないほうがいいと思うがね
239 :
神も仏も名無しさん:2011/03/20(日) 13:37:20.37 ID:wZSt6VPV
もしも愚者が自ら愚であると考えれば、すなわち賢者である。
愚者でありながら、しかも自ら賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。
愚か者が愚かと自覚したところでしょせんは愚か者のままである。おのが理性に従い向上する意志を持ち賢くなってはじめて賢者である。ブッダの泣き事に自分を無理やり当てはめる義務はない
241 :
神も仏も名無しさん:2011/03/20(日) 18:44:40.38 ID:qE7z/ZNP
賢者の欠点は愚か者の食いぶち
そこで食ってるのが仏響
↑仏教は邪教スレに戻れよ…まことに愚か者とは「小乗」の代名詞であり、大乗とは賢者の意なり
243 :
神も仏も名無しさん:2011/03/25(金) 20:00:19.27 ID:5bsolxyJ
マハーシ瞑想センターから送られてきた、申請ワードファイルに、
すべて記入して、マハーシ瞑想センターのアドレスに返信した。
3月14日に送信、今3月25日。返信がこない。まったくこない。
なんでー?
244 :
神も仏も名無しさん:2011/03/27(日) 19:31:14.61 ID:MvWsCZj5
246 :
神も仏も名無しさん:2011/04/02(土) 06:49:55.19 ID:bGx4AW3h
仏教では梵天が護法神だが、彼が創造主とされたことについてコメントはあるのか?
主宰神論や創造主論が批判される、という意味じゃなくて、
それまで梵天は、外教徒の間で創造主とされていたが違う。
我々と同じ衆生なんだ、という記述は無いんだろうか。
または梵天自身が「これまで自分は創造主だと言っていたが、
あれは間違いでした。すいません」と反省するシーンは仏典に無いんだろうか。
247 :
神も仏も名無しさん:2011/04/02(土) 06:54:26.02 ID:bGx4AW3h
釈迦はクシャトリア階級だから、ヴェーダを学んでいたと思うが、
そこで記されるインドラについて批判してないんだろうか。
釈迦「君(帝釈天)はかつてアーリア人を引き連れ先住民をダスユと呼んで
攻めて屈服させたが、それは過ちである、反省しなさい」とか。
248 :
神も仏も名無しさん:2011/04/02(土) 08:30:52.91 ID:5Guws04x
>>246 そんなシーンはない。ずっと自分が創ったと勘違いしてると説明する論者もいたと記憶する。王道は以下。
神の問題がとりあげられると、そこに神による宇宙創造説を尊祐論 (creative deity による production; creation の思想) の名の下に批判する。仏陀の言葉として次の如くにいう。
尊祐論は、われわれが楽、苦、非苦非楽等と領受している感覚の一切は、神の創造するところであると説くが、果たしてしからば、神の創造という原因によって、人が殺生罪を犯すということになるであろう。
また神の創造によって邪まな見解の持ち主にもなるであろう。神の創造ということをかたく捉えるならば、“これは行うべきである”“これは行うべきでない”とする意欲も努力もないことになるであろう。
云々と。もっとも、キリスト教における、神による宇宙の創造については、信仰上の理由と、理論的解釈との調和を見出すために、少なからぬ困難が続出した、とも称せられているが、
それはしばらく別として、少なくとも、仏教にあっては、縁起の道理の相依相成の故に、内なるものにしても外なるものにしても、それがあらかじめ決定的 (predestinated) に存在し、
それによって、いま一方のものが成立し、もって具体的なわれわれの存在が現存していくとされるような思想は認められないのであるから、“全能なる神が存在しておって”ということで出立するような尊祐論は、承認せられないことになるのである。
それと同時に、仏教では、縁起の道理をさとった智慧から出発しているのであるから、その智慧の出所として主体的な心の存在をまず措定し、その心の独自自在性 (self-dependentness→self-willingness) を獲得して、
そこから正覚の世界が顕われ出たという観念論的な思想も許されない。言い換えれば主体的な心が先にあって、それを本真のものとして、そこに自我を捉え、
その自我の自主性において正覚が成立するというような、我を基本にした思想は仏教ではありえないのである。縁起における無我の旗標の前には、それは許されえないのである。
249 :
神も仏も名無しさん:2011/04/02(土) 08:32:00.76 ID:5Guws04x
>>247 釈尊は他宗教を尊重して間違ってるとは言わない。
「私はそうは説かない」としか言わない。
250 :
神も仏も名無しさん:2011/04/02(土) 08:47:26.34 ID:v1SmFGcZ
宗教が間違っているとか
教理的なことじゃなくて、略奪・戦勝を旨としていたかつての姿を
インドラに対して指摘することはなかったのか、という疑問。
ヴェーダのインドラと仏教の帝釈天が別人(とされる)なら話は別になる。
251 :
神も仏も名無しさん:2011/04/02(土) 09:21:20.79 ID:v1SmFGcZ
聖徳太子も毘沙門天を感得したり祈願して敵を打ち破っているが、仏教でも
ある程度の攻撃・殺害も最善ではないにせよ仕方ない、としているのだろうか?
252 :
神も仏も名無しさん:2011/04/02(土) 09:56:43.01 ID:5Guws04x
>>250 同じことなんだが。
どうも無理なようなのでやめとくは。
253 :
神も仏も名無しさん:2011/04/02(土) 10:02:18.56 ID:v1SmFGcZ
指摘するシーンが伝えられて無い事はわかった。
ありがとう。
神は人間を殺しますよ?しかし、実を言うと誰も殺す者も殺される者はいない。何故なら現象界とは幻覚だから。ギーターの解釈っぽくなるけど…神は人間でもあり、人間は神でもある。また神は高位エネルギーの持ち主だが低位エネルギーの持ち主でもある
ブッダがアートマンは遍在するのはおかしい。神が地獄へ堕ちたりする非論理的という主張は現象界のみを観察して言ったまでで真実には神しか存在してはいない。また神たる「実在」はすべてを超越している(思惟の対象外)
256 :
神も仏も名無しさん:2011/04/04(月) 22:22:06.96 ID:VYvZY98U
正法眼蔵のもっとも良質な現代語訳はどれでしょうか。
玉城康四郎訳、中村訳でも可
amazonで探したけど、たけーよ。おまいらマジにこんな高い本買ってるの?全巻揃えてるの?
259 :
神も仏も名無しさん:2011/04/05(火) 00:29:35.09 ID:9VjK0aqM
ttp://fallibilism.web.fc2.com/071.html >博士は言葉を越えた法、つまり根源的な法は形なき純粋生命≠セといわれる。
>この言葉は私にとって幾分、唐突だったが、博士が最後に自己≠フ哲学を論じられたところを読み、
>やっと納得がいった。御説によれば、自己≠ニは生命≠もつものであるらしい。
玉城康四郎氏にかんして、すこし不安をおぼえます。
自分の思想を訳業には投影しない方でしょうか。
玉城氏は座禅に生涯うちこまれた方である。単なる学者ではない。安心されよ…高い本といっても僕はこれまで仏教書に数十万円つぎ込んできた。本気ならあらゆる経典、論書を買うべき。正法眼蔵もしかり
261 :
神も仏も名無しさん:2011/04/05(火) 20:27:09.35 ID:MYVfvb1y
本ばかり読んでも
あかんわ
体験だよ
そもさん!
死せし者は?
壊れし物は?
捻りも何もあったもんじゃないな。
仏教議論スレ落ちてるけど新スレ需要ある?
266 :
神も仏も名無しさん:2011/04/07(木) 14:54:51.50 ID:dH6O5Itu
あります
267 :
265:2011/04/07(木) 15:51:37.07 ID:Lp3wlFyl
悟ったと言われてる人に女性が少ないのはどうしてなの?
269 :
神も仏も名無しさん:2011/04/08(金) 19:40:04.31 ID:yG4bsQPb
これは、私の個人的推論だが、
「無我」「縁起」に関しては、女性の方が到達し易いと思っている。
たしかに、最初の(初期の)ハードルは女性の方が高いかもしれないが、
後からぶつかる壁は男性の方が遥かに高いと思う。
(巷に溢れる、俄か悟りは、その多くが男性的思考、男性的感性―それは、西洋的実在論・本質論と直結するかもしれないが―
に裏打ちされていないだろうか?途中で方向を錯(あやま)る原因が、そこにあったりしないだろうか?
*教義上の変遷も、その辺に端を発していないだろうか? と・・。)
壁の位置、タイミングを図示すれば、こんな感じ・・?
_
♂ /
./
/
__―― ̄
♀ __― ̄
/
/
_/
271 :
神も仏も名無しさん:2011/04/08(金) 22:11:39.18 ID:sV8ZD7yD
悟った人はブッタ
しか居らんがな
272 :
神も仏も名無しさん:2011/04/09(土) 00:10:22.91 ID:j1t1Ti5T
女性は悟れないんじゃなかったっけ。
五障というやつによって。それとも
仏以外にも【悟っている】存在がありうるの?
273 :
神も仏も名無しさん:2011/04/09(土) 00:22:11.44 ID:ip5g/03G
もんじゅ浜岡常陽爆発 もう未来はないよ たすけて
名前: マジレスさん
E-mail:
内容:
考えただけで 夢も未来の展望ももてない
苦労してきたのに 老後の楽しみもないなんて
若くてして死ぬ運命なんだから
なんでこんなものつくったの
つくった奴と賛成した奴だけが死ねばいいのに
274 :
sage:2011/04/09(土) 19:49:50.11 ID:fhBJsgyR
辯天宗の事を調べています。gooで質問していますが回答は来ていません
HPとウィキペディアに次のような記述がありました。
1965年:高野山真言宗「高野山開創1150年記念大法会」の導師を第一世管長智祥、副導師を宗祖が勤める
高野山関係のHPも調べましたが、この法要について残っている記事は見つかりませんでした。
1965年なので無理も無いとは思いますが、これは本当のことでしょうか?
第一世管長は元真言宗の僧侶でしたが、宗祖は大森清子さんという女性です。
高野山と辯天宗は悪い関係では無いようですが、歴史的に大事な法要を、外部の新興宗教の幹部
しかも一人は霊感がある、といわれていても民間の女性です。(女性蔑視ではありませんが)
高野山側から考えたら、もっと僧としての位が上の本山の僧侶がいたはずと思いますが
ありえない事のように思います。
いやな言い方をすると辯天宗が「自分の施設の」中で
「高野山開創1150年記念大法会」という名前の法要を勝手に開いた、という事なのでしょうか?
高野山で行なわれたのが 本当だとしたら、なぜこんな事になったのか、
高野山で問題は起きたりしなかったのか ご存知の方いらっしゃったら、
是非教えていただけ無いでしょうか?
(愛知県で新聞の過去の縮刷版を捜しましたが、詳しい記事は見当たりませんでした)
以下4点、質問させていただきます。ご回答の際にソースのURLを張っていただけると助かります。
皆さんの所属する宗派は信者・信徒の方へ義援金の呼びかけをしていますか?
法人への寄付金を義援金として寄付をしていますか?
法人として宗教施設・関連学校の開放などで避難所を設置していますか?
開放する対象は信者・信徒の方に限定していますか?
276 :
神も仏も名無しさん:2011/04/10(日) 21:25:05.55 ID:H7apDgFU
>>275 何の目的か知らんが、
そういう重要なことは、直接各宗務本所へ聞けよ。
2chで聞いてどうするんだ?
279 :
神も仏も名無しさん:2011/04/18(月) 08:36:19.03 ID:JgPHSgN7
280 :
神も仏も名無しさん:2011/05/12(木) 21:58:15.54 ID:9erCIW0o
この世は私の夢ですか
281 :
神も仏も名無しさん:2011/05/16(月) 01:53:05.66 ID:qubjrnmr
戒名って、金取らないところあるのかな?
以前、金取らないお坊さんがいたと思ったけど
探せばあった筈、役所で聞くのが良いかもしれない
観音菩薩って実在してる・していたの?
>>281 建前上で言えば、戒名で金をとっている寺院は存在しないはずなんだがなw
葬式での金は、「葬儀に際して、僧侶に布施を行って功徳を積む」と言う意味合いの物だから、戒名の代金じゃないんだw
まあ、現実的には戒名のランクに応じて布施の額がかわってるけどねw
閑話休題
喪主さんが生活保護とかで、本当にお金が無い場合に、布施が無くても葬儀を行うお寺なら、結構あるよ。
逆に、お寺の持ち出しなんて事もw
本当に困っているなら、近所の坊さんに相談してみれば?
坊さんだって霞を食っている訳じゃないから、もらえるところからはガッツリもらっているけど、
もらえないところからも毟り取ろうなんて坊さんはごく少数派だよ。(居る事は否定しないがw)
相談すれば、なんとかしてくれる坊さんは結構いるよ。
ただ、施主が金持ちで、布施を払う余裕があるのに、葬儀を無料でやる寺ってのはあんまり聞いた事ないな〜
そんなことしたら、葬儀収入で寺を維持している近所の寺から苦情が来まくるだろうしw
地主などの他の収入源があって、葬儀収入に頼る必要のない寺なら、無料でやってるかもしれないね。
285 :
神も仏も名無しさん:2011/05/23(月) 21:16:04.04 ID:gYOIoccP
>>284 いいえ。
日本等で言えば、風塵雷神の如く、インドで言えばアグニ神の如く、
或いは、ヴィーナスが「美」の象徴の擬人化であるが如く、
《「“教え”の或る側面」を理想的に擬人化したもの》です。
286 :
神も仏も名無しさん:2011/05/23(月) 21:25:57.92 ID:v6hvTGjM
>>283 歴史上では確認できないです。阿含経典にも全く出てこないです。
質問です。
49日後(だったかと思うのですが)の団子転がしの際に護国寺の山の上のお堂(餓鬼絵?があったかと思います)でお坊様にあげてもらったお経の名前を知りたいのです。
歌のような調子で、なんだか聞いていると泣けてくるような力強いお経でした。
いつもお唱えするお経(高野山真言宗の勤行聖典)とは違っていて、お坊様のお話で出たのですが失念してしまいました。
ご存知の方どうぞ宜しくお願いします。
288 :
神も仏も名無しさん:2011/06/01(水) 13:52:12.83 ID:RWSIJzYY
すみません、補足です。
Wikiより、団子転がしは「死者の五七日忌(35日)に団子またはおにぎりを山上から谷に向かって投げる供養行事。団子ころばしとも。これは死者の行く手に待ち構える鬼をそれらの供物で逸らせ、死後の旅路を手助けしようとするもの」です。
姿を見ないよう後ろ向きになって、谷底におむすびなどを投げました。
>>287 護国寺は全国に一杯あって、どこの護国寺だか絞りきれない。
地名とか、山号でもわかれば多少は推測できるんだが。
せめて、宗派が解れば、もっと簡単に推測できるかも。
歌のような調子というと、「声明(しょうみょう)」かとも思われるが…・・
>>496続き
【本文】 ↓
>>287 死者に成仏(引導)を促そうとする
『般若理趣経』(理趣経)ではないでしょうかね。
291 :
宝珠愚者(代行):2011/06/04(土) 10:36:44.83 ID:27Sv4Qcx
>>287 死者に成仏(引導)を促そうとする
『般若理趣経』(理趣経)ではないでしょうかね。
292 :
神も仏も名無しさん:2011/06/11(土) 09:48:23.87 ID:TpKiQtYj
うつ病で仕事出来ずにやっとがんばって面接までこぎ着けましたが、親になぜ今まで貯金しなかったのか?と攻め立てられぶん殴られました。
よし!死のう!と突発的に思いまだその気持ちがぬぐえません。
以前ここで相談聞いてもらってから安らいだ思いがあり最後に相談してみようと思いました。
私は揺れています。
293 :
神も仏も名無しさん:2011/06/11(土) 10:18:13.53 ID:gmzmbS/V
>>292 >よし!死のう!と突発的に思いまだその気持ちがぬぐえません。
はやまるな。
貯金の有無などたいしたことでも、なかろう?
今から少しずつ、すれば良いだけのこと。
294 :
机龍之介 ◆b5VIxRNE/I :2011/06/11(土) 11:15:32.50 ID:KoVHTwIf
>>292 人間だれでも、一度や二度は「死のう」と思うくらいはあるさ。
いいことを教えてやろう。
薬局へいって精神安定剤を買ってきてな、通常より少し大目くらいを飲む。
これで随分違う。
精神が安定するより→→気分が良くなる。
(本当はこんなこと掲示板に書いてはまずいんだが・・・ここは緊急を要するので)
これは下手すると中毒になるかもしれんから、一回こっきりとわきまえて。
まあつまりね、人間死ぬより、少しラリってるくらいな方がまだまし。
>>292 せっかく仏教質問箱に来ていただいたので、仏教的に答えてみたいと思います。
先ずは心を落ち着けて、冷静になってみましょう。
そして、「なぜ、突発的に、死のう!と思ったのか?」をじっくりと考えてみてください。
貯金が無い事が原因なのか、
親に殴られたことが原因なのか、
将来に悲観的になったのか……。
さらに思索を深めてみてください。
原因には、さらに元になる原因があるはずです。
最終的に、根本原因を突き止め、その原因を取り除くことが出来れば、死ぬ必要もなくなるわけです。
また、自力では原因が突き止められなかったとしても、
自分の心を観察し、さらにそれを人に聞いてもらうだけでも、かなり心が軽くなります。
最初はグチだけでも構いませんので、書き込みを続けてみてはいかがでしょうか?
(なお、不特定多数の見る掲示板ですので、個人情報の取り扱いにはお気を付け下さい。
話が長くなるようでしたら、専用のスレを建てるのもいいかもしれません。)
>>292 偉い学者先生が
>最初はグチだけでも構いませんので、書き込みを続けてみてはいかがでしょうか?
>>495 と書いておるようですので、少し書いてみてはどうですか?
根本原因が突き止められ、その原因を取り除いたら、心が軽くなるようですよ。
297 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/06/11(土) 17:27:55.24 ID:o3dAUnuC
>>292 死んでも楽にはならず、
今のままの延長に過ぎない、といわれていますよ。
しかも、死んでしまうとその状態が永劫的に続いてしまうともいう。
時間が解決すると思いますよ。
たぶん10年後には、「そんなこともあったけな!」となります。
通常、みんな誰しも一つや二つは辛いことや嫌なことを抱えながら生きていますよ。
ふむふむ・・・
書き込みを続けてるとストレス解消になるでしょうね。
話は聞いてもらうとスッキリしますから。私もそうです。
298 :
1/4:2011/06/11(土) 17:32:02.36 ID:TSEAxP1u
ふむ・・、多様な意見ということで、一応レス入れとくか・・。
>>292 自身に起きている、或いはこれから起こるであろう様々な事象を、全て天秤に載せてみてください。
拾い上げることができるものはなるべく拾い上げ、比べてみてください。
>揺れてい るのは、まさに、貴方の中で天秤が揺れているということなのです。
その「今まさに揺れている」という事実や、「揺れているときには何が皿に載っているのか」を知る・確認することは有意義です。
「何が、一方へ傾かせているのか? 何が、その他方へと傾かせているのか?」、
「今、自分に、何が起きているのか」、
それら一々について、自分は「どう受け止めているのか、感じているのか」
そして、「なぜそのように感じてしまうのか」 を。 (この辺
>>295と被りますがw)
その上で、操作干渉できる要素は何かないだろうか?と探してみてください。
外的環境として、動かせない・変更不可な事象もあるでしょう。
しかし、変更・改善可能な外的要素というものも何がしかある筈です。(内的要素は言わずもがな。)
*(事案として軽い話で例えれば、部屋の模様替えをしたら気持ちも若干新しくなるようなものです。)
「面接を受ける」という行動に出られたこと自体が、かなり大きな事件(一歩)だと思いますよ?
この重さを(その後の道筋への第一鍬として)天秤の片皿とすれば、
他のマイナス要因(死を選択することを後押しする要因)を凌駕し得るのではないでしょうか?
(勿論、個別の事情・細部が不明だし、千差万別なので、一般論的なものでしかないが・・。)
299 :
2/4:2011/06/11(土) 17:33:11.88 ID:TSEAxP1u
内的な、自身の想い・感情のコントロールも重要ですし、最終的にはそれが中核ではありますが、
たとえば、《崖崩れが起きたら、道をふさいでいる土砂を取り除くように、そのように、
自身に降りかかる・生じる様々な事象を、生じないように・軽減させるように、環境改善を目指す》 のもアリですし、
また、「初手」としては寧ろ重要で効果的かもしれません。
*(ほんの少しの変化でも、それが可能であるならば、薬を使うよりも先に試みるべき方法と思います。)
足の届かない川で、アップアップしている状態で、冷静且つ効果的な思考・判断なぞ、なかなかできるものではありません。
泳ぐ、或いは、ゆったりと浮遊する技術が未修得或いは忘却している状況なれば、
《一旦水から上がる、足の届く場所に立つ》ことで、落ち着きと余裕を取り戻すことがベターな選択です。
それは「甘え」ではありません。無理して川を泳ぎ続ける方が危険だからです。
連投支援
301 :
3/4:2011/06/11(土) 17:39:58.82 ID:TSEAxP1u
《試みる》という第一歩を踏み出すのが、物凄く困難なことで、
物凄い決意・覚悟、そして何より《「今失われている、枯渇している“パワー”」を大量に必要とする》ことは、
経験者には理解できても、周囲には、なかなか理解が得られません。
だから、周囲は常に「怒り・説教モード」wになりがちなわけですが、そこを責めてもしかたありません。
周囲、世間とはそのようなものだという諦観も必要です。(理解されることへの努力は爲されてもよいですが。)
そうした現状はそうした現状として受け止めつつ、
「その中で、何が変更・改訂可能なのか?」を考察してみてください。
「非力な自分に、今できることは何だろうか?」 と・・・。
貯金云々で怒られるというのは、それほど大きな事案ではないでしょう?(何か貯金すべき重大な事情があれば別ですが。)
他人から見れば不可解でも、貯金できなかったのには、必ずそれなりの理由がある筈なのです。
貯金云々に限らず、こうした事案に際しての一般的評価は、次の台詞なわけですw
「やれなかったのではなく、やらなかったんだな」「やれなかった、やらなかった、どっちかな」と。
相田みつをは「やれなかったのではなく、やらなかったんだな」と呟いていますが、
こういう時(例えば欝や登校拒否等)は逆なのです。 まさに、≪やらなかったんじゃなく、【やれなかった】≫のです。
*(子供相手の時は、ここに視線を向け得るかどうかがカギの一つとなります。)
だからといって、「やらないままでいい」ということではありませんが・・。
上で天秤と言いましたが、周囲の状況と併せて、自身を、自身の心を観察するということです。
そこには、「外圧」「外的障壁」「内的障壁(恐れ・不安)」等様々見られると思います。
勿論、「甘え」、「困難・辛苦の忌避」もきっとあると思います。 それらを冷静にテーブルの上に並べ得るかどうか。
周囲を責める・現状を悲観するだけでなく、自身の弱い部分をも同じように見れるかどうか。
また逆に、その自身の弱い部分を過剰に虐げ、処置無しと放置してはいないか。
全てを並置してみれば、蟻の一穴じゃありませんがw、どこかに、こじ開け得る、開口部へと繋がる隙間があると思います。
302 :
4/4:2011/06/11(土) 17:41:08.87 ID:TSEAxP1u
採用されたなら、当然流れに乗って粛々と仕事をこなす・日を送る、不採用なら面接を続ける。
今できているこの行動を持続させ、次(の事象)に繋いでいくことが、今できる最善の方途でしょう。
まだまだ、にっちもさっちもいかない・身動き取れないような状況ではないようなので、
色々試みてみるのがいいと思います。
最後の手段は文字通り「最後」の手段なわけですから・・w
付記:
「愚痴をこぼす」というのも、苦悩の緩和策としては有効です。
ただし、一人で自分に呟くのでなく、他者へ向かって爲されねばなりませんが・・。
でないと、一時的かもしれませんが、「解放」(最近流行の言葉で言えば「ベント」w)になりませんから。
自分だけで、日記をつけるが如く『整理しながら』吐き出してゆくのも手(それはそのまま自己観察となりますので)ですが、
暗黒面に堕ちw、そのまま或る一つの方向へ収束・煮詰まっていく危険性も孕んでいます。
(「排気・解放」でなく、所詮「閉じた系の中での循環」でしかないからです。)
軌道修正に資するツール(或いは言葉、人)が身の回りにあるかどうかは非常に重要です。
だから、外部、第三者が必要なわけです。それがたとえ2ch(のレス)であってもねw
こういう時は、(どうせ他人には解りゃしないんだし・・)と、
ついつい抱え込んでしまいがちですが、心にも換気は必要です。
303 :
神も仏も名無しさん:2011/06/11(土) 17:50:38.10 ID:Zgz9Qqig
そうそう、特にこの「宝珠」なんてのは、昔、自分の霊体験を婚約者にはなして
しまい、おもいっきし引かれて逃げられたいう過去をもつ。
おまけに、毎日、不動の真言唱えてる、ちょ〜〜〜痛い奴なんだぜ。
それなのに、今や嫁さんもろおて新婚生活だ。
人生何がどうなるかなんてわからんよ。
さらに、「隠居」って言う「三歩,歩いたら全てを忘れる」ほどのバカがいるんだが、こいつも元気に生きてる。
死んだらつまらんよ。
304 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/06/11(土) 18:21:39.78 ID:o3dAUnuC
>>303 まっ、否定せずwww
「あなた、そんなこと本気で信じてるの?
わたしこんな人はとてもムリ。だから-ごめんなさい!」といわれて逃げられたw。
また、初めて私の部屋に通された職場の同僚は、
私の所持する奇々怪々な絵画と曼荼羅、神々のグッズ、
ヒンドゥーグルたちの写真の数々・・・と、数百冊に及ぶ宗教専門書が並ぶ壮観な書棚を見て
これは究極のパラレルワールドだと大爆笑www
以来、この人からの呼び名は「パラレルワールド」となった。
305 :
神も仏も名無しさん:2011/06/11(土) 18:24:59.54 ID:Zgz9Qqig
「パラレルワールド」
どわっはっはっは〜〜〜〜〜〜〜〜
306 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/06/11(土) 18:40:08.98 ID:o3dAUnuC
しかし今は、
私は諸仏に供養を捧げ、新妻はこの私にご奉仕する日々・・・。
あー素晴らしきかなぁ、この理想生活がついに訪れようとは想像だにできんかった。
昨日も、妻からの「好きなようにしなさい」という有難いお言葉を頂いて、
憧れの不動尊寺院納経の巡礼を開始w
また本日は大震災追悼の勤行に法悦、と。
妻と諸仏に感謝感謝の日々です。
(いずれ人生には楽しいこともやってきます-信仰持つとエエよぉ^^)
で、間もなく寺院挙式で不動尊にお誓い申す^^
307 :
神も仏も名無しさん:2011/06/11(土) 18:52:06.46 ID:Zgz9Qqig
不動尊ねぇ、
そういゃ、家に室町後期から代々伝わる、不動の仏像があるな。
叩き売ったら金になるかな?
バチあたる?www
308 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/06/11(土) 19:10:09.69 ID:o3dAUnuC
>>307 >バチあたる?www
あたる!
「室町後期から代々伝わる」----そりゃー絶対にマズイでしょ!!
これは、きっと大切に拝まれ続けてきた尊像ですよ。
309 :
神も仏も名無しさん:2011/06/11(土) 19:14:22.49 ID:Zgz9Qqig
なら止めとくかw
ばぁちゃんに、ぬっころされそうだしwww
310 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/06/11(土) 19:21:47.02 ID:o3dAUnuC
>>307 まっ、マジレスすると、“開眼してない仏像ならば”基本的には無問題です(ただの像に過ぎないから)。
ただし一応、気になるシロモノの場合(このような)には、ちゃんと“然るべきところ”で「閉眼供養」を修し
て頂ければ大丈夫です。下手に、ただ売り掃ってしまうというのは、やはり宜しくないでしょうね(行為とし
ては)。それほどの尊像なら、家宝として大切にお祀りして差し上げた方がいいですね。
311 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/06/11(土) 19:31:51.82 ID:o3dAUnuC
しかしながら、これほどの尊像を閉眼供養など依頼して持ち込んだら、「おおっ!なんてことを・・・」
(もったいない)と咎められるのではないでしょうかね。しかも、売り捌きたいなんていったら、卒倒され
ますよwww -ホント止めてね!w
一般論としては、特に信仰してない神仏関係の諸々は、然るべきところでお焚き上げなどして処分した
ほうが一番いいでしょう。あと、信仰してない仏像などはただの鑑賞物(飾り物)に留めておくようにします。
-----以上、注意点の基本
312 :
神も仏も名無しさん:2011/06/11(土) 19:52:09.61 ID:+G1whUCm
誰も精神科受診をアドバイスしなかったのは不可思議。
鬱病は、脳内神経伝達物質の異常による「身体の病気」である。多数の抗欝剤
が開発され、使用されている。また、様々な精神療法もやってくれる。
机師だけは、精神安定剤(現在では、抗不安薬と呼ぶ)の服用を勧められたが、
抗不安薬は、精神科医の処方を要する。また、鬱病は「気分障害」だから、沈静
作用のある抗不安薬は原則的に禁忌。
313 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/06/11(土) 19:56:29.98 ID:o3dAUnuC
>>312 >誰も精神科受診をアドバイスしなかったのは不可思議。
自分で、「うつ病気で」と書いてあったでしょ。
医師に相談したことはあったのでは?
失礼なことはいわんように!
314 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/06/11(土) 20:01:04.72 ID:o3dAUnuC
訂正:
×「うつ病気で」
○「うつ病で」
>>313 珍しく的確なツッコミw
ただ、「欝」という名前や「症状の事例」は巷に溢れているから、
自己判断してる場合も考えられるけどね。
「なぜ貯金していなかったか?」と問い詰められるということは、
『以前、働いていた、稼いでいた』ということと推測され、(もしかしたらお小遣いかもしれんがw)、
面接を受けたということは、
『一旦退職し、新たに職を探した』ということと推測されるので、
その一連の流れの中には、『何らかの医療機関への関わりがあった』という可能性も考えられるけれども、
推論の域を出ない。
その点では、隠居の指摘もまた一つの意見だよ。
316 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/06/11(土) 20:23:42.46 ID:o3dAUnuC
317 :
神も仏も名無しさん:2011/06/11(土) 20:35:37.37 ID:+G1whUCm
>>313 >失礼なことはいわんように!
それこそ、精神病に対する無知と偏見だよ。ちゃんと、「身体の病気」だと
言ってるだろ。
宗教信者は、「精神病」という言葉に過敏に反応する。病識がないからだろう。
318 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/06/12(日) 01:48:44.98 ID:9ebcgl0w
>>317 >宗教信者は、
違います。
一般社会の対人関係としての常識では、
「精神科に行け」は控えるべき失礼語ですから。
全てのものは縁起によって起こり、自性なんてものはないのなら、
仏教では自由意志なんて無いというのが共通認識なの?
>>319 仏教界全体では解りませんが、おおよその宗派の認識では無いとなっております。
ただ自由意志が無くとも一般のそれとは違い、自分が他のものに突き動かされるのみという認識でもありません。
他もまた自性がないため、何かが何かを一方的に支配しているという図式にならないためです。
>>319 強度な機械的唯物論から弱い唯物論まで幅があるとはいいながらも、
「唯物論」において自由意志が認められること以上には認め得ると思うよ。
なんとなれば、自由意志もまた、因により縁により生じている心的作用なのだから。
勝義寄りに言えば、
『誰の』とは言い得ないが、非決定的な「心的在り様」「四蘊」「思(cetanA)」「意行(manasikAra)」なのだから。
ただ、「無明にあること」「煩悩、欲望、欲求、放逸に隨っていること」「我執に従っていること」
「それらに縛られ、捕らわれ、捉われていること」(「同じ轍を何度も踏んでしまうこと」)などからすれば、
『悟りを得るまで、真に自由であることなぞない』とは言い得るが・・。
★★★エホバ=ヤハウェ=アラー=高橋信次=エル・ランティ★★★
(釈迦、イエス・キリスト、モーセはエル・ランティの意識の一部)
★★★大天使ミカエル=アポロ=エリヤ=マルティン・ルター=如意輪観音=高橋佳子★★★
323 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/06/13(月) 05:54:07.10 ID:djc7pv0K
>>319 あのですね・・・
「誰の?」ということじゃなくて、
仏教でいうところの仮和合の自己による心理作用というものが自由意志なのです。
この制御コントールと浄化が仏道修行だということ。
どう、分りました?皆さん。
(いつも思うことだけれど)どうも皆さん方は、
仏教書を開けば書いてあるようなことしか述べられないし、
仏教書に書かれてない場合は返答不能に陥る・・・。
>>323 宝珠先生様へ
> …制御コントールと浄化が仏道修行だということ
自分自身の意識を制御する為に
禅定(瞑想)を行う
禅定(瞑想)の為に、呼吸法を行うんですよね?
>>324 「瞑想」(定)の前に「節制、調身調心」(戒sIla)が必要だということをお忘れなく。
>>325 『節制、調身調心』って、何(なに)ぬねの?
>>323 あなたは自分の意志で「仮和合の自己による心理作用を制御コントールと浄化」してると思っても、
実はそれは、過去に取得した仏教の教えやら業思想やらの情報の影響や、あなたの脳内への因果関係の玉突きにすぎないのでは?
328 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/06/13(月) 11:51:59.34 ID:djc7pv0K
>>326 持ってます?
『ヨーガスートラ』・・・。
たとえば、『ヨーガスートラ』の体系でいうと、
まず最初に、『禁戒』(非暴力・正直・不盗・禁欲・不貪)と
『勧戒』(清浄・知足・苦行・読誦・自在神祈念)を経てから、
具体的な瞑想行(「坐法」の段階)に入っていく。
ただこういう解説は理解を得るための便宜上のものなので、
実際には同時進行で構わない。
329 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/06/13(月) 11:53:35.87 ID:djc7pv0K
重要なことは、『禁戒』『勧戒』なしで奨められる瞑想行というのはないということ。
仏教でも何でも同じです。心身の浄化と整える意味での制御コントロールの段階なしでは絶対にダメです。
『節制、調身調心』といっても同じことです。
特に、「梵行」(広義的意味合いで)とか「積徳」(善行)と呼ばれるものは自己の心の浄化に不可欠です。
これは遣り過ぎというものはなく、物凄くいつまでもひたすら続けられるべき必要事項なのであって、
愚かなどっか団体のように、自教団の機関紙を配布して歩いたから徳が積めた、
などといって、チャクラ開発とクンダリニー覚醒に着手する馬鹿者は
“破壊(精神と肉体の崩壊)”を免れることはできない。
正しく歩んでいれば、必然的に目覚める段階がやってきますから、
技法的に着手することは絶対に辞めるべきです。
急がば廻れの格言はここでも当て嵌ります。
>>329 宝珠先生様へ
『自己の心の浄化の為に、「梵行」とか「積徳」などが必要』
と言う事ですね?
了解、致しました
331 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/06/13(月) 12:12:10.23 ID:djc7pv0K
>技法的に着手することは絶対に辞めるべきです。
>急がば廻れの格言はここでも当て嵌ります。
「瞑想」を始められるのは構わないのです。
『節制、調身調心』を怠ることなく同時進行するならば・・・。
ダメなのは、意図的なチャクラ開発やクリダリニー覚醒などの行為です。
あと、瞑想前段階とはいわれる呼吸法の中にはやや危険なものが含まれます。
伝統的ハタヨーガ系プラーナヤーマの体系をそのまま、
というのは辞めといたほうがいいです。
332 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/06/13(月) 12:16:17.99 ID:djc7pv0K
呼吸は制御しようとするのではなくて、
呼吸を意識するということ。呼吸に意識を向けて座す・・・。
つまりは、基本は数息観になっていきます。
その修練の結果として(呼吸と呼吸に伴う意識が)制御されるのです。
>>327 疲れるな・・・。
私は、
「仮和合の自己による心理作用というものが自由意志」だといったのです。
これを仏教思想に沿って制御しようとするか否か、そして、そのことを正しいと思うか否か
(つまり私、宝珠が理解する過去に取得した仏教の教えやら業思想やらの情報)は、
各自の自由です。これが自由意志です。
>>331 宝珠先生様へ
> 瞑想前段階とはいわれる呼吸法の中にはやや危険なものが含まれます
解説書には『 吸った息を止めると危険 』って書いてあったけど?
>>330 >自己の心の浄化の為に
そんな特殊なことじゃねーよw
調身・調心はヨガ・禅系の術語だが、調息なら辞書に載ってるだろ?
「節制」も辞書の通りだ。
しゃがんでバッターボックスに入って、打ち返せると思うか?
ピッチャーの球を打ち返すには、それなりの姿勢が必要だってことだよ。
寝不足或いは二日酔いで、綿密な思考考察が可能と思うか?
慌て焦っている時に、失念や忘れ物、ケアレスミスが生じるのはなぜだと思う?
喜び、浮かれ、調子に乗っているとき、リスクマネージメントが疎かになるのはなぜだと思う?
五戒十戒が言われるのはなぜだと思ってんだ?
335 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/06/13(月) 12:42:59.89 ID:djc7pv0K
>>333 クンバカ(止息)ですね。
(一定時間)息を止めておくのだから、完全に絶対的に安全だというものは在り得ないですよ。
ただ過度なことをしなければ通常は無問題ですが、とにかく自分が苦しいほど無理にしないことです。
これは苦行行為とは意味合いが異なりますからね・・・。
まずは、複式呼吸(これすら自然とできないという人もいる)で、
吸息と吐息に意識を向けて数えることです。
そうすると精神も落ち着いて静まってきます。
これで十分。
336 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/06/13(月) 12:47:19.62 ID:djc7pv0K
仏教に伝わっているものは危険ということはありませんから、
然るべき解説書でもみて正しく実践することです。
もう一つ、クリヤ・ヨーガのマントラを用いる優れたテクニックがありますが、
これは意地悪ではなく、私からは教えて差し上げることはできません(グルから口外禁止)。
直接、伝授してもらう他はないです。
危険なことはしないほうがいいし、無理は禁物です。
しかしながら、逆にいうと、絶対に100%安全というものはこの世にはないのです。
私は、いつでも行で死ぬならば本望だと思っています(それ以外の死は絶対に御免被る・・)。
“危険”と知りつつも独りで荒行をしてきた実体験者です。
>>335 > 止息、断息
> 一定時間、息を止めておくのだから、完全に絶対的に安全だというものは在り得ないですよ
了解、致しました
338 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/06/13(月) 13:43:48.94 ID:djc7pv0K
>宝珠先生様へ
それと、私のことを「先生」呼ばわりはしないで下さい。
私などは、何者に対してであっても「先生」呼ばわりはしないことにしています。
自分の学校の教師だけは「先生」ですが・・・。
>>338 > 私のことを「先生」呼ばわりはしないで下さい
『宝珠どの』 了解、致しました
340 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/06/15(水) 07:24:55.09 ID:WOd6vAba
>>292さん、
おーい!!
みんな気にしてるから、
一言だけ一報(書き込み)を入れて下さい。
341 :
神も仏も名無しさん:2011/06/15(水) 11:22:22.82 ID:ZLasr6FJ
本当に、やっちまったのか?
なら、レスでけんわな。
大乗仏教の僧侶は、すべからく菩薩行を修行するべきですか
343 :
神も仏も名無しさん:2011/06/22(水) 09:12:24.47 ID:SlRtLBth
本来そうすべきですが、浄土門のような方便もありです。
344 :
神も仏も名無しさん:2011/06/30(木) 12:23:45.40 ID:+62P7i8g
チベット仏教徒って、無量義経と観普賢菩薩行法経についてどう思ってるんですか?
345 :
神も仏も名無しさん:2011/06/30(木) 14:00:59.19 ID:ZTx2WGlr
チベット人のチベット仏教徒は、基本的に存在を知らないでしょう。
日本人のチベット仏教徒なら、例えば、私は別になんとも思いませんよ。
346 :
忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2011/07/02(土) 05:38:03.91 ID:V/YuO33y
今、起きたところなのですが
祖父の葬式の夢をみました
その夢の中でお坊さんがお経を唱えているのですが
ろしゃんどきゃーべー、なんたらかんたら、じーえんばーらーはんだーばらー、なんたら
と唱えていらっしゃるのですが、これはなんというお経でしょうか?
夢の内容はさておきなんだか気になります。
光明真言ではないでしょうか。
オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラマニ・ハンドマ・ ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン
真言宗の葬式では必ず唱えるようです。
>>347 ありがとうございました
その真言で間違いなさそうです
富山県民ですが家は真言宗だったのが驚きです
浄土宗か浄土真宗と思っておりました
大乗仏教では縁覚・声門・阿羅漢の悟りが小乗だとして否定されてます。
私には、他人に迷惑かけてないのならそれほど悪いようには思えないのですが。
過剰に嫌われてるのは大乗成立時の教団の立ち位置的な原因だけなのでしょうか
他人に迷惑をかけず
自分だけ涅槃に行けばいいのです
351 :
神も仏も名無しさん:2011/07/03(日) 09:24:45.25 ID:ZX2ncjhP
352 :
神も仏も名無しさん:2011/07/03(日) 10:32:33.45 ID:ZX2ncjhP
>>351 追伸
越法罪について 阿闍梨とアマチュアの間で アンチを連ねて議論しています
越法罪について正しく回答できる方は是非意見してみてください
天狗の巣窟だな
大日如来、毘盧遮那仏、久遠実成の釈迦牟尼仏は全て同じ存在のことをいってるのでしょうか?
宇宙の根本的存在として、光り輝くというサンスクリット語の動詞「ヴィ・ルッチェ」の名詞化「ヴィルシャナ」の転化で
太陽という意味の「ヴァイローチャナ」その漢文音訳が毘盧遮那仏で、意訳が大日。
久遠実成の釈迦牟尼仏は、現実の人物のお釈迦様の示した悟りの背後の根本的なものとして上の存在と同じものなのでしょうか?
大乗経典は、すべて釈迦とは何の関係もない。 富永仲基で、この説は現在も
論破されていない。
釈迦は、サトリをひらいてから、みずからを如来と称したが、べつに
えらぶってそう自称したわけでもなく、またその当時 如来ということばも
そのような神秘的意味はなかった。単に法(真理)と一体化した人、という
意味で、げんにこの人は、自分の死んだ高弟をよぶ場合も、如来という敬語
を使ったそうです。
大乗仏教では、釈迦は仏陀という真理そのものになる以前、一階級下の菩薩
の呼称でよばれていました。菩薩とは仏智を得るべく努めて、ほぼ完成に近い
段階の人ということです。大乗仏教以後、菩薩は観念化し、人を救うための
存在もしくは機能そのもになりました。
釈迦の仏教とは何も関係ないことです。
現代の新興宗教もすべて釈迦とは関係のないものです。
サトリ(解脱)などは、何億人に一人の天才にして可能なもので、
釈迦さんはどういうつもりで法をすすめてまわったのでしょうね?
過去も現在も未来においても解脱できたのは(できるのは)釈迦さんただ一人と
思わなかったのでしょうかね?
今更あちこちにマルチするほどのことでもなかろうに・・・w
357 :
神も仏も名無しさん:2011/07/06(水) 21:30:20.61 ID:IVWz8/Nf
チベット仏教における経典(スートラ、タントラ、テルマ)の感得について
詳しく書いてある書籍やサイトがあったら教えて下さい。
なにダライラマにでも興味あんの
359 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2011/07/07(木) 01:09:23.79 ID:YuFclYsy
>354
何か、以前も書いた様な気がするけど、一応れす。
仏教では、経典がメインて、崇拝される諸尊は経典内容の象徴的なもんです。
従って、密教では大日>釈迦であり、華厳では毘盧遮那仏>釈迦であり、上座部では釈迦>>>>(超えられない壁)>>>大日、毘盧遮那仏です。
これは、使う経典の違いによります。
因みに、まはーばいろちゃーなは大日経、ばいろちゃーなは華厳経で出てくるので、厳密には別のにょらいです。
(^。^)全部ひらがなで書いたら面白かったかな?
360 :
神も仏も名無しさん:2011/07/08(金) 09:44:38.57 ID:NEyFkTFs
知らんな
青山テルマならしっとるが
唯識を学んでる人って、外界非実在論を本当に信じてるの?
すごく曖昧な質問になりますが聞いてください
仏教用語に富(幸福)を持つ者は世の中に還元するため他者に分け与える行為を表す言葉はありますか?
何か前提からして仏教っぽくないとおもうのですが以前新聞か何かで目にして思い出せずもやもやしてます
二文字で帰捨とかそんな言葉だった気がするのですが…わかりますでしょうか?
質問させていただきます。
「五戒」についてなのですが
不殺生戒 不偸盗戒 不邪淫戒 不妄語戒 不飲酒戒
この五つは在家の五戒と聞きました。
では、出家の五戒はあるのでしょうか?
もしあるのならば在家の五戒との違いはなんなのでしょうか?
わかる方いましたらよろしくお願いします。
368 :
神も仏も名無しさん:2011/07/19(火) 11:06:28.95 ID:hHEo0SEE
戦後、家制度がなくなり相続も平等になりました。
そうすると墓もいらないのではないですか?もしくは夫婦単位の墓や永代供養でよいのでは?
どうして赤の他人ともいえる義理親、夫と同じ墓に入らないといけないのでしょう。
実家の墓に入ってもいいのでは?
369 :
神も仏も名無しさん:2011/07/19(火) 20:27:43.75 ID:XA8uy4Ze
そうです
最近はお墓はいらない人が増えたんじゃない
夫婦なら亡くなってもお骨でも一緒にいたいと思う人もいるし
墓がないと
お寺の納骨堂 コインローカみたいな奴に押し込まれるです
土にも帰れん 亡くなった人は納得したのかな
>>368 >どうして赤の他人ともいえる義理親、夫と同じ墓に入らないといけないのでしょう。
既に、その家の共同体員となっているから。嫁ぐということはそういうこと。
先代の姑も、外から来て主(ぬし)となった。新たな嫁もまた、いずれ『その家を仕切る者』となる。
過去は捨てられ、新たな生が始まっているから。
実家は、これまでと逆に 『挨拶に伺う先』 となる。
少なくとも最近まで御存命だった(いや、今でも御存命の)お婆様方は、
それこそ骨を埋める覚悟で、『旦那の姓の人間として』生きることを選んで嫁いでいる筈だ。
知り合いに、そういう高齢の婆様がいたら直接聞いてみるといい。
見合い結婚も多かったろう。「苗字が変わる」というのはそういうこと。
(だから、「夫婦別姓」は、なんとなく「個人の意思尊重」として一見美しく聞こえるが、
実質的な社会への効果は、反日本的価値観であり、家制度、家族制度の崩壊に他ならない。余談だが・・w)
もし、何の理由もなく実家の墓を望むなら、それは嫁いだ先の「家という共同体」の否定であり、
叛旗であり、まさに泥を塗る失礼な行為となる。
(勿論、仲違い等で拒否されることも、元々一緒に入ることがないとケースもあるかもしれんが・・。)
>戦後、・・・・・
まだ戦前生まれ及びその人達に育てられた人が存命中だし、
今でも引き継がれている内容は沢山あるし、『そういう傾向』は、目立って、可視化してきてるけど、
それでも、傾向が出てきたという程度。
もう一世代二世代(しかも、家風や地域性の引継ぎを「しっかりと怠った」形で)経過する必要があるんじゃないかな。
標準語の流布は徹底してるけど、方言も(薄まってはいるけど)消失してないし。
それでも、コテコテの方言が消失してきているように、いずれは、仰る形が主流になるでしょう。
今はまだ、既存の価値観と自身の価値観との間で揺れている人が多いと思われる。
371 :
神も仏も名無しさん:2011/07/19(火) 21:47:09.12 ID:rvWMWYC7
>>370 義父が亡くなったので、四十九日の打ち合わせをするのに、
業者の人、義母、夫(長男)、義理の妹、義理の妹の旦那で話し合いをして、
自分(長男の妻)は仲間はずれでした。
火葬場でのお坊さんとの打ち合わせも、義母、夫(長男)、義理の妹でして、
自分は仲間はずれでした。
ちなみに義理の妹の旦那の実家は別の男兄弟がついでいて、
ちょっと遠いです。義理の妹の家からは義理実家の方が近く車で30分ぐらいです。
義理の妹夫婦は子どもがいません。
自分達は義理実家から車で1時間ぐらいのところにすんでいます。
自分達には男と女の子どもがいます。
正直、自分の葬儀のときは墓に名前を彫ったり、骨壷を墓に入れたり
体裁だけは整えてもらってもかまわないですが、
実際の骨は故郷に散骨でもしてもらおうと思ってます。
372 :
神も仏も名無しさん:2011/07/19(火) 21:57:08.95 ID:rvWMWYC7
原則的には長男が継ぐという家制度、墓制度はやめて、
平安時代みたいに、女系にした方が世の中、うまくいくのでは?
ぶん骨で実家のお墓に入れば
子供さんたちと坊主に相談
374 :
神も仏も名無しさん:2011/07/19(火) 22:02:28.89 ID:rvWMWYC7
>>373 実家のお墓は実妹夫婦が継ぐことになっているので、迷惑かけるつもりはないです。
375 :
神も仏も名無しさん:2011/07/19(火) 22:03:33.74 ID:rvWMWYC7
>>371 ちなみにお墓や仏壇も決めているみたいですが、
自分は仲間はずれになってます。
376 :
神も仏も名無しさん:2011/07/19(火) 22:05:31.29 ID:o5IVhrW4
慈経はメッタスッタはわかりますが
日本の漢字の読みにするとなんて読むのですか?
377 :
神も仏も名無しさん:2011/07/19(火) 22:07:15.65 ID:rvWMWYC7
>>371 義父が亡くなって義理実家に帰ってきた日も、妹さんはさっと自宅に帰り、
団子を作りませんでした。
ちなみに40歳近いのに避妊して子どもができないようにしているそうです。
ここは人生相談板ではありません
夫婦墓でいんじゃねい
>>371 ありがちなシーンだw
けど、亡くなったのは義父で、且つ、義母存命中・実子も積極的に関わる、
ともなれば、まだお嫁さんが口出す時期じゃないとも言える。
苗字の系譜と同等に、血の濃さもまた重要だから。
寧ろ血の濃さを重視することで、村落共同体は維持されてきたし、
共同体観念は薄れても、血が繋がってるかどうかにこだわるのも、人の性でしょう。
仲間外れは致し方ありません。
何と言っても、≪「貴方の代わりに!」、夫が話に参加し、中心となっている≫じゃないですか。
夫が参加しているということは、妻も参加しているに同じです。
ま、これも370も、ステレオタイプの事例でしかないので、個々のケースで適合しないことも多々ありましょう。
上二つで、ああは書きましたが、
貴方のケースだと、今後も何かにつけて若干疎外される危険性も感じられないでもないですが、
まだ様子見といったところでよいのでは?
自分が死んだ後は知りようがないので任せるとしてw、問題は、(こういうことを考えるのは不謹慎ですが)、
旦那さんが亡くなったとき、旦那側の親族が、自分のポジションをどう見てくれるかの方が重要だし、深刻だと思われます。
彼ら、結束固そうですしねw いざというときは頑張らないと。
>>377 別に珍しくもありません。多いですよ、「口だけ出して、手は貸さない」(或いはお金も出さない)って人。
しかも、目茶若いじゃないですかw 驚くほどのことでもないですね。
40代50代がグラデーションの境目でしょうね。それ以下、現在30代の人々は、
よっぽどの英才教育を受けてないとw(家風や、こういうときはこうする、ってのを引き継いでないと)、
お墓?なにそれwどーでもいーじゃんw だって所詮「石」だしwww
先祖? 会ったことないし、血も繋がってないし、御祀りする義務ないっしょw って価値観でも不思議はないでしょ。
結局、教育なわけで、
今の日本がこうなってるのも、家庭・学校双方同罪の、戦後教育の賜物ナわけです。
>>379 ありがとうございます。
気が楽になりました。
381 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/07/20(水) 07:59:04.18 ID:5BfVEdNe
>>369 >墓がないと
>お寺の納骨堂 コインローカみたいな奴に押し込まれるです
>土にも帰れん 亡くなった人は納得したのかな
これも一つの考え方に過ぎませんが、
寺院内にある納骨堂ならば、私はかなりの推奨派ですね。
何故ならば、ご本堂の聖なる波動の影響下にあるからですよ
(まっ、聖なる波動の薄い寺院もあるでしょうが・・・w)。
そして、ハッキリいって墓場は別に神聖な場所とはいえない。
それと、墓とはいっても別に土葬というわけではありませんから、
“土に還る思想”とはあまりリンクしないような気も?
382 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/07/20(水) 08:01:08.20 ID:5BfVEdNe
>>380 こういうアドバイスについては、
セブンは天下一品!!
383 :
神も仏も名無しさん:2011/07/20(水) 10:45:58.00 ID:4tIUQn7t
>>380 あなたの義理親は、たぶん新家(一代目)かとおもいます。
これが二代目とか三代目とかの、いわゆる旧家になりますと、
>>379にある
>苗字の系譜と同等に、血の濃さもまた重要だから。
とかの問題も、先代で学習してるので、もっと合理的にやります。
ああつまりですね、一代目の親の家督相続ってのは、誰でもこの苦労があるんですよ。
苦労と引き換えの財産相続ですから、
こう割り切る他ないですね。
その方が気が楽になる。
384 :
神も仏も名無しさん:2011/07/20(水) 13:03:40.53 ID:z4zZWv31
>>383 さすがです。おっしゃるとおり義父は次男なので新家(一代目)です。
本家や本家の本家は地主みたいな感じで古い家系で、
お墓も大きいし、たくさんあります。
そのお墓群がある墓地の区画のひとつを譲り受けたので、
そこに新しく墓を作るようです。
義父母は結婚の際に、土地と家も親から与えられてます。
祭祀、法事、親戚のつきあい、墓守と相続はまた別みたいです。
もしかしたら祭祀、墓守分は大目に長男がもらうかもしれませんが、
多分、夫(長男)と義理妹と半分半分になるでしょう。
385 :
神も仏も名無しさん:2011/07/20(水) 14:02:17.98 ID:4tIUQn7t
>>384 >祭祀、法事、親戚のつきあい、墓守と相続はまた別みたいです。
>もしかしたら祭祀、墓守分は大目に長男がもらうかもしれませんが、
>多分、夫(長男)と義理妹と半分半分になるでしょう。
非常に複雑かとおもいます。
こういうことは義父が生前にちゃんとしておくべきでした。
つうか、次男(義父)だから、所詮こういうことは無頓着なんですよ。
義妹は嫁に出した時点で「他家の者」と割り切らねばならんですね。
家制度がなくなったとしても、これを明確にしておかないと、
義妹にしても、貴女にしおても、後々非常にストレスが掛かります。
これはですね、貴女の旦那様がしっかりする時です。
よく旦那様と話あったらどうですか?
貴女のお子様にも関係してきます。
386 :
神も仏も名無しさん:2011/07/20(水) 14:18:44.88 ID:4tIUQn7t
(追加)
>>371 >業者の人、義母、夫(長男)、義理の妹、義理の妹の旦那で話し合いをして、
>自分(長男の妻)は仲間はずれでした。
義妹の旦那が話し合いに加わるのは、よくないでね。
そう思いませんか?
こういう時こそ、施主である貴女の旦那様が仕切る場面です。
貴女を話し合いの場に誘った方が良かったかもしれません。
そうでないと、いくらでも義妹の旦那はズン登ってきますからね。
ビッシっとやるべきです。
(かしこ)
>>385 墓守は夫がすることになるんだろうと思います。
一年に一回、墓の周りの掃除をしなければいけないらしく、
それは夫が行うそうなので。
>もしかしたら祭祀、墓守分は大目に長男がもらうかもしれませんが、
>多分、夫(長男)と義理妹と半分半分になるでしょう。
これは法律上、そうなってるから動かせないと思います。
姑と世間話をしたときに、「(財産管理は)最終的に娘(義理妹)を頼ることになるかも?」
と言ってました。
実家は妹へ相続させ、賃貸で貸している貸家は夫へ相続させるとの意向があるようです。
388 :
神も仏も名無しさん:2011/07/20(水) 21:30:38.81 ID:z4zZWv31
>>386 正直、これは理解できませんでした。
義理の妹の旦那は実家へは年に1〜2回、顔を出すぐらいです。
自分は親戚の葬式以外では数年あったことがありません。
義理の妹さんとも義父が入院する前は1年に1回あえばよい方でした。
自分達は月1回、子どもの顔を見せることをかねて、食事に行っていました。
入院中も義理の妹の旦那は数回、見舞いにきたぐらいです。
自分は夫の代わりにと思い、タクシー代わりを平日週2〜3回と
土曜日に夫、子どもと見舞いに行っていました。
389 :
神も仏も名無しさん:2011/07/20(水) 21:40:14.93 ID:z4zZWv31
ちなみに義父はなくなる前、夫に1000万円やるから墓の面倒を見て欲しいというような話を
1回してたことがありますが、世間話のようにしていたので、みんなはっきり憶えてないかも
しれません。
また、葬儀当日、義理実家から葬儀場に行くときに、義母は義理の妹夫婦の車に乗っていきました。
結局、その日は一日中、義理の妹夫婦の車に乗って移動しました。
墓守やるから
金くれ
で解決
>>390 仏壇と位牌(姑、義理の妹) と お墓(夫) の管理が分かれるんですが、
もし姑 と 夫 が亡くなったら、新しく仏壇を買って、夫の位牌を作ってもらえばいいんですかね?
正直、義理実家に買った仏壇をひきとって面倒みたくありません。
後、墓守は夫の後、自分の子(長男)に面倒みさせて、私はタッチしたくありません。
自分の葬儀のときは墓に名前を彫ったり、骨壷を墓に入れたり
体裁だけは整えてもらってもかまわないですが、
実際の骨は故郷に散骨でもしてもらおうと思ってます。
392 :
神も仏も名無しさん:2011/07/21(木) 07:51:31.16 ID:EJgnBnxL
>>387 >これは法律上、そうなってるから動かせないと思います。
法律上ではそうなってたとしても、義妹は実母を貴女に面倒みてもらう訳ですから、
本家を立てて、普通は遠慮します。
相続登記の段階で、50〜100万くらいのお礼程度を貴女の旦那が義妹に払うのが一般的です。
(金額は司法書士から聞いたものですから、財産の規模によって違います)
>姑と世間話をしたときに、「(財産管理は)最終的に娘(義理妹)を頼ることになるかも?」 と言ってました。
姑が義妹に、良いように言い含まれてる可能性がありますね。
>義母は義理の妹夫婦の車に乗っていきました。
>結局、その日は一日中、義理の妹夫婦の車に乗って移動しました。
そもそも一代目の義父とか義母というのは、自分の立場は無頓着です。
つまり苦労してないから(苦笑
これから先、義母に苦労させられるかとおもいます。
よくよく考えて、なるべく貴女がストレスにならない方向だけ考えたらいいかとおもいます。
(かしこ)
393 :
神も仏も名無しさん:2011/07/21(木) 08:48:01.81 ID:vIB3onm7
>>392 ありがとうございます。
自分も長男と結婚したので、同居はしなくても、
最終的に面倒をみるのは夫と自分だと勝手に思い込んでいたのですが、
姑と義理妹の言動をみてるとそうではないようです。
実家と貸家では多分、資産価値としては実家の方が上ですが、実家の方を義理妹がもらう気満々です。
もちろん姑もそのつもりです。
まあそれはそれでいいのですが、それなら義理の妹の旦那ももうちょっと義理父のために
見舞いにきてもよかったのではないかと思います。
394 :
神も仏も名無しさん:2011/07/21(木) 09:41:04.96 ID:EJgnBnxL
>>393 義父が亡くなって、49日が過ぎれば直ぐに財産相続の話に入るんじゃないですか?
まだそういう話はないのですか?
これは早急にやった方がいいのでは?気持の整理もつくことだし。
これがハッキリしないうちは、貴女の心も不安が先立ち
冷静になれないかとおもいます。
財産相続は、一応は法的に姑が1/2ですね。
でも実状は姑は財産相続放棄します。
長男とか娘に相続しますね。つうか、長男が殆どを相続します。
何故かというと、親戚付き合いとかで金銭はどうしても必要になるからです。
(つまり本家はこれから先、どんどん出費が出るようになってる)
今が一番大事な時です、先ずはこのことに腹をくくって考えてみてはどうでしょうか?
先ずしなければならないことを先取することです。
それから、貴女の散骨とかの問題も自然にクリアできるようになるんじゃないですか?
(かしこ)
395 :
神も仏も名無しさん:2011/07/21(木) 11:04:04.00 ID:ahUwY0I+
>>394 本来なら相続は四十九日を過ぎてから行うはずですが、
諸事情により早めにはじめているはずです。
自分は全く知らされていませんが、とりあえず、
今回は義母が全て相続するのではないかと思います。
396 :
神も仏も名無しさん:2011/07/21(木) 11:59:39.96 ID:EJgnBnxL
>>395 義母は、今のところは元気なようですけど、これから先は認知症になる可能性がありますね。
こうなると非常に面倒なことになります。
こういうウヤムヤな状態が続くと、貴女の精神も疲れてきます。
つまりですね、先立つものは「金」ですから、
こういうものはハッキリさせた方がいいんじゃないですか?
事情は分かりませんが・・・
子供のためにも、ある程度は姑息な手段を考えた方がいいですよ。
人間は、これくらいのことを考えないと生きてはいけないです。
家督相続ってのは、こういう苦労と引き換えに〇億とかの財を受け継ぐのですから。
私の考えは、〇億とかの単位はけっして高いものとは思ってません。
それくらいの苦労はしてきたのですから。
(かしこ)
397 :
神も仏も名無しさん:2011/07/21(木) 12:15:40.76 ID:EJgnBnxL
>>391 >仏壇と位牌(姑、義理の妹) と お墓(夫) の管理が分かれるんですが
これは義妹が義親を誑(たぶら)かしてる可能性があります。
それで義親が上手く騙されているかとおもう。
(かしこ)
>>397 そうですね。最悪、夫の相続は遺留分と墓守になる可能性もあると思います。
将来的に定年になったり、夫がなくなったりしたら、
地方の生家近くに帰ってもいいと思いはじめました。
というのも、夫の実家の地域はある程度地価が高く、資産がある人でないと
生活しづらいのです。
地方の生家の近くだったら、2000万円あれば、庭付き&中古の一軒家が買えるし、
生活コストも低いので、年金暮らしでも過ごしやすいのです。
墓守は子どもにでもやらせます。
家制度がなくなったので、檀家制度、墓制度もそのうちなくなる可能性が
高いんじゃないかと思います。
>>398 そうですね。
そもそも戦後の民法(相続に関して)と家制度は、釣り合いが合わなくなっているんですよ。
そこを上手く立ち回ったり、なんとか妥協しつつ、どうにか遣り繰りするのが知恵ってもんですが・・・
これもハッキリ言えるのは「義親次第」ですよね。
>将来的に定年になったり、夫がなくなったりしたら、
>地方の生家近くに帰ってもいいと思いはじめました。
そうですね。今までのレスの流れからしますと、
その方がかえって良いようにおもいますね。
散骨か?それとも生家に骨を埋める、ってのも選択肢に入るかもしれませんですね。
(かしこ)
>>399 はい。ご助言、大変参考になりました。
ありがとうございます。
>>400 >>400 一期一会です。
貴女の幸運を祈ります。
またなにかありましたら、この仏教質問箱でカキコしてください。
>>400 最後になりますけど、私の考えを書いてみます。
>>379のような意見もあります。
別にそれを否定する訳ではないですけど、
義妹は他家に嫁いだ時点で、本家にはあまり口出しできる立場ではありません。
つうか血の濃さよりも、先ずは本家(つまり貴女)を立てるべきです。
こういうことは、義親がちゃんと教育するのが上手く親戚付き合いするコツです。
つまり、兄弟(姉妹)が仲良く付き合うのは【親次第】なんですよ。
まあ、今は手遅れですけど、一般的にはそうですね。
(かしこ)
>>402 おっしゃるとおりです。
ただ自分が姑の立場になったときに、それができる器の人間になっていれるかどうか?
なかなかそのレベルに達するのは難しいですね。
並みの人間にはかなり厳しいと思います。
>>403 姑が亡くなって、実質的に貴女が天下?を取れば、
それに見合うような人間になるもんですw
本家の嫁さんというには、苦労が多いぶん勝気になりますからね。
そうじゃないと本家の遣り繰りはできんですよ。
まあ、財産相続するまでは誰でも弱気です。
しかし相続が終った時点で、人間はガラって変わるもんです。
姑は自分の旦那(つまり義父)が亡くなった時点で気弱になりますから、
そこを付け込んで貴女のペースにもっていく最後のチャンスかもしれません。
では、健闘を祈ります。
405 :
神も仏も名無しさん:2011/07/31(日) 06:52:42.95 ID:nTAAthM9
テレビに今いちばんでてくるのが水無昭善っていう坊さんだけど、
この人、本当に坊さんですか?メチャメチャメチャ怪しいです。
真言宗の公式サイトにこの人の寺、のっていない。
419 名前: 【東電 65.9 %】 忍法帖【Lv=30,xxxPT】 [sage] 投稿日:2011/07/31(日) 11:48:50.41 0
ごめんください
スッタニパータで英文字式原文と日本語読みと訳文が一つになっている書籍はありますか?
原文を丸暗記するために日本語読みで何度も読んで訳文でイメージすると
完ペキではないけど少しでも幸せに近づけるのではないかと思って質問しました
408 :
神も仏も名無しさん:2011/08/02(火) 21:20:09.93 ID:V2xsg9HH
>>405 怪しくてもいいけど、たまには仏教的発言もしてほしいな。
いや、してるけどカットされてるのかな?
409 :
神も仏も名無しさん:2011/08/02(火) 23:10:04.53 ID:JmwLsU3m
水無昭善
自称坊主じゃねいの
寺のサイトはあるんだが
410 :
神も仏も名無しさん:2011/08/03(水) 02:18:02.30 ID:VL18Stts
403、404はある種の「クズ」好 み ですね・・・。
機嫌悪いと、書きそうな事ですよ。。
411 :
神も仏も名無しさん:2011/08/03(水) 11:34:46.96 ID:bVw0nkYh
お経を現代語訳したものを読んでもご利益はあるのだろうか。
412 :
神も仏も名無しさん:2011/08/03(水) 12:37:21.11 ID:MN31/MB5
>>411 意味がわかった上で読むほうが利益があるので、
現代語訳のほうが意味がよくわかるなら、そのほうがいい。
お経を読むことで仏教の教えや善についてイメージをくりかえす
⇒善のイメージトレーニング
⇒心に善の思考の癖がつく(利益)
413 :
神も仏も名無しさん:2011/08/07(日) 17:53:41.44 ID:H+RUyqZM
質問です。
私はいくつもの過ちを犯し、それを取り返せないことに苦しみ、
いくつかの欲を持ち、それが実現しないことに苦しんでいます。
仏教の諸行無常、諸法非我、一切皆苦と「執着しない」ということに真理を感じ、
それに倣おうと考えていますが、疑問がわきました。
一切のことに執着しないとすれば、この人生はどうすればいいんでしょう。
何もしないということになりますか。
人は死に、形は失われ、別のものとなります。
そこにはうれしさも悲しさもないと思います。
自分の欲をかなえることも執着で、誰かを助けたいと思うことも執着であり、
執着しなければ、何もしないとなるんでしょうか。
もし、何もしないということも執着ならば、どうあるべきなんでしょうか。
仏陀の教えのとおりに生きるとは、具体的にはどのようなものなんでしょうか。
小乗的発想で言えば
人生などにこだわる者は
「修行者ではない」
ニルヴァーナ以外に何の価値もみいだせず
この輪廻世界を身の毛がよだつほどに嫌悪せざる者は
もはや「修行者ではない」です
それがいやなら大乗を選択せざるを得ないです
阿弥陀仏におすがりなさい
だれでも極楽に行けます
歎異抄
>>413 スッタニパータ18〜34偈(ダニヤの章)を読んだことがありますか?
まさに、そこにあるような対比です。
畢竟、《貴方が、どちらを選ぶか》です。
仏教というのは、原則として『世俗の楽しみ・愉しみ、世俗的高価値、世俗的義務』の放棄をその真髄とするからです。
それに異を唱える流れが、大乗仏教、特に「在家重視」或いは「禅宗」或いは「真宗」だったりするわけです。
『凡夫のままでいい』、
『凡夫の欲望は、生きることの肯定であり必須要件であるのだから、流されない程度にそれに隨うべき』
といった考え方を是とするなら、今のままで構いません。
そのような(悩みつつ懺悔する)貴方の姿が、そのまま仏の姿であるからです。
気にすることはありません。
>仏陀の教えのとおりに生きるとは、具体的にはどのようなものなんでしょうか。
一切の世俗的営為から離れ、托鉢と瞑想のみで日を過ごすということですw
417 :
神も仏も名無しさん:2011/08/07(日) 23:49:20.27 ID:EFu6e3qV
>>413 慈・悲・喜・捨の四つの心を育て、それにしたがい生きればよいのでは?
他者を憎まず、みんな仲良く幸せに(慈)、
悩み苦しみを持つ者がいたら、それを解決するように(悲)、
他人の成功や幸せを自分のことのように喜び(喜)、
あらゆる執着を捨て自分と他人の区別さえもないくらいに(捨)。
まとは、すでに結婚してる場合なら、結婚式で相手を幸せにすると違った、
その誓いにそむかないようにとか、
借金があるならその返済を怠らないようにとか、
そういう他人との約束ごとは守らないといけない。
418 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/08/08(月) 22:56:26.25 ID:cI1vuRmP
>>413 私が「(仏教)僧侶」というときには、
それは法要の仕方を修得した職業に就いた人という意味になります。
普通に家庭の中で暮らしたり、自分も妻子を抱えたりして僧侶として働いて稼ぐ人です。
(教えを学ぶために弟子入りして僧侶となるというのも当然ある)
「出家者」というのは、本来は家無き生活に入り、
山野などで自炊し解脱を求めて世俗を断ち切った人のことです。
けれども、これら出家至上主義でいなくて、
到底、自己の解脱には時間を要する(幾生涯を費やす)ものとして冷静に受け止め、
この社会生活の中で自己の心を磨きつつ、人類社会の進化向上に寄与する道もある。
要するに、無償の自己犠牲によって人類(社会)の進化に貢献する奉仕の道です。
どのような道を歩むかは自己選択です。
419 :
413:2011/08/10(水) 23:56:48.07 ID:lNRGjMv2
みなさん、ご回答ありがとうございました。
私は出家はできませんので、凡夫として、なるべく欲に執着せず、
慈・悲・喜・捨の心を育てながら前向きに暮らして生きたいと思います。
420 :
机龍之介 ◆b5VIxRNE/I :2011/08/12(金) 07:49:16.40 ID:8RNt5E9N
>>413 >一切のことに執着しないとすれば、この人生はどうすればいいんでしょう。
>何もしないということになりますか。
たとえば、健康に執着しているときは、健康ではない。
・・・というようなことも、あるいは気づきです。
そういう執着から離れるときに、ありのままの自分が見えてくる。
この因(健康・執着)を寂滅した時に、本当の意味が分かってくる。
心因性の病とか(自律神経失調症など)、
殆ど病気はストレスによるものです。
仏教については殆ど知らない初心者です。
失礼な質問かもしれませんが、質問させて下さい。
仏像等の仏の像って、小太りの像が多いですよね。
海外の神、例えばキリストとか、ギリシャ神話の神とかは中肉中背や筋肉質が多い気がします。
神が若干小太りというのは世界的に見ても珍しいですよね。
仏教の如来像等が小太りに描かれているのは何故ですか?
釈迦自体断食経験もある人なので、実際の釈迦は痩せていたと思うのですが……。
>>421 例えば、「龍」の真の姿を貴方は知っていますか?
見たことがありますか?聞いたことがありますか?
聞いたことがあるとして、それらは一致していますか?
想像上の、或いは理念の擬人化された仏に関しては、そのようなことです。
イメージ先行ですし、個々のケースでの「こうあってほしい!」という印象の元に造形されるでしょう。
例えば、「織田信長」の実際の顔を貴方は知っていますか?見たことがありますか?
多くの似顔絵を見たことがあるとして、それらは、(系譜が別である場合)一致していますか?
実際の容貌の伝承もあるでしょうが、正確ではありません。
更には、そこには、言行録や逸話から来る、或いはプラスアルファとして「こうあってほしい、こうあるべき」
というアレンジも加わります。
実在の先人達に関しては、そのようなことです。
そして、「ふくよかさ」は、当然の如く「優しさ」であり「慈悲」でありますし、
さらには、「中性的に性別を超えた」存在でなければならないからです。
また、全てにおいて満たされた存在ゆえ、「イメージとして」w痩身ということもなければ肥満ということも無いわけです。
完全なる安楽にある仏達ですから。
それでも、時代が下った坊さん達の像や頂相は、リアルなものも多いと思うよ。
423 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2011/08/13(土) 00:03:00.37 ID:Wfq3YPkh
>421
あれは小太りじゃなくて、子供の体型です。
たしか、33相にもそんな記述があったと思うが、密教の仏像の場合は、儀軌に寄ってあの様に定められてたと思います。
因みに、ポリネシアだったか忘れましたが、地母神が太ってるのが普通ですし、シナでは権威や富を表す為に観音様までブタの様に太ってます。
425 :
机龍之介 ◆b5VIxRNE/I :2011/08/14(日) 07:54:45.10 ID:RYBO1u4F
>>421 仏像というのは、必ずそこに創作者がいるわけで定立があるわけです。
広義で芸術でもなんでもそうですけど、それがなければ作品は作れません。
他の芸術と仏像の違いは、仏像は自己投影が顕著に顕れるってことでしょうか?
つまり仏像と出会うそのときの心象によって、さまざまに変化するってことです。
それは白紙の状態から沸きいずる泉の如しです。
こういった自己矛盾に気づいたとき、
それが仏像における定立なのかもしれませんですね。
(かしこ)
426 :
神も仏も名無しさん:2011/08/16(火) 03:24:13.99 ID:8FCp2EtB
私が住んでいる地方では、親族が亡くなると、山に登ってはいけない、海で釣りをしてはいけないなどの縛りを受けます。
恐らく、神様には近付くなという事なのでしょうが、これは仏教の教えなのでしょうか?
427 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2011/08/16(火) 04:15:15.18 ID:e5USIEn9
>426
神道です。
昔はモガリや物忌みという風習がありまして、
死者が出た家では一定期間、人と会わなかったりしました。
その名残ですね。
428 :
神も仏も名無しさん:2011/08/16(火) 04:31:48.43 ID:EJTTQlTy
質問です。
ホントに仏教の僧侶っているんですか?
なんか一週間もあればそこら辺の人間でもなれると思いませんか?
要はコスプレ、特殊なお経を歌うだけで信仰心はまったくない人々なわけじゃないですか?
どっかのコスプレサークルの運営資金稼ぎで仏教コスプレでもすれば
仏教の需要ってないと思うんですよ。
本当に信仰心を持ってる僧侶っているんでしょうか?
そういうふりをすることで肉と女にありつけるから仏教徒をしてるんじゃないでしょうか?
429 :
神も仏も名無しさん:2011/08/16(火) 19:19:24.57 ID:uWKX7Dj8
>>428 まず、海外ではりっぱな僧侶がたくさんいると思いますが、
あなたの質問は日本の中での話のようですね。
日本でも、信仰心を持ってる僧侶もいますし、
厳しい修行に明け暮れて、結婚もしない僧侶もいます。
まあ、それも小数派ですね。
信仰心はあるけど戒律は守れていない僧侶なら、もっとたくさんいるでしょう。
まったく信仰心がない僧侶は小数だと思います。
>>428 前半部分は、そういう感想を持っても已む無しな日本仏教の現実はありますが、
>そういうふりをすることで肉と女にありつけるから仏教徒をしてるんじゃないでしょうか?
この文章の意味が解りません。
肉と女にありつこうとするなら、「一般的には」僧侶であることは若干ハードルが高いからです。
極一部に、昔の小金持ち・成金同様、僧侶であること(→大寺院の者であること)が有効な武器になることはありますが、
あくまでも例外です。
つか、逆に聞きたいです。
上の文章は、≪『僧侶であるからこそ』、人々は肉を提供し、女性は好意を持ち易い・身体を許し易い≫ということになりますが、
世間の人は、僧侶をそのような魅力・力のある存在と見做しているのでしょうか?
>なんか一週間もあればそこら辺の人間でもなれると思いませんか?
これは、いろんなスポーツ選手或いは、植木、佐官、大工、板金、工芸、自動車修理工等等等等の職人でも同じでしょう?
或いは、陶芸家、書道家、画家、作詞家、小説家、作曲家、漫画家等等等等でも同じでしょう?
(特にクリエーター系は、勘違いして夢抱いて、挫折してゆく者のなんと多いことかw)
さて、
貴方が429さんの答えに満足するかどうか、見物させて貰いますよw
知らない者からみれば、どんなものでも楽に見えます。
431 :
神も仏も名無しさん:2011/08/16(火) 23:03:00.61 ID:M1lN/ANC
本居宣長大人はかうお詠みになつておいでです。
私も佛の國など無いと思ひますが、何方かお出でになつた方がいらつしやるのでせうか。
ちやうど今は「お盆」ですが、その根據となる「盂蘭盆經」が支那で作られた僞經ぢやないですか。
今の僧侶は本氣で「盂蘭盆經」の内容を信じてゐるのですか。
《さとるへき事もなき世をさとらむと 思ふ心そまよひなりける》
《死ねはみなよみへゆくとはしらずして ほとけの国をねがふおろかさ》
《仏ふみよめはをかしき事おほみ ひとりわらひもせられけるかな》
432 :
神も仏も名無しさん:2011/08/19(金) 01:01:26.55 ID:1FbBPXmw
仏教でいう悟り解脱というのは無感情に近く
人生を楽しむことを謳歌するということとは対局にあるような気がします
そうなんでしょうか?
433 :
絶対神:2011/08/19(金) 01:09:02.68 ID:SIepjoi9
>>432 そもそも宗教というものは現世否定的ですから
普通に考えれば判りますが
肉食、妻帯、酒を禁止されて人生が楽しいでしょうか?
人生を謳歌したり楽しむという事は、冷静に考えれば、誰でも宗教とは
無縁の生き方と判るのではないでしょうか
仏教とかそういう以前に、ちょっと考えれば判ります
434 :
神も仏も名無しさん:2011/08/19(金) 01:13:59.43 ID:1FbBPXmw
ヤッパそうなんですか
いやひょっとすると、悟り解脱すると、
此の世を全肯定して楽しく生きられるのかと誤解してしました
435 :
神も仏も名無しさん:2011/08/19(金) 01:18:33.84 ID:ALNXbrWg
>>434 日本の宗派だとそういう方向性もあるかも。
436 :
神も仏も名無しさん:2011/08/19(金) 01:20:29.16 ID:1FbBPXmw
宗派いろいろあるんで
ゴータマ・ブッダさん自身の教えでの回答が望ましいのでした
437 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/08/19(金) 13:29:46.37 ID:tNc+cNHk
>>432>>434>>436 仏教の修行によって最高処に到達した聖者というのは、
すでに意識が変成しているので俗人のそれとは全く異なります。
楽しみとして感受する対象が変化するのです。
従って、この境地は楽しみのないツマラナイ世界ということではなくて、
自己の欲望のないニルヴァーナ(涅槃)の境地を最高の楽しみとして味わっているのです。
対する俗人というのは、自己の欲望を楽しみと感じており、
その間は、これらの大聖者の意識そのものを理解することはできません。
『われらは一物をも所有していない。大いに楽しく生きて行こう。光り輝く神々のように、喜びを食む者
となろう。』
(『ダンマパダ』第15章:200)
『この世で教えをよく説き、多く学んで、何物ももたない人は、楽しい。見よ!人々は人々に対してかた
ちが縛られ、何物かをもっているために(かえって)悩んでいるのを。
何物ももっていない人々は楽しんでいる。何物ももっていない人々は智慧の徳をもっているからである。
見よ! 人々は人々に対して心が縛られ、何物かをもっているために(かえって)悩んでいるのを
何物ももっていない人々は楽しんでいる。何物ももっていない人々は智慧の徳をもっているからである。
見よ! 人々は人々に対してかたちが縛られ、何物かをもっているために(かえって)悩んでいるのを。
貪る人々のあいだにあって、われらは貪らないでいとも楽しく生きて行こう。貪っている人々のあいだに
あって、われらは貪らないで暮そう。
われらは何物ももっていない。いとも楽しく生きて行こう。ミティラー市が焼けているときにも、(ここでは)
何も焼けないのである。
われらは何物ももっていない。いとも楽しく生きていこう。身体を自分と見なす(見解に)とらわれることな
く、喜びを食む者となろう。』
(『ウダーナヴァルガ』第30章:39-41.43-44.50)
438 :
神も仏も名無しさん:2011/08/19(金) 14:21:52.60 ID:1FbBPXmw
439 :
神も仏も名無しさん:2011/08/19(金) 14:30:57.79 ID:1FbBPXmw
到達点が喜びで安心しますたー
>432
すべてが「たのしい」に変わります
肉食、妻帯、酒がそれほど楽しいことでしょうか?
煩わしいことばかりではありませんか
他の楽しみに気付くほうが人生を謳歌することになりませんか?
441 :
神も仏も名無しさん:2011/08/19(金) 19:08:27.21 ID:GdIoo2Ht
>>437 釈迦はそんなことを、例えば餓死に瀕しているソマリアの人々の前で
言えるのかね。張り倒されるだろう。
釈迦もイエスも、いい加減な発言をしてはならない。
442 :
神も仏も名無しさん:2011/08/19(金) 22:30:57.37 ID:ALNXbrWg
>>441 釈迦の時代、インドは自然に恵まれてたから、
人間同士争わず仲良く食べ物を分けあえば、
飢え死にしなくてすむ世界だったのでは。
多民族を殺して奪わないと食っていけないとか、そういう厳しい環境ではなかったんだと思う。
443 :
神も仏も名無しさん:2011/08/19(金) 23:24:54.47 ID:hEe6MOwD
>>442 王子として、何不自由ない、贅沢三昧な生活を送った釈迦に、貧乏の苦しみが
本当に判るわけがあるまい。カースト制度のインドには、当時も、極貧の人々
は多数いたはずだ。
サウナ室に居ながら、「ここは暑くて苦しい!」と言ってるのが凡夫。
サウナ室を出て、「ここは暑くない」と言ってるのが釈迦。
サウナ室に居ながら、「ここを出られない。ここを暑くないようにすべき。いや、してくれw」と言うのが凡夫。
サウナ室を出て、「そこは、暑いのがデフォだ。暑いのが嫌なら、そこを出ればよい」と言うのが釈迦。
で、幾つかあるポイントの一つは、 サウナ室を暑くないようにできるのか? ということだw
>>444 甲乙丙の三種類のおもちゃやるから、とりあえずサウナ出ようぜ
446 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/08/20(土) 14:16:01.55 ID:HIkocO89
>>441 『飢えは最大の病いであり、形成せられる存在(=わが身)は最もひどい苦しみである。
このことわりをあるがままに知ったならば、ニルヴァーナという最上の楽しみがある。
健康は最高の利得であり、満足は最上の宝であり、信頼は最高の知己であり、ニル
ヴァーナは最上の楽しみである。』
(『ダンマパダ』第15章:203-204)
勘違いしないように!!
(自ら己れの馬鹿さ加減を露呈するのは自由ですが・・・)
この経文ではゴータマは、
飢えが人間の最大の苦しみであるということを認め、
これと最高の楽しみとしてのニルヴァーナとを対比しているのです。
また、健康が最高の利得であるとして、これは当然のごとく歓迎されています。
447 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/08/20(土) 14:17:19.67 ID:HIkocO89
>>431 盂蘭盆経そのものはシナ発祥の偽典のようですが、
この経の元になったと思われる原形としての経は存在しています。
これはパーリ小部経典の餓鬼に関する50経ほどを集めた『餓鬼事経』というものであり、
この中で弟子たちが餓鬼を救った出来事が述べられています。
基本的に多くの僧侶たちは実際に餓鬼なる亡者がいて苦しんでおり、
施餓鬼法要には意味とその効果があるものと信じていると思います。
448 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/08/20(土) 14:23:28.59 ID:HIkocO89
追記:
自ら信じていないのに、
盂蘭盆法要に関する意義や功徳等々を説き、
人々から布施を徴収していたとしたら、それこそ詐欺でしょう!
まっ、人間死んだら終わりと勝手に思っている一部の断見僧侶らが、
年忌法要を修して(団信徒の感情を満足させるものと言い訳し)
お布施を貰っているという実態は如何せんとし難いが・・・。
449 :
神も仏も名無しさん:2011/08/20(土) 15:01:22.78 ID:cluS9Obo
>>446 「飢え」は「病」ではなく、「求不得苦」ではないか。「四苦」には含まれて
いないね。「健康」「満足」「信頼」と、ニルヴァーナとは「快楽の追求」か。
「一切皆苦」とは矛盾するな。スッタニパータとダンマパダとの思想的相違を
教えてください。
450 :
神も仏も名無しさん:2011/08/20(土) 15:05:58.51 ID:JniEM0it
悩んでいます。何か良い宗教は無いでしょうか?
451 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/08/20(土) 16:01:04.80 ID:HIkocO89
>>449 これは、「生・老・死」には該当しない肉体的苦悩をここでは一括りで「病」と表現したものなのでしょう。
確かにニルヴァーナは究極の楽しみで間違いがない。
ただし、世俗における次元で理解表現できるものではありません。
>「一切皆苦」とは矛盾するな。
誤解しないように!一切皆苦に在るのは凡夫衆生ですから。
従って、そこから解脱するのが仏教であり、苦から超越した境地に究極のニルヴァーナがあります。
>スッタニパータとダンマパダとの思想的相違を教えてください。
ないでしょう。
スッタニパータはマガダ語の影響すら受けているともいい、
ゴータマご自身による暗誦された語句が含まれているとも見なされている最も原初的な経です。
同様、ダンマパダもそのような原初的な類いとして扱われています。
452 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/08/20(土) 16:05:32.28 ID:HIkocO89
>>450 ザンネンながら、こればかりは・・・
人様(他人)から奨められるようなものではないと思います。
私も“何が良い”などとは奨めることができません。
辞書的なハイツーもので、
各宗教の基本を知ることから始めるしかないです。
453 :
神も仏も名無しさん:2011/08/20(土) 17:17:27.54 ID:AlH0EVPG
>>451 釈迦は、楽のみの涅槃が、苦のみの地獄と同一であることに思い至っていた
のでしょうか。苦があるから楽があり、楽があるから、苦があるのです。
一切衆生は、その生存努力という大修行によって、この真理を悟っています。
釈迦も、一切衆生によって生かされていることを自覚して、感謝したことが
あるのでしょうか。「凡夫」「凡夫」と馬鹿にし過ぎ。釈迦にも、イエスと
同様、「我のみ良し」の思い上がった独善性があったように思える。
質問箱でこのレベルの話をしてもどうかとは思うが、
>>453 >苦があるから楽があり、楽があるから、苦がある のは、まさにその通りなんだよ。
誰もそれを否定してはいない。苦と楽は、中論の登場を待つまでもなく、【概念として】相対的だ。
だが、「解脱或いは涅槃の楽」と言われる時、それは、苦と対になった楽ではない。
ここさえ理解できれば、涅槃にしろ一切行苦にしろ、すんなり筋道通るんだけどね・・・。
仏教を理解するうえでの、もしかしたら一番のハードルかもしれんね・・。
ここで躓いた者は、たぶん一生仏教とは縁のない生活を送った方がいいだろう。
そういう人には他の宗教を薦めるよwww
455 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/08/21(日) 02:20:58.75 ID:1ijA//YR
>>442 >人間同士争わず仲良く食べ物を分けあえば、
>飢え死にしなくてすむ世界だったのでは。
本当は、
今だってそうです。
経済大国と自称している国々で浪費しているエネルギー、
及び倉庫で腐敗し(或いは美食を楽しみつつ)捨てている食料を
飢えと貧困に喘ぐ人々と一緒に分け合えば、
餓死者は一人もでないと数値上でも算出されています。
人間の貪欲が、地上から飢餓を出現させている原因です。
456 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/08/21(日) 02:21:45.83 ID:1ijA//YR
>>443 であるから、
自分が世間知らずのボンボンであることを自ら恥、
宮殿を出て家無き生活に入ったのです。
>貧乏の苦しみが本当に判るわけがあるまい。
世俗の人間の人生経験などはすべて体験済みなのです。
仏陀として目覚めるときに過去世のすべての記憶を想起し、
再経験するという超常体験を彼はしているのです。
従って、仏陀としての能力により、記憶はすべて自在に引き出せます。
457 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/08/21(日) 02:22:34.07 ID:1ijA//YR
>>453 >一切衆生は、その生存努力という大修行によって、この真理を悟っています。
当然のことです。
ゴータマもすべて経験済みです(過去世において)。
であるから、人間の苦悩については熟知しています。
>感謝したことがあるのでしょうか。
当たり前です。
人間の苦悩の辛さと努力の尊さを彼はよく知っています。
両親に対するの感謝の念一つとっても、
自分の両親を自身の両肩に乗せて生涯過ごしたとしても足りないほど、
両親には返しきれないの恩義があるものだ、
というようなことを彼は述べています。
>「我のみ良し」の思い上がった独善性があったように思える。
ありません。
あなた自身の勝手な決めつけです。
とにかく、自己の無知をゴータマ(やイエス)のせいにしないように!
あなたは何も知らないのだから!!
458 :
神も仏も名無しさん:2011/08/21(日) 04:49:49.09 ID:Z1wHY/I0
>宝珠愚者氏へ
ゴータマは、生まれたばかりのわが子を置き去りにし、両親が泣いて
留めるのを振り切って家出した。やたらに人を凡夫呼ばわりするが、
己は聖者とでも思い上がっていたのか。
有りもしない彼の前世についてのフィクションなど、問題外。
イエスは、実母のマリアに対して親を親とも思わない言葉を吐き、
実父のヨセフには、言及さえしていない。旧約聖書では、「親を侮辱した
者は死刑」である。
いずれも、人格的に極めて低劣な人物。彼等を手放しで賞賛・崇拝する
者たちは、自己の人格を疑われざるを得ない。
460 :
神も仏も名無しさん:2011/08/21(日) 18:53:50.08 ID:qaKrJXZZ
出家というのは俗世間から離れること。
妻帯したいなら、還俗すればいい。出家するなら、離縁すればいい。
どうして日本の僧侶は妻帯して、かつ世襲しても恥と思わないの?
何か仏教の教学的な根拠でもあるの?
そもそも、一体日本の僧侶が僧侶と名乗れるのは何故? 自称? ちゃんと受戒しているの?
461 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/08/21(日) 23:27:51.18 ID:1ijA//YR
>>460 セブンが詳しいから、きっと何かコメントをくれるものと思うよw
462 :
神も仏も名無しさん:2011/08/22(月) 01:13:38.28 ID:CfjgKR2d
>>460 寺はそれぞれが個々の宗教法人であり、寺にはそれぞれにその寺の寺院規則がある。
住職になれる要件も寺院規則に定められている。
寺院規則に反していれば住職をクビになるが、
お釈迦様の教えに反しても寺院規則に反してなければクビにならない。
つまり、戒律破るデメリットを実感していないから戒律を簡単に破れるわけ。
463 :
神も仏も名無しさん:2011/08/22(月) 01:19:46.18 ID:CfjgKR2d
それに、いい年した坊主が結婚していないと、
檀家から早く結婚して跡取りを産めと催促される始末。
結婚して跡取り生まなければ寺を追い出される。
464 :
神も仏も名無しさん:2011/08/26(金) 13:05:26.23 ID:VkBdgbdW
てs
465 :
神も仏も名無しさん:2011/08/31(水) 16:56:56.77 ID:NRmL82r1
466 :
神も仏も名無しさん:2011/08/31(水) 20:33:51.73 ID:3K3ikzbp
>>463 高名なお寺は
優秀な坊主を養子にしてとるよ
467 :
神も仏も名無しさん:2011/08/31(水) 20:42:51.61 ID:maM3fmnC
>ゴータマは、生まれたばかりのわが子を置き去りにし、両親が泣いて
>留めるのを振り切って家出した。
これ自体がフィクションかもしれないのに、これを信じてジャータカを信じないのはなぜ?
『ジャータカは、架空の作り話である』という
『思い込み』が、あるから
469 :
神も仏も名無しさん:2011/09/05(月) 23:03:17.72 ID:sezo2GKy
質問なのですが、どこかの宗派、もしくはお寺で、
読経の最中に「かんじーざい」と合いの手のように
入れてくるところをご存じないでしょうか。
ここ数ヶ月のNHKラジオ(番組名失念しました。
音の風景かもしれません)で聞いたと思うのですが。
ご存じの方がいらっしゃいましたら、詳細をお教えください。
大日如来の菩薩モードが般若菩薩なの?
472 :
神も仏も名無しさん:2011/09/07(水) 22:20:06.33 ID:ncWMB+IX
無色界へのアクセスは禅定のみでしょうか
474 :
神も仏も名無しさん:2011/09/08(木) 08:01:19.58 ID:wYXR2L6I
心が色界心または無色界心になる状態を禅定と呼ぶのでしょうね。
☆ ウィキペディア参照 ☆
禅定(サンスクリット:dhyaana、パーリ語:jhaana)
心を統一して瞑想し、真理を観察すること。
またそれによって心身ともに動揺することがなくなった、安定した状態を指す。
坐禅や止観の止行であるサマタ瞑想で禅定を得ようとする。
仏教においては、涅槃に至るために禅定に勤しむ教派が多く、
禅定を得る止行に対して、観行も重視される。
サンスクリット語の dhyaana の音写である「禅」と、
その意訳した「定」の複合語で、三昧と同義語である。
また、禅定によって心を乱されない力を定力または禅定力と呼ぶ。
☆ ウィキペディア参照 ☆
三十七菩提分法(三十七道品)
中阿含経などに説かれた、仏教で
悟りに至るための三十七の修行法
四如意足(四神足) 四つの自在力
◎欲(すぐれた瞑想を得ようと願う)
◎精進(すぐれた瞑想を得ようと努力する)
◎念(すぐれた瞑想を得ようと心を集中する)
◎思惟(すぐれた瞑想を得ようと智慧をもって思惟観察する)
檀家になっているお寺のご住職の跡継ぎである息子さんに対する正しい敬称を教えてください。
宗派は真言宗でその方はすでに僧侶の資格をもっていますが副住職としては認められていません。
478 :
神も仏も名無しさん:2011/09/08(木) 22:54:16.53 ID:R/BvxBmF
479 :
神も仏も名無しさん:2011/09/08(木) 23:07:09.25 ID:wYXR2L6I
>>477 関西なら「おっさん」でいいが、
名前(姓)で「さん」と呼べばいいとおもいます。
変な(呼ばれ慣れていない)呼び方されると、
呼ばれたほうも戸惑うというか、照れるし。
480 :
神も仏も名無しさん:2011/09/08(木) 23:17:23.52 ID:iT37c2kW
>>477 若和尚、新命和尚、○○(僧名)和尚、○○(僧名)さん、
おっさま、おっさん、・・・(中部から西?)
ってとこかな。
副住にでもなってれば、また呼び方のバリエーションもあるんだけど・・・。
そうしたら、師匠・父親を、老僧、御老僧、としておいて、若住職、新命住職、新住職等と言ってしまってもいい。
>>479-480 ありがとうございます。
お寺は東京でその方はまだ20台なのでおっさん、おっさまはさすがに厳しいので名前+和尚と呼びかけることにします。
482 :
神も仏も名無しさん:2011/09/09(金) 08:01:25.26 ID:Asq49YGJ
>>481 関西では20代でも「おっさん」と呼ばれたりします。
>>481 いやいやいやw
「おっさん.」と言うのは、中年男性の事じゃなくて、「御主様」がなまった言葉ですよw
(おんしゅさま→おじゅっさま→おっさま→おっさん)
僧侶の呼称は、宗派、地域、本人の位などによって、千差万別で一概に言うのは難しすぎます。
一番いいのは、現住職にズバリ「息子さんはなんとお呼びすればいいんでしょうか?」と聞いてしまう事です。
(本人だと、謙遜して「呼び捨てで結構です」なんて言われてしまう可能性がありますからね)
聞くのが面倒であれば、
>>479のおっしゃるように、一般社会の常識的呼称として、名前(姓)で「さん」とお呼びするのが無難だとおもいます。
お世辞交じりに、シレっと「副住職」と呼んでしまうのも、アリですね。
蛇足ですが、和尚を真言宗では「わじょう」と読みます。
「おしょう」とよぶのは、浄土宗・臨済宗系ですね。
>>482 おじさんのおっさんでなく、おっしょうさんを縮めて、おっさんなのですねね。
>>483 そういうことでしたか。
自分の無知がはずかしい。
ありがとうございました。
486 :
神も仏も名無しさん:2011/09/09(金) 12:37:33.62 ID:Asq49YGJ
「おっさん」のイントネーションは、「コットン」と同じです。
487 :
神も仏も名無しさん:2011/09/09(金) 12:39:06.02 ID:Asq49YGJ
>>484 「おっさん」のイントネーションは、「コットン」と同じです。
488 :
神も仏も名無しさん:2011/09/10(土) 00:00:31.87 ID:BQYb0zAX
☆ ウィキペディア参照 ☆
無所有処
無色界の(下から数えて)第3天
空は無辺なりと観じて
空を破した人が
さらに識が三世(過去・現在・未来)にわたって無辺であるを厭(いと)い
所縁共に所有なしと観じ、この行力に依って生まるる処であるから
無所有処地という
『いかなるものもそこに存在しない』という
『心の働きに到達する為の』禅定(瞑想)技法
☆ ウィキペディア参照 ☆
非想非非想処
有(Bhava=存在)の頂(agra)を意味しており
三界(上から無色界・色界・欲界)のうち
無色界の最高の処(ところ)
『想うこともなく想わないこともない』という
『心の働きに到達する為の』禅定(瞑想)技法
491 :
>゜) ◆ICmsExp9cY :2011/09/12(月) 18:28:05.80 ID:q4QnfAJA
492 :
神も仏も名無しさん:2011/09/12(月) 19:14:35.77 ID:ix3UZKfb
刹那滅というのは無から有が生じ、有が滅して無となりを繰り返すってことですかね。
つまり原因なく結果が生じるってことですか。
いくら凡人が無色界だの禅定だのほざいたところで
悟りには程遠いし
生きてる間にさとりに達する見込みなど無い
はっきり言って無い
絶望的なまでにない
よって宗教、ひいては仏教では人はしあわせにはなれない
ブッダがわがままであったのはおそらく事実だろうし、弟子たちの愚かさを文献上観察するに
たいしたこたあない
なにか良い宗教はないですか?という質問の答えは
仏教はディスられてるが
「華厳経」を学び実践すれば、少しは目の前が明るくなる程度のはなしで
これとて決定打たりえない
どうせ人間死ぬんです
あなたは、あなたの人生をもっとおおらかに、もっと楽しく生きるべきです
仏教議論スレッドにいるような馬鹿者など相手にしない方がよろしい
少なくとも僕は他人の不幸(例えば、福島の地震、原発)など興味はさらさら有りません
助けようともおもいません
しょせん他人事ですから
以前は自分がしあわせなら他者への共感が生じるはずだと信じていました
ところがどうでしょう?自分はしあわせを手にいれた!
ますます他人の不幸は「蜜の味」になりました
無から有が生じる
バカですか?
495 :
神も仏も名無しさん:2011/09/12(月) 21:37:07.45 ID:gZXbjDJY
>>492 違います。無常を言い換えたといえばわかるでしょうか?
X として縁起するのは常に瞬間であるという意味です。
因とも果とも仮設されるものがありますよ。
よく言われる喩えは、河は同じ河として認識されるけど同じ水ではないといったかんじです。
496 :
神も仏も名無しさん:2011/09/12(月) 22:39:03.22 ID:ix3UZKfb
>>495 ありがとうございます。
結果は無因ではないが原因が実在するわけでもない。なので元素が集合離散するアトミズムでもないと。
無因か有因かという常識的な二分別思考だととらえようがないといった所ですね。
497 :
神も仏も名無しさん:2011/09/12(月) 23:32:36.61 ID:gZXbjDJY
>>496 そうです。アトミズム的な縁起・因果解釈が部派仏教によって行われましたが、
それは方便説です。
セツナ滅も、本来の縁起を認識アトミズムで解釈したものなので、本来の縁起の方便説です。
本来は、『中論』や『因縁心論』『入中論』などに説かれる通りです。
>>493 国書刊行会・刊の六十華厳の翻訳に欠陥があるなら
具体的にどこがどのように問題があるのか
お教えください。
499 :
神も仏も名無しさん:2011/09/13(火) 11:36:28.24 ID:1rtxxnrM
>>497 ありがとうございました。ヘーゲルの生成の概念も否定する思想ですね。
500 :
神も仏も名無しさん:2011/09/13(火) 14:42:13.46 ID:60MxCuLQ
>>499 思想ではありません。「こういう思想なんだ」と掴んでしまっては中観の意味がありません。
そういう見方、掴みを全て手放して、鎮まった境地に導くための道です。
でも、お前はちっとも鎮まった境地にはいない
しょせん凡夫
食って、飲んで、糞を垂れるアフォ
死ね
☆ ウィキペディア参照 ☆
空無辺処(くうむへんしょ)
無色界の(下から数えて)第1天
無量空処(むりょうくうしょ)とも言う
物質的存在がまったく無い空間の無限性についての三昧の境地
物的存在たるこの肉体を厭い
無辺の虚空の自在を欣び
空無辺の理(ことわり)を解し
修行して生ずる処である
欲界と色界とにおける一切の物質的な形を離れ
一切の作意のない、無辺の空を観じる禅定
形のあるこの肉体を厭い
大空は無限であることを達観すること
無色界には空間的な場所はないが
果報の違いに依って感じるので「処」と名付ける
− − −
『無辺の空を観じる』禅定(瞑想)によって
『空無辺処(くうむへんしょ)』に到達することができる
503 :
>゜) ◆??? :2011/09/13(火) 22:59:04.53 ID:ST1YKagD
504 :
神も仏も名無しさん:2011/09/14(水) 02:00:07.93 ID:qSnixc51
>>502 壁を手押しているときに壁がなくなったら、手は壁を求めて前へ進む。
そのときは、一瞬にして手の前に空間が生じたようなもの。
色界禅定で物質的刺激に眼耳鼻舌身のセンサーが集中してるときに、
急に物質的刺激がなくなり無色界に入ったら、
センサーは、刺激をもとめてもぶちあたる刺激の壁をみつけられない、
つまり、はてしない空間が生じたような感じになるのではないだろうか。
505 :
絶対神:2011/09/14(水) 02:05:11.45 ID:DLCZotDz
で、結局、縁起の理法というものが役に立つのも
原因から結果を見事に予測できて、不幸とか苦を避ける事ができるからで
「はっきり言って、現実がその通りにならないものだから仏教の教説も
段々複雑になっていって」
『事実上、縁起の理法なんて教説はあってもなくても大して意味のない
教説になってしまっている』
という事に気づいていないところが不思議
仏教って結局、言葉遊び、観念論でしかないんだよね
506 :
神も仏も名無しさん:2011/09/14(水) 08:03:26.36 ID:qSnixc51
>>505 まぁしかし、良くも悪くも言葉が人の感情を動かすことはある。
『 仏教経典を読んだこともない 』のに
『 仏教を(バラモンなども含めて)勉強したこともない 』のに
『 無辺の空を観じる 』禅定(瞑想)を、おこなった事も無いのに
『 仏教は、言葉遊びの観念論である 』と
『 頭ごなしの概念によって決め付けている 』
508 :
>゜) ◆??? :2011/09/14(水) 17:47:06.59 ID:4Bj4/+ed
509 :
神も仏も名無しさん:2011/09/15(木) 14:22:37.01 ID:bAGT5ofT
平田文昌堂の「眞言諸經要集 平かな付」収録の理趣経で、
梵字のところに「口に出して発音してはいけない
口の中で唱えるように」という感じの但し書きがありました。
これはどういう意味なのですか?
お坊さんのような資格のある人のみが梵字を発音することができるということでしょうか。
☆ ウィキペディア参照 ☆
真言(しんごん)、サンスクリット語−マントラ(mantra)
大日経などの密教経典に由来し
真実の言葉という意味で
それを転じて仏の言葉をいう
真言は音が重要であることから
翻訳せず音写を用いる
漢訳では呪、明呪と訳される
真言は密教成立以前から用いられており
古代インドから効能がある呪文として重視されてきた
真言を唱えることで
発願を仏に直接働きかけることができるとされている
真言宗では
心で仏を想い、手で印を結び、三返ないし七返声で唱える(三密)
般若心経の最後にある
『 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 』も真言であり
浄土真宗などを除く多くの宗派で読まれている
法相宗では薬師如来への発願で頻繁に唱えられる
真言にはそれぞれ出典となる経が存在するが
同じ密教経典でも成立の過程が異なる
大日経(胎蔵界)と金剛頂経(金剛界)では、真言が異なる
例えば大日如来の真言を唱える場合は、両界の真言を連続して唱える
511 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/09/16(金) 00:02:36.00 ID:B5Okwc2H
>>509 真言はマントラムですから、
通常、サンスクリット語の発声によるバイブレーションによる効果に
主眼が置かれているかのように思われますが、
真言密教では「五種念誦」といって、
声に出さない念誦法をより高度なものとしているらしいです。
口を閉じて舌先を動かして唱える「金剛念誦」、
更に、舌先すら動かさない心の中での念誦や、
口から出る真言が光明と化すよう観想する念誦などもあります。
512 :
神も仏も名無しさん:2011/09/16(金) 02:12:10.84 ID:le/s94fc
仏教の縁起の法則ってのはクリスチャンが考えるとはまるで違うぞ
クリスチャンは全ての原因を神に求めるが仏教徒は心に求める。
神の存在すら人間の心が生み出したと言うのである。
☆ ウィキペディア参照 ☆
瑜伽行唯識学派
瑜伽(ヨーガ)の実践の中に唯識の体験を獲得して、教理にまとめた
とりあえず心(識)だけは仮に存在すると考え
深層意識の阿頼耶識が
自分の意識も
外界にあると認識されるものも生み出していると考え(唯識無境)
最終的には阿羅耶識もまた空であるとする(境識倶泯)
− − −
仏教の、南伝も、北伝も、チベット伝も
『仏教は、心の働きを、取り扱うものである』
『仏教は、心の働きの、変容によって、解脱に向かうものである』
514 :
>゜) ◆??? :2011/09/16(金) 03:23:13.10 ID:ny7DJkum
515 :
神も仏も名無しさん:2011/09/17(土) 21:15:32.29 ID:mzXRtifQ
空じる ←くうじる、って読むの?
517 :
神も仏も名無しさん:2011/09/22(木) 06:42:13.90 ID:33VywSp9
>>516 高い確率でそう。
他の読みの可能性は極めて低いが、日本語の場合、読みは文脈で決定するので、
別の読みの可能性も否定できない。
なので、読みにしろ、意味にしろ質問する時は、文脈が分かるような文を挙げた方がいいよ〜
518 :
神も仏も名無しさん:2011/09/25(日) 19:11:23.47 ID:lzU42rQt
☆ ウィキペディア参照 ☆
夜叉(暴悪・捷疾鬼・威徳、別名薬叉)
大乗仏典以降
夜叉はその鬼神としての残虐な性格が強調されることとなり
恐ろしい地獄の獄卒とも見られるようになった
だが、同時に薬師如来の十六大薬叉大将や釈迦八部衆の一に数えられ
仏法の守護者としての性格も保持したまま現在に至っている
現在も人殺しや非道な行いをする者を夜叉と形容することから
日本においても夜叉という言葉自体には
インド神話における本来の悪鬼という性格が色濃く残っていることがわかる
この現象世界の宇宙は大日如来の中にあるの?
521 :
神も仏も名無しさん:2011/09/28(水) 00:07:31.80 ID:l3jp0pBB
道元の、「学道の人、須らく寸陰を惜しむべし。
露命、消え易し、時光、速やかに移る。
寸暇を惜しみ、余事に管することなかれ。」
の意味をわかりやく教えて下さい。
522 :
神も仏も名無しさん:2011/09/28(水) 00:13:24.31 ID:XJUDLDIK
仏道を歩む人は、わずかな時間も無駄にしたらダメよ。
命ってのは、儚いものよ。時はどんどん、過ぎてっちゃうよ。
わずかな時間でも、無駄にしないで仏道を歩みなさい。
余計なことに気をとられてる暇なんてないよ。
こんなとこじゃねえ?
仏教徒じゃないから、違ってたらゴメンねwwwww
523 :
神も仏も名無しさん:2011/09/28(水) 12:41:03.17 ID:CedE0qlN
>>520 大日如来を信じる人にとってはそうですが、
仏教全般にそう信じてるわけではないです。
宇宙が大日如来の中にあるとしたら、
宇宙は、生命は、仏教的に善い方向に向かっているはずだ、
という考え方になるので、宇宙の在り方をポジティブに受けとることになるかも。。
>>521 正法眼蔵は二重構造なっていて、意味の違う一節があったりする。
例えば
「仏道といふ道はない、ただ足跡だけが残るだけである」。とか
また、
「この部分は読み流していい」。とか、わざわざ前振りしている箇所もある。
随筆的に書かれた箇所でして、これは信徒向けのもので、そういう箇所は飛ばしていいかも知れません。
525 :
>゜) ◆??? :2011/10/01(土) 23:24:23.05 ID:aFgsNqkz
526 :
神も仏も名無しさん:2011/10/02(日) 01:31:05.78 ID:ownNuj4N
528 :
神も仏も名無しさん:2011/10/02(日) 10:30:38.28 ID:iaYvZk9N
>>526 私はテーラワーダを尊敬していますが、その方たちはあまり尊敬できません。
そこで述べられている説には、いろいろ問題がありますが、中心的な問題だけ指摘しておきます。
まず、彼らは一切智の仏と、アルハットを同一視していますが、そこが問題です。
大乗でもアルハットや菩薩の覚りは女性でも可能ですが、一切智の仏になることは女体はもちろん、
男の身体でも、特別な三十二相八十種好を備えた身体でないと無理と言っています。
この一切智の仏を得るためには、福徳と智慧の資糧を膨大に積まなければなりません。
そのために大乗では小乗の行法以外に、菩提心を起こし、一切智への誓願を立て、あらゆる有情が悟るまで
涅槃せず、菩提行を続けることが行われるわけです。この点が大きな行の違いです。
『般若心経』で三十七菩提分法は否定されない。と言ってますが、大きな誤解です。
空というのは、別に否定しているわけではありません。三十七菩提分法も空です。
それは道諦が空とされている点に含まれると考えます。
また、始めに是諸法空相と説かれているので、そこに確実に含まれています。
なぜ、このような誤解が生まれるのかというと、空性の理解が異なるからです。
大乗では諸法は縁起するもので、それは必ず空性で仮設されたものであるという立場です。
ですが、このように理解できず、空というと何か否定して、無いという意味であると解釈しているからと思われます。
確かに、空は欠く、無いという意味の文脈もありますが、上では縁起・空・仮設です。
でないと、色即是空はいいとして、空即是色が理解できないでしょう。
実際、彼らは理解できていません。
魔事品では、般若ハラミツが理解できないものが坐を立つというのは、
上のような空性が理解できず、アビダルマ的な法有の立場が真実であるという方、
また、一切智を求めて気の遠くなるような利他行に恐れをなしてアルハットの境地で涅槃してしまう。
そういう方への教えとなっていると思われます。
529 :
神も仏も名無しさん:2011/10/02(日) 21:58:18.86 ID:sedSDCJp
>>528 >大乗でもアルハットや菩薩の覚りは女性でも可能ですが、一切智の仏になることは女体はもちろん、
>男の身体でも、特別な三十二相八十種好を備えた身体でないと無理と言っています。
仏陀になるための条件に体の形が含まれるのはなぜなのでしょうか。
ふつうの聖者から仏になるための行法に必要ということでしょうか。
「三十二相八十種好」は成仏後に肉体が変化するのではなく、
なる前からあらかじめそうなっているということでしょうか。
その場合、釈迦は何歳ごろからその身体的特徴が現れていたのでしょう。
出産直後には既に歯が40本あったのでしょうか。
530 :
神も仏も名無しさん:2011/10/03(月) 07:48:00.03 ID:Sl3ZYBXA
>>529 そのなぜかという問いには、仏以外には答えられないとされます。
なぜなら、それは業の結果、そうなっているからです。
つまり、気の遠くなるような天文学的な期間に生まれ変わり死に変わりして、
積まれた資糧の結果そうなることになっているとされます。
この行は、発菩提心に基づく菩薩行です。この菩薩行があるかないかで、仏かアルハットかの違いがでます。
パーリ・ニカーヤにもジャータカが収められていますが、パーリに伝統ではジャータカに説かれる発心、菩薩行がよく理解されてないようです。
ですが、現在ではテーラワーダの僧でもアルハットを選択せず、菩薩行を歩む僧がいらっしゃるそうです。
始めからあったとされます。これはパーリ『大譬喩経』に明解に説かれています。
『スッタニパータ』中村訳121頁では成仏後の話ですが、説かれています。
『ミリンダ王の問い』『清浄道論』でも説かれています。
もちろん、大乗経典でも同じです。
531 :
神も仏も名無しさん:2011/10/03(月) 08:27:09.47 ID:ASyQb4pk
ありがとうございます
アルハットの境地で涅槃すると問題がある、ということは
如来や菩薩と違ってアルハットはもう六道の世界にタッチできないということでしょうか。
(阿羅漢が浄土や補陀落みたいな自身の領域を持って活動しているという話を聞いたことがないような)
だから衆生を救済することもできない。
なので阿羅漢としてでなく、如来として涅槃するためにも大乗で頑張るべきであると。
532 :
神も仏も名無しさん:2011/10/03(月) 09:24:12.72 ID:Sl3ZYBXA
>>531 そうです。アルハットと如来では違うというのはパーリ・ニカーヤでも暗示的に説かれています。
その一つが、三十二相です。他にも一切智などがあります。
一切智を獲得するために、他の有情一切を輪廻から解脱させるために菩薩行を行うという菩提心を起こして、
ずっと生まれ変わり死に変わって利他行を行った結果、未来に如来になるのが大乗です。
仏教は、経証の二つの法にまとめられます。
経は経律論の三蔵。証は戒定慧の三学です。
この点は、大乗も小乗も共通です。
大乗では三学に、発心、利他行、誓願廻向が加えられる点が大きく異なる点だと思われます。
また、小乗では道を基本的に一つか二つのパターンに固定してしまいました。
これによって非常に簡明で理解しやすく、整合性がとれて合理的に見えます。
これに対して大乗では、そのような三十七菩提分法のような道も、やる人はやりますが、
もっとひとそれぞれの方便の多様性があります。念仏や布施、果てはマニ車までなんでもありです。
これは一見、不合理で矛盾するように見えますが、広く空性に基づいた理解で見れば大変合理的です。
☆ ウィキペディア参照 ☆
三十七菩提分法(三十七道品)
中阿含経などに説かれた、仏教で
悟りに至るための三十七の修行法
四如意足(四神足) 四つの自在力
◎欲(すぐれた瞑想を得ようと願う)
◎精進(すぐれた瞑想を得ようと努力する)
◎念(すぐれた瞑想を得ようと心を集中する)
◎思惟(すぐれた瞑想を得ようと智慧をもって思惟観察する)
☆ ウィキペディア参照 ☆
空無辺処(くうむへんしょ)
無色界の(下から数えて)第1天
無量空処(むりょうくうしょ)とも言う
物質的存在がまったく無い空間の無限性についての三昧の境地
物的存在たるこの肉体を厭い
無辺の虚空の自在を欣び
空無辺の理(ことわり)を解し
修行して生ずる処である
欲界と色界とにおける一切の物質的な形を離れ
一切の作意のない、無辺の空を観じる禅定
形のあるこの肉体を厭い
大空は無限であることを達観すること
無色界には空間的な場所はないが
果報の違いに依って感じるので「処」と名付ける
− − −
『無辺の空を観じる』禅定(瞑想)によって
『空無辺処(くうむへんしょ)』に到達することができる
大乗系の人でも
『空とは、すなわち無である』
と勘違いしている人は、たくさんいる
と思いますが?
536 :
神も仏も名無しさん:2011/10/03(月) 12:50:03.59 ID:erY1P4Pd
>>528 たとえばあらゆる衆生を救うまで涅槃に入らないという場合の
涅槃とは、無余涅槃のことだと思います。
しかし、浄土経典では、そこがゆがめられて、「不取正覚」という誓願になっちゃった。
本来は、みんなを救うまでは入滅しないぞ、ということだったのが、
みんなを救えるようになるまでは悟らないぞ、というふうになった。
537 :
神も仏も名無しさん:2011/10/03(月) 15:22:54.08 ID:Sl3ZYBXA
>>たとえばあらゆる衆生を救うまで涅槃に入らないという場合の
>>涅槃とは、無余涅槃のことだと思います。
違います。それは無住処涅槃という漢訳が一般的です。
無余涅槃というのは有余涅槃の対義語で、死んで五蘊、業の余力が完全になくなった状態です。
有余涅槃は、逆に涅槃してから死ぬまでの五蘊がまだ在る、業の余力がまだ在る状態です。
>>しかし、浄土経典では、そこがゆがめられて、「不取正覚」という誓願になっちゃった。
>>本来は、みんなを救うまでは入滅しないぞ、ということだったのが、
>>みんなを救えるようになるまでは悟らないぞ、というふうになった。
いえ、歪められたのではなく誓願が異なるだけのことです。
この殊勝な誓願ゆえにアミダ仏は、器根の低い私のようなものにとってありがたいわけです。
>>532 >アルハットと如来では違う
この辺が、「神格化」でなくて何なんだ?と、ワシは思ってるぞw
こういう特別視のし過ぎ自体が好きじゃないしね・・。
違ってもいいけど違い過ぎだろwwwww と。
阿羅漢<仏陀=如来
これならまだ許せるが、
阿羅漢<<<<<越えられない壁<<<<<仏陀=如来
こういうことだろw
そりゃないぜセニョリータw
539 :
神も仏も名無しさん:2011/10/03(月) 17:10:16.37 ID:Knn2N0ys
世界最大の経典は大般若経でいいのでしょうか。
チベットにこれの倍のものが存在していたりしませんか。
テルマとかで。
>>532補w
tp://u3.getuploader.com/bl_radio/download/162/%E4%BB%8F%E3%81%A8%E6%B0%91%E3%82%92%E5%B7%A1%E3%82%8B%E9%96%A2%E4%BF%82%E5%9B%B3.xls
DLP gotama2500
大般若経
夏目雅子さん持ち帰えった奴だろ
542 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/10/03(月) 17:46:48.86 ID:rmNbyFxP
>>530 >そのなぜかという問いには、仏以外には答えられないとされます。
>なぜなら、それは業の結果、そうなっているからです。
>つまり、気の遠くなるような天文学的な期間に生まれ変わり死に変わりして、
>積まれた資糧の結果そうなることになっているとされます。
三十二相、等々など・・・
ただの後世の神格化(聖なる特別視)でしょう。
女性の肉体(及び精神)はホルモン他・・・男性との明確な違いがあり、
種々の理由により男性よりは劣る。正確には劣るのではなくて“不向き”という意味ですが・・・。
神格化など批判すると、その根拠を求めてくるかもしれませんが、
↑ この引用のように三十二相の話(主張)そのものが根拠がなく、
説明不能なものに過ぎない。
経典の記述をすべてそのまま鵜呑みにするは如何かと・・・(=原理主義)。
それが篤き信仰心の顕れであるとは認めますが・・。
>>531 また、涅槃に入ったら救済活動はしない・・・・
といった言い方も非常に不適ですね。
正しくは自ら直接、救世の活動をされている諸仏とそうではない諸仏がいる、
という意味に過ぎないから。
543 :
神も仏も名無しさん:2011/10/03(月) 18:05:45.44 ID:Knn2N0ys
仏弟子ら阿羅漢は今頃どうなっているのでしょう。
どこかの浄土で暮らしてる(下界には干渉できないので浄土内でいろいろしてるだけ)。
それとも輪廻を脱した後は、全宇宙・世界のどこからも消失(消滅)してしまったのでしょうか。
例えば
この世界すべてが
輪廻(前世から)の業(カルマ)によるもの
だと仮定した場合は
この世界(全宇宙も含めて)のどこからも
解脱した状態である
と思いますが?
瑜伽行唯識派などの場合は
瑜伽(ヨガ)の実践の中に唯識の体験を獲得、教理にまとめて
とりあえず心(識)だけは仮に存在すると考え
深層意識の阿頼耶識が自分の意識も
外界にあると認識されるものも生み出していると考え(唯識無境)
最終的には阿羅耶識もまた空であるとする(境識倶泯)
− − −
『全宇宙・世界のどこもすべて』
仮に存在すると考えられている
阿頼耶識によって認識されている
という概念も、あるようで、ございます
結局
南伝も、北伝も、チベット伝も
『禅定(瞑想)によって、この輪廻の世界から解脱せよ』
という事である
と思います
547 :
>゜) ◆??? :2011/10/03(月) 19:36:12.92 ID:+RRYKb2y
548 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/10/04(火) 08:11:02.72 ID:ZCR86Db8
>>542 追記:
>釈迦は何歳ごろからその身体的特徴が現れていたのでしょう。
>出産直後には既に歯が40本あったのでしょうか。
>>529 *解脱して仏陀になったら、歯が追加で8本出てくる?
*あらかじめ仏陀となるべく約束された人間は、最初から40本生え揃う?
そんな馬鹿げた話は有得ませんね・・・(苦笑)。
何の意味もないこと。
ゴータマの教え方(そのご性格)からみて、
このお方の迷信排除の強い姿勢は明らかなこと。
当時のゴータマに、「解脱した如来の特徴とは何か?」と質問して、
肉体的特長(しかも、通常では有得ないような異常な差異的特長)を上げられることなどは考え難いこと。
きっと、「肉体的特長で以って如来を探そうなどとしたところで、
そのような方法では決して見つけることはできない」というでしょうね。
これらの迷信にすがる姿勢は辞めるようにしないと、
益々、現代人に愛想をつかされ呆れられること間違いなし。
仏典は方便と象徴的比喩、
そして後代の加筆による神格化が含まれることを十分に考慮して読むべきです。
549 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/10/04(火) 08:23:08.80 ID:ZCR86Db8
>>543 >仏弟子ら阿羅漢は今頃どうなっているのでしょう。
とうの昔に完成された如来となっていて、
各自、それぞれの担当任務に就いています。
>それとも輪廻を脱した後は、全宇宙・世界のどこからも消失(消滅)してしまったのでしょうか。
仏教語の羅列というのは煙に巻くごとく物事を不明確で曖昧にします。
ですから、現代普通語で説明できるようになるべきです。
解脱とは消滅ではなくて、自己の意識の変成と拡大であり、
物質現象界の制約から解放され自在を得ることです。
当然、物質に対するコントロールの能力の獲得します。
解脱完成者は通常、我々の認知できるところにはおりませんが、
消えたのではなくて、しっかりと永劫において存在(実在)しています。
・・・といった簡単な説明すらも、
伝統仏教者たちは語ることができない。
550 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/10/04(火) 08:26:20.91 ID:ZCR86Db8
>>549 訂正:
×「能力の獲得します」
○「能力も獲得します」
>>544 よくそういう話は聞きます。
私は無知でよく分かりませんけど、
つまり解脱というのは、カルマの制約から“脱する”と解釈していいのですか?
悟ると解脱する。と言いますね。
そうすると、悟った瞬間に、もうカルマの制約は受けなくなるのですか?
私はそこをお聞きしたい。
>>543 >>549 >とうの昔に完成された如来となっていて、各自、それぞれの担当任務に就いて
などということは、『仏教では説きません』ので御注意をw
そういうことを言うのは、他の(怪しいw)宗教だと思っていただいて構いません。
《「解脱者のその後」は知り得ない》(→無記、或いは不可知・不可思・深深微妙な事柄、或いは仏陀・如来のみ知り得ること)
等とするのが、正統解釈の伝承です。
553 :
神も仏も名無しさん:2011/10/04(火) 12:52:06.13 ID:WLUwCgzs
>>551 カルマがアクセルだとすると、悟ったら新たにアクセルをふむことはないが、
アクセルはなしてもゆるやかに停止するまで走り続ける。
554 :
神も仏も名無しさん:2011/10/04(火) 12:55:39.28 ID:WLUwCgzs
寝たきりになった人が寝たきりになったあと悟ったとしても、
チューブで栄養補給されてるのは過去の業の結果。
業(この世にむすびつけ生かす縁)がつきるまでは、生かされてしまう。
>>553 なるほど、つまりカルマとは人間がどうにでも操作することが可能なんですね。
それじゃ〜安心しました。
私もカルマの操作手順を勉強しとうごじゃりまする。
ありがとうございます。
>>556 そこまで厳密に「アクセル」の機能を求めるなよwww
>>553『 >アクセルだとしたら 』という仮置きなんだから。
確かに、踏み込んだり弱めたりで速度調整・回転数調整をするためのペダルだが、
後半での説明によって、「踏んで、前進の力を出す・生じさせるもの」という位置付けだろ?
だから、「アクセルを踏まない」→「新たな(悪)業を積まない」という譬喩だと解らんか?w
うんブレーキをかけても
停止するまで57億年かかるね
559 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/10/05(水) 06:22:13.65 ID:/N9LbIFh
>>552 なんだそうです(苦笑)^^
クレームがついたので・・・トホホm(__)m
仏教(正統解釈)では、
「解脱者のその後は知り得ない」とのこと。
尚、私の知る“(怪しいw)宗教”ならば、もっと具体的かつ明確に説明できます。
(----望む者には推奨できますよぉ)
560 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/10/05(水) 06:23:35.95 ID:/N9LbIFh
>>559 そ。
だから私は、ちょいと不確実なこと、確証取れてないmyオピニオンは
なるべく、「個人的には、――と思う・考えるけど」と言うことにしてるよw
(常に必ず、というわけにもなってないけど・・w)
>>557 そうですか、なるほど。
私は「解脱した状態」と書いてあるから、もっとインパクトがある状態かと思いましたよ。
突っ込んで話を聞くと、解脱しても解脱しなくても、
悪行を積まなければ良いんですね。
私は、こう言ってはなんですけど、
悪行はあまり積んどらんから、実質的には解脱した状態になってるんでしょうね。
これで安心して眠れそうです。
ありがとうごじゃりました。
563 :
神も仏も名無しさん:2011/10/05(水) 09:12:47.86 ID:yJcIzwEZ
>>559 相変わらず将棋の話をしてるのにチェスではこうですみたいなこと言ってるね。
神智学で仏教を断定するのって、幸福の科学で仏教やキリスト教を断定するようなもんだっていい加減分かってくれないかな。
きっちり裏とってないけど、神智学で人間にしか輪廻しないってのはキリスト教的な発想、
神は人と動物を別なものとして造られた、とかいった発想に引き摺られているように思うよ。
いずれにしろ、仏教では輪廻といえば、神にも人にも動物にも餓鬼にも生まれ変わる。
解脱者、涅槃者、つまり、如来の死後は無記、なのが、あらゆる仏教を通じて認知されていること。
もちろん、得意な例外はあるでしょうが、それはもはや新興宗教か仏教を逸脱した別のものでしょう。
正に神智学やアーベンドカール仏教や幸福の科学のように
564 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/10/05(水) 09:54:45.30 ID:/N9LbIFh
>>563 >いずれにしろ、仏教では輪廻といえば、神にも人にも動物にも餓鬼にも生まれ変わる。
>解脱者、涅槃者、つまり、如来の死後は無記、なのが、あらゆる仏教を通じて認知されていること。
これらの方便(つまり、悪事を働くと動物にも生れるという脅しと、
及び、善行の功徳によって動物が人間にも生まれ変われるといった道徳の教育)も、
また仏教として説かれているといえば、確かにその通りでしょう。
むろん承知しています。
誤解があるようです・・・
動物には動物の輪廻があります。
私が否定してるは、「人間←→動物間」の転生です。
人-餓鬼-神の中の輪廻については特に問題なし。
神智学徒は、輪廻の法則の意味と理由を知っているから、
「人間←→動物間」の転生がないことも説明ができます。
しかし、あなた方には輪廻の理由は判らない。その違いです。
>神は人と動物を別なものとして造られた、とかいった発想に引き摺られているように思うよ。
彼ら(クリスチャンなど)とゴッチャにしないで下さい。人間も動物から進化してきたです(肉体的には・・・)。
しかし、その後に進化のドアは閉ざされました。以降、動物界から人間に進化できる種は出現できません
(これから先も)。転生も進化の法則に沿ったものであり、意識の進化を促すためのものです。
人間としての悪業の報いとしての地獄・餓鬼・畜生道はありますが、
これは動物に転生していくことではありません。もちろん逆もない。
>仏教を逸脱した別のものでしょう。
ですね・・。
仏教は迷信(及び方便を多々)を含みますから。
*私も、「これが仏教である」という言い方はしないようにします。
565 :
昔の人も(ry:2011/10/05(水) 10:00:52.54 ID:9fhE+lU8
仏教議論スレッドに移りませんか?
566 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/10/05(水) 10:02:53.08 ID:/N9LbIFh
追記:
動物たちに「善悪」の認識ができない以上は、
人間からの動物への転生は在り得ません。
(何故なら、動物の善行などは存在しないから。ウサギが身を犠牲にして食べられる、
ということは起こり得ない創作です。
こういう話は、聞く人に感動を与えて道徳的に訴える教育手法ということ)
567 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/10/05(水) 10:04:18.49 ID:/N9LbIFh
>>565 どうも失礼!!
話はこれで終わりです。
568 :
神も仏も名無しさん:2011/10/05(水) 12:55:29.58 ID:Q2OHLK3J
>>562 有身見・戒禁取・疑・欲貪・瞋恚・色貪・無色貪・掉挙・慢・無明の
10種類の煩悩すべてがなくならないと、アクセルを完全に放すことにはなりません。
善行為しか行っていない神様がいたとしても、
色貪・無色貪という禅定への執着とか、慢(プライド)とか、生きることへの渇愛はあるかも。
569 :
>゜) ◆??? :2011/10/05(水) 16:57:01.70 ID:DXm81aPb
>>568 >10種類の煩悩すべてがなくならないと
なるほど、よく分かりました。
煩悩がなくなるなんて私には所詮無理です。
煩悩がないと世の中楽しくないですからね。
煩悩がない人生など、クリープを入れないコーヒーと同じじゃないですか?
いや、申し訳ありません。
いろいろ勉強になりました。
有身見・戒禁取・疑・欲貪・瞋恚・色貪・無色貪・掉挙・慢・無明などの
煩悩を滅尽する為に
無所有処(むしょうしょ)
非想非非想処(ひそうひひそうしょ)などの
禅定(瞑想)法がある
と思うのですが?
スッタニパータ 972
…瞑想に専念して
大いに目覚めておれ
心を平静にして
精神の安定をたもち
思いわずらいと
欲のねがいと
悔恨を断ち切れ
>>571>>572 煩悩を滅尽する。というのはよく分かります。
滅尽した後、滅尽しっぱなしじゃとても私には到底無理、と書いたのです。
いや、失礼いたしました。
しかし本当に滅尽しっぱなしな人はいるのでしょうか?
私のはこういう世界はどうも理解し難い。
アタマが混乱しまして、私は煩悩肥大になったかもしれんですね。
申し訳ありません。
574 :
神も仏も名無しさん:2011/10/05(水) 23:27:33.83 ID:nrapdSud
空海が蝦夷をさして
「羅刹のたぐひにして人のともがらにあらず」と書いたのは本当ですか?
メディアワークス『天皇の伝説』沖浦和光「聖と賎の歴史学」199ページに書いてありました。
575 :
神も仏も名無しさん:2011/10/05(水) 23:47:09.46 ID:Q2OHLK3J
>>571 そのような禅定は、無色界の心の禅定だそうですが、
無色界の禅定は、お釈迦様も出家最初当初に弟子入りした二人の仙人から学び、
マスターしましたが、無色界の禅定では悟れなかったようです。
お釈迦様が悟ったときは、無色界ほどに禅定が深くない色界の禅定
のときだと、テーラワーダ仏教では言うようです。
深すぎる禅定の中にイッちゃうと、苦・無常・無我に気付くために必要な観察ができない。
禅定が深すぎると、観察対象も自分もなくなっちゃうわけですから、
執着を消して煩悩をなくすための訓練にはならないのだそうです。
禅定に入ってる間は煩悩が休眠しますが、禅定から出たら煩悩は再起動してしまいます。
576 :
神も仏も名無しさん:2011/10/05(水) 23:59:10.49 ID:Q2OHLK3J
>>571 煩悩をなくして覚るのは、生命が先天的にもつ勘違いをなくし、勘違いから目覚めること。
例えば、月明かりに照らされ障子に映った木の影を幽霊だと勘違いしてるとする。
覚ることは、幽霊の正体が木だと見破ること。
「なんだ、木だったのか」と一度わかれば、二度と幽霊への恐怖(煩悩の比喩)は起きない。
しかし、幽霊から目をそらせて歌を歌って必死に気をまぎらわせる(無色界の禅定の喩え)とすると、
歌に集中してる間だけは幽霊のことを忘れられるので、恐怖も一時的に消えるけど、
歌への集中が切れて再び幽霊に気が向けば、恐怖も再び湧いてくる。
空無辺処から非想非非想処までの深すぎる禅定は、歌に集中して幽霊を忘れてるだけ。
色界の禅定の中にで、恐怖の煩悩を抑えて集中し、しっかりと幽霊を観察し、
「なぁーんだ、そうだったのか」と勘違いを破るとき、
初めて、二度と恐怖が起きない境地になる。
577 :
神も仏も名無しさん:2011/10/06(木) 00:20:23.62 ID:Ez4KmiCq
>>573 木の影を幽霊だと勘違いしたままでありながら、
歌に気を向けて幽霊から目をそらせ続けられる人は、いないと思います。
それができる生きものがいるとしたら、それは六道でいう「天」、つまり神様だと思います。
しかし、神様ほどの無尽蔵の集中力で幽霊から目をそらし続ける能力がない人間でも、
幽霊の正体に気付いて勘違いから目覚めれば、二度と恐怖は起きませんよね。
他のことに集中して幽霊から目をそらし続けて恐怖が眠休している神様に対し、
覚った人(ブッダや阿羅漢)は、幽霊に集中して幽霊を観察し、幽霊の正体を見破ったことで、
恐怖を休眠させるのではなく、恐怖が二度と起きないように滅してしまったのです。
578 :
神も仏も名無しさん:2011/10/06(木) 06:03:58.02 ID:lIQVxRgh
>>574 少なくとも私は見たことも聞いたこともありません。
どこで書いていると書かれていますか?
>>575 止、つまり、精神集中では悟れないということです。
止は、ヒンドゥーにもあります。
悟るためには止、四禅の中で観をする必要があります。
これはパーリ『梵網経』以来、仏教の伝統です。
579 :
神も仏も名無しさん:2011/10/06(木) 08:11:13.30 ID:UPOE00li
質問です
心がスーッとなるブッダの言葉 (成美文庫)「第九夜 人生に意味などない」とありますが
【ブッダのことば】スッタニパータ【ダンマパダ】真理のことば<中村 元訳> には
「人生に意味などない」に相当する言葉が分りません。そんなこと一言もいってないのか
どのへんの言葉がそれに相当するかわかる方は教えてください
580 :
神も仏も名無しさん:2011/10/06(木) 08:18:10.80 ID:0N/0cl6i
>>579 >人生に意味などない
釈迦には、そんなことは思い至れなかった。後代の賢い人が、釈迦の見落とし
を補って上げたのだろう。
>>579 著者が、内容を汲み取って付けた(九夜の)「表題」じゃね?
ま、タイトルとしても少々乱暴な(粗い)表現かなという気もするけど。
582 :
神も仏も名無しさん:2011/10/06(木) 08:21:25.69 ID:UPOE00li
>>580 それでは本の題名「心がスーッとなるブッダの言葉」が完璧にウソになってしまいますw
583 :
神も仏も名無しさん:2011/10/06(木) 08:29:41.63 ID:0N/0cl6i
>>582 釈迦にかこつけて、「自分の考え」を述べたのだろう。宗教者とはそんなもので、
またそれでいいのだ。「釈迦は何でも知っている」と思うことこそ誤り。
584 :
神も仏も名無しさん:2011/10/06(木) 08:33:26.26 ID:lIQVxRgh
>>579 その質問だと厳しいですね。最低、「第九夜 人生に意味などない」という意味を、
どんなテキストを根拠に主張されているのか分かるように書いてもらわないと、
その本を読まないと答えられません。
「人生に意味などない」という短文だけだと、人生、意味という言葉をどういう意味で用いているのかも分かりませんし。
585 :
神も仏も名無しさん:2011/10/06(木) 08:39:02.86 ID:ISD+sQkO
そんな根拠書いてなかったような気がする
もっぺん立ち読みしてくるわw
>>577 >幽霊の正体に気付いて勘違いから目覚めれば、二度と恐怖は起きませんよね
暗闇から女人がッポっと出てくると、あれは幽霊と一瞬思ってしまいますね。
昼間に女人が出てくると、一瞬欲情してしまうとか?
>恐怖が二度と起きないように滅してしまったのです
恐怖がなくなれば、欲情もなくなるんじゃないでしょうか?
いやいや、っふとそんなことを思ったものですから。
なんか枯れ木を連想してしまいますね。
・・・こういう状態が、いわゆる涅槃などと言うんでしょうね?
なかなか私には難しくてアタマが混乱しそうです。
いろいろ有難うごじゃります。
588 :
神も仏も名無しさん:2011/10/06(木) 08:57:02.43 ID:lIQVxRgh
>>585 確認しました。確かに書かれています。
ですが、これは仏教でいう野蛮人という意味で、下のリンクのような意味ではないと思います。
仏教でいう野蛮人というのは、人を殺すことに罪悪を感じず逆に喜びを感じるような倫理もない人を指します。
この意味でかなり一般的な表現だと思います。
>>587 横レスですがスッタニパータ、ダンマパダからのブッダの言葉から抜粋
覚りのよすがに心を正しくおさめ、執着なく貪りを捨てるのを喜び、
煩悩を滅ぼし尽くして輝く人は、現世において全く束縛から解きほごされている。
善いことをなす者は、この世で歓喜し、来世でも歓喜しる
善いことが積み重なるのは楽しみである。
われらは大いに楽しく生きよう。
光り輝く神々のように、喜びを食む者となろう
590 :
神も仏も名無しさん:2011/10/06(木) 09:09:22.06 ID:lIQVxRgh
誤解のないよう補足しときます。
野蛮人というのは人種差別ではなく。
倫理のない状態を言っているのであって、
例えば、チベット古代が野蛮人と言われたことや、
仏教伝達以前のシナ南北朝の北方蛮族やモンゴルがそう言われ、
文化、仏教化されてからはそう言われないこと、
あるいはキリスト教化されるまえのヨーロッパ圏の蛮族などが、
そう考えられますが、文化されてからはそうは言われないようにです。
つまり、状態であって人種ではないということです。
591 :
神も仏も名無しさん:2011/10/06(木) 09:22:15.71 ID:ktiAuMIH
>>589 「煩悩」とは、外界の状況に適応して生命を維持するためのソフト。
生きるために不可欠だから、煩悩が存在する。煩悩を滅するとは、
「死ね」ということ。釈迦は、愚かなことを言ったものだ。
なお、スッタニパータとダンマパダとは内容的に全く異なる。
後者は、釈迦の思想ではなく、別人のものではないか。
>>589 > 煩悩を滅ぼし尽くして輝く人は、現世において全く束縛から解きほごされている
なるほど、やはり書いてありましたか。たぶんそうかと思いましたよ。
幽霊の正体に気づいて、勘違いしてても、
あえてそれを承知で、恐怖したり、欲情したり、人生を楽しもうじゃないか。
ってことですね。
煩悩を滅したならば、煩悩を楽しもうじゃないか。
っう〜〜〜ん、納得であります。
593 :
神も仏も名無しさん:2011/10/06(木) 09:36:55.92 ID:lIQVxRgh
>>585 違います。単に死んだだけでは輪廻するから。
死んでも苦は解決しない。
苦を解消するには、輪廻から解脱する必要がある。
解脱するためには、道を歩む必要がある。
釈尊はその道を説かれた。
因みにダムマパダとスッタニパータが違うというのは何故でしょう?
釈尊は、待機説法な道を説くので矛盾するように見えるかもしれませんが、
恐らく誤解でしょう。
釈尊は、思想体系を提示しているのではなく、寂滅にいたるその人に応じた道を説いてるだけです。
パーリ・ニカーヤや、清浄道論は道を固定化して編集している傾向があるので思想体系に見え勝ちですが、
ダムマパダとスッタニパータは、それほど編集されていないので、矛盾して見えるのかも知れません。
それが矛盾しないのは『中論』や『入中論自註』を読むと分かるかもしれません。
☆ ウィキペディア参照 ☆
三十七菩提分法(三十七道品)
中阿含経などに説かれた、仏教で
悟りに至るための三十七の修行法
四如意足(四神足) 四つの自在力
◎欲(すぐれた瞑想を得ようと願う)
◎精進(すぐれた瞑想を得ようと努力する)
◎念(すぐれた瞑想を得ようと心を集中する)
◎思惟(すぐれた瞑想を得ようと智慧をもって思惟観察する)
− − −
『解脱する為には、道を歩む必要がある』
『解脱する為には、三十七菩提分法(三十七道品)が必要である』
という事であると思うのですが?
>>594 >『解脱する為には、三十七菩提分法(三十七道品)が必要である』
「必要がある」ってんだから、いわゆる方法論じゃないんですか?
方法論だから、つまり解脱途上と思いますね。
解脱したら「〇〇となる」ってのも、つまり方法論かと思います。
なかなか難しいこと考えておるようですね。
関心しました。
596 :
神も仏も名無しさん:2011/10/06(木) 12:27:41.83 ID:Ez4KmiCq
>>587 幽霊の話は比喩ですが、つまりは、
眼耳鼻舌身意色声香味触法の刺激は苦である、・心は無常である、・あらゆる概念は無我である、
と見破り、人生に意味はない、執着する値打ちはないと見破ったら、
二度と煩悩が起こらなくなるのではないでしょうか。
それを見破らずにいくら禅定を極めても、禅定に集中している状態の心も無常なんだから、
いつか禅定が途切れてしまい、禅定が途切れたらまた妄想雑念、
欲や怒りや怠けやプライドが、湧いてきてしまうのですね。
597 :
神も仏も名無しさん:2011/10/06(木) 12:35:17.04 ID:Ez4KmiCq
>>579 「人生に意味がない」とは、人生に執着してもしかたない、
執着するほどの価値はない、ということでは?
執着が悩み苦しみの原因であることは仏教全般的に言われています。
生きるとは動くこと、なぜ動くかというと、こっちの苦しみからあっちの苦しみへ飛び移って
苦しみをくりかえして動きつづけてるのです。
息を止めたら苦しい、じゃあ、息を吐き続けたら苦しくなって吸いたくなる、
吸ったら楽な気がするけど吸い続けたら苦しくなる。
こっちの苦しみが大きくなったとき、別の苦しみに乗り移ったら、一瞬楽だと勘違いするが、
乗り移った先も本質は苦であり、それを続けたらまた苦しくなって他へ移りたくなる。
人生はただそれをくりかえしている一連にすぎないのです。
598 :
神も仏も名無しさん:2011/10/06(木) 12:49:20.68 ID:Ez4KmiCq
>>579 空腹の苦しみが大きくなったら、食べたくなる。
しかし、食べることも胃に負担をかけるから本質は苦痛。
だから、食べ続けてたら食べる苦しみが大きくなって、食べるのをやめたくなる。その繰り返し。
立ってたら足が痛いから座りたくなる、座ったらおしり痛いからまた立ちたくなる。
起きてたら眠くて苦しいから寝たくなる、寝てたら腹もへるし起きたくなる、
朝ゆっくりしてたいけど会社へ遅刻が気がかりで苦しいから準備したくなる、
会社行って仕事しつづけてたら疲れて苦しいから帰りたくなる。
エッチの刺激を受けて射精したくなるのも苦しみだけど、
射精したあともエッチを延々と続けるのは苦しいからやめたくなる。
赤ちゃんの泣き声聞いたらストレスで苦しいから母親は世話をしたくなる、
でもずっとつきっきりで世話も苦しいから一休みしたくなる、そのくりかえし。
599 :
神も仏も名無しさん:2011/10/06(木) 12:53:57.19 ID:Ez4KmiCq
瞑想してるとき、耳から音が入力されたら、それに対して脳は何か出力せずにはいられない。
それも苦しみ。音に対して何かを連想せずに完全無視は苦しいから、
「これは鳥の声だ」とか反射的に出力したくなる。
でも、出力しつづけるのも苦しいから、
ずっとその声のことを考え続けず、また違う刺激に気が向く。
それも、こっちの苦しみからあっちの苦しみへ、
心が苦から苦へ逃げ回って反射的に動いてるだけ。
>>596 >二度と煩悩が起こらなくなるのではないでしょうか
なるほど、大体の話の流れが読めてきました。
貴方は煩悩というのを全否定的に捉えていらっしゃるようですね。
勿論それも含んでの話ですが・・
煩悩が二度と起こらなければ、女人にもときめくこともなくなり、
また女人に恐怖することもなくなり、全く無反応の人間になるんじゃないでしょうか?
私は煩悩というのは人間にとって非常に大事なことかと思います。
女人を見れば、あ時は妄想雑念もあるでしょう?
これが無くなってしまうというのは感情を全否定するようなもんじゃないでしょうか?
人間は理性と感情の微妙なバランスにおいて、人間が人間たるゆえん。
かように思うのでございます。
既成煩悩を滅尽して、そして煩悩を否定することもなく、また煩悩を肯定することもなく、
そのマンナカが宜しいんじゃないでしょうか?
なにやら仏教は「中道」とか言ったと記憶にありますが、こういうことなのかな?
それがつまり「解脱」かもしれません。
どうもいろいろ私の持論を書いてしまいましたが申し訳ありません。
大変勉強になりました。
『煩悩を否定するのではなくて、煩悩を滅尽させる』
これが仏道を歩む
という事だと思うのですが?
− − −
表面意識が煩悩を否定しようとする状態と
禅定(瞑想)によって煩悩を完全に滅尽した状態とでは
違いがあると思うのですが?
>>601 禅定というのは、つまり日常性の切断された「非日常性」の追体験のことだから、
非日常性といのは、それ自体が世俗的煩悩が滅尽された状態を意味してるんじゃないでしょうか?
だから「煩悩を滅尽させる」というのが目的になれば、それは即ち「日常性」でしかない。
飯を食うのも禅定ならば、糞をするのも禅定。
飯を食うときや、糞をするときに、煩悩はないと思いますね。
何故なら、飯を食うことや、糞をすることでアタマはそのことで集中しますから。
つまり、煩悩を滅尽した状態は日常性の中に既にあるんじゃないでしょうか?
あえて煩悩を滅尽しなくても、滅尽されてる。
しかし諸行無常、煩悩は滅尽されておっても縁で生起したり生滅したりする。
これが問題なんでしょうね?
>>597 ブッダは589にも書いたとおり、
「執着なく貪りを捨てるのを喜び、煩悩を滅ぼし尽く」すと「輝く人」になると言っています
輝く人生と「人生に意味がない」では大きな隔たりを感じます
「執着するほどの価値はない」と解釈するのも隔たりがあります
執着を捨てると人は輝くと言っています。輝く人は無価値ではないでしょう
一般に日本仏教は一切の感情を捨てて無になることを説いているようですが
ブッダは執着を捨て煩悩を無くすと喜びに到達するんだというのが主旨だと
私はそう読み取りましたw 素直に読むとそうなるはづなんですけどwww
スッタニパータとダンマパダには無感情になれとは書いてなかったように思います
604 :
>゜) ◆??? :2011/10/06(木) 17:59:46.29 ID:4U0JzP0t
605 :
神も仏も名無しさん:2011/10/06(木) 18:50:33.27 ID:DTL0i1/6
しつもん
天部の神々 天界の住人も 私らのように意識があり活動するものですか?
それともただの比喩の存在ですか?
>>582 「心がスーとなる」と「人生に意味はない」が、何ら整合性はない。
と貴方は主張しているのですね?
私は整合性があるかと思います。
逆に考えたら、「人生に意味があった方が心がスーとなる」でしょ?
つまり貴方は、「人生に何らかしかの意味付け」という先入観が先ずアリキですね。
仏教では、「人生の意味」というよりもその前提となる先入観を問題にします。
ならば、
「人生の意味」とは二義的であり、先入観が一義的となるんじゃないでしょうか?
(先入観を無明などと言ったりする)
ですから、結果二義的なものは意味はない。→→→「人生は意味がない」。
となるかと思います。
難しく説明したようですけど、申し訳ありません。
>>605 釈尊が菩提樹の下で悟りを開いたときも、そういった神々が出現しますね。
ここ神々は釈尊の心の動きを説明するのに用いた、いわゆる比喩と
私は解釈しています。
つまり神々は自分の心の内にある。かようなことで宜しいかと思いまふ。
608 :
神も仏も名無しさん:2011/10/06(木) 19:10:01.56 ID:FCUF9vd/
>>605 仏教では実際にいるとされ、我われの様に意識を持ち、
活動すると言われてています。
609 :
605:2011/10/06(木) 19:12:30.24 ID:DTL0i1/6
ご回答ありがとうございます
>>606 単純にスッタニパータとダンマパダ等のブッダの言葉で
「人生に意味はない」という意味に該当するような言葉はないのではないかと思い
それでは本の題名「心がスーッとなるブッダの言葉」が完璧にウソかなということです
ブッダがそんなこと言ったか言わなかったかの問題です
>>610 スッタ二パータ・蛇の章でも、「蛇が脱皮するように」って記述がありますね。
それは「既存の価値観を否定した意味」と解釈していいんじゃないでしょうか?
そういった文脈の流れで行き着くところで、
最終的結論としたのが、総論としての「人生の無意味」と解釈してもオカシクはないですね。
スッタ二パータをどう読見込むか?ってのも、勿論主観が入りますが、
私はスッタニパータとダンマパダは、そのように解釈しております。
解釈の多様性は否定はしませんが・・・
問題は、人生の無意味で、心がスーとなる人と・・・
それでは心がスーとはならない人と・・・
この差かと思います。
ちなみに私は前者です。
>>610 「アプリオリに、人生に意味が備わっている、秘められている」ということではない、
という意味合いをまず押さえましょう。
(単に諸法が縁起しているだけです。(我々の)生もまた、縁起の泡沫の一つに過ぎません。)
その上で、(まず世俗的に)一人一人が、そこに意味付けをしていきます。
人生の意味は、一人一人が、あとから付けるものです。(だから、前もって用意されたレールに若者は反発するのでは?w)
そして、仏教的に悟りのレベルとして、勝義として、(つまり求道、涅槃に資するかどうかという一点に於いて)、
「一切諸法が(つまりあらゆる存在・事象が)等価で、意味も意義も目的も何もない」という視線があるわけです。
この視線で言えば、勿論「人生に意味などありません」。それはただ人生であるだけです。
仏教的に、何ら間違っていないと思いますよ。
(少なくとも上座部が目指すのは“完全なる滅び”「寂滅 nibbAna」なのですから。)
その上で、
全てが縁起する諸法として等価である時、それだからこそ、(それぞれが唯一無二の事象の一一だからこそ)、
全てが「愛おしく、価値ある事象」として立ち上がってくるわけです。
全てに、普く遍く、慈悲の視線を濯ぎ得るわけです。
人生に(最初から)意味などないからこそ、そこに、無限の意味を込めていけるのです。
>>613補
そして、
>全てが縁起する諸法として等価である時、それだからこそ、(それぞれが唯一無二の事象の一一だからこそ)、
>全てが「愛おしく、価値ある事象」として立ち上がってくるわけです。
>全てに、普く遍く、慈悲の視線を濯ぎ得るわけです。
>人生に(最初から)意味などないからこそ、そこに、無限の意味を込めていけるのです。
という視線に気付いた時、(たとえそれが、なかなか実践実現し難くても、気付けた時)、
そこに、少しばかりの安心(あんじん)が生じないでしょうか。
もし、生じるなら、それは「心がスーッとする言葉(考え方)」に出会った、と言い得るのではありませんか?
615 :
神も仏も名無しさん:2011/10/06(木) 20:28:19.17 ID:wzM7ahaJ
>それぞれが唯一無二の事象の一一だからこそ
「世界に一つだけの花」と言うことでしょうか?
>>615 歌詞の意味するところとは、若干ほんの少しズレるところもありましょうが、
そのようなことです。(科学・物理学の世界でも同じだと思いますよ。)
617 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2011/10/06(木) 20:47:30.21 ID:t0dh5x+q
(^。^;)SMAPの歌とは違うんじゃないかい?
価値があるとかないとかって話じゃなくて、
もっと自由な見方があって、
ある価値観に縛られてる事へのアンチテーゼとしての「無意味」じゃないかいな?
>>617 >SMAPの歌とは
そうか? ま、確かに、ありふれたフレーズではあるがw
けど、「意味」=「価値」ってのは、使用例としてはほぼデフォじゃね?
単に辞書に載るような語義というのでなく、
特に『意味を“見出す”』といった作業が絡むとき、そこに価値付けが無いことなどありえんだろ。
「こんなんじゃ意味ないよ!」という叫びは、まさしく、
「価値(≒興味、甲斐、意義、効果、利益、満足・充実等々)が見出せずにいる」からこそのものじゃないかい?
619 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2011/10/06(木) 21:14:33.89 ID:t0dh5x+q
>618
卵にマヨネーズかけるのは無意味だと言えるが、
無意味と言ってもそーゆー嗜好なんだからそれこそ無意味。
しかし、場合によっては、無意味だと指摘する事でマヨネーズかけるのを一瞬止めて省みる事もある訳ですよ。
つまり、マヨネーズかけるのが無意味と言いたいのではなくて、絶対にマヨネーズじゃなきゃダメって断定が無意味って事ですね。
たぶんそんなんで無意味だと思う訳です。
(^。^)つまり無自性で相依性♪
>>619 それはつまり、
(有意無意に関わらずどちらにしてもの)絶対的一意性(という言い方があるかどうか知らんがw)でなく、
相対的多様性、或いは混沌としての多義性ってことか?
仏教的に「無意味」と言う時は、そうでもないんじゃね?
二通りあって、一つは、寧ろ絶対的な一意性として「涅槃に資するかどうか」が問われるわけで。
涅槃に資すれば有意味だし、資さなければ無意味だ。
で、もう一つが、兎の毛が落ちたほどさえも波立たない、凪が如き視座、心境としてある時、
「この世のどこを見回しても、意味など見出せない」というものがある。
で、件(くだん)のスマさんの表題に関しては、後者じゃねーの?ということ。
(或いは「空性」だからという言い方もできるが、ちょいと上座部っぽくないしな・・。「無常」だから、ってとこか。)
621 :
>゜) ◆??? :2011/10/06(木) 21:27:16.30 ID:+99dIEUD
>>613,614
ブッダはそんなことは言ってないw
仏教では言ってるかもしれんがw そんなことは質問していないw
仏教からめると何でもありだから。いろんな宗派があってもう議論にならないし調べる気にもならない
もうあたかもブッダが言ったかのように話が進んでわけわからん
なんだ、原理主義者かよw
>>622 馬鹿だろ? ブッダの直言なんて知り得るわけなかろうw
今ある言葉は、全て後代の者の脚色付だ馬鹿垂れw
いまだに「金口の説法がある!」なんて言ってる奴がいるとはな・・。天然記念物に認定してやるよw
その上で、最初の問いに答えるなら、
>>579>そんなこと一言も言っていないのか → 言ってません。 つか、確認できません。
>>610>ブッダがそんなこと言ったか言わなかったかの → 言ってません。 つか、確認できません。
で、この622の書き振りからすると、
最初から、
「言ってないでしょう?w 言ってるとしたら、該当する文言を出してみろよwww」
という煽りだったと見做せますが、如何ですか?w
そういうつもり(最初から、批判・攻撃の目的)で書き込んだのではありませんか?w
624 :
神も仏も名無しさん:2011/10/06(木) 21:49:25.67 ID:UPOE00li
>>623 まあぼくのIDを最初から追って読んでください
>>611 蛇が脱皮するようにをそう解釈しましたか
蛇が脱皮したあとも人生ですよね それをも意味がないと解釈するのは・・・
まあ人それぞれかなあ ちょっと無理があるような気がするけど
625 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2011/10/06(木) 21:52:57.30 ID:t0dh5x+q
>620
混沌とした多様性の中で、仏教が仮定した理想境への導入手法の一種ではないかという事です。
人生は無意味というのも、阿弥陀仏に縋れというのも、囚われを棄てよというのも、全ては大日の説法というのも、
八万四千の法門一々への誘いに過ぎず、
語義のままの意味では無いのではないか?って事です。
(^。^)今日は珍しく真面目に話してますが、そろそろ飽きてきましたよ♪
>>624 「人生は無意味だ」という意味の言葉を、【逐語的に】文献の中から探すのは困難でしょう。
ですから、「意味内容として、同等或いは相似したことが述べられていないか」
という問題へシフトせざるを得ません。
そして、意味内容で言えば、「人生は無意味だ」に【通じる部分】のオンパレードなわけです。
現存文献に於いては、ね。
だから、身も蓋もなく言い切れば、
>>579の段階で、
「言ってない」、「(逐語的に)該当する言葉はない」、の一行で済む話だ。
それで良かったのか?
>>625 いや、質問箱だからこれでも喋り過ぎ(続け過ぎ)でしょw
(ワシもあまり深く考えてないしw)終わりでいいよ。
629 :
神も仏も名無しさん:2011/10/06(木) 22:03:53.82 ID:UPOE00li
>>627 そういうこと
だけどアンカつけてレスしてくれる人に答えてただけ
そこで質問の主旨から外れた答えが返ってきたので、主旨がちがいますと答えただけで
煽ってるわけじゃないwww
630 :
神も仏も名無しさん:2011/10/06(木) 22:09:05.74 ID:UPOE00li
>>626 あ、下記の部分については不賛成です
>そして、意味内容で言えば、「人生は無意味だ」に【通じる部分】のオンパレードなわけです。
>>629 だったら、質問するまでもないだろがwwwww
著者(或いは編集者)が「勝手にw」(という言い方が悪ければ
「その章の全体を総括した形でのキャッチフレーズとして」)付したもの、ということであり、
それを最初から解っていて、敢えて未だ回答を得ていないが如くレスを待ち続ける姿勢が煽りでなくて何なのさw
反応して損したわ・・w
>>631 どうも著者はスリランカ人でスリランカ仏教ではそう解釈してるらしい
で、売れそうな題名にと編集者が勝手に「ブッダの言葉」とつけたらしい
だが僕の読み落して「人生は無意味だ」と書いてあるかもしれんから聞いたし。
実際、オンパレードだと言う人もいるしwww
解釈ってのは無限にできるよな
634 :
神も仏も名無しさん:2011/10/06(木) 22:21:37.07 ID:lIQVxRgh
>>629 だから、その章の論旨と根拠が分からないと何も言えないって。
まあ、その本を否定したいだけかもしれないけど。
論旨によっては
>>613 のような可能性も否定できないよ。
>>603 で言ってることが、生の肯定とかなら、ありえない。
なぜなら、一切皆苦だから。
仏教で人生に意味があるというのは、解脱や利他行できる、仏教を学べる、修行できるという意味以外ないですね。
それから、「日本仏教は一切の感情を捨てて無になることを説いている」というのは誤解でしょう。
己を虚しくするというのは、そういう意味じゃありません。
まあ、そのように説く人もいると思いますが、そんなもの信用してはいけない。
>>634 考えても答えの出ないことを考えるのは無駄だからなんとかって書いてあった
根拠は著者の考えかスリランカ仏教の常識かどっちか。さっき立ち読みしてんよ
一切皆苦とはブッダの現存する最古の言葉にはないようだ
589の書いたようにブッダの言葉には喜びや楽しみが書いてある。
一切皆苦なら589のような表現はでてこないだろうと思う
636 :
>゜) ◆??? :2011/10/06(木) 22:41:36.62 ID:+99dIEUD
638 :
神も仏も名無しさん:2011/10/06(木) 22:55:36.29 ID:x1FJCX7W
「人生の意味」とは、「与えられた人生をひたすら生きること」に決まってるじゃん。
「人生の意味を考える」ことは、「生きる」ことではなく、「死んでいる」こと
である。
下らない議論はやめよう。
639 :
神も仏も名無しさん:2011/10/06(木) 23:07:03.58 ID:lIQVxRgh
>>635 スリランカ仏教もちょっと伝統仏教というには抵抗あるけど、
少なくとも現代常識に引きつけたトンデモ解釈よりは、大いに根拠あるよ。
一切皆苦はダムマパダ278にも書かれてるけどね。
その光明とか喜びってのは、どのテキストを指しているのか分からないから断言できないけど、
恐らく、それはヒンドゥーのサット・チット・アーナンダ(有・知・楽)に対応する、
楽・光明・無分別だと思うよ。
つまり、凡夫の常識、平凡な知覚で体験する光とか喜びではないんだな〜
スッタニパータとかダムマパダは、たしかに古いけど、圧縮した詩句なんで、
誤解しやすいんだよね。しかも、中村先生の訳は、口語で訳してるから、妄想が止まらない。
もっと、全体から原語で読めばありえない解釈ってのは、分かるんだが。
640 :
神も仏も名無しさん:2011/10/06(木) 23:08:13.19 ID:x1FJCX7W
>>632 >という発言と同レベルの浅さですよw
君も結構浅そうだなw。「一切皆苦」は、釈迦の鬱病の症状。鬱病患者の15%
は、これで自殺する。
釈迦が素人療法で、己の鬱病を治療しようとしたところは偉い。
大乗では、「一切皆苦」など問題にしない。
641 :
神も仏も名無しさん:2011/10/06(木) 23:11:04.45 ID:Bv+XeiaO
こりゃこりゃ、セブン、一代wwww
ID:UPOE00li は、どう見ても仏教初心者だろ?ww
なら、一から仏教の方向性の講義などできないのは分かるが、概略のつかめる
入門書の紹介くらいしてあげたら?w
642 :
神も仏も名無しさん:2011/10/06(木) 23:13:09.69 ID:Bv+XeiaO
>>640 おい、アホ隠居ww
バカ言いたいなら、議論スレでやりなwww
643 :
神も仏も名無しさん:2011/10/06(木) 23:15:21.56 ID:x1FJCX7W
>>641 「初心者向け」の岩波佛教辞典の「苦」の項目くらいは読んだらw。
644 :
神も仏も名無しさん:2011/10/06(木) 23:21:24.94 ID:x1FJCX7W
小乗仏教は、「一切皆苦」の概念を植え付けて信者獲得を図るのはやめるべき。
キリスト教の「罪概念の植え付け」と同様な、「悪質な布教手段」だ。
645 :
神も仏も名無しさん:2011/10/06(木) 23:23:50.00 ID:Bv+XeiaO
>>639 おお一切皆苦はダムマパダ278にあるな
な、こういう見落としこそ指摘してもらいたいもんなんだw
だけどすぐ「明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。」
書いてある。回避がバカにたやすいではないかwww
647 :
神も仏も名無しさん:2011/10/06(木) 23:25:24.37 ID:lIQVxRgh
>>641 おそらく聴く気はないと思うけど、
*山口益『仏教思想入門』
片山一良『パーリ仏教入門』
パユトー『仏法』
*ダライラマ『智慧の眼を開く』
水野弘元『仏教要語の基礎知識』
この順番で読むのがいいと思う。
大乗に興味なければ*の本は省くといいけど、
日本仏教を知りたいなら、『仏教思想入門』は読んだ方がいい。
片山先生と水野先生は曹洞宗的偏向が感じられるので、大乗に関してはちょっと疑問。
山口先生も真宗的偏向が若干あるけど、ほとんど気にならない。
驚くべきことに密教の理解も正確だと思われる。
>>647 俺に読めって641は指摘しているが、読む気はない ゴメンネ
649 :
神も仏も名無しさん:2011/10/06(木) 23:39:54.49 ID:lIQVxRgh
>>646 だから、そういう読みじゃ絶対分からないって。
「明らかな知慧をもって観るとき」ってのは、戒律を守って、意識が散乱する要素を減らし、
禅定に入って、意識を集中させて、心の動きを明瞭に観て、苦・無常・無我だと直観した時という意味。
凡人が文読んで、「あ〜一切皆苦なんだ。この意味は分かった。じゃ、苦を離れたんだ」って意味では全くないから。
ダムマパダとかスッタニパータってのは、初心者向けの本じゃないから。
現代の学者は、やさしい言葉で初心者に書かれたなんて言ってるのは、何も分かってない人。
650 :
神も仏も名無しさん:2011/10/06(木) 23:41:44.70 ID:Bv+XeiaO
>>648 >俺に読めって641は指摘しているが、読む気はない ゴメンネ
そうかwww
なら仕方ないww
>こういう見落としこそ指摘してもらいたいもんなんだw
単純な見落としの指摘なら、まず、自分でよく読み直してみようねw
記述の意味内容に関する質問なら、まず最低限の基礎知識を得てからにしようw
>回避がバカにたやすいではないかwww
と言う人には説明のしようが無いとおもうのでwww
651 :
神も仏も名無しさん:2011/10/06(木) 23:51:11.88 ID:UPOE00li
>>649 解釈は無限だからな。
ブッダの昔でも今日で一切皆苦だったら生きてる人が皆無だよ
まあ無学もんもうの階級低い奴隷とかは一切皆苦だったかもね
現代では無学ってことはないし、便利な世の中だから一切皆苦な奴こそ皆無
>>650 ここは質問スレなので初心者が聞いて当然なことだ
いやなら見なきゃいいんだよwww
2chでは答える能力の無いやつほど
こんなことも知らないで質問するなって難しい本を読めって
最終的には答えるよね 答えられないから難しい言葉を羅列して逃げるんだwww
1にちゃんと書いてあるし
わからないやつは無理に答える義務はないんだしwww
>初心者にはやさしく接してあげてください。
>良ければ出典などを示してください。質問する人がどんな本を読めばいいかの目安になります。
>明確な出展なく自説を述べる場合は、その旨はっきりさせると無用な議論の紛糾の防止になるでしょう。
653 :
神も仏も名無しさん:2011/10/07(金) 00:08:13.75 ID:6gJIEffH
>>651 いやいや、単純な記述の有無を知りたいなら、まず自分で
読み直す努力をしろと言ってるのww
内容についての疑義なら、「最低限の知識を得てからにしようね」って
言ってるのw
わかる? 「最低限」ねwwww
九九を知らない人に中学の数学を説明するのは難しいだろ?
俺自身、仏教徒ではないし、仏教は全くの門外漢だ。
だから、このような質問箱で仏教に関して回答することはない。
するのは、もっぱら質問ばかりww
だが、質問する側の礼儀として、最低限の知識を得た上で行なっている。
お前は、その努力もしないで、
> ここは質問スレなので初心者が聞いて当然なことだ
と言う。 まず、その自分の姿勢を恥じるべきでは?
そして、独善的に
>解釈は無限だからな。
>ブッダの昔でも今日で一切皆苦だったら生きてる人が皆無だよ
と結論づける。 まず、仏教で言う「一切皆苦」の意味するところから
勉強しようねww
654 :
神も仏も名無しさん:2011/10/07(金) 00:17:24.31 ID:taV1xwUY
横山さんの
唯識入門買ったが
よくわからん
ここにあるリンゴは存在してない
はぁー
とりあえず、切り貼り再掲なw
「一切行苦」
或る方向性での視線に於いて、カテゴリの最大枠として「苦」なんだよ。(端的に表してるのが、Sn.18-34)
たとえば、
「車両」が、「移動や輸送手段として用いられる、車輪及びそれに準じた移動機構を持ったもの」を「総括して」言われるように・・・。
その中には、自転車も、四輪自動車も、バイクも、バスも、ショベルカーもクレーン車も、客車も貨車も、リヤカーも人力車も、
枠組みの取り方によっては別分類され、同等に扱えず、相反する概念で括られる場合があるようなものも、
全て「車両」で括ることができる。
そのように、
無常なるものは(=縁起するもの(諸法、諸行)は)苦である、と。
仏典はこう述べるのだ。ダンマパダや転法輪経に言う通りだ。
苦・・・(無常、変遷するもの、永遠の保持ができないもの、思い通りにならないもの)
┌─┴─┐
苦 ← → 楽
ってこと。 で、
下段の「苦」は、上段の性質を有すもののうち『好ましくない、望まれない、二度と生じないで欲しい事柄(事象・感受)』、
下段の「楽」は、上段の性質を有すもののうち『好ましい、望まれる、更に欲しくなる事柄(事象・感受)』、
ってこと。 下段の苦楽が、皮相なもの(≒善悪・好悪・恣意的我執による分別)
656 :
神も仏も名無しさん:2011/10/07(金) 00:38:01.24 ID:aXo/VylZ
スマナサーラ長老の説法であったは、
生きものの特徴は知る機能があることと動くこと。
なぜ生き物が動くかというと、苦しみがあるから動く。
瞑想指導のときの説法で言ってました。
てことは、人生のあらゆる行動は苦しみに反応してる現象にすぎないということですよね。
だから「人生に意味はない」につながるのでしょう。
どんなプレゼンテーションをして自分の人生をすばらしいものだと主張しても、
結局は、苦しみに反応して苦しみから逃れるように動いてるだけ。
政治家の不正と戦う人も、悪い政治家が許せない、
なんとかせずにはいられない、という苦しみに対して動いてるだけ。
人によって受ける苦しみが違うから人生にも違いはあるが、本質はいっしょ。
657 :
神も仏も名無しさん:2011/10/07(金) 00:45:41.34 ID:aXo/VylZ
「原発許せない!」という怒りから「抗議せずにはいられない」苦しみ
→抗議デモのことが頭から離れずデモに行きたくてしかたない苦しみ
→デモに行くための準備をしたくてしかたない苦しみ
→準備してたら空腹の苦しみ
→デモよりもまず食いたい、食わずにはいられない苦しみ
→食ってたら満腹になって、食べるのを止めたいという苦しみ
→食べ終わったらトイレ行きたい苦しみ
→トイレ行くために椅子から立ちトイレへ向かいたい苦しみ
→立ち上がって右足を前に出したい苦しみ→左足を前に出したい苦しみ→また右足→左→右
→トイレのドアを視て手をのばしたい苦しみ→手をのばしドア開けて
→あれ?原発のことなんか忘れてた、みたいな。
658 :
神も仏も名無しさん:2011/10/07(金) 00:56:53.65 ID:aXo/VylZ
スマナサーラ長老は「苦:ドゥッカ」を「不満足」と言われます。
満足していない状態があるから、生物は動く(生命活動をする)。
ということは、人生は不満の組み合わせにすぎない。
で、思うのです。
食べることに満足して空腹の不満がなくなったら、食べることを止めますよね。
じゃあ、生きることについて完全に満足して、もう不満がない、
やるべきことは何ひとつもないようになったら?
生きるの(輪廻)を止めるのでしょう。それが涅槃です。平安なる滅びです。
不満(苦)があるから人生という現象が維持されてる、
人生はただの不満の塊にすぎないから、たいした意味はない。
生きることへの執着は、不満や苦への執着。
執着がなくなったら生命活動を維持する必要がなくなるんだから、
平安なる滅びに入って、消えてなくなる、おさらばするのです。
659 :
けちゃっぷ:2011/10/07(金) 01:15:18.68 ID:aXo/VylZ
私達生き物は「この世に未練があって成仏せずにうろうろしている幽霊」みたいなもんなんですね。
まだやりたいことがある、やりのこしたことがある、満足していない。
相手が幽霊だったら、私達は「未練を捨てて成仏しなさい」と言うでしょう。
幽霊に対して、
「あなたがこの世に未練を残して成仏せずにいるのはたいへんすばらしい意味がある」
と言うでしょうか?早く執着を捨てて成仏しなさいと言うのでは?
でも、私達人間も、人生に執着してる幽霊みたいなもん。
そんな執着に意味なんてないのに。
>>655 出たな、難しい用語www
ブッダはそんな解説一切してないよwww
661 :
神も仏も名無しさん:2011/10/07(金) 01:35:51.29 ID:6gJIEffH
>ブッダはそんな解説一切してないよwww
だからねえ、何故、そのように言い切れるの?
論拠は? 貴方は、そのように断定できるほど仏説に詳しいのですか?
>>655 の人の解説を「難しい」と感じるくらいの稚拙な知識しかないのに
何故、「ブッダはそんな解説一切してないよwww」
と言えるわけ?
662 :
神も仏も名無しさん:2011/10/07(金) 01:37:45.72 ID:nlO7eRAr
>>661 そりゃスッタニパータとかダムマパダに書いてないからさ
そんな小難しい言い回しがそもそも無いからね
663 :
神も仏も名無しさん:2011/10/07(金) 01:40:57.81 ID:6gJIEffH
なるほど、ではスッタニパータとダムマパダを釈迦の直説とする根拠は?
それ以外の経典は全て却下ですか?w
278 、 「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
訳者の中村さんは(一切皆苦)に相当するところだからこの語句を入れたんだろうけど
もし655の言うような意味だったら「苦しみ」という訳の言葉はむしろ該当しないだろ
>>663 一番古いと言われている、そして故にブッダの言葉に一番近いから根拠と考える
あとはサンユッタ・ニカーヤとか大パリニッバーナ経までぐらいかな
こっちは手元にない、大パリニッバーナ経はまだ読んでないw
666 :
神も仏も名無しさん:2011/10/07(金) 02:16:28.78 ID:6gJIEffH
>>665 あのねえ、文献学的に言えば、いわゆる最も古いと言われる
「最古層」はスッタニパータの第4章と第5章(一部を除く)、
次の「古層」はサムユッタ・二カーヤの第1章と第4章、それと
ダムマパダの一部、 次の第三層がテーラーガーター、テーりーガーター
など。(以上、間違いがあれば仏教徒の人、訂正よろ)
そして最古層のスッタニパータの第4章と第5章(一部を除く)でさえ、
釈迦没後100年近くたってからの成立だぞ。
年代的な古さでもって、信頼度を測定するなら、どこかで恣意的な
線引きをする必要がある。最も簡明なのが、「最古層」のみを釈迦の
直説とすることだ。当然、古層以下は、除かれる。
しかし、お前さんは「古層」も釈迦の直説に含めてるなw
では、第三層は? それ以降の経典は? そしてその線引きの妥当性は
何をもって担保されるんだい?
277 、 「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
それにもし「苦しみ」を655の言う無常なるものは(=縁起するもの(諸法、諸行)は)苦であるとすると
ひとつまえの諸行無常と同じ意味になってしまいこれは明らかにおかしいだろう
そもそも解釈がおかしいからこうなってしまう
>>666 妥当性の担保とかは学者さんに聞けよとw
初心者としてはこの本この経が一番古いほうだと言われればそれを信ずるしかあるまいw
そして一番古いほうだから、一番ブッダの言葉に近いと考えるしかないだろw
ここバイバイお猿さんにならないねw
670 :
神も仏も名無しさん:2011/10/07(金) 02:44:53.62 ID:6gJIEffH
>>668 だからね、ww いいかい?
貴方の論拠は、
>そりゃスッタニパータとかダムマパダに書いてないからさ
なわけだ。 では、それしか釈迦の直説はないのか? 他の経典の記述は
釈迦の教えではないわけか?
さらに(ここが最大の問題点だがw)、その二つの経典の説くところを
貴方は適切に理解できていますか?貴方は、中村元の訳を使用してると
思われるが、その訳文を無批判に受け入れて良いのですか?
原語からの検証、または他の学者の批判論文を読まれたことは?
わかるかな? だから稚拙な知識で
>「ブッダはそんな解説一切してないよwww」
このようなことを言うべきではないんだよw
部外者は部外者らしく、一歩引いたスタンスで臨むこと。
俺はそれを心がけているんだがw
671 :
神も仏も名無しさん:2011/10/07(金) 03:04:13.09 ID:6gJIEffH
ここ数レス、「質問箱」に相応しからぬ、やりとりになってしまい
まず、それを謝罪する。
> ID:nlO7eRAr
続けるつもりなら、以後、 「仏教議論スレ」の方へ。
経典の記述に関して疑義があるようだが、それに関しては仏教徒を差し置いて
俺が回答するわけにはいかない。
議論スレの方で、提示してみれば?
真摯な姿勢できくのであれば、回答してくれるでしょう。
終わりにしましょうw
でもいい議論でしたよ、思わぬ収穫でしたマジでw
>>605 > 天部の神々 天界の住人も 私らのように意識があり活動するものですか?
☆ ウィキペディア参照 ☆
無色界は、天部の最高部に位置し三界の一つである
欲望も物質的条件も超越し
ただ精神作用にのみ住む世界であり
禅定に住している世界
4つの禅定があるので四禅定という
受想行識の四蘊のみより成る世界
無色と名づくのは
説一切有部では色がまったく無いからといい
大衆部・化地部などは麁色なき所謂とし
経部では色の起るを妨げずをいうからといわれる
上から非想非非想処・無所有処・識無辺処・空無辺処の4つがある
非想非非想処
無色界の最高の天
何物も無しと思惟する定を超えて極めて昧劣な想のみが存在する定
有における天界の最上部であるため有頂天とも言う
無所有処
無色界の第3天
何物も無しと思惟する定
識無辺処
無色界の第2天
識は無限大であると思惟する定
空無辺処
無色界の第1天
定を抑える一切の想を滅し、空間が無限大であると思惟する定
>>602 机龍之介 ◆FjIfTkk1pxep
◎禅定(瞑想)によって煩悩を滅尽させる
◎煩悩を滅尽させると前世からの業(カルマ)の影響を受ける事がない
こんな感じだと思いますが?
>>602 机龍之介 ◆FjIfTkk1pxep
業報輪廻などの事については
バラモン(ヒンドゥー)などの事を
肯定的な心の働きを持って
勉強すると良いと思いますが?
>>602 机龍之介 ◆FjIfTkk1pxep
ブッダは
バラモン(ヒンドゥー)などに対して
批判的、否定的な、ところもあったらしいけど
無所有処
非想非非想処などの
禅定(瞑想)などの技法については
バラモン(ヒンドゥー)などの
禅定(瞑想)などの技法を
受け容れて、受け継いでいる
可能性があるかもしれない
と思いますが?
>>602 机龍之介 ◆FjIfTkk1pxep
スッタニパータ 1119
つねによく気をつけ
自我に固執する見解をうち破って
世界を空(くう)なりと観ぜよ
そうすれば死を乗り超えることができるであろう
このように世界を観ずる人を
<死の王>は見ることがない
− − −
空観 − 空を観察する禅定(瞑想)法
>>602 机龍之介 ◆FjIfTkk1pxep
☆ おすすめの書籍 ☆
新アジア仏教史01 インド1
仏教出現の背景
奈良康明 下田正弘
2010/4/27
新アジア仏教史02 インド2
仏教の形成と展開
奈良康明 下田正弘
2010/10/27
新アジア仏教史03 インド3
仏典からみた仏教世界
奈良康明 下田正弘
2010/7/27
680 :
神も仏も名無しさん:2011/10/07(金) 11:19:04.70 ID:mfeLGege
>>655 >苦・・・(無常、変遷するもの、永遠の保持ができないもの、思い通りにならないもの
釈迦は、「苦の滅」によって、「変遷しないもの(常住)」を求めたのか。「自分の思い
通りになるもの(自己中心主義)」を求めたのか。人間界が「共生」である以上、「自分
の思う通りにならない」のは当たり前。小学生でも悟っていること。
「苦概念」をそんなに広く解するのなら、「苦」を「楽」に入れ替えても(「一切皆楽}と
しても)全く同じ。
生そのものが「一切皆苦」なら、「自殺」が唯一の解脱方法。釈迦は「自殺」を勧めたのか。
まさに「鬱病患者の希死念慮」の症状である。
例えば
バラモン(ヒンドゥー)などの場合は
輪廻の概念があるので
自殺しても又どこかに生まれて来る
ブッダは
この輪廻の世界からの解脱を目指していた
と思うのですが?
682 :
神も仏も名無しさん:2011/10/07(金) 11:45:00.62 ID:mfeLGege
>>658 >なぜ生き物が動くかというと、苦しみがあるから動く。
苦の反対は楽であり、「苦しみがあるから動く」のは「楽を求めて動く」
のと全く同じ。しかし、苦しみの無い者でも、更なる楽を求めるのは人間の
通性。空腹でなくても、更に美味いものを求めるw。苦しみがあるからと言って、
自殺するものは極少数。どんなに苦しくても、耐え忍んで「生きる」。
「生きる」こと自体が、最大の「楽」であることの証拠。この生存本能こそ、
すべての生物に共通する普遍の事実。だから生類は、数十億年の時を経て存続
している。
683 :
神も仏も名無しさん:2011/10/07(金) 12:01:53.67 ID:mfeLGege
>>678 >自我に固執する見解をうち破って
>世界を空(くう)なりと観ぜよ
生命がなければ、固執することも、観じることも、瞑想することもできない。
生命が、すべてに先立つ前提であり、上位概念である。
生命を「無明」として否定・排斥する釈迦は、本末を顛倒している。
>>677 >バラモン(ヒンドゥー)などの 禅定(瞑想)などの技法を
>受け容れて、受け継いでいる 可能性があるかもしれない と思いますが?
釈尊が出家した時点においては、当然釈尊は「バラモンの行者」なんだから、
貴方に書いたとおりだよ。
この時代的背景というのは、いわゆる社会の熟成期でありまして
既成の価値観であるバラモン教に変革の動きがあった。
それで若者は釈尊のように、出家して独覚を目指すもの数知れず。
多くの独覚者が現れることになる。代表的なのが六師外道。
外道といっても大変な哲人であることは間違いない。
そこで私の見解をここで書いてみます。
つまりですね、
釈尊は、バラモンを受け入れて、受け継いだとしても・・・
最終的には「バラモンアンチ」であるとこが、そもそも仏教の所以になる。
そうじゃなければ、オカシイじゃないですか?
バラモン行者が、バラモンで終わっていたなら、何も仏教立宗する必要はない。
釈尊が“独覚者”であることは間違いない。
それは、その時代にとっては空前絶後の哲理でありますね。
バラモンとは一線を規す。
>>681 >ブッダは この輪廻の世界からの解脱を目指していた と思うのですが?
ええ、そのとおりです。
しかしよく考えてください。
「輪廻の解脱」という考えも、バラモンからの引継ぎですね。
ですから、そういった「バラモンの引継ぎ」に全く関与しない
「輪廻の解脱」と、このように私は解釈しておるのです。
これについて、十二支縁起の順観と逆観で仏教は説明してます。
「輪廻とは何か?」を順観するのではなく、逆観して、
輪廻の原初を追及する方法です。
この方法の最終的結論こそ仏教本義になるかと思います。
考えとしますと・・・
輪廻の展開ではなく、むしろ輪廻を破壊する方向性を有します。
686 :
神も仏も名無しさん:2011/10/07(金) 12:50:29.28 ID:aXo/VylZ
>>682 伝統的な「苦」という漢訳ではニュアンスが伝わりにくいので、
スマナサーラ長老は「不満足」「不満」と表現してるのでしょう。
楽を求めるのも、現状に満足していない「不満」があるということ。
生きることに執着しもっと生きていたいのも、
「もう充分生きた、やりのこしたことはない」というような
満足には達していない「不満」があるということ。
仏教ではそのような「不満」の連続、不満に対処して行動してもまた新たな不満を生むくりかえしを、
「意味ねーな、しょーもないな」と気づけと教えているのです。
仏教は、「もうこれ以上生きる必要はない、なすべきことはすべて
成し遂げた!」という完全な満足をめざすのです。
ちなみにこれは、悩み苦しんで鬱になって自殺したがるのとは違います。
そのような自殺願望は、目の前の苦しみから逃げたいという「不満足」がありますし、
何も問題のない人生になったらできれば生きていたいと心変わりするでしょう。
つまり、本当は「まだ生きていたい」という不満足は解消していな
いままで自殺願望を抱いてる心理状態は、仏教が目指す完全な満足
とはかけ離れているのです。
687 :
けちゃっぷ:2011/10/07(金) 12:57:11.86 ID:aXo/VylZ
独身の人は結婚したい(結婚していないのがいやだ)という不満があり、
結婚したら「離婚したい」という不満がでたりする。
仕事のない人は仕事がほしいという不満をもち、
仕事が忙しい人は仕事減らしたいという不満をもつ。
どっちに転んでも、こっちの不満が大きくなったら別のところへ移り、
しかし移った先もまた不満だからだんだん不満が大きくなりまた別のところへ、というくりかえし。
もっと美味しいものを食べたいという不満があって美味しいものを食べても、
また別のものを食べたいという新たな不満や、
たまにはお茶漬けも食べたいなという不満や、そのくりかえし。
688 :
>゜) ◆??? :2011/10/07(金) 13:03:03.54 ID:/hUzEfAG
>>684 名前:机龍之介 ◆FjIfTkk1pxep
> 釈尊は、バラモンを受け入れて、受け継いだとしても・・・
> 最終的には「バラモンアンチ」であるとこが、そもそも仏教の所以になる。
> そうじゃなければ、オカシイじゃないですか?
新アジア仏教史03 インド3
仏典からみた仏教世界
奈良康明 下田正弘
2010/7/27
☆ 317〜318ページ
シャーリプトラが実践する【不断の法観】
初禅…(省略)…無所有処、非想非非想処という
一連の精神的な深まり経て、究極的精神集中状態である
感受過程も表象作用も暫時的に尽く完全抑止状態となる
【想受滅(滅尽定)】に入る
この瞑想で
【智慧によって煩悩が滅尽している】
と、観察する
シャーリプトラは、自らの生存を
【意識のみから成る身体 → 意成身】へと
作り為す事が巧みであった
>>684 名前:机龍之介 ◆FjIfTkk1pxep
> 釈尊は、バラモンを受け入れて、受け継いだとしても・・・
> 最終的には「バラモンアンチ」であるとこが、そもそも仏教の所以になる。
> そうじゃなければ、オカシイじゃないですか?
例えば
バラモン(ヒンドゥー)などの禅定(瞑想)法
空無辺処
識無辺処
無所有処
非想非非想処
ブッダの禅定(瞑想)法
非想非非想処の次の段階の【想受滅(滅尽定)】
− − −
非想非非想処の次の段階の【想受滅(滅尽定)】は
ブッダ独自の禅定(瞑想)法である
可能性があるかもしれない
>>689 無所有処、非想非非想処となるなら、
究極的精神集中状態になる訳はないんじゃないでしょうか?
(論理的矛盾かと思います)
>【智慧によって煩悩が滅尽している】 と、観察する
シャリープトラが止観してたどうかは、私は分かりません。
ちなみに禅宗の始祖・菩提達磨は、心の動きを集中させるとか、
また心を動揺させないで静かにさせる程度かと思いますね。
止観とは違います。
神秀の「心は明鏡台」は、看浄(清浄)の意味を含んでいますからね。
しかしこれが六祖あたりになると、禅定という意味も少し変わってくるかと思いますね。
「本来無一物」ですから、止観とは殆ど離れていくかと思います。
沢庵が「あまり心が動き廻るんで、腹に収めた」という記録がありますが、
これも方法論として、あるいは伝承されてるかもしれませんが、
その本意はまた別ですね。
>ブッダ独自の禅定(瞑想)法である 可能性があるかもしれない
菩提達磨の瞑想は、シャリープトラの模倣だったらしい。
>>691 名前:机龍之介 ◆FjIfTkk1pxep
> 無所有処、非想非非想処となるなら、
> 究極的精神集中状態になる訳はないんじゃないでしょうか?
非想非非想処の次の段階の【想受滅(滅尽定)】の禅定(瞑想)によって
非想非非想処の次の段階の【想受滅(滅尽定)】の境地に到達できる
と言う事であると思うのですが?
☆ 訂正と、お詫び
非想非非想処の次の段階の【想受滅(滅尽定)】の境地に到達する為の禅定(瞑想)によって
非想非非想処の次の段階の【想受滅(滅尽定)】の境地に到達できる
と言う事であると思うのですが?
>>691 机龍之介 ◆FjIfTkk1pxep
中論だけに、こだわらないで
バラモン(ヒンドゥー)、南伝、北伝、チベット伝など
幅広く勉強する事を、おすすめ致します
>>694 >幅広く勉強する事を、おすすめ致します
おそれいります。
いろいろと貴方の禅定方法について読んでみましたが、
そういった禅定で、例えば何らかしかの境地に至ったとする。
しかしながら、こういった境地が永遠に続かない。
ってことが、ある日分かってくるのです。
その分かった段階、つまり境地が崩れる瞬間にですね、
本来の意味の禅定とは何だったのか?
というのが解せるんじゃ〜ないでしょうか?
私の経験ですけどね・・・・
>>691 机龍之介 ◆FjIfTkk1pxep
☆ おすすめの書籍 ☆
チベットの生と死の書(講談社プラスアルファ文庫)
ソギャル・リンポチェ(著), 大迫 正弘(翻訳), 三浦 順子(翻訳)
>>698 ありがとうございます。
私は境地が崩れた瞬間に、ある程度思考システムが壊されてますので、
そういった書籍についても理解能力そのものが無いかもしれません。
宗教というのは恐ろしいものです。
破壊されて、はじめて分かる宗教の良さ。by机龍之介
>>695 机龍之介 ◆FjIfTkk1pxep
アビダンマ講義シリーズ
ブッダの実践心理学
アルボムッレ スマナサーラ
第2巻 心の分析
☆ 302〜303ページ
想受滅(滅尽定)
◎非想非非想処の次の段階の禅定法
◎ブッダ独自の禅定法
◎煩悩を滅尽する為の禅定法
◎阿羅漢になる為の禅定法
◎生きていながら、涅槃を体験できる禅定法
− − −
想受滅(滅尽定)によって
煩悩を滅尽させた場合
元の状態に戻る事はない
と言う事だそうです
>>698 >煩悩を滅尽させた場合 元の状態に戻る事はない
おそろしいことです。
私は煩悩は壊されておりません。
人間として、悩んだり楽しんだり、それが如何に大事か。
こういうことが段々と分かってくるんじゃないでしょうか?
>>697 机龍之介 ◆FjIfTkk1pxep
> 破壊されて、はじめて分かる宗教の良さ
スッタニパータ 1026
無明が頭であると知れ、明知が
信仰と
念(おも)いと
精神統一と
意欲と
努力とに結びついて
頭を裂け落させるものである
− − −
例えば
『これが一般的な常識である』と言う
固定観念を破壊する必要がある
のかもしれません
701 :
神も仏も名無しさん:2011/10/07(金) 16:51:38.18 ID:2UTOjAZk
>>700 「頭取れ」の法の華も、元凶は釈迦かw。
>>699 机龍之介 ◆FjIfTkk1pxep
> 人間として、悩んだり楽しんだり、それが如何に大事か
ブッダの場合は
楽しんだり悩んだりする事が
ブッダにとっては苦しみであった
可能性があるのかもしれません
>>700 >『これが一般的な常識である』と言う 固定観念を破壊する必要がある
そうですね。
仏教とは、アタマを破壊するソフトウエアということになるんでしょうか?
私が書いたとおりのことが、スッタ二パータに書いてありましたね。
昔も今も、人は悩み苦しみながらも、それでも生きてきたのですね。
704 :
神も仏も名無しさん:2011/10/07(金) 17:00:46.51 ID:2UTOjAZk
>>700 >固定観念を破壊する必要がある
「社会常識」は、人間が長い長い年月をかけて築き上げた共生のための叡智。
人間は、オギャーと生まれただけでは人間にはなれない。「社会常識」を
身につけて、初めて人間となる。「狼少女」は、社会常識を身につける機会を
奪われたため、結局、人間にはなれなかった。人間の一挙手一投足は、社会常識
によって支配されていることを自覚せよ。
破壊されるべきは、社会常識に反する「宗教の固定観念」である。
>>702 私はブッダや、あるいはその後継者が後世に何を伝えようとしたのか?
その片鱗でも少し分かればそれで良いかと思いますね。
ブッダが在世当時、どういう心象であったのか?
というのは、別に私は関知するつもりはないですね。
つまりブッダの人格については関心はないのですよ。
得てして聖人といわれる如来は、世俗的にはアウトの人間ですから。
アウトな人間にしか、悟ることは出来ないのです。
そういったアウトの人間が、悟ったその片鱗だけ頂戴するのが
私たち凡人の身分相応ってものかと思います。
>>704 > 「社会常識」は、人間が長い長い年月をかけて築き上げた共生のための叡智
『この一般的な常識が絶対に正しいのである』
とは限らないと思うのですが?
>>706 無駄にレス使うなよ。
スレの総容量はあまり変わらんかもしれんが、普通に書けば3レス分くらいが1レスになるぞ。
空行を詰めるだけで、10倍くらいは読み易くなる。
前にも言ったよな?
で、お前は、「こういう書き方でないと自分で理解できません」とか言ってたな。
そんなわけないだろw とても信じられんね。
繋がった文章の行間詰めると、なぜ理解できなくなるんだ? (寧ろ読み難く・理解し難くなるわけだが?)
お前のやってることはスレ荒らしと同じだ。自重しろ。
708 :
神も仏も名無しさん:2011/10/07(金) 17:48:38.14 ID:qvE1DfKR
釈迦は、カースト制は否定していたのでしょうか。否定したとすれば、その
仏典上の根拠は?
>>708 関西の某大手暴力団でも、普通は体制批判はしない。
今回、10月1日から暴力団対策法が改正する期に及んでコメントを発表しましたけど、
これも体制の基準に無理に合わせているだけで、
本質は任侠道なのだから、反体制的なものだよ。
反体制であっても、普通は体制に迎合している格好はする。
任侠が生きるにはこれしかないから。
このように理解したらいいんじゃないかな?
>>709 「理念としては否定されるけれども、現状は容認する」って感じじゃなかろうか。
出家し、比丘となった暁には、世俗の階層は排されているから。
現にある社会的階層に対しての否定的な価値観を説くうちに、
社会が(人々が)変わっていくことは望まれることと思うけど、積極的な改革の働きかけは無い。
尤もそれは、【社会が、「出家者」「遊行者」という“身分”を受け入れていたから】に他ならない。
だからこそ、【「出家者」「遊行者」となれば、同時に、社会の階層からの離脱となる】。
まったく別次元の存在として認められていて初めて可能なことだったとは言えると思う。
*(たとえば、今の日本での宗教者が、社会の階層や立場の外にあるかと言えば「否」だ。
がっちりと、社会の構成員として組み込まれ、階層を構成する一部となっている。
宗教者になったからといって、社会からの離脱(出世間)とはならない。)
712 :
神も仏も名無しさん:2011/10/07(金) 20:00:29.67 ID:W/mJVkVq
>>710 「金剛の針(Vajrasuci)」(中村元訳、「原始仏典」(筑摩書房発行)所載)。
すべての人間が、「行い」によってバラモンになり得ることを、具体例を挙げて
説いている。「すべての人間の、生命における等価・至上」と類似の思想である。
「生命」を除外しているのは、ヴェーダやマヌ法典の影響。「生命差別」は、
依然として存在している。
>>712 あのね・・・。
隠居を中心として今言われている『生命』なる概念は、当時のインドには存在してないのw
そして、現代日本にも存在してないのw
隠居が初めて提唱した、新たな概念、隠居のオリジナルなのw
714 :
神も仏も名無しさん:2011/10/07(金) 20:08:34.40 ID:aXo/VylZ
>>708 スッタニパータ(中村元訳)より
142 生まれによって賤しい人となるのではない、生まれによってバラモンとなるのではない。
行為によって賤しい人となり、行為によってバラモンともなる。
このように説かれたときに、火に事えるバラモン・バーラドヴァーシャは、師にいった、
「すばらしいことです。ゴータマ(ブッダ)さま。すばらしいことです、ゴータマさま。
あたかも倒れた者をおこすように、覆われたものを開くように方角に迷った者に道を示すように、
あるいは『眼ある人々は色を見るであろう』といって暗夜に灯火をかかげるように、
ゴータマさまは種々のしかたで法を明らかにされました。
ですから、わたしは、ゴータマさまに帰依したてまつる。
また真理と修行僧のつどいに帰依したてまつる。
ゴータマさまは、わたくしを在俗信者として受けいれてください。
今日以降命の続く限り帰依します。」
715 :
>゜) ◆??? :2011/10/07(金) 20:12:30.64 ID:+s8mSSDg
716 :
神も仏も名無しさん:2011/10/07(金) 20:13:40.36 ID:W/mJVkVq
>>713 >隠居のオリジナルなのw
残念ながら、オリジナルではないようだ。「生命」が、「人間にとって対象化
不可能な存在」という概念は、古代インド人にとっては「常識」であった。
717 :
神も仏も名無しさん:2011/10/07(金) 20:28:21.32 ID:W/mJVkVq
>>716の続き
釈迦が「無我」など訳の分らんことを言い出したため、古代インドの生命観が
歪められたともいえよう。仏教徒は、生命(アートマン)を認めると、釈迦の
「無我」が成立しなくなると、大騒ぎしているのである。
「アートマン」の原義は、「呼吸、生命」。キリスト教の「(聖)霊」の原義も
同じ。古代人の直覚は鋭く、的確であった。
>>717 貴方は、まるっきり、インド思想を御存知ないんですね・・・w
719 :
神も仏も名無しさん:2011/10/07(金) 20:49:14.31 ID:W/mJVkVq
>>718 「インド思想」「佛教思想」「キリスト教思想」という狭小なものではなく、
常に、「人類史」「生命史」という広い見地(最上位概念)から考えよう。
さもなければ、何も理解できないばかりか、却って誤解が生じる。
前レスで引用した「金剛の針」も読まれたし。
720 :
神も仏も名無しさん:2011/10/07(金) 20:53:44.19 ID:W/mJVkVq
「宗教」という下位概念だけで蠢いているのを、「低次元」「愚鈍」と呼ぶ。
『宗教は下位概念である』と言う、思い込み、固定観念、勘違い
>>719 ハァ?(゚∀゚)
【「インドという地に於ける」「人類史・生命史」だから「インド思想」】なんじゃないですかwww
頭沸いてんじゃないですか?w
723 :
神も仏も名無しさん:2011/10/07(金) 21:39:24.24 ID:W/mJVkVq
>>722 世界史と各国史、日本史と都道府県史とでは、次元が違うよ。
724 :
神も仏も名無しさん:2011/10/07(金) 21:45:56.26 ID:W/mJVkVq
>>720 生命がなければ、釈迦もイエスも、佛教もキリスト教もない。下位概念に
決まってるじゃん。
文明の利器など何一つなく、厳しい自然との闘いの中でひたすら生存努力に
明け暮れた古代人たちにとっては、宗教は、「生存のための手段」に過ぎな
かった。現代の創唱宗教とは異なり、宗教を「生存の目的」とするという
倒錯には、陥っていなかった。
725 :
>゜) ◆??? :2011/10/07(金) 23:25:04.96 ID:+s8mSSDg
>>710 >「理念としては否定されるけれども、現状は容認する」って感じじゃなかろうか
果たしてそういった社会性そのものがあったのだろうか?
私はそうは思わないですね。
社会性そのものが欠如してなければ、そもそも人間は出家など出来んのと違いますか?
凡人の価値判断で如来を推測するのはどうかと思います。
社会性の欠如、つまり世俗の断絶あって悟るんと違いますか?
>>726 名前:机龍之介 ◆FjIfTkk1pxep
> 凡人の価値判断で如来を推測するのはどうかと思います
> 社会性の欠如、つまり世俗の断絶あって悟るんと違いますか?
人間→色界→無色界→想受滅(滅尽定)→如来
禅定(瞑想)によって解脱に至る
>>726 名前:机龍之介 ◆FjIfTkk1pxep
> 凡人の価値判断で如来を推測するのはどうかと思います
> 社会性の欠如、つまり世俗の断絶あって悟るんと違いますか?
☆ ウィキペディア参照 ☆
色は物質の義、あるいは変礙の義。欲望を離れた清浄な物質の世界
無色界の下にあり、欲界の上にある世界
色界に住む天人は、食欲と淫欲を断じ、男女の区別がなく
光明を食とするという。しかし情欲と色欲はある。色界の諸天は
世間の【 禅 定 】並びに上品の十善を修してこの報を感じるという
色界には、【 初禅、二禅、三禅、四禅 】の四地があり
最上の色究竟天を過ぎると無色界に入る。天界28天に属す
>>726 名前:机龍之介 ◆FjIfTkk1pxep
◎初禅
◎二禅
◎三禅
◎四禅
◎空無辺処
◎識無辺処
◎無所有処
◎非想非非想処
◎想受滅(滅尽定)
↑ これは如来に到達する為の禅定(瞑想)法です
>>726 名前:机龍之介 ◆FjIfTkk1pxep
例えば
スッタニパータ 1119
世界を空(くう)なりと観ぜよ
そうすれば死を乗り超えることができるであろう
空観−世界を空(くう)なりと観察する禅定(瞑想)法などによって
中論などが、つくられた可能性が、あるかもしれない
>>729 >これは如来に到達する為の禅定(瞑想)法です
そうですか。
想受滅(滅尽定) だと、まだ如来になる途上ですね。
それはどうしてか?滅した自分がそこにおるからです。
ここから自分が消えて如来かとおもいますね。
どうでしょうか?
>>726 名前:机龍之介 ◆FjIfTkk1pxep
☆ おすすめの書籍 ☆
アビダンマ講義シリーズ
第5巻
業(カルマ)と輪廻の分析
ブッダの実践心理学
アルボムッレ・スマナサーラ
藤本 晃
2009/07
>>730 >空観−世界を空(くう)なりと観察する禅定(瞑想)法などによって
>中論などが、つくられた可能性が、あるかもしれない
いやいやどうして、中論は「観察する」などのレベルで語ちてはおらんですよ。
そのは有部あたりが語ちておったのではないでしょうか?
私は実有論ではなにも分かりませんです。
中論はそういったレベルのアンチを表明しておるのです。
>>731 机龍之介 ◆FjIfTkk1pxep
> 想受滅(滅尽定) だと、まだ如来になる途上ですね
> ここから自分が消えて如来かとおもいますね
例えば
中論などの空論によって悟りに到達するのではなくて
空観−世界を空(くう)なりと観察する禅定(瞑想)法などによって
この輪廻の世界からの解脱に至ると言う事だと思いますが?
どうでしょうか?
>>733 名前:机龍之介 ◆FjIfTkk1pxep
『中論(百論など?)が、絶対正しい真実なのである』
と言う心の働きに、とらわれているのですか?
>>734 >空観−世界を空(くう)なりと観察する禅定(瞑想)法などによって
「観察する自分」というのが残存する限りは、禅宗における「空」には到底到達は無理かと思います。
「観察する自分」が消滅した瞬間に、いわゆる道元とかの身心脱落になるのですからね。
中論はこういった、主観・客観の未分別を説いた論書といっていい。
つまりですね、禅定して得たあらゆる世界観の崩壊こそが空となる。
中論はそれしか書いてないですが、
非常にシンプルゆえに、また奥深いものでございます。
>>735 あのですね、中論は有部にアンチを表明してますけど、
「これが正しい」とはひと言も書いてませんよ。
正しいものはなにもない。ってことは書いてありますがね。
738 :
けちゃっぷ:2011/10/08(土) 09:55:55.97 ID:dsnJTNhp
>>729 無色界の禅定では悟れません。
また、如来にも欲界善心は生じます。
戒・定・慧の三学が悟るための修行ですが、
定(禅定=止)だけでは悟れません。
慧(智慧=観察)で悟るのです。
定は観察に必要な集中力を養う訓練であって、それに必要なのは色界の禅定です。
無色界の禅定と悟りはちがいます。
739 :
神も仏も名無しさん:2011/10/08(土) 09:58:59.76 ID:NSymBg7h
机と「?」
いい加減にしろやw
ここはお前らの雑談スレではないぞww
740 :
けちゃっぷ:2011/10/08(土) 10:15:13.17 ID:dsnJTNhp
>>729 色界の禅定とは、初禅から四禅までです。
空無辺処以上は無色界の禅定。
悟るときは、色界の禅定だそうです。
ただし、最初の悟り(預流果)だけは、禅定がなくても(欲界の心でも)悟れる可能性があるそうです。
つまり、預流果で消えるとされる有身見・戒禁取・疑の三つの煩悩については、
禅定をマスターしてなくても破ることができる可能性があるのですね。
>>740 >禅定がなくても(欲界の心でも)悟れる可能性があるそうです。
そうらしいですね。
頓悟だと禅定なしで悟ることもあるらしい。
742 :
けちゃっぷ:2011/10/08(土) 10:45:58.20 ID:dsnJTNhp
ただ、禅定なしで達するのは預流果が限度ですから、そこで消せる煩悩は
有身見(心身を実体だと思う煩悩=色即是空に気づかない)、
戒禁取(意味のない迷信や修行への執着)・疑(頭から疑ってかかったり、頭から信じてかかる)
の三つの煩悩…の三つだけですね。
一来果以上の悟りには禅定が必要ですから、
欲貪・瞋恚・色貪・無色貪・掉挙・慢・無明は、禅定がないと消せない。
預流果で最初の三つの煩悩だけが消えても、欲も怒りも残ったまんまなんです。
日本の昔のお坊さんの中にも、預流果の人(空を悟っていて迷信に
執着せずなんでも決めつけてかからない人)はいたかもしれませんね。
禅僧とかではそんな人はいそう。
>>742 >日本の昔のお坊さんの中にも、預流果の人(空を悟っていて迷信に
>執着せずなんでも決めつけてかからない人)はいたかもしれませんね。
そうですね。
空を悟れば、もう禅病になる心配がありませんから、
それで充分に禅僧としてやっていけますね。
彼岸から此岸に帰ってくる。というのはそんなにインパクトはないですからね。
>>743 机龍之介 ◆FjIfTkk1pxep
渇愛(タンハー)は
想受滅(滅尽定)などの禅定(瞑想)によって
滅尽させる事が出来るらしい
>>744 今は即効で応えることは出来ませんが、
貴方の使ってるスレッドがあれば、そこでお話しする用意はある。
ただし、仏教議論スレは駄目ですね。
貴方はニューエイジ系とか?そんなスレを使っておるのですか?
いやそんなことはどうでもいいんですが、
私も忙しいから暇なときでも、貴方が誘導したスレで応えます。
>>726 社会性が欠如していて、なんで、
「雨季の安居が取り入れられ」たり、「飲用の水漉しが必要になった」り、
「二十歳までは出家させない、という決まりができた」り、
「犯罪者は許可しない、罪の償いが済んでから」「妊娠していないことが確実であること」だったり、
しなければならなかったんだろうね。
>>746 ああ、良い質問ですね。
こういう議論は私は大好きなのですが、ここで語ちるとスレッドを無駄に消費してしまいます。
ですから、もし宜しかったら貴方の使ってるスレッドを紹介して頂けたらありがたい。
「仏教議論スレ」は住民が多いので、できたら過疎スレでよろしこ。
749 :
>゜) ◆??? :2011/10/08(土) 18:47:36.82 ID:mPc0J/Lg
>>748 ありがとうございます。
私がそのスレッドで突然に書く訳には参りませんから、
一応は全部ROMって、スレの流れを把握してみますね。
>ここには机さんと同様に中論を中心として考えている人も居ます
> (禅定(瞑想)原理主義は私ひとりだけです
そうですか、果たしてどんな絡みをしてるんでしょうか?
では、おやすみ。
>>747 その必要は無かろう?w
貴方のいつもの、「室内思考至上主義。他は一切無関係」による視野狭窄というだけですからw
753 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/10/08(土) 22:55:35.51 ID:M2o/RhIf
754 :
>゜) ◆??? :2011/10/09(日) 00:48:52.18 ID:9MNPZV/M
>>753 ありがとうございます。
論題は、社会性の欠如が釈尊にあったかどうか?でしたっけね?
う〜ん、難しい論題ですが果した私がこれに応えられるであろうか?
釈尊はたしか王城が出生でしたか?
王城と言えば、私はマリーアントワネットを思いだしてしまいまふ。
王女は「パンがなければ、おまえらはケーキでも食ってろよ」。とか
言ったとか、言わないとか、私もそこは確認しようがないですが、
まあ、上層階級の人間というのは下層階級の生活など殆ど分からんのですよ。
釈尊については、私はこのベクトルで語ちてみようかと思います。
暇なときに、当該スレッドにてまたお会いしましょね。
756 :
神も仏も名無しさん:2011/10/09(日) 17:27:37.35 ID:P8uuVllB
大正新脩大藏經データベースで「護国三部経」で検索しても
ヒットしませんでした。法華経・仁王経・金光明経を
「護国三部経」と呼ぶのは、誰が始めたことなのでしょうか?
>>756 ttp://hw001.spaaqs.ne.jp/miya33x/paper7-1.html 律令政府は僧尼令によって僧尼の行動を規制し、国分寺、国分尼寺を建立し、
僧尼に『仁王経』『金光明経』『法華経』の護国三部経を定期的に読誦することを命じた。
仏教用語の基礎知識 - Google ブック検索結果
山折哲雄 - 2000 - 317 ページ
遣唐使による大陸文明の導入、天皇中心の律令国家体制の整備とあいまって、仏教は
諸氏族の権威を超絶するシンボルを提供した。 ... また、法華経も地上の平安が説かれ
ている経典で、あわせて「鎮護国家三部経」もしくは「護国:一部経」といい、それらを読誦 ...
books.google.co.jp/books?isbn=4047033170
→鎮護国家三部経
>>756 ttp://www.mangyoji.com/whats/2008_wh/wh0811.html <なぜ三つなの?>
法然上人が『選択本願念仏集』の中で
>問ひていはく、三部経の名またその例ありや。 答へていはく、三部経の名その例一にあらず。
>一には法華の三部、いはく『無量義経』・『法華経』・『普賢観経』これなり。
>二には※大日の三部、いはく『大日経』・『金剛頂経』・『蘇悉地経』これなり。
>三には※鎮護国家の三部、いはく『法華経』・『仁王経』・『金光明経』これなり。
>四には弥勒の三部、いはく『上生経』・『下生経』・『成仏経』これなり。
と述べられ、仏教経典はおおよそ三部経という伝統があることにならい。
>いまはただこれ弥陀の三部なり。ゆゑに浄土の三部経と名づく。弥陀の三部はこれ浄土の正依経なり。
と『浄土三部経説』が正依の経であると説かれたことに由来しています。
お経の他には、論書では天親の『浄土論』曇鸞の『浄土論註』といわれるものもあります。
どれも浄土往生と念仏の教えが説かれた論書です。
※大日の三部・・・・・・・密教で依りどころとする経典。
※ 鎮護国家の三部・・・・・・法然上人在世当時、国家安泰を祈るための経典として、 この三部が採用されていた。
ttp://labo.wikidharma.org/index.php/%E9%8E%AE%E8%AD%B7%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E3%81%AE%E4%B8%89%E9%83%A8 鎮護国家の三部 - WikiArc
2010年4月15日 ... 鎮護国家の三部. 出典: 浄土真宗聖典プロジェクト『ウィキアーカイブ(WikiArc)』. 移動:
ナビゲーション, 検索. ちんごこっかのさんぶ. 当時、国家安泰を祈るための経典として、
この三部が採用されていた。 (選択本願念仏集(P.1187) ...
labo.wikidharma.org/index.php/鎮護国家の三部 - キャッシュ - 類似ページ
>>756 他、日蓮でも無いかとぐぐった結果
創価学会員の主張 鎮護国家
2011年4月25日 ... 鎮護国家】 信長が、キリスト教を国内に入れた事も、比叡山を焼き討ちした事も、信長の
主義思想の表れであった。信長にとって天国煉獄も ... 創価学会が日蓮仏法の中興の
祖と仰ぎ、日寛の教学そのものを自宗の教学としているのが学会である。 仏教布教禁止
を ... 後、竜樹が空論を天台が一念三千の観法を示し、日本において最澄が、法華経と
任王経と金光明経をもって鎮護国家の三部経とした。 法華経は、平安 ...
microforce.blog60.fc2.com/?mode=m&no=190 - キャッシュ - 類似ページ
日蓮大聖人と最蓮房:第4章 三国四師
太郎 日蓮大聖人は、「撰時抄」において次のように仰せになっている。 ... の者二人をを
かせ給い、重ねて止観院に法華経・金光明経・仁王経の三部を鎮護国家の三部と定め
て宣旨を申し下し永代・日本国の第一の重宝・神璽・宝剣・内侍所とあがめさせ給いき」 ...
www.houonsha.co.jp/nichisai/004.html - キャッシュ - 類似ページ
旧仏教による禅宗批判と日蓮の諸宗批判の展開 - kominato-kataumis ...
日蓮は文永11年10月の蒙古襲来により国が滅びんとする事態を眼前にして、出身母校
ともいうべき比叡山・台密に目を向け、「日本国は慈覚大師が大日経・金剛頂経・蘇悉地
経を鎮護国家の三部と」(曾谷入道殿御書、以下も同じ)なして、「伝教大師の鎮護国家」 ...
kominato-kataumi.jimdo.com/旧仏教による禅宗批判と日蓮の諸宗批判の展開/ - キャッシュ - 類似ページ
日本において【最澄(→伝教大師)が】、【法華経と任王経と金光明経をもって】鎮護国家の三部経とした。
日本国は【慈覚大師(→円仁)】が【大日経・金剛頂経・蘇悉地経を】鎮護国家の三部と
重ねて止観院に【法華経・金光明経・仁王経の三部を】鎮護国家の三部と定めて宣旨を申し下し
【「伝教大師の鎮護国家」の法】を破壊した故に「叡山に悪義出来して終に王法」が尽きたのであるとし
法然(選択本願念仏集)かと思ったが、円仁・最澄まで辿れそうだね。文言として文献にあるかどうかはわからんけどw
目の前の箱を有効活用して、ぐぐる先生に質問しようねw
760 :
神も仏も名無しさん:2011/10/09(日) 18:16:59.87 ID:P8uuVllB
黒谷上人語燈録 …佛經是也鎭護國家三部法華經・仁王經・金光明經是也法華…
西方指南鈔 …リ鎭護國家ノ三部經ハ法華經・仁王經・金光明經等コレナ…
あらためて検索したところ、上記のものを発見できました。
ありがとうございます。
>>760 ttp://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E9%8E%AD%E8%AD%B7%E5%9C%8B%E5%AE%B6%E3%80%80%E4%B8%89%E9%83%A8%E3%80%80%E6%B3%95%E8%8F%AF&mode=search&uop=1 Search word : "鎭護國家 三部 法華"
溪嵐拾葉集 (No. 2410) 0854c21 - 0855a01: 王顯經亦有三部經所以法華經大日經之顯經也仁王經者金剛頂之顯經 [show] (49 hits)
Search word : "鎭護國家 三部 仁王"
溪嵐拾葉集 (No. 2410) 0854c21 - 0855a01: 王顯經亦有三部經所以法華經大日經之顯經也仁王經者金剛頂之顯經 [show] (49 hits)
Search word : "鎭護國家 三部 金剛頂"
溪嵐拾葉集 (No. 2410) 0854c21 - 0855a01: 一顯密三部經事聖光院記曰眞言教如有三部經王顯經亦有三部經所以法 [show] (105 hits)
Search word : "鎭護國家 三部 金光"
溪嵐拾葉集 (No. 2410) 0854c21 - 0855a01: 一顯密三部經事聖光院記曰眞言教如有三部經王顯經亦有三部經所以 [show] (99 hits)
Search word : "鎭護國家 三部 蘇悉地"
溪嵐拾葉集 (No. 2410) 0854c21 - 0855a01: 頂之顯經也最勝王經者蘇悉地之顯經也云云又云法華經者大日經之淺略 [show] (37 hits)
ttp://www.weblio.jp/content/%E6%B8%93%E5%B5%90%E6%8B%BE%E8%91%89%E9%9B%86 けいらんしゅうようしゅう ―しふえふしふ 【渓嵐拾葉集】
仏書。光宗著。三〇〇巻のうち現存一一六巻。1311年から47年までの間の筆録。
天台宗の伝承のほか、政治・経済・文化など、多方面の知識を記録。
最澄云々ってのは、この辺が典拠なのかな・・。天台で鎮護国家の経として珍重されていた、と・・。
T2410_.76.0854c21: 一。顯密三部經事聖光院記曰。眞言教ニ
T2410_.76.0854c22: 如有三部經王。顯經ニモ亦有三部經。所以法
T2410_.76.0854c23: 華經ハ大日經之顯經也。仁王經者金剛頂之
T2410_.76.0854c24: 顯經也。最勝王經者蘇悉地之顯經也 云云
T2410_.76.0854c25: 又云。法華經者大日經之淺略也。梵網經者
T2410_.76.0854c26: 金剛頂經之淺略也 云云 又云。山家大師三
T2410_.76.0854c27: 部長講者。法華・仁王・金光明經等也。三部
T2410_.76.0854c28: 經之顯經故也。皆是鎭護國家經王故也。甚
762 :
>゜) ◆??? :2011/10/10(月) 14:45:19.92 ID:0b++5UNU
763 :
神も仏も名無しさん:2011/10/11(火) 09:58:55.81 ID:j5WA27Vs
古本市で、日蓮の御書全集を買ったところ、羊皮装丁、
とありました。仏教的に仏教の書物に動物からとった材料を
使うってどうなんでしょうか。
つかう場合は、特別な供養の儀式をその材料のもとになった動物に対して行ったりするのでしょうか?
>>763 >つかう場合は、特別な供養の儀式をその材料のもとになった動物に対して行ったりするのでしょうか?
材料は材料、動物は動物、まったく関連性はないですね。
中国では赤ちゃんを食材にした料理がありますが、
あれは赤ちゃんを料理している訳じゃないですよね。
食材で料理している。
765 :
>゜) ◆??? :2011/10/12(水) 00:46:04.73 ID:IMmCivdi
766 :
神も仏も名無しさん:2011/10/14(金) 20:05:20.80 ID:VxPqu0Xr
林純教『蔵文和訳一万頌般若経』の翻訳の質は高いでしょうか。
書店でみかけて気になりましたが一万五千円もするので
先にその価値があるのか確認したくなりました。
767 :
神も仏も名無しさん:2011/10/16(日) 22:37:33.46 ID:2LsAr1H+
>632 :AKBのおっさん(48次元):2011/10/16(日) 15:41:58.14 ID:eUD12hEwI
>スッタニパータを意訳すると、
>
>心が汚れてると、実は汚らしいものが美しく見えたりします。
>なにかを心地よいとか、楽しい、美しいなんて感じてしまったら、
>要注意ですよ、ということです。
>
>フワフワと小綺麗な言葉にくるまれた汚物を追いかけ、それを、悟りだ覚醒だと呼んでは
>いませんか?
↑のカキコの内容は本当ですか? 悟りを開いたと主張する人物のカキコです。
間違いであれば、訂正をお願いします。
【真理の追究】 集え!覚醒者 5 【世界の根源】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/occult/1317813076/
768 :
神も仏も名無しさん:2011/10/17(月) 03:58:15.63 ID:pzdab1e1
>>767 少なくとも私の知っている仏教とは違うと思います。
私は一応、インド、チベット、シナ、日本の仏教の筋道が大体掴んでいるつもりです。
ネットで私は悟っていると公言している人はほとんど信用できないと考えていいと思います。
私が知る限り、ある程度の境地に達していると思われる方は、鬼和尚ぐらいです。
769 :
神も仏も名無しさん:2011/10/17(月) 09:56:23.06 ID:hypEbVFH
>ネットで私は悟っていると公言している人はほとんど信用できないと考えていいと思います。
同意www
ただし、「ほとんど」ではなく、「全て」と言ってもいいくらいであると思うね。
ネットというのは、所詮、文字による意志、見解の表示しか出来ない。
そのような場で、己を覚者と規定して、何かを発信しようとする試みは、
利よりも害が勝る。 そんなことも分からず、自分を覚者と公言しているのだから
単なる自己顕示欲の強い、かまってちゃんですなww
770 :
神も仏も名無しさん:2011/10/18(火) 16:44:46.90 ID:LNrpnbYz
では、スッタニパータには何が書いてあるのか?
簡単でいいので、正しい意訳をお願いします。
771 :
神も仏も名無しさん:2011/10/18(火) 19:54:59.23 ID:SlneD0Ue
>>770 いろいろだよ〜
詩句を指定してくれれば、分かる範囲で答えるけど。
そういう問いを立てるってことは、翻訳すら観たことないでしょ
772 :
>゜) ◆??? :2011/10/18(火) 23:39:51.06 ID:0lJhRbjm
773 :
神も仏も名無しさん:2011/10/19(水) 01:35:10.59 ID:Zc0thrVB
浄土真宗ではなぜ
般若しんきょう
を唱えないのでしょうか
親鸞は空を否定したんでしょうか
774 :
神も仏も名無しさん:2011/10/19(水) 02:10:48.34 ID:D7aZD3KQ
775 :
神も仏も名無しさん:2011/10/19(水) 08:07:37.44 ID:J7oW3/wM
>>773 簡単に言うと、浄土門は他力だら般若心経は唱えないんじゃないですか?
般若心経よりも、浄土に至る道筋の浄土三部経の方が理屈に合ってますね。
阿弥陀如来に帰依するのに、かえって般若心経は修行の妨げになるかと、
そのように私は理解してます。
ちなみに浄土門と禅門は、他力と自力の違いであって最終的には合一になるかと思います。
777 :
神も仏も名無しさん:2011/10/19(水) 16:41:45.06 ID:IYeFjIV6
>>776 具体的には、どのような点で合一になるのですか。
自力の禅…お前バカだろ?
禅はただただ座る達磨菩薩のように
で棒でたたかれる
はて自力か他力
>>777 ここでは議論はできませんので、貴方の使ってるスレッド(なるべく過疎スレ)
に誘導して頂けたら、そこで詳しく説明します。
782 :
>゜) ◆??? :2011/10/19(水) 18:09:46.22 ID:vmEn1qw5
783 :
けちゃっぷ:2011/10/20(木) 01:12:10.07 ID:8MY1D3gW
>>776 同じ浄土門でも、浄土宗では般若心経も読むことがあります。
といっても、葬儀や法事のメニューには入ってませんから、檀家さんが耳にすることはまずない。
浄土宗の僧侶は修行中に、食事前の作法の中で般若心経を唱えます。
なぜかはわかりません。もしかしたら、おいしいご飯に執着しないため?
784 :
けちゃっぷ:2011/10/20(木) 01:37:55.74 ID:8MY1D3gW
>>773 浄土三部経以外は、浄土の教えを広めるのに必要ないからでは?
般若心経の主人公は観自在菩薩(観音さま)であり、
観音さまは阿弥陀仏の助手として極楽浄土にいらっしゃる菩薩なので、
般若心経と浄土門は無縁ではありませんが、往生浄土には必要ないお経です。
ちなみに、浄土宗の祖である法然上人は、
毎日欠かさずさまざまなお経等を読んで勉強していたお方でしたが、
晩年には、読経よりもひたすら念仏することに時間を使うようになっていったようです。
785 :
神も仏も名無しさん:2011/10/20(木) 16:56:50.90 ID:CQ5rkNfj
>>771 簡単には読んでみたんですが、
こないだテレビでもやってたし。
全体的にまとめるとどうなのかなって。
一番大切で、素人にもわかりやすいエピソードを一つ挙げて、
代表的にはこんな感じとか。
キリスト教ってそういう紹介が得意じゃないですか?
786 :
神も仏も名無しさん:2011/10/21(金) 00:25:59.29 ID:i7+ZaVGJ
スウェーデンボルグではあんだけ綿密に調べてたのに
ホームグラウンドのはずの分野でその提示が欠けている
というのが不可解に見えます。
>>786は誤爆です。お気になさらず↓お続けください。
浄土宗が心経をあげるのは
仏に成る道の妨げにならない、若干プラスになる、という考え
浄土真宗が心経をあげないのは
仏に成る道は、全てアミダの働き、それ以外の行は無用
無用と言うか、雑行はアミダの働きを疑う行為と考えるため
以前創価学会員だった人のスレッドなどはありますか?
質問したいことがありますが、どこで質問すればいいかわかりません。
よろしくおねがいします。
790 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/10/27(木) 23:38:46.84 ID:HM2P9L7s
791 :
神も仏も名無しさん:2011/10/29(土) 18:41:00.52 ID:Wav+sw9L
天台宗と日蓮宗では法華経の読経時の読み方が違うそうですが、
禅宗ではどうなのでしょうか。
天台と日蓮宗どちらに近いでしょうか。
それとも、どちらとも違うのでしょうか。
坊主に聞いたほうがいいんでない
ここには素人しかおらんから
禅宗で法華経てよんだっけ
793 :
神も仏も名無しさん:2011/10/30(日) 00:24:32.96 ID:BzW1SwXm
794 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2011/11/01(火) 01:28:44.84 ID:wauhbWlQ
禅宗はたしか呉音読みだろ?
漢音読みからしたら、全く違うんじゃねーの?
(^。^;)あれ?アレは漢音だったよな?違ったっけ?
795 :
神も仏も名無しさん:2011/11/09(水) 01:15:30.72 ID:W0ekKVcl
苫米地英人が
天台宗ハワイ別院国際部長
ってプロフィルに書いてるけど、もしかしてエライの?
無料で仏教の経典などが読めるサイト教えてください
具体的に言うとインドの仏教を余計な解釈なしに日本語訳したものです
500円くらいの新約聖書と同じようなもんありませんか
797 :
神も仏も名無しさん:2011/11/09(水) 09:58:01.91 ID:6hMWjnet
798 :
神も仏も名無しさん:2011/11/09(水) 12:33:44.74 ID:Y7/TBlFO
このスレでもおすすめの「仏教要語の基礎知識」 ですが、読みづらいですね。
これは大学で授業を受けながら併用する教科書としてならよいと思いますが、
独学だと、ただの用語集にしかならない。
ひとつひとつの用語に簡単な説明がついていて、味気ない。
この本を読んだだけでは知識が身に付かない。
マスターするためにはひたすら暗記するしかない。
初心者にはきつい本です。
☆ おすすめの書籍 ☆
図説 地図とあらすじで読む ブッダの教え [大型本]
高瀬 広居 (監修)
青春出版社 (2005/8/10)
内容
シッダールタはいかにしてブッダとなりえたのか。
「仏教」の世界観を地図と図表で読み解く。
ブッダの生涯を、誕生から入滅まで丁寧に追い、
ブッダの教えをわかりやすく図解。
そういう俗物が勝手に解釈したものはいらないので
仏教のお経を忠実に訳したものはないんですか
いろいろな文庫で出てるだろ
802 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2011/11/09(水) 18:54:18.43 ID:21x0jsmN
そうそう。岩波文庫とか中公文庫とかいくらでもあるよなぁ。
☆ おすすめの書籍 ☆
ワイド版 岩波文庫
ブッダのことば
スッタニパータ
中村 元
岩波書店 (1991/1/24)
内容
仏教書のうちで最も古い聖典.
後世の仏典に見られる煩瑣な教理は少しもなく,
人間としての生きる道が,ブッダとの対話のなかで具体的に語られる.
訳注は他仏典との関連さらには比較文化論にも及び,興味はつきない.
804 :
神も仏も名無しさん:2011/11/09(水) 22:59:29.74 ID:6hMWjnet
805 :
神も仏も名無しさん:2011/11/10(木) 07:38:28.75 ID:GqR3ss9P
>>796 仏教の場合はキリスト教と違ってこれ一つというものではなく、
それぞれの人に様々な道が説かれているので、それぞれがそれぞれの人にとって正しいことになります。
また、各地域、時代によって縁起して、それぞれに説かれるので、形態は異なって見えると思います。
ですから、インド仏教だから正しいという歴史主義は、反縁起的で仏教に反すると思われます。
といっても、恐らくアナタの意図と反するので一応紹介しますと。
一冊で済ますなら、
山口益編『仏教聖典』
これには文献学的な解説も結構詳細に書かれているので、次に繋がると思います。
あるいは中公の世界の名著の1、2巻で済ますのもいいし、
筑摩の原始仏典と大乗仏典の二巻で済ますのもいいかもしれない。
806 :
神も仏も名無しさん:2011/11/10(木) 07:39:22.16 ID:GqR3ss9P
そうでなく全体像を把握したいなら、
袴谷憲昭『仏教入門』の255頁の三蔵対照表を参考に
(袴谷は内容的には偏っているのでお勧めできないが表は簡明)
水野弘元『仏書解題事典』を読むことをお勧めします。
その上でパーリ三蔵なら、
片山一良『ブッダのことば パーリ仏典入門』を読んで
片山一良先生のパーリ翻訳シリーズを読むのが最良
大乗仏典は、
山口益先生の『仏教思想入門』を読んで
中公文庫の大乗仏典シリーズを読むのがいいでしょう。
いずれにしろ水野弘元先生の『仏教要語の基礎知識』は読んでおくべきです。
この内容が大体理解できてないと、何を読んでも妄想しかできないからです。
このプリテキストとして比較的読みやすい古坂紘一『宗教史地図 仏教』がいいと思います。
ネットですますなら皆さんが指摘する以下
http://www1.atwiki.jp/occultfantasy/pages/1035.html ただしこれは漢訳の国訳で膨大です。
それぞれがどのような位置にあるかは『仏書解題事典』あたりを読まないと、全く分からないでしょう。
807 :
神も仏も名無しさん:2011/11/10(木) 09:02:27.59 ID:M9s5dEYo
宮●先生御久しぶりです。
☆ おすすめの書籍 ☆
片山 一良 (著)
ブッダのことば
パーリ仏典入門
大法輪閣 (2008/06)
内容
最古の経典集“パーリ仏典”が伝えた“法”=経典と“律”=戒律からなる
ブッダのことばの全体を、この一冊で展望する画期的な解説書。
ダンマパダ
全詩解説
仏祖に学ぶひとすじの道
大蔵出版 (2009/12)
内容
『法句註』を参照することにより、『ダンマパダ』各詩偈の教えがはじめて理解される。
本書では、その教えを解説する中で、主に『正法眼蔵随聞記』の記述を併せて取り上げ、
釈尊から阿難へと伝承されていくごとく、道元から懐奘へて伝えられた教えも、
伝統を尊重する視点から見れば、一つの共通する、まさに真実の仏法を説いていることを示す。
809 :
神も仏も名無しさん:2011/11/10(木) 19:54:57.46 ID:RnZU+PJv
工学と仏教について。
諸法無我を「モノは単にモノであって、用途も目的も幻想だ」と解釈してよいだろうか。
この抵抗器は、このコンデンサは、何の目的でついているのか、そういう観念にとらわれてはならない、と。
設計屋としてあるレベルを超えるためにはそういう事を考えた方がよいのではないか、と考えている。
810 :
神も仏も名無しさん:2011/11/10(木) 20:09:28.05 ID:GqR3ss9P
>>809 諸法無我は「モノはそれぞれの習慣(ラング、言語ゲーム)に添って用途も目的も縁起するが、
その実体は無い、幻想だ」という方が近いと思いますね。
>>810 その場合の《習慣》は、各部品が置かれるべき条件(≒文脈)ってことだね。
でないと、コンデンサの代わりに、そこへ電源を置いてもいいのか?ってことになる。
それぞれの部品が、それぞれ必要な場所に収まって初めて回路が機能するわけでしょ。
モノは幻想で、文脈に従ってそこに生じているわけだが、その文脈自体もまた幻想で・・、と。
だから、809の謂いは、基盤の上に部品が設置されるけど、それら部品は幻想だよね・・
と言いたげだが、それではちょいと違うかな・・、と。
幻想かもしれないけど、適材適所として存在しないと、回路が成立しないのだから・・。
回路を成立せしめ、尚且つ、実体なきことを、言葉にしなきゃならないw
>>809 ぶっちゃけ、『設計屋』であり且つ仏教にも通じてないとわからんでしょw
外野の者は、各用語やその業界の論理やテクニカルな部分を知らないから、
喩え方も分からないし、喩えられても、ピンと来難い・・w
>>809 私も工学分野の端くれなのですが、「観念にとらわれない」というのは
そのとおりかとおもいます。
研磨技術は、従来では硬のものと硬なものの抵抗を利用して研磨する。
と一般的には考えられてましたが、
中国の古い兵法に「柔よく剛を制す」という一節がありまして、
これでヒントを得、柔らかい素材でもって研磨する技術を発見しました。
これは従来では考えられなかったもので、
私が色々と実験した結果、なんとそれは絹布が最高であるようです。
絹で刃物を研磨するんですね。
絹が硬を制するのであります。驚くべき発見でしたが
これも「観念にとらわれず」においての成功の事例であります。
813 :
神も仏も名無しさん:2011/11/10(木) 21:10:08.57 ID:GqR3ss9P
>>811 言葉の場合は単なる習慣だけど。部品の場合は因果になるでしょう。
設計屋さんは、各部品の意味は習慣的に定まっているけど、
その常識に囚われては非凡な製品を設計することはできないということじゃまいか?
>>813 なるほど。
この部品は「ここに、こういう形で、無きゃいけない!」と、既存の(ステレオタイプな)文脈でのみで考えてたら、
新しい歩みは生まれ難いか。 所謂「発想の転換」って奴が生じないと、と。
>>812 固体に拘ってる部分でもう、固定観念にとらわれてるな。
今は液体だぜw
>>815 刀というのは、軟鉄と鋼鉄の互いのコラボにおいて、双方の短所押さえ、
如何に長所を最大限引き出すか。で刀の価値が決まるんだが・・・
そういうことを昔の刀匠は経験的に知っていて、
勘だとか経験でもって最高の作品を作ろうとするのだけど、
やはりそれのはかなりのプレッシャーがあって、
そのガス抜きとして最初は神などを祀ったりしてたんだろうね。
しかしこのプレッシャーというのは、今でいうストレスとは違い、
その極限に達する緊張感は、ある意味最高の快楽でもある。
これは例えば男女交合の快楽など比べようのない程であって、
自然とそれは精神世界に関心を向けるようになる。
それでいよいよ、神との繋がりも深くなってきたのだと推測。
>>816 軟鉄と鋼鉄の違いとか、焼き入れの意味とかを全く勘違いしてたやつが日本刀を語るって、何のジョーク?
818 :
神も仏も名無しさん:2011/11/11(金) 20:39:36.47 ID:+SE7XGAK
仏教初心者です。すみません。教えてください。
奈良の大仏で有名な毘盧舎那仏(盧舎那仏)の「盧舎那」というのは、訳すと「光明遍照」という意味だとある人から聞きました。
また、阿弥陀仏の「阿弥陀」も訳すと「光明遍照」だと別の人から聞きました(「光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨」と経文にあります)。
ということは、毘盧舎那仏と阿弥陀仏は、同じ仏様(の別の側面)だと考えればいいのでしょうか?
819 :
809:2011/11/11(金) 21:03:17.25 ID:DgH2F5JH
みなさんありがとう。モヤモヤした疑問が少し解決しました。
つらつら思いだしてみると、電気回路の勉強は最初、用途も目的も無関係でした。
回路は回路であって、それ以上でも以下でもないという状態。
そういう基礎ができてからフィルタとか増幅器とか、役に立つ回路の勉強になる。
ある心理学者の説も大変興味深いものです。
幼い子供はあらゆる物に目的があると思っている。雲は「雨を降らせる」ため、
とがった岩は「動物がかゆい時に体を掻く」ためにあると。で、多くは大人になっても
そういう考え方を少し残しているそうで。
>>811 喩え方もわからないというのは確かにその通りで、自分の疑問を解決するのに
どうぐぐればいいかもわからなかったわけです。
哲学板で聞こうとも思ったが、どのスレッドでどう聞けばいいかもわからず。
で、諸法無我という用語を知り、これが自分の疑問に近いのではないかと。
教えてクンで申し訳ないが、もっと深く知るにはどういう本を読めばよろしいでしょうか。
820 :
神も仏も名無しさん:2011/11/11(金) 22:00:31.31 ID:0Ia0TR74
>>818 基本的に違います。
毘盧舎那仏(盧舎那仏)ヴァイローチャナ
阿弥陀仏 アミターバー
別の尊格です。どちらも光、光明に関連するので漢訳が一致しただけのことです。
ただし、法身という意味では同一かもしれませんが、その場合は尊格という記号・名称がなくなると思います。
この最後の一文は、理解しずらいと思いますので、あまり考えないでください。
821 :
神も仏も名無しさん:2011/11/11(金) 22:21:45.70 ID:x6208e7Y
大日如来と毘盧舎那仏は同一人物、でいいんですよね?
822 :
818:2011/11/11(金) 22:57:35.67 ID:+SE7XGAK
>>820 早速のご回答、ありがとうございます。
毘盧舎那仏と阿弥陀仏は、それぞれ別の仏様(で漢訳が一致しただけ)なのですね。
よくわかりました。
「法身〜」については、もっと自分で勉強します。
ありがとうございました。
☆ ウィキペディア参照 ☆
毘盧遮那仏
東大寺の毘盧舎那仏
毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)は、大乗仏教における仏の1つ。
毘盧遮那とはサンスクリット語のVairocana「ヴァイローチャナ」の音訳で「光明遍照」(こうみょうへんじょう)を意味する。
「毘盧舎那仏」とも表記される。略して盧遮那仏(るしゃなぶつ)、遮那仏(しゃなぶつ)とも表される。
史実の人物としてのゴータマ・シッダールタを超えた宇宙仏(法身仏)。
宇宙の真理を全ての人に照らし、悟りに導く仏。毘盧遮那仏については、華厳経に詳しく説かれている。
密教
真言宗などの密教における「摩訶毘盧遮那仏」(大毘盧遮那仏、Mahāvairocana(マハー・ヴァイローチャナ))は、
大日如来と呼ばれ、成立の起源を、ゾロアスター教の善の最高神アフラ・マズダーに求める学説がある。
仏像では、聖武天皇の発願により造られた東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏、東大寺大仏)が有名。
同様に、鑑真が開創した唐招提寺金堂の中尊も、天平時代の脱乾漆像として有名であり、
鑑真が中国からもたらした盛唐様式の作風を伝える彫刻として貴重な存在である。
☆ ウィキペディア参照 ☆
阿弥陀如来(あみだにょらい)とは、大乗仏教の如来の一つである。
梵名は「アミターバ」(अमिताभ Amitābha[amitaabha])、
あるいは「アミターユス」 (अमितायुस् [amitaayus])といい、
それを「阿弥陀」と音写する。
「阿弥陀仏」ともいい、また略して「弥陀仏」ともいう。
梵名の「アミターバ」は「無限の光をもつもの」、
「アミターユス」は「無限の寿命をもつもの」の意味で、
これを漢訳して・無量光仏、無量寿仏ともいう。
無明の現世をあまねく照らす光の仏にして、
空間と時間の制約を受けない仏であることをしめす。
西方にある極楽という仏国土(極楽浄土)を持つ(東方は薬師如来)。
無量光仏としての性格はアフラ・マズダーもしくはミトラとの、
無量寿仏としての性格はズルワーンとの、関係が指摘されている。
三昧耶形は蓮の花
(金剛界曼荼羅では開花した蓮華、胎蔵曼荼羅では開きかけた蓮華)。
種子(種字)はキリーク(hriiH)。
毘盧舎那仏て
華厳経でないの
☆ ウィキペディア参照 ☆
法身 (ほっしん、Skt:dharma-kaaya、धर्म काय)
法身・報身(ほうじん)・応身(おうじん)の三身(さんじん)の一つで、
真理そのものとしてのブッダの本体、
色も形もない真実そのものの体をいう。
真理(法)の身体、真理(法)を身体としているものの意味で、
「法仏(ほうぶつ)」「法身仏(ほっしんぶつ)」
「自性身(じしょうしん)」「法性身(ほっしょうしん)」などともいう。
部派仏教の時代、説一切有部(せついっさいうぶ)では、
仏陀(ぶっだ)の肉身である生身(しょうしん)に対して、
仏陀の説いた正法(しょうぼう)や十力(じゅうりき)
などの功徳(くどく)を法身と呼んだ。
大乗仏教では絶待的な真理を法身という。
また、如来蔵(にょらいぞう)説では、
如来蔵が煩悩(ぼんのう)を離れてそれ自身を現したものをいう。
法身の本性(ほんしょう)については、
密教では自性(じしょう)・受用(じゅゆう)・変化(へんげ)・等流(とうる)
の四身をすべて法身とみなす四種法身を説いている。
827 :
神も仏も名無しさん:2011/11/12(土) 10:44:56.35 ID:qi3O/gxt
宇宙仏ビルシャナ如来の存在を信じるということは、
この世界のあらゆる現象を、仏教の教え(苦・無常・無我)に気付かせるために
宇宙仏が差し向けたメッセージだ、ととらえることにつながる。
阿弥陀仏の存在を信じることは、念仏をとなえている者は死語に必ず救われる
(人生には必ずハッピーエンドが待っている)と、とらえることにつながる。
828 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/11/12(土) 13:02:34.34 ID:/PM6yjq+
死後の世界(極楽浄土への導き統括)を担当するのが阿弥陀といわれ、
これも大日如来の変化身に過ぎない。あらゆるものは大日如来の顕れの部分であるから、
という見方もあります。
大日如来と表裏一体的に阿弥陀如来を重視する姿勢が
真言智山の覚鑁(興教大師)の見解としてあります。
密厳浄土担当/大日-極楽浄土担当/阿弥陀、
的な理解かな。
829 :
神も仏も名無しさん:2011/11/12(土) 17:52:10.94 ID:m3c4VjKB
※ 第二の村木厚子事件…検察庁による証拠改ざん事件
天皇家の御名を利用し汚した被疑者 世界遺産国宝法隆寺 大野玄妙管長による刑事責任
違法行為からユネスコ世界遺産条約を護る内閣府 藤村修内閣官房長官殿
東京都千代田区永田町1−6−1
http://www.cao.go.jp/ 国家国会の責任…奈良地検による証拠改竄揉み消し不起訴事件の真相HP
http://jyousyokou.web.fc2.com/page2.html 検察審査会 審査請求の是非を国民に問われる奈良地方裁判所、奈良地方検察庁確認による公訴時効5年の裁判員制度案件…政府公文書の証明 世界文化遺産目録法隆寺No.660ユネスコ提出資料等告発状記載
※2008年3月奈良県荒井正吾県知事の行政介入により闇に葬られた※法隆寺内部告発書…法隆寺の違法行為、世界遺産条約違反…の犯罪名を改ざんし産業廃棄物処理法違反に変え隠蔽
2008年7月1日奈良県警より奈良地検に書類送検され2008年9月16日奈良地方検察庁により不条理にも被疑者大野玄妙管長が犯罪を認め自供しているにも関わらず、
また関係者の物証 ※奈良地検捜査部との確認及び2008年7月28日2008年8月30日記付※受理物証に基づく 告発状 「地検捜査部より関係者への 告発状 受理連絡日時2008年9月1日九時三十分」による法隆寺の違法行為、
公文書ユネスコ世界遺産条約違反の証明に基づく捜査を関係者になんら連絡もせず隠蔽の為有らう事か 野島光博次席検事が異例の記者会見をされ
※犯罪不起訴理由とし事件現場への投棄にも酌むべき事情が認められ被疑者 大野玄妙管長は猛省してすでに約2000万円かけ原状回復していると説明されましたがこれは虚偽であり
2008年9月22日事件関係者奈良地検出頭にて関係者より地検捜査部への事実確認によりますと証拠揉み消しの為関係者へ連絡をせず物証を隠滅させ
奈良県の違法行為による世界遺産条約違反が発覚また証拠隠蔽した事件現場が世界文化遺産登録建造物敷地で景観が損なわれ原状回復していない事が露見する為
世界遺産登録法隆寺建造物敷地破壊事件現場と同建造物建材廃棄事件現場の検証をせず証拠改竄した産業廃棄物処理法違反として
2008年9月16日不起訴と決定したと釈明の不当な事件であり当局において監察をお願い申し上げます
830 :
神も仏も名無しさん:2011/11/14(月) 12:55:11.21 ID:bE4AJwc/
在家では自慰行為は邪淫になりますか?
ならなくてもやり過ぎって良くないですよね
大乗仏教の興起の原点にストーパ信仰があったとする平川説が最近批判され始めてるらしいんだけど、
フラウワルナーの他に平川説をしっかり検討して批判してる人って誰なんですか?
また、初期の大乗に街と森林の派閥があった、って主張している人って誰なんでしょうか?
オススメの本を教えてくれると助かります。
>>830 なりませんw けど、やり過ぎは(いろんな面で)好ましくはないですよね。
2chするのはいけないこと? 或いは、映画を見に行くことは?ハイキングに行くことは?
たとえば、もし一日中2chするような毎日がつづくなら、それは明らかに悪しき行為です。
また、毎日梯子して映画を見に行くようなら、それもまた、「時間とお金を費やす」という事象も付随して
悪しき行為となるかもしれません。ハイキングも、毎日そんなに出歩かれたら、
仕事相手も身内も少々迷惑になってくるかもしれません。
或いはまた、甘いもの好きが食べ過ぎて健康診断でチェックが入ることもあるかもしれません。
それら全て、《「行為そのもの」に悪性があるわけではありません》。
「その行為が為されるにあたって働いている“意思”」の質が問題なのです。
だから、『邪○○』(邪な○○)と言われるわけです。
(勿論、行為そのものに悪性が含まれる場合に、その多くが戒めとされているわけですが・・。)
仏教に於いて、「邪な」と言われる時は、
その行為自体の反社会性、害他性、(或いは修行への障碍性)によるのは勿論ですが、
良悪定まっていないようなものに関しては、(それは大概「行為」ですが)
それが、どのような『意』によっているか?を見て言われるのです。
上記幾つかの例で言えば、
その行為が頻繁になることにより「周囲への迷惑を生じる」「浪費に繋がる」という具体性と併せて、
「自らの欲を、単純に、盲目的に満たしてゆく」ことが
「心の在り方が欲望に従属し易いものとなる、癖になってゆく、当然のこととなってゆく」といった負の部分を持つ故に、
その時初めて、戒められてくるものと思います。
当然、自慰行為も同様です。
在家者にとって、それ自体は悪しき行為でも何でもありません。 ただしかし・・、ということです。
833 :
神も仏も名無しさん:2011/11/17(木) 11:55:15.50 ID:bWX9bzvJ
こんにちは。
毎月、京都の青蓮院門跡では、満月の日に「月護摩」という修法を行うようです。
太陽を象徴する仏様は、大日如来だと思うのですが、月を象徴する仏様は、思い浮かびません。
月の仏様って、いらっしゃるのでしょうか?
834 :
富永仲基:2011/11/17(木) 22:38:33.26 ID:ehblG3R/
大乗仏教は釈迦の直説ではありませんよ!
835 :
神も仏も名無しさん:2011/11/18(金) 00:02:48.17 ID:xcCeoKPM
縁起を理解するなら、色身だけが説法するという考えは可笑しいでしょう。
富永仲基のような素朴実在論に基づく歴史観と縁起に基づく仏教は相容れないことは明らかです。
著名な文献学者のドゥ・ヨングでさえ歴史主義的文献学では仏教は理解できると考えたことを疑問視しているぐらいですから。
836 :
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2011/11/18(金) 08:32:13.63 ID:0RJJiFwb
837 :
神も仏も名無しさん:2011/11/18(金) 15:04:04.07 ID:ersg9Dg5
>>836 たしかに月光菩薩は月の象徴だけど、密教で護摩修法の本尊とするには、相応しくないですねぇ。
世界には自分しか居ないって知ってた?
自分が見ている友達や恋人、むかつく上司や尊敬してる先輩!
いろんな人が周りにいるけれど、本当は誰もいないって知ってた?
僕たちは彼らを「他人だ!」と認識しているけど、
実は彼らは自分の体の一部だっていうこと知ってた??
悲しみや喜びはそんなサイクルの上で機械的に循環しているだけ。
このことに気づいたとき、オレは本当の意味で
何をすればいいのかわからなくなった!
839 :
神も仏も名無しさん:2011/11/20(日) 17:08:26.50 ID:5dEm7ynA
白隠禅師坐禅和讃
衆生本来仏なり、水と氷の如くにて
水を離れて氷なく、衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして、遠く求むるはかなさよ
たとえば水の中に居て、渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて、貧里に迷うに異ならず
六趣輪廻の因縁は、己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏そえて、いつか生死を離るべき
夫れ摩訶衍の禅定は、称歎するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜、念仏懺悔修行等
そのしな多き諸善行、皆このうちに帰するなり
一座の功をなす人も、積し無量の罪ほろぶ
悪趣何処にありぬべき、浄土即ち遠からず
かたじけなくもこの法を、一たび耳にふるる時
讃歎随喜する人は、福を得る事限りなし
況や自ら回向して、直に自性を証すれば
自性即ち無性にて、既に戯論を離れたり
因果一如の門ひらけ、無二無三の道直し
無相の相を相として、行くも帰るも余所ならず
無念の念を念として、歌うも舞うも法の声
三昧無礙の空ひろく、四智円明の月さえん
この時何をか求むべき、寂滅現前するゆえに
当所即ち蓮華国、この身即ち仏なり
840 :
神も仏も名無しさん:2011/11/20(日) 17:20:02.57 ID:5dEm7ynA
↑
>>838 このなかに答えがあるかもしれないね。
他スレから転載
>仏教聖典っていうのをググったら:
> 仏教伝道協会の「仏教聖典」( ホテルに置いてあるやつ)
> 三省堂の「佛ヘ聖典〔摯笏ナ〕机上版」(東京大學佛ヘ年會 編修)
> 大蔵出版の「現代仏教聖典」(東京大学仏教青年会 編)
> 講談社学術文庫の「仏教聖典」(友松圓諦 著)
> 黎明書房の「新修現代訳仏教聖典」(福田正治 編)
>といろいろあるんですが、どう違うんでしょうか。
>お薦めは(あるいは無難なのは)どれでしょうか。
w, 無難といえばホテルのあれか?
842 :
神も仏も名無しさん:2011/11/22(火) 00:11:41.69 ID:Kg6vVUd1
ブータンの国王様は、福島の子ども達に、
「君たち1人1人の心の中には龍がいます。その龍を、大きく立派に育ててください」
と言われました。ブータンは仏教を国教と定めていますし、国王は当然、仏教徒です。
ですから、国王が福島の子ども達に言われた「龍」というのは、本当は「仏性」のことだと思います。
843 :
神も仏も名無しさん:2011/11/22(火) 07:13:53.60 ID:e6HZ6Lx0
なあ、仏教って諸法無我なんだよな?
涅槃を獲得したとか、悟りを得るっていうけど、その悟りを得る主体はなんなん?
なんらかしらの悟りとか涅槃をインストールする対象があればそれこそが我じゃないの?
これじゃ諸法無我じゃねーじゃん!
844 :
神も仏も名無しさん:2011/11/22(火) 08:25:09.49 ID:phrWt5uI
>>843 それは言葉のあやでしょう。
何かを得るというよりは、何か(煩悩)が壊れることが覚りでしょうね。
そもそもこの世で悟りを求めるのが間違い、
無理の屋上に無理をかさねるばかりなり。
浄土というありがたい処にて悟りを啓けばよろしい。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
846 :
神も仏も名無しさん:2011/11/22(火) 09:46:21.44 ID:fhe0Y8k9
>>841 そのうち仏教伝道協会、三省堂、大蔵出版しか知りませんが、
三省堂は、素晴らしいけど漢文書き下しです。
他の二つは、どうでしょうというかんじです。
私としては、山口益『仏教聖典』か大法輪閣の『新訳仏教聖典』がいいと思います。
山口益は文献学的で且つ訳が分かりやすく、
大法輪閣は訳文が流麗で総ルビですが、若干、文語風味です。
847 :
神も仏も名無しさん:2011/11/22(火) 09:53:55.06 ID:fhe0Y8k9
>>842 そうかもしれませんが、ブータンはドゥクと呼ばれ龍の国という自負もおありになるのではないかと思います。
いずれにしろ国王は、素晴らしい信仰をお持ちなのは間違いないでしょう。
>>843 何か主体とか基体がなくてはならないという、本質主義・実在論的観念が倒錯であるというのが、縁起・空・無我。
その思い込みから解脱するために戒を守り、三昧に入って心を定め、縁起・空と観て無我を悟る智慧を得ないと分かりません。
>>845 浄土教も素晴らしいけど、他の道を否定するのは間違い。
道はそれぞれで、それぞれその人にあった道を行けばいいというのが仏教。
決してこれ以外はダメというものではありません。
しかも、ちょっとした向上も道として認めるのが仏教。
848 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2011/11/22(火) 10:05:34.68 ID:rgYGc3pW
>843
バグってるからパッチあててみ?って事じゃね?
>>847中段。
予想通りでワロタw
けど、ここ質問箱だし、(最終的には、全ての「自己」と言わるべきものが解体・霧散せらるとしても)、
>>843 『諸法無我の「我」は、インド古来の本質的自我(或いは自性)である、ということ』
『日常に依拠せらる「自己」は、日常日々に於いては、依存し・軸とし・他者に提示され、
或いは保護されるべきものではあるけれども、それは「五蘊仮和合」の器のようなもので、
その器に、所縁に依って様々な想い(・知識)が生じ、載っかっているだけであって、
何かを獲得したりする主体ではない』。
的な感じの方がよくない?w
>>843 また、涅槃は、文章・言語表現上「得る」(或いは「見る」)と言われますが、
本来は、《誰かが「見る」「得る」のでなく、「ただそのような境地・境涯があるだけ」》なのです。
それは、上記五蘊仮和合であることをも承けています。
そこには、主体があるのではなく、単に「五蘊」と涅槃(或いは悟り)という「境地」があるだけなのです。
(
>>847 補正宜しくw )
>>847 ブータンが「龍の国」なれば、そりゃ国民は皆「龍」(=逸材)だよね。
あとは、そこに仏典でも「覚者・勝者」として用いられる、「ナーガ」という概念が、
偉大な人物、桀人、優れた人物等としてイメージされてるかどうかかな・
ま、些細な、どーでもいいレベルのことだけれども・・w
851 :
神も仏も名無しさん:2011/11/22(火) 11:32:59.23 ID:fhe0Y8k9
>>849 フォローども〜
どっちにしろ、難しいよね。
納得できなければ、質問者の方は議論スレへ、どぞ〜
>>850 難しい。ブータンの建国者は聖者なんですよ。
そして和訳も出てるブータンの歴史教科書なんか見ると分かるかも。
読んだけど、忘れちゃった。
いろいろありがとう。
諸法無我はアートマン的価値観の否定だとして、五蘊仮和合にしても、悟りを獲得する時に獲得する所を自己の核たるアートマンと見る事ができないのかな、って考えてさ。
なんかまだもやもしてるから議論板の方に移動します。
ありがとう。
>>846 情報ありがとうございます。
山口益さんの本はもう手に入りづらいようなので大法輪閣の方をググって
みたら木津無庵さんの編によるものとのこと。
で、木津無庵をググると、仏教伝道協会の本は
> 木津無庵氏を代表とする新訳仏教聖典普及会から出版された
> 『新訳仏教聖典』をもととしてつくられました。
となっていて、???です。
大法輪閣版と仏教伝道協会版は全くちがうのでしょうか、
どのへんが違うのでしょうか。
854 :
神も仏も名無しさん:2011/11/22(火) 19:50:47.89 ID:fhe0Y8k9
>>853 全く違います。
大法輪閣版の方が量が豊富でやや文語で流麗だと思います。
仏教伝道協会版は、簡略で現代語で文献学的だったと記憶します。
仏教伝道協会版は人にあげちゃったので、記憶だけで言っています。
すいません。
>>853 >どのへんが違うのでしょうか。
一番上のしか実際には目にしてないけど、
それら全部、
仏典の全体から、文章や、或いは経の一部或いは全部を抽出して、編んだものでしょ?
漢訳が多いか、南伝の経も多く含むのかの違いは(結構重要?w)傾向としてあるかもしれないけど、
所詮、全体の極々一部の抽出であることには変わらないわけで・・。
入り口と、気に入ったフレーズやエピソード等の座右化には向いてても、
そういう『サンプル』でしかないと思えば、安価で手に入り易いものにすればいいんじゃない?
>>846の情報からすると、三省堂版は漢訳仏典中心(それのみ?)なんだろうね。
対して、仏教伝道協会版は、(中村さんの成果を受けてなんだろうけど)、南伝のお経からも多く採用してたような気がする。
>>854の情報からすると、
いずれにしろ、どれを選んでも、たとえば歌謡曲等でいえば、
オムニバス形式のメドレーみたいなもんじゃない?(選択基準は文体の相違くらいじゃね?w)
仮に、抽出の傾向に偏りがあっても、一応典拠は全て仏典そのものなわけだから、
学問的研究の教科書にするのでなければ、どれでも一緒じゃないかと思うが・・。 どうよ?w
>>854
856 :
神も仏も名無しさん:2011/11/22(火) 20:41:12.99 ID:fhe0Y8k9
>>855 まあ、質問者の方がどんなものを求めているのか分からないので
オイラとしては、日本仏教の伝統を伝えるものを評価しているつもり。
文献学者が現代風にアレンジしたものは、もはや仏教ではないでしょう。
視点が全く違うから。
その点、山口益先生あたりまでは、文献学と仏教の伝統が生きていたと思う。
だから、選択も素晴らしい。
>>856 なるほど。
少量の良いものを、泥の中から拾うより、
多くの良いものの中から更に選別するのは難しいよなw
けど、あの手の本は、「日常の処世訓として」という位置づけで捉えるべきなんじゃない?
よくある、偉人の名言集とか、(新聞投書欄や三面記事に始まる)街角の逸話みたいな感じで。
書物の利用の仕方を制限するものでない以上、そういう意味で、入り口以上にはならんでしょ。
というか、そもそもの目的自体が、『知らない人に知ってもらおう!』だと思うし。
そう考えれば、よほど訳し方に大きな問題がなければ、
そこで貴方が言う「仏教らしさ」にこだわる必要もあまりないように思われるけど・・。
いや、それでも、それが的確に選び出され訳されていれば、それに越したことはないかwww
856の通りだな。 では、こっちはこの辺で。 ノシ
仏教聖典の話題の質問者です。
求めているのはキリスト教徒の聖書のような本です。
宗派を問わず(まあたいてい普通な宗派で)受け入れられ、
かつ分量も少なすぎず多すぎず、
というような「都合の良い本」があれば手元に置きたいと思い質問しました。
質問内容に不備があり申し訳ありませんでした。
>>858 それなら多分、貴方の挙げたもののどれでも「一緒」だと思う。
たとえ、Aという書物とBという書物とで一割しか共通文章がなくてもね。
それこそ、両手で余る程度の共通部分しかなくても、それが
「三法印・四法印」「縁起四諦八正道」「七仏通誡偈」「慈悲」(「利他・六波羅蜜」)等を示唆するものであれば・・。
で、そこを外れてるということは、多分どれもないと思う。
つか、仏教には、キ教でいう聖書にあたるものがないので・・。
860 :
神も仏も名無しさん:2011/11/22(火) 23:12:58.30 ID:phrWt5uI
>>857 もともと経典が膨大だから、そんな都合いいものはないのでは。
岩波文庫のブッダシリーズは、宗派を問わず読んでる人多いのでは。
861 :
神も仏も名無しさん:2011/11/23(水) 01:58:51.62 ID:dpnsXLTY
質問なのですが、
仏教が興隆していたころのインドの地図って何が一番見やすいでしょうか?
いろいろと見たのだけど分かりにくくて困っています。
エリアとしてはカシミールからセイロンまで抑えている物だとうれしいです。
現在は国訳の西域記の付録としてついていた地図を見ています。
862 :
>゜) ◆??? :2011/11/23(水) 03:31:04.95 ID:4295aAZj
863 :
神も仏も名無しさん:2011/11/23(水) 05:29:29.99 ID:aVdWqHL3
>>858 いえいえ、アナタは何も悪くないですよ。
ただ仏教はキリスト教と違って唯一絶対の命令ではなく、
それぞれの人にあったそれぞれの道なので、これだけという経典はありません。
あるという人は、誤解してます。
864 :
神も仏も名無しさん:2011/11/23(水) 05:40:51.27 ID:aVdWqHL3
>>861 特にこれというものはないように思います。
私が利用してるのは、『岩波仏教辞典』の見返しの地図
水谷真成訳『大唐西域記』
長澤和俊訳『玄奘三蔵』
Day と Canningham の地図などが思いつきます。
865 :
神も仏も名無しさん:2011/11/23(水) 13:05:28.12 ID:ZxxFsqIW
すみません。ひとつ教えてください。
私が好きな、中宮定子様(『枕草子』の主人公)は、旧暦の長保2年12月16日に亡くなられました。
お墓は、京都市東山区にあります。
その中宮定子様のご命日に、お墓参りをしたいと思っているのですが、上記のように旧暦の12月16日です。
これは、現在の新暦になおすと、1月13日になります。
お墓参りは、現在の12月16日にするほうがいいのでしょうか、それとも1月13日にするほうがいいのでしょうか?
復帰
867 :
神も仏も名無しさん:2011/11/26(土) 17:50:59.70 ID:0lRd1Y4h
>>843 :神も仏も名無しさん:2011/11/22(火) 07:13:53.60 ID:e6HZ6Lx0
>>なあ、仏教って諸法無我なんだよな?
>>涅槃を獲得したとか、悟りを得るっていうけど、その悟りを得る主体
>>はなんなん?
>>なんらかしらの悟りとか涅槃をインストールする対象があればそれこ
>>そが我じゃないの?
>>これじゃ諸法無我じゃねーじゃん!
『諸法無我』とは、この世界は空(幻)の世界であるから、自分自身も
幻である。だから、一切は幻で自分という者は存在しないという意味で
す。
では、何が涅槃を獲得し、悟りを得るのかというと。
幻は単体で存在することはできません。幻を造っている自分がいるので
す。ちょうど夢の世界はそれ自身では存在できず、夢を見ているフトン
の中の自分がいるのと同じです。
したがって、涅槃を獲得し、悟りを得るのは、この世の幻の自分ではな
く、フトンの中の実在の自分であるといえます。
>>867 無我じゃないじゃんw
仏教は嘘に始まり嘘に終わる邪教ということでFAですかね?w
869 :
神も仏も名無しさん:2011/11/26(土) 18:02:21.72 ID:0lRd1Y4h
>>838 :神も仏も名無しさん:2011/11/18(金) 20:00:06.74 ID:BVNYK0d5
>>世界には自分しか居ないって知ってた?
>>自分が見ている友達や恋人、むかつく上司や尊敬してる先輩!
>>いろんな人が周りにいるけれど、本当は誰もいないって知ってた?
>>僕たちは彼らを「他人だ!」と認識しているけど、
>>実は彼らは自分の体の一部だっていうこと知ってた??
>>悲しみや喜びはそんなサイクルの上で機械的に循環しているだけ。
>>このことに気づいたとき、オレは本当の意味で
>>何をすればいいのかわからなくなった!
その通りです。この世には自分以外誰もいない。自分の心の一部が人々を造っています。
何をすればいいかですか?
それはイエスキリストの言葉にあります。
***************************************
『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証し
てはならない。父と母を敬え。あなたの隣人を自分と同じように愛せよ。』
(新約聖書イエスの言葉)
**************************************
この戒めを守ることです。
この戒めを守ると、自分の心が変わり、その心が造っている周りの人々も
変わるのです。
870 :
神も仏も名無しさん:2011/11/26(土) 18:05:32.93 ID:0lRd1Y4h
>>868 :神も仏も名無しさん:2011/11/26(土) 17:59:53.04 ID:Ix/q/T/w
>>867 >>無我じゃないじゃんw
>>仏教は嘘に始まり嘘に終わる邪教ということでFAですかね?w
その通りです。この世では無我ということです。
>>870 ほうw
この世でないところでは無我でない、ということかしらん?
さて、この世でない所とは、いったいどこぞのことでしょうな・・w
872 :
神も仏も名無しさん:2011/11/26(土) 18:39:54.85 ID:0lRd1Y4h
>>871 :神も仏も名無しさん:2011/11/26(土) 18:34:50.86 ID:Ix/q/T/w
>>870 >>ほうw
>>この世でないところでは無我でない、ということかしらん?
>>さて、この世でない所とは、いったいどこぞのことでしょうな・・w
キリスト教では神の国です。神が真実の我です。
仏教では仏国土のことです。仏が真実の我です。
つまり、この世界は神(仏)の夢で造られているのです。これが空の意味です。
夢の世界では『諸法無我』です。
873 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2011/11/26(土) 18:43:57.53 ID:cOhi3Xdw
>872の様などこぞのカルトな戯言を仏教では外道と言います。
874 :
神も仏も名無しさん:2011/11/26(土) 18:54:20.74 ID:0lRd1Y4h
>>873 :承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2011/11/26(土) 18:43:57.53 ID:cOhi3Xdw
>
>>872の様などこぞのカルトな戯言を仏教では外道と言います。
外道ではありません。これは原始仏教の経典に説かれています。
**************************************
『一切諸行は皆空、皆寂にして、起こる者、滅する者是れ幻化にして真
実有ること無ければなり。』(阿含経より)
**************************************
この世は空であり、寂静であり、生まれる者、死んで行く者、これらは
幻化であり、実在するものではない。という意味です。
**********************************************
「閻浮地(人間界)の五十歳は四王天の一日一夜なり。その日夜の数を
計算すると、三十日を一月として十二月を一歳として四王天の寿命は五
百歳である」
(阿含経より)
**********************************************
四王天の世界は六道の中の一つの世界で、欲天の中では最下位の世界です。
つまり、人間の世界の一生は四王天の一日一夜の夢であるということです。
>>874 後段:長いか短いかの違いでしかないw
前段: >一切諸行は皆空、皆寂にし・・・・・・
「一切行以外のもの(“存在”)がある」と説かれた原始仏教の経典があったら出してみ?w
876 :
神も仏も名無しさん:2011/11/26(土) 19:08:55.18 ID:0lRd1Y4h
>>875 :神も仏も名無しさん:2011/11/26(土) 19:04:45.21 ID:Ix/q/T/w
>>874 >>後段:長いか短いかの違いでしかないw
>>前段: >一切諸行は皆空、皆寂にし・・・・・・
>>「一切行以外のもの(“存在”)がある」と説かれた原始仏教の経典が
>>あったら出してみ?w
これは、小乗には説かれていませんね。
大乗の法華経に説かれている『実相世界』というものです。
>>876 ほうw
釈迦仏教(≒ゴータマ・シッダッタ)は小乗、ということで宜しいのかな?
878 :
神も仏も名無しさん:2011/11/26(土) 19:26:47.50 ID:0lRd1Y4h
>>878 ほうw
ならば、「
>>874 >これは原始仏教の経典に説かれています 」の台詞は何だ?
880 :
神も仏も名無しさん:2011/11/26(土) 23:07:55.20 ID:8enkP+Y7
水野弘元先生の『仏教要語の基礎知識』よりも、もっと詳しく体系的に仏教思想を学べる本ってありますか?
できれば一巻完結がいいです。
贅沢言ってんじゃねぇw
O
_, ,_ガッ ili ガッ
( ‘д‘) ☆O☆
(( ゚゚Д゚゚))
_, ,_ クルッ
( ‘д‘)
O( )O゙
_, ,_ ガッ
( ‘д‘) ∩
彡☆))゚゚Д)) .:,.;'∴
_, ,_ ガッ _, ,_
( ・д・) ガッ (・д・ )
⊂彡☆))Д´(☆ミ⊃
ガッ _, ,_ _, ,_ガッ
ガッ _, ,_ ( ・д・)(・д・ ) _, ,_ガッ
( ・д・)☆ミ⊂ ⊃彡☆(・д・ )
⊂彡☆))∀゚(
>>880 ..☆ミ⊃
「 >詳しく 」となれば一巻じゃ足りない。
「 >体系的に 」となれば、初期仏教から鎌倉仏教、南方・中国への伝播も含め部派分裂に触れざるを得ず、
且つ、倶舎唯識、空・般若、華厳、曼荼羅、中観、&中国でのアレンジ具合まで視野に入れねばならず、
やっぱり一巻じゃ足りない。
しかも「 >思想 」としてならば、単に歴史的な流れや様相にとどまらず、内容に踏み込まなきゃならない。
また、一個人の研究者では、カバーできる領域が限られることもあり、結局、コンパクトな一冊ってのは不可能でしょ。
それなりの内容となれば、最低でも各思想(系譜・宗派)毎に一冊ずつにならざるを得まい・・。
誰かさんは、いい本知ってるかもしれないけど・・。
882 :
神も仏も名無しさん:2011/11/27(日) 00:28:03.43 ID:t3QPTZ4Y
>誰かさんは、いい本知ってるかもしれないけど・・。
ほりゃ、一代、お呼びだぞwwwww
883 :
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2011/11/27(日) 01:14:30.38 ID:XUR7DvOb
>>874 ID:0lRd1Y4hさん、
あなたはしっかり“分ってる”ようなので、私はとても嬉しく思います。
残念ながら、そのようなことは非常に稀のようであり、
この質問スレに登場するような常連さんで理解してる人というのは、
まず殆ど皆無の状況ですよ(苦笑)。
無我の理解の間違いについて指摘しても、
では、「アートマンがある」と述べた経文を出せ!
といい、子供が駄々をこねる如く有様ですから。
>>871 無為(涅槃)。
『すべて苦なるものは無我である。』(サンユッタニカーヤ35:1)
『苦であるから無我である。』(サンユッタニカーヤ22:46)
“無我とは苦の状態だ”ということすらも判ってないから(苦笑)
>>875 現象界における“有無”を超えた存在です。
『生じないもの、生成しないもの、作られないもの、形成されないものがあるからこそ、
生じたもの、生成したもの、作られたもの、形成されたものが、(そのような状況から)脱し、
離れることがあるのである。』(ウダーナ8:3)
まっ、わたしは仏教徒ではないので、
私自身は外道オカルトの戯言扱いでも結構なんですけれど・・・。
8:1 (因縁略)。
『比丘たちよ、このような境地(Ayatana)があります(atthi)。
そこには、地(paThavI)もなく、水(Apo)もなく、火(tejo)もなく、風(vAyo)もなく、
空無辺処(AkAsAnaJcAyatana)もなく、識無辺処(viJJANaJcAyatana)もなく、
無所有処(AkiJcaJJAyatana)もなく、非想非非想処(nevasaNNAnAsJJAyatana)もなく、
この世(loka)もなく、あの世(paraloka)もなく、月・太陽(canima-suriya)の両者もありません。
比丘たちよ、私は、そこに来ること(Agati)も、行くこと(gati)も、止(とど)まること(Thiti)も、
没すること(cuti)も、生まれかわること(upapatti)も説きません(na vacAmi(vadAmi))。
依り所のないもの(appaThitta)、生起のないもの(appavatta)、
所縁のないもの(anArammaNam)が、すなわちこれ(etamM)です。
これがすなわち苦の終わり(anto dukkhassa)です』
8:2 (因縁略)。
『「不屈(anata)というものは、見難い(duddasa)。
なぜなら、真理(sacca)は見易いもの(sudassana)ではないからである。
知る者(jAnato)に、渇愛(taNhA)は洞察され(paTividdha)、
見る者(passato)にいかなるもの(kiJcana)も存在しない(natthi)。』
8:3 (因縁略)。
『比丘たちよ、
生まれもしないもの(ajAta)、生成もしないもの(abhUta)、
作られもしないもの(akata)、形成されもしないもの(asaNkhata)がある(atthi)。
比丘たちよ、もし、
生まれもしないもの、生成もしないもの、作られもしないもの、形成されもしないものがなければ、
この世において(idha)、
生まれるもの(jAta)、生成するもの(bhUta)、
作られるもの(kata)、形成されるもの(saNkhata)の出離(nissaraNa)は知られないであろう。
しかし、比丘たちよ、
生まれもしないもの、生成もしないもの、作られもしないもの、形成されもしないものがあるから、
生まれるもの、生成するもの、作られるもの、形成されるものの出離が知られる(paJJAyati)。』
886 :
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2011/11/27(日) 01:41:19.01 ID:XUR7DvOb
>>878 ただし、法華経の釈迦牟尼仏説というのは私は同意し兼ねます。
これは初期大乗の代表経典であり、小乗教団に相対したグループによって製作されたのであって、
どちらかというと原始経典の教えからは対極側に位置するものです。
ただ、久遠仏(久遠常住)であるとか如来蔵思想であるとか・・・
結局、論理的な仏陀如来としての存在の合理性を謳おうとする果てに
いわばこれが帰結として出てくるわけです。
無我の教えとは、
「アートマンなんて無いんだ」ってなことにしてしまったのは、
実に部派仏教の影響によるものだったと言われており、
当然、もともとのゴータマの教えにはなかったものでした。
これじゃー話にならない・・・ていうことで、その後に登場してきたのが、
初期大乗の筆頭である法華経であった、と。
この部派仏教の説く、無我理解にそのまま反旗を翻しているのが如来の恒常性の思想ですよ。
当然の結果ですね。
私が、「無我の教えは後代になって改変されたものだ」といっても、
どうしても信じたくない輩ばかりで話にならないのです。
であるから、私は信仰は迷信を生むものだというのですね。
これを打ち破ることを可能にするのは近代仏教学といった、
いわば信仰の伝統からは退いた位置からのアプローチだけしょう。
まだ残念ならば、文献学者の戯言として聞く耳を持たない姿勢が強い感じですが・・・。
887 :
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2011/11/27(日) 01:44:31.97 ID:XUR7DvOb
>>884-885 そりゃそうでしょう!
自分自身が涅槃なんだから---しかも最初から。
これらすべては視点と表現の違いにしか過ぎないですよ。
以上...
888 :
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2011/11/27(日) 02:01:54.78 ID:XUR7DvOb
追記:
そして、「自分自身が涅槃なんだから---しかも最初から」
>>887 を、ただ頭で知識に理解すればそれで済むことだと勘違いしてしまってるのが机さん。
確かに、そういった感じのアプローチばかり中心なのが“ジュニャーナの道”としてあります。
余談ですが、
机さんが最も向いている道は神智学(協会)が生んだ世界的巨匠/J・クリシュナムルティの教えです。
彼が自ら引用することがあるように、教えには出逢いのご縁と
個人の向き不向きといった個性の問題がありますから、
ヒンドゥー教や神智学といったカテゴリーからも隔離したクリシュナムルティが最高のものです。
889 :
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2011/11/27(日) 02:03:01.34 ID:XUR7DvOb
×「ただ頭で知識に」
○「ただ頭で知的に」
890 :
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2011/11/27(日) 02:25:23.55 ID:XUR7DvOb
891 :
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2011/11/27(日) 05:15:26.93 ID:XUR7DvOb
>>886 訂正:
×「まだ残念ならば」
○「まだ残念ながら」
892 :
神も仏も名無しさん:2011/11/27(日) 11:59:52.84 ID:Ya5Kx4Su
>>880 1冊ではないしまだ完結してないけど、
スマナサーラ長老と藤井晃氏のアビダンマ講義シリーズは?
>>880 そうそう、882で名前の出た人の紹介だが
「宗教史地図―仏教―」(古坂紘一/朱鷺書房/¥1,600)なんか良いかも。
詳しくは無いけど、その辺は仕方ないよね・・。
894 :
神も仏も名無しさん:2011/11/27(日) 15:41:28.78 ID:N1ikOhek
>>883 >無我の理解の間違いについて指摘しても、
指摘?
裏事情を空想してストーリーを作ってる、の間違いじゃないですか?
895 :
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2011/11/27(日) 16:53:27.26 ID:XUR7DvOb
>>894 >裏事情を空想してストーリーを作ってる
まっ、当時、どんな会話が実際にされたものかはわかりませんけれどね(苦笑)。
仏教学の天才/石飛氏も、部派時代から元々にはなかった勝手な解釈が入ったと述べてますけれど。
『ただ、いつの頃からか「無我(anattan)」に「我がない」という意味が混入してきますね。
(部派時代頃かな) これは、経典を作りかえたとかそういうことではなくて、解釈として、
このような解釈が入ってくるということです。』(管理人エム/マニカナ掲示板過去ログ2739.)
http://mimizun.com/log/2ch/psy/1302158994/207-209
896 :
タカミ:2011/11/27(日) 17:07:05.49 ID:IFfNQCDK
仏教じゃなくて心の質問ですが。
誰かに知ってもらいたいという気持ちがなんなのか知りたいです。
誰かに自分の心を肯定してほしいから、なのでしょうか?
また、自分の心について、
最低な考えや、最高の考え等分けるのは美意識からのものでしょうか?
美意識を細かくすると嫌悪感を統合したりした考えからくるものでしょうか?
897 :
タカミ:2011/11/27(日) 18:03:08.30 ID:IFfNQCDK
あ、解決しました。
>>896 大人になると、世の中厳しいですよw
初対面の人間でも、何回か接するうちに相手を判断しなければならない。
こいつは信用できるか?信用できないか?
自分で判断しなければならない。
こういうことを何回も経験しながら、人間は“目利き”になる。
そして、相手の心を知ることによって上手に使うことが出来たりする。
これは世の中で生き抜く智慧です。
一期一会、よき人生であらんことを願う。
899 :
神も仏も名無しさん:2011/11/27(日) 19:27:26.13 ID:QbbjRjxQ
895
釈迦が実はアートマン支持者だったかどうか、
釈迦の「非我」の「非」(がカバーしない領域)に「(真)我」が入る余地があるか、
先生の掲示板で尋ねてみてください。
で、仏教議論スレッドで報告してください。
>>834 富永仲基 さまへ
> 大乗仏教は釈迦の直説ではありませんよ!
シリーズ大乗仏教
大乗仏教とは何か
春秋社 (2011/06/30)
松田和信
168〜169ページ参照
般若経(大乗経典)
炭素14による年代測定の結果
紀元前一世紀に遡る数値を示す巻物もあるという
− − −
『 スッタニパータ 』も『 般若経 』も
ブッダ直伝の説法にかなり近い可能性があるかもしれない
阿含経って言ったって地域でかなり隔たりがあるし、どれが本当か分からないよね。部派は勝手に解釈入れちゃってるし。
それよりも釈尊の精神性を説いてる大乗の方が絶対すごいよね。
903 :
神も仏も名無しさん:2011/11/29(火) 21:35:08.84 ID:rwj7Qy9K
教会に放火したらどうなりますか
906 :
神も仏も名無しさん:2011/12/04(日) 05:47:22.36 ID:ZPgWxQWQ
「有る」とか「無い」とかは相対的な概念だよね。
もしも誰かが「無い」と言えば、即座に別の人から
えっ?「何が」無いの?と聞かれる羽目になる。
で、実際に「無いもの」を限定しないと意味をなさないから、
例えば「鉛筆が無い」と言えば、その無いものが鉛筆である、と限定することになるわけ。
ということはその「無い鉛筆」は無い状態で限定され心の中には不在として存在する状態になる。
すなわち「無い鉛筆」として有る状態になるわけだな。
その人は心に「鉛筆の不在」を刻み付ける。
それはつまり、「限定そのもの」はそこに有って、その限定が不在の形で存在している、ということを意味する。
さて、ここで疑問である。
仏教でいう「無我」は実際には何を意味するのだろう?
我の存在を認めた上で、その我が無い状態を意味するのか?
そうだとすると上記の「鉛筆の不在」と同じで我の存在を「不在の形で認めている」
ことになってしまう。
それとももっと根源的に、そもそものはじめから、これが「我」です、というときの、
その「我という限定そのもの」を否定しているのだろうか?
そうだとすると「無い」と説明したときに、その無い我の不在でさえ発生しないことになる。
なぜなら最初から何が無いのか、無いものを限定さえしていないのだから。
答えはもちろん後者だが、この場合、どこからどこまでが「我」であるか、
固定した実体を限定しないので全ては不明瞭になる。
こういう話を少しでもわかりやすくするために大乗では「空」という言葉を使う。
空は無ではない。なぜなら「有」と「無」という相対概念を生み出す限定そのものを投げ捨ててしまっているから。
どうも上座部系の人はこういうことが分からないらしく
単純に「釈尊は無我を説いた」と言いたがるが、それでは不十分で間違いと言わざるをえない。
907 :
神も仏も名無しさん:2011/12/04(日) 06:38:56.92 ID:mjnseuks
>>906 無我と無常と苦とは同じ意味だと言われます。
無常を悟ったら無我と苦がわかるし、苦を悟っても無我と無常がわかる。
そこらへんに、ヒントがあるのではないでしょうか。
また、無我・無常・苦を悟ったら、悟りの第一段階である預流果になると言われます。
預流果ということは、有身見・戒禁取・疑の三つの煩悩がなくなったということです。
そこにもヒントがあるのだと思います。
909 :
神も仏も名無しさん:2011/12/04(日) 12:38:49.71 ID:ZPgWxQWQ
>>907 >無常を悟ったら無我と苦がわかるし、苦を悟っても無我と無常がわかる。
無我が分かる、と言っているのは誰でしょう?
そこにヒントがありますよ。
>>906 「我」って何か分かってないな。とりあえず辞書で調べろ。
911 :
神も仏も名無しさん:2011/12/04(日) 12:45:16.15 ID:ZPgWxQWQ
辞書で分かったら仏教なんていりません。
最近、上座部系のナンセンス説法があまりにひどいので書いてみただけです。
無我を説明するのに、我が何か分かってないんじゃ話にならないwww
というか、そもそも釈尊は「我がない」なんて説いていない。
913 :
神も仏も名無しさん:2011/12/04(日) 13:10:24.52 ID:ZPgWxQWQ
その我と言われるものが何かを見いだすのが仏教な。
最初から分かってたら誰も苦労しない。
汝自身を知れ、なのよ。結局。
914 :
神も仏も名無しさん:2011/12/04(日) 13:11:40.96 ID:ZPgWxQWQ
そうね。無我を説いた、というのは上座部系のウソだね。
>>913 我 ⇒ 仏教で説明すると「我とは無我である」みたいな意味不明なこといいたいの?
別に我というのは仏教の専売特許じゃないし、苦労しなきゃ分からないようなものじゃない。
無我というのは、それに対する仏教の立場を表してるに過ぎない。
916 :
神も仏も名無しさん:2011/12/04(日) 13:33:17.60 ID:ZPgWxQWQ
>>906で説明した通り。これを読んで意味が分からないなら何を説明しても無駄。
「我」という言葉は単なる言葉、それが具体的に何を意味するかは別。
世間一般で我と言われているのは、あくまでも通説で、結局は頭の中の概念でしかない。
突き詰めて問われると誰も「これが我だ」と答えられない。
もしもそういう「我」が実際にあると仮定すると
ホムンクルスの小人のような矛盾を内包することになるしね。
あとよく言われるように無我と非我は意味が違うよ。
917 :
神も仏も名無しさん:2011/12/04(日) 14:09:50.04 ID:+TMWA+4z
>>913 >その我と言われるものが何かを見いだすのが仏教な。
それはどのお経のどの部分に出てくるんですか?
あなたの勝手な解釈の仏教じゃないですよね?
918 :
神も仏も名無しさん:2011/12/04(日) 14:28:52.10 ID:ZPgWxQWQ
無数の生涯にわたり、あてどなく輪廻をさまよってきた、
家の作者をさがしもとめて。
更に更にと、生まれ変わるのは苦しいことである。
家の作者(渇愛)よ、汝の正体は見られたり。
汝がもはや家を作ることはあるまい。
汝の梁(煩悩)はことごとく折れ、家の屋根(無明)は壊れてしまった。
形成するはたらき(行)からこころは離れ、渇愛を滅ぼし尽くした。
<ダンマパダ 153、154偈>
919 :
神も仏も名無しさん:2011/12/04(日) 14:32:54.39 ID:ZPgWxQWQ
>家の作者をさがしもとめて。
>汝の正体は見られたり。
家の作者を探したりとか、汝の正体を見た、で
あってそれまで正体は見られていなかったのな。
「闇」は単に光の不在であって
「闇という実体」があるのではない。
そもそも無い実体を有ると思い込むから話がおかしくなる。
正しく見よ、あるがままに。
ということなんだね。
>>918 なるほど。
我のことが出たので、私もついでに質問させてください。
本を読んでいて、いまいち分からないことがあるのですが、
我(アートマン)と仏教の阿頼耶識や如来蔵の違いって何ですか?
「我がある」というのも「我が無い」というのも断見であり、中道の教えではない。
922 :
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2011/12/04(日) 23:52:48.68 ID:37HzYj6O
>>920 「阿頼耶識」は、
ユングの集合的無意識のような深い心(潜在意識)であって、
ほぼ「魂」の概念と一致するものと見ても良いものと思います。
これは輪廻する主体でありながらも、実在ではなく(非実在)、
業を保持して作用していく有為法の仮設された自己存在です。
従って、ニルヴァーナにおいては消失します。
「我(アートマン)」は、
輪廻する魂というよりは、輪廻を超越した次元で存在する“唯一なる実在”です。
普遍で永久不滅の恒常の自己、すなわち「真我」(真実の自己)という意味です。
主に、古代ウパニシャッドの思想において説かれています。
一般的には、仏教ではこれを否定していて、そのようなもの無いという姿勢にあります。
尚、近代仏教学においての理解では、ただの無記(在るとも無いとも示さない)の姿勢こそが
本来であったと教えています。
「如来蔵」は、
大乗がニルヴァーナから働きかける救済の如来を説く意味で創出したものですが、
結果的には、永遠恒常の究極的存在を意味して
「我(アートマン)」との明確な区別がなくなってしまったのです。
一部の仏教者は、「如来蔵」は“空”であり、
実在しない「我(アートマン)」とは意味が異なると主張しますが、苦しい言い訳になっています。
何故なら、「空」は現象界(有為)に限定する性質を示すものであって、
「無為」であるニルヴァーナには適応できないものだからです。
923 :
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2011/12/05(月) 00:01:06.92 ID:Z8fBj13W
>>921 全然、違います!
この世の自分(魂)や世界が永遠に続くもの、という見解が「常見」であり、
肉体の死後には、あらゆる意識が途絶えて何も残らない。
つまり、肉体を形成していた物理的な諸元素が自然界へと還元されるだけ、
という見解が「断見」(断滅)です。
このどちらをも、
ゴータマ仏陀は“間違いである”と教えました。
特に「断見」については、
弟子になることのできない「邪見」である、
といって厳しく批判しました。
本来、「中道」は苦行に専念することと、
快楽主義の両極端な二辺から離れることをいいますが、
何でも自己都合で安易に使用されやすい言葉だと思います。
924 :
神も仏も名無しさん:2011/12/05(月) 00:42:18.30 ID:UJITvHGe
>>920 >本を読んでいて、いまいち分からないことがあるのですが、
>我(アートマン)と仏教の阿頼耶識や如来蔵の違いって何ですか?
そういった言葉が何を意味するのか。
言葉の定義がまちまちで議論のしようがない。
例えば仏教学者に言わせるとアートマンは常住不変で永遠の実体なのだそうだ。
そして釈尊はそれを否定した、だからアートマンは間違いだ、という。
しかしウパニシャッドに言わせると、アートマンにはそもそも何らかの属性や実体というものはない、という。
ヴェーダ側のアートマンの説明を聞くと「アートマンは〜でない」と並べるばかりで、
そのあらゆる属性から離れている様子の説明を聞くと、仏教の無我と何が違うのか分からない。
だから仏教学者のアートマン解釈が間違っているのかもしれない。
阿頼耶識とか如来蔵も同様で、そういうことを通常の分別心で捉えることが
そもそも最初から不可能と思われるので議論しても無駄だろう。
ここで分別心とは「これ」とか「あれ」とか、物事を限定を通じて識別していく心の様を指していう。
つまり普通、人は何かを他のバックグランドから切り離して、つまり「限定して」、
これは私、あれはあなた、という風に認識している。
そういう「限定」を外すと、有るとか無いとかいうこと自体が無意味になるのだが
そういう心の働きがあるうちは、ものごとは断片化され、全体の関係性は正しく見えないので
阿頼耶識のなんたるかも分からないものと思われるのだ。
>>923 >本来、「中道」は苦行に専念することと、
>快楽主義の両極端な二辺から離れることをいいますが、
>何でも自己都合で安易に使用されやすい言葉だと思います。
それこそが常見というものではないですか?
応用というものは全く効かないものなのですか?
下の方も断見を含んでいませんか?
安易に否定はできないと思いますよ
犀の角のように独り歩むのはいいですが
他の犀の角を邪魔する行為はいかがなものでしょうか?
言いたいのは
>>923の1番上と1番下がいらないと思うのですが
927 :
神も仏も名無しさん:2011/12/05(月) 11:39:00.94 ID:d91Kdfy4
議論ではなく犀のように強さと優しさを兼ね備えて生きて欲しい願いです
執着も無執着も二辺に偏るなら邪見です
釈迦は仏教自体がこれであるなら、それを批判するでしょう
929 :
神も仏も名無しさん:2011/12/05(月) 18:34:59.37 ID:qDOFTfb4
質問。
お釈迦様の最後の教えで「自灯明法灯明」があります。
一方で仏教において大切にすべきものに仏法僧の三宝がありますが、
これらを比較検討すると、
自分>仏≒法≒僧
ってなりますか?お釈迦様は「仏灯明」は説いてないですよね?
むしろ三宝は仏教教団にとって大切なものであって、個人的には大切にしなくても良いんですか?
930 :
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2011/12/05(月) 22:19:03.07 ID:Z8fBj13W
>>924 >そして釈尊はそれを否定した、だからアートマンは間違いだ、という。 ---略---
>だから仏教学者のアートマン解釈が間違っているのかもしれない。
そのような見解を示しているのは、伝統の“法門側”です。
そして、従来の仏教学者は、仏教では「アートマンはない」という立場を摂り、
ウパニシャッドの思想を否定する。これが仏教の仏教たる独自性であると、
述べていたのです。
ところが、仏教学における経典研究が進むに連れて、
そのような解釈は間違っだったことが明確化したのです。
つまり、「アートマンはない」などとは決していわない。
「それらはアートマンではない」(非我)としかゴータマは説いてない、
という見解で以って、これが現代の定説化に向かっている状況であると思われます。
これらを見るならば、そのことはハッキリとします。
>>886>>895 http://houjugusya.web.fc2.com/anatman.htm このスレ上で議論は宜しくないので、
取り合えずここまでにします。
>>929 おっしゃる様に三宝に僧が入っているということは、
僧の創作と考えられます。
序列を目的順とするならば、私ならの条件でこうします。
法>仏>自分>僧
ですが偽を含んではいるとはいえ釈迦の多くのエッセンスも仏教には含まれている
と考えられます。そういう視点に立って解釈していけばいいと思います。
三宝と呼ばれるものを、まんま大切にするよりも自分の現時点の目標を3つあげて
三宝として大切にしたほうが良いと思います。
932 :
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2011/12/05(月) 23:15:30.02 ID:Z8fBj13W
>>931 >三宝に僧が入っているということは、僧の創作と考えられます。
仏法僧における「僧」の本来の意味というのは、
そのような所謂、「僧侶」ということを示しているのではなくて、
比丘・比丘尼の出家の集いである「サンガ」(出家教団)のことをいっています。
仏道を修行するために出家した人々から構成される僧院、
その集いの場を宝として大切にせよ、という意味です。
「私らを宝と見なせ!」ということで、
僧侶たちが勝手に言い放ったものではありません。
>自分の現時点の目標を3つあげて三宝として大切にしたほうが良いと思います。
自分勝手な「三宝」の創作は、
仏教という観点からは如何なものかと疑問に思われます。
933 :
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2011/12/05(月) 23:28:19.10 ID:Z8fBj13W
>>929 「仏法僧の三つを自己の宝として自分で修行しなさい」ということでいいのでは?
ただ、「最終的に頼れるものは結局、自分しかない」ということであって、
もちろん勝手デタラメでもいい、という意味ではないでしょう。
934 :
神も仏も名無しさん:2011/12/05(月) 23:32:59.56 ID:xFqhYT81
>>929 法灯明・自灯明(法洲・自州)は、もうちょっとなんというか、
修行の具体的なコツの話だと思います。
法から意念をそらすな、自から意念をそらすな、という意味。
あるいは、妄想の激流に飲み込まれたときには、
速やかに法の洲(島)や自の洲(島)につかまれ、そうすれば溺れずにすむぞ、という意味。
不放逸であれ、浮かんでは消える妄想や感情にうつつをぬかさず、
法を観察し、自らを観察することに、励み続けよ、という意味。
で、そのような教えを説いて導いているのが三宝であるから、三宝を大切にするわけです。
935 :
神も仏も名無しさん:2011/12/06(火) 00:31:31.51 ID:DpjBoP0Z
>>934 釈迦が、「己自身に従え。しかし、俺の教えに従え」と言ったのだとしたら、
全く矛盾した教えとなる。釈迦のいう「修行自体」が「己自身に反する場合
には、一体どちらに従えというのか。
「法」とは、「釈迦の教え」ではなく、大自然の摂理。「自灯明」とは、その
摂理を基盤とする己自身の考え、と解すべきである。釈迦も「法」には従わな
ければならないのである。
936 :
神も仏も名無しさん:2011/12/06(火) 00:51:14.91 ID:zVseLw16
>>935 やめな、隠居w
ここは質問スレだ。 お前の、手前勝手な解釈を語るところではない。
>>933 勝手デタラメとはいいませんが仏法僧の三つもその要素を含みます。
やはり3番目の僧がひっかかります。
サンガを宝とするとして本人にそれを宝とする意思がなければ
全く意味のないものになってしまいます。
この意味で3番目はもちろん法仏にもあてはまります。
結局は自分次第でさしつかえはありません。
もちろんこだわらなければ、そのまま受け取っても
どうということはありません。
世の中、自分には要と不要があります。
自分に全く不要なものに固執できるほど時間は無限ではありません。
釈迦が自ら要を後世に残さなかったのが悪いともいえますが、
いいかえれば自分の要を他人に押し付けるのは不可能という
ごく当たり前のことを考えたのかもしれません。
>>938 とりあえず、南伝大般涅槃経くらい読んでから書き込もうな。
940 :
神も仏も名無しさん:2011/12/06(火) 01:26:16.60 ID:DpjBoP0Z
>>938 釈迦は、自分の教えを、押し付けまくっている。説教の垂れ流し。
スッタニパータ、とくに「ダニヤの章」を読め。現代のカルト教祖
そのもの。
>>940 w
あれは併記しかされてないんだよ。
寧ろ、あの文章だけからは、ダニヤ夫妻が帰依した理由は窺い知れないのさw
だから、ダニヤ側が「両者を比べて、釈尊の言い分を採用した」という結果のみが記されている。
あの章は、「両論の併記」と「波旬によるまとめ」と「ダニヤの選択」、この三つしか要素はないんだよw
ちなみに、ダニヤの章の中で「押し付けている」文言を挙げてみ?w
942 :
神も仏も名無しさん:2011/12/06(火) 01:42:28.47 ID:zVseLw16
牛飼いダニヤがいった、
「隠居は妄想に囚われ、虚言を弄すものである。
彼の言葉に耳を傾けてはならない。
神よ、もし雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」wwwww
943 :
神も仏も名無しさん:2011/12/06(火) 01:50:34.26 ID:DpjBoP0Z
釈迦は、家庭と毎日の仕事を大切にし、心の平安を得、社会に貢献していた。
その精神を狂わせたのが、釈迦である。雨や風などの、洗脳の舞台装置も
準備されている。釈迦が、現代のカルト教祖の元祖であることは自明である。
>>940 読んだけど要・不要を説いただけのことと思った。
釈迦にとっては何も持たないのが要であるが、
教団を持った以上、矛盾と言わざるを得ません。
つまりダニヤの章自体が不要ですね。
945 :
神も仏も名無しさん:2011/12/06(火) 02:42:01.76 ID:DpjBoP0Z
>>943の訂正
×釈迦は、家庭と毎日の仕事を大切にし
○ダニヤは、家庭と毎日の生活を大切にした、純粋で地に足の付いた若者であり
>>945 私もそう思います。余計なお世話以上のものではありません。
例えば相手が一国の国王ならどうでしょう。
一発で首が飛ぶかもしれません。聡明な釈迦ならそんな愚は冒しません。
相手が乞食の人ならどうでしょう。
釈迦以上に執着が無いとは言い切れません。
むしろダニヤを乞食の人としてくれた方が興味津々です。
こちらの観点からも偽ですね。
947 :
神も仏も名無しさん:2011/12/06(火) 03:26:57.95 ID:zVseLw16
>>946 ここは質問スレです。仏教議論スレというのがありますので
そちらの方へ移動よろしく。
議論は不要というか単に嫌いなので、おいとましますw
949 :
神も仏も名無しさん:2011/12/06(火) 03:36:58.73 ID:zVseLw16
950 :
神も仏も名無しさん:2011/12/06(火) 04:33:18.10 ID:5NRIuBZw
相手の質問に対して質問で返して議論に引き込み
相手に自分の頭で考えさせる、というのは仏教の常套手段。
質問スレだから議論無しでは仏教とは言えない。
釈尊は菩提樹の下で何を悟ったのでしょうか?本を読むと十二支縁起を悟ったと言う内容が多いのですが、
五比丘に説法するところを読むと、釈尊は四聖諦の悟りを得て悟りに至ったとあります。あくまで悟りを開いてから十二支縁起を観じただけで。
何となく十二支縁起を悟ったというのは嘘っぽく思えるのですが、なぜ悟りの内容で十二支縁起説を推す人が多いのでしょうか?
952 :
神も仏も名無しさん:2011/12/06(火) 10:40:23.43 ID:ZThtEhZK
>>951 釈迦の12支縁起は誤り。釈迦が、「己の生命を以って、生命を無明呼ばわりするる」
という矛盾・倒錯を犯しているから。
953 :
神も仏も名無しさん:2011/12/06(火) 10:48:19.76 ID:zVseLw16
>>952 いい加減にせえよ、アホ隠居w
ここはあくまでも「仏教という宗教」の範疇における質問スレだ。
外部から見て、それがどうだとか関係ねえんだよw
「仏教的にどうか?」ということだけだ。 だから俺が最も嫌悪する
「業論」でも、それが「仏教の教義の範疇」において語られるのであれば、
口出しすることを俺はしないww
いい加減に理解せんかい、バカタレがwwwww
954 :
神も仏も名無しさん:2011/12/06(火) 11:18:56.91 ID:ZThtEhZK
>>953 宗教を少しでも批判されると、それほどヒステリックに反応する君は、「無宗
教者を騙る、洗脳の特に深い宗教者」であることが、よく理解できたよ。私が
初めから指摘していた通り。
2chは「公共の場所」である。「宗教の布教」は、教会や寺院でやれ。宗教は、
政治と同様、公共の利益に深く係わる営みだから、常に批判に曝されなければなら
ないことくらいは覚悟せよ。
955 :
神も仏も名無しさん:2011/12/06(火) 11:22:24.35 ID:zVseLw16
>>954 wwww どこをどう読んだらそうなるんだ?www
俺が言ってるのはTPOをわきまえろということだけwww
極、普通の良識をもとうね って言ってるのを「宗教擁護」と
結びつけるお前が異常なだけだよwwww
956 :
神も仏も名無しさん:2011/12/06(火) 11:27:23.60 ID:zVseLw16
>2chは「公共の場所」である。
その通りw だからこそ「スレ違い」の書き込みは止めな って言ってるのw
>。宗教は、
>政治と同様、公共の利益に深く係わる営みだから、常に批判に曝されなければなら
>ないことくらいは覚悟せよ。
このような「独善的」意見は、「質問スレ」には相応しくないといってるのw
やりたければ「仏教議論スレ」でやれって言ってるだけwww
ホント、バカは良識ってもんがないから困るわwwwwwww
957 :
けちゃっぷ:2011/12/06(火) 12:56:07.80 ID:6M17P28N
>>951 まずは四諦を悟ったのではないでしょうか。
しかし、何を悟ったかと言うよりは、
有身見・戒禁取・疑・欲貪・瞋恚・色貪・無色貪・掉挙・慢・無明の「煩悩がなくなった」
というほうが適切なのかも。
まず煩悩がなくなり、そこから初めて気付いたことを言葉にしていくと、
四諦や十二支因縁の教義になったのでは。
良識や当ったり前と感じる感性は真である可能性が高い
また当ったり前の理由付けとなる理性もまた追随・先行する可能性を秘めている
逆に良識や当ったり前と感じる質と量に達してないものは偽といえる
じゃあ神様や仏様は?
・・・おるじゃろね…悪魔もおるじゃろね…想念の世界に…
理性がついて行ってないようだw
単に現実世界の投影なのだが分らないw逆からの投影もまた真なりw
スレチスマソw
959 :
神も仏も名無しさん:2011/12/06(火) 21:01:40.21 ID:SpEkioKs
仏教でいう不浄とは何ですか?トイレそれとも邪心とかそういうもの?
960 :
神も仏も名無しさん:2011/12/06(火) 21:07:55.13 ID:rElENEzv
泥
>>959 どちらかと言えば、後者ですね。或いは「不善」と言い換えてもいいと思います。
もう一つ狭義で言えば(そして、辞書表記的なメインの語義としては)、「性的な事柄」となるでしょう。
その場合の《対する「浄」》は、「梵(行)」と同様な意味を持たされます。
或いはまた、煩悩が除かれた状態を浄といい、『煩悩が残っている状態』を不浄と表現もできます。
勿論、お尋ねのような排泄に絡んだことも不浄と表現しますが、
【教義に於ける「術語」としての「不浄」】は、そのような単なる汚れとは寧ろ無関係と言えます。
962 :
神も仏も名無しさん:2011/12/06(火) 21:14:09.00 ID:SpEkioKs
固有名詞としての不浄か
心としての不浄か
どれですか?
>>962 「 >固有名詞としての不浄 」というのが、全く理解できません。
もう少し噛み砕いていただけますか?
964 :
神も仏も名無しさん:2011/12/06(火) 21:17:10.43 ID:SpEkioKs
>>961 わかりました。
では簡単に申しますと
悪いことをして捕まる
これは不浄ですよね。
じゃあ悪い事例えば憎しみや嫉妬をもつことも不浄ですか?
966 :
神も仏も名無しさん:2011/12/06(火) 21:21:15.91 ID:SpEkioKs
うわあ、これはなかなか取れないですね。
嫉妬や憎しみってムカッとする時ありますね…
ありがとう
ちょっと切り替えます
967 :
神も仏も名無しさん:2011/12/06(火) 21:25:39.83 ID:SpEkioKs
もうひとつだけ
じゃあ自慰行為や性行為は不浄ですか?
>>967 【厳密に言えば】不浄です。
だから、「出家者、比丘比丘尼に対しては」禁じられています。
では、なぜ、在家者に対しては禁じられていないのか?を考えてみると、
仏教が取っているスタンスがどういうものかが見えてくると思います。
>>967 密教では男女合体が最高の境地とされております。
970 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2011/12/07(水) 04:29:09.81 ID:k+csiEmx
仏教の説く清浄不浄とは、あくまで求道に対してプラスかマイナスかというだけの話。
よって般若系経典では、時に不浄も清浄とする。
性行為が清浄か不浄かも、当人らの意識の在り方で当然変わる。
971 :
神も仏も名無しさん:2011/12/07(水) 11:21:33.42 ID:8lVcYSyk
>>970 >仏教の説く清浄不浄とは、あくまで求道に対してプラスかマイナスかというだけの話。
「己の解脱」「己の涅槃」を求めるエゴのために、「赤の他人」に過ぎない開
祖の「観念」から発した命令で行なう「求道」は、「浄」ですか「不浄」ですか。
「排泄行為」や「摂食行為」を「不浄」として禁止すれば、人間は間違いなく死ぬ。
「性行為」を禁止すれば、種属としての人類は滅亡する。
「己の肉体的生命の指示」に反し、開祖の観念の指示にひたすら従う「求道」こそ、
「不浄」の典型であろう。「人間」としての開祖自身についても、同様である。
「すべての欲望は清浄である」(理趣経)。
972 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2011/12/07(水) 15:30:13.00 ID:k+csiEmx
>971
あぁ、お前生命教か。(笑)
で?生命について少しは勉強したか?
生物学では、本能なんて適当な言葉はもう殆ど使われてないし、
生命をどう規定すべきか未だ定説は無いって確かめたか?
何?まだ?(笑)
ふむ?ならば君達の言う本能や生命は、「生命教」なる宗教の妄執の一つだね。
因みに、悟りなどの概念は釈迦以前からあるんで、君の指摘も「生命教」の妄執に過ぎない。
カルト信者が理趣経なんか持ち出さないでくれるかな?汚らわしいから。
973 :
神も仏も名無しさん:2011/12/07(水) 16:38:09.18 ID:VDJZ9cnI
>>967 >じゃあ自慰行為や性行為は不浄ですか?
仏教教義的な回答は他の方に任せるとして・・・
現実的に性行為ってのは、衛生的か不衛生か?とか考えたら
けして衛生的なものではない。
女性器は特に菌が繁殖しやすくなってまして、感染のリスクがあります。
じゃあ心配だからサックを付けてやることも考えられますが・・
サックまで付けてやるなんて、そこまでやる必要性は全くない!!
もし我慢が出来るなら、女性と交わることなく
自慰で対処した方が健全であることは言うまでもない。
ちなみに私は、もうアワビさえ見るのも飽きてきました。
まあ、これは人それぞれですけど、
仏教教義以前に、、
先ず「性交におけるリスク」を考えた方が健全と言えましょう。
淋病、梅毒、エイズ、妊娠、その他人間関係でいろいろあります。
わかりました。確かに保健の授業で習った覚えあります。
あと我が強いってよく言われますが、わがままって意味ですか?
975 :
神も仏も名無しさん:2011/12/07(水) 18:34:41.56 ID:VDJZ9cnI
>>974 「我が強い」ってのは、いつまでも我に執着していて、
死んでも我は残るとか・・・そういう妄想に耽ってる人間を言います。
死んでも我が残って、やがて輪廻転生するとか・・・
そうじゃないとオカシイじゃないか!!!なんて
もう、どうにも我が強くてかなわんですよ(笑
そういう我に執着している人間が、この宗教板には大勢いますから、
あまり宗教板をロムるのは関心しません。
もっと健全な板を見つけて、2ちゃんライフを楽しんでください。
976 :
神も仏も名無しさん:2011/12/07(水) 19:24:46.13 ID:j8AvK1kv
そうですか…わかりました。見ないように気をつけますね。
妄想って危ないですね。
977 :
神も仏も名無しさん:2011/12/07(水) 22:40:19.67 ID:BgXtE5NJ
>>972 生命とは、人間が「対象化」できない唯一のものであることは、古代インド
からの常識。
理趣経とは、そういう意味だ。仏教者を自称するのなら、理趣経の真意くらいは
理解せよ。
978 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2011/12/07(水) 23:26:45.68 ID:k+csiEmx
>977
はぁ?
プラーナも知らんの?
あと、理趣とは般若に導くって意味だろ?プラジュニャ-ニヤーのどこをどうひっくり返したら生命なんて出てくんだ?
何で文殊が一切如来の首をはねてんだよ?
読んだ事も無ぇくせに寝言こいてんじゃねぇよ、タァコ。
979 :
神も仏も名無しさん:2011/12/07(水) 23:33:02.26 ID:aLNL513C
承狂、ここで隠居構うなってww
このバカは切りがないから、議論スレでやれってw
980 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2011/12/08(木) 00:33:36.13 ID:fBeKrpK1
>979
(^。^)いや、そぉゆー分別はイクナイ♪(笑)
☆ ウィキペディア参照 ☆
プラーナ、プラナ
サンスクリットで呼吸、息吹などを意味する言葉。日本では気息と訳されることが多い。
インド哲学に於いては、同時に人間存在の構成要素の一つである風の元素をも意味している。
そして生き物 (すなわち息物) の生命力そのものとされ、やがてその存在はアートマンの根拠にまで高められた。
ヨーガにおいては、調気法である「プラーナーヤーマ」が、不可欠な行法の一要素となっている。
なお、チベット仏教の瑜伽行では、同概念は「ルン」(風)と呼ばれる。
古代ギリシャの類似概念としては、「プシュケー」や「プネウマ」がある。古代中国の「気」も、類似した概念だと言える。
また、ユダヤ教神秘主義(カバラ)やカトリックではこれに対応する概念として、息吹を意味する「ルーハ」でがあるが、
これはプラーナと同じく命・霊・風をも意味し「神から分割された生命の本質」や「マクロコスモス=神」に対応する
「ミクロコスモス=個人」というブラフマン≒アートマン概念とも対応する。
関連項目
◎ヨーガ
◎プラーナーヤーマ
◎チャクラ
◎気
982 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2011/12/08(木) 19:47:57.81 ID:fBeKrpK1
>981
ちょっと補足すると、呼吸の意味は西洋医学の言う呼吸器系の活動じゃなくて、古代の概念としての呼吸だから、単に酸素などを取り込み二酸化炭素などを吐きだすという意味ではない事を踏まえて頂きたい。
983 :
神も仏も名無しさん:2011/12/08(木) 19:59:07.54 ID:rWiA7j9T
>>981 ユダヤ教の「聖霊」や「霊魂」、ヒンドウー教の「アートマン」も、
原義はすべて「呼吸・生命」。現代ドイツ語でも、"atmen"は、そのものずばり、
「呼吸する」の意味。その名詞の"Atem"は、「呼吸、(比喩的には)生命力)」の
意味です。サンスクリット語もドイツ語も、インド・ヨーロッパ語族だから、語源は
同じ。古代人は、生命を的確に捉えていた。
それを、後世の人々、特に釈迦やイエスが誤解して、人間の肉体とは
別個のもにしてしまった。イエスにいたっては、「どこか人間の外から、
鳩のように舞い降りてくる物」と勘違いしてしまった。旧約聖書を充分
に読んでいなかったか、または誤解していたのでしょう。
その誤り、勘違い、誤解が、現代の宗教者にまで継続しているだけのことです。
>>983 > …それを、後世の人々、特に釈迦やイエスが誤解して…
釈迦が『何をどう誤解したのか?』、ご教示よろしく願います
>>983 何も知らないなら黙ってろよw
『アートマン』が語源を離れて特別な意味を併せ持つようになったのは、
釈迦の時代よりもずっと前だ、馬鹿垂れw
986 :
神も仏も名無しさん:2011/12/08(木) 20:28:09.19 ID:rWiA7j9T
>>985 ならば釈迦は、先人の誤りを踏襲したことになる。
>>984 釈迦は、「己の生命を以って、生命を無明として否定する」という大間違い
を犯した。
987 :
紅音矢 ◆R/kUipgeiA :2011/12/08(木) 22:01:27.70 ID:IbscD6v+
>>986 > 釈迦は、「己の生命を以って、生命を無明として否定する」という大間違いを犯した。
禅定(瞑想)などによって明智を獲得できてない場合は
『無明である』で正しいと思いますが?
989 :
神も仏も名無しさん:2011/12/08(木) 23:54:52.28 ID:kXkk6bLi
>>988 釈迦は、生命・煩悩そのものが「明知」であることに、思い至らなかった。
明知は、「スジャータの乳粥一杯でいつでも止められる、お遊び」に過ぎない
禅定によって得られるものではない。
釈迦は、大乗起信論や理趣経や正法眼蔵を読んで勉強すべきだったねw。
釈迦が、己の「我」を以って、「我はない、我は無明である」と叫んでいる
滑稽な姿は、漫画になるw。
990 :
正夫:2011/12/09(金) 08:36:03.91 ID:TfA5cCU1
福徳が乏しい一部の学仏者(仏教の修行者)は、
この一生の地位や財産を追うため、うわべに法事やら
徳積みやらに熱心だけど、100ドルを寄進して1000ドルの
報いを密かに願っている位だ。こういう果報に頓着して
法事に参加する俗人は、いかにも珍味に毒薬を混ぜるような
行動をしているのだ。この世の名望や地位のため、
名誉心の毒薬を飲んではいけない。修行者はそれを徹底的
に捨てて、純粋たる仏法の修練に精進すべきだ。(by尊者)
991 :
神も仏も名無しさん:
>>990 ひたすら、「自分の悟り」「自分の涅槃」「自分の解脱」「自分の満足」と
いう、エゴの目的のために修行する修行者も同じ。