仏教 議論スレッド 12

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207宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk
ギャラリーも増えてきたようですねぇ

>>133
>石飛先生による無我の誕生。

 すでにご存知の通り、後代(部派時代が疑わしい)になって、ゴータマの元々は非我であった教え
が「アートマンはない」という意味での「無我」へと改変されていった・・・ということが、まず一つ。

 『anattan(無我、我ならざるもの)の語は、ブッダも使います。ブッダの教えの中で重要な用語です。
これは、「主語+述語」の文の、述語に置かれます。「苦であるものは、我ならざるものである(=我
ではない)」ということで、「無我」は「我がない」という意味ではありません。「我ではない」という意味
です。
 ブッダの教説の中では、attanが主語におかれて「我がない」とか「我がある」とかいう文は作るこ
とはできないのです。『ブッダ論理学』の【難問5】にあります。彼の教説は、生じ滅するものだけを扱
うからです。しかし、生じ滅する「色」が、我ならざるものであることは、述べることができます。述語
には、規定はありません。だから、「無我(我ならざるもの)」という言葉も出てきます。

 ただ、いつの頃からか「無我(anattan)」に「我がない」という意味が混入してきますね。(部派時代
頃かな) これは、経典を作りかえたとかそういうことではなくて、解釈として、このような解釈が入っ
てくるということです。』(管理人エム/マニカナ掲示板過去ログ2739.)

 要するに、あなたのいいたいことというのは、仏教の立場ではバラモン・ヒンドゥーのような“何かが
在ることを前提としている”実在論ではなくて、一切は縁起/空性に依ることを説いて実在するものは
何もないと教えているのだ、ということなのでしょう。
 そして、アートマンは存在しないのだけれど(たぶんきっと)、「ない」と明言しない理由として、石飛
氏がこれを挙げていることを根拠にしている。
208宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/04/15(金) 16:46:20.99 ID:2xJhZVUI
 『<ブッダの体系においては、「ある」ということばと「ない」ということばは、対等の力関係にある。
生じてくるのを見て「ある」と知り、滅していくのを見て「ない」と知るからである。そして、生ずる性質の
ものは、かならず滅する性質のものなのである。だから、肯定と否定はまったく互角である>(p.231)』
(21世紀の論理学者は主婦の菩薩なんです!/Amazon.com, )

 しかしながら、仏教がいう「一切」(法)とは現象界に限定したものであるから、つまり、縁起/空性な
る性質も原理もニルヴァーナには適応できない、といっているのです。ハテ?このことを指摘してるの
は、水野氏だけということなのでしょうかね?私はこれを強く支持するのです。

 『われわれにとっての世界は現象界のみである。この意味における一切の現象界を仏教では一切
とか一切法とか呼んでいる。仏教が取り扱うのはこの現象界に限られる。(p127)
 諸行とは生滅変化する一切の現象法を指し、有為と同義である。すべての現象は一瞬の停止
もなく、無常にして生滅変化するというのが諸行無常である。(p158)
 理論的には「無常であるが故に苦なり」とか「無常であるが故に無我なり」とかいわれるように、苦
や無我の理由として無常が説かれた。(p158-159)
 この諸法は諸行と同じく、現象としての一切法ということになる。(p160)
 仏教で空や無我というのは本体論的意味ではなく、現象が空や無の状態にあることを指すのであ
る。無我というのも現象としての一切法が無我の状態にあることを示している(p163)
 一切行苦とは、一切皆苦、諸行皆苦ともいう。五蘊・十二処・十八界などの一切の現象法が苦であ
るということである。原始経典の現象法は無常であるから苦であるとされ ているのはそれである。
(p167)』(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊)
209宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :2011/04/15(金) 16:56:58.69 ID:2xJhZVUI
 これらをどう読んでも、縁起空がニルヴァーナに適応できるとは見えませんが・・・。であれば、現象
界を超越したアートマンは別格となります。もちろん、ニルヴァーナに在住する如来もその意識状態
は不変、恒久、永劫のものです。一度、如来となった存在は永遠に如来として留まり続けるのであっ
て、流転変滅しない。ただ意識状態がニルヴァーナに留まりつつ、意のままに変化することはできる。
つまり、自在を得ていると。

 ゴータマがヴェーダにそのままに同意することなく、アートマン(があるという意味)を説かなかった
のには、私は理由があるとみているのですよ。この私は神智学徒であるが故に、その理由を明確に
推察することができます。
 これにより、すべての疑問と矛盾点を解消できると主張します。ただし、残念ながら、その理由を
仏典上から確認することはどうやらできないようです・・・。従って、まだ推論に留まっています。


 では次回は、“三昧の境地はニルヴァーナではない”という主張。これがバラモン・ヒンドゥーと仏教の違
いだ、という誤解について述べたいと思います。