ギャラリーも増えてきたようですねぇ
>>133 >石飛先生による無我の誕生。
すでにご存知の通り、後代(部派時代が疑わしい)になって、ゴータマの元々は非我であった教え
が「アートマンはない」という意味での「無我」へと改変されていった・・・ということが、まず一つ。
『anattan(無我、我ならざるもの)の語は、ブッダも使います。ブッダの教えの中で重要な用語です。
これは、「主語+述語」の文の、述語に置かれます。「苦であるものは、我ならざるものである(=我
ではない)」ということで、「無我」は「我がない」という意味ではありません。「我ではない」という意味
です。
ブッダの教説の中では、attanが主語におかれて「我がない」とか「我がある」とかいう文は作るこ
とはできないのです。『ブッダ論理学』の【難問5】にあります。彼の教説は、生じ滅するものだけを扱
うからです。しかし、生じ滅する「色」が、我ならざるものであることは、述べることができます。述語
には、規定はありません。だから、「無我(我ならざるもの)」という言葉も出てきます。
ただ、いつの頃からか「無我(anattan)」に「我がない」という意味が混入してきますね。(部派時代
頃かな) これは、経典を作りかえたとかそういうことではなくて、解釈として、このような解釈が入っ
てくるということです。』(管理人エム/マニカナ掲示板過去ログ2739.)
要するに、あなたのいいたいことというのは、仏教の立場ではバラモン・ヒンドゥーのような“何かが
在ることを前提としている”実在論ではなくて、一切は縁起/空性に依ることを説いて実在するものは
何もないと教えているのだ、ということなのでしょう。
そして、アートマンは存在しないのだけれど(たぶんきっと)、「ない」と明言しない理由として、石飛
氏がこれを挙げていることを根拠にしている。