1 :
? :
2012/12/24(月) 10:39:59.14 ID:pVWgNl+r test
652 名前:机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. [] 投稿日:2012/12/24(月) 09:34:00.94 ID:bCG4o6fs > 「そうか!一切は虚妄なんだ!」と、「虚妄こそ真理」であると考えて教えに迷うものが出てきます。 横槍ですけど、成る程そうですか? 「迷う」といふのが、私には理解できませんですね。 お気に触ったのでしたら御免なさいね。 思い返せば、私が仏教に深く傾倒していったのは「生死一如」のフレーズでした。 このフレーズがもしなかったら、私はかくも宗教には関わらんかっただろうね? 私は今、日本経済に関心がありますですが、 この経済にしても虚妄でありますね。 なんの実体もない、それは揺れ動くユラギのようなもんで、これを文字列にした途端に 人の心も揺れ動くのであります。 そして、この揺れ動く様こそ人生なんでしょうね。 空即是色であります。 「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ」。 【梁塵秘抄より】
653 名前:644[sage] 投稿日:2012/12/24(月) 10:24:09.88 ID:oKqbtVGr > 「迷う」といふのが、私には理解できませんですね 教えを聞いて、その教えを「見解」として持ってしまう、ということです 例えば、仏は、善悪の分別をするという衆生の理解に従って、善悪の二つを説きます。 それは、悪を転じて善ならしめんとするためです。 (世俗諦:悪 → 勝義諦:善) しかし、この教えを聞いて、「善こそ至高!悪こそ低劣!」のように、 「見解」として持ってしまう者が出てくる。彼は、諸仏が、抜苦与楽の方便として、 「善悪」を説いたという理解がないのです。 「善悪」と聞くと、「善悪」なる実体がどこかにあると思い、善を賞賛し、悪を蔑みます。 そこで大乗になると、「善悪」は、縁起によって生じた虚妄なるもので、それを仮に善悪と仮説したということ、 それは、更なる勝義諦として明かされる「善でもなく、悪でもない、ありのままの世界(涅槃・戯論寂滅)」へ 至らしめるための教法、筏だったことを明かします。 (世俗諦:善、悪 → 勝義諦:善にもあらず、悪にもあらず) このように、善にも悪にも偏らないことが中道です。「苦・楽」や「有・無」を代入してもOKです。 ですから、「善・悪」という言葉は、諸仏が用いれば戯論寂滅へ導く方便になりますが、 凡夫が使うと、見解・戯論にもなり得ます。有所得とも言います。 > お気に触ったのでしたら御免なさいね いえいえ、興味を持って聞いてくださる分には全然大丈夫ですよ
644 名前:Classical名無しさん[sage] 投稿日:2012/12/23(日) 14:19:47.63 ID:noEr/GcP [1/3] 確かに、究極の勝義から言えば非虚妄非非虚妄ですね…では、そこまで順を追ってそこまで議論を進めます。 まず、部派や実在論者や常見に陥っている者は、「xは常に変わることなくxである」 という、誤った理解に陥っています。虚妄なる法を、虚妄ならざる法だと顛倒している者です。 諸仏は、これを破るために、「それは虚妄であり、xはxであると思ってもいずれ非xになってしまう」と諭します。 これは、世俗的には「虚妄ではない」が真実とされますが、勝義諦としては「虚妄である」となります。 この話には続きがあります。もし、ここで、「虚妄である」と教えを聞いて、 「そうか!一切は虚妄なんだ!」と、「虚妄こそ真理」であると考えて教えに迷うものが出てきます。 そこで初めて、諸仏は虚妄、非虚妄、これはどちらも世俗的な真理であり、勝義から見れば非虚妄非非虚妄である、と明かします。 (なぜならば、xは非xに変わると言っても、人々は依然としてそれをxと仮説して意思疎通ができるから) 何を言いたいのかといいますと、「xは常にxだ!」というレベルの者に、「非虚妄非非虚妄」という教えは早すぎます。 別の例で云いますと、十二縁起の順観、「生」を釈尊は 〔 正しからぬ道 〕 とし、逆観の「滅」を 〔 正しい道 〕 としました。 世俗諦:生 → 勝義諦:滅 となります。生を転じて滅にならしめます。 ところが、教えに迷って「滅こそ至高!」と考える者が出てきます。実在の滅を考えてしまいます。 そこで初めて、世俗諦:生、滅 → 勝義諦:不生不滅 という教えが出てくるのです。 「生」と「滅」には「常」と「無常」、「有」と「無」を代入しても同じです。
645 名前:Classical名無しさん[sage] 投稿日:2012/12/23(日) 14:25:59.23 ID:noEr/GcP [2/3] ちなみに、私は『中論』13-1は大滝さんの言うように、反対者の偈頌として仮に処理したとしても、 事態はそう大きくは変わらないと思います。 諸仏の言う「虚妄である」は、「虚妄ではない、人は常に人である」という見解を破るための、 方便・仮説・正説となりますが、反対者の言う「虚妄である」は、諸仏の「虚妄である」という 教えを受け取っては、「虚妄こそ真理」というように、教えに迷って言われたものなので、戯論・見解となります。 「虚妄である」という言葉1つをとっても、その発言者がどのような意図で言うのかどうかで、教えにもなれば、戯論にもなります。 諸仏は、「非虚妄非非虚妄」であると知って、「虚妄である」と言います。導くために。
622 名前:1/2大滝秀治[] 投稿日:2012/12/20(木) 16:58:11.56 ID:lQuvX9hz [1/3] おじゃます。野暮用で、大変遅くなりました。 急いでますので、中論13章について現在は以下のように把握している、ということで返事代わりにさせてください。 ・13-1『「およそ執着されたものは虚妄である」と世尊は説き給うた。そして、すべて形成されたものは執着されたものである。 それゆえに、もろもろの形成されたものは虚妄なのである。』 ★この偈は同7-34(如く)、24-18(相対の仮設)の仮観と矛盾します。「非虚妄非非虚妄」(四句第4)というべきです。 もし龍樹の偈なら、龍樹は透徹できておらず、反対者の偈なら誤解ゆえ、反駁は容易です。 しかし、編集が拙劣です。チャンドラキールティ(月称)のコピー間違いか? ・13-2『もしも、執着されたものが虚妄ならば、そこにどのような得るところがあろうか(なにも得るところはない)。 ところで、このことは世尊によって説かれたが、それは一切は空であることを明らかにするためである。』 ★同じく、これが龍樹の偈なら龍樹は透徹できていないといえます。同25-10・15⇔16・24 .Sn.1119 参照。 拙劣な編集です。まともなら、誰の偈なのか明解にすべきです。公案集じゃないんだから。 ・13―3『もろもろのものについて<自性の無いこと>(無自性)が成立する。なぜなら、それらのものについて変化することがみられるから。 しかし、それ自体(自性)を有しないものは、(実体として)存在しない。なぜなら、もろもろのものに空性があるから。』 ★後段を実体としての様相を問うものと解するなら、龍樹の偈として一貫します。 ものは自性がないから変化するように知覚されるが(仮観)、そのものとしての実体はありません(空観)。 仏法は、機能的には縁起であり、内容的には無自性(前段)無実体(後段)の空⇒中道なのです。 自性を機能的に定義すれば、自立性・単一性・恒常性であって、「無為法」や「超越主義」は縁起撥無の反仏法としかいえません。
623 名前:1/2-2大滝秀治[] 投稿日:2012/12/20(木) 17:04:45.23 ID:lQuvX9hz [2/3] ・13-4『もしも、自性を有しないならば、何ものに<変化するという性質>が有るだろうか(変化する性質はある)。 もしも、自性を有するならば、何ものに<変化するという性質>が有るだろうか(変化する性質はない)。』 ★このように解すると龍樹の偈として一貫します。 ・13-5『(実体としての)ものには<変化するという性質>が無い。 また(実体としての)他のもの(他の状態に達したもの)にも<変化すると言う性質>は適合しない。 なぜなら、(実体としての)青年は老いることがないし、(実体としての)老いた者も老いるということがないから。』 ★非無常非恒常(四句第4)が中道示唆です。 「老いる」は「老いる」ではない、「老いる」そのものがない。ゆえに「老いる」といいます。 ・13-6『もしも(実体としての)そのものに<変化するという性質>が有るならば、 例えば(実体としての)乳そのものが乳であることを捨てないで酪となるであろう。 また、乳とは異なる何ものか(例えば水)について、(実体としての)それが水であることを捨てないで酪となる、ということがありうるであろう。』 ★実体のものに<変化するという性質>はありえないのです。
624 名前:2/2大滝秀治[] 投稿日:2012/12/20(木) 17:11:30.18 ID:lQuvX9hz [3/3] ・13-7『もしもなにか不空(非空)というもの(実体)が有るならば、(その否定としての)空というものが有るであろう。 しかるに不空(非空)というものは何も存在しない。どうして空なるものが存在するだろうか。』 ★空であるとはものではなく様相(方便)です。 ・13-8『一切の執着を脱せんがために、勝者(仏)により空が説かれた。 しかるに人がもしも空見をいだくならば、勝者はその人々を「癒されない人」と呼んだのである。』 ★この偈は重要です。 Sn.653・874・1072(想いからの解脱において解脱)・1119参照。 空観に直指肯定文言はありえないのです(中論 帰敬序、25-3参照) 本偈は真言密教(空海)の「果分可説」の直接的な批判となっています。 以上
9 :
644 :2012/12/24(月) 11:32:06.65 ID:oKqbtVGr
>>1 乙です〜
あれ、精神疾患スレってもう2度と書き込めない感じですか?
ちなみに
>>1 さんは何者…?
467 名前:机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. [] 投稿日:2012/11/13(火) 09:40:58.10 ID:3ZE7Eotv [1/2] >諸仏は二諦に依り衆生に説法される この二締といふのは理論物理学で説明した方が早い。 電車が動いてる(走ってる)状態で、その中におる乗客は果して動いておるだろうか? アインシュタインはこのようなことを考えた。 電車は動いておったとしても、乗客は停止したまんま。だと理論ではなる。 試しに、 乗客が電車内でジャンプをした場合、もし動いておったのならば、 着地点は後退するだろ? アインシュタインは、着地点は後退するどころか発地点になることを発見した。 これが相対性理論の基本になるところでつ。 @乗客は動いていない。→これは正解 A第三者からすると、乗客は動いている。→これは正解。 そして・・・ 静止しておるはずの第三者が、実は動いておるんですね。 これを発見して、そしてアインシュタインは、こう言うたんでつ。それは、 「あらゆるものは、必ず動態であり静止しておるんものは無い」。これですね。 じつは覚者というもんは、高度は理論物理学をマスターしておったのです。 しかし私が掲示板に、このような事を書いても、 その意味というのがチンプンカンプンののではないですか? (つづく)
11 :
? :2012/12/24(月) 12:01:26.92 ID:pVWgNl+r
>>9 644 さんへ
> あれ、精神疾患スレってもう2度と書き込めない感じですか?
ERROR:このスレッドは512kを超えているので書けません!
↑ これが表示されて書き込み出来ないようです
_ _ _
> ちなみに
>>1 さんは何者…?
私は小学4年生の頃に
落武者の霊を、ハッキリ、クッキリ、目撃して、それ以来
オカルト原理主義に傾倒している状態の者です
一応、教学として
唯識・根本仏典・中論・般若経などの解説書を読んで
勉強している所です
私の場合は
オカルト原理主義に傾倒している状態なので
仏教スレの偉い先生の方々から
頭ごなしに叩かれている者です
468 名前:机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. [] 投稿日:2012/11/13(火) 09:42:06.01 ID:3ZE7Eotv [2/2] (つづき) 実は、相対性理論においても、大学生くらいの学力で本当に理解できるのは10パーセント くらいだそうです。 つまりそれだけのアタマしかないのは事実であります。 しかしながら・・・ 禅者は無意識のうちに宇宙論にまでそれは到達できるのであります。 これがいわゆる多次元論であります。 多次元でモチーフとなるのは、ブラックホールですね。 しかし今の理論物理学は、陰因子を通り越して、それで暗黒物質らしいです。 ここまでくると、私もどうにもなりません。 アタマが狂ってしまいそうです。 そこまでやる必要性はないのです。 相対性理論で充分ですから、これを先ずマスターすることが肝要でしょうね。
13 :
虚妄の如く1/3 大滝秀治 :2012/12/24(月) 12:12:28.45 ID:JlULTfZr
なんや?ややこしいいなw ん〜〜、身体が二つ欲しいw >「xは常にxだ!」というレベルの者に、「非虚妄非非虚妄」という教えは早すぎます。 >「虚妄である」という言葉1つをとっても、その発言者がどのような意図で言うのかどうかで、 たしかに相手を見て法を説くということはあると思います。 例えば、中論18‐6では説法シーン毎の待機説法ノウハウマニュアルを開示し、 『もろもろのブッダは(1)「我(アートマン)が有る」と“仮設”し、*←自我を無視する唯物論者用の仮設&仮説法 (2)「無我(アナートマン)である(我が無い)」とも説き、*←我執者用の「一切内」説法 (3)また「我なるものは無く、無我なるものも無い」とも説いた。』 *↑無我執者用の説法(無我との「想い」からの解脱Sn.1072)、 四句第4:非有我非無我 これらはコンサルティングの現場でのコンサルタント用マニュアルです。
14 :
644 :2012/12/24(月) 12:14:50.07 ID:oKqbtVGr
>>11 >↑ これが表示されて書き込み出来ないようです
了解です
>オカルト原理主義に傾倒している状態の者です
そうでしたか。だとすれば、やはり縁起を学ばれて体感されるのがぴったりだと思います。
といっても、私も全然体感できませんけどorz
472 名前:Classical名無しさん[] 投稿日:2012/11/14(水) 09:59:59.56 ID:NFFH0whw [1/2] ,/ ,..:::=ー,..:-=-::、 (( 、、_/ i'´ / _....,_ `ヽ 、ヽ ミゞ ゝ ヽ/ ; r','"⌒~^'ー::、 ''=,ミ -- ' ^ ~ ^ ニ _ ^ヾー-:、 ミ:、 ∠./,:=ニニ - 二 =ー::、 ^ ミ 、 ー ,.::-=ニ'レ,.:--‐ ー--:: 、ヽ ヽ ミ ヾヽ /,,.-‐i ;::::::-、 ! .;:::::;;;::;、 ; ヽ ミ 、ヽ、 〃./'i ,,:=:, 、 _ ,:=::.、 .; ニ ヾミ、_ ,! i l,γ @> ゙:. .: k @ ミ:、 .i ,:-' 、^ミ=- ノ. !,tゞニ彡'ノ : . ^ミ=ニイ、、 彡ソヘ ヾヽヽ、 /. レ / :. '-、 :, / ,ソミ:、 〉 ) | / /ゝ、_ノ..,)ヽ 、 l i /ヽヾ j λ ! ヘノ/ノ川 !.ヘヾ、ミ、 i :l ハノ .)ノ人 ヽ、 !.i^'=ァ〜'T''⌒ナヾヘ ! i /`´ ヽ、`l ; /,/ / ./ノ ヾ、i. ; 〃゙ / ,.ノ'´ ほぉ〜 そうかい ホッホッホッ ヾゝi_,ノ ノ/ ヽ、_,,../゙ ば〜〜〜〜〜〜かw 時空は縁起なんじゃよ そんなことより、四諦はどーした。
16 :
虚妄の如く2/3 大滝秀治 :2012/12/24(月) 12:16:55.30 ID:JlULTfZr
>>9 ところが中論13章はそういう類の説法マニュアルのシーンを想定したものではありません。
『自性』という重大な根本タームを問題にする以上、まさにプロ同士の激しい哲学的論争の章というべきです。
中論はまさに論戦で海千山千のスコラ部派(説一切有部など)連中をブチ倒すことを直接的な目的で書かれたものです。
そんな“〜という教えは早すぎます”とか、「導く」、なんて親切心は龍樹にはさらさら無かったと思います。無駄です。
法有論で「自性」を堅く理論構築している知的エリート連中は従順な子供ではないのです。
それどころか、必死であらゆるレトリックを駆使して相手を論破し党派としての優位性を確立しなければならず、
二諦説をストレートにぶち込まなければハナシにならなかったはずです。
ポイントは法有論(自性有り)を破説することですから、自性(svabhāva स्वभाव)批判が中心となります。
<自性・実体がない> → <虚妄である>は空見(中論13-8)です。
縁起しているものは虚妄ではありません。勝義(空)に直指表現はありえません。成立文字はありません。
無自性とは、ものはあるように見えるだけで真実には無いのだ(虚妄)、というような表層的なことを言っているのではないのです。
般若智直覚の空(の如く)である(直接現実:無分別勝義)は、分別知覚の有⇔無の二項相対である(間接現実:分別世俗)とは相が違うのです。
ところが<自性・実体がない> ⇒ <虚妄の如く(←示唆)である>は成立します。
比喩ですから、言語不立の勝義(空)を直指しているわけではないのです。間接現実での示唆なのです。
従って、アタシの掴みは上記>>622-
>>624 や質問箱
>>175 >>185 となります。
>>13 虚妄の如く1/3 大滝秀治さんへ
いつも有り難う御座います
だけど
世俗の人にも、わかるような文章表現で御願い致します
18 :
虚妄の如く3/3 大滝秀治 :2012/12/24(月) 12:22:16.76 ID:JlULTfZr
>『中論』13-1は大滝さんの言うように、反対者の偈頌として仮に処理したとしても あまりに拙劣な編集なので、あたしは必ずしもどちらとも言ってません。 ・13-1・2の『虚妄である』のままでは、まさに13-8のいう“虚妄である”との『空見』です。 *↑たしかに帰謬論法なら反対者の偈として俎上にあげた、ともみえます。 ・しかし、13-2で<「一切は空である」ことを明らかにするため>の文言は『法有論(自性有り)』ではありえず、龍樹の偈と言わざるを得ません。 となれば13-1も龍樹の偈とするのが自然です(両偈とも「虚妄」です)。 そうなら(1)透徹していない(⇔中論7-34、大智度論初品中十喩釈論第十一、金剛般若経32の仮観と矛盾)と龍樹を批判するか、 (2)原本がない以上、編集者自身が分かっていないか、誤記か、ということになります。 従って、正しくは、 ・13-1『「およそ執着されたものは、あたかも虚妄のようである」と世尊は説き給うた。そして、すべて形成されたものは執着されたものである。 それゆえに、もろもろの形成されたものは虚妄のようのである。』 ・13-2『もしも、執着されたものが虚妄のようならば、そこにどのような得るところがあろうか(なにも得るところはない)。 ところで、このことは世尊によって説かれたが、それは一切は空(の如く)であることを明らかにするためである。』となります。 以上
☆ 卍 仏教 質問箱 卍 ☆ パート32
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1354584399/175 175 名前:大滝秀治[] 投稿日:2012/12/20(木) 18:15:04.08 ID:pVqiw4ZX [2/2]
中論13-8『一切の執着を脱せんがために、勝者(仏)により空が説かれた。
しかるに人がもしも空見をいだくならば、勝者はその人々を「癒されない人」と呼んだのである。』
★この偈は重要です。
Sn.653・874・1072(想いからの解脱において解脱)・1119参照。
空観に直指肯定文言はありえないのです(中論 帰敬序、25-3参照)
本偈は真言密教(空海)の「果分可説」の直接的な批判となっています。
> 「一切はファンタジー」ってのが、お釈迦さんの喝破の内容なんじゃないかい?
中論13-1『「およそ執着されたものは虚妄である」と世尊は説き給うた。そして、すべて形成されたものは執着されたものである。
それゆえに、もろもろの形成されたものは虚妄なのである。』
★この偈は同7-34(如く)、24-18(相対の仮設)の仮観と矛盾します。
「非虚妄(ファンタジー)非非虚妄(ファンタジー)」(四句第4)と示唆べきです。
もし龍樹の偈なら、龍樹は透徹できておらず、反対者の偈なら誤解ゆえ、反駁は容易です。
しかし、編集が極めて拙劣です。誰の偈か明解に編集すべきです。
現に中観派の論師たちでも混乱しています。
チャンドラキールティ(月称)のコピー間違いか?
☆ 卍 仏教 質問箱 卍 ☆ パート32
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1354584399/185 185 名前:虚妄の如く 大滝秀治[] 投稿日:2012/12/23(日) 11:28:17.86 ID:5kMRGUZJ
レスありがとうございます。『議論スレなら放っておくつもりでしたが、 質問スレなのでついつい』レス返ししておきます。
休憩中の気休め?wになります。
> 虚妄というのは、決して「虚妄だから言語表現できない」という意味ではありません。
そうではありません。虚妄だから言語表現するのです。
『虚妄』論者はすべてを世俗諦(間接現実)でしか見えていない虚妄=物語・ファンタジー・イリュージョンだからこそ、
逆に虚妄だと直接肯定言辞で言語表現してしまうのです。
たとえば、無想家の宝珠や、オイラ氏や、Sn.757にいう『愚者』のようにね(議論スレッド51など)
→まさに虚妄だ、とは『空見』です(中論13-8)。
石飛道子は完全に読み間違っています。
直接現実においては直接肯定的言辞はありえません。
間接現実からは“虚妄の『如く』”(←比喩)、“非虚妄非非虚妄”(←四句第4)、沈黙(維摩など)、気合音(喝〜ツなど)などのスタイルで示唆するしかありません。
これを> 『それはしばしのものでしかない』ゆえに仮設→仮観(中論24-18の趣旨)というのです。
あなたは中論24-18を掴めていない。
ものは自性がないから変化するように知覚されるが(仮観)、そのものとしての実体はない(空観)からこそ、言語ゲームとしてプレイするのです(中観)。
> 中論13-2では、このことは「空を闡明するものである」
もしこれが龍樹の偈なら龍樹は透徹できていないといえます。同25-10・15⇔16・24 .Sn.1119 参照。
仏法は、機能的には縁起であり、内容的には無自性(前段)無実体(後段)の空⇒中道(の如く)なのです。
21 :
644 :2012/12/24(月) 12:37:31.29 ID:oKqbtVGr
>「導く」、なんて親切心は龍樹にはさらさら無かったと思います。無駄です。 うわぁ…この一言は、大滝さんと私の考え方の、大きな違いを表してますね…残念です。 > <虚妄である>は空見(中論13-8)です 「虚妄である」が空見になるかどうかは、言う人の態度によります。 吉蔵の『大乗玄論』の言葉を引用します。 「一往、相対して論ずるなら、常は戯論であり、無常は非戯論である。 また、無常は戯論であり、常は非戯論である。 また、常と無常を倶とすれば戯論である。非常非無常は非戯論である。」 「有所得の四句は並びに(四句すべて)戯論である。 無所得は方便をもって四句を説くため、悉く(四句すべて)非戯論である。 また、これは正説である。」 (常は非虚妄、無常は虚妄と置き変えても同じでしょう。 四句は、虚妄、非虚妄、虚妄非虚妄、非虚妄非非虚妄、ですね) また、 「五蘊は我意識から生じたものであって、その我意識は真実には虚妄である。 もし種が虚妄であるならば、その芽がどうして真実に存在し得ようか。」 (龍樹「宝行王正論」1−29) とありますが、「我意識は真実には虚妄である」は、空見ではないでしょう。 「これあるとき、かれある」の「これ」と「かれ」に代入されるものを、虚妄や無自性と言っています。
22 :
虚妄の如く 大滝秀治 :2012/12/24(月) 12:42:08.66 ID:JlULTfZr
>>15 おお懐かしいアインシュタインの肖像ではないか。
それは、以前アタシが投稿したものさw
ところで、アインシュタインもモーツアルトが好きだった。
◆シゲティの演奏:「モーツァルト:ヴァイオリンソナタ K454 変ロ長調」
「音楽再生」
http://www.yung.jp/yungdb/op.php?id=628 (Vn)シゲティ (P)セル 1950年代前半録音
を今聴いているが、
シゲティもいいが、ジョージ・セルのピアノがめっちゃイイ!
極めて構成的だが、音の粒立ちが鮮やかで、闊達な推進力がある。
実に偉大な指揮者だったが、指揮者にしておくのはもったいない!w
23 :
644 :2012/12/24(月) 12:43:27.43 ID:oKqbtVGr
>『自性』という重大な根本タームを問題にする以上、まさにプロ同士の激しい哲学的論争の章というべきです まあ、そういう見方が多いかもしれませんね。中村先生もそう解釈してるように見えます。 >法有論で「自性」を堅く理論構築している知的エリート連中は従順な子供ではないのです。 >それどころか、必死であらゆるレトリックを駆使して相手を論破し党派としての優位性を確立しなければならず、 これは、その通りだと思います。この論争、戯論を鎮めるために、『中論』は書かれたということでしょう。 石飛先生はこれを、「言い争わない論法」と言いますね。「論争(戯論)」を鎮めるための「論争(非戯論)」というところです。
>> 「導く」、なんて親切心は龍樹にはさらさら無かったと思います。無駄です
> うわぁ…この一言は、大滝さんと私の考え方の、大きな違いを表してますね…残念です
http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron04a.htm _ _ _
中論卷第四 龍樹菩薩造梵志青目釋 姚秦三藏鳩摩羅什譯 觀如來品第二十二
空は則ち説けない!空でなくても説けない!
空、非空は共であろうと共でなかろうと説けない!
但だ仮名を以って説くのみだ!
_ _ _
中論觀四諦品第二十四
衆因縁より生ずる法を、わたしは即ち是れは空だ!と説いた
何故ならば衆縁が具足、和合して而も物が生ずる!
是の物は衆因縁に属するが故に自性が無い!
自性が無いが故に空である!但だ
衆生を引導するが故に、仮名の空を以って説いた!
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98 インドにおける成立と展開
唯識は、初期大乗経典の『般若経』の「一切皆空」と『華厳経』十地品の「三界作唯心」の流れを汲んで
中期大乗仏教経典である『解深密経(げじんみつきょう)』『大乗阿毘達磨経(だいじょうあびだつまきょう)』として確立した
そこには、瑜伽行(瞑想)を実践するグループの実践を通した長い思索と論究があったと考えられる
論としては弥勒(マイトレーヤ)を発祥として、無著(アサンガ)と世親(ヴァスバンドゥ)の兄弟によって大成された
無著は「摂大乗論(しょうだいじょうろん)」を、世親は「唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)」「唯識二十論」等を著した
「唯識二十論」では「世界は個人の表象、認識にすぎない」と強く主張する一方、言い表すことのできない実体があるとした
「唯識三十頌」では上述の八識説を唱え、部分的に深層心理学的傾向や生物学的傾向を示した
28 :
644 :2012/12/24(月) 13:18:18.52 ID:oKqbtVGr
>般若智直覚の空(の如く)である(直接現実:無分別勝義)は>、分別知覚の有⇔無の二項相対である(間接現実:分別世俗)とは相が違うのです いえ、二諦は相即します。「世諦即第一義諦」、「生死即涅槃」と言われる所以です。 「諸法(は)実相(である)」と言っても良いでしょう。『大乗玄論』には、 「唯だ一つの実諦なのであるが、方便によって二諦と説く」と説かれます。 石飛先生が、「世俗諦も第一義諦もすべて地続きの地平である」 「世俗諦を超えたところに第一義諦があると思うのは、やはりどこかに誤解があるだろう。」と仰る通りです。 > <虚妄の如く(←示唆)である>は成立します。比喩ですから 直喩だけではなく、隠喩というものがあるでしょう…。どちらも喩えです。 また、大滝さんは「虚妄」という言葉に「虚妄」という意味を読み取っているように見えます。 「如来は常をとり去るために無常を説くのであり、これは無常(そのもの)を謂うのではない。 実(体性)をとり去るために空と言うのであり、これは空(そのもの)を謂うのではない。 我をとり去るために無我と言うのであり、これは無我(そのもの)を謂うのではない。 相をとり去るために寂滅と言うのであり、これは寂滅(そのもの)を謂うのではない。」 (僧肇、『注維摩』大正蔵38巻、353頁) 虚妄は、有自性を破るための方便・仮説ですよ。
>>29 の補足です
第六表面意識による
「〔有ではない無でもない〕と言う哲学的な思惟に固執してはいけない」
「何か常識的な概念などに固執してはいけない」
_ _ _
末那識(まなしき)とか阿頼耶識(あらやしき)などに働き掛けて
「常識的な概念の殻を打ち破って涅槃に逝けっ!」
と言うような意味合いです
31 :
644 :2012/12/24(月) 14:05:46.40 ID:oKqbtVGr
>>30 の補足です
(自性)自相とは、「それをそれたらしめている本質的な要素がそれ自体の側にある」と私たちが自然と思い込んで執着している心の働きです
それ自体の側に「自性のような何かがある」と思い込んで執着している心の働きです
この何かに執着している心の働きを
末那識(まなしき)とか阿頼耶識(あらやしき)などに働き掛けて
「〔何かについての思い込みの〕殻を打ち破って涅槃に逝けっ!」
と言うような意味合いです
>>31 さんへ
> 独り言のようにも見えるので、返信しないでもよいですか…w
どちらでも OK です
34 :
644 :2012/12/24(月) 14:15:40.68 ID:oKqbtVGr
>>33 了解です。私は唯識はあんまり分からないので、ちょっとずつ勉強していこうと思います。
では、そろそろ遊びに行ってまいります〜
>>34 さんへ
> 遊びに行ってまいります〜
↑ 気をつけて行ってらっしゃいませ〜
_ _ _
礼拝帰依 ブッダン サラナン ガッチャーミ
普礼真言 オン サラバ タタギャタ ハン ナマンナノウ キャ ロミ
地蔵菩薩 オン カカカビ サンマエイ ソワカ
屮(_ ._)屮 屮(_ ._)屮 屮(_ ._)屮
http://sankei.jp.msn.com/world/news/121224/amr12122412070001-n1.htm マヤ遺跡の神殿が一部破損 観光客、禁止区域立ち入りか 2012.12.24 12:06 [南北アメリカ]
中米グアテマラ北部にあるマヤ文明のティカル遺跡で、
マヤ文明の暦が「新たな時代」に切り替わるのを祝うため
今月20〜21日に行われた式典に多数の観光客が訪れた後、
神殿など歴史的建造物の一部が破損しているのが確認された。
観光客が立ち入り禁止の階段を上ったことなどが原因とみられ、
ティカル国立公園の管理担当者は「公園のルールを守ってほしい」と訴えている。
有力紙プレンサリブレが23日までに伝えた。
同紙によると、
主要な建造物の「2号神殿」や「南のアクロポリス」で、
階段の角が削れるなどの被害が見つかった。
ティカルの式典にはペレスモリナ大統領らが出席。
遺跡をライトアップし、
先住民の宗教指導者が「新時代」の到来を祝うなどした。
大災害や人類滅亡などの終末論と関連づけて世界的な関心が集まり、
6千人以上の観光客が訪れた。(共同)
640 名前:Classical名無しさん[] 投稿日:2012/12/22(土) 20:53:07.00 ID:pDvw9941 マスコミは騒ぐのが仕事、トラブルイベント飯の種、興味関心注目を集める為なら誇張扇動捏造もする 十分なリテラシー教育を受けていない者ほど偏向思想デマ宗教エセ科学に感化洗脳される 史上最大のトンデモ本は新約聖書/感情自己責任論 _ _ _ 机先生と、隠居先生 ここの場所を見つける事 出来るかしら? おじゃる?
http://www.47news.jp/medical/2012/12/65.php 宮崎の病院で集団感染 ノロウイルス6人死亡、入院患者5人重症 2012/12/24 12:46 【宮崎日日新聞】
宮崎県は23日、
日南市南郷町の医療法人春光会東病院(加藤久仁彦院長、64床)でノロウイルスによる感染性胃腸炎が集団発生し、
14〜22日に78〜88歳の男性入院患者6人=いずれも日南市=が死亡したと発表した。
同病院が県に死亡者の報告をしたのは5人目が亡くなった後の22日午前で、1人目の死亡から8日後だった。
このほか76〜90歳の入院患者5人が重症で、酸素吸入の措置を受けている。
県は医療機関や社会福祉施設などにあらためて感染予防策の徹底を呼び掛けている。
県によると、県内での死亡例は2010年12月以来で、今季の集団感染による死者数としては全国で最多。
同病院は17日から外来診療を休診している…
39 :
虚妄論はポア思想直結1/2 大滝秀治 :2012/12/24(月) 15:42:53.52 ID:JlULTfZr
>>21 アタシの定義では、およそ妄想分別が言語に表れる場合のその語や文章・指示する言語論理を『戯語』『戯論』と言っています。
>吉蔵の『大乗玄論』の言葉
上記の吉蔵の言語論理全体(これがまさに戯論ですがw)の中で、間接現実からの直接現実“示唆”という機能で見る限り、
唯一四句第4『非常非無常』だけが非戯論といえます。
間接現実で両端否定形式で言語矛盾を相殺している非二項相対であること、
また直接現実の直指表現(空は表現できない)ではないからです。
他の四句第1〜3は分別戯論です。
>『無所得は方便をもって四句を説くため、悉く(四句すべて)非戯論である。 また、これは正説である。』
>「虚妄である」が空見になるかどうかは、言う人の態度によります。
吉蔵は“方便云々”といいますが主観目的で論理の性格を左右すべきではありません。
上記は正説ではありません。吉蔵は誤っています。
主観的な目的(無所得・利他意識)が正しいならば、すべてが戯論でなくなるというのは、ご都合主義発想と批判されるべきです。
妄想分別はあくまで分別戯論です。
これら発想は、オウムのポア思想とおなじく、“方便”で“虚妄”の人間を殺してもカルマ(業)を軽くする善行だという論理に直結します。
アタシが『虚妄』論(空観)に反対し、『虚妄の如く』論(仮観)を重視するのは、
チベット密教や真言密教の空=虚妄だから殺戮OK!に反対するのと同じ動機からです。
密教タントラ・ヴァジラヤーナ(秘密金剛乗) 五仏の法則(真言宗の金剛経などにも見られる教え)を
仏教議論スレッド49を中心に批判してきたのもあまりに仮設『仮観』(中論24-18)を軽く見がちだからです。
悪手空観であって中観ではありえません。
40 :
虚妄論はポア思想直結2/2 大滝秀治 :2012/12/24(月) 15:48:06.24 ID:JlULTfZr
>「五蘊は我意識から生じたものであって、その我意識は真実には虚妄である。 >もし種が虚妄であるならば、その芽がどうして真実に存在し得ようか。」 (龍樹「宝行王正論」1−29) >「我意識は真実には虚妄である」は、空見ではないでしょう。 空見です。 もし「宝行王正論」が龍樹の著作なら、龍樹は誤っています。 「真実」は戯語です。真⇔偽の相対は中道ではありません。相対の仮設語(中論24-18参照)です。 ついでに23-2(真実)、24-8・9・10(真理)も誤りです。 それこそ、よく使用される『真如』=“真の如く”、『如来』=“(彼岸から)来るが如く”←仮観というように表現べきです。 間接現実からの比喩による直接現実(中道)示唆だからです。 「虚妄」も戯語です。虚⇔実の相対は中道ではありません。 この文章そのものが空見です。 ついに龍樹は透徹していなかった、というべきです。 中論は全面改訂を必要とします。 まあ、自家薬籠中のものにすれば、いかに勝れたポンコツ筏でも、捨てるのが当然でしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%A6%B3%E6%B4%BE 天台宗の「三諦偈」「一心三観」「円融三諦」
天台宗の教理を通して、中観思想を理解しようとする際には、注意が必要である
慧文禅師に始まる天台宗では、クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)による漢訳『中論』の、第24章18詩である
「衆因縁生(因縁所生)の法、我即ち是れ無(空)なりと説く。亦た是れ仮名と為す。亦是れ中道の義なり。」
(どんな縁起でも、それを我々は空と説く。それは仮に設けられたものであって、それはすなわち中道である。)
における「空」「仮」「中」を、それぞれ別々の真理(諦)と捉え(「空諦」「仮諦」「中諦」)、
この文を、その「三諦」を説いているものとして「三諦偈」と呼ぶ
ここでは
「空」と「仮」が、「無」(断見)と「有」(常見)の「二辺」として捉えられてしまっており、その「空観」と「仮観」の対立から
「中観」(「非有非空の中道」)を見出すこと、あるいは
これら「三諦」を一体的なものとして観ずること(「一心三観」「円融三諦(三諦円融)」)などが、説かれる
>>41 の続き
『中論』の原義から言えば、「空」(空性)も、「仮」(仮名・仮説・仮設)も、「中」(中道・中観)も、
全て、「縁起」「無自性」の言い換えであり、
同じ内容を違う言葉・表現で言い表してるだけ、ただの「同義語」として使用しているだけに過ぎず、
対置・対立させるような関係にはそもそもないのであり、ましてや、
「空」や「仮」を、「無」(断見)や「有」(常見)の「二辺」と混同してしまうような、
上記の捉え方は、端的に言って、解釈としては、明確に誤りである。
(ちなみに、三論宗の宗祖である嘉祥大師吉蔵もまた、
(全面的ではないにしろ)こうした「三諦」の解釈を承認していた。)
こうした天台宗・中国仏教的な「誤解」を、前向き・好意的に捉えることもできなくはない
(実際、語彙・概念にまつわる誤解は混じっているものの、
「空」という概念もまた「非空」なる諸々の概念と相互依存的に成り立っているとも見ることができるし、
「空」概念の実体視や、そこへの執着を避けるためには、
「空」概念もまた相対化されるべき対象になるわけで、そういった点では発想としては間違っていないし、
冗長ではあるものの、丁寧にもう一歩踏み進んだものだとも言える)
が、少なくとも、『中論』の正確な理解や、
その主旨である「縁起」「無自性」の正確な読み取りを考える上では、
確実に妨げになるということだけは、踏まえておいてもらいたい。
43 :
Classical名無しさん :2012/12/24(月) 17:28:47.49 ID:JVdy0bSi
http://kyushu.yomiuri.co.jp/news/national/20121224-OYS1T00272.htm ノロウイルス集団感染か、日南の病院で患者6人死亡 2012年12月24日 読売新聞
宮崎県は23日、
同県日南市南郷町東町の医療法人春光しゅんこう会「東ひがし病院」で、
入院患者や病院職員ら計44人が嘔吐おうとや下痢などの症状を訴え、
うち78〜88歳の男性患者計6人が死亡、
76〜90歳の男女の患者計5人が重症と発表した。
現在入院中の患者5人からノロウイルスが検出され、
同県はノロウイルスによる感染性胃腸炎が原因とみて調べている。
同県によると、ノロウイルスが原因とみられる集団感染による死者数としては、
全国で今季最多という。
46 :
二相の相即 大滝秀治 :2012/12/24(月) 17:57:23.50 ID:JlULTfZr
>>28 >二諦は相即します
当然です→中論25-19。
それは、分別相(仮観:色)と無分別相(空観:空)の二相<色即是空>を、
覚者にとっては無分別の分別(中観)として相即する<空即是色>、ということです。
凡人と覚者を同じには扱えません。
二相の相即を体得できないから、たとえば坐るのです。
『二相の相即的実践』はアタシのキーワードです(仏教議論スレッド47
>>244 )。
ちなみに『諦』が真理を意味するなら、第一義“諦”の語は誤っています。
だからアタシは、「間接現実」「直接現実」と言い換えています。
仏法の仏法たるゆえんは“縁起”です。
縁起の現実は事実であって、理性による分別判断(→真理)ではないからです。
縁起の現実に、・分別知覚・記憶・判断を通す「間接現実」と、
・無分別智(般若智)直覚による「直接現実」の様相を観ます。
47 :
戯論寂滅? 大滝秀治 :2012/12/24(月) 18:03:17.09 ID:JlULTfZr
>大滝さんは「虚妄」という言葉に「虚妄」という意味を読み取っているように見えます。 インターネットというバーチャル空観を含む間接現実は、 まさに二項相対の言語ゲームの世界<一切は言語的存在であり、意味的存在である>ですから 当然「虚妄」という意味をとります。 そうでなければ娑婆では慶安に暮らせません。白痴入院とか生活保護では、娑婆では大迷惑です。 しかし、直接現実は、一切は空(の如く)であり、 無意味・無価値・無実体・無相・無矛盾・無想・無分別の中道=時空際断(の如く)です。 上記僧肇、『注維摩』の趣旨は戯論寂滅(中論25-15→25-16:Sn.1072参照)のコンセプト(『〜をとり去るために』)ですが、 残念ながらこれはダメでしょうw <毒(言語論理←戯論)をもって毒(言語論理←戯論)を制する>ことは不可能です。 それ自体が毒(間接現実)に他なりません。 たとえば、あなたは、 ・『飛ぶ矢は、飛ばず』(ゼノンのパラドックス) ・『去るものは、去らず』(龍樹) ・『龍馬がゆく』(大滝秀治) これらの文言を@寂滅(“『〜をとり去る』:僧肇:『有自性を破るため』)させ、且つA涅槃へ導くことなどできますか? オイラ氏に何度も“範例”の提示をお願いしているのですが、逃げておられますw やはり、大死一番! 分別知(間接現実)から⇒無分別智直覚(直接現実)への飛翔(ジャンプ!)が必要です。 そのための四諦『八正道』でしょう。 以上
仏教議論スレッド47
http://mimizun.com/log/2ch/psy/1349669547/244 244 :2/2大滝秀治 :2012/10/12(金) 09:22:46.57 ID:sYGvmiW3
で、実践ですが
「坐水月道場(色即是空) 修空華万行(空即是色)」
⇒<出世間のまなざしで、世間の只中で慶安に遊ぶ(生きる)>ですから
坐るときも、日常の仕事も遊びもエッチも、釜ヶ崎でも、TPOが変るだけで、同じです
変えようがありません
即ち、<二相の実践的相即>(*←アタシのキーワード!:中論25-19)です
*但し!一即多とか、法界は一味だ(
>>78 )とかの華厳的思想→不二一元論などの、あんなチンケ思想ではありません
生きる(存在)は遊びですから、慈悲とか功徳とか回向だとかの、肛門が痒くなりそうな構えて御立派で御大層な意識なんて
まるでありません
やりたいようにやっているだけですよ
ただ、煩悩あればこその「遊び」ですから、“二念を継がず”は意識しています
最終的には、もうそろそろいいかなと思ったときは、周囲に迷惑をかけないためにも
山中で断食で変相(ゲームオーバー)することに憧れています
龍樹や空海さんやジャイナ教の真似ですけどねw
熊やカラスなどの餌として役立てばいい
そうです、『ニンゲンは犬に食われるほど自由だ』!
ガンジスの川辺でくたばっているオヤジなんか『なんてダンディな奴だ。』!(藤原新也「メメント・モリ」p20,22、28)
めっちゃんこカッコよくて、このオヤジに満腔の共感あるのみです
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama25.pdf 涅槃は存在でも、まったく存在しないものでもないものだ
と言われる
もし存在と、まったく存在しないものとが証明されるなら
このことも証明されるであろう(中論25-15)
もし涅槃が
存在でも、まったく存在しないものでもないのだとして
「存在でも、まったく存在しないものでもない」というのは
誰によって説かれたものなのだろうか(中論25-16)
涅槃へと行かれてしまった後
勝利を得た征服者は存在しているとも言われず
まったく存在していないとも言われない
その両方だとも言われず、両方でもないとも言われない(中論25-17)
したがって勝利を得た者がその状態でとどまるとき
彼は存在しているとも言われず
まったく存在していないとも言われない
その両方だとも言われず、両方でもないとも言われない(中論25-18)
http://sankei.jp.msn.com/science/news/121224/scn12122418080002-n1.htm 日本海側、大雪警戒を 気象庁、北日本で 2012.12.24 18:07
気象庁は24日
強い冬型の気圧配置の影響で25〜26日にかけて北日本(北海道、東北)の日本海側と北陸を中心に大雪の恐れがあるとして
交通機関の乱れや雪崩に警戒するよう呼び掛けた。北日本では非常に強い風も吹き、暴風雪になる所もある
気象庁によると、25〜26日にかけ、前線を伴った低気圧が発達しながら北日本を通過し、冬型の気圧配置が強まる見通し
25日午後6時までに予想される24時間降雪量は、いずれも多い所で東北と北陸40センチ、北海道30センチ、近畿20センチ
26日は北日本と北陸でさらに増える見込み
54 :
644 :2012/12/24(月) 20:24:56.70 ID:EeX5Oijs
>もし「宝行王正論」が龍樹の著作なら、龍樹は誤っています。 >僧肇、『注維摩』の趣旨は…(中略)…残念ながらこれはダメでしょうw >上記は正説ではありません。吉蔵は誤っています わろたw 大滝さんははじめっから伝統説、というのかな。 テキストに書いてあることを書いてある通りに理解するんじゃなくて、 持論をまず正しいという前提にテキストを利用するってタイプだったんだね それなら、やっぱり質問スレに書き込むべきじゃないと思うよ >アタシの定義では ほら、やっぱりきた!言葉の中に、意味を一意に定めて定義しちゃってるでしょ? 中村先生もそう、空=非有非無って定義しちゃうんだよなぁ、そういう西洋的な文献学の方法がまずいのに 「去りつつあるもの」という言葉の中に「去る作用」という意味を与えて定義するなって龍樹も言ってるじゃ〜ん それは、一切の言語活動を破壊するよ > <毒(言語論理←戯論)をもって毒(言語論理←戯論)を制する>ことは不可能です まじすか。じゃあ、釈尊とか諸仏の説法は全部、戯論ってこと? >これらの文言を@寂滅(“『〜をとり去る』:僧肇:『有自性を破るため』)させ、且つA涅槃へ導くことなどできますか? 「xです」という教えを受け取る者が、「なるほどxこそ真理!」と、見解として持ってしまう限り、大滝さんの言うように、無理ですねぇ 教えを説く者に方便があっても、教えを受け取る者が無方便では、教えは教えにならない、と吉蔵が言っている通りですね >分別知(間接現実)から⇒無分別智直覚(直接現実)への飛翔(ジャンプ!)が必要です この辺り、字面だけ見ると、そんなに間違ったことは言ってないんですけどねぇ…
普礼真言/オン サラバ タタギャタ ハン ナマンナノウ キャ ロミ
屮(_ ._)屮 屮(_ ._)屮 屮(_ ._)屮
題目って真言の事ですよね?
_ _ _
☆ 卍 仏教 質問箱 卍 ☆ パート32
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1354584399/38 38 名前:金剛界秘密荘厳院平安堂[age] 投稿日:2012/12/06(木) 01:40:27.88 ID:QsYw1Y1v [1/2]
真言を勉強するならば梵語梵字を学習してください
般若心経ももともと梵字で書かれています…
ブラーフミー文字ですね…
「題目」とは日蓮が発明した法華経のタイトル(題目)を唱えること。「南無妙法蓮華経」です
聖書主義と同様の野蛮な原理主義的僧侶だったのでしょう日蓮というのは…
「真言」はもう梵語をそのままです…
これはしっかり梵語や梵字を勉強して下さい
インドのことを昔は婆羅門国と言っていました。その国の言葉なので略して梵語です
バラモン(婆羅門)は、宗教者と学者を兼ねるようなもので、当時は王侯貴族武士を凌ぐ勢力でした
☆ 卍 仏教 質問箱 卍 ☆ パート32
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1354584399/42 42 名前:another[] 投稿日:2012/12/06(木) 02:04:19.24 ID:UL1prt7d [5/9]
全然理解してないので安心した
まず空を理解していない
これはしかたない
やはり釈迦の作ったパズルはよくできている
理解しようと努力する人をことごとく跳ね飛ばす
ナーガールジュナが頓珍漢やったからなおさらだなぁ
うーむ、やはり釈迦みたいな対応になっちまうのかぁ
ひとつ教えとくが、釈迦の教えより現代科学のがずっと役にたつ
まぁ釈迦の教えも役に立つ人には大変役にたつものではあるが
修行積めば詐欺にひっかからないとか
うーむ、どうだろう
そんなに涅槃にいくことが必要だろうか
仏教議論スレッド51
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1354931980/566 566 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2012/12/24(月) 23:25:54.40 ID:4vBNBfuh
臨床精神医学者の宮本忠雄氏は
「真正の宗教体験と統合失調症体験とは相似の形式的構造を持つ」と捉え
両者を下記のように対比している(『』内が、統合失調症の症状)
「見えないものの現存感
→『実体的意識性(隣の部屋に誰もいないのに、誰かがいるという感じ)』
「神の声→『幻聴』」、「見神→『幻視』、「啓示→『思考吹入・妄想着想』
「超越者からの支配感(召命感)→『被影響体験・させられ体験』
(「統合失調症と宗教」(星川、松田著、2010年1月10日創元社発行)より)
_ _ _
↑ これは隠居先生なのかしら? おじゃる?
八正道 われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り 自分の心身を厭う思を起こし 心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」である このように現実を厭うことは 人間の普通の世俗的感覚を否定するものに見えるが その世俗性の否定によって、結果として 真実の認識(如実知見)に至るための必要条件が達せられるのである 正見は「四諦の智」といわれる 正見は正道によって実現される
瑜伽師地論(ゆがしじろん)の場合
http://reigaku.jugem.jp/?eid=424 人が死ぬ時に
過去の長い間の経験により蓄積された
我愛が現起し
その力にうながされて
自己に愛著し
無始の時以来つづいてきた執着された
戯論(けろん)と
善悪(善でも悪でもないものも含める)業により
中有が形成される
そして、やがて
その中有が次に生まれるべき処を求めて母体に入り
ここで男性の精子と女性の卵子が結合するときに
中有は滅すると同時に生有が生じ
一切種子たる阿頼耶識(あらやしき)がこれに結合して
精子は成長して胎児を形成し出生に至る
仏教議論スレッド51
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1354931980/541 541 名前:神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2012/12/24(月) 21:06:20.88 ID:7VGPl9JU [1/7]
宝珠さんは真面目な人で本当に好感が持てる。
しかし持てない所は業報輪廻説を信奉している所。
釈迦はその説を所持していたかもしれないが輪廻からの脱却を説いている。
業を作らないことに重きを置いている。
それは善因善果、悪因悪果と相入れない。
そこを基軸にしているなら業報輪廻を視野に入れるのは悪くないと思われる。
もう一つは奇跡や神秘体験を信奉している所。
この板にいる以上は誰だって、そのような体験の一つや二つはしている。
しかし、それこそが夢幻であり教義通りその執着から離れている人は
多数いると考えられる。迷妄に囚われることが害悪と経伝から皆、知覚している。
唯物論からの離脱は当然であり仏教は特に精神性に重きを置いてると思う。
そもそも仏教を唯物論と捉えている者が存在するのだろうか?
唯物論からも神秘主義からも離脱すべきではなかろうか?
原罪については、そのようなことに心を痛めることが執着であり、
嗜好を生む苦であり悪にも繋がると思われる。
般若経の解説
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html これまであなたたちは
(永久不滅 ・ 常住不変のアートマンを土台としたバラモンなどの)輪廻を信じてきた
世尊は輪廻を説かれたのではなく、輪廻からの解脱を説かれた
だから世尊は、(バラモンなどの)輪廻を方便として、正しい知恵を説かれた
これまであなたたちは、(バラモンなどの)善行に励み、永遠ばかりを探してきた
だから、凝り固まり、ありのままに変化を見ることに慣れていない
無我を、縁起を、空を見ることがうまくない
(それ故に、)あなたたちには、(無我 ・ 縁起 ・ 空を観察する為の)練習が必要だ
およそ、禅定に入ろうとする人は …
… この吐いて吸う大きな長い息を十数え、何度も繰り返し、なにも考えず、ただ息を数え続けます
68 :
1/3誤謬空観 大滝秀治 :2012/12/25(火) 11:36:08.05 ID:xDZKJo6U
>>54 >伝統説、というのかな。 テキストに書いてあることを書いてある通りに理解するんじゃなくて、
>持論をまず正しいという前提にテキストを利用するってタイプ
おやおや、やはりがっかりですねえw
あなたも『伝統仏教』という妄想に固執する「立場」主義者だったのですか。
「万世一系の天皇」を妄信する伝統主義者と変りませんね。
アタシはいわば「無立場の立場」のフリースタイルですよ(中村元『釈尊の生涯』126頁〜参照)。
ただ、おのずから縁起現象のグラデーション上の様態(個性)と知覚されるに過ぎません。
アタシは、すべて大疑団でキチンと根拠を明示して批判しています。
<自帰依←(大疑団)―フィードバック―(菩提心)→法帰依>⇒(大パリニッバーナ経2-26)の相即的実践(
>>46 >>49 )です。
繰り返しになりますが、知覚され得るコト自体を間接現実で有意味な現象間の<はたらき=機能>が無主体の「仮」=仮観と把握します。
有るように知覚・記憶されるが、幻の「如し」←仮観です。
★幻そのもの・虚妄(空っぽ、ゼロ)では、分別(カウントできる)の誤謬空(中論24-11・12)です。縁起を掴めていないのです★
オウム真理教と同じです(
>>39 )。
仮説的です。直指肯定ではありませんが、知覚されるそれ自体は間接現実での有意味な現象間の<はたらき=機能>が「仮」となるからです。
それはまさに<存在するものでもなく(空観)、存在しないものでもありません(仮観)>⇒中道・中観です(龍樹 中論15-7、25-10)。
69 :
2/3如し 大滝秀治 :2012/12/25(火) 11:41:50.76 ID:xDZKJo6U
>>54 如し=仮観の経典上の根拠を提示しておきます。
・龍樹 中論7-34 『 あたかも幻の“如”く、あたかも夢の“如く”あたかも蜃気楼の“如”くであると、
譬喩をもって、生起(生)が説かれ、持続(住)が説かれ、消滅(滅)が説かれているのである。』
・金剛般若経 32 『一切有為法 “如”夢幻泡影 “如”露亦“如”電 応作“如”是観』
・相応部教典 22-95 『色は聚沫の如く、受は水泡の如く、想は陽炎の如く、行は芭蕉の如く、 識は幻事の如しとは 日種の〔尊〕の所説なり。』
・大智度論初品中十喩釈論第十一『解了諸法如幻如焰如水中月如虛空如響如犍闥婆城如夢如影如鏡中像如化』
( 諸法(諸の事物)は、 『幻』のようであり、『焔』のようであり、『水中の月』のようであり、『虚空』のようであり、 『響』のようであり、
『ノ闥婆城(つばじょう、蜃気楼)』のようであり、『夢』のようであり、 『影』のようであり、『鏡中の像』のようであり、『化』のようであると、解了する。)
上記のように、すべて仮観で“虚妄のようである”であって、誤謬空観で“虚妄だ”、とは言っていません。
中論13-1・2とは矛盾します。
どうぞ、中論13-1・2のアタシの解釈(
>>18 )を批判願います。
龍樹ならどう弁解するんでしょうねえw
70 :
3/3パラドックス 大滝秀治 :2012/12/25(火) 11:47:20.40 ID:xDZKJo6U
>>54 >言葉の中に、意味を一意に定めて定義しちゃってるでしょ?
『一意』とやらが?ですが、間接現実の言語ゲームは一切は言語的存在(仮設)であり、意味的存在(仮説)だから当然です。
中村博士の『非有非無』は間接現実からの中道(の如く)の“示唆”の意ですが、
『空=非有非無って定義しちゃうんだよなぁ』とあなたが受け取るのは、あなたが無方便だからです。
>教えを受け取る者が無方便では、教えは教えにならない、と吉蔵が言っている
吉蔵がそう言っているなら、教えを受け取る側は悟っていないのだから無方便なのは当然であって、
だからこそ、<毒(言語)で毒(言語)を制することが出来るのか>の問いが成立するわけです。
言語ゲームのパラドックスは般若智で飛翔しなければ調いません。
中論第二章が成功しているとは思えません。
以上
いい気分転換になります。
ありがとう。
では修空華万行に戻ります。
秘密経典理趣経 / 八田幸雄(著) / 184ページ参照 一切如来を揮斫するとは 空の中には自己もなく如来もない 自己と如来を分別する限り それは空の体得ではない 自己を捨て去るとともに 如来も捨て去って初めて 空 ・ 無自性の世界に没入することができる 自己のすべてを捨て去るとともに 一切如来も捨て去るところに 般若の空が体感会得されるのである
73 :
644 :2012/12/25(火) 12:10:39.44 ID:melnLHXO
まあ、俺も前は大滝さんみたいに考えてたから、気持ちはよく分かるんだけどね 「虚妄の如し=虚妄の如し」、「虚妄=虚妄」、→ 故に「虚妄≠虚妄の如し」、はい矛盾乙 みたいに形式論理学的に考えてた時期が俺にもあったからね >あなたも『伝統仏教』という妄想に固執する「立場」主義者だったのですか。 >アタシはいわば「無立場の立場」のフリースタイルですよ 俺も権威主義は嫌いだから、あくまで「無立場」から挑んだつもりだけど、 よくよく勉強してみると、自分の考えの方が浅いと判断したから、伝統に乗っかったってタイプだよ 大滝さんみたいに、俺は龍樹やら吉蔵の説を覆せるほどの智恵は俺にはなかったよ > <存在するものでもなく(空観)、存在しないものでもありません(仮観)>⇒中道・中観です そうそう、字面だけ見ると俺も全く同じ考えだよ。天台の三諦もこんな感じだよね。
大日経住心品講讃 / 松長有慶(著) / 大法輪閣(2010/02) / 270ページ参照 秘密王よ 真言の門において菩薩行を修する諸菩薩は深く十縁生の句を観察し 真言の行に通達して、悟りに到達すべきである 1).即空の幻で 「 五蘊が実在である、と固執する考えを退ける為に 」 十縁生句を観ずる 2).即心の幻で 「 阿頼耶識が実在する、と固執する考えを退ける為に 」 十縁生句を観ずる 3).不可思議の幻で 「 世俗と真理の両世界から離れる為に 」 十縁生句を観ずる
http://www.daitouryu.com/iyashi/voice/voice03.html 釈迦は「生命の再生」を次のように説く
生命(命体の意)は「火」であり、肉体は「薪(たきぎ/燃料の意)」であるが故に燃えるのである、と説く
薪が尽きれば、炎は消えるが、しかし薪が尽きても、「火種(ひだね)」は残る
残った火種こそ、渇愛による
「異蘊(いおん/「蘊」とは
五蘊(ごうん)を指し、集合体の意で、現象界の存在の五種の原理をいう
色(しき)・受・想・行(ぎよう)・識の総称で、物質と精神との諸要素を収める
色は物質および肉体、受は感受作用、想は表象作用、行は意志・記憶など、識は認識作用・意識
一切存在は五蘊から成り立っており、それ故に、「無常」とか「無我」であると説かれる
一方、異蘊はこれを否定し、墮落に向かわせ
「慢断(我慢を断滅すること)ぜざるがゆえに、此の蘊を捨て己(おわ)りて異蘊相続して生ず」
と言う一行が、そもそもの仏道の眼目とするところである)」
である、と
_ _ _
我慢を断滅する事が出来ない場合は
此の蘊を捨て己(おわ)っても
異蘊相続して
又、次の、この世の生に戻り来る
十八界の分類方法 根・境・識の「三事和合」 認識には 対象(境)・認識器官(根)・認識作用(識) の三つが必要だという考えによります
世界大百科事典内の境の言及 【六境】より … 仏教では,認識作用の対象(対境)を〈境(きよう)〉という 認識する感覚器官とその働きを合わせて〈根(こん)〉といい 眼(げん)(見る),耳(に)(聞く),鼻(び)(嗅ぐ),舌(ぜつ)(味わう),身(しん)(触れる) の五根にはそれぞれ対応する対象があり それらを順次に 色境(しききよう)(いろ・かたち),声境(しようきよう)(声や音),香境(こうきよう)(香りや臭気) 味境(みきよう)(甘・辛などの味),触境(しよくきよう)(触覚による冷・暖,堅・軟など)の五境とする … 〔それぞれの用語は最新の内容であることを保証するものではありません〕
無明 真実相にたいする根源的無知 行 潜在的形成力 識 認識作用 名色 名称と形態 六処 六つの領域 眼 耳 鼻 舌 身 意 蝕 接触 受 感受 愛 妄執 渇愛 取 執着 有 生存 生 生まれること 老死 老い死ぬこと
http://www.j-theravada.net/pali/key-tanha.html 渇愛(タンハー)
『これは、ビクらよ、苦しみが現れてくる過程についての聖なる真理です。
苦は、渇愛から生じます。
渇愛は、再成し続け、喜びと愛着をともない、いつでも心の気に入る、という三つの特色をもち、
五官を刺激したい、存在したい、壊したい、という三種類の欲で成り立っています。』(初転法輪経)
tanhâ(タンハー)とは「渇いている」「満たされていない」「ほしい」という生命の根元的な欲望で「渇愛」と訳されています。
渇愛の特色の一つは『punabbhava』。
これは puna (再び) と bhava (成ること) からできた言葉で、成っては消え、成っては消え、ずーっと何らかの状態に成り続けていくことです。
たとえば欲深い人はそれなりに色々なことをしていくし、立派な人間になりたいという人もそれなりに色々なことをしていきます。
そうやって動きながら、瞬間瞬間、私たちは変化していきます。それは止まりません。
「私はこれで終わった、もう何もする必要はない」という心の状態になることは、決してありません。
次から次へと「何かになること」をくり返していきます。
tanhâ(タンハー) tanha^ 最後の a の上に ^ これを乗せる
90 :
Classical名無しさん :2012/12/26(水) 13:11:19.49 ID:mosbLgRb
>>1 :?:
仏教議論スレッド 52 を建てたってください。
91 :
? :2012/12/26(水) 13:35:34.32 ID:AN2XSETm
ERROR:Lvが足りなくてスレッド立て(ら)れません。 ↑ これが表示されてスレ立てられませんでした 屮(_ ._)屮
92 :
? :2012/12/26(水) 13:46:40.21 ID:AN2XSETm
93 :
? :2012/12/26(水) 13:54:52.30 ID:AN2XSETm
おじゃる速報!
http://www.news-postseven.com/archives/20121226_160610.html ダライ・ラマ 有数の仏教国である日本の若者に平和実現期待 2012.12.26 16:00
ダライ・ラマ:
仮に中国がより開かれた民主国家になれば、多くの問題は解決しやすくなる。
中国では正しい情報が欠けており、日本が悪いとの思い込みがある。
正しい情報こそが正しい判断をもたらす。
中国指導部は現実を直視し、情報公開や法治の徹底を進めるべきだ。
ダライ・ラマ:
私は科学者との対話によって、穏やかな心を得るには仏教的な瞑想が効果的であると知った。
日本は世界有数の仏教国であり、勤勉な民族だ。
若い日本人たちが平和な世界を実現する先頭に立ち、道筋をつけると期待している。
※SAPIO2013年1月号
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 94〜95ページ参照 私たちの心に現われてくるすべての現象は あたかもそのもの自体の側から それ自体の力によって成立しているかのように見えますが 実は、それ自体の力によって成立しているのではありません 対象物がそれ自体の側から成立しているのかどうか という究極の存在のしかたを探求してみると それを調べる人は すべての現象において それ自体で成立している生成や消滅を見出すことはできないのです
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 95ページ参照 「戯論」とは 心によって作り出された虚構の論議のことであり 妄分別のもととなるものです 無上ヨガタントラの流儀に従って言えば 戯論とは 疎なレベルの一時的な意識が作り出すもの と考えてよいでしょう
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 95〜96ページ参照 所知障を滅する対策としては 顕教と密教に共通する中観派の見解によって戯論を鎮めるだけでは充分ではなく 疎なレベルにおける一時的な意識をも鎮めることが必要となります 非常に微細なレベルの意識を顕現させることによって 疎なレベルの意識の働きを止めて 対象物と、対象物を見る意識を二次元的にとらえるのではなく 一つの味と知ることが必要です
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 96ページ参照 … このような境地を達成するには 究極のもののありよう(真如)を理解し それを顕現することによって 一時的な心の汚れを根こそぎ断滅し いついかなる時も 空 に一点集中する禅定から起きることなく 空を直接体験として理解する智慧にとどまり続けて … … このようにして悟りを開かれたのです
仏教議論スレッド52
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1356500644/15 15 名前:観察と煩悩 大滝秀治[] 投稿日:2012/12/26(水) 23:52:18.34 ID:UOuKsQJP
>無我 ・ 縁起 ・ 空を観察する
あなたはどのようにして「観察」する、またはできるのですか?
で、観察した結果はどーでしたか?
『無いものを観察できるはずもなく』の指摘は鋭いニュアンスがあります。
>この深層的な自我心を滅することによって
で、あなたは自我心とやらを『滅する』ことができましたか?
滅(nirodha)は、本来、「制する」(支配・コントロールする)ことであって、日本語の含意での「滅する」ではありませんよね。
四諦は<苦・集・制・道>ということですよね(般若心経・金剛般若経 岩波文庫p31)。
滅と制では「大変な相違」です。
23 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2012/12/27(木) 07:24:07.64 ID:bchEH0Mz [1/2]
般若心経・金剛般若経 岩波文庫p31の記述は間違い
チベット語 'gog pa は インド語ni-√rudh 系の意味なら「止める。塞ぐ。遮断する。せき止める」
√siidh系の意味なら「防ぐ、制す、否定、廃止、遮断する」だから、「制する」はあるとしても「制御・支配・コントロールする」というような意味から遠く
そういった意味はない。
優れたチベット現代語辞典で 'gog を引くと
http://star.aa.tufs.ac.jp/modules/tinycontent2/index.php?id=1 01. (車などを)止める.(ブレーキを)かける.
02. (流れを)止める,せき止める.
03. (〜を)防ぐ,食い止める.
04. (〜を)塞ぐ,閉じる,封じる.
05. (〜を)密封する.
06. (〜を)遮る,遮断する,封鎖する,不通にする.
07. 避妊手術をする.
08. (〜を)取り押さえる,押さえる.
09. (〜を)妨げる.
10. (〜を)拘留する,待たせる.
11. (〜を)撤回させる.
12. (〜を)書き留める,記録する.
13. (期限,時間などを)決める.
最も権威あるチベット語辞典である蔵漢大辞典は以下の通りとされている
蔵漢大辞典の記述1)止める。塞ぐ。遮断する。せき止める 2)反駁する
24 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2012/12/27(木) 07:29:02.48 ID:bchEH0Mz [2/2]
最も収録語数の多いチベット語辞典である蔵英辞典も以下の通り
http://www.nitartha.org/dictionary_search04.html 'gog
/ [p bkag, khog!]; 1) block/ obstruct[ion]; 2) stop/ hinder[ance]; 3) limit/ end; 4) cease[action]; 5) counteract/ resist/ hold out against;
6) detach from; 7) fill/ stuff; 8) [p bkog],, pick/ pull/ out [IW]
'gog - decay, to block, obstruct, ban, break [JV]
'gog - {ppafi; 'gog pa, bkag pa, dgag pa, khog/khogs} va. to block, obstruct, stop, hinder, limit, end, cease. 2) to counteract, detach from each other.
Syn {so sor dgar ba} Syn {'bal ba} 3) to fill, stuff. 4) to pick. 5) to pull out, pluck. 6) to resist. {mi 'gog} unobstructed [ry]
中村先生はあまりチベット語ができないし、拠っているダス蔵英辞典は信用できない。
特にダスの環梵は無根拠に勝手に為されることが多く、注意を要する。
よってその記述は全く信用することができない。
ID:bchEH0Mz さんへ!、御教示頂き、有り難う御座います _ _ _ 礼拝帰依 ブッダン サラナン ガッチャーミ 普礼真言 オン サラバ タタギャタ ハン ナマンナノウ キャ ロミ 地蔵菩薩 オン カカカビ サンマエイ ソワカ 屮(_ ._)屮 屮(_ ._)屮 屮(_ ._)屮
仏教 議論スレッド 29
http://mimizun.com/log/2ch/psy//1324746559/215 215 :神も仏も名無しさん:2011/12/29(木) 00:51:18.60 ID:Icoe9iDH
水野訳:
877
彼等(諸見者)を依著者なり【と知り】、かの現慧ある牟尼は依著【を知り】、
「慧者は《種々の有》に戻り来たらず」【と知りて】、解脱者は諍論に至らず。
877(884)
ete ca 【JatvA】 upanissitAti, 【JatvA】 munI nissaye so vimaMsI ,
【JatvA】 vimutto na vivAdameti, 《bhavAbhavAya》 na sameti dhIro ti.
※墨括弧、二重山括弧は引用者が付加。
やはり中村訳「変化的存在」は、bhava(有、生存、存在)だったか・・。
(862(869)から、少なくとも875(882)から連続した偈と見るべきだし)
各語にしても語順・構文にしても、水野訳の正確さはさすがだ・・。
中村訳からの卒業は急務かもしれん・・・。
水野訳こそ、文庫レベルで出るべきだと思う今日この頃w (片山訳も高額になるだろうしなぁ・・ orz)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%AB%A6 四諦
苦は「知り尽くすべきもの」(遍知)
苦の原因は「滅するべきもの」(滅除)
苦の滅は「実現すべきもの」(成就)
苦の滅を実現する道は「実践すべきもの」(修習)
滅諦
滅諦(めったい、nirodha-aaryasatya)とは、「苦滅諦」といわれ、煩悩が滅して苦のなくなった涅槃の境地を言い、
いっさいの煩悩の繋縛(けばく)から解放された境地なので解脱の世界であり、煩悩の火の吹き消された世界をいう。
または、苦の滅があるということを認識すること、すなわち苦の滅の悟り、または苦の滅を悟ることを滅諦という。
具体的には、諸法皆空という言葉で言われているように、森羅万象全ての法、
すなわち諸法はすべてこれ空であって、実体のあるものではなく、
因と縁から成り立っているものであり、苦は縁であり、
縁は因(たとえば心や行いなど)を変えることによって変わりうるという悟りであるとも言える。
道諦
道諦(どうたい、maarga-aaryasatya)とは、「苦滅道諦」で、苦を滅した涅槃を実現する方法、
実践修行を言い、これが仏道すなわち仏陀の体得した解脱への道である。
その七科三十七道品といわれる修行の中の一つの課程が八正道である。
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 101ページ参照 「無明」(根源的無知)の障りを持つ者は 再び輪廻に生まれるための 三種の「行」(行為)を実際になし それらの業によって、生存の場所に赴く
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 107ページ参照 環境世界も生き物も どちらも五蘊に依存して存在しています 五蘊はどのようにして形成されるのかと言うと 根源的無知が存在していて それに依存して形成されていきます この根源的無知、つまり無明は 真実のもののありようを理解することを妨げるものです そして 三悪趣(地獄界・餓鬼界・動物界)の生を生み出すような 不徳の行ないをなす条件となっている無明 つまり因果の法について無知であるということを意味する無明もあります
この根源的無知と言うのは ↓ この渇愛(タンハー)の事だと思います
_ _ _
苦は、渇愛から生じます
渇愛は、再成し続け、喜びと愛着をともない、いつでも心の気に入る、という三つの特色をもち
五官を刺激したい、存在したい、壊したい、という三種類の欲で成り立っています
タンハーとは「渇いている」「満たされていない」「ほしい」という生命の根元的な欲望で「渇愛」と訳されています
渇愛の特色の一つは『punabbhava』
これは puna (再び) と bhava (成ること) からできた言葉で、成っては消え、成っては消え、ずーっと何らかの状態に成り続けていくことです
そうやって動きながら、瞬間瞬間、私たちは変化していきます。それは止まりません
次から次へと「何かになること」をくり返していきます
http://www.j-theravada.net/pali/key-tanha.html
新参に近いから分からんのだけど、ここって基本的に「?」さんのメモ書き板なん?
113 :
? :2012/12/27(木) 15:29:42.88 ID:J9mp+3ky
ここは私が立てたスレだけど どうぞ自由に御使い下さいませ ここは規制中の方でも書き込みが出来ますよ
http://www.j-theravada.net/pali/key-tanha.html すべての苦しみのもとは、「生きていきたい」「ほしい」という心のはたらきです。
仏教では、「ほしい、ほしい」と思うのは真実がわかっていないからだといっています。
無明から渇愛が生まれるのです。
無明と渇愛がうまく絡み合って、無始なる過去から終わりなく苦しみをつくり出しています。
そこから脱出しましょう、客観的に自分を観ることによって、
無明と渇愛を消していきましょう、というのがお釈迦さまの教えなのです。
仏教 議論スレッド 29
http://mimizun.com/log/2ch/psy//1324746559/916 916 :神も仏も名無しさん:2012/01/07(土) 08:52:00.09 ID:AFRbqqXP
因みに文は以下の内容です
> 「風断雲を送って峯に帰り去り、月流水に和して橋を過ぎてくる」と詩的に表現いたします
> このように転処の妙をうたい出すのは、禅僧ばかりではありません
ついでに言うと、禅僧の意味を教えてくださいと言えば、普通は答えられますよね
ええ、そうです、禅宗の僧のことです。この際、禅僧の前後の文なんて読まなくても分かる人は分かりますよね
同様に転処の意味を問うているわけでして …
仏教 議論スレッド 29
http://mimizun.com/log/2ch/psy//1324746559/921 921 :神も仏も名無しさん:2012/01/07(土) 09:30:46.06 ID:s/M2p71F
答えたのはかつて 【?】 って名のってたヤツだろう。ここでは分からなくても答えるヤツが結構いるんだよ
「転処」の意味はぎりぎりまで追い込まれて、そこで転じて悟る状況といった意味だろう
竿頭一歩、転機、転身といった意味に近く、追いつめられた状況が転じて悟る機会、状況、環境といった面に重心を置いているようだ
具体的に言えば、公案などに書かれる状況がそれ
ここは文字だけでやりとりするところだから、文脈などを察することができない
まして、自分も分からなくて聞いてるわけだから、常識的な言葉ではないわけだろう
それなら、オイラが言うように文脈が分かるように書くのが、当たり前だと思わないか?
例えば君が出した禅僧という例も、現代では通例そうかもしれないが、古典では必ずしもそうでない
T1764_.37.0815c05: 法印權大僧都賢寶 生年六十四
T1764_.37.0815c06: 翌年十二月中出御室御經藏本誂隆禪僧
T1764_.37.0815c07: 都補闕字了頗以證本也可喜可喜
隋の淨影寺慧遠が書いた『大般涅槃經義記』だ。この頃、禅宗はなかったから
君が言う意味ではない。日本でも同様の意味で「禅僧」という言葉が使われたんだよ
これでも君はそう思わないか?
仏教 議論スレッド 46
http://mimizun.com/log/2ch/psy/1347797650/10 10 :神も仏も名無しさん:2012/09/17(月) 15:19:36.51 ID:48z+mTAP
> 自立論証派 ← 例えば 「 火の熱さや燃焼作用が火の自相として認められる 」 とする世俗的な考え方に近い立場
> 帰謬論証派 ← 世俗の次元においても自相(自性)を、否定する
これはゲルク的理解で原義は全くちがう
自立・帰謬という宗派は、特に言葉はインドで使われなかった可能性が高い
そして月称菩薩の中観をチベット的に自立・帰謬で呼び習わすとしても
帰謬派ということはできても帰謬論証派ということはできない
なぜなら、論証したなら主張・見解を持つことになり
そうなると中観の趣旨である四句分別遮断による戯論寂滅への導きという道から逸脱することになるからだ
これはゲルクが批判する離四辺中観に他ならない
離四辺中観こそインド中観の王道を伝えるもので、シナ・日本の中観も基本的に変わらない
一方、特殊な論理学を用いて自立論証を中観に取り入れた清弁菩薩は
だからこそ月称菩薩に批判されたのであって、論証法の違いでも、自相(実在)に対する解釈の違いからでもない
そんな些細なことではなく、中観の本質に関わる問題だから批判されたのに他ならない
ゲルク中観はより自立論証的であり、私見ではよりアビダルマ的で全く中観的ではないと思う
仏教議論スレッド47
http://mimizun.com/log/2ch/psy/1349669547/602 602 :神も仏も名無しさん:2012/10/15(月) 19:52:16.10 ID:IUghqojJ
中論は、一言で言えば、「般若経」の神秘家が見出した最高の真実の上に立って、区別の哲学を批判する書物である
龍樹は、「中論」第十八章にあらわれる本のわずかなの数の詩頌だけで、彼の見た最高の真実を語っているのである
鳩摩羅什訳の「大智度論」は、「般若経」の空・無想・無願とおいう三つの三昧を解説するさいに、第7詩頌を引用している
龍樹はこの章において、上述の三つの三昧を念頭に置きながら。瞑想によって得られる神秘直観の世界の真実を記述
しようとしたのではないかと思われる
「中観と空?T」梶山雄一P41(文章の関係で一部前後しました。ご了承ください。)
_ _ _
滅尽定について書かれている事が、そのまま滅尽定を体験していたことにはなりません。当然ですけど
龍樹の語っている禅定体験が、三解脱門であるというのは、私の意見ではなく上に示した通り石飛道子さんや梶山雄一ら学者の意見です
488にあるように、なぜ上座部の長老が龍樹を批判するのだろうか?という意味での一つのアプリーチと考えてください
つまり、龍樹の禅定体験は、未熟で実践という意味では、中論などの龍樹の著作は大した意味を持たないと言う仮設です
あくまで、仮説ですが
仏教議論スレッド47
http://mimizun.com/log/2ch/psy/1349669547/607 607 :神も仏も名無しさん:2012/10/15(月) 20:18:30.10 ID:H3dblq+S
> つまり、龍樹の禅定体験は、未熟で実践という意味では
> 中論などの龍樹の著作は大した意味を持たないと言う仮設です
> あくまで、仮説ですが
あの滅尽定ってのは迷い道で、最終的な境地ではないというのが
以下のようにアーガマ・ニカーヤ、諸論書の説くところではないでしょうか?
PTS, DN II, 156: 九次第定で涅槃する時にアーナンダが涅槃と勘違いする
倶舎自註 ad 2.43 ff.: 滅尽定は心・心所の止滅
非想非非想処の境地。聖者がこれが涅槃であると勘違いする境地
ただし、前に示したように青目註『中論』は以下のように
滅尽定は心・心所が止滅し、不生不滅の諸法実相で、寂静相で涅槃のようと述べています
これは私の知る限り唯一の例外です。青目註の誤解か
羅什三蔵の誤解、あるいは誤伝と考えるのが妥当と思われます
http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron03a.htm 中論觀法品第十八
一切の心行は皆、是れは虚妄であり虚妄の故に滅するはずだ
諸法の実相は諸の心数法を出て無生、無滅であり涅槃のように寂滅の相だ!と
それ故に
諸の禅定の中で滅尽定(想受滅)を以って第一と為し終に無余涅槃に帰する
八聖道分を修習して、我、我所を滅する因縁の故に、無我、無我所を得て智慧を決定する
_ _ _
煩悩障(自己に対する執着)
所知障(外界のものに対する執着)
の二種の障害を根絶することによって、阿頼耶識が変化を起こす(転識得智=てんじきとくち)
これがすなわち、汚れを離れた領域であり、思考を超越し
それを得たものは解脱身であり、仏陀の法と呼ばれるものである(大円鏡智=だいえんきょうち)
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 114ページ参照 「行」(行為)が縁となって 「識」(意識)が生存の場所に入る 「識」(意識)が〔そこに〕入ると 「名色」(名称と形態)が形成される
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 114ページ参照 「行為」には からだによる行ない 言葉による行ない 心による行ない の三種類があります 行為が終わったあとには 未来にその行為の結果を生むことになる潜在力が残るのです
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 115ページ参照 有為法(ういほう) 無常である故に 因と縁によって 果と報が現れる _ _ _ 意識の連続体の流れに依存して 将来的に さまざまな結果を生む力が 蓄積されているのです 習気(潜在力)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AB%E7%BF%92 熏習(くんじゅう)
身口に現れる善悪の行法もしくは意に現れる善悪の思想が
起こるに随ってその気分を真如あるいは阿頼耶識に留めること
香りが衣に染み付いて残存するようなことを言う
薫習が身口意に現れたのを「現行法(げんぎょうほう)」といい
真如あるいは阿頼耶識に気分が留まったものを「種子(しゅうじ)」あるいは「習気(じっけ)」という
このように現行法が真如あるいは阿頼耶識にその種子もしくは習気を留める作用を薫習という
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 119ページ参照 「名色」(名称と形態)が形成されると 「六処」(六つの知覚能力)が生じる 「六処」(六つの知覚能力)に依存して 「触」(接触)が生じる
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 120ページ参照 眼と色(物質的存在)と作意に依存することにより 〔眼の意識が〕生じる つまり、「名色」(名称と形態)に依存して 〔感覚器官を通して機能する〕意識が生じるのである
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 120〜121ページ参照 眼と色(物質的存在)と意識が 三つ集まると それが「触」(接触)である 「触」(接触)からすべての「受」が生じる
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 121ページ参照 「触」(接触)から生じた「受」(感覚)が 苦しみであれば、それから離れたいという「欲望」が生じ 幸せであれば、それから離れたくないという「欲望」が生じます それによって、執着や怒りが起きてくるのです
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 121ページ参照 「受」(感覚)を縁として「愛」(欲望)が〔起こる〕のは 「受」(感覚)を得るために「愛」(欲望)を生じるからである 「愛」(欲望)を持つと、それに執着(「取」)して 四つのものに執着(「取」)するようになる
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 122ページ参照 「四つの執着」(四取) 1).五感の対象物に対する執着(欲取) 2).極端な間違った見解に対する執着(見取) 3).間違った戒律や苦行などを修行することに対する執着(戒禁取) 4).自我に対する執着(我語取)
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 122ページ参照 「取」(執着)が存在すると 執着する人の「有」(生存)が生じる もし「取」(執着)が存在しなければ 解脱して、輪廻の生存(「有」)は生じない
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 125ページ参照 _ _ _ 自立論証派と唯識派の場合は 人我執を煩悩障 法我執を所知障 と位置づけているけど _ _ _ 帰謬派の場合は 人我執も法我執も煩悩障であり 所知障はその習気であるとしているため 煩悩障を滅して解脱を得るためには 人無我と法無我を両方理解しなければならない としています
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 126ページ参照 _ _ _ 「有」(生存)もまた五蘊である 「有」(生存)から「生」(誕生)が生じる 「老死」(老化と死)、心痛 悲嘆の言葉、苦痛 _ _ _ 不愉快、心の動揺などはみな 「生」(誕生)から生じている このようにして 苦しみばかりの集合体(蘊)が生じる
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E7%9B%B8%E5%AE%97 法相宗(ほっそうしゅう)
中国創始の仏教の宗派の一つ
唐代、638年(貞観19年)中インドから玄奘が帰国して
ヴァスバンドゥ(世親、vasubandhu)の『唯識三十頌』を
ダルマパーラ(護法、dharmapaala)が注釈した
唯識説を中心にまとめた『成唯識論』を訳出編集した
この論を中心に、『解深密経』などを所依の経論として
玄奘の弟子の慈恩大師基(一般に窺基と呼ぶ)が開いた宗派である
そのため、唯識宗・慈恩宗とも呼ばれる
所依経典・論
解深密経
瑜伽師地論
成唯識論
関連項目
唯識派
興福寺
薬師寺
南都六宗
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 132ページ参照 故に、賢者たちは 輪廻の源となる行ないをなさない 賢者たちは真如を見ているからである 〔輪廻の源となる行ないをするのは〕賢くない者たちである
般若心経は間違い? (宝島SUGOI文庫) / アルボムッレ・スマナサーラ / 宝島社(2009/06) 日本で一番知られているお経 写経でもまず第一に選ばれるのが「般若心経」 では、この般若心経って、いったいなんなのでしょうか? 初期仏教のテーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老が ブッダの教えをもとに、般若心経を解読していきます 一行一行、順を追って解説しながら、般若心経のヒミツに迫り かつてだれも到達したことのない結論に達します はたして般若心経とはなんなのでしょうか 中国経由で日本にやってきたこのお経が ここまで裸にされたことは、かつてありませんでした
はじめに 般若心経は難しい? 「『般若心経』は難しくてわからない」。 そんな声をよく耳にします。 確かに『般若心経』について、いろんな人々が解説していますが、どれもイマイチ納得できません。 皆が好き勝手な解釈をして「私の『般若心経』」を語っています。 それが日本の「『般若心経』文化」になっているのです。 文化を楽しむのはいいことですが、 『般若心経』のことを本当に知りたいと思っている人には困りものですね。 じつは『般若心経』は、わからなくて当たり前なのです。 それはお釈迦さま、正等覚者である釈迦牟尼ブッダその人が語った経典ではないからです。 『般若心経』をはじめとする大乗仏教の経典は、お釈迦さまが涅槃に入られてから数百年後、 その直接の教えから一部を抜き出して、 その人なりの能力で深い意味を表現しようとした宗教家たちの文学作品です。 それを、私たちはいろいろと頭をひねって解釈しなければならないのですが、 私たちもお釈迦さまが説いた真理を知っているわけではないので、納得いかないのです。 このジレンマを解決する方法が一つだけあります。 『般若心経』を読んで、わからないところは、直接、お釈迦さまに聞くことです。 お釈迦さまは誰でも理解できる言葉で、真理、すなわち「普遍的で客観的な事実」を完全に語りました。 ブッダ以外、完全に真理を語れる人はいません。
完全たる悟りに達していない人々は、 たとえ高度な知識があったとしても、たとえ高度な精神的境地に達していたとしても、 言葉という不完全なものを駆使して「完全に語る」ことはありえないのです。 正等覚者でない限りは、真理は完全には語れないのです。 どんなに頑張って深遠な教えを表現しようとしても、どうしても、欠点・欠陥が起きてしまうのです。 このようなわけで、ブッダのあとに作られた大乗経典には、 不完全な言葉で表現するというハンディがつきまとっているのです。 その不完全な言葉の前でいくら悩んでも答えは出ません。 しかし、お釈迦さまが完全に説いたオリジナルの教えに立ち返ると、 それまでわからなかった経典の教えもたちどころに理解できるようになります。 『般若心経』の作者がお釈迦さまの教えのどこにヒントを得て、 どんな真理を教えようとしたのか、明確にわかります。 『般若心経』の欠点もわかりにくさも、なるほどと俯瞰できます。 そこではじめて、出口のない「『般若心経』文化」の迷路から抜け出て、『般若心経』をきっかけとして、 お釈迦さまの説かれた真理へとアクセスするための道のりも描けるのです。 本書はそのような狙いで、ブッダの言葉から抽出して書かれました。 『般若心経』を信仰している方々を批判するつもりも、嫌な気持ちにさせるつもりもありません。 これはあくまでも『般若心経』をどう理解すればいいのか、という知的な挑戦なのです。 では、お釈迦さまの教えからみた『般若心経』入門のはじまりはじまり。
苦諦:苦という真理
集諦:苦の原因という真理
滅諦:苦の滅という真理
道諦:苦の滅を実現する道という真理(→八正道)
苦は「知り尽くすべきもの」(遍知)
苦の原因は「滅するべきもの」(滅除)
苦の滅は「実現すべきもの」(成就)
苦の滅を実現する道は「実践すべきもの」(修習)
苦という 「 自性が 」 あるわけではない
苦を集める 「 自性が 」 あるわけではない
苦が滅する 「 自性が 」 あるわけではない
苦を滅するための道に 「 自性が 」 あるわけではない
我・我所も無我・無我所も自性ではない
この 「 自性ではない 」 と言う事については分別はない
それ故に
http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron03a.htm 中論觀法品第十八
諸の禅定の中で滅尽定(想受滅)を以って第一と為し終に無余涅槃に帰す
(八正道)八聖道分を修習して、我、我所を滅する因縁の故に、無我、無我所を得て智慧を決定する
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 93ページ参照 般若心経で説く 「 五蘊もなく ( 苦集滅道もなく ) 」 は自性による成立を欠いた空を説明してるものである と言う事を 正しく見極めなければならない _ _ _ 自性はなく、それ故に 縁起によって 「 何がしろの事象が 」 現れる と言う意味です
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/infolib/user_contents/repository_txt_pdfs/bukkyo95/BR095L017.pdf ウダーナヴァルガのギルギット写本
udana-B (prose) Udanavarga 26.21,Pali Udana VIII.3 (prose)
比丘たちよ
生じたもの、現れたもの、作られたもの、形成されたもの、起こったもの、縁起したものがある
ところが比丘たちよ
生じたのではないもの、現れたのではないもの、作られたのではないもの、形成されたのではないもの、生起したのではないものがあるから
だから『生じたもの、現れたもの、作られたもの、形成されたもの、起こったもの、縁起したものを離れることがある』と私は説く
_ _ _
自性はなく、それ故に
縁起によって 「 何がしろの事象が 」 現れる
縁起によって 「 何がしろの事象が 」 滅する
八聖道分を修習して、我、我所を滅する因縁の故に、無我、無我所を得て智慧を決定する
縁起したものを離れる
と言う意味です
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 133ページ参照 輪廻の源は行為であり 賢者たちは輪廻の源になるような行ないをすることはない 行為は無明によってなされるので 賢い人であれば 無明が間違った心であり その心がとらわれている実体のある存在が たとえ世俗のレベルにおいても存在していない ということを知っているからなのです
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 135ページ参照 空の見解に確信を得て その空を直接体験として体感会得すること が必要とされるのです
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 134ページ参照 「無明」(根源的無知)を滅したなら 「行」(行為)などのすべても生じない 「無明」(根源的無知)の断滅は 〔縁起という〕真如を知って それに瞑想することから〔得られる〕
http://way-to-buddha.blogspot.jp/2011/05/blog-post_3479.html 四念処(四念住)
1.身念処(身念住)
わが身は不浄であると観察する
身体におけるすべて(息、行、住、座、臥、身体・行動のすべて)が不浄であることを観察する
息(出息、入息、止息)、全身、身体を観察する
私は長く息を吐いている、私は長く息を吸っている
私は短く息を吐いている、私は短く息を吸っている
私は全身を感知して息を吐いている、私は全身を感知して息を吸っている
私の身体について生起する性質、私の身体について衰滅する性質
私の交互に生起し衰滅する性質、これら身体について観察する
2.受念処(受念住)
感受は苦であると観察する
一切の感受作用(外部の感受作用、内部の感受作用)は、苦しみにつながることを観察する
快楽、苦痛、不苦不楽について、感じている実感を観察する
私は快楽を感じている、私は苦痛を感じている、私は不苦不楽を感じている
これら感受作用について観察する
3.心念処(心念住) 心は無常であると観察する 心は常にいろいろなこと考え、一瞬たりとも止まることなく変化し続けていることを観察する 心の状態(感情想念、貪欲、瞋恚、愚痴)を観察する ・貪欲(どんよく)とは、執着、欲張り、貪り、等である ・瞋恚(しんに)とは、怒り、憎しみ、恨み、等である ・愚痴(ぐち)とは、妄想、怠け、無自覚、等である 私は心が執着している、私は心が欲張っている 私は心に怒りがある、私は心に妄想がある、私は心に想念がある これら心の状態について観察する 4.法念処(法念住) 諸法は無我であると観察する 諸々の法(この世のすべてのものごと)には、本質的な主体(我)というものは存在しないことを観察する 意識の対象(考え、想像)を観察する。 私は真理について考えている、私は真理に基づいて考えている 私は煩悩について考えている、私は煩悩に基づいて考えている 私は真理に基づいて想像している、私は煩悩に基づいて想像している これら意識の対象について観察する
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 135ページ参照 それぞれ(の縁起の十二支の、ひとつ前の項目)を滅すれば それぞれ(その次の項目)が生じることはない 苦しみばかりの集合体(蘊)は こうして完全に滅せられる
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 136ページ参照 「 苦しみの止滅が存在するという真理 」(滅諦)で説かれている 苦しみの止滅の境地とは 煩悩をすべて滅した時に得られる境地であり 煩悩障と所知障をすべて滅した時に得られる涅槃の境地 のことを指してます
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章 99〜100ページ参照 第二章 輪廻をもたらす十二支の考察 『中論』 第26章 無明(根源的無知) 行(行為) 識(意識) 名色(名称と形態) 六処(六つの知覚能力) 触(接触) 受(感覚) 愛(欲望) 取(執着) 有(生存) 生(誕生) 老死(老化と死)
158 :
Classical名無しさん :2013/01/01(火) 16:49:05.52 ID:nEjKVhuS
■ 通名の方々: 教師(教員、学校の先生)・大学教授・医師(医者)、看護師・法曹界(弁護士、検察官、裁判官)・内閣総理大臣・閣僚・事務次官、官僚・ 地方自治体の長(知事、市長、町長、村長、区長)・地方議員・公務員(国家、地方)・警察・消防・自衛隊・親方日の丸会社・ 経団連・経済同友会 焼き肉屋・定食屋・そば屋・うどん屋・お好み焼き屋・寿司屋・ラーメン屋・レストラン(フランス料理、イタリア料理、スペイン料理、和食・・)・ スーパー・コンビニ・デパート・八百屋・肉屋・魚屋・花屋・酒屋・靴屋・服屋・薬局・寺・喫茶店・パン屋・ケーキ屋・文房具屋・本屋・自転車屋・ 眼鏡屋・時計屋・スポーツ品店・楽器屋・床屋・美容室・不動産屋(大家)・消費者金融・映画館・パチンコ屋・カラオケ・競馬・囲碁・将棋・ 歌舞伎(古典芸能)・飲食店・性風俗・ホテル・塾・教室(スポーツ、音楽、ピアノ、バレエ、・・・)・予備校・ペットショップ ■
159 :
Classical名無しさん :2013/01/01(火) 16:49:53.56 ID:nEjKVhuS
■ 通名の方々: NHK・TBS(JNN、ニュースバード、NewsBird)・テレビ朝日(ANN)・日本テレビ(NEWS24、NNN24)・フジテレビ(FNN) 共同通信(Kyodo・47News)・時事通信 新聞(朝日新聞・毎日新聞・読売新聞・産経新聞・日本経済新聞・東京新聞・・・) ラジオ・出版社 芸能人・作詞家・作曲家・演奏家(ミュージシャン)・指揮者・作家・漫画家(アニメ)・ゲーム・映画監督・歌舞伎・美術、建築系・宇宙飛行士・ 文化人、知識人・アナウンサー・記者(ジャーナリスト)・気象予報士・テレビに出てる人・ アダルトビデオ(女優、男優、AV)・性風俗・ スポーツ選手(プロ野球、サッカー、テニス、ゴルフ、バレー、水泳、体操、柔道、相撲、ボクシング、プロレス、・・・) ヤクザ・暴力団・暴走族・同和 ■
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章 104〜105ページ参照 「輪廻に生まれる」ということを考えるために 私たちが住んでいるこの環境世界(器世間)が どのようにして進化してきたかを考えてみましょう 以前に存在した世界が崩壊し尽くす時期(壊劫)が終わると 次に何も存在しない無の時期(空劫)が続き 次の世界が成立する時期(成劫)が登場します その世界が存続する時期(住劫)が続いて 再び崩壊の時期が訪れて そこにいた生き物たちと環境世界が消滅する この四つの時期がそれぞれ非常に長い時間をかけて無限に循環している 世界が生成してくる過程は 空、風、火、水、地という順番である という仏教的な説は 科学的な説明と同じであり 正しい考えかたとなっています
ブッダのことば パーリ仏典入門 151ページ参照 いつの日にか、長い時間が経過して この世界が破壊するときが現われます 世界が崩壊するとき、生けるものたちは ほとんどが光音天に転生するものとなります かれらは、そこで、意から成るもの … などとして 永く、長時にわたりとどまります いつの日にか、長い時間が経過して この世界が成立するときが現われます 世界が成立するとき、生けるものたちは ほとんどが光音天の身から没し この人間の状態にやって来ます
163 :
忍法帖【Lv=3,xxxP】(2+0:10) :2013/01/02(水) 10:46:37.95 ID:EAaIMVE7
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http://www.rbbtoday.com/article/2013/01/03/100581.html しぶんぎ座流星群、今晩が極大 1月3日 2013年1月3日(木) 14時15分
しぶんぎ座流星群が3日の夜半前をピークに出現する。
8月のペルセウス座流星群、
12月のふたご座流星群とともに三大流星群とも呼ばれる。
ウェザーニューズによると、
今晩の天気は、日本海側で雲が広がるが、
太平洋側は流星観測のチャンスがある。
国立天文台によると、
しぶんぎ座流星群には観察しやすい流星が多く出現するいっぽう、
流星の出現数が極大となる時間帯は数時間と短い。
今回の極大は午後10時。午後10時30分頃から月が出現するため条件は悪い。
放射点は北?北東の空、うしかい座とりゅう座の境界付近にある。
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 141ページ参照 私たちは すべての現象には実体があるというとらわれ(法我執)を土台として 人にも実体があるというとらわれ(人我執)を持っているのです そのとらわれによって疎なレベルの執着や怒りの心を起こし あるいは疎なレベルの執着や怒りがなくても 微細なレベルの執着や怒りをたくさん起こして 心が千々に乱れたり からだと言葉による多くの間違った行動を起こしたりしています
説一切有部 『異部宗輪論』によれば、成立は前2世紀の前半である。 その後しばらくして迦多衍尼子(かたえんにし、kātyāyanīputra)が現れ『発智論』(ほっちろん)を著し、 説一切有部の体系を大成したという。 現在では、説一切有部の名の出る最古の碑文が1世紀初頭であることから、 その成立はやや遡って、前2世紀後半と考えられている。 説一切有部はゴータマ・ブッダの教説を解釈する過程で、膨大なアビダルマ哲学を完成させた。 『六足論』『発智論』『大毘婆沙論』『顕宗論』は説一切有部の教義を述べた代表的な論書である。 しかしながら、説一切有部が構築した教義は、 ブッダの教えから逸脱したものとして、他の部派や大乗仏教から批判されることになる。 現在有体・過未無体を主張する大衆部(だいしゅぶ)あるいは経量部と対立し、 また西暦紀元前後に興った大乗仏教も”無自性・空”を主張して 説一切有部の説を批判した(このことは大乗仏教が教学を形成する上で大きな働きをした。) しかし大乗も中観派についで登場した唯識派になると 説一切有部の分析を積極的に取り入れるようになった。
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 143ページ参照 子宮内にいる胎児にも 「 私 」 という自我に対する我執が存在しているため 執着や怒りの心が生じることがあるのは確かです 子宮内にいる胎児の時から 私たちは無明の力によって行為をなしつつ 存在していることになります
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 143ページ参照 「無明」を滅すると 「行為」とその習気の貯蔵場所である 「意識」も滅せられて それらが生じることはもうなくなります これは 悪い習気を蓄えさせる無明が滅すれば 悪い習気の置き場所としての意識はなくなる という意味なのです
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章 131ページ参照 心の汚れが一時的なものであるということを理解するためには 三毒(無知・怒り・執着)と呼ばれる煩悩は 間違ったものの考えかたに基づいて生じてくるものだということを知ることが必要です 三毒という煩悩の根本には 対象物を実体のあるものとしてとらえてしまう無明が存在していますが この無明が間違ったものの考えかたに基づいていることを理解できれば たとえ無明の力が強くても その間違えを正すことができるのです
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章 131ページ参照 無明にも 疎なレベルから微細なレベルまでさまざまなものがありますが 微細なレベルの無明を認識するためには 縁起の見解に基づくものの究極のありようを分析し 理解しなければなりません そうすることによって 微細なレベルの無明をも滅する努力をすることが重要ですが 言葉で言うのは簡単でも 実際に心で理解するのは容易ではありません
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章 131ページ参照 単なる名義上の存在 という意味を本当に理解できれば 私たちの心に現われてくる まるで実体があるかのようなもののありように とらわれてしまうことはなくなります そこで そのような間違ったものの考えかたをするのは 心は一時的なものであり それを滅することは可能である ということが理解できるのであり それによって 阿羅漢の境地に達することも可能だと理解できるのです
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章 89〜94ページ参照 「 滅 」 は、それ自体の自性によって成立しているのではない 「 生 」 は、それ自体の自性によって成立しているのではない 「 来る 」 は、それ自体の自性によって成立しているのではない 「 去る 」 は、それ自体の自性によって成立しているのではない 「 異なる 」 は、それ自体の自性によって成立しているのではない 戯論(けろん)を滅して寂静(じゃくじょう)を示された
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章 140ページ参照 私たちが 人間として生まれてきているのは ある特別な無明によって 人間としての再生を得るための行為をなした結果です 今得ているこの人間のからだは それをもたらした無明から始まって 死に至るまで続いていきます
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章 140〜141ページ参照 そして 朝目が覚めた時 最初に 「 私 」 という自我を実体のあるものとしてとらえてしまう我執が生じて それが今もずっと存在しているのです そのような我執は 「 私 」 が依存する土台となっている五蘊などが あたかも実体のあるものであるかのように心に現れてきて それに執着することから生じています
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章 141ページ参照 五蘊などの現れに執着する心を土台として 五蘊に依存して名前を与えられた自分に対して 「 私 」 という我執が生じることが多いのです 物質的存在などのものに対して 無我の理解を強く維持していれば その対象物も(自我も)その現われ通りには存在していないのだ と考えることができますが そのように考えることは困難であるのがふつうです
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章 141ページ参照 たとえ無我の見解を理解しても それに心がよくなじんでいないと 無我について考える時は ものはその自性によって成立してしているのではない と考えることができても それ以外の時もそのように常に思い続けていることはできません
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章 142ページ参照 このように私たちは 縁起の十二支のひとめぐりが最後の項目に至る以前から 無明を心の動機として 一瞬ごとに新たな行ないを次々とたくさんなしているのであり これらの行ないの習気は 「意識」の上にすべて蓄えられていきます
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章 142ページ参照 縁起の十二支がひとめぐりし終わる前に 無明によってなされる行ないはたくさん始まっているのです 私たちの意識の連続体には 無明を動機としてなした行ないが 「因の時の意識」の上に習気として蓄えられていくのです
「 滅している 」 と言う働きは 「 時の流れ 」 と言う変化に依存して現れている働きなので それ故に 「 滅している 」 は それ自体の自性によって成立しているのではない _ _ _ 「 生まれている 」 と言う働きは 「 時の流れ 」 と言う変化に依存して現れている働きなので それ故に 「 生まれている 」 は それ自体の自性によって成立しているのではない
断見(だんけん)とは 因果の法則を無視して、人が一度死ねば 断滅してしまい二度と生まれることがないとする見解のこと 原始仏教、つまり釈迦が在世の頃にあった六十二見のうちの1つで この世界・世間や我の断滅を主張したものである 「見」とは見解・意見・見方のこと、あるいは邪見や執見との否定的な意味も含む 人の一生・人生はこの世の一回限りであるとして、死後やその運命を否定して この世における善と悪の行為やその果報を無視し否定する見解をいう 『長部』では「肉体は壊れることにより断滅し、死後は存在しない」と述べている なお、大乗仏教の教義が発展すると、不断不常の中道から 対立する見解とは違う次元で如来我すなわち仏性の常住を説くようになった
常見(じょうけん)とは 仏教用語で、「アートマン(自我:霊魂)」は永遠に続くもので不滅であるとする見解のこと 原始仏教、つまり釈迦が在世の頃にあった六十二見のうちの1つで この世界・世間やアートマン(梵我)が永遠に存続すると主張したものである 「見」とは見解・意見・見方のこと、あるいは邪見や執見との否定的な意味も含む 人の一生・人生はこの世の一回限りであるが 死後もこの世界においてアートマンという固定の実体が 不滅で永続するものであると肯定する見解をいう 『長部』では「我と世界は常住である 死後山頂の如く不動で石柱の如く固定したものである」などと述べている 常見の反対語は、断見といい、この世は有限で永遠のものではないという見方であるが 仏教では中道や無記を説き、両方の偏った見方に依らない、不断不常の中道を宗旨とした なお、大乗仏教の教義が発展すると、不断不常の中道から 対立する見解とは違う次元で、如来我すなわち仏性の常住を説くようになった
http://www.j-theravada.net/pali/key-tanha.html 渇愛(タンハー)
苦は、渇愛から生じます
渇愛は
再成し続け、喜びと愛着をともない、いつでも心の気に入る
という三つの特色をもち
五官を刺激したい、存在したい、壊したい
という三種類の欲で成り立っています
タンハーとは
「渇いている」「満たされていない」「ほしい」という
生命の根元的な欲望で「渇愛」と訳されています
無明から渇愛が生まれるのです
無明と渇愛がうまく絡み合って
無始なる過去から終わりなく苦しみをつくり出しています
そこから脱出しましょう
客観的に自分を観ることによって
無明と渇愛を消していきましょう
というのがお釈迦さまの教えなのです
渇愛(タンハー)は無明に依存して現れる働きなので 渇愛(タンハー)は それ自体の自性によって成立しているのではない それ故に 無明から渇愛(タンハー)が生まれて そして 無明と渇愛(タンハー)がうまく絡み合って 無始なる過去から終わりなく苦しみをつくり出している そして 渇愛(タンハー)を滅する縁起によって 渇愛(タンハー)を滅する事が出来るのである
「異なる」とか「同一である」とかは 何かの対象物に依存して比較している働きなので 「何かと何かは異なる」とか「何かと何かは同一である」とかは それ自体の自性によって成立しているのではない
187 :
Classical名無しさん :2013/01/12(土) 19:29:26.59 ID:U6RbixKI
切実な経済的な競争がある。 すべてを大上段に構えて語るわけにはいかない。
何処かの会社と何処かの会社の比較に依存して 何処かの会社が勝ち組みである 何処かの会社が負け組みである それは それ自体の自性によって成立しているのではなくて 因と縁によって果と報が現れる と大上段に構えて逝ってみる
193 :
putra :2013/01/15(火) 15:59:49.05 ID:BLEJaj67
サンスクリット語からだと、そんなに難解なことば使ってないと思うよ。 iha sariputra さて、シャーリプトラよ。 rupam(デバナガーリ−アルファベットの表記が難しいが)色(目に見えるもの)は sunyata空虚(またはゼロ)でsyunyataya空虚は色である。 このあたりが、色即是空−空即是色(sktでは語順が不定なので中国版般若心経とは 違うけれど・・)ですね。 玄奘さんが翻訳した(といわれる)ものはかなり脚色があって、 原典とはちょっと違うなあと思います。 例として、度一切苦厄なんてことばは原典には全くないし、 アノクタラサンミャクサンボダイ(漢字は難しくてかつ意味は無いのでカナ 表記にしますが・・・)はasrityanuttaram samyaksambodhim から の訳語(というか音表記)なのですが、これは〜頼って、正しい悟り に目覚めた(つまり世界が見えた、覚醒した)といっているわけです。 このような文法と語彙の使い方から見て行かなければと思うよ。 上記文章は私の翻訳なので全く権威はありません。 あしからず。
194 :
Classical名無しさん :2013/01/15(火) 16:33:32.20 ID:i/uf5Q/B
>この三との行為とは >「 身体的な行為 」 「 言葉による行為 」 「 心による行為 」 >すべての行為は蓄積して >その性質に合った結果を導き出す >業(カルマ)の蓄積が >この世に再度生まれて来ると言う結果を導き出す事になっているのである そこまで分かっているなら、対応する観測量と方程式が立てられそうなもんだが。
http://kotobank.jp/word/%E9%98%BF%E8%80%A8%E5%A4%9A%E7%BE%85%E4%B8%89%E8%97%90%E4%B8%89%E8%8F%A9%E6%8F%90 阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)
世界大百科事典内の阿耨多羅三藐三菩提の言及
【仏教】より
… これに対し大乗仏教では,仏になる菩薩の道を万人に可能とし,大乗(大きな乗り物の意)であることを自認した。
誰でも仏と同じ悟り(阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみやくさんぼだい)二無上菩提)に向けて発心すれば菩薩である。
菩薩にもまた凡聖が区別されるが,完成された学説では十地(十種の菩薩の階梯)の初地以上のものが聖人とされる。 …
【菩提】より
… そこで《大智度論》などは3種の菩提や5種の菩提を説く。
そして小乗の声聞の菩提と縁覚の菩提は執着や煩悩を滅尽しているけれども,真の菩提ということはできず,
大乗の仏と菩薩の菩提のみが阿耨多羅三藐(あのくたらさんみやく)三菩提anuttarasamyak‐saṃbodhiである。
これは無上正等正覚と訳されるが,すべての段階の菩提を越えて,最高にして正しく,遍(あまね)き正覚だというのである。 …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91 我は、常住であり
他との何らの関係をもたないで単独で存在することができるものと考え
それは働きのうえで自由自在の力をもつとした
この我によって人間生存は根拠付けられ、支配されていると考えるのである
− これに対して −
釈迦はこのような実我観念を批判し
「我として認められるものはない」として、諸法無我と説いた
これを色受想行識の五蘊について説き
人間生存は無我である五蘊の仮和合したものであるから仮りの存在であると説いた
_ _ _
色(目に見えるもの)も
それ自体の自性によって成立しているのではなくて
他に依存して
因と縁によって果と報が現れているので
色(目に見えるもの)も、空性である
空性である故に、色(目に見えるもの)も現れる
色即是空 空即是色
197 :
putra :2013/01/15(火) 17:56:03.26 ID:BLEJaj67
その定義方法は良くわかります(意味は不明ですが)。 しかし、それはあなたのことばではない。 I love you.について、 英語外の言語で定義しても意味は捕まえられないでしょう。 love の哲学的または宗教的定義をいくら紐解いても、 ただ言葉の渦に巻き込まれるだけではないでしょうか。 オッカムの剃刀とは言いませんが、もし本義に近づきたいなら、 Loveという言葉のその環境に自らを置くしかないと思いますよ。 自らの言葉でloveを、その暮らしの、生きる実情において語るしか 無いと思いますよ。 仏陀(如来)はそのような人だと思いますよ。 彼は何もバラモン(高度の教養を積んだ人々)だけを相手に していたわけではないと思いますよ。 まさにsattvaの真っ只中にいたと思いますよ。 菩提、といのはbodhisattva=目覚めたる(あるいは目覚める)衆生、 の最初の語です。sktの複合語というややこしい文法上の決まり (ここでは割愛せざるを得ませんが)によって単語が結合され、 それがひとつの単語のように振舞います。 従って、菩提のみを定義しようとすると、 目覚め、覚醒、またはその動詞の変化形となります。 でloveの原義、その環境で話される原義にまで遡らないと 単なる言葉の迷い子になってしまうのではないでしょうか。 大いなる誤りを犯す可能性もありますが、 しかしながらそれはいたし方ないのではないでしょうか。 先人たちの智慧にたどり着くためにも、実はその原義せまる姿勢が 必要だと思います。
198 :
putra :2013/01/15(火) 18:00:47.91 ID:BLEJaj67
ごめんなさい、推敲しようと思っていたら、そのままupして しまいました。 誤字、脱字はお許しを。
>> この三つの行為とは >> 「 身体的な行為 」 「 言葉による行為 」 「 心による行為 」 >> すべての行為は蓄積して >> その性質に合った結果を導き出す >> 業(カルマ)の蓄積が >> この世に再度生まれて来ると言う結果を導き出す事になっているのである > そこまで分かっているなら、対応する観測量と方程式が立てられそうなもんだが この「対応する観測量と方程式が立てられそうなもんだが」の意味が わからないので このレスに対する返事は、しばらく保留にさせて頂きます
> 誤字、脱字はお許しを 修正は、時間に余裕がある時にでも、良いと思います > 自らの言葉を、その暮らしの、生きる実情において語るしか無いと思いますよ 私の場合は自分自身が、仏教を正しく理解していないので 自分の意見として説明するのではなくて まず始めの段階においては 解説書に書いてある そのままその通りに書き込むように努力しているけど 実際の書き込みに関しては 文章を改ざんしてたり省略してたりするので 解説書それ自体を参照する事を、おすすめ致します
201 :
putra :2013/01/15(火) 18:19:36.62 ID:BLEJaj67
wikiはやめませんか。 「空性」はsunyataですか、それともsunyanですか。 sktの辞書から拾ったほうがまだ解りやすいですよ。 名詞であるか、形容詞であるか。 五蘊という耳慣れない漢字も出てきているようですが、 panca skandhas tams ca svabhavasunyan pasyati smaの中の一語で、 五体(五体満足の五体)といった方が近いと思いますよ。 中国漢字の文化では、照見五蘊皆空、と表記されていますが、 sktのそのままでは、五つの塊(つまり五体)も世の事々(実体)も空である と見た(smaは現在形を過去形にする一語ー接尾語です)。
サンスクリット語 日本における仏教関連の辞典や書物では skt などと略称される sktって ↑ これの事ですかね? 私の場合は パーリ、サンスクリット、チベット、漢訳も さっぱり、わかりませんが一応 skt のリンクの貼り付けを、お願い致します
203 :
putra :2013/01/15(火) 18:57:57.62 ID:BLEJaj67
202さんへ。 失礼しました。 そうです。skt=サンスクリット語です。 因みに原典が偽経であるかどうかは、まず第一の関門として、 sktで書かれた文書があるかどうかで、判断されます。 とはいえ、中国語からわざわざsktに再翻訳なんてのあるみたいで、 一概には言えませんが。 sktのリンク・・・、探してみます。
五蘊(ごうん)とは、部派仏教における一切法の分類である三科(五蘊・十二処・十八界)の中の第一 「蘊」とは集まりの意味で、五蘊とは人間の肉体と精神を五つの集まりに分けて示したものである この五蘊が集合して仮設されたものが人間であるとして、五蘊仮和合(ごうんけわごう)と説く これによって五蘊(=人間)の無我を表そうとした なお、旧訳では五陰(ごおん)五衆(ごしゅ)といい、 特に煩悩(ぼんのう)に伴われた有漏(うろ)の五蘊を五取蘊(ごしゅうん)ともいう 1).色蘊(しきうん) - 人間の肉体を意味したが、後にはすべての物質も含んで言われるようになった 2).受蘊(じゅうん) - 感受作用 3).想蘊(そううん) - 表象作用 4).行蘊(ぎょううん) - 意志作用 5).識蘊(しきうん) - 認識作用 般若心経には、「五蘊皆空」と「無色無受想行識」という文言が含まれている
206 :
putra :2013/01/16(水) 13:44:52.31 ID:n9hEr7Dv
204さんへ 難しい言葉が並んでいて、さっぱり理解できません。 例えば、感受作用=感受+作用とはいったい何のことでしょうか? 物事(?)を感じようとする意思の働きのことですか。 西洋哲学での概念を援用しているのでしょうか、 それとも朱子学における、体と用の関係、あるいは陽明学における 体と用の関係? もう少し我々の経験、日常、実情に沿うような言葉は無いのでしょうか? sktにおけるvedanaとは「感じるー感覚」ということです。 感受作用では、さっぱり意味が解りません。 西洋哲学の概念で語っているのであれば、そのように注解願います。 理解不能というより不完全理解しかできません。
210 :
putra :2013/01/16(水) 17:26:26.41 ID:n9hEr7Dv
百科事典の定義を云々したいわけではありません。 本義に迫りたいのです。 wikiであろうが偉い坊様であろうが国語辞典であろうが、 同義反復に陥るのみです。 経典が何を言わんとしているのか、何がその経典の意味なのか、 原典に迫るしかないと思いますよ。 辞典、辞書の類では到底理解不能です。 「受」vedana にこだわりますが、 火に手をかざしてみればそれで済むものを、わざわざ辞書の言葉を追い、 言葉は言葉を追いそして迷路の中であえいでいるくせに、 それでなにか崇高なものでもあるかのように、さらに言葉をかさねる。 北伝大乗仏教のやたらに難解な用語で理解できると思いますか? (本来なら−般若心経が偽経でないとして−)マガダ語方言からパーリ語、 それからサンスクリット語、さらに500年の歳月を超えて中国語、 さらに1500年を超えて日本語、しかもその語彙ときたら、 ドイツ語、フランス語、英語、ギリシャ語、ラテン語の翻訳漢字日本語。 そして様々な教派の見解を加えて語られる文章、それは一体なんでしょう。 言語を絶した知識、言語を媒介させることができない体験、 この様なものがきっと悟り(asrityanuttaram samyaksambodhim) だったのです。それを語るのに難解な用語を使うはずもないのです。 所詮語れぬものだからです。 しかし、誤解されるのは恐れたと思います。 仏陀が語るべき相手は、救いが必要な者たち、悟った者たちではないのです。 食物だけしか考えられない貧者、路傍に死児を抱えて佇む女、 訳も無く人々に打ち据えられた男、まさに無明の真っ只中でもがく者たち、 かくなる人々に難解な言葉など全く無用なもの、百害あるのみ。 そんなことは何も仏陀でなくとも、誰にでもわかります。 その立場で理解したいのです。
加持(かじ) 仏あるいは菩薩が不可思議な力によって衆生(人々)を守る という鎮加護持(ちんかごじ)・神変加持(じんべんかじ)を指す 仏の大悲の力が衆生に加えられ 一方衆生の信心が仏に伝わることでその効果を発揮するとされる 密教においては 仏が大悲・大智によって衆生に応じることを「加(加被)」 衆生がそれを受け入れることを「持(摂持)」と解釈し 双方が相応一致することで 仏と衆生の持つそれぞれの三密が入り混じて他を己におさめ持ち 死後の成仏をはじめとする各種の効果を成就させる _ _ _ 密教においては 師が弟子に対して教義を完全に相承したことを証する儀式を伝法灌頂といい その教えが余すところなく伝えられたことを称して「瀉瓶(しゃびょう)の如し」といい … _ _ _ 後期大乗密教の場合は 仏と衆生の双方が相応一致することで 死後の成仏をはじめとする各種の効果を成就させる 加持(かじ)とか 師が弟子に教義を正しく相承したこと「瀉瓶(しゃびょう)の如し」 と言うのがあるらしい
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama26.pdf 「これ」や「あれ」とは
十二の原因として分けて説明された因果関係の個々の鎖の環のことであり
また個々のものとして実体をもっているかのように見える事象のことである
漢語訳などでは
十二縁起(因縁)の前の項目が消滅すると
後の項目も消滅するというように訳されているものもある
また、「大いなる苦しみのすべて」を集合体と訳して
「これ」や「あれ」を人間の集合体
− 精神と肉体 −
であるという含みを強く打ち出しているものも見られる
いずれにしても意味するところは同じである
瞑想の実践によって正しい見方を獲得することで
輪廻の苦しみから解脱できると説いているのである
それはただの哲学的見解ではなく
それを超えた境地からの説明であるが
同時に十二の原因として表され得るような世界に関わることを
「通して」世界のあり方を正しく見るということでもある
世界を材料として瞑想し
最終的にはそこを超えて行くという意味に解せるだるうか
(中論26-12の解説)
218 :
putra :2013/01/21(月) 19:47:42.77 ID:CktXAHeq
さてさて、何を仰っているのやら。 輪廻、解脱、瞑想、実践、どの言葉も実体を伴っていませんね。 輪廻とは生まれ変わるということですか? 解脱とは生まれ変わらないことですか? 瞑想とは何かを考えていることですか、考えていないことですか? 実践とは何をどうすることですか。 十二縁起なるものは一体なんですか? 世界とは?「世界のあり方を正しく見る」? 生きることの実情の中からの苦悩が、または生きることそのものが 持つ困難性(sktではduhkha-思いどうりにならぬこと=苦悩)が、 検討、検証されていないものだから、ただただ消化不良の言葉が あてもなく彷徨ってます。 龍樹の解説が漂っているのみです。 病気をお持ちですか?
禅定(ぜんじょう) 心を統一して瞑想し、真理を観察すること。 またそれによって心身ともに動揺することがなくなった、安定した状態を指す。 坐禅や止観の止行であるサマタ瞑想で禅定を得ようとする。 仏教においては、涅槃に至るために禅定に勤しむ教派が多く、禅定を得る止行に対して、観行も重視される。 サンスクリット語の dhyaana の音写である「禅」と、その意訳した「定」の複合語で、三昧と同義語である。 また、禅定によって心を乱されない力を定力または禅定力と呼ぶ。 元来は、大乗仏教の菩薩が実践すべき修行徳目である六波羅蜜のうちの第五禅那波羅蜜(ぜんなはらみつ)のことである。 禅那 (Dhyāna) は「禅定」と訳され、真理を思惟して散乱の心を定止することを指している。 阿含経典では、この状態に至る過程には、まず初禅から第四禅までの4段階があるとしている。 これが「四静慮(四禅)」である。次に空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処の4段階があるとする。 これが、「四無色定」であり、さらに九次第定、百八三昧とつづく。 また、「戒・定・慧」と言われるように、仏教においては戒律を守ることと禅定と智慧とはセットになっている。 (禅定と智慧との関係については、止観を参照。)
“比丘たちが自らを灯明とし…法を灯明として…(自灯明・法灯明)ということはどのようなことか? 身体について…感覚について…心について…諸法について… (それらを)観察し、熱心に、明確に理解し、よく気をつけていて、世界における欲と憂いを捨て去るべきである” “みずからを灯明とし、みずからを依処として … 法を灯明とし、法を依処として … ” として、いわゆる四念処(四念住)の修行を実践するように説いた これが「自灯明・法灯明」の教えである
八正道 「正しく眼の無常を観察すべし。 かくの如く観ずるをば是を正見と名く。 正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る。 喜と貪とを離るるが故に、我は心が正しく解脱すと説くなり」 といわれるように、 われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り、自分の心身を厭う思を起こし、 心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」である。 このように現実を厭うことは、人間の普通の世俗的感覚を否定するものに見えるが、 その世俗性の否定によって、結果として、 真実の認識(如実知見)に至るための必要条件が達せられるのである。 正見は「四諦の智」といわれる。 この正見は、以下の七種の正道によって実現される。 八正道は全て正見に納まる。
八正道 正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定 正念 四念処(身、受、心、法)に注意を向けて 常に今現在の内外の状況に気づいた状態でいることが 「正念」(しょうねん)である 正定 正しい集中力(サマーディ)を完成することである この「正定」(しょうじょう)と「正念」によってはじめて 「正見」が得られるのである
中阿含経などに説かれた、仏教で、悟りに至るための三十七菩提分法 四念住(四念処)四種の観想 四正断(四正勤)四つの努力 四神足(四如意足)四つの自在力 五根、五つの能力 五力、五つの行動力 七覚支、存在を観察する際に、心の状態に応じた注意と方法 八正道
http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-shokibukyo/shoki-soujumetu.htm 四禅を超えて想受滅(滅尽定)
原始仏教では「四禅三明」の教説、あるいは、単に「四禅」の教説が広く説かれている
「四禅」の後に、さらに、無色界の四処定(空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処)を説明することが多い
想受滅は、それをも超えた位置に置かれていて、この想受滅の直後に「解脱」するとされる
「想受滅」を出た直後に解脱するとするが、経典によりその効果の説明が多少異なる
(C)生物的な意味の死者と、想受滅を経験している覚者との相異
死者には、身行、口行、心行が滅し消える。壽と煖がやみ、諸根が敗壊す
しかし、覚者は、身行、口行、心行が滅し消えるが、壽と煖はやまず、諸根は浄静である
(D)四禅にもとどまらず、四処にもとどまらず、非想非非想処も捨てて、想受滅を成就する
(C)は、想受滅においては、その呼称のごとく「想」と「受」が滅するのであるが、覚者と死者の違いをいう
覚者は死者と違って、いのち、あたたかさがあり、諸根(眼耳など)の働きはあるが、心作用のうち受、想、行が滅している
サーンキヤ学派 人はプラクリティから展開した理性 自我意識などを主体であると思い込む錯覚に陥っているが 本来の自我であるプルシャに目覚めることで解脱が果たされるとしている サーンキヤ学派はヨーガ学派と対になり ヨーガを理論面から基礎付ける役割を果たしている
末那識(まなしき) 唯識説の説く八識のうち第七識であり、第八識(阿頼耶識)を所依として、第八識の見分を所縁として生じる識である 睡眠中でも深層において働き続け 根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続ける この深層的な自我心を滅することによって、我々は初めて真の無我行を実践することができる 第七識・末那識と相応するものは、我癡・我見・我慢・我愛の四煩悩
煩悩障(自己に対する執着) 所知障(外界のものに対する執着) の二種の障害を根絶することによって 阿頼耶識が変化を起こす(転識得智=てんじきとくち) これがすなわち、汚れを離れた領域であり、世間の思考を超越している それを得たものは解脱身であり、仏陀の法と呼ばれるものである(大円鏡智=だいえんきょうち)
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama25.pdf 反論者は、こう言うであろう
空性論者は、すべての存在が空であると言うが
もし、すべてのものが空であるなら
何も生じることがなく
過ぎ去って行く事物も存在しないであろう
何も存在するものがないのであれば
自己も存在しないし
迷妄も固執も存在しないわけであるから
いったい誰が何を捨て去ることができるというのだろうか?
人間が我欲を放棄することによって
あるいは、やめることによって
どうして涅槃が生じるなどと言えるだろうか?と
(中論25-1の意訳)
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama25.pdf それについてはこう答えよう
もしすべてのものが空でないなら
それらは依存して生じるようなものではないというのであるから実体であり
実体は永遠に変わらずに存在し続けるものであるので
何も生じることがなく
過ぎ去って行く事物も存在しないであろう
何も存在するものがないのであれば
自己も存在しないし
迷妄も固執も存在しないわけであるから
いったい誰が何を捨て去ることができるというのだろうか
人が我欲を放棄することによって
あるいはやめることによって
どうして涅槃が生じるなどと言えるだろうか
存在するものが実体であるなら
迷妄を抱く者は永遠に迷妄を抱き続け
それとは別に涅槃が変化せずに永遠していることになる
人は迷妄から涅槃へと移行することができなくなるのである
(中論25-2の意訳)
http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron04a.htm 中論觀四諦品第二十四
諸仏は、二諦に依り、衆生に、説法される
一は世俗諦、二は第一義諦で
若し、人が、二諦を、分別することを知らなければ
則ち、深い、仏法の、真実の義を知らない
世俗諦とは、一切の法は、性空だが、而し
世間は、顛倒の故に、虚妄の法を生じ
世間には、是れが、実である
諸の、賢聖は、真に、顛倒の性を知るが故に
一切の法は、皆、空で、無生だ、と知り
聖人には、是れが、第一義諦で、実と名づける
衆因縁より、生ずる法を、わたしは、即ち、是れは空だ、と説いた
何故ならば、衆縁が、具足、和合して、而も、物が生ずる
是の、物は、衆因縁に属するが故に、自性が無い
自性が無いが故に、空である、但だ
衆生を引導するが故に、仮名の空を以って説いた
【ブッダのことば】スッタニパータ<中村 元訳>
http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm 548
先生!あなたは身体が完全であり、よく輝き、生れも良く、見た目も美しい。
黄金の色があり、歯は極めて白い。あなたは精力ある人です。
549
実に、生れの良い人の具えるすがた・かたちは、すべて、
偉人の相として、あなたの身体のうちにあります。
550
あなたは、眼が清らかに、容貌も美しく、(身体は)大きく、真っ直ぐで、
光輝あり、<道の人>の群の中にあって、太陽のように輝いています。
551
あなたは見るも美しい修行者(比丘)で、その膚は黄金のようです。
このように容色が優れているのに、どうして<道の人>となる必要がありましょうか。
OKUMURA_YUKIO 煽り通信ステゲー
馬の上に乗って 馬に依存して 移動しているのに 馬の事は忘れて 「自分自身 それ自体の自性によって成立している それ自体の自性によって生きている」 と思い込んでいる状態である それ故に 「 他に依存して現れている 」 と言う事に気づかないのである
我は、常住であり、 他との何らの関係をもたないで単独で存在することができるものと考え、 それは働きのうえで自由自在の力をもつとした。 この我によって人間生存は根拠付けられ、支配されていると考えるのである。 − これに対して − 釈迦はこのような実我観念を批判し、 「我として認められるものはない」として、諸法無我と説いた。 これを色受想行識の五蘊について説き、 人間生存は無我である五蘊の仮和合したものであるから仮りの存在であると説いた。 _ _ _ 因 → 縁 → 果 → 報 現世で生きている状態 → 中有で彷徨(さまよ)っている状態 → 又、次の、この世で生きている状態 例えば 「 時の流れ 」 と言う変化に依存しているのに 五蘊仮和合の仮りの状態なのに 「自分自身 それ自体の自性によって成立している それ自体の自性によって生きている」 と思い込んでいるのである
六神通とは、 仏教において仏・菩薩などが持っているとされる6種の超人的な能力。 6種の神通力。六通とも。 元来は「止観」(瞑想)修行において、 「止行」(サマタ瞑想、禅那・禅定、四禅)による三昧の次に、 「観行」(ヴィパッサナー瞑想)に移行した際に得られる、自在な境地を表現したものである。 天眼通 - 他人の過去世(前世)を知る力 天耳通 - ふつう聞こえる事のない遠くの音を聞いたりする超人的な耳。 他心通 - 他人の心を知る力。 宿命通 - 自分の過去世(前世)を知る力。 神足通 - 機に応じて自在に身を現し、思うままに山海を飛行し得るなどの通力。 漏尽通 - 自分の煩悩が尽きて、今生を最後に、生まれ変わることはなくなったと知る力。 最後の漏尽通を除く5つを、五通と呼ぶこともある。 また、天眼通、宿命通、漏尽通の3つをまとめて、三明と呼ぶこともある。
「自身の過去の生存の境涯を想起する知(宿住通(宿命通))を獲得する」ことができる 「1つ、2つ・・・10・・・100・・・1000・・・10000の過去生を想起できる」 「それも、幾多の宇宙の生成(成刧)、壊滅(壊刧)を通して想起できる」 「それも、具体的・詳細な映像・内容と共に想起できる」 「生命あるものの死と生に関する知(死生通(天眼通))を獲得する」ことができる 「生命あるものがその行為(業)に応じて、優劣、美醜、幸不幸なものになることを知ることができる」 「生命あるものが(身口意の)業の善悪により、善趣・天界や悪趣・地獄に生まれ変わることを知ることができる」 「汚れの滅尽に関する知(漏尽通)を獲得する」ことができる 「苦しみ(汚れ)、苦しみ(汚れ)の原因、苦しみ(汚れ)の消滅、苦しみ(汚れ)の消滅への道(以上、「四聖諦」)を、ありのままに知ることができる」 「欲望・生存・無知の苦しみ(汚れ)から解放され、解脱が成され、再生の遮断、修行の完遂を、知ることができる」 「六神通」は 沙門(出家修行者、比丘・比丘尼)の(戒律順守という清浄な生活の先の)「止観」(瞑想)修行において培われる 尋常ならざる 世間的な一般的常識の思考を超越した状態を 言い表したものである
「 これまであなたたちは 永久不滅 ・ 常住不変のアートマンを土台としたバラモンの信仰などを主体とした 善行に励み、永遠ばかりを探し求めてきた だから、凝り固まり、ありのままに変化を見ることに慣れていない 無我を、縁起を、空を見ることがうまくない だから、あなたたちには 無我 ・ 縁起 ・ 空を観察する為の練習が必要だ 」 無我 ・ 縁起 ・ 空の観察などによって 色受想行識の五蘊のうち もし受 ・ 想 ・ 行を滅させる事が出来れば それは、世間を超越した認識であり 煩悩障(自己に対する執着) 所知障(外界のものに対する執着) の二種の障害を根絶することによって 阿頼耶識が変化を起こす(転識得智=てんじきとくち) これがすなわち、汚れを離れた領域であり 世間的な一般的常識の殻を打ち破り 思考を超越し それを得たものは解脱身であり、仏陀の法と呼ばれるものである(大円鏡智=だいえんきょうち)
254 :
Classical名無しさん :2013/02/07(木) 21:23:01.53 ID:Mg9i4YX9
自らを灯火として 怠ることなく修行しなさい by釈迦最後の言葉
255 :
Classical名無しさん :2013/02/07(木) 21:26:50.44 ID:Mg9i4YX9
己の良心(仏)に耳を傾け 生きていることを放棄せず 自分の出来る限りでいいから 為すべきことを為しなさい それだけでいいんです それ以上は誰も求めていません by私の解釈
☆ 卍 仏教 質問箱 卍 ☆ パート32
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1354584399/306 306 名前:神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2013/01/24(木) 14:52:01.86 ID:TBV7I00z
> 仏教は釈迦滅後の時点で修行者向けの性格が強くなってしまった可能性があるのでしょうか?
記録が残っているものよりも、更に昔の時代の事は、わからないけど
ウィキペディアの場合は
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99 一般に仏陀(目覚めた人)の説いた教え、また自ら仏陀に成るための教えであるとされる
仏教の世界観は必然的に、仏教誕生の地であるインドの世界観である輪廻と解脱の考えに基づいている
人の一生は苦であり永遠に続く輪廻の中で終わりなく苦しむことになる
その苦しみから抜け出すことが解脱であり、修行により解脱を目指すことが初期仏教の目的であった
_ _ _
釈迦滅後の時点で 「 輪廻から解脱する 」 と言う
修行者向けの性格が強くなってしまった可能性はあるのかもしれないけど
現状では、とりあえず
これが 「 一般的な仏教の教義である 」 と言う事のようでございます
末那識(まなしき) 唯識説の説く八識のうち第七識であり 第八識(阿頼耶識)を所依として、第八識の見分を所縁として生じる識である 睡眠中でも深層において働き続け 根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続ける この深層的な自我心を滅することによって、我々は初めて真の無我行を実践することができる 第七識・末那識と相応するものは、我癡・我見・我慢・我愛の四煩悩 一説では、この識を因縁識といい 過去の事象が潜在する識といい、悪念の集結潜在力(障碍作用)の依所といわれる
「 これまであなたたちは 永久不滅 ・ 常住不変のアートマンを土台としたバラモンの信仰などを主体とした 善行に励み、永遠ばかりを探し求めてきた だから、凝り固まり、ありのままに変化を見ることに慣れていない 無我を、縁起を、空を見ることがうまくない だから、あなたたちには 無我 ・ 縁起 ・ 空を観察する為の練習が必要だ 」 無我 ・ 縁起 ・ 空の観察などによって 色受想行識の五蘊のうち もし受 ・ 想 ・ 行を滅させる事が出来れば それは、世間を超越した認識であり 煩悩障(自己に対する執着) 所知障(外界のものに対する執着) の二種の障害を根絶することによって 阿頼耶識が変化を起こす(転識得智=てんじきとくち) これがすなわち、汚れを離れた領域であり 世間的な一般的常識の殻を打ち破り 思考を超越し それを得たものは解脱身であり、仏陀の法と呼ばれるものである(大円鏡智=だいえんきょうち)
スッタニパータ 1119 つねによく気をつけ 自我に固執する見解をうち破って 世界を空なりと観ぜよ そうすれば死を乗り越えることができるであろう このように世界を観ずる人を <死の王>は見ることがない
身体について…感覚について…心について…諸法について… (それらを)観察し、熱心に、明確に理解し、よく気をつけていて 世界における欲と憂いを捨て去るべきである みずからを灯明とし、みずからを依処として、法を灯明とし、法を依処として いわゆる四念処(四念住)の修行を実践するように説いた これが 「 自灯明・法灯明 」 の教えである
瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)の場合は 瑜伽(ヨーガ)の実践の中に唯識の体験を体感会得して、教理にまとめた とりあえず 「 心(識)は存在する 」 と仮説して 深層意識の阿頼耶識が 自分の意識も 外界にあると認識されるものも 生み出していると考え(唯識無境) 「 阿羅耶識もまた空であるとする 」 と言う方法によって 最終的には阿羅耶識もまた空であるとする(境識倶泯)
「 それをそれたらしめている本質的な要素がそれ自体の側にある 」
と思い込んで執着している心の働きを滅させる為に
_ _ _
般若経の解説
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html これまであなたたちは
(永久不滅 ・ 常住不変のアートマンを土台としたバラモンなどの)輪廻を信じてきた
世尊は輪廻を説かれたのではなく、輪廻からの解脱を説かれた
だから世尊は、(バラモンなどの)輪廻を方便として、正しい知恵を説かれた
これまであなたたちは、(バラモンなどの)善行に励み、永遠ばかりを探してきた
だから、凝り固まり、ありのままに変化を見ることに慣れていない
無我を、縁起を、空を見ることがうまくない
(それ故に、)あなたたちには、(無我 ・ 縁起 ・ 空を観察する為の)練習が必要だ
およそ、禅定に入ろうとする人は …
… この吐いて吸う大きな長い息を十数え、何度も繰り返し、なにも考えず、ただ息を数え続けます
268 :
Classical名無しさん :2013/02/14(木) 22:59:22.73 ID:FaC0zh1X
知識だけではなにもなりませんよ 智慧を得ないと どうやら貴方方は学者さんのような知識だけを追い求めてる気がします 他を言いくるめる知識なんか捨ててしまいなさい そんなものは邪魔になるだけ 一切を捨ててもまだ残るものが真理ですよ(´・ω・`)
269 :
Classical名無しさん :2013/02/14(木) 23:03:26.63 ID:FaC0zh1X
知識と智慧は違う なんと言えばいいのか 悟りとは知識によって喚起されるものではない 本当の自分に帰った時に気がつく物と言えばいいでしょうか とにかくやたらめったら人を煙に巻くような理論を振りかざしてる人は 間違いなく悟れないでしょう そこで満足してしまってる程度ですから(´・ω・`)
270 :
Classical名無しさん :2013/02/14(木) 23:10:59.50 ID:FaC0zh1X
これまで培った知識は大したものでしょう でもそれで何が解決しましたか? 一度得たものを捨て去ることは難しいでしょう 釈尊は高い地位を見事に捨て去った 初歩の段階でね それをなんと見るのか 知識に甘んじていては本当のことは見えませんよ(´・ω・`)
271 :
Classical名無しさん :2013/02/14(木) 23:15:11.74 ID:FaC0zh1X
周利槃特尊者を思い出しなされ 知識はなくとも悟れる 知識をこれ見よがしにひけらかしている貴方 貴方は尊者のように悟れましたか?
272 :
Classical名無しさん :2013/02/14(木) 23:28:51.99 ID:FaC0zh1X
貴方がもし自慢でなく衆生に向けて説いているのならば もう少し衆生に歩み寄ってください 貴方の語り口は衆生を離れさせてしまいます 衆生を救うことを思うならば考えてもいいでしょう ただ、貴方が自分はこれだけ偉いんだという僧上慢であるなら それで結構 因果応報を知らない貴方ではないでしょうから
273 :
Classical名無しさん :2013/02/14(木) 23:59:28.47 ID:FaC0zh1X
普通の言葉でいいんです 仏典を引用しなくとも 心が伝わればそれでいいんです それが釈尊の伝えたかったことなのではないのですかね 苦の世界に生きている人に光を見せたい それが釈尊の生き方なのではないのでしょうか
274 :
? :2013/02/15(金) 07:05:14.99 ID:NnvJnul7
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E5%88%A9%E6%A7%83%E7%89%B9 周利槃特(チューダ・パンタカ/しゅり・はんどく)は、釈迦仏の弟子の一人
周利槃特は愚かであったといわれるが、その因縁は、過去世の昔
彼は迦葉仏(かしょうぶつ)という如来が出世された時、賢明な弟子であったが
迦葉仏の説法を暗誦できなかった他の比丘を嘲笑した業報により
釈迦如来の出世の時には、愚鈍に生れついたといわれる
仏弟子となったのは兄・摩訶槃特の勧めであるが
四ヶ月を経ても一偈をも記憶できず
兄もそれを見かねて精舎から追い出し還俗せしめようとした
釈迦仏はこれを知って、彼に一枚の布(あるいは一本の箒)を与え、東方に向かって
「塵や垢を除け」と唱えさせ、精舎(もしくは比丘衆の履物とも)を払浄せしめた
彼はそれにより、汚れが落ちにくいのは人の心も同じだと悟り
ついに仏の教えを理解して、阿羅漢果を得たとされる
そして神通力を得て形体を化かすなど種々示現できるようになったといわれる
275 :
? :2013/02/15(金) 07:11:50.73 ID:NnvJnul7
仏教議論スレッド58
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1360751733/296 296 名前:宝珠愚者@(規制代行)[sage] 投稿日:2013/02/15(金) 05:00:33.12 ID:5nwB0izV [2/2]
カラスさんと私とでは、「アートマン」と真我の用い方に違いが見られます
アートマンというのは一般的には広く「魂」などと訳されたり表現されるので
カラスさんもそういう使い方をしているものと思います
しかし、この私の場合は異なります
ウパニシャッドの説くアートマンというのは「魂」ではなくて
更にもっと最奥の究極の自己です
276 :
? :2013/02/15(金) 07:20:44.95 ID:NnvJnul7
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%B3 アートマンは、ヴェーダの宗教で使われる用語で
意識の最も深い内側にある個の根源を意味する
真我とも訳される
概要
最も内側 (Inner most)を意味する サンスクリット語の Atma を語源としており
アートマンは個の中心にあり認識をするものである
それは、知るものと知られるものの二元性を越えているので
アートマン自身は認識の対象にはならないといわれる
ウパニシャッド
初期のウパニシャッドである『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』では
「…でない」によってのみ、アートマンが定義されるという
その属性を「…である」と定義することはできないという。したがって、「…である」ものではない
また、アートマンは、宇宙の根源原理であるブラフマンと同一であるとされる(梵我一如)
ウパニシャッドではアートマンは不滅で、離脱後、各母体に入り、心臓に宿るとされる
仏教における解釈
釈迦によれば「我」は存在しないとされるため
仏教においてアートマンの用語は一般的ではないと思われる
無我を知ることが悟りの道に含まれる
関連項目
中観派
唯識派
密教
我思う、ゆえに我あり
277 :
? :2013/02/15(金) 07:34:13.68 ID:NnvJnul7
278 :
? :2013/02/15(金) 07:47:00.70 ID:NnvJnul7
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98 インドにおける成立と展開
瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)は
瑜伽行(瞑想)を実践するグループの実践を通した長い思索と論究があったと考えられる
無著は「摂大乗論(しょうだいじょうろん)」を
世親は「唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)」「唯識二十論」等を著した
「唯識二十論」では
「世界は個人の表象、認識にすぎない」と強く主張する一方
言い表すことのできない実体があるとした
279 :
? :2013/02/15(金) 07:57:13.86 ID:NnvJnul7
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E9%82%A3%E8%AD%98 末那識(まなしき)
唯識説の説く八識のうち第七識であり
第八識(阿頼耶識)を所依として
第八識の見分を所縁として生じる識である
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として
それを自分であると考えて執着し続ける
この深層的な自我心を滅することによって
我々は初めて真の無我行を実践することができる
第七識・末那識と相応するものは
我癡・我見・我慢・我愛の四煩悩
一説では、この識を因縁識といい
過去の事象が潜在する識といい
悪念の集結潜在力(障碍作用)の依所といわれる
280 :
? :2013/02/15(金) 08:18:56.79 ID:NnvJnul7
281 :
? :2013/02/15(金) 08:39:18.59 ID:NnvJnul7
282 :
? :2013/02/15(金) 08:51:20.08 ID:NnvJnul7
スッタニパータ 1119
つねによく気をつけ
自我に固執する見解をうち破って
世界を空なりと観ぜよ
そうすれば死を乗り越えることができるであろう
このように世界を観ずる人を
<死の王>は見ることがない
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6 身体について…感覚について…心について…諸法について…
(それらを)観察し、熱心に、明確に理解し、よく気をつけていて
世界における欲と憂いを捨て去るべきである
みずからを灯明とし、みずからを依処として、法を灯明とし、法を依処として
いわゆる四念処(四念住)の修行を実践するように説いた
これが 「 自灯明・法灯明 」 の教えである
283 :
? :2013/02/15(金) 09:04:01.50 ID:NnvJnul7
284 :
? :2013/02/15(金) 09:14:23.51 ID:NnvJnul7
>>268 ID:FaC0zh1X さんへ
> 一切を捨ててもまだ残るものが真理ですよ
http://www.j-theravada.net/pali/key-tanha.html すべての苦しみのもとは、「生きていきたい」「ほしい」という心のはたらきです
仏教では、「ほしい、ほしい」と思うのは真実がわかっていないからだといっています
無明から渇愛が生まれるのです
無明と渇愛がうまく絡み合って
無始なる過去から終わりなく苦しみをつくり出しています
そこから脱出しましょう
(どのような方法によって客観的に自分自身を正しく観察する事が出来るのか? その方法は、わからないけど)
客観的に自分を観ることによって、無明と渇愛を消していきましょう
というのがお釈迦さまの教えなのです
285 :
? :2013/02/15(金) 09:28:21.47 ID:NnvJnul7
286 :
Classical名無しさん :2013/02/15(金) 09:37:16.87 ID:DjUFHaIW
今はじめてこのスレを知ったが・・・仏教論議を熱くやってるな! まぁ結構なことだが、信仰は理論・理屈じゃないよ。 幾ら崇高で瑕疵の無いと思われる理論を展開しても、それは信仰じゃない。 仏教学者にでもなりたいとか、理屈で人を言い負かしたいなら兎も角、 信仰には実践が不可欠だよ。 此処に書いてる人はどんな信仰を「実践」してるのか知りたいもんだ♪
287 :
? :2013/02/15(金) 09:47:20.24 ID:NnvJnul7
288 :
? :2013/02/15(金) 10:06:06.95 ID:NnvJnul7
>>286 ID:DjUFHaIW さんへ
> 此処に書いてる人はどんな信仰を「実践」してるのか知りたいもんだ
私の場合は
仏教を教学として勉強している段階なので
禅定(瞑想)などの実践は、まだ、おこなった事は、ありません
どこの宗教団体にも所属していないので
布教活動(霊感商法)なども、おこなった事は、ありません
たぶん
仏教としての信仰を実践した事もない
と思います
どこの宗教団体にも所属していないし
霊感商法なども、おこなった事は、ないけど
幽霊(心霊現象)などについては
肯定派で、ございます
(「自性ではない故に中有身が因と縁によって現れる」と言う意味です)
289 :
? :2013/02/15(金) 10:14:56.47 ID:NnvJnul7
瑜伽師地論(ゆがしじろん)の場合は
http://reigaku.jugem.jp/?eid=424 人が死ぬ時に
過去の長い間の経験により蓄積された
我愛が現起し
その力にうながされて
自己に愛著し
無始の時以来つづいてきた執着された
戯論(けろん)と
善悪(善でも悪でもないものも含める)業により
中有が形成される
そして、やがて
その中有が次に生まれるべき処を求めて母体に入り
ここで男性の精子と女性の卵子が結合するときに
中有は滅すると同時に生有が生じ
一切種子たる阿頼耶識(あらやしき)がこれに結合して
精子は成長して胎児を形成し出生に至る
290 :
288 :2013/02/15(金) 10:25:17.76 ID:DjUFHaIW
>>288 ?
まあ人それぞれだから、こうでなければならない云う事はないが、
それで十分満足なの?
仏教書を読み、頭で仏教を捉えることもそれはそれで結構な事だけど、
折角この世に生を受け、仏教に興味を持ったのに、それではなぁ〜んか
勿体無いね。
釈迦仏教と現在の日本仏教とは大きな隔たりがあるし、日本仏教でも
宗派によって、これが同じ仏教かと思う程違いが有る。
日本仏教を実践しようとすると、儒教や道教や神道も含まれてきて、
釈迦の教えとの整合性に困惑する事も有るかもしれないが、
それでも長い歴史の中で変化発展して来た「日本仏教」には素晴らしい
ものもある。
宗教者や坊主の堕落は何時の世にもあり、現代でもそれは変わりないが、
他をとやかく云うよりも、自身を磨き信仰を深めて行こうと神仏に向かい合えば
世の宗教者の堕落などに関わっている暇は無い。
折角そんなに勉強しているなら、実践もやってみてはどうでしょうかね?
非常に間口が広いから、事前によぉ〜く調べてからをお奨めしますが・・・
291 :
286 :2013/02/15(金) 10:27:49.27 ID:DjUFHaIW
いや失礼!
>>290 は、名前欄が 286 の間違いでした・・
292 :
? :2013/02/15(金) 10:41:30.99 ID:NnvJnul7
> 折角そんなに勉強しているなら、実践もやってみてはどうでしょうかね? > 非常に間口が広いから、事前によぉ〜く調べてからをお奨めしますが・・・ 私は小学4年生の頃に 落武者の霊を、ハッキリ、クッキリ、目撃して、それ以来 オカルト原理主義に傾倒している状態の者です 一応、教学として 唯識 − 根本仏典 − 中論 − 般若経などの解説書を読んで 勉強している所です 私の場合は オカルト原理主義に傾倒している状態なので 仏教スレの偉い先生の方々から 頭ごなしに叩かれている者です とりあえず ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章 を教学として勉強した後には 禅定(瞑想)などについては オウム信者と勘違いされるかもしれないけど テラワダ、クンダリニ、チベット、チャンダーリーの火 などに 興味があります
293 :
? :2013/02/15(金) 10:47:22.22 ID:NnvJnul7
スッタニパータ 1026 無明が頭であると知れ 明知が 信仰と念と精神統一と意欲と努力とに結びついて 頭を裂け落させるものである _ _ _ クンダリニーは 普段は尾てい骨付近のムーラーダーラチャクラに眠っているが ヨーガの実践や宗教の各種修行によって活性化し始め 生涯をかけ各チャクラを開花させグランティを破壊し 最終的には 頭頂のサハスラーラを押し開け解脱に至る _ _ _ 新アジア仏教史 09 チベット 須弥山の仏教世界 165ページ チャンダーリーの火とは 臍(へそ)のチャクラに宿る熱である この熱の力で「風(ルン)」を中央脈管の中に導き入れ それが脈管に入り、留まり、溶け込む事に習熟した時 菩提心である精液が溶け出し それが中央脈管の中を上下に移動しながら 四つのチャクラを通過する時に 四段階の歓喜が生じ、最終的には 源初から存在する(倶生)大楽を元に 楽空無別の智恵を獲得する
294 :
286 :2013/02/15(金) 10:56:20.15 ID:DjUFHaIW
>私は小学4年生の頃に >落武者の霊を、ハッキリ、クッキリ、目撃して、それ以来 >オカルト原理主義に傾倒している状態の者です 「オカル」とは本来「超常的」とか「超自然の現象。神秘的現象」を現す言葉なのに 今は曲解されて日常使われている。 だから、宗教とは全て「オカルト要素」を含んでいるし、オカルト性の無い宗教など ただの「道徳」に過ぎない。 仏教スレの偉い先生の方々が「霊的世界」や「オカルト性」を否定するなら、 それは偉い先生でも何でも無いですよ。 物事を偏った見方しか出来ない頭でっかちの人に過ぎません。 落武者の霊も存在します。神も仏も間違いなく、厳然と存在してます。 偉いセンセーは、なまじ頭がいいばっかりに教学ばかりの捉われて、 感性の世界が閉ざされてしまっている。 教学も大事だが、信仰の真髄は教学ではなく「体験」に尽きると私は思う。 その意味でも貴方の「落武者の霊を目視した」体験は貴重だし、霊を確認できる 素養があるなが、それを育て伸ばし、神仏ともコンタクトできるようなりたいとは 思わないのですか。
295 :
? :2013/02/15(金) 11:12:02.29 ID:NnvJnul7
> 神仏ともコンタクトできるようなりたいとは思わないのですか 都市伝説的な噂によれば 古代インドの修行法 ・ ヨーガ 第一禅 第二禅 第三禅 第四禅 空無辺処 識無辺処 無所有処 非想非非想処 九次第定 百八三昧 の禅定(瞑想)の体感会得などによって それぞれの神々などと対話する事が出来るようになるらしい (「自性ではない故に、因と縁によって、それぞれの神々などと対話する事が出来るようになる」と言う意味です)
296 :
286 :2013/02/15(金) 11:26:53.81 ID:DjUFHaIW
個人的には、その能力は自性( 本来、生まれつき)に備わっているものと思います。 ただ、様々な因と縁によってそれが感性として現われている場合もあれば、 現れてない場合もあるでしょう。 ですから、様々な「行」によってその因・縁を満たし「感応同交」を目指すのでは ないでしょうか。 云ってみれば、教学は海図のようなもの、実際に船に帆をかけて 大海に乗り出さなければ、いくら海図を目の前にして論議・思考を重ねても 無意味に等しい。
297 :
? :2013/02/15(金) 11:43:15.24 ID:NnvJnul7
298 :
286 :2013/02/15(金) 11:50:17.47 ID:DjUFHaIW
飛行機に乗りたいなら、相応のお金と時間を作ってチケット買って 乗ればよい。 そうすることで、飛行機の快適さや便利さは十分味わえる。 パイロットになるような難しい航空力学や理論まで学ぶ必要は無い。
299 :
? :2013/02/15(金) 13:23:09.97 ID:NnvJnul7
300 :
? :2013/02/16(土) 19:26:00.63 ID:psmKjTGP
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf もしあなたが本質(自性がある)という観点で
すべての事物の存在を認識するなら
そのすべての事物の認識は
原因と条件(因縁)の認識なしに存在することになるだろう
(中論24-16の意訳)
もし
すべての事物が
因と縁によらず
自らの
自性により存在していると言うのなら
因果関係というもの自体が意味を成さないのであり
善き行いが良い結果を生むカルマという考えも意味を成さなくなる
他のものに依存して事象が生じたり滅したりするということもなくなり
努力した結果として悟りを得るということも不可能だということになるだろう
(中論24-17の意訳)
301 :
? :2013/02/16(土) 20:44:26.85 ID:psmKjTGP
302 :
? :2013/02/16(土) 21:14:09.70 ID:psmKjTGP
303 :
? :2013/02/17(日) 10:46:26.59 ID:dtMazj3B
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf もし仮に
四つの聖なる真実が 「 因と縁に依存して生じたものでない 」 とするなら
その中で説明されている 「 苦しみ 」 はどのようにして生じたというのだろうか
四つの聖なる真実の教えによって
苦しみというものは永続しないもの(無常)だと説明されてきたのである
無常のものならば、そのもの自身の本質
− つまり永続する本質 −
から(因と縁とは関係なしに何かが)生じる
ということなどできないではないか
四つの聖なる真実(四聖諦)の第一のものは 「 苦しみは生じてくるものである 」 という教えである
また、第三は 「 苦しみは消滅させることができる 」 である
したがってそれは永続する本質を持つような 「 実体 」 ではないのである
それ故に、それ自体の自性によって成立しているのではない
(中論24-21の意訳)
304 :
? :2013/02/17(日) 10:54:00.72 ID:dtMazj3B
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B4%E3%82%B9 ロゴス(logos)
1)概念、意味、論理、説明、理由、理論、思想などの意味。
2)キリスト教では、神のことば、世界を構成する論理としてのイエス・キリストを意味する。
3)言語、論理、真理の意味。転じて「論理的に語られたもの」「語りうるもの」という意味で用いられることもある。
_ _ _
http://kotobank.jp/word/%E8%87%AA%E6%80%A7 自性(じしょう)
デジタル大辞泉の解説
そのものが本来備えている真の性質。真如法性(しんにょほっしょう)。本性。
大辞林 第三版の解説
1)事物をそのものたらしめている本来的な不変の性質。本性。本質。性(しよう)。
2)衆生(しゆじよう)が本来は持っている真理としての性質。性(しよう)。
3)サーンキヤ学派の主張する根本物質のこと。
世界大百科事典内の自性の言及
【サーンキヤ学派】より
… 活動することなく,その作用はただ物質的原理を観察(ダルシャナ)するのみである。
また物質的原理はプラクリティまたはプラダーナ(〈 自性 〉)と呼ばれ,
唯一の実体であって,永遠で活動性をもち,非精神的な質量因である。
物質的原理は三つの構成要素トリグナ(〈 三徳 〉)から成る。 …
305 :
? :2013/02/17(日) 11:06:44.17 ID:dtMazj3B
306 :
? :2013/02/17(日) 11:15:07.04 ID:dtMazj3B
307 :
? :2013/02/18(月) 11:06:38.31 ID:GSF+Udkf
http://semi.natura-humana.net/2003/contents/genzemi/bunken/2004-aki/abidaruma.pdf 仏教では輪廻もまた、無明(avidoya)によって生起した迷妄にすぎず
そのゆえに、解脱とともに消滅してしまうのである
だが、輪廻を否定すると業の主体や因果応報、また人格の連続性を否定されてしまう
そこでアビダルマで考え出されたのがプトガラ(人我)という考え方であるが
『ミリンダパンハー』では、このプトガラの存在を認めず
かわりに業の相続、つまり行為の連鎖的持続という考え方で
この難問をかわしたと考えられるが、これではまたアビダルマの
小乗的な法の恒有に戻ってしまうのではないだろうか
そこで、このアポーリアをクリアするために
仏教の深層心理学である唯識思想が登場してくる
(アビダルマは大乗仏教への架け橋 世親もここから出発している)
唯識では阿頼耶識という無始以来のすべての有情の
記憶が(大脳新皮質と古皮質の問題と考えあわせると興味深い)存在し
それが末那識(いわゆる無意識層)に働きかけ
結果的に意識上に表象された(業によって影響されているが)世界
つまり、識転変こそが我々の認識のすべてである、世界そのものであるとする
業(行為)はまた、その阿頼耶識に沈潜されて上記のプロセスを経ることで
我々の業を形成し続け、無明の世界の我々の存在となる
308 :
? :2013/02/18(月) 17:11:43.21 ID:GSF+Udkf
309 :
? :2013/02/21(木) 18:15:34.64 ID:HzeF0sSK
310 :
? :2013/02/23(土) 11:56:30.61 ID:hVgO9eZO
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf 四つの聖なる真実の第四の教えである
苦を滅させる為の禅定(道諦)が
(永久不滅 ・ 常住不変、そして他に依存する事のない)
本質を持っている、と言うのなら
それ自体の自性によって成立している、と言うのなら
因と縁によって果も報も現れない
苦を滅させる為の禅定(道諦)によって
苦を滅させる事が出来るのなら
因と縁によって果と報が現れるのなら
それ自体の自性によって成立しているのではない
(永久不滅 ・ 常住不変、そして他に依存する事のない)
本質を持つと言う事はあり得ない
(中論24-24の意訳)
311 :
? :2013/02/25(月) 01:49:32.91 ID:rDFrQIDz
312 :
Classical名無しさん :2013/02/25(月) 02:15:27.25 ID:ZATsOWhn
無神論 無仏論
313 :
? :2013/02/25(月) 02:36:09.91 ID:rDFrQIDz
>>311 の続き
縁起によって現れているものは
因と縁によって
五蘊(色受想行識)の仮和合によって
苦しみも、それが生じるという事態も
消滅するという事態も
そして、神も仏も
無我であり、縁起であり、空である
だからこそ現れる
と言う説明になります
314 :
? :2013/02/25(月) 21:58:09.43 ID:rDFrQIDz
315 :
Classical名無しさん :2013/02/26(火) 22:44:07.21 ID:yOHG8ZQY
引用は良し それで貴公はなんと捉えたのか それを人々に示すが良い
316 :
Classical名無しさん :2013/02/26(火) 22:52:23.07 ID:yOHG8ZQY
仏典とは こうこう書いてあるだからこうせよという強制的なものではない こうこう書いてあるだからどう思うという問いかけである 密教の阿字観、禅宗の座禅、 自分がどう観るという修行である それがどう観える それが問題である ただの文字の羅列を並べても意味がない教えであるということを ご理解いただきたい
317 :
Classical名無しさん :2013/02/26(火) 23:04:24.91 ID:yOHG8ZQY
単純なことで 非常にシンプルなことだが 釈尊は仏典は読んでいない 仏典はあくまでも釈尊の悟りについて書き残しているものであるから それを最重要視するのはいかがなものかと 仏典ももちろん大事なものではあるが まずは釈尊の生き方を学ぶべきではなかろうか 教学を軽んずるわけではないが それだけに止まってしまうことはもったいないことではなかろうか 同時に進めることは出来ないものであろうか 釈尊は頭でっかちではなく 生き方すべてで悟りを示していると 私は捉えている
318 :
Classical名無しさん :2013/02/26(火) 23:23:45.69 ID:yOHG8ZQY
釈尊が何故偉大なのか それは 誰もが比較的容易に悟りに至れるように説き残した方であるから 賢い方だったから 皆から慕われたから 超人だったから それで崇拝されているわけではない 我々の誰もが釈尊の悟りまで行きつける道程を作られた方だからである つまり それが釈尊の慈悲である それが大乗の拠り所である 我々の為に残していただいた命を正しく受けつがさせていただく まだ釈尊の教えは生きているのである 己の良心を仏を灯火として怠ることなく修行して 釈尊の偉大なる慈悲の想いに応えようではないか
319 :
? :2013/02/26(火) 23:41:37.80 ID:toTp2NKn
> 密教の阿字観
今、現状としては、教学として 「 無我 ・ 縁起 ・ 空 」 を勉強をしてる段階ですが
その次の段階としては
無我 ・ 縁起 ・ 空を観察する為の訓練としては
数息観とかも良いのかもしれませんね?
_ _ _
般若経の解説
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html 無我 ・ 縁起 ・ 空を観察する為の訓練として
およそ、禅定に入ろうとする人は …
… この吐いて吸う大きな長い息を十数え、何度も繰り返し、なにも考えず、ただ息を数え続けます
320 :
? :2013/02/26(火) 23:51:52.73 ID:toTp2NKn
http://satori.suisei.info/zazen6.html 数息観
簡単に言えば、数を数えましょう、ということです
楽な姿勢をとります
椅子に座っても、足を組んでも構いません
座布団を使っても使わなくても、落ち着いて座れる状態なら良いです
少し深呼吸しましょう
少し落ち着きましたか?では呼吸の数を数えていきます
ひとーつ、ふたーつでも、いーち、にー、さーんでも構いません
呼吸はコントロールしないでください
あくまでも自然な呼吸を数えます
呼吸は常に変化し続けています
長くなったり、短くなったり、重苦しくなったり軽やかになったり・・・
気にする必要はありません
ただ数を数えれば良いです
それ以外に考える必要はありません
ただ、呼吸に意識を集中して、数を数えてください
321 :
? :2013/02/27(水) 00:15:18.02 ID:Zmlhx1Lk
末那識(まなしき) 睡眠中でも深層において働き続け 根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続ける この深層的な自我心を滅することによって、我々は初めて真の無我行を実践することができる 無我 ・ 縁起 ・ 空の観察など 中阿含経などに説かれた、仏教で、悟りに至るための三十七菩提分法によって 中論觀法品第十八 八聖道分を修習して、我、我所を滅する因縁の故に、無我、無我所を得て、智慧を決定する 煩悩障(自己に対する執着) 所知障(外界のものに対する執着) の二種の障害を根絶することによって 阿頼耶識が変化を起こす(転識得智=てんじきとくち) これがすなわち、汚れを離れた領域であり、思考を超越し それを得たものは解脱身であり、仏陀の法と呼ばれるものである(大円鏡智=だいえんきょうち) _ _ _ だけど今の、私の現状としては 「 無我 ・ 縁起 ・ 空 」 を教学として勉強をしてる段階である、と言う事です
ダメだぁ・・・・こりゃ! すべてが文字面に捉われている・・・・一度そんなものはかなぐり捨てて 実践するがいい。
323 :
? :2013/02/27(水) 01:26:30.36 ID:Zmlhx1Lk
どのような実践が出来るのか? 或いは出来ないのか? わからないけど とりあえず 叱咤激励、ありがとう、ございます _ _ _ 礼拝帰依 ブッダン サラナン ガッチャーミ 普礼真言 オン サラバ タタギャタ ハン ナマンナノウ キャ ロミ 地蔵菩薩 オン カカカビ サンマエイ ソワカ 屮(_ ._)屮 屮(_ ._)屮 屮(_ ._)屮
324 :
? :2013/02/27(水) 01:38:59.34 ID:Zmlhx1Lk
|:i\、 /:/|j.....-=:..:. ̄`ー──-... /i | /^i:| |:| \j以´:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..刈 /" |:| ....斗|¨゙ア´:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:.. \─‐:.|:| ..:..´:..:..:.| v" ... / ................... |................................:..:..:..:..:.、 :..:|:|:\ ー=彡':..:..:..:..:.У:..:..:/:..:..:..:..:..:./ :. |:..:..:..:..:..:..ヽ:..:..:\:..:..:..:彡:.// :..: \ . /:/:..:..:..:./:/:..:./:..:..:..:i:..:../:..:..∧::...:..:.|:..:..:.‘,:..: ‘:..:..:..:.. ∨:..:..ヽー一 /〃:..:. //:/:..:..:|:..:.i:..:..|:.斗一:′:::::...: | ー‐-ミ:..:..:ハ:..:..:..: |::..:.::..:..\ . /:イ : :::/イ7:..:..:..:i:..:.|/j∧| i..:′ ::::::. |\::..:..:|:\:.: |:..:i:..:..|:::::..::::..:..: \ {/ :..:.::::/:..:..:i:..:.| :.. i..: |:../ x==ミ \:.| x==ミi\::..::i:..:|:|:. i::::::::.\:..:..:..: |:.:::/| .:..:::|:.. |:..:. i /|/y"ノハ ノハ ヾ\i:. iノ_/::::ヽ:::: |\:..:.} i: / :| .:.::::|: ∧:. 从 {i トii爿 トii爿 j} |:..:.| } |、:ハ:: | j\} レ :..:::/レ:::∧:.ム:. 弋::ツ 弋::ツ :..:..| ノ:::i:::Y |:::| |..:/ i/::∧ ハ .::/:::/::. , .::/:::/::. |:.. ハ:: リ:八:i:::| レ |/ ゞ人 イ:./ ∨ jノ レ > ` ´ イ/ レ r<j=-....._....-r≦ _斗 ≧r:r=≦ ト、_ /  ̄ | | ー | | | |  ̄ ヽ 闇に惑いし哀れな影よ人を傷つけ貶めて罪に溺るる業の魂わたしと一緒に逝ってみない? 叱咤激励の、お礼として可愛い女の子を貼り付けさせて頂きます 屮(_ ._)屮
保守
326 :
Classical名無しさん :2013/03/03(日) 06:07:33.67 ID:46Ta+nd8
論語にも曰く 子曰わく、学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや。 つまりなんだ。いくら書を紐解いてお勉強しても、実際にやって活かさなけりゃ ダメということなのよね。
327 :
? :2013/03/03(日) 22:25:26.98 ID:HNqdyzQI
328 :
? :2013/03/03(日) 22:47:32.80 ID:HNqdyzQI
一切食う役
330 :
? :2013/03/06(水) 09:10:58.29 ID:a+iVvp01
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf 本質は他に依存しないものである
「本質がある」とする本質論者にとっての「本質とは」
例えば
「時の流れに依存して変化する」と言う事もないので
「変化する前の状態」から「変化した後の状態」へと変化する、と言う事もないので
悟りに到達していないものは(その状態から変化する事はないので)
「悟ることのないもの」と言う事になる
この場合
悟りに到達していないものは
どういう方法で悟りに到達することができるというのだろうか
(中論24-28の意訳)
謝、利子
色は匂えど散りぬるを
未在
334 :
Classical名無しさん :2013/03/09(土) 15:37:30.76 ID:QJIZQo1b
有在
苦災
336 :
? :2013/03/09(土) 20:21:36.70 ID:9TEPknBi
337 :
? :2013/03/09(土) 20:46:55.52 ID:9TEPknBi
338 :
Classical名無しさん :2013/03/09(土) 21:05:37.93 ID:QJIZQo1b
人非人等身得度者 即皆現之而為説法 応以執金剛神得度者 即現執金剛神而為説法無尽意 是観世音菩薩 成就如是功徳 天界から下界すべての者は救われる可能性を持っている それに向かうか向かわないかは それぞれの自主性に任せられている 貴方が行きたい方へ行くがいい それが仏の教えである
339 :
Classical名無しさん :2013/03/09(土) 21:41:10.27 ID:QJIZQo1b
間違えないで欲しい 八部衆以外の人、非人の存在価値を それは仏典にあるものであるから 我らを無視しないで欲しい 貴方も我らであるのだから
33応身
ねんP
まんP
かんのんさま まぁイヤラシイ!
344 :
? :2013/03/13(水) 02:14:47.18 ID:/fA1BqLU
345 :
? :2013/03/13(水) 03:05:40.42 ID:/fA1BqLU
346 :
? :2013/03/14(木) 02:28:25.99 ID:/kWZKQB0
347 :
中 :2013/03/15(金) 08:21:30.91 ID:QNnnPKIZ
喝の他には咄もあり、また嗟なんてのもある
348 :
? :2013/03/15(金) 12:33:02.39 ID:NuJhRvn9
喝(かつ) 禅宗で、修行者をしかるときなどに大きな声で発する語 相手を制止するため大声でどなる。「喝破/一喝・大喝」 やんやと声を掛ける。「喝采(かっさい)」 おどす。「威喝・恐喝・恫喝(どうかつ)」 咄(とつ) 舌打ちする音。「咄嗟(とっさ)・咄咄」 〈はなし(ばなし)〉落とし話。「咄家(はなしか)/小咄・三題咄」 《舌打ちの音から》 激しくしかるときに発する語。ちょっ。「―、国賊」〈木下尚江・良人の自白〉 事の意外さに驚き怪しむときに発する語。 舌打ちの音やしかる声を表す語。ちょっ。 「 −,この乾屎橛(かんしけつ)/草枕 漱石」 呼びかける語。 驚きあやしむ語。さてさて。 嗟(さ) [訓]ああ 舌打ちの音。「咄嗟(とっさ)」 嘆く。「嗟嘆/怨嗟(えんさ)」 [難読]嗟乎(ああ)
道とは修行のこと
350 :
? :2013/03/16(土) 14:28:25.53 ID:CcJPm7eJ
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf 聖なる真実が非存在だということになれば
真実の教義(正法)も存在しないということになるだろう
もし教義(法)も霊的共同体も存在しないならば
ブッダはどのように出現し得るというのだろうか(中論24-30)
四つの聖なる真実がまったく存在しないなら、真実の教え(ダルマ)は存在しないことになる
もし真実の教えも霊的共同体(サンガ)も存在しないなら
ダルマとサンガによってこそ得られる悟りの体現者であるブッダたちも
やはり現れることがないであろう(中論24-30の意訳)
351 :
? :2013/03/16(土) 14:40:46.23 ID:CcJPm7eJ
352 :
? :2013/03/16(土) 22:30:43.89 ID:CcJPm7eJ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A2%E8%A6%B3 止観とは仏教の瞑想のことである。
サンスクリット語から「奢摩他(サマタ)・毘鉢舎那(ビバシャナ)」と音訳されることもある。
一般的な意味としては「禅」、あるいは坐禅(座って行う瞑想)と同義である。
明確には禅という用語は梵語の音写である禅那(ゼンナ)を縮めたものであり定(じょう)・静慮と訳され、
仏教での位置づけと一般での理解とはずれが存在する。
仏教では瞑想を「止」と「観」の二つに大別する。
止(サマタ瞑想)とは、心の動揺をとどめて本源の真理に住することである。
観(ヴィパッサナー瞑想)とは、不動の心が智慧のはたらきとなって、
事物を真理に即して正しく観察することである。
このように、止は禅定に当たり、観は智慧に相当している。
「止」だけでなく「観」を重視するところに、仏教の瞑想法の特徴がある。
止観の語は、特に天台宗において多用される。
天台智の『天台小止観』や『摩訶止観』といった書物は、
坐禅の詳細なマニュアルであり、天台宗だけでなく禅宗においても参照される。
関連項目
坐禅
瞑想
ヨーガ
ヴィパッサナー瞑想
サマタ瞑想
353 :
Classical名無しさん :2013/03/17(日) 00:40:54.49 ID:qj0cQ2w3
能書きはいいから はよ、坐れ
354 :
? :2013/03/17(日) 01:42:11.47 ID:7rRZ9qoB
能書きはいいから,はよ,坐れ
般若経の解説
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html これまであなたたちは、
永久不滅・常住不変のアートマン : バラモンなどの輪廻を土台として
善行に励み、永遠ばかりを探してきた。
だから、凝り固まり、ありのままに変化を見ることに慣れていない。
無我を、縁起を、空を見ることがうまくない。
あなたたちは:無我・縁起・空:を観察する為の練習が必要だ。
およそ、禅定に入ろうとする人は、まずゆったりとした服を着て、静かで心地よい場所を選びます。
舌は上顎につけ、視線は一、二メートル先に見るでもなく落とし、
鼻先に意識を集めて、腹の底からゆっくりと息を吐き、
すべての息を吐き終えたら、静かに息を吸ってまたゆっくりと腹一杯にためます。
この吐いて吸う大きな長い息を十数え、何度も繰り返し、なにも考えず、ただ息を数え続けます。
355 :
? :2013/03/18(月) 03:28:43.99 ID:jgvzi0x7
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf 四つの聖なる真実がまったく存在しないなら
真実の教え(ダルマ)は存在しないことになる
もし真実の教えも霊的共同体(サンガ)も存在しないなら
ダルマとサンガによってこそ得られる悟りの体現者であるブッダたちも
やはり現れることがないであろう
もし仮に何かが 「 それ自身の本質から生じてくる 」 とするのなら
「 それ自体の自性によって成立している 」 とするのなら
_ _ _
あなたがたにとっては、ブッダは
悟りとは別のものとして生じることになる
そしてあなたがたにとっては、悟りは
ブッダとは別のものとして生じることになる(中論24-31の意訳)
あなたがたにとっては、本質において
まったく悟っていない者は
悟るための修行をしてもなお
悟りに到達できないことになる(中論24-32の意訳)
356 :
? :2013/03/18(月) 03:46:45.07 ID:jgvzi0x7
>>355 の補足
ブッダは
因からの依存と
縁からの依存によって
現れている
− これに対して −
因と縁によって依存する事のない
それ自体の自性によって成立しているものは
悟りに至る道筋・四聖諦に依存する事は出来ない
357 :
? :2013/03/19(火) 01:02:26.94 ID:/bTlWkSh
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf さらにまた人は
正しい行為(法)も
間違った行為(非法)も
けっして行うことはできないであろう
もしすべて(これ)がまったく空でないものなら
人は何を行い得るだろうか
本質というものは生じることができないのであるから(中論24-33)
そして(本質が存在するという立場に立てば)
人間は正しいものであれ間違ったものであれ
いかなる行為(カルマ)も行い得ない
(し、そのカルマに見合った結果も生じ得ない)ことになる
もしすべての事象が空でなく、本質を持った実体ならば
人間はいったいどんな行為ができるというのだろうか
本質というものは生じることができないもの
(なのに、行為というものはそれを行わない状態から行っている状態へと生じるもの)
だからである(中論24-33の意訳)
358 :
? :2013/03/19(火) 01:32:59.59 ID:/bTlWkSh
359 :
? :2013/03/19(火) 21:13:34.05 ID:qQcQKPzG
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf あなたがたにとっては
正しい行為からも間違った行為からも
結果(果報)は生じないことになるだろう
もし結果が正しい行為か間違った行為から生じるものなら
あなたがたの説によれば、そんなものは存在しないことになるだろう(中論24-34)
もし結果は
正しい行為か間違った行為から
生じるのだとあなたがたが言うのなら
正しい行為や間違った行為から生じたというのに
どうしてその結果が空でないことになり得るのだろうか(中論24-35)
(あなたがた本質論者にとっては、正しい行為も間違った行為も
それに従った結果というものが生じないことになる。何らかの結果が
−−正しいものであれ間違ったものであれ−−
何らかの行為から生じるということは、原因に依存して結果が生じるということであるが
あなたがたにとってはそうした因果的依存関係自体が存在しないことになる
しかし空を否定する)あなたがたがもし(仮に因果関係というものを認めて)
結果というものは何らかの正しい行為なり間違った行為なりから生じるのだと言うのなら
そのように正しい行為や間違った行為に依存して結果が生じたというのに
どうしてその結果が空−−依存的に生じるもの−−でないなどと言い得るだろうか(中論24-34・35の意訳)
業とは行為なり
361 :
? :2013/03/20(水) 10:36:38.60 ID:w1kedW9z
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AD 業(ごう)とは、仏教の基本的概念である梵(karman)を意訳したもの。
サンスクリットの動詞の「クリ」(kR)の現在分詞である
「カルマット」(karmat)より転じカルマンとなった名詞で、「行為」を意味する。
業はその善悪に応じて果報を生じ、死によっても失われず、
輪廻転生に伴って、アートマンに代々伝えられると考えられた。
アートマンを認めない無我の立場をとる思想では、
心の流れ(心相続)に付随するものとされた。
中国、日本の思想にも影響を与える。
「ウパニシャッド」にもその思想は現れ、のちに一種の運命論となった。
釈迦以前の業
釈迦が成道する以前から、従来のバラモン教に所属しない、
様々な自由思想家たちがあらわれていた。
かれらは高度な瞑想技術を持っており、瞑想によって得られた体験から、
様々な思想哲学を生み出し、
業、輪廻、宿命、解脱、認識論などの思想が体系化されていった。
この中に業の思想も含まれていたのである。
バラモン教の業
業はインドにおいて、古い時代から重要視された。
ヴェーダ時代からウパニシャッド時代にかけて輪廻思想と結びついて展開し、
紀元前10世紀から4世紀位までの間にしだいに固定化してきた。
362 :
? :2013/03/20(水) 10:46:39.54 ID:w1kedW9z
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%B3 アートマンは、ヴェーダの宗教で使われる用語で、
意識の最も深い内側にある個の根源を意味する。
真我とも訳される。
最も内側 (Inner most)を意味する サンスクリット語の Atma を語源としており、
アートマンは個の中心にあり認識をするものである。
それは、知るものと知られるものの二元性を越えているので、
アートマン自身は認識の対象にはならないといわれる。
ウパニシャッド
初期のウパニシャッドである『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』では、
「…でない」によってのみ、アートマンが定義されるという。
その属性を「…である」と定義することはできないという。
したがって、「…である」ものではない。
また、アートマンは、宇宙の根源原理であるブラフマンと同一であるとされる(梵我一如)。
ウパニシャッドではアートマンは不滅で、離脱後、各母体に入り、心臓に宿るとされる。
仏教における解釈
釈迦によれば「我」は存在しないとされるため、
仏教においてアートマンの用語は一般的ではないと思われる。
無我を知ることが悟りの道に含まれる。
関連項目
中観派
唯識派
密教
我思う、ゆえに我あり
363 :
? :2013/03/20(水) 11:16:56.12 ID:w1kedW9z
>>362 の続き
般若経の解説
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html 永久不滅・常住不変のアートマンを土台として
善行に励み、永遠ばかりを探して
凝り固まり、ありのままに変化を見ることに慣れてない
無我を、縁起を、空を見ることがうまくない人達を
:無我・縁起・空:の観察によって悟りへの道に導く為に
およそ、禅定に入ろうとする人は、まずゆったりとした服を着て、静かで心地よい場所を選びます
腹の底からゆっくりと息を吐き
すべての息を吐き終えたら、静かに息を吸ってまたゆっくりと腹一杯にためます
この吐いて吸う大きな長い息を十数え、何度も繰り返し、なにも考えず、ただ息を数え続けます
煩悩=無明=覆=惑=自我執着
365 :
? :2013/03/21(木) 09:32:51.64 ID:rb2pHdoo
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%98%8E 無明(むみょう、avidya)とは、仏教用語で、迷いのこと。
また真理に暗いこと、智慧の光に照らされていない状態をいう。
法性(ほっしょう)に対する言葉である。
仏教では十二因縁の根源に無明をおく。
すべての苦は、無明(迷い)を原因とする煩悩から発生し、
智慧によって無明を破ることにより消滅すると説く。
我というものが存在するという見解(我見)が無明である。
無常であるものを常住と見るが、それが失われると苦しみを生じる。
すべての苦しみはこの無明を原因として発生すると説く。
この苦しみを消滅する方法は、
初期経典には定型文句として四諦、八正道であると説かれている。
この四諦、八正道を知らないことも無明である。
たとえば、闇(やみ)について、
多くの人は「闇は存在する」と漠然と考えている。
しかし、闇に光が当たると、闇はたちまち消えうせる。
闇がどこか別のところに移動したわけではない。
つまり、闇は始めから存在しなかったということである。
闇は「光の欠如」ということであって、
闇と呼ばれる「なにか」が存在するわけではない。
精神的な「苦しみ」についても、同じようにとらえることができる。
智慧の光によって、苦しみはたちまち姿を消す。
苦しみが、何か実体を伴って存在しているわけではない。
実際には無いものを有ると考えるのは無明である。
366 :
? :2013/03/21(木) 11:25:19.43 ID:rb2pHdoo
367 :
? :2013/03/22(金) 07:39:54.64 ID:GDuBt1Oj
___ |`ー'''' _,,.、 ~`ヽ | |""~ | | | |_,,..-‐'" | | _,,..、 ,/! | i-、 _,,.-'"~\ | | // __| | | i <_,. / ,.i' | レ"'‐''" | | ! / /,ィ"| ! /ヽ、 ノ ! ! / '" ,/ `フ ,/ ~ | ヽ/ / / / ! / / / ,,,,,...---――---,_ ヽ iー" ,,ィ" `~~~__,,,,-―'''"""ヽ \ \__| / ,:ィ'" | | ! ,-'1 ヽ-''""") | , '‐'" | ,:-‐''"" ,! ,| | !,__,,,-―:、 ,! ,i ! ノ ,! ,i `ー―''''""~ / ,! 、_,,,__ / / \ ~~'" / \ ,.:' `ー‐'"
368 :
? :2013/03/22(金) 18:36:33.37 ID:GDuBt1Oj
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf もし空性それ自体が否定されるなら
いかなる行為も妥当でないものとなるだろう
行われなかった行為が存在し得ることになるだろうし
行為者のない行為が存在し得ることとなるだろう(中論24-37)
もし空性それ自体が否定されるなら、どんな行為も矛盾した、意味のないものとなってしまう
(空でないということは
どんな行為もそれ自体が永遠の本質を持って最初から存在しているということだから
行為は「生じなかったもの」なのであり、生じなかった行為、つまり)
行われなかった行為などというものが存在することになってしまう。また
(空でないということは、行為者と行為とが別々の本質をもってそれぞれ存在しているわけだから)
行為者がいないのに行為だけ存在する、という事態だってあり得ることになる(中論24-37の意訳)
実在したの仏陀は釈迦ただ1人
お釈迦さまの遥か以前に、6人の仏陀がいたといわれている。 『七佛通解偈』
ヒント:仏陀というタームの意味、内容、定義の変遷
372 :
? :2013/03/24(日) 11:25:36.64 ID:OjW4FvzV
373 :
? :2013/03/24(日) 12:31:54.70 ID:OjW4FvzV
374 :
? :2013/03/24(日) 13:38:55.26 ID:OjW4FvzV
> 自相続
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AD 業(ごう)はkarmanを意訳したもの。「カルマット」(karmat)より転じカルマンとなった名詞で、「行為」を意味する。
業はその善悪に応じて果報を生じ、死によっても失われず、輪廻転生に伴って、アートマンに代々伝えられると考えられた。
アートマンを認めない無我の立場をとる思想では、心の流れ 『 心相続 』 に付随するものとされた。
釈迦は自ら
「比丘たちよ。あらゆる過去ないし未来ないし現在の応供等正覚者は、業論者、業果論者、精進論者であった」
と言ったといわれるように、カルマ(業)論の主張者であった。
しかし、業を物質的なものであると考えたニガンタ・ナータプッタとは異なり、
心のエネルギーとして、物質的形態をとらないものとして考えた。
「 比丘たちよ、意思(cetanā)が業(kamma)である、と私は説く。 」 — 『中部経典』 (Majjhima-Nikāya)
@識→(縁に依り影響を与える)→境 A境→識 @とAは同時に起こる これを同時恒互因果という
376 :
? :2013/03/25(月) 14:39:56.10 ID:70mKVEPu
境
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98 瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)
中観派の「空 (くう)」思想を受けつぎながらも
とりあえず 『 心の働きは存在する 』 と仮設して
瑜伽(ヨーガ)の実践によって
心の働きを制御して変化させて
悟りを得ようとした(唯識無境=ただ識だけがあって外界は存在しない)
仏教の唯識論では、その心の存在も仮のものであり
最終的にその心的作用も否定される
(境識倶泯 きょうしきくみん − 外界も識も消えてしまう)
大乗仏教の考え方の基礎は、この世界のすべての物事は縁起
つまり関係性の上でかろうじて現象しているものと考える
唯識説はその説を補完して、その現象を人が認識しているだけであり
心の外に事物的存在はないと考えるのである
これを「唯識無境」(「境」は心の外の世界)または
唯識所変の境(外界の物事は識によって変えられるものである)という
アーラヤ識にて起こる種子、つまり現象の要因たる因子の作用は3つに分かれる すなわち @種子生種子 A種子生現行 B現行熏種子 @によって時間が成り立ち、Aによって境が成り立ち、Bによって識が成り立つ
378 :
? :2013/03/26(火) 15:01:52.44 ID:b/B14Bia
第一能変 異熟というのは、 阿頼耶識(根源的と呼ばれる識知)のことであり、 あらゆる種子 (biija) を内蔵している。 感触・注意・感受・想念・意志をつねに随伴する。 感受は不偏であり、かつそれは障害のない中性である。 感触その他もまた、同様である。 そして、根源的識知は激流のごとく活動している。「暴流の如し」 第二能変 末那識 (mano naama vijJaana) は、阿頼耶識にもとづいて活動し、 阿頼耶識を対象として、思考作用を本質とする。 末那識には、障害のある中性的な四個の煩悩がつねに随伴する。 我見(個人我についての妄信)、我痴(個人我についての迷い)、 我慢(個人我についての慢心)、我愛(個人我への愛着)と呼ばれる。 なかでもとくに、 当人が生まれているその同じ世界や地位に属するもののみを随伴する。 さらにその他に感触などを随伴する。 この末那識は自我意識と呼んでもよい。 つねに煩悩が随伴するので「汚れた意(マナス)」とも呼ばれる。 この末那識と意識によって、思量があり、 その意業の残滓はやはり種子として阿頼耶識に薫習される。
379 :
Classical名無しさん :2013/03/26(火) 15:03:04.29 ID:24Uz2jne
幸福の科学学園から2名が東大に合格☆
380 :
? :2013/03/26(火) 15:07:13.68 ID:b/B14Bia
第三能変 了別とは、第三の転変であり、六種の対象を知覚することである。 六識は、それぞれ眼識が色(しき、ruupa)を、耳識が声を、鼻識が香を、舌識が味を、 身識が触(触れられるもの)を、意識が法(考えられる対象、概念)を識知・識別する。 そしてこの六識もまた阿頼耶識から生じたものである。 そして末那識とこの六識とが「現勢的な識」であり、 我々が意識の分野としているもので、阿頼耶識は無意識としているものである。 これまでの説明は、阿頼耶識から末那識および六識の生ずる流れ(種子生現行)だが、 同時に後二者の活動の余習が阿頼耶識に還元されるという方向(現行薫種子)もある。 それがアーラヤ(=蔵)という意味であり、相互に循環している。 識を含むどのような行為(業)も一刹那だけ現在して、過去に過ぎて行く。 その際に、阿頼耶識に余習を残す。 それが種子として阿頼耶識のなかに蓄積され、それが成熟して、 「識の転変」を経て、再び諸識が生じ、再び行為が起ってくる。
381 :
? :2013/03/26(火) 15:27:41.30 ID:b/B14Bia
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf もしそれ(世界)が空でないなら
行為には何の益もないであろう
苦しみを終わらせる行為と
苦悩と煩悩を捨てる行為は存在し得ないだろう(中論24-39)
もしすべての事象が、つまり世界が空でないのなら
何かを行うということ自体が無意味なことになってしまう
(変化は存在しないのであるから)
苦しみを終わらせようと考えて行動することは無意味であり
煩悩を捨てようと努力する行為は
それ自体存在すらしないものとなってしまう(中論24-39の意訳)
382 :
Classical名無しさん :2013/03/27(水) 06:01:31.82 ID:Y96CAmZ7
統合失調妄想
民を憐れんで
狂人といえばルソー
385 :
Classical名無しさん :2013/03/28(木) 09:09:14.48 ID:4F6CCeYK
*
386 :
? :2013/03/28(木) 09:55:42.46 ID:zK8caad2
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf 依存的に生じること(縁起)を理解する者は誰であれ
苦しみ(苦諦)をも理解しそして
それが生じるということ(集諦)を理解しそして
その方法(道諦)とともに
それが消滅するということ(滅諦)を理解するのである(中論24-40)
すべての事象が何か他の事象に
(最終的には概念に)依存して生じるということを理解する者は
苦しみが生じるということを理解できるのであり
四つの聖なる真実の第一のものである「生存はすべて苦しみである(苦諦)」ということを理解できるのである
また、第二のものである「苦しみには原因があって生じてくる(集諦)」ということも理解できるのであり
第四のものである「苦しみを克服する方法が存在する(道諦)」ということも
第三のものである「苦しみが完全に止んだ状態があり得る(滅諦)」ということも理解できるのである(中論24-40の意訳)
この身すなわち仏なり
388 :
? :2013/03/29(金) 12:06:57.29 ID:ZWEOfE7G
> この身すなわち仏なり
般若経の解説
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html 一切の有情には仏性があるといわれる
解脱すれば仏だという
解脱してあなたたちは思う
変化する世界のすばらしさ、世界のすべてとともに現象する喜び、空の力への感嘆
そして我執は消え、みずから苦を創り出していた自分の愚かさに気づく
しかし、(「解脱すれば仏だ」と言う事に)気づくまでは、気づくことは難しい
悩み怒り悲しむことのできるもの、迷うものだけが、気づくことができる
悩み怒り悲しむ心を持つものだけが、悩み怒り悲しみ妬むものを理解することができる
悩み怒り悲しみ妬む心を持つものだけが、慈悲の心を持つことができる
悩み怒り悲しみ妬む心を持つものだけが、悩み怒り悲しみ妬むものを解脱に導くことができる
389 :
? :2013/03/29(金) 19:52:49.02 ID:ZWEOfE7G
390 :
? :2013/03/29(金) 20:45:40.50 ID:ZWEOfE7G
391 :
? :2013/03/30(土) 00:44:37.22 ID:H/sl+W9C
392 :
? :2013/03/30(土) 01:14:37.01 ID:H/sl+W9C
393 :
? :2013/03/30(土) 17:29:39.51 ID:v5HDPXMB
394 :
? :2013/03/30(土) 21:07:29.30 ID:v5HDPXMB
境とは名色
396 :
? :2013/03/31(日) 11:25:58.12 ID:0ct1dON8
> 境とは名色
http://www.ab.auone-net.jp/~engikan/resume/2011-10-20.pdf (5)
識は名色に縁たり「識を条件として名色が生じます」。
「名」は無形のもの、「色」は有形のものです。
「名色」については、二つの説がありました。
ひとつは「名色」を五蘊と見る説です。
すなわち「名」は心で、
感受作用(受蘊)、表象作用(想蘊)、意思作用(行蘊)、認識作用(識蘊)、
「色」は身体で、感覚作用(色蘊)です。
もうひとつは、 ☆ 「名色」を六境と見る ☆ 説です。すなわち、「色境、声境、香境、味境、触境、法境」です。
私は、十二因縁の論理の流れから見て、「名色」を六境と解釈するほうがよいと思います。
識と境は三性の内の偏計所執性と、依他起性より生じる
398 :
? :2013/04/01(月) 11:36:42.92 ID:+bu/xZep
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98 1).遍計所執性(へんげしょしゅうしょう) 構想された存在 凡夫の日常の認識
2).依他起性(えたきしょう) 相対的存在、他に依存する存在
3).円成実性(えんじょうじっしょう) 絶対的存在、完成された存在
遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)
阿頼耶識・末那識・六識によってつくり出された対象に相当して、存在せず、空である
依他起性(えたきしょう)
相対的存在であり、構想ではあるが
物事はさまざまな機縁が集合して生起したもの(縁起)であるととらえることである
阿頼耶識をふくむ全ての識の構想ではあるけれども
すでにその識の対象が無であることが明らかとなれば
識が対象と依存関係にあるこの存在もまた空である
因と縁によって現れ
因と縁によって滅する
『それ自体の自性によって成立しているのではない』『空である』
円成実性(えんじょうじっしょう)
仏の構想であり、絶対的存在とも呼べるものである
依他起性から
その前の遍計所執性をまったく消去してしまった状態が円成実性である
399 :
? :2013/04/01(月) 12:46:21.32 ID:2suZBkwS
400 :
? :2013/04/02(火) 03:50:22.04 ID:/lFQ7aYN
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E7%95%8C 霊界(spirit world)とは、
死後に霊ないしそれに類するものが行き着くとされる世界。死後の世界。
精神の世界。非物質世界。
霊界という言葉が意味する内容は個々人や信仰(宗教的立場)によって異なる。
一般に霊界といった場合は前者の意味で用いられることが多く、
あの世や後世や死後世などの表現でも呼ばれている。
伝統的な宗教の中には、
死者が存命中にこの世で行った善悪の行いや信仰心などに応じて、
行き先が天国と地獄に分かれるとするものもある。
また近年では、霊界は階層状の世界であり、
魂の状態に応じてふさわしい層に行くとも言われるようになった。
古代ギリシャの哲学者ではプラトンが霊界が存在していると述べ、
あの世の様子についても語った。
不可知論の立場では、
死後の世界については、あるにしてもないにしても、
人間の認識能力では知ることはできないと考える。
インドの仏陀は、死後の世界があるとも無いとも語らず、
それよりも、
いま苦しんでいる人の苦しみを取り除くことが先である、
と述べた。
こうした姿勢は無記と呼ばれている。
401 :
? :2013/04/03(水) 04:02:53.45 ID:XeqVrIZo
空=縁起=浄土=涅槃=仏陀=悟り
びるしゃな仏=大日如来
三大経典宗教(ユダヤ、キリスト、イスラム)は全て神が作ったものだが、 仏教は仏陀が作ったものではなく、仏陀が発見したもの、である
過去仏は仏教の唱導者にはならなかった つまり、仏陀の意味は釈迦から再定義されることになる
406 :
? :2013/04/07(日) 14:32:03.49 ID:51LpXFrF
407 :
? :2013/04/07(日) 14:41:34.17 ID:51LpXFrF
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%B7%E6%91%A9 バラモン教
インドで紀元前2000年ごろにできたヴェーダ聖典に出ているバラモン教の儀礼である。
仏教
仏教には釈尊入滅から約500年後に発生した大乗仏教の成立の過程でバラモン教から取り入れられた、と考えられている。
そのため、護摩は密教(大乗仏教の一派)にのみ存在する修法であり、釈尊の直説に近いとされる上座部仏教には存在しない。
おもに天台宗、真言宗で行われる。
なお、専ら護摩を修するための堂を「護摩堂」(ごまどう)と称する。
護摩の実際
護摩の炉に細長く切った薪木を入れて燃やし、炉中に種々の供物を投げ入れ(護摩焚き)、
火の神が煙とともに供物を天上に運び、天の恩寵にあずかろうとする素朴な信仰から生まれたものである。
火の中を清浄の場として仏を観想する。
護摩の種類
(1) 護摩壇に火を点じ、火中に供物を投じ、ついで護摩木を投じて祈願する外護摩と、
(2) 自分自身を壇にみたて、仏の智慧の火で自分の心の中にある煩悩や業に火をつけ焼き払う内護摩とがある。
また、その個別の目的によって一般的には次の五種に分類される。
1.息災法(そくさいほう)…災害のないことを祈るもので、旱魃、強風、洪水、地震、火事をはじめ、個人的な苦難、煩悩も対象。
2.増益法(そうやくほう)…単に災害を除くだけではなく、積極的に幸福を倍増させる。福徳繁栄を目的とする修法。長寿延命、縁結びもその対象。
3.調伏法(ちょうぶくほう)…怨敵、魔障を除去する修法。悪行をおさえることが目的であるから、他の修法よりすぐれた阿闍梨がこれを行う。
4.敬愛法(けいあいほう)…調伏とは逆に、他を敬い愛する平和円満を祈る法。
5.鉤召法(こうちょうほう)…諸尊・善神・自分の愛する者を召し集めるための修法。
禅は邪教ではないが、異端である
409 :
? :2013/04/08(月) 16:17:07.98 ID:4cEZQlu9
410 :
? :2013/04/08(月) 16:48:22.33 ID:4cEZQlu9
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%85 中国では禅定が同義語。
類似の概念として三昧(Samādhi、サンスクリット)がある。
「禅」あるいは「定」という概念は、インドにその起源を持ち、
それが指す瞑想体験は、仏教が成立した時から重要な意義が与えられていた。
ゴータマ・シッダッタも禅定によって悟りを開いたとされ、
部派仏教においては「三学」(戒・定・慧)の一つとして、また、
大乗仏教においては「六波羅蜜」(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)の一つとして、
仏道修行に欠かせないものと考えられてきた。
ディヤーナを現代語で和訳すると瞑想となる。
ちなみにヨーガ(yoga)も意訳すれば瞑想とされる(音訳は瑜伽)が、
本来は心を調御して統一に導くことをいう。
瞑想は動作を言葉で説明する事ができるが、
禅は不立文字を強調するため、瞑想と禅は異なる物として区別される。
411 :
? :2013/04/08(月) 17:15:25.69 ID:4cEZQlu9
三宝帰依にいう仏法僧の僧は、師匠ではなく教団のことである
413 :
? :2013/04/09(火) 15:36:53.03 ID:jtCCVbzK
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%AE%9D 三宝とは、仏教における3つの宝物を指し、具体的には仏・法・僧(僧伽)のこと。
この三宝に帰依することで仏教徒とされる。
3つという数については、3を聖数とする習俗や信仰とのかかわりも指摘されている。
三宝にも上記の他にもさまざまな理解がある。
上座部仏教においては、涅槃を独自に発見した「仏」(釈迦)、その仏の説いた教え「法」、
その教えを受けることで四向四果に達した者の集団である「僧伽」、であるとされる。
ただし、一般には出家僧の集団がサンガと同一視される。
大乗仏教においては、悟りの体現者である「仏」(釈迦、如来など)、
仏の説いた教えを集大成した「法」、法を学ぶ仏弟子の集団である「僧」、といった理解がもっとも一般的である。
ほかに、「仏」を仏像、「法」を経巻、「僧」を出家者、と捉える理解もある。
ただし絶対神に対する「信仰」が基礎となるアブラハムの宗教のユダヤ教・キリスト教・イスラム教と違い、
仏教においては三宝に対する「帰依」(拠り所にするという意味)が強調される。
なお、中国や日本では出家者個人のことを「僧」(あるいは「僧侶」)とする解釈が生じて、
本来の僧伽とは違った意味で用いられるようになる。(詳細は僧を参照。)
聖徳太子が制定したと言われる「十七条憲法」には、
第二番目の条項に「篤く三宝を敬え。三宝とは仏と法と僧となり」という文言がみられる。
また、大乗の『大般涅槃経』では、仏・法・僧の三宝は一体であって本来は区別されるものではなく、
如来常住を説く法もまた常住であり、僧もまた常住である、と説く。
また、そのために如来は一帰依処として三宝に差別(三差別)は無いと説いている。
414 :
? :2013/04/09(火) 15:56:18.40 ID:jtCCVbzK
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama26.pdf 感覚感情(感受/受)によって条件づけられた(感覚を原因とした)ものが渇望/欲求(渇愛/愛)である
渇望/欲求は感覚感情のせいで生じる
それが生じるとき、固執/掴むこと(取)も生じる
四つの種類の固執/掴むことである(中論26-6)
(快、不快、どちらでもない、という)感覚をともなった感情が原因で(快い状態を得たい、不快な状態から離れたいという)渇望が生じる
渇望が生じると、同時に(誤ったあり方を掴んで離さないような)固執も生じる
それが
(感覚的快楽に固執すること〔欲取 よくしゅ〕
・誤った見解に固執すること〔見取 けんしゅ〕
・誤った戒律に固執すること〔戒禁取 かいごんしゅ〕
・自己に固執すること〔自己や所有物を実体的にとらえること 我語取 がごしゅ〕の)四つの種類の固執である(中論26-6の意訳)
415 :
? :2013/04/09(火) 16:05:25.53 ID:jtCCVbzK
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama26.pdf 固執/掴むことが存在するとき
固執する者/掴む者(有)が存在として立ち現れてくる
もし彼が掴まなかったら
そして解放されているなら
彼は存在としてやって来ないだろう(中論26-7)
(欲望や誤った見方への)固執が現れると、その固執の主人である「固執する者」も現れる
もし彼が欲望などにとらわれなければ、悟って輪廻から解脱しているならば
彼が人間として生まれてくることはないであろう(中論26-7の意訳)
固執する者/掴む者(有)というのは、輪廻における生存者のことである
416 :
Classical名無しさん :2013/04/09(火) 18:59:24.37 ID:/6rwVj5x
supake- EXVS特有のクッソ弱い隠者のUSB中佐 ザコすぎてくっそわろたwwwww
417 :
忍法帖【Lv=5,xxxP】(1+0:10) :2013/04/09(火) 19:00:26.76 ID:ACH09fVz
あぁ
菩薩は病気を持っている
419 :
Classical名無しさん :2013/04/11(木) 02:18:13.32 ID:vWN/aSDK
仏教があるのは、なぜですか? 世界中で、この世は、昔から言い伝えや実体験から幽霊を認めているからでしょうか?
420 :
? :2013/04/11(木) 03:39:45.57 ID:JKggYvOy
421 :
? :2013/04/11(木) 03:46:17.58 ID:JKggYvOy
422 :
? :2013/04/11(木) 03:53:09.84 ID:JKggYvOy
423 :
? :2013/04/11(木) 04:00:05.31 ID:JKggYvOy
> 世界中で、この世は、昔から言い伝えや実体験から幽霊を認めているからでしょうか?
瑜伽師地論(ゆがしじろん)の場合は
http://reigaku.jugem.jp/?eid=424 人が死ぬ時に
過去の長い間の経験により蓄積された
我愛が現起し
その力にうながされて
自己に愛著し
無始の時以来つづいてきた執着された
戯論(けろん)と
善悪(善でも悪でもないものも含める)業により
中有が形成される
そして、やがて
その中有が次に生まれるべき処を求めて母体に入り
ここで男性の精子と女性の卵子が結合するときに
中有は滅すると同時に生有が生じ
一切種子たる阿頼耶識(あらやしき)がこれに結合して
精子は成長して胎児を形成し出生に至る
424 :
Classical名無しさん :2013/04/11(木) 09:18:52.38 ID:braKy1rB
生霊追い払う儀式やったら体調よくなった やっぱり人まかせじゃだめだね
425 :
? :2013/04/11(木) 15:01:10.44 ID:JKggYvOy
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%9C%8A 生霊とは
生きている人間の霊魂が体外に出て自由に動き回るといわれているもの
対語として死霊がある
人間の霊(魂)は自由に体から抜け出すという事象は古来より人々の間で信じられており
多くの生霊の話が文学作品や伝承資料に残されている
広辞苑によれば、生霊は生きている人の怨霊で祟りをするものとされているが
実際には怨み以外の理由で他者に憑く話もあり
死の間際の人間の霊が生霊となって動き回ったり
親しい者に逢いに行ったりするといった事例も見られる
426 :
? :2013/04/11(木) 15:19:51.72 ID:JKggYvOy
> 生霊追い払う儀式やったら体調よくなった 霊を成仏させるなら密教寺院の護摩修法とかが,おすすめ 自分自身を壇にみたて、仏の智慧の火で自分の心の中にある煩悩や業に火をつけ焼き払う内護摩 調伏法(ちょうぶくほう)…怨敵、魔障を除去する修法 悪行をおさえることが目的であるから、他の修法よりすぐれた阿闍梨がこれを行う 敬愛法(けいあいほう)…調伏とは逆に、他を敬い愛する平和円満を祈る法 密教においては 仏が大悲・大智によって衆生に応じることを「加(加被)」 衆生がそれを受け入れることを「持(摂持)」と解釈し (仏と衆生の)双方が相応一致することで 死後の成仏をはじめとする各種の効果を成就させる
427 :
? :2013/04/11(木) 15:43:12.98 ID:JKggYvOy
仏教 議論スレッド 64
http://www.logsoku.com/r/psy/1364729409/137-139 137 : 神も仏も名無しさん[] :投稿日:2013/04/01 22:36:15 ID:4SFlHl/w [4/5回]
サロメ霊界というのはあるの?
139 : サロメ☆ボウディア ◆k8vHqHA92c [] :投稿日:2013/04/01 22:41:23 ID:P/DS0G3k [13/19回]
バルドは中有 輪廻が決まるまでの一時的な過程だから
仏教的には霊界はないと思います
私個人も霊界は信じません キリスト教では生まれ変わりの概念はないですから
428 :
? :2013/04/11(木) 16:03:36.49 ID:JKggYvOy
429 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/04/11(木) 16:45:21.89 ID:V/sZCJX6
落武者の霊をはっきりと見た貴兄と、日々霊動現象を目撃している私は、八識や九識に見方も 他の仏教徒や関係者とは異なるのも当然でしょう。 また、何かアップされた際は声をかけて下さい。
430 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/04/11(木) 16:53:34.27 ID:V/sZCJX6
>>429 言い忘れましたが、その落武者の霊は成仏できずに(当然輪廻もできずに)さまよっている浮遊霊でしょう。
ある因縁の場所から離れられない場合は地縛霊と読んでおります。
一方、霊動現象で対象になるのは憑依霊です。何らかの執着が強すぎて輪廻にも入れません。
新約聖書ではこの憑依霊にかかられた人達が登場し、「悪魔よ去れ!」とイエスに一喝され追い出されておりますが、
大半は悪魔などではなく生前は普通の衆生でした。
ちなみに現代でもイタリアでは大勢のヴァチカン公認のエクソシストがお仕事を遂行しております。
431 :
? :2013/04/11(木) 21:32:15.70 ID:JKggYvOy
>>430 前世は一在家さんへ
> 新約聖書では …
私の場合は
ユダヤ教とか,キリスト教などについての知識は、まったくありません
(今のところ,これから勉強する予定もありません)
_ _ _
『 未成仏霊を成仏させる 』 と言う事については
バラモンとか,ヒンドゥーなどを受け継いでいるかもしれない
後期大乗密教が良いかもしれない
_ _ _
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E6%8C%81 加持(かじ)
密教においては
仏が大悲・大智によって衆生に応じることを「加(加被)」
衆生がそれを受け入れることを「持(摂持)」と解釈し
(仏と衆生の)双方が相応一致することで
死後の成仏をはじめとする各種の効果を成就させる
432 :
? :2013/04/11(木) 21:49:13.39 ID:JKggYvOy
>>430 前世は一在家さんへ
>>431 の続き
後期大乗密教は
ある部分においては
バラモンも,ヒンドゥーも,根本仏典も
『 瀉瓶(しゃびょう)の如く 』 受け継いでいるかもしれない
_ _ _
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%86%E6%95%99 密教においては
師が弟子に対して教義を完全に相承したことを証する儀式を伝法灌頂といい
その教えが余すところなく伝えられたことを称して 「 瀉瓶(しゃびょう)の如し 」 といい
受者である弟子に対して阿闍梨(教師)の称号と資格を与えるものである
いわゆるインド密教を継承したチベット密教がかつて一般に「ラマ教」と称されたのは
チベット密教では師資相承における個別の伝承である血脈を特に重んじ
自身の「根本ラマ」(師僧)に対して献身的に帰依するという特徴を捉えたものである
433 :
? :2013/04/11(木) 22:18:21.16 ID:JKggYvOy
>>429 前世は一在家さんへ
> 落武者の霊をはっきりと見た貴兄と,日々霊動現象を目撃している私は …
『 どのようにして,中有身が形成されて,どのようにして,又,次の,この世の生に戻り来るのか? 』
と言う事については,瑜伽師地論(ゆがしじろん)が良いと思います
http://reigaku.jugem.jp/?eid=424 人が死ぬ時に
我愛と,戯論(けろん)と,善悪業によって
中有身が形成される
そして、やがて
その中有身(意から成るもの)は
男性の精子と女性の卵子が結合するときに
中有は滅すると同時に生有が生じ
阿頼耶識(あらやしき)がこれに結合して
又,次の,この世の生に戻り来る
434 :
? :2013/04/11(木) 22:45:50.50 ID:JKggYvOy
435 :
? :2013/04/11(木) 22:59:37.51 ID:JKggYvOy
436 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/04/12(金) 00:01:11.02 ID:V/sZCJX6
>>433 ?氏が紹介の説は下記ですね。
「人が死ぬ時に 我愛と,戯論(けろん)と,善悪業によって 中有身が形成される 。
そして、やがて その中有身(意から成るもの)は 男性の精子と女性の卵子が結合するときに
中有は滅すると同時に生有が生じ 阿頼耶識(あらやしき)がこれに結合して 又,次の,この世の生に戻り来る。」
上記は水野先生の「阿頼耶識に善悪業が蓄積される」とは異なるようです。
多分、法相宗以外の経典を参照したかと思料します。
437 :
Classical名無しさん :2013/04/12(金) 00:20:50.28 ID:9pSRBSru
なぜ、エクソシストは霊を祓えるのか? バチカンは、エクソシストのことを、どう考える?
438 :
? :2013/04/12(金) 20:34:33.13 ID:zGYEdxKk
仏教 議論スレッド 65
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1365469142/285 285 名前:前世は一在家 ◆2o6x38TRbE [] 投稿日:2013/04/12(金) 16:29:24.38 ID:cXAXzEGv [9/17]
249 オイラ氏
>これは空でなく幻と言い換えると分かりやすいでしょう。
>幻の行為を行なって幻の報いという苦を受ける。
>幻でも苦だと感じるのは夢に明らか。
幻でも苦を感じる←YES
幻の行為を行って幻の報いを受ける←そんな仏教テキストありましたか?
因果の法では、幻の因で幻の果が生じるというのは変ですね。
439 :
? :2013/04/12(金) 21:09:15.50 ID:zGYEdxKk
440 :
サロメ☆ボウディア ◆k8vHqHA92c :2013/04/12(金) 21:11:12.02 ID:qX4CV6sa
>>437 キリスト教は霊魂の存在認めているので
そして神の権威が至上なので その権威を委託されている聖職者の命令には
悪魔も従うのです
ただエクソシストは公認ですが悪魔祓いは心の病と厳密に区別する必要があり
簡単に許可はださないのがバチカンの方針です
441 :
? :2013/04/12(金) 22:03:42.51 ID:zGYEdxKk
>>437 ID:9pSRBSru
この人と,私【?】は別人ですが
とりあえず,レス有り難う御座いました
屮(_ ._)屮 ブッダン サラナン ガッチャーミ
楞伽経や華厳経の勉強はイイ
中論は所詮は論書 経典ではない
戒律は動物性タンパク質の摂取を否定しない
荷沢は禅宗の賊かも知れない
446 :
? :2013/04/16(火) 09:41:21.32 ID:b5hAWD9S
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama26.pdf ■第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)
1.真理に対する「無知」(無明)。それが原因となって誤った行為がなされ
2.その行為の性質に応じた結果を招いてしまうような「カルマ」(行)が蓄積される
そのカルマが、輪廻をまたいだ連続的意識(心相続)を構成することで、来世における
3.「意識」(識)を新たに生み出す。その新たな意識が人間として生まれてくる過程で
4.「物質的な身体」(名色)が作られ、それが原因となって
5.「五感とその感覚意識」(六処)が生じてくる。それが誕生によって実際に働いて
6.「感覚知覚」(触)となり、その知覚によって
7.「苦楽の感覚」(受)が生じる。そして苦を避けて快楽を得たいという
8.「渇望(欲求)」(渇愛/愛)が生まれ、それが強まり固定化されて
9.「固執/執着」(取)となる。その固執が新たなカルマとなって心の連続体に蓄積され
10.「掴む者/未来の決定力」(有)になる。その結果来世にまた
11.「誕生」(生)することとなり、また新たな苦しみである
12.「老いと死」(老死)を経験せざるを得ないこととなる
447 :
? :2013/04/16(火) 09:56:46.41 ID:b5hAWD9S
http://www.j-theravada.net/pali/key-tanha.html 渇愛(タンハー)
『これは、ビクらよ、苦しみが現れてくる過程についての聖なる真理です
苦は、渇愛から生じます。渇愛は
再成し続け、喜びと愛着をともない、いつでも心の気に入る、という三つの特色をもち
五官を刺激したい、存在したい、壊したい、という三種類の欲で成り立っています』(初転法輪経)
タンハーとは「渇いている」「満たされていない」「ほしい」という生命の根元的な欲望で「渇愛」と訳されています
渇愛の特色の一つは『再び』と『成ること』 からできた言葉で
成っては消え、成っては消え、ずーっと何らかの状態に成り続けていくことです
私たちは変化していきます。それは止まりません
「私はこれで終わった、もう何もする必要はない」という心の状態になることは、決してありません
次から次へと「何かになること」をくり返していきます
すべての苦しみのもとは、「生きていきたい」「ほしい」という心のはたらきです
無明から渇愛が生まれるのです
無明と渇愛がうまく絡み合って、無始なる過去から終わりなく苦しみをつくり出しています
そこから脱出しましょう、客観的に自分を観ることによって
無明と渇愛を消していきましょう、というのがお釈迦さまの教えなのです
448 :
? :2013/04/16(火) 10:01:12.27 ID:b5hAWD9S
瑜伽師地論(ゆがしじろん)の場合は
http://reigaku.jugem.jp/?eid=424 人が死ぬ時に
我愛と,戯論(けろん)と,善悪業によって
中有身(意から成るもの)が形成される
そして、やがて
その中有身(意から成るもの)は
男性の精子と女性の卵子が結合するときに
中有は滅すると同時に生有が生じ
阿頼耶識がこれに結合して
又,次の,この世の生に戻り来る
449 :
? :2013/04/16(火) 10:18:54.86 ID:b5hAWD9S
慈悲の慈は与恵、悲は抜苦という 慈悲は有縁のものだけではなく、無縁のものに及ぼして初めて慈悲という (観無量寿経)
451 :
? :2013/04/17(水) 17:21:01.38 ID:+i/VMZ2Q
452 :
? :2013/04/18(木) 00:02:51.76 ID:+q6Pb18N
453 :
? :2013/04/18(木) 01:10:05.30 ID:+q6Pb18N
http://monjuon.no-blog.jp/ マインドフルネス&アクセプタンス
第3世代の認知行動療法であるマインドフルネスとACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)の普及を目指しています。
ここでご紹介する方法はすべてセルフ・カウンセリングになっていて、日常生活を療法にします。
1.マインドフルネス&アクセプタンス
第3世代の認知行動療法としてマインドフルネス&アクセプタンスが日本に再上陸してかなりの年月になりますが、いまだに普及の兆しが見られません。
再上陸というのは、もともと禅仏教の「瞑想」と「あるがまま」が西洋風に受け取られたものがマインドフルネス&アクセプタンスだからです。
これらが普及しない理由は、
「苦しみを受け容れる」というこれまでの心理療法とはまったく逆の発想が求められること、
禅の経験者でなければなかなか指導できないことなどが挙げられると思います。
また禅や仏教の経験者から見ると、とらえ方は鋭いのですが、根拠の部分が失われています。
そこで日本人向けに、もう一度オリジナルの仏教に戻ってこの2つをとらえ直すことにしました。
ですからこれは「禅セラピー」とか「仏教セラピー」といったほうがよいのかもしれません。
仏教といっても何かを信ずる必要はなく、ただ行動を繰り返して効果を検証すればよいだけです。
仏教はもともと実践的な心理療法であり、脳力開発法や成仏法とは局面の目的が異なるだけでまったく同じものです。
心理学の発達に伴って、真の意味での仏教がようやく理解されようとしているのです。
もう一つ禅仏教に戻ったときに言えることは、これは取ってつけた療法なのではなく、戻ることのない自分の生き方の変革であるということです。
454 :
? :2013/04/18(木) 20:29:29.26 ID:+q6Pb18N
☆ 卍 仏教 @ 質問箱 卍 ☆ パート31
http://mimizun.com/log/2ch/psy/1336302241/315-321 315 :神も仏も名無しさん:2012/08/01(水) 23:59:59.82 ID:Bkk4eVCs
後期中観派は結局のところ外界を実在と捉えるのか非実在と捉えるのかどっちなの?
決着ついてないにしてもどっちが有利だったの?
もし後期において非実在であったなら後期だと有部だけが実在としてたの?
321 :神も仏も名無しさん:2012/08/02(木) 08:56:15.82 ID:oz/j3UjI
中観の真理について聞いてるわけではないんだ。
認識の対象として認められる対象は有るのか、それとも心でしかないのか。
という点について中期(月称を含む)までは中観系は唯識の
外界は存在せず認識の対象は存在しない
って考えを否定して、外界の実在を唱えていて、
それが後期のシャータンラクシタやカマラシーラやハリバドラになっちゃうと唯識色が強くなっちゃって
実在とも非実在とも主張されるようになっちゃって、じゃあ、そこで結局どっちなの?ってことが聞きたかったんだ。
蛇足だけど、
>なんらかの見解を提示したり、思想を批判して何らかの思想構築するものじゃないから。
>少なくとも月称菩薩はそうだ。
っていってるけど、プラサンナパダーだってバーヴィヴェーカを批判して組み上げたモノでしょ?
っていうか帰謬論証という立場というか方法は他の思想の批判の上に成り立つものだよね。
455 :
? :2013/04/18(木) 20:39:45.20 ID:+q6Pb18N
☆ 卍 仏教 @ 質問箱 卍 ☆ パート31
http://mimizun.com/log/2ch/psy/1336302241/323-327 323 :神も仏も名無しさん:2012/08/02(木) 09:39:24.12 ID:oz/j3UjI
月称菩薩の事に関しては確かに自分が一面的な見解に依りすぎていた。
たしかに貴方が言うように月称菩薩は帰謬論証すらしておらず、戯論寂滅のみを行なっていたにすぎないというのもあり得る話だ。
考えたこともなかった。貴重な考えを仕入れさせてもらった。ありがとう。
でも、自分が求めていたのは
後期中観派において外界は実在と捉えていたのか非実在と捉えていたのか、に対する文献学的な見解はどちらなのか?
なんだ。引き続き有識者の見解を待ちます。
327 :神も仏も名無しさん:2012/08/02(木) 12:00:23.72 ID:oz/j3UjI
純粋な知的好奇心からです。
あくまで私が知りたいのは
後期中観派において外界は実在と捉えていたのか非実在と捉えていたのか、に対する文献学的な見解はどちらなのか?
についてです。
456 :
? :2013/04/18(木) 20:45:16.40 ID:+q6Pb18N
457 :
? :2013/04/18(木) 21:21:20.46 ID:+q6Pb18N
458 :
? :2013/04/18(木) 21:30:07.81 ID:+q6Pb18N
☆ 卍 仏教 @ 質問箱 卍 ☆ パート31
http://www.logsoku.com/r/psy/1336302241/315 315 : 神も仏も名無しさん[] : 投稿日:2012/08/01 23:59:59 ID:Bkk4eVCs [1/1回]
後期中観派は結局のところ外界を実在と捉えるのか非実在と捉えるのかどっちなの?
決着ついてないにしてもどっちが有利だったの?
もし後期において非実在であったなら後期だと有部だけが実在としてたの?
459 :
? :2013/04/19(金) 09:04:15.00 ID:Hio0NKLb
460 :
? :2013/04/19(金) 09:29:00.39 ID:Hio0NKLb
461 :
? :2013/04/19(金) 10:04:56.18 ID:Hio0NKLb
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BO/0090/BO00900L031.pdf 異教徒の主張するアートマンなどの〈 常住な自性 〉 ← 永久不滅・常住不変のアートマン
経量部や瑜伽行派などが主張する〈 無常な自性 〉 ← 変化する自性のような 「 何かがある 」 と仮設する
カマラシーラによる因果論の吟味は
プラマーナすなわち直接知覚と推理を通じて
二自性に基づく因果関係は成立しないと導くものである
プラマーナと実在に関する問題の本質は対論者が
中観派にプラマーナにより一切法無自性は証明し得ない
なぜならプラマーナは実在を証明するものであるから
と詰問することと共通している
実在論へのカマラシーラの対応は直接知覚に関しては
修所成慧としてのヨーガ行者の直接知覚により無我が悟られ
また実在が直観されることはないと論じ
実在論を論破し無自性論証へと導く
462 :
? :2013/04/19(金) 10:30:35.00 ID:Hio0NKLb
463 :
? :2013/04/19(金) 10:51:28.14 ID:Hio0NKLb
答えたよ
465 :
? :2013/04/19(金) 23:36:44.11 ID:Hio0NKLb
466 :
? :2013/04/19(金) 23:49:57.60 ID:Hio0NKLb
467 :
? :2013/04/20(土) 00:07:07.45 ID:0IIf2ZZJ
468 :
? :2013/04/20(土) 00:19:29.27 ID:0IIf2ZZJ
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章/99〜121ページ参照 「受」(感覚)を縁として「愛」(欲望)が〔起こる〕のは 「受」(感覚)を得るために「愛」(欲望)を生じるからである 「愛」(欲望)を持つと,それに執着(「取」)して 四つのものに執着(「取」)するようになる
469 :
Classical名無しさん :2013/04/20(土) 19:12:27.50 ID:TNxOuqat
なむしゃかむにぶつ だった
真言、名号を唱えるもよし
瞑想、座禅もよし
472 :
? :2013/04/22(月) 13:39:02.25 ID:7gdy15Tk
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama26.pdf 固執/掴むことが存在するとき
固執する者/掴む者(有)が
存在として立ち現れてくる
もし彼が掴まなかったら
そして解放されているなら
彼は存在としてやって来ないだろう(中論26-7)
(欲望や誤った見方への)固執が現れると
その固執の主人である「固執する者」も現れる
もし彼が欲望などにとらわれなければ
悟って輪廻から解脱しているならば
彼が人間として生まれてくることはないであろう(中論26-7の意訳)
固執する者/掴む者(有)というのは
輪廻における生存者のことである
473 :
? :2013/04/22(月) 13:50:20.57 ID:7gdy15Tk
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章/99〜122ページ参照 「取」(執着)が存在すると 執着する人の「有」(生存)が生じる もし「取」(執着)が存在しなければ 解脱して,輪廻の生存(「有」)は生じない
474 :
? :2013/04/22(月) 16:57:00.55 ID:7gdy15Tk
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama26.pdf このような存在(有)はまた五つの集合体(五蘊)でもある
存在は誕生(生)によって
老いと死(老死)と不幸と
苦しみと悲しみと…(中論26-8)
混乱と動揺が
これらのものすべてが誕生の結果として生じてくる
そのようにして大いなる苦しみであるこの全体が
存在として立ち現れてくるのである(中論26-9)
こうして固執したことによって生まれてくる人間は
肉体と精神活動とからなる集合体でもある
このような輪廻の世界の存在は
誕生したことによって、老いと死と不幸
苦しみや悲しみ、混乱や動揺を経験するようになる
そのようにして大きな苦しみ全体が姿を現すのである(中論26-8・9の意訳)
475 :
? :2013/04/22(月) 17:09:39.85 ID:7gdy15Tk
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章/99〜126ページ参照 「有」(生存)もまた五蘊である 「有」(生存)から「生」(誕生)が生じる 「老死」(老化と死),心痛 悲嘆の言葉,苦痛(26-8) 不愉快,心の動揺などは皆 「生」(誕生)から生じている このようにして 苦しみばかりの集合体(蘊)が生じる(26-9)
476 :
? :2013/04/22(月) 17:20:43.75 ID:7gdy15Tk
477 :
? :2013/04/22(月) 17:28:43.53 ID:7gdy15Tk
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章/99〜132ページ参照 故に,賢者たちは 輪廻の源となる行ないをなさない 賢者たちは真如を見ているからである 〔輪廻の源となる行ないをするのは〕賢くない者たちである
机さんは虐げられるチベット仏教徒ではなく、唯物論者で無神論者で、神仏を廃棄する 中共を応援していた 悟りもへったくれもないね
479 :
? :2013/04/23(火) 20:09:47.12 ID:OmAxMhSU
480 :
? :2013/04/23(火) 20:21:05.73 ID:OmAxMhSU
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章/99〜134ページ参照 「無明」(根源的無知)を滅したなら 「行」(行為)などのすべても生じない 「無明」(根源的無知)の断滅は 〔縁起という〕真如を知って それに瞑想することから〔得られる〕
481 :
? :2013/04/23(火) 20:37:18.79 ID:OmAxMhSU
あのなぁ〜〜〜。 御釈迦さんはそないな難しいことゆうとらんのやがな・・・ 発句経でも読む事をお奨めするがな
483 :
? :2013/04/23(火) 20:41:08.24 ID:OmAxMhSU
受 ・ 想 ・ 行 : 滅させる事によって得られる ↓ 受 ・ 想 ・ 行 : を滅させる事によって得られる と言う意味だと思います
484 :
? :2013/04/23(火) 20:54:08.42 ID:OmAxMhSU
485 :
? :2013/04/23(火) 23:58:37.57 ID:OmAxMhSU
偉い学者がみんな年食って、でも若い学者は余り育ってないようだね
487 :
? :2013/04/24(水) 10:32:51.89 ID:0b6ZHDtM
学者や研究者は大勢いても、本当に悟った人は皆無に等しい。 お釈迦様は悟ったかもしれんが、この悟れない現実をどう解消してゆくか明快な答えはない・・
489 :
? :2013/04/24(水) 11:03:24.72 ID:0b6ZHDtM
490 :
? :2013/04/24(水) 11:33:19.98 ID:0b6ZHDtM
491 :
? :2013/04/24(水) 11:57:40.35 ID:0b6ZHDtM
492 :
? :2013/04/24(水) 12:09:51.56 ID:0b6ZHDtM
伝道師コーヘルト曰く、空の空、空の空なるかな、全ては空なり、と
494 :
? :2013/04/26(金) 21:48:43.81 ID:FK261mAV
安田理深 唯識論講義 上/本多弘之/春秋社 (2012/06) 西洋近代哲学をも視野に入れつつ、実在的・求道的な問題意識から 唯識思想の本質を解明しようとする、安田理深師の最晩年の講義録 迫真の言葉に満ちた名講義を再現 14ページ参照 願心自身というのは 『成唯識論』に「唯識性」という字がありますが これは唯識の「心の実性」という意味です 心自身 チッタ(citta) チッタ・ダルマター(citta-dharmata) 心法性
パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ―『大念処経』を読む((単行本)) 片山 一良 (著) を買った
沖縄のエイサーの起源は多分、仏教
497 :
? :2013/04/29(月) 00:29:10.57 ID:CqO70x0L
498 :
? :2013/04/29(月) 00:38:56.18 ID:CqO70x0L
つまりエイサーのルーツは踊り念仏だ
500 :
? :2013/04/30(火) 13:21:00.62 ID:YxSDA65k
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama26.pdf これやあれ(これによってあれが生じるということ)を止めることで
これやあれ(これによってあれが生じるということ)は表に出ないものとなってくる
大いなる苦しみのすべてが
ここにおいて実際に、すべて消滅するのである(中論26-12)
(十二の原因として示された)「これ」や「あれ」を停止させることによって
(十二の原因/個別的に存在しているように見える事象である)
「これ」や「あれ」が生じなくなって行く
大いなる苦しみのすべてが、そうすることで実際に、すべて消滅するのである(中論26-12の意訳)
501 :
? :2013/04/30(火) 13:35:59.49 ID:YxSDA65k
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章/99〜135ページ参照 それぞれ〔縁起の十二支の前の項目〕を滅することにより それぞれ〔縁起の十二支の後の項目〕が生じることはなくなる 苦しみばかりの集合体カ(蘊)は こうして完全に滅せられる
502 :
? :2013/04/30(火) 15:27:09.70 ID:YxSDA65k
503 :
【ぴょん吉】 :2013/05/01(水) 05:31:21.42 ID:eWTRkxPi
仏教徒がおみくじしたってイイじゃない
504 :
? :2013/05/02(木) 00:02:21.84 ID:alJN4Gas
505 :
? :2013/05/02(木) 19:26:21.79 ID:T5Ib+3Fh
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama18.pdf 行為〔カルマ〕と苦悩
(煩悩)が消滅したところに涅槃がある
行為〔カルマ〕と苦悩は概念的思考から生じてくる
これは心的に作り出されたもの
(戯論)に由来するのである
作り出されたものは空性によって消滅する(中論18-5)
カルマによって引き起こされる苦しみが消滅した地点に
輪廻から解放された涅槃(ニルヴァーナ)があるのである
カルマによる苦しみは、概念による思考から生じてくるのであり
概念的思考は心的なプロセスによって作り出され
組み立てられた迷妄である
そのように作り出され組み上げられたものは
空性の体得(悟り)によって消滅する(中論18-5の意訳)
506 :
? :2013/05/02(木) 19:38:08.97 ID:T5Ib+3Fh
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章/147〜156ページ参照 行為と煩悩を滅すれば解脱〔に至る〕 行為と煩悩は誤った認識(妄分別)から生じ それら〔の誤った認識〕は戯論から生じる そして戯論は,空によって滅せられる
唯識こそ最高の相対論
平川彰の本で二百五十戒を研究しよう!
比丘尼は三百四十八戒
510 :
? :2013/05/05(日) 14:17:49.22 ID:fiHElf0A
511 :
? :2013/05/05(日) 14:40:11.27 ID:fiHElf0A
512 :
? :2013/05/05(日) 15:01:45.70 ID:fiHElf0A
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章/147〜162ページ参照 _ _ _ 「 自我は存在するとも言われたし 」 というのは サーンキヤ学派などの主張です _ _ _ 「 自我もなく、無我もない 」 というのは 「 それ自体の自性によって成立しているのではない 」 「 因と縁に依存しているので空である 」 と言う意味です
513 :
? :2013/05/05(日) 15:30:11.18 ID:fiHElf0A
514 :
? :2013/05/05(日) 15:44:57.73 ID:fiHElf0A
戒の他に律蔵もある
禅宗において、「自己本来の面目」といったり、「一無位の真人」といったりして、 仏教において否定した自我を、一見、再定義したようにいうのは恐らく、 リョウガ経において、アーラヤ識の不滅が説かれているからではないか? 当然、ゲジンミッ経がいうように、アートマンとアーラヤ識は違う別物であり、 アーラヤ識は恒久不変の実体を持たない!無我の流れであり、自我や自性ではないし、 自我や自性を持っていない 禅宗におけるアーラヤ識観は更に研究が必要だ
517 :
? :2013/05/06(月) 18:35:06.09 ID:c+uAJNgu
518 :
? :2013/05/06(月) 19:02:24.79 ID:c+uAJNgu
六祖慧能は壇経において、自性というのを獲得すべきものとして肯定的に述べた 当然、これは旧来の仏説にいう無自性の自性ではなく、如来蔵的な意味、 文脈において語られている それは体解した般若の知恵が法器たる肉体を持って世間に働き、 大乗としての菩薩道を実践する、その媒介としての心を指す しかし、それは難し過ぎて常人には分からない上に、 既存のタームを以前と違った意味に使用するから混乱や誤解を多々生じた これは飯炊き男であった慧能にインテリジェンスが欠けていたからであろう つまり、例えば禅宗であってもインテリジェンスが必要不可欠なことを明かしている 歴史的には禅宗は達磨に始まるとされ、達磨はリョウガ経による理入と、 座禅による行入を提唱した 達磨はインドのスーパーインテリである それが慧能から難解なリョウガ経を止めて、金剛経を用い出した、といわれる 金剛経は般若経典で無論、難しいには難しいが唯識教学、理論は出てこない これは何を意味するのか? 恐らく慧能は唯識を充分にはやっていない 荷沢も同じだろう これに比べ臨済や徳山、洞山はしっかりと修めていると思われる 禅宗の衰退の要因、秘密もここにあるだろう(@_@)
520 :
? :2013/05/07(火) 18:35:01.78 ID:vTvAmHjZ
521 :
? :2013/05/07(火) 19:09:34.10 ID:vTvAmHjZ
大日経住心品講讃/松長有慶/大法輪閣(2010/02) 28〜29ページ参照 設教の因縁とは 衆生は本来仏性を具えているが それに気づかず迷う 如来は教え導くのに 機根(各自の宗教的な能力)に従って 顕教あるいは密教をもってする 密教は自受法楽の実践で 顕教と密教との間には本質的な相違があると見る
522 :
? :2013/05/07(火) 19:20:06.69 ID:vTvAmHjZ
> 衆生は本来仏性を具えているが,それに気づかず迷う
般若経の解説
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html 一切の有情には仏性があるといわれる
解脱すれば仏だという
解脱してあなたたちは思う
変化する世界のすばらしさ、世界のすべてとともに現象する喜び、空の力への感嘆
そして我執は消え、みずから苦を創り出していた自分の愚かさに気づく
しかし、(「解脱すれば仏だ」と言う事に)
→ 気づくまでは,気づくことは難しい ←
悩み怒り悲しむことのできるもの、迷うものだけが、気づくことができる
悩み怒り悲しむ心を持つものだけが、悩み怒り悲しみ妬むものを理解することができる
悩み怒り悲しみ妬む心を持つものだけが、慈悲の心を持つことができる
悩み怒り悲しみ妬む心を持つものだけが、悩み怒り悲しみ妬むものを解脱に導くことができる
523 :
? :2013/05/07(火) 19:43:33.74 ID:vTvAmHjZ
日本の仏教は戒律を全て廃止した、また 日本の仏教の僧侶は結婚を可能としたが、それは国家権力が認めたから などといったスキャンダルは、宗教の腐敗、堕落ではなく、 変異すなわち進化である あらゆるタイプの原理主義者は、進化、 また時効を認めない狂乱のイデオロギーをもった異常者である
先ずは具足戒の研究から始めましょう
サンガにおいては一切の労働が禁止されていた 作家をやって金を稼ぐなど言語道断だな
527 :
? :2013/05/10(金) 09:32:48.47 ID:cCl2SlJn
具足戒(ぐそくかい)
http://kotobank.jp/word/%E5%85%B7%E8%B6%B3%E6%88%92 百科事典マイペディアの解説
小乗仏教の僧・尼僧の戒
また出家教団(僧伽(そうが))に入るための条件となるもの
本来完全な戒の意
入団に際して10人の僧が入団希望者にこの戒を守ることを誓わせる儀式があり
スリランカ,ミャンマー,タイなどでは現在も行われる
世界大百科事典内の具足戒の言及
…仏弟子となるためには必ず道徳の基準となる戒を受けなければならないが
戒には出家と在家,その他の相違によっていくつかの種類があり
それに応じて受戒の作法にも相違がある
在家の戒としては五戒や八斎戒(はつさいかい)があり
また出家の戒としては比丘や比丘尼の具足戒
沙弥(しやみ)や沙弥尼の十戒
式叉摩尼(しきしやまに)の六戒(これは十戒に含まれる)などがあるが
八斎戒が1日(1昼夜),式叉摩尼の六戒が2年に限られているのに対し
他は捨戒しない限り,一生涯保つべきものである
受戒作法のうち最も複雑なのはもちろん出家の具足戒で
これには戒和上(かいわじよう)と羯磨阿闍梨(こんまあじやり)と教授阿闍梨
それに7人の証人(〈三師七証〉…
528 :
? :2013/05/10(金) 09:56:14.32 ID:cCl2SlJn
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama18.pdf 他のものに依存することなく、休らいでおり、また
心的構築作用(偽造)によって組み立てられておらず
思考(/されたもの)ではなく、区別(差異)がない
それが真実(実在)(それであること)の性質である
_ _ _
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章/147〜170ページ参照
他から知るのではなく
寂静で,戯論によって作り出される虚構もなく
概念思考(妄分別)もなく,意味が異なることもない
これが真如の特徴(相)である
529 :
? :2013/05/10(金) 09:58:37.87 ID:cCl2SlJn
530 :
? :2013/05/10(金) 22:57:24.96 ID:cCl2SlJn
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/pdf/mulama24.pdf 空を理解する事の出来ない(実体性)論者に対して
我々がここで主張することは
空性と空の目的、および空性の意義についての
あなたがたの理解は、矛盾しているということである
その結果あなたがたは、そのことで害されているのである(中論24-7)
_ _ _
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章/181〜185ページ参照
それらに答えて我らは言う
あなた方は空の目的,空
空の意味を理解していないので
このような批判をしている
円頓戒
532 :
? :2013/05/11(土) 23:14:07.66 ID:cCEPI5LY
533 :
? :2013/05/11(土) 23:20:36.68 ID:cCEPI5LY
神=ゴッド=エホバ=アラー
535 :
? :2013/05/13(月) 17:20:31.93 ID:AjU0PvxR
http://kotobank.jp/word/%E3%82%A8%E3%83%9B%E3%83%90 世界大百科事典内のエホバの言及
【ヤハウェ】より
… ユダヤ教では神名を唱えるのを避け
聖四文字YHWHにそれと無関係の母音符号を付し
多くの場合〈アドナイ(主)〉と呼び
〈永遠のケレー(読み)〉と称した
エホバJehovahという呼称は
この習慣を忘れた16世紀以来のキリスト教会の誤読に基づく
ヤハウェ(あるいはヤーウェ)とは
言語学的には
セム語の〈生成する,である〉を意味する動詞ハーヤーと関係するが
歴史的には
南パレスティナの遊牧民集団シャースー(またはショースー)の残した文書に現れるYHWəとの関係が注目されている …
http://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%BC 世界大百科事典内のアラーの言及
【アッラー】より
… 日本ではアラーともよばれる
イスラムの教義では
この神は天地創造以前の永遠の昔から
永遠の未来にわたって存在するものであるが
歴史的にみれば
すでにイスラム以前のアラブの間に知られていたことが
碑文や人名やコーランの記述などから知られる …
536 :
? :2013/05/13(月) 17:49:05.66 ID:AjU0PvxR
537 :
? :2013/05/13(月) 18:06:41.02 ID:AjU0PvxR
ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章/181〜188ページ参照 世間的な「世俗の真理」と、究極的な「勝義の真理」 _ _ _ これらの「二つの真理」の 区別を知らない人々は 仏陀が説かれた教えの 深遠なる真如を知ることはない _ _ _ 世間的なレベル〔の現象〕に依存することなく 究極の意味を示すことはできない 究極の意味を悟らなければ 涅槃に至ることはできない
南伝かんでん
539 :
? :2013/05/14(火) 14:38:26.44 ID:plCkfNLw
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99 部派仏教の上座部の一部は、スリランカに伝わり、さらに
タイなど東南アジアに伝わり、現在も広く残っている(南伝仏教)
紀元前後、単に生死を脱した阿羅漢ではなく、一切智智を備えた仏となって
積極的に一切の衆生を済度する教え(大乗仏教)が起こる
この考え方は急速に広まり
アフガニスタンから中央アジアを経由して、中国・韓国・日本に伝わっている(北伝仏教)
8世紀よりチベットは僧伽の設立や仏典の翻訳を国家事業として大々的に推進
同時期にインドに存在していた仏教の諸潮流を、数十年の短期間で一挙に導入した(チベット仏教)
紀元前5世紀頃 - インドで仏教が開かれる(インドの仏教)
紀元前3世紀 - セイロン島(スリランカ)に伝わる(スリランカの仏教)
紀元後1世紀 - 中国に伝わる(中国の仏教)
4世紀 - 朝鮮半島に伝わる(韓国の仏教)
538年(552年) - 日本に伝わる(日本の仏教)
7世紀前半 - チベットに伝わる(チベット仏教)
11世紀 - ビルマに伝わる(東南アジアの仏教)
13世紀 - タイに伝わる(東南アジアの仏教)
ブハ仏教のブハは幾つあったんでしょうね?
仏教もキリスト教も苦しみの原因は悪意であるとする 悪意の除去が救済であり、それは共通している
キリスト教の悪意はサタンと呼ばれ、仏教の悪意は自我執着と呼ばれる
543 :
? :2013/05/17(金) 22:37:17.05 ID:kKGqVQBz
544 :
? :2013/05/17(金) 22:39:28.87 ID:kKGqVQBz
南伝(18部派) 大衆部 一説部 鶏胤部 多聞部 説仮部 制多山部 上座部 犢子部 法上部 賢冑部 正量部 密林山部 化地部 説一切有部 飲光部 説転部 経量部 法蔵部
545 :
? :2013/05/17(金) 22:45:38.16 ID:kKGqVQBz
> 仏教もキリスト教も苦しみの原因は悪意であるとする
> 悪意の除去が救済であり、それは共通している
http://www.j-theravada.net/pali/key-tanha.html 苦は、渇愛から生じます
渇愛は、再成し続け、喜びと愛着をともない、いつでも心の気に入る、という三つの特色をもち
五官を刺激したい、存在したい、壊したい、という三種類の欲で成り立っています
渇愛の特色の一つは『punabbhava』
これは puna (再び) と bhava (成ること) からできた言葉で
成っては消え、成っては消え、ずーっと何らかの状態に成り続けていくことです
たとえば欲深い人はそれなりに色々なことをしていくし
立派な人間になりたいという人もそれなりに色々なことをしていきます
そうやって動きながら、瞬間瞬間、私たちは変化していきます
それは止まりません
「私はこれで終わった、もう何もする必要はない」
という心の状態になることは、決してありません
次から次へと「何かになること」をくり返していきます
546 :
? :2013/05/17(金) 22:56:54.10 ID:kKGqVQBz
> 仏教もキリスト教も苦しみの原因は悪意であるとする
> 悪意の除去が救済であり、それは共通している
永久不滅・常住不変のアートマンではなく
それ自体の自性によって成立しているのではなく
因と縁の依存によって
無明と渇愛によって
苦しみが現れる、そして
八聖道分を修習して、我、我所を滅する因縁の故に、無我、無我所を得て、智慧を決定する
http://www.j-theravada.net/pali/key-tanha.html すべての苦しみのもとは、「生きていきたい」「ほしい」という心のはたらきです
仏教では、「ほしい、ほしい」と思うのは真実がわかっていないからだといっています
無明から渇愛が生まれるのです
無明と渇愛がうまく絡み合って、無始なる過去から終わりなく苦しみをつくり出しています
そこから脱出しましょう
客観的に自分を観ることによって、無明と渇愛を消していきましょう
というのがお釈迦さまの教えなのです
唯識は犢子部から出た
唯識三十頌
唯識二十論
550 :
? :2013/05/20(月) 16:33:53.22 ID:GsY0jrEZ
551 :
? :2013/05/20(月) 16:43:04.20 ID:GsY0jrEZ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98 阿頼耶識と種子のはたらき
人間がなにかを行ったり、話したり、考えたりすると、
その影響は種子(阿頼耶識の内容)と呼ばれるものに記録され、
阿頼耶識のなかにたくわえられると考えられる。
これを薫習という。
ちょうど香りが衣に染み付くように行為の影響が
阿頼耶識にたくわえられる(現行薫種子 げんぎょうくんしゅうじ)。
このため阿頼耶識を別名蔵識、一切種子識とも呼ぶ。
阿頼耶識の「アラヤ」という音は「蔵」という意味のサンスクリット語である。
さらに、それぞれの種子は、阿頼耶識の中で相互に作用して、
新たな種子を生み出す可能性を持つ(種子生種子)。
また、種子は阿頼耶識を飛び出して、末那識・意識に作用することがある。
さらに、前五識(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)に作用すると、
外界の現象から縁を受けることもある。
この種子は前五識から意識・末那識を通過して、
阿頼耶識に飛び込んで、阿頼耶識に種子として薫習される。
これが思考であり、外界認識であるとされる(種子生現行 しゅうじしょうげんぎょう)。
このサイクルを阿頼耶識縁起(あらやしきえんぎ)と言う。
552 :
? :2013/05/20(月) 16:48:03.69 ID:GsY0jrEZ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98 第一能変
異熟というのは、
阿頼耶識(根源的と呼ばれる識知)のことであり、
あらゆる種子 (biija) を内蔵している。
感触・注意・感受・想念・意志をつねに随伴する。
感受は不偏であり、かつそれは障害のない中性である。
感触その他もまた、同様である。
そして、根源的識知は激流のごとく活動している。
「暴流の如し」
第二能変
末那識 (mano naama vijJaana) は、
阿頼耶識にもとづいて活動し、阿頼耶識を対象として、思考作用を本質とする。
末那識には、障害のある中性的な四個の煩悩がつねに随伴する。
我見(個人我についての妄信)、我痴(個人我についての迷い)、
我慢(個人我についての慢心)、我愛(個人我への愛着)と呼ばれる。
なかでもとくに、当人が生まれているその同じ世界や地位に属するもののみを随伴する。
さらにその他に感触などを随伴する。
この末那識は自我意識と呼んでもよい。
つねに煩悩が随伴するので「汚れた意(マナス)」とも呼ばれる。
この末那識と意識によって、思量があり、
その意業の残滓はやはり種子として阿頼耶識に薫習される。
識体転似二分
554 :
? :2013/05/21(火) 16:26:45.06 ID:wOjkZJQW
http://www5e.biglobe.ne.jp/~ym7m4ovz/yuishikiha2.htm 識の転変 − 「成論」釈
識の転変との語を「成論」はどのように釈しているかと言うと、
安慧釈が識の相の時間的変化として釈しているのに対して、
「成論」は同一刹那における識の中での作用として釈している。
識の転変とは「識体転似二分(識体が転じて二分と似(の)る)」
ことであると短い句を以って明確に釈されており、
この句は法相宗においては公理化されている。
この句が意味するところは、
識は各刹那において「見分」と「相分」との二つの分として機能し、
二分の間で認識・表象が為されるという教説である。
見分とは識における認識する・表象する側つまり主体の側であり、
相分とは識における認識される・表象される側つまり対象・客観の側である。
認識・表象とは、本来は一つである識が見分と相分とに二分して、
主体の側である見分が対象の側である相分を
認識・表象するということとして為されると主張される。
識との語は識(しる)という主体的作用を意味しているが、
衆生の認識作用においては識る主体とは別の、
主体とは分離した対象・客観が実在するように誤謬されてしまう。
つまり衆生は何かを認識する際に対象を遍計所執・虚妄分別してしまう。
唯識派においては、
遍計所執・虚妄分別されたもの、つまり対象として認識されたものは、
対象としては非実在であり無であると断言される。
不落因果、不落スレッド
556 :
? :2013/05/22(水) 09:50:32.52 ID:e8p8vSV3
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1410840489 「不落因果」は生きた事象としての現実の全ての因果は看取れないという認識の元に、
所詮全てを明らかにはしてくれない現実の中での因果を敢えて断ち切る謂わば方便のようなものです。
噛み砕いた言い方をするなら
「今日は昨日の続きではない。また明日の為の今日ではない」あるいは「今を生きる」あるいは
「果報を未来に期待せず、今この時に頂いてしまう。すなわち楽しい事をするのではなく、する事を楽しむ」
また考えようによっては「日日是好日」や「一期一会」も同じ事態の違う表現と考える事も可能なはずです。
ただ「不落因果」とは言っても本質的には因果を無視して良いと言ってはいません。
あくまでも意識的に断ち切る謂わば方便と申し上げたはずです。
ですから対を成す「不昧因果」が同時に言われると考えて下さい。
ですからこの両者は2つ対になって意味を成すと考える事も可能かと思われます。
557 :
? :2013/05/22(水) 09:57:58.47 ID:e8p8vSV3
558 :
? :2013/05/22(水) 10:06:56.07 ID:e8p8vSV3
「不落因果」は生きた事象としての現実の全ての因果は看取れないという認識の元に
所詮全てを明らかにはしてくれない現実の中での因果を敢えて断ち切る謂わば方便のようなものです
_ _ _
般若経の解説
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html 輪廻を土台として
輪廻を前提として
その輪廻から解脱する為には
永久不滅・常住不変のアートマンを土台として
善行に励み、永遠ばかりを探して
凝り固まり、ありのままに変化を見ることに慣れてない
無我を、縁起を、空を見ることがうまくない人達を
: 無我 ・ 縁起 ・ 空 : の観察によって 『 悟りへの道に導く為に 』
およそ、禅定に入ろうとする人は …
… この吐いて吸う大きな長い息を十数え、何度も繰り返し、なにも考えず、ただ息を数え続けます
一切の有情には仏性があるといわれる
解脱すれば仏だという
しかし 「 解脱すれば仏だ 」 と言う事に
気づくまでは、気づくことは難しい
スレッド落ちずに七百生
灰身滅智
561 :
? :2013/05/26(日) 14:03:56.92 ID:vBep3jMq
562 :
? :2013/05/27(月) 09:34:49.30 ID:DPPBLvmP
563 :
? :2013/05/27(月) 09:49:36.54 ID:DPPBLvmP
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%AB%A6 苦諦
集諦
滅諦
「苦滅諦」といわれ、煩悩が滅して苦のなくなった涅槃の境地を言い
いっさいの煩悩の繋縛(けばく)から解放された境地なので解脱の世界であり
煩悩の火の吹き消された世界をいう
または、苦の滅があるということを認識すること
すなわち苦の滅の悟り、または苦の滅を悟ることを滅諦という
道諦
「苦滅道諦」で、苦を滅した涅槃を実現する方法
実践修行を言い、これが仏道すなわち仏陀の体得した解脱への道である
その七科三十七道品といわれる修行の中の一つの課程が八正道である
道諦…童貞を卒業するための修行の道程のこと 早くウープランドへ行こう!!
Wikipediaによると、 ソープランドは、湯船のある部屋(浴室)で女性従業員(風俗嬢)が、 男性客に対し性的なサービスを行う風俗店である。 風俗店の中でも性交を含めた至れり尽くせりのサービスを提供する ため「風俗の王様」と称される。 「ソープ」、「特殊浴場」、「個室(高級)サウナ」などとも呼ばれる。 日本で独特に発達した営業形態であるが、 やや形を変えた同様の業態が外国にも見られる。 平成24年度(2012年)版警察白書によると ソープランド等の届出店は2011年(平成23年)時点では1246店ある。
ちなみに維摩経には【うーぷらんど】へ逝ってよし!!と書いてある
567 :
中 【吉】 :2013/06/01(土) 05:33:02.30 ID:7MqwVYPd
てす(@_@)
568 :
? :2013/06/01(土) 13:49:47.48 ID:Pro/IFJL
原始仏典『スッタニパータ(経集)』では 「女に溺れ、酒にひたり、賭博に耽り、得たものを得るたびに そのたびごとに失う人がいる。これは破滅への門である。」
570 :
? :2013/06/02(日) 18:12:14.17 ID:27wePnRs
維摩経方便品第二において維摩居士は仏教的に正しく、模範とすべき行動例として ・賭博施設に入り ・売春宿に入り ・酒場に入り などをしている 法の為にそれらに入らない、関わらない考えと、法の為にこそそれらに入り、 交わるという考えがある 前者が小乗と呼ばれ、後者が大乗と称されるが、 いずれもあくまでも法の為にされることに注意
維摩は浄名ともいう 維摩はヴィマラキールティの音写で、意訳すると浄名になる
鴨長明の方丈記は維摩経から来ている
574 :
? :2013/06/07(金) 08:54:13.56 ID:pwFQCXeM
575 :
? :2013/06/07(金) 09:06:04.30 ID:pwFQCXeM
>>574 の続き
悟りに至るための具体的な方法は?
般若経の解説
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html 輪廻を土台として
輪廻を前提として
その輪廻から解脱する為には
永久不滅・常住不変のアートマンを土台として
善行に励み、永遠ばかりを探して
凝り固まり、ありのままに変化を見ることに慣れてない
無我を、縁起を、空を見ることがうまくない人達を
: 無我 ・ 縁起 ・ 空 : の観察によって 『 悟りへの道に導く為に 』
およそ、禅定に入ろうとする人は …
… この吐いて吸う大きな長い息を十数え、何度も繰り返し、なにも考えず、ただ息を数え続けます
一切の有情には仏性があるといわれる
解脱すれば仏だという
しかし 「 解脱すれば仏だ 」 と言う事に
気づくまでは、気づくことは難しい
576 :
? :2013/06/07(金) 09:18:15.58 ID:pwFQCXeM
577 :
? :2013/06/07(金) 13:00:23.08 ID:pwFQCXeM
578 :
? :2013/06/07(金) 13:14:25.87 ID:pwFQCXeM
>>577 の続き
> : 受 ・ 想 ・ 行 : を滅させる為の方法は?
新アジア仏教史 09 チベット 須弥山の仏教世界 165ページ
チャンダーリーの火とは
臍(へそ)のチャクラに宿る熱である
この熱の力で「風(ルン)」を中央脈管の中に導き入れ
それが脈管に入り、留まり、溶け込む事に習熟した時
菩提心である精液が溶け出し
それが中央脈管の中を上下に移動しながら
四つのチャクラを通過する時に
四段階の歓喜が生じ、最終的には
源初から存在する(倶生)大楽を元に
楽空無別の智恵を獲得する
_ _ _
絶倫的精力によって
性欲を修行によって悟りへの原動力に変容させることをもくろんだからにほかならない
と言う事であるらしい
579 :
中 :2013/06/09(日) 08:18:50.84 ID:IsMEAGAg
ヨガらない ヨガります ヨガれば ヨガれ ヨガろう!!
吸って吐く
ヨガ経を読もう
582 :
? :2013/06/11(火) 09:03:43.52 ID:6Xn+EkFk
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%A9 『ヨーガ・スートラ』(瑜伽経、ゆがきょう、とも)は
インド哲学の1派であるヨーガ学派の根本経典。
成立は2-4世紀頃。パタンジャリによって編纂されたとされる。
『スートラ』は『糸』の意味であり、糸のようにパタンジャリが説いた短い言葉を連ねたものである。
「ヨーガとは心の働きを抑制することである」の定義から始まり、三昧に至るまでの具体的方法としての8階梯と、その背景にある思想が述べられる。
4章195節からなる。
第1章(51節) - 概要・定義など
第2章(55節) - 禁戒、勧戒、座法、調気法、制感など
第3章(55節) - 凝念、静慮、三昧など
第4章(34節) - 補足など
アシュタンガヨーガとも。(アシュト=8、アンガ=枝・手足)
1).ヤマ:禁戒 - やってはいけないことを守る。暴力をふるわない・嘘をつかない・盗みをしない・貪らない・貞潔
2).ニヤマ:勧戒 - すすめられるべき道徳。清浄・足るを知る・苦行・学誦・神霊への帰入
3).アーサナ:座法 - 正しい姿勢をとる。
4).プラーナーヤーマ:調息 - 呼吸法でプラーナ(気)を取り入れる。
5).プラティヤーハーラ:制感 - 外側に向けていた感覚を内側に向け、内的感覚を養う。
6).ダーラナー:凝念 - 意識を対象に集中させる。
7).ディヤーナ(ディヤーン):観想(静慮) - 意識が対象から流出し、拡大する。「禅」はこの音写。
8).サマーディ:三昧 - 意識が対象と一体化する。
『解説ヨーガ・スートラ』 佐保田鶴治 平河出版社
『ヨーガ根本経典』 佐保田鶴治 平河出版社
『インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ)』 スワミ・サッチダーナンダ著 伊藤 久子訳 出版社:めるくまーる
仏教とブックオフは似ている…いない
仏教とドッキングは似ていない
585 :
? :2013/06/14(金) 18:12:49.54 ID:NcRhgL7n
586 :
? :2013/06/14(金) 18:18:43.10 ID:NcRhgL7n
サーンキヤ学派
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%A4%E5%AD%A6%E6%B4%BE サーンキヤでは精神原理であるプルシャは永遠に変化することのない実体である、とし、
それに対し物質原理であるプラクリティを第1原因とも呼び、
サットヴァ(純質)・ラジャス(激質)・タマス(翳質)という、相互に関わる3つの構成要素からなるとし、
これら構成要素が平衡状態にあるときプラクリティは変化しない、とする。
しかしプルシャの観察を契機に平衡が破れると、プラクリティから様々な原理が展開してゆくことになる。
プラクリティ → 理性 → 自我意識 という順序で原理が現れ、自我意識からは思考器官・知覚器官・行為器官が生まれる。
知覚器官には耳・皮膚・眼・舌・鼻があり、行為器官には発声器官・手・足・排泄器官・生殖器官がある。
また、自我意識は他方では元素としての(音・触感・色・味・香)を生み、
元素は五大の要素(虚空・風・火・水・地)を生む。これらの対象は知覚器官に対応している。
プルシャはこのような展開を観察するのみで、それ自体は変化することがない、とする。
人はプラクリティから展開した理性、自我意識などを主体であると思い込む錯覚に陥っているが、
本来の自我であるプルシャに目覚めることで解脱が果たされるとしている。
サーンキヤ学派はヨーガ学派と対になり、ヨーガを理論面から基礎付ける役割を果たしている。
587 :
? :2013/06/14(金) 18:27:57.14 ID:NcRhgL7n
588 :
? :2013/06/14(金) 18:35:55.24 ID:NcRhgL7n
589 :
? :2013/06/14(金) 20:01:10.45 ID:NcRhgL7n
590 :
? :2013/06/14(金) 20:46:45.83 ID:NcRhgL7n
空の論理は形而上と形而下のアウフヘーベンなり
空の論理は形而上学である、と言えば間違いだし、かといって 形而上学ではない、と言っても間違い
存在と認識の中道を説くのが仏教である
中道とは四句に偏らないこと
坊主バーが流行ってる
596 :
? :2013/06/22(土) 08:31:31.05 ID:rSXAjK2P
しかし、坊主バーはアゴン経から見ても、維摩経から見ても、サンガの戒から見ても、 アウトでしょう
598 :
? :2013/06/22(土) 09:40:09.29 ID:rSXAjK2P
沢山いると思いますよ 坊主バーの彼らは多分、人助けが仏教だと思ってる しかし困ってる人を救うならお金をばら蒔けばイイのです しかし彼らは逆に酒代を取って、労働の対価を得て、サービス業に精を出している そしてホントの仏教の救済である自我執着を打ち破り、 苦しみから解脱するというとこまでは行こうともしないし、 行かせてあげようともしない
坊主バーには極楽浄土という名のカクテルがあるらしい
阿鼻叫喚地獄
灼熱地獄
↑イイのが出ますように!!!!!(@_@) 屮(@_@)屮
604 :
? :2013/07/02(火) NY:AN:NY.AN ID:vpk4wVlB
605 :
? :2013/07/02(火) NY:AN:NY.AN ID:vpk4wVlB
http://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/20130701_605845.html D-Wave社の量子コンピュータは「本物」〜米研究者グループが「量子効果を確認」とネイチャーに発表 2013/7/1 11:09
カナダのD-Wave社が開発、販売した「量子コンピュータ」が本物である可能性が極めて高くなった
28日、米国の研究者グループがNature Communicationsに発表した論文の中で
「量子効果を確認した」と主張しており、この論文内容が認められれば
今世紀初め以来利用されてきたコンピュータの原理と本質的に異なる
量子コンピュータが現実に商業的に販売されていることになり
これまでよりもはるかに高速に特定の問題を解くことが可能になる
D-Wave社は2011年に同社初の量子コンピュータ「D-Wave One」を発表し
米国最大の防衛産業企業ロッキードマーチン社との契約を締結した
また2013年5月には、米NASAと米Googleなどが購入契約を締結している
これまでD-Waveが量子コンピュータであるか否かについて、物理学者たちの間で意見の一致を見ていなかった
それでも確かに高速に問題を解くことができているとの見解が複数の研究者により繰り返し発表されてきた
今回、28日に南カリフォルニア大学のSergio Boixo氏とTameem Albash氏、Daniel A. Lidar氏らの研究チームが
Nature Communicationsに発表した論文「Experimental signature of programmable quantum annealing」の中で
D-Waveのコンピュータが古典力学に従うコンピューティングモデルではなく
量子力学的効果を使用していることが確認できたと主張している
606 :
? :2013/07/02(火) NY:AN:NY.AN ID:vpk4wVlB
607 :
? :2013/07/02(火) NY:AN:NY.AN ID:vpk4wVlB
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%BB%A2%E7%A7%BB 相転移(そうてんい、英語:phase transition)とは
化学的、物理的に均一な物質の部分である相 (Phase) が他の形態の相へ転移することの
熱力学あるいは統計力学上の概念であり、それらを発生機構とする物理現象の総称でもある
相転移の発生は特定の原因に由来せず、原子あるいは分子間の相互作用を初めとし
結晶構造や局所構造あるいは磁場や温度・エネルギー分布など
場合に応じて複数の要素が複合的に作用して発生する現象である
次に代表的な相転移の例を示す
構造相転移(気相、液相、固相間の転移など)
磁気相転移(常磁性、強磁性、反強磁性などの間での転移)
金属-絶縁体転移(モット転移など)
常伝導-超伝導転移(超伝導)
常誘電体-強誘電体転移
真空の相転移(宇宙論)
608 :
? :2013/07/02(火) NY:AN:NY.AN ID:vpk4wVlB
609 :
? :2013/07/02(火) NY:AN:NY.AN ID:vpk4wVlB
稲川淳二・恐怖の現場 最終章 〜禁断の地 永久に、永遠に〜 1 貸出開始日: 2013/07/05 収録時間: 85分 出演者: 稲川淳二 二宮歩美 奥山奈々 稲川淳二・恐怖の現場 最終章 〜禁断の地 永久に、永遠に〜 2 貸出開始日: 2013/07/05 収録時間: 85分 出演者: 稲川淳二 疋田紗也 奥山奈々 2003年からスタートした 『 恐怖の現場 』 シリーズが遂に最終章! 今回も最終章にふさわしく様々な心霊現象を撮らえることに成功!
地獄はグシャロンにも書かれてありますな
もうグシャグシャ
ちなみに滅茶苦茶も元は仏教語
空海と論戦した徳一 イイ勝負だったことでしょう
614 :
? :2013/07/08(月) NY:AN:NY.AN ID:T6Povn8Y
ほんとにあった!呪いのビデオ 53 貸出開始日: 2013/07/05 収録時間: 65分 ほんとにあった!呪いのビデオ 54 貸出開始日: 2013/08/02 収録時間: 65分 一般投稿による心霊映像を集めた人気シリーズ『ほんとにあった!呪いのビデオ』最新作。 一般ユーザーの反響も交え、全国からつぎつぎと寄せられる新規投稿も満載!
615 :
? :2013/07/10(水) NY:AN:NY.AN ID:BqH5iUuQ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%B6%E8%88%8E%E8%AB%96 『阿毘達磨倶舎論』(あびだつまくしゃろん)は
説一切有部の『発智論』『大毘婆沙論』(婆沙論)の説を
中心に他部派の説も加えて
仏教哲学の基本的問題を整理したものである
世親著。略称を『倶舎論』という
説一切有部の行き過ぎた教理に対して
経量部の立場から批判が加えられている部分がある点に特色がある
このため後に衆賢の『順正理論』によって批判される
1.界品(かいぼん) - 存在の種類
2.根品(こんぼん) - 存在現象の活動
3.世間品(せけんぼん) - 世界の構成
4.業品(ごうぼん) - 有情の輪廻の原因となる業
5.随眠品(ずいみんぼん) - 有情の煩悩
6.賢聖品(けんしょうぼん) - 悟りの段階
7.智品(ちぼん) - 智慧
8.定品(じょうぼん) - 禅定
9.破我品(はがぼん)
界品・根品で基礎的範疇を説明し
世間品・業品・随眠品で迷いの世界を解明し
賢聖品・智品・定品で悟りに至る道を説く
616 :
? :2013/07/10(水) NY:AN:NY.AN ID:BqH5iUuQ
617 :
? :2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN ID:+D0zLmIm
618 :
? :2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN ID:+D0zLmIm
新アジア仏教史02インドII 仏教の形成と展開/奈良康明、下田正弘 第2章 原始仏教の世界/並川孝儀/68ページ参照 チベット語訳で伝えられる 『 アビダルマコーシャ・ウパーイカ 』 の全貌が明らかになり 新しい阿含経が開示された 全訳が出版される予定であるが この成果は初期仏教研究に大いなる実りをもたらしそうである
619 :
? :2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN ID:e2wg5Pog
620 :
? :2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN ID:CKblk4XM
それがさー付き合いとかもあるだわ。 自分で取りなよー。 ヤクザ風の男の人といたってー。 あなたでそんなんで私たちはどうするのー? 千尋千尋。 お、いつもの3人組だ。
622 :
? :2013/07/29(月) NY:AN:NY.AN ID:m4nO7l5w
623 :
? :2013/07/29(月) NY:AN:NY.AN ID:nLzjj9yA
624 :
? :2013/07/29(月) NY:AN:NY.AN ID:nLzjj9yA
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T0099_,02,0032a21:0099_,02,0032b06.html T0099_.02.0032a22: 告仙尼。今當爲汝隨所樂説。佛告仙尼。色
T0099_.02.0032a23: 是常耶。爲無常耶。答言無常。世尊復問。仙
T0099_.02.0032a24: 尼。若無常者是苦耶。答言是苦。世尊復問
T0099_.02.0032a25: 仙尼。若無常苦是變易法。多聞聖弟子。寧於
T0099_.02.0032a26: 中見我異我相在不。答言。不也世尊。受想
T0099_.02.0032a27: 行識。亦復如是。復問。云何仙尼。色是如
T0099_.02.0032a28: 來耶。答言。不也世尊。受想行識。是如來
T0099_.02.0032a29: 耶。答言。不也世尊。復問。仙尼。異色有
T0099_.02.0032b01: 如來耶。異受想行識有如來耶。答言。不
T0099_.02.0032b02: 也世尊。復問。仙尼。色中有如來耶。受想
T0099_.02.0032b03: 行識中有如來耶。答言。不也世尊。復問。仙
T0099_.02.0032b04: 尼。如來中有色耶。如來中有受想行識耶。
T0099_.02.0032b05: 答言。不也世尊。復問。仙尼。非色非受想行
T0099_.02.0032b06: 識有如來耶。答言。不也世尊。佛告仙尼。
625 :
? :2013/07/29(月) NY:AN:NY.AN ID:nLzjj9yA
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T0099_,02,0032b05:0099_,02,0032b19.html T0099_.02.0032b06: 識有如來耶。答言。不也世尊。佛告仙尼。
T0099_.02.0032b07: 我諸弟子。聞我所説不悉解義。而起慢無
T0099_.02.0032b08: 間等。非無間等故。慢則不斷。慢不斷故。
T0099_.02.0032b09: 捨此陰已。與陰相續生。是故仙尼。我則記
T0099_.02.0032b10: 説。是諸弟子。身壞命終。生彼彼處。所以
T0099_.02.0032b11: 者何。以彼有餘慢故。仙尼。我諸弟子。於
T0099_.02.0032b12: 我所説。能解義者。彼於諸慢。得無間等。
T0099_.02.0032b13: 得無間等故諸慢則斷。諸慢斷故身壞命終
T0099_.02.0032b14: 更不相續。仙尼。如是弟子我不説彼捨此
T0099_.02.0032b15: 陰已生彼彼處。所以者何。無因縁可記説
T0099_.02.0032b16: 故。欲令我記説者。當記説。彼斷諸愛欲。
T0099_.02.0032b17: 永離有結。正意解脱。究竟苦邊。我從昔來
T0099_.02.0032b18: 及今現在常説。慢過慢集慢生慢起。若於慢
T0099_.02.0032b19: 無間等。觀衆苦不生。
おじゃる 屮(_ ._)屮
卍 仏教以外でもよしっ! 卍
禅定
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%85%E5%AE%9A 心を統一して瞑想し、真理を観察すること
またそれによって心身ともに動揺することがなくなった
安定した状態を指す
坐禅や止観の止行であるサマタ瞑想で禅定を得ようとする
仏教においては
涅槃に至るために禅定に勤しむ教派が多く
禅定を得る止行に対して、観行も重視される
日本仏教と禅定
日本仏教のほとんどの伝統的宗派においても
禅定を得るために様々なアプローチが派生してきたといわれる
曹洞宗・臨済宗における坐禅はもちろんのこと
天台宗では法華禅とも呼ばれる止観を重視し
真言宗では印相を結んだり、陀羅尼や真言を唱える身体性を重視する
浄土宗や浄土真宗では称名念仏である南無阿弥陀仏をくり返し唱える
時宗においては踊りながら念仏を唱え
日蓮宗では題目の南無妙法蓮華経をくり返し唱える
いずれのアプローチも
思考や妄想から離れて精神を集中させて禅定に至る行といわれる
> 生きて涅槃もあります 有余涅槃ですね? ↓ //ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%85%E6%A7%83 有余涅槃 釈迦が三十五歳で成道して八十歳で入滅するまでの間の「さとり」の姿を言う 無余涅槃は 八十歳で入滅した後の「さとり」の姿とみるのである この場合の、「余」とは「身体」のこととみて 身体のある間の「さとり」 身体のなくなった「さとり」とわける
> 凡人には煩悩を滅しきるのが不可能に近く > 死んだら煩悩も無くなるので、死→涅槃と変わっていったのでしょう この現世において、慢を滅させることのできなかった場合は 『 たとえ身壊れて命終しても又、次の、この世の生(来世)に戻り来る 』 ↓ ということであるらしい T0099_.02.0029c04: 雜阿含經卷第五 //21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T0099_,02,0032b05:0099_,02,0032b19.html T0099_.02.0032b06: 佛告仙尼。 T0099_.02.0032b07: 我諸弟子。聞我所説不悉解義。而起慢無 T0099_.02.0032b08: 間等。非無間等故。慢則不斷。慢不斷故。 T0099_.02.0032b09: 捨此陰已。與陰相續生。是故仙尼。我則記 T0099_.02.0032b10: 説。是諸弟子。身壞命終。生彼彼處。所以 T0099_.02.0032b11: 者何。以彼有餘慢故。
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T1579_,30,0279a01:1579_,30,0279a07.html T1579_.30.0279a01:
T1579_.30.0279a02: No.1579[cf.Nos.1580-1584]
T1579_.30.0279a03:
T1579_.30.0279a04: 瑜伽師地論卷第一
T1579_.30.0279a05: 彌勒菩薩説
T1579_.30.0279a06: 三藏法師玄奘奉 詔譯
T1579_.30.0279a07: 本地分中五識身相應地第一
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T1579_,30,0282c29:1579_,30,0283a10.html T1579_.30.0282c29:
T1579_.30.0283a01: 爾時父母貪愛倶極。最
T1579_.30.0283a02: 後決定各出一滴濃厚精血。二滴和合住母
T1579_.30.0283a03: 胎中合爲一段。猶如熟乳凝結之時。當於
T1579_.30.0283a04: 此處。一切種子異熟所攝。執受所依阿頼耶
T1579_.30.0283a05: 識和合依託。云何和合依託。謂此所出濃厚
T1579_.30.0283a06: 精血合成一段。與顛倒縁中有倶滅。與滅
T1579_.30.0283a07: 同時即由一切種子識功能力故。有餘微細
T1579_.30.0283a08: 根及大種。和合而生。及餘有根同分精血和
T1579_.30.0283a09: 合摶生。於此時中説識已住結生相續。即
T1579_.30.0283a10: 此名爲羯羅藍位。
632 :
人鏡止水爺 :2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN ID:rs+VVA8g
懺悔懺悔〜 六根清浄!
633 :
? :2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN ID:ubKqZIFl
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%BA%E6%82%94 仏教において懺悔
自分の過去の罪悪を仏、菩薩、師の御前にて告白し、悔い改めること
本来はサンスクリット語で「忍」の意味を持つ
半月ごとに行われる布薩では地域の僧侶が犯した罪を告白し懺悔するほか
自恣という僧侶同士が互いに罪を告白しあう行事もあった
また、懺悔文という偈文があるほか、山岳修験では登山の際に
『 懺悔、懺悔、六根清浄 』 と唱える
_ _ _
屮(_ ._)屮< 『 懺悔懺悔〜 六根清浄!』
稲川淳二・恐怖の現場 最終章 〜禁断の地 永久に、永遠に〜 1 貸出開始日: 2013/07/05 収録時間: 85分 稲川淳二・恐怖の現場 最終章 〜禁断の地 永久に、永遠に〜 2 貸出開始日: 2013/07/05 収録時間: 85分 北野誠のおまえら行くな。TV完全版 Vol.1〜ボクらは心霊探偵団〜 GEAR2nd 貸出開始日: 2013/06/05 収録時間: 112分 北野誠のおまえら行くな。TV完全版 Vol.2〜ボクらは心霊探偵団〜 GEAR2nd 貸出開始日: 2013/07/03 収録時間: 112分 北野誠のおまえら行くな。TV完全版 Vol.3〜ボクらは心霊探偵団〜 GEAR2nd 貸出開始日: 2013/07/10 収録時間: 112分 怪談新耳袋 殴り込み!劇場版 魔界編 【前編】 貸出開始日: 2013/08/07 収録時間: 90分 怪談新耳袋 殴り込み!劇場版 魔界編 【後編】 貸出開始日: 2013/08/07 収録時間: 90分
637 :
淀屋橋ハニワ :2013/09/13(金) 10:19:47.06 ID:0wU97X5E
UN・BABA・UN・BA・UN・BABA・UN・BA・HO!(◎д◎)
639 :
Classical名無しさん :2013/09/15(日) 14:03:11.75 ID:N6S1l379
ある時、イエスが弟子たちを連れて街中を闊歩していると一人の女性が民衆から石を投げつけられていた。 なぜこんなことをしているのかと、弟子が民衆の一人に問うと、「この女は罪人だからだ」と答えた。 それを聞いたイエスは民衆にこう言った。 「ならばしかたがない。続けなさい」 そしてこう続けた。 「ただし、一度も罪を犯したことのない正しき者だけこの女性に石をぶつけなさい」 民衆は、とまどい、やがて一人また一人とその場を離れ、 石をぶつけているのはイエスただ一人だけとなった。
マ
罰当たりwww
しょーこしょーこしょこしょこしょーこ あさはらしょーこ♪
990 ID:BBCwaDpy さんへ >> 仏教経典・論書は縁起を説明する為に残されたものだと思います > 本当に、その通りなら、真言も出なかった筈です 密教においては 仏が大悲・大智によって衆生に応じることを「加(加被)」 衆生がそれを受け入れることを「持(摂持)」と解釈し それ自体の自性ではなく 因と縁の依存によって 双方が相応一致することで 死後の成仏をはじめとする各種の効果を成就させる と仮名の空を以って説明してます 幻のごとき「空」であるからこそ、因と縁によって果と報が現れる と言う事だと思います
//21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T0099_,02,0296b24:0099_,02,0296c02.html 雜阿含經 T0099_.02.0296b24: T0099_.02.0296b25: (一一一九)如是我聞。一時佛住舍衞國祇樹給 T0099_.02.0296b26: 孤獨園。爾時世尊告諸比丘。時有天帝釋及 T0099_.02.0296b27: 鞞盧闍那子婆稚阿修羅王。有絶妙之容。 T0099_.02.0296b28: 於晨朝時倶詣佛所。稽首佛足退坐一面。 T0099_.02.0296b29: 時天帝釋及鞞盧闍那子婆稚阿修羅王。身 T0099_.02.0296c01: 諸光明普照祇樹給孤獨園。爾時鞞盧闍那 T0099_.02.0296c02: 阿修羅王説偈白佛
>>37 の続き
漢訳 第一義空經
//www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html
此の陰滅し已らば異陰相續す。俗數法をば除く
耳・鼻・舌・身・意も 亦是の如く説き 俗數法をば除く
俗數法とは
謂ゆる此れ有るが故に彼れ有り。此れ起るが故に彼れ起る
無明に縁りて行、行に縁りて識、廣説乃至純大苦聚集起るが如く、又復た
− これに対して −
此れ無きが故に彼れ無く、此れ滅するが故に彼れ滅す
無明滅するが故に行滅し、行滅するが故に識滅す
是の如く廣説し 乃至純大苦聚滅す
404 と 405 の続き ウダーナヴァルガのギルギット写本 //archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf 因と縁に依存するものがなければ、動揺はない 動揺がなければ、愛著はない 愛著がなければ … … あらゆる苦しみの大きな集まりが消滅する 縁起したものを離れることは 思弁の領域を離れた寂静なる境地であり 苦しみを性質とするものの滅尽であり 形成作用の寂滅であり //www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-shokibukyo/shoki-soujumetu.htm 空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処を超え 想受を滅させて 死ぬことも、生まれることも〔説か〕ない それこそが苦しみの終わりである
//l:::::::::::::::::::::|.|.|:::::j | | !::::::::::::: !,!|::::::::|:||:::::::::::::::::::::l ///l ::::r┐::::::,j !イニ |_|、! |l___l ll ィ--,ニ,┐::::::::::l !:::: ! .////l::::::|,!.|::::::::l'lア::。::lヽヽ /,イ"。:ヾ||::::::::::| !::::::| / /./. //l::::::::|亅::::::|.|ヽ__,ノ .` ヽ___/ ||:::::::::|ノ::::::::! ./ / / // !:::::::::::|::::::::| ! |,! :::::::|:::::::::::|! '´ / / /./ |::::::::::::|:::::::| l. _ _ ,|::::|:::::|:::|::: :::!l / / / / .! ::::::::::::::|::::::.|\ __ /: ̄l ̄:::j::::|::::l.l / / / ./ ! ::::::::::::::|:::::::l.l:::::: ヽ、 ー _,ィ'´::::::::,||:::::::::|::::|::::l l, /./ / .l::::::::::::::/|::::::,!,!|:::_,ノ| ``ー---‐'" ト_ ::::::l !::::::::|l:::|l::::| !l 地獄少女・閻魔あい(声・能登麻美子) 闇に惑いし哀れな影よ 人を傷つけ貶めて 罪に溺るる業の魂 いっぺん死んでみる?
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東海道新幹線の駅弁 //www.jrtours.co.jp/ekiben-navi/ 日本の味博覧〜京都篇〜 東京/品川/新横浜/名古屋/京都/新大阪/車内販売 1000円(税込) そうだ 京都、行こう 東京/品川/新横浜/名古屋/京都/新大阪 2000円(税込) 参りましょう 東京/新横浜/名古屋/京都/新大阪/車内販売 900円(税込) ΛΛ (^-^)
我(が):衆生を自由に主宰するもの 自らを他に対する特別な存在として妄信すること。我は阿特曼(あとくまん、アートマン)の訳語 原意は呼吸、引いては生命、自己、身体、自我、本質、自性等を指す また、独立永遠の主体を指す この主体は、一切の物の根源の内に潜在して、一個体を支配し統一する 乃ち印度思想界の重要な主題の一であるが 仏教は無我説を主張して、存在と縁起との性の関係を明示して 永遠の存続(常)、自主独立の存在(一)、中心の所有主(主)、一切を支配する(宰)等の性質を否定して 『我』の不存在、不真実を強調する 我所(がしょ):衆生の手脚を操るもの、色受想行識の五陰、衆生の身心 自らの所有あるいは所属、たとえば身体ないし心が他に対して特別な存在であると妄信すること また別の説では、我の所有の略。自身を我といい、自身以外の万物を我所有という。我に対する事物
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660 :
おじゃる :2013/12/09(月) 18:34:15.63 ID:JxOARC8C
一切とは 比丘たちよ、わたしは「一切」について話そうと思う。よく聞きなさい。 「一切」とは、比丘たちよ、いったい何であろうか。 それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、 舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことです。 これが「一切」と呼ばれるものです。 誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、 それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないだろう。さらに彼を問い詰めると、 その主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。何故か。 何故なら、彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。 南伝 相応部経典35-23 んで、一切皆苦が説明できる訳 んで、我も肉体に依存した妄想に過ぎないとなる訳 全てが空である理由もみんなこの一切、つまり六根を通して生じる 「有るな」と思わせてる妄想みたいな惑だから空=実体無しとなる訳
661 :
おじゃる :2013/12/12(木) 05:03:56.88 ID:CN9ajykp
662 :
おじゃる :2013/12/12(木) 05:54:14.82 ID:CN9ajykp
663 :
おじゃる :2013/12/12(木) 12:47:23.84 ID:CN9ajykp
664 :
おじゃる :2013/12/13(金) 02:06:55.41 ID:vpqYfrXE
665 :
おじゃる :2013/12/15(日) 03:02:37.73 ID:1eKTdxVW
666 :
おじゃる :2014/01/04(土) 22:28:48.53 ID:fDML7ncD
test
667 :
おじゃる :2014/01/06(月) 17:27:20.53 ID:udNPZFTH
チベット ニンマ派
http://www.tibethouse.jp/culture/37_04.html 3)仏法の本質
煩悩障と所知障を取り除くための方便を示すのが、仏法です
仏教では悟りの智慧のさまたげになる四つの障害を説きます
カルマの障害、煩悩の障害(煩悩障)、智慧の障害(所知障)、薫重(くんじゅう)の障害です
しかし、障害のなかでも基本となるのは、やはり煩悩障と所知障です
証悟とは、四つの聖なる真理のなかの
滅諦(苦の滅した状態、涅槃にまつわる真理)と
道諦(涅槃にいたる修行の道にまつわる真理)とかかわる教えです
特に戒律・禅定・智慧の三学は道諦と深くかかわっています
戒律・禅定・智慧の三学を修して
様々な障害を浄化したところで、滅諦へと到るのです
668 :
Classical名無しさん :2014/02/27(木) 21:35:57.92 ID:WaLd0oc6
http://www.afpbb.com/articles/-/3008949#blogbtn 電子の質量、過去最高精度で測定 研究 2014年02月24日 13:17
【2月24日 AFP】
これまでで最も高い精度で電子の質量を測定したとするドイツの研究が、
19日の英科学誌ネイチャー(Nature)に掲載された。
この成果は、
物理学の「標準理論」の実験を進めている科学者にとって役立つツールを提供することになる。
電子は負の電荷を持つ素粒子。
ドイツのハイデルベルク(Heidelberg)にある
マックス・プランク核物理学研究所(Max Planck Institute for Nuclear Physics)の
スベン・シュトルム(Sven Sturm)氏率いる研究チームは、
静電場と静磁場を用いて荷電粒子を閉じ込めるペニングトラップ装置を使って、電子の質量を測定した。
研究チームは、すでに質量が判明している炭素原子核とセットになった単一の電子を測定。
質量は、「0.000548579909067原子質量単位」だった。
測定の精度は過去の推計と比べて13倍となった。
研究チームは、
ネイチャーに掲載された研究で
「この結果は将来の標準理論についての基礎物理実験と精密試験の基礎を築くものだ」と述べた。(c)AFP
671 :
[´・ω・`] softbank126036251149.bbtec.net :2014/02/28(金) 17:50:25.20 ID:PrWqm2Oi
Test
過去からの
心の流れ(心相続)によって現れているものは
因と縁の依存によって
五蘊の仮和合の
仮に現れている状態で
現在の一刹那のみも実有ではないので
それ故に
この現世においての
過去の私と現在の私は同一ではないとする
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html 第二十七章 見解(邪見)の考察
3.
「私は(この現世においての)過去に存在していた」と言うことは妥当ではない
(この現世においての)過去に存在していたものは
その者(この現世においての過去の私)と同一ではないからである
675 :
Classical名無しさん :
2014/03/08(土) 13:07:28.65 ID:gtgfa6yq 龍樹は鳥の鳴き声まで調べた