☆ 卍 仏教 質問箱 卍 ☆ パート32

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185虚妄の如く 大滝秀治
>>178>>181
レスありがとうございます。『議論スレなら放っておくつもりでしたが、 質問スレなのでついつい』(>>181)レス返ししておきます。
休憩中の気休め?wになります。 
>虚妄というのは、決して「虚妄だから言語表現できない」という意味ではありません。

そうではありません。虚妄だから言語表現するのです。
『虚妄』論者はすべてを世俗諦(間接現実)でしか見えていない虚妄=物語・ファンタジー・イリュージョンだからこそ、
逆に虚妄だと直接肯定言辞で言語表現してしまうのです。
たとえば、無想家の宝珠や、オイラ氏や、Sn.757にいう『愚者』のようにね(議論スレッド51>>378>>382など)
→まさに虚妄だ、とは『空見』です(中論13-8)。
石飛道子は完全に読み間違っています。

直接現実においては直接肯定的言辞はありえません。
間接現実からは“虚妄の『如く』”(←比喩)、“非虚妄非非虚妄”(←四句第4)、沈黙(維摩など)、気合音(喝〜ツなど)などのスタイルで示唆するしかありません。
これを>『それはしばしのものでしかない』(>>178)ゆえに仮設→仮観(中論24-18の趣旨)というのです。
あなたは中論24-18を掴めていない。
ものは自性がないから変化するように知覚されるが(仮観)、そのものとしての実体はない(空観)からこそ、言語ゲームとしてプレイするのです(中観)。

>中論13-2では、このことは「空を闡明するものである」
もしこれが龍樹の偈なら龍樹は透徹できていないといえます。同25-10・15⇔16・24 .Sn.1119 参照。

仏法は、機能的には縁起であり、内容的には無自性(前段)無実体(後段)の空⇒中道(の如く)なのです。
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/entrance2/1348897577/622-624で?氏の求めに、中論13章全体を簡単に解釈しました。宜しければどうぞ)

では、修空華万行の二相の相即的実践に戻ります。