>>599 おじゃます。野暮用で、大変遅くなりました。
急いでますので、中論13章について現在は以下のように把握している、ということで返事代わりにさせてください。
・13-1『「およそ執着されたものは虚妄である」と世尊は説き給うた。そして、すべて形成されたものは執着されたものである。
それゆえに、もろもろの形成されたものは虚妄なのである。』
★この偈は同7-34(如く)、24-18(相対の仮設)の仮観と矛盾します。「非虚妄非非虚妄」(四句第4)というべきです。
もし龍樹の偈なら、龍樹は透徹できておらず、反対者の偈なら誤解ゆえ、反駁は容易です。
しかし、編集が拙劣です。チャンドラキールティ(月称)のコピー間違いか?
・13-2『もしも、執着されたものが虚妄ならば、そこにどのような得るところがあろうか(なにも得るところはない)。
ところで、このことは世尊によって説かれたが、それは一切は空であることを明らかにするためである。』
★同じく、これが龍樹の偈なら龍樹は透徹できていないといえます。同25-10・15⇔16・24 .Sn.1119 参照。
拙劣な編集です。まともなら、誰の偈なのか明解にすべきです。公案集じゃないんだから。
・13―3『もろもろのものについて<自性の無いこと>(無自性)が成立する。なぜなら、それらのものについて変化することがみられるから。
しかし、それ自体(自性)を有しないものは、(実体として)存在しない。なぜなら、もろもろのものに空性があるから。』
★後段を実体としての様相を問うものと解するなら、龍樹の偈として一貫します。
ものは自性がないから変化するように知覚されるが(仮観)、そのものとしての実体はありません(空観)。
仏法は、機能的には縁起であり、内容的には無自性(前段)無実体(後段)の空⇒中道なのです。
自性を機能的に定義すれば、自立性・単一性・恒常性であって、「無為法」や「超越主義」は縁起撥無の反仏法としかいえません。