宗教と精神疾患3

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6221/2大滝秀治
>>599
おじゃます。野暮用で、大変遅くなりました。
急いでますので、中論13章について現在は以下のように把握している、ということで返事代わりにさせてください。

・13-1『「およそ執着されたものは虚妄である」と世尊は説き給うた。そして、すべて形成されたものは執着されたものである。
   それゆえに、もろもろの形成されたものは虚妄なのである。』

★この偈は同7-34(如く)、24-18(相対の仮設)の仮観と矛盾します。「非虚妄非非虚妄」(四句第4)というべきです。
もし龍樹の偈なら、龍樹は透徹できておらず、反対者の偈なら誤解ゆえ、反駁は容易です。
しかし、編集が拙劣です。チャンドラキールティ(月称)のコピー間違いか?

・13-2『もしも、執着されたものが虚妄ならば、そこにどのような得るところがあろうか(なにも得るところはない)。
   ところで、このことは世尊によって説かれたが、それは一切は空であることを明らかにするためである。』

    ★同じく、これが龍樹の偈なら龍樹は透徹できていないといえます。同25-10・15⇔16・24 .Sn.1119 参照。
     拙劣な編集です。まともなら、誰の偈なのか明解にすべきです。公案集じゃないんだから。

・13―3『もろもろのものについて<自性の無いこと>(無自性)が成立する。なぜなら、それらのものについて変化することがみられるから。
    しかし、それ自体(自性)を有しないものは、(実体として)存在しない。なぜなら、もろもろのものに空性があるから。』

    ★後段を実体としての様相を問うものと解するなら、龍樹の偈として一貫します。
     ものは自性がないから変化するように知覚されるが(仮観)、そのものとしての実体はありません(空観)。
     仏法は、機能的には縁起であり、内容的には無自性(前段)無実体(後段)の空⇒中道なのです。
     自性を機能的に定義すれば、自立性・単一性・恒常性であって、「無為法」や「超越主義」は縁起撥無の反仏法としかいえません。
6231/2-2大滝秀治:2012/12/20(木) 17:04:45.23 ID:lQuvX9hz
・13-4『もしも、自性を有しないならば、何ものに<変化するという性質>が有るだろうか(変化する性質はある)。
   もしも、自性を有するならば、何ものに<変化するという性質>が有るだろうか(変化する性質はない)。』

    ★このように解すると龍樹の偈として一貫します。

・13-5『(実体としての)ものには<変化するという性質>が無い。
    また(実体としての)他のもの(他の状態に達したもの)にも<変化すると言う性質>は適合しない。
    なぜなら、(実体としての)青年は老いることがないし、(実体としての)老いた者も老いるということがないから。』

    ★非無常非恒常(四句第4)が中道示唆です。
    「老いる」は「老いる」ではない、「老いる」そのものがない。ゆえに「老いる」といいます。

・13-6『もしも(実体としての)そのものに<変化するという性質>が有るならば、
    例えば(実体としての)乳そのものが乳であることを捨てないで酪となるであろう。
    また、乳とは異なる何ものか(例えば水)について、(実体としての)それが水であることを捨てないで酪となる、ということがありうるであろう。』

     ★実体のものに<変化するという性質>はありえないのです。
6242/2大滝秀治:2012/12/20(木) 17:11:30.18 ID:lQuvX9hz
・13-7『もしもなにか不空(非空)というもの(実体)が有るならば、(その否定としての)空というものが有るであろう。
    しかるに不空(非空)というものは何も存在しない。どうして空なるものが存在するだろうか。』

    ★空であるとはものではなく様相(方便)です。

・13-8『一切の執着を脱せんがために、勝者(仏)により空が説かれた。
    しかるに人がもしも空見をいだくならば、勝者はその人々を「癒されない人」と呼んだのである。』

    ★この偈は重要です。
     Sn.653・874・1072(想いからの解脱において解脱)・1119参照。
     空観に直指肯定文言はありえないのです(中論 帰敬序、25-3参照)

     本偈は真言密教(空海)の「果分可説」の直接的な批判となっています。

                                 以上