>>322 すまない。
月称菩薩の事に関しては確かに自分が一面的な見解に依りすぎていた。
たしかに貴方が言うように月称菩薩は帰謬論証すらしておらず、戯論寂滅のみを行なっていたにすぎないというのもあり得る話だ。
考えたこともなかった。貴重な考えを仕入れさせてもらった。ありがとう。
でも、自分が求めていたのは
後期中観派において外界は実在と捉えていたのか非実在と捉えていたのか、に対する文献学的な見解はどちらなのか?
なんだ。引き続き有識者の見解を待ちます。
何故
後期中観派において外界は実在と捉えていたのか非実在と捉えていたのか?
と言う事に、こだわるのか?
その理由を教えてくれなイカ? おじゃる?
瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)
とりあえず心(識)は仮に存在すると仮設して
深層意識の阿頼耶識が
自分の意識も
外界にあると認識されるものも生み出している(唯識無境)と考えて
瑜伽(ヨーガ)の実践などによって
第六表面意識から → 深層意識の阿頼耶識に働き掛けて
最終的には阿羅耶識もまた空であるとする(境識倶泯)
境識倶泯に至っていないものは
有るか?無いか?有であり無であるのか?と思惟してはならない
境識倶泯に至って、やっと第一義諦を体感会得できる
と言う事なんじゃなイカ? おじゃる?
中論觀顛倒品第二十三
無常の中に常に著する、是れを則ち顛倒と名づける
無漏法に至るまで尚お不生の相と名づけない
中論觀法品第十八
八聖道分を修習して
我、我所を滅する因縁の故に
無我、無我所を得て
智慧を決定する
空等の解脱門を用いて
諸の禅定の中に
滅尽定を以って第一と為し
終に無余涅槃に帰する
>>326 純粋な知的好奇心からです。
貴方のレスの意図は読めません。
中論について聞いた覚えはありません。
先にも述べたように初期や中期の捉え方は今回は必要ではありません。
また、唯識の基礎概念について聞いた覚えもありません。
あくまで私が知りたいのは
後期中観派において外界は実在と捉えていたのか非実在と捉えていたのか、に対する文献学的な見解はどちらなのか?
についてです。