>>8 >自立論証派 ← 例えば 「火の熱さや燃焼作用が火の自相として認められる」 とする世俗的な考え方に近い立場
>
>一方帰謬論証派 ← 世俗の次元においても自相(自性)を、否定する
これはゲルク的理解で原義は全くちがう。
自立・帰謬という宗派は、特に言葉はインドで使われなかった可能性が高い。
そして月称菩薩の中観をチベット的に自立・帰謬で呼び習わすとしても、
帰謬派ということはできても帰謬論証派ということはできない。
なぜなら、論証したなら主張・見解を持つことになり、そうなると中観の趣旨である四句分別遮断による戯論寂滅への導きという道から逸脱することになるからだ。
これはゲルクが批判する離四辺中観に他ならない。離四辺中観こそインド中観の王道を伝えるもので、シナ・日本の中観も基本的に変わらない。
一方、特殊な論理学を用いて自立論証を中観に取り入れた清弁菩薩は、だからこそ月称菩薩に批判されたのであって、論証法の違いでも、自相(実在)に対する解釈の違いからでもない。
そんな些細なことではなく、中観の本質に関わる問題だから批判されたのに他ならない。
ゲルク中観はより自立論証的であり、私見ではよりアビダルマ的で全く中観的ではないと思う。