で、実践ですが、
「坐水月道場(色即是空) 修空華万行(空即是色)」
⇒<出世間のまなざしで、世間の只中で慶安に遊ぶ(生きる)>ですから、
坐るときも、日常の仕事も遊びもエッチも、釜ヶ崎でも、TPOが変るだけで、同じです。
変えようがありません。
即ち、<二相の実践的相即>(*←アタシのキーワード!:中論25-19)です。
*但し!一即多とか、法界は一味だ(
>>78)とかの華厳的思想→不二一元論などの、あんなチンケ思想ではありません。
生きる(存在)は遊びですから、慈悲とか功徳とか回向だとかの、肛門が痒くなりそうな構えて御立派で御大層な意識なんて、
まるでありません。
やりたいようにやっているだけですよ。
ただ、煩悩あればこその「遊び」ですから、“二念を継がず”は意識しています。
最終的には、もうそろそろいいかなと思ったときは、周囲に迷惑をかけないためにも、
山中で断食で変相(ゲームオーバー)することに憧れています。
龍樹や空海さんやジャイナ教の真似ですけどねw
熊やカラスなどの餌として役立てばいい。
そうです、『ニンゲンは犬に食われるほど自由だ』!
ガンジスの川辺でくたばっているオヤジなんか『なんてダンディな奴だ。』!(藤原新也「メメント・モリ」p20,22、28)
めっちゃんこカッコよくて、このオヤジに満腔の共感あるのみです。