【天下布武】織田信長総合スレ【吉法師】

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1人間七七四年
織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。
尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。
室町幕府を滅ぼし、畿内を中心に強力な中央政権(織田政権)を確立。戦国時代の終結に最大の影響を与えた人物の一人である。
2人間七七四年:2013/07/29(月) NY:AN:NY.AN ID:QZapEWA2
織田信長は戦国時代いや日本最大の英雄
3人間七七四年:2013/07/29(月) NY:AN:NY.AN ID:iAwsco44
>>2みたいのを褒め殺しと言う
4人間七七四年:2013/08/01(木) NY:AN:NY.AN ID:7ik/IDKa
織田信長が戦国武将の中で一番人気があると思う
5人間七七四年:2013/08/01(木) NY:AN:NY.AN ID:bM62UxuG
まあ一般人が処世術のお手本にするとしたら信長ほど向いてない人物もいないがなw
6人間七七四年:2013/08/01(木) NY:AN:NY.AN ID:7ik/IDKa
そうだね。
処世術という点では悪いお手本だね。
処世術のお手本といったら秀吉だもんなあ。
7人間七七四年:2013/08/01(木) NY:AN:NY.AN ID:dTvFgpKp
そう、信長はあくまで”戦国武将”なんだよ。そのレベルに留まったまま死んだ
8人間七七四年:2013/08/01(木) NY:AN:NY.AN ID:bM62UxuG
天才なのは認めるけど環境も味方してたからね
9人間七七四年:2013/08/01(木) NY:AN:NY.AN ID:4HHSArgA
信長は尾張や三河の水野分や身のの大垣城分もあるので初期段階で75万石
しかしアホ無能だった信長を支えてきた後見役の平手や林が呆れ果ててしまうほどで
せっかく信秀が信長に残したものがどんどん失われていく。
特に後見役道三が信長保護に全力を尽くしたために義龍に打倒されるや
尾張は崩壊を見せ、義龍は信長の弟へ取次役を通さず直接書状を出すなど
離反策を推し進め、義龍が当主だった実質4年の間に信長は義龍によって
尾張の半分を奪われてしまう。しかし義龍が急死し無能幼君の竜興が斉藤を継いだために信長は滅亡せずに済んだ。
織田厨の無知さは義龍によって尾張半国が奪われたことを
知らずに信秀が失っていたと思い込んでいて
しかも指摘されても認めず、信秀は無能ニダ!信長天才ニダとキモイ発言を繰り返していること。
伊達厨が父を不当に貶していたり、毛利厨が無知すぎて毛利は小国人だったのに元就天才とか言ってるのと同じアホ
10人間七七四年:2013/08/01(木) NY:AN:NY.AN ID:zmVlCuhR
そりゃ信長がチートスタートなのははっきりしてるだろ。
そもそも信長が大名への返礼で虎や豹の皮や絹織物と言った唐国からの輸入物ばっかり贈ってる時点で経済的屈強さを物語ってる。
今川戦にしたって天文23年には信長は斎藤軍の援軍をもらい、知多半島の尾三国境にある村木城を奪い、
お隣の刈谷城の水野の安全保障を示すことで知多半島戦線を優位に進めてる。
つか発生年代からして超デタラメな桶狭間の戦いって捏造軍記だろ。
一次史料からわかるのは義元が不慮になったと書いてあって、
思いがけない突然死があったと書いてるだけで、
ムリくり桶狭間の戦いと結びつけているだけだし。

だいたい有力重臣国人たちにより父が失脚してる大名に信長の父は該当しないし…
父が殺された大友宗麟
父が追放された武田信玄
父が強制隠居に追込まれた上杉謙信
父を打倒せざるを得なかった斉藤義龍
父を竹生島に幽閉したがのち融和した浅井長政←失敗例
11人間七七四年:2013/08/02(金) NY:AN:NY.AN ID:SIBvq74c
>>9
じゃあお前は誰が天才だと思うの?
12人間七七四年:2013/08/02(金) NY:AN:NY.AN ID:NzJzUf1n
そりゃ信玄だろう
何せ信玄が死ぬ直前まで信長は押されまくって滅亡寸前だったじゃん
13人間七七四年:2013/08/02(金) NY:AN:NY.AN ID:SIBvq74c
信玄オタはこれだからw
14人間七七四年:2013/08/02(金) NY:AN:NY.AN ID:yVSc22/N
信秀評
備後殿はとりわけ器用で仁を持つ方で諸家中のよき者と知れ渡っていた。

信長評
大欝気(おおうつけ)と言う言葉以外の言葉が見つからないほど。
15人間七七四年:2013/08/02(金) NY:AN:NY.AN ID:SIBvq74c
そりゃ信秀と青年時代までの信長ではそうだろう
16人間七七四年:2013/08/02(金) NY:AN:NY.AN ID:yVSc22/N
つーか信長はあまりにもアスペ基地外すぎだろ。
信秀が後見役として付けてくれた
織田家の外交を担ってきた平手政秀が守りたてる甲斐なしと憤死と
信秀死後わずか一年程度でここまで消耗するほど追い詰めたりしてんだぞ。
平手は斉藤家との婚姻同盟を結んだり、上洛外交や本願寺との折衝もやるなど天才的な活躍をしていた。
そりゃあ同じ後見役だった林だって見限るわな。
17人間七七四年:2013/08/03(土) NY:AN:NY.AN ID:P4ZU1Y7i
晩年の信長は自分のことを本気で神だと思っていたのですか?
18人間七七四年:2013/08/03(土) NY:AN:NY.AN ID:JzFxxB+f
宣教師と後世の作り話
19人間七七四年:2013/08/03(土) NY:AN:NY.AN ID:Oo8XcL8y
高血圧が悪化してかなりおかしくなっていたみたい
20人間七七四年:2013/08/03(土) NY:AN:NY.AN ID:sq5e4+Yg
>>17
信長は自分のことを神体と呼んで、
全ての民に対して、毎年必ず信長の誕生日には礼拝することを強要し、
しかも拝観料まで払わせた。
21人間七七四年:2013/08/03(土) NY:AN:NY.AN ID:fIGpnBSL!
日本人嫌いのチョンが必死に捏造するスレw
22人間七七四年:2013/08/03(土) NY:AN:NY.AN ID:cE3iY8A5
>>21
たしかに>>18のデタラメ捏造っぷりは在日だろうな。
23人間七七四年:2013/08/03(土) NY:AN:NY.AN ID:dPQyNFRd
>>16
平手政秀が織田化の外交?

ただの信長の守役だろカス

平手政秀が天才!?wwwwwwwwwwww

これだから糞チョンはwwwwww
24人間七七四年:2013/08/03(土) NY:AN:NY.AN ID:705vgH7c
>>23
平手が織田外交をやってたのはガチだぞ。
25人間七七四年:2013/08/04(日) NY:AN:NY.AN ID:KNzQey1Q
 
エリザベス女王の愛人は織田信長にそっくり

http://ichiba.geocities.jp/gbsg0309/0203/37/252.html

当時のヨーロッパでは、「ちょんまげ」が流行していた。

( http://ichiba.geocities.jp/gbsg0309/0103/34/237.html )
26人間七七四年:2013/08/04(日) NY:AN:NY.AN ID:duGseXb1
常識的に考えれば、馬鹿か天才かは側にいればわかる。性格がかなり変わって
いたということだと思う。
27人間七七四年:2013/08/06(火) NY:AN:NY.AN ID:/7Ga+veK
土地に縛られない専業傭兵主体だからこそ尾張は弱兵と言われたんだよ。
分の悪い戦いに運命共同体的な意識で参加しなくていいのが銭で雇われた兵なんだし。
28人間七七四年:2013/08/07(水) NY:AN:NY.AN ID:WVNwzxQ4
>>27
はいはいウソ乙
29人間七七四年:2013/08/07(水) NY:AN:NY.AN ID:OZ/YZ1t0
だがさんにお触り禁止
30人間七七四年:2013/08/08(木) NY:AN:NY.AN ID:QKrJmXXM
糞ケチ信長は自分や信忠の官位官職をあげまくるが、
配下には一切、官位官職を申請しないクズ。
それどころか信長朝廷官職として秀吉を他家非公認筑前守にしたり、光秀を他家非公認日向守にしたりと、
ものすごいダサい自称を強要し辱めた。
三好義興のように天皇から公認された筑前守の官職はとても輝かしい御名誉ではあるが、
朝廷も蔑む自称官職などを信長から武功への褒章に貰うなど虚しいばかりであったろう。
いくら織田家で忠節をし武功を挙げても身分は卑しい匹夫なのだ。しかも賤しいコンプレックス丸出しで公家などに対して自称官職を名乗るほど恥ずかしいことはないだろう。
公家などにから日向守殿と呼ばれたときの屈辱感は想像できない辱めだろう。
それを横眼に眺めてニヤつく信長に殺意を抱くのも当然だ。
31人間七七四年:2013/08/08(木) NY:AN:NY.AN ID:yUrtNhdc!
だがチョンwwww
32人間七七四年:2013/08/08(木) NY:AN:NY.AN ID:FARb0FvY
織田信長にとって三河の徳川家康は東の防波堤の役割だったんですか?
33人間七七四年:2013/08/10(土) NY:AN:NY.AN ID:+X47Qjdt
三好政権は幕府機構や細川京兆家に拠らない独自の裁許体制を構築した先進性があったが、
織田政権は信長の妹のお犬を娶った細川昭元や細川藤賢に頼り、
幕府機構に寄生していただけで全くそれら先進性が見出せない。
34人間七七四年:2013/08/10(土) NY:AN:NY.AN ID:vGlLhTWo
あぁ足利幕府を滅亡させたのは秀吉であって、
信長じゃないからね。
信長が潰したなんて捏造歪曲が通用するなら、
細川や三好や大内だって、将軍を京から追放してるから
彼らはみんな幕府を潰したことになる。
信長だけ特別視する織田脳は異常。
三好政権以前についての無知さが織田脳を生み出す。
35人間七七四年:2013/08/10(土) NY:AN:NY.AN ID:HoOoH1RN
そもそも公記は首巻が終わっての巻一の冒頭からして三好長慶が義輝を殺したと書いていて
もういろいろとダメすぎるだろ。完全に大田本人が書いてねーよ。長慶はとっくの昔に死んでるわ。
大田が書き足したのは安土城完成以後だろ。
36人間七七四年:2013/08/11(日) NY:AN:NY.AN ID:UhDguSLw
清華家の家格を持つ北畠氏のま
ま、
家格の低い織田氏に戻らなかった信雄の空気の読め無さが、
強制出家と秋田への流罪を呼んだ。
関ヶ原の戦いの西軍首謀者だった輝元への懲罰でも強制出家が強要されていて、
結局のところ家臣らを通して必死な命乞い嘆願が行なわれて、
責任を取っての名誉を守る自刃を回避する武士の風上にもおけぬヘタレに対する恥辱的な死一等免除の慈悲であり、
武人としての生命を絶たれたと言っても良い死ぬのが怖い愚主を内外に知らしめる処置なのである。
37人間七七四年:2013/08/11(日) NY:AN:NY.AN ID:CvUQYVp4
信長がキリシタン保護した先進性とかマンセーしてる本を書いてるやつって無知すぎるよな。
そもそも三好長慶が義輝から允許状を出すように計らってから京洛で本格的に宣教師が活動開始してるし、
長慶本人もデウスの教えは甚だ神聖なように思われるので、
教会と宗団を庇護しようと答えて、
長慶の居城である飯盛城で洗礼と受洗をすることまで許可してる。
長慶が堺の経済力を背景に四国畿内13カ国を支配していたから、
キリシタン貿易の目的があったかも知れないが、
キリシタンを保護した先進性を信長マンセーに使うのはおかしい。

そもそも長慶は連歌など朝廷との交わりの教養も深い文化人でもあるが、
信長はただの殺人狂の野人に過ぎない。
38人間七七四年:2013/08/11(日) NY:AN:NY.AN ID:78AJK9Lo
>>36
清華家の家格を上回るために秀吉は藤原氏の養子にならないといけなかったくらいだからね。
実際、北畠氏の家格は征夷大将軍と並ぶ鎮守府大将軍として地方政権を樹立できる資格も余裕で持ってるからね。
そりゃあ北畠の名前にすがってれば高貴な殿上人として、
どんな大罪であろうと死一等免除の遠罪レベルにしてもらえるんだから信雄だって織田なんてクソに戻りたくはないだろうよ。
39人間七七四年:2013/08/11(日) NY:AN:NY.AN ID:Klcn+Ljo
>>38
信雄家康が秀吉に負けたから鎮守府大将軍として政権を立てられ無かったが、
秀吉に勝ってたら朝廷から任じられ政権樹立できただろうね。
40人間七七四年:2013/08/11(日) NY:AN:NY.AN ID:7+7DveWG
信雄家康は秀吉に圧勝したじゃん。135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
41人間七七四年:2013/08/11(日) NY:AN:NY.AN ID:zrGGdL5s
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
42人間七七四年:2013/08/11(日) NY:AN:NY.AN ID:7+7DveWG
何回論破されても小牧長久手を秀吉勝利に歪曲するアンチ徳川アホ堀信者の糞秀吉厨死ね
43人間七七四年:2013/08/11(日) NY:AN:NY.AN ID:zrGGdL5s
フロイスの捏造
>> 根来衆は秀吉に対して幾つか無礼を働き、ある陰謀をたくらんでいた
明らかに秀吉サイドの目線で、根来衆からいえば明らかに秀吉が自分らを迫害
>>秀吉は伊勢に入ると敵の諸城を包囲し始め、幾ばくかの苦労をしたが、武力をもってそれらを次々と陥落せしめ
実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
>>敵方は長島と称する一城を残し国を挙げて彼に引き渡してしまった
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
>>秀吉の軍勢は同所(伊賀)から異常な迅速さをもって尾張に進撃し、犬山城はたちまち降伏
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)
>>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる
44人間七七四年:2013/08/11(日) NY:AN:NY.AN ID:zrGGdL5s
>>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる
>>三河の国主は夜に入ってからその新しい小牧城を出、天明を待って羽柴の甥の陣地を襲撃した。
明け方に行われたのは秀吉方先遣隊と池田勢との間で行われた岩崎城の戦いであって、家康が秀次の陣地を襲撃し合戦になったのはそれより大分後の
巳〜午の刻。
>> 三河の国主はこの勝利を博すると小牧城に戻った。すると羽柴(秀吉)はただちに2万の兵をもって同城を包囲するように命じた
そんな事全くやっておらず、小牧方面から目をそらして、大河に挟まれた進退の自由の利かない木曽川筋のデルタ地帯に家康・信雄を誘いだして
殲滅しようと岐阜城の秀勝につけた田中・伊藤・谷・石川・藤県に対し、岐阜から木曽川筋を長島に向かい12キロほど南下した所にある大浦城
への加勢を命じている(4/11秀吉→伊藤・田中・谷・石川)また、木造攻撃中の小島・榊原・田丸らに加勢する目的で津田・富田・八重羽らを派遣して
(4/12秀吉→津田・富田・八重羽)明らかに小牧方面への進出を諦め、伊勢や尾張北西部に戦局を転換しようとしている
>>こうした戦闘がすでに終わった頃になって、越前加賀能登から三万近い軍勢が羽柴を助けるために到着したが、秀吉はもはやそれだけの
>>大援軍は必要なしと認め、ただちに引き返させた。
>>羽柴がこのたびの戦いのために大阪を出発した後、根来及び雑賀と称する仏僧らは、彼の不在に乗じ、約1万五千名が一団となって出撃し羽柴が大阪に築いた新しい都市を
>>すべて焼き滅ぼしてしまおうと決意した。大阪を占拠した上はかつて信長が五年も六年も攻囲したかの石山本願寺の僧(顕如)を再びそこに
>>おらしめる事にした。敵(僧兵)は徐徐に前進し途中幾つかの場所を破壊したり焼いて行ったので、四日ないし五日かかった。
45人間七七四年:2013/08/11(日) NY:AN:NY.AN ID:7+7DveWG
長久手では135000の大軍でわずか16000〜7000の織田家で最も無能なアホ信雄相手に短期決戦で大敗して1万人ぶち殺され
その後の攻防も蟹江・前田・下市場・長久保・浜田などは秀吉方陣地から程近くなのに信雄方に奪回され
二重掘・戸木・松ノ木・東駒野・河波などでも秀吉方はガチンコで城攻めしまくってたが、結局陥落できないどころか、負けを重ねてるのが下記史料でわかるし
尾張でも伊勢でも美濃でも会戦当初から信雄領国では寝返りの連続で崩壊状態、家康も天正11年頃から出してた徳政の影響などで夏の対陣の頃には兵の半分を返し総勢8000ほどしかいなかったにも
かかわらず秀吉方は自力では尾張半国すら切り取れず、秋になって本願寺顕如に取り成しを必死に懇願して、信雄領国で苅田や放火など示威行為してたらたまたま信雄がヘタレ和議にのってくれて助かっただけなのが秀吉
(秀吉は和議の時やその直前期にも諦めて大阪に納馬予定だったのが、信雄が和議を申し入れてきたとかいてて、明らかに示威行動と顕如への取り成し懇願が実ってやっとこさ和睦までこぎつけてるのがわかる)
実際秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
徳川方は8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯の小城2箇所くらいしか放棄してない
しかも小牧山周辺の砦には秀吉方の留守居部隊2万以上いて、徳川方が動けば小牧山の陥落は必至で動けなかっただけだし、
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で罠を張ってた
から後詰なんて自殺しにいくようなもんで、そんな所危険すぎていかなかっただけ。
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし状況も兵力比も大阪の陣とは違い過ぎる
46人間七七四年:2013/08/11(日) NY:AN:NY.AN ID:7+7DveWG
尾張松ノ木・脇田近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切りが多く発生したわけではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉

>>家康は局地戦ではいくつか戦術的勝利 秀吉軍に尾張の加賀野井城、奥城、竹ヶ鼻城を落とされても
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
>>伊賀、伊勢は連戦連敗でほとんど占領されてしまい
伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。
神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
>>信雄は伊賀と伊勢の半国を割譲して秀吉の主人という立場から臣下
伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって
がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。
>>戦略目標は達成
秀吉の戦略は一巻して家康打倒なので戦略目的は全く達成されてない
あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる
天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり)
47人間七七四年:2013/08/12(月) NY:AN:NY.AN ID:jGwqMzWd
相変わらず病的アスペだな朝鮮信長半島人は。
48人間七七四年:2013/08/13(火) NY:AN:NY.AN ID:g+6JqIBN
【織田信長が戦って滅ぼした主な相手】

斎藤龍興          →美濃60万石
朝倉義景          →越前60万石
三好義継          →阿波讃岐摂津に約50万石
北畠具教(お家完全に乗っ取り)→南伊勢40万石
六角義賢(+浅井長政)    →足して近江ほぼ全域60万石
武田勝頼          →甲斐全部と信濃上野駿河一部、約90万石
波多野秀治         →丹波およそ8割? 約24万石

【武田信玄が戦って滅ぼした主な相手】

諏訪頼重          
高遠頼継
村上義清
大井貞隆
小笠原長時
笠原清繁        →  全て足して約40万石
今川氏真        →  遠江一部、駿河で約40万石、しかも追い詰めたのは家康w

レベルが違いすぎるな
49人間七七四年:2013/08/13(火) NY:AN:NY.AN ID:MO+tHtzS
.
「織田信長の比叡山焼き討ち」についてですが、
それほど大規模なものではなかった、という説がありますね?

大規模な焼き討ちの遺構が発見されなかったとか、
当時 山上には殿舎があまり残ってはいなかったとか

やや興ざめしてしまうようなことなのですが、どんなものでしょう?

信長公記や
当時の公家の日記には、大変に大規模なものであったように書かれておりますが、
あれらは すべて 揃いも揃って ウソを書いたということなのでしょうか?
特に、信長公記の記述が誇大気味ですね?
ウソを書く理由とは?
50人間七七四年:2013/08/13(火) NY:AN:NY.AN ID:cBsTiumP
>>49
お前マルチポスト禁止だぞ。
日本史板とかにも貼ってるだろ・・・・
51人間七七四年:2013/08/13(火) NY:AN:NY.AN ID:6bAMVrB2
ローマ史で王となろうとしたシーザーを信頼厚いブルータスが暗殺し、大揉めの結果、オクタビアヌスで長いローマ帝国となった。一方、偉大な信長が官房長官の明智光秀に闇討ちされ、王座戦の結果、家康で長い徳川幕府となった。似てないかね。
52人間七七四年:2013/08/14(水) NY:AN:NY.AN ID:SSGwoMvO
アンチ織田の人がよく引用して書いてるけど、池上裕子氏ってそんなにいいの?
自分だってすべてに目を通したわけじゃないけど
ロクな著書が無いんじゃないかと思っているんだが。

私自身は黒田氏の飢饉対策説派であるため信長の貨幣経済政策の是非はあまり興味ないが、
「日本の歴史 15織豊政権と江戸幕府」とか 信長の貨幣政策のとことか余りな内容に絶句した覚えがある。

良書としてはどんなのがあります?
53人間七七四年:2013/08/18(日) NY:AN:NY.AN ID:axtuQzDw
>>52
信長公記の盲目信長マンセーが根幹にある信長英雄論に毒されている本ばかりの中で
初めて、そこから一歩踏み出して、中立性を意識し始めた良書。
これは観光行政史学たる岐阜から援助を受けずに書いてるからか?
54人間七七四年:2013/08/18(日) NY:AN:NY.AN ID:0NrjNKxN
ID:axtuQzDw=アスペルガーだが
戦国板で超有名な嘘吐き荒らしなのでスルー奨励

今日一日の荒らしレス一覧で確認してください
ttp://hissi.org/read.php/sengoku/20130818/YXh0dVF6RHc.html
55人間七七四年:2013/08/24(土) NY:AN:NY.AN ID:4M8tT5Cn
最近池上裕子が書いた話題の『織田信長』吉川弘文館・人物叢書、2012年っていう本どうですか?
56人間七七四年:2013/08/24(土) NY:AN:NY.AN ID:LAT4J9qL
>>55
信長の野望が大好きで信長盲目マンセーで信長公記を聖書と思っている馬鹿には評判が悪いね。
しかし内容は中立的視点で書かれているから、もっとちゃんと信長について知りたいと思うなら価値があるね。
57人間七七四年:2013/08/25(日) NY:AN:NY.AN ID:N96icnsF
>>56
信長を貶める内容ではなくて中立なんですか?
58人間七七四年:2013/08/26(月) NY:AN:NY.AN ID:VBGC29rJ
歴史好きなら、いくら好きな武将がいても中立が基本だろうなぁ。
そういう意味では良いのかも。
59人間七七四年:2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN ID:a0MWfe+D
>>55
左翼偏向学者が反・信長の視点から書いたトンデモ本。
60人間七七四年:2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN ID:/7spa9Ky
>>59
お前本当は左翼イデオロギーとか全く知らんだろwww
61人間七七四年:2013/08/29(木) NY:AN:NY.AN ID:/er+1p6d
偉大な信長を批判するやつはみんな基地外左翼ニダ!左翼ニダ!左翼ニダ!
あい変わらずレッテルを貼って人格攻撃しかできないアホっぷりワロス
62人間七七四年:2013/08/30(金) NY:AN:NY.AN ID:SyUaVhIQ
人格攻撃は自分の浅さを披露しているもんだからね。
信長が偉大かどうかは判断できないが、時の人としては凄かったのは確かだと
思う。
63人間七七四年:2013/08/30(金) NY:AN:NY.AN ID:SvCpssgt
信長は超絶ブラック経営者で残虐強欲アスペ暴君として凄かったな。確かに。
64人間七七四年:2013/08/30(金) NY:AN:NY.AN ID:zSE9PRwc
織田家って結局、
人殺し大好きなやつ集まれ〜ってだけの犯罪者集団だから。
65人間七七四年:2013/08/30(金) NY:AN:NY.AN ID:Hrgn5XJl
大虐殺とか殺し方が残虐だとか
織田のやり方って中国大陸のやり方だから違和感あるよな。
もうイナゴの大群を殺しているくらいの感覚で罪のない女子供まで殺して回ってるし。
こんな感覚は日本人にはない。
66人間七七四年:2013/08/30(金) NY:AN:NY.AN ID:r0P9XOlz
その中国様が信長叩きに精出してるっていうね。日本人同士の分断謀ってるのかも知れんけど。
ようく見るとオモロいよ。
中国が日本を叩くフレーズと、世間に出回ってる信長叩きのフレーズがそっくりっていう。
彼らは言葉のレパートリー少ないし、自分がやってること他人もやってるって思い込むしね。
67人間七七四年:2013/08/30(金) NY:AN:NY.AN ID:Hrgn5XJl
>>66
妄想がすごい気持ち悪いけど付き合ってやるから
>>中国が日本を叩くフレーズと、世間に出回ってる信長叩きのフレーズがそっくりっていう
上記のフレーズとやらを試しに5個くらい箇条書きにして提出してくれ。
68人間七七四年:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN ID:bOB3siMf
>>59
政治オタクは必要なし
69人間七七四年:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN ID:BE9pmK9J
>>68
事情を知らない馬鹿は帰んな。
70人間七七四年:2013/09/01(日) 10:48:31.06 ID:xjlYxtR/
信長マンセーの信長の解説本教えてください
71人間七七四年:2013/09/01(日) NY:AN:NY.AN ID:9MP+Evsp
>>70
この人が出すらしいよ

582 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/08/14(水) NY:AN:NY.AN ID:6h4kLb54
それで俺は近々『信長公記の嘘』という本を出す事にした
本が出たら是非読んでくれ
72人間七七四年:2013/09/03(火) 17:38:04.55 ID:IaXf8wpo
皆さん伊藤宗十郎っていう人知ってますか?
73人間七七四年:2013/09/06(金) 16:11:25.85 ID:0I0DS03P
>>66
妄想がすごい気持ち悪いけど付き合ってやるから
>>中国が日本を叩くフレーズと、世間に出回ってる信長叩きのフレーズがそっくりっていう
上記のフレーズとやらを試しに5個くらい箇条書きにして提出してくれ。

まだ回答がきてないけど、どうしたの織田厨さん!都合が悪くて逃亡ですか?
74人間七七四年:2013/09/11(水) 05:51:20.39 ID:mG66WCzO
信長本の良書教えてくださいよ。
お願いしますよ。
75人間七七四年:2013/09/11(水) 10:31:18.55 ID:HDPt9YGB
>>74
だから池上氏の本が中立性があって良書だって言ってるじゃん。
他の本なんて買う必要ない。なんせ信長公記の内容と大して変わらない内容なんだから。
76人間七七四年:2013/09/11(水) 12:30:29.16 ID:sTgS+Qjm
じゃあ信長贔屓の信長本も教えてください
77人間七七四年:2013/09/11(水) 13:14:54.72 ID:HDPt9YGB
>>76
信長革命 「安土幕府」の衝撃 とかじゃね。
まぁ普通に信長公記でいいと思うが。主君信長をマンセーするために書かれたもんだから。
78人間七七四年:2013/09/11(水) NY:AN:NY.AN ID:p/ssjx4P
学者から批判が相次ぎ池上自身も「異端書」と認める著書が中立性がある良書らしい・・・・


http://ameblo.jp/heiwabokenosanbutsu/entry-11581693059.html
信長の全国統一の評価はおかしい」池上裕子成蹊大名誉教授 2013/07/28(東京新聞)


記者:あの著書への学界からの反応は。

池上:やはり「もっと信長を評価すべきだ」という意見が多くありましたね。教科書を書くような人、歴史学界の権威者からは「信長は統一政権として評価すべきだ」と。
   でも若い人は「割といいんじゃない」と言ってくれてる。歴史学者って案外、権力者が好きなんです。統一政権を打ち立てたことを評価する。
   戦国時代は乱れた時代で、統一が正しいように言う。戦国の世は確かに戦争が頻発し、安定しなかった。でも統一を実現する軍事力を持つ権力者こそが素晴らしい、という評価はおかしい。
79人間七七四年:2013/09/11(水) 17:44:22.71 ID:HDPt9YGB
そりゃあ信長公記マンセーで執筆してきたアホ学者にとっては都合が悪いだろw
なんせロクに勉強しなくても、信長公記のネタにテキトーに革命児とか
信長賛美の肉付けしてやりゃ
アホな消費者が購入してくれるんだから。
誰でもあんなもん書けるわな。
もうね、学者じゃなくて小説家レベルが参加できる市場だからw
80人間七七四年:2013/09/11(水) 17:48:41.26 ID:p/ssjx4P
だがチョンは中立性の意味をわかっていなかったらしい

http://dictionary.goo.ne.jp/srch/all/%E4%B8%AD%E7%AB%8B%E6%80%A7/m0u/
1 対立するどちらの側にも味方しないこと。また、特定の思想や立場をとらず中間に立つこと。


本当に中立性があるなら批判なんて来ないはずなんだがなぁ・・・・w
81人間七七四年:2013/09/11(水) 23:05:39.51 ID:KN/Ka1R1
池上の書はすごく良い本じゃん。
天才信長万歳じゃないと気に入らないとかどんだけ低脳なんだよ…
82人間七七四年:2013/09/11(水) 23:19:16.99 ID:7psBagWC
低能っつか、池上センセがあまりにも知らずに書いてるからオイオイなんじゃね。

この先生、信長はかなりな専門外。
たとえば神田千里氏なんかにオファーしてたら全然違う本になってた。
神田氏は池上センセが大好きな敗者の立場もちゃんと解説してる。
要するに信長の戦争って脱税者vs税の徴収者だよ。税を受け取る側(寺社や公家)なんかは信長GJだったわけだ。
池上センセこの辺すっ飛ばしてるでしょ。
83人間七七四年:2013/09/11(水) 23:34:20.57 ID:KN/Ka1R1
>>82
お前が買わずに文句付けてるのがハッキリわかったわ。
84人間七七四年:2013/09/12(木) 00:55:53.14 ID:VcrIRe3j
>>77
その本の他にも信長贔屓の本何冊か教えてください
85人間七七四年:2013/09/12(木) 01:09:37.99 ID:FgYrz0eT
織田厨はゲーム脳だから、
コーエーの信長マンセーを盲信して異論は拒絶排除するだけ。
だから知識が昭和のままで脳が縮小退化してる。
86人間七七四年:2013/09/12(木) 06:58:31.25 ID:BlsMSw0B
学者から批判が相次いでいる著書を中立性があると大見得切られても


ついでに付け加えておくと池上は「信長には統一政権たる政治ビジョンがなかった」とは書いているが
「統一政権を実現させる力は有していた」と書くなど、信長の軍事手腕は大いに認めている。
池上は信長を統一政権と評価しない点について「ただ自らの武力や軍事力を背景に領土を攻め取りまくっただけで、
秀吉や家康のような統一後の政治構想がなかった」と言う意見を自著で語っており
信長を大いなる野心家と捉えあくまで強力な戦国大名としての枠に留まるとしている。


つまりだがチョンの主張は池上の説にすら則っていない妄想の産物
87人間七七四年:2013/09/12(木) 08:18:21.80 ID:iPXOBguL
>>85
まだそんな事をいっているとは、なんか可哀そうだな。
ちなみにノブヤボは信玄や謙信の方がはるかにマンセーされてる。
88人間七七四年:2013/09/12(木) 08:48:24.18 ID:60V5v2W7
えっ?いつから信長の野望ってタイトルをやめたの?
信長主役廃止www
89人間七七四年:2013/09/12(木) 10:01:15.12 ID:PM4a24St
そんなん昔からだ
初代なんていきなりクライマックスの織田に対して信玄はそうでもないという
武将とか出てきてから武田のステータスは最初から凄いしな
90人間七七四年:2013/09/12(木) 11:56:49.29 ID:rE7IfGhM
じゃあ織田厨の野望とか言うタイトルでいいだろ。
滝川とか丹羽とか川尻とか佐々とか森とか柴田とか池田とか雑魚武将まで、
アホみたいに数値高いイージースタートっぷりなんだし。
91人間七七四年:2013/09/12(木) 13:00:16.62 ID:BlsMSw0B
歴ゲー板で住民に追放された結果
戦国板で信長の野望について当り散らすだがチョン・・・
92人間七七四年:2013/09/12(木) 16:57:01.01 ID:7m9rovKT
>>86
そこは信長の軍事的才能を評価していたフロイスや前田利常と同じだね
一番難しいとされる撤退戦を信長自身が殿になって何度か成功させているし
まあ大将自らが殿になるとか異常ではあるが
93人間七七四年:2013/09/12(木) 17:04:05.64 ID:rE7IfGhM
織田厨が完全に妄想の世界に逃げ込んだなw
94人間七七四年:2013/09/12(木) 23:03:39.86 ID:ECt3KFlK
武田信玄、大敗
95人間七七四年:2013/09/13(金) 00:41:42.08 ID:XTBVE7aJ
※織田厨は事実と願望妄想の区別がつきません。
96人間七七四年:2013/09/13(金) 10:39:40.53 ID:pxdIKjks
だがの釣られやすさは異常w
97人間七七四年:2013/09/19(木) 21:20:00.07 ID:2ARrrCVu
信長戦国歴史検定

http://www.kentei-uketsuke.com/nobunaga/
98人間七七四年:2013/09/19(木) 21:55:35.08 ID:SgHOEigp
>>92
>>一番難しいとされる撤退戦を信長自身が殿になって何度か成功させているし
>>まあ大将自らが殿になるとか異常ではあるが

釣りだろうけどそんな合戦ないだろ
99人間七七四年:2013/09/20(金) 00:53:10.14 ID:dcIXdI0d
素人さんですか?
100人間七七四年:2013/09/20(金) 08:20:03.73 ID:XOasu/gO
素人さんなんでしょ。
101人間七七四年:2013/09/20(金) 12:15:58.99 ID:KKx/huCV
そんで具体的にどこの戦いのことだ?
ソースつきで詳しく頼むわw
102人間七七四年:2013/09/20(金) 15:38:05.21 ID:rtPx0OFO
だーがだーがだがアスペの子♪
103人間七七四年:2013/10/21(月) 07:21:14.21 ID:nmXYC4+R
二ヶ月くらい前CSで中村錦之助主演の「紅顔の若武者織田信長」って白黒の映画見た。
まあまあおもしろかった。
104人間七七四年:2013/10/31(木) 11:32:00.73 ID:kKGTvSxS
信長を超英雄扱いしている本を教えてください
105人間七七四年:2013/11/02(土) 00:57:59.59 ID:ZgOYfQw9
織田信長のうつけは平手政秀が演じさせていたっていうのは本当なんですか?
106人間七七四年:2013/11/02(土) 11:37:00.15 ID:Xg4EEtHn
信長後見役の平手政秀が自害
同じく後見役の林が信長を見限るあたり
信長の人格が鬱気で激昂し易く、
他人が意見することを異常に嫌い
すぐ人を斬るキチガイに家臣団が呆れ果ててていたのがわかります。
反社会チンピラ虐殺キチガイ団の信長側近衆の同性愛母衣衆とともに
すべてのものたちにケンカを売ってまわって、略奪虐殺恐喝をしてまわっただけ。
最後は厨二病をこじらせて、カルト宗教のご本尊を自称し始め自滅しました。
107人間七七四年:2013/11/02(土) 16:04:14.38 ID:8mUkw5U3
>>104
太田牛一著 中川太古訳『信長公記』
108人間七七四年:2013/11/03(日) 02:36:30.72 ID:Vadg18v2
>>107
それじゃなくて現代の人が書いた本のことですよ
109人間七七四年:2013/11/03(日) 11:34:35.08 ID:UEU9gzhW
>>105
演じさせていない。信長のうつけは生まれもってのものだ。
信長には人間性に欠けるものがあったのだ。よくいえば、天才と
称されるが、わるくいえばうつけだったのだ。
110人間七七四年:2013/11/04(月) 03:23:47.48 ID:0itsQ10G
>>109
平手政秀は信長のうつけが演技だとバレそうになったから自害してまで信長を諌めて周りを騙すことに完全成功したって何かの本に書いてあったよ
111人間七七四年:2013/11/04(月) 13:40:54.91 ID:PI/y/u01
>>108
じゃあねじゃあね、山岡荘八著『織田信長』 小説だけど
112人間七七四年:2013/11/05(火) 04:32:06.91 ID:eQ5tnxun
>>111
それも違うんだよな。
しかもそれ小説だし。
113人間七七四年:2013/11/06(水) 01:48:00.89 ID:LTgoI1oU
信長関連の本を読む時「歴史群像シリーズ20 激闘織田軍団 「天下布武」への新戦略」付録の地図は重宝している。
俺はいつもこの地図を前に立て掛けて地図も参照できるようにして信長関連の本を読んでる。
しかも「戦国尾張地図」と「本能寺の変時武将配置図」の両面だから信長が活躍した時期によって選んでどちらも参考にできる。
114人間七七四年:2013/11/06(水) 17:47:02.79 ID:IE5wfKRE
父祖に劣らず器量に勝りて一度は天下の乱をも相鎮めた人なりと
賞賛された長慶嫡男三好義興が22歳で死去したので長慶がボケ老人になったのが痛かったな。
この畠山高政と六角義賢の挟撃策に三好義興が芥川城で指揮して勝利したことで事実上、
畠山氏と六角氏が決定的に衰退することになり果て将軍を巡るシーソーゲームに終止符が打たれた。
そして三好は分裂崩壊し、大仏を燃やした天皇は激怒し疲弊しきった勢力群の外側にいる信長に上洛を促すことになる。
しかし北条は謙信や信玄らがなかなか死ななかった。これでは関東制覇も難しいだろう。
そういう意味では大内義隆や尼子晴久が死んだ元就もおいしい。
永禄3年に六角軍は北郡征伐に失敗し浅井長政に敗北。これをもって長政は家督を継ぎ六角からの再自立を達成(肥田・野良田の戦い)
六角は斉藤氏と共同しての浅井攻め戦略に移行。
翌年2月には逆に長政が美濃へ進攻する攻勢を示したが
3月に入るや背後から六角軍が進攻し佐和山城を落とされた(斉藤家の竹中重高への六角氏の感状あり)
しかし長政は反転し六角の退路を封鎖する動きを示すことで退却を誘い佐和山城の奪回に成功する。
またこの長期に渡る六角と斉藤との攻防の中で義龍が病死し美濃からの脅威は減少したこともあり、
畠山高政と六角義賢による三好長慶との京を巡る戦いが始まるや、長政は太尾城(米原市)を攻めるなど六角の背後を混乱させた。
このように浅井による北郡造反は畠山への援軍派兵の遅れを誘発し六角弱体化をさらに助長した。
そしてこの攻防は三好の勝利に終わり畠山の没落が確定し、
単体では三好にかなわない六角は三好と和睦を結び京を巡る戦いに終止符を打つ決断をすることになる。
三好政権に服従する義賢が騒動で家臣暗殺をして家中は一時的に統制されたかに見えたが、
義輝が暗殺されるや畠山や奉公衆や反義賢の六角家臣による義昭の近江脱出が図られ、
永禄9年4月になると義昭を左馬頭に任官させ、
一方、三好が働きかけている左馬頭義栄の将軍任命拒否を出させるなど朝廷工作を成功させた上で、
反義賢家臣や畠山や若狭武田や信長や徳川や北畠を率いて義昭が8月に上洛戦開始することになる。
しかし土壇場で信長が義昭が和睦斡旋した斎藤を奇襲する背反をした挙句に大敗し、
この上洛戦自体が崩壊し、三好の後援を受けている義賢の威勢が増し義昭は近江にいられなくなり朝倉を頼り逃げた。
そして信長の裏切りから脈なしと見た朝廷が三好が押す義栄を将軍にしてしまった。
このように義昭問題によりさらに混迷したものの、反義賢重臣たちは奉公衆と協力し、
織田と浅井の婚姻を成立させるなど上洛戦を成功させる手を打ち、
中央政界でも朝廷工作をして反三好+義賢+近衛の勢力と結託し、
ついに永禄10年に当主権限を制限する六角氏式目に同意せざるを得なくなるまで義賢らを追い詰められた。
これが可能になったのは再度、義昭上洛戦をする為であり、斎藤と義賢を凋落させることに成功。
これにより義昭は再度、近江に戻ってくる。
今回は奉公衆の他に大和衆や松永久秀も三好軍を引き付ける為に義昭上洛戦を前に挙兵させるなど辣腕を振るう。
しかしこの近江の反義賢勢力や浅井らを統合指揮して
高いレベルの朝廷工作もやってのけるだけの高い家格の持主が誰なのかわかんないんだよね。
京極は浅井の操り人形に過ぎず六角系家臣は操れないし(天文18年が京極氏奉公人奉書現存最古の発給)
信長公記から消された人物がいるのは間違いない。そもそも浅井氏が挙兵しての天文日記に書かれる
北郡錯乱・国錯乱は天文21年の六角定頼死去翌年であり、この時に浅井久政は六角軍に敗北し六角に従属したわけだが
このような大規模な近江国人を二分する近江国錯乱の理由として考えられるのは
六角義賢を六角氏相続には大きな大問題がはらんでいたのだろう。
六角義賢親子と朝廷との強いパイプを持つ近江の舊主(旧主)との対立・・・この六角分裂が義昭上洛と絡んでいくのである。
115人間七七四年:2013/11/06(水) 17:48:44.41 ID:IE5wfKRE
濃尾平野と伊勢湾経済圏を持つ信長がチート過ぎなのに義龍にボロ負け。義興にまでボロ負け。結局、義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が
斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけだしさっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし本願寺は信長に贈り物攻勢してる。
11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先)
信長上洛成功はお膳立てされてのこと。さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になるし。
しかも甲賀衆は義昭上洛戦に先立ち6/23には摂津表まで進出して三好三人衆と合戦までしてるし。
しかし9/7上洛戦開始するやいきなり信長は六角義治に大敗して岐阜に戻ってるから
援軍にきた三好三人衆側勢は京へ撤退してるし。(上洛開始前から松永は三好勢兵力をずっと引き付けて戦っていた)
9/14には再度、天皇から織田へ綸旨が届いて義昭上洛の激励をされ京の御警護まで任されてる。
結局、江州様勢力が義治傘下から後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里らを裏切らせて信長に内応させて箕作城を開城させて観音寺城の背後を遮させた為に
義治は敗走して上洛成功しただけ。 信長の戦下手は神レベルだよな。
昭を報じて上洛しようとした織田家は初戦で三好軍と戦い岐阜へ敗走した後
多聞院日記永禄11年9月19日京極、朽木、浅井らの使者が観音寺城に
出仕してきて屋形六角義賢に申し上げるには、すでに裏切った箕作の軍勢は一万二千になり、
その上和田山の建部源八兵衛、吉田出雲守等も寝返り義弼(義賢の弟)に味方した、
さらに勢州国司北畠氏が鈴鹿越えで近日当国に入ると伝え聞いており、
これ以上戦を引き延ばせば却って逆襲を招くので降伏してくださいと伝えた。
六角攻略で実は織田家は一切触れられてない衝撃の事実w

信長の上洛戦を支援するために三好義継が河内津田城と久秀がいる大和多聞城を行き来し指揮を執り、
それに呼応していた畠山軍は三好三人衆の経済的権力の源泉である堺で攻防戦を繰り返して三好三人衆を疲弊させていた。
その隙を見て美濃立政寺へ移動した義昭を追って、石成友通が近江へ入り六角承偵親子と戦準備しているのを阻止するため
信長の気がまた変らないうちに義継と久秀が東大寺戦線で一斉反撃に出た。東大寺戦線が崩壊すると京が占領されてしまうので
9/4には再度、石成が東大寺戦線に駆けつけてる。これで兵力不足を見た信長が9/7に上洛戦を開始。
しかし石成は電撃的に近江戦線へ駆けつけて織田軍を9/8に大破し、また東大寺へ戻ってる。
三好三人衆は当時、和泉戦線・摂津戦線・河内戦線・大和戦線・近江戦線で大和国人や将軍奉公衆などと戦っていた。
ほかにも松永久秀の弟の子で丹波守護代内藤如安や 長慶が叔母と離縁したことに激怒して反三好に転じていた波多野秀治
反三好の姿勢をずっと貫いていた丹波の赤鬼の荻野直正などが 三好三人衆と戦っていたから丹波戦線もあったよ。
ほぼ三好三人衆は義昭擁立勢力によって完全に反三好勢力に包囲されていたと言っていい。
だから信長の無能ぶりだけが顕著に現れた形だったのに、信長はぜんぶ俺の功績とばかりに得意がっていたチンピラ脳
ちなみに大和に三好軍が侵攻した際に 危機感をもった伊賀では反三好の伊賀惣国一揆が組織されていたし
若狭国は将軍領なので、当然に若狭武田氏も義昭支持にまわってたし
頼みの綱の石山本願寺まで信長上洛支援だったから 三好三人衆は各地で兵力不足に陥り完全に涙目だった。
116人間七七四年:2013/11/06(水) 18:27:08.58 ID:IE5wfKRE
尾張国は肥沃(地厚土肥)な大上国と記されており、
その富裕な農業生産力や畿内への地理的な近さを背景にして朝廷を支えていた
尾張は、昔から畿内覇権に関与してる。
継体天皇、大海人皇子は、尾張氏のバックアップが決定打とか言われてるし、
邪馬台国のライバル、狗奴国が尾張にあったという説まである。
尾張三河は頼朝、尊氏、家康を支えた重臣をたんまり輩出してるからな。
地力がある土地なんだよな。
岡崎城に隣接してる資料館では愛知県武士が鎌倉幕府も足利幕府も江戸幕府も作ったと書いてるよ。
易林本の節用集に尾張国は肥沃(地厚土肥)な大上国と書いてるのは事実だし
天正の大洪水のあった天正14年の尾張は確かに田畑が流されたりしているが、
それ以前の尾張は太閤検地で打ち出した石高よりもっと国力があったはず。
看羊録によると尾張国は地が厚く、土地が肥えていて
種を蒔くだけで放置してても1000倍を得ることができ
里の多さでも日本国でも抜群に優れており大上国であると
尾張国のチートぶりを超絶賛!
(ちなみに三河国は土の層が浅く一尺ばかりしかないので
五穀があまり熟さないので下下の小国と書いているので
信玄が三河占領に興味が無かった理由もわかる)
そもそも米による収入以外に商業による上りと税関収入がある。
信長の祖父の信貞が勢力を拡大させたのは木曽川と伊勢の通商路の津島社とその門前町と港を支配できたから。
そして信秀も熱田社とその門前町と港を支配し伊勢と知多半島に渡る商業圏を手に入れたから。
祖父や父によって二大商業圏を手に入れていたことで織田は抜きん出た国力を持つ強国を成立させていた。
それは朝廷への圧倒的献金額でもはっきりしている。
博多を押さえさらに中国との貿易をしていた大内ですらカスレベル。

また天正壬午の乱の時甲斐に入った家康が真っ先に甲斐の人々に約束したのは
勝頼の菩提寺の建立&恵林寺の再興
強豪である武田旧臣を味方につけたい願望とともに
完全に織田の悪政を完全否定してますね。
信長を否定し、武田を肯定することで
家康は翼が生えた獅子のように強くなった。
武田家の神格化しその擁護を表明したこと。これが天下統一の足掛かりとなった。
117人間七七四年:2013/11/06(水) 18:38:11.57 ID:IE5wfKRE
守護大名は家臣の専横と傀儡化した大名の権力といった腐りきった権力構造抱えてたからな
新興勢力は逆に子飼いの家臣や自分が好きで登用できるような連中一杯持てた時点で有利さが全然違う。
両上杉と北条、大内尼子と毛利なんかがいい例
厳密に言うと在京守護である武田信虎とかは 家臣の掌握なんてまったくできてなかったからね。
しかも在京生活費を甲斐から搾取してるだけだから恨みすら買ってた。同じ在京守護でも越後守護上杉房定などは在京を止めて越後へ帰国し
守護代長尾邦景・実景父子を攻め、邦景は自害させ守護権力を回復させ、息子の上杉顕定を関東管領にし事実上の関東王状態になってるからね。
守護でも現地に滞在してるタイプはまだマシ。 ではなぜ、守護が在京を止めたのかと言うと、これは室町幕府が全国支配を放棄したから。
幕府は公田段銭賦課方式を止めて、一国ごとに百貫を賦課する一国百貫賦課方式へ変更。
これは百貫さえ幕府に納めれば、あとはいらないから好きにしろというもので、
守護による一国支配の可能性を開いたものだった。そこで守護は在京を止めて
権益確保のために任国へ下向する者が現れていった。 そして実質的な支配をして税をネコババしていた守護代と国人の癒着の関係から現地対立が生まれていく。
上杉房定は速攻で守護代を排除して守護による支配を確立。在京守護やってたら尼子や武田がやりたい放題荒らし回って、在京打ち切りするハメになった大内義興。
三管領の一人として在京やってた斯波氏も畿内と任国との距離が遠かったので速攻で崩壊。
と言うか斯波氏は行政府自体を任国に作ってすらいなかった。尾張は織田、越前は朝倉、遠江は今川にやりたい放題され、
最後は今川氏親に斯波義達が捕虜にされ、事実上崩壊。斯波には公銭方や段銭方と言った任国の守護行政府が存在しなかった為、簡単に下克上が出来て国が盗めた。
国人たちが重視する家格の差もあって守護代が守護権力を凌ぐことが出来ず、守護代などが下克上に失敗敗北する長尾為景や斎藤道三や近江国人連合や長尾景春といった東国でよくあった、
いくら家格を上げようと必死になっても結局、権威で守護行政府を上回れず、下克上に失敗することによる困難に直面することが織田や朝倉には無かった。
言わば管領家の守護代が、家格をあげる努力をせずに割と簡単に主を傀儡に出来ることは特質だろう。
畿内近くに任国があるものでさえ、細川には三好、畠山には遊佐などいずれも家格上げ努力などしておらず明らかである。
118人間七七四年:2013/11/06(水) 18:46:50.87 ID:IE5wfKRE
また天正壬午の乱の時甲斐に入った家康が真っ先に甲斐の人々に約束したのは
勝頼の菩提寺の建立&恵林寺の再興
強豪である武田旧臣を味方につけたい願望とともに
完全に織田の悪政を完全否定してますね。
信長を否定し、武田を肯定することで
家康は翼が生えた獅子のように強くなった。
武田家の神格化しその擁護を表明したこと。これが天下統一の足掛かりとなった。
武田家臣団が有能だったから徳川家に併合されたからだろ。
織田なんて徳川から羨ましいとも思われず吸収されんどころか、
家光が祖父は浅井長政とか言っちゃうレベルだからなw
井伊の赤備えこそが、徳川の先陣と神君家康公より許されておる!
例え親藩の水戸徳川家であろうと出過ぎた真似は許しませんぞ!
真田の赤備えと井伊の赤備え どれも武田の魂だわな。

信玄が育てあげた武田家臣団は徳川幕府を支える人材として重宝された。
家康が最も可愛がった武田信吉 武田万千代丸
常陸国水戸25万石に封ぜられ、旧穴山家臣を中心とする武田遺臣を付けられて武田氏を再興した。
慶長8年(1603年)9月11日、生来病弱であったらしく、わずか21歳で死去した。
徳川の先陣役譜代筆頭家 実は家康の隠し子? 大政参与 井伊直孝
1603年慶長8年頃? 井伊谷以来の井伊家の家臣は直勝に、武田氏の遺臣などは彦根藩の直孝に配属された
大久保長安 慶長18年(1613年)4月25日、卒中のために死去
武田信正 元和元年(1615年)に伊豆大島に配流され、同島の野増に居を構える。
今信玄と呼ばれ警戒された駿河大納言 徳川忠長
元和2年(1616年)甲府23万8000石を拝領し、甲府藩主となる。
のち信濃の小諸藩も併合されて領地に加えられた。藩主就任に際し、
朝倉宣正や郡内地方を治めていた鳥居成次ら附家老を中心とした家臣団が編成され、
のちに武田遺臣や大久保長安配下の代官衆らがこれに加えられた。
寛永元年(1624年)7月には駿河国と遠江国の一部(掛川藩領)を加増され、駿遠甲の計55万石を領有した。
119人間七七四年:2013/11/06(水) 18:48:56.00 ID:IE5wfKRE
外園豊基氏が資料に残る東国の災害をまとめているけど それによると1454〜1590までに起きた災害数は
陸奥 197 甲斐 171
武蔵 64
相模 47
上野 42
常陸 38 越後 32 下総 17 出羽 13 伊豆 12 関東 9 下野 6 上総 1
広大+北国の陸奥はともかく甲斐がヤバすぎる
あの信玄も水害対策には苦心した 北条は治水対策まったくやってませんね。
その数字を見ると いかに北条が治水や灌漑をやってこなかったかよくわかるな。
逆に山国の甲斐での信玄の苦悩が信玄堤などの発明になり
江戸幕府でも氾濫防止の治水対策で武田の土木技術を導入したんだな。
明治維新後も改良され続けた武田流技術はフランスの技術導入と並んで引き続き使用されてるし。
武田と違い江戸幕府で採用されたような北条技術がまったくないのは そもそも存在しなかったからだろ。
それに300年かかったと言うのは新田開発目的の大規模土砂埋め立てと
船舶流通大動脈計画としての大規模開削の実行による利根川の付け替えによる水路変更東遷事業であり
しかも幕閣における政治闘争に利用され主導者が失脚し頓挫を繰り返したからだし。
関東郡代伊奈家
武田信玄流の治水技術を修得し、江戸時代初期の治水技術を指して後世、
伊奈流または関東流と称することになった。この治水技術の考え方は、自然の力に逆らわず、
溢れるものは溢れさせ、上手に自然の力を利用して洪水に対処しようとするもので、
堤防を連続させず所々に切れ目を入れて洪水を一時遊水させる霞堤などを作り、
その遊水した水を普段の時は溜井(沼)として利用し、
水田などへの水の水源にするといった治水上「柔」に対応する手法であった。
民政内政無視の織田はもちろん治水感慨なんてまったくやってないので、後世に残るものはまったくなしwww
120人間七七四年:2013/11/06(水) 18:52:52.68 ID:IE5wfKRE
子孫を誇るなら完全に後継がはっきりし、 従三位武田家十六世当主武田邦信は
代表取締役兼国連UNHCR協会の役員で山梨観光大使に正式任命されてる武田家の方が明らかに勝ち組じゃねぇかよ。
米沢藩上杉家の16代当主上杉邦憲は宇宙航空研究開発機構宇宙科学研究本部教授だし。
現在の織田の後継って誰だよ?まったくきまってない曖昧なままじゃん。あぁ?完全に負け組じゃんよw
織田家も現在で繋がっているのは女系のみだな。男系は明治維新まで直系で繋がっているが
それ以降は相馬家の人間が継いでいる。女系を経て繋がっているのは有楽系の傍流

公称で3万石となってた熊本藩の分枝の宇土陣屋の細川行芬の三男を迎えて
1836年に丹波柏原藩第8代の織田信敬www 細川本家じゃなくて貧乏陣屋同士www
柏原藩の重臣は織田家の血を引く鶴姫に再度婿養子を迎えることを考えてたが、鶴姫に拒絶されてるしwww
やむなくまた養子に迎えた黒田長元の四男の織田信民は福岡藩の分枝の公称5万石の秋月陣屋からの養子www
織田信雄系直系子孫からしてこんなぼろぼろの家系じゃん。

ただの茶道の先生の長功って柳本陣屋1万石の末裔だろ。
そもそも有楽の家系を信雄の家系が乗っ取った下克上事件だし誇れるもんじゃないだろ…
ただの茶道のおっさんだから、有楽流の後継である長益の茶説もまとめた貞置流すら名乗れないんだろ。

現代に織田なんて嫡孫家すらいないのが事実。 いるのは、ただの親族家だけ。 だから織田に〜代目当主なんて存在はいない。
上杉も武田もいまも領民に慕われてるけど 織田って愛知県民からまったく慕われてないよな。
天童市ともケンカ別れしてるしな。 天童の相続も織田家ではなく、相馬・・・・ 相馬秀胤が朝日新聞に入社して
織田小星となって日刊アサヒグラフで4コマ漫画の正チャンの冒険の原作者になった人だよな。これ有名。
ちなみに相馬秀胤の父は東京府癲狂院に入れられ家督を乗っ取られた疑惑が生まれた相馬事件で有名な人
上杉や武田や伊達同様に相馬も地元で慕われてるしな。 相馬市名誉市民相馬家32代当主相馬恵胤(日本馬主協会連合会第8代会長)
ttp://www.city.soma.fukushima.jp/profil/meiyo.html
121人間七七四年:2013/11/06(水) 21:38:41.33 ID:DdISsi7Q
相馬に乗っ取られた織田…
122人間七七四年:2013/11/07(木) 05:13:03.97 ID:jKFxktbi
信長の人柄や政策を解説した本ではなくて、信長の生涯を解説した中・上級者向けの本を教えてください
123人間七七四年:2013/11/07(木) 15:23:02.32 ID:8E9KXHzL
中・上級者は解説本ではなく史料を読むんですよ菅沼君
124人間七七四年:2013/11/07(木) 15:27:15.85 ID:gANaUTeB
一段が500文というのは荘園の基準貫高であり 北条も今川も一段が500文だったので
遠江?関東に渡って共通した荘園の統一基準。 しかし武田が駿河を領有すると荘園システムの再編成を開始。
一段を田畑の内容の吟味を通じて 500文・400文・300文の三等級にすることで
税負担を軽減した。これはその後、徳川に引き継がれていく。

また武田が統治政策として一斉に発給する公文書と言う形式も七か条の定書などの例を見れば徳川が継承しているのがわかる。
武田の統治ノウハウが徳川の地方支配として継承されている点からも 武田家臣団&給人の優秀性が見て取れる。
125人間七七四年:2013/11/08(金) 04:55:43.02 ID:YuXrXlMi
>>123
私は史料ではなくて解説本が読みたいんです。
中・上級者向けの信長の生涯の解説本ってないような気がする。
初心者向けならたくさんあるんだけどね。
126人間七七四年:2013/11/08(金) 08:59:04.55 ID:4L85E406
そんなもんないよ。
だってベースが信長マンセーじゃないと売れないから、
需要と供給から信長マンセーな内容になるからね。
偏って中立性が全くない。
自分が仕えたのは救世主みたいな思考で書かれた信長公記から抜粋が多いのでマイナス評価にはなるが、
池上裕子の本がそれでも多少マシなくらい。
結局、織田厨が拒絶反応を示す書籍ほど良い内容だと考えてよい。
織田厨は厨房であって史学好きの真の信長好きじゃないから。
127人間七七四年:2013/11/09(土) 09:22:21.38 ID:r+Ssiv08
徳川幕府は北条の制を真似たとか、
あれ完全に捏造だよな。
調べてもそんなもん具体的には一切出てこない。
128人間七七四年:2013/11/11(月) 01:05:20.40 ID:dOHM3d+H
足利にかなり原型があるようには思う。
もちろんそれをちょ〜拡大スペシャルにしてるから
比較はできないけど、秀吉がやりきれなかった
具体的な職制を法度でうまく規定したと思うなぁ。
しかも短期間に基礎を作って260年ほぼそれが
機能するからたいしたもんだわ。
129人間七七四年:2013/11/18(月) 22:12:33.47 ID:EIyH2GSF
信長についての考察なんかどうでもいいから事実だけ書いてある本を教えてください。
但し信長公記除く。
130人間七七四年:2013/11/19(火) 14:12:01.78 ID:Oi313c/+
信長の野望 創造

織田信長  統率:99 武勇:87 知略:94
羽柴秀吉  統率:94 武勇:78 知略:97
滝川一益  統率:86 武勇:78 知略:89
前田利家  統率:80 武勇:84 知略:71
羽柴秀長  統率:76 武勇:64 知略:84
佐々成政  統率:75 武勇:80 知略:59
蜂須賀正勝 統率:71 武勇:78 知略:85
前田利太  統率:67 武勇:83 知略:63
滝川益重  統率:65 武勇:72 知略:39
131人間七七四年:2013/11/19(火) 20:04:30.29 ID:e9rXCucq
信長の7回忌をしたのは細川忠興たった1人しかいなかったほど、
信長は人望無く嫌われていたのはなぜですか?
忠興は初陣の時に信長が自筆書状を出しているのに感動していた程度で、
ここまで感謝する辺り、忠興はまれにみる義理堅さですね。
132人間七七四年:2013/11/20(水) 01:14:18.05 ID:SIGUbSpI
そんなに嫌われてたのか
133人間七七四年:2013/11/20(水) 13:49:20.03 ID:1t+gigaq
>>131
忠興は50回忌?もやったらしいしね。
忠興に限らず細川家は何百年も信長の像をしっかり保管するほど親ノブ。
おそらく忠興パパが義昭にいじめられちゃってたのを信長が助けたってのも大きいんじゃ?

あと7回忌に関しては、近衛前久卿も忘れちゃならん。
134人間七七四年:2013/11/20(水) 16:47:02.23 ID:WnyHmsPx
近衛は追悼歌を作っただけで何もやっとらんだろ。
むしろ信長謀殺を主導した後ろめたさから祟らないように歌を作ったとしか思えん。
そもそも南無阿弥陀仏・・・とか言って攻めてくる一向宗を嫌って虐殺し、
和歌外交すらできないほど文才がなかった信長へ
書き出しだけを読むとなむあみだぶつと読める歌を贈るとか最大の嫌がらせのようにも思える。
そもそも近衛は本能寺の変において信孝から非據の罪状で逮捕命令が出て逃亡した男だからな。
観修寺や吉田兼見の嫌疑の件は秀吉が口利きして信孝の追求をもみ消しに成功してるが、
近衛だけは弁解できずに家康の元へ逃亡してるし。
結局、近衛だけは本能寺の下手人の疑いは一切晴れないまま、信孝が死に時が過ぎて曖昧なまま忘れ去られてるし。
135人間七七四年:2013/11/21(木) 05:18:30.77 ID:QTyzX3Vf
>>125
中・上級者は自分で解説できるので解説本など必要ありません
136人間七七四年:2013/11/21(木) 13:21:23.76 ID:UimDDhod
信長の百日供養からして、
やったのは秀吉と市だけだからなー。
葬儀は誰もやらなかったから秀吉が朝廷から供養のために故信長の従一位昇格を引き出してから秀吉だけがやったが誰も出席しなかったから無駄になった。
137人間七七四年:2013/11/21(木) 16:32:46.87 ID:s17UwsEC
秀吉は信長の後妻の小倉氏の娘の鍋の生活を援助していたりと
亡くなった主君の妻も保護している家臣の鏡のような働きをしているのは褒めてもいい。
138人間七七四年:2013/11/21(木) 17:18:13.92 ID:h4IVIeti
>>137 秀ぴょんエラい
>>136 フロイスが、信長が死んで日本国中大混乱、別世界出現とか書いてるから、多くの人が頭の中フリーズだったんじゃない?

>>134
近衛は信長の七回忌に何人かの人と追悼の連歌会開いたんだから、広い意味で七回忌でいいんでないの?
それに近衛が追善に阿弥陀絡めたのは厭味でもなんでもない。

まず阿弥陀信者は必ず信長の敵だったとは言えない。むしろ味方して戦ったグループもいた(一向宗の脱税癖に怒った人たちとか)。
あと、山科言経が信長の墓参りしようってんで訪れた寺も阿弥陀寺。

で変後の近衛逃亡劇も、ビビリで逃亡劇すでに何度もやってる近衛さんがまた単にビビって逃走って解釈もできる。
信長との仲は例えば、島津大友?間の仲裁もコンビで遂行したほど。
そんな自分、秀吉信孝に何されるか分かったもんじゃない、信長と君臣、親子といっても乱世じゃ心根など分からない。
そう思ってビビリまくった、って解釈もできなくもない。
139人間七七四年:2013/11/21(木) 17:39:42.14 ID:s17UwsEC
万里小路惟房ら信長支持派と違い近衛は元々、三好政権支持だったからなー。
山科言継も上洛戦をしてきた信長を日記9/14付けで敵と書いているし。
信長上洛で京から逃亡してたけど、遠方暮らしに嫌気がさして
信長政権に妥協して戻ってきただけで、
信長とは表面上の顔でやむなく付き合ってたようにしか見えないんだよね。
だから本能寺の変の寸前のタイミングで太政大臣を辞めるなんて、ものすごく怪しい行動を取ってるし。
140人間七七四年:2013/11/21(木) 19:52:58.84 ID:h4IVIeti
まあ怪しむのは自由だけど、キリがないともいえる。
当時をザッと言ってみればこんな感じだな。

信長上洛時の京 近衛・山科「え?織田?知らないどす敵どす、私たち三好のために尽力してきたどすーー」
        万里小路惟房「織田は私がずっと前から呼んでたどす」近衛・山科「えーーーッ?!!パニックどすーーー」
でその後近衛・山科も織田政権受容。

これが仕方なくだったか、満足するようになってたかは現代人が知る術はない。

ただ近衛は特に、残した信長追悼の連歌がやたら本気モードって感じ。「嘆いても名残は尽きない」とか「なおも慕われる亡き面影」とか。
こういうの見ると織田政権に満足してたように見える。
連歌つくった頃はもう秀吉政権が安定してきてて、ただ秀吉は世間が信長褒めるのをあまり喜ばない、そんな中あえて言っちまったって感じの歌。
141人間七七四年:2013/11/21(木) 22:03:04.49 ID:uAWZFBK1
いやいやそんな甘くないだろ。
近衛前久は石山本願寺に逃げて三好三人衆と共に、
信長包囲網側にいたんだぜ。
信長が義昭と親しかった二条晴良を邪魔に感じ、
息子の二条昭実を引きたてていた一環で、
天正3年になって二条晴良と敵対していた近衛が信長の許しで帰洛できたけど、
信長の末期は、昔の罪を蒸し返して追放やり出していて、いつ近衛が追放されるかわからん状態だったからね。
142人間七七四年:2013/11/22(金) 13:44:00.91 ID:AcYC7kp1
天正12年
12/12 秀吉との和睦がまとまり秀康と石川勝千代が人質として大坂へ。
12/25 佐々成政が浜松で徳川家康に土下座懇請。続いて吉良にて信雄に土下座懇請するも拒否される。
天正13年
1/18 恭順の礼を取るために信雄が大坂へ来るので、秀吉は木村宗右衛門に命じて
   茶湯の用意のついた御座船をあつらえ、さらに共衆の乗る大船9隻を急ぎ作ることを命じる。
2/10 秀吉、信雄の上洛のための路地を石清水八幡宮惣中に普請を命じる。
2/12 信雄、水野勝成らに紀伊雑賀出陣の準備を命ずる。
2/14 家康、信雄の家臣瀧川雄利へ信雄が本当に上洛するのか真偽を聞く。
   秀吉の元に秀康の誘導で本田重次の子である仙千代(本田重成)が人質として到着。
2/20 伊勢国司信雄大坂へ到着 22日に能をする。24日秀吉と宗易・宗及と信雄と長益が茶会をする。
2/26 信雄、大坂より入京し、秀吉の推挙にて信雄を正三位北畠権大納言に任ず、3/2に伊勢へ帰国。
3/3 秀吉、蒔田久勝に命じて20人27日分の扶持米を織田信雄の家臣雑賀松庵らにプレゼントする(信雄大坂&京滞在費用か?)
7/17 信雄、紀伊雑賀にて秀吉を慰安。秀康も石川数正を共に引きつれ雑賀に到着。
4/25 信雄、家臣小幡赤千世に四国出陣の準備を命じる。
6/10 家康、織田長益宛てで「上洛してからというもの、まったく何の連絡もないので不安です。
   湯治しているらしいですが早く下向してください。待ちわびています。すぐ甲斐から戻る予定ですので、
   申し入れさせていただきます」などと信雄への関係改善の斡旋を懇願する。
6/11 信雄、家康に対して秀吉の佐々成政征伐を告知し、家康家老中から人質を3人ほど尾張清須に出すべきことと、
   その代わり、おきい殿と石川勝千代を岡崎に派遣することを告げる。
6/19 信雄、大坂より京へ移動する。
8/5 信雄、佐々成政に秀吉に降るなら和睦斡旋することを伝える。
天正14年
1/27 信雄、秀吉との和を請う家康と岡崎で会談する。
   この年、正三位北畠大納言信雄を秀吉の進めにて従二位に昇進叙す。
天正15年
8/8 秀吉の推挙にて北畠信雄を正二位に、家康を権中納言正三位にする。
11/19 秀吉の推挙にて権大納言北畠信雄を内大臣に昇進させる。
天正16年
1/5 秀吉の推認にて従五位下秀忠を正五位下に昇進させる。
天正18年
1/13 駿府より秀忠上洛し聚楽第にて秀吉と会う。
1/21 秀吉、人質だった信雄の娘を養女となして秀忠と婚姻の儀を聚楽第で行い
   人質とするはずだった秀忠の駿府帰国を許可する。
143人間七七四年:2013/11/22(金) 13:48:25.47 ID:AcYC7kp1
7/13 秀吉、北条征伐の褒美として三河、遠江、駿河、甲斐、信濃5カ国大幅加増を信雄に与え移封を命じる。
   信雄が拒否し、家康家臣団が転封準備しているのを見た信雄家臣領民が準備した方がいいと言うも、
   転封は絶対ないと断言し、秀吉の命を無視し関係を完全にこじらせる。
   秀吉が信雄を改易し佐竹預かりの流罪とし、信雄旧臣木造長政らを織田嫡孫家秀信の後見家臣として付ける。
8/4 宇都宮にて信雄、家康を取次として秀吉の許しを願い出、秀吉が怒りを解き和する。
12/29 秀吉の推挙により秀忠を侍従・従四位下に昇進させる。
天正19年
5/2 家康、信雄に会うために和泉堺に行く。
11/1 秀吉の推挙にて秀忠を参議とする。
文禄1年
1/10 秀吉の推挙にて織田秀信が従四位下参議となる。 
2/20 織田秀信らが名護屋へ向け出陣。
9/13 秀吉の推挙にて参議従四位下秀忠を権中納言・従三位に昇進させる。
12/10 織田秀信が岐阜鏡島に新町を作り始める。
文祿3年
10/14 利家・信雄らが山城伏見の亭に家康を訪問する。
文祿4年
7/20 信雄ら秀頼に二心無きことを誓う。
慶長元年
5/11 従三位中納言織田秀信 関白秀次の娘と婚姻。
慶長5年
8/21 信雄西軍として旧領回復のため尾張へ出陣するも東軍に捕縛され東軍に組みすることを誓う。
8/22 池田・福島らの軍が木曽川渡河し織田軍を破り岐阜城に秀信を捕縛。
   のち福島により秀信の助命嘆願が行われ死一等を免じ高野山へ幽閉される。
慶長10年
5/8 秀信、22歳で死去。
慶長19年
9/27 信雄が大坂城から金品盗んで逃亡し京都竜安寺に隠れる。
10/26 五山僧徒の保護の下に信雄が家康に謝罪のために二条城で土下座。
   五山の僧たちの全力擁護で家康が折れ、のちに領地を与えることを約束させられる。
元和1年
3/17 信雄が駿府にて家康に会う。
9/10 佐竹伊達最上細川島津とともに信雄も家康に物を贈る。
寛永5年
10/8 信雄が秀忠に茶を献ずる。
寛永7年
4/30 前内大臣正二位信雄が死去。
144人間七七四年:2013/11/22(金) 14:52:48.97 ID:8E2JnDgN
秀吉はむちゃくちゃ早く急いで信雄の官位官職を上げまくってんだよな。
朝廷で自分の補佐が出来る立場に信雄を引き上げたかったんだろうな。
関ヶ原でも家康と同格、いや出血して前が付くだけ先輩風吹かせたのは信雄だけだったし。
145人間七七四年:2013/11/22(金) 15:20:18.96 ID:AcYC7kp1
信雄と家康が土下座したので、 講和してやり11/21に近江坂本を発して帰京するや、
22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任じて武功を讃えた。
12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質として浜松を出発させた。
20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる。

信長の譲位要求の脅迫では仙洞御所すら造ろうとしない悪魔のような所業だけど、
秀吉は家康と戦っている最中であっても、正親町天皇が譲位の思召を伝えると
すぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してるからなー。
譲位と新帝即位は天正14年(文禄元年)
正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく、
秀吉は母を10/18に三河岡崎に送り、11/1に家康がやっと上洛してきて、
秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
7日に譲位と新帝即位式典と間に合わせた。
家康がグダグダ言ってたから母を送ってまで、
後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉はやはり凄いよ。
11日、秀吉は大友支援で筑前に入った黒田や小早川と吉川の陣に検使として森吉成を派遣、
12日には前日に岡崎に着いた家康が早速、井伊直政を護衛に秀吉の母を大坂に送ってる。
新天皇の威令を広める為に自分の母を公を優先し人質に出す秀吉の忠勤の姿勢は素晴らしい一方、
私を優先するヘタレびびり家康の天皇への不忠っぷりは非難されるべき。
146人間七七四年:2013/11/22(金) 15:35:14.79 ID:8E2JnDgN
信長なんて武田勝頼が官位官職につけないように朝廷を脅迫して嫌がらせしてたのに、
天正3年信長が右近衛大将になった際に、
従五位下左近衛中将になったっきり昇進出来なかった信雄をいきなり、
秀吉は正三位権大納言にしてあげたのを皮切りに、
一年を経ずして従二位かよ!
しかもその年のうちに内大臣か。
よく朝廷が許可してくれたなあ。
秀吉はどんだけ信雄を厚遇しまくってんだよ。
147人間七七四年:2013/11/22(金) 15:40:14.06 ID:8E2JnDgN
しかもその年のうちに正二位内大臣ってことは前例自体がない異例の大出世だろ。
秀吉は子供を半ば諦めて、
信雄に跡を継がせようとしてたのかも知れんな。
148人間七七四年:2013/11/22(金) 17:14:12.66 ID:AcYC7kp1
>>140
信長は鷹司家を再興させ九条系摂家を増やすことで、
近衛前久の権勢を削ごうとしたから、
近衛が信長に対して良い想いがあるはずないんだわ。
149人間七七四年:2013/11/22(金) 18:18:18.41 ID:U7C2+cQG
歴史ってまさに、それを見る人の人間性が表れる。
前久が鷹司家の復興を喜んだはずがないと考えるのは148の人柄。
前久も同じ人柄だったかも知れないが、そうじゃなかった可能性もある。
もともとは五摂家が伝統だったのに、当時は鷹司家が途絶えて四摂家になってた。
それが五摂家に戻れたよかったなぁ〜って思う前久も、完全に否定することはできないっしょ。
150人間七七四年:2013/11/22(金) 19:41:35.07 ID:ssjfn6eH
官職争いしてる政敵が増えて嬉しいわけねーだろ。
お前、働いた事ないだろ。
ライバルを友なんて思うのは漫画の世界だけだ。
151人間七七四年:2013/11/23(土) 00:32:39.43 ID:DiBeaoar
>>信雄と家康が土下座したので、 講和してやり
信雄や家康は土下座なんてしてねーよボケhttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/717
>>22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任
はぁ?なんで東国なんてノータッチの場所が平定されてる事になるんだよ。
ひょっとして秀吉の「東国は氏政、北国は景勝まで秀吉の存分に候」とかデタラメをデッチあげている誇大喧伝を真に受けてるのか?。
>>12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質
アホかお前。天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
152人間七七四年:2013/11/23(土) 00:33:34.41 ID:He+CeMa4
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
>>正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してる
そりゃ秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい

近世成立期の大規模戦争、小牧長久手の戦いの構造、秀吉の天下統一戦争、戦国織豊期の朝廷と公家社会
池上裕子氏「日本の歴史 15織豊政権と江戸幕府」
立花京子「織豊期研究」「秀吉権力と「天皇の静謐」」
このあたりも上記と同じ見解を示している

秀吉は84年から頻繁に上洛したり御所を造営したり禁裏での饗応に参加したり
連歌興行に参加したり積極的に朝廷への接触をはかるようになるよ。
また秀吉がこれ以前にはほとんど見られなかった献上行為
が天正12年6月 秀吉⇒天皇 鳥、百羽
天正13年3月 秀吉⇒天皇 太刀代折り紙 銀百枚
       秀吉⇒誠仁親王 銀50枚
       秀吉⇒和仁親王 銀20枚
    7月 秀吉⇒天皇  白鳥三 蝶子三十
        ⇒誠仁親王  白鳥ニ 綿百吊 
        ⇒和仁親王  太刀
        ⇒若御方   料紙

と献品しまくり

また寺社衆への所領安堵もしまくっている    
長久手で一敗地にまみれた秀吉が朝廷を利用する事を考えたんだろう

そもそも秀吉は政権なんて取ってない。実力のない公家とか朝廷とかが形式的に従えてるのと同じ
秀吉が天下取ったというなら公家や朝廷が天下取ったというのと同じ事
秀吉が本当の意味で天下取ったといえるなら秀吉死んだくらいで豊臣が揺らぐはずがないし
家康三成のごたごたでめちゃめちゃになるなんておかしい
結局皆うわべだけ従ってただけ。武力で統一したわけじゃなく停戦令を通達して
戦いをやめさせただけの間接支配だったからあっさり瓦解しただけ。
153人間七七四年:2013/11/23(土) 00:34:28.54 ID:N8uKLdSz
それで敗戦まみれだった秀吉が、天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
154人間七七四年:2013/11/23(土) 00:35:12.54 ID:He+CeMa4
>>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく
だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。
家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw
>>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく
しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり
侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して
なんとか家康がこれに応じただけだし。、
>>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉
家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙
>>秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍だった
はぁ?
秀吉に対して信雄や秀信が恩があるわけねーだろクズw
信雄→主家簒奪に一時的に当主に祀り上げられながら、その後たいした理由もなく攻め込まれるなど
散々利用され、結果的に屈服を余儀なくされ、その後も無理矢理いちゃもんつけて改易
秀信→当時幼少だったにもかかわらず、秀吉の簒奪のために名目上の織田家当主として祀り上げられ
その後は秀信はほとんど無視の傀儡と化すほど、秀吉の勝手きままな専横によって織田政権は事実上崩壊。
主家を簒奪し滅ぼした張本人の秀吉に対して利用されただけの信雄や秀信が恩があるわけねーだろw
>>彼らを関が原後に改易したのは家康
その後皆大名に復帰してるわアホ
織田長益、織田信包、織田信高、織田信貞を
取り立てた家康が織田に復讐www
信雄の息子に至っては徳川家の庇護をあてにして生活していたのに
流石武田正嫡の武田信道が日本本土から隔離されて
宇喜多秀家と同レベルの冷遇をされただけはあるなw
家康は羽柴も織田も後北条も再興や存続を許しているけど
唯一存続を許さなかったのが武田だもんな。
挙句の果てには自分の息子に武田氏始祖の武田信義の名前をもじって名付け
まるで己の息子が武田始祖であるかのような振る舞いをしている有様
しまいには信玄直系を大久保事件にかこつけて無一文で伊豆大島に配流し
結局武田信道は伊豆大島で生涯を終えてしまうんだよね。
後北条や織田、羽柴ですら石高を貰って徳川幕府の体制下にいたことを考えると
家康の武田に対する扱いは極めて冷酷と言わざるを得ない
155人間七七四年:2013/11/23(土) 00:36:06.21 ID:deg8vHDj
そもそも主家簒奪の名分として自分を利用するだけ利用してポイ捨てしたり
自分にいちゃもんつけて改易した秀吉の恩によって信雄や秀信が西軍についたというのは相当無理があるだろ。
恩どうこう言うなら高い身分まで取り立ててもらった秀吉の方が、ろくに援軍も出さず畿内平定にこき使われまくってた家康より遥かに恩を受けてるわな
つか、一番秀吉から恩を受けてるはずの福島加藤浅野らが家康に篭絡されてる時点で、
武功派が主家を考えず自分の好悪の感情だけで動いていたのがハッキリわかる。
家康が信長から恩を受けていたとか、もうね、笑わせるなと。
畿内平定に狩り出され、大国武田に攻められてもろくに助けてもくれず
散々いじめられてただろうが家康。
立身出生を全面的にお膳立てと棚ボタであげてやった秀吉の方が異常に恩受けてるだろうがクズ
家康は信長や秀吉に比べると明らかに寛容だからな
前田や浅野は家康の温情で領土減らされなかっただけ(無論家康の地盤がその時点で全く固まっていなかったのも大きいが)
島津に関しては黒田や加藤らが関ヶ原合戦で大敗後領国がからっぽの島津領に向けて突進していくのを止めて
島津を助けてやったし
上杉も毛利も佐竹も減封はしたものの改易されてないし
殺されてるのはほんの一部にすぎないしね

看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。 当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。

看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別

主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
つか同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してるわけだがw
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...

関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
156人間七七四年:2013/11/23(土) 00:37:03.64 ID:deg8vHDj
秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。

その後妹も同じように殺されてる。

秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね

散々こき使われまくり同盟とは名ばかりの援軍なし放置状態(しかも大国と交戦中なのに)の、
恨みばかり残ってもおかしくない状況で織田家を再興してやったのが家康。
恩を受けまくり、信長のおかげでトップにたてたといってもおかしくないくらいなのに
主家を崩壊簒奪し、役に立たなくなったと思ったらポイ捨てしたのが秀吉。
だからこそ、織田家は江戸期でも細々とながら残り、豊臣家あっさりは滅亡し、家康が天下取れたんだろうな。


740 :日本@名無史さん:2013/11/22(金) 18:19:43.87
清洲での宿老合意の原則を無視する秀吉は信長生存時からの織田家の敵と戦うことをせずに
宿老会談で政策をはかることもなく、ことごとく勝手に政策を決めていく。
そして一刻もはやく安土へ三法師を移動させることを策する(安土が再建され畿内が静謐になるまで待てない秀吉)
五畿内ことごとく人質を取って磐石な体制を構築する秀吉。
信雄有利の大河切りを秀吉は支持し、信孝有利な河切りの境目を否定し兄弟対立を煽る秀吉。
柴田は双方からちゃんと話を聞いて、奉行を派遣して話合おうと提案している。
堀は三法師ともども岐阜にいるらしい(信雄の千福の仕官話の書状から考えると丹羽も?)
柴田は堀に宿老全員合意の原則を掲げて安土へ御座を移す話をしている。
秀吉の勝手な葬儀が事実上の宣戦布告。それの批判を受けて秀吉が誰が天下の主になるか腕比べしようと挑発。
石川数正への書状によれば、重臣対立の結果、
安土へ三法師がこないことで長く、織田家督者が実質空位で立っていない状態になってので
信雄を安土へ入れ御代にするなど織田主君を秀吉の意のままに廃君し別に擁立する暴虐ぶりを発揮。
(良識に従えば三法師のいる信孝や柴田側にこそ大義名分が存在する)
しかも信孝を降伏させたあとに三法師まで人質として取っている秀吉。
信雄を擁立したが完全に傀儡で、秀吉の息がかかった者が国々の仕置きを申し付けられており
信雄はその者の専横を怒り斬っている。
秀吉にとっては、義昭がやってきたから信雄はもういらないという態度か
157人間七七四年:2013/11/23(土) 00:37:50.56 ID:N8uKLdSz
>>秀吉は充分に主家に義理立てした
主家織田家の当主に当たる秀信や信雄を利用するだけ利用しといてポイ捨てしておいて義理立てしたとかないわ。
>>信孝を切腹に追い込むほど信雄は恨んでいた
だから秀信をトップに据えて兄弟の対立をこれ見よがしに対立を煽ったりして崩壊させたのが秀吉だろ。
>>信雄と信孝は超アホで調停不能
だからこそ秀信を据えたり兄弟のうちどちらかを立てて主家のために忠義をつくすのが家臣としてあるべき姿
秀吉の場合はそれどころではなく清洲会議の合議も無視して好き勝手な専横で織田家を簒奪した極悪人。
>>信雄の官位官職も上げまくって
そりゃ信雄なんて主筋で一時期は当主に据えるほど、大いに利用させてもらったのが秀吉だからな。
その負い目や、大した理由もなくいちゃもんつけて攻め込んで、和議を結んだと思ったら改易までやらかすなど、散々な専横をしまくったのが秀吉。
>>秀信も父の信忠の岐阜を与えられ感謝
ソースくれ。織田の当主になって秀吉に命令を下すべき人間がハナクソみたいな領土と地位を与えられただけで感謝も糞もねーわw
>>関ヶ原では信雄も秀信も西軍として行動したし、
関ヶ原ではむしろ豊臣恩顧系ほど東軍についたし、西軍は秀吉と繋がりの薄い連中ばかりだから
西軍=秀吉への恩義とかもう馬鹿かと。
>>大坂陣の時も豊臣と一緒に滅亡しないギリギリまで大坂にいた。
信雄などは両家の和解のためいたんじゃないのか?家康が遣わした可能性も往々に考えられるのに
自分の意思で豊臣に感謝してたからとか勝手な決めつけだろ。
>>信雄や秀信の行動をみたら織田家は秀吉に感謝
主家を乗っ取り簒奪に利用されるだけ利用されてポイ捨てされたのに感謝してるわけねーだろw
>>織田が家康を嫌ってた
ハイハイ、根拠なし。織田長益、織田信包、織田信高、織田信貞を
取り立てた家康。 信雄の息子に至っては徳川家の庇護をあてにして生活していたのに
家康は羽柴も織田も後北条も再興や存続を許している
>>秀吉や光秀は自らの武辺と才覚で國持ち
いやほとんど信長や信忠のお膳立てだよ。長浜という鉄砲の名産地・交易・流通の絶好の場所
守護の赤松・小寺・別所・山名など衰退期もいい所で、しかも中国地方からは山中ら反毛利国人まで与力として味方がなだれ込んできてる状況
永禄末期や天正の第一回目の織田家での侵攻など見る限り播磨・但馬は元々ほとんど織田方で、抵抗勢力などたかがしれてる。
それを秀吉の失態自爆で敵が増え、別所など雑魚に信長や信忠や山中ら尼子残党らの後援を受けながら苦戦しまくり、2年近く費やしたのが秀吉。
>>信長はむしろ移動を命じたりと戦略、外交の邪魔
そんな事全くやってない。信長は秀吉のためにわざわざ信忠ら主力を派遣して播磨の中枢の諸城を悉く砦や小城の普請などでいつでも攻められるようにお膳立てして帰ってる。
ちなみに明智光秀まで援軍として播磨に来ていたらしい(兵庫県史資料編の中で明智が別所攻めに加勢として遣わされてる文書があったはず)
>>逆に豊臣恩顧なんて秀吉の出世のおかげで、たまたま秀吉の部下だったおかげで身が引き立てられただけ
そりゃあんたの主観だろ。秀吉なんて小牧長久手とか紀州征伐あたりまではともかく
他はほとんど部下に戦をまかせきりで物見遊山とか茶会とかやって遊んでただけじゃん。
あげくのはてには朝鮮出兵など愚行に走り、人徳を失い、子飼い系も含め悉く徳川に篭絡される事になった。
158人間七七四年:2013/11/23(土) 00:39:28.65 ID:deg8vHDj
>>勝てない相手が死ぬまでは卑屈なまでに篤実な善人顔を装おって
信雄家康は秀吉に圧勝したじゃん。135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
159人間七七四年:2013/11/23(土) 00:41:03.88 ID:N8uKLdSz
清洲での宿老合意の原則を無視する秀吉は信長生存時からの織田家の敵と戦うことをせずに
宿老会談で政策をはかることもなく、ことごとく勝手に政策を決めていく。
そして一刻もはやく安土へ三法師を移動させることを策する(安土が再建され畿内が静謐になるまで待てない秀吉)
五畿内ことごとく人質を取って磐石な体制を構築する秀吉。
信雄有利の大河切りを秀吉は支持し、信孝有利な河切りの境目を否定し兄弟対立を煽る秀吉。
柴田は双方からちゃんと話を聞いて、奉行を派遣して話合おうと提案している。
堀は三法師ともども岐阜にいるらしい(信雄の千福の仕官話の書状から考えると丹羽も?)
柴田は堀に宿老全員合意の原則を掲げて安土へ御座を移す話をしている。
秀吉の勝手な葬儀が事実上の宣戦布告。それの批判を受けて秀吉が誰が天下の主になるか腕比べしようと挑発。
石川数正への書状によれば、重臣対立の結果、
安土へ三法師がこないことで長く、織田家督者が実質空位で立っていない状態になってので
信雄を安土へ入れ御代にするなど織田主君を秀吉の意のままに廃君し別に擁立する暴虐ぶりを発揮。
(良識に従えば三法師のいる信孝や柴田側にこそ大義名分が存在する)
しかも信孝を降伏させたあとに三法師まで人質として取っている秀吉。
信雄を擁立したが完全に傀儡で、秀吉の息がかかった者が国々の仕置きを申し付けられており
信雄はその者の専横を怒り斬っている。
秀吉にとっては、義昭がやってきたから信雄はもういらないという態度か。

9/3柴田→丹羽
若子様の事は丹羽、池勝、我らはご近所とも言うべき者。
せめて仰せの如くにしてくれ。我の意を知っている衆までお越しして
もし不慮が起こったらおのおのの沽券に関わることなので
重ねて申し談じてよくよく御分別するべき。
(これ追而書なので、一番したの段の続きの話で、柴田が一番伝えたいこと)

三七郎殿(信孝)は大河切りにすると三郡まで尾張になるので川切りを主張
三介殿(信雄)は国切りを主張し同意ない。
我ら4人の奉行を境目に出して究明することがいいと兄弟に返事した。
三介殿は貴殿の書状にあるように同意してくれたので
なにぶんにも申し談じて裁判していこう。羽柴・池勝は程遠い間柄。
あなたと我らは同前に申し談ずべく候。
若子様は御幼少なので上方がとくりと落ち着いて、御座所も御普請が定まってから
申し談じて、各一同の同意を得てから上国するのがめでたい。これは境目の返事の時に兄弟にも伝えた。

10/14の晴豊記
茶筅と三七郎が上洛してきて明日の信長葬礼を抑えに出ると言う噂がある。

秀吉の葬儀に関して信孝から糾問があったのか 10/18付けで信孝の臣に秀吉が返書。 柴田と我らの間柄について何を聞いたのかね?
信孝様と三助様の両人が名代を争っていたから清洲で宿老が談合して信忠の御子を取り立てた。そして清洲から岐阜へ御供して信孝様に若君を預けた。
日数程無くして安土へ若君を移参らせると信孝様が言ったのに、いまだにその儀は御座なく候こと。
(多聞院日記7/8には三法師が上洛して諸大名衆礼とある) 名代を争い御主に事欠くことで迷惑した。秀勝も15.6歳の武者なので
御主にしようという話もあったが、私の養子でもあるので御主にさせることは誰が申すことであってもありえません。
ご兄弟や宿老衆の御悪を請け申すことは迷惑です。 信孝様が信長の仇を討てたのは私のおかげです。 濃州にかんして堀久太郎を岐阜御城に上置申し候へども
御国を人質ともども信孝様へ進上したじゃないか。 尾州も人質も三助様に全部渡した。
坂本を持とうとするのは天下を包み候て、筑前が天下の異見を申すことか
さらに志賀郡まで持てばと思い、迷惑に感じて丹羽に渡した。
御仏事に関して御兄弟から返事もなく、宿老衆からも仏事の沙汰がなかった。
天下の外聞はいかがかと思いやった。
160人間七七四年:2013/11/23(土) 00:41:39.50 ID:He+CeMa4
10/6 柴田→堀
秀吉批判の書状 清洲において誓った置目の条々に相違している。 仕置きを一向変えて、諸人は不審がっている。
静謐の評定をするのは無論のことなのに清洲以来、裁許に及ばず、諸人の分別になっている。
若子様の移動の件は、各一同に兼ねての約諾の如く御座を移すことを岐阜への丹羽にも返事している。四方に敵がいるので、それらを討ち果たし平均するのが
御弔なのに、それに手を付けず分国内に私構新城、種々に渡り雅意。 誰を敵と想定してこのようなことをしているのか。
我らの間柄が悪くてもこの情勢のもとでは入魂して 信長公が苦労して治めた分国のお仕置きをして
守るべきところを共食いして相果てるつもりなのか。本意にあらず。

家康は天正10年10/5に信雄が清洲会議で受領した尾張領のうち三河内で織田領に編入されている地域の返還を要求。
12/22に家康は秀吉に「信雄引立御申候事」を賛同してるが
引き立ててやることなどと信雄に対して秀吉や家康は思いっきり上から目線である

佐々成政も天正11年6/17付けで伊勢国司に御座り候、御息様を秀吉が御指南申儀候
と専横する秀吉・池田・丹羽らによる伊勢国司を傀儡にした政治体制に触れている。

信長が家臣に虐殺されるやありえない速さで織田家は解体していくのである。
いかに生前から信長が人心を得ていなかったかがわかる。
そもそも信孝を降伏させて三法師を秀吉が人質に取ってから三法師2歳が一次史料からいっさい行方不明になる。
突然史料上に現れるのが天正16年4月で9歳の時。はたして7歳も成長した三法師が信忠の息子と同一人物だと
自信をもって答えられる者などおらず誰もわからないだろう。

丹波亀山城を与えられた秀吉の養子だった信長の息子の秀勝も小牧長久手の戦いまでは確認できるが
その後行方不明どころか、いつのまにか丹波亀山城主が秀勝(木下秀勝)にすり替わってる。
それが判明するのが天正13年10月に浅井江(お市の娘)と婚姻した事実から別人だとわかる。

1/17秀吉→小早川 25日に三介殿が安土へ上国し即、御家家督に据えた。
4/12秀吉→小早川 滝川と柴田が信雄に謀反したのですぐに滝川を成敗した。
5/21信雄判物 前田玄以を京都奉行に申しつける。筑前にに尋ね、何事も筑前の申す次第にあい極めること。
11/21の家忠日記 小田三介殿が御腹めされた風聞を聞く。
2/14家康→毛利 信雄・秀吉らが公方様御帰洛を御請することを伝える。
3/3信雄→小川 自筆で申すがここのところの働きは余りにも是非なく、無念だ。
3/6信雄→吉村 津河・岡田ら、こいつら余りにもほしいままに仕置きするから成敗した。
3/7信雄→香宗我部 羽柴天下をほしいままに働き是非に及ばず。羽柴に心合う者三人を切った。
3/7織田信張→香宗我部 同上
3/8顕如上人貝塚御座所日記 三介殿が四人切り、筑州もっての外腹たちて詰問の使者を出すが すでに15日には尾州表に軍を出す予定だそうだ。
3/9兼見卿記 斬られた者は筑州諸式国々仕合申付の人なり。この注進を聞き筑州もっての他立腹。すでに勢州へ出陣。
3/10晩に及んで羽柴上洛、諸勢ことごとくまかり上がり尾州へ出陣。

信雄が秀吉を父に仕える如く態度で従っていたため信雄を三法師の守役にしてから清洲会談開始。
そもそも清洲会談の時点で池田や丹羽らを味方につけて派閥を形成して
秀吉のおもうがままに会談を主導。
結果、秀吉(秀長も京以西から河内まで)が大版図を獲得し領国を形成
(大和一円も貰った筒井も秀吉に入魂になっているなど多数派工作を進めていた)
信雄と信孝が名代を争っていたから、結局、三法師後見役も決めていない。
161人間七七四年:2013/11/23(土) 00:42:17.99 ID:deg8vHDj
清洲での宿老合意の原則を無視する秀吉は信長生存時からの織田家の敵と戦うことをせずに
宿老会談で政策をはかることもなく、ことごとく勝手に政策を決めていく。
そして一刻もはやく安土へ三法師を移動させることを策する(安土が再建され畿内が静謐になるまで待てない秀吉)
五畿内ことごとく人質を取って磐石な体制を構築する秀吉。
信雄有利の大河切りを秀吉は支持し、信孝有利な河切りの境目を否定し兄弟対立を煽る秀吉。
柴田は双方からちゃんと話を聞いて、奉行を派遣して話合おうと提案している。
堀は三法師ともども岐阜にいるらしい(信雄の千福の仕官話の書状から考えると丹羽も?)
柴田は堀に宿老全員合意の原則を掲げて安土へ御座を移す話をしている。
秀吉の勝手な葬儀が事実上の宣戦布告。それの批判を受けて秀吉が誰が天下の主になるか腕比べしようと挑発。
石川数正への書状によれば、重臣対立の結果、
安土へ三法師がこないことで長く、織田家督者が実質空位で立っていない状態になってので
信雄を安土へ入れ御代にするなど織田主君を秀吉の意のままに廃君し別に擁立する暴虐ぶりを発揮。
(良識に従えば三法師のいる信孝や柴田側にこそ大義名分が存在する)
しかも信孝を降伏させたあとに三法師まで人質として取っている秀吉。

信雄を擁立したが完全に傀儡で、秀吉の息がかかった者が国々の仕置きを申し付けられており
信雄はその者の専横を怒り斬っている。
秀吉にとっては、義昭がやってきたから信雄はもういらないという態度か。

信雄追放について イエズス会日本報告集
御本所と称される信雄に別な国を授けることにしたが父の形見なのでと申し出た。関白殿はただちに、
その所領も他の国も有することまかりならぬ。汝はただ1人の召し使いのみを残し置く。
中略 じつに従順な姿勢で願ったというのに。
日本史
関白はその返答に激怒し領国を持つことを禁止し1人の草履持ちだけしか家来を伴うことを禁止し
中略
関白はただ1人の小者と称せられている若者しか仕えることを許さなかった。そして日本の最果ての地に流された。

家康の関東移封がもはや現実のものとして準備が開始される中で信雄も移封の噂が流れ、領内では諸道具の運び出しの準備が開始されたが
信雄は7月朔付け書状でも神に誓ってありえないと書き準備する者ははりつけの刑にするとまで言っている。
さらに小田原攻めの時に清洲城や星崎城は小早川隆景に接収されている(長島城は地震で崩壊している)
そして尾張伊勢は秀次に与えられ、流された信雄は8月には常真と号して出家した。秀吉の野心を嗅ぎ取って柴田や信孝が政治闘争をしているのがわかる。
それで秀吉が三法師を一方的に廃して信雄3を擁立。逆らう者はすべて謀反人とレッテル貼って叩きつぶす。その後、信雄は秀吉への屈辱から家康の後援を得て戦うと
秀吉は信雄を長島城へ追い詰めて屈服させてる.そして北条戦では家康の岡崎城には吉川広家を入れて接収し
関東移封を拒否できないようにしている。信雄の場合は最初から秀次を入れるために信雄を潰すつもりだったのだろう

三法師を廃止し坂本城へ幽閉し織田家滅亡 木造家の傀儡北畠信雄政権樹立 秀吉の意を執行する家臣を信雄が殺したのでいちゃもんつけて攻め込む
小田原陣後に信雄を小姓1人だけしか付き添いを許さず秋田へ追放
秀吉が朝鮮役での大陣容を見せ付けたいがために旧主筋だった信雄を呼び出し息子に秀の名を与え秀雄と称させ5万石の領地を与える。

秀信13万石と秀雄5万石は関が原の戦い後に改易(どちらも織田宗家ではない)
秀信は高野山からも信長の所業を理由に拒絶され野たれ死に
秀雄は1602年に野たれ死にそうなのを聞いた徳川秀忠の好意により蔵米3000俵を恵んでもらったが栄養失調のため27で死去。
困窮した信雄は大坂城で生活保護を受けることになる。
162人間七七四年:2013/11/23(土) 00:43:31.63 ID:N8uKLdSz
光秀討死前にすでに家康も三法師を秀吉同様に擁立する動きを見せるなど
なぜか織田家内ですでに信忠の兄弟ではなく側室腹の三法師を後継にする合意が存在する謎。
ちなみに信雄の昇進は朝臣北畠国司と言う名家を継ぐゆえに利用しただけ
小田原陣後に信雄を出家させた挙句に小姓1人だけしか付き添いを許さず秋田へ追放し傀儡北畠政権滅亡。
秀吉が信雄を追放した時に旧主への優越感から再興させた羽柴秀信13万石と(白紙期間が長く信忠の子と同一人物か全く不明)
秀雄4万5000石は関が原の戦い後に改易(どちらも秀吉により断絶を経験しておりもはや織田は継続性の無い秀吉の遊び道具化)
秀信は高野山からも信長の所業を理由に拒絶され野たれ死に
秀雄は1602年に野たれ死にそうなのを聞いた徳川秀忠の好意により蔵米3000俵を恵んでもらったが栄養失調のため27で死去。
困窮した信雄はどうしようもなくなり大坂城で生活保護を受けることになる。
大坂陣の1614年に家康により買収されて大坂落城後の1615年に7月に大和国宇陀郡、上野国甘楽郡で加増を受け織田家復興。

小幡藩の悪政ぶり
領民たちは織田信就の領土から幕府の直轄領に変えてくれと嘆願するほどで
上野国でもっとも貧しく上毛ならぬ不毛の地と揶揄された。

山県昌景の子孫で甲斐出身の山県大弐は(現在は尊王論者の神として山県神社で祭られている)
織田家の小幡藩で明和事件を引き起こし上野小幡藩主織田信邦
(高家旗本織田信栄の四男・ちなみに信栄に正室はいない)
に蟄居隠居を強要し、高家から普通の旗本に降格とし
官位剥奪の上(2度と従四位下へなれなくなった)鍛冶橋門内の江戸上屋敷も没収。
織田信長の子孫と言うことで認められていた国主格の待遇も廃止。
(信長のおかげで国主格だった・・・これは表向きの理由で実際は信雄4男の信良の長女松孝院が
1623年に将軍徳川秀忠の三男・忠長(不和だった家光により自害に追い込まれる)
と結婚していて徳川の外戚になっていたと言うのが本当の理由で
宇陀崩れや明和事件を契機に国主待遇は廃止された)
小幡藩改易に伴い信栄五男である織田信浮が継いで出羽入りしたが
天明の飢饉の災禍によってボロボロになり
明和事件で失った家格と旧領の回復を願うばかりで失意のうちに死去。
ちなみに信栄の次男の信憑は柏原陣屋の織田信旧養子となっている。
結局、織田の系統は山県昌景の子孫の謀略で
高家旗本から降格させられただの旗本になってしまった信栄系に乗っ取られた。
163人間七七四年:2013/11/23(土) 00:45:25.47 ID:He+CeMa4
家康は信長や秀吉に比べると明らかに寛容だからな
前田や浅野は家康の温情で領土減らされなかっただけ(無論家康の地盤がその時点で全く固まっていなかったのも大きいが)
島津に関しては黒田や加藤らが関ヶ原合戦で大敗後領国がからっぽの島津領に向けて突進していくのを止めて
島津を助けてやったし
上杉も毛利も佐竹も減封はしたものの改易されてないし
殺されてるのはほんの一部にすぎないしね

看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。 当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。

看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別

主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
つか同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してるわけだがw
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...

関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
164人間七七四年:2013/11/23(土) 08:44:12.92 ID:ECZkvuS1
>>159>>160>>161>>162ってSUBのかなり昔のレスだろ。
聞きたいんだけど、何でお前は他人のレスを盗用してコピペ爆撃に使うの?
自分のレスがウソまみれで、
すぐバレると自覚するほどに自信が無いもんだから、
信用と説得力があるSUBのレスを利用し、そこに自分の拙いレスを紛れ込ませて誤魔化すなんて恥ずかしく無いの?
165人間七七四年:2013/11/23(土) 12:35:04.15 ID:37fYDBPG
どうかしたのか菅沼遼太くん?w
166人間七七四年:2013/11/25(月) 14:01:04.34 ID:+aWBijQe
織田半島人が全力擁護するアンチ秀吉三成キチガイw
167人間七七四年:2013/11/25(月) 22:18:50.26 ID:Nkg/jLjQ
と、半島人が言っています。
半島人はなぜか、日本人のことまで半島人と呼びます。
168人間七七四年:2013/11/27(水) 08:45:38.41 ID:yERaneZQ
織田軍の残虐行為の証拠隠滅行為から逃れるために 
当時の人々が瓦の裏に後世の人々へその犯罪行為を告発しているほど 

「後世の方はどうか語り伝えて下さい。 
5月24日に一揆が起こり、 前田利家が千人を生け捕りにした。 
磔、釜茹で、その有様を書き留めておきます。」 

またフロイスも日本史において 
荒木の謀反の時は、荒木の妻、二人の娘、兄弟、彼女の兄弟姉妹、すべての従兄弟たち、甥、近親ら36人を 
市中引き回しの上、斬首(市中引き回しは名誉を重んじるので死ぬことよりも甚だしい恥辱と不面目を信長は与えた) 
荒木の城から取っていた貴婦人120名は磔(赤子も母の胸に縛りつけて串刺しにして母親を一層苦しめるやり方をした) 
これを見た群集は殺された者が赤の他人であっても肝を潰し幾日も放心状態になる人たちばかりだったほどで、 
このまったく罪なき人々に対して前代未聞の過酷さと残虐に京の群集が恐怖したのもつかの間、 
今度はさらに残酷で非人道的かつ恐怖を比較にならぬほど煽ったのが、 
4つの平屋を作り、そこへ514名が入れられ(380名が女性)外から火をつけられ全員を生きたまま焚殺した。 
彼らが発する悲鳴や叫喚の声は、彼らが受けている残忍極まりない苦しみが、京都を恐怖で覆った。 
このように荒木のみが受けるべき罰を、多数の無実の人々が受けた。 
苦悩の涙と尽きることがない慟哭だけがずっと聞こえてきた。 


これが信長のやり方で、異常な暴君以外のなにものでもなかった。

信長は日本史上、唯一の恐怖と虐殺を礎に王朝を築き上げようとした 
大陸中国人的専制独裁君主なんだよな。 
だから猜疑心が異常に強く、 
行き着いた終着駅はカルト宗教の神になって崇拝を強要し権力だけでなく新たな権威を備えようとした挙句に自滅。 
朝廷も異常なまでに恐怖し、家格も前例も段階も踏まずに一気に位階官職を引き上げようとしてるくらい媚びへつらい朝廷存立の危機感を持ってたが、 
それすらも拒絶して朝廷秩序の枠外に出てしまった日本史上、唯一の暴君。
169人間七七四年:2013/11/27(水) 18:23:06.51 ID:wtE4ZAtH
磔 釜茹では 秀吉も家康もやってるだろ
江戸幕府のキリシタン弾圧だって似たようなものだし
信長だけが残虐な行為をしたわけではない
170人間七七四年:2013/11/27(水) 18:24:08.74 ID:KPKeSkWy
>>169
>>磔 釜茹では 秀吉も家康もやってるだろ
一次史料のソースはまだなの?
171人間七七四年:2013/11/28(木) 01:52:38.48 ID:msMIhbQN
菅沼君、あいかわらずだね。
消えろ!
172人間七七四年:2013/11/28(木) 19:07:05.70 ID:GO0pKfj9
清州会議みてきた
すげー面白いね
北条家臣、「さらしなろくべぇ」がでてきて笑った
あの幽霊になって裁判でる映画の主役w
173人間七七四年:2013/12/01(日) 14:53:26.23 ID:EblQwzDf
一乗谷を発掘したところ、
寺院や町屋が混在する赤淵地係から、
茶筅や茶杓などが出土したことで、
戦国時代の上級武士から町屋の人々までが茶の湯を盛んに楽しんでいた事が判明。
つまり他大名勢力地では誰でも楽しめる茶の湯だが、
信長家臣になると茶の湯をすることを極端に制限されてしまうことを意味する。
荒木や松永が謀反するのもうなづける。
茶を飲むことすら規制される織田家臣はもはや奴隷と変わらない。
まさに理不尽で傲慢に家臣を支配したと言える。
174人間七七四年:2013/12/03(火) 09:53:20.37 ID:A8Hxv4PH
>>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく
だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。
家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw
>>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく
しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり
侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して
なんとか家康がこれに応じただけだし。、
>>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉
家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙
>>秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍だった
はぁ?
秀吉に対して信雄や秀信が恩があるわけねーだろクズw
信雄→主家簒奪に一時的に当主に祀り上げられながら、その後たいした理由もなく攻め込まれるなど
散々利用され、結果的に屈服を余儀なくされ、その後も無理矢理いちゃもんつけて改易
秀信→当時幼少だったにもかかわらず、秀吉の簒奪のために名目上の織田家当主として祀り上げられ
その後は秀信はほとんど無視の傀儡と化すほど、秀吉の勝手きままな専横によって織田政権は事実上崩壊。
主家を簒奪し滅ぼした張本人の秀吉に対して利用されただけの信雄や秀信が恩があるわけねーだろw
>>彼らを関が原後に改易したのは家康
その後皆大名に復帰してるわアホ
織田長益、織田信包、織田信高、織田信貞を
取り立てた家康が織田に復讐www
信雄の息子に至っては徳川家の庇護をあてにして生活していたのに
流石武田正嫡の武田信道が日本本土から隔離されて
宇喜多秀家と同レベルの冷遇をされただけはあるなw
家康は羽柴も織田も後北条も再興や存続を許しているけど
唯一存続を許さなかったのが武田だもんな。
挙句の果てには自分の息子に武田氏始祖の武田信義の名前をもじって名付け
まるで己の息子が武田始祖であるかのような振る舞いをしている有様
しまいには信玄直系を大久保事件にかこつけて無一文で伊豆大島に配流し
結局武田信道は伊豆大島で生涯を終えてしまうんだよね。
後北条や織田、羽柴ですら石高を貰って徳川幕府の体制下にいたことを考えると
家康の武田に対する扱いは極めて冷酷と言わざるを得ない
175人間七七四年:2013/12/03(火) 10:04:39.71 ID:8VaP3VPy
>>174
相変わらずアンチ豊臣の基地外織田チョンのうやむや逃げコピペ爆撃開始ですかw
176人間七七四年:2013/12/03(火) 19:45:35.91 ID:lByitDx0
簡潔にまとめろカス
177人間七七四年:2013/12/03(火) 23:23:24.64 ID:rXb4sqp4
信長の台所歴史検定「津島の達人」

http://tsushima-cci.or.jp/gotouti25/jisshiyouryou25.htm
178人間七七四年:2013/12/04(水) 06:27:39.42 ID:0P/7vh46
 
米国政府は「本能寺の変」を記念する。

http://ichiba.geocities.jp/gbsg0309/0204/45/296.html

米国政府の「印鑑」は、本能寺の変200周年記念日に作られた。

(仮説を含む)

( http://ichiba.geocities.jp/gbsg0309/0103/33/217.html )
179人間七七四年:2013/12/06(金) 18:08:03.45 ID:O0W4tKLx
なんか以前、歴史上の偉人で理想の上司は〜(うろ覚え)
みたいな路上インタビューのテレビがあっててその一位に信長が選ばれてた

正直戦国史上この人ほど身内や部下に裏切られた人も稀だし
そのうち一人には殺されてるのによく理想の上司とかに選べるなと思った
180人間七七四年:2013/12/06(金) 18:32:32.62 ID:Jqkb+lgQ
信長なんて893のフロント企業が実態で、
新入社員にもすぐ責任ある仕事を任してくれるが失敗は許されない。
パワハラとリストラを武器に精神圧迫営業を強要する上司になるぞ。
営業目標が課されるも、お前の才覚(金銭面も含めて)でやれって言われて会社は一切援助しない。
さらにお歳暮は山盛り贈らないと経営者への忠誠が疑われる。
功績を挙げたら、茶器をくれるくらいで、涙が出るほど嬉しくなる調教を受けさせられるし
(自由に他企業ならお茶が飲めるが、織田鰍ナはお茶を飲むのも統制される)
しかも辞めさせてくれない。逃げても高野山まで追いかけてきて連れ戻される。
光秀みたいに姉妹は側室にされる。頭を足蹴りされ、糾弾されてうつ病になって死ぬよ。
181人間七七四年:2013/12/06(金) 18:37:24.71 ID:4UwdmUAx
>この人ほど身内や部下に裏切られた人も稀だし

これ知らない人ほど使いたがるセリフ。知ってたら恥ずかしくて使えないって。
部下の裏切りで死んじゃった多くの人達も、完全にいなかったことにされてるから気の毒。
182人間七七四年:2013/12/06(金) 18:41:09.49 ID:4UwdmUAx
光秀は半島の移民。明智家に背乗り。足蹴にされたのは勝手に人事異動やったから。
183人間七七四年:2013/12/07(土) 09:54:44.59 ID:5YLGEePJ
>>181
へぇ、信長と同レベルに謀反や惣村一揆や一向一揆を喰らった人物って、
他に誰がいるの?一次史料を挙げて教えてくれ。
184人間七七四年:2013/12/07(土) 18:17:18.03 ID:DkapWQfg
裏切り者の数だけなら武田勝頼がぶっちぎりだと思うが?菅沼君
185人間七七四年:2013/12/07(土) 20:53:01.69 ID:AU1eJqNG
木曾が裏切っただけだろ。
後は北条と徳川に挟撃され戦況挽回不可能になってしまったって原因で見限られただけだし。
186人間七七四年:2013/12/07(土) 23:16:11.66 ID:a/AtFGUS
>織田信長は絶対悪?


「信長が命じた死刑決行」
滋賀県浅小井町にある「シガイの森」という場所。いきさつからしてすごく恐い。
昔、織田信長が安土城にいたときにサボって遊んでいた女郎達をたいへん怒り、
全員死罪を決行したと森の入口には書いてある。それが恐い。

JRを彦根方面 に行くと左に不自然に森があるのでわかると思います。
なぜ森が残っているのかというと、
昔森を取り除こうとしたらしいのですが、
その時に作業員が原因不明の奇病に次々とおかされ、二名が死亡したらしい。
そのため工事はなくなり、現在殉教塔というものがたてられています。
187人間七七四年:2013/12/07(土) 23:16:51.90 ID:a/AtFGUS
やっぱ悪魔なんじゃね?
188人間七七四年:2013/12/07(土) 23:29:37.18 ID:a/AtFGUS
織田信長はキリスト教に関心があった、という説がある

仏教徒を、お寺に押し込めて
火をつけたという史実もあるらしい。

安土城の石段も
仏教のお墓やお地蔵様が使われていて
来訪者が、それを足で踏まざるを得ないように
つくられているとか

リアル悪魔の信長が日本でのキリスト教の印象を悪くしたのかも
189人間七七四年:2013/12/08(日) 02:08:09.14 ID:9ZbkH57X
>>185
見限る=裏切るということが理解出来ないのかね?菅沼君
190人間七七四年:2013/12/08(日) 12:57:31.62 ID:VHjKD9Ed
>>188
当時のキリスト教はそこそこ日本で人気あった。今人気ないとしたら特ア人に乗っ取られたのが原因。
あと仏教を日本に導入した聖徳太子を無視しちゃいかん。太子は言った「日本を救うのは信長です」。某お坊様の夢に出てきた。

>>189
185オワタ
191人間七七四年:2013/12/08(日) 17:16:19.49 ID:zu2aZNnt
信長は仏教徒だよ。
信長は全ての仏教を総覧する内裏になろうとして、
宣教師に天皇にあっても全く意味はない。
予こそが内裏であると言い放ち、
自分を御本尊とした総見寺を作り、民衆に御布施を要求した。
192人間七七四年:2013/12/09(月) 22:27:56.60 ID:y00cRy1z
信長は悪魔だよ。
193人間七七四年:2013/12/09(月) 23:23:49.86 ID:wrotaiB7
一向宗にうんざりしてたからこれを牽制する意味でのキリシタン優遇じゃね?
194人間七七四年:2013/12/10(火) 00:05:36.41 ID:qncVohBv
元々坊主嫌いだったみたいだからそこまで考えていなかったと思うが
フロイスが言うには仏教各宗派の中でも禅宗にだけは共感していたらしいけど
禅宗の思想は「自分のことは全部自分でやれ」ってものだから他力本願の浄土真宗とは真逆の考えだわな
念仏やお題目唱えるだけのものは偽仏教と思っていたのかも知れない
195人間七七四年:2013/12/10(火) 10:16:08.84 ID:Y/rJ2MNy
信長はアスペだから、
呼んできた大勢の仏僧に祈願やらせて、
祈願通りに成就しなかった場合は詐欺師認定して大虐殺するからね。
たまたま成就しても、たまたまだろう?ってやっぱり殺すんだけどw
とにかく約束したことは絶対に命をかけて守るやつ以外は嘘つき認定で死刑確定。
196人間七七四年:2013/12/10(火) 14:38:04.77 ID:RmOy6FFu
       統率 武勇 知略 政治  総合
01織田信長   99  87  94  100  380
02武田信玄   100  88  94  97  379
03毛利元就   97  80  100  96  373
04北条氏康   95  86  90  99  370
05コ川家康   99  86  90  94  369
06羽柴秀吉   94  78  97  99  368
07明智光秀   95  85  93  91  364 
07伊達政宗   96  88  91  89  364
09真田昌幸   94  85  98  83  360
11小早川隆景  88  74  95  95  352
nn最上義光   86  85  91  87  349
nn長宗我部元親93  86  83  86  348
15斎藤道三                 347
15鍋島直茂   87  79  91  90  347
17今川義元   93  67  87  98  345
18宇喜多直家  85  74  96  89  344
19上杉謙信   98  100  83  62  343
20片倉景綱   87  77  92  86  342
20島津義弘   97  94  83  68  342
23佐竹義重                 339
23山県昌景   91  96  82  70  339
25蒲生氏郷   89  85  84  80  338
25藤堂高虎                 338
28黒田孝高   89  70  97  81  337
29太原雪斎                 336
30津軽為信   85  73  91  86  335
31井伊直政                 334
32吉川元春   93  93  82  65  333
32立花道雪   95  87  87  64  333
32馬場信春   88  85  88  72  333
32本願寺顕如               333
36松永久秀          93     332
37立花宗茂   91  95  81  62  329
37細川藤孝   77  77  85  90  329
40北条綱成   90  95  80  60  325
41島津家久   88  97  85  54  324
41内藤昌豊   82  74  85  83  324
43島津義久   87     90      322
44真田幸隆   83  67  93  78  321
45大谷吉継   86  65  89  80  320
48武田信繁   86  74  79  80  319
50柿崎景家                 318
53高橋紹運   89  92  75  61  317
55真田信繁   92  99  82  43  316
58高坂昌信   85  78  86  66  315
58滝川一益   86  78  89  62  315
64加藤清正   83  91  70  70  314
64本多忠勝   84  98  73  59  314
69柴田勝家   87  92  68  66  313
69前田利家   80  84  71  78  313
 島清興     88  92  77  46  303
 蜂須賀正勝  71  78  85  67  301
 石田三成   70  58  77  95  300
 鈴木重秀   91  94  82  28  295
197人間七七四年:2013/12/10(火) 17:22:39.23 ID:ZRy6/ZPV
信長は坊主が嫌いって訳じゃない
生臭坊主が嫌いだっただけだろ
198人間七七四年:2013/12/10(火) 17:57:06.76 ID:26rZJ4n1
坊主を裁く明白な基準となる法がなく、
裁く側に分国法もなく個人それぞれで道徳基準なんて違うので、
恣意的に私刑粛清を行う暴君が信長。
結局、現代に至るまで比叡山も本願寺も観光客だらけ
199人間七七四年:2013/12/10(火) 19:28:45.25 ID:UF3Yc8P+
分国法がないのは遅れた大名って意識はあったようで、
由良家伝記にも天文5年正月に
御家法度書と百姓御仕置法度を発表したことに捏造してるw
200人間七七四年:2013/12/11(水) 01:03:36.03 ID:HMHtlHau
まあ、今でも
日本の坊さんは
全員生臭坊主だけどなw
201人間七七四年:2013/12/11(水) 08:32:44.72 ID:37mCOzmP
まあ生臭さ坊主の代表格が武田信玄なわけで
202人間七七四年:2013/12/11(水) 09:32:22.29 ID:g9MshBRK
坊主が妻帯しちゃいけないとか、
ぜいたくしちゃいけないとか、
あれ中国や朝鮮の考え方で、
(しかし中国や朝鮮でもそんな道徳は守られてないどころか金儲け大好き)
日本人はそんな思考は全く無かったどころか、
中国や朝鮮からの文化輸入に最も熱心だったのが坊主だぞ。
珍しい文物や食文化という贅沢が楽しめるから坊主のところに行く貴族も多かったし、
日本は贈答文化が活発で、坊主は権力者に年賀の挨拶とか普通にやってた。
極彩色や金ピカ仏像や漆の皿は庶民への布教などで別世界観の演出のためだし、
こんなもんで道徳的頽廃とかイチャモンつけてるのは、無知の的外れ。
寺社と武士は荘園収入の横領を巡って対立関係にあるから武士側から非難されてるだけ。
平家物語で比叡山を非難してるけど、
あれは武士の立場からの軍記話だから全く中立性無い。
現代のキリスト教宣教師にしたって修道院で少年へのいたずらが問題になったりしてるし、
人間に無理に欲望を殺せと教養しても無理なんだよ。
203人間七七四年:2013/12/11(水) 10:31:26.61 ID:LZ0w4ukD
延暦寺だって天正10年12月12日には日吉社が完成し
天正12年5/1秀吉が本格再興を許可して1万貫負担してるし追って8/4勅命もでてる。
上杉や秋月や毛利や竜造寺や伊達や最上なども、本格再建に協力してる。
信長のやったことは大失政だっただけだ。
延暦寺再建については、綸旨まで大名宛に出されたから、
資金がたんまり集まったからね。 前より豪華になった。
都の鬼門に延暦寺が本格再建が開始されてやっと畿内人心が落ち着いて平穏になった。

石山本願寺を隠れ蓑のように矢面に立たせてるけど、実際の黒幕は紀伊惣国一揆だからね。
だから血判状を差し出し屈服した信長は傍観している目の前で、
反織田軍事組織が安全に高野山戦線に移転していっただけ。
信長は憎き惣国一揆軍事組織にバカにされながらも、
指を加えて眺めているしか無かった。 信長はそうとう悔しかっただろうね。
結局、高野山戦線で信長は苦戦しまくった挙句に謀反で死んだ。
比叡山延暦寺を弾圧した足利義教が謀反で殺された同様の犬死だった。
そして信長が死ぬや早くも比叡山延暦寺の本格再建と、
本願寺の復権が天皇により発令されて、 畿内は急速に民心安定に向かった。
天正10年6/23には女房奉書にて勧修寺晴豊と庭田重保の斡旋で顕如と教如を和解させ
天正11年閏1月22には有馬温泉へ顕如は出発してたり、
3日後には秀吉から堺の本願寺屋敷や本願寺坊領を返還されたりと
信長が死ぬや早速、本願寺の復権がなされて自由行動しているんだよな。
それどころか柴田と秀吉の対立から柴田が江北の境目に出陣してきたのを受けて
4/8には秀吉が加賀で一揆を起して賀越が錯乱したら
本願寺に加賀を領地としてやるっていってんだよな。
秀吉がどうやら有馬温泉にいるようで8/22に有馬に顕如は物を送って
9/25にはまた顕如は有馬温泉に行ってる。
このころ、本願寺は上杉や毛利や紀伊根来寺や湯河直春らと贈答をしてる。
信長の敵と本願寺が通牒していたのが判明する。
面白いところでは天正11年3/16に顕如と教如が春日社に詣でようとしたら
興福寺衆徒に妨害されて諦めて帰ってるw
204人間七七四年:2013/12/11(水) 10:34:17.50 ID:LZ0w4ukD
天正12年4/10には家康が協力して秀吉に当たるなら信雄上洛成功の時は大坂返還と共に
信長が加賀を本願寺に返還すると約束していた御判に任せて本願寺に与えると出来もしないカラ約束。
(天正8年7/17に信長が和睦の時に加賀返還の神載起請文を出していたが、約束をシカトしていた)
4/23に北伊勢一揆が勃発するや秀吉の使者の鵜飼八蔵が本願寺を詰問し、
顕如はまったく知らないことなので、北伊勢坊主衆中へ御書を使わす約束をしてる。
また秀吉陣所へも馬樽3荷と使者を送ってる。顕如も戦況を冷静に観察し、劣勢の家康に組みしないことを宣言。
信雄と家康が土下座したので、 講和してやり11/21に近江坂本を発して帰京するや、
22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任じて武功を讃えた。
12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質として浜松を出発させた。
20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる。

そもそも山城国ですら、信長は支配出来ずに寄生虫みたいに乗っかってただけじゃんw
秀吉は天正12年戦役で家康を屈服させたあと、余裕が生まれたので、領地訴訟問題を解決すべく、
さっそく寺社や公家らを含めた山城国で検地し既得権益を整理して実質的な統治を開始している。
寺社や公家にまで検地したのは画期的な出来事として評価が高い。信長には不可能だったことだ。
信長は差出検地命令すらナメられて馬鹿にされてたからなぁ。
天正14年6/20の多聞院日記には 秀長が信長の差し出し要求で出された興福寺の石高を知り激怒してるのがわかるし。
財源確保と労役や軍備の算出の基礎データすら把握できてないのでは、
国として成立してない、子供が運営してるゴッコ遊びレベル。
これじゃ北条の方がはるかに信長の統治より優れているのは明白だよ。

天正13年1/3に顕如が秀吉に使者を送った時は秀吉と人質秀康、誠仁親王にも挨拶してるな。
家康と徳川家臣から人質を取った秀吉は親家康だった紀伊和泉雑賀&長宗我部征伐のため出馬し
4/2には景勝に同じく親徳川の佐々成政討伐のため出馬を約束し、
4/3には紀伊雑賀にいた秀吉の陣所に顕如と教如が陣中見舞いし、
4/10には秀吉がついに高野山真言宗総本山金剛峯寺に到着し、
4/14に紀伊和泉平定と四国征伐宣言を小早川隆景に通知。
4/17には信雄と秀康も雑賀陣に到着。22日に秀吉が大坂へ凱旋しに出立。
4/25に信雄が四国出陣準備を命令。
5/4秀吉が摂津中島渡辺の地を顕如に与えて、顕如の大坂移転と近江末寺門徒による伽藍造営を始め、
本願寺の再興がなされたのであった。そして秀吉の卓越した戦略で家康はあっという間に完全孤立してしまった。
信長があれほど苦戦しまくった紀伊惣国一揆をいとも簡単に制圧してみせたのである。さすが天才である。
205人間七七四年:2013/12/11(水) 12:52:48.13 ID:MMJ/14Vo
>>信雄と家康が土下座した
信雄や家康は土下座なんてしてねーよボケhttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/717
>>22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任
はぁ?なんで東国なんてノータッチの場所が平定されてる事になるんだよ。
ひょっとして秀吉の「東国は氏政、北国は景勝まで秀吉の存分に候」とかデタラメをデッチあげている誇大喧伝を真に受けてるのか?。
>>12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質
アホかお前。天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
>>正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してる
そりゃ秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
206人間七七四年:2013/12/11(水) 12:54:03.64 ID:bAzVjjxf
さしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
207人間七七四年:2013/12/11(水) 12:54:53.49 ID:TSLX/Wlx
毛利輝元って大友や尼子残党や宇喜多や河野やらに苦しめられまくった戦国屈指の凡将なんだが
秀吉にだけは勝ててるんだよな。熊見川・祝山・備前児島をはじめ美作攻防。
宇喜多も不運だったわな。単体なら勝てる相手に秀吉が出てきたせいで足引っ張りまくって
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
208人間七七四年:2013/12/11(水) 12:55:56.32 ID:Lq/4HDO3
家康は信長から恩なんて欠片も受けてない。大国武田に一人でガチンコで立ち向かってるのに
援軍なかなかよこさないどころか姉川金ヶ崎上洛志賀の陣など畿内平定戦には次々狩り出され、
武田に勝てたのは長年武田を抑えてくれた徳川の働きによる所が大きいのに
駿河しかよこさない身勝手ぶり。
秀吉に関しては秀吉がビビリまくって家康に気を使って顕如や信雄に取り成しやってもらったり自国の15分の1程度の国力の相手にもかかわらず
肉親を差し出したり中央から遥か離れた辺境の関東に移封し、240万石の大国の国力と、中央集権化と、五大老や千姫との婚姻という
豊臣継承の大きな大義名分を与えた秀吉が馬鹿なだけで、取り立てて恩を感じる事もなかっただろ。
織田に関してはむしろ酷使されてたにもかかわらず、それまで良好だった秀吉との友好捨てて
信雄を助けてるし、信雄が秀吉に追放された後徳川がやはり救って領土与えるし秀信も正面から歯向かったのに
殺さずに改易で済ませてるし、むしろ温情あふれる処置といっていい。
バーカ織田が武田に勝って滅ぼしたのは長年寡兵で大国武田相手に敢闘してきた徳川と、ガチンコ侵略を受けながら、迅速な攻略と
2年にわたる甲斐侵攻によって新府築城させるなど武田を多いに疲弊させた北条の功責であって
織田は何もやってねーよハゲ
信長なんて国力的に格下相手の畿内平定戦で家康をこき使いまくったのに領土はおろか援軍すらなかなかよこさなかったじゃねぇか
どっちが恩受けまくってると思ってんだ
長年寡兵でろくな援軍もなく大国武田の侵略に耐え抜いてきた徳川の功責からすりゃ駿河だけではなく甲斐信濃もあげていいくらいだからな。
大国武田に単体で立ち向かうとか初めから無理ゲーなんだよ。
当時の徳川なんて三河+遠江7割程度だし
信長の畿内平定戦にいやいや付き合わされてるし
織田が武田に勝って滅ぼしたのは
長年寡兵で大国武田相手に敢闘してきた徳川と、ガチンコ侵略を受けながら、迅速な攻略と
2年にわたる甲斐侵攻によって新府築城させるなど武田を多いに疲弊させた北条の功責であって
織田は何もやってねーよハゲ
信長なんて国力的に格下相手の畿内平定戦で家康をこき使いまくったのに領土はおろか援軍すらなかなかよこさなかったじゃねぇか
どっちが恩受けまくってると思ってんだ
>>ろくな働きしなかったくせに
アホかお前w
長篠合戦時も鳶ヶ巣山砦を落とし勝利のきっかけをつくり
三方が原のときも織田の大軍は瞬殺されて使い物にならなかったが徳川軍は敗北後も浜松城に篭もり武田方は攻略諦めてるし
武田崩れの時も高天神城の時も徳川や北条軍の働きで武田は崩壊しただけで
織田方なんて何もやってねーよボケ
徳川の働きからいったら旧武田領全部徳川にやっていいくらいだわアホ
209人間七七四年:2013/12/11(水) 12:56:40.50 ID:TSLX/Wlx
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
直接対決で家康どころか信雄相手に135000も動員してわずか20000そこそこの織田徳川相手に
長久手で1万戦死者だす歴史的大敗
その後の攻防も二重堀で大敗戸木で負け松ノ木で負け東駒野で負け蟹江で負けと何一ついいところなく
1年かけて尾張半分すら切り取れず諦めて大阪に納馬しようとしてたら
たまたま信雄が和議にのってくれただけじゃねぇかww
しかも天正13年に石川木曽小笠原水野真田が徳川から離反し軍事機密露見
天正大地震と天正11年からの徳政連発で徳川領国がめちゃめちゃになったのに
秀吉はビビリまくって母と妹人質に出す醜態っぷりじゃねぇかw

天正11年の滝川征伐でもボロクズのようにやられてるよ
3/4柴田勝家→填島宛書状・滝川一益事書
大軍率いて滝川軍を攻め崩そうと出てきた秀吉は桑名攻防で一益の鉄砲隊と足軽隊を交差した奇襲戦術にあって大苦戦
結局柴田が倒れて単独で抗戦しきれなくなって降伏しただけだしそれまで兵糧攻めにしようとしても
抗戦が激しく手に負えない状態だった(桑田氏論文)
\秀吉は武力平定路線が不可能だと自身で悟り朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬

小牧長久手の戦いは7倍もの圧倒的兵力差がありながら
短期決戦しかけ三河方面への大規模軍事作戦が大敗により失敗
その後家康が後詰にこれない木曽川筋を圧倒的大軍でダラダラ攻め取るのがやっと
長久保奪われ神戸も奪われ蟹江でも負け戸木城でも松ノ木でも負け
おまけに夏の対陣でも圧倒的兵力差がありながら砦間の攻防で苦戦して退却
秋になって権力基盤がガタガタで北畠の傀儡状況だったほどの弱い信雄の領国に苅田や放火の応酬を行って
示威的行動してたらヘタレ信雄がビビって勝手に和議を結んだからなんとかなっただけ
秀吉が将軍というか朝廷権威によるよりも武力平定路線を歩んでいたが小牧長久手の戦いを契機に
朝廷への急速な接近をしていくのは近世成立記の大規模戦争論文でも学説でほぼ一致する所と言われてる
近世成立期の大規模戦争、小牧長久手の戦いの構造、秀吉の天下統一戦争、戦国織豊期の朝廷と公家社会
池上裕子氏「日本の歴史 15織豊政権と江戸幕府」
立花京子「織豊期研究」「秀吉権力と「天皇の静謐」」
このあたりも上記>>18と同じ見解を示している

秀吉は84年から頻繁に上洛したり御所を造営したり禁裏での饗応に参加したり
連歌興行に参加したり積極的に朝廷への接触をはかるようになるよ。
また秀吉がこれ以前にはほとんど見られなかった献上行為
が天正12年6月 秀吉⇒天皇 鳥、百羽
天正13年3月 秀吉⇒天皇 太刀代折り紙 銀百枚
       秀吉⇒誠仁親王 銀50枚
       秀吉⇒和仁親王 銀20枚
    7月 秀吉⇒天皇  白鳥三 蝶子三十
        ⇒誠仁親王  白鳥ニ 綿百吊 
        ⇒和仁親王  太刀
        ⇒若御方   料紙

と献品しまくり

また寺社衆への所領安堵もしまくっている    
長久手で一敗地にまみれた秀吉が朝廷を利用する事を考えたんだろう
また豊臣政権の政権基盤の弱さを象徴するのが外様大名の広域な版図だな
それも当たり前。軍事力で屈服させたわけじゃなく惣無事令通達による停戦で平定しただけなんだから
トップが死ねばあっと言う間に政権が崩れるなんて誰の目にも明らか
210人間七七四年:2013/12/11(水) 12:57:22.64 ID:bAzVjjxf
小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。

結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
秀吉自体が土下座と棚ボタと謀略で成り上がってきただけの人だから純粋な戦がゴミみたいに弱いのは仕方がない。
雑魚の毛利に連戦連敗するアホなんてそうそういないよ。
毛利なんて5万石程度の南条にすら攻略失敗したり20万石そこそこの宇喜多にも野戦でガチ大敗するくらい弱い軍隊なのに
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
211人間七七四年:2013/12/11(水) 12:58:01.58 ID:bAzVjjxf
>>秀吉は信雄を長島城へ追い詰めて屈服させてる。
信雄も家康も全く追い詰められてもなければ屈服もしてねーよクズ
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼しこれにまんまと信雄が乗って
しまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない。兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている。ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が
起きたりしている)天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する。四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた
2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる。其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず公事に抜かりないように。
信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす。2/10くらいには尾張迄出馬するなどと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている。
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
212人間七七四年:2013/12/11(水) 12:59:39.34 ID:MMJ/14Vo
フロイス日本史22章より。関白はすこぶる狡猾であったからこの二人の武将(家康と信雄)から、己が身の安全を確保した上でないと、
北条殿に対する攻撃を開始しようとはしなかった。それがために彼はこれらの武将たちに対して並々ならぬ愛情を示し
法外な好意を与え、その関係は主従というよりは、むしろ同僚に対してのように思われた。このようにして彼らは関白から強力な指示を得、
かつ彼と結ばれていたのである。
あるときなど、関白は家康を援助するために、金九万クルザード近くを無償に与えた程で、日本では例を見ない事であった。
さらに彼はこれらの武将にたいして、北条殿の諸国を制服した暁には、それらを彼らと分かち合おうと言い、漸次このやり方でもって
彼らを自らの支配と命令下に置く事を成就した。
そして彼らを政庁へ召還し、戦端を開くにさいして安んじて通過できるようにしようと、彼らの主城を明け渡し
さらに用心のためその守備兵を自分の兵と交代させたいと要請した。
…関白はきわめて抜け目なく用心深い人物であり彼らからは人質をとって常時手許に留めており時には贈賄によって篭絡するかと思うと
自らに有利とみれば厳重な懲罰をもって彼らに臨んだからである。
特に全ての武将達が関白に大いなる恐怖心を抱いていた。
関白は彼らに対してほしいままに振舞うを得たのである。
秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。

その後妹も同じように殺されてる。

秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね
213人間七七四年:2013/12/11(水) 13:01:15.00 ID:Lq/4HDO3
徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している。家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の
兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に
転進せざるをえなくなり不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で
手も足も出ず諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
北条徳川同盟が本格的に機能して北条軍徳川軍総力で対秀吉に臨めてたら確実に秀吉は戦死してただろうな。
135000の兵力があっても合計わずか16000程度の雑魚信雄に決戦で1万人ぶち殺される強さしか発揮できないレベルの指揮能力の秀吉なら
あと徳川北条の計40000が加われば確実に秀吉なんて討ち取れる。
開戦前から重臣がこぞって秀吉に人質を奪われていたために、あの会戦早々から領国が離反連鎖で崩壊状態の信雄ですら
松ノ木城・戸木城・浜田城・蟹江・前田・下市場・長久保・東駒野・二重掘・浜田城など秀吉に勝ちまくってたからね。
尾張でも石田毛利氏や毛利秀頼、松ノ木城近辺の諸将など会戦当初からあっさり信雄を見捨てててるのに
自力じゃ全くと言っていいほど秀吉は切り取れてないしな
確かに兵力の2乗=戦力だからね。
兵力が3倍程度に増えるなら、当然豊臣方の損害は史実の9倍の9万程度に増えるからな。
それこそ秀吉が討ち取られてていいレベルだろ。
214人間七七四年:2013/12/11(水) 13:01:55.55 ID:Lq/4HDO3
秀吉が実力で勝った戦なんてないよ。小田原合戦もほとんど徳川や上杉・真田・佐竹らが北条方の兵力が集中した下野・上野などの要衝を自力で落したのに対し
秀吉は24万もの規格外の兵力でもって500か1000しかいない韮山城や小田原城や忍城で醜態晒しまくってたからね。
結局わずか34000程度の北条に対し24万程度の瞬殺するに十分すぎる兵力で持って前田重臣や堀尾嫡男、一柳など重臣を悉く殺されまくって北条方の重臣が運よく戦意なし&伊達の帰参の影響などで
開城になっただけだし。
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
215人間七七四年:2013/12/11(水) 13:02:28.28 ID:MMJ/14Vo
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
216人間七七四年:2013/12/11(水) 13:04:40.68 ID:TSLX/Wlx
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
会戦当初から池田森津田富田八重羽津川尾張毛利両氏信包といった重臣連中が悉く寝返りがボロボロ出ていた上に重臣石川まで篭絡されていた織田徳川軍が一枚岩とか
とっくに軍閥化が完了し、誰も寝返らないどころか、最も外様であろう池田も森も丹羽も完全な上限関係と秀吉への必死な忠孝を行っているのが史料からわかるのに
敗戦原因を秀吉の指揮能力や采配能力ではなく、大軍ゆえに一枚岩ではなかったとか
徳川軍は結束していたとか他に押し付けようとする秀吉厨はガチで馬鹿だな

信雄家康は秀吉に圧勝したじゃん。135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
217人間七七四年:2013/12/11(水) 13:06:20.45 ID:INjHtQ3F
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
218人間七七四年:2013/12/11(水) 13:07:36.94 ID:bAzVjjxf
>>秀吉は天正12年戦役で家康を屈服させ
全く屈服してねーよクズ
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は
天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ
219人間七七四年:2013/12/11(水) 22:27:02.30 ID:FZ0We1Co
結局尾張半国からわずか20年で750万石まで急スピードで大拡張した信長は日本最高の名将だったって事だな

甲斐一国継ぎながら120万石どまりの信玄や
越後の富裕地元手にしても130万石止まりの謙信とは比較にすらならん
220人間七七四年:2013/12/12(木) 00:13:28.69 ID:yqRSKkn1
おいおいさっきテレビで見たんだが
安土城を平民に見学させて
最後にお金取ってたってマジ?
221人間七七四年:2013/12/12(木) 02:00:10.43 ID:vQ42RBc5
祝いの品とか贈り物とかを持って来ないで済むように、とも言われてるな
双方、気を使わなくて済むだろ見物料
222人間七七四年:2013/12/12(木) 05:04:38.42 ID:BpRmlmD3
>>131
恐怖だけで支配していたからだな
223人間七七四年:2013/12/12(木) 06:33:58.71 ID:BpRmlmD3
秀吉
指が6本あったんだってさ

ソース:三谷幸喜
224人間七七四年:2013/12/12(木) 08:17:07.30 ID:7NbDdC9k
.       ,、r‐''''''''''''''''ー 、
      ,r'         `' 、
     /             ヽ
.    / ,             ヽ
   ,,'  ;    ,、、,_  ニニ  ,、」、    俺は嫌な思いしてないから
   l.  :;;;i    ´ .._`ー   ‐''"....|     それに織田豊臣徳川らが糞味噌に叩かれようが俺の知った事ではないわ
   l:,;'"`'、,     ‐=・-;  -・=‐ ;〈     だって全員俺が嫌いな連中だし      
.   ';i l :::i;;,, ::'   ` ̄,:     ̄´ .:゙,   大袈裟に言おうがそいつらが無能でもなんとも思わん
    l;゙、',.::l;;;i     ゚人,,__,,人:..   l,   それは俺の頭の中では信玄公こそ戦国最強の存在だから
    l;;;;`‐;;;;;ヽ     , __ij..__ 、:  l;;;,,  つまり日本人なら武田信玄公を崇めるべき
. ,、rイ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ゝ    `Zエlフ'´ , !;;;;:'
'.:.:.l ll ;;;;;;;;;;;;;;;;;' ,rニン" ` ̄´´ `ノ;;;;;`-、
:.:.:.| l.l  '';;;;;;;;;;;;;;'         ,イ l'''  l `
:.:.:.:| ','、  '''''''''   , ‐---,ェr'".l.|  |  |
:.:.:.:|  ゙、゙、       `''''''''"",ノ l l  .|  |             菅沼 遼太
225人間七七四年:2013/12/12(木) 11:01:45.18 ID:B9yqALZh
信長はむちゃくちゃ金に汚いからね。
賄賂をとって贔屓してばっかり。
こんなんばっかりだから安国寺もアホwって呆れてるくらい。
年賀の挨拶で贈り物の量で自分への忠誠心をはかったり、
武具や馬具や刀剣や陶器茶器などに熱中してるけど、
コレクションはすべて献上品か召し上げによるものばかり。
疑われた秀吉はむちゃくちゃ長い贈り物の行列で播磨から安土城へ向かって忠誠心を表現してるほど。
逆に家臣団への褒美は超絶ケチっぷりどころか、
他家では自由に庶民やしょぼい坊主まで茶を楽しんでいたのに、
織田家臣になると茶ですら統制され、
茶をする許可すら褒美扱い。
だから松永や別所らが謀反するのは当たり前。
滝川なんて茶がやりたい一心で老人になっても働かざるを得ないほど哀れ。
超絶ブラック企業パワハラ経営信長の末路がああなるのも当たり前だわな。
226人間七七四年:2013/12/13(金) 16:29:43.42 ID:uAEbluGM
そのブラック藩に就職して損したのも
案外少ないかもね。
家臣には消えたのも多いが
役に立たないのはブラックだろうが
優良だろうがどっちみち消える。
チャンスがあるのに消えたのなら
無能だったんだろうなぁ。
227人間七七四年:2013/12/20(金) 09:29:46.67 ID:28XxpxCs
死ぬ直前までの今川義元の膨大な書状量と比べて、
同時期の信長の異様なまでに少ない書状量を考えると、
いかに信長が全く内政行政を放置して遊んでいただけなのがわかる。
義元はホント熱心に発給しまくってる為政者ぶりを示している。
逆に信長は無政府主義者かと思うほど。
この事実は、信長が分国法も軍役などの課役の統一基準明示も出来なかったことを重ねると、
見事に信長の無能さを客観的観点からも雄弁に表している。
228人間七七四年:2013/12/20(金) 10:50:08.00 ID:cAPemCnX
安土と一緒に燃えたんだろ
229人間七七四年:2013/12/20(金) 10:55:44.47 ID:28XxpxCs
安土が燃えると、何で発給を受けた人々の持つ書状まで燃えるんですか?
織田在日は頭が悪いんデスカ?
230人間七七四年:2013/12/20(金) 21:33:12.99 ID:cAPemCnX
在日菅沼か
何でもいいわ、お前は放置
231人間七七四年:2013/12/21(土) 08:01:51.40 ID:wGQ9lp3g
その無能な信長に簡単に騙され最後は呆気なく滅ぼされた武田家はもっと無能だったと言いたいわけですね?菅沼君
232人間七七四年:2013/12/21(土) 18:07:11.83 ID:n/8YLySC
在日が半島に帰ったら、こういう板ももっとすっきりするんかな。
待ち遠しい…
233人間七七四年:2014/01/27(月) 19:19:04.26 ID:hKKcRphZ
なんだ。この必死な曲解馬鹿の書き込みはw
めんどくさいやつだな
234人間七七四年:2014/02/01(土) 02:09:46.02 ID:eaHdj9mF
人気があるわりにはろくな小説がないな
235人間七七四年:2014/02/01(土) 09:15:47.44 ID:HdgwbUZZ
>>229
超ワロタwww織田厨バカ過ぎw
236人間七七四年:2014/02/01(土) 16:41:38.63 ID:u/lL6e8m
>>234
「信長の女」「信長影絵」はお勧め。
信長の女は幼少期の頃の様子が詳しく描写されていて
信長の幼少期の人生を想像しやすい。
実は、小さい時から頭のキレる少年だった、とかね
237人間七七四年:2014/03/09(日) 03:02:57.17 ID:Zi56iCd1
「信長影絵」はつまらない
238人間七七四年:2014/03/30(日) 02:10:59.17 ID:RNdWAt9R
●織田信長統一年表
┏━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃1561┃桶狭間の戦い(今川義元負敗死)     ┃
┃1567┃斎藤氏を滅ぼし、美濃へ進出       ┃
┃1568┃足利義昭を奉じ、入京          ┃
┃1570┃姉川の戦い(浅井・朝倉氏の連合軍を破る)┃
┃    ┃石山戦争の開始             ┃
┃1571┃延暦寺焼打ち              ┃
┃1573┃将軍義昭を追放(室町幕府滅亡)     ┃
┃1574┃長島の一向一揆平定           ┃
┃1575┃長篠合戦(武田勝頼を破る)       ┃
┃    ┃越前の一向一揆平定           ┃
┃1576┃安土城築城(〜79)          ┃
┃1577┃雑賀の一向一揆と戦う          ┃
┃1580┃石山戦争終わる(本願寺の屈服)     ┃
┃1582┃天目山の戦い(武田氏滅亡)       ┃
┃    ┃本能寺の変(信長自刃)         ┃
┗━━━━┻━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
239人間七七四年:2014/04/05(土) 20:30:48.39 ID:jvZZrLnM
織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座りしままに 食うは徳川
240人間七七四年:2014/04/05(土) 21:45:42.97 ID:ZFOMxPYJ
史実通りでいうなら織田がコソ泥し、羽柴が背後から横取りした天下餅。
地道にこねて完成させた家康って所だろうな
241人間七七四年:2014/04/05(土) 21:48:30.53 ID:U4kGURUP
信長や秀吉は地の利や自国の国力に馬鹿みたいに恵まれてたからね

道三・義龍・龍興と三代続けての内紛とクーデター騒ぎで弱体化しきった斉藤
木造・長野・神戸・関・北畠など完全に内紛で弱りきった伊勢。
遠州騒乱と松平独立で弱体化しきった今川
観音寺騒動と対浅井の敗戦で極度に弱体化しきった六角
三好や松永らの反逆で権威が落ちきり信長に助けを求めてきた足利将軍家
守護の赤松・小寺・別所など衰退した弱小勢力しかいない播磨但馬丹波。
石高がわずか12万石しかない摂津
242人間七七四年:2014/04/05(土) 21:50:18.59 ID:p8hXsFYo
そりゃ信長がチートスタートなのははっきりしてるだろ。
そもそも信長が大名への返礼で虎や豹の皮や絹織物と言った唐国からの輸入物ばっかり贈ってる時点で経済的屈強さを物語ってる。
今川戦にしたって天文23年には信長は斎藤軍の援軍をもらい、知多半島の尾三国境にある村木城を奪い、
お隣の刈谷城の水野の安全保障を示すことで知多半島戦線を優位に進めてる。
つか発生年代からして超デタラメな桶狭間の戦いって捏造軍記だろ。
後世に作りだされた写し以外の原本確認できる一次史料からわかるのは義元が不慮になったと書いてあって、
思いがけない突然死があったと書いてるだけで、ムリくり桶狭間の戦いと結びつけているだけだし。

そもそも米による収入以外に商業による上りと税関収入がある。
信長の祖父の信貞が勢力を拡大させたのは木曽川と伊勢の通商路の津島社とその門前町と港を支配できたから。
そして信秀も熱田社とその門前町と港を支配し伊勢と知多半島に渡る商業圏を手に入れたから。
祖父や父によって二大商業圏を手に入れていたことで織田は抜きん出た国力を持つ強国を成立させていた。
それは朝廷への圧倒的献金額でもはっきりしている。
博多を押さえさらに中国との貿易をしていた大内ですらカスレベル。
243人間七七四年:2014/04/05(土) 21:50:51.43 ID:axp/ZMHL
信長があれほど簡単に畿内での支配が可能になったのは
1561年に 十河一存 斉藤義龍
1562年 三好義賢
1563年 細川晴元 細川氏綱 三好義興
1564年 安宅冬康 三好長慶
と相次いで主要人物が馬鹿みたいな勢いで死んでいき有力者が誰もいなくなっちゃう。
これで畿内は力の空白が生まれたんだな。
特に父祖に劣らず器量に勝りて一度は天下の乱をも相鎮めた人なりと
賞賛された長慶嫡男三好義興が22歳で死去したので長慶がボケ老人になったのが痛かったな。
この畠山高政と六角義賢の挟撃策に三好義興が芥川城で指揮して勝利したことで事実上、
畠山氏と六角氏が決定的に衰退することになり果て将軍を巡るシーソーゲームに終止符が打たれた。
そして三好は分裂崩壊し、大仏を燃やした天皇は激怒し疲弊しきった勢力群の外側にいる信長に上洛を促すことになる。
244人間七七四年:2014/04/05(土) 21:52:19.96 ID:axp/ZMHL
義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が
斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけ。
その上さっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし本願寺は信長に贈り物攻勢してる。
11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先)
信長上洛成功はお膳立てされてのこと。さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になるし。
245人間七七四年:2014/04/05(土) 21:52:44.98 ID:g5P/gWWn
菅沼遼太の珍説炸裂
246人間七七四年:2014/04/05(土) 21:52:57.50 ID:axp/ZMHL
義昭を報じて上洛しようとした織田家は初戦で三好軍と戦い岐阜へ敗走した後
多聞院日記永禄11年9月19日京極、朽木、浅井らの使者が観音寺城に
出仕してきて屋形六角義賢に申し上げるには、すでに裏切った箕作の軍勢は一万二千になり、
その上和田山の建部源八兵衛、吉田出雲守等も寝返り義弼(義賢の弟)に味方した、
さらに勢州国司北畠氏が鈴鹿越えで近日当国に入ると伝え聞いており、
これ以上戦を引き延ばせば却って逆襲を招くので降伏してくださいと伝えた。
六角攻略で実は織田家は一切触れられてない衝撃の事実w
信長の上洛戦を支援するために三好義継が河内津田城と久秀がいる大和多聞城を行き来し指揮を執り、
それに呼応していた畠山軍は三好三人衆の経済的権力の源泉である堺で攻防戦を繰り返して三好三人衆を疲弊させていた。
その隙を見て美濃立政寺へ移動した義昭を追って、石成友通が近江へ入り六角承偵親子と戦準備しているのを阻止するため
信長の気がまた変らないうちに義継と久秀が東大寺戦線で一斉反撃に出た。東大寺戦線が崩壊すると京が占領されてしまうので
9/4には再度、石成が東大寺戦線に駆けつけてる。これで兵力不足を見た信長が9/7に上洛戦を開始。
しかし石成は電撃的に近江戦線へ駆けつけて織田軍を9/8に大破し、また東大寺へ戻ってる。
247人間七七四年:2014/04/05(土) 21:54:26.27 ID:9DQ40g3d
珍説も糞も事実じゃん。
248人間七七四年:2014/04/05(土) 21:57:29.68 ID:g5P/gWWn
菅沼遼太史観の中では事実として扱われているよねw
249人間七七四年:2014/04/05(土) 22:03:07.75 ID:6Vs1iyeP
菅沼史観もクソも誰でも事実として知ってる事。
認めようとしないのは織田厨だけじゃん。
250人間七七四年:2014/04/05(土) 22:04:38.59 ID:9DQ40g3d
都合が悪くなると菅沼やだが、コピペなどという発言を持ち出して事実から目を背けるのが織田厨の得意技
251人間七七四年:2014/04/05(土) 22:40:53.08 ID:tkpOn185
あの中入り作戦は秀吉が立案したもの
敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。

池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。

二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。

あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉。

正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。

秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因

当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、
ただ単純に手出し云々というより秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる
252人間七七四年:2014/04/05(土) 23:25:47.70 ID:g5P/gWWn
誰でも知っている事実というのは武田が糞雑魚で滅亡したという
教科書に載っているようなのが事実
菅沼史観の話はどこにも載っていないじゃんw
あ、2chのレスには載ってるねw
253人間七七四年:2014/04/05(土) 23:30:41.06 ID:g5P/gWWn
>>250
単発でお怒りだけどどうかしたの?w
菅沼遼太は織田厨が作り出した偶像って声高に言ってたよね?w
こっちが菅沼だのだがだの言うとすぐ食いつくけど何か嫌なことでもあったのかな?w
254人間七七四年:2014/04/05(土) 23:37:20.35 ID:yCHlcQuj
>>247
確かに歴史が好きな人とか詳しい人なら誰でも知ってるよね。
>>252
何それ?(笑)
織田厨の創作した八幡和朗史観教科書かなんかか?w
>>250
まともに反論できないからコピペやレッテル貼りや罵倒で逃げる。
まともに反論できるorコピペが誤りなら、ちゃんとそれを論破したレスが残ってるはずだからね。
255人間七七四年:2014/04/05(土) 23:39:23.20 ID:nxSWUv8A
そもそも2ちゃんにコピペが禁止なんてルールはないです。
歴史の事例は、膨大な事績を追う事だから必然的に、量は多くなる。
よってコピペによって手間を省くのは至極当たり前の事。
256人間七七四年:2014/04/05(土) 23:40:20.82 ID:yCHlcQuj
基本的にコピペだの菅沼だのだがだの言う奴が現れたら
織田厨が論破されてると思っていい。
まともに反論できないので答えに窮して他の事に摩り替えてるって事だからね。
257人間七七四年:2014/04/05(土) 23:41:30.18 ID:mQj6K+ta
その通り。
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1390317350/

武田厨が織田厨を論破したレスならスレッド内を検索すれば山ほど出てくるが、逆はほとんどないからね。
それで一回二回武田厨が論破されただけなのをもって、ほとんど織田厨が勝ったみたいにアホな妄想してるのがウンコ織田厨クオリティ。
258人間七七四年:2014/04/05(土) 23:42:47.06 ID:yCHlcQuj
コピペが負けならコピペが論破されてるというリンクで指摘できるはず。
それがないんだからコピペ側の勝利で議論は終わってるのは普通の人間ならわかる
259人間七七四年:2014/04/06(日) 13:12:05.40 ID:JTMOi1J1
また織田チョンの自作自演か。
相変わらず気持ち悪いな。

織田チョンによる偽だがの見分け方。

昔のだがレスを盗用してコピペ爆撃する。
だがは秀吉擁護であり、
偽だがはアンチ秀吉である。
織田チョンが装う偽だがは、秀吉の功績は信長のおかげであり、秀吉は無能だと主張し、信雄を必死に擁護する。
アンチ秀吉コピペレスは、だがに対する反論になっているので、
織田チョンが主張するだが像がデタラメであることがわかる。
アンチ秀吉コピペ爆撃荒らし行為を織田チョンは絶対に非難しない。
260人間七七四年:2014/04/06(日) 13:15:28.38 ID:lH+TPOFJ
菅沼遼太www
菅沼遼太wwww
菅沼遼太wwwww
菅沼遼太wwwwwwwwwwww
261人間七七四年:2014/04/06(日) 13:41:53.22 ID:VdBMPJLh
悉く打ち砕かれた秀吉厨のアホな妄想 と、それを論破したレス集


http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1300866218/85-97
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1300866218/98-107
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1300866218/128-137
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1300866218/l44-157

http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/388-400
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/402-406
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/488-411
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/415-428
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/430-434

http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/287
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/289
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/291
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/294-296
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/298
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/300-304
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/306-309
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/311-313
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/317-324
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/327-329

http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/332-340
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/344-346
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/348-350
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/355-357
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382779334/359-371
262人間七七四年:2014/04/06(日) 13:58:58.91 ID:Aafe2AWz
菅沼くんは自分の考えを簡潔にまとめることをできないのさ。温かく見守ってあげようよ。

とはいわず、我慢にも限度はある。

そこで菅沼くんには以下を義務付ける。

菅沼勧告9カ条

1.レスは3行にまとめること
2.同スレへの連続投稿は禁止
3.議論に負けそうでもコピペしないこと
4.史料の掲載は不要。
5.IDを替えても同スレへの連続投稿は禁止
6.誹謗中傷のレスには一切反応しないこと
7.他人が10行以上のレスをしていても、3行以内に抑えること
8.他人が連続投稿をしてきても、連続投稿はしないこと
9.他人がコピペしてきても、コピペしないこと
263人間七七四年:2014/04/06(日) 16:44:47.05 ID:BSF/eprI
535:人間七七四年:2010/07/21(水) 21:18:01 ID:BXSqZfpV
>>531
キミの宣言を忘れたのか?
>>533
後に宣言したのはキミだからキミがやるべきだろう
>>534
宣言や約束を守るのは当然だろう?
ニーとだから織田アスペルガーはそんなこともできないのか?



536:人間七七四年:2010/07/21(水) 21:19:05 ID:BXSqZfpV
傍で見ていたけどあまりにも織田アスペルガーはひどすぎるよ(笑)
善良な一般人 として突っ込みをしようと思うんだ(爆笑)
264人間七七四年:2014/04/06(日) 19:50:27.55 ID:gROyYTg0
また織田半島人の自作自演…
躁鬱病って怖いな。
265人間七七四年:2014/04/07(月) 00:46:08.50 ID:sJuqeR+0
菅沼遼太さらしage
266人間七七四年:2014/04/08(火) 23:13:50.49 ID:KdjfKqqc
ねぇねぇ、キリスト教って湯田屋教がモデルの湯田屋人が考え出した宗教ですよね
だってイエス様は湯田屋人なんですからね
それをアングロなどのヨーロッパ人が信仰して侵略してるんですよね

湯田屋の世界制覇戦略の手先になってるのがキリスト教なんだよねぇ
十字軍遠征の昔っから

日本でも戦国時代からそうだよねぇ
湯田屋人がエグイ強欲なことしても恨みを向けられないようにキリスト教を巧みに利用してるんですよ

異教徒はできるだけ惨たらしく殺せっていう教義があるような宗教ですからねぇ

織田信長は湯田屋の力と知恵を借りて日本の統一をしようとしたんですね
だから常識破りの戦術を使い、名もない小大名が天下人にまで成りあがった
信長が日本の仏教徒を残虐に大量殺戮したのも理解できますよね

明智光秀はファインプレーをしたんじゃないのかねぇ
あのまま信長が生きてたら皇統もヤバかっただろうし日本はキリスト教になり
ローマ法王の配下国になってたろうな
267人間七七四年:2014/04/09(水) 18:44:26.84 ID:y/il+gZr
信長は天皇制廃止までは考えていないだろ。
ただ天皇を越える新たな位を作ってそれに就任した可能性は否定できないが。
268人間七七四年:2014/04/09(水) 20:18:01.11 ID:LF7xZMN8
妄想ばっかりだなこのスレ
269人間七七四年:2014/04/09(水) 22:01:54.29 ID:aA+2iLYD
菅沼遼太が荒らしているからな
270人間七七四年:2014/04/27(日) 19:28:04.54 ID:h03gZpR4
信長は目標を与え、それが達成できないと佐久間信盛のようにリストラしてしまう。
領地に応じた軍役を命じたことがないのも、まともな検地が執行できなかった無能の証明。
信長は石高制どころか貫高制も失敗してるために、
軍役を課すためのベースとなる収穫高や収入が把握できていなかった。
そのためにいきあたりばったりの政策にならざるをえなかった。
また先進大名家ではこの時期になると、領民からの税収を把握し、それに応じた労役を命じていたが、
さらに進んで過当な課役を禁止するために軍役を明示し上限を設けるという性格のものとなっている。
つまり信長の軍役には上限が設けられておらず、果てしない課役を命じられている証明にもなる。
また配下武将に対しては、軍事目標の速やかな達成を命じられており、
上限のない軍役を強いられることを意味し、それに対する反乱・一揆をいかに起こされないように
各武将の「才覚」を期待するというトンデモないものと
反乱一揆には撫で斬りによる虐殺報復という「武辺道」により何でも解決するように要求される。
これが信長の経営方針がブラックと呼ばれる理由である。
そして信長が本願寺を後援していた黒幕だった雑賀、根来、高野山、粉河らが組織する紀伊共和国
に敗北してしまい畿内統一に失敗し謀反死する結末を誘引した無軌道な暴君であえう証明でもある。
フロイスが紀伊共和国って書いてるのも知らんとか無知すぎる。
信長公記の捏造歪曲を信じててキモち悪いわw
フロイスも彼らが本願寺を後援していたと書いていて、
傭兵集団として本願寺に雇われていたなどとは書いてない。
まったくの無知だなお前w
271人間七七四年:2014/04/27(日) 19:28:54.38 ID:h03gZpR4
信長公記なんて捏造ばっかじゃん。
桶狭間合戦が1553年とかw
松永久秀の降伏時期を一年も前倒しして信玄西上中のことにしてたりwww
赤松七条家の城だから織田側は七条城って書状に書いているにも関わらず、
信長公記には上月城と毛利方呼称で書いてたりw
公記に書いてる村井が天下所司代に任じられたとかそんな事実ないしwwwそれ豊臣政権の京都所司代のパクリwww
信長公記にあね川合戦の事って書いてある時点で
公記は一次史料ではなく軍記小説でしかないんだよ。
リアルタイムに記録されていたのなら、織田と浅井は野村合戦と呼称し、
朝倉なら三田村合戦と記述しないとおかしいんだから。
加茂郡西部を信長公記は高橋郡と書いている。
これは武功夜話並みに怪しい地名名。
アホ長公記の学者は信長が高橋郡と名付けたなどと笑える言い訳をしている始末www
公記は首巻が終わっての巻一の冒頭からして三好長慶が義輝を殺したと書いていて
もういろいろとダメすぎるだろ。
公記ってむちゃくちゃデタラメだよな〜。
信長が秀吉にあげた茶湯道具の数を、
12個も褒美にくれたとか吹いてるが、
今井宗久&今井宗薫宛の秀吉書状に書いてある茶器道具名を見ると実際はたった8個だけwwwwwww
ウソまで吹いて信長さまありがてぇありがてぇマンセーカッコわりいwww
一次史料の義昭書状には、
信長を御父などと呼ぶ書状は無い。
信長公記に載る信長宛の義昭書状にある御父の文字はなんなんだwww
馬鹿馬鹿しい厨二病っぷりで敬称を追加www
信長公記→安土城築城において蛇石と呼ばれる巨石を信長公が巧みに指揮して上まで上げた。
フロイス日本史→指揮に失敗して蛇石が下に落ちて150人の人夫が下敷きになり死んでしまった。
全く正反対の記述が為される時点で、
信長公記が無敵信長マンセー糞軍記なのがわかる。
勝者が捏造する歴史についての小和田哲男のコメント
「信長公記だけを読むと信長が常に勝ってばかりいて負けたことが無かったと誤解する」
むしろ本格的に研究したい人間は絶対に嘘長公記を読んだらダメだな。
無意識に洗脳されてバイアスかかっているのに気づかず、
意味不明な常識を持ってしまうリスクしかない。
そして一次史料を軽視しまくって、
信長研究者=公記研究者になってしまってるからな。
現在の織田研究者はこれらの成れの果てばっか。
だから学術的な発表はほとんどなく、
公記マンセーした似たり寄ったりの著作ばっかりを出して楽して金稼いでる守銭奴ばっか。
フロイスのはバチカンへの公式報告書だから一次史料で、
信長公記は信長マンセー軍記小説。
272人間七七四年:2014/04/27(日) 23:40:09.07 ID:zglfmmxJ
ごみ菅沼遼太の駄文
273人間七七四年:2014/04/29(火) 15:12:34.91 ID:rhXaMjeb
ぶっちゃけ、信長って反社会的アスペで、
なおかつ精神障害の快楽連続殺人犯だよな。
274人間七七四年:2014/04/30(水) 00:40:03.58 ID:a63KsiAP
ぶっちゃけ、菅沼遼太って反社会的アスペで、
なおかつ精神障害の快楽連続荒し犯だよな。

まんま過ぎてワロタ
275人間七七四年:2014/04/30(水) 08:46:03.53 ID:rvFixfPy
建設途上だった大坂城を襲おうとした高野山を中心とした紀伊共和国を瞬殺した秀吉は天才。
これで和泉南部、大和南部、紀伊、伊勢南部を完全平定し、
秀吉は畿内統一に成功。
秀吉は武装解除した高野山には援助を与える人徳すらあった。
また紀伊共和国の軍船を動員させ一気に四国平定まで行う壮大さ。
また秀吉直轄四国出兵軍が四国へ行く必要も無い程にうまく進みつつあったために、
余剰戦力となり秀吉は越中へ進軍し同時に北陸平定までしてしまい、
信雄に続いて、紀伊共和国と佐々成政という同盟軍を見捨てて、
ひたすら震えビビっていたヘタレ家康は完全にメンツを失った。
276人間七七四年:2014/04/30(水) 11:33:44.73 ID:fUl9lofo
>>建設途上だった大坂城を襲おうとした高野山を中心とした紀伊共和国を瞬殺した

家康に土下座して和睦した隙をついて、孤立無援の、雑魚国力の勢力をこれ見よがしに棚ボタ的に火事場ドロしただけじゃん。
豊臣の国力からいえば各地に散在する勢力なんて蟻みたいな雑魚でしかないんだし家康に土下座して和議を結んで、孤立無援にさせた上で、その隙にドロボウしただけ。

>>和泉南部、大和南部、紀伊、伊勢南部を完全平定し
和泉南部→天正10年時点でとっくに秀吉方勢力圏。小牧長久手合戦の時、秀吉は和泉の国の中村らに宛てて書状書いてる。
大和南部→天正10年時点でとっくに秀吉方勢力圏。多聞院日記を読んでも大和一エンは秀吉に属し候などと書いてて、大和で反秀吉方がいたとは全く読み取れない。
紀伊→10万石そこそこの雑魚。一揆勢首魁の雑賀孫一もとっくに秀吉と講和するなど弱体化。信長が攻めてたおかげで雑賀一揆自体大幅に弱体化。
伊勢南部→天正12年戦役で秀吉が信雄方諸侯が悉く寝返り、家康が尾張に転進した隙をついて、コソドロしたから
既にとっくに秀吉方。
>>秀吉は武装解除した高野山には援助を与える人徳
そんな事やってない。
>>紀伊共和国の軍船を動員させ一気に四国平定まで行う壮大さ。
わずか70万石たらずの長宗我部討伐すら秀長まかせにしきりで毛利の同盟要請と河野や十河などの在地勢力に頼りきりの完全なる他力本願雑魚。
>>秀吉直轄四国出兵軍が四国へ行く必要も無い程にうまく進みつつあった
結局毛利と四国の河野十河などのおかげってだけだろ。長宗我部なんて60万石いってないだろ。
讃岐にも阿波にもまだ敵がいたし。
>>信雄に続いて、紀伊共和国と佐々成政という同盟軍を見捨てて、
>>ひたすら震えビビっていたヘタレ家康は
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼しこれにまんまと信雄が乗って
しまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
277人間七七四年:2014/04/30(水) 11:38:19.22 ID:fUl9lofo
秀吉が顕如に土下座して必死に信雄との仲介取り成しを依頼して、信雄がマンマとこれにのって和睦したから、停戦になって、停戦の条件として秀康が秀吉の養子になっただけ。
秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
278人間七七四年:2014/04/30(水) 11:39:46.00 ID:fUl9lofo
そもそも伊勢占領といっても、津川・岡田など信雄三重臣ですら、秀吉方に篭絡されてる有様だったし
関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・ 八重羽・小島などの伊勢の諸勢は秀吉と交戦前ですらあっさり信雄を見捨てて
秀吉についてるもんな。そんな雑魚統制の中、池田や森らが当初の予想に反して秀吉に付いたため家康方が伊勢方面から尾張方面に転進して
伊勢ががらあきになって秀吉方はその隙をついて伊勢をコソ泥できただけだし自力ではほとんど攻め取れてない。
家康方は3/7陣ぶれ3/8岡崎から矢作川3/13津島3/14伊勢の桑名と移動し信雄は桑名に出陣していた水野に3/13になると
その先の戦場として想定される伊勢神戸へ出陣要請している。之に加え、佐久間・中川ら重臣も桑名方面に出陣
特に中川は美濃尾張国境の犬山城主であり、この事は織田・徳川全軍が、桑名近辺に集結したことを意味する。
ところが3/13信雄方が味方と信じていた池田森に一日でがらあきになった犬山を攻略された事に対応して徳川は伊勢戦線から離脱し尾張へ向かう
同日伊勢安野津の織田信包も秀吉方になり、南伊勢は信雄から秀吉へ寝返った神戸・関・田丸ら国人連中らも含めて秀吉方の独壇場となる
あと秀吉が「信雄への寝返りを気にして三河方面への別働隊に組み込んだ」なんて妄想はしらん
秀次や長谷川・堀・木下兄弟など信頼に足るべき連中らとともにきわめて重要な敵地への行動させてる時点で秀吉が池田・森らを信じていないとする根拠なんぞない
特に秀次は秀吉の数少ない一門衆で後継者候補。木下兄弟も秀吉に非常に近く堀や長谷川も本能寺後一貫して行動をともにし、もはや譜代といっていい連中
対して信雄家臣の吉村高木毛利滝川雄利なんてなじみのないもいい所の外様家臣
吉村なんて信雄に付き従ったのがつい去年だしな
そんな信雄の領国状況無視して秀吉が味方の寝返り気にしてどうこうとか完全に妄言もいい所
信雄が家康の離反気にして小牧山から思うように行動できなかったとか
家康が石川の離反気にして思うように命令できなかったとかいってるのと同じ(石川はこの頃から秀吉に通じだしてると三河物語にあるし水野も翌年秀吉に寝返っている)

天正12年3/12秀吉→関一政で信雄方の林与五郎が亀山城へ攻撃してきたが防戦した事を了承
さらに3/13秀吉→丹羽で小島・関は味方になったと書いてる
3/15にも秀吉→関や3/17秀吉→田丸で峰城攻防での奮戦を賞賛されたり松ヶ島攻防での指示を事細かにしてる
そもそも信雄三重臣ですら秀吉に篭絡されてたしそいつらを信雄が粛清した事でボロボロ連鎖的に秀吉方に寝返りが続いてる
岡本良勝も秀吉方だし小島にはその後秀吉は直接木造攻めの指示を事細かに出してる

秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)
279人間七七四年:2014/04/30(水) 11:40:57.67 ID:fUl9lofo
信長の頃は顕如が紀伊一揆の味方だったくらい強大だったが、秀吉の頃になると相当弱体化してて、顕如も全く干渉なしどころか
秀吉方で動いている。確か鈴木重秀?ら主だった部将も既に味方だったはず。信長が力を大幅に殺いでいたおかげで
雑賀は雑魚になっていてくれたおかげで、秀吉は自国の兵力を集中させて雑賀攻めに取り組み事ができただけ。
当時の秀吉は1000万石、雑賀は5万石程度だし、こんなアホな戦を失敗する部将は秀吉くらいしかいない。
運よく秀吉は此の戦を部下に任せたからうまくいったが。
>>位攻めでわずか一ヶ月かからず秀吉は制圧
信雄や家康が怖くてビビリまくって、和睦した隙に、少しでも敵領土を削って味方を強大にするために雑魚イジメしてただけじゃん。
孤立無援の、雑魚国力の勢力をこれ見よがしに棚ボタ的に火事場ドロしただけじゃん。
当時の秀吉の領土は畿内一円に、毛利・上杉・宇喜多・木曽・信雄。
高野山なんて10万石いかないかわからん雑魚なんていじめて何が凄いんだよタコ
秀吉軍畿内総結集すれば15万くらいいくだろ。 5000もいくか怪しい高野山なんて、馬鹿でも叩き潰せるわwこんな指揮采配能力と全く関係ない雑魚イジメで
将の資質や戦のうまさなんてとわれねーよクズ。
豊臣の国力からいえば各地に散在する勢力なんて蟻みたいな雑魚でしかないんだし家康
280人間七七四年:2014/04/30(水) 11:41:38.88 ID:fUl9lofo
>>年が明けるとすぐ信雄にあって秀吉への取次ぎを頼んだ。
はあ?取り成し頼んだのは秀吉であって家康じゃねーよクズ。
なんで豊臣に従ってもいない家康が、豊臣の配下になってた信雄に取り次を頼める立場にあるんだよアホ。
信雄はその時期もう完全に秀吉の配下であって、秀吉の意で動いてたんだから、秀吉が必死に戦いを避けるために
家康への仲介を依頼しただけだろどうみても。

秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
281人間七七四年:2014/04/30(水) 11:42:17.11 ID:fUl9lofo
>>秀吉に臣従する以外に生存する道が無くなった
家康は秀吉の威圧行動と対真田の敗戦や上杉景勝の川中島侵攻や天正13年夏の領内大地震や木曽小笠原石川水野真田の離反とそれに伴う領国機密露見
といった、種種の領国崩壊要素があり、秀吉からしてみれば半月で瞬殺できそうな状況で、天正13年秋から天正14年初頭まで上杉木曽真田など諸大名や家臣に当てて
天正14年初頭の三河出兵計画を散々書いて、重臣一柳にもその実行のための行動を命じておきながら
いざとなるとビビリまくって信雄に仲介を必死に頼んで、戦闘を回避した上に
母や妹を差し出して家康に土下座してるんだがw
家康は暢気に岡崎や浜松で北条との同盟強化や諸城普請や人質招集など
領内の防衛体制を構築してただけで、秀吉に従属する構えは全く見せてなかったなんだがw
>>家康が沼田問題で指導力発揮出来ない無能なことが露呈した会談
何それ指導力って(笑)北条が真田の領土問題で援軍をよこさなかったため
北条からの加勢を得る事や北条との結束を強化する意味で浜松会談や真田との戦いに挑んだだけじゃん
家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
天正13は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
282人間七七四年:2014/04/30(水) 11:49:21.91 ID:fUl9lofo
看羊録

家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。

家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。
>>家康は信雄に秀吉との和睦をすがった
全くすがっていない。家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる

下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな


>>年が明けるとすぐ信雄にあって秀吉への取次ぎを頼んだ。
はあ?取り成し頼んだのは秀吉であって家康じゃねーよクズ。
なんで豊臣に従ってもいない家康が、豊臣の配下になってた信雄に取り次を頼める立場にあるんだよアホ。
信雄はその時期もう完全に秀吉の配下であって、秀吉の意で動いてたんだから、秀吉が必死に戦いを避けるために
家康への仲介を依頼しただけだろどうみても。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
283人間七七四年:2014/04/30(水) 11:49:47.49 ID:fUl9lofo
>>もうビビッて有楽斎に、信雄との冷え切った関係の修復の斡旋
そんな事全くやってないし、全くビビってない。下記をよめばわかるが秀吉のが圧倒的にビビってる。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな

>>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく
だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。
家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw
>>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく
しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり
侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して
なんとか家康がこれに応じただけだし。、
>>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉
家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙
>>秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍だった
はぁ?
秀吉に対して信雄や秀信が恩があるわけねーだろクズw
信雄→主家簒奪に一時的に当主に祀り上げられながら、その後たいした理由もなく攻め込まれるなど
散々利用され、結果的に屈服を余儀なくされ、その後も無理矢理いちゃもんつけて改易
秀信→当時幼少だったにもかかわらず、秀吉の簒奪のために名目上の織田家当主として祀り上げられ
その後は秀信はほとんど無視の傀儡と化すほど、秀吉の勝手きままな専横によって織田政権は事実上崩壊。
主家を簒奪し滅ぼした張本人の秀吉に対して利用されただけの信雄や秀信が恩があるわけねーだろw

>>石川数正や小笠原らが家康を見限り、秀吉陣営に鞍替え

石川は天正12年春の時点ですでに秀吉に篭絡されつつあったのが三河物語や松平記などでわかるし
小笠原は石川が小笠原の人質を連れて秀吉の元に逃げ込んだから鞍替えしただけ(織豊政権と東国、小笠原貞慶考)
木曽なんか天正12年時点で離反してるし真田も小笠原も天正壬午の時の空手形や北条との領土交渉
など信濃内での領土問題で家康に不満もって離反しただけなのに無理矢理家康の天正13年の行動と結びつけるとか相当馬鹿だな
ウザイからさっさと出てけよクズ野郎

>>和睦を成したあと、秀吉に上洛して来いと言われた
そんな事秀吉は言ってない。秀吉は直前まで出兵計画立ててたが
いざとなるとビビリまくって、信雄送って仲介やってもらった上に母や妹まで差し出して必死に土下座して戦いを避けただけ。
>>殺される恐怖から上洛だけは嫌がるヘタレ家康。
殺される恐怖ではなく、秀吉をナメくさって暢気に過ごしてただけだろ。前年には北条との同盟強化や浜松会談など、
秀吉の三河出兵計画や、木曽小笠原石川水野真田の離反や逸れに伴う軍事機密露見や天正13年夏の大地震、対真田の敗戦など
種種の領国崩壊要素があったにもかかわらず、秀吉の討伐計画に対して、全く危機感0で暢気に無視していただけなのが家康
284人間七七四年:2014/04/30(水) 11:51:03.96 ID:fUl9lofo
>>親家康勢力はすべて屈服し、助け舟も出せず見殺しにした家康
なんで前の年に秀吉の顕如に必死に土下座してに和議に応じてやった後なのに
秀吉に自分から寡兵で攻め込まなきゃ無能になるんだよタコ
>>もうビビッて有楽斎に、信雄との冷え切った関係の修復の斡旋
そんな事全くやってないし、全くビビってない。下記をよめばわかるが秀吉のが圧倒的にビビってる。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
>>高野山や長曾我部や佐々らを見捨
なんで前の年に秀吉が顕如に必死に土下座して取り成しやってもらっての和議に家康が応じてやった後なのに
和睦を反故にして自国の14倍位の国力の秀吉に自分から寡兵で攻め込まなきゃ無能になるんだよタコ

>>最後は娘婿の北条まで見捨てるヘタレっぷりの家康。
秀吉が北条徳川同盟にビビリまくって、「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに母や妹を差し出したり
顕如や信雄に必死に土下座して取り成しやってもらって、やれやれと思った家康がしょうがねえなとばかりに応じただけじゃん。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
家康が弱りまくった隙をついて着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
>>島津や伊達も家康のヘタレっぷりには失望
ハイハイ、ソースなし。
285人間七七四年:2014/04/30(水) 11:54:17.71 ID:fUl9lofo
>>あまりにも見事かつ完璧に秀吉に敗北した事を意味した。
家康に土下座和睦して後ろの心配をなくした上に上杉や毛利や宇喜多や木曽らの力に頼りまくって
雑魚イジメした事の何が敗北なんだよアホ
>>紀伊惣国一揆を従属させた秀吉は彼らの船を総動員してすぐさま四国に攻め寄せ圧倒
これも信雄や家康が怖くてビビリまくって、和睦した隙に、少しでも敵領土を削って味方を強大にするために雑魚イジメしてただけじゃん。
>>秀吉が天才と呼ばれる所以は高野山を速攻で制圧
当時の秀吉の領土は畿内一円に、毛利・上杉・宇喜多・木曽・信雄。
高野山なんて10万石いくかいかないかわからん雑魚なんていじめて何が凄いんだよタコ
>>第二陣として出陣してきた信雄と秀康らの軍が雑賀に着陣してきた時にはすでに平定してしまっていた程の巧者
はぁ?秀吉軍畿内総結集すれば15万くらいいくだろ。
5000もいくか怪しい高野山なんて、馬鹿でも叩き潰せるわwこんな指揮采配能力と全く関係ない雑魚イジメで
将の資質や戦のうまさなんてとわれねーよクズ。
そもそも豊臣政権自体が単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
286人間七七四年:2014/04/30(水) 11:54:42.79 ID:fUl9lofo
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
>>家康は信雄に秀吉との和睦をすがった
全くすがっていない。家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる
287人間七七四年:2014/04/30(水) 11:55:21.69 ID:fUl9lofo
秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
288人間七七四年:2014/04/30(水) 11:55:49.18 ID:fUl9lofo
家康は臣従なんてしてねーよボケ。
停戦しただけなのを家康が土下座したとか曲解したり
養子を人質とかデッチ上げたり秀吉厨の脳内は相当腐ってるな。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。

戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
289人間七七四年:2014/04/30(水) 11:56:23.43 ID:fUl9lofo
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな


翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
290人間七七四年:2014/04/30(水) 11:56:47.89 ID:fUl9lofo
>>石川数正や小笠原らが家康を見限り、秀吉陣営に鞍替え

石川は天正12年春の時点ですでに秀吉に篭絡されつつあったのが三河物語や松平記などでわかるし
小笠原は石川が小笠原の人質を連れて秀吉の元に逃げ込んだから鞍替えしただけ(織豊政権と東国、小笠原貞慶考)
木曽なんか天正12年時点で離反してるし真田も小笠原も天正壬午の時の空手形や北条との領土交渉
など信濃内での領土問題で家康に不満もって離反しただけなのに無理矢理家康の天正13年の行動と結びつけるとか相当馬鹿だな
ウザイからさっさと出てけよクズ野郎
>>和睦を成したあと、秀吉に上洛して来いと言われた
そんな事秀吉は言ってない。秀吉は直前まで出兵計画立ててたが
いざとなるとビビリまくって、信雄送って仲介やってもらった上に母や妹まで差し出して必死に土下座して戦いを避けただけ。
>>殺される恐怖から上洛だけは嫌がるヘタレ家康。
殺される恐怖ではなく、秀吉をナメくさって暢気に過ごしてただけだろ。前年には北条との同盟強化や浜松会談など、
秀吉の三河出兵計画や、木曽小笠原石川水野真田の離反や逸れに伴う軍事機密露見や天正13年夏の大地震、対真田の敗戦など
種種の領国崩壊要素があったにもかかわらず、秀吉の討伐計画に対して、全く危機感0で暢気に無視していただけなのが家康。
>>天皇の譲位と新帝即位の晴れの舞台を演出したい秀吉は自分の母を三河に遣わし
妄想乙。家康が怖くて母や妹を差し出したのを、晴れの舞台を演出するためとか曲解乙。
家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
291人間七七四年:2014/04/30(水) 11:57:19.53 ID:fUl9lofo
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな

ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
>>秀吉が好意で家康からの人質を養子とした
いやそもそも家康は人質として息子を秀吉に指し出していない。人質として出してたというなら
翌年の両軍の冷戦状態なんてありえないし両陣営とも戦争の準備進めまくってたが秀康は切られず
佐々攻めの際の織田信雄の書状でも秀吉は秀康を人質としては扱ってないと書いてる。
292人間七七四年:2014/04/30(水) 11:59:40.86 ID:fUl9lofo
秀吉は完全に土下座状態だったからね
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
しかも関東八州250万石まで家康にプレゼントするヘタレっぷり。
293人間七七四年:2014/04/30(水) 13:09:39.88 ID:I1cieuKx
>>もうビビッて有楽斎に、信雄との冷え切った関係の修復の斡旋
そんな事全くやってないし、全くビビってない。下記をよめばわかるが秀吉のが圧倒的にビビってる。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな

>>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく
だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。
家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw
>>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく
しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり
侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して
なんとか家康がこれに応じただけだし。、
>>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉
家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙
>>秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍だった
はぁ?
秀吉に対して信雄や秀信が恩があるわけねーだろクズw
信雄→主家簒奪に一時的に当主に祀り上げられながら、その後たいした理由もなく攻め込まれるなど
散々利用され、結果的に屈服を余儀なくされ、その後も無理矢理いちゃもんつけて改易
秀信→当時幼少だったにもかかわらず、秀吉の簒奪のために名目上の織田家当主として祀り上げられ
その後は秀信はほとんど無視の傀儡と化すほど、秀吉の勝手きままな専横によって織田政権は事実上崩壊。
主家を簒奪し滅ぼした張本人の秀吉に対して利用されただけの信雄や秀信が恩があるわけねーだろw

>>石川数正や小笠原らが家康を見限り、秀吉陣営に鞍替え

石川は天正12年春の時点ですでに秀吉に篭絡されつつあったのが三河物語や松平記などでわかるし
小笠原は石川が小笠原の人質を連れて秀吉の元に逃げ込んだから鞍替えしただけ(織豊政権と東国、小笠原貞慶考)
木曽なんか天正12年時点で離反してるし真田も小笠原も天正壬午の時の空手形や北条との領土交渉
など信濃内での領土問題で家康に不満もって離反しただけなのに無理矢理家康の天正13年の行動と結びつけるとか相当馬鹿だな
ウザイからさっさと出てけよクズ野郎

>>和睦を成したあと、秀吉に上洛して来いと言われた
そんな事秀吉は言ってない。秀吉は直前まで出兵計画立ててたが
いざとなるとビビリまくって、信雄送って仲介やってもらった上に母や妹まで差し出して必死に土下座して戦いを避けただけ。
>>殺される恐怖から上洛だけは嫌がるヘタレ家康。
殺される恐怖ではなく、秀吉をナメくさって暢気に過ごしてただけだろ。前年には北条との同盟強化や浜松会談など、
秀吉の三河出兵計画や、木曽小笠原石川水野真田の離反や逸れに伴う軍事機密露見や天正13年夏の大地震、対真田の敗戦など
種種の領国崩壊要素があったにもかかわらず、秀吉の討伐計画に対して、全く危機感0で暢気に無視していただけなのが家康
294人間七七四年:2014/04/30(水) 13:10:13.17 ID:I1cieuKx
>>言い訳をして人質提出先送り曖昧うやむや化を狙う態度を表裏と捉えた。
言い訳ってなんだそれ(笑)いつもの妄想か?
最初から家康は人質なんて出してねーよクズ
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)

>>家臣団とさらなる人質提出において家臣団の同意意見統一がまとまらず
ソースなし。
石川なんて天正12年春時点で篭絡されつつあたのが三河物語でわかるし木曽も前年春にあっさり裏切ってる。
真田に関しては対北条の同盟要請の結果、天正壬午の際の空手形の恩賞が不履行に終わって徳川から上杉に離反しただけ。
小笠原は石川が小笠原が石川の人質連れて逃げたのと、徳川の対真田の連敗や、上杉景勝の川中島侵攻による圧力で北部への拡張が滞って
寝返っただけ。
>>秀吉による徳川家臣団離間への揺さぶり
どこにそんな事書いてるんだよアホ
>>石川は意見統一出来ない家康を見限って逃
意見なら既に統一しているが石川がただ1人秀吉に篭絡されてて小笠原らの人質連れて逃げただけ。
>>2月までに秀吉の怒りを解かないと徳川は滅亡確定である。
会戦になったら100%徳川が勝つから、滅亡確定なのは秀吉の方だな。
何せ史実でさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。

結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
295人間七七四年:2014/04/30(水) 21:22:09.84 ID:1Tw0vtT3
秀吉は下記のように天正13年にも徳川出兵計画練りまくってて、しかしその直前の天正14年1月末になるとびびりまくって中止してるくらいだったからね。
天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い さらに家康の真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや
前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に
散々計画を書いてたが、 いざその時期が来た!と思ったら ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、母や妹を差し出して戦いを避けてる。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
上杉も木曽も真田も一柳も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
しかも関東八州250万石やチート官位と秀吉外戚の地位まで家康にプレゼントするヘタレっぷり。
296人間七七四年:2014/05/02(金) 01:01:04.73 ID:btdF1K2p
>>275
>>信雄に続いて、紀伊共和国と佐々成政という同盟軍を見捨てて
長宗我部も一緒に見捨ててるな。
297人間七七四年:2014/05/02(金) 10:17:54.97 ID:5pcApZZz
家康に土下座して和睦した隙をついて、孤立無援の、雑魚国力の勢力をこれ見よがしに棚ボタ的に火事場ドロしただけじゃん。
豊臣の国力からいえば各地に散在する勢力なんて蟻みたいな雑魚でしかないんだし家康に土下座して和議を結んで、孤立無援にさせた上で、その隙にドロボウしただけ。
298人間七七四年:2014/05/02(金) 10:18:35.45 ID:tZaWw0fr
なんで前の年に秀吉が顕如に必死に土下座して取り成しやってもらっての和議に家康が応じてやった後なのに
和睦を反故にして自国の14倍位の国力の秀吉に自分から寡兵で攻め込まなきゃ無能になるんだよタコ
299人間七七四年:2014/05/02(金) 10:21:35.21 ID:tZaWw0fr
秀吉は完全に土下座状態だったからね
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
しかも関東八州250万石まで家康にプレゼントするヘタレっぷり。
300人間七七四年:2014/05/02(金) 10:23:07.67 ID:h5fPSDgz
秀吉が鼻くそ程度の国力しかない徳川にビビリまくって、「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに母や妹を差し出したり
顕如や信雄に必死に土下座して取り成しやってもらって、やれやれと思った家康がしょうがねえなとばかりに応じただけじゃん。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
301人間七七四年:2014/05/02(金) 10:24:14.13 ID:eAaxffKP
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
家康が弱りまくった隙をついて着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
302人間七七四年:2014/05/02(金) 10:26:33.22 ID:eAaxffKP
家康に土下座和睦して後ろの心配をなくした上に上杉や毛利や宇喜多や木曽らの力に頼りまくって
雑魚イジメした事の何が凄いんだよアホ
わずか70万石たらずの長宗我部討伐すら秀長まかせにしきりで毛利の同盟要請と河野や十河などの在地勢力に頼りきりの完全なる他力本願雑魚。
信雄や家康が怖くてビビリまくって、和睦した隙に、少しでも敵領土を削って味方を強大にするために雑魚イジメしてただけじゃん。
303人間七七四年:2014/05/02(金) 10:29:10.07 ID:mM+Dd7wg
結局毛利と四国の河野十河などのおかげってだけだろ。長宗我部なんて60万石もいってないだろ。 長宗我部ってまだ讃岐にも阿波にもまだ敵がいたし。
304人間七七四年:2014/05/02(金) 10:29:59.97 ID:5pcApZZz
看羊録

家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。

家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。
305人間七七四年:2014/05/02(金) 10:31:07.43 ID:mM+Dd7wg
敗戦まみれだった秀吉が天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
306人間七七四年:2014/05/03(土) 18:33:16.79 ID:LA732c9i
本能寺の襲撃事件の犯人は朝廷、足利将軍、明智光秀大名の犯行だと思う
秀吉は当時の足利将軍は毛利方に匿って貰ってたから、毛利勢力と敵対してた秀吉軍にクーデターの情報が入ったんでクーデター前から大軍を姫路辺りにまで移動させてたんだと思うね
307人間七七四年:2014/05/03(土) 19:30:43.79 ID:Hi9a8Dzk
常識的に考えて光秀が単体で本能寺を行ったとしたら光秀方としては情報の漏洩
はすなわち死に直結するわけで、毛利への使者もわざわざ秀吉に見つかりやすい山陽ルートではなくより安全な山陰ルートか
それでなくとも高松近辺からの接近は避けようとするはず。
しかも機密情報握った使者がなぜか、毛利方陣営と羽柴方陣営を間違え、しかもその本当かどうかわからん情報も秀吉は鵜呑みにしてさっさと陣を払っているあり得ない事態。
備中〜京をわずか1日半で情報が駆け抜けるというのもありえないが、それ以上にありえない奇跡ばかり起きているのが本能寺の変。
状況から考えて秀吉と光秀が共犯で信長を殺したが、秀吉が光秀を裏切って主殺しの汚名を一身に着せたとしか考えられない。
308人間七七四年:2014/05/03(土) 21:53:58.75 ID:Hi9a8Dzk
日本は何回もたいした理由もなく何の罪もない朝鮮人の住む半島に侵略して
何の罪もない朝鮮人相手に虐殺や売春を繰り返してたし
日本人が朝鮮人に恨まれてるのも、日本人の過去のやったアホな侵略と虐殺など非道行為のせいである。
秀吉みたいなゴミがいなければ朝鮮人拉致被害者はさっさと帰ってきてるし
朝鮮半島からうらまれたり
韓国への日本への挑発も起きていない。
全部たいした理由もなく半島に侵略したり何の罪もない半島人を虐殺しまくった秀吉のせい。
309人間七七四年:2014/05/04(日) 00:01:32.23 ID:yfninQyy
菅沼遼太は母国愛が強いな
310人間七七四年:2014/05/04(日) 11:54:17.92 ID:MrqgqllT
中国と朝鮮は過去に囚われて恨み怨みひたすら怨むことしか出来ない人種だな
だから国も民衆も進歩しなくて発展しない後進国のまま
前を向いて国を創る事もしないでただただ怨んで妬むだけのシナチョン
311人間七七四年:2014/05/04(日) 12:27:23.08 ID:Tz6iuc4f
>>309
菅沼遼太は朝鮮右翼だしな
312人間七七四年:2014/05/04(日) 13:04:17.71 ID:s87Q3FON
織田朝鮮人得意の偽武田厨の自演か。
313人間七七四年:2014/05/04(日) 14:07:44.83 ID:Tz6iuc4f
工作ならもうちょっと頑張ろう遼太君w
314人間七七四年:2014/06/26(木) 21:00:58.01 ID:w/+e2Dvu
>>311
えっ?菅沼遼太って朝鮮右翼なの?
315人間七七四年:2014/08/01(金) 13:45:43.70 ID:0HmmOe65
織田信長は、「接見」をしたのに、「犯罪の所業を当てる犯罪」を犯した。
316人間七七四年:2014/08/13(水) 12:32:23.90 ID:JfGClOec
誰か教えて下さい 織田軍は、長槍を使ったり、鉄砲も雨に強い紙をつかってたって本当ですか?それは織田軍のみの仕様なんですかね?
317人間七七四年:2014/08/21(木) 16:13:42.37 ID:uW5U60KY
柴田…賤ヶ岳の戦いで滅亡
羽柴(豊臣)…滅亡
明智…山崎合戦で滅亡
滝川…旗本寄合席
丹羽…二本松11万石
林…追放
佐久間…追放
浅野…安芸42万石
佐々…滅亡
山内…高知24万石
堀尾…出雲18万石→改易
前田…加賀120万石
中村…米子16万石→改易
生駒…讃岐17万石→交代寄合
池田…因幡34万石、備前32万石

よって加賀藩、安芸藩、池田2藩が勝ち組
318人間七七四年:2014/08/21(木) 16:17:53.85 ID:uW5U60KY
順位
一、林通勝
二、柴田勝家
三、佐久間信盛
四、明智光秀
五、羽柴秀吉
六、丹羽長秀
七、滝川一益
八、池田恒興
九、河尻秀隆
十、堀秀政
十一、蒲生氏郷

以上
319人間七七四年:2014/08/21(木) 18:26:35.66 ID:Yi3M15mr
>>316
つくり話です。信じるほうがどうかしてる
320人間七七四年:2014/08/22(金) 14:07:20.09 ID:YOiMePOg
佐久間信盛・信栄親子に対する「信長による19ヶ条の折檻状」ワロタw
現代会社でもここまで親切に解雇理由を説明してくれる会社はない。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E4%BF%A1%E7%9B%9B
321人間七七四年:2014/08/23(土) 21:48:16.55 ID:QvJt/ln3
総見公
322人間七七四年:2014/08/24(日) 10:13:44.33 ID:0arsK0cD
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323人間七七四年:2014/08/25(月) 20:50:10.91 ID:rjugspYf
本能寺の黒幕どころか
織田家をドヤ顔で 伸し歩く 近衛前久殿下 信長と仲良すぎ
324人間七七四年:2014/08/25(月) 20:56:05.43 ID:IV++uUl6
>>320
信長って意外とチマチマしてるんだよね。
焼き討ちするとタタリある?とか
入場料払え、とか
義昭に対してもこまけぇ
条書出したり
いい人だったんでしょなきっと。
325人間七七四年:2014/09/21(日) 01:28:29.55 ID:7WhWqPzl
いくつか残っている本人の手紙読んでも
嫌な人って印象がしない。
326人間七七四年:2014/09/21(日) 02:21:48.17 ID:agaXous5
でも非戦闘民に対する虐殺の情熱は異常
327人間七七四年:2014/09/21(日) 15:30:00.31 ID:m8i5LlZc
戦国時代は非戦闘民なんてのはいないんだよ。
信長を残虐キャラで吹聴してた江戸時代ファンなのかも知れんけど。
328人間七七四年:2014/09/21(日) 18:51:33.65 ID:agaXous5
言葉が悪かった
武士階級以外のことな
329人間七七四年:2014/09/22(月) 00:06:11.08 ID:rGwuK1Np
荒木村重の一族、もしくは長島一向一揆に属していたら
間違いなく殺されるんだろうな・・・
330人間七七四年:2014/09/22(月) 00:54:00.26 ID:uIXcFfi8
延暦寺近辺に住んでた民間人であってもな
331人間七七四年:2014/09/23(火) 13:00:54.10 ID:kyaWzOPr
この時代で被害者加害者分けてたらキリないよ

荒木は和田一族殺しただろ、どうしてくれるんだ?
一向一揆は越前の大寺院○○寺焼き討ちしただろ、そん時周辺住民もたくさん死んだ、どうしてくれんだ?
延暦寺に焼かれて京の民間人は多数殺された、どうしてくれんだ?

こんな感じ…
332人間七七四年:2014/09/24(水) 13:56:56.65 ID:hWaJRb0g
荒木や他の者が殺しても何とも思わないが
信長が殺したら残虐に見える。
また殺し方が残虐
切れ味の悪いノコギリで苦しませながら殺したり、
オバの陰部を晒して逆さづりにして磔にしたり・・・
絶対敵に回したくないタイプだわー;
333人間七七四年:2014/09/25(木) 00:38:11.15 ID:PbYAiOlA
やった人によって印象が異なるとか低レベルな頭ですねー。
334人間七七四年:2014/09/25(木) 09:40:59.44 ID:Q3z3hJS4
天下の徳川家康公「ノコギリ引き私もやりましたごめんなさい」
甲斐の虎武田勝頼「逆さづり私の部下もやったような、ごめんなさい」
335人間七七四年:2014/09/25(木) 12:17:37.25 ID:Q3z3hJS4
>>333
何が何でも信長を悪にしておきたい人って一定数いる。
江戸期にやってた洗脳の被害者なんでしょう。
洗脳のされ方が特ア人に似てる。(彼らの言う「日本」を「信長」に置き換えると分かりやすい)
東アジアで好まれた洗脳方法、統治方法なんだなきっとな。
336人間七七四年:2014/09/25(木) 15:38:08.79 ID:/OSAVdlR
いやいや人殺しすぎだろ・・どんだけ虐殺してんだよ
安土城留守にしてただけで侍女皆殺しなんだぜ
337人間七七四年:2014/09/25(木) 16:33:17.59 ID:gAG5bju8
まだ菅沼いんのかい
338人間七七四年:2014/09/26(金) 15:24:28.18 ID:zfnsrp5h
信長は、この人間は価値がないと判断したら躊躇なく殺せる。
339人間七七四年:2014/09/26(金) 15:35:26.27 ID:zfnsrp5h
手が出せる範囲の人間は弱い立場の者だろうが殺す
理由は、武器を持ってないので殺しやすいから。
アメリカのやり方と似ている
340人間七七四年:2014/09/26(金) 15:57:05.17 ID:Viz3BOv+
壊れたスピーカーがまだ釣りたいらしい
341人間七七四年:2014/09/26(金) 16:00:52.89 ID:zfnsrp5h
え?俺信長好きなんだけどw
342人間七七四年:2014/09/27(土) 17:08:08.90 ID:ZME70FSi
織田信長はフロイスを愛している
343人間七七四年:2014/10/03(金) 13:41:03.41 ID:X7fDoKJG
なんだ、信長に殺されて当然の奴らばっかじゃねーか。
344人間七七四年:2014/10/03(金) 16:28:14.91 ID:sP0vv77U
信長、幻の上洛計画=足利義昭の書状発見―熊本
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141003-00000074-jij-soci

新事実判明や(棒
345人間七七四年:2014/10/07(火) 05:30:12.12 ID:LbW1SL1y
戦国武将じゃ信長一番好きだけど、wikiの信長はやり過ぎだな
いかにも「実は誠実な人」って書き方してるけど、
「切り取り次第」つってた長宗我部に対し結局「阿波讃岐譲れ」とか言い出したりやっぱりロクでもない
346人間七七四年:2014/10/08(水) 05:06:02.42 ID:aYLnMTCU
東条英機だって誠実な人だったんやで
347織田信長:2014/10/09(木) 14:41:08.68 ID:QNK1UGO4
お鍋は第一に嫉妬深い。
わしは、吉乃を愛しとった!
吉乃とわしは、愛し、愛される関係じゃった。
わしは、吉乃を愛しとったが、吉乃はレイプされとったのか!?

お鍋のことは、わしは、吉乃だと思うて抱いておった。
わしが、子供の人数が多いのは、「子孫を増やすため・義務のため」と
皆々言うておるが、
義務であんなこと(セックス)ができると思うか?
側室は、1人可愛らしい女子がおった!

俺の衆道相手は、蘭丸ではないが、他の小姓だ。(ドヤッ)
348織田信長:2014/10/09(木) 14:46:28.13 ID:QNK1UGO4
天から織田信長の声じゃ。

ps.子供は残すのが義務だ。
349人間七七四年:2014/10/10(金) 10:03:56.22 ID:gH1j0rMz
このスレの前の織田信長本スレのスレタイとURL教えてください
350人間七七四年:2014/10/15(水) 21:30:16.74 ID:5yCJ/anK
信長が戦国一、いや日本で一番の人気のある歴史上の人物になったのって
ノブヤボ以降だろうね
それ以前は秀吉のほうが人気あったと思う
351人間七七四年:2014/10/16(木) 12:44:40.86 ID:nmqsPGUA
信長は戦前までまったく人気なかった
活発な中世最盛期だった信長統治と違って江戸時代は搾取された暗黒時代などと
左翼御用学者による信長英雄論や天才革命児などの捏造妄想を利用した
光栄がゲーム販促を通じて一般大衆に宣伝広報して洗脳されただけ


映画
『伊達政宗』(1912年、エム・パテー商会)
『伊達政宗』(1915年、日活京都、主演:尾上松之助(2代目))
『伊達政宗』(1919年、天活、主演:澤村四郎五郎 (5代目))
『独眼龍政宗』(1942年、大映京都・キネマ倶楽部、監督:稲垣浩、主演:片岡千恵蔵)
『独眼竜政宗』(1959年、東映京都、監督:河野寿一、主演:中村錦之助)


映画
織田信長(1940年 日活 監督:マキノ正博 演:片岡千恵蔵)
紅顔の若武者 織田信長(1955年 監督:河野寿一 演:中村錦之助)
風雲児 織田信長(1959年 監督:河野寿一 演:中村錦之助)
若き日の信長(1959年 監督:森一生 演:市川雷蔵)
352人間七七四年:2014/10/16(木) 22:28:59.90 ID:GG4jU05a
最近の菅沼は誰からも相手されてなくて可哀想ね
353人間七七四年:2014/10/17(金) 21:34:43.27 ID:eHoET7d4
時代別の人気なんて今の評価になんら影響はない。
むしろ昔こそ、「政治的」に「意図して」歴史上の人物評価がされてきた。
徳川家康あってこその人気博した武田信玄さんがそれ。
この手の話なら、信玄ファンは家康様に足向けて寝られないぜw
354人間七七四年:2014/10/17(金) 21:59:30.01 ID:PS2CPi2t
戦前で人気あったのは忍者だろ。
活発な忍者最盛期だった戦国時代と違って江戸時代は搾取された暗黒時代などと
忍者御用学者による猿飛英雄論や天才革命児雷也などの捏造妄想を利用した
光栄がゲーム販促を通じて一般大衆に宣伝広報して洗脳されただけ

映画 略
355人間七七四年:2014/10/18(土) 00:42:23.11 ID:EdRfR+tt
光栄ッテスゴインダナァー
356人間七七四年:2014/10/18(土) 16:36:56.57 ID:cuyoi7w3
信長の構想が400年経ってようやく一般人にも理解されてきたってこと
それくらい時代の先を進んでいたんだナー
357人間七七四年:2014/10/19(日) 14:39:17.89 ID:jT55Kfks
斎藤義龍や武田信玄の7回忌で武装解除している隙に
国を盗んだ最悪の極悪強盗信長。
358菅沼遼太:2014/10/19(日) 17:42:19.11 ID:7jBrNPD0
その通り
359人間七七四年:2014/10/22(水) 23:53:24.18 ID:Cr4zEPg8
今川氏真「おいおい信玄厨がそれ言うか」
360人間七七四年:2014/11/13(木) 22:59:00.72 ID:02Gn70f5
は?義元7回忌なんてとっくに過ぎてますが?
そもそも一方的に武田との国境を封鎖した今川が
上杉と組んで武田を挟撃しようとしたじゃん。
上杉が侵攻してこれない冬に武田軍が今川を攻めなかったら
武田が滅亡していた可能性すらあったわけだが。
だから北条側も謙信への手紙の中で
武田の今川侵攻は止むを得ないことだと書いて
今川滅亡は上杉にも責任があるって主張してるし。
信玄は義元の娘である嶺松院が病気になった時に大祈祷を行うなど
超大切に扱っていたにも関わらず、氏真に裏切られてるわけだが。
しかも武田とのやり取りをすべて上杉に報告してまで謙信の信用を得ようとしていたのが氏真。
361人間七七四年:2014/11/17(月) 02:45:15.72 ID:uNgyDv27
織田家第18代当主 織田家の400年の伝統を破り、息子の名に「信」をつけず

日本一有名な武将・織田信長。代々子孫の名前には“信”の文字が使われてきたが、次世代の当主でその伝統が途切れるという。いったいなぜ「信」を使わなかったのか。その理由を織田家第18代当主・織田信孝(のぶたか)氏が明かす。

1986年に父が亡くなり、織田家の当主になりました。当主としてお参りするのは、信長がまつられている京都市北区・船岡山の建勲(けんくん)神社です。毎年10月19日の大祭に参列しています。
ここは明治天皇が「日本が外国に侵略されなかったのは、天下統一をめざして日本を一つにまとめた信長のおかげ」と考えて建てたそうです。

信長のお墓は本能寺など全国各地に10カ所以上ありますが、その一つが船岡山を下ったところにある大徳寺総見院(京都市北区)です。本能寺の変の後で秀吉が信長の葬儀をしたお寺ですが、普段は入れない。
それが10月のその時期はちょうど公開しているので、建勲神社の大祭とあわせてお参りしています。

初対面の人が僕の出自を知ると、「すごいですね」とよく言います。ぜんぜんすごくないですよ。すごいのは信長で、僕が天下統一のお手伝いをしたわけじゃない(笑)。
自分が、本質ではなく、血筋や出身校などの属性で判断されてしまうのは悲しい。そんなこともあって、自分の子どもは個人として生きやすくしてあげたかったのです。

http://dot.asahi.com/wa/2014111300075.html
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=173&id=3143489
362人間七七四年:2014/11/17(月) 08:41:06.20 ID:f3VNSqYV
前にも指摘されていたがやはり織田はヲタ、オタと読むのが正解なんだな。
浅井をアザイと読みというのは小和田先生発信の眉ツバらしいが、
伊達もイタテ、イタデ、イタチと呼称されていたし。
最上も慶長4年までは山形氏と呼ばれていたって話だし。
上杉への土下座書状から最上氏と言い出して斯波一門を自称し始めた。
363人間七七四年:2014/11/17(月) 21:09:34.73 ID:f3VNSqYV
ヲタ鬱三郎信長が正式な名前だよ。
364人間七七四年:2014/11/18(火) 01:02:24.28 ID:2sQS2kSG
信長はDQNだったから親の遺産引き継げていないんだよ
実力でもう1回尾張をまとめ直した
365人間七七四年:2014/11/18(火) 08:32:42.36 ID:fkoC5eyC
>>364
はいはい尾張再統一なんて大ウソ。
一次史料に存在しない架空話。
366人間七七四年:2014/11/20(木) 12:21:02.59 ID:iOkKbXWG
吉法師殿 御元服の事
ってところで本当に「古渡の御城にて御元服 欝三郎信長と進められ」
んどと書いている件www
うつ病で虐殺して鬱憤を晴らさないと機嫌が悪かった信長は当時から欝三郎とあだ名されていた件www
367人間七七四年:2014/11/20(木) 16:59:36.15 ID:tS1pg5Ij
菅沼遼太は基本的に国語の知識がなさすぎるwwww


おーい、もう一週間になっちまうぞー
どんだけかかってんだー?w

987 名前: 人間七七四年 投稿日: 2014/05/11(日) 17:26:39.76 ID:zukHDlmU
年々三分?(二)相納申候、其残者致未進候、殊に従是已前之流間、只今者致耕作候得共、
引方之由申、如本々年貢相済不申候間、御奉行を被る指越、彼流所見分候而、有様ニ被仰付候而、
可被懸御意候、付隠田之事


参考w
> 年々三分?(二)相納申候、其残者致未進候、...
> (たった三分しか税をとらなかったのか、 三分収めたら残りは納めることはない。 )
368人間七七四年:2014/11/20(木) 22:20:53.15 ID:AqdGME0h
最近は草生やしたり勝手に在日認定したり、いよいよ追い詰められてるなS沼
369人間七七四年:2014/11/24(月) 11:58:39.48 ID:ChMTLJam
age
370人間七七四年:2014/11/24(月) 17:23:31.68 ID:jbnHDit4
>>368
菅沼の意見なんてとうの昔から破綻してるだろ
スルーもできないの?そんなんじゃ甘いよ、まぁお前だけに言えたことじゃあないけどね
371人間七七四年:2014/11/24(月) 20:28:00.24 ID:imxj0lPl
ここにも菅沼をスルーしろという単発IDの出現か…
372人間七七四年:2014/11/24(月) 20:48:35.81 ID:Pw/8I5Km
>>371
ゴメン、それ全部俺だ
PoketWifiを使ってるからIPアドレスが時間が経つと(変わる時間は知る限りではランダム)変わっちゃう
それ故に、IDも変わる
久しぶりに(といっても1〜2年前)この板に来てみたけど、まだまだ菅沼騒動が収まってなくてびっくりしたわ
まぁイキすぎた書き込みで自治厨みたくなってしまったのは謝る

ただ荒らしにスルーは常識というか効果抜群だぞ
俺はまだまだ新参なんだけど、この板に初めて来た時から今日まで菅沼騒動が続いていてさすがに呆れた
それだけ菅沼がしつこいというのは認める、無視をするとコピペ爆撃をしてくるのも知ってる
それを乗り越えてスルーしてほしいと俺は思っている
373人間七七四年:2014/11/24(月) 21:49:06.59 ID:YJ6YlJaJ
ここだけじゃなく歴史に関係ある板全てに出没するからなあの害基地は
374人間七七四年:2014/11/25(火) 01:33:59.84 ID:Yhd0op/O
数年ぶりに覗いていきなり自治厨気取り。菅沼以外もこんなのがいたんだなと。
戦国板が廃れたわけだ
375人間七七四年:2014/11/25(火) 13:31:07.31 ID:f5zLtVKb
大抵の創作物に出てくる信長って、ものすごい圧倒的で天才チックに書かれるけどさ、
信長を人間臭く書いた(描いた)作品ってない?
376人間七七四年:2014/11/25(火) 19:39:09.71 ID:+76hmpiI
そのコピペ意味があるのか?
377人間七七四年:2014/11/26(水) 14:31:09.82 ID:Hsb2qtnV
織田チョン気持ち悪っ。
ちょっと気に入らない意見を書き込んだだけで、
自治厨気取り呼ばわりで排除しようとする始末。
どんだけお前はエラいんだよw
戦国板が廃れたのはお前の自分だけが正義思考からくる排除の論理だろw
378人間七七四年:2014/11/26(水) 15:49:56.28 ID:M/qET5Zf
いよいよ我慢できなくなってきましたよ菅沼くんw
2日しかもたなかったかww
379人間七七四年:2014/11/26(水) 15:52:57.29 ID:HY4a3JU0
>>378
375だが、菅沼の自演呼ばわりされるのは嫌だね
一応証拠を出せるが…見る?
380人間七七四年:2014/11/26(水) 15:55:32.23 ID:hG4/dLqm
菅沼遼太の場合はしつこいというよりただ馬鹿なだけだろ
住所氏名電話番号まで流出させておいて
2chに書き込み続けるなんてホンモノの底辺しか出来ないぞ。
俺は2chで菅沼と同じような状況になった奴を何人も見てきたが
菅沼のように素知らぬ顔して書き込み続ける奴は大体無職だったな
失うものがないから暴れられるんだろうけど
まあ普通に考えて会社づとめしてたら個人情報流出なんて怖くてやってられんだろうし
381人間七七四年:2014/11/26(水) 16:34:56.14 ID:M/qET5Zf
>>379
住民票でもUPしていただけるのでしょうか?
382人間七七四年:2014/11/26(水) 17:16:42.54 ID:9IN7vEGE
>>381
いつも俺はJuneStyleを使って2chに書き込んでるんだけど、
IPアドレスが変わって2chのIDが変わってもJuneStyleは覚えててくれるらしいんだよね
自分=俺です
http://iup.2ch-library.com/i/i1331366-1416988938.png
http://iup.2ch-library.com/i/i1331367-1416989010.png
んでもってコレなんだけど>>370は俺の書き込みなんだが、なぜ「自分」とついて無いのかは分からない
http://iup.2ch-library.com/i/i1331369-1416989086.png
たぶんIPアドレスの変わりようが原因なんだと思う、時間が原因ではないらしいが

そういえば菅沼って住所割れてたんだったけ?
なら自分の県くらいは写真撮って晒し証明してもいいが
383人間七七四年:2014/11/26(水) 17:26:01.84 ID:M/qET5Zf
>>382
お願いします
384人間七七四年:2014/11/26(水) 17:35:09.65 ID:JT5lfvpZ
>>383
おk、明日まで待っててくれ
菅沼さんとは別人ですと書いた紙と、県が分かるモノを撮ってきてやるぜ
385人間七七四年:2014/11/26(水) 17:41:35.61 ID:M/qET5Zf
>>384
待ちましょう
その際は判別の為にコテをつけていただきたい
386人間七七四年:2014/11/26(水) 19:35:13.94 ID:rmyhHxWG
足利義輝の葬儀をしないで放置していた信長をみかねて
勝頼は天正5年5/19に義輝公の13回忌法要を長禅寺で盛大に執行した。
これには多くの人々が訪れ武田を賞賛した。


池上裕子氏 〜信長は人的破壊者〜
信長は多くの人を殺害した。
そして「鬱憤を散じた」というのである。
異常に感じるほど残忍なやりかたが多かった。
それでも敵対者は次々と現れ必死に戦った。
戦功を積み重ねても、謀反の心を持たなくても
信長の心一つでいつ失脚するか抹殺されるかわからない
不安定な状況に家臣たちは置かれていた。
一門と譜代重視のもと、譜代でない家臣には
より強い不安感があった。
独断専行的で、合議の仕組みもなく
弁明・弁護の場も与えられず
家臣に連帯がなく孤立的で、
信長への絶対服従で成り立っている体制が
家臣の将来への不安感を強め、謀反を生むのである。
領域支配には譜代と家長権を振るえる子供や弟の登用が中心になる。
自分のそばにいて手足のごとく動き、あるいは自分の意を体して
各地に赴く者たちも譜代であった。
信長の政権の基盤は一門・譜代にあった。
長住は信長の怒りを買って越中を追われ、二度と戻ることはなかった。
もう用済みだったのである。
一度でも失敗すれば、それを理由に存在を否定される。そのようにして国人層の多くが命脈を絶たれた。
387人間七七四年:2014/11/27(木) 00:12:14.54 ID:uHC5GE3U
菅沼遼太
388あ ◆C/ifVKNT4B0u :2014/11/27(木) 17:03:47.35 ID:jmu2QShl
>>385
はい、どーぞ
戦国とはあまり関係ないけど歴史系の写真を撮ってきた、まぁいつも通る道なんだけどね
http://iup.2ch-library.com/i/i1332102-1417074757.jpg
http://iup.2ch-library.com/i/i1332103-1417074798.jpg
Sさんと関係が無きにしも非ずな県なのが残念かもwww
389人間七七四年:2014/11/28(金) 05:03:59.95 ID:0Pqf8KGg
字が残念だな・・w
390 ◆C/ifVKNT4B0u :2014/11/28(金) 07:09:25.87 ID:wqMliB/h
その場で適当に書いただけだから…(震え声)

んで>>375の話なんだけど、色々見て回ったけど小説とかの信長は割と普通だね
ただこれが、漫画やゲームになると一気にラスボスみたくデザインされるんだよなぁ
金ヶ崎の退き口とかでビビりまくる信長を見てみたい、絶対売れるって
391人間七七四年:2014/12/05(金) 09:05:04.73 ID:lRrk/t8S
>>386
キチガイDQN悪人が権力者になった場合の典型例だな。
392人間七七四年:2014/12/05(金) 16:41:17.57 ID:0h+5dj76
310 人間七七四年 New! 2014/12/05(金) 04:09:24.14 ID:lRrk/t8S
上杉は勝頼救援で北信濃を南下して援軍を派兵したため
浅間山の麓を南下する最短コースに兵を出さなかったから間に合わなかった。
武田を攻撃していた北条もなぜか主力の鉢形城の氏邦や八王子城の氏照ら西北関東統括軍が、
甲斐や真田のいる信濃佐久や上野沼田方面といった浅間山近辺を侵攻せずに、
浅間山から遠く離れた小田原直轄軍が伊豆を破竹の勢いで西進して、徳川を苦戦させ健闘していた穴山を追い詰めた。
浅間山で何かが起きていたのは否定できんね。

自演はダメだよ
393人間七七四年:2014/12/07(日) 10:27:13.91 ID:uzyb+47e
信長残虐説も秀吉が流布させたという説があるというのに
394人間七七四年:2014/12/09(火) 13:06:14.47 ID:QNYhHHag
>>393
一次史料のソースくれ。
395人間七七四年:2014/12/09(火) 13:29:24.14 ID:z/O04SoF
織田朝鮮人のいつもの秀吉三成らへの
悪口中傷の得意の大ウソだからあるわけない。
396人間七七四年:2014/12/09(火) 14:31:34.89 ID:1raQ/zt+
397人間七七四年:2014/12/10(水) 12:38:27.83 ID:RgRqGP8G
>>394
逆だろ
同時代の一次史料にあまり無いから後世のというか豊臣徳川政権下でのプロパ部分が大きいって話
398人間七七四年:2014/12/10(水) 22:07:39.65 ID:a7tZK1kA
信長残虐説は秀吉がつくらせた天正記には既に見られるから
コレ以前になかったら秀吉が主犯って話だな >秀吉が流布
399人間七七四年:2014/12/11(木) 12:43:37.89 ID:zmWI5xHK
実際に残虐だろ信長。事実を書いてるのに作らせたとか歪曲するとかwさすがチョンwww

資金面から見てみよう。
永禄11年11月上洛するやさっそく
石山本願寺に礼銭五千貫を恐喝
法隆寺に防築銭千貫余を恐喝
永禄12年2月
堺の代表10人中8人を
自刃に追い込み二万貫の矢銭を恐喝。
尼崎は矢銭拒否により全焼略奪。
8月の織田による山名祐豊の但馬攻略後に
祐豊は堺の金融業者の渡辺宗陽を頼って今井宗久を紹介され
今井宗久が祐豊に年利40%で1000貫文を貸付け
それを信長への礼金として但馬復帰を許してもらってる。
信長が永禄12年からの恐喝集金システムでバブリーだったのも
志賀の陣での敗北までに浪費しまくって全部使ってしまったのだろう。
信長がやたら強気に出て、本願寺まで敵に回してしまったのも
あまりの想像を絶した大集金で舞い上がってマトモな判断力を失っていたのだろう。

朝廷からの荘園返還要求から逃げまくる信長
比叡山の荘園横領しまくりの信長による元亀2年9月比叡山焼き討ち略奪。
(志賀の陣での和睦条件である荘園返却を実行すると織田財政は完全破綻)
元亀3年に奈良内銀子320枚・興福寺銀子100枚・東大寺銀子50枚を上納
しかし金が尽きたのか12月にも再度の要求があり成身院に銀子100枚上納の記録が残ってる。
この年は大和で地震もおきていて大和亡国と呼ばれた。

元亀元年の兵力について
浅井の裏切りで敦賀から戻ってきた信長。
怒って出陣して浅井に呼応した六角軍2万(常楽寺文書)に対して
5/9信長も2万で闘っている(言継卿記)この後、六角と信長が決戦したとされる。
信長公記では織田の圧勝のように書かれているが
姉川の戦いでは三河物語で朝倉軍3万・織田軍1万とされ
あきらかに六角と同様に織田軍もかなりのダメージを受けてるのがわかる。
信長は浅井のことを「小身だから物の数ではない」と
いつでも滅ぼせる宣言をしておきながら、ずっと苦戦し 滅ぼせず。
姉川の戦い前夜の6/22には八相山の退口で
その小身の浅井単独如きに織田は背後を噛み付かれて敗走。
朝倉軍がその後にやってきたので勢いづいて
姉川の決戦。織田は浅井に負けそうになり、
朝倉を破った家康に助けられる始末。
姉川の戦いでの大ダメージ以降、滋賀の陣でも天皇に頼って勅命和睦をしてもらうという事実上の敗北。
どんどん資金難で兵力を集められない信長。
400人間七七四年:2014/12/11(木) 12:45:31.39 ID:zmWI5xHK
元亀4年(天正元年)
年代記抄節でさえ信玄が撤退した報を受けて岐阜を出発した信長は
逢坂山で落ち合った細川・荒木を糾合して
(数少ない味方なので大郷の腰物や名物の脇差を与えて大喜びしてる)
三条河原で軍列を整え知恩院に陣した総兵力を1万と記している。
かなり国人達が離散して動員が難しかったんだろうね。
細川に信長が自分の味方だと言っていた丹波最大の実力者の内藤が
銃手1000を含む5000で二条城籠城に参加してるなんて言うとんでもない離反まで喰らってるし。
(叡山焼討ちで言継卿記が伝聞から3000〜4000人殺されたと驚いているのを
年代記抄節はおよそ1600余人と誇張に惑わされずに冷静に書いてる)

元亀4年に天皇から乱妨狼藉の禁止・禁中御警固を命じられていたのに
まずは小手調べで賀茂〜嵯峨まで燃やして恐喝し銀棒300(それぞれ重さ43匁)
恐ろしくなった上京が払った銀1300枚の受け取り拒否した上で上京を焼き討ち略奪。
(信長に金を渡しに行く際に織田軍に略奪され、改めて高利貸しから借金して信長に渡すなど酷い状態になったりした)
御所への延焼の恐れが出てきて天皇も逃亡準備。桂川が死体で埋め尽くされる大虐殺開始。
下京恐喝(銀800枚)で金品を集める。
しかしあっちゃこっちゃ延焼しまくりで火だけは統御できない。
織田軍は常に金欠だったんだろうな(ちなみにこれ以前にも京で略奪をやって織田軍と徳川軍が
略奪品を巡り衝突し織田軍が敗北している)
越前加賀で虐殺略奪大会したあとに前田や不破や佐々に越前の寺社領は
先祖の織田神社以外はすべて没収とかやってるし
宗麟とかは商人から借金したりしてるけど
信長の場合は武力をチラつかせて上納を要求する恐喝型だしな。 完全に893
しかしもう恐喝できる相手すらいなくなり
みんな貧民だらけになってしまう現実・・・北朝鮮的織田統治下全員貧困化政策。
堺、草津、大津の関に代官を置いて税金取ってた信長に対して、
三好や六角や一向一揆はその交通量を激減させ
織田軍の補給や退路を遮断させ疲弊させる戦略だからかなり有効だったと思われる。
京での暴挙は自暴自棄に等しく完璧に物心両面で信長は追い詰められていた証拠だろう。
さらに奈良京都堺尼崎で恐喝略奪をして荒廃させた以上、 これ以上の略奪における大利益をあげるのは難しく、
401人間七七四年:2014/12/11(木) 12:49:00.63 ID:zmWI5xHK
天正2年春に織田が攻勢をかけるもまた資金難で停滞し各軍が各国で苦戦している。
兵力分散してるのも各軍が各国に現地調達をして軍を養わざる負えないからだろう。
現地略奪方式を取らざるを得ない。 織田軍が虐殺したりしてるのも略奪や財産没収が目的だろう。
この略奪モンゴル方式は言わば、牟田口司令官のような者が信長であった証明であろう。
この経済的困窮を打開すべく行われた計画が天正3年の越前大虐殺である。
信長の人生の中で最大兵力となったほど各地から飢餓軍が群がり越前へなだれ込む。その数3万。
越前府内は見渡す限り無人になり、織田神社以外の財産はすべて強奪没収をする暴挙。
現代になってから織田軍得意の証拠隠滅から逃れるため瓦の裏に後世への告発文が書かれたものが発見されたが、
そこには釜茹や磔など凄惨な虐殺を女子供関係なく冷酷かつサディスティックに執行されていたのが判明する。
アスペ・パワハラ独裁権力者により日本は不幸の闇に包まれていたってわけだ。

信長の政策・・・戦略概念がなく各地で無計画にケンカを売ってまわり
一国平均政策(大量残虐虐殺)・一国亡国政策(略奪脅迫)を
各地で行わせることによって民衆を貧困飢餓にするべく生活基盤を
徹底的に崩壊させ抵抗する力を完璧に失うまで徹底的に追い詰める荒廃殲滅政策。
秀吉は農村の生産力確保維持政策が基本にある。

秀吉の平和安定のための物流革命と言えば、信長死ぬや早くも
天正10年10月には京の出入口に設けられていた関所を廃止し(禁裏領率分関)、
信長のやり方の否定を開始し、次々と経済振興策を繰り出し始め、
ついには「公家武家地下商人に至っては諸役を止め、座を破らる。
これに依りて悦ぶ者多く悲しむ者少なし」などと秀吉の政策は激賞され、
「日本国の諸役、京のみいり(関銭)、兵庫の関、津々役儀かくのごとく往古より有り来る役さへあがり候処」と宣言し昔からあり続けた税の免除を開始。
「日本国諸役悉く上げ申し候処」
関所や港で商品にかける役銭をはじめとして日本国中のすべての役の賦課権を没収するまでに至り、空前の活況を示した。
信長のもとで関所や座の組合が経済活動を押さえ付けていたが(薄と言う公家が牛にまで税を賦課していたのも秀吉が完全廃止した)
これにより自由往来と自由通商が可能となり瀬戸内海から伏見〜京への河川流通網整備のため大河治水が開始された。
これが桃山文化と呼ばれ日本各地で城下町が整備され、
日本史史上最も派手で豪勢な時代と言われている。秀吉の下、インフラ整備と経済活況化への資本投入による民心安定策である。
さらに秀吉は太閤検地と身分法令において人口戸籍まで作らせて言わば国政調査をしている。
例えば伊達が朝鮮出兵で飛ばされている間を狙って石田豊前守にやらさせたりしてる。
402人間七七四年:2014/12/11(木) 13:24:32.76 ID:54FcCQlU
信玄も関を廃止命令出していた。
小山田がまだ関を撤廃してないことを早朝に知った信玄は驚愕し、
急いで即時撤廃命令を朝飯も食わず、筆記が出仕するのも待たず
自分で書状を書いて出してるくらい行政と法を信玄は重視していた。
403人間七七四年:2014/12/11(木) 13:27:26.36 ID:A4bOzGXu
関所・諸役の廃止は畿内の人の恨みをそりゃもう買ったそうで
最終的に北政所が襲撃されかねない状況になったんだけどなー
404人間七七四年:2014/12/11(木) 14:47:29.59 ID:zmWI5xHK
金銀で兵糧の大量買いや、恩賞や調略ができた時代
興福寺(永禄8年・永禄10年)や浅井氏(永禄9年)の撰銭令の猿真似をした。
織田政権は上洛した翌年に撰銭令(永禄12年)を広範囲に出して
多くの悪銭を畿内で流通させインフレ経済崩壊を招いた愚か者。
信長領国は破綻し多くの悪銭を畿内で流通させインフレ経済崩壊を招いた愚か者。
悪貨が良貨を駆逐するの例えどおりに重度に悪銭が畿内に集中し、
他地域では良銭が流通したため畿内→外地域での決済において拒否が続出。
そのため元亀2年辺りに至ると物々交換と言う古代時代に戻ってしまったw
元亀2年から天正8年の時期は信長の命令は無視され決済拒否される悪銭は使用さなくなり
そして天正8年に至ると石見銀の流通が活発化した。
秀吉は生野銀山を押さえて独自勢力を築くに至ったのは信長最大の失策である。
その後、豊臣政権は撰銭令を撤廃し米主体の石高制を採用し河川流通を整備するや
景気低迷を脱して桃山文化の香る時代が招来している。
一方の信長は永禄11年12月の誠仁親王の元服という晴れの舞台において
無礼にも流通拒否される悪銭ばかりを献上して朝廷の公家達を激怒させている。
このように信玄の上洛とは畿内経済の破綻による生活苦による一揆の隆盛。
東国経済の飛躍的向上に裏付けられた時代の流れなのである。
東国では悪銭でない永楽銭が信長の失政で信用低下著しい京銭4文との交換比率になっていた。
この信用不安を解消する手を打ったのは秀吉。
とくに天正大判を発行するなど秀吉の金本位体制は
西欧重商主義と金融資本の概念を先取りしていて驚愕的である。
幕府要路に多量の金を贈って息子の将軍就任工作をしていた
堀越公方が経営していた伊豆の金山を利用するノウハウがまったく無い高利貸し北条は
ひそかに永楽銭偽造していたために、この関東での良銭の価値増加は領内の荒廃を意味した。
405人間七七四年:2014/12/11(木) 14:49:17.54 ID:zmWI5xHK
信玄は特筆するほどの謀反は起きてないし謙信の場合はそもそも人質を取らなかったから謀反が起きていたわけで、
本庄の乱のあとは人質を取るように迫られ、しぶしぶ言い訳しながら人質を取るようにしたのでそれ以来、謀反は起きてない。
信長の場合は人質を当主だけでなくその家臣からも大量にとってても謀反されてる。
荒木の謀反の時は、荒木の妻、二人の娘、兄弟、彼女の兄弟姉妹、すべての従兄弟たち、甥、近親ら36人を
市中引き回しの上、斬首(市中引き回しは名誉を重んじるので死ぬことよりも甚だしい恥辱と不面目を信長は与えた)
荒木の城から取っていた貴婦人120名は磔(赤子も母の胸に縛りつけて串刺しにして母親を一層苦しめるやり方をした)
これを見た群集は殺された者が赤の他人であっても肝を潰し幾日も放心状態になる人たちばかりだったほどで、
このまったく罪なき人々に対して前代未聞の過酷さと残虐に京の群集が恐怖したのもつかの間、
今度はさらに残酷で非人道的かつ恐怖を比較にならぬほど煽ったのが、
4つの平屋を作り、そこへ514名が入れられ(380名が女性)外から火をつけられ全員を生きたまま焚殺した。
彼らが発する悲鳴や叫喚の声は、彼らが受けている残忍極まりない苦しみが、京都を恐怖で覆った。
このように荒木のみが受けるべき罰を、多数の無実の人々が受けた。
苦悩の涙と尽きることがない慟哭だけがずっと聞こえてきた。これが信長のやり方で、暴君以外のなにものでもなかった。
そして信長への怨嗟がどんどん広がるばかりであった。 700人大虐殺で信長大満足wさすが日本史上最凶キチガイ。
こんなカス人格の信長を殺してくれた光秀は正義の英雄だよな。信長の一国平均戦略は虐殺が基本だからね。
でもまぁ信長の尼崎全焼消滅や越前府中無人化焦土戦に比べたらまだまだ甘い。
信長は想像を絶する大量虐殺をして、日頃の鬱体質の自分の気を晴らす解決方法とし、虐殺するごとに鬱憤が晴れたと症状が改善するも長くは続かない。

織田軍の残虐行為の証拠隠滅行為から逃れるために
当時の人々が瓦の裏に後世の人々へその犯罪行為を告発しているほど
「後世の方はどうか語り伝えて下さい。
5月24日に一揆が起こり、 前田利家が千人を生け捕りにした。
磔、釜茹で、その有様を書き留めておきます。」
伊勢長島など各地で捕虜や奴隷にする免死すら拒否して女子供まで根切り虐殺して略奪してるのが信長。
406人間七七四年:2014/12/11(木) 18:19:35.62 ID:aRF001yf
嫡男から謀叛起こされておいて「信玄は特筆するほどの謀反は起きてない」と言いだすのが菅沼遼太wwww
407人間七七四年:2014/12/11(木) 20:51:35.50 ID:54FcCQlU
義信は謀反する前に未然に防がれたのも知らん無知www
信長なんて荒木や別所ら巨大勢力が思いっきり大謀反www
しまいにゃ光秀に殺され、秀吉に家を乗っ取られるバカwww
キチガイDQN信長バカ一国規模で大謀反される繰り返しで破滅。
408人間七七四年:2014/12/11(木) 23:09:06.65 ID:aRF001yf
未然に防いでおきながらあれだけの家臣をぶっ殺すのかw
犠牲が足りないからわざわざ家臣をぶっ殺して犠牲者を増やす信玄は流石だな
409人間七七四年:2014/12/12(金) 00:46:31.89 ID:KRtCDiQd
>>397
>>398
信長が生きてた頃の多門院日記だかの評では信玄に関してはそういった評もあったけど
信長には無いんだよなー
410人間七七四年:2014/12/12(金) 04:45:57.93 ID:RWAKdlJb
父親を追放した信玄は自分がいつ同じことされるかを常に恐れていたからな
義信や飯富の動向も常に情報チェックしてたろう
信長はその辺、逆に甘すぎで荒木の謀反とか最初信じてない
それはそれでどーよと思う

まあ家臣に裏切られるより息子に裏切られる方が恥ずかしいわねw
未然に防ぎました?でもその後の家臣引き締めにずいぶん必死こきましたねー
だが結局外様の諏訪に入った五男坊に継がせて家臣団バラバラ、やっぱり義信殺害が武田のターニングポイントよね
411人間七七四年:2014/12/12(金) 07:11:24.58 ID:ULFFDtBa
>>408
は?あれだけの家臣?
名前を列記してみ?
412人間七七四年:2014/12/12(金) 09:46:33.89 ID:2y78UJpw
>>411
普通に義信に属していた家臣皆犠牲になってるけど?
廃嫡された後で死んだ義信を含めて飯富・長坂・穴山・曽根と連座しまくってる
荒木や別所のような趨勢を見て織田に味方したような信用ならん外様と同一視できないだろ
織田で言えば羽柴と丹羽と柴田と堀あたりが連座して処分されたようなもんだし
413人間七七四年:2014/12/12(金) 09:51:48.65 ID:2y78UJpw
>>410
やってる事自体は相当ヤバイからな
しかもあとを継いだのが諏訪勝頼だから武田としては最悪の選択肢
他にいなかったのが不運だったけど徳川で言えば信康が死んで、家康の後を武田信吉が継ぐようなもんだからな。
織田であれば信長の後を津田信澄が継ぐようなもんか?
未然に防がない方が多分武田のためになっただろうな。
父親の信虎のように憎まれ役を買って体制を纏める方がよほど利口。
414人間七七四年:2014/12/12(金) 17:44:33.99 ID:VgmzUcbO
>>410
斎藤道三「お、そうだな」
415人間七七四年:2014/12/12(金) 20:00:38.34 ID:ULFFDtBa
>>412
逃げ回ってないで早く根拠の一次史料出せよwwwww
416人間七七四年:2014/12/13(土) 00:12:48.70 ID:Te/+pp3j
甲陽軍鑑は一次史料じゃないぞ。
417人間七七四年:2014/12/13(土) 00:20:45.08 ID:Te/+pp3j
大領を持った家康の息子は他家を継いでても松平姓にふつうに戻ったりしてるだろ。
だからといって他家に乗っ取られたとか言わん。
つかそんなこと言い始めたら羽柴姓や松平姓を名乗ってる大名はみんな乗っ取られたことになる。
その家の実権者が他家の者であり当主本人は傀儡だったと言うなら話はわかるが、
勝頼は諏訪の傀儡ではなく、武田当主として行動していて諏訪の人間に操られていた要因がまるでない。
418名無しさん@そうだ選挙に行こう:2014/12/13(土) 13:06:14.91 ID:s9ahyQzT
勝頼本人が武田家当主を傀儡にする側じゃんw
一次史料にろくすっぽ幼少時代が載っていない上
武田正嫡の兄を3人ももち、ついぞ武田家伝統の「信」の通字を貰えなかった人間だろ
しかも勝頼自身、それを悔やむことなく生涯諏訪の「頼」の通字を貫いている。
武田家当主として行動しているならこんなことはありえないわなw
所詮信玄に冷遇され母親の諏訪氏に育てられた「諏訪の子」だよ
それは「信玄公」「勝頼」としている武田家絡みの人間が一番わかってるんじゃないかなw
419名無しさん@そうだ選挙に行こう:2014/12/13(土) 14:25:53.89 ID:5lnxBzdJ
カリスマトレーダー OR プーチンタイプ = 信長を参考
社畜 = 秀吉を
地方のちょい大きめな家族企業で毎年黒字の社長 = 家康
420名無しさん@そうだ選挙に行こう:2014/12/13(土) 16:26:33.95 ID:SoCkLjsC
なかなか優秀な社畜がいますねぇ…
421名無しさん@そうだ選挙に行こう:2014/12/13(土) 23:53:42.88 ID:RxpusZpt
>>一次史料にろくすっぽ幼少時代が載っていない
そんなの信長の息子たちだってそうだろwww
おまえ完全な素人だなwww
だいたい勝頼が武田家当主として行動してないって
具体的に実例をだしてみろよwww
勝頼が武田を乗っ取るもなにも、信玄が勝頼を後継指名してんだから
勝頼が信玄をその座を奪ったわけでもないし、
武田を傀儡にしてるなら信玄死後10年も勝頼に皆が従うわけねーだろ。
422人間七七四年:2014/12/14(日) 00:13:12.84 ID:QAgFxC6g
行動してる実例を出せってんのならともかく行動してない実例出せって変やな
反論は勝頼の行動を並べればいいんじゃねーの
423名無しさん@そうだ選挙に行こう:2014/12/14(日) 11:34:30.90 ID:z4SeOyPX
諏訪派といってもせいぜい身の回りの小姓とか旗本レベルなら連れていったかもしれないが
行政文書などの発給人外交関係の取次とかは甲斐由来の人間だけだし
最前線は信玄時代同様先方衆だし
424人間七七四年:2014/12/14(日) 22:24:07.58 ID:1Jdpi+jF
そも諏訪派なんてもん自体が架空の妄想願望であって、
そんなもん一次史料を見る限り存在しないから
425人間七七四年:2014/12/15(月) 04:00:53.07 ID:rvgPGM5E
>>422
そりゃ出せるわけがないからな。
勝頼は生涯武田の通字である「信」の字を名乗らなかった
これは武田家当主の例ではほぼ皆無。
そしてなぜか諏訪の通字である「頼」を名乗る。これも全くもって前例のない事実。
織田家の人間が今川や斎藤の通字を引き継いで生涯名乗り続けるようなもんだし。
大体都合よく「諏訪派」だの持ち出してるのはアホとしか思えん。
諏訪頼重以来の家臣を指すなら残虐魔の信玄が滅ぼし尽くしてる。
もっと言えば勝頼が「諏訪」の人間と見られていたのは当の武田一門に聞けば明らかじゃんwww
武田家当主をあっさりと見限る数多の武田一門wwww
426人間七七四年:2014/12/15(月) 07:57:33.68 ID:1nCamKNQ
諏訪勝頼で署名してる書状が一枚たりとも存在しない時点でお前の主張は破綻してるわwww
なぜ武田当主になったら勝頼の名を改める必要性があるのか説明しろよwww
そんなこと言い出したら晴信が機山や信玄を名乗ったのは武田の通字を嫌ったからとかいくらでも屁理屈が言えるだろwww
信玄が勝千代を名乗っていたとする説もあるくらいなんだし。
人質にした信長の子にも信玄は勝長を名乗らせてるし。
427人間七七四年:2014/12/15(月) 11:55:02.65 ID:8Pv6N6jh
一人で頑張るね
428人間七七四年:2014/12/15(月) 13:05:19.79 ID:xV7T/Zqg
要するに信玄は伝統ある武田家を滅亡を招いたカスってことね
429人間七七四年:2014/12/16(火) 08:35:45.51 ID:l1ll2Igs
小県郡の国人海野氏一族であった禰津元直の娘が勝頼を生んだのに、
なんで諏訪が関係あんだよアホwww
禰津は諏訪侵攻に参加してるんだぞwww
勝頼と同じ禰津御寮人から生まれた実弟の信清に海野城を与えて甲斐源氏の安田氏の名跡を与えて、同じ海野氏一族の真田と共に勝頼は厚遇してる。
勝頼は諏訪よりもむしろ北信濃や西上野の国人を厚遇してる。
諏訪に深い関わりが勝頼にあるなら織田の侵攻を諏訪で防ごうと考えるはずだが、
実際は諏訪を見捨てて甲斐に戻るのが勝頼w

信清は3300石の米沢武田氏として勝頼系の血を残すのに成功。
430人間七七四年:2014/12/17(水) 04:42:03.44 ID:EPeSLN7k
最近の信長推しは凄いなあ。
本能寺の変から440年以上経ってるが、彼の評価は今が1番高いと言っても過言ではない。
431人間七七四年:2014/12/17(水) 11:01:31.32 ID:MHzoEikl
いくら諏訪勝頼が諏訪の子だったという事実を否定したいからって
諏訪氏の存在そのものを抹消して禰津御寮人を勝頼を母親にするのは
流石に無理があると思うのwwww
同一人物にせよ違うにせよ、諏訪頼重の娘であることには変わらんのだしwwww
432人間七七四年:2014/12/17(水) 14:07:29.99 ID:vCWRDRMT
などと願望妄想を垂れ流す信長厨房
433人間七七四年:2014/12/17(水) 22:36:21.37 ID:SdudZCHY
むなしい自演やねぁ
434人間七七四年:2014/12/19(金) 01:06:25.27 ID:PqM5NYsV
>>430
実例を具体的にあげてください。
435人間七七四年:2014/12/20(土) 07:40:51.86 ID:9RifuGlv
織田在日が具体的に挙げられるわけねーじゃんw
いつもの願望妄想なんだから、
いつも通りに逃げ回って回答しないわな。
436人間七七四年:2014/12/20(土) 22:31:12.80 ID:tXxT7uPK
日を跨いで自演は恥ずかしいですよ
437人間七七四年:2014/12/21(日) 16:05:17.68 ID:kAcemDe/
勝頼陣代説や諏訪勝頼説は甲陽軍鑑が元だから、
きっと甲陽軍鑑は織田厨が書いたんだな。
高坂弾正や小幡景憲、武田遺臣は、もう全員願望妄想を垂れ流す信長厨房だ!
438人間七七四年:2014/12/21(日) 20:34:58.13 ID:/MfnD00N
甲陽軍鑑なんて出鱈目だからね。
甲陽軍鑑に比べれば信長公記の方が何倍も信用できる。
439人間七七四年:2014/12/21(日) 21:49:11.36 ID:FRVNwzEd
そこは信長公記の方が捏造が巧妙と表現するべきだね。
440人間七七四年:2014/12/22(月) 04:42:56.98 ID:jm3JZydJ
信長公記は総じて信憑性の高い本だね。
そういや信長の人気は信長公記の評価と共に上がってるな。真実の信長に心奪われるのだろう。
逆に甲陽軍鑑はその評価を著しく落とした。昭和末期まではあれほど人気のあった信玄が、今ではタダの時代遅れと影が薄くなってきたのと共に。
441人間七七四年:2014/12/22(月) 08:28:04.47 ID:AMS5sIKd
>>440
信長公記の捏造マンセーを一つずつ暴いていくスレから逃亡したアホ織田チョン乙www
現実を直視しなさいwww
442人間七七四年:2014/12/22(月) 13:49:36.83 ID:2w9zhu4F
太田は売文家な時点で
金で歴史を曲げるクズ
443人間七七四年:2014/12/22(月) 14:48:03.25 ID:KEkw5VgC
菅沼遼太の独り言でスレ埋める気かよ
444人間七七四年:2014/12/22(月) 22:50:55.57 ID:kM68s+HN
・信長公記は売文家な時点で 金で歴史を曲げるクズが書いた
・甲陽軍鑑は願望妄想を垂れ流し、当時金を儲けまくった織田厨が書いた

ってことで菅沼君はOK?
ひたすらみんなの悪口言ってるからどんどんつじつま合わなくなってね?
445人間七七四年:2014/12/25(木) 07:39:04.98 ID:dGdFp8LX
信長協奏曲結局全話見たけど結構面白かった
446人間七七四年:2014/12/25(木) 18:45:28.88 ID:RYl+954z
信長実は良い人キャンペーンが横行してる。魔王じゃない人間・信長のありのままの姿を見せようとフィクション交じりで表現されまくってる。
神も仏も、何も怖くない信長。最期もきっとこう言ったろう「少しも寒くないわ」と。
447人間七七四年:2015/01/05(月) 04:16:58.19 ID:Cg4G90qu
今年も戦国関連は信長中心で動くだろうね
武田厨は昭和の信玄人気を回顧するしかない
448人間七七四年:2015/01/24(土) 20:33:59.95 ID:7GT/5g1M
織田信長生誕の地 勝幡城推定復元模型
http://mirai660.net/castle/shobatajyoh_model.html
449人間七七四年:2015/01/27(火) 20:51:04.99 ID:c1yQnpNx
>>446
でも信長、比叡山の焼き打ちの前に吉田兼見に
「本当に罰は当たらないんだな?」
って念を押してるよね?
450人間七七四年:2015/01/27(火) 22:14:20.90 ID:Ayb5lojT
何気にビビりな信長君w

でも比叡山嫌ってた寺院なんかは焼打ちを大喜びしたんだから、
あんまビビる必要なかったかもしれん
451人間七七四年:2015/01/28(水) 15:08:01.55 ID:X18V8jVn
比叡山焼き討ちといわれるが、
比叡山の山中で、このころ大規模な火災にあった証拠、
焼き焦げた遺跡のようなものは発見されていない。

焼き討ちされたのは、麓の坂本だけだったのかもしれない。
また、何度も警告のうえ、攻め込んだので、
非戦派の坊主や、貴重な経典や物品はどこかへ隠す時間的余裕はあったはずだ。
452人間七七四年:2015/01/28(水) 18:43:52.62 ID:uW6H+Yd6
信長の徹底的な破壊と虐殺の結果、
比叡山には瑠璃堂という極めて小さい建物しか残らなかった。
しかし本能寺の変後まもなく秀吉が延暦寺転法輪堂を大津から運び込み延暦寺復興事業を開始した。
453人間七七四年:2015/01/28(水) 19:50:28.77 ID:7OdWssoX
中国が南京で30万人虐殺されたです〜言ってるのと同じだな
454人間七七四年:2015/01/28(水) 20:17:52.67 ID:2zbc0qKx
>>453
上手い。
南京なんかあれ、中国人同士のケンカっぽいしね。そこで出た死傷者を日本のせいにして。

比叡山の経典や建物焼けたの被害も、実は数百年前からやってた僧侶同士のケンカって可能性が高い。
当時比叡山内部もいろんな派閥に分かれて、山中で焼打ちだの頃しあいだのやってたらしいもんな。
信長の頃はもうすでに何もなかったという…
455人間七七四年:2015/01/28(水) 20:17:54.09 ID:tDbLbDM8
>>451
京から見て比叡山からノロシでも上がってて、「織田軍の焼き打ちじゃ〜」とか噂が広まったら民衆大パニック??
456人間七七四年:2015/01/29(木) 00:57:42.51 ID:TU/+VbW8
>>446
いい人キャンペーンなんてやってるか?
しょっちゅう人外や激情家扱いされてはいるが
457人間七七四年:2015/01/29(木) 10:17:05.20 ID:1V4nkxBH
延暦寺がわざわざウソを吐く理由が見つからない
458人間七七四年:2015/01/29(木) 12:43:59.82 ID:/ibknw+H
実際、信玄が西上を始める辺りになると信長は岐阜から動けなくなって
山陰山陽の中国戦線は完全に見捨てたからね。
信長を頼った山名を見捨てたことで吉川元春に但馬まで進出されたし、
信長を頼ってた浦上も見捨てたから毛利が後援してた宇喜多の播磨侵攻を防ぐことが不可能になっていた。
信玄が生きてたら北近江浅井や南近江六角や越前朝倉や河内三好や大和松永や山城義昭の滅亡もなく摂津本願寺や北伊勢長島一向衆も落とせず、
おまけに丹波の赤鬼に光秀が大敗するなどフルボッコだろうね。
そういや朝倉軍には斎藤龍興が客将になって在陣してたから
信玄が尾張侵攻したら親武田の飛騨国人&加賀一向衆の助力を得て
美濃へ入国してゲリラ活動で武田別動隊の東美濃侵略に呼応するだろうね。
信玄が生きてたら信長は中国戦線を捨てた状態が継続し
信長が浦上の下に同じ赤松被官だった別所や小寺を位置付けたから
織田に対して別所や小寺は爆発寸前だったから毛利後援の宇喜多による播磨攻略は確実視されるところだし
元春が丹波国人に呼応したらそのまま上洛可能になっちゃうんだけど
信長はどうやって毛利と本願寺を抑えこむ気だったの?
義昭によって甲越和与が成立しており謙信は武田領には攻めこまないが
それでも用心して越中一向衆に蜂起させて謙信を釘付けにしてたし
西上する武田軍は北条からも援軍をもらってる。
対越後への備えの軍を東美濃攻撃に転用可能だし
北条からのさらなる援軍も可能。
織田とは違い信玄の背後は安定してるから気兼ねなく進軍できるからね。
三河攻略が進み春過ぎになれば朝倉軍も2万以上もまたやってくるしな
これでも謙信が死なずに上洛戦を開始していたとする想定に比べれば
信長を取り巻く情勢はまだまだマシだけどね。
459人間七七四年:2015/01/29(木) 20:40:07.02 ID:wTkhi5Pj
>>457
延暦寺のお坊様に直接理由聞いてみたら?
460人間七七四年:2015/01/30(金) 05:08:20.92 ID:qdLpxFiO
>>455
織田がそれをしたらってこと?
それとも比叡山?

主語が抜けてるんだぜw
461人間七七四年:2015/01/30(金) 11:44:25.79 ID:O0UIx5OX
>>459
延暦寺の坊主は信長のやった全山焼き討ち虐殺の悪事については
仏教の教えに従い、恨み辛みには思わず
そういう歴史的事実があったということを受け止めていくだけですといってる。
462人間七七四年:2015/01/30(金) 12:21:28.11 ID:ruXou4Gk
>>461
数百年?の長きにわたり内輪揉めしてたことについても聞いてみてw
一口に比叡山の坊様といっても、山門派、寺門派…いろんな派に分かれてたらしいよ。
で互いに戦争w 叡山山中で焼打ちし合いっこ、頃し合いっこ、この歴史も重要。
463人間七七四年:2015/01/30(金) 12:41:00.08 ID:O0UIx5OX
>>462
で、お前の主張を裏付ける一次史料はまだなのか?
願望妄想ばっか書いてないではやく出せよ。
464人間七七四年:2015/01/30(金) 18:15:31.26 ID:ruXou4Gk
>>463
延暦寺内部のケンカは『僧兵〜祈りと暴力の力』って本に書いてあった。
これ叡山の取材もちゃんとしたみたいで、叡山の坊様は調査を受け入れるだけの寛容さはあるのだと思った。
465人間七七四年:2015/01/30(金) 20:50:07.37 ID:ZCGXDA2c
宗教なんて内ゲバするのがお約束だからな
466人間七七四年:2015/01/30(金) 22:18:04.49 ID:ruXou4Gk
今日少し話題になってた真宗も内ゲバ祭りあったしな。
信長と敵対したのは真宗のなかの一部の勢力ってのがまた興味深い。
467人間七七四年:2015/01/30(金) 22:18:20.01 ID:yb0ZX7yk
なんで>>464は比叡山の僧侶に対してこんなにも上から目線なのだろう
468464:2015/01/30(金) 22:22:25.55 ID:ruXou4Gk
上から目線というより、調査受け入れが意外だった
469人間七七四年:2015/01/30(金) 22:50:24.43 ID:ZCGXDA2c
>>461 延暦寺の坊主
>>464 叡山の坊様

どっちが上から目線なんだろう
470人間七七四年:2015/01/30(金) 23:17:40.88 ID:2XNxKKl3
焼き討ちも後ろめたい事も含め今は全部歴史上の事てのが比叡山のスタンスだから
調査受け入れくらいするだろう
471人間七七四年:2015/01/31(土) 09:25:58.19 ID:YMez1A7Y
で、内ゲバで叡山の建物をぜんぶ燃やしたとする一次史料はまだなの?
472人間七七四年:2015/02/05(木) 00:14:30.03 ID:80AEEbPx
新説
織田信長は生まれた時から大垣城主だった。by菅沼
473人間七七四年:2015/02/05(木) 12:50:00.90 ID:fn/aKS85
延暦寺の大アジャリ(?)だった今東光は、信長のことを
「あいつは人殺しだ、法敵だ」と、糞味噌に言ってたぞ。

これが延暦寺の公式見解なんじゃないの?
474人間七七四年:2015/02/05(木) 20:48:22.46 ID:yuGGkpxH
検索すると、坊主やったり、議員やったり、小説書いたりと
生臭坊主って感じだな
不倫尼と似たようなもん?
475人間七七四年:2015/02/06(金) 11:50:41.89 ID:lOUQvVWf
>>472
それどこのスレに書いてあったの?
476人間七七四年:2015/02/06(金) 20:57:57.08 ID:sX74UmvL
織田信辰が大垣城主だったでしょ。
そもそも斉藤氏が大垣城を統治していた証拠はまったくないから
斉藤時代ってのはなにが出典なのか知りたい。
477人間七七四年:2015/02/06(金) 23:06:13.63 ID:3SXKf/jv
あんな平城の大垣城を、斎藤、西美濃三人衆が敵の状態で加納口の戦い以降も
ずっと維持できるものなのか?
478人間七七四年:2015/02/07(土) 13:07:50.88 ID:PKpqColo
菅沼、瞬殺w
479人間七七四年:2015/02/07(土) 15:31:17.61 ID:p0FUnQFy
そもそも織田信秀は加納口で斎藤道三に大敗した後、居城を清洲織田家に包囲されて絶体絶命だったからな
幸い平手の活躍で事なきを得たが、一歩間違えれば滅んでもおかしくなかった状態。
ちなみに織田が大垣を領有していたのは信長公記首巻に出てくるが、この後大垣城は信長公記に一切登場しない。
そして他の史料では斎藤家臣の竹腰や氏家が城主になってる始末
480人間七七四年:2015/02/07(土) 20:56:15.85 ID:cSpe+zYg
>>473
え、でも「毒舌日本史」って文庫では絶賛してたぞ?
481人間七七四年:2015/02/07(土) 22:19:30.03 ID:3VXHe/So
坊主の言うことなんか真に受けたらいかん。
482人間七七四年:2015/02/08(日) 22:39:15.98 ID:uawFO26E
くりぃむしちゅーの歴史新発見 信長59通の手紙を解読せよ!

別名 エイセイ文庫立て替え資金集めスペシャル・・・
483人間七七四年:2015/02/09(月) 07:59:25.34 ID:tZzs4DoW
>>482
情報サンクス、TVだな?
永青?文庫だとしたら細川家のやつか
484人間七七四年:2015/02/16(月) 14:26:41.66 ID:GB68twWF
>>477
大垣は水が豊富で大湿原地帯になっていた。
いまはすべて道路の地下に水路を通している。
>>479
道三が大垣を包囲しようとしても信秀が稲葉山を突く武威を示すだけで
大垣の囲みを中止してしまうぐらい織田側が圧倒的優勢だったから
濃姫を人質に出して和睦を申し入れてるぐらいだし、
その留守を狙った清洲衆にしても古渡に放火した程度でしかない。
ハッキリいって信秀の優位が確定してるだけ。
485人間七七四年:2015/03/07(土) 00:07:51.00 ID:lUfRNp4K
信長の歴史研究はもう新しい段階に入っている。
486人間七七四年
自民党、グッジョブですわ。
http://www.soumu.go.jp/senkyo/kokumin_touhyou/index.html

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