1 :
日本@名無史さん:
''';;';';;'';;;,., ・・・・・・神武東遷(想像図)・・・・・・
''';;';'';';''';;'';;;,., ドッ
;;''';;';'';';';;;'';;'';;; 畿内だー!
;;'';';';;'';;';'';';';;;'';;'';;;
vymyvwymyvymyvy
ドッ n_n,n_n、n_n,n_n、n_n,n_n、 それー畿内へ逝け !
∩_∩^−^∩_∩^−^∩_∩^−
ドッ ∩__∩ ∩__∩ ∩__∩ ∩__∩
∩_ ∩__∩ ∩__∩ _∩ ∩_ ドッ
∩___∩ ∩___∩ ∩___∩ ∩___∩
| ノ ヽ | ノ ヽ | ノ ヽノ ヽ
/ ● ● | / ● ● | ● ● | ● ● | ドッ
| ( _●_) ミ | ( _●_) ミ ( _●_) ミ ( _●_) ミ
彡、 |∪| 、` 彡、 |∪| 、`\ |∪| 、`\ |∪| 、`\
/ __ ヽノ / / __ ヽノ /´> ) ヽノ / ノ //ヽノ /´> )
(___) / (___) / (_/_) / (_/ / (_/
九州も畿内も四国も朝鮮も沖縄もエジプトもコテハンもドンと来い!
出来るだけソースを出して後はお好きに!
*良識ある言動をしましょう。煽り、粘着禁止。
♪邪馬台国 ドンと来い♪ 16
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1173883203/l50
2 :
日本@名無史さん:2007/04/01(日) 15:14:14
3 :
688:2007/04/01(日) 15:24:36
4 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/01(日) 19:45:22
あ、いつの間にやら新スレが立ち上がってる。いい人たくさんきてね。
》1 おつ
6 :
日本@名無史さん:2007/04/01(日) 20:11:32
⊂⊃;,、
|・∀・) ダレモイナイ・・オドルナラ イマノウチ
|⊂ノ
|`J
♪ ,,;⊂⊃;,、
♪ (・∀・∩) カッパッパ♪
【( ⊃ #) ルンパッパ♪
し'し'
♪ ,,;⊂⊃;,、
♪ (∩・∀・) カッパキザクラ♪
(# ⊂ )】 カッパッパ♪
`J`J
♪ ,,;⊂⊃;,、
♪ (・∀・,,,) ポンピリピン♪
((⊂#((⊂)】 ノンジャッタ♪
し'し'
カパァー...
♪ ,,;⊂⊃;,、
♪ (,,,-∀-) チョーット♪
((と__つつ)) イーキモチー♪
このスレ楽しいね!
AAとか多くて好きです。
古代中国では・・・さんがくればテンプレかんせいするね!
8 :
日本@名無史さん:2007/04/01(日) 20:47:55
◇女王國郡使往來常所駐
→伊都国は、郡使がやってきて常駐する所である。
◇女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚
→女王国より北には一大率という名の官吏を置き、地方国
の状況を把握しており、地方国はこの一大率を畏敬している。
◇女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
→女王国の東の方向、海を渡ること千里余り
にはまた国があって、全て倭人が住んでいる。
これらから私は、邪馬台国は、九州中・南部の東部にあるものと
予想します。九州の北部または西部では決してありません。
へーそうなんだ。
ちなみに今の市町村でゆうとどのへん?
あと近くにコンビニあるかな?
10 :
日本@名無史さん:2007/04/01(日) 22:27:04
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足士器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
11 :
日本@名無史さん:2007/04/02(月) 00:04:06
<<<!!!!!邪馬台国はさいたまにあった。!!!!!>>>
_人人人人人人人人人人人人人人人_
> あ、あんだってー!! <
 ̄^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄
∩___∩ ∩____∩
| ノ u ヽ / u u └| ∩____∩
/ # ● ● | | ● ● # .ヽ/ u └|
| u ( _●_) ミ 彡 (_●_ ) u |● ● # ヽ
彡、 |∪| 、`\ / |∪| 彡 (_●_) u |
/ __ ヽノ /´> ) ( く ヽ ノ / u |∪| ミ
(___) / (_/ \_ ) ( く ヽ ノ ヽ
12 :
曹孟徳:2007/04/02(月) 03:37:41
( _,, -''" ', __.__ ____
ハ ( l ',____,、 (:::} l l l ,} / \
ハ ( .', ト───‐' l::l l l l l l 邪 │
ハ ( .', | l::|二二l | ハ 馬 .|
( /ィ h , '´ ̄ ̄ ̄`ヽ | ハ 台 │
⌒⌒⌒ヽ(⌒ヽ/ ', l.l ,' r──―‐tl. | ハ 国 │
 ̄ ', fllJ. { r' ー-、ノ ,r‐l | ! だ │
ヾ ル'ノ |ll ,-l l ´~~ ‐ l~`ト,. l と |
〉vw'レハノ l.lll ヽl l ', ,_ ! ,'ノ ヽ ____/
l_,,, =====、_ !'lll .ハ. l r'"__゙,,`l| )ノ
_,,ノ※※※※※`ー,,, / lヽノ ´'ー'´ハ
-‐'"´ ヽ※ 司馬 ※_,, -''"`''ー-、 _,へ,_', ヽ,,二,,/ .l
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ `''ー-、 l ト、へ
何か可笑しいか?
13 :
日本@名無史さん:2007/04/02(月) 04:18:49
可笑しいのはね、「考古学の権威」とやらの畿内説が
一体全体、その誰が畿内説の学者なのか名前も出せない。
居ないんだよ、「畿内説の考古学の権威」なんてのは関西の某4流私立大の助教授の
妄 想 ww 悔しかったら名前と論文出してみろ。さあどんな詭弁で返してくるかな?
14 :
せいかい:2007/04/02(月) 05:01:30
15 :
趙魯:2007/04/02(月) 06:48:38
卑弥呼は儂の娘なのだよ
↑そうだったのかー
ところであんただーれ?
AAスレにした方がいいぞ!
書き手がいつも馬鹿だからw
18 :
日本@名無史さん:2007/04/02(月) 08:08:46
| こいつ最高にアホ | 同意
\ \
 ̄ ̄ ̄ ̄V ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄V ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∩_
〈〈〈〈 ヽ /  ̄ ̄ ̄ ̄ \
〈⊃ } /、 ヽ
/ ____ヽ|__| |ヘ |―-、 |
| | /, −、, -、l ! ! q -´ 二 ヽ |
| _| -| ・|< || | / ノ_/ー | |
(6 _ー っ-´、} / \ | /
\ ヽ_  ̄ ̄ノノ/ O=====|
/ __ ヽノ / / |
(_|__) / / / |
,. -‐v―- 、
ヽ
/ //_/ノハL!L!i
r‐、 i 彡 .i ,-ァ
ヽ ヽ!_ 彡 −・=-−・=-.Y -く
[i 6 ●( ヽ ^ __,. ●ト、/ <訴えるぞ
. ト-' 、 `  ̄ ̄ .ノ
> ___ <_
/ヾ ヽ ヾ ヽ\
/ | ◯ ̄ ̄ ◯ |/ヽ
20 :
猫厨改:2007/04/02(月) 12:57:25
魏志倭人伝を解く鍵は東国に有り。
21 :
日本@名無史さん:2007/04/02(月) 16:11:44
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
22 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/02(月) 16:24:52
いまNHK 1chで再放送か? やってるな!
23 :
日本@名無史さん:2007/04/02(月) 16:46:52
内容のレベルが低すぎ。
なんにも知らない素人が見る分には面白いんだろうけど。
24 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/02(月) 19:38:16
又見損なって最後の部分だけチラッとしか見られなかったが
最近の研究でここまでわかってきたようなことを言っていたが。
NHKともなればかなり正確に学説を調べて放送をしたと思うんだけれども。
見てないから何ともいえないが。
25 :
日本@名無史さん:2007/04/02(月) 22:37:04
<<<!!!!!邪馬台国は会津にあった。!!!!!>>>
_人人人人人人人人人人人人人人人_
> な、なんだってー!! <
 ̄^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄
∩___∩ ∩____∩
| ノ u ヽ / u u └| ∩____∩
/ # ● ● | | ● ● # .ヽ/ u └|
| u ( _●_) ミ 彡 (_●_ ) u |● ● # ヽ
彡、 |∪| 、`\ / |∪| 彡 (_●_) u |
/ __ ヽノ /´> ) ( く ヽ ノ / u |∪| ミ
(___) / (_/ \_ ) ( く ヽ ノ ヽ
>>24 おーい、設定ミス。設定ミスw
前のスレで九州ですが ◆IhXqm1bg5cはちゃんと最初から最後まで見ていて
何十レスも感想書いてますYO
ちゃんと見てなかったって書いたのはプラムの方ですってw
>>24 NHKだから正確だろう・・なんていかにも日本人的な馬鹿発想だね。
↑これ見たらさ、中国人が畿内の方向を間違えるわけがないってことが
よくわかるね。
ありえん
31 :
猫厨改:2007/04/02(月) 23:34:12
間違ったんではないだろう。呉の沖に日本がある事にしたかったのかも。
32 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 01:51:37
<<<!!!!!邪馬台国は印度にあった。!!!!!>>>
_人人人人人人人人人人人人人人人_
> な、なんだってー!! <
 ̄^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄
∩___∩ ∩____∩
| ノ u ヽ / u u └| ∩____∩
/ # ● ● | | ● ● # .ヽ/ u └|
| u ( _●_) ミ 彡 (_●_ ) u |● ● # ヽ
彡、 |∪| 、`\ / |∪| 彡 (_●_) u |
/ __ ヽノ /´> ) ( く ヽ ノ / u |∪| ミ
(___) / (_/ \_ ) ( く ヽ ノ ヽ
33 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 02:20:43
| こいつ最高にアホ | 同意
\ \
 ̄ ̄ ̄ ̄V ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄V ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∩_
〈〈〈〈 ヽ /  ̄ ̄ ̄ ̄ \
〈⊃ } /、 ヽ
/ ____ヽ|__| |ヘ |―-、 |
| | /, −、, -、l ! ! q -´ 二 ヽ |
| _| -| ・|< || | / ノ_/ー | |
(6 _ー っ-´、} / \ | /
\ ヽ_  ̄ ̄ノノ/ O=====|
/ __ ヽノ / / |
(_|__) / / / |
34 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 17:19:21
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
自演コテハン「ですが」は自爆して死亡か?
このスレも冥土のみやげに持ってけやw
36 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 00:01:21
>35 手前で自爆しておれ アホ
ヘ⌒ ⌒ ⌒ へ、 、、
イ "" ⌒ ) ヾ ヾ ─|─ ヽ /
( ( ミ ⌒ ,, ヽ )ヽ) / | \ _/ ,
( イ 、;; ,ノ ヾ ) )
ゞ (. ミ . ノ. .ノノ...
::ゝ、、ゝ....'',,,,,....., , ノソ:::::
37 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 01:10:05
38 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 01:52:38
あんた偉いよ
>>37 またまた安本さんのところのサイトの宣伝ですか?
「遡上」論の評価については、私もひとまず置いておきたい方ですが、
貴方の古墳の年代観について一言。
>2、古墳の規格(設計)の点でも、勝山等と崇神は類似する。
>
ttp://yamatai.cside.com/katudou/kiroku238.htm の真ん中あたり。
これ、安本流の手法がいかに安っぽいかの見本のようなネタですね。
特にここの部分が低レベル。
「纏向の古墳のかたちが、崇神天皇陵とそっくりであり、
これらの古墳群が崇神天皇の時代に近い頃の築造であることを思わせる。」
(邪馬台国の会活動記録第238回2ホケノ山古墳の年代)
そのサイトでは、寺澤の纏向型古墳についての資料図を何気なく晒しておいて、
それとは関係の無い文章で、あたかも他説の引用のように偽装しています。
特に最大の主張のように見える「行燈山(伝・崇神陵)」と「ホケノ山」の比較、
それぞれ現況を基にした前方部と後円部の比率を重ねるようにしていますが、
行燈山古墳は幕末に修陵を受けており築造時の姿ではありません。
その事実を提示もせず無検証のまま使用し、同じデザインとするのやや反則ぎみ。
これでは「論証」にはならないでしょう。
また、行燈山は江戸期まで景行陵とされていたように、崇神よりは新しい時代の
陵墓としての伝承がありました。
周辺部の発掘調査の結果でも「円筒埴輪」が出土するなど、ホケノ山よりは
百年以上新しいもの(4世紀末)と考える意見が一般的ではないでしょうか?
実際の崇神陵としては西殿塚(伝・手白香媛陵)を推す人が多いですね。
40 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 02:13:47
ふ〜ん あんたも偉いんだね
41 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 02:18:22
702 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2007/03/29(木) 23:59:31
昔は、ホケノ山や勝山、矢塚、石塚は、(崇神〜箸墓)と同じ時代と考えられていた。
位置的にも、崇神と箸墓の間にこれらの古墳があり、規格も類似する。
http://www.geocities.jp/j_imada1999/xa_kfn10.htm 勝山等を遡上させる考えの難点は、陵墓郡の領域が狭すぎること、「崇神の領域」、
「景行の領域」という世代ごとの領域に対応させると、勝山等を遡上させるためには、
それに相応した世代ごとの墓域が必要であるが、それが存在しない。
現在の遡上説では 勝山等→不明→不明・・・崇神→垂仁→景行→・・・
という不自然さがある。
かといって崇神以降も全体的に遡上させるわけでもない。
これだと、世代ごとの墓域が存在せず、古いとされる陵墓が孤立する。
石塚→ホケノ→箸墓→西殿塚→外山臼山→メスリ山→渋谷向山→行燈山 だろう。
43 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 02:35:19
>>39 >行燈山古墳は幕末に修陵を受けており築造時の姿ではありません。
>その事実を提示もせず無検証のまま使用し、同じデザインとするのやや反則ぎみ。
>行燈山古墳は幕末に修陵を受けており築造時の姿ではありません。
その捏造疑惑は、元の表を作った寺沢に言うべきこと、「寺沢流の安っぽい偽装」と
言いなさいww それとも、相手が寺沢だと、何も言えないのかな?
馬鹿ばっか
>>43 「纏向型古墳群の企画性」って言う図には寺澤作と表示されているが、
肝腎の「ホケノ山古墳と崇神天皇陵古墳との比較」って図には作者名は標記してないね。
何の説明も無く並べてあるだけじゃんw
まあ、「崇神天皇陵古墳」なんて言い方してるので誰が作ったかは判るけどね。
もう少し脳ミソを使いたまえ。
46 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/04(水) 05:39:54
邪馬台国卑弥呼の時代はまだ世情不安定な時期。時々南のクナ国に攻められたりする。また一大率が諸国を監視していて、
いうなれば不穏な動きが無いか見張っている。実際卑弥呼の死後クニ同士の戦いが再び起こっている。
そんな中、大掛かりな人数を必要とする巨大前方後円墳を無防備に多人数で作っているような絵はどうしても浮かんでこない。
無防備では無いにしても多数の男手が古墳造営の為取られている間に集落が敵の攻撃という危険に晒される、
その様な危険を冒してまで巨大古墳作りをするだろうか?吉野ヶ里の方墳のような堅牢な環濠に囲まれた集落内部の方墳造りなら考えられるが。
まだこの頃は丁寧な古墳造営にに凝っている余裕は無いように見受けられる。
前原の御道具山古墳も卑弥呼の死後だいぶ立ってから造営されたと見るのが妥当ではなかろうか。
邪馬台国が大和地方にあったと考えて、この図式を当て嵌めた場合、
邪馬台国が環濠の無い巻向であるとは考えにくく、だからといって巻向王権と邪馬台国風吉野ヶ里遺跡のような環濠集落が同時に畿内に混在していたとも考え難い。
それは競合するからである。両者は戦いになるだろうし、さすれば巻向も吉野ヶ里風の環濠集落となって対抗しなけばならなくなるだろう。
何より戦いの記憶が伝承などに残ることになる。古代インダスの記憶リグベーダでも、侵入したアーリア人が「ハーリーピーヤ−で堅固な城砦を持つ敵と戦った」とある。
ハーリーピーヤーとはハラッパーのことではないかといわれているが。
47 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 10:28:17
| こいつ最高にアホ | 同意
\ \
 ̄ ̄ ̄ ̄V ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄V ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∩_
〈〈〈〈 ヽ /  ̄ ̄ ̄ ̄ \
〈⊃ } /、 ヽ
/ ____ヽ|__| |ヘ |―-、 |
| | /, −、, -、l ! ! q -´ 二 ヽ |
| _| -| ・|< || | / ノ_/ー | |
(6 _ー っ-´、} / \ | /
\ ヽ_  ̄ ̄ノノ/ O=====|
/ __ ヽノ / / |
(_|__) / / / |
48 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 10:37:29
<<<!!!!!邪馬台国は沖縄にあった。!!!!!>>>
_人人人人人人人人人人人人人人人_
> な、なんだってー!! <
 ̄^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄
∩___∩ ∩____∩
| ノ u ヽ / u u └| ∩____∩
/ # ● ● | | ● ● # .ヽ/ u └|
| u ( _●_) ミ 彡 (_●_ ) u |● ● # ヽ
彡、 |∪| 、`\ / |∪| 彡 (_●_) u |
/ __ ヽノ /´> ) ( く ヽ ノ / u |∪| ミ
(___) / (_/ \_ ) ( く ヽ ノ ヽ
49 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 11:38:02
>>45 >肝腎の「ホケノ山古墳と崇神天皇陵古墳との比較」って図には作者名は標記してないね。
これが誤りという理由が不明。せめて古墳のスペックを調べてから書きなさい。
寺沢の作った規格図は批判しないのですか?
寺沢図からは、勝山、石塚、矢塚、ホケノ山が同一規格であることは、明らか。
位置関係から見ても、上記4個が同一時期に属することは、明らか。
(石塚と箸墓)、(ホケノ山と崇神稜)の類似性が高いことは、(崇神、箸墓)の時代に(崇神、箸墓)
の墓域内に上記4個が作られたと考えられる。
(結論)勝山、石塚、矢塚、ホケノ山は、崇神・箸墓の時期に、崇神、箸墓の墓域に連続して
作られた、崇神稜、箸墓古墳に類似する形の古墳である。
50 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 14:33:42
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足士器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
51 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 21:14:15
<<<!!!!!邪馬台国はあなたの心の中にある!!!!!>>>
_人人人人人人人人人人人人人人人_
>な、なんて気色悪いセリフなんだー!!<
 ̄^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄
∩___∩ ∩____∩
| ノ u ヽ / u u └| ∩____∩
/ # ● ● | | ● ● # .ヽ/ u └|
| u ( _●_) ミ 彡 (_●_ ) u |● ● # ヽ
彡、 |∪| 、`\ / |∪| 彡 (_●_) u |
/ __ ヽノ /´> ) ( く ヽ ノ / u |∪| ミ
(___) / (_/ \_ ) ( く ヽ ノ ヽ
おげーーーっ
いいスレですね!
>52
_人人人人人人人人人人人人人人人_
> 受けたかなーーー!! <
 ̄^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄
∩___∩ ∩____∩
| ノ u ヽ / u u └| ∩____∩
/ # ● ● | | ● ● # .ヽ/ u └|
| u ( _●_) ミ 彡 (_●_ ) u |● ● # ヽ
彡、 |∪| 、`\ / |∪| 彡 (_●_) u |
/ __ ヽノ /´> ) ( く ヽ ノ / u |∪| ミ
(___) / (_/ \_ ) ( く ヽ ノ ヽ
なんてね
54 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 22:36:28
<<<!!!!!邪馬台国はムー大陸にあった。!!!!!>>>
_人人人人人人人人人人人人人人人_
> な、なんだってー!! <
 ̄^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄
∩___∩ ∩____∩
| ノ u ヽ / u u └| ∩____∩
/ # ● ● | | ● ● # .ヽ/ u └|
| u ( _●_) ミ 彡 (_●_ ) u |● ● # ヽ
彡、 |∪| 、`\ / |∪| 彡 (_●_) u |
/ __ ヽノ /´> ) ( く ヽ ノ / u |∪| ミ
(___) / (_/ \_ ) ( く ヽ ノ ヽ
どうでも良くなってきた・・・・
55 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/05(木) 02:45:48
魏志倭人伝の方向と位置は正確なもの。女王国は伊都国の東南に位置しているのであり、
ホケノ山や、崇神稜、箸墓古墳を引き合いに出すまでも無く、邪馬台国とは全く無関係の遺跡であり、
倭人伝の「奴国が女王国の境となる」「女王国の北にある国々は簡単に記載できるが
それ以外はとても遠くにあるため詳しく述べることが出来ない」「帯方郡から女王国まで一万二千里ある」
「伊都国には一大率を置く」「女王国の北には一大率が置かれている」だけの文章で十分畿内と邪馬台国が無関係と判る。
56 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 02:55:07
57 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 15:38:58
>>37、
>>49 墳形、立地は、古墳の編年を試みる上において、もちろん大切な要素である。
しかし、古墳の要素、属性はそれだけではない。
・外部構造… 墳形、立地の他に、周濠、段築、葺石、貼り石、供献土器・木器…
・内部構造… 墓室(槨)、棺、副次主体部、石材、壁画…
・副葬品… 銅鏡、武器、玉、鉄製工具類、腕飾類、土器、馬具…
知り得るあらゆる要素属性を考慮して古墳編年を行っているのが今日の考古学である。
そのうち最も重要視され、古墳編年の基本的枠組みを与えるのが円筒埴輪の型式編年である。
安本美典氏主宰する邪馬台国の会サイト「前方後円墳築造時期推定図」は、埴輪や内部構造、副葬品等を一切無視した粗雑極まりない推定図である。
このようなものに惑わされず、古墳に関しては専門の研究者による著作等で勉強されたい。
http://www.d1.dion.ne.jp/~oo14/f_kofunnbunnka.html
本居宣長の偽称説が正しいと思うがいかがだろう?
59 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 18:00:57
本居宣長の場合は、現代と年代観が違う。
本居宣長は、卑弥呼は九州にいると考えた。しかし、その時代にはすでに
大和朝廷が存在していた。神武天皇が即位したのは、紀元前660年なのだから。
皇紀の年代観によると、卑弥呼の時代は神功皇后の時代と重なるので、
「神功皇后の名を騙り…」という結論になった。
60 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 18:06:05
ここは古代史スレの良心ですね!
AAと古代タンの絶妙のコラボ素敵っす!
本居宣長は古事記の年代感の正直さに着目したところまでは良かった。
だが、当時は考古学なども発達してなかったので
彼の憶測には限界があったのだろう。
本居説の全てが正しいとは言わんが、その説の大筋は未だに通用すると思う。
九州の女酋が倭国王を騙り朝貢した可能性は高いと思うがどうだろう?
64 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 22:04:56
65 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/04/05(木) 22:38:50
66 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 23:20:04
>>57 >安本美典氏主宰する邪馬台国の会サイト「前方後円墳築造時期推定図」は、
>埴輪や内部構造、副葬品等を一切無視した粗雑極まりない推定図である。
安本の表は近藤らのデーターをもとにプロットしているから、文句は近藤に言うべきでは。
データーからは、時代ごとに前方部が発達することや、発達の度合いで時代区分が判明する。
これは、年代遡上を言い出す前は、常識として言われていたことです。
なぜ最近になって、この事実を言わなくなったのでしょうか?
あと、円筒埴輪は、崇神の頃からなので古墳開始時期の年代遡上には関係しないのでは?
特殊器台から円筒埴輪への流れからは、特殊器台の時代を新しく見る要素になります。
楯築→箸墓→崇神という流れからは、箸墓を崇神から引き離して古く見ることは困難です。
特殊器台の数や変移が少ないことからは特殊器台の時代は短いと考えられます。
楯築と櫛山(崇神に隣接)の類似性からも楯築と崇神の年代差は少ないと見られます。
そうなると、前方後円墳の始まりも新しく見る根拠が増えます。
楯築(340〜350)、箸墓・崇神(350〜365)で、前方後円墳は350頃に始まったと見る
のが自然であると思います。
>>63 魏志倭人伝を読めばわかるが、奴等の観念では邪馬台国の
東の海を渡った倭人が住む国は、倭人がいても倭国とは呼んでない。
>九州の女酋が倭国王を騙り
南部を除く九州をほぼ制圧している親魏の女王が
倭国王と書かれた金印を皇帝から授かっているなら倭王で間違いなかろう。
しかし畿内の天皇に、ではなく、卑弥呼に「倭王」の金印だからね。
畿内と倭国は別物と考えたほうが筋がとおる。
中国もそんなに馬鹿ではなかろう。
朝鮮半島・中国大陸からみて 九州より大きな本州が横たわっているのを
気づかないわけがないw
>>63 :日本@名無史さん :2007/04/05(木) 20:43:07
>本居説の全てが正しいとは言わんが、その説の大筋は未だに通用すると思う。
>九州の女酋が倭国王を騙り朝貢した可能性は高いと思うがどうだろう?
むしろ、畿内だと思われてるんだよ、最近は。
本居宣長の時代は考古学が発達していなかったから
限界があったんだわな。
だいたい、日本書紀の編纂した8世紀の人間ですら
500年前の邪馬台国の謎を解明できなかったんだからw
69 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 01:47:13
>>63 騙ったもなにも、邪馬台国が倭国全体に君臨しているなんてどこに書いてあるかね?
70 :
63:2007/04/06(金) 02:24:10
では逆説的に、畿内ヤマトに卑弥呼がいて朝貢した蓋然性はありますか?
天皇家の系譜に卑弥呼に比定される女傑はいますか?
>>70 いや、だから、いるんだわなw
孝霊天皇の皇女・百襲媛命なんだわな。
卑弥呼は巫女で鬼道を司ると書いてあるだろう?魏志倭人伝には。
孝霊天皇の皇女・百襲媛命も、
孝霊天皇の曾孫の崇神天皇の時代まで生きた人物で
崇神天皇の時代は一族の最長老のような存在だった。
日本書紀には、百襲媛命が占いをし、それを崇神天皇に指令として
授けている描写が頻繁に出てくる。
魏志に出てくる247年の狗奴国の反乱は
日本書紀に出てくる崇神天皇10年の武埴安彦命の反乱とかぶる。
72 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/06(金) 07:39:51
>>71 倍暦の計上で
崇神天皇即位元年=237年=景初元年
紀の崇神10年=240年=正始元年
1年を等倍での崇神10年=246年=垂仁天皇誕生
崇神世は3倍暦の時代
73 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 08:37:33
<<<!!!!!大和朝廷には4倍暦・7倍暦もあった。!!!!!>>>
_人人人人人人人人人人人人人人人_
> な、なんだってー!! <
 ̄^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄
∩___∩ ∩____∩
| ノ u ヽ / u u └| ∩____∩
/ # ● ● | | ● ● # .ヽ/ u └|
| u ( _●_) ミ 彡 (_●_ ) u |● ● # ヽ
彡、 |∪| 、`\ / |∪| 彡 (_●_) u |
/ __ ヽノ /´> ) ( く ヽ ノ / u |∪| ミ
(___) / (_/ \_ ) ( く ヽ ノ ヽ
74 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 10:09:16
>>66 >安本の表は近藤らのデーターをもとにプロットしているから、
実際のところは知らないが、もし安本が君の言う通り、近藤名誉教授と全国の
古墳研究者が努力して作成した『前方後円墳集成』から墳丘測定値だけを抜
き取ってプロットし、集成編年の方にはひと言も触れず、あの自作の「推定図」
なるものを喧伝しているのなら、とてもじゃないが許せるものではない。
>文句は近藤に言うべきでは。
コソドロが、「盗まれたアンタが悪いんだぜ。へッへッへ」、と開き直っているみ
たいだ。盗っ人猛々し、と言うべきか、まったく呆れてしまう。
75 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 11:39:07
>>74 妄想はそれくらいにしてはどうかね。
元になった資料のことは著書では詳しく触れているのだが・・・
76 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 11:59:39
>>66 はちょっと説明不足かもしれないので、少し詳しく言うと。
特殊器台は、出土する古墳は少なく、その変化も1型式内の個体差とも見れる
ほどのレベルであるから、特殊器台の時代は5〜10年ほどと考えられる。
特殊器台から円筒埴輪の流れで見ると、楯築→箸墓→崇神となる。
古墳年代遡上派の主張するような古い時代からの纒向型前方後円墳の定型化
があったとすれば、楯築や櫛山古墳はそれより古いことになるはずであるが、
特殊器台の時代が短いと考えられることに反する。
むしろ、纒向型とされている前方後円墳は全て崇神稜の頃と考えた方が良い。
<<<!!!!!邪馬台国は穴川3丁目にあった。!!!!!>>>
_人人人人人人人人人人人人人人人_
> な、なんだってー!! <
 ̄^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄
∩___∩ ∩____∩
| ノ u ヽ / u u └| ∩____∩
/ # ● ● | | ● ● # .ヽ/ u └|
| u ( _●_) ミ 彡 (_●_ ) u |● ● # ヽ
彡、 |∪| 、`\ / |∪| 彡 (_●_) u |
/ __ ヽノ /´> ) ( く ヽ ノ / u |∪| ミ
(___) / (_/ \_ ) ( く ヽ ノ ヽ
〜〜〜 一回やってみたかったと・・・ 〜〜〜〜
78 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 13:41:39
いまだにモモちゃん=卑弥呼とか言うヤツがおるのか。
79 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 14:31:48
>>76さん
>特殊器台の時代は5〜10年ほどと考えられる。
これ確認しておきたいんですけど、楯築から箸墓までが5〜10年ほどの間に収まると、
そういう意味でおっしゃったんでしょうか?
80 :
唐松山:2007/04/06(金) 15:47:05
景初元年=西暦237年 の信憑性は?
景初元年(237AD)は元首のを離れること4046年と書いてあるので,
元首は237−4046=−3808年すなわち3809BC(壬辰歳)の正
月の前の甲子夜半朔旦冬至(ユリウス暦3809BC1月6日[グレゴリオ暦
では前年12月6日])です。これだけのデータがあれば,あとは漢代の暦と
同様にして計算できますね。
81 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 15:59:21
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
日本文化チャンネル桜は、平成十九年三月三十一日をもってスカイパーフェクTV!Ch.767における
24時間放送を休止し、同Ch.241「ハッピー241」の夜の時間帯で放送を続けることになりました。
※「ハッピー241」での放送時間(4月1日?)は、以下のとおりです。スカイパーフェクTV!
の受信環境があれば、どなたでも無料でご覧になれます。
【月?金】18:30?21:30/23:00?24:00
【土・日】21:00?24:00
http://www.ch-sakura.jp/index.html
83 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 18:49:01
<<<!!!!!邪馬台国は目神山にあった。!!!!!>>>
_人人人人人人人人人人人人人人人_
> な、なんだってー!! <
 ̄^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄
∩___∩ ∩____∩
| ノ u ヽ / u u └| ∩____∩
/ # ● ● | | ● ● # .ヽ/ u └|
| u ( _●_) ミ 彡 (_●_ ) u |● ● # ヽ
彡、 |∪| 、`\ / |∪| 彡 (_●_) u |
/ __ ヽノ /´> ) ( く ヽ ノ / u |∪| ミ
(___) / (_/ \_ ) ( く ヽ ノ ヽ
〜〜〜 一回やってみたかったと・・・ 〜〜〜〜
>>75 「元になった資料のことは著書では詳しく触れているのだが」
ク・ワ・シ・ク・・・・w
著作権に注意しつつ、その「詳しい」つーところを解説すてみれや。
85 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 21:37:53
>>84 測定値をどこから引用しているかを書いているだけ。
測定した数値を著書で公表しておいて、それを使うなというバカがいるか?
某学者は椿井大塚山古墳の三角縁データーを30年以上独り占めして
そのデーターを引用して独壇場で学説を展開していたが、それが君のいう
学者の手本なのか?
86 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/06(金) 21:41:58
横から口を挟むようだが、浦間茶臼山古墳の引用。
長138m、後円部径約81mの大型前方後円墳。3世紀末頃作られたと推定されている。
岡山市浦間にある前方後円墳で、国指定史跡である。
墳長138 m、後円部径81m、後円部高13.8m、前方長61mで後円部は三段築成である。
前方部が三味線のバチ形に開く最古形式の前方後円墳である。葺石があり、最も古い埴輪である都月型埴輪も採集されている。
内部主体は後円部中央にある竪穴石室で、長さ7 m、幅1.2 m、長大な割竹形木棺が納められていたと推測されている。
盗掘によって副葬品のほとんどは持ち去られていたが、細線式獣帯鏡片・銅鏃・鉄刀・鉄鏃・鉄のみ・鉄斧・刀子・ヤスなどが出土した。
本墳は、吉備のなかでは最古の大形前方後円墳である。しかも、邪馬台国の女王卑弥呼、あるいは台与の墓ではないかとも言われている
奈良県桜井市箸墓古墳の2分の1相似形墳である。箸墓古墳の相似形墳のうち、畿内以外では最も大きい。
古墳時代に巨大な勢力を誇った吉備の始まりを告げる古墳といえる。」
これが三世紀末という事は、類似した箸墓 は一体何時の物?
一番古い形の埴輪が出ていること。箸墓出土の埴輪と対比させると、
いっそう箸墓の年代が明らかになるのでは。
87 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 22:05:00
>>86 >これが三世紀末という事は、類似した箸墓 は一体何時の物?
>一番古い形の埴輪が出ていること。箸墓出土の埴輪と対比させると、
>いっそう箸墓の年代が明らかになるのでは。
それで箸墓の年代は一体いつごろになるんや?
なんや持って回った言い方で,わしゃよう分からんわ.
88 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 22:31:30
>>86 浦間茶臼山古墳を新しく見ればOK
箸墓と崇神稜はほぼ同時期なので、箸墓を280頃にするならば、崇神稜も同じ頃にして、
景行稜を300年というように、天皇稜の年代を全体的に古くしないと成り立たない。
それをしないのが年代遡上派の弱点。
近藤は、箸墓は宮山型の頃で都月型はその後に行われた祭祀のときのものが出土した
としている。祭祀の連続性からは宮山と都月は時期が近い(ほぼ同時期)である。
浦間茶臼山古墳と箸墓の形の類似もそれを裏付ける。
特殊器台を出土する古墳が少ないことからも、特殊器台の時代は短いと考えられる。
崇神は即位後ほどなく崇神稜の築造に着手し、その後に箸墓の築造が始まったため、
箸墓の方が前方部が発達している。その後、先にモモソヒメがなくなり、箸墓に葬られた
ため、箸墓が特殊器台(宮山、都月)で崇神稜が円筒埴輪となっていると考えている。
ただし、崇神稜は本格的調査がなされていないため、特殊器台が出る可能性もある。
崇神〜箸墓と同時期の勝山、矢塚、石塚などの形状は、両者の要素が混在している。
89 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 22:36:51
>>86 箸墓の相似形は宮崎にもある。
生目古墳群の1号墳。墳長は136mで、その岡山の古墳と同じくらいかな。
これも、築造年代は3世紀後半とも言われる。
90 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/06(金) 22:51:51
単体として箸墓など畿内の古墳の遡上はたとえ可能となっても、吉備などの関連古墳の年代が、そのままであれば
古墳の形態や埴輪などの出土物の年代に矛盾が出て来たりする。
特殊器台埴輪などの発祥が吉備である事を考えると浦間茶臼山古墳の方が箸墓築造よりも古いのではないか。
ですがタンきてたーーー!
>>85 >
>>84 測定値をどこから引用しているかを書いているだけ。
それのどこが「元になった資料のことは著書では詳しく触れている」になるんだか?
引用元を標記しなくてはならないのは「当然」のこと。
それを
>>39で指摘しているように、それとは関係なく、出自の説明も無い、
別(多分自作)のデータを並べて表示し、他説の引用のように見せる手法はおかしい。
こんなことをされると
>>43みたいに同一出自のデータだと誤解して
あらぬ暴言を吐くのが現れる。
>>43は、そんなことは承知で白々しく言い張る「中の人」かもしれんが。
>>71 倭人伝の女王に関する記述と全くあわんよ。
君には初耳だろうがw、当時は天皇のほかにも占いをして政治に関与するような
法王的な立場の人物が居ることが多かった。それをこじつけて卑弥呼=天皇無視の畿内説ね。
いわゆる天皇と卑弥呼は同時に畿内実在したという矛盾を無理やり合わせる論理ね。
で、貢ぎもモモが指令して貢ぎまくり、天皇差し置いて「親魏倭王」の印をもらったと?
そして中国の朝廷も 日本人の中継ぎ人も皆天皇を無視して、巻向周辺国を「女王国」と呼んだと?
少し頭つかえば、そんなこじつけは稚拙すぎるわかってほしいんだがなあ〜w 君には無理か。
もしマキムクが中華風だったら信じてあげるけどねw
例えばモモの墓が朱一色とか。 畿内から中国地方と九州北部が全部中華で一致してるならねw
朝鮮や差し置いて 貢ぎで圧倒する親魏、中国の皇帝にペコペコしまくりの女王国 だったわけで。
ま、どうせ「いや、実は邪馬台国は親魏じゃなかったんだよ。」というんだから聞いても仕方ないだろうけど(ハア溜息w
日本書紀の編纂は魏志倭人伝も参照しているんだよ。
95 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/07(土) 07:07:09
確かに倭人伝の記述にも
「この国の風俗は何かを命令したり、おこなったりする時はまず骨を焼いて、卦をたてる。
そして、吉凶を占って、その結果を告げる。この占いの方法は中国の亀卜に似ています。
焼いてできる裂け目を見て占いをたてるからである」というのと、卑弥呼に関するところでの、
「鬼道を行って良く人々を惑わせた」というのは全く同じとは思えない。
まあ亀卜も、鬼道も中国から伝わったものだろうが。
中国では亀卜で焼いた骨の亀裂の形から甲骨文字が生まれ、後に漢字として形を整えるに至る。
故に古代中国では文字に霊が宿るとされた。それに対し倭国では言霊といって言葉にこそ霊が宿るとされ
神聖なものを文字に表すのを忌嫌ったらしい。卑弥呼も神聖視されていたんだろう。
古代のイスラエルでも神聖なものを言葉や文字にするのを嫌って神の名を口にしたり文字にすることをしなかったらしい。
その為、現代でもエホバ、ヤーウェ、とは呼ばれているが本当の名ではなく
本当の神の名は永い間のうちに忘れ去られたらしい。そういえばアラーというのもただの神様という言葉のアルイラーフが
短くなった言葉でエホバの事を指してるよね。余談だけど参考までに。
>>90 >特殊器台埴輪などの・・・
どちらを指すのか分からんいい加減な用語を勝手に捏造するな!
そんなことだから浦間茶臼山と箸墓の前後関係を見誤るのだ
近藤の著作を真剣に読み、もっと身を入れて考古学を勉強しろ!
97 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/07(土) 08:01:15
98 :
SOY:2007/04/07(土) 08:01:28
>>96 >どちらを指すのか分からんいい加減な用語を勝手に捏造するな!
外出前で、論議の流れをあまり見ていませんが、
『特殊器台形埴輪』という言葉なら、そう珍しい言葉ではないと思います。
99 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 08:39:33
>94 神武東泉のおりの、敵方を新羅系だといつわって戦いにかった皇軍のやってることと似てるよな。
100 :
96:2007/04/07(土) 08:40:13
>>98 >『特殊器台形埴輪』という言葉なら、そう珍しい言葉ではない
そう、その通り
それなら学界で通用するきちんとした専門用語だ
しかし
>>90は無頓着にも、「特殊器台埴輪」と言った
このひと言だけでも彼がいかに考古学を勉強していないかが判る
だから私は怒ったのだ
101 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 11:49:58
102 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 12:09:04
<<<!!!!!特殊器台埴輪はムー大陸にあった。!!!!!>>>
_人人人人人人人人人人人人人人人_
> な、なんだってー!! <
 ̄^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄
∩___∩ ∩____∩
| ノ u ヽ / u u └| ∩____∩
/ # ● ● | | ● ● # .ヽ/ u └|
| u ( _●_) ミ 彡 (_●_ ) u |● ● # ヽ
彡、 |∪| 、`\ / |∪| 彡 (_●_) u |
/ __ ヽノ /´> ) ( く ヽ ノ / u |∪| ミ
(___) / (_/ \_ ) ( く ヽ ノ ヽ
ただのキーボード打ち漏れじゃね?
<<<!!!!!卑弥呼は加護ちゃんだった。!!!!!>>>
_人人人人人人人人人人人人人人人_
> な、なんだってー!! <
 ̄^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄
∩___∩ ∩____∩
| ノ u ヽ / u u └| ∩____∩
/ # ● ● | | ● ● # .ヽ/ u └|
| u ( _●_) ミ 彡 (_●_ ) u |● ● # ヽ
彡、 |∪| 、`\ / |∪| 彡 (_●_) u |
/ __ ヽノ /´> ) ( く ヽ ノ / u |∪| ミ
(___) / (_/ \_ ) ( く ヽ ノ ヽ
>>102 ほぼ同意
>>93 分かりにくい日本語を書くなよw
もう何度、論破されても、同じようなことを繰り返して言うだけだなw
だからさ、当時の日本の政治形態が、その後の日本の政治形態と違ってたんだろうやw
崇神天皇紀を読んだら分かるけど、
当時の日本は巫女が占いして、それを大王が受けるみたいな感じだっただろう?
ある意味、宗教的権威=巫女、政治的権力=大王
の役割分担が出来ていた。
105 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/07(土) 14:00:32
>>96 「学界で通用するきちんとした専門用語だ」ってえらそうに。こっちは専門家じゃないんだから想像して読めば解るだろうが。
単なる言葉の省略をことさらに取り上げて話の本筋をたがえようとのいつものこのすり替えパターンで、
「浦間茶臼山古墳の方が箸墓築造よりも古いのではないか。」の本題の答えをはぐらかすという、もうその手口は飽いた
>>90も別にあんたに話しかけてるんじゃなく
>>88さんに語りかけた内容だから、おかしな言いがかりで話に入って来られたら困る。
つーか全然あんたと会話するつもりは無いけど。
話しかけてもいいよ。ただこっちの反応がTV見ながらよそ見して「はーいはい」で終わるだけ。
今回だけは有難くも賢くもふざけ半分のあんたに御言葉を賜ってやったけど・・・。
ひょっとして滑稽にも、いつもこちらとの対論で性懲りも無く幾度となく自爆してんのあんたじゃないの。
あんた。にではなく真面目な方。ぼくのといにこたえてね。
106 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 14:09:07
>>104 で、モモちゃんが最高権力者だったという記述の引用はまだか?
神功皇后のほうがまだマシだがな。
107 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/07(土) 14:42:52
>>104「もう何度、論破されても、同じようなことを繰り返して言うだけだなw 」
これはあんたのこと。
>>93の人のじゃ無いが言わせて貰うと、
紀記では人形埴輪の出現は定説の随分前になってたりして事実と合わない。
「崇神天皇紀を読んだら分かるけど」など大和朝廷側の作り話が大半なのを鵜呑みにしているのが第一間違い。
「当時の日本は巫女が占いして、それを大王が受けるみたいな感じだっただろう?
ある意味、宗教的権威=巫女、政治的権力=大王 の役割分担が出来ていた」だから何?
僕も
>>95で言ってるように占いと卑弥呼の鬼道とは別物。
倭人伝の「この国の風俗は何かを命令したり、おこなったりする時はまず骨を焼いて、卦をたてる。
そして、吉凶を占って、その結果を告げる」のように倭国では邪馬台国の時代から政治などに関しての
吉凶占いは広く行われ、為政者なら誰でもしてた事だった。
その上、伊都国でさえ「このクニには代々王がいる」と記されるのに卑弥呼の素性にはそれが無く、
由緒ある家柄の孝霊天皇の皇女のモモが、ただ女とだけ記されることなどありえない。
卑弥呼はあくまで予言を的中させたかなんかで名の知れ渡っていたただの女だったのだ。
そもそもモモが実在したとするなら神功皇后も実在したとするべきだしなw
モモちゃん!ギザかわゅす!
110 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 21:16:19
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
111 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 23:52:34
112 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 23:59:22
>>104 論破されてんのはお前だろうがあwww こんな返答で他の皆を騙せると思ってんのか?馬鹿だなあ。
しかも自分は太国でもコテハンでもねーよw
ときどき来ては馬鹿に突っ込んでるだけ。
しかし
>>104さんの被害妄想+国語力スゴイネ?
>時の日本は巫女が占いして、それを大王が受けるみたいな感じだっただろう?
>ある意味、宗教的権威=巫女、政治的権力=大王
だから巫女が女王じゃねーーーって自分でいってるじゃん。日本語の理解力が
ないんだな・・。4流の私立大助教授じゃ仕方ないか。
マキムク説じゃ巫女=大王=親魏倭王の卑弥呼 ← これを突っ込んであげてるのに。
はいはい、最初からやり直し。あとマキムクが親魏の証拠は?
>>104 中国人も日本人も畿内朝廷=女王国と呼んでたん?
崇神天皇を無視して?
魏志倭人伝読み直せ!!卑弥呼と台与の名で貢物を羅列してるぞー 天皇どこだよ、え?
男王もちゃんと認識してるぞ、おい。
男王はわかってるのに、卑弥呼と台与の時代だけ巫女を天皇と間違えて女王って呼んだ?
馬鹿だなあ・・
114 :
日本@名無史さん:2007/04/08(日) 00:41:43
>>104 >当時の日本は巫女が占いして、それを大王が受けるみたいな感じだっただろう?
>ある意味、宗教的権威=巫女、政治的権力=大王
>の役割分担が出来ていた。
ほかの部分はともかく、この部分は気になります。詳細キボン。
>>104さんは、モモと崇神で宗教と政治に分けているみたいだけど、
このときだけではなく、古代から続いていたという説(鳥越)もある。
伊都国王(政治)と卑弥呼(宗教)、スサノウとアマテラスという形で九州のころから
ある種の政教分離が続いていた可能性もある。
倭国が乱れたときに、王統は伊都国に残して巫女を「共立」した可能性もある。
仲哀と神功皇后も類似した関係であったように見える。
隋書倭国伝では、夜に活動する兄と早朝に引き継ぐ弟という形で類似の話がある。
私は、古代では、兄弟や姉弟で政教分離に似た形の活動があったという説には
たしかに、魅力がある。
115 :
114:2007/04/08(日) 01:00:06
祭祀については、古代での祭祀が神社信仰につながる可能性も考えています。
平原の2本の柱跡は有名だけど、鳥居、もしくは鳥居類似のものと考えています。
吉野ヶ里の北墳丘墓では、墳丘墓に隣接した竪穴住居があり、その手前に2本の
柱跡がある。竪穴住居はもがり用の施設で、柱跡は鳥居と考えています。
神社の起源については、天皇、皇族の祭祀が起源であるとする考えを否定して
民間信仰を後の時代に天皇が利用した(簒奪した)という進歩的な説もあるが
古代における王族中心の実態からは、皇族が始めた祭祀と見るべき。
そうでなければ、皇族が祭られていることが説明不能。
116 :
114:2007/04/08(日) 01:13:00
吉野ヶ里って、卑弥呼の活躍した3世紀には完全に衰退していて
殆ど破棄されていたんだよな。
吉野ヶ里の最盛期の最後は、2世紀初頭までらしい。
ちょうど、面土国の帥升の時代。
>>114 巫女の力を大きく落としたのが
崇神天皇じゃないのかな?
最終的には、垂仁天皇の時に
巫女は伊勢へ移しましたとさ。
119 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/08(日) 05:39:43
120 :
日本@名無史さん:2007/04/08(日) 06:04:29
■3世紀中期−4世紀初期の陵墓は当該人が死去してから築造
されたのか、それとも生前から築造されていたのか。
それによっては、大塚古墳やホケノ山古墳が卑弥呼や台与の
時代と被ってしまう。
■△鏡は国産・魏産は問題ではない。景初3年銘の鏡の位置づけを
知っている者がその地に居て、それを権威の象徴として活用する
意義をも知っていた。
■250年頃まで九州のとある処に邪馬台国があって、それから
ほんの、30−40年の短い期間に、東遷が完了し、それなりに
強力な国家体制の母体がなりうるのか。
■もし、その程度に強力な国家であったならば、狗奴国にてこずる
こともなかったであろうに。
>>118 畿内説だとさ、トヨの影で魏に完全無視されてる天皇は誰?
そしてトヨ前の短い期間の男王は誰? 卑弥呼前の男王は誰だ?
そして一番重要なとこ!
魏志倭人伝の女王国の説明に「宗教と政治に分離」の説明が 皆 無 ですな。
どんな風に暮らしているとか風土や召使の数や、亀で鬼道を使うとか戦争があって
何人死んだとか細かく書いているのにさ、天皇のこと書いてないやん!
だいたい日本書紀からして魏志倭人伝参照してるくせにモモだと割にあわんとこ
いっぱいやんけ!オイw
122 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/08(日) 06:21:15
>>115 大変興味深いけど、後段はちょっとよく解らない。
僕は神社信仰は元々倭国に少しずつ伝わって来ていた黄巾の影響と倭国の伝統的思想、
シャーマニズムとが相俟って合体混合し形成されたと思う。天皇、皇族の祭祀といっても
民間信仰が起源でなければ、外国の宗教といえば仏教が取り入れられたとき一波乱あったように
容易に受け入れられるものではなく、エジプトのアクエンアテンの宗旨替えも受け入れられてないように
邪馬台国時代から続く伝統的儀礼が発展したと考えないと、大勢の敵を作ってしまいかねない。
天皇、皇族の祭祀としての新たな宗教を押し付けては民衆や周りの豪族のの反発を買うことになると思う。
倭国の伝統宗教儀礼にちゃっかり神代、人代天皇を現人神として混ぜ込み始めたのは大和朝廷であって、
それが紀記編纂という形で集大成を迎えることになったんだと思う。
あと伊勢神宮はさ、政治にかかわる神託を出したりしてた?
いわゆる畿内説のいう
>当時の日本は巫女が占いして、それを大王が受けるみたいな感じだっただろう?
>ある意味、宗教的権威=巫女、政治的権力=大王
>の役割分担が出来ていた。
のが畿内の卑弥呼だったんなら伊勢から 亀占いの鬼道のアップグレード版で
神託だしてもよさげなのにな。
なぜか神託となると全て九州の宇佐神宮ですな。こりゃまたw
124 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/08(日) 06:30:27
日本書紀の設計では壹與/臺與の前の男王は崇神でしょうね
125 :
カナカナボウシ:2007/04/08(日) 07:19:09
資料では邪馬台国は卑弥呼の時代を記しているのでその時代が邪馬台国のもっとも栄えた時代と
みられがちであるが、卑弥呼の時代は邪馬台国は衰退の時代にはいっております。その都吉野ヶ里も
北内郭はつくられたが、堀は半分埋まり往時の勢いはみられなかったようである。(堀にかんしては
手元に資料がないのでうろ覚えです。どなたか補足お願いいたします。)
こんなとこ?
モモ死亡→崇神→国が荒れるのですぐ天皇辞める→トヨが立って国治まる
127 :
日本@名無史さん:2007/04/08(日) 08:09:37
>>120 >鏡は国産・魏産は問題ではない
考古学的には凄く大問題 職人のコピーか、中国の朝廷から授かったものか。大問題です。
>九州のとある処
伊都に一大率をおくほどの、30数国を統合している「倭王」の一大勢力であり
小国ではない。北・中部九州の全体、それに史書からして吉備勢力とも連合していた可能性も。
が、>東遷が完了
東遷説はここじゃ少数だろ?東遷ではないとして説明省く。
■もし、その程度に強力な国家であったならば、狗奴国にてこずる
こともなかったであろうに。
↑畿内説だと ますます説明がつかない部分だな。狗奴国は南九州の熊襲に違いない。
なんせ神功まで片付かない。
薩摩藩だけで英国軍倒したの知ってるか?おそらく古代から独自・最強だと思われ。
なんせ民族からして違う(と思う。外見が違いすぎる。)
128 :
カナカナボウシ:2007/04/08(日) 08:11:37
崇神は大和の人、トヨ(壱与が正しい)は九州の人です。
トヨ(壱与が正しい)の前の男王の治世は1年未満(半年未満かも)だったようです。
>>112 じゃあさ、なぜ、
邪馬台国畿内説が学会で9割を超えているのか
考えてみいw
おまえらが、いくら論破されまくっていることを
繰り返しても意味無し。
130 :
日本@名無史さん:2007/04/08(日) 08:19:39
邪馬台国畿内説を支持する日本の学会は日本の学問の恥である。
>>129 論破されまくってから 返答できずに 結局 同じ台詞の繰り返し
「考古学の権威が!」「学会の9割が!」 畿内説! 凄いーー!
論破されて 返答できずに いつもこれの 繰り返しだね。
他にいうことねーのかよww 2chで論破されまくって何が学会だw
大体、ここに出てくる2chの学会 と 2chの考古学の権威とやらって 何?
トヨタン・・・・・・・・
>>129 臥海のドンあたりが
ヤマタイ→ヤマト(大和)→畿内
との先入観から女王国は畿内にあったとの確信を抱いてしまったため、この
マインドコントロール的脳内が不動のものになって行き、九州説を信じられ
なくなって、臥海で権力を持っていることから、他が逆らうことが難しい状況に
進行し、臥海の下っ端も反論を持っていても迎合せざるを得ないからだろう。
畿内なんかに女王国はない。君も虎の威を借りる論は止めたほうがいい。
134 :
日本@名無史さん:2007/04/08(日) 08:44:21
>>124 日本書紀の年代観によると、崇神天皇の在位は紀元前97年から紀元前30年になる。
その年代観で、日本書紀の編者は、卑弥呼の時代を神功皇后の時代に重ねた。
ちなみに、日本書紀の年代観によると、神功皇后の時代は西暦201年から
西暦269年となる。
135 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/08(日) 08:51:28
>>129 時勢でどっちの説が優位に立つとか言う事は変わって来るもの。
今は畿内説が優勢だろうと何だろうと必ず真実は後に地明らかになる。
長い目で見れば今の時期などあっという間。地動説がキリスト教の
権威の圧力の中で迫害され、永い間否定されてきた事と比べたらこんな事など何でも無い事。
第一、虚飾にまみれた嘘の歴史を、それも我々のルーツとも言うべき古代史を
さも真実のように仕立てて装う事こそ日本人として一番恥ずべき行為であり、
又これほど日本人としてのの不幸は無い。だから必ずそのうち真実が明らかになると思うよ。
けして今の時点でどっちが優勢がどうかの問題ではない。
136 :
日本@名無史さん:2007/04/08(日) 08:57:41
浦間茶臼山古墳と箸中山古墳(箸墓)の新古が話題になっていますが、これは明らかに箸中山のほうが古いです。
理由はわりと簡単です。
1.箸中山古墳では特殊器台(宮山型)が見つかっている。
2.浦間茶臼山古墳は、特殊器台形埴輪である都月型円筒埴輪の樹立であり、特殊器台は見当たらない。
「特殊器台」と「特殊器台形埴輪」を区別してください。両者は別物です。(勿論関係ありますが)
特殊器台形埴輪は、特殊器台よりも後で作られるようになったものです。
>>135 嘘にまみれた虚飾の歴史...
九州説のことじゃんw
>>133 というか、台湾の学者(上古代の日本を研究している)さん曰く
邪馬台を「ヤマタイ」なんて読んだら駄目だそうだ。
結局は、当時の中国語の発音を研究するしかないと。
だから、日本語で考える時、「ヤマタイ」「ヤマタイ」と連呼するのは
思考を狂わしやすいと。
ちなみに、その人も、邪馬台国は畿内から?と思うらしい。
今気がついたww
>>129 が「学会の9割」を持ち出す理由は
>>93から続き
>>112 で突っ込まれている
>マキムク説じゃ巫女=大王=親魏倭王の卑弥呼
>マキムクが親魏の証拠は?
などに返答できずに逆切れした模様でつな。はいはい、畿内説論破、ろんぱ。
マキムク政権って親魏だったわけ?モモって中国に貢ぎまくりで
中国からお土産いっぱいもらってたわけ?日本書紀に倭王の金印もらったって書いてある?
さあ、答えろや、ォラ
嘘にまみれた虚飾の歴史...
畿内説のことじゃんw
141 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/08(日) 09:19:59
日本書紀を作った人間は、例えば百済関係の記事でも
120年分繰り上げて記事を合わせていたりする訳ですから
彼等は当然201〜269年と云う年代が真の神功の年代でない事は知っている訳です
勿論私も知っている訳ですし、貴方もそれを知りながら、日本書紀の年代観では〜等と言っている訳ですよね
そして日本書紀を作った人間は、年代を繰り上げ操作を行なう以前の真の年代観を捉えていて
崇神紀こそを、魏志倭人伝の時代に設計しているのです
神功紀は漢籍を引用する事で、
書紀のそのままの年代を実年代であるかのような錯覚を要求している擬似餌に過ぎません
142 :
日本@名無史さん:2007/04/08(日) 09:51:55
>>141 >120年分繰り上げて記事を合わせていたりする訳ですから
そんな作為ではなく、単純に「干支」だけで記事を並べただけだろ。
7世紀の人間からみたら、3世紀も4世紀も「大昔のこと」で、ほとんど区別つくまい。
単純に編纂者のミスにすぎない。
143 :
日本@名無史さん:2007/04/08(日) 10:01:01
>>141 >>134を読み返してみたら、ちょっとわかりにくかったかな。
つまり、日本書紀では、崇神天皇と神功皇后では200年以上の時差がある。
卑弥呼のことが書かれているのは、神功皇后のところなので、台与の前の
男王が崇神天皇であるのは考えられないといいたかったわけです。
少なくとも、日本書紀を書いた人は、そのようには思っていなかっただろうと。
日本書紀の年代観の出発点は、紀元前660年の神武天皇即位であり、
これはありえないと思うので、日本書紀の年代観は信頼していませんが。
144 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/08(日) 10:03:32
繰上げはやってないと思いますが。素直に記述して記載位置を間違えざるを
得なかったということだと思います。倍暦の無知はありえたでしょうし、まぁ
中にはうっすら知っていた者もあったかも知れないです。
はっきりしないので神功紀に入れたのでしょうし、伝からと分かるように
している記述です。
145 :
SOY:2007/04/08(日) 10:14:00
>>125 カナカナボウシ氏
>その都吉野ヶ里も北内郭はつくられたが、堀は半分埋まり往時の勢いはみられなかったようである。
>(堀にかんしては手元に資料がないのでうろ覚えです。どなたか補足お願いいたします。)
私も手元に史料がないので、はっきりと言えませんが、吉野ヶ里遺跡は弥生後期には、
集落が北内郭、南内郭の周辺に限られ、外濠も殆ど機能していなかった可能性がある
といった説を聞いたことがあります。(以前は主流?だったような…)
しかし、私も自分なりにネットで探したところ、どうやら、吉野ヶ里遺跡の最盛期は
弥生後期ということに今はなっています。
どうやら、私は時代に取り残されてしまっていたようです。(^^;
しかし、墳丘墓、甕棺墓群、環濠などの点で、弥生中期が最盛期という説についても
スッパリとは捨てきれず、北内郭の大型建物や弥生後期の繁栄については認めつつも、
今しばらく、じっくりと考えようと思っています。
世間の主流がどうあろうと、自分が納得できるまでは検証を続ける。
そのくらいの鈍さでいこうかと考えています。
因みに、環濠で囲まれた部分の広さや墓制の違いだけで単純に最盛期が
いつかということまでは言えないといった結論に至るかも知れません。
環濠の有無は繁栄という要素によってのみ決まるものでもありませんので…
>>138 「台」は首府や中央政府を表す字でもあったわけで。
耶馬(やま)の国に「台」を付け加えた可能性もある。
女王国が三十数に及ぶ連合の中枢で、中央政府のような役割もあったわけ。
一大率などを考えても、組織化されて女王国から力が及んでいるのがわかる。
しかも記述からわかる通り、超大国だよ。
女王国=耶馬台国
倭の発音に卑しい字を当てる中国式において、中国の役人が付けた字の意味を
考える必要もある。
まあ、確かにヤマト→大和というのが畿内説の根拠になっているのは否めないね。
その台湾人は日本中に腐るほど「ヤマト」と発音する地方が在するのを知っているのだろうか・・・
147 :
日本@名無史さん:2007/04/08(日) 10:30:07
>>145 手元にある資料によると、吉野ヶ里の墳丘墓から甕棺が出土しましたが、
あの有柄銅剣や管玉が出土した甕棺は弥生中期のようです。
濠が掘られ始めて、大規模な環濠集落が出来たのが弥生後期。
ちょうど奴国?の王が後漢から金印をもらったのと同じくらいの時期。
南内郭が出来、物見やぐらが立てられたのは、2世紀になってからと
見られているようです。
北内郭や大型の建物ができたのは、3世紀になってかららしい。
吉野ヶ里資料館の年表ではそのようになっていますが、年代については
最近、揺らいでいるので定かではありませんが。
148 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/08(日) 10:33:10
昔の事だから「間違えた」や「知らなかった」や「考えられない」と云う事はないのです
古事記を作った人間だって、
書紀が紀年操作を行なう以前の段階での年代観に基づいて記述している訳ですから
日本書紀の見掛けの編年に捕らわれて結論を下すのは誤りなのです
彼等は真の年代を想定して日本書紀を設計しているんですよ
そうでなければ崇神十年の記録位置に倭迹迹日百襲姫命の没記事を載せたりしないのです
149 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/08(日) 10:37:27
間違いはありますよ。正解ならば記紀は天皇の寿命が一致しますし、
日子穂々出見命の580歳も正解ななることになります。
150 :
SOY:2007/04/08(日) 11:01:10
>>147 >濠が掘られ始めて、大規模な環濠集落が出来たのが弥生後期。
恐らくこのあたりの考え方の違いで意見が分かれるのだと思います。濠には
中期に掘られた濠、後期に掘られた濠、後期に掘りなおされた濠、後期に機
能しなくなった濠があると考えられ、そのことを踏まえて考えた結果が、
1.中期の領域 + 後期に新しく出来た領域 = 最大の領域
2.中期の領域 + 後期に新しく出来た領域 − 後期に衰退した領域 = 最大の領域ではない
といったように意見が分かれていると思われます。
私は九州説なので吉野ヶ里遺跡が後期に栄えていさえすれば、最盛期が中期であろうと
後期であろうと、さほど自説には影響がないのですが、子供の頃、刑事コロンボが好き
だったこともあり、ついつい細かいことが気になってあれこれと検証してしまいます。
151 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/08(日) 11:21:21
>>136 「特殊器台の数が少ないことから特殊器台の時代は短い」と考える事には僕も賛成で、
特殊器台形埴輪への移行が5-10年で行われたとすれば、両者はほぼ同時期といっていいと思う。
浦間茶臼山古墳が、地元のHPを見ても3世紀末となっていることからも
箸中山古墳は、280年頃の築造で合っていると思う。
勿論卑弥呼は九州内で死んで、そのどこかに葬られたと思うので箸墓とは関係無いが。
152 :
日本@名無史さん:2007/04/08(日) 14:22:03
で、モモちゃんが実在したソースはまだですか?>畿内説の方
箸墓さえ掘れたら、こんなヤツらなんかには…
くやしい!ビクビク
154 :
日本@名無史さん:2007/04/08(日) 16:44:32
古墳時代の初期・早期の前方後円墳は、王の死後に造成されたのであろう
か? それとも、古墳時代の中・後期のように、生存中に造成されていた
のであろうか? 箸中山古墳の時代に人力での鍬・鋤であそこまでの
墳墓を造りあげた王族が三輪山の麓に居たのは事実である。
しょぼい九州の邪馬台国よりも、魏には理解されていなかった倭種が
彼の地にあったということです。それ以上でもそれ以下でもない。
155 :
日本@名無史さん:2007/04/08(日) 17:41:18
>>151 >箸中山古墳は、280年頃の築造で合っていると思う。
そうすると、崇神稜も同じ280年頃で、景行は300年、仲哀は320年頃という考えなのでしょうか。
それとも、箸墓→??→??・・・崇神→垂仁→景行という流れ(遡上説)でしょうか。
遡上説は、箸墓は崇神稜よりも前方部が発達していることを、逆に、バチ形の方が古いなど
としますが、バチ形のほかの古墳からは、バチ形は崇神〜景行の時代に位置づけられる。
石塚、矢塚、ホケノは、崇神〜箸墓の規格に入ります。
遡上説では、欠史10代の実在性や陵墓の伝承を当然に否定し、記紀や旧事本紀の
氏族伝承も後世の捏造と見ることになりますが、この捏造史観は誤りだと思います。
詳細な氏族伝承が、相互に補完しあっている関係を捏造と見るのは不可能です。
私は、崇神・箸墓(355〜365頃)、景行稜(380頃)、応神天皇の活躍を400年頃と
見ていますが、遡上説では、崇神(10代)〜応神(15代)までの実在性を否定するか、
これらを全体的に繰り上げないと成り立たないという問題もあります。
中国でも台湾でも
邪馬台国は畿内・大和のことだろう?という意見が
多く出ているな。
九州説は、どんどん追い込まれている。
悲しすぎる...
158 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/08(日) 18:07:34
>>155 別に僕は遡上派というわけではないが
>>136が言うように「箸中山古墳では特殊器台(宮山型)が見つかっている」以上、
この 特殊器台の年代を無視するわけにはいかず、よほどこの年代の根拠が崩れでもしない限り、ある程度年代を認めざるを得ないだろう。
どちらにしても4世紀中頃に築造されたというのは多少無理があるんじゃないかな。でも僕も確かに280年以降だとは思うけど。
>>154の人が言ってるように、天皇の生存中に古墳の造成を始めたとしたら一概に古墳の年代を直列に並べるのは正確ではなくなるだろうし。
159 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/08(日) 18:20:36
確かジンバブエの遺跡だったと思うがヨーロッパの考古学者が「こんな立派な建造物を黒人などに造れるわけが無い」という偏見が高じて
窓の形を丸みのあるフェニキア式に作り変えまでしてヨーロッパの考古学会に発表した。その後バレたが、つくり変えられた部分は今でもそのままなのが
別の意味で歴史の真実を物語る。まさか今の日本でその様なことは無いとは思うが・・・。何か心配だ。
160 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/08(日) 19:16:46
>>157 でもお花見で酔っ払って気分良くなったら
畿内説も九州説もひっくるめて「みんなに乾杯!」ってかんじよ。
161 :
日本@名無史さん:2007/04/08(日) 19:17:16
「こんな立派な建造物を黒人などに造れるわけが無い」
「鉄器の無い畿内に、邪馬台国があるわけない」
>>158 > 別に僕は遡上派というわけではないが
>>136が言うように「箸中山古墳では特殊器台(宮山型)が見つかっている」以上、
> この 特殊器台の年代を無視するわけにはいかず、よほどこの年代の根拠が崩れでもしない限り、ある程度年代を認めざるを得ないだろう。
> どちらにしても4世紀中頃に築造されたというのは多少無理があるんじゃないかな。でも僕も確かに280年以降だとは思うけど。
>
>>154の人が言ってるように、天皇の生存中に古墳の造成を始めたとしたら一概に古墳の年代を直列に並べるのは正確ではなくなるだろうし。
オマエ、ホントにいい加減なヤツだなw
つい2〜3週間前にはこんなこと言ってたと思ったら
何時の間に宗旨替えしたんだ?
>西暦350年ごろに、倭迹迹日百襲姫の墓所として、箸墓古墳が築造された。
>それと同時期に、周濠に、落葉が、つもりはじめ、20〜30年のちに、馬具の輪鐙が、投棄された。
>また、これと前後して、布留1式の土器も投棄された。 その時期は、西暦370年〜380年ごろとなる。
>これは、おおよそ、垂仁天皇の時期に合致する。
>すなわち、箸墓を倭迹迹日百襲姫の墓とする伝承や、垂仁天皇の時代の日葉酢媛の伝承と整合し、
>また、これまでの馬に関する遺物の出土状況とも整合する、きわめて適切な解釈であると考えられる。
布留の開始年代にこだわって罵倒交じりの捨てゼリフで消えたくせに。
別人格になって「復活」か?
同じハンドルの人物とは思えん、つーか、記憶力無いんか?
163 :
日本@名無史さん:2007/04/08(日) 20:19:15
来月には、畿内説になってるよ。
4月は、畿内説転向促進月間、としましょうや。
今月中に転向表明した人には大特典サービス!www
今ならもれなく庄内土器のカケラプレゼント。
166 :
日本@名無史さん:2007/04/08(日) 20:57:10
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
167 :
日本@名無史さん:2007/04/08(日) 22:11:28
>>122 一部は同意です。
「神道」という言葉や祭祀について道教の影響はあると思います。
三角縁神獣鏡の神獣も道教思想が描かれています。
3、4Cの日本で道教は一定の影響力を有していたと思います。
しかし、神道の起源を民間信仰に求める考えは多くの問題があります。
民間信仰説は、民間信仰として神社が作られ、のちに皇族がこれを支配して、
皇族やその祖先などを祭神とするものに改変したという説です。
つまり、民間の自治団体のようなものが支配権力とは別個に独自に神社のもとに
なる施設を日本全国で同時多発的に作り、それを皇族が簒奪したというのが、
オリジナルの民間信仰説です。あまりにもバカバカしい説だと思います。
反皇国史観のバカバカしさの最たるものではないかと思います。
神社の多くがその神社が発足した由来として皇族などの祭祀のためであることを
明確に伝えていることや、祭られている神が多種でありその由来ごとに当初から
系列がことなる神社と認識されていたという事実からは、皇族などの支配者が
当初から関わっていたとみるのが普通であると思います。
168 :
日本@名無史さん:2007/04/08(日) 22:36:49
「学会9割」が通用しなくなって、「中国の学者が畿内説」という
嘘を撒き散らそうとしている必死なやつがみえてきました。
ちなみに学会というのは考古学学会のことでせう。
奈良のようなほったらかしの意味のない遺跡や吉野里なんかしか掘れん。
本当に重要なところは全部、御禁足地で宮内庁に掘らせてもらえないからね。
あんたら笑われているだけだよww
>>153 巻向はとうの昔に掘られまくって空っぽだと巻向スレにかかれていたよ。
数年前のスレだが残っているはず。
なんでも、昔は入りたい放題で小学校の遠足などで皆でスコップを持っていっては掘っては
土器などをみつけてはもって帰ったりしていたとか、色石で落書きしまくったとか・・
所詮、こんなものだと。
>>168 まあ「学会9割」は正確じゃないな。
正しくは「考古学者の99%以上が畿内説」だ。
ちなみに文献史学の学者にも九州説は居ない。
そろそろはっきりさせようよ。
九州説を唱える学者の名前を実名で挙げてくれ。
まずこちらから九州説寄りの考古学者を2名挙げよう。
・森浩一(九州勢力の一部が畿内ヤマトに連合したと考える)
・高島忠平(吉野ヶ里の北及び南内郭を3世紀中葉とし、北内郭を卑弥呼の楼閣と考える)
さあそれ以外の九州説を唱える考古学者・文献史学者をきっちり挙げてくれたまえ。
どうでもいいところばかり掘ってる考古学なんてどうでもいいよ。
読み返せばここの2chの畿内説者は全部論破されてんじゃんよ。
ちょっと歴史好きな理系の留学生にさえ論破される畿内説
173 :
170:2007/04/08(日) 23:13:59
この問いは、邪馬台国が実際どこにあったかとの問題とは関係ない。
むしろ偽情報を淘汰する意味ではっきりさせようと言っているだけだ。
別に学会の99%が畿内説だって構わないじゃないか。
それをひっくり返すだけの、また説得力に富む仮説を提示すれば良いだけの話だろう。
それが出来ないからといって、嘘を繰り返し書き込むのは
九州説論者にとっても決してプラスにはならない。
>>169もコピペだが、纏向に限らずどこでも戦後以降も膨大な遺物が出土している。
小学校の遠足程度で尽きる量ではない。
それこそ小規模集落からでも何千という出土物がある。
考古学どころか常識を知らなさ杉だね。
>>167 >神社の多くがその神社が発足した由来として
>皇族などの祭祀のためであることを明確に伝えていることや、
>祭られている神が多種でありその由来ごとに当初から
>系列がことなる神社と認識されていたという事実からは、
>皇族などの支配者が当初から関わっていたとみるのが普通であると
御説の前段と後段の関係がイマイチ理解できませんが、
祭政一致型の地域社会組織がヤマト政権の下に統合されていく過程で
神縁関係が作られ、「神社」、「神道」と言う概念が形成されたと言う意味でしょうか?
そう言う考え方であればごく当たり前のことだと思いますが、
>民間の自治団体のようなものが支配権力とは別個に独自に神社のもとに
>なる施設を日本全国で同時多発的に作り、それを皇族が簒奪したというのが、
>オリジナルの民間信仰説
・・・も、多少、表現に難ありですが、さして意味は違わないことなのでは?
「反皇国史観のバカバカしさ」とか言うほどのものでは無いでしょう。
それとも、何かもう少し違う考えがあってのことなのでしょうか?
175 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/08(日) 23:16:47
学会9割ってまじなん?
ソースは?
この前のNHKの携帯アンケートでは、九州の方が多かったよ。
学会って、そんなにアピール弱いんかね。
177 :
170:2007/04/08(日) 23:21:16
>ここの2chの畿内説者
確かにアホばかりだな。
モモソがどうとか崇神がアレだとかw
しかし2chにろくな畿内説があろうが無かろうが、現実とは関係あるまい。
3世紀のヤマト連合に北部九州のツクシ王権が呑み込まれたというのは
もう誰にも否定できない。
とりあえず2chから離れて、現実世界できちんとした学術論文を読みたまえ。
理系の人間なら余計に考古学論文が理解しやすいはずだから。
荒らされまくって何もない巻向だけが拠り所の畿内説で学会が99%
》170 おまえ小学校の遠足事情に詳しいんだな!
180 :
SOY:2007/04/08(日) 23:27:25
>>173 >この問いは、邪馬台国が実際どこにあったかとの問題とは関係ない。
>むしろ偽情報を淘汰する意味ではっきりさせようと言っているだけだ。
:
>正しくは「考古学者の99%以上が畿内説」だ。
:
>・森浩一(九州勢力の一部が畿内ヤマトに連合したと考える)
>・高島忠平(吉野ヶ里の北及び南内郭を3世紀中葉とし、北内郭を卑弥呼の楼閣と考える)
2名の九州論者を挙げたのなら、貴方は198名以上の畿内論者の名を挙げなければ、
嘘つきということになりますが、本当にできるのでしょうか?
それとも貴方は偽情報として淘汰されてしまうのでしょうか?
どっちにしろ、根拠を示すことそっちのけの論議は無意味です。
では、寝ます…
>>170 とりあえず2chから離れなさい
論破されて学会の話でスレ埋めようとするような人間は邪魔
182 :
170:2007/04/08(日) 23:31:17
>>176 ソースは、どこでもいいから史学科のある大学か近所の埋文にでもTELして
誰でも良いから質問してごらん。
これほど確実なソースはないだろう?何せどこでも誰でも良いとまで言っているのだからね。
あと九州説は地域観光産業に密着しているから、そうじゃないと困る人も多いんだよ。
「卑弥呼乃湯」なんて温泉が吉野ヶ里にあるだろうw
もうひとつ言えば、考古学にとっては良くも悪くも客寄せパンダだから
世間の関心の部分で、あえてアマチュア論者(安本や古田など)を放置している部分がある。
俺の書き込みが嘘か本当かも、埋文関係者に同時に尋ねればいい。
いきなり電話で聞くの?
やだやだー
ほむぺとかおせーれ
184 :
日本@名無史さん:2007/04/08(日) 23:36:17
>>170 学者の権威だけが最後の砦ですかww
学会の9割とか99%と言っても、学会で邪馬台国論争に参加している学者はごく一部。
東大、京大、早慶などの主要大学の教授はこの問題から距離をとっている。
特に、若手、中堅は回避傾向が強い。畿内説批判ができる風潮じゃないからね。
ある意味、南京大虐殺論争に似ている。
逆に聞くが、主要大学の若手、中堅で邪馬台国の所在について論じる者がいるのか?
185 :
170:2007/04/08(日) 23:45:35
>>180 SOY氏はたまに屁理屈を書くなぁ。
ここで198人列記せよと?そうでなければ偽情報だって?
こちらは「各自治体の教委、埋文、大学などで考古を生業とするものに九州説は居ない。勿論文献関係でも居ない」と書いたのだ。
総数何千人居ると思っているのかね・・・。
それより先にあと一人でも二人でもいい、九州説を唱える考古学関係者を実名で挙げたほうが早いだろう。
しかもこちらは「どこにでも、誰にでも聞いてくれても構わない」と言っている。
世の中にこれほど確実なソースは無いだろうね。
>>178 TELするついでに「纏向ではどのようなものが出土していますか?」も聞いてごらん。
現時点で総面積の1%程度しか調査していないのに、どれだけ多彩な出土物があるか知らないのだろうから
そんなピントの外れたレスになるんだって。
186 :
日本@名無史さん:2007/04/08(日) 23:51:01
佐原真なんかは好きだけどね。
彼は自説への批判を、これでもかというぐらい丁寧に引用する。
その部分を読むと、彼が本当に自説に自信があって主張していると実感できる。
今の畿内説はお互いの駄説を慰めあう互助組織に成り下がっている。
特に、自説や畿内説への批判が十分に引用されていない著作ばかりが目に付く。
主張している本人自身が、その説を信用しているのかを疑問に感じることが多い。
187 :
170:2007/04/08(日) 23:55:31
>>184 確かに邪馬台国論争というか、そういうものに「積極的に」参加する考古関係者は多くは無い。
ただしこれは言い切ろう。
「邪馬台国は九州にありましたか?」と聞くと一笑に付される。
君の言う主要大学がどこを指すのかは知らんが
東大・京大などでは、寺澤や白石の他にも広瀬、岡村、飯田、沖・・・書ききれんw
若手、中堅で最近頑張っているのは北條、後藤、村上、伊東など、こちらも書ききれん。
>>183 誰が何を根拠に書いたかどうかすら判らないのがネット。
現実世界で調べなさい。
188 :
170:2007/04/08(日) 23:58:56
>>186 佐原さんの頃は「邪馬台国論争」があった時期だからね。
現在そのような論争は存在しないから、誰も書かないだけなんだ。
189 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/09(月) 00:02:10
>>162 そのおのれが頼みとしている考古学でさえ
「最新の学説によると」とか言ってしょっちゅう言い分を変えたりするだろう。
こちらは考古学者でもなければ何かひとつ学説を立ててそれで通している訳でもない。
箸墓が卑弥呼の墓では無い事をあらゆる面から証明しようとしてるだけだ。
「特殊器台の年代」という観点からいえば最大で280年まで遡る可能性があることを示唆しただけだ。
それに「西暦350年ごろに、倭迹迹日百襲姫の墓所として、箸墓古墳が築造された」の部分は学説の引用だろう。
引用部以外で「何々だ」のように決定のような言い方をいしたことは無いと思うが。
あえてあげれば「邪馬台国と箸墓は無関係」と言ってるくらいだ。これがこちらの言いたい事の全て、なのだ。
280年以降に造られた箸墓が248年頃死んだ卑弥呼の墓である筈が無い。
「罵倒交じりの捨てゼリフで消えたくせに」?!
何時間相手にしていろというのだ。こっちだって時間には限りがある。
190 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 00:05:22
9割厨バージョンアップwwwww
うざい!議論に参加しないなら失せろ!
191 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 00:12:28
>>189 散々考えた挙句の言い訳がそれかw
あんた輪鐙の存在からして箸中山築造は3世紀だとは考えられないと
自 分 の 意 見 と し て
何度も何度も繰り返していたのをごまかす気ですか?
変節したならしたで別に誰も責めやしないよ
そうじゃなくてあんた、誰のキャラと間違えてそれ書いたのかを追求されているのよ
あんたが別コテ人格や畿内説人格を使い分けているのは住人にとっては周知の事実
じゃあもうひとつ聞こう
NHKの特集を再放送も見逃したのは、九州ですが ◆IhXqm1bg5c とは別人格だね
その名前では本放送終了直後から夜中まで「NHKで九州説圧勝!」と何度もレスしていたからな
192 :
170:2007/04/09(月) 00:18:58
>>190 君らのやっていることは議論ではなく、嘘の列記。
議論したいというのなら質問でもしてくれたまえ。
箸中山築造の根拠となる土器編年の話か?
古墳築造編年の話か?
それとも鉄器出土例と出土勾配の話か?
終末期における祭祀具変遷か?
>>189 >箸墓が卑弥呼の墓では無い事をあらゆる面から証明しようとしてるだけだ。
へ〜〜〜そ〜〜な〜〜ん〜〜だ〜〜
でも、キミの発言には常に「論拠」が無いから「証明」なんてできないでしょ。
いつも「俺は思う」だけなんだから。
それとさ、「箸中山=卑弥呼」の墓なんて畿内説の立場で否定されてるって言われてるでしょ。
ここじゃ、へんな「畿内厨」が一匹、工作活動に勤しんでるだけだけど、
何で、キミもそんなに箸墓にこだわるのかなw
194 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/09(月) 00:23:21
>>167「民間信仰説は、民間信仰として神社が作られ、のちに皇族がこれを支配して、
皇族やその祖先などを祭神とするものに改変したという説です」
少し言葉足らずだったかもしれませんが、多少ニュアンスが違います。
神社信仰、天皇家、といえども倭国の伝統的な宗教儀礼の影響の中で育まれ、生まれたことを言っているのです。
「倭国の伝統宗教儀礼にちゃっかり神代、人代天皇を現人神として混ぜ込み始めたのは大和朝廷」といっても
今見るような神社の形態が整っていたわけではなくその前身の段階で、祀る対象物を追加したとでも言いましょうか。
その後神社の前身は、天皇の先祖を既に祀っていた事から天皇の庇護を受け、後に大和朝廷のの権威付けに使われた・・・。
というような考えでいます。
195 :
170:2007/04/09(月) 00:29:27
>>193 >ここじゃ、へんな「畿内厨」が一匹、工作活動に勤しんでるだけだけど
そう俺もそれが非常に気になっているんですよ。
どう考えても「それは無いだろう!」と突っ込みたくなるような畿内説が明らかに居る。
そいつは中途半端に考古知識があって、微妙にズレたことを言っては自称九州説から論破されるといった繰り返しなんですよね。
もう誰も相手にしないようなズレた昔の畿内説やらを唱える変な論者も居るし・・・。
繰り返し言うが、議論を妨害しようとしているのはそういうヤラセをする人間のほうではないか。
196 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/09(月) 00:36:37
>>193 箸墓は卑弥呼の墓でもなくモモの墓でも無い。むしろこの板ではモモの墓でない事を議論している。
「キミの発言には常に「論拠」が無いから「証明」なんてできないでしょ」 今頃何を言っている。
今までそれを散々議論してきたのだ。「 女王国の北には一大率がいる・・から始まって」
根拠なら色々ある。
197 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 00:42:24
わかった。こうしよう。
邪馬台国は吉備にあった。
これで畿内も九州も納得。デカい古墳もあるし。
年代があわん?知るか。
198 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/09(月) 00:46:09
>>191「箸中山築造は3世紀だとは考えられないと 」
そうですよ、いまでも。だから
>>158で言ってるだろう。
「特殊器台の年代を無視するわけにはいかず、よほどこの年代の根拠が崩れでもしない限り、
ある程度年代を認めざるを得ないだろう」と。だが 「この年代の根拠が崩れ」ると確信している。
280年から300年代にずれ込むとね。
ホントころころ言うことが変るやつだなw
200 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 00:47:56
>>196 なるほど、だから卑弥呼=モモソのような変な畿内説を唱えるキャラを名無しで作り上げて
さもそれを論破しているかのように議論を捏造していたということか。
い っ た い 何 が し た い の あ ん た?
201 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 00:49:55
邪馬台国は韓国人が日本にわたって作ったんですよ^^
意外と知られて無いんですね。
そろそろ三足土器厨が出てくる予感。
いまは卑弥呼≠モモちゃんを議論しているのではない。
畿内派の方々は、早く
女王→男王→女王
の天皇系図を提示して下さいな。
204 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/09(月) 00:54:56
>>200 何のことだ。それもこんな夜更けに変な言いがかりまでつけて。
暇なのがふざけ半分でピヨピヨ飛び回ってるだけだろう。
そんなことが何故そう気になるのだ?まるでこちらがしているかのごとく。
205 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 00:56:12
>>198 >>158であなたはこう書いていますよ。
158 :九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/08(日) 18:07:34
>>155 別に僕は遡上派というわけではないが
>>136が言うように「箸中山古墳では特殊器台(宮山型)が見つかっている」以上、
この 特殊器台の年代を無視するわけにはいかず、よほどこの年代の根拠が崩れでもしない限り、ある程度年代を認めざるを得ないだろう。
どちらにしても4世紀中頃に築造されたというのは多少無理があるんじゃないかな。でも僕も確かに280年以降だとは思うけど。
>>154の人が言ってるように、天皇の生存中に古墳の造成を始めたとしたら一概に古墳の年代を直列に並べるのは正確ではなくなるだろうし。
注目すべきはここ
>どちらにしても4世紀中頃に築造されたというのは多少無理があるんじゃないかな。でも僕も確かに280年以降だとは思うけど。
4世紀中頃は無理があるんでしょ?280年以降だと思うんでしょ?
でも輪鐙を議論していたときは布留1式も含めて4世紀後半だと、ご丁寧に相手に罵倒も添えて書きまくってましたよね。
それは頬被りですか?
どうせまたキーボードの練習とか言って泣きながらごまかすんでしょうけどねw
ニヤニヤ
207 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 00:57:32
>>203 その天皇系図とやらにどれほどの信憑性がある?
偽太国さん、コテつけ忘れw
209 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 00:59:40
>>204 どうでもいいからNHKの番組見てたんだろ?
なのになんで見逃したなんて嘘つく必要あるのさ?
さあ、今宵もキーボードの練習が始まるぞw
211 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 01:06:38
>>207 信憑性?そんなん最初からあるかアホw
それでも畿内説は日本書紀から誰かを探すしかないだろうが。
まさか「卑弥呼は畿内にいたけど名前は不明」で済ますのか?
212 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 01:09:41
>>211 >まさか「卑弥呼は畿内にいたけど名前は不明」で済ますのか?
科学的には、正しい結論だけどね。
墓誌でも見つかって「親魏倭王」とか書いてありゃ別だが、
倭人伝以外に情報がなけりゃ、普通は名前なんて確定しようがないだろう。
で、NHKの特番はどうなったんだっけ?
214 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/09(月) 01:11:14
>>205 そこが箸墓のおかしなところだ。時代の古い「特殊器台(宮山型)が見つかっ」たり、
時代の新しい輪鐙が見つかったりして。
>>159のようになぜジンバブエの遺跡の例を出したと思う?
どうもおかしい、というのはこの事なのだ。
215 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 01:11:58
>>204 九州説とか畿内説に関係なく邪馬台国について意見交換や議論したい者にとっては
あなたのようにやらせまでして変な方向に議論誘導するものこそ要らないのですよ。
その馬鹿っぷりを楽しんで見ている人も多いことから
少なくともあなたの思う方向には進んでいないことは間違いありませんが。
九州ですが ◆IhXqm1bg5cはスルーで。
>>217 たかが分身一匹をスルーしただけじゃなあ。
219 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 01:19:18
>>214 ほお〜〜〜おかしいと思っているのに罵倒したわけですか・・・
つまり宮山型か輪鐙か、またはその他の出土物が捏造だと思っているわけですか。
あほですか、あんた。
旧石器みたいに物証が極端に少ない時代とは訳が違う。
いや旧石器捏造すら「出土状況がおかしい」と考古学内の専門外からも散々指摘された挙句、内部告発で発覚したのだ。
つまり簡単にばれるんだよ。
>>211 記紀を根拠にする畿内説など現実の学問の世界では居ない
2chなどでそういう妄想が楽しくて仕方がない痛い奴は居るがな
しかしそれは畿内説でもなんでもない、ただの妄想厨
>>ですが
>>159のようになぜジンバブエの遺跡の例を出したと思う?
確かに大概の宮内庁所管古墳は、文久他の修陵で改変されまくってるけどね。
それと出土土器の問題は全然違う。
別に後世の官権が偽装のためにバラ撒いたわけじゃない。
旧石器と違って藤村レベルの手口じゃ対応できない。
222 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/09(月) 01:30:19
>>205 要は箸墓が280年以降に造られたとしても4世紀以降に造られたとしてもいずれにしても「卑弥呼、又モモソの墓にはならない。
巻向は邪馬台国とは無関係」こちらが言わんとすることはこれだけであり、箸墓築造を280年以降とする考えについては
「百歩譲って」と前置きするのを忘れていたくらいか。こちらは別に固定観念で言っているのではなく、
畿内説の立場に立ったりして客観視するからそちらから見ると考えが揺らぎ変遷するように見えるかもしれないが、
どのような立場でどのような角度から見ても「卑弥呼、又モモソの墓にはならない。巻向は邪馬台国とは無関係」
というのがこちらの決定的な答えなのだ。単に言葉尻の問題ではない。
あらゆる目で見ても畿内説が正しい事はありを得ない。
>>215>>217 スルーつーか、コイツは天然のオモチャなのよw
コイツが居座る限り、弄って遊ぼうとする連中は消えないどころかむしろ増えていくわけ
「2CH日本史板にこれまた痛いオモチャがいるんだってさw」みたいな会話が飛び交って
まるで糞にたかるハエのようにわらわらとやってくるというのがネットの世界
今はまだ炎上とまではいってないだろうが、こいつが居座る限りいつかは大炎上するのは間違いない
まじめに議論したいのなら奴が来ないスレに避難するのがあんたのためだとおもう
224 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 01:32:09
1、特殊器台は大型古墳の時代に作られ始めた。
2、特殊器台は箸墓に直接繋がる。
3、箸墓は崇神とほぼ同時代。
よって、崇神稜の時代を基準に考えれば、特殊器台の年代が決まる。
私は、崇神稜を350〜360頃(完成が360で死亡後の埋葬が365の可能性もある)と
考えているので、特殊器台は340〜350頃に始まったと見ている。
箸墓=モモソヒメの墓で良い。
1、崇神とほぼ同時代の規格であり、伝承に合致する。
2、伝承とおりの場所にある。
3、崇神以降の天皇稜もほぼ伝承とおりの年代順で、年代が合わないものは比定違い
として理解可能であり、箸墓の伝承のみを除外する理由がない。
4、伝承とおりに大坂山の石が使われている。
5、モモに関する具体的な伝承が存在する。
225 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 01:35:27
>>222 >「百歩譲って」と前置きするのを忘れていたくらいか
それを忘れていたらぜんぜん違う意味になるだろうし
その他の文にも仮に、もしくはなどの断りが全くない時点で、それこそ言い訳の大嘘
おまえ余計に自分は馬鹿ですと言っているのに気づかないのか?
226 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 01:38:24
、 l ,
-(-@∀@) -
' l `
/''⌒\
,,..' -‐==''"フ /
__ (n´・ω・)η
>>195、おまえがいうな〜!!!
 ̄ "  ̄( ノ. \ 、_
" "" (_)_)""" " ,ヽ ユ〜ナ〜/~~\ ⊂⊃
"", ,,, ,, , ,, ,,,"_wノ| ユ〜ナ〜/ .\
"""" v,,, _,_,,, ,,/l ::::... | .....,,,,傘傘傘::::::::傘傘傘...............
,.-r '"l\,,j / |/ L,,/:: i 森
, ,/|,/\,/ _,|\_,i_,,,/ /::./森
_V\ ,,/\,| i,:::Y: :: :i/:: | 森
227 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 01:38:51
>>224 これがその変な畿内説とやらの実例か・・・
どこから突っ込んでいいのかw
たしかにちょっとでも考古学をかじった人間にとっては簡単に論破できるおかしな畿内説だなw
こういうのをでっちあげて畿内説は論破されたとかいうのがですがの手口ってわけだw
安本の手口の下手な模倣だね。
229 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/09(月) 01:42:53
>>223どーぞどーぞ来てください。こちらの問いに答えられるなら。
バカ千人に恐れるものは無い。まず一つ目の質問にに答えてもらおうか。
倭人伝に「伊都国には一大率がいる」とされ、また「女王国の北には一大率を置いて」
とある事から伊都国の南に女王国があるということになる」つまり
邪馬台国は九州という事になる。これに異論が無いかをまず聞こう。
答えられなければ自動的に邪馬台国は九州であると認めたこととする。
どうしても行灯山を崇神陵にしたいみたいだね。
231 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 01:43:54
>>227 反論は具体的に!負け犬の遠吠えは控えめに!
232 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 01:45:45
233 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/09(月) 01:46:02
>>229 早く答えろ。おまえの負けはファイナルアンサー?
>>229 > 倭人伝に「伊都国には一大率がいる」とされ、また「女王国の北には一大率を置いて」
> とある事から伊都国の南に女王国があるということになる」つまり
> 邪馬台国は九州という事になる。これに異論が無いかをまず聞こう。
> 答えられなければ自動的に邪馬台国は九州であると認めたこととする。
根拠 伊都は女王國の北にある。
結論 邪馬台国は九州にある。
この結論を導き出すには、もういくつか定義が必要だね。
先ずは誰でも思いつくのは
「九州島の南には陸地は無いものとする」つーのが必要だねw
235 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/09(月) 01:50:10
>>232 あほか。正確じゃ。その程度か。
古代中国ではは北極星で方向を判断していたのだ。それに司南という方位磁石も既にあった。
八方の東南という方向を出している事がその正確さを物語っているのだ。
236 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 01:53:57
>>231 本気か?真面目にこんな事書いているのか?
凄いな、君w
めんどくさいからひとつだけ
1、大型古墳ってどれのこと?箸墓が畿内における宮山型の契機だというのは事実だが
それ以外に箸墓クラスかそれ以上の前方後円墳で、箸墓以降で出土例を具体的に挙げてみてください。
2、はこれでいい
3、まったく無根拠・・・てか君の言う崇神陵ってどこなの?
行燈山にしてもぜんぜん時代違うし、ホケノ山でもないよねw
あとは伝承をむりやりこじつけただけで、本人も無理があることは承知しているだろうから敢えて突っ込まないw
>>235 > 古代中国ではは北極星で方向を判断していたのだ。それに司南という方位磁石も既にあった。
> 八方の東南という方向を出している事がその正確さを物語っているのだ。
そんなこと言っちゃうと九州説では「計其道里當在會稽東冶之東」で答えに窮するのに・・・
238 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 01:55:45
変な畿内説はやらせじゃないと思うよ。
高天原が畿内にあって、九州に神派遣して、伊勢のアマテラスが卑弥呼っていう説を真剣に唱えてる人が居るしね。ただ単に未熟なだけでしょ。
2chなんだから好きにやらせりゃいいじゃん。
学会がどうのこうのいってる奴こそ、実は学会の威を借りる馬鹿素人の畿内説考古学ヲタじゃねーのかな。2ch以外で邪馬台国論争にはいる場所がないんでしょ。
239 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 01:56:27
>>236 下らない。反論する価値もなさそうだな。
勉強してから書き込めよ。
240 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/09(月) 01:56:46
>>234 その必要は無い。なぜなら帯方郡から女王国まで一万二千里だからだ。
その9割を伊都国あたりで消費し終わっている。後は女王国への道程は
倭人の通る道が幾通りかあるのを書き記したものと考えられる。
>>240 倭人伝的には、邪馬台国は東冶の東なんだけどねw
まあ、そんなことは、どうでもよいが。
それより、NHK特番の「言い訳」はまだですか?
242 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 02:00:53
>>235 こいつやらせというより単なる分裂病じゃないかね
じゃあ壱岐国から奴国まで通説と違う場所になるじゃないか
しかも方角が正確だったらなぜ西域伝でトルコの位置を間違えているのかも説明してくれ
243 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 02:01:11
>「邪馬台国は九州にありましたか?」と聞くと一笑に付される。
それは邪馬台国がどうのこうの言って真剣なアンタが一笑されているんだよ。
邪馬台国に関わりのありそうなところは掘らせてもらえんしね
九州説が考古学に弱いのは全部宮内庁に封鎖されてるからだよ。某神社なんて
遺跡封鎖の為に建てられて全部が御禁足になってるようなところもあるんだから。
せいぜい小学生に混じって巻向荒らしては自己満足していなさい
NHK特番の話しのほうが面白そうだけどなあ。
245 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 02:03:19
冗談抜きに聞きたいけど、遡上説の根拠を挙げて欲しい。
遡上派の人達が本気で自分の説を信じているのかが、イマイチよく分からない。
ここでは何回も聞かれているけど、はっきり答えた遡上派のレスが未だにない。
本当は自分でも信じていないのでは。
だから9割論しかできないのでは。
こんなところで工作にいそしむ心情もイマイチ理解できん。
暇ですね。
>>245 今、ここに「遡上派」なんて居ないだろうw
話しを逸らすなよ。
なんでこいつ同じような話を繰り返すのかと思ったら
NHKの件をごまかしたいから、話をそらしてるのかよw
ですが、他の話はどうでもいい。
どうせ同じ話をくりかえすだけだから。
それよりなぜNHKの番組を見ていないなどと見え透いた嘘をついたのか説明せよ。
お前の言葉を借りるなら
説明できなかった時点で謝罪のしるしに、二度と現れないと誓うと宣言したと見做す。
248 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 02:07:57
畿内説を唱えている学者で本気で畿内説を信じている人っているのかな?
学問に本気なら、鉄器の九州優位を40年も黙殺したりしないよね。
鏡の同位体比も現時点で20年以上も無視しているけど、どうなの?
>>240 >9割を伊都国あたりで消費し終わっている。後は女王国への道程は
>倭人の通る道が幾通りかあるのを書き記したものと考えられる。
壱岐・対馬の二島超え1500里に20日も掛けたといってるのかなw
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
>ですが
名無しのage厨になりすます前に
NHKの件について答えよ
万一他人なら、今はその話をしていないので後で好きなだけ書き込むように
252 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 02:11:18
「東冶の真東」と「帯方郡から女王国まで一万二千里」だけどねw
自分は航空地図を勉強しインターンで働いている身で分野は違うが
地図には詳しいつもり。
数ヶ月前に大体を書いたが自分なりに中国の古代地図調べて簡単に基礎中の基礎の知識で
出してみた。
キーはね、このころの中国人は地球のゆがみを知らない。そのズレは現在完璧に
わかっているので簡単に修正できる。その歪みは遠距離になるほど出てくるのだが、
3世紀ごろの中国の地図はすでに非常に近距離で正確、が遠距離になるほど肥大してずれる。
それで当時の測量が正確なもの、として地球の歪みを緯度と距離で修正してだしてみた。(簡単に10分ほどでできる)
「計算では大体 この辺だw」なんて感じで定規を2つ当てると丁度大分県の国東の付け根で
交差してゾッとしたよ。ま、ほんの一説だからあまり気にしないでw。
うん、わかった。
馬鹿馬鹿しいけど、別に気にしないよ。
だから、早くNHKの言い訳を考えなさいよw
254 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 02:14:29
>>252 >緯度と距離で修正してだしてみた
おっと、緯度と経度のズレね。修正。
255 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 02:15:28
>>253 いや、NHKを言っている奴とは別なんだが。 すべて同じ人物だと思ってるのか?
256 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 02:15:32
やっぱり答えに困ったときの三足土器が出てきたかw
そんなとこ間違えたって誰もきにしないからさ。
258 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/09(月) 02:16:50
>>252 近距離は司南で出し、遠距離は北極星という両方から出したので、
「3世紀ごろの中国の地図はすでに非常に近距離で正確、が遠距離になるほど肥大してずれる。」
ということが起こったんではないかね。
ニヤニヤ
九州ですが ◆IhXqm1bg5c の謝罪マダー?
厭きたから寝るか・・・
262 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 02:18:56
なんか九州説がたった独りだと思って被害妄想にとりつかれてる香具師がいるね。
当然、哀れな畿内説だろうが。
畿内説じゃ距離の計算も何もあわないからな。気にしたくないのはよくわかるよ。
意味がわからん、日本語なんだよな。
264 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/09(月) 02:21:49
>>252 しかしとても興味のある話だ。三国志の戦乱の時代にあの広い中国で
方向を間違うような事でもあれば戦いにならないし、命が幾つあっても足りない。
かなり正確な測量をしていたとは思っていたが。
265 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 02:23:57
>>258 調べたのは数ヶ月前なんで、細かい年号は忘れたが中国の地図は
地球が球だということを知って修正したあとはほとんでズレがなくなる。
だから地球が平面だという思い込みが何百年かけてもできなかった唯一の
間違いなんだよ。
そして肥大しているのは海岸線など、測量がものすごく面倒くさいのを
省略しているため。だから日本の地図は太平洋側が丸々としたものになってる。
中国は陸つづきだから、軍事とはかかわりない太平洋側に時間をかけたくなかったんだろう。
他のコテ(SOYや一応など)が君とは無関係なのは誰でも判る
また九州説にしても畿内説にしても名無しがたった独りか少数でないこともあたりまえに判る
そうじゃなくて今追求されているのは
九州ですが ◆IhXqm1bg5c という非常にたちの悪い人物についてであって
彼がここに居座る限り、まともな議論など望むべくも無いということを問題視している
267 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/09(月) 02:28:01
あーあ、とうとう
>>229の第一問目にさえ答え切れないで面白がって
色々変化自在してるようだけど、そんな自分が情けなくなーい?
本当の惨めとはね、その様な姿のことを言うんだからね。あわれましい。
>>ですが
自分に出されてる宿題はどうしたw
>>267 ここはおまえの遊び場じゃないから
さっさとNHKの件に答えて退場しろ
270 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 02:31:03
>近距離は司南で出し、遠距離は北極星という両方から出したので
こういった測定は1世紀にはできあがっていたのだから中国の、当然国内の
軍事的目的だろうが、地図作成技術は世界最古で正確。調べている最中に、古代のアメリカ大陸の
地図さえあったという話も読んだ。
魏志倭人伝では、倭人の口伝での距離=原始的、又経路によるので地図で見るには信用できないとみる。
中国大陸、しかも政府のある場所から表す方角や距離は、当時の最新の技術をつかわれたんじゃないかな、とみる。
271 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/09(月) 02:33:47
>>265 なるほど。そこまで調べる人はちょっといないのでは。
北極星で測量してたということは解っているんだけど、それでそこまで解るんだろうか?
なんかうまいこと別の話題を振ってくる奴が現れたなw
ですがもそれに飛びついて、訳もわからずにレスしているのが笑えるw
273 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 02:40:02
NHKの件てなに?
274 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/09(月) 02:43:01
>>270 倭人伝のメインは明王が卑弥呼に100枚の銅鏡を贈った。など、
明王の慈悲深さを恩着せがましく綴っている所だと思うわけだが、
その様な重要な文面に記するに付け最新の測量技術が使われたのには同意。
倭国でひょっとしたら命を落としかねない危機感も魏使は持っていたかもしれない。
ならばなおの事距離、方向に正確さを期したんだろうと思われる。
このスレの
>>24 24 :九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/02(月) 19:38:16
又見損なって最後の部分だけチラッとしか見られなかったが
最近の研究でここまでわかってきたようなことを言っていたが。
NHKともなればかなり正確に学説を調べて放送をしたと思うんだけれども。
見てないから何ともいえないが。
本放送の際に前スレと関連スレに、九州ですが ◆IhXqm1bg5c が「NHKアンケートで九州説が勝った!」などと嬉しそうに何十ものレスを返していたのは誰もが知るところなのに
突然何を間違えたのかこういうレスを入れた件。
またころころと意見が変わるのをつっこまれてあわてて言い訳することからも
複数ハンドルや名無しなりすましを繰り返して、スレ進行を妨害し続ける件。
276 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/09(月) 02:52:23
F-1を見ていたらこんな時間になってしまった。
邪馬台国の正確な場所の特定にはあまり関心がなかったが、最近古田説とずれてきた。
伊都国は小城市、奴国・不彌国は佐賀平野、
投馬国は不彌国から南に海を行ったところにあり、郡から水行20日のところにある。
即ち、郡から東シナ海を南下し(壱岐経由でも可)、長崎半島野母崎から天草灘・島原湾と入り、
到着地は菊池川河口。
邪馬壱国は筑後川南岸(左岸)から八女になる。郡からの行程は水行10日(韓地西岸南岸と海峡)と陸行1月(対馬・壱岐・九州内)。
卑弥呼の城砦は矢部川と星野川に挟まれた標高100mの台地か?現地未調査。
吉野ヶ里と安徳台を合わせて大規模化したような地形。
未だ戯言です。
277 :
猫厨改:2007/04/09(月) 03:02:10
内藤虎次郎なんかが指摘しているが、
中国の文献に記された方角は結構間違いが有るんだそうだ。
何らかの理由が有って故意に間違えたのか、
本当に間違えたのかは知らんが。
278 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/09(月) 05:59:40
>>277 方位だけの問題なら良いのですが。
結果として、倭人伝の方位も間違っていなかったことで説明がうまくできるのです。
九州王朝の夜明け前が大きく変質しそうです。
279 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/09(月) 06:08:34
>>223 ほれ。ごまかしはもういいから。答えてみろって。
倭人伝に「伊都国には一大率がいる」とされ、また「女王国の北には一大率を置いて」
とある事から伊都国の南に女王国があるということになる」つまり
邪馬台国は九州という事になる。
答えられなければ自動的におまえが負けを認め謝罪した事とする。
夕べもはぐらかしただけだった。そうかと思えばこんな屁のようなごまかし回答。
「
>>229 里程方角は信用できない 論破完了 」
もうおまえの負けは決まったも同然だな。まだたった一問目なのに答えに詰まるとは。
誰にも相手される価値無いんじゃないの?箸墓にたどり着く前に沈没して。
夕べ遅くまで相手してやっただけでもありがたく思ってね。
280 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/09(月) 06:17:44
>>223 仕事に出る前にもう一度方向間違いという迷妄な主張を破ってくれよう。
「福岡県から見て佐賀県は西にあるといった認識だが、
福岡県から南下して熊本県に至る場合、当時の謂いで言えば
「福岡国から南至佐賀国、南至熊本国」となって西にあるはずの佐賀が南と記される。
このように当時の国の範囲が入り組んでいた場合、東、東南に女王国へ至る道がある場合、
その道すがら、通過したクニを記したのもであれば倭人伝の記述が間違っているとはいえない。
今発見されている遺跡同士を結んで方向の間違いと捉えるのはナンセンスである。
その遺跡を基点として方向を出したかどうか不明だ。
当時は北極星を見て方向を判断していたという。また司南という方位磁石もあった。
古代中国の進んだ技術で方向を出していたと思われる。
故に倭人伝記載の方向が間違っているという考え自体が間違い」
281 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 06:37:03
>>279 女王国の北に一大率を置くとされているが、邪馬台国の北とは言い切
れない。
なぜなら、女王国≠邪馬台国だから
282 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 06:57:30
女王国より北は戸数や道順、距離の詳細を概略記述することができるが
女王国の傍(周辺)の地は、絶縁の地なので詳細がわからないと述べ
ている。伊都国は郡使が常駐する地なので、九州であっても、邪馬台国
は中・南部に限定され、北部はありえない。また、邪馬台国の詳細は
直接に見た者の言葉として伝わっていない。非常に抽象的であり、やは
り九州より遠く離れた地であると想像してしまう。
ですがへ。
本物の大好き氏はF1なんかみないよ。
また設定ミスだね。
>女王国の傍(周辺)の地は、絶縁の地なので詳細がわからないと述べ
そんなこと書いてないWWWWW
創作するなあ! しかも非常に抽象的でなく詳細にかかれているぞお。
絶縁の地に金印運ぶかっつーの。
285 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 08:29:48
東に大海があり、その先も倭人が住む(が、倭国とは言ってない)。
とある。
口伝だろうが見たものだろうが、
「東に大海」これを間違えるバカは居ない。少し脳みそつかってみな。
情報処理能力が問われる。
原人だろうがシナ人だろうが太陽が昇る東ぐらいわかるんだよ。そして海でもなく
里で ← ココもポイント! 水行〇日とかじゃなく里で表されとる。
これは本州の陸続きの〜湾とか湖じゃねーぞ。
>>282 九州の地理から考えてみると北部の、さらに北部の沿岸以南は険しい山続き
であり、内陸部も険しい山並みなんだよ。
だから結構、険しい山脈超えや、川下り、沿岸沿いの水行などあったんじゃ
ないかな。獣や蛇も多いしw、古代じゃなくとも危険な旅だよ。地図をみてごらんよ。
とりあえず、北の沿岸部から女王国まで険しい旅だったと見る。
しかし中国の大使や役人は必ずいったはずだよ。
でなければ倭人伝にかかれているような、まるで見てきたような詳細は
かけない。食べ物、植物、動物の詳細、召使の数や男召使が一人だとか、
女王の様子などは書けないよ。
287 :
猫厨改:2007/04/09(月) 10:37:20
水野さんの説は30%くらいが正解ですが、
大率が九州と東北と2人いるとか言ってるところとかが間抜けです。
あそこまで解っていて、狗奴国や黒歯国の位置がいまだに解らないなんて耄碌したんか。
彼は東国の研究が疎かになっているようです。
288 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/09(月) 11:44:42
>>283 F-1を見るのが好きなんですよ。
本物です。トリップを見てください。
45年来の車好きなので、九州王朝はあったのか?スレで最下段に表示のある、
ポルシェケイマンスレとE46BMW3seriesスレを見ている人は僕です。
289 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 12:23:03
290 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 12:33:05
昨夜は9割厨が猛威を振るっていましたね。
彼は、昔は、
「弥生時代で鉄器の九州優位などあり得ん。学会の9割以上が否定している。」
「三角縁神獣鏡の国産など絶対にあり得ん。学会の9割以上は舶載説だ。」
などとやっていたんでしょうね。
今は、「邪馬台国九州説などあり得ん。学会の9割以上が畿内説だ。」と吠えている。
291 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/09(月) 12:36:39
卑弥呼の城柵とみられる矢部川と星野川に挟まれた標高100mの台地は、
面積約20ha、周辺平地部に対して約60mの高さ。
発掘すれば棲観跡や柵跡が出てくるのでは?
初めて、ここに書きこしますが...
大学で考古学の講義を受けたんですけど、邪馬台国=畿内で
ほぼ固まりつつあるというのは実感ですね。
他の人はどう思われますかね。
ゆうべネタで吉備説を持ち出した者だけど
ぶっちゃけ畿内でも九州でもどこでもいい。
我々は真相を知りたいだけであって、相手を否定するためだけの議論はしたくない。
その畿内も九州も、少なからず足元が不安定なため
お互いに足を掬いあっている現状。
294 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 14:13:27
神功皇后の実在が立証できれば畿内で決まりだな
>>290 昨夜の者とは別人だが高校学者の99%が畿内説というのは事実だから仕方がない。
それはそれで認めても別にいいんじゃないか。
失礼
高校学者→×
考古学者→○
>>295 神功皇后は関係ない。
神功皇后は、日本書紀だけじゃなくて
古事記にも書いてあるわけだから
実在の人物なんだろうけど。
299 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/09(月) 15:20:49
>>294畿内説は不安定じゃないよ?
確かに不安定じゃない。邪馬台国は畿内ではないという意味で安定している。
300 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 15:22:01
301 :
日本@名無史さん :2007/04/09(月) 15:30:50
>>291 黒木の猫城址のところ?
戦国時代も拠点としては重要な場所ですな。
302 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 15:39:51
>>290を書いて思ったが、
学会にはエサを目の前にして「おあずけ」状態の犬のような学者が本当に多いね。
ボス犬が認めるなと言えば、弥生時代の鉄器が九州の方が10倍以上多く出土
していても認めない。
その歴史があるから、「畿内説が99%」と吠えても「ボス犬健在」と取られる。
ソ連では99%が選挙に行き、99%が党の選んだ候補者に投票していたことを
思い出させるが、自由な意見を述べる雰囲気が全くない。
303 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 15:47:17
青森の三内丸山のあの太い柱は何で切り出したか?
>>298 関係ある。
畿内だとして、卑弥呼に匹敵する女帝は彼女しかいない。
関係ないなら邪馬台国は畿内ではない。
>>303 必要だったから。
305 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/09(月) 16:10:11
>>162 おにょれは物事を固定観念で一辺倒にしか考えられないようだから
こちらの基本的な考え方を伝授して進ぜよう。
引用
「箸墓古墳について平成8年出版の拙著では、
古墳にせよ土器にせよ、製造の絶対年代を狭い範囲で特定するのは現代の考古学をもってしても非常に難しい。
たとえば、ある古墳・土器を3世紀後半と推定しても、実際には「3世紀後半を中心とする」という程度しか言えず、
今回の箸墓古墳も4世紀前半の築造の可能性は依然として否定できない。
今回出土した土師器(甕・壷・高坏など)の大量の破片は
260〜280年頃の「布留0式」と呼ばれる様式と判明しているが、
学問的に厳密に言えばプラス/マイナス50年ぐらいの幅をみる必要がある。
すなわち、これらの土器の年代は「210〜330年の間」であって、
3世紀後半とは特定出来ない。墓誌・金石文・文献による特定、
例えば百済の武寧王陵は発掘された墓誌で523年の築造、
また高句麗好太王碑は刻まれた金石文で414年の建立と断定できる。
すなわち、出土土器による古墳の年代推定と墓誌・金石文・文献による年代断定とは、
精度に決定的落差がある。 古墳・土器の形式・様式は一種の流行のようなものだが、
古代では伝播のスピードは非常に遅い。同じ様式の土器が九州と畿内大和で同時に発見されても、
製造年代が100年ぐらい違うことがありうる。また、ある土器の流行年代が数十年の幅しかないのに、
別の様式の土器の流行が100〜150年間の長期であることも有りうる。」
このように柔軟に思考すべきなのだ。又本文に
「こういう状況を踏まえると、箸墓は従来通説のように3世紀末〜4世紀前半の築造とするのが妥当です」とあり、
こちらの説は別に異常でもなんでも無い。取り立てて大騒ぎする方が異常なのだ。
306 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/09(月) 16:12:55
307 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 16:32:43
何を使って切り出したか?
308 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 16:42:09
>307
石器。
309 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 16:53:56
人
310 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 16:53:59
インド→ミャンマ→ジャワ→沖縄→鹿児島→北九州→大和だと思ふ。
311 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/09(月) 16:56:37
313 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/09(月) 16:58:42
314 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/09(月) 17:09:00
>>312 三内丸山の出土品で確認はしていない。
石斧は貴重品だから、消耗してしまうまで使用するから出土品にならないと思う。
大斧は割れれば小斧になり、小斧が割れれば石刃になり、又石鏃にもなる。
315 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 17:30:01
>>314 石斧はみんな黒曜石だと思ってるんだな。
かわいそうに。
316 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/09(月) 17:40:28
>>301 黒木の猫尾城址ではない。
八女と黒木の境界、八女側。
台地の緩い傾斜部分を含めると面積は30ha以上ある。
台地の名前は知らない。
敢て名前を付けるなら「北田形山内台」とでも呼べるかな?
317 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/09(月) 17:52:46
>>314 黒曜石の石斧は知らない。
黒曜石では割れやすいと思うが。
318 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 17:58:14
>>317 硬い石斧が割れれば小斧になり、小斧が割れれば石刃になり、又石鏃にもなるのかね?
それは、どんな種類の石なんだい?
319 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/09(月) 18:15:53
>>191 そしてなんなんだこれは。
「じゃあもうひとつ聞こう NHKの特集を再放送も見逃したのは、九州ですが ◆IhXqm1bg5c とは別人格だね
その名前では本放送終了直後から夜中まで「NHKで九州説圧勝!」と何度もレスしていたからな 」
本放送は見て無いが、「以前からNHKの邪馬台国関連の番組のたびにVTRに撮っている」と書いてるだろう。
だから今回もそれと同じ流れの内容が放送されたのをみんなのレスから感じ取ってその感想を書いたまで。
いつも大体同じ内容だから見て無くても大筋が解るのだ。再放送は終わりの方のまとめ部分は見たが違和感は無かった。
やはり九州説優勢ということで多くの番組視聴者と、このスレの九州説者と喜びを分かち合ってレスすることのどこが悪いのだ。
今日から始業式の為、いるかどうか不明だが。
>>319 一晩考えた挙句の言い訳がそれかw
内容にまで言及してたくせにw
321 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 18:56:24
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
322 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 21:21:14
323 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 21:27:09
>>322つづき
それは、「特殊器台の分布」と題した地図の3枚目、「第3期」の図です。
もし「特殊器台」に限っての分布図であれば、「第3期」は宮山型の時期ですから、
こんなにたくさんプロットできません。せいぜい岡山に2点、奈良に4〜5点、でしょう。
つまりこの「第3期」図は、「特殊器台」だけじゃなく、「特殊器台形埴輪」(都月型
円筒埴輪およびその亜式)をもゴッチャにして、プロットされているのです!
これをもって「特殊器台の分布・第3期」と称するのは不正確です。
「第3期」図における京都と兵庫の3つの点、それに岡山の大半の点は、もうひと時期あとのものです。
これらは「特殊器台形埴輪」であって、「特殊器台」ではありません。ご注意願います。
ですが かわいいよ ですが
NHKはですがにひどい事したよね!
326 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/09(月) 22:00:34
>>318 石の材質は忘れた。
黒曜石に比べれば軟らかい深成岩。黒曜石のようなガラス質ではない。
軟らかいので磨製石器に化工できる。
大きければ石斧、小さい破片からは、小石斧・石刃・石鏃が作れる。
少し硬い材質であれば打製で部分磨製。
パプアニューギニアで40年前に使っている石斧を映像で見たが、
製作工程映像から見るとかなり硬そうな石であったが磨製であった。
327 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/09(月) 22:12:13
328 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 23:25:29
>>310 ミクロネシア・ポリネシア→琉球・鹿児島→筑紫→大和
ミクロネシアとポリネシア辺りは南九州の日本人と今でも似てるぞ。
自然崇拝・太陽崇拝も同じ。
口伝文化。
だいたい、魏志倭人伝に南に1年で歯黒国とかあるじゃん。渡ってきたんだよ。
>>328 ちなみにミクロネシアとポリネシアから渡ってきたのは1万年前だと思ふw
330 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 23:38:15
>>329 喜界島カルデラの爆発で、九州は一度全滅?している。
だから、そのあとだと思う。
調べてみたら、喜界島カルデラの大爆発は、いまから6300年前となっていた。
331 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 23:42:14
吉野里がさ、違うのに安っぽく観光で売り出しマスゴミが騒いでから
畿内説なんかもテレビで卑弥呼の鏡やら巻向などとやりだすようになって
醜くなったね。
どっちもどっちだと思うよ。目糞鼻糞。そして両方違う。
NHKの邪馬台国論争って
学芸会レベルの内容だったなw
どちらも初歩的な内容だったし...
>>332 :日本@名無史さん :2007/04/09(月) 23:51:30
>吉野里がさ、違うのに安っぽく観光で売り出しマスゴミが騒いでから
世間の一般庶民で、邪馬台国九州説が強くなったのは
吉野ヶ里ビジネスが大きく影響している。
だから、学会では圧倒的に強い畿内説のほうも
マスコミのほうに情報を適当に流して煽りだした側面がある。
なんか、嫌らしい双方の争いになっている。
>>333 NHKの内容は、学会やネットでの論議の表面的なところしかかじってないし
あれは、両説を大きく対立しあうように無理に分けていたけど
実際は複数に説が分かれるのよ、畿内説も九州説も。
あと、記紀の伝承を大切にする=九州説 というのも酷い印象操作だったよ。
今トレンドの百襲媛命すら出てこない。
335 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 01:23:55
>>328 ミトコンドリアDNA解析では、多元構造
『日本人になった祖先たち』篠田謙一、NHKブックス
この本は、良かった。
336 :
224:2007/04/10(火) 01:31:50
337 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 04:12:56
310 :日本@名無史さん :2007/04/09(月) 16:53:59
インド→ミャンマ→ジャワ→沖縄→鹿児島→北九州→大和だと思ふ。
ヒンドゥー=神道だからまったけ正しい。
338 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/10(火) 04:56:37
>>334 「世間の一般庶民で、邪馬台国九州説が強くなったのは」
つーか。一般民は直感とか常識で判断するんよ。
畿内説でいくと邪馬台国は弥生後期に当時としては殆ど天下統一といっても過言でないような
九州から畿内までの広大な領地を有しながら南のクナ国に攻められて魏に助けを求め仲裁を頼んでる。
畿内から随分距離的に離れており、しかも敵になる可能性もある外国の魏に助けを請うなんてありえねーってね。
大和朝廷の敵といえば南は熊襲、北は蝦夷。邪馬台国が畿内なら関東や蝦夷にあった国々が敵対して、
東、東北に敵国があるといってしかるべきなのが、クナ国という南の敵国があることが熊襲を連想させる。
つまり九州を思い浮かべる元になっている。
伊都国が邪馬台国連合の一員でなければ邪馬台国は畿内だけでまとめられるものを、伊都国があるばっかりに広大な領地に及んでしまう。
けどまあこれでいくっきゃ仕方ないかみたいな畿内説には何か大雑把な印象を受けるのだ。
帯方郡から女王国まで一万二千里{倭人伝}の距離はせいぜい伊都国からそう遠くない距離。それも影響している。
いくら考古学的に畿内説が有利だろうとこの違和感は到底拭い去る事が出来ない、というのが現状だ。
339 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 05:07:18
>>337 インドの文化はエジプト並みに古いよ。建築も全然違う。
それより文字。
なんでインドの人間は日本に文字を持ち込まなかったの?変だねWWW
ヒンドゥーは仏教伝来の時期まで伝わってないよ。
あと太陽信仰は?
味覚も違うねw
何より民族が違うねW
たしかに聖徳太子像はジャワ人みたいに大柄で目鼻の大きいジャワ人みたいな南方系だが。
(これは当時は支配層が南方系だった証拠でもあるねw)
インドと民族とヒンドゥーの文化勉強したほうがいいよ。
それより環太平洋地域の南の島国の宗教や口伝文化も勉強したほうがいいよ。
340 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 05:33:22
インテリはバリ島でくたびれてそっから先に行かなかったのじゃ。
ゾロアスタと混交したのじゃ。
500年足らずで唐辛子中毒になったのが隣におるじゃないか。
人種が違うといいたいのか、おぬしは。民族が違うのはあたりまえじゃ。
インドは雑多じゃ、いろんなのがおる。
341 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 06:19:25
あんたの言うことが正しい可能性は大いにある。
アフリカマダガスカルの祖先は2000年前に渡った
アジア人だ。大量渡航出来たとはとても思えんのに。
342 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/10(火) 06:30:20
>>339 おたくインドに詳しそうだからスレ違いだけどちょっとおそえて。
昔はメルッはといえばインダスのメソポタミアとの中継貿易港みたいに記憶してたけど
今じゃインダス人そのものを指すみたいね。どうなんだろう。
なんせインダスに興味持って本を読んでた頃はまだドーラビーラさえ発見されていなかった頃だし、
最新の研究ではどうなってるか全くごぶさたしてるもんで。
343 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/10(火) 06:32:35
344 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 07:33:17
インド人のわけねーだろ。
日本人はアーリア人かっつーのW
一番大切なとこ。なんで賢い日本人が中国から文字を借りるまで
文字がなかったの!! えーっ、馬鹿?ってなるでしょ。
口伝の文化は馬鹿じゃないんだよ。
ちゃんと確立されてるの。古代から文字のあったインドじゃありません。
345 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 07:37:37
自然 太陽崇拝 ← これも大切だなあ。
ヒンドゥーとは違う。
が、伝来した仏教はヒンドゥー語がたくさん混じっているしインドにいった和尚も
いただろうw だから勘違いしてんのね。
346 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 07:41:32
310 :日本@名無史さん :2007/04/09(月) 16:53:59
インド→ミャンマ→ジャワ→沖縄→鹿児島→北九州→大和だと思ふ。
修正
インド→ミャンマ→ジャワ→沖縄→鹿児島→北九州→大和→京都→江戸
>>337 加治木だね?
俺も好き・・・ある意味。
348 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 08:59:08
近畿地方(瀬戸内側)では、石器の原料としてサヌカイトがよく使われている。
サヌカイトの産地として有名なのが香川県の屋島で、屋島のみやげ物屋の店先に
サヌカイト製の石琴や風鈴が置いてある。
後、淡路島の北端でも少量だがサヌカイトが採れる。
349 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 09:11:28
サヌカイトなら、奈良の二上山が最大なんだけどね。
つまり、縄文時代から奈良は繁栄していたわけ。
350 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 11:33:22
そうぶあい、加治木まぐろ先生ぶあい。
言葉遊びのページは退屈で死ぬかとおもったぶあい。
>>349 つまり南アフリカは昔から経済大国だったんですね。
352 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 13:56:02
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
353 :
日本@名無史さん :2007/04/10(火) 14:50:40
奈良のニ上山が石器の原石の供給地であることは有名
だが、残念ながら、邪馬台国時代も未だ石器と木工の
全盛であった。
石器と木工では、農業の発展もないし、大型船を建造
して、瀬戸内海を渡って、九州にはこれない。
畿内説の矛盾であり、限界です。
>>338 :九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/10(火) 04:56:37
>
>>334 「世間の一般庶民で、邪馬台国九州説が強くなったのは」
>つーか。一般民は直感とか常識で判断するんよ。
うんなことはない、一般庶民はマスコミの報道やムードで判断するだろう。
だから今後、畿内説がどんどん増えていっている。
おそらく10年位前が九州説のピークだったように思う。
それから年々、畿内説が増えていっている。
355 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/10(火) 20:06:55
>>354 ま、そりゃおたくがどのように判断しようと勝手だが、吉野ヶ里遺跡が発見されるずっとずっと以前から
九州説はそれほどマスコミを使ってイメージアップなどを図っていたようには思えず、
それでも畿内説有利だったような記憶が無い。九州説が本流だったような感があるが何せ遠い記憶なので
厳密には解らないが。
俺がNHKのアンケートで九州に1票いれたのは、単に地の利のイメージ。
大陸に近いから、そっちから先に発展しそうな感じがしたから。
NHKの番組の内容は覚えてない。
357 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 20:37:02
>>356 わかるわかる。
子供の頃は、重いものと軽いものを一緒に落としたら、
重いものの方が先に落ちる気がするもんな。
358 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/10(火) 20:37:37
>>354 「>つーか。一般民は直感とか常識で判断するんよ。」
「うんなことはない、一般庶民はマスコミの報道やムードで判断するだろう。 」
つーか、
>>338のこんな部分に反応しないで それ以下の文について何か反論して欲しかったが。
個人的には色々考えもあるだろうから。
359 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 20:44:02
>>354 だからさ〜、忌内説が増えてるのはわかったからさあ、
その内容を書きなさいよ。w つまんねえ香具師だな。w
きっと太国がレスしてくれるよ。
おれは畿内説増えてないと思うけど・・・
興味ないやつが、増えてる気がする。
361 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 21:18:50
ヤマトトトモモソヒメが卑弥呼だろう、筑紫で卑弥呼っつったら誰に相当するよ?
宗像三女神?神宮皇后?誰だよ?それともやはり卑弥呼は卑弥呼か?w
362 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 21:31:15
そんなの俺が村の九州説だよ〜
九州人による九州説支持はそら〜ぁ凄まじいものと感じましたよ〜
例のNHKによるアンケート結果で自信から確信に変わりましたwww
363 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 21:44:48
九州説支持者の大半はカッペ
HNまで主張しやがる田吾作という名の単細胞と同類
それが客観的に見る九州説支持者の姿・・・
364 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 21:55:54
>>353 奈良のニ上山が石器の原石の供給地であることは有名
だが、残念ながら、邪馬台国時代も未だ石器と木工の
全盛であった。
石器と木工では、農業の発展もないし、大型船を建造
して、瀬戸内海を渡って、九州にはこれない。
畿内説の矛盾であり、限界です。
古代日本人の土木・造船・建築技術を侮ってはいけない。
365 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 21:58:09
NHKの番組は録画していたのだが、調べてみると、
全体では 近畿 21,102 九州 35,087
九州では 近畿 527 九州 7,506
近畿では 近畿 7,499 九州 4,028
だから、九州と近畿以外では 近畿 13,076 九州 23,553
つまり、畿内説が優勢なのは、近畿地方だけで、そのほかでは九州説が
有利といえる。
366 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 22:01:32
そんなもん都会暮らしの田吾作がTVに噛り付いて
投票したにしまってるじゃないか!
九州ばい九州ばいって田舎を想いながら投票したのさw
大陸から日本に人が来たんだから、瀬戸内海ぐらい渡れるだろ!
渡れないのか?
368 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 22:13:58
>>367 奴国の王が、後漢に使いを送り、金印をもらったのは西暦57年。
つまり、かなり古くから大海を渡れる船を持っていたことがわかる。
九州では、前漢の銅鏡も出土しているくらいだから、さらに古くから船を
持っていたと考えられる。
対馬海峡を渡れるのに、瀬戸内海を航行できないはずは無い。かなり自由に
往来していたんじゃないかな。高地性集落は、これらの船を見張る役目も
あったと思う。
一方で、奈良県のような土地で果たして船が普及したかどうか。
上の人が言っているように、鉄器が無ければ船は作るのが困難とすれば、
船の無い畿内勢力が九州に勢力を伸ばすのは無理と考えられる。
勢力の進出という点から考えても、九州→畿内のほうが普通で、畿内→九州は
考えにくい。
369 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 22:54:19
>>368 >一方で、奈良県のような土地で果たして船が普及したかどうか。
ぎゃはははは。
九州説はバカばっかりだぁ。だめだこりゃ!!
奈良県には海ないからね・・・
371 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 23:07:38
ぎゃはははは。
奈 良 県 に は 海 な い か ら ね ・ ・ ・
と、きたもんだ。そりゃそうだわな。
本当に、九州説はバカばっかりだ。
372 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/10(火) 23:12:25
10日位前、12chでみのもんたのだったか、古代史関係の番組をやっていたが、吉野の「海人」の話をやっていたぞ。
373 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 23:12:57
374 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 23:17:51
あのさ、畿内説か九州説かなんて
テレビのアンケート調査で決めるようなモンではないだろう?w
それと、九州説論者が誤解しているんだけど、
実際は、畿内説というのは、実質的には全国王朝説なんだよ。
つまり、畿内説の立場に立てば、九州の風景が出てきても
それは畿内勢力圏内の九州の風景に過ぎない。
逆に、九州説はそういうふうには主張できない。
376 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 23:24:24
>>372 テレビ見てないから何とも言えないが、元来、吉野は山の中で、海人が
いるわけがない。つまり、どこからかやって来たということじゃないかな?
アンケートで決めるってゆうより、その時点でどちらの説を支持するか?って事で決めたとは誰も思っていない。
どっちかとは、しばらく決まらない情勢がつづくイメージでよろしくどーぞー
378 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 23:28:20
>>376 もういいから、それ以上無知を晒すのはよせよ・・・
379 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 23:36:38
380 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 23:47:46
381 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 02:02:20
>>369 考古学的見解においてだよ。畿内において船製造技術は遅れているのは
事実。君は勉強不足で論理的に考えられないんだろう。畿内にこの時代、まともに
船はつくれない。
しかも日本海から九州に渡るのは命がけだった、とわざわざ倭人伝に書いてあるほど。
現在でも船が座礁する下関や北の豊後水道を軽々と手こぎで超えるものか。
当然、昔からある穏やかな海路を選んだに違いない。
しかも船をつかったなら、当然、安芸や吉備に寄ったはずで。そんな重要地を
書き飛ばすはずもない。
自説において都合の悪いのはそういう反論しかできないのとは悲しいな。
382 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 02:06:56
>>380 妄想。邪馬台国の畿内説を正当化するために奈良の人間は海人だったという
トンデモ論WW
383 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 02:12:13
さすが畿内の人間は海路とかわからないんだろうな。
邪馬台国時代に奈良あたりの王権が、魏どころか九州の影響さえないうえ
もともと船をつくる道具もないというのに「吉野の海人」なんて妄想
出すんだからw 伊勢湾が大海だと思っているような馬鹿ドモですからねW
海人だったのは明石の珍彦や淡路の御原の人たち。
農耕社会を近代の産業革命以降の技術革新と
誤解しているのが九州説論者。
基本的にこの時代(3世紀あたり)は、地形(耕地面積)から算出される
人口規模がそのまま国力に直結する時代。
どう考えても、邪馬台国は畿内説。
だからこそ、中国の学者も畿内説に固まりだしているんだろう?
386 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/11(水) 04:05:04
>>385 論理の飛躍
「人口規模がそのまま国力に直結する時代」は正しい。
しかし畿内王権が畿内を統一できたは垂仁の時代。
垂仁までは淀川北岸の沙穂彦沙穂姫の地も他王権の支配地。
垂仁初期の支配地は奈良盆地と河内のみ。
畿内王権は筑紫平野を含む九州王権に比して小さな国力である。
畿内王権の国力が九州王権を凌駕できたのは、摂津・播磨を支配し始めた垂仁中期以降。
その崇神朝畿内王権も九州攻略をしたのは仲哀になってから。
(日本書紀の景行九州統一話は、景行を九州の王としないと内容で矛盾する。)
その仲哀も九州王権の反撃で惨敗し殺されたわけだが。
仲哀死亡時の状況は、九州王権軍の海からの夜襲による暗殺と思われる。
387 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 04:52:12
>>385 キャハハハハーー馬鹿が必死ーーーW
沼地だらけで麦しかできない奈良の盆地の畿内説があ?
9割厨が、畿無い説に「中国の学者も畿無い」を付け加えるようになったねW
自説に説得力がないのがわかっているからねW
388 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 05:45:20
卑弥呼は「日巫女」でヒミコだという香具師が多いが、ここ盲点。
まず亀焼き占い=太陽神付きの巫女ではないW だから「日」など巫女に付かない。
この女王や王族が太陽崇拝だったとどこにもないうえ、巫女と呼んだかどうかもわからない。
しかも日本のあらゆる史書に「日巫女」などという呼び名がない。
そして何よりも次の女王のトヨは「日巫女(ヒメコ」と音がぜんぜん違う。
つまり卑弥呼はヒミ+コとかヒメ+コとかそういった倭語の発音の名前を中国人が字を当てた。
だから当然、モモなどではないW
それと同じで邪馬台国は少なくとも子音部分があってないと駄目だね。
まあ、これは日本中の山の多いところがヤマ+トの発音のある地域ばかりだから
当てにならんが。
卑弥呼=媛命
卑弥弓呼=彦命
だろうが。
391 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/11(水) 06:53:27
>>371「奈 良 県 に は 海 な い か ら ね と、きたもんだ。そりゃそうだわな。 本当に、九州説はバカばっかりだ」
この文の具体的な内容はなんなん? 僕もこのくらいしか知らないけど。下記
引用
「弥生時代の船の姿は鳥取県の角吉稲田遺跡の土器や福井県春江町出土の銅鐸などに描かれています。
そこには多数の漕手と櫂が表現されており、かなりの大型船が利用されていたとが推定できます。
こられの絵や古墳時代の船形埴輪から、弥生時代には丸太をくり抜いて造った丸木舟に竪板(たていた)や、
舷側板(げんそくばん)等の部品を組み合わせた準構造船という大型船があったと考えられています。
準構造船の全体がわかる船の出土例はまだありませんが。」
392 :
SOY:2007/04/11(水) 07:22:15
>>385 >基本的にこの時代(3世紀あたり)は、地形(耕地面積)から算出される
>人口規模がそのまま国力に直結する時代。
>
>どう考えても、邪馬台国は畿内説。
耕地面積から畿内説有利と言われる人をよく見受けますが、
果たして本当なのでしょうか?
九州は筑紫平野だけでも1200平方kmはあったと思います。
奈良盆地はせいぜい400平方km程度かと考えています。
平野の広さの認識は多少変わるとは思いますが、それがあったとしても、
どう考えたら畿内説が有利とまで言えるのか、数値を出すなりして説明
する必要があると思います。
地形から算出と言いながら、それらに何か特殊な係数をかけ畿内説有利
とするのなら、その点で反論もあろうかと思います。
因みに誰かが言ったから、エライ人が言ったからといった類の発言は、
これらの説明にはならないと考えます。
393 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/11(水) 07:26:33
>>371>>385「基本的にこの時代(3世紀あたり)は、地形(耕地面積)から算出される 人口規模がそのまま国力に直結する時代」
畿内にさえ渡航できる大船があった。とすれば中国の大船はそれ以上の性能があっただろうからその航路に従い、
倭人伝の記述のように魏使がマツラ国に上陸し伊都国に立ち寄って水行十日陸行一月などややこしい道順などとらず、
大船ででそのまま当時としては人口規模のでかい華やかな難波の津などにそのまま直行し上陸することも出来たのでは?
その間には、にきたつや吉備の津などの原型になった他の港は無かったのか?
そこで食糧の補給や、長旅を癒す事も出来たと思う。同じ邪馬台国内ならばね。
394 :
SOY:2007/04/11(水) 08:07:34
>>393で九州ですが氏が言われるとおり、途中の国々を考慮した仮説の方が
畿内説の繁栄については説明できると思います。
時代が下るにつれて、その傾向は強くなると思います。そもそも奈良盆地
だけでは古墳時代の畿内の繁栄は説明できないです。
人口論に絡んで畿内説を語るなら、畿内説論者は個々の平野や盆地の地形
よりも7万戸が養えると思える範囲にまで支配領域を広げて考え、それを
主張する方法の方が妥当かと思われます。
(私が畿内説論者の論法を指示するのも変な話ですが)
別の見方をすれば、支配領域の考え方次第で変わるなら、人口論は半ば、
論者のさじ加減論議と言えるかも知れません。
395 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 08:37:00
うんうん。
九州説の人は、奈良には舟が無かったという考えに凝り固まってるねえ。
わかるよ。わかるよ。
奈良には海は無いもんな。
もっとどんどん、奈良には舟が無いから九州有利って論拠を挙げてみてよ。
「あーなるほど、考古学を知らない人は、こういう先入観もってるんだなあ」と、
こっちも勉強になるし、今後、九州説の人と話すときにも参考になる。
だって、畿内説では、奈良に舟が無いなんて想像したことも無いんだもの。
そりゃあ、話が噛み合わないはずだよね。
396 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 09:05:01
九州説の諸君は、まずは、ここから考えてみることだね。
1、奈良が立地条件の悪い土地なら、どうして大和王権が生まれたのか?
2、神武が東征してきたのなら、どうして、立地条件の悪い内陸側の奈良に居を構えたのか?
はい、答えをどうぞ。
397 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 09:09:11
>>394 君の意見ももっともだけど、
九州に邪馬台国があったとして、100年で畿内と立場が逆転するんだけど、
なぜか?ってことまで考えてる?
神武東征があったから?だったら。
>>396の質問に答えてみてね。
「神武が東征してきたのなら、どうして、立地条件の悪い内陸側の奈良に居を構えたのか? 」
398 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 09:21:42
稲作技術を持った人々は九州からどうやって移動していったんだろ?
今ならトンネルを歩いて関門海峡を越える事は出来るけどね。
菜畑遺跡の年代は?
399 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 09:23:35
九州説は、3世紀の九州しか見て無いから、
簡単なことにも気がつかない。
畿内説派、4世紀以後の世界も統括的に考えてるから、
3世紀の世界との連続性も考慮に入れられる。
九州説は、九州に邪馬台国があったということでもいいから、
4世紀以後の畿内の発展の様子について、考察してみるといい。
きちんと、畿内の様子に目を配れられれば、
3世紀に九州に邪馬台国があったという「確信」が何を論拠にしていたか、見えてくるだろう。
400 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 09:56:36
>>396 1、については畿内説も考えてみる必要があると思うが。
2、については、書けば長くなるが、7世紀に天智天皇は、都を難波から
大津に移している。これがヒントになると考えている。
401 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 10:04:56
>>396 防御。
畿内説って馬鹿ばっかWW
大体、麦しかとれない沼地だらけの奈良盆地にW
402 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 10:07:59
今 畿内説が船がないことを ごまかすのに 必死になっています。
稲作ができない奈良盆地。 海がない奈良盆地。
倭人伝の記述と す べ て が 違いますね。それをごまかそうと必死です。
403 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 10:13:58
>奈良には舟が無いから九州有利
あのさ、馬鹿? 奈良にないから九州有利? 結局そーゆー思考なのね。
馬鹿を除いてここの皆は真実を知りたいだけであって、奈良にない=九州 じゃないってことぐらいわかってるんだよ。
奈良盆地にはないのはわかってるけどw あれ?吉備かもしれないよ?W
だいたい、九州内だけでも候補地が腐るほどあるのに「九州説」一言じゃ済まそうとするなあWWW(劇わら
404 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 10:17:28
>>400 >1、については畿内説も考えてみる必要があると思うが。
残念。畿内説は、ちゃんと答えを出してる。
だから、畿内説は成り立っている。
答えを教えて欲しいか?
>>401 誰からの防御?
鉄器持参ではるばる東征してきた神武をも脅かす集団が、
鉄器の無い、弥生時代の畿内にあったと認めるわけね?
はい、九州説は破綻しました。
405 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 10:20:34
>>401 >大体、麦しかとれない沼地だらけの奈良盆地にW
あ、奈良盆地で、麦が取れたの?
まあ、何にもとれなくても畿内説は困らないんだけどね。
>>402 >稲作ができない奈良盆地。 海がない奈良盆地。
うん。うん。それには、反論しないよ。
でも、畿内説は困らないんだよ。
で、何にも無い奈良に、神武がわざわざ東征してきた理由は何ですか?
406 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 10:21:26
>>399 畿内説が詭弁だらけっていう証拠だね
船もないし、鉄器もないよW 文字が伝わったのも九州のあとだし
中国も九州経由だよ。さて、巻向が3世紀だとして親魏だった証拠だせよ、オラW
407 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 10:24:50
>>406 で、何にも無い奈良に、神武がわざわざ東征してきた理由は何ですか?
しかも、簡単には上陸できずに、ずいぶん苦労した挙句に、
イワレの地方だけを占領しただけ。
408 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 10:26:54
>>405 天皇家が自分で神武は九州からやってきたって言って史書出してるんだから
おまえのような4流大の馬鹿が聞かなくてもいいW
大体、考古学でも邪馬台国と結びつけるものは初めから何もないのに凄いな...
409 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 10:30:12
なんかさあ、畿内説って小学生みたいなレベルで質問ぜめにしてごまかそうと
する手にでてきたな。
「どうして神武が奈良にきたの?」ってW これも荒らし。
自説の展開は無しの畿内説。
奈良盆地に邪馬台国がないのはわかってるのにね。
410 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 10:33:13
>>407 日本書紀くらい読めよ....
あとさ、ちゃんとした議論で邪馬台国論争したいんだけど。
こういうひとたちがスレのレベル下げているよね。
たしかに、魏志倭人伝で参照すると畿内説はありえないよね。
でも畿内説ほしさに魏志倭人伝を無視すると、邪馬台国という国を
畿内と結びつける根拠さえなくなる。これが畿内説の矛盾する痛いところだね。
412 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 10:40:12
>>410 日本書紀のほうが、はっきり書いてあるけどね。
畿内にはニギハヤヒの国があって、繁栄していたから、
神武が横取りにいったとな。
日本書記だって、畿内が繁栄していたことを認めてるんだぜ?
413 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 10:40:13
読み返すと畿内説って完全に破綻してるね。
だから必死なのかな、中国の学会9割厨W
414 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 10:44:17
鉄器持参の神武は、鉄器の無い奈良に簡単に上陸できず、
ナガスネヒコの抵抗にあって退却。
その後、ニギハヤヒが神武に国譲りするが、
その神武が居を構えたのは、立地のよさそうな河内側ではなく、
内陸のイワレ地方。
九州説の諸君は、この意味がわかるかね?
わかんねえだろう。
どうして、神武はイワレが欲しかったんだろうね?
415 :
日本@名無史さん :2007/04/11(水) 10:53:55
帯方郡からの使節団が、もし大型船にのってきたのであれば、
畿内のどこかに上陸するはず。
しかし、倭人伝の記述から九州の末盧國に上陸したことは
畿内説の人も容認している。
使節団は大量の貢物を持参しているから、邪馬台国は末盧國
からそんなに遠くではない。
瀬戸内海は、戦国時代に村上水軍が商船の運航案内を一手に
掌握していた程、時刻によって、海流の流れが変化する海の
難所です。特に関門海峡や豊後水道は、古代船は容易には航行
できない程の難所で有名です。
畿内から手漕ぎ船で九州にきて、末盧國や伊都国を制圧していた
と考える人がいることが、常識では考えられない。
416 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 10:55:38
>>415 >畿内から手漕ぎ船で九州にきて、末盧國や伊都国を制圧していた
>と考える人がいることが、常識では考えられない。
これも、九州説の勘違いだなあ。
畿内説で、畿内勢力が武力で九州を征圧していたなんて説を唱えてる人はいない。
「九州が頭を下げて畿内に従っている。」
これが真相。
417 :
日本@名無史さん :2007/04/11(水) 10:59:59
>>416 武力でも稲作でも豊かな九州勢力が畿内の1部族に
頭を下げる理由は何?
418 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 11:00:33
419 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 11:01:33
>>417 それとね、
>武力でも稲作でも豊かな九州勢力が畿内の1部族に
>頭を下げる理由は何?
畿内勢力は、「畿内の1部族」じゃないから。
すいません、邪馬台国出雲説はいまどうなんですか?
421 :
日本@名無史さん :2007/04/11(水) 11:06:58
邪馬台国当時は、畿内は農耕民族が奈良盆地に
多数存在し、石器と木工製の鍬や鋤で、泥炭農業
をやる程度の文明でしかない。
まだ、中国文化の影響を受けていないことを忘れ
ないように。
422 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 11:08:11
>>402 >稲作ができない奈良盆地。
ウソを書いてはいけません!
あなたは昭和11〜12年唐古遺跡の第一次発掘調査のことなど、全然勉強してないんですね。
最近も、静岡大の佐藤先生が、唐古・鍵遺跡を含む各地出土の炭化米をDNA分析して、話題になりましたよ。
http://inoues.net/study/japonika.jpg 九州説の中に、この
>>402のように考古学上の虚偽を平然と述べ、それを畿内説否定の論拠にする人がいることを、
他の九州説の方々はどう思われますか?
423 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 11:20:24
>>421 >まだ、中国文化の影響を受けていないことを忘れ
>ないように。
んじゃ、吉備が邪馬台国かな?
424 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 11:25:37
>>422 わざわざ、表がなくても、人口の多さで食糧事情が良かったことくらいわかる。
九州説は、人口の多さと王権が無関係と思ってるが、
食料を管理するというのが、どれほど大変か?
江戸時代の飢饉とか百姓一揆とかを見れば、
強大な権力が無ければ、食料管理などできないんだよ。
>>386 >>392 反論があれば聞くよ。
425 :
日本@名無史さん :2007/04/11(水) 11:35:00
邪馬台国当時の奈良盆地で、食料を管理できる程
潤沢に稲や麦が生産されてはいない。
マクムク遺跡が環濠集落でないのは、外敵からの防御
を想定した作りにはなっていないことからも推測できる。
426 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 11:49:22
>>425 >邪馬台国当時の奈良盆地で、食料を管理できる程
>潤沢に稲や麦が生産されてはいない。
ああ、その通りだよ。
でも、畿内説のキモはそこじゃないんだよ。
残念だったね。
427 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 13:00:03
そうだね。畿内説のキモはモモだもんね。
428 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/11(水) 14:10:30
>>422 の言うとおり
稲作は畿内で出来たよ。さもなければ畿内周辺の人民は外国のパンでも食って
いたかということになる。w
紀の崇神62年7/2に天皇が農事を勧めている記述がある。
しかしそれが女王国がどちらにあるのかというに決定打にはならんだろう?
429 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 14:30:06
>>428 >しかしそれが女王国がどちらにあるのかというに決定打にはならんだろう?
太国の言うとおり、畿内が繁栄してたという事実があっても、
女王国がどちらにあるのかというに決定打にはならない。
しかし、九州説の言い分は、九州に邪馬台国があるためには、
畿内は未開の地であるべきらしい。
このへんが、九州説の頭の悪さというか。
魏志倭人伝の頃の畿内が、吉備〜近畿〜東海に勢力を広げた、
大連合国家であったとしても、
九州に邪馬台国が無かったという証明にはならない。
魏志倭人伝を直感的に読めば九州なんだからな。
430 :
日本@名無史さん :2007/04/11(水) 14:41:17
>魏志倭人伝の頃の畿内が、吉備〜近畿〜東海に勢力を広げた、
>大連合国家であったとしても
気持ちは分かるが、石器と木工鍬でどうやって勢力拡大するの。
農耕民族は、勢力を拡大する必要もなし、能力もない。
5世紀以降に九州勢力に凌駕された頃の畿内と混同してると思われる。
431 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 14:46:40
>>430 >気持ちは分かるが、石器と木工鍬でどうやって勢力拡大するの。
あ、ごめんねえ。
勢力拡大したというのは、誤りかもしれんね。
正しくは、吉備〜近畿〜東海の勢力が、奈良に集結したって感じだろうな。
432 :
日本@名無史さん :2007/04/11(水) 15:12:33
>>431 素直でよろしい
でも当時の奈良盆地は大和川水系も含め、湖沼が多く
そんなに集結できないものと考えられています。
433 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 15:17:37
>>432 苦しい抗弁だねえ。
そろそろ、負けを認めたほうがいいよ?
勝ち負けじゃないだろ。
いろんな意見があって、それぞれ傍証や反証を繰り返して
結論を煮詰めていくものだろ?
否定のための否定ならいらない。
435 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 15:27:29
平野が多いから人口が多く、勢力も大きいというなら、いまも昔も関東が
一番ということになりゃしないかな。
畿内説の人の中には、弥生時代の人口は近畿地方のほうが多いと信じ込んで
いる人がいるようだが、果たしてそうだろうか。
ちなみに、こういう人は現在の九州の人口をどれくらいと思っているの
だろう?
沖縄を除いても1300万人くらいはいるから、現在でもそんなに少なくはない。
436 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 15:27:34
>>434 九州説は、畿内が繁栄していたこと自体を認めようとしないわけだから、
傍証や反証もクソも無いよ。
奈良には舟が無いとまで思ってる人達が相手だからねえ。
437 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 15:48:27
ちなみに現代の地域別の人口は次のようになっているらしい。
関東 4,238万人(含東京)
近畿 2,089万人
東海 1,502万人
九州 1,450万人(含沖縄)
東北 963万人
北信越 773万人
中国 767万人
北海道 563万人
四国 408万人
438 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 16:02:28
>>423 >んじゃ、吉備が邪馬台国かな?
と短絡には考えにくいが、吉備もまた、弥生時代に大きな勢力を築いていたのは確実。
吉備でとくに考慮すべきは、製塩だろう。
弥生時代の備讃瀬戸は、製塩(土器製塩)の先進地域である。
いや、つい近年まで、瀬戸内はずっと日本の製塩業の一大中心地だった。
大陸・半島から青銅器・鉄器等の金属材が輸入された。その見返りは何であったか。
倭地でと取れたコメに加え、瀬戸内海産の塩が輸出されていたのではないか、とみる意見がある。(最近、木材という説も出てきたが)
それは措くとしても、製塩を統括できた吉備など瀬戸内の首長は、相当の実力者だったろう。
439 :
438訂正:2007/04/11(水) 16:09:45
倭地でと取れたコメ (×) → 倭地で取れたコメ (〇) スマソ
440 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/11(水) 16:14:46
僕が
>>393で聞いてるのは畿内に大船のあるなしではなく中国の大船をしてなぜ水行十日陸行一月なのか?
ということだ。倭人伝に
「帯方郡から倭に行くには、海岸に沿って水行しながら韓国を通り、南に行ったり
東に行ったりするうちに、倭から見て北岸にある狗邪韓国に着く。ここまでで七千里余り」
その後対馬、壱岐と水行しているので水行は大分消化し陸行がかなり残されている。
中国の大船を以ってすれば難波津まで来れようものを、何故大半が陸行なのだ?
あと大阪湾、ないし紀伊半島のいずれかに弥生時代の津跡があるはずだが。
三重の津なら弥生の遺物が出たらしい事は知っている。
しかし果たしてこれが港の存在を裏付けるものであるかどうかは解らないが。
441 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 16:18:20
>>424 >強大な権力が無ければ、食料管理などできないんだよ。
だから防御力に優れた奈良を選んだ。
畿内説は辻褄があうな。
442 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 16:22:19
>>440 吉備からは中国の貨泉が出てるから、中国と通行してたことは確実。
吉備まで行ってるなら、奈良まで行ってないとは考えにくい。
443 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 16:27:20
>>438 吉備は塩をつくってたろうし、
木材なら紀伊から運んだろう。
それらは、九州に運ばれ、朝鮮から鉄を買っていた。
九州単独で、朝鮮から鉄を買えたと思うのは、いささか思い上がりだってことだな。
444 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 16:30:40
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
445 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/11(水) 16:48:56
>>442吉備からは中国の貨泉が出てる
それがまずいつの事か特定出来なければ意味が無い。また
「中国と通行」といっても吉備まで中国の大船が入ってきたのかどうか、
その様な大船を畿内にまで持ち込ませて倭国の防衛は安全と倭人は考えていたのかどうか。
中国の王朝が変わり万一敵と化した時、都のある畿内まで大船団を仕立てられて直接攻められ支配される事を
危惧しなかったのだろうか?古くは白村江、中古では元寇。ともに倭国の地理を詳しく
外国に知られてはいけない出来事が実際に起こっているが。
瀬戸内あたりに外国の船が入ってくることは明治以前無かったのではないかとも思うが?
実際中国の船などが停泊した港は例えば唐津などのように名前として残されていることも多い。
446 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/11(水) 17:12:02
>>445続き
実際に倭人伝を読むと「山の多い島で、国や村で成り立っていて」などとあり
すべての村が国に属していないような印象がある。
どこの国にも属さず頑張ってる村もかなりあったのではないかと思われる。
クニとムラとがモザイク状に存在していたなら魏使の陸行は危険と困難に満ちていることになり、
海路を行けばみすみす航海に優れた中国に都までの遠征航路を教えるようなものであるし、
どちらにしろ倭国大乱という当時でいう自治体再編が一段落し、かなり安定したとはいえ畿内への道のりは険しいものがある。
よってマツラ国か、伊都国の津で積荷の検査をし、九州北部の女王国に運んだと考える方が無理が少ない。
447 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 18:00:56
九州ですがって、バカなんですか?
弥生時代の瀬戸内海を通行してた船が「外国の大船」って、どういう思考してるんだろうか?
448 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/11(水) 18:41:32
ココの論議では各レスの時代認識が互いにめちゃくちゃにずれているな。
卑弥呼の時代の3世紀の畿内はどんな状況だったのかな。
どの天皇の時代かな、それとも神武以前なのかな。
前方後円墳の時代なのかな、それともそれ以前なのかな。
奈良盆地の大きな湖沼があったのはいつ頃まででしょうか?
崇神6年に湖沼が小さくなったか無くなったと見られる記事があるよ。
大和川に河合が現れて桃の木が植わっていたそうな。
(河合は亀の瀬の少し上流。河合と亀の瀬の間には地層的には尾根筋が横断している。)
この記事は崇神の河内から奈良盆地南部への侵入時期を示している。
この崇神6年は西暦何年頃でしょうね。
449 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/11(水) 18:48:00
>>448 >この記事は崇神の河内から奈良盆地南部への侵入時期を示している。
控えめな発言にすると「奈良盆地中南部への進出時期を示している。」となる。
450 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 18:50:20
>>449 何が進出したの?
主語くらい書いてよ。
451 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/11(水) 18:59:27
すみません。
「この記事は崇神の奈良盆地中南部への進出時期を示している。」
452 :
カナカナボウシ:2007/04/11(水) 19:05:04
卑弥呼時代の大和の天皇はだれであったかはようやく判明いたしました。
卑弥呼の即位は183年で没年は248年ですから、孝昭天皇の26年から
孝安、孝霊、孝元天皇の24年までです。(ただし日本書紀紀年による)
間違いありません。
それから崇神6年は273年後半です。
453 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/11(水) 19:05:24
>>447 おまえはー。
前レスをよく読みもせずにバカレスするな。目障りだ。
>>393で問題提起してそのことをずっと問い続けているのだ。
関係ない会話なら話しに入ってくんな。
454 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/11(水) 19:15:30
>>447 ついでにいい機会だからおまえにも聞いてやろう。畿内説のいう水行十日陸行一月はどのルートなのだ。
帯方郡から魏使が乗って来た中国の大船はどこへ停泊したのだ。
陸行なら何故進んだ技術を持った中国の大船をどこかにおいてわざわざ陸行に切り替えたのだ。
455 :
SOY:2007/04/11(水) 19:20:39
畿内説の人の変節があまりにも激しすぎて論議になりません。
『耕地面積から畿内説が有利』という見解に対し、出勤前に
>>392で疑問を投げかけたところ……
帰宅までに畿内説の人の発言が二転三転してしまっています。
>>385 02:31頃の畿内説
>基本的にこの時代(3世紀あたり)は、地形(耕地面積)から算出される
>人口規模がそのまま国力に直結する時代。
>どう考えても、邪馬台国は畿内説。
→ この意見に対し、奈良盆地はそれほどでもなかろうとSOYは発言
>>405 10:20頃の畿内説
>あ、奈良盆地で、麦が取れたの?
>まあ、何にもとれなくても畿内説は困らないんだけどね。
→ いつの間にか耕地面積がどうでもいいって話に変わっています
>>424 11:25頃の畿内説
>わざわざ、表がなくても、人口の多さで食糧事情が良かったことくらいわかる。
→ 1時間後には食料事情が良かったという話になっています
>>426 11:49頃の畿内説
> >邪馬台国当時の奈良盆地で、食料を管理できる程
> >潤沢に稲や麦が生産されてはいない。
>ああ、その通りだよ。
>でも、畿内説のキモはそこじゃないんだよ。
>残念だったね。
→ 24分後には食料事情がどうでも良いという話になっています
よく言えば、極めて柔軟、悪く言えば、行き当たりばったり。
もう少し、しっかりと主張されるべきです。
456 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/11(水) 19:27:22
「よく言えば、極めて柔軟」
なんてここの畿内説には千年早い褒め言葉。
ただ節操が無いだけ。
457 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 19:28:49
>>455 ぷぷ。
九州説が、検討はずれな指摘ばっかりしてくるからさ。
3世紀の「奈良」は、耕地面積は多くなく、作物も大量には取れず、人口も多くない。
しかし、「近畿勢力範囲」は、耕地面積は多く、作物も大量に取れ、人口も多い。
この違いを区別して欲しいね。
458 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/11(水) 19:36:22
>>448の修正
「河合」→「広瀬の河合」
「広瀬」がないと崇神6年の記事がどれかわかりにくいですね。
459 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 19:37:03
畿内説は、ぶっちゃけ、3世紀の奈良がしょぼくても、どうでもいいわけよ。
九州説は、奈良だけに拘ってばかりいるようだけど、
「奈良に大量の人民と耕作地を抱えた王権が出来た=畿内説」だと思ってるだろ?
そんな畿内説は、無いわけ。
九州派は、畿内説を勝手に空想して、攻撃してくるからバカだというのさ。
460 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/11(水) 19:44:36
>>457 3世紀の邪馬台国(畿内勢力)の支配地域はどの範囲とみなしているのですか?
貴殿の捕らえ方では、垂仁以降の時代と読み取れるのですが。
462 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 20:02:12
>>460 >3世紀の邪馬台国(畿内勢力)の支配地域はどの範囲とみなしているのですか?
それは難しい質問だねえ。
3世紀の「畿内勢力」が「地方」を「支配」していたとするのか?は意見が分かれるのでは?
たぶん、3世紀の奈良勢力は、「地方」を「支配」はしていなかったと思うけどね。
463 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 20:02:48
>>440 九州ですがさんへ
>中国の大船を以ってすれば難波津まで来れようものを、何故大半が陸行なのだ?
「水行十日陸行一月」は、確かに難問です。
でもこれは畿内説ばかりでなく九州説でも、いや、と言うより、九州説の方が、もっと難問でしょう。
榎一雄氏、古田武彦氏がそれなりの解釈を示しておられますが、なんかパズルみたいで、私は素直にyesと同意できません。
畿内説でこの問題をもっとも真剣に考えたのは、山田孝雄と笠井新也の両氏だろうと思います。
すなわち日本海航路説です。
とくに笠井新也氏の説は、強固な論理構成を目指して練り上げられているので、すこしは「なるほど」と納得できる部分もあろうかと思います。
ぜひ一読をお勧めしておきます。
箸中山古墳(箸墓)を卑弥呼の墓に比定した最初の研究者としても、笠井氏は学史に残る人です。
・笠井新也 1922(大11)「邪馬台国は大和である」、『考古学雑誌』12巻7号 p.384〜397
・笠井新也 1923(大12)「卑弥呼時代に於ける畿内と九州との文化的並に政治的関係」、『考古学雑誌』 13巻7号 p.442〜453
・笠井新也 1924(大13)「卑彌呼即ち倭迹迹日百襲姫命」、『考古学雑誌』 14巻7号 p.396〜408
・笠井新也 1942(昭17)「卑弥呼の冢墓と箸墓」、『考古学雑誌』 32巻7号 p.344〜368
・笠井新也 1943(昭18)「箸墓古墳の考古学的考察」、『考古学雑誌』 33巻3号 p.114〜138
464 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 20:03:55
>>461 「奈良」に、「大量の人民と耕作地」があったとは言ってないよ?
「奈良」と「近畿」を区別しなって。
465 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/11(水) 20:26:31
>>457 「3世紀の「奈良」は、耕地面積は多くなく、作物も大量には取れず、人口も多くない。」
そしたらなぜ最初から耕地面積が多く、作物が大量に取れ、人口も多い所にクニの中心を置かなかったのか
何故そうでない奈良平野に弥生時代の重要な遺跡が集中してるのか初歩的な九州説からの疑問だが、是非説明願おう。
466 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 20:34:34
>>465 「繁栄する場所」は、
耕地面積が多く、作物が大量に取れ、人口も多いところとは限らない。
>奈良平野に弥生時代の重要な遺跡が集中してる
え?そうなの?
奈良ならよかったならぁー
468 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/11(水) 20:48:32
>>466繁栄する場所」は、
耕地面積が多く、作物が大量に取れ、人口も多いところとは限らない。
こんな言い訳が通用するとでも思っているのだろうか。
どこかにそんな例があれば別だが。
「>奈良平野に弥生時代の重要な遺跡が集中してる え?そうなの?」
何か又平野の名称が 違うか何かで鬼の首でも取ったように言い返しでもするような体勢だな?
469 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 20:58:25
>>468 >どこかにそんな例があれば別だが。
ちっちゃい志賀島から金印が出てきたなあ。
470 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 21:00:40
>>468 奈良平野に弥生時代の重要な遺跡が集中してるんなら、
畿内が繁栄してたってことでいいんじゃないの?
471 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 21:01:02
>>467 お〜い。山田君!
467の座布団全部もってけーっ!
472 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/11(水) 21:28:26
>>463 「九州説の方が、もっと難問でしょう」
いや、ちゃんと合っている。
基本的にいって倭人伝中、日数で表されているところは倭人の謂いではないかと思う。
「水行十日陸行一月」これは帯方郡から女王国までの道程だと思う。倭人は距離を日数で表す」からである。
これを邪馬台国北部九州説に当て嵌めた場合倭人伝の記述では水行より陸行のほうが長くなっているがこれも説明が付く。
倭人も当然帯方郡と行き来しているのであり倭人が帯方郡に行く道程が「水行十日陸行一月」なのであって
魏使側の言葉でいえば「帯方郡から女王国まで一万二千里」など「里」で表された部分となる。
九州説でいう倭人伝の距離日数の記述が合っていないように思うのは倭人の道程と、魏使の道程に違いがあるからである。
473 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 21:32:36
黒塚古墳の築造年代は未だ不明だが、仮に300年±30年と仮定した
場合、270-330年となり、270年は正に邪馬台国の時代である。
そして、黒塚古墳から出土された△鏡の同笵鏡の範囲は、北部九州・
南九州の日向から瀬戸内海を経て遠州、群馬あたりに及ぶ。
この場合は、畿内説にやや有利となるが、330年とした場合は、
九州説が有利であると解せざるをない。
ちなみに今の教科書だとどこになってるんですか?
475 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/11(水) 21:37:18
>>469 ばかもの!志賀島は恐らく古代の聖域じゃ。
宗像市の沖に浮かぶ島もみそぎをして入る女人禁制の宗像神社の聖域じゃ。
弥生式時もゴロゴロころがっとるが、確か封印されておるのじゃ。
476 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/11(水) 21:47:36
>>470畿内が繁栄してたってことでいいんじゃないの?
だれも繁栄していないとは言っていない。なぜ
「繁栄する場所」は、 耕地面積が多く、作物が大量に取れ、人口も多いところとは限らない。」
などという事が起きるのかと聞いておるのだ。
477 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 21:50:47
まあ九州内に邪馬台国連合30カ国余りを比定するには
あまりのも狭すぎるだろう、7万戸をカバーできる土地が先ずない
5万戸もキツイ、那国はry、 ムリムリムリムリかたつむりよ!
しかし畿内全域を7万戸だと説得力アルアルプーアル!
478 :
サガミハラハラ:2007/04/11(水) 21:53:56
もうこのスレにカキコするのやーめた。
479 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 21:58:21
ベターなこと言わせて貰うと、方角どおり里数どおり
いくと亜〜無情・・太平洋の彼方・・
しかし方角を45度程度反転させると、あ〜らびっくり畿内に到着。
480 :
463:2007/04/11(水) 22:00:12
>>463自己レス。なお少し付言します。
笠井新也氏は、出雲(投馬国に比定)から船で水行十日して敦賀に上陸、そこから陸行一月で大和へ、という説です。
この上陸地点なんですが、敦賀でも悪くはないとは思いますが、私は近年の考古学の成果から、丹後半島付近に、より魅力を感じています。
京丹後市、宮津市、与謝野町あたりです。
赤坂今井墳丘墓、浅後谷南墳丘墓、大風呂南墳墓群、奈具岡・奈具谷遺跡、日吉ヶ丘・明石墳墓群、
大田南5号墳(青龍三年銘方格規矩鏡出土)、蛭子山古墳、白米山古墳、……。
山を越して福知山盆地に入れば、景初「四」年鏡を出した広峯15号墳、
天橋立のそばには、海部氏「勘注系図」や息津鏡・邊津鏡(内行花文鏡)を伝えていた籠神社……。
http://kjpts.kyoto-be.ne.jp/kyosrip/Sources/Default.htm このあたり、「丹後」と称するのは律令時代になってから。昔は「丹波」だったでしょうね。
私は、丹波・播磨も、また吉備・讃岐・阿波も……すべて女王国の領域だったと思っています。
481 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 22:03:40
水行20日ていどで吉備に付き、そこから10日で紀州に着く
後はのんびり熊野を見ながら陸路マキムクを目指す、でイイんじゃね?
482 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 22:10:39
>>476 交易の中心地だからですよ。
北は近江から瀬戸内海ルートがあるし、
南は紀伊から木材を得られるし、
西からは吉備の塩を得られるし。
東からも物資が流れてきたろう。
483 :
SOY:2007/04/11(水) 22:10:53
>>477 >まあ九州内に邪馬台国連合30カ国余りを比定するには
>あまりのも狭すぎるだろう、7万戸をカバーできる土地が先ずない
>5万戸もキツイ、那国はry、 ムリムリムリムリかたつむりよ!
>
>しかし畿内全域を7万戸だと説得力アルアルプーアル!
狭い、広いといった抽象的な言葉で誤魔化のではなく、今朝、私が
>>392で
発言したとおり、それを数値で示すべきと考えます。
平野の大雑把な面積くらい、すぐに調べられるでしょ?
484 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/11(水) 22:21:05
>>477九州内に邪馬台国連合30カ国余りを比定するには
当時のクニは大きさが今の郡くらいの大きさから結構大きなものまで色々あったのじゃ。
その証拠に壱岐、対馬、マツラ、伊都、奴まででも五カ国も通過している。
フミ国は宇美町、華奴蘇奴国はかんさき郡、邪馬国は耶馬溪。躬臣国は玖珠、巴利国は杷木町、
支惟国(きい)は、きい城のある基山、鳥奴国は鳥栖、ざっと言ってこの通り。
邪馬台国は長崎、佐賀、福岡、大分、にまたがり、その南にくな国があったのだ。
ちなみに邪馬台国とは30カ国の連合をいい、人口の合計が7万戸なのだ。
485 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 22:57:36
>>475 ばかもの!志賀島は恐らく古代の聖域じゃ。
「ばかもと!」と罵倒しておいて、「…恐らく…」だって
これこそ、たわけ者です。
486 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 22:58:33
>>475 ばかもの!志賀島は恐らく古代の聖域じゃ。
「ばかもと!」と罵倒しておいて、「…恐らく…」だって
これこそ、たわけ者です。
487 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 23:07:16
何回いえば気が済むかね?
488 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 23:11:22
>>480 とりあえず魏志倭人伝の行程にこだわるのは辞めたほうが無難だよ。
君の案も無理やり倭人伝に合わせるためのこじつけにすぎないよ。
方角さえあってないことにしてるんだから日本中どこにでもなる。
489 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 23:21:30
>>423 吉備までが九州の王族の勢力権だったとみたほうが。
畿内にまでは届いてないからね。
490 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/11(水) 23:23:25
>>485>>486 このような言い回しをすることもあるのじゃ。
「繁栄する場所」は、 耕地面積が多く、作物が大量に取れ、人口も多いところとは限らない。
というおのれの言いにたいして
>>468 「どこかにそんな例があれば別だが」
と言ったところ 「ちっちゃい志賀島から金印が出てきたなあ」という例をあげて来た。
これが「ばか者」といわずして何であろう。 そこで話はいったん切れて、
次の「恐らく…」で、改めて自分の考えを述べたのじゃ。
志賀島が「繁栄する場所」は、 耕地面積が多く、作物が大量に取れ、人口も多いところとは限らない場所とは!
信じられない思考力だ。
491 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 23:28:40
492 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 23:34:47
奈良盆地ではなかったのは確か。
493 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/11(水) 23:38:47
まあ、「ばかもの!」といっても終業式とともに現れ始業式と同時に去っていく基地外に比べれば
大分賢い類に入るだろうが。
494 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 23:44:52
>>437 現代は政治も経済も太平洋を向いてるからね。中国には背を向けてるし。
飛行機で食物を空輸したりテレビもラジオもあるしねW
それより重要なのは関西が朝鮮人だらけってことも頭にいれないと。
朝鮮人奴隷が古代から住んでいた地域からね。
しかも奈良に船があったら凄いねW 海がないのに船があるっていってる
基地外畿内説が頭おつかれW
495 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 23:47:14
>>490 畿内説は 都合の悪い質問を 全部 話逸らせてごまかすよね。
紛い物とか言って。もう巻向もこうなったら全部紛い物だよ。
こいつらは倭人伝にあわせるために無茶苦茶いうから事実がみれない。
困ったやつらだ。
496 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 00:04:13
客観的に観て九州説はキツイだろう、干拓で広がった筑紫平野は大阪平野以上にアテにならん
宇佐平野も現在と比較すると当時はかなり狭い
辛うじて宮崎平野に期待がもてるが、それでは西都房になっちゃう!・・・変人扱いだ
有明西岸に邪馬台国を持って来たとしても七万戸は収まらん
それから諸国全体で七万戸とは何処にも書いてない。
497 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 00:10:39
九州だろうと何処だろうと構わんが、おまえ仕事支店の?
ずっとへばりついているようだけど?
朝のレス嫁だの、そんなのと言われたって知らんがよ
498 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 00:18:26
499 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 00:19:44
>>483 >>392の奈良盆地400平方kmには、邪馬台国時代に存在していたとされる
盆地湖の部分を除外していますか?
これを除外すると、ヤマトの辺りは本当に狭いですね。
また、纒向のあたりは東西で高低差が大きいので農業には不向きですね。
500 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 00:22:08
>>496 西都房?そんな呼び名があるの?
個人的には、神武東征を連想させる西都原には淡い期待をしている。
「房」とか言われてるのは心外だなぁ…
>>499 > また、纒向のあたりは東西で高低差が大きいので農業には不向きですね。
別に纏向だけで自立していたわけじゃないでしょう。
纏向は集積拠点で農業拠点ではないように思う。
ちなみに奈良盆地内で発見されている弥生終末期の水田遺構って非常に少ないが、
纏向のすぐ南側の大福地区などでは存在が確認されている。
502 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 00:30:22
>>499 いいや狭くない、邪馬台国以外の29カ国はカウントされないから
九州だと7万戸・5万と・・・ぜーーんぶ収めなきゃなんない
大変だね・・・w
503 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 00:48:27
奈良盆地には奈良時代以前の遺跡が全く発見されない広い領域があり、
その領域は平安時代まで盆地湖であったと考えられている。
微高地で高低差が大きいことも考えれば、農業生産の拠点にはなり得ず、
纒向が自生的に発展したという理論は成り立たない。
故に、当初から権力者中心の都とするために開発されたと考えるのが、合理的。
盆地湖は水上交通の上で便利であり、物資の集積に利点がある。
「既に完成された権力」がそこに移ったという理論に合致しやすい。
504 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 00:49:36
九州は紛争が絶えなかった地域、つまりは纏まりがない≒クニが小さい
それに比べ出雲や大和は早くから纏まっていた、クニデカ〜〜
大国主が小さく弱っちいクニを従えさせるのは当然ちゃー当然だろう
505 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 00:59:37
>>503 東に豊な地があると聞き出張って逝った神武
緑で美しい山々に囲まれた大和平野を懐かしんで死んでいったとある大君
落ち着いて野良仕事も出来ない荒れ果てた九州よりはましだったんじゃないか?
西(半島を含む)から東への移動は弥生期を通じて間断なく行われていたのでしょう。
半島情勢の急変(楽浪滅亡とか三国の台頭とか)時には大きな波もあったでしょうが、
「神武東征」みたいなエポックの検証は難しいと思う。
>>506 西から東への移動というのは
大きく見たら
幕末まで続いたんだよ。
>>507 >
>>506 > 西から東への移動というのは
> 大きく見たら
> 幕末まで続いたんだよ。
それは、薩長系を中心に明治期になってもだね。
西日本から近畿・東京へだ。
つーか、現代でもだね。
510 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 03:24:19
>>496 干拓で広がったのは佐賀平野で、筑紫平野は昔と変わらない。
忘れてならないのは、熊本平野。ここは盆地的でもあり、古代人にとって
住みやすい環境ではなかったかと思う。面積も一番広い。
それから、都城盆地は、古代人が最も好む土地ではないかといわれる。
もっとも、ここは熊襲の本拠地といわれるが。
そのほか球磨盆地と宮崎平野、肝属平野がある。北部では福岡平野、瀬戸内海
沿岸と北九州市付近。
511 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 03:42:55
というわけで、ここではあまり取り上げられないが、膨大な鉄器の出土を
誇る熊本をどのように考えるかは非常に重要だと思う。
一口に熊本といっても、かなり広い。菊池川沿いの北部は、環濠集落もあり、
古墳もある。
南部の宇土半島付近は、初期の古墳が多く、火の国発祥の地といわれる。
後の、火の君の本拠地はここだといわれる。
その間に挟まれた熊本市付近も古代の遺跡がある。
初期の甕棺の分布などから、福岡や佐賀と同じ文化圏であることは確かだと
思われる。狗奴国との関連をどのように考えるか。
また、日向との関連もある。たとえば、筑紫平野から宮崎は遠いが、熊本から
ならそれほど遠くない。
512 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/12(木) 06:23:47
>>496「それから諸国全体で七万戸とは何処にも書いてない」
南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
和訳:南へ水行十日、陸行一月程行くと、邪馬壹国に着く。女王の都である。
ではなく
「南へ至ると邪馬壹國女王{卑弥呼}の都とするところである。
水行十日、陸行一月、{だと帯方郡から女王国までかかる日数を、倭人はこのように表現している}
のであって、邪馬台国と女王国がきちんと書き分けられている事からも推測できる。
伊都国にも国王がいる。邪馬台国にも国王たる女王卑弥呼がいる。これでは並列になる。
女王卑弥呼は30カ国全体の女王であり伊都国王をも従えている。
よって卑弥呼の宮殿のある場所が女王国、
北部九州邪馬台国連合30カ国全体を邪馬台国、{七万戸はこの合計}
さらに倭人の住んでいる全体を倭というのである。
も一つ。筑後平野は今も日本有数の米どころ。当然奈良盆地より温暖であり気候もよく
古代の生産高も高かったのではないかと思われる。
513 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 06:27:52
>>473 黒塚古墳の築造年代は未だ不明だが、仮に300年±30年と仮定した
場合、270-330年となり、270年は正に邪馬台国の時代である。
そして、黒塚古墳から出土された△鏡の同笵鏡の範囲は、北部九州・
南九州の日向から瀬戸内海を経て遠州、群馬あたりに及ぶ。
この場合は、畿内説にやや有利となるが、330年とした場合は、
九州説が有利であると解せざるをない。
同笵鏡が出てきた場合、大量出土地域→少量出土地域に分配された
と見なすのが普通だろう。であれば、この視点は重要かもね。
514 :
SOY:2007/04/12(木) 07:37:33
>>499 >
>>392の奈良盆地400平方kmには、邪馬台国時代に存在していたとされる
>盆地湖の部分を除外していますか?
漠然とした計算で盆地湖の部分は除外していません。本来、論議を深めるなら
そういった部分も考慮にいれなければなりません。
>>503のような説明は説得力があり、非常にありがたいです。
それにしても、畿内説の人は超地域性などの部分に的を絞って論を立てれば、
それになりに説得力が増すものを、わざわざ論を分散させて、耕作地が広い
といった危うい見解の上に論を立てられるのかが不思議でなりません。
因みに人口論について奴國を基準に大雑把に考えると以下のように意見は
分かれると見ていますが、支配領域の範囲などが論者のさじ加減で変わる
ものなら、所在地論争の決定打にはなりえないと私は考えています。
・奴國=二萬餘戸 = 福岡平野=240平方km と仮定
1.奴國=2萬餘戸は参考にできない
2.奴國=2萬餘戸は参考にできる
2−1.邪馬台国の可7萬餘戸は参考にできない
2−1.邪馬台国の可7萬餘戸は参考にできる
2−1−1.邪馬台国の地続きの平野部は福岡平野の3.5倍はある
2−1−2.邪馬台国の地続きの平野部は福岡平野の3.5倍もない
2−1−2−1.邪馬台国は地続きでない平野からも収税している
2−1−2−2.邪馬台国は少ない平野でも多くの人口を養える
515 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 07:44:53
>>513 同笵鏡の大量出土地域は九州なんですか?
516 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 07:45:49
>>514 邪馬台国時代に盆地湖があったというソースは?
517 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 07:52:43
>>514 唐古・鍵遺跡は、湖の中に作ってたんですか?
倭人伝のいわゆる邪馬台国は九州。
文盲でもないかぎりわかるだろ?
九州と畿内は別の集団。
>>488 とりあえず魏志倭人伝の行程にこだわるのは辞めたほうが無難だよ。
君の案も無理やり倭人伝に合わせるためのこじつけにすぎないよ。
倭人伝が根拠の邪馬台国を、ではどう比定するのか?それこそこじつけに
なるのでは?
519 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 08:48:12
縄文遺跡は、三輪遺跡・箸中遺跡・脇本遺跡。
弥生遺跡は、唐古・鍵遺跡ぐらい?
520 :
日本@名無史さん :2007/04/12(木) 12:47:02
畿内説の人はよく妄想癖があって、畿内王国が
丹波や備前、尾張を勢力下に治めていたと勘違い
しています。
畿内の1部族に従う理由が分からないし、勢力下に
するといっても、邪馬台国当時の日本は今と違って
湖沼や河川で分断されており、橋もない、船もない
状況下でどうやって、制圧していたか、理解し難い。
普通に考えて、当時の国の単位は、かなり狭い範囲
でしか考えられないが、いかがでしょうか?
畿内勢力が吉備を制圧?
どうやって、川を渡って、軍団を派遣したのか?
どうやって、食料を運んだのか?
>>520 妄想はお前。お前の言っていることがわからない。
そんなこと言ってたら、世間で馬鹿にされるぞ。
>>520 :日本@名無史さん :2007/04/12(木) 12:47:02
>畿内の1部族に従う理由が分からないし、勢力下に
>するといっても、邪馬台国当時の日本は今と違って
>湖沼や河川で分断されており、橋もない、船もない
>状況下でどうやって、制圧していたか、理解し難い。
畿内も尾張もみんな、親族関係にある同族同士。
要するに、畿内の一部族では無かったんだよ。
船くらい作れるだろう?w
縄文人や石器人ですら船ぐらいは作れるしw
川や沼で分断されているってw それがどうかしたか?と思うw
そんなこと言ったら、幼稚な駄々っ子にしか思えない。
>畿内勢力が吉備を制圧?
>どうやって、川を渡って、軍団を派遣したのか?
>どうやって、食料を運んだのか?
川や渡る、軍団を派遣するぐらい出来るわなw
もうね、九州説論者は、言っていることが無茶苦茶。
金儲けのためだとは思うんだけどw
言っていることが、非論理的では、どうしようもない。
524 :
日本@名無史さん :2007/04/12(木) 13:37:43
>縄文人や石器人ですら船ぐらいは作れるしw
>川や沼で分断されているってw それがどうかしたか?と思うw
あはは、幼稚な空想の世界で、妄想してるのね。
525 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 13:42:15
>>513 黒塚を330以前とするのは無理。
http://www.geocities.jp/j_imada1999/xa_kfn02.htm 古墳の位置関係からは、櫛山古墳→崇神稜→天神山古墳→黒塚古墳、が自然。
崇神稜と天神山の位置関係からは、天神山は崇神稜とほぼ同時期で崇神稜の
あとに作られたと考えられる。
黒塚はばち形でもなく、前方部が崇神稜や箸墓古墳より発達しているから、
この点でも黒塚は、崇神稜より後になる。
出土品をみても、典型三角縁を含まない天神山は黒塚より前になる。
崇神稜を350と見た場合、黒塚は355〜370となる。
崇神稜を360と見た場合、黒塚は365〜380となる。
526 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 14:02:20
武力支配における兵站のことじゃないか?
527 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 14:10:01
>>520 九州説の人はよく妄想癖があって、畿内王国が
丹波や備前、尾張を勢力下に治めていたと勘違い
しています。
畿内王権は、武力支配はしていない。
吉備・丹波・東海勢力が、畿内に集結して仲良く国を作ったということ。
528 :
一呼吸:2007/04/12(木) 15:18:42
卑弥呼は秘密子なんだろう
神秘的であり一目で良いから拝んでみたいと言う衝動にさせられる
人の好奇心を擽る、魅力ある女こそが卑弥呼なんだろう。
表に出ない店とか、知る人ぞ知るお店の方が集客力がある
これこそが秘密子なのだ。
秘密子に付き従える王が続出したのは、何も女だから、神託を得る人物だから、
等の理由だけではないことが分かる。
529 :
結論:2007/04/12(木) 15:21:28
倭人伝に出てくる卑弥呼は
そ も そ も 存 在 し な か っ た 。
530 :
日本@名無史さん :2007/04/12(木) 16:03:15
>>527 世界の歴史の中で、仲良く国を作った民族が存在すると
考えている畿内厨は非常識というか・・・
世間しらずのボンボンよりひどい。
531 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 16:11:28
532 :
日本@名無史さん :2007/04/12(木) 16:34:49
少なくとも、畿内の奈良盆地周辺には、マクムク遺跡から
も分かるように、外敵の侵略を想定していない平和な部族
が存在していたことは想像できる。
文化的には、石器と木工製の道具で生活していたらしい。
一般論として、世界史の中で農業が出来る肥沃な土地柄
は、戦闘的集団には発展していない。
肥沃な土地は、他の飢えた部族の標的になりやすいのは
中国の歴史が何回も証明している。
533 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 18:14:50
534 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 18:24:47
>>532 でも畿内、東海どころか吉備、出雲さえ北部九州の文化影響はほとんどないんだよね。
たったひとつでいいから挙げてくれないか
本州で九州勢力が支配の軍事拠点として築いたと見られる遺跡を。
それから北部九州よりはるかに鋳鉄が盛んであったと見られる中南部九州が
2世紀の段階から加飾壺に始まって、庄内、布留と連綿と四国ルートで文化交流している事実と
方墳や前方後円墳どころか後方墳まで4世紀には築かれるとの事実
また3世紀後半から4世紀前半にかけて、全国的に環濠のない集落がいっせいに新設される事実なども
九州説とやらできちんと具体的に説明してくれないかな。
とんこつラーメンは博多たい!
536 :
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。 :2007/04/12(木) 19:57:26
あ
537 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 20:31:17
>>532 ガイシュツだが、吉野ヶ里遺跡に見られるような「倭国大乱」を思わせる
ような遺跡は発掘されていないわけですね?
>>534 >北部九州よりはるかに鋳鉄が盛んであったと見られる中南部九州
ほんとか?
ソースきぼ。
539 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 21:30:08
540 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 21:41:20
>>537 いや弥生中後期だと吉野ヶ里も含めて青谷上地寺、朝日などほぼ全国に渡って
何らかの防御施設を備えた環濠集落は出土している。
しかしどこもそうだが、近隣地域以外の武器片は一切出土しない。
つまりどこも非常に狭い地域内でのドンパチや略奪は結構あったとは考えられる。
高地性集落にしても実戦の形跡がまったく見られないし
これらがどこの集落の前線基地であったのかすら非常に曖昧。
銅矛や平型銅剣にしても土器様式同様に、各地ではっきりと様式が違うため
同一勢力とは考えにくく文化共有圏以上の解釈は不可能。
このため各クニが勢力拡大を念頭に設置したものであったとは考えにくく
自衛(防犯)目的であった蓋然性が非常に高い。
それらがM&Aのごとく吸収・合併・分裂を繰り返して地域単位の大まかな連合を形成し始めるのが終末期と見られている。
北部九州での連合化はこれらよりやや早いと見る向きも多い。
その大まかな地域連合たちが通商安定化などの利害関係の一致と相互利益を目論んだプロジェクトのひとつが畿内大和東南部におけるマキムク開発であり
そこが結果的に各地元を凌駕するまでに成長したのがヤマト政権であるというのが畿内説の流れ。
541 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 22:03:43
542 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 22:09:31
>>540 >その大まかな地域連合たちが通商安定化などの利害関係の一致と相互利益を
>目論んだプロジェクトのひとつが畿内大和東南部におけるマキムク開発であり
そのマキムク開発の実年代ですが、私は、2世紀後半のある時点から3世紀半ば頃まで、と
考えています。3世紀後半段階には、一応の完成をみていただろうと。
いかがなものでしょうか、540さん。
543 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 22:14:26
>>533 じゃなくてw 畿内に女王国なんてなかったんだよ。だから矛盾もなにもないW
544 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 22:17:46
>>534 九州文化の影響としては、鏡崇拝の信仰がある。まさか、鏡に対する信仰という
特殊なものが九州と畿内で別個に同時発生したと考えてはいないよね。
平原の巨大鏡のような特殊の進行は畿内でも続いている。
「それから」以下の部分は前提にならないから、根拠が必要だね。
あと、説明もなしにニュアンス的な事実の羅列は思考力を疑われますよ。
545 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 22:27:47
>>542 そう考えるのが普通だと思う。
布留からさらに隆盛化し、拡散速度が速まったとは思うが。
でもそう考えたくない人がいるようなので
ではどう考えるのかというのを、整合性のある九州説があるのなら聞きたかっただけ。
ちなみに畿内勢力が単独で各地を傘下に治めたなどという畿内説は存在しないことも知っておいて欲しい。
4世紀(布留1式以降)でも全国的に方墳・前方後方墳は普通に築造されている。
マキムクや天理市でも前方後円墳が突出して多いわけではない。
ただ異様な巨大化を果たし、マキムク放棄(4世紀末ごろ)から畿内各地に競うように200m級の前方後円墳が築かれることから
そのあたりからやっと畿内勢力と呼んでもいいのではないかとは思う。
3世紀における初期ヤマト連合は、北部・南部九州から関東・北陸まで含めた緩やかな通商連合であると見るのが現在の主流説。
考古学が卑弥呼の居場所(邪馬台国)にあまり関心がないのは
それがすでに判ってしまったため、あとは彼女の居場所というそれほど重要度の高くない話題しか残っていないため。
なので別に九州にあろうが出雲にあろうが、大和でも阿波でも三河でも武蔵でも、大勢は変わらない。
546 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 22:41:21
>>544 銅鏡祭祀は九州発祥のものではないよ、無論畿内発祥でもない。
要するに共通文化圏の拡大形成が徐々に浸透したものだと考えられる。
ここで否定したのは、北部九州に限らずどこかの勢力が武力侵攻したとの考え方であって
これはもちろんその逆の畿内からの侵攻も考えられない。
通商ルートの拡大が同時に祭祀文化共有をもたらしたというだけの話。
あと何か根拠不足のところあるかな?
邪馬台国について論ずるくらいなら、加飾壺や庄内出土などは当然君も知っていただろうし
墳墓形態の統一がもっと後の時代になることも
無環濠集落の設置と各地での庄内期再開発も、これに異論を唱える説などあるの?
547 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 22:42:58
>>545 >ちなみに畿内勢力が単独で各地を傘下に治めたなどという畿内説は存在しないことも知っておいて欲しい。
それが理解できたら、九州説が成り立たない。
548 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/12(木) 23:00:53
どうしてそんなに繁栄していた畿内の事が中国の文献に何一つ出てこないのだろうか?
第一、邪馬台国時代の畿内はどこの津を利用していたんだろうか?
この頃の中国の文献に難波津や三重の津らしい名称は出てくるのだろうか?
それが無いからどうも色々言って来ても空虚な感が拭えない。
549 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 23:37:19
やはり近畿説の方が説得力がある
九州説は騎馬民族征服説と競うべきだ....
550 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 23:43:09
>>546 九州では、鏡を副葬する習慣は甕棺の時代からあるから、日本での発祥の地と
言ってもいいのでは?少なくとも弥生中期の前半からある。
これに対して畿内あたりでは数百年遅れる。
九州の影響を受けたことは明らかだと思う。
しかも、畿内周辺で祭祀の対象となったのは銅鐸だが、その祭祀・製造が
終わりを告げる頃に鏡祭祀が始まるといっても良い。
日本では九州で発祥した銅鏡の文化が、それまで近畿地方で繁栄していた
銅鐸を駆逐したことも確かだと思われる。
祭祀の対象が変わるということは、権力の交代あるいは移動を意味していると
考えてもちっとも不思議ではない。
単なる文化の移動と考えるほうが無理がある。
さらに、記紀には銅鐸は全く登場しない。大和政権が畿内で発生、あるいは
発展したとすれば、銅鐸が語られても不思議ではない。単なる文化の移動と
捕らえるとますます記紀で銅鐸が語られない理由がわからない。
しかし、鏡の文化を持つ九州の勢力が、東征し、自らの文化を普及させたと
考えれば、記紀に銅鐸が登場しないこともうなずける。
こちらのほうが自然な考えだと思う。
551 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 23:50:07
つづき。
近畿地方における銅鐸の祭祀・製造は、ある時期を境にいっせいに終了して
いる。徐々に移り変わった様子は見られない。
古墳にも銅鐸は副葬されない。
単なる文化の移動と考えるのはやはり不自然。
祭祀の対象を変えさせることのできる権力の移動と考えるのが自然。
552 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 23:51:32
>>550 とんちんかんだな
鏡が国内においては北九州影響だとは見てよいが
それを一足飛びに権力の交代と断定するのがよくわからん。
銅鐸を祭るクニが畿内にあったとでも思っているのかもしれないが、そんなクニはおそらくない。
ムラとクニの祭祀を混同してないか
しかも
>>547がわざわざ抜き出しているだろう
それを声に出して100回嫁
553 :
SOY:2007/04/12(木) 23:55:56
>>546 >ここで否定したのは、北部九州に限らずどこかの勢力が武力侵攻したとの考え方であって
>これはもちろんその逆の畿内からの侵攻も考えられない。
このあたりの見解については九州説論者にも同じ考えの人はいると思います。
邪馬台国東征ではなく、邪馬台国東遷と考えている人もいるでしょうから。
また、緩やかな連合という考えも『共立』という言葉からは妥当に思えます。
しかし、前方後円墳が全国的に広がる時代を、果たして『共立』の時代と
言ってよいかについては異論があろうかと思います。
そのことも踏まえて、『無環濠集落の設置』という言葉を考えると、
やはり、これについても魏志倭人伝の『城柵嚴設』の時代以降に
読み取れますが、如何なものでしょう?
それとも、畿内説としては城柵嚴設=無環濠集落との考えでしょうか?
554 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 00:10:38
>>550-551 ということはあなたは、銅矛、銅剣も鏡が駆逐したと考えているのかな。
銅鏡祭祀を持つ集団に北部九州から瀬戸内・日本海側の各クニやムラが駆逐されたと・・・。
いや実際そうは考えてないわけだろうから、どうして銅鐸だけそんな勇壮なストーリーを当てはめようとするのかい?
ちなみに畿内でも銅鐸祭祀などは一斉に終了してないよ。
大和だけでもマキムク、芝、鍵などは庄内期に入っても銅鐸が出土する。
第5様式の大きいのは近江や紀州などで終焉を迎えるとは考えられているがね。
銅矛も平型銅剣も銅鐸も、言うなれば弥生中期から後期前半にかけて拡散したムラの祭祀具であって
集落再編成が進むにつれてクニとしての祭祀具が台頭してきただけの話だよ。
そもそも九州の鏡信仰勢力とやらは、どうして鏡しか伝えられなかったのだろうね。
最も重要である墳墓形態が北部九州とは似ても似つかぬものになり
更には宮山式などに祭祀儀礼すら奪われてしまうことからして
侵攻はしたものの数十年で没落し、故郷である北部九州も逆侵略を受けたとでも考えているのだろうか。
そんな劇的な話だったら面白いのにね。
555 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 00:18:41
鏡は祭祀というより実用品だしね。
畿内が対中国交易で利用していた津は
大きく分けて
丹波沿岸と河内沿岸の二つだろう?
魏志倭人伝の航路は、日本海側航路の丹波沿岸から邪馬台国へ向かっている。
ちなみに、285年ころに魏志倭人伝を書いた人に近い人たち(晋の人たち)は
邪馬台国の九州監視の一大率近辺までしか行っていない。
よって、魏志の著者のイメージは九州までで
畿内にある邪馬台国の話は倭人からの二次情報であったり
240年代に邪馬台国へ行った魏からの二次情報。
557 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 00:25:25
558 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 00:29:59
>>553 これは邪馬台国東遷という言葉を使うから誤解を受けるのだと思う。
初期ヤマト連合の成立に北部九州の各クニが主導的な役割を果たしたのではないか
特に伊都国などはそのオピニオンリーダーのひとつではなかったかと見る説もある(柳田など)。
この場合には九州にあった邪馬台国をわざわざ遷都させたなどと考えなくてもよい上
東海という巨大な市場を睨んでの立地として、大和マキムクが建設されたとも考え得る。
つまり東遷という語句に縛られる必要はないわけだよ。
もうひとつ。
城柵嚴設の記述は女王の居宮についての記述であって、集落での環濠の有無は問われない。
実際伊都国中心地と見られる三雲や奴国の中心地のひとつと見られる板付、那珂、西新町などには
3世紀中葉になるとまともな環濠も、ましてや城柵もない。
逆にマキムクにしてもこれらの弥生都市(判り易くするためあえてこの用語を使う)にしても
神官や巫女の居宮を都市内部に持たねばならない必然性がない。
むしろ倭人伝記述を重要視するならば、彼女らは人里離れた場所にある別の施設内に閉じこもっているとも考えられる。
いずれにしても、マキムク=卑弥呼の居場所と考える必要はないし
これは九州説でもどこでもそうだろう。
というかさ、魏志にある
247年の出来事が
日本書紀の崇神10年だろう?
561 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 00:42:29
>>554 >大和だけでもマキムク、芝、鍵などは庄内期に入っても銅鐸が出土する。
それはどうだろう。徳島県・矢野遺跡から出土した銅鐸は、突線鈕5式という
最も新しい型式の銅鐸だが、これは弥生後期の土器と共に出土しており、銅鐸
の製造は、庄内期の前に終わったといわれている。また、埋納も同じだから、
祭祀も庄内期の前に終わったとする考えが強い。
桜井市の大福銅鐸は、庄内期に入ってから終わったとも言われるが、これは
突線鈕1式というかなり古いタイプの銅鐸であり、200年ほど使い続けたとも
言われる。この地域は、庄内期に入っても庄内式土器を使っていないらしく、
特別な事情があるため、庄内期に入っても、銅鐸が使われたことの証拠には
なりにくいといわれる。
まあ、前にも書いたように、祭祀の類はなかなか急激に変わるものではない。
歴史を見れば、こういうのは、大きな権力が働いていることが多い。
563 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 00:59:13
>>561 これはこちらの説明が足りなかったね。
前段2つに関しては考古事実として異論はない。
しかしだからこそ”急激に”変化したのではないということが導き出されると思うのだがね。
これは当方の仮説だが、畿内での銅鐸衰退(ムラの祭祀衰退)に最も影響を与えたのは
三遠式の放棄、つまり東海の再編成であると見ている。
同時に北部九州からの直接の影響ではなく、瀬戸内、日本海、太平洋の各ルートから常にもたらされた祭祀具変遷の一環でもあるだろう。
というのは銅鐸ばかりではなく、庄内以前も以降にも消滅や衰退した祭祀具や形態はけっこうあるから。
鳥形木製具や巨大柱立建造物、ゴホウラの腕輪などもそうだね。
なぜこれほどまでに、しかも庄内以降は古留どころか土師器や飛鳥になっても常に変遷を繰り返すのかは
まだはっきりと解明されていないし、論者ごとに各説がある。
しかしこれらの時代になっても、どこかの勢力が侵攻して来たというわけではないだろう。
いまさら王朝交代説でもあるまいし、内部勢力の離散集合や生産性向上の新技術導入に伴う変遷と見たほうがしっくりくる。
564 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 01:06:08
「共立」とか「初期ヤマト連合」とか、実体不明の抽象概念はやめようよ。
その時代に民主主義や民主制があったとでも考えているのかな?
各地に同時発生的に首長が誕生して、横の連合を突然作ったというような空想を
本気で信じているのかな。畿内説の人達って意外とロマンチスト?
普通に考えて、あの時代には権力には「核」があり、それが王と呼ばれる存在であり、
各地で同時に巨大古墳が作られるのは、各地に王族が派遣されたからと見るほうが
自然だよ。
565 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 01:21:49
>>564 民主主義も民主制も、更には絶対君主も強大な軍事力もなかったから
各地で首長が乱立し、それらが融合や分裂を繰り返すなかで権謀術数や暗殺や食料(種籾)略奪など
ありとあらゆる卑怯な手を使ってクニに成長していったと見ているんだよ。
そこにはロマンのかけらもない、ただひたすらにリアリストなだけだ。
女装してケツに剣を刺して暗殺したうえに名前を奪い、さも譲られたようにしていたのかも知れないし
一騎打ちと言いながら相手の両腕を先に切り落としていたのかもしれない。
連合と言うのは、利のためにはなんだってやるという非常に生臭い話なのであって
相手が核であろうがオウであろうが、クニ同士で正面切って戦うだけの軍事力がそもそもない時代だからこそ
大同小異のシェイクハンドにせざるを得なかっただけだと思うよ。
そちらのほうがより自然ではないかな。
566 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 01:35:05
567 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 01:47:51
>>564 >「共立」とか「初期ヤマト連合」とか、実体不明の抽象概念はやめようよ。
「初期ヤマト連合」はひとまず別にして、「共立」の方は、まさしく倭人伝にそう記録されているわけで、いまさら「やめようよ」とおっしゃられてもね……・。
文献ばかりでなく、、考古、民族、民俗、宗教、言語……、そうした諸学を結集し、さらに分析を深めることによって、われわれはなんとか「共立」の実態に肉薄すべきなのでは、と思っているのですが。
>其國本亦以男子爲王。住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼。
共立──。
古代史だけでなく、中世、近世、近現代……と、日本史の全体にも関わってくるものすごく重要な言葉だ、との予感が、私にはあります。
568 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 02:19:13
>>567 「共立」という抽象概念をそのまま使うことに反対しています。
1、各地の自生の主張が話し合って首長を選んだ。
2、各地に派遣された王族が1か所に集まって首長を選んだ。
3、各地に派遣された王族が、発言力を増して共立した。
4、王の都にいる有力者が集まって首長を選んだ。
など、色々な意味に解釈可能な言葉を意味不明なまま用いることには反対です。
また、卑弥呼の時代の「共立」が畿内で、王権が確立する時期と重なるという前提は
未だに証明されていないので、その意味でも「共立」や「連合」という言葉をあいまいな
まま用いるのは不適切です。
>>564 > 普通に考えて、あの時代には権力には「核」があり、それが王と呼ばれる存在であり、
> 各地で同時に巨大古墳が作られるのは、各地に王族が派遣されたからと見るほうが
> 自然だよ。
ならそれは倭人伝のいう邪馬台国ではない。
もう畿内説崩壊してるのに
>>570 なら畿内にあったのは何だというのかね?
どんどん追い詰められる畿内説
>>571 自分の頭で考えなさい。そういう詭弁ならどこの遺跡でも邪馬台国になる。
具体的な考古概念が書き込まれると
とたんに話をそらそうとしたり罵倒レスが増えるなw
>>568 そうだな。俺もそう思う。畿内説も九州説も、せっかく精緻な考古学的議論の
流れを作っておいて、自分からそういう曖昧な用語で潰してしまう事が多いと
思うよ。しかも、倭人伝はじめ文献史学を頭から否定しておいて、そういった
便利な概念だけ剽窃することが相変わらず多い。
つうことで、曖昧な用語集
「共立」 →
>>568の言う通り
「連合」 → 上と事情は同じ
「東遷」 → 「東征」ならあり・・・か?どうしても神武=初大王=東遷と結びつ
きやすいが。とにかく遷都などという遥か後年の用語・概念を使う
のは、明らかに誤用。
「巨大古墳」 → でかい=統一中央政権が前提の使用は×。大和でも全国
統一期には小さくなってるし、彩色古墳なら九州にもある。巨大な
やつなら吉備にも関東にも。
「古墳名」 → 「大仙古墳」のように、別名がある場合(普通はあるw)、そちら
の名前推奨。「○○天皇」と同じく、後世の呼び名が定着してるから
便宜上使っていることをお忘れなく。
「戸数」 →
>>514の言うとおり。「九州は七万戸も養えない」これは、その数が
正しいという論証抜きには×。九州の諸遺跡の年代や規模さえ確定
していないのに、これがかつて畿内説が九州説を否定した常套句だ
った。じゃあ奈良盆地はどうなのかと。
「通商連合」 → 畿内説の学者がさも確定した事実のようにこんなことを言うか
ら荒れる。特に「穏やかな」が付くと眉に唾装備の要。
「初期ヤマト連合」 → これも同様。
「学会では」 → 権威のない学会を権威主義的に持ち出されてもね。これがで
たら「警告!」ブザー。坊主めくりの蝉丸。
どれもこれも、論証抜きに無規定に使用するのは御法度ですね。王権論、国家
論、政治形態論という頭抜きに考古学というボディだけで勝負するのはどんなも
のかと。
576 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 07:29:01
>>545 とて〜も気になる部分
>異様な巨大化を果たし、マキムク放棄(4世紀末ごろ)から畿内各地に競うように200m級の前方後円墳が築かれることから
>そのあたりからやっと畿内勢力と呼んでもいいのではないかと
で、君も、「畿内勢力」と呼べるものができたのは このころと認めてるんだね。w
そしてその論理どおりに、この巨大化した古墳技術を持ち込んだ集団・きっかけ こそ、大和を他と引き離す基礎をつくったと
考えるほうが理にあう。何かが傑出していた集団が出てきて巨大な天皇陵などをつくりだすんだから。
で、ここで矛盾なんだが
>3世紀における初期ヤマト連合は、北部・南部九州から関東・北陸まで含めた緩やかな通商連合
だとみて、その通商連合とやらを、なんで「ヤマト」連合だと呼ぶの?w
ヤマト辺りも当然栄えていたが、他にも栄えていた国があるだろ。なんで3世紀における連合の初期が
ヤマトが中心という発想? 勝手な思い込みにしか読めないが。
通商「連合」というより、武力衝突せずに、それぞれ王国が隣り合っていた。
そして、その中心がどこかなんてわかりゃしない。w 畿内が中心で神々が降臨、なんてのは、朝廷ができてから
数百年後に自分たちで編纂したから。それ以前は別の神々の政権があった!なんて書くわけないし。
つまり、いつも「考古学の畿内説」を読んでいて思うのに、
考古学要素、そして主流の考え方とやらはいいとして、そこから邪馬台国を畿内説に結びつけるところになると
急に「へ?そこがなんでそうなるの?」という論理的じゃなくなり不自然になる。
読みながら確信するのは畿内は邪馬台国はなかったんだろうな、ということだ。
577 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 07:31:26
やはり、一大率という官吏が邪馬台国から諸国に派遣されていたが、
北部・中部九州説の場合は、官吏の派遣の必要性もなく、やはり邪馬
台国は南部九州またはさらに遠隔の地であったろうと想像してしまう。
また、邪馬台国のことが記述されているが、やはりその情景について
もリアルな記載でなく、倭の使者からの伝え聞いたことや伊都国に
常駐する郡使が聞き集めた情報である内容と疑ってしまいます。
明らかにリアル感がないので、直接に邪馬台国の地に踏み込んでい
ないのであろう。これからも、邪馬台国は絶遠の地であることを想像
してしまう。
さしたる根拠はありませんが。
578 :
SOY:2007/04/13(金) 07:34:09
>>558 >城柵嚴設の記述は女王の居宮についての記述であって、集落での環濠の有無は問われない。
城柵嚴設の記事が環濠集落と無縁とするなら、確かに『城柵嚴設=無環濠集落』の
矛盾の説明にはなると思います。
(それが正しいかについては論議を深めなければならないことだとは思いますが)
『居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衞』
ただ、若干、『女王の居宮』という言葉が曖昧です。
上記の『居處』のこととするのか、『宮室』のこととするのかによっては、
漢文の読み方が違う、樓觀はその『女王の居宮』に含むのかといった話に
なるかと思います。
>>558の発言に登場する『女王の居宮』という言葉は『居處』と『宮室』の
どちらのことを言っているのでしょうか?
579 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 07:42:28
>それ以前は別の神々の政権があった!
書いてるじゃん
580 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/13(金) 12:31:41
581 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 13:10:46
>>575 >倭人伝はじめ文献史学を頭から否定しておいて、そういった
>便利な概念だけ剽窃することが相変わらず多い。
>つうことで、曖昧な用語集
>「共立」
>「戸数」
おいおい、馬鹿なことを言うな!
この二つは魏志倭人伝そのものに出てる用語だぞ!
「乃共立一女子爲王名曰卑彌呼」
「自女王國以北其戸數道里可得略載」
「共立」にも「戸数」にもフタをして倭人伝から省こうとするあんたこそ、
「文献史学を頭から否定して」いる張本人じゃないか!
日本の記紀をみたら、少なくとも
神武天皇以降、畿内王権の全国への統制力が大きく弱まったことは
容易に相続できるんじゃないのか?
以前の畿内本家の大国主命からみたら支流である
日向にいたニニギの後胤の畿内王家継承に関して
全国の豪族たちの中に意義を申し立てるものが多かったと。
んで、畿内王権の苦肉の策として、
祭祀を支配することで宗教権威を前面に統治することにしたと。
それが卑弥呼の誕生。
583 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/13(金) 14:30:42
>>582 前面にするくらいなら、秘匿でないんだから、記紀に大々的に卑弥呼の記事
が載る。遠い異国の倭人伝以上にな。
九州の神社伝承には
神武〜孝霊の間の天皇の伝承が残っていない。
よって、神武東征で大混乱が起こって
それを回復するのに、百襲媛命の父親の孝霊天皇の時代までかかったのは
容易に想像がつくんじゃないのか?
〉583 その様に考えた方が記紀に出てくる人に比定するんだろう。
586 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/13(金) 16:55:24
>>556「畿内が対中国交易で利用していた津は 大きく分けて 丹波沿岸と河内沿岸の二つだろう?」
聞きたいのは実際どこの港{津}が使われたか。
畿内は7万の人口を擁し丹波沿岸と河内沿岸の二つで対中国交易をしていたとすれば何らかの証拠があるはずだからだ。
587 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/13(金) 17:02:59
>>585 そういう傾向に向くようだ?
その比定された女性は紀紀の章に「神功皇后」がある位のレベルで一章設けられ
「○○○○媛」と各天皇の章の間に章が入るはずだ。
が、それがない。つまり女王国は畿内になかったということが正解。
588 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 17:04:59
>>586 >何らかの証拠があるはずだからだ。
越遺跡(曝笑)
589 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/13(金) 17:23:35
590 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 17:31:33
>>589 ここまであほとは思わなんだw
相互検証すら不可能な数しかない飛鳥以前の時代で
逆に文献によって証明がなされた事象を述べてみろ。
法隆寺再建問題や飛鳥宮や難波宮の実在は、何によって証明された?
文献は言うなれば供述調書。
本人が自白しようがどうしようが、それが客観的に証明されない限り有罪にならないのはなぜだ?
被告(原告)が嘘を言っているとは到底思えないなどの理由で判決など下らない。
そこで当人しか知りえない事実なりが物証として発見されて、初めて理論性が成立する。
実際の事件でも状況証拠のみで立件して、有罪になったケースはごく稀だろ?
文献記述(供述)が真実かどうかを現場検証や科学捜査(考古学その他)を駆使して証明するのが常識だろう。
そこで供述と合わない場合は、君ならどちらを優先するんだ?
592 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/13(金) 17:38:50
〉587 一章必要かどうかわしらんが、一足飛びに結論ずける事もあるまいて
君の立ち位置は、過去スレ少し読めばわかるから。
そして、この辺のスレは、私も含め特定の少人数しか書いてないだろうと推察
594 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/13(金) 17:43:03
>>590 何の言い訳にもならない御託ならべおって。
>>591のおのれのような屁理屈が通るなら
世界の歴史は殆ど証明不可能じゃ。
鶏は、ミドリ虫を食べますか?
596 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/13(金) 17:49:37
597 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 17:50:29
598 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/13(金) 17:51:05
>>593 君はあま〜い夢から目を覚ましたくないみたいだね。w
599 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/13(金) 17:52:11
ですがタンは、いつも熱いね!
〉594 でゆっている事は、ある意味真実だよ
簡単に立証できたら、議論にならないからね!
だから皆、物的証拠を探してるんじゃまいか!
>>594 本当に歴史のこと何にも知らないんだなw
文献の相互検証が可能になると言ってよいのは、日本だと江戸時代中期以降だ。
ちなみに鎌倉幕府の開府は何年だ?
これにも現在でも諸説があるのを知っているか?
10や20の史料検証でも足りないほど、文献史学とは奥の深いものなのだ。
バカタレとかミドリムシとか、君は単にスレ汚しに来た荒らしか?
いい年した大人が情けないとは思わないのか?
議論する気がなく単にストレス解消の八つ当たり目的なら
いますぐここを去れ。さもなくば少々の煽りにすぐに乗せられるわが身を恥じるかして、住民に謝罪せよ。
〉598 あまい夢てゆうか。僕は、卑弥呼は九州にいたと思っているよ!
ただ100%とは思わないけど。
太国さんは、辛い夢がすきなの。
九州説論者って、学問じゃなくて
ほとんど宗教だからな。
604 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 19:00:25
>>573 なるほど、「自分の頭で考え」て、詭弁を弄して遺跡を適当に割り振って、年代もそれに合わせて操作して辻褄を合わせろというわけだね。
605 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 19:03:01
>>601 すぐに興奮する癖を改めたまえ。宣教師か何かなら別だがな。
606 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 20:19:16
不彌國から水行20日で投馬國で
投馬國から水行10日陸行1月で邪馬壹國です。
このことわ九州説諸氏はご説明ください。畿内説でも方角を修正
しなければならないなど、決定的ではありませんが・・
607 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 21:09:32
>>540 >>545 私は九州甘木説なのですが、
>その大まかな地域連合たちが通商安定化などの利害関係の一致と相互利益を目論んだプロジェクトのひとつが畿内大和東南部におけるマキムク開発であり
そこが結果的に各地元を凌駕するまでに成長したのがヤマト政権である
>3世紀における初期ヤマト連合は、北部・南部九州から関東・北陸まで含めた緩やかな通商連合であると見る
といったところは同じなわけですよ。
そもそも、「畿内説」「九州説」というのは、「魏志倭人伝に記されている邪馬台国」が
どちらにあったのか、という点を論じあってるのではなかったのでしょうか?
540氏がおっしゃるのが「畿内説」だとすれば、それは「魏志倭人伝に記されている邪馬台国」
がどこかという事ではなく、「当時の日本列島で、どこが一番栄えていたか」という観点での
畿内説になりませんか?
ちなみに、私も当時の日本列島では畿内三輪マキムクを中心とし、西は出雲から東は弥彦山から
信濃川を遡って、諏訪関東に至る広大な地域を「大国主」が治める大国があったと思っています。
しかし、それと同時に九州甘木にも「ヤマト」と名乗るマキムクとはその時点ではほとんど交流の無い国があり、
魏志倭人伝に記されている国はまさにそれであり、「親魏倭王」の称号をもらったのもまた彼らではないかと
思うのですが、いかがでしょう?
608 :
SOY:2007/04/13(金) 21:09:43
>>580 >『居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衞』はどの様に理解するの?
>僕の試案
>居處⊂宮室⊂樓觀⊂城柵は嚴設で、常有人の持兵で守衞している。
城柵の中に樓觀があるにしても、樓觀の中に宮室があるというのは
少し無理のある解釈ではないかと私は考えます。
居處に宮室と樓觀があり、城柵がそれらを巡るものと考えるなら、
宮室・樓觀⊂居處⊂城柵というあたりが妥当ではないでしょうか。
(特に難しく考えたわけではありません)
それにしても『城柵嚴設』という言葉に対し、『自然の川』や
『人里離れた場所にある別の施設内』という見解は、あまりに
付け加えた解釈の部分が大きすぎるように思えます。
609 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 21:16:08
白熱した議論の最中、スレ違いで申し訳ないが
遺跡などの発掘のアルバイトっていつどこで募集してる?
バイト情報誌では見かけないんですが
610 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 21:40:43
考古学板で聞いたほうがいいんじゃね?
611 :
SOY:2007/04/13(金) 21:43:11
>白熱した議論の最中、スレ違いで申し訳ないが
>遺跡などの発掘のアルバイトっていつどこで募集してる?
>バイト情報誌では見かけないんですが
大学生の頃は友人のツテで発掘のバイトをしたことがあります。
その頃は大学で募集してました。
今でも求人広告を探せばあると思います。
ネットの求人広告を検索してみては?
ただ、好きな人でない限り、割に合う仕事ではないかも。
方角違いは
場所がほぼ特定されている不弥国までですら
間違っている。
613 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/13(金) 22:24:02
>>601 ちょっと出かけている隙に又見当はずれが現れたな。
バカにバカが重なりバカの恥の上塗りにしかなっていないことも解らずに性懲りも無くよう出るわ。
「文献の相互検証が可能になると言ってよいのは、日本だと江戸時代中期以降だ。
ちなみに鎌倉幕府の開府は何年だ? 」だとォ?ここはあくまで少ない弥生時代の情報を元にするしかないの中でのやり取りを強いられることは確かだ。
しかしそれを皆承知した上での議論なのだ。言ったように世界史も少ない文献をを元にするしかない場合も多い。
それを信憑性が無いなどと言い出したらきりが無い。おまえこそ文献の相互検証が可能になるとやら言う江戸時代中期以降スレに行ったほうがいい。
614 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/13(金) 22:25:30
>>608 >それにしても『城柵嚴設』という言葉に対し、『自然の川』や
>『人里離れた場所にある別の施設内』という見解は、あまりに
>付け加えた解釈の部分が大きすぎるように思えます。
「城柵嚴設」には環濠が不可欠なものではない、と書いたつもりでした。
615 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/13(金) 22:32:26
>>609 うちの近所でも発掘調査が多くて、たくさん働いてる人がいるけど、
その人達に聞くのが一番いいと思う。知り合いも何人も携わってるが凄く大変みたい。
特に夏の炎天下での作業の暑さは耐え難いといってた。夏はやめたほうがいいと思うよ。
616 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 22:41:35
>>591 >>601 横レスします。
@文献+A考古学的事実=B事実の確定 との考えとお見受けしますが、
学説史で見れば既に破綻が証明された古典的な実証主義です。
記紀は5、6C以前のことは後の時代に創作して書かれたものであるという山片、
津田を引き継いだ戦後津田学派の諸派は、稲荷山鉄剣の銘文で後退し、出雲での
大量の遺物の発見で後退し、藤原京出土木簡で旧事本紀と同じ表記が発見され
後退し、百済王の墓碑発見で後退し、九州の鉄器優勢を認めて後退し、・・・・・・・
というように、文献のみから合理的に史実と推測可能なものを否定する理論の誤り
を証明され続けてきたという歴史を持ちます。
今でも、特に畿内説の方に多く見られる思考形式ですが、誤りです。
記紀や旧事本紀の記載を、7、8Cの人々が本気で信用していた彼らの歴史である
という視点に立てば、文献のみでも合理的思考により事実との推測は可能です。
617 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/13(金) 22:50:37
>>606 >不彌國から水行20日で投馬國で
>投馬國から水行10日陸行1月で邪馬壹國です。
従郡至倭循海岸水行・・・・・・・・
(従郡)南至投馬国水行二十日・・・・・
(従郡)南至邪馬壱国水行十日陸行一月・・・・・
自女王國以北・・・・・・・
自郡至女王國萬二千余里。
なお方向修正は無し。
女王國は筑紫平野筑後川沿岸。
以上は最近の僕の解釈です。
618 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/13(金) 22:50:38
なーに
>>548のこちらの素朴な質問にもまともに答えられず、
こちらの興奮しやすい性格を利用し、いつものはぐらかし戦術で
しめしめと思ってるだろうがそうはいかない。きちんと答えてもらう。
619 :
SOY:2007/04/13(金) 22:50:41
>>614 >「城柵嚴設」には環濠が不可欠なものではない、と書いたつもりでした
了解です。こちらが結論を急ぎすぎたかも知れません。確かに城柵=環濠は
一見解にすぎません。私は環濠集落がそれに相応しいとは考えていますが、
ここは結論は急がず、広く可能性を求めてみます。
ですが、おかえり!
興奮しやすい性格なんですか?
ディベートには向かないねー。
深呼吸するといいよ。
がんがれ
621 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/13(金) 22:59:13
>>617の修正
×女王國は筑紫平野筑後川沿岸。
↓
○女王國は筑紫平野筑後川左岸。
622 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 23:04:37
>>606 >投馬國から水行10日陸行1月で邪馬壹國です。
一度原文で読め。
途中から漢字の置き方や使い方がかわっている。
この倭人伝は段落もかえなければ、別の項目も同じ行から始めている。
出発地は諸説あるぞ。
自分は邪馬台国の部分から別項だと確信している。これは外国語を理解できない
人間にはわかりづらいだろうね。
623 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 23:12:20
>>606>不彌國から水行20日で投馬國で 投馬國から水行10日陸行1月で邪馬壹國です。
水行10日プラス陸行1月だね。それが最も素直で自然な解釈。
なのに古田は水行十日陸行一月を、帯方郡〜女王の都までの所要日数と読む。
ヘソマガリ解釈もいいとこ。あれま、安本も便乗してるわな。ww
東南至奴國百里官曰馬觚副曰卑奴母離有二萬餘戸
東行至不彌國百里官曰多模副曰卑奴母離有千餘家
南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸
南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
原文ではこんなふうに次々と国々が出てくるわけだから、読む方にすりゃ
距離や日数は、直前に出た国からの距離や日数と思って、誰だって読むよな。
もちろん陳寿もそのつもりで書いたはず。
もし水行十日陸行一月を帯方郡〜女王の都の所要日数と読ませたいなら、
陳寿は「自郡水行十日陸行一月」と、「郡より」を必ずここに入れただろね。
624 :
609:2007/04/13(金) 23:17:24
レスくれた人ありがとう
考古学板は過疎なので返答が何ヵ月後になりそうなので・・・
アルバイト板で聞いたら新しく遺跡が発見されるかコネじゃね?、と言われた
今後はネットも含めて探して見ます
625 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 23:20:21
>場所がほぼ特定されている不弥国までですら
まずその思い込みは止めたほうがいい。どこまでの推理があってるか
わからんよ。もしそうだとしても、陸上での地図の方角と、
本州に向かう東と 南下を間違える馬鹿はいない。
九州島より でっかい本州が横たわっているのを知りながら東に向かいつつ
「南下」これはない。しかも倭人伝での記述は南国風だ。
倭人伝を参照すると畿内でないのはたしか。
それで畿内説の人間は、倭人伝は中国人は邪馬台国まで行っていないから南国風の描写は
邪馬台国ではないと主張。これは読んでいないから。
しかし原文読んでみろ。原文読めばいっているのがわかる。事細かに書いている。
しかも東の大海から別の倭の地まで千里などと、倭人の使わない中国の里であらわしている。
626 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 23:26:10
>>623 ヘソマガリ解釈、じゃなくそれが最も自然なんだよ。
おまえの解釈が勉強不足、外国語オンチなだけに過ぎんのだよ。
原文は写しだということを忘れるな。
>>622 >これは外国語を理解できない人間にはわかりづらいだろうね。
622さんも、きっと中国人じゃないよね。
だから「水行十日陸行一月」の起点が投馬国なのか、
それとも帯方郡からと読んだ方がいいのか、
いっぺん漢語を母語とする中国人に判定してもらおうや。
628 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 23:30:47
124 :出土地不明 :2007/03/18(日) 00:36:52 ID:YNB0s7ka
上のほうで、箸墓は盗掘されていないのか?という質問があったが…
盗掘されてますよ。石室も崩れてるよ。
ひょっとしたら天井石も盗られてるかも。当然、中は空だと思います。
125 :出土地不明 :2007/03/18(日) 00:49:47 ID:LEUalx3H
>>124 おまえ掘ったろwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
126 :出土地不明 :2007/03/18(日) 22:48:02 ID:dnLiEfI1
圧倒的優勢と近畿説派が言い張っても・・・論争はシビアに見極められてるようですね
◆ NHK歴史の選択「邪馬台国はどこか〜近畿説VS九州説〜」
九州説 35,087票
近畿説 21,102票
127 :出土地不明 :2007/03/19(月) 00:39:24 ID:cK9SAXfi
見ただけですよ。非常にがっかりしました。
128 :出土地不明 :2007/03/19(月) 01:01:03 ID:cK9SAXfi
あ、箸墓の話でした。
629 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/13(金) 23:45:45
>>623 直前までの道程を示す言葉は「里」(位置距離)のみで「日」(時間距離)は入っていません。
陳寿は「南至投馬國」の前に「自郡」を入れるつもりはなかったでしょう。
「従郡」を入れれば、「従郡」が重なり汚い文になるので省いたと考えます。
「従」で括られる文は、
従郡至倭・・・・・・・副日卑奴母離有千余家
「自」で括られる文は、
自女王國以北・・・・・・不可得詳・・・・・・不属女王
と
自郡至女王國萬二千余離
の2つ。
魏志に記述された行程に従うと、九州のはるか南の海上へ出てしまいますよね。
631 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 00:04:47
>>616さん
あなたの論理には自己矛盾が垣間見えます。
>文献のみでも合理的思考により事実との推測は可能です。
と、そういうご主張をされる理由に挙げておられるのが、
>稲荷山鉄剣の銘文で後退し、出雲での大量の遺物の発見で後退し、
>藤原京出土木簡で旧事本紀と同じ表記が発見され後退し、
>百済王の墓碑発見で後退し、九州の鉄器優勢を認めて
と、ことごとく近年の考古学の成果です。
616さん。考古学は、要らない学問、ですか?
632 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/14(土) 00:16:57
>>630 距離の数字は鵜呑みにできないというだけのこと。
634 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 00:37:53
>>627 >だから「水行十日陸行一月」の起点が投馬国なのか、
>それとも帯方郡からと読んだ方がいいのか、
>いっぺん漢語を母語とする中国人に判定してもらおうや。
異存ナ〜シ
だけどさ、中国でも台湾でも日本古代史に邪馬台国論争があることぐらいは
大学や研究所にお勤めの古代史の先生たちはとうぜん知ってるだろ
すでに判定は下されてるのと違うか。と言いつつ俺は寡聞にして知らんので
中国、台湾の論文があれば紹介きぼんぬ
635 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 00:39:20
>>631 考古学で発見されるまでは、その部分の記述を創作として否定する考えを
批判したのですが、意図が分かりにくかったでしょうか?
考古学の裏付けがなくても、史実と考えることも可能という意味と
考古学のみによる史実の構築の危うさもあります。
鎌倉幕府は考古学のみでは証明困難でしょう。
原文を読めば読むほど
邪馬台国って畿内なんだよな。
637 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 06:01:38
原文を読めば読むほど
邪馬壱國って九州なんだよな。
638 :
SOY:2007/04/14(土) 08:21:50
>>630 >魏志に記述された行程に従うと、九州のはるか南の海上へ出てしまいますよね。
畿内説論者によく見られる悪い癖です。『はるか南の海上』と曖昧な表現をするよりも
『不彌國〜邪馬台国までを何里と考えたのか』『1里を何mと換算したのか』について
詳しく述べるべきと私は考えます。
『はるか南の海上』を魏志倭人伝に反してベクトルを東に変えれば、
纏向遺跡にピタリと重なるものなのか、それとも『はるか東の海上』に
出てしまうものなのか?
曖昧な言葉の先に隠されたものを見てみたい気がします。
Televisionなどでも『はるか南の海上』という言葉は九州説否定に使われる言葉ですが、
実はこれは日本説を否定する言葉であって畿内説に有利な言葉でもないように思えます。
>>636 >原文を読めば読むほど
>邪馬台国って畿内なんだよな。
それを踏まえるとこの言葉が気になります。『読めば読むほど』ではなく、
特に旅程記事については『無視すればするほど』が畿内説論者のスタンス
だったように思いますが、私の勘違いでしょうか?
639 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 08:30:30
>>622 一度原文で読め。
途中から漢字の置き方や使い方がかわっている。
この倭人伝は段落もかえなければ、別の項目も同じ行から始めている。
出発地は諸説あるぞ。
自分は邪馬台国の部分から別項だと確信している。これは外国語を理解
できない人間にはわかりづらいだろうね。
『出発地は諸説あるぞ』は邪馬台国の比定地が先にありきで、自己の都合
で記載漏れの主語がそこに入るはずだと説明しているにすぎませんね。
素直に、第三者の古代中国の言語を研究している方に、ベストな翻訳を
お願いするのが一番だと思います。
邪馬台国論争に全く興味のない、理解しない人が理想ですが。。
640 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 08:32:18
いちばん魏志を読んでるのも研究してるのも中国人。
その中国人が「畿内」だと言ってるんだから諦めろ。
641 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 09:06:44
>>640 >その中国人が「畿内」だと言ってるんだから諦めろ。
そんな中国人を知らないな。
誰のことを指しているのか言ってみろ。
642 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 09:09:58
>>639 だーかーらー
陳寿も人伝にしかきかされていないので、「里(位置距離)」で表現できなくて
「日,月(時間距離)」でしか記載できなかった。
兎に角絶遠の地であったので、今も昔も曖昧にならざるを得ない。
それほど、遥かに遠いところにあったんです。
以 上
陳寿やそれに近い人らは
北九州までしか行っていないということだろう?
投馬国や邪馬台国については、さらに遠すぎたから
倭人の話や過去に魏の使者が行った記録を元に書いている。
644 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/14(土) 09:17:56
畿内には女王国はな〜い。まぁ真に諦めるんだな。
ありゃぁ日本の記紀に女王国の情勢が遥か異国の知りえないくらい遠方の魏の
記録以上にもっと詳細に載る。なぜかと言えば簡単だ。朝廷の目と鼻の先の
近所に女王国があるんだから、朝廷のほうは魏以上になおさら卑弥呼のことが
わかる。朝廷のお隣さんだからな。ところが記紀には女王国が朝廷のすぐわき
にあって卑弥呼とはこんな女だとかいう記事はうんとなければならぬのにほぼ
0の無の状態でにる。
ということは以下のとおり、日本版シルクロード(交易路)から一寸
離れ、畿内から情報の届きにくい九州にあったということが合理的なのである。
北九州はロード上だからそのへんにはあるわけがなく、それより離脱し奥まっ
た奥九州が可能性が大である。
大陸 半島
↓
対馬等
↓
北九州−−−−−−−−−−→畿内
上図のロード上に女王国があれば、すぐに情報は畿内へ到達するわけであり、
朝廷に女王国の情報の入手は容易だから、記紀にうんとその記事が書ける。
女王国よりも畿内から遠い半島の百済等の朝貢の記事等も多々記紀に見える
ことからして、それが肯定できる。だからロード上には女王国はありえない。
また卑弥呼が神功皇后であるわけがない。もしそうなら景初年間が神功の世に
相当し、後代の應神、仁徳の寿命がそれぞれ111歳、143歳とならざるをえず、
この考えられぬくらいの超長寿を肯定せねばならなくなる。
>>638 私がはるか南の海上とレスしたのは、数日前のNHKの番組を見たのと、
「もう一度学びたい、古事記・日本書紀」と言う本にその様に記載されて
いたのでそれを、引用したまでです。
真意は、九州説を否定することではなく、(機内説を否定するわけでもない)どちらともいえません的な事です。
ただ、日本説を否定するとは思っていません。
私の考えるところ、NHKも本も日本説は否定していないと思います。
ちなみに、あの番組での携帯投票では、九州に投票しました。
その理由は、大陸に機内より九州の方がちかいから、西の方が発展が早そうだと思ったから。
ごくシンプルな発想です。
したがい、絶断な自信があるわけではございません。
そもそも、江戸時代から議論していまだに多くの人が納得する結論がでていない
(私はそう思う)訳ですから、正直わかりませんとゆう意見でもいんじゃないですかね。
646 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 09:21:02
昔からの疑問。
九州説がずっと優勢だった頃から、
中国人学者が九州説を唱えてるのを知らない。
九州説の専門サイトでも、中国人の九州説など紹介されたことが無い。
つまりは、そういうこと。
647 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 09:25:10
>>645 おまえはいつもわからないわからないと言って、
中立な立場の識者を装ってるが、自分の意見を持てないほど不勉強ということだ。
顔を洗って出直して来いとしか言えない。
太国さん!おはようさん。
記紀に九州の事はかなり載ってると思うんだけど・・・・・
奥九州ってのは、現在の県でゆうと大まかにどのあたりをイメージしてますか?
649 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/14(土) 09:32:42
>>648 それがしは阿蘇あたりだと想うね。ここまでの特定はまだ完璧ではないです。
>>647 かならずどちらかの立場をとらなければいけないとゆう発想はなかったわ〜
そして、2Chがそんなに敷居が高いとも思ってなかったわ〜
勉強不足でしたあ〜 顔もう一度洗ってきますね ノシ
651 :
SOY:2007/04/14(土) 09:43:12
>>645 >そもそも、江戸時代から議論していまだに多くの人が納得する結論がでていない
>(私はそう思う)訳ですから、正直わかりませんとゆう意見でもいんじゃないですかね。
確定するにはまだ情報が不足という点において、私も慎重論をとりたいとは
考えています。(論議を進める為に敢えて冒険的な発言をしていますが)
『南の海上』という表現の曖昧さについては、
>>645氏個人に向けたというよりは、
『南の海上』という表現を使用して九州説否定の根拠としている人たちに向けたと
考えて頂ければ結構です。
652 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 09:54:23
漢書西域伝には、長安から現在のイラン東部の
「烏弋山離国(アレキサンドリア)」までの距離を「萬二千二百里」
と表現している。
漢の直属国になっていない、インドカシミール地方も含め、西域の
絶遠の地の紹介を、萬二千里前後で表現している。
なんか、倭国の邪馬台国だけ、12000里を追いかけても虚しくない
ですか?
653 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/14(土) 10:24:19
>>652 漢書は長里(1里≒450m)
倭人伝は短里(1里≒70m)
654 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 10:43:43
>>653 インドのけい賓国(カシミール)もイランの烏弋山離国(アレキサンドリア)」
も共に萬二千二百里と同じだということ。
現在の地図で確認してごらん。
長安からインドとイランとの距離を
西遊記には、唐土から西天までの距離 十萬八千里 w
656 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 11:39:06
>>656 三角縁神獣鏡国産説:王仲殊は邪馬台国畿内説だよ。
九州説論者は、彼が三角縁神獣鏡国産説だから
彼を神様のように持ち上げたけど、彼はその発表の席で
九州論者をガッカリさせるような発言をした。
658 :
SOY:2007/04/14(土) 15:55:20
>>654 >インドのけい賓国(カシミール)もイランの烏弋山離国(アレキサンドリア)」
>も共に萬二千二百里と同じだということ。
>現在の地図で確認してごらん。
>長安からインドとイランとの距離を
>>652の発言に対してなされた
>>653の九州王朝大好き氏の回答は
簡潔なうえ、適切であると私は考えます。
>>654氏は長安から烏弋山離国との距離をいかほどと計算し、
>>653の回答がまずいとされたのかを具体的に示すべきと考えます。
>>658 > >インドのけい賓国(カシミール)もイランの烏弋山離国(アレキサンドリア)」
> >も共に萬二千二百里と同じだということ。
> >現在の地図で確認してごらん。
> >長安からインドとイランとの距離を
>
>>652の発言に対してなされた
>>653の九州王朝大好き氏の回答は
> 簡潔なうえ、適切であると私は考えます。
>
>>654氏は長安から烏弋山離国との距離をいかほどと計算し、
>
>>653の回答がまずいとされたのかを具体的に示すべきと考えます。
そんなことを書く前に貴方自身は世界地図を眺めたのですか?
烏弋山離国をどこに比定するかにもよりますが、
アレキサンダーが渡ることのできなかったインダス河より西、
西域伝の隣国と関係から見てヒンドゥークシ山脈より南でしょう。
長安よりの実距離が、ケイ[冠网厂垂中扁炎旁右剣]賓國(カシミール)と
同じでないことは明らかでしょう。
距離の計算内容を「具体的に示す」のは、先ずは大好き氏や貴方の方ではないですか?
660 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 19:12:17
みんな文献に踊らされてるなあ。
>>541を否定しないかぎり、
九州単独で邪馬台国が成立しないことは、もう明らかなんだよ。
簡単に言うと、北九州より鉄器の盛んな九州中南部は、2世紀から畿内と交易をしていた。
瀬戸内海は海賊に荒らされていたかもしれないが、
3世紀には、太平洋ルートで、畿内と九州は交易で結ばれる。
仮に、北九州に邪馬台国があるなら、
南九州のクナ国=畿内勢力の同盟国ということになる。
当然、東征は不可能。
661 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 19:19:51
>>658 長安からの実距離を計算して具体的に示すへきとのことですが、何か意味は
あるのでしょうか?
長安からインドとイランの距離は相当に違うのですよ。
662 :
SOY:2007/04/14(土) 19:26:32
>>659 >烏弋山離国をどこに比定するかにもよりますが、
ここが重要と考えます。
>>654の言うイランのアレクサンドリアがいったい
何処を指しているのか、それさえも具体的に示されていません。
>長安よりの実距離が、ケイ[冠网厂垂中扁炎旁右剣]賓國(カシミール)と
>同じでないことは明らかでしょう。
両国は隣接しているので明らかに離れている例としては不適切に思えます。
なにゆえ、隣接国を遠い関係だと決めつけられるのでしょうか?
>アレキサンダーが渡ることのできなかったインダス河より西、
>西域伝の隣国と関係から見てヒンドゥークシ山脈より南でしょう。
ケイ賓國(カシミール)の西南、安息国(パルティア)の東なら、
カンダハルあたりを考えますが、如何でしょう?
>距離の計算内容を「具体的に示す」のは、先ずは大好き氏や貴方の方ではないですか?
どちらが先にといった水掛け論に持ち込む方がよくいらっしゃいますが、
それは単に自身の主張が危ういということを示しているように見えますが。
>>653の示す数字を利用すれば、12000里は12000里×450m=5400km程度です。
距離と道程は異なり、道程にも幾つかのルートがありますが、長安から見て
カシミールもカンダハルも12000里程度と考えるのは決して無理のある理解
ではありません。
寧ろ、具体的に示すことなくある地理記事をデタラメとし、
それをもって他の箇所の地理記事もデタラメとし、
それをもって地理記事を恣意的に解釈しても良いと判断し、
恣意的に解釈した結果が纏向遺跡という論法にこそ無理があります。
663 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 19:53:28
九州説支持者の松本清張氏ですら、魏志鮮卑伝を紹介し、鮮卑国は、
東西萬二千余里とされているため、郡から邪馬台国までの距離と同一
であることはなく、この萬二千里は絶遠の距離であることの例えとし
て紹介してる。個々に記載されている里数は比較的正しいと解すべき
であるが。
松本さんといえば、卑弥呼殺害説を唱えていたね!
666 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 21:28:10
>>646 見苦しいな。w
だから内容を書けよ。w
667 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 21:32:40
>>660 そんなの考慮したら九州説が成立しないw
オカ板風に喩えたら、宇宙人はどこから来たのか等を
金星だ、いやアルファケンタウリだ、いやいやルクチル星だと楽しく妄想しているのが九州説で
おまいら物理学や天文学をちっとは学べよと水を差すのが畿内説だから。
ラエリアンみたいな痛い宗教がこっそり参加しているところなんか、似すぎていて笑える。
>>662 >具体的に示すことなく
具体例も示すこともなく「隣同士だから同じ距離表示でかまわない」などと仰る方もいますね。
ところで、貴方は件の西域伝をご覧になったことはありますか?
要点を抜粋すると次のような内容です。
ケイ賓國王治循鮮城去長安萬二千二百里
東北至都護治所六千八百四十里 〜 東北至難兜國九日行
烏弋山離國王去長安萬二千二百里東北至都護治所六十日行 東與ケイ賓〜接
両国とも長安からは同距離となっています。
併記されている都護治所までは「六千八百四十里」 と「90日」と標記が異なります。
浅学のため「治所」の所在は定かにできませんが、陽關付近だと仮定すると
長安からの経路上にあるので「六千八百四十里」 と「90日」は同じ距離に見えます。
ここで、この二国から離れてもう一つの国に目を向けましょう。ケイ賓國条にでてくる難兜國です。
「東北至難兜國九日行」と書かれています。難兜國条の要点は次のとおり。
難兜國王治去長安萬一百五十里
東北至都護治所二千八百五十里
西南至ケイ賓三百三十里
日数標記だったケイ賓条と違い、こちらの難兜・ケイ賓間は里数標記。
難兜・ケイ賓は西域伝の地理関係では、長安から見て直列に並ぶわけではありませんが、
ケイ賓は難兜経由であれば去長安萬一百五十里+三百三十里=萬四百八十里になり、
ケイ賓國条の萬二千二百里とは1720里も誤差が生じますね。
こう言った不整合は都護治所からの標記にも言えますが、前述の事情で定かにはできません。
では、こんどは貴方が説明してくれる番です。
どうぞ。
670 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 21:58:21
>>664 >松本さんといえば、卑弥呼殺害説を唱えていたね!
小説家らしい発想だが、はたしてどうだろうな。
もし倭の女王卑弥呼が本当に殺されたのであれば、魏としては当然重大な関心を寄せるよな。
張政の報告を通じ、また後の台与の遣使に尋ねたりして、詳しい情報は入手できたはず。
陳寿も、もし「卑弥呼殺害」を知っていたのなら、きちんと「卑弥呼は殺された」と書くよ。
三国志全体の記述からすればね。
しかしそう書いてないわけだから、やはり卑弥呼は普通に死んだんだと思う。
まあ晩年の卑弥呼には狗奴国との争いで、女王としての心労、ひとかたならぬものがあっただろうけどね。
松本さんの説によると、長政は卑弥呼に『死なねばならぬ』ことを諭したらしいですよ!
古代ミステリーな展開!
おもろい
673 :
SOY:2007/04/14(土) 23:13:47
>>668 イランとインドが云々という話から逸れてきているように思えますが。なぜ、逸らすのでしょう?
イランのアレキサンドリアが何処を示すのかの答えもまだ頂けていません。
『先に論じろ』という発言は『論じられない』と同義語ですか?
>ところで、貴方は件の西域伝をご覧になったことはありますか?
一応、漢書西域伝に登場する全ての国をグラフ用紙にプロットしているので、
ある程度なら位置関係は理解できます。だから、説明は要点だけで十分です。
また、これらの国の位置関係が『かなり複雑』であることも理解しています。
発言の始まりであるイランのアレキサンドリア云々が不明確な論を進めるのは
不本意ではありますが、私情は捨て発言します。
言われていることは分かりました。以下の矛盾についてですね。
10150 + 330 = 10480 長安〜難兜〜ケイ賓
12200 長安〜ケイ賓國
> 難兜・ケイ賓は西域伝の地理関係では、長安から見て直列に並ぶわけではありませんが、
私が言うまでもなく、すでに答えを半分得られているようにお見受けします。
どのルートで計算したかによるのではないですか?
難兜を経由すれば道程が少なくて済むのに、それより道程が長くなってしまう
道程でもって計算してしまった。あくまでも一解釈ですが、大きな里数は必ず
しもデタラメと結論を急がなくても済むように思います。
西域の道程が東夷伝とは比較にならないくらい複雑なことは知っていますよね?
そもそも10150とか12200という端数が入っている段階で私ならデタラメな数字とはせず、
何らかの計算(足し算)によって出された結果だと疑ってみます。
>では、こんどは貴方が説明してくれる番です。
仮に順番があるとするなら、そもそもの発言の始まりであるイランのアレキサンドリアが先でしょう。
674 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 23:32:15
675 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 23:41:26
第三者ですが、SOYさん。萬二千里は漢書西域伝でも、絶遠の地をあらわす
表現であって、カシミールやアレキサンドリアは、その例として取り上げた
だけで、西域伝を勉強されるのは、それは良いことだと思いますが、この
掲示板での論争には直接関係ないのではないですか?
676 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 23:47:37
漢書西域伝を意識した陳寿の萬二千里が虚構の数だとしてもそれが
直接、九州説・畿内説のどちらが有利であるかは関係ありません。
萬二千里については、絶遠の数値の表現としたのが正解のように思い
ます。この辺で終結しましょう。
さて、以前の書き込みで、不弥国から水行20日で投馬国、その投馬国
から水行10日陸行1月を素直に読めば、少なくとも、九州北部に邪馬
台国を比定することはできません。
しかし、九州説諸氏から、それは、里数表示と日数表示の違いから、
隠れた主語があるはずとの推測が述べられ、郡からの日数であるとの
説も紹介されるに至っています。
では、郡や魏の都から個々の国々を紹介する際に、○○の都する所と
して、直接に郡等からの日数や里数を最後に表記している他の東夷伝
の国があれば、ご教示ください。
であれば、倭人条もその可能性は十分にあると思われますので。
まだまだ勉強しなければ
677 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 23:55:40
>>673 西域の道程が東夷伝とは比較にならないくらい複雑なことは知って
いますよね?
東夷伝ですら確定できないのに、西域伝を議論しあってどうする。
他でやってくれ。
678 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 00:20:16
>>630 >魏志に記述された行程に従うと、九州のはるか南の海上へ出てしまいますよね。
それは相殺の詭弁というやつ。
最初に言い出したのは、確か内藤湖南。
日数で表されているので、一日にどれくらいの速度で進んだかがわからないと
どれくらいの距離になるのかはわからない。
なのに、この日数では九州を通り過ぎてしまうと決め付け、決定的に不利な
方向とを相殺しようとした。
679 :
SOY:2007/04/15(日) 00:23:10
>>675 >第三者ですが、SOYさん。萬二千里は漢書西域伝でも、絶遠の地をあらわす
>表現であって、カシミールやアレキサンドリアは、その例として取り上げた
>だけで、西域伝を勉強されるのは、それは良いことだと思いますが、この
>掲示板での論争には直接関係ないのではないですか?
おっしゃるとおりです。私も西域のことに論議を集中するよりはダイレクトに
邪馬台国のことを論じたいと思っています。
よくよく考えれば、イランのアレクサンドリアが何処かを示さない時点でスルーすべきでした。
問題提示自体が不明確なまま論を進めても意味がありませんから…
答えろと言われて、答えてあげたのが間違いだったかも知れません。
萬二千里については私はある程度実数とする立場ですが、
とりあえず、これについては私も終結します。
どちらにしても、これ以上は水掛け論しか残っていないでしょうし、
あとは各人が萬二千里について自らが判断すれば良い話です。
郡からの日数の件については、私は郡からの日数という立場をとっていないので、
のんびりとROMさせていただきます。
今日は少し遺跡見学をしてきたので疲れました。では、寝ます。
>>673 >イランとインドが云々という話から逸れてきているように思えますが。なぜ、逸らすのでしょう?
私は前レスで「隣同士だから同じ距離表示でかまわない」理由の説明を求めているんですよ。
>長安から見てカシミールもカンダハルも12000里程度と考えるのは決して無理のある理解
>ではありません。
>寧ろ、具体的に示すことなくある地理記事をデタラメとし、
他人に「具体性」を求めるなら先ずはご自身で実践してください。
私は上の説明から何の具体性も感じられません。
>イランのアレキサンドリアが何処を示すのかの答えもまだ頂けていません。
残念ながら、私は
>>645氏ではないので
>>659で触れた以上のことは言いようが無い。
あの辺りに幾つもあるアレクサンドリアの一つ、貴方が言うカンダハールも有力でしょう。
>西域の道程が東夷伝とは比較にならないくらい複雑なことは知っていますよね?
貴方は西域伝の中で長安からケイ賓國を通らずに烏弋山離國へ向かうルートを言えますか?
多分言えない、つまり、ルートはケイ賓國経由以外に無いのですよ。
距離は確実に違います。100里未満の端数で収まるようなものでもないでしょう。
それでも隣国だから同じ距離標記でかまわないと言い続けるわけですね。
ただ、私はケイ賓國条の「萬二千二百里」が誤記である可能性は否定しませんよ。
681 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 08:36:38
<<<!!!!!邪馬台国は阿霊久産奴里亜にあった。!!!!!>>>
_人人人人人人人人人人人人人人人_
> な、なんだってー!! <
 ̄^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄
∩___∩ ∩____∩
| ノ u ヽ / u u └| ∩____∩
/ # ● ● | | ● ● # .ヽ/ u └|
| u ( _●_) ミ 彡 (_●_ ) u |● ● # ヽ
彡、 |∪| 、`\ / |∪| 彡 (_●_) u |
/ __ ヽノ /´> ) ( く ヽ ノ / u |∪| ミ
(___) / (_/ \_ ) ( く ヽ ノ ヽ
682 :
SOY:2007/04/15(日) 09:18:14
>>680 西域の論議については私は議論を終結に向かわせるよう簡潔にしかも丁寧に
発言しています。発言も3発言程度です。
畿内説の方が問題を提起し、こちらに発言を求め、論議を続けるなと言い、
その後、さらに論議を続けようとするのでは、こちらも対応が困ります。
一度、畿内説の間で論議を続けるかどうか決められてはいかがでしょう?
論議を続けるなと言われた方の貴方に対する発言についても興味があります。
>ケイ賓國を通らずに烏弋山離國へ向かうルートを言えますか?
もう少しパルティアよりのルートなどルートと言うものは幾らでもあるでしょう。
西域の使者が通ったルートを事細かに言えという質問については正直付き合いきれません。
経路が複数あり、隣国同士が長安から同じ距離で記されているくらいで
万二千里を、しかも端数付きの数字を架空の数字とすることはできません。
いったい何里から架空で何里から架空でないと誰が決めたのでしょう?
この問題を邪馬台国の問題として続けるなら、根本的にその基準は何里で
それを決めたのは誰かという論議で決着を見るように思いますが。
683 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 10:39:38
>532
>少なくとも、畿内の奈良盆地周辺には、マクムク遺跡から
>も分かるように、外敵の侵略を想定していない平和な部族
>が存在していたことは想像できる。
畿内周辺には、高地性集落が存在しているが。
マキムクに環濠がないのは後期の伊都国、奴国地域に環濠がないのと
同じことで身近に敵がいないからにすぎないのだが。
>540
>いや弥生中後期だと吉野ヶ里も含めて青谷上地寺、朝日などほぼ全国に渡って
>何らかの防御施設を備えた環濠集落は出土している。
>しかしどこもそうだが、近隣地域以外の武器片は一切出土しない。
>つまりどこも非常に狭い地域内でのドンパチや略奪は結構あったとは考えられる。
>高地性集落にしても実戦の形跡がまったく見られないし
青谷上地寺は、出土した銅鏃等から、北九州勢力によるものと想定されているが(橋口)
ウソは、いかんな。
>これらがどこの集落の前線基地であったのかすら非常に曖昧。
>銅矛や平型銅剣にしても土器様式同様に、各地ではっきりと様式が違うため
>同一勢力とは考えにくく文化共有圏以上の解釈は不可能。
平型銅剣はともかく、後期の銅矛は、奴国地域からの配布が想定されているのだが。
知らないのかね?
>このため各クニが勢力拡大を念頭に設置したものであったとは考えにくく
>自衛(防犯)目的であった蓋然性が非常に高い。
一般的に北九州勢力を念頭に設置したものとされるているが(寺沢等)。
W期の瀬戸内のものについては、一部異論(森岡等)もあるが、X期の畿内
周辺の高地性集落は明らかに戦闘を念頭に置いたものということでほとんど
異論はない。
どこの新米院生かしらんが、もうすこし勉強するように。
684 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 10:48:19
>546
>通商ルートの拡大が同時に祭祀文化共有をもたらしたというだけの話。
誰だよ、そんな珍説をとなえているのは?だいたい、X期の畿内は、
流通が閉塞して、集落が上に上がっているのだが。後期に爆発的に流通
が増える山陰と北九州(常松、村上等)とならともかく、畿内と北九州
の祭祀が共通化する理由としてはトンデモという他ないな。
685 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 11:02:39
>563
>しかしだからこそ”急激に”変化したのではないということが導き出されると思うのだがね。
>これは当方の仮説だが、畿内での銅鐸衰退(ムラの祭祀衰退)に最も影響を与えたのは
>三遠式の放棄、つまり東海の再編成であると見ている。
継続的に発展したという考古学的な証拠がない(寺沢等)ことから、
多くの学者が弥生期の畿内勢力から倭王権への発展を否定するに至った
ことをしらんのか。
後段は、意味不明。
>同時に北部九州からの直接の影響ではなく、瀬戸内、日本海、太平洋の各ルートから常にもたらされた祭祀具変遷の一環でもあるだろう。
>というのは銅鐸ばかりではなく、庄内以前も以降にも消滅や衰退した祭祀具や形態はけっこうあるから。
>鳥形木製具や巨大柱立建造物、ゴホウラの腕輪などもそうだね。
>なぜこれほどまでに、しかも庄内以降は古留どころか土師器や飛鳥になっても常に変遷を繰り返すのかは
>まだはっきりと解明されていないし、論者ごとに各説がある。
超大型鏡を最上位とする威信財体系は、それこそ布留期になっても継続しているが。
>>682 > 西域の論議については私は議論を終結に向かわせるよう簡潔にしかも丁寧に
> 発言しています。
>>680は私あての貴方のレス
>>673への返事です。
貴方が一方的に終結されるのはかまいませんが、
>>673等のレスの中で
私の書込み内容の一部や考え方(烏弋山離の位置等)を
誤解又は歪曲された認識がありましたので書きました。
> 畿内説の方が問題を提起し、こちらに発言を求め、論議を続けるなと言い、
> その後、さらに論議を続けようとするのでは、こちらも対応が困ります。
> 一度、畿内説の間で論議を続けるかどうか決められてはいかがでしょう?
「畿内説」「畿内説」と同一規格のレッテルを貼って相手を見据えていらっしゃいますが、
ここに集う論者は百人百様、全く同じ考えの人間はいません。
レスも個人々々の判断で行うわけですから、他人の意見も自分の意見もごちゃ混ぜに
されては困りますよ。
最後に
> >ケイ賓國を通らずに烏弋山離國へ向かうルートを言えますか?
> もう少しパルティアよりのルートなどルートと言うものは幾らでもあるでしょう。
パルティア経由ならもっと遠回りになりますよw
では、長々とお付き合いいただきありがとう。
687 :
SOY:2007/04/15(日) 14:41:56
>>686 >パルティア経由ならもっと遠回りになりますよw
私のパルティアよりのルートという発言をパルティア経由と勝手に曲解されないで頂きたい。
>貴方は西域伝の中で長安からケイ賓國を通らずに烏弋山離國へ向かうルートを言えますか?
>多分言えない、つまり、ルートはケイ賓國経由以外に無いのですよ。
どうして無いと言えるのかが不思議です。難兜からの直接ルートなどでも簡単に思いつくでしょうに…
西域伝の記述から国々の位置関係を線を引っ張り、それが現実世界における全ての道程と
思い込んでいるように思われます。そういうのを机上の空論と言います。
倭人伝の話を例にとれば、仮に一大國−末廬國−伊都國−奴國の記述しかなかったとしても、
一大國から伊都國や奴國に直接行けるか否かは別問題です。
これらは現実の地理と照らし合わせ、詳細に分析し決める問題です。
もし、そのことを分かっていれば、そう簡単に『ルートはケイ賓國経由以外に無いのですよ』
なんてことは言えません。
> では、長々とお付き合いいただきありがとう。
とりあえず、以下の件については畿内説側からは回答できないという形で決着ですね。
・そもそもの問題提起に登場するイランのアレキサンドリアとはどこ?
・いったい何里から架空で何里から架空でないと言っているのか?
私としてはそれで十分です。回答不可も立派な回答です。ようやく西域から解放されます。
最後に私の意見を簡単にまとめると以下のとおりとなります。
長安からの距離が6000里代、7000里代、8000里代、9000里代、10000里代、11000里代、
12000里代の国々があり、このうち12000里付近だけを架空の数字の根拠とすること自体、
まやかしではないですか?
私の主張などこの程度のものです。しかし、これだけ言えば、あとは各自が判断できるでしょう。
688 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 15:13:06
>>687 >とりあえず、以下の件については畿内説側からは回答できないという形で決着ですね。
「畿内説側」というひとくくりにして、畿内説に勝ったつもりなのかなー?
>・そもそもの問題提起に登場するイランのアレキサンドリアとはどこ?
>・いったい何里から架空で何里から架空でないと言っているのか?
俺は畿内説だが、上記の件にまったく興味ない。
邪馬台国とも関係ないし。
不毛な議論、ご苦労。
689 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 15:46:08
SOYさんは論調こそ丁寧だけれど
古代史関連の基本的知識に欠けるきらいがありますね。
なので中立というよりは分からないから放棄するといった感じになりがちなわけで。
西域伝などの論争は、別にここで質問せずとも
三好の基本論文集あたりにすべて収録されているから
まずそういった過去の論争史に目を通してみてはどうでしょうか。
特に文献史学を舞台にした頃の論文には
里程解釈や他文献との比較検討がこれでもかとばかりにすでに考察されているので、きっと役に立つと思いますよ。
690 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 16:25:48
和国の首都たる女王国は、その文化・風土的特徴から見ると、明らかに九州より
何だよね。でも同時代における統一権力(の萌芽)の痕跡は、畿内に多い。
畿内説と九州説の対立点って、突き詰めて言えばそれだけだろ。もちろん、三角縁神獣鏡は
別に邪馬台国とはなんの関係もなかろうし。
691 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/15(日) 17:08:17
>>663 「この萬二千里は絶遠の距離であることの例え」
はないでしょう。「北岸狗邪韓國七千餘里」とは
残り五千里余、という明確な距離の有限を示している。
692 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/15(日) 18:20:11
>>689横レスですが、
古代のインドでは王の軍隊が一日に行軍する距離を1ユージョナといって距離の単位を設けていた。
また古代ローマでは1リーグは3マイルと定義された。これはペルシャ発祥の単位で、ギリシャを経由してローマに伝わったが、
元々は、人や馬が1時間に歩くことができる距離として定義されていた。
西域では軍隊やキャラバンが遠方を行き来する事が多く、距離の計算は正確で無ければならない。
シナスタン西部も古代から月氏、ペルシャ、などの影響で長距離はこれらに倣っており、
その文化は東西交流の東の出発の起点となる中国に当然伝えられていたと思う。
これらの事からも倭人伝にいう、たかだか1万2千里が絶遠の距離とは考えにくく、
日数と里での表現の違いがで距離の食い違いに思えるのはルート、又出発点到着点という条件を同じにして測らねば
片手落ちであろう。
693 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 18:49:26
◆魏志倭人伝
帯方郡から邪馬台国まで萬二千余里
◆魏志鮮卑伝
現在のモンゴルを上回る広大な領土であった、鮮卑も東西が萬二千余里
★帯方郡から邪馬台国の距離≠鮮卑国の東西の距離
だと、だれでも理解できる。
よって、萬二千余里を深く追求する意味がわからない。
694 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/15(日) 19:11:38
>>693 帯方郡から邪馬台国まで萬二千余里 の内訳として「狗邪韓國七千餘里」がある。
あと、五百里、百里、など諸国と連続しているのであって魏使が幾度と無く訪れている土地であり、
親魏倭王たる卑弥呼のクニに対し適当な記述をしたとは思えない。
695 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 19:17:09
>>694 ふみ国以降は技師も正確な距離など知らなかったのは明白なのだから、
それにこだわるのはあまり意味がない。
696 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/15(日) 20:13:21
>>695 北方騎馬民族は匈奴もそうだが大体この辺りが勢力範囲といえる、というくらいで、
はっきりした国域はもっていなかったと思う。
家畜などの餌になる牧草を求めて移動しながら武力で略奪とかしていたんだろう。
その移動範囲も気候変動による牧草などの出来不出来で変わったりする。
東西が万二千里というのは大体このくらいという事だったんだろう。
「ふみ国以降は技師も正確な距離など知らなかったのは明白」については
幾度も訪れる魏使は少なくとも女王国までかかる日数を正確に知らなかったとは思えない。
ただなぜかはっきりとでは無く、女王国に近づくにつれ言葉を濁した表現になっているとは思うが。
697 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 20:17:31
>>696 >ただなぜかはっきりとでは無く、女王国に近づくにつれ言葉を濁した表現になっているとは思うが。
嘘を言うな。
魏志倭人伝には、邪馬台国(女王国)に至るまでの国を丁寧に挙げているではないか。
当時は、国を順番に巡っていけば女王国にたどりつけたのだ。
方位や距離は、さほど問題ではない。
698 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/15(日) 20:57:15
>>697「嘘を言うな。 魏志倭人伝には、邪馬台国(女王国)に至るまでの国を丁寧に挙げているではないか」
「嘘」とはこれまた尋常ならざる事を。「女王国に近づくにつれ言葉を濁した表現」とはどういう事かと言うと
投馬国、女王国の記述は伊都国などと違っている事を言っているのだ。
畿内説なら「邪馬台国(女王国)に至るまでの国を丁寧に挙げている」とはもっと言えず、
水行十日陸行一月は大雑把な表現でしかない。
九州説でいえば 水行十日陸行一月は帯方郡から女王国までの道のりであり、
投馬からは水行二十日という倭人の表現を使っていることから
軍事的に言って文章となって残ることを恐れての配慮ではないかと思う。
699 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 21:09:13
>>698 >軍事的に言って文章となって残ることを恐れての配慮ではないかと思う。
誰が恐れてるのかね?
>>670 おそらくそうでしょうね。
精進料理みたいのしか食えなくてかえって良かった可能性もあるけど、みだりに出歩けなくて運動不足だったろうし。
701 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/15(日) 21:35:07
>>699 いろいろある。
例えば魏は邪馬台国と同盟を結んで呉を挟み撃ちにしようと目論んでいたとも考えられる。
南のクナ国は呉と繋がっていたのではないかという説もあり、公孫氏が滅んだ後、魏と邪馬台国が
近づいたのもそう考えると頷ける。
吉野ヶ里遺跡が海からの敵に備えての防御体制を敷いているような造りになっているのは
呉人による倭人奴隷狩りが行われていたともいうが、実際戦国時代くらいまで日本人は外国に奴隷として売られていたし、
沖縄では明治頃まで外国に売られる奴隷を乗せる船が着く専用の港があったといわれていることからもこの事は信憑性がある。
702 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 21:39:44
>>701 >例えば魏は邪馬台国と同盟を結んで呉を挟み撃ちにしようと目論んでいたとも考えられる。
はぁ?
倭国は海も渡れないし、軍事力もたかがしれてるってのに?
魏が、邪馬台国の軍事力をあてにしてたんですか?
ばかなことを言うぼうやだ。
703 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/15(日) 21:49:26
>>702「倭国は海も渡れないし、軍事力もたかがしれてる」
説明するのも億劫だが、一応言うと、倭人伝に「倭人が帯方郡にやって来たりするとき」
とあるのを知らないとみえる。なにが「倭国は海も渡れないし」だ。
黄巾の乱頃にも倭人は中国に渡って活躍していたのも知らないらしい。
古代中国の石碑にも倭人に関するの碑文があるのだ。
「ばかなことを言うぼうやだ」など言う前にもう寝たほうがいいんじゃない?
馬鹿な考え休むに似たりで。
704 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 21:58:59
>從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。
>始度一海、千餘里至對馬國。
引越しのとき已む無く本を処分したので、古田武彦さんの
『「邪馬台国」はなかった』は今は手元にないんだが、
この部分、古田さんは大体こんなふうに解釈してたと思う。
「郡使は帯方郡から船に乗って南下、しかしすぐ下船して上陸。
半島南部をジグザグに南東方向に陸行し、狗邪韓国に到着。
そこから船に乗って海を渡り、対馬に至る」と。
おれも初めて古田説に触れたその時は、
「ほほー、なるほど。そうかそうか、陸行一月は、韓半島内の
行程だったのか」と思わされてしまったんだが、やっぱかしい。
狗邪韓国で、郡使は船をどうやって調達したんだ?
狗邪韓国所有の官船を借りた? 民間船をチャーター?
そんなの危ないだろ。他国の船乗りを信用できるか?
倭へ行くにはどうしたって船が必要なんだから
帯方郡出発のときの最初の船を途中で下りて、なんでまた
しんどい半島内の陸行なんかやるんだ?
郡使は帯方郡から倭まで、自分とこの船をずっと使ったはずだよ。
陸行一月は倭国内での行程としか考えられないね、今のおれには。
705 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/15(日) 22:01:30
これはどうも
>>702は物言いからしてミドリムシボーヤのようだ。
相手するのも無駄ですな。
しかし三重県のかた、地震のお見舞いを申し上げます。
706 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 22:08:20
>>703 確かに帯方郡に行った形跡はあるし、事実として行ったであろう。
でも、郡からも使者が来ているし、交易で大陸からの舟が入ってもしている
ので、その舟の帰路に便乗して渡ったことがあったかもしれない。
707 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/15(日) 22:08:49
>>704 邪馬台国スレも大分になるがその様な訳は始めて聞いた。
普通聞くのは
和訳:「帯方郡から倭に行くには、海岸に沿って水行しながら韓国を通り、南に行ったり
東に行ったりするうちに、倭から見て北岸にある狗邪韓国に着く。ここまでで七千里余り」
のようにずっと水行して南下してくる、という訳が殆どだが・・。
708 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 22:10:30
>>704訂正。まんなかあたり。スマソ
やっぱかしい
↓ ↓ ↓
やっぱおかしい
709 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 22:11:38
>>703 本当に、ばかだな。
文脈から言えば「倭国の軍隊」だろ。
「倭国の軍隊」が海を渡れずして、どうやって呉をはさみうちするのだ?
ばかめ。
710 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/15(日) 22:15:54
>>706 それは無いと思う。倭人の風習として持衰(じさい)がある。
「:彼らは、中国にやってきたりする時は常に一人の人に髪の手入れをせず、
しらみをとらず、服は垢であかで汚れたままし、肉を食べず、婦人を近づけず、
まるで、喪に服しているかのようにさせる。これを名づけて、持衰(じさい)という。
もし、旅がうまくいけば、人々は持衰に生口、財物を与え、
もし途中で病気や、暴風にあえば、持衰を殺そうとする。
なにもかも、持衰が身を慎まなかったせいだからだというのである」
とあり、中国船に便乗したのなら倭人の風習などはしないだろう。
711 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 22:16:39
>>707 >邪馬台国スレも大分になるがその様な訳は始めて聞いた。
えっ、古田さんの半島陸行説、知らなかったの?
チョー有名だと思うよ。
是非は別だけどね。
712 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/15(日) 22:27:20
>>709 おろかというか・・・。
ちょっと考えたらわかることが皆まで言わんとわからんとは。
呉がクナ国と繋がっていたとすれば呉がクナ国と邪馬台国との仲裁をすると見せかけて
倭国を乗っ取りにかかれば今度は魏が呉に挟まれる事になるだろう。
それを警戒して邪馬台国に肩入れしたとも考えられるのだ。
713 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 22:28:40
714 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/15(日) 22:32:47
>>711そういう説があるのは知っていたが、誰の説かまでは知らない。
第一陸行という文字が出てこないから、海岸沿いに水行したというのが普通の解釈だろう。
715 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 22:38:00
>>712 たいした軍事力を持っていたんだね、当時の倭国はw
>>714 不思議なくらい何も知らないんだな。
君は邪馬台国絡みの情報をどこから仕入れているんだい?
716 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 22:38:30
古田のバカは、九州ですがにもバカにされたか。
717 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 22:39:56
九州ですがは、毎日ちょっとずつネット検索して、
気にいった箇所を、ここにコピペしてくるんだよ。
718 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 22:48:39
>>716 いや俺は別に古田信者でもないし、九州王朝説なんてアホですかと思うくちだけど
「邪馬台国はなかった」を読んだ事がないとかいうやつが、専門板に書き込むとは思っても見なかった。
この分じゃ「卑弥呼考」(安本)や「古代史疑」(清張)すら読んでないんじゃないか?
>>717 そこまでの馬鹿だったら凄いね。
流石にそんな下衆はいないだろうけどw
719 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 23:03:59
>>718 俺は古田も安本も清張も読んでないが?
別に困らないし。
困るといっても、バカと話が合わないくらいかな。
なんか終ったみたいですが、今北産業なので・・・・
西域都護があった場所・・・・多分、クチャ
漢書西域伝の並びは、ゼンゼン(楼蘭)から西域南道の国を列挙した後、
ホータンからピシャン(皮山)に至り、ここから西南でケイヒン・烏戈山離に至り、北西でカシュガル(莎車)と書いてある。
カシュガルへ行けば、パミールの北側を通りフェルガナからサマルカンドへ。
西南ならパミールとカラコルムの間の谷を通り西へ出ることになる。
直接南へ向かいカラコルムを越えてカシミールへ至る道がないわけではないようだけれども、
漢書西域伝では、一旦、パミールの南を通って西へ進み、難兜國に至る。(その間の国が列挙してある。)
ここはすでにアフガニスタン。
ここまでは確か。以下推測が混じる。
ケイ賓國をカシミールとしたとき、ここからどういう経路かというと、間にけわしい山々があることを考えれば、
一旦カブール付近に出てからカイバル峠を越えるのが多分一番楽。
(西からインドに入るには、カイバル峠を越えるしか道がないことを思い出そう。)
烏戈山離がアレクサンドリアかどうかは知らないけれど、だいたいアフガニスタン南部からイラク東部といわれていて
おそらくはクーイ・ハージャの近く。とすると、ケイ賓國へ行く道とはカブールあたりでわかれて
イラク南道を進むことになる。
こういう経路を想定すると、両者の道のりがだいたい同じになるのはさして不思議ではない。
若干直線距離の違いはあっても山越えをすると道のりは簡単に伸びるだろうから。
だいたい、萬一百五十里とか、九千九百五十里とか、結構細かく刻んでるのに、
万二千里だけが絶遠だっていうのが昔から気に入らない。
第一、ケイ賓國・烏戈山離は万二千里じゃなくて萬二千二百里。二百里のおまけがついてる。
百里単位まで刻んではるか遠くってないんじゃないの?
ただ、一つ疑問に思うのはケイ賓國が本当にカシミールなの?って事。
カシミール地方っていうのは山岳部だけど、漢書西域伝のケイ賓國は土地が平らで温和だと書いてある。
どう考えてもカシミールじゃねぇぞ。
ちくま文庫の注にはサマルカンドも候補として書いてある。
カシミールとじゃ場所が全然違うから考える前提がまるっきり変わってしまう。
烏戈山離の場所もわかんないし。これじゃどうしようもないわな。
それに、烏戈山離のさらに先にあるはずの安息国が長安から萬一千六百里で、
上の二国よりも近い。
やっぱり考えるだけ無駄じゃね?
722 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 23:38:22
なんでもそうだが、邪馬台国問題も、基本的には一つ一つの事象の真偽・正誤を
分析し、その積み重ねで所在地を推論するのが正しいと思う。
なんだか、最初に邪馬台国の所在地を決めてしまい、それに合致するものが
正しくて、そうでないものは間違っているとする考えが多すぎるように思う。
723 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 23:52:40
>>720 間違えてる
×西でカシュガル(莎車)と書いてある。
○西でヤルカンド(莎車)と書いてある。
ヤルカンドからさらに北西に進むとカシュガル。
そこから西に山越えをしてフェルガナ盆地へ。
725 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 00:34:29
>>716 頭の中にギッシリ詰まった薄汚らしい言葉をダラダラと締まり無く垂れ流すな、大馬鹿者。
九州ですが...さんは、狗奴国を「クナ」国と発音しているけど、
それは本当に正しいのか?
「コナ」国のほうが正しくはないのか?
何故なら、魏志には、「彦」をあらわすであろう「卑狗」という単語が登場し
「ヒコ」という発音の可能性が高い。
だったら「狗」は「コ」だろう?
いやいや、「ク」も「コ」も「狗」だし、「ナ」も「ヌ」も「奴」なの。
「アメリカン」と「メリケン」の「ケ」と「カ」、「チケット」と「テケツ」
みたいなもので、所詮異なる言語間の発音は、1対1対応では表記できない。
極端なこと言うと、魏志倭人伝の表記から分かるのは子音のみ。
いや、それすらやはり1対1対応はしていない。
だから狗奴は、コナかも知れないし、クナかもしれないし、ケヌかもしれないし
ケナかもしれないし、クヌかもしれないし、‥‥
>>520 普通に同意。その通りだよね。
しかし、下に畿内説者のまるで幼稚園児のような内容のレス
3連投が笑えるw 凄く必死だったんだろうな、と思うW
、
日本書紀の編纂者が、年代をいじくったから
後世の学者らが苦しむはめになった。
おかげで、現代では日本書紀が歴史書としての信憑性が
大きく欠落する事態になってしまった。
じゃ、なぜ、日本書紀の編纂者は年代を弄くったかというと
魏志の女王卑弥呼の記載が気になったから。
そして、日本書紀編纂当時は、上古代の日本の暦(半年で一年)が
すでに忘れ去られていたから。
そして、日本書紀という史書の特性が、対中国外交上、重要で
中国に自国(日本)の歴史を説明しなきゃいかんので、
女王卑弥呼の箇所で、整合性が取れないとマズイということになった。
一方、古事記はあくまでも日本国内向けの歴史書であり
年代に関しても、干支没年という曖昧なものしか記載されていないから
わざわざ年代を修正する必要がないわけだ。
よって、上古代の日本の年代を研究するうえで、古事記の干支没年が
重要になってくるのは、そのためである。
731 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 06:44:51
古田説の解説をお願いします。
「水行十日、陸行一月」の意味は、不弥国から邪馬台国までの旅程ではなく、
帯方郡から邪馬台国のまでの道のりを要約したものと他サイトで古田説と
して紹介されていますが、では、『南至投馬國水行二十日』の20日は
どのよな解釈としているのでしょうか。
732 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 07:13:29
>>694 水行10日陸行1月を帯方郡から邪馬台国までの距離と推定する場合は、
(北部)九州説としなければなりません。
その場合、北部九州に邪馬台国がありながら、諸国を監察すべき一大率を
その北部九州の狭い範囲のなかにある国々に置きながら、邪馬台国の傍ら
の国々は絶遠で詳細はわからないとしています。
女王国の南の国々に一大率を置くのであれば理解できますが。普通に考えて
もしっくりいかないところです。
>>707 >倭から見て北岸にある狗邪韓国に着く。
狗邪韓国って倭じゃないの?
一大率は九州探題みたいなもんか?
735 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 16:49:14
古田流じゃなしにさ、水行十日陸行一月は九州内での行程って考えてる九州説論者はいないの?
たしか惠也サンはそうだったよね、ちかごろ顔を出してこないけど。
宮崎説の惠也サンみたいにさ、邪馬台国を南部九州に比定するんなら
水行十日陸行一月はギリギリ九州内に収められない? ムリ?
736 :
日本@名無史さん :2007/04/16(月) 16:55:17
>>729 その幼稚園児みたいな論述にも批判しかできない
あんたは一体なんなのさ?
畿内厨はホントニ批判しかしねーな
737 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 17:15:51
>>736 現実の世界では九州説を批判する畿内説論者など見たことないぞ。
まったく問題にしていないだけ。
だからかまって欲しいのなら、それなりのましな九州説を書け。
738 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 17:29:34
>>735 倭人伝の里程・日程の記述から言えば、宮崎が一番妥当なのは明らかじゃない
かと思う。
末盧国から陸行五百里で伊都国。奴国を経て、不弥国から水行二十日で投馬国。
ここで、有明海から八代海に移る。
水行十日で芦北。芦北は薩摩藩も港にしていたらしい。
ここから鹿児島経由の船旅でも行けるが、外海で波が荒く、台風なんかが
来たらひとたまりも無い。だから、陸行。
人吉・えびの・小林を経て一月で宮崎。
しかし、宮崎が邪馬台国とすれば、記紀の記述に合わない。つまり、日向に
女王らしき人物はいない。さらに、卑弥呼の時代に宮崎が栄えていたかどうかも
ちょっとわからない。
宮崎か熊本か筑後か。その3つで迷っているのだが、なかなか難しい。
739 :
日本@名無史さん :2007/04/16(月) 17:45:01
>>737 畿内厨で1人、批判のみの書き込みやってるのがいるが
あんたか!
かまって貰いたくないから、このスレに批判ばかり
書き込みするの止めてくれ。
740 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/16(月) 17:49:43
>>731 読んで字の如く。投馬国は「南へ水行二十日程で投馬国に着く」事をただ記しているにすぎず
女王国の道沿いにあるクニではない。これは倭人の、舟による投馬国へのルートを記しているものと思われる。
その後の「邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月」は邪馬壹國女王の都とする所と読み、ここでいったん切れて
水行十日陸行一月という倭人の帯方郡までの道程を改めて繰り返している。
741 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 18:06:06
>>738 アホですか?
邪馬台国は宇佐にきまってるでしょう。
道無き山越えに一ヶ月かかっても不思議じゃない。
742 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 18:08:33
>>740 >水行十日陸行一月という倭人の帯方郡までの道程を改めて繰り返している。
アホですか?
中国人向けの倭国旅行パンフレットに、
どうして倭国から帯方郡までの道程を書くんだよ。
743 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 18:10:11
だいたい朝鮮半島なんて、山ばっかりで歩けるものじゃない。
海岸沿いを船で行ったほうが効率がいいのは常識。
荷物だってあるわけだし。
ようするに古田はバカなんだよ。
744 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/16(月) 18:10:39
>>732 「女王国の南の国々に一大率を置くのであれば理解できますが」
女王国の南にクナ国しか記されていないのはクナ一国しか無かったからだろう。
「、諸国を監察すべき一大率を
その北部九州の狭い範囲のなかにある国々に置きながら、邪馬台国の傍ら
の国々は絶遠で詳細はわからないとしています」については矛盾は無いと思いますが?
>>743 その通りだが、日本列島も基本的に同様じゃない。
第一、海峡を渡るために船が必須で、不可欠になった時に初めて船を仕立てるとは考えにくいから、
最初に仕立てた船でそのまま行くのが自然。
746 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 18:21:06
>>745 アホですか?
外洋船で日本沿岸を航海したら、あっというまに座礁ですよ?
日本沿岸は、日本沿岸に詳しい倭人の丸木舟で行ったほうが安全。
747 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 18:35:18
>>746 現代の大型船でもあるまいし、あっというまに座礁するような低レベルの素人が
半島と行き来できるわけがなかろう。思いつきだけで出鱈目を書くな。
748 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 18:37:28
>>747 アホですか?
そもそも、大型の帆掛け船では、接岸できません。
浜辺に着岸できるのは、小型の丸木舟だけ。
常識を考えましょう。
749 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 18:43:52
そろそろアホの九州ですがの反論が聞きたいな〜
750 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 18:54:02
第三者としてこの掲示板の意見等を見てきましたが、その結論として
は、邪馬台国の所在地は「不明」ということです。
だから、安易に東遷説がでてくるのも、その意味では理解できます。
水行十日陸行一月の「陸行一月」は、やはり九州説の難関だね
これを解決するには思い切って
(1)鹿児島や宮崎あたりの南九州に邪馬台国を持ってくる
か、あるいは反古田派にはシャクだろうけど
(2)古田の半島内陸行説を受け入れ、陸行一月は帯方郡〜狗邪韓国とする
しかないだろうな
しかし(2)だと邪馬台国は北部九州でも、古田の言う通り、博多みたいな玄界灘に面した
土地になってしまうから、筑後山門とか吉野ヶ里とか朝倉とかは無理
熊本や宇佐も中途半端で考えにくいね
752 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 19:16:42
>>748 こういった輩は始末に負えないね。
> そもそも、大型の帆掛け船では、接岸できません。
単に「必要ならばハシケを併用する」というだけのことで、そんなのは常識だよ?
> 外洋船で日本沿岸を航海したら、あっというまに座礁ですよ?
と、書いたのは誤りだったと気がついたなら、素直に訂正すればよいものを、
異常にプライドが高い性で素直に訂正できず、慌てて「日本沿岸を航海」する話から、
「直接的に接岸できるかどうか」に話をすり替えて誤魔化そうとしている。
さて、どう誤魔化そうと企むか見物ですな。
753 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 19:43:20
>>752 はしけ?
アホですか?
固定式のはしけが架けられた津の遺跡がどれくらいあるっての?
754 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 19:52:39
>>753 異常にプライドが高いせいで、一度書いた誤りを素直に訂正できず、その挙げ句に
今度は「固定式のハシケ」か?
> 浜辺に着岸できるのは、小型の丸木舟だけ。
なら、それをハシケとして使えば足りるだろ? 何故に固定式のハシケに
限定しなければいけないのか?
さて、「外洋船で日本沿岸を航海したら、あっというまに座礁」君の壊れた論理では
理由はどうなるかな?
755 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 20:03:02
>>754 アホですか?
大型の外洋船が倭国に持ってくるものは「鉄」ですよ?
そんな重いものを、浮揚式のはしけでなんて、危なくて運べません。
固定式のハシケが必要です。
糸都国の東南にある奴国と、女王国の最終ラインの奴国を同一とみなすと、
急に面白くなったww
757 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 21:35:25
邪馬台国は魏の時代、会稽、東冶の真東にあるくらいに思われていた。
『計其道里當在會稽東冶之東』
帯方郡の郡使が常駐する北部九州に比定するには、少し距離感が足り
ないのではないか。
九州説は宮崎日向あたりに比定してはじめて辻褄があうのではないだろうか。
758 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/16(月) 21:54:27
>>757 『計其道里當在會稽東冶之東』 の主語は「倭」ではないか。
少し後に「倭地温暖」倭の地は温暖で・・とあるように
倭国のことだと考えると當在會稽東冶之東の文と符合する。
759 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 21:57:25
>>755さん
>そんな重いものを、浮揚式のはしけでなんて、危なくて運べません。
>固定式のハシケが必要です。
「浮揚式のはしけ」とか「固定式のハシケ」とか書いてらっしゃいますが、意味がわかりません。
いろいろ検索しましたが、ヒットしません。
ハシケは、岸辺や桟橋と沖合に停泊した船との間を自由に動けないことには、物資の運搬が出来ないと思うのですが
いったい「固定式のハシケ」ってなんですか? 教えてください。お願いします。 m(_ _)m
760 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 21:58:36
761 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 22:10:17
762 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 22:13:02
>>755 ほう、そういう大変なものも丸木船なら運べたと?
何かねえ、病人を相手にしているような・・・
ん? ズバリか?
763 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 22:20:41
>>759 妙に自信を持って断定しているから、つられて、船を利用した船橋状の桟橋を「ハシケ」と
呼ぶ例でもあるのだろうと思いこんでしまったけど、そんな例があるわけではないですね。
サンバシのことをハシケと間違えて憶え込んでいる、ということかな。
764 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 22:21:33
765 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 22:23:46
>>753 サンバシのことをハシケと憶え間違えているね。
何人もしくは何の病気だろう?
さて、サンバシのことをハシケと憶え違えていたと素直に訂正できるかな?
出来るなら正常な人間だが。
766 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 22:35:13
だんだん邪魔臭くなってきた。
畿内説は置いといて、まず、九州説は、宮崎日向説に比定できませんか。
宮崎日向に比定すると、何がネックになるのですか?
条文を読んでいくと一番素直に行き着くんだが〜
767 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 22:36:51
このハシケ男が誰の変身名無しなのかは
みんなもう分かっているよねw
769 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 22:50:49
>>765 >さて、サンバシのことをハシケと憶え違えていたと素直に訂正できるかな?
アホですか?
それくらい、素直に訂正できるわい。
言葉のアヤと、物事の本質は違う。
大型船は、直接浜辺には近づけないのは同じことだ。
サンバシのある津の遺跡がどれくらいあるというのだ?
770 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 22:54:37
>>766 邪馬台国九州説で、東遷説となると、天照大神=卑弥呼となるわけ。
天照大神のいたのは高天原で、卑弥呼のいたのは邪馬台国。
だから、高天原=邪馬台国。
ところが、日向は天照大神の孫である邇邇芸命が高天原から天降ったところ。
つまり、日向は高天原ではない。すなわち日向は邪馬台国ではない。
個人的にはそれがネックになっている。
>>766 地名と位置関係をみると日向は悪くないのかもしれないが
実際現地に行ってみると、陸の孤島でとても周りと交流があるように
見えないんだな。
むしろ、ほかの国が戦争しあっているときでも、日向だけは独立して
平和な日々を送っていたりなんかして
鉄道と高速道路がなければ今でも陸の孤島だ(泣
772 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 23:15:11
>>770 邪馬台国日向説は何もおかしくない。
西都原などもあるし。
いまどき東遷説など考慮する方がおかしい。
むしろ高天原は畿内と考える方が辻褄があう。
773 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 23:25:30
>>772 高天原は、福岡とか佐賀とか熊本にあったと考えるのが一番つじつまは合う。
出雲の国譲りもそうだし、邇邇芸命の日向降臨もそうだし、饒速日命も
天磐船に乗って高天原から大和に降りてきた。
北部九州が、出発点、つまり高天原と考えるのが一番記紀に合致する。
そうなると、次に神武東征がある。東遷説は妥当だと思う。
畿内から、日向の高千穂に地方官として派遣されたのがニニギ。
その何代か後に、再び畿内の本家に婿養子として呼び戻されたのが
ニニギの子孫の神武。これを神武東征と後世に呼ばれる。
神武東征は紀元1世紀ぐらいの出来事。
その神武の数代後の子孫が卑弥呼(百襲媛命)
西臼杵郡の高千穂町ね。
あそこはアマテラス関連の神話や神社も多いし、豊前は地主神で宗像神の比売大神が
宇佐島で生まれたとするアマテラスの娘だと日本書紀や社伝に書いている。
だからアマテラス=卑弥呼 比売大神=トヨと結びつける香具師には丁度いいんだな。
東に大海千里、昔の里で千里だと丁度四国辺りになるからバッチシ。
しかしね、アマテラスは卑弥呼ではない。これは間違いないよ。アマテラス伝説と
邪馬台国論争はごっちゃになりやすいね。
まあ結び付けたい気持ちもわかるが。
邪馬台国も卑弥呼も台与も、中国が「倭国」と呼んでいた部分の、
中国の書物にだけ出てくる貢好きの女王国。中国と交流が盛んだった地域の
一国とその連合国に過ぎないと思うね。
天皇の皇祖神と結びつけるものは何もないよ。「倭王」の金印もらったといっても
畿内で天皇が天皇と名乗る前だとしたら何でもないことだし。
>>772 自分は高天原=存在しない説。 だってさ、本州は淡路島や九州島の後でつくられた
ことになってんだよ。なんで高天原が本州にあるわけ?
とりあえず神話どおりに読めば高天原は日本国じゃないW
比較神話学で考えたら、高天原というのは
特定の場所というよりも
普遍的な場所を行っているんだろう?
語源から推測して、水源のある山頂を示している。
葦原中国に降りて支配だから、
高天原(水源のある高山)から葦原中国(葦が生い茂る湿地帯・中津の国)
だからな。
よって、日本全国には、高天原という地名が多く存在する。
自分は、高天原は、畿内の金剛山(旧・高天山)の高天台のことだと思うけど
(ここには高天彦神社がある)
それ以外の考えだと、特定の場所を示してないのかな?と思う。
それとニニギの兄(ニギハヤ家)も、高天原から大和へ降臨したというが
ニニギの兄は、ニニギよりは本家的だったが
あくまでも、真の本家は大国主だから。
777 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 23:41:37
>554
>ということはあなたは、銅矛、銅剣も鏡が駆逐したと考えているのかな。
>銅鏡祭祀を持つ集団に北部九州から瀬戸内・日本海側の各クニやムラが駆逐されたと・・・。
>いや実際そうは考えてないわけだろうから、どうして銅鐸だけそんな勇壮なストーリーを当てはめようとするのかい?
銅矛は、庄内も続く。破砕例もいまのとこ一件だけ。
庄内に廃絶され、その多くが破砕される銅鐸とは終わり方も時期も違う(柳田等)。
さらに文献にも残る。東日本においても前方後円墳の広がりと銅鐸の廃絶が連動
するため、政治的背景が推測される(寺沢)。
>ちなみに畿内でも銅鐸祭祀などは一斉に終了してないよ。
>大和だけでもマキムク、芝、鍵などは庄内期に入っても銅鐸が出土する。
>第5様式の大きいのは近江や紀州などで終焉を迎えるとは考えられているがね。
>銅矛も平型銅剣も銅鐸も、言うなれば弥生中期から後期前半にかけて拡散したムラの祭祀具であって
>集落再編成が進むにつれてクニとしての祭祀具が台頭してきただけの話だよ。
いや、庄内に並行するものはない。
それに銅矛が祭器ってのは、後期の話。最初は威信財。
>そもそも九州の鏡信仰勢力とやらは、どうして鏡しか伝えられなかったのだろうね。
>最も重要である墳墓形態が北部九州とは似ても似つかぬものになり
割竹木棺、朱の大量使用、鉄器の大量埋葬等すべて九州の要素だが。
>更には宮山式などに祭祀儀礼すら奪われてしまうことからして
>侵攻はしたものの数十年で没落し、故郷である北部九州も逆侵略を受けたとでも考えているのだろうか。
>そんな劇的な話だったら面白いのにね。
都月も含め、特殊器台が使用された期間はごくわずか。
そもそも単なる供献土器にすぎない。
日本書紀の編纂者は、古事記で言う高天原に関しては
天上というふうに切って捨てたんだろう?
ということは、実在しない地形でしょう?
高千穂のほうは日本書紀のほうでも記載されているから。
群馬とかで高天原があるんだよね。
よって、高天原は普遍的な地域のような気がうする。
古来から、水源を押さえた者が権力を掌握していった。
水源のある高天原を押さえたものが、川下の葦原中国を支配できた。
そういうことでしょう?
779 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 23:47:11
>>769 > 言葉のアヤと、物事の本質は違う。
記憶が不正確なくせに、誤謬を素直に改めることが出来ず開き直る。「言葉のアヤ」だとさ。
> アホですか?
お前にそんなことをいえる資格があるか、図々しい。
知能テストを受けろ。
>>776 ふ〜ん
自分は葦原中国(葦が生い茂る湿地帯・中津の国) =豊前中津 と思うんだな。
中津の鷹居社だったか、宇佐神宮の神官を代々務めているし、とにかく
あの辺り怪しすぎWW
関係ないが、福沢諭吉も豊前の中津出身だ。一万円札みるたび思い出すよw
781 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 23:59:49
>>769 > 大型船は、直接浜辺には近づけないのは同じことだ。
そこでいう「大型船」の具体的な大きさ次第で、推進がどれだけのところまで
来ることが出来るか変わるし、岸に直接着けることは出来なくても、人が海中に
立って荷物の積み卸しをすることもできるのだから、喫水がどの程度の「大型船」
だったのかが問題になる。
どれだけだったというのか?
高天原とか高天ってさ、お墓とかに多いでしょ。
死んだら天国に行くっていう考えからつけられてるんじゃないのかな。
昔は年寄りを山に捨ててたんだよね。
だから山を高天などと呼んだのかも。おお怖
高天原が実際存在したのなら、一応ヒントくらい残すだろ。
日本列島ができる前に神がいたところ、っていってるんだから
日本じゃねーよ。北海道とか沖縄ならまだわかるけど(朝鮮だけは勘弁な)
北の将軍さまの祖先も金剛山に舞い降りたそうでつね。親戚かな?w
786 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 00:14:10
記紀の神代の部分には、出雲と日向が出てくる。ところがその間にあって
重要な地域だったはずの中北部九州が出てこない。
その代わりに高天原が出てくる。
中北部九州を高天原と考えるのは自然だと思う。
787 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 00:21:09
>>755 > 大型の外洋船が倭国に持ってくるものは「鉄」ですよ?
> そんな重いものを
ほー? 鉄にしても銅にしても、運搬しやすい程度の「延べ棒」にして小分けして
運ぶとかいった程度の簡単な工夫さえもありえなかったのかね?
788 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 01:01:07
>>787 >小分けして運ぶとかいった程度の簡単な工夫
そうだよ。なにも戦車や大砲を運ぶわけじゃないもん。
輸入したのは金属材料。このあと倭の地で鋳銅やら鍛鉄やら工作するんだから、細切れでいいよ。
揚陸のときは人海戦術で、何回も分けて水揚げしたんだろうね。
ついでにレスしとくと、古墳時代中期からは、そうも言っておれなくなるね。
宇土半島産のピンク石(阿蘇溶結凝灰岩)で作った石棺が、はるばる中四国や大和・近江まで運ばれてる。
数トン以上もの重量がある石棺だぞ。
http://mukb.medic.kumamoto-u.ac.jp/fukusei/oobangia/2005/050705.html まあ船を大きくすりゃ海の上はいいんだけど、積み下ろしはそりゃ大変だったろうよ。
きっと木と縄でクレーンのような仕掛けをしてたんだと思うよ。ピラミッドも確かそうだったよね。
>>788 >きっと木と縄でクレーンのような仕掛けをしてたんだと思うよ。
修羅ごと筏に組んで曳航してきたと思う。
揚陸は平坦な海岸線から水平に引き上げだろうね。
>>786 >日向
昔は九州全体を筑紫とか日向と呼んだと言うし。
しかも最初につくったのは淡路島やし。 違うでしょう。
791 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 01:17:47
>>788 棒状でもいいわけだし、分銅型なんてのも肩に載せやすいかな。
巨石は修羅に固定したままで浜にそのまま「進水」させて、水没してから前と後ろを
つり上げて半潜水航法とか。水没した船舶の引き揚げと同じ要領。
そういったあたり、なんか資料あります? 修羅のどこかに穴が開いてるとか。
手こぎ舟で鉄運ぶかよW
すげー
>>789 ああ、四隅を木材で浮上させて、木材は組んで筏にして、その中央に石を乗せた修羅が
ぶら下がる形にして、筏のほうを船で引っ張るほうが安定の点で良さそう。
修羅だけじゃ浮力でひっくり返るね、たぶん。
>>792 底にバラストがわりに適量を敷き詰めれば一石二鳥でしょ。
載せ替えるのでは無駄手間が多いから、基本的に大きい船で直航が合理的だろうけど。
よーしおまいら静かに俺の妄想を拝聴しる。
おまいらみたくむずかしいこたわがんねから記紀を燃えと萌えとロマンで把握。
半島から南下して能古島(おのごろ島)に到着した渡来人、その鍛冶(ホノカグツチ)で九州北部に勢力を築き、
金印もろたり吉野ヶ里つくったりしつつまったり暮らす。
別口で半島からまっすぐ東につきすすんだ渡来人、出雲あたりで鍛冶屋はじめる。←古代出雲鉄国
拡大を続ける古代超イザナギ帝国(邪馬台国)、東進するうちに出雲鉄国とぶつかり、敗退してとりあえず諦める。←いわゆる黄泉国訪問
南進を続けるうちにクマソにぶつかるが、険しい山岳に守られ、兵を動かすのが難しい。ここでも停滞。
このへんで妖艶なヒミコたん(アマテラス)がんがる。クマソと散発的に戦ったりしてるうちに死に、
むさい弟(スサノオ)が王として立つも国はまとまらず、かわいいトヨたん(第二次アマテラス)起つ。
萌えぱわぁで邪馬台国一瞬でまとまる。←天岩戸隠れ
弟(スサノオ)一派は邪馬台国を離れ、出雲鉄国に。何らかの手段でその権力を握る。←八岐大蛇
邪馬台国との協力体制を構築し、製鉄技術なんかの協力をする。←天叢雲剣伝説
クマソ対策をもにょもにょやってるうちに、山越えするしかないかもわからんねとの結論を出し、
南方方面長官(ニニギ君)高千穂峰のあたりをこっそり通ってクマソ領侵入、奇襲。←天孫降臨
しかしまだ決定打にかける邪馬台国軍(海幸彦)、クマソ(山幸彦)と敵対する海の氏族(海神)と同盟してクマソをやっつける。
ついにクマソ降伏、隼人として仕えることに。←海幸・山幸
九州統一した邪馬台国、海の氏族の協力で瀬戸内海東征、大和朝廷を開く。
その過程でスサノオ朝出雲帝国と合併、政教分離として出雲を宗教的首都、大和を政治的首都とする。←国譲り
海の氏族は後の瀬戸内水軍とか。
*2600年はさすがに信用ならんからこんなんだと良いなぁ。
吉野ヶ里遺跡と畿内説が鏡の枚数で邪馬台国を争ってたころ、
もう何年も前だけどさ、そのころは中国の学者は揃って九州説だったんだよな。
番組があるたびNHKのインタビューに出ていたから覚えているよ。
そのころの中国の学者どもの言い分は、同じ本で書かれている距離と
計算して北中部の九州にしかならないとか、邪馬台国の行程は帯方郡からとか。
あと、倭人伝は何百年も経って何度も写本されたもの。
だから、虫食いや見えない部分があって行単位で削除されたものもある可能性を示唆。
で、いつから畿内説に変わったんだろう。金でも積まれたか?
しかし、丸木船でバラストというのはどうかな。
ある程度大きい平底の船でバラストで決まりかな。
考古学スレに書かれていたが、清時代の中国の書物で、
日本にいくのにまず対馬を渡り、それからカシマという地に渡るとあったそうだ。
これは佐賀県鹿島市に違いなく、そうするとルート的にさらに南下は九州西側を下る
というのもありそうだね。だから投馬は熊本北部辺りでもいいと思うんだが。
(熊本の北部以北は何県だっけ?w)
とりあえずあの辺の海岸線はそうとういりくんでいるからね。水行も大変だったと思う。
799 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 02:00:04
>>795 >よーしおまいら静かに俺の妄想を拝聴しる。
↑自分で妄想と断ってるから学問的論評の対象外。
ま、ひとこと言っとくと、つまらなくはないが、妄想ならもっと面白おかしくしてくれ。あまりにもありふれ妄想。
結末はアッというドンデン返しが欲しいところだな。
>>796 その頃は、日本の学界でも九州は割りと元気だった。
しかし、ここ10年くらいの研究成果だろう?
というのは、前方後円墳、年輪年代測定法などの研究の進歩。
あと、中国が国家が力を入れて、日本の記紀の解明をしようとしていること。
802 :
カナカナボウシ:2007/04/17(火) 07:58:49
>>798 カシマとは武寧王の生まれたというカカラシマのことではないでしょうか。
それなら唐津への途中なのでスッキリします。
803 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 08:26:48
804 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 08:46:15
>>803 いや、佐賀県鹿島市だが?
吉備にもあるの?茨城にもあるけどねw
805 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 08:48:06
邪馬台国は、宇佐じゃないことはガチ。
なにせ、神武が東征途中に宇佐に寄ってるんだから。
806 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 09:19:01
>>805 ガチじゃないけど?邪馬台国としてもガチじゃないよね、確かに。
途中に寄ったどころじゃないんだよWW
何年も住んでいたぐらいだし、アマテラスやスサノヲ、秦氏にも
縁がある地で、古社の連なる山は御禁足地だらけ。大体、宇佐神宮自体が
亀山を守るように建てられている。当然、ただの山じゃなく最大級の前方後円墳なんだが。
誰が眠ってるんだ?W
ちなみに筑紫王朝の王族は宇佐の豪族の末裔だと福岡の風土記にあるし
九州最大の荘園を所有していた。
つまり宇佐説だと、ここで畿内説を批判する九州説者に矛盾が出てくる。
邪馬台国と卑弥呼を、皇祖神・日本神話の誰かと繋げるのか?じゃどうして
史書から消されたの?って。ちょっとおかしくなる。
807 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 09:29:03
邪馬台国とは関係ないかもしれないが
宇佐の近く、秦氏が上陸したと思われる国東半島からは
オーパーツとされる大量の鉄器も見つかっているね。(紀元前に遡るとか)
だから宇佐→吉備→畿内という流れがあったのでは...と思うんだが。
九州説だと西臼杵郡辺りが非常に怪しいと思う・・・
しかしすでに指摘されているように、アマテラス伝説と卑弥呼が
重なってしまうんだな...
縄文期の火を使ったあとに
弥生期のものが出てきたってやつか。
809 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 12:45:37
伊邪那岐と伊邪那美を祀っている神社って九州にはどれくらいあるんですか?
あと、帥升を祀っている神社はあるんですか?
810 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 15:37:39
>>809 知っているところでは、宮崎県の都城市付近、高崎町だったかな。
東(つま)霧島神社というのがある。
祭神の主座が伊邪那岐尊。合殿として伊邪那美命、神日本磐余彦命(神武天皇)、
邇邇芸命などとなっている。創建は第五代孝昭天皇のとき。
実際は、西暦963年、性空上人が建てたとも言われる。
高原町の霧島東神社の祭神は、伊弉諾尊 伊弉冉尊 天照皇大神 天忍穂耳尊
瓊々杵尊 他一三柱となっている。
創建は、崇神天皇のときと言われているようだが…。
霧島周辺の神社は、邇邇芸命や神武天皇を祀った神社が多い。
高千穂峰は、阿蘇に匹敵するほどの活火山で、昔から大きな被害を出してきて
いるので、本当の御神体は火山といえるかもしれないが。
そのほか、霧島神宮は邇邇芸命。狭野神社は神武天皇を祀っている。
一方で、西臼杵郡高千穂町の天岩戸神社は、祭神が天照大神で、合祀が
手力男命、天宇受売命ほか五柱となっている。
811 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 15:39:37
>>809 ちなみに、帥升は、中国名だから、記紀の誰に相当するかはわからないと思う。
652 :日本@名無史さん :2007/04/16(月) 11:13:02
中国の学会では、
任那日本府はほぼ事実だと受け入れられている。
前方後円墳は3世紀中頃の日本の畿内で始まり
4世紀には、ほぼ九州から関東まで全国へ拡大し
5世紀終盤〜6世紀初頭には、朝鮮半島の南部に出現する。
日本書紀や古事記の記載の大枠どおりだ。
653 :日本@名無史さん :2007/04/16(月) 11:18:45
三国時代墳墓の高塚化過程について・・・チェ・ビョンヒョン韓国考古学会会長
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=73998 韓国の考古学会でも、権威のほうでは
その考古学会者としての探究心から
大和政権の三韓への勢力拡大は既定路線で語られてきている。
中国の社会科学院でもそうだ。
認めたがらないのは、韓国右翼と韓国マスコミだけ。
813 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 20:28:27
>>786 同意です。神武の出身地なので、名指しを避け、(尊い場所だからかな?)
「高天原」としたのでしょうね。
ガイシュツですが、高千穂から日向へ向かったと言う事は、高天原はその西側の
筑後平野or熊本平野あたりと考えるのが自然でしょうね。
814 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 20:37:06
>>809 宮崎と鹿児島に集中してあるよ。風土記に神話が重なるところも多い。
大きいのでは天岩戸とか霧島。
北部九州のはさ、畿内みたいに王朝の傍に建てたものじゃないかと思うんだけど。
>>813 >高天原はその西側の
>筑後平野or熊本平野あたりと考えるのが自然でしょうね。
全然自然じゃないけどなあw
817 :
日本@名無史さん:2007/04/18(水) 03:48:31
>>816 どうして自然じゃないのか、その理由も書かなきゃあ。
神武以前の神話はあくまでも神話と捉えればよいんじゃないのか?
よく、卑弥呼がアマテラスに例えられるのは
アマテラスが卑弥呼をモデルにして作られた神話だという可能性がある。
でも、卑弥呼はアマテラスではない。
卑弥呼は、モモソ姫であり、彼女の死後、彼女の甥の崇神天皇の時代に
アマテラス神話が作られたんじゃないのか?
もっと神話を歴史的事実かどうかではなく
体系的に捉えるべきだろうと思う。
天岩戸の話は、冬至と夏至を境に日の長さが変わることを現し
卑弥呼とスサノオの兄弟の話は、上古代の政治形態である
ヒコ・ヒメ制度を象徴しており、
高天原と葦原中国は、高天原=水源のある山、
葦原中国=葦が生い茂る湿地帯・中津で人間の生活拠点に適している場所で
水源のある山を支配した権力者が、その川下の沿岸付近の国を支配した
ことを現しているような気がする。
>>818 >卑弥呼は、モモソ姫であり、彼女の死後、彼女の甥の崇神天皇の時代に
>アマテラス神話が作られたんじゃないのか?
モモソの話は、魏志倭人伝を読んだあとで書かれた割に卑弥呼と全然一致しませんが。
それ以前に理由付けが強引すぎて引くwww
>卑弥呼とスサノオの兄弟の話
はあ? 魏志倭人伝をもう一度きちんと読み直しなさい。
女王国とあるし、共立して男王がいるなんて書いてない。
そしてそれは気づかなかったw、なんてレベル内容の描写じゃないがW
しかし、それとは別に、ヒコ・ヒメ制度を考えると宇佐神宮が朝廷で神託の役割を
担っていたことが非常に意味のあることになってくるな。
。
本気で信じて卑弥呼=モモを展開しているひとがいるんだな。
しかもしつこい。
何言われて論破されても、数日後には何もなかったように「卑弥呼はモモでしょう?」と
リセットして初めからやり直す。もう疲れたよw 頼むから少し前読み直して。
824 :
日本@名無史さん:2007/04/18(水) 06:22:58
825 :
日本@名無史さん:2007/04/18(水) 07:26:10
★ 計其道里當在會稽東冶之東
会稽は、現在の中国浙江省紹興市付近であり、沖縄県西側にあたる
都市?であり、洛陽からは相当に南に位置している。
邪馬台国は、この会稽の東側にあると明言しているので、この意味
では、邪馬台国沖縄説が有力となる。
しかし、相当な距離を進んでいるのは間違いないのであり、方位を
完全に間違えているので、修正しなければならない。
少なくとも、北九州であれば、会稽・東冶との距離感で不整合である。
>>823 というか、卑弥呼はどう考えても
モモソヒメって感じだろう?
なぜ、そんなに恐れるんだ?モモソヒメを。
827 :
日本@名無史さん:2007/04/18(水) 08:48:29
琉球では祭祀の長は王の姉妹だったな。
古い制度が維持されていたのか、新たにつくられたのか?
矢塚古墳はホケノ山タイプで、東田大塚古墳はポストホケノ山タイプ?
古墳“発祥”の纏向古墳群はすべて前方後円墳 奈良
2007年04月12日
奈良県桜井市にある最古級の纏向(まきむく)古墳群(国史跡)を調査した同市教
委は12日、形が明確でなかった東田(ひがいだ)大塚(3世紀後半)、矢塚(同半
ば)の両古墳が前方円墳とわかったと発表した。これで、女王・卑弥呼(ひみこ)の
墓との伝承もある箸墓(はしはか)古墳(3世紀半ば〜後半)などの古墳が密集し、
「古墳発祥の地」とも言われる一帯の主要墳墓がすべて前方後円墳と確定。厳密な年代
や古墳出現の状況など謎の多い古墳時代を探るうえで重要な発見だ。
両古墳の範囲確認調査として、前方部があると推定される場所計192平方メートル
を発掘した。
東田大塚古墳(桜井市東田)は、従来の調査で後円部が直径68メートルと判明。
今回は西側で5カ所を掘った結果、前方部の盛り上がりを確認した。その長さは40
メートル前後になるとみられる。このため、後円部の直径が前方部の長さの2倍ある、
最古タイプの「纏向型」よりも新しい古墳の可能性が高まった。
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200704120073.html 前方後円墳の発展過程、奈良・纒向遺跡の発掘で確認
同遺跡内には、3世紀代の最古級の前方後円墳が点在。「纒向型」と呼ばれる最
初期の前方後円墳は、前方部と後円部の長さの比率が1対2。矢塚は後円部の直
径が64メートル、前方部の長さが32メートルと推定されることから同型に当てはま
るが、東田大塚は後円部の直径が68メートル、前方部の長さが40メートル以上に
達するとみられる。
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20070412i215.htm
829 :
日本@名無史さん:2007/04/18(水) 11:33:15
なんで卑弥呼がモモソなのだ。倭人伝の記録と記紀の記録をみると
両者は女性であることと、オカルト的な言動をすること以外共通点はないだろう。
830 :
日本@名無史さん:2007/04/18(水) 11:47:54
>>829 それだけで十分だろ。
天照大神は男だし、宇佐のヒメ大神はスサノヲの娘だし。
>>823 疲れるまでがんがるな〜!
ももちゃんも天ちゃんも、神功ちゃん、倭ちゃん・・・・オリジナル卑弥呼も含め
いろんな説はこれからもいっぱい出てくるから・・・たぶん。
そして、それはしばらく、もしくわ永久につづくかもよ。
まあ 誰がどう考えるかまでは個人の意思を尊重してやれ。
議論するのも自由だから、いんだけどさ。 疲れるまではやめておけと・・・
832 :
日本@名無史さん:2007/04/18(水) 12:21:33
833 :
日本@名無史さん:2007/04/18(水) 12:55:45
>>828 >東田大塚は後円部の直径が68メートル、前方部の長さが40メートル以上に
>達するとみられる。
景行稜以降の規格なのに3世紀後半?とすると、景行稜も3世紀後半?
恥ずかしげもなくよくやるね。
>>830 それなら神功皇后のほうがはるかに卑弥呼に近い
835 :
日本@名無史さん:2007/04/18(水) 13:16:38
モモソと卑弥呼の共通点
・女性
・霊力
神功皇后と卑弥呼の共通点
・女性
・霊力
・最高権力者
神功皇后だなw
836 :
日本@名無史さん:2007/04/18(水) 13:26:50
>>833 景行稜が景行天皇の墓だと思ってるのか?
まさか、そこまでアホなやつはいないと思うが。
837 :
日本@名無史さん:2007/04/18(水) 13:40:48
神功皇后は、卑弥呼にあわせて作られた架空の人物の可能性もある。
天皇が亡くなったのに、次の天皇が即位せず、皇后が摂政として長期間在位
しているなんてのは、考えられないし、そんな例はない。
後の時代には、皇后が天皇になるケースはあるが、それもなく、神功皇后は
歴代天皇には含まれていない。その間、天皇は空位のまま。
たぶん、当時の日本人の記憶の中には、卑弥呼に比定できる人物はいなかった
と考えたほうがいいのかもしれない。
838 :
日本@名無史さん:2007/04/18(水) 13:44:21
>>836 いわゆる箸中山古墳が、箸墓、つまり倭迹迹日百襲姫の墓であることも
考え直したほうが良いか?
>>838 当然。一階の巫女の墓であるはずがない。
840 :
日本@名無史さん:2007/04/18(水) 13:55:07
卑弥呼ってのはな、実は陳寿による壮大な釣りだったんだよ
>>836 それでは誰の墓なんだい?
>>837 卑弥呼に合わせた可能性はあろう。架空?津田病の検診が必要だな。w
摂政の在位が長期間〜? その時代は3倍暦でやってたの。だから真の
摂政在位期間は 1/3 であり、23年 でまぁまぁである。おかしくない。
>>837 津田史観からの決別を。
神功皇后が卑弥呼に対応させるための架空の人物というなんて
全く出鱈目な説だ。
↓
日本書紀の編纂者は神功皇后を女王卑弥呼だと誤解した
>むろん、なかには、年代を引き伸ばしただけではなくて、
>神功皇后という全くの架空の人物を作り出したという説を提唱する人もいる。
>しかし、もし完全に架空の人物を作るのなら、卑弥呼と台与という二人の
>女王に対応させるために、二人の神功皇后のような人物を作り出せば
>良いのである。しかし、それをしなかったことを思うと、神功皇后のような
>人物は一応、存在したのであり、だからこそ、彼女一人で二人の女王
>(卑弥呼と台与)に対応していると、日本書紀の編纂者たちは
>納得するしかなかったのである。
>また、神功皇后と卑弥呼では全く経歴が違いすぎる。魏志・魏略などの
>中国史書の記載では、卑弥呼は生涯独身であり、その活動範囲は倭国内に
>限定されており、死の直前の10年間である西暦239年〜247年は、
>対中国(魏)外交、倭国内の紛争と詳細に記載されている。
>しかし、日本書紀記載では、神功皇后は生涯独身ではなく子も産んでおり、
>その活動範囲は海外出兵もあり、魏志に書かれた卑弥呼の死の直前の
>10年間である西暦239年〜247年は、朝鮮半島出兵に勤しみ、
>その半島情勢も魏の帯方郡の形跡がないなど大きく異なっている。
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/34349051.html
844 :
日本@名無史さん:2007/04/18(水) 17:03:03
「邪馬台国総論」男は、自分で作ったサイトを素知らぬ顔で引用して見せて措いて恥かしくないの?
845 :
日本@名無史さん:2007/04/18(水) 17:33:45
>>843 津田史観はともかくとして、69年であろうと23年であろうと、たえと10年で
あろうと長期間天皇不在が続いたことは事実。
通常このようなことが考えられないのも事実。
どうして神宮皇后が天皇にならなかったのかも疑問。
10代崇神天皇から16代仁徳天皇までの在位期間は、それぞれ68年、99年、60年
60年、9年、(69年)、41年、87年となっている。
仲哀天皇はたったの9年。しかし、神功皇后とあわせると78年。
もちろん、これらの在位期間を正しいと思っているわけではないけれども。
仲哀天皇の在位期間の大部分を神功皇后に割り当てたと考えるのも有り得る
のでは?
まあ、あくまでも可能性の一つということだけど。
>>845 というか、応神天皇の幼少の間を神功皇后に当てたんじゃないのか?
847 :
日本@名無史さん:2007/04/18(水) 17:47:38
記紀の4〜5C頃以前の部分は、後世の創作とする考え(多数説)について。
(問題点)
1、出雲が活躍していた伝承を裏付ける考古学的事実が存在するが、出雲の
活躍時期は4C以前である。
2、4C以前の詳細な皇族、氏族伝承の全てを捏造とするのは、無理がある。
出自で人生が決まる時代に出自のウソがまかり通るとは考えられない。
3、天皇稜は概ね伝承のとおりの順序に作られたと考えられる。
指定の間違いもあるが、それは伝承を正しいと見た場合に生じる問題。
記紀は伝承をそのまま書いたと考えた方がよいと思う。
誤った言い伝えも生じるというレベルで誤りもあるだろうけど。
848 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/18(水) 19:57:08
>>825 計其道里當在會稽東冶之東
これは邪馬台国が北部九州にあるといったことを意味するのではなく、
倭がどこにあるかを指している。その次下に、「倭の地は温暖で」云々・・とある通り。
したがって誤りではない。
素朴な疑問とゆうか、個人的には疑っているんだが。
古事記によると、神功さんは、三韓を征伐したらしいんですが、この辺は事実でしょうか?
850 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/18(水) 20:30:03
>>823リセットして初めからやり直す。もう疲れたよw
僕ももう何度疲れ果てたか知れない。こちらが論破して暫く静かになったかと思うと、又同じ事を蒸し返し主張してくる。
反論する気もなくす事さえあるが、多少ニュアンスが違ったりしていて、こちらがバージョンアップしたりするようだ。
でも相手するといけない無価値なのもいますから注意はしてますがね。
ですがタンおつ!
だから、疲れた時はスルーをお薦めするよ。
健康第一でお願いしますーう。
誰が何説を唱えても、そんなに心配する必要ないよ!
852 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/18(水) 20:46:28
>>851 ときどきあらわれて「ですがタン」と呼びかけるキミは僕の敵なの味方なの?
心配してくれてるようだけど。まさかグリーンワームちゃんと同一人物じゃないよね?
あの子は禁断のラビリンスだから。
僕はあのへんのくだりの時は、鶏はミドリ虫を食べますか?とレスしました。
当時興奮されていた、ですがタンに黙っていろと一括されてうれしかった者です。
あなたの唱えている事は、詳しくは理解してませんがどちらかとゆうと、あなたの味方です。
太国さんとおなじくらい応援してます。
今後ともよろしくどーぞー
854 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/18(水) 21:18:25
>>853それなら大歓迎です。
「鶏はミドリ虫を食べますか?」は貴方だったんですか?それは失礼しました。
僕はてっきりミドリちゃんがごまかしの為あの様な物言いに出たのかと思いました。
九州人は興奮しやすいけど単純で素朴、お人よしが多いので
だまさないようにね。
だましたつもりはございません。
プチユーモアで、ブレイクしたほうが、建設的な議論が出来るかなと思っただけです。
まぁ、建設的じゃなくてもノー問題なんで、いんですけどね!
興奮し放火したり射殺したりする九州人。
でも情が厚いと自画自賛。
857 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/18(水) 21:35:18
>>855 いえいえ、貴方が騙したなどと言ってる訳ではありませんよ。スレ全体に呼びかけているのです。
よければ僕が主張している内容にも、賛成反対どちらでもいいですから意見を寄せてくださればありがたいです。
858 :
日本@名無史さん:2007/04/18(水) 21:36:41
>>848 825 計其道里當在會稽東冶之東
これは邪馬台国が北部九州にあるといったことを意味するのではなく、
倭がどこにあるかを指している。その次下に、「倭の地は温暖で」云々・・とある通り。
したがって誤りではない。
↓
誤りではないということは、沖縄説を主張されるのですか?
それなら納得です。
あなたの唱えてる説の詳細は、わかっていない事もあるんですよ!
そして、私自身詳細な議論をたたかわせる程の知識はありません。
ただ日本史が好きで、本を何冊か読んだダケですから
ただですがタンは名前の通り九州説だと思いますが、そこは、一緒ですけど・・・
ただ100%の自信はありません。可能性としてとゆう事です。
だから機内説やさまざまな説の根拠とか新説とか、解釈が知れれば、とおもってね!
861 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/18(水) 21:55:32
>>858沖縄説を主張されるのですか?
そうではなく、倭人伝本文中に「倭の地は温暖で」云々とある通り、
この記述自体が倭国の事を記したものだ、と言ってる訳です。
漢人が、倭人が住むと考えていた国土はすべて倭と呼んでいたのではないかと思いますし、
邪馬台国というのはその中の連合30カ国を言い、さらに女王国というのは卑弥呼が都を置く直轄地だというのが僕の主張です。
862 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/18(水) 22:18:31
>>860 それではこの「ドン来い17」の僕としての「侘び寂び」というか「山場はここだ」、というのをリピートしてあげますね。
ちょっと長い引用ですけどどうぞ。 「箸墓古墳について」
「古墳にせよ土器にせよ、製造の絶対年代を狭い範囲で特定するのは現代の考古学をもってしても非常に難しい。
たとえば、ある古墳・土器を3世紀後半と推定しても、実際には「3世紀後半を中心とする」という程度しか言えず、
今回の箸墓古墳も4世紀前半の築造の可能性は依然として否定できない。
今回出土した土師器(甕・壷・高坏など)の大量の破片は 260〜280年頃の「布留0式」と呼ばれる様式と判明しているが、
学問的に厳密に言えばプラス/マイナス50年ぐらいの幅をみる必要がある。
すなわち、これらの土器の年代は「210〜330年の間」であって、
3世紀後半とは特定出来ない。墓誌・金石文・文献による特定、
例えば百済の武寧王陵は発掘された墓誌で523年の築造、
また高句麗好太王碑は刻まれた金石文で414年の建立と断定できる。
すなわち、出土土器による古墳の年代推定と墓誌・金石文・文献による年代断定とは、
精度に決定的落差がある。 古墳・土器の形式・様式は一種の流行のようなものだが、
古代では伝播のスピードは非常に遅い。同じ様式の土器が九州と畿内大和で同時に発見されても、
製造年代が100年ぐらい違うことがありうる。また、ある土器の流行年代が数十年の幅しかないのに、
別の様式の土器の流行が100〜150年間の長期であることも有りうる。」
又本文に 「こういう状況を踏まえると、箸墓は従来通説のように3世紀末〜4世紀前半の築造とするのが妥当です」とある。
この事を踏まえて僕のレスを読まれると、さらに僕の主張がお分かりいただけると思います。
863 :
日本@名無史さん:2007/04/18(水) 22:32:29
>>861 倭の地は温暖とか、牛馬がいないとか、死者がでれば皆で歌い踊るなどとか、
個々具体的な内容は、国の道里で詳しく説明がなされた、「対馬国」「壱岐国」
「末盧国」「伊都国」の概要であって、傍国21国や邪馬台国の説明ではない
というのが私の主張です。
>>862 >学問的に厳密に言えばプラス/マイナス50年ぐらいの幅をみる必要がある。
>すなわち、これらの土器の年代は「210〜330年の間」であって、
>3世紀後半とは特定出来ない
ここはおそろしく慎重な態度と思われ。
しかし言ってる意味は分からなくはないね。ともかく慎重にいこう、ってことだよな。
でもさ、上を納得しても、次が納得できないぞ。
>こういう状況を踏まえると、箸墓は従来通説のように3世紀末〜4世紀前半の築造とするのが妥当です
なんで?
「こういう状況を踏まえると、箸墓は3世紀前半〜4世紀前半の築造とするのが妥当」
なら納得するけど。
865 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/18(水) 22:51:57
>>863 計其道里當在會稽東冶之東
會稽は時代によってかなり広大な範囲を指したり狭くなったりしていますが、
倭人伝が著されたころは上海近くを指していたんでは無かったですか?
なので會稽東冶之東 とは南九州に当たると思うんですよ。
以前、恵也さんがしきりにこの下りを繰り返し主張していたのも彼が邪馬台国宮崎説をとっていたからで、
まさに會稽東冶之東 が、宮崎を指すという考えからなんです。
明らかに中国人は日本列島は南に垂れ下がってると思ってたんだな。
昔の絵図にあるとおりだ。「會稽東冶之東」か、なるほどねえ。
867 :
日本@名無史さん:2007/04/18(水) 23:29:36
ただね、もし大学入試共通テストみたいな択一式問題が出たとしようや。
(問) 次のカッコにあてはまる最も適切なものを下の1〜4から選びなさい。
倭の地は會稽東冶の( )です。
1.東 2.西 3.南 4.北
正解は1.
沖縄でも九州でも、本州や四国でも、あるいは北海道でも、「東」以外は無理だよ。
868 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/18(水) 23:36:16
>>864 それはですね、この文全体が引用なので、話の前後があるのですが、
箸墓の場合3世紀末{大体280年頃}から前の時代には遡及しないことを説明したうえでの
結論の部分が「こういう状況を踏まえると」以降の文なので紋切り型になって辻褄が合わないような感じがするのです。
つまりこの最後の文だけ、本文の別の箇所から持ってきているという事です。
別のすれにあったが 神功皇后は百済を建国したって話。
ほんとかな。
神功は宇佐で比売大神の隣で祭られているぞ。社伝では百弧になって消えたらしい。
>>830 >天照大神は男だし、宇佐のヒメ大神はスサノヲの娘だし
「天照とスサノヲ」の子供。日本書紀や社伝にあるから無茶苦茶言えんぞ。大丈夫か?
>>863 いや、南国風の描写は邪馬台国のところと同じと読むほうが自然だが。
北部九州ではないね。少なくとも豊後、あるいは日向の宮崎だとしっくりくる。
>なぜ、そんなに恐れるんだ?モモソヒメを。
違うのわかってるから。このスレかいっこ前。完全論破されてるだろ。
スレを永久保存しろ。
で、君の主張だと邪馬台国に天皇はどこにいたんだ?無視? トヨの前の一年足らずの男王が天皇?
はいさいならw
日向から時代が移るにつれて序々に中心が北上したんじゃないのか?
宇佐の豪族が筑紫王朝に移ったことや、宇佐の社伝に豊後の南部の山が
でてくることからも(日向は豊との県境に近い)、割と南北に広範囲に
わたることが風土記や史書から垣間見れる。
>>871 あ、天照と宇佐、筑紫王朝の関係ね!(汗
邪馬台国だとは言ってないよ。自分は
今のところ大体西臼杵説なんだけど。。。。 というかごっちゃになりやすい。
神話記のスレ作ろうかな・・・神武の東征や天照の話できるスレ。
>>867 東北とか南西とか出てないことに気づいてる?
ちなみに日数も陸行一月水行10日。 8とか6じゃない。
つまり、倭人伝では東北も 東か北。 3週間も一月。こんな感じじゃねーかな。
874 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 00:31:51
>>836 趣旨不明
1、景行は実在しない。
2、景行は実在するが、景行稜は別の古墳である。
3、その他
1、ならば、どの天皇から実在を認めるのか?が問題となる。
認めたくない天皇は否定するという考えか?
2、ならば正しい景行稜はどこか?
3、ならば、自分で説明する必要がある。
遡上派のアキレス腱ですね。10代〜15代の実在性を認めて、在位時期を検討すると
崇神は320〜360頃に在位となり、箸墓も同じ時期となるため、遡上できなくなる。
875 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 06:52:39
>863
倭の地は温暖とか、牛馬がいないとか、死者がでれば皆で歌い踊るなどとか、
個々具体的な内容は、国の道里で詳しく説明がなされた、「対馬国」「壱岐国」
「末盧国」「伊都国」の概要であって、傍国21国や邪馬台国の説明ではない
というのが私の主張です。
なるほど、この解釈もありだね。
でも、反論も多そうだなあー
876 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 09:46:40
発掘される機織機の幅から考えて一枚の布で体を包み込む事は不可能だから、
邪馬台国の人間が貫頭衣を着ていたという記述はおかしいと本で読んだ。
単に大型のものがまだ発掘されてないだけだろ
878 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 12:40:25
古代の機織機で幅が広いと扱いが大変だろ。
片方を木か柱に括り付けて、地面に座って自分の体を支えにして布を織るのだ。
879 :
カナカナボウシ:2007/04/19(木) 13:46:43
貫頭衣は素肌に着用していたわけではありません。例えば、普通の和服を着て、其の上に貫頭衣をつけたのです。
ですから脇が大きくあいており、腰のあたりで帯(紐)をしめたのです。
九州説論者は
倭が温暖と書いてあるから邪馬台国は九州だ
とかいっているが
北部中国から見たら、関東〜九州まで日本はどこも温暖だよ。
九州説論者たちよ、北部中国の寒さを知らないのか?
>>880 土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。
とも書いてある。
冬でも生野菜が食べれる地域でしょ。
>>875 他の人が書いたことを自分が書いたように見せる意図があるのでないなら、変なコピペは止めてくれない?(は あ と
883 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 20:08:30
>>879 君は「和服」のオリジナルが何なのか全然知らないわけだね?
呉服のオリジナルも、洋服のオリジナルも知らない僕が来ましたよーっ
>876
肩幅×身長よりちょっと長いサイズの布を2枚並べてつないで、ただし中央はつながないでおけば、
そのままで膝丈くらいの「前後Vネック(?!)」の貫頭衣になるからね。
つか、せっかく幅広く作った布を切ってまでして一枚の布で体を包み込むという発想が不自然。
北部中国も、機内・九州もようやく春らしい陽気になってまいりました。
盛り上がっていきましょう。
まあここで冷静に考えれば
筑紫と大和
どちらが先に栄えたかといえば筑紫だよ
まあ大和のほうが田舎だったんだな
889 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 20:38:35
ただし、その栄えていた時期がいつなのか、ってこと。
発掘調査で分かりきってるだろそんなもん
891 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 20:53:34
じゃあ、簡潔にまとめて下さい。いつ頃どこが栄えていたか。
ぶっちゃけ大和だろうが筑紫だろうがどっちでもいいよ
いちばんいかんのはあれだけの記述でここだと決め付けようとする
貴様らの歪んだ知性
それをゆっちゃあーおしまいよー。
以外に楽しいから、おまえもおおらかに楽しめ!
それとも飽きたか?
894 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 21:39:19
倭地温暖冬夏食生菜
これは、「対馬国」「壱岐国」「末盧国」「伊都国」の北部九州に限定した
倭国の食習慣です。
大半の国々が詳細が分からずに、国名だけを掲載してい。少なくとも、それら
の国々ではないことは明らかです。
895 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 21:41:50
奈良なんて灌漑が進んだ今でも米なんか全然採れないよ
大阪と奈良は米の生産量全国最下位だよ
こんな所に7万戸もあるわけ無いし
王権が自然発生して育つわけも無い
西日本の最大の米の生産地は今でも島根県だよ
出雲はマジで米どころ
だから本州の中心地は古代から出雲だったのは当然
奈良なんてド田舎に邪馬台国があるわけ無いでしょ
本州に邪馬台国があるなら出雲は古代から最大の国だし出雲は避けて通れない中心都市
でも出雲の事なんか倭人伝の邪馬台国までの道のりにも話にも出てこなしい
そいうわけで邪馬台国は本州じゃなくて九州だよ
邪馬台国の南にある朱儒国シュジュ国は種子島=シュシ国だよ
つまり邪馬台国は日向って事
日向が筑紫を征服して高天原関連の地名を筑紫に移植したよ
九州王朝説の人は筑紫から奈良への地名の移植は言うのに
日向から筑紫への地名の移植を言わないのはダメだね
邪馬台国が日向である事、神武が日向出身である事
これはガチなんだよ
ノアだけはガチ
897 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 21:58:52
私も九州説のなかでは、宮崎日向が可能性が大だと思っているが、
朱儒国=種子島=シュシ国はいただけません。
でも西暦300年頃に木鍬一本でもって、箸墓古墳を造ったんだよ。
見たことある? 相当数の作業人が必要になったと思われ。
だからと言って、邪馬台国が畿内にあったとは言えないが、作業人を相当数
集めようとすれば、相当に広い範囲の土地から人夫をかき集めなければなら
ない。
898 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 22:00:02
種子島orz
899 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 22:25:31
>>897 >朱儒国=種子島=シュシ国はいただけません。
おれも同意。
ただな、種子島の広田遺跡は、なんつーか、凄みを感じさせる遺跡だな。
同じ九州なのに邪馬台国論争から置いてきぼりの感がある鹿児島県だが、
数は少ないといっても広田など、この県のいくつかの弥生遺跡には驚くべき内容がある。
決して目を離してはいかんと思うぞ。
>>895 わかるよ。それに、豊前豊後、日向もあまり有名ではないかもしれんが
稲作が大変盛んだよ。宮崎は平野で、豊前や豊後では山間部で段々畑ならぬ
段々米田で稲作してる。見事で壮大な光景であり、それだけでなく、大分は
海の幸山の幸が大変豊富で、何もかも自給自足。温暖な気候を考えても古代は
相当人が多かったのではないかと思う。
901 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 22:36:11
稲は南方の植物だからね
南に行くほど出来が良くなる
日向は相当な生産力を誇っていたに違いない
昔はさ、南部九州のように暖かくて食べ物が豊富で、
住みやすいところに人が多かったんじゃないかな、やはり。
中国から王朝が変わると人が流れてくることも多かっただろうし
南部九州は中国の中・南部から来たら最初に到着する場所だしね。
アニメ、京都、テニス。。。。
このスレを見ている人はこんなスレも見ています。(ver 0.20)
地獄少女二籠 三十六篭 [アニメ]
春夏秋冬・・・京都へ その四十六 [国内旅行]
【コナーズ】アンディ・ロディック 5【万歳】 [テニス]
904 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 23:06:31
>>897 >朱儒国=種子島=シュシ国はいただけません。
これは、語呂合わせだから方法としては無理と思いますし、私も決して感心しませんが、
もし「侏儒國」を真剣に追究してみようと考えるなら、
>>899さんが触れた広田遺跡のある種子島や、
同じ鹿児島県の奄美大島などは、まず第一に考察の対象とすべき地域、といっていいほどなんですよ。
これは九州大学総合博物館サイトの一ページです。いかがですか?
http://www.museum.kyushu-u.ac.jp/WAJIN/148.html 九州大学総合博物館サイトはとても勉強になるサイトです。
そのわりにアクセス数が寂しいので、どうか全部をご覧になり、お友達にも勧めてください。
>>895さんは、ちょっと入り方はおかしかったけど、いいところに目をつけられてると思いますよ。
905 :
904訂正:2007/04/19(木) 23:35:34
>九州王朝説の人は筑紫から奈良への地名の移植は言うのに
>日向から筑紫への地名の移植を言わないのはダメだね
いいところに目をつけましたねw
>>904 リンク乙
おれ実はひそかに侏儒国を北海道に比定してたんだが(方位無視)再考するよ
地名の移植を言ってるのは九州王朝派じゃなくて安本派だろ
日向まで南下すると、本当に暖かい。
冬でもカーデガン一枚レベルだしね。ここは北部九州と「南国風」で完全に
一線を画す。
西臼杵郡辺りだと、東に大海千里、つまり太平洋に出る直前で四国も
まだ天気のいい日に薄っすら見える。いや、怪しいな...
椰子の木、冬でもサボテン。
日向南部のどこかから熊襲になると思うんだが。
それと薩摩で狗奴國かな。
あとちょっと原文読んでて気が付いたんだが、裸国と歯黒国は音読みの当て字じゃないね。
つまり意味のある漢字を当ててる。それと同じところに侏儒國をおいてるでしょ。
で、卑しい漢字を当ててないと思うんだが...。
琉球に近い文化は王族は赤い着物が多いから(種子島の民族衣装も含む)
朱って中国では吉兆の色。北部九州の古墳なんか朱に染まってたんだろ?
鹿児島より南方の気がする.....
911 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 00:19:30
古田武彦さんは侏儒国=四国のどこか説じゃなかったか?
引越しで『「邪馬台国」はなかった』を手放してしまったので確認できないのだ。
たしか県名も書いてあったようにうっすら覚えてるんだが、どこだったっけ。
高知だったか徳島だったか・・・・
912 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 00:21:28
出雲などというちょっと隔離された土地が古代の本州の中心地で盟主だったのは
米の生産力が高かったから
今でも島根は西日本最大の米生産量
同様に九州で日向が隔離された土地ながらも邪馬台国として盟主となれたのは
温暖で稲作に適し米生産力が高かったから
だから7万戸も養えた
北部九州の倭国大乱で疲弊した国々を傘下に治めたのが
大乱から隔離されて国力を温存していた日向邪馬台国だった
>>910 >琉球に近い文化は王族は赤い着物が多いから(種子島の民族衣装も含む)
>朱って中国では吉兆の色。北部九州の古墳なんか朱に染まってたんだろ?
>鹿児島より南方の気がする.....
ごめん、訂正。 朱じゃなくて侏だな。ってことは朱じゃないね。
完全に勘違い(汗
914 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 02:20:16
熊襲は、クマとソ、つまり肥後国球磨郡と薩摩国曽於郡のあたり。
隼人は大隅と薩摩。
>宮崎と都城の間
そんなこと言ったら、都城と薩摩の間も隔絶している。
てゆうか九州はそんなとこばっか。
916 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 04:36:12
917 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 04:53:23
>>915 球磨地方は、「くま」つながりからいかにも熊襲との関連がありそうだが、
また、そういわれることも多いが、これは違うと思う。
まず、考古学的に違う文化圏と言われる。
次に、言葉が全く違う。球磨地方は完全な熊本弁。
また、日本書紀によると、景行天皇は、熊襲征伐のあと夷守を経て
球磨地方に立ち寄っている。これは、熊襲と球磨地方が違うことを意味して
いると思う。
918 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 05:06:15
>>916 島根県の平野部は、昔は陸地が少なかったんじゃなかったかな。
確か、荒神谷のすぐ近くまで宍道湖?がきていたと聞いたことがある。
古代も農業中心の考えから脱却する必要があるのかも。
>>916 たしかに九州は凋落傾向のようですね、
裏作やらない積雪地とムギなどで二毛作する西日本と単純に比較はできないと思いますが、
わたしお米大好き人間ですのでちょっと心配
富山や新潟のコシヒカリの成功にならって九州もウマイ米へ品種転換したと聞きます、
天候や土壌にマッチしてたんでしょうか、無理な転換てことはなかったんでしょうか?
弥生の稲作は温暖な九州から始まって徐々に東へ北へ水田を広げていったと習いましたが、
なんかここにきて逆転現象が起きつつあるのでは・・・そんな気がします
地球温暖化はわれわれが知恵を絞って対処し、阻止しないと、こどもや孫たちに申し訳ない
920 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 06:13:27
921 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 06:17:52
なんとなくの考察
・郡から一定の距離があって
・伊都国より南にあって
・比較的温暖の地であって
・東に千余里、海を渡るとまた倭種があって
・郡使が直接に当地に行くことができないほど絶遠の地であって
・傍ら21国も絶遠により詳細がわからないのであって
・女王国自身が相当に北部九州からはなれているので以北に一大率を置く必要性があって
・記紀が日向を神聖な地として説明しているのであって
・南の狗奴国は一国が我が道を行くがこどく偏固(へんこ)であり、まさに薩摩隼人と同じであって
よって
邪馬台国=宮崎日向
最近なんか宮崎説厨が勢いづいてきた希ガス
923 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 07:26:03
結局北九州説も北九州が九州の中心だから
邪馬台国は北九州にあったに違いないって感じで思いこんでて
それって奈良説が奈良は日本の古代の中心地だから
邪馬台国は奈良にあったに違いないって思いこんでるのと全く同じ思い込みなんだよ
同じ穴の狢と言うか
でも実際は出雲みたいな中心と外れた所が本州を支配していたり
鎌倉幕府が六波羅探題置いて京都を支配していたりそういうことが歴史では起こるわけで
倭国大乱という大乱世に於いてそれを終結させたのは
辺境地の強国日向だったってのは十分ありえるんだよ
一大率の存在と魏使が邪馬台国までたどり着いてないっぽい感じが
邪馬台国が北九州から離れてる雰囲気をすごくかもし出してる
924 :
SOY:2007/04/20(金) 07:45:06
>>921 『なんとなくの考察』について私なりに考察してみました。
>・郡から一定の距離があって
一定の距離。言われますとおり魏志倭人伝には定まった距離が記されています。
『自郡至女王國萬二千餘里』とあるので奴國から邪馬台国までは千四百里程度
ということになります。これだと日向には達しないように思われます。
また、『又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里』を信じるなら、
博多湾から邪馬台国、博多湾から侏儒國の距離は1:5くらいになります。
これだと邪馬台国を日向に比定すると、侏儒國を島にしか比定できなくなりますが、
『女王國東渡海千餘里復有國皆倭種』のように『渡海』等の記事もないので、
侏儒國を孤島と解釈することについては異論があろうかと思われます。
>・郡使が直接に当地に行くことができないほど絶遠の地であって
>・傍ら21国も絶遠により詳細がわからないのであって
『自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳』を
『邪馬台国が絶遠』と解釈するのは無理があります。
>・女王国自身が相当に北部九州からはなれているので以北に一大率を置く必要性があって
邪馬台国が伊都国から離れているとしても千五百里程度であり、
独自の尺度でもって『北部九州から離れている』とするなら、
その尺度を示す必要があると思います。
魏志倭人伝を重視して方位をある程度信じる点は九州説、
魏志倭人伝を無視して距離をデタラメとする点は畿内説、
邪馬台国日向説は微妙な立場にあるように思われます。
925 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 08:04:40
沖縄県の方へ(命に関わる注意事項です)
沖縄県での選挙ですが、どうか民主党だけは避けてください。県民の生命に関わる可能性があります。
民主党の最大の公約は一国二制度(※)ですが、一度「一国二制度 沖縄 三千万」で検索をお願いします。
この際、民主党のHPで調べても良いです。以下の注釈↓と矛盾することは書いてないはずですから…
※一国二制度
簡単に言えば沖縄を中国と日本の共有物にし、そこに3000万人の中国人を入植させます。
(つまり沖縄人口の 96% を中国人にして、実質、沖縄を中国人の居住地とします。)
さらに「自主」の名の下、沖縄で有事が起きても自衛隊は干渉できません。
3000万人の中国人が、少数派となった130万人の日本人に何をしても、です。
そして反日教育を受けた中国人の反日感情の強さは、ほとんどの日本人の理解を超えるものです。
今回の選挙で民主党が勝った場合、「自主」「発展」を連呼しつつ段階的に進めていくことになります。
自主と言っても、自主を認めるのが「住人の96%が中国人となった」後だということに気をつけてください。
発展と言っても、新沖縄の少数派となった「少数民族日本人」の発展ではないことに気をつけてください。
>>922 北部九州説から つられて移説してきましたが...
いくつかの神社の社伝・風土記などを読むと、そこから中南部の地名が出てくるので
前から気になっていたのです。
しかし後の畿内との繋がりとなると、秦氏と非常に関りが深い宇佐も見逃せないのは
事実ですが。(豊国は秦性いまでも多いです)
しかし西臼杵説になると天照と重ねがちになり、自分はいちお天照≠卑弥呼なので
ここで畿内のモモ説の人の(ry アワワ
>>916 上のひとは「西日本で」と注釈をつけているのだから北海道や東北は
関係ないのでは?しかも北海道や東北で、古代とは比べ物にならないほどの
広域・大量生産で空輸・高速道路と鉄道で輸送しまくりの現代ですから?
少なくとも産業革命以前までを参考にしないと駄目でわ
ところで種子島の広田遺跡は普通に見学できますかね?
928 :
日本@名無史さん :2007/04/20(金) 08:55:45
>>925 畿内厨と皇国史観と民主嫌いと中韓差別主義の右翼DQNですね。
929 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 10:49:20
>>925 歴史関係のスレにコピペしても無駄。
沖縄は歴史的には中国の属国というのが正しい認識。
卑弥呼=アマテラスじゃなくて
卑弥呼=イザナミだとどうだろう?
別に北部九州を主張するつもりはないが
北部九州にイザナミ関連の遺跡とかない?
そいうことだなw
メリケンの本音がそうだ。島津様々なのよw
932 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 11:51:10
933 :
これは酷い・・・:2007/04/20(金) 12:11:07
その時歴史が動いた 村上武吉2
http://live23.2ch.net/test/read.cgi/livenhk/1176902683/ 94 公共放送名無しさん sage 2007/04/18(水) 22:26:40.03 ID:fuFu79rm
侵略w
96 公共放送名無しさん sage 2007/04/18(水) 22:26:42.64 ID:d0gc8Rs9
侵略キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!
97 公共放送名無しさん sage 2007/04/18(水) 22:26:44.20 ID:X8Pf9YQk
朝鮮出兵じゃないのか
102 公共放送名無しさん 2007/04/18(水) 22:26:48.97 ID:jQfa2U9c
お〜〜〜〜〜〜〜〜い
朝鮮出兵じゃないのかよ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
934 :
これは酷い・・・:2007/04/20(金) 12:20:22
128 公共放送名無しさん sage 2007/04/18(水) 22:27:08.63 ID:MUAYdVAg
朝鮮 侵 略
「侵略」にアクセントを置くのがNHKの流儀です
130 公共放送名無しさん sage 2007/04/18(水) 22:27:10.00 ID:6cO3aWir
元寇は日本への侵略だよね
153 公共放送名無しさん sage 2007/04/18(水) 22:27:30.86 ID:X/nDaf7F
侵略ってなんなんだ
154 公共放送名無しさん 2007/04/18(水) 22:27:30.94 ID:MKUo1zo7
はいはい侵略侵略
155 公共放送名無しさん sage 2007/04/18(水) 22:27:31.36 ID:OWrA4N7/
さすが犬HKだな
935 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 13:15:24
「侵略」で正しいだろ?
明治時代じゃあるまいし。
937 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 13:28:24
>>936 てめえ、なにを言ってるんだ?
俺がチョンだと?
ふざけんなよ。
俺は生まれも育ちも生粋の日本人だぞ。
どういう了見で俺をチョンなどと決め付けるわけだ?
どうせ、条件反射で、カキコしただけだろ。
つまりおまえは、パブロフの犬並の知能しか無いってことだよ。
犬!
>>937 すぐ切れる所なんか正しくチョン
しかも「犬」という言葉を頻繁に使うあたりも正しくチョン
939 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 13:41:58
>>938 違うわ!
俺はチョンとは全く関係ない、縁もゆかりも無い、
愛知県半田市の古い旧家の生まれだ。
チョンの血など一滴も入っておらぬわ。
バカめ。
940 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 13:46:39
薬を出しておきますので安静にして様子を見て下さい。
次の方どうぞ。
941 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 13:51:18
>>940 おまえこそ、博多や大阪や多摩の出身じゃないのか?
自分がチョンを祖にしてるのを認めたくなくて、
他人に対してだれかれかまわずチョンだチョンだと煽ってるんだろう。
だが、あいにく、チョンの血が混じってる日本人なんてごくわずかなんだよ。
お前たちを除いてな。
多くの田舎の日本人は純潔の日本人なんだよ。
悔しかったら、愛知県半田市にチョンが移民してきた証拠でも探してみろってんだ。
アホアホ!
942 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 13:56:16
>>940本人だが、もう少し落ち着けってば。
こんなくだらん会話でスレを消費するのが勿体ない。
あと俺は第三者だからチョンなどと一言も発言してないし
そんな用語自体が好きじゃない。
とりあえず頭冷やせ。ここは2ちゃんねるだ。
943 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 13:59:16
>>942 >>933みたいなスレ違いなコピペするやつは放置か?
というか、おまえが自分でコピペしてきたんじゃないだろうな?
違うというなら、
>>933にも一言注意すべきだろう。
注意できるならしてみろよ。
できないだろう?どうせ、おまえも同じチョンの仲間なんだよ。
944 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 14:09:04
945 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 14:16:12
>>944 >>935は俺だが、何か文句でもあるのか?
話をそらそうったってダメだぜ?
パブロフの犬さんよ?
自分が犬並の知能で、しかもチョンだったと指摘されて逆ギレしてるんだろう。
946 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 14:57:20
おまえら、ちゃんと記紀を読んだか?原文で。
ここにいる奴は、記紀をちゃんと原文で読んでいない奴が多すぎる。
図書館で原文をかりるなり、ネットで原文を探すなり
本屋で一万円くらい出して買い揃えるぐらいしてから
歴史を語れや。
948 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/20(金) 19:29:33
>>895「奈良なんて灌漑が進んだ今でも米なんか全然採れないよ
大阪と奈良は米の生産量全国最下位だよ 。こんな所に7万戸もあるわけ無いし
王権が自然発生して育つわけも無い 」
この人の意見は貴重だな。畿内に7万戸も無かった事が具体的に示されている。
>>948 阿呆か?そういう適当な主張を書くな。
豊臣秀吉の太閤検地では大和国は
石高45万石とちゃんと書いてあるんだよ。
そういう曖昧な感想で歴史を語るな。
950 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 19:38:36
記紀の原文って漢文みたいなんじゃないの?
訳文を読んで、レスしたってノー問題だと思うよ!
2chの敷居を上げるのは、難しいんじゃない?
952 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/20(金) 20:18:51
>>949 そんなのは古代の大和地方が北部九州全体の稲作生産高を上回っていた事の証明にも何もならない。
筑後平野、菊池平野、佐賀平野、などの一大米どころに奈良平野が及ぶべくも無いのは
説明するまでも無い戸とだ。
ですがタンそれをゆうなら、現代を引き合いに出さないほうがよかったんじゃないの!
まぁ、どんまいさぁ
954 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 20:26:50
>>947 おまえは、山川出版社の日本史の教科書を読んだか?
まずはそこからだ。
僕よんだの自由書房
956 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/20(金) 20:32:44
>>953 いいの。 特にこのフレーズ。
「奈良なんて灌漑が進んだ今でも米なんか全然採れないよ」って凄い物言いだと思わない?
でしょう。でしょう。古代もそうだったんだよきっと。って感じで。
どっちみち、北部九州は今も昔も米どころなんだから。奈良地方だけでは勝てないでしょうね。
957 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 20:38:55
3世紀当時は北九州が100だとしたら奈良は5くらいの石高だったと思われる
958 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 20:40:10
>957
だうと
959 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/20(金) 20:40:24
特に熊本県菊池の七城米は日本一のお米としても有名です。
コシヒカリとササニシキ、ヒトメボレそしてパールライスしか銘柄知らない僕が来ましたよーっ!
961 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/20(金) 20:50:40
>961
/\__/\
/ ,,,,, ,,,,,, ::\
| (●) ,、 (●) ::|
| ノ(,_.)ヽ .::| +
| -==- .::| + < うまい
\/\___/ヽ/ +
r、 ☆r、/ :::::::\ヘ☆ /i
ヽヾ 三 Σ| U .::::::|て 三〆/
\>ヽ/☆| .:::::::|☆ ヽく/ パンパンパンパンパン!!! ←拍手
ヘ lノ `'| .::::::| / /
/´ /\ .::::/ \
\. ィ / \ ./
| |
九州ですが ◆IhXqm1bg5cは阿呆か?
もう、何を言っても、通じない。
大和国一カ国で、北部九州を超えるなんて
一言も言ってないぞww
大和国45万石を支配していれば、その周辺の畿内諸国300万石を支配していた
ことも容易に気がつくだろう?
964 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 21:13:50
畿内の唐古鍵遺跡って、
孝霊天皇(卑弥呼の親父?)の古墳の近くなんだよな。
憶測と仮説は、どう定義するかわかりませんが。
まぁ、気楽にさまざまな説を楽しみましょうよ。
2chの説をまったく裏をとらずにうのみにする人はあんまいないと思われ・・・
いても、たいした問題でもないし
968 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 21:33:18
>965
>畿内の唐古鍵遺跡って、
>孝霊天皇(卑弥呼の親父?)の古墳の近くなんだよな。
ん? どこのなんていう古墳?
詳細キボンヌ
969 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 21:33:35
長崎すくないな
971 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/20(金) 21:37:44
>>963「大和国45万石を支配していれば、その周辺の畿内諸国300万石を支配していた
ことも容易に気がつくだろう?」
どうしても奈良盆地だけでは稲作の石高に不安があるのか、故意に大阪平野までひっくるめようと
しているように思えてならない。奈良平野と大阪平野のどちらが石高が高かったのか?
もし大阪平野のほうが石高が高かった場合どうして山に囲まれて不便な、しかも石高の低い奈良平野に
卑弥呼の墓だと畿内説の言う箸墓などがあり、邪馬台国だと比定出来るのか?むしろ大阪平野に
邪馬台国の比定地があって然るべきではないのか。というのが以前からの素朴な疑問ではある。
973 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 21:40:43
太閤検地まで1000年に渡り中心地域として集中的に開発され尽くした時点での
奈良はちょっと特殊なので太閤検地の奈良の石高は参考にならないと思う
3世紀の奈良は未開のひなびた田舎の盆地だったわけだし
太閤検地では全然実態を反映してない
太閤検地よりむしろ現在における米の生産量のほうが
全国満遍なくその土地の米の生産力と米生産に適した土地柄かどうかを反映してると思う
だから太閤検地のデータよりは現在の生産量のデータを参考にしたほうが
より正確だと思われる
975
>>969 >現在でも北九州は奈良の10倍以上の生産量がある
阿呆か?じゃ、なぜ、平安時代や奈良時代や足利時代
みたいな時代が存在するんだ?
おまえの論理じゃ、永遠に平安時代、奈良時代、足利時代も存在していない。
また、現在の米収入は、産業革命以降の品種改良の激変があるから
それも考慮しなければいけない。
980 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/20(金) 21:56:36
>>964 でも奈良県は廃藩置県のときも確か誕生しなかった筈だったんだよね。
一県だけではとても独立した県としてやっていけないとして周りの県に分割する筈だった。
まあ産業にも色々あるがやはり農業こそ当県の人々を養うべき大事な要素であり
主な産業もなければ石高も無い。だから奈良県が認められなかったのではないか。
まあその後ようやく誕生するに至るが。
>>964 >日本史が好きなら文献史料はきちんと読もう。
禿同!!!
>>968 田原本町のことじゃないのか?
たしかに、あのあたりは、マキムクもカラコも全部
セットになって一つの国を形成していたもよう。
984 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 22:05:05
985 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/20(金) 22:07:31
>>979じゃ、なぜ、平安時代や奈良時代や足利時代 みたいな時代が存在するんだ?
それは弥生時代と奈良平安以降では都の遷都のプロセスが違うからじゃないの?
弥生時代まではあくまでも稲作地帯=人口集中=都。だったと思うが。
>>984 いやだからさww おまえの論理じゃ
その後の古墳時代以降の日本も永遠に存在していないんだよw
だて、おまえの論理じゃ、畿内は農耕生産に適していないんだろう?w
(実際は、畿内の石高は北九州よりも多い)
>>979 >また、現在の米収入は、産業革命以降の品種改良の激変があるから
>それも考慮しなければいけない。
その通りだし、戦後は大都市集住と近郊農村のベッドタウン化にともなう作付地の減少や、
コメ余りに対する減反政策、コメ輸入自由化に対する作付転換奨励政策(生鮮野菜・果物・花卉などへ)
といったことも考慮しなければいけない
奈良はまさにそうした県の典型。昔に比べ野菜畑が目立って増えたよ
>>985 あほか?九州ですが ◆IhXqm1bg5cよ。
そういう風に言うしか、お前も追い込まれてきたわけで。
プロセスの違いってw 幕末まで農耕時代だろうがw
また、石高はちゃんと分かっているんだから
畿内は農耕に適さないというアホナ論述をぶちまけるな。、
すくなくとも、畿内全体の石高は
北九州よりも多い。
なぜ、織田・豊臣が全国制覇できたか考えてみろ。
やつらは畿内を領土にしていたからだ。
織田は畿内を押さえた時点で500万石の大大名になった。
990 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/20(金) 22:13:39
>>986(実際は、畿内の石高は北九州よりも多い)
いつの時代の事を言ってるか知らないけど中世の事だったら
それって各地に散らばる直轄地の石高も全部ひっくるめて高くなるんじゃなかったっけ?
>>969 平成18年の統計で、どうして3世紀の歴史が論じられるんだ?
まったくア×としか言いようがない
九州ですが ◆IhXqm1bg5cは追い込まれているというのには同意。
というか、九州説論者は、いわゆるアカデミックな場では
かなり追い込まれている。
だから、九州説論者は最近、あわてて、必死になっている。
だから、論破されまくっても、同じことを繰り返し言い続けるわけで。
993 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/20(金) 22:23:21
>>988 明らかに違うじゃん。
平城京、平安京などは中国の都に倣って風水などを基にして出来上がった計画都市。
田園地帯を伴わなくても全国から税として米が集まってくる。
このような律令国家の都と弥生時代の卑弥呼の都は明らかに違っていて当然でしょう。
994 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 22:24:18
>>989 東海と滋賀のおかげでしょ
畿内の生産はしょぼい
邪馬台国論争で自説を強弁したいあまり、各地に残された貴重な中近世文書の史料価値を踏みにじらないでくれ。
996 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 22:27:42
>>991 少なくとも太閤検地よりは現在の生産量のほうが
全国の米生産力のポテンシャルといったものを反映してると思われ
3世紀においてもそのほうが参考になるだろう事は
>>973で示した
997 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/04/20(金) 22:31:05
>>988畿内は農耕に適さないというアホナ論述
僕のレスをよく読んでくれてる?こちらの聞きたい事は
>>971で言うように
「奈良平野と大阪平野のどちらが石高が高かったのか?
もし大阪平野のほうが石高が高かった場合どうして山に囲まれて不便な、しかも石高の低い奈良平野に
卑弥呼の墓だと畿内説の言う箸墓などがあり、邪馬台国だと比定出来るのか?むしろ大阪平野に
邪馬台国の比定地があって然るべきではないのか。というのが以前からの素朴な疑問ではある」
の部分。何か他の人の内容とごっちゃにしてるんじゃないの?
検地は太閤さんがやって以降、江戸時代に何度も繰り返され、検地帳が残っている。
それも調べたか。
999 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 22:34:51
1000 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 22:36:18
みんな、熱くなっているなww
自分はここ最近、いろいろ考古学の講演とか
見に行くようになったんだけど、
全体的な印象として、あと数年たてば、おそらく
邪馬台国畿内で決着するような雰囲気みたいです。
というのは、学会のほうでは、もう100%近くが畿内で
中国人で邪馬台国を研究している学者も殆ど畿内に傾いていて
そういう雰囲気らしいです。これは日本全国的に見てもそう見たいです。
たまにテレビで九州説を主張している学者さんも居ますが
テレビでは、畿内と九州で対に出ますが、
実際は、ほとんど異端扱いになりつつあり、孤軍奮闘という感じらしいです。
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。