謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!3

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596日本@名無史さん:2007/03/28(水) 18:04:45
難升米=梨迹臣

梨迹臣は中臣氏の先祖。
時代は、開化天皇、崇神天皇の頃。
597日本@名無史さん:2007/03/28(水) 19:09:22
根拠とか理由を述べないで、誰々はだれそれ・・・なんて言ってもね。

あ、なんだ、また思い付きを書いてらあ・・・って、受け取られますよ。
598日本@名無史さん:2007/03/28(水) 20:04:54
多くの人が納得する明確な根拠とか、なくてもそうだったら楽しそうだな的な事でぜんぜんいーと思うよ!2ちゃんだもの・・・
みつを
599日本@名無史さん:2007/03/28(水) 21:07:22
みつをさん
厳しい批判の応酬があっても、学問にもある種の「楽しさ」は付随すると思うのです。
そういうご趣旨なら私も同意なんです。
ただね、たとえば私が、たった一行、次のようにレスしたとしましょうや。

卑弥呼は倭迹迹日百襲姫。

ね、たったこんだけじゃ面白くないでしょ。
なんかもっと書いてよ、と思うでしょ。
そういう意味ですよ。
600日本@名無史さん:2007/03/28(水) 21:19:56
魏音でなげうま国と言ったのでナゲウマが正しい。じゃまだこくもあるし
601日本@名無史さん:2007/03/28(水) 21:46:21
誰か、神代系図が書かれたサイトを知ってないか?
あれみたら、徳川幕府にたとえるのなら

出雲=三河・岡崎
大和=武蔵・江戸
大物主家=徳川宗家
物部氏=尾張徳川家
神武皇統=紀伊徳川家
アメノホアカリ=徳川義直
ニニギ=徳川頼宣

だったことが分かる。


神武天皇は、徳川吉宗のような存在だった。
602日本@名無史さん:2007/03/28(水) 22:54:58
>>601
>誰か、神代系図が書かれたサイトを知ってないか?

主要神だけなら、ほれッ。(ウイキ。拡大可)
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2f/Emperor_family_tree0.png

ヤオヨロズの神さんたちも要るか?
http://nihonsinwa.at.infoseek.co.jp/data/genealogy1.htm

で、なんで神武天皇が吉宗なんや?
603日本@名無史さん:2007/03/28(水) 23:24:29
>>601
神武天皇は徳川家康。
吉宗はさしずめ応神天皇。
604日本@名無史さん:2007/03/28(水) 23:30:01
>>603
いや、継体天皇こそ吉宗。
605日本@名無史さん:2007/03/28(水) 23:46:31
>>573
事実なんだから仕方あるまい。その本を鵜呑みにしろというのも凄いな。
トンデモ論に近いぞ。ま、百歩譲って一説ってことにしてやろう。

>>574
それだけ候補地があるってことだろwww 
606日本@名無史さん:2007/03/28(水) 23:57:26
畿内説というのはマキムクを邪馬台国に関連付ける理由付けを
考えるのが仕事みたいなもんだな。。。考古学も歴史学も何も無し。

まず魏志倭人伝の記述を片っ端から無視しなければならない。
しかしその魏志倭人伝がなければ邪馬台国という観念さえ初めから
出てこないわけで。この矛盾からしてきついな。
607日本@名無史さん:2007/03/29(木) 00:03:04
>>606
何事を言っても無駄だよ。
魏志の記述を無視しているのは、九州説のほうだから。
魏志の方角が誤っているのは
所在地がほぼ確定している不弥国もだから。
608日本@名無史さん:2007/03/29(木) 02:42:40
不弥国は未確定だと思うよ
俺も畿内説だけど

しかしそれ以前のクニが反時計回りに法則的に方向がずれているのは間違いない
先に進めば進むほど、誤差が大きくなるしね

あと投馬国と邪馬台国はそれぞれ中国地方、近畿&東海を大雑把に表したものだと思う
戸数も奴国<投馬国<邪馬台国をそれこそ大雑把な言い方をしたものだろう

このあたりは前スレで九州説or畿内説関係なく見解の一致を見ていた
609日本@名無史さん:2007/03/29(木) 02:45:05
見解の一致というのは場所じゃなくて
正確な数字ではなく伝聞推定であるとの部分ね、念のため
610日本@名無史さん:2007/03/29(木) 03:03:21
>>608
不弥国は宇美町のような気がする。
地理的にみて、宇美町は小さな盆地みたいになっているから


歴史年表地図・邪馬台国所在地推定地図
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/34007829.html
611日本@名無史さん:2007/03/29(木) 03:18:44
>>607
何を言っても無駄なのは畿内説 九州説は方角も記述もあってるが?

方角が全く合わないだけでなく、他全て。考古学上から言っても
す べ て合わないのが畿内説。だから「魏志倭人伝に出てくる邪馬台国」
など畿内に存在できないんだな。

612日本@名無史さん:2007/03/29(木) 03:23:44
>>608
>あと投馬国と邪馬台国はそれぞれ中国地方、近畿&東海を大雑把に表したものだと思う

残念ながら中学生の初歩以前の見解 なんでもかんでもこじつければ良いと思っている
んだから議論にもならんな・・・
この時期のクニの大きさを考えてみろ。

とりあえず、邪馬台国と同時期の遺跡さえあれば、どんなにムチャクチャでも
こじつけて大騒ぎすれば邪馬台国となのれる。これが学会9割の〇〇説の実態
613日本@名無史さん:2007/03/29(木) 03:30:59
巻向は邪馬台国と同時期かどうかさえ怪しいのをマスコミさえ
強引に辻褄あわせしようとするんだからどうしようもない 
614日本@名無史さん:2007/03/29(木) 04:05:03
>>611 >>613
考古学上は纏向で合っているが?3世紀隆盛は動かし難い
庄内開始が九州起源とか4世紀とか言う妄想考古学では知らんが

>>612
記述内容が正確さに欠けるという意味で
当時のクニの実際の大きさとは無関係
そんな巨大なクニがあったとは誰も露とも思っていない
九州説論者も戸数が過大表記であるとの見解で一致しているはずだが?
戸数をほぼ正確に把握できるだけの綿密な調査団の派遣が、物理的に可能かどうか考えてみるべし

とりあえす3世紀の遺跡を提示してからだな、話はそれからだ
615日本@名無史さん:2007/03/29(木) 04:45:06
>>612 >この時期のクニの大きさを考えてみろ。

伊都国が1000余戸、邪馬台国は7万余戸ばかり、と倭人伝に記述してあります。1:70の比です。
面積の記載があるのは対馬国で、「方400里」。戸数は伊都国と同じ1000余戸です。

朝鮮半島の国に目を向けてみますと──。
高句麗は「方2000里」で、戸3万です。今の北朝鮮の何割かぐらい、でしょうか。
馬韓は大小国総計10万余戸。通説では後の百済とされています。
後の新羅と目される辰韓は、「弁・辰合わせて」、つまり弁韓も含んだ数値のようですが、総数4〜5万戸です。
三韓全体としての韓の広さは、「方4000里」と記載があります。
ちょうど今の韓国と重なると思いますが、3万プラス4〜5万戸ですから、計7〜8万戸です。

これらを見れば、戸数7万余戸の邪馬台国は、相当な大国です。
とてもじゃないが、朝倉市だけとか、旧神崎郡だけ、などで考えるのは、土台無理です。
邪馬台国7万余戸=近畿地方全体、との考えは、決してムチャクチャではなく、むしろその可能性が高いと思われます。
616日本@名無史さん:2007/03/29(木) 04:45:17
腐るほどあるんだが。大体、遺跡がほったらかしにされているような
場所の遺跡をどうこう大騒ぎするのも馬鹿だな。
昔から豊かで栄えているところは現在でも都市の中心部のことのほうが
大いにありえるんだが。現在大きな神宮が建ってるかもしれんぞ

地元に掘り返されまくってる巻向だけが拠り所の畿内説は・・・

617615大訂正です。:2007/03/29(木) 04:54:42
>>615 計算を間違えました。ごめんなさい。三韓全体としての韓の戸数ですが、

(誤) 今の韓国と重なると思いますが、3万プラス4〜5万戸ですから、計7〜8万戸です。
    ↓  ↓  ↓  ↓  ↓
(正) 今の韓国と重なると思いますが、10万余プラス4〜5万戸ですから、計14〜15万余戸です。

と訂正します。失礼しました。
618615、617:2007/03/29(木) 05:22:17
>>615>>617
反論もおありかと思いますが、なるべく冷静に議論したいなと思っています。
なお東夷伝の読み下しがイリヒコ氏のサイトにありますので、ご参照ください。
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/gisi-toi.html#kokuri
619日本@名無史さん:2007/03/29(木) 06:41:58
>>611
>何を言っても無駄なのは畿内説 九州説は方角も記述もあってるが?

いったい611さんは、誰が唱えた九州説を指しておられるのか……。

九州説も、江戸時代以来今日まで、論者によってさまざまな主張がありますよね。
たとえば鶴峰戊申は邪馬台国=鹿児島(大隈)、投馬国=筑後ですし、
久米邦武は邪馬台国=筑後(山門)、投馬国=薩摩で、お互い全く逆です。

「両方とも九州説だから、方角も記述もあってる」……なんてことは、あり得ないですよ。
620619訂正。:2007/03/29(木) 06:47:27
(誤) 鹿児島(大隈)
    ↓  ↓  ↓
(正) 鹿児島(大隅)
621一応九州王朝説:2007/03/29(木) 07:21:35
私は戸数は放棄しています。
仮に畿内だとしても、畿内全域が統一国家だとは言えないでしょう。
なぜ畿内だけそんな広範囲なクニが出来ていたのかの説明が必要です。

それと、親魏倭王の印綬と下賜品を渡しに行くのに、邪馬台国に行ってな
いというのも考えにくいので、邪馬台国やその他戸数の大きい所は自称
ではないかと思います。海から沃野を一望、更に旅を続けても何処までも
続く水田地帯。ならば、使者も過大な数字も信じるかも。
あと、対呉・蜀への工作して、魏自身が過大に宣伝した可能性もある。公
孫氏を滅ぼした後、朝鮮半島も引き入れ、更に東の端の大国を自分サイド
につかんだ、という東領域での勝利宣言ということで。
622日本@名無史さん:2007/03/29(木) 16:21:34
奴国が二つある。邪馬台
国に到る途中の戸数二万
戸の国と、邪馬台国以遠
の名前のみ記された国の
うち、女王国の境界の尽
きる国。この二つは別々
の国で、那珂であり、筑
前常陸であるとすれば、
当時の女王国は関東地方
まで拡がっていたことに
なる。北関東上毛野臣の
祖が豊城入彦(垂仁天皇
の兄)であることも重要
な意味があると思う。
623日本@名無史さん:2007/03/29(木) 16:58:00
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
624日本@名無史さん:2007/03/29(木) 18:48:05
>>615
伊都国は魏略のほうでは
万余戸と記載されており、
こちらが正しいと言われている。
625日本@名無史さん:2007/03/29(木) 18:48:40
>>621 :一応九州王朝説 :2007/03/29(木) 07:21:35
>私は戸数は放棄しています。

戸数を放棄するなよww
626九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/29(木) 19:13:18
>>615「とてもじゃないが、朝倉市だけとか、旧神崎郡だけ、などで考えるのは、土台無理です」

当時の漢文を和訳するのは難しい。原文の「南至邪馬壹國女王之所都」を
「邪馬台国女王{卑弥呼}の都とする所に至る」と読み、卑弥呼が省略されていると見れば、
邪馬台国とは邪馬台国連合全体を指していたかもしれないこととなる。
倭人の住むところ全体は「倭」であり、北部九州全体=邪馬台国連合は「邪馬台国」。
女王の都とする所は「女王国」。と記しているとしたらいちいち書き分けている辻褄も合う。
それだと人口7万も不思議ではない。邪馬台国連合、北部九州全体の合計となるからだ
627九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/29(木) 19:35:43
>>626続き
伊都国には代々王がいたというようなことが書かれているが、倭人伝が記された当時王の名が記されていない。
また、その他のクニグニも王名が記されていない。王が居なかった。これは30カ国を卑弥呼女王が統治していたのであり、
女王には女王国という直轄領がありながら、邪馬台国という広域大国も同時に統治していたことを示している。
何故伊都国などクニという名を残しているかというと、クニという名目はそのままにしていたという
当時の世情不安定さを物語っているのではないか。実際卑弥呼の死後、クニ同士が争いを始めている。
ちなみに「その南に狗奴国がある。男子を王とし」と南の狗奴国にははっきりと王が居るとなっている。
628日本@名無史さん:2007/03/29(木) 20:22:49
倭国大乱が四道将軍の頃として、投馬国は丹波、鬼奴国を毛野国、奴国二つを常陸那珂と筑前那珂、邪馬台国を大和に
比定する。崇神天皇が長男の豊城入彦を上毛野に入れて統治させている。娘の豊鍬入姫を斎王にして、巻向から伊勢神
宮を移転させている。この事業が終了するのは豊鍬入姫の姪の大和姫の代である。卑弥呼と壱与であると考えられる。
女王国の南限が奴国なので、関東地方までが女王国の最大範囲と思われる。豊鍬入姫の甥景行天皇が西都に六年滞在し
て肥後から南の九州を平定しているので、狗奴国は南九州だろう。
629太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/29(木) 20:40:25
邪馬台国が大和ならば、倭人伝に女王国などとの記述は矛盾である。
伝には天皇国とかの記述となるはずだ。なぜなら卑弥呼が神功皇后ではなく、
それよりもっと以前の崇神の世に相当するということだからである。
しかし天皇という号は後代につけた語だからストレートで天皇国とは書かれ
ないだろうが、大王国、男王国とかそのような書き方にならねばならない。

崇神あたりから遡り神武まで畿内に女王はいないことは確かだから、女王国
が大和でないことは明確に近い。斎王は物忌み的だから伝の派手な記載から
卑弥呼が大和の斎王とは考えにくいし、大陸側が男王と女王のオスメスを
間違えるミスはしてはいない。
630九州出身:2007/03/29(木) 20:56:24
倭国大乱とは・・・どんなかんじだったんだろーね
631九州出身:2007/03/29(木) 20:58:09
天皇家との関わりを詳しく言ってくってくれ
632日本@名無史さん:2007/03/29(木) 21:00:03
倭国は古の倭奴国なり、日本国は倭国の別種なり
633九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/29(木) 21:51:21
マツラ国上陸から方向的に東南、東南、東、南、と方向が「東と南」方面しか出てこないのは
女王国への道すがら、マツラ国からの最短の道を通っているからだと思う。
つまり、マツラ国から見て、女王{の都とする所}国はおおよそ東南の方向が最短だった。
そして通った国を記していった。
その際、たとえば佐賀県は福岡県の西だという認識だが、福岡県から熊本県に南下する場合
当時の謂いで言うと「福岡国南至佐賀国、南至熊本国・・・」と記されることとなる。
このように当時のクニが入り組んでいなかったとはいえない。故に方向が間違っていたとはいえない。
634九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/29(木) 22:21:58
>>630
僕は他の小国を支配し大国の主となりたいという男同士のつまらぬ闘争心のなせる業だと思うけどね。
男同士の意地の張り合いは女性の卑弥呼が女王となることででうまく治まったんじゃなかろうか。
勿論、稲作に適した耕地の取り合いや、湧き水、川の利水争い、クニ同士のいがみ合いなど
他に要因はあったであろうが。まあ、倭国の成り立ちの生みの苦しみだったんだしょう。
635九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/03/29(木) 22:26:26
>>634続き
言うのを忘れたけど、殺傷能力のある鉄の武器がそれに拍車をかけた、
というのが真相ではなかろうか。
636日本@名無史さん:2007/03/29(木) 23:10:35
女王国と邪馬台国を書き分けていることに注目しよう。卑弥呼が統治している国が邪馬台国で、戸数七万。その他およそ三十か国を含んで女王国。当時の統治しゃは、祭祇権を持つもの
637日本@名無史さん:2007/03/29(木) 23:30:39
よって邪馬台国は大和。崇仁、垂仁、景行が実効支配していようとも祭祇を司る豊鍬入姫、大和姫が名目上トップ
638日本@名無史さん:2007/03/29(木) 23:31:07
>>630
私は、交易で発展した奴国が勢力を北部九州全体に拡大して、各地に王族を
派遣して領域を拡大し、それらの地域は弥奴国、姐奴国、蘇奴国、華奴蘇奴国、
鬼奴国、烏奴国、狗奴国というように「奴国」の国名を冠したと考えている。
これが、前50〜後180頃。

倭国大乱は、それらの王族が派遣された国々が奴国、伊都国が独占していた権力
の委譲を求めて起こした王国内部の争いで、その結果、甘木・朝倉の辺りに権力が
移ったと考えている。180〜248頃(高天原の時代)。

その後、狗奴国(熊本)の王族が南部九州に勢力を拡大し、甘木・朝倉を中心とする
勢力と対立し、甘木・朝倉勢力はこれに押されて、豊の国(豊前、豊後)に勢力を移した。
248〜255頃(トヨの時代)。投馬国の「馬」は投与国の「与」が「馬」の略字として誤写
されたとの説。

最終的には、狗奴国を筆頭とする南部九州勢力が倭国の王権を奪取して、神武東征
を行って、大和で即位(255〜260頃)。
639太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/30(金) 00:10:24
女王国は大和にはない。卑弥呼くらいの勢力で卑弥呼が朝廷の近親なら、また
卑弥呼が倍暦の関係で崇神世頃の女性ならば、神功皇后と同じ位の書きこみで
一章を設け記紀の中に題名として載る。そうなっていないのはそんな女王が
朝廷の取り巻きにいなかったからであり、そうかと言って朝廷のお隣の地域に
女王国があるのならば、天皇へ卑弥呼が近隣ということで朝貢という付け届け
等が記紀に載るはずだ。が、それもない。百済のような遠い遠い国からだって
朝貢がかなりあったことが記紀に書いてあるところから、卑弥呼の朝貢がないと
いうことは畿内に卑弥呼の国がなかったということを意味する。つまり
畿内説は強く否定されるべきであり、女王国は九州にあった事が正解なのだ。

zzzzzzzzzzzzzzzzz・・・・・・・・・・・・
640日本@名無史さん:2007/03/30(金) 03:12:18
>>628
>関東地方までが女王国の最大範囲
>狗奴国は南九州

ふ〜んw なるほどねえww 
641日本@名無史さん:2007/03/30(金) 03:15:21
畿内説の邪馬台国がそのまま大和朝廷になった、という説では
日本書紀や紀記の編纂をどうとらえるの?
そこがひっかかるんだよね。
642日本@名無史さん:2007/03/30(金) 03:34:28
「日本書紀や紀記」ってw

500年も前のこと、もう伝わってなかったんだよ。誰にもわからなくなってた。
そもそも記紀(に限らず歴史書一般)の編纂てゆうのは、編纂当時の政権の
正当性の主張が目的であって、事実を記録するのが目的ではないから。
女王がいたなんてことは書かない。せいぜい神功皇后に擬するのが精一杯。
643日本@名無史さん:2007/03/30(金) 03:44:12
歴史書一般を無視してどうやって邪馬台国の概念ができあがるんだ?

あと編纂当時に魏志倭人伝から邪馬台国と女王国の概念はあったはずなのに
いれていないのは正当性の主張の目的にそぐわないからか。ということは
大和朝廷とは関りがない場所にあったわけだな。それは認めるわけかw

>>642は邪馬台国が大和にあったわけではないのを自ら認めているのに気づいていないw
あと神功皇后をどこまでわかってるんだ。非常に謎が多く北部九州に関りが深い。
644日本史@名無しさん:2007/03/30(金) 06:23:46
遥か昔に中国の正統王朝から認められた連合王国の
女王の記録は、正当性のこの上ない証明と思うが。

中国史書にはこれでもかと邪馬台国の事が書いてある
が、記紀には卑弥呼も倭奴国も、帥升の事もかけらも
出てこない。
645太国 ◆yVAs7uaYlY
>>642
>政権の正当性の主張

ある程度は言えるだろう。そんじゃぁ、紀に雄略、部烈の悪業が多々載って
いるが、これを隠匿しないことは正当性の主張か?
卑弥呼が畿内の女王を書かないなら、こんなのも書かないべきではないか?