381 :
日本@名無史さん:2007/09/10(月) 17:12:22
にゃは
382 :
月光仮面:2007/10/10(水) 14:26:29
383 :
月光仮面:2007/10/10(水) 15:00:20
384 :
月光仮面:2007/10/14(日) 12:41:50
大和朝廷の起源は前方後円墳による葬制統一であり、河内王朝時代に
三韓の影響により横穴墳に移行するが、この背後には東胡系から百済系
への神話・祭祀の変更があったとみられる。烏桓、百済の政治的避難によるところが
大きかろう。東夷文化圏南北対立構造が列島に持ち込まれたものであろうが、
方形周溝墓は最も早期の大地崇拝を意味し、基本的には西方起源の太陽崇拝
である円墳に対峙するものであろう。
385 :
サガミハラハラ:2007/10/21(日) 08:47:06
貴重なスレなのであげておきます。
386 :
日本@名無史さん:2007/12/14(金) 01:00:50
王名からいくつかの王…
部族名が推察される。
オオ族
オオヒコ
オオハツセ
オオササギ
オシロワケ
イソ族
イオキイリヒコ
イザホワケ
アナホ
387 :
雲黒齋:2007/12/16(日) 17:50:39
ミマキイリヒコとイクメイリヒコの間には親子関係はないとみた。
イクメイリヒコは野見スクネに代表されるトミ部族に推戴されていたのでは?
ミマキイリヒコはオオヒコに代表されるオオ部族に推戴されていたのでは?
388 :
雲黒齋:2007/12/16(日) 18:01:59
イクメイリヒコの墓はトミ部族の支配地内だし、
秋篠川をはさんで佐保部族に墓の偉容を見せつけている!
サホヒコを倒して佐保の地を支配したんだろうな!
この墓でイクメイリヒコの後を受け継いだのはホムツワケだろうな?
知らん。
390 :
虹歩命:2008/03/14(金) 22:09:49
月光仮面のHN,日本歴史研究所のKさんですか?
391 :
サガミハラハラ:2008/05/05(月) 00:59:08
そういえばkさんどうなってるのかな?銀大も音沙汰なくなったし。
392 :
サガミハラハラ:2008/06/02(月) 21:32:40
銀大が復活したようでした。この間久し振りに会があり、十数人あつまりました。
393 :
サガミハラハラ:2008/06/23(月) 15:51:07
昨日は邪馬台国の会の特別講演会討論「邪馬台国は畿内か九州か」対決第二弾を聴講してきた。
中身は他の人の報告に譲るとして、気がついたことを若干述べたい。
安本氏が今回ホケノ山について論を行った背景は次のようなことも一因であろうか。
安本氏は天皇の年代を平均して、第10代崇神天皇の年代を358年とみているのであるが、最近の考古学界では崇神天皇の時代に
死んだとされるヤマトトトヒモモソ媛の箸墓の年代を3世紀中ごろとしはじめた。そのことに氏は自己の主張とかけはなれた結果であるとして
考古学界の結果をうけいれられないとして論をはっているのである。
しかし、多くの人がわかっているように、氏の天皇年代論には重大な欠陥がある。
ところで私の日本書紀紀年法によれば、ヤマトトトヒモモソ姫の死亡の記事の出てくる崇神10年は西暦273年のことである。
つまり、わたしにとっては、考古学界の結果は好ましいものであるといえよう。
もと銅鐸文化圏だった畿内を九州系の勢力が征服して銅剣銅鏡珠文化圏にしたんだっけ?
銅鐸の古語って知ってる?
395 :
日本@名無史さん:2008/09/24(水) 16:49:48
あげ
396 :
曲学の徒:2008/09/25(木) 19:23:33
397 :
日本@名無史さん:2008/10/12(日) 05:27:31
吉野裕氏のスサノオ=鉄神論というのがありますが、金屋子神(金屋子神社、
総本社島根県安来市広瀬町)も製鉄神です。また、この安来はスサノオが命名
した地名だとも言われます。これらに関連性があるのでしょうか?
398 :
日本@名無史さん:2008/10/12(日) 07:57:34
鉄器を伴って畿内王権を作った出雲族の起点を、少し神話的にも解釈を試みたい。
(1)島根県安来市の「安来」という地名は出雲国風土記によるとスサノオが
名付けた。
(2)吉野裕氏などにみられる、スサノオが鉄の神(スサノオ鉄神論)であったという
推論。
(3)安来には弥生後期、四隅突出墳丘墓の形成が集中的に見られ、古墳時代前期
には全国一の大方墳を作り上げるまでの勢力になる。
(4)その後の古代期においてもこの地域は、鉄の生産が集中して行われている。
http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp0202.htm 以上の4点よりこの地域の鉄や人がヤマト王権の原点ではないかと思われる。
399 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 17:59:19
ほほう
400 :
サガミハラハラ:2009/04/02(木) 21:27:07
新唐書日本伝に次のようにある。
日本は古の倭奴である。京師(都)を去ること1万4千里である。新羅の東南にあたる。海中にある島にすむ。東西は5
月の行程であり、南北は3月の行程である。
問題はこの1万4千里の距離のことである。
まず、倭人伝の世界では、帯方郡から倭都まで、1万2千余里とある。
その後中国では、倭までの距離は1万2千里であるということが通説となったようである。
倭人伝では郡よりとあるが、いちいち確かめているわけではなく、いつのまにか都からと考えるようになったと思う。
どうもこの1万4千里とは、この1万2千里に2千里を加えたものであるらしい。
そして、加えられた2千里とは、倭の都(邪馬台国)から大和飛鳥の都までの距離であるらしい。
つまり、この唐の時代には倭国の都が北部九州ではなく、東の2千里離れた大和飛鳥の地に
なっていることをしっていたということになる。
しかし、この増えた2千里は長安から帯方郡までの距離ではと考える人も多いであろう。
しかし、長安〜京城までは最短(海上行)で1800kmはある。
唐代の1里は559・8mであるから、1800kmはざっと3210里である。そうなると、
1万2千里に3210里をくわえることになり、1万5千里となる。それが1万4千里であると
いうことは、この増加分は長安京城間のきょりではないということになる。
大和飛鳥から、北部九州までざっと580kmである。
隋唐の時代からは1里500m以上となるが、この2千里の計測は隋以前に大和朝廷によっておこなわれたものであろう。
となると問題は大和の人はどの時代の尺度をもって計測したのかということになる。
倭人伝の1万2千里は周尺(1里=67.5m)で計測されたことは既に証明されている。
しかしこの周尺は秦の時代から持つことすら禁止されており、つい最近福永氏によって発見されるまでは、しられていなかった。
よって大和朝廷の人がしるはずもなく当然周尺ではかられたものではない。
大和朝廷がおぼろげながらも中国のことを知りえるようになったのは、晋の時代からであったようである。
401 :
サガミハラハラ:2009/04/02(木) 22:13:37
しかし、入手した制度は周や漢の時代のものであったようである。どうやら距離については後漢代の尺を使用したようである。
ところで、北部九州から大和飛鳥までは580kmであり、後漢尺(414m)では1400里とpなり、600里足りないことになる。
問題は大和朝廷の支配範囲である。当時(計測した時代)日本(大和朝廷の支配する地域のこと)は、西は半島南部の加羅をもその支配下
においていたから、加羅から大和飛鳥までの距離であったとも考えられる。(すでに任那日本府はうしなっていたが、それでの主権を主張していた)
加羅から大和飛鳥までの距離をみてみると、海峡部は250kmであるから、580kmに加えて830kmとなる。
これを後漢尺の414mで割ると、2千里となり、これでぴったりである。
これで新唐書の1万4千里は通説の倭の都までの1万2千里にあらたな都である大和飛鳥までの2千里をくわえたものであることがわかった。
この付加された2千里は大和朝廷の計測であり、それを聞いた中国人は単純に足し算をしてしまったようなのである。(そのままたしては重なる部分があることにきづかなかった。)
つまりこれは、唐の時代には、倭は日本(大和朝廷)に併合されてしまい、ずっと東方の大和飛鳥に都がうつっていることを中国人は認識していたことを証明するものである。
402 :
日本@名無史さん:2009/05/06(水) 18:35:21
なある
403 :
日本@名無史さん:2009/05/24(日) 16:02:29
もうムチャクチャ。
ただの数合わせかよ。
404 :
日本@名無史さん:2009/05/24(日) 18:27:28
数があわなければ説明にならないでしょ。
405 :
日本@名無史さん:2009/05/24(日) 20:02:48
基点を適当に決めていいなら、いくらでも数は合わせられる。
406 :
日本@名無史さん:2009/05/24(日) 23:43:35
起点を適当にといってもある程度の根拠がなければ意味がないでしょ。
407 :
日本@名無史さん:2009/05/24(日) 23:51:49
根拠なんて、なんとでも造れるよ。
408 :
日本@名無史さん:2009/05/25(月) 21:05:35
なんとでもつくれるんでは根拠といわないでしょ。それはねつ造というんしょ。
409 :
サガミハラハラ:2009/05/29(金) 12:59:46
箸墓の築造年代が240〜260年とキマリそうである。
箸墓はヒモモソ媛の墓といわれ書紀の崇神10年の記事に登場する。
崇神10年は復元日本書紀紀年法では273年であり、考古との年代はかなりちかくなる。
但しモモソ姫は卑弥呼ではないが。
410 :
サガミハラハラ:2009/05/30(土) 09:52:24
箸墓は伝承どおりヤマトトトヒモモソ媛の墓でよいであろう。
ひところのように、証拠がない証拠がないといって、伝統的なものをすべて否定したがる傾向がみられたが、
まず伝承を大事にし、矛盾するものがあれば検討するという態度が必要であろう。
411 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 05:27:28
では大田田根子とは何者なのでしょうか?
412 :
サガミハラハラ:2009/06/02(火) 20:31:24
大物神の娘とありますね。ヒモモソ媛とも卑弥呼とも別人です。
413 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 21:53:17
邪馬台国の卑弥呼は、誰なんだー?
414 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 18:58:52
>>412 えっ、男じゃないんですか?
モモソ姫と大田田根子の関係が何らかの鍵になると思うんですよ。
415 :
日本@名無史さん:2009/07/20(月) 04:40:39
サガミはこのようにバカなんだよ。
416 :
サガミハラハラ:2009/10/14(水) 23:34:56
417 :
日本@名無史さん:2009/10/17(土) 12:56:44
本当に大田田根子は女だと信じてたのか。
418 :
日本@名無史さん:2009/10/17(土) 16:31:21
神武が畿内を征服する以前にエウカシとかいう縄文人みたあのがいたけど、何者?遺跡のこってる?
419 :
日本@名無史さん:2009/10/17(土) 17:29:26
420 :
日本@名無史さん:2009/10/18(日) 00:38:42
421 :
日本@名無史さん:2009/10/18(日) 01:47:33
吉野のクズも多分縄文人の子孫。無関係とは思えない。
422 :
日本@名無史さん:2009/10/19(月) 12:02:22
吉野のクズは「クヅ(葛)」であり、クツは「カツラギ(葛城)」と語源が同じ。
ごみ=クズという蔑称は縄文人の名称だったかも?
423 :
日本@名無史さん:2009/10/27(火) 06:50:47
大田田根子が天皇家による支配以前の大王なんじゃね?
>>404 大真面目に計算するなんて、信じられん。
425 :
日本@名無史さん:2009/12/26(土) 19:02:53
なんでや
426 :
日本@名無史さん:2010/02/21(日) 13:46:49
なんでも
やはり九州から来たのか
428 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 14:11:18
そうやで
429 :
日本@名無史さん:2010/06/05(土) 00:04:21
ほほー
息長氏に関する資料がもっと出てこんかのう